19世紀後半におけるオーストラリアの 博覧会への日本の参加 ·...

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〔論 文〕 19世紀後半におけるオーストラリアの 博覧会への日本の参加 1 日豪経済関係の起源 H 1875年メルボルン植民地町博覧会への参加 1 日本初参加に至った経緯 2 政府派遣事務官の選任と出発 3 日本の出品者・出品物とオーストラリア側の評価 4 橋本正人のオーストラリア観と政策提言 m 1879-80年シドニー万国博覧会への参加 1 初の公式参加 2 日本の出品者・出品物とオーストラリア側の評価 3 坂田春雄の日豪貿易観と政策提言 IV 1880 -81 年メルボルン万国博覧会への参加とその後 1 第2回目の公式参加 2 秋田商会の設立と不正茶事件の発生 3 その後のオーストラリアの博覧会への参加状況 v おわりに 1,-

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〔論   文〕

19世紀後半におけるオーストラリアの

   博覧会への日本の参加

遠 山 嘉 博

          目  次

1 日豪経済関係の起源

H 1875年メルボルン植民地町博覧会への参加

 1 日本初参加に至った経緯

 2 政府派遣事務官の選任と出発

 3 日本の出品者・出品物とオーストラリア側の評価

 4 橋本正人のオーストラリア観と政策提言

m 1879-80年シドニー万国博覧会への参加

 1 初の公式参加

 2 日本の出品者・出品物とオーストラリア側の評価

 3 坂田春雄の日豪貿易観と政策提言

IV 1880 -81 年メルボルン万国博覧会への参加とその後

 1 第2回目の公式参加

 2 秋田商会の設立と不正茶事件の発生

 3 その後のオーストラリアの博覧会への参加状況

v おわりに

1,-

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

1 日豪経済関係の起源

 曰崔経済関係の初期の歴史に関する研究はきわめて少なくl),その起源

を正確に確定することは難しい,これに関する曰豪の乏しい文献を参照す

ると,曰豪両囚とも,自国商品の相手国への輸出にその起源を求めている

ことが明らかである.これは,以下の分析の行間からも汲み取れるように,

 まず,オーストラリアの文献によれば,日豪貿易は1865 (慶応元)年に

始まったとされている2)同年は,ニューサウスウェールズから日本へ石

炭が初めて運ばれた年である.実際,石炭は1880年代央まで,オースト

ラリアの対日輸出の大宗を成していた.ちなみに, 1879年から80年にか

けてシドニーで開催されたオーストラリア初の万国博覧会「シドニー万国

博覧会」(第3節で検討する)へ団長として参加した政府事務官坂田春雄の

報告書では,ニューサウスウェールズ政府の輸出入統計からの引用として,

1)数少ない例の代表として,つぎをあげうる.オーストラリア側では,元

 オーストラリア国立大学太平洋学研究学部リサーチ・フェローのD. C. S.シ

 ソンズ(Sissons)の広範にわたる一連の研究かおる.日本の文献としては,

 単行本では成田勝四郎編著『日座通商外交史』新評論, 1971年かおる.ただ

 同書は,戦前分については日濠協会『日濠関係史』日濠協会,昭和28

 (1953)年の多数の分冊の編集から成っており,内容は日豪間の移民,外交,

 通商など多岐にわたり,それぞれが年代を追って収録されているため,全体

 としてはテーマ間,年代間の錯綜が著しい.論文では,福島大学の村上雄一

 助教授による広範かつ詳細な一連の研究かおる.以上はいずれも,内容の卓

 越性については言をまたないが,日豪関係全般を綱羅したものであり,本書

 のごとく日豪経済関係に特化したものではない.

2)The Ad Hoc Working Committee on Australiaづapan Relations, Aus-

  traliaづ・'atari Relations. Australian Government Publishing Service, 1978,

  para. 3.3.

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

表1-1のごとき数値が表示されている. 1878年のニューサウスウェール

ズから日本への輸出額29,571ポンド(封度)のうち石炭は24,286ポット

であり,じつに全体の82.1%を占めているのである1)

 一方,日本の文献では,明治初期のオーストラリアにおける博覧会への

日本の参加・出品を唱矢とするとの説がみられる.すなわち,「記録は定

かでないが,維新後間もなく横浜77番館で,アレクサンダー・マークス

(Alexander Marks)なる者が,日豪間の貿易に従事した事実がある.その

ご秋山貞治が明治13~4年(1880~81年)にシドニーで万国博覧会が開

催された時,築地木挽町にあった「起立工商会社」の出品に付添ってオー

ストラリアに渡航し,同博覧会の閉会後,同博に日本政府から派遣されて

いた徳田利彦と共に,メルボルン市に日本商品の販売店を設け,秋山の

「秋」と徳田の「田」を取って秋田商会と称したのが,日本人による日豪

表1-1 ニューサウスウェールズの日本との貿易(1878年)

ニューサウスウェールズから日本への輸出 日本からニューサウスウェールズヘの輸出

               封度石    炭       24,286羊    毛       2,150

油岩(セイル)      1,506

   羊           750乾    草        360

萄葡酒・酎酒        12種    物         10

外国産品      497

                 封度

  米           24,308

巻   炳          30

  画             10

小 問 物           3

雑   貨          305

計       29,571 計        24,657

(出所)坂田春雄『明治12年濠洲悉徳尼府万国博覧会報告書』下欽, 11)業寮,明治15年

   (1882年), 157ページ.

1)坂田春雄『明治12年濠洲悉徳尼府万国博覧会報告書』下欽,勧業寮,明治

 15 (1882)年, 157ページ.ただし,その後は,明治政府の石炭産業振興政策

 の結果国内産炭量が急増し, 1900年代初頭にオーストラリア炭の対日輸出は

 ゼロとなった. Cf.(::)fficialYear Book of`theCommonwealth of Australia:

 1901-19,1920, p.594

・ 3 -

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

貿易のはじめであったといえよう1)」とある.

 上記には,日※経済関係の淵源模索上,すなわち日※貿易のスターター

を探るうえで留意すべき点が二つある.一つは, 1881(明治14)年設立の

日本初の貿易会社秋田商会を,日本人による日豪貿易の創始者としている

ことである.ただし,この秋田商会それ自体は, 1884 (明治17)年11月

の秋山の死によって閉鎖を余儀なくされ,きわめて短命に終わったから,

日豪貿易の開始は,彼らの事業のmm役を果たした日本のオーストラリア

における博覧会への参加・出品に求めるべきであると考える.

 もう一つは,日豪貿易は日本人よりもオーストラリア人によって先鞭を

つけられたとしている点てある.マークスは, 1854(安政元)年日米和親

条約の締結によって日本が鎖国から開国へ移行し,1859 (安政6)年横浜,

長崎,箱館で貿易が開始された直後に,日本との貿易を営むためにオース

トラリアからやってきた最初期の貿易商の1人であった2)彼は明治政府

に自ら志願して, 1879年12月,ビクトリアの日本名誉領事に任命され,

日豪間の初期外交関係において重要な役割を果たしもした3)ただ,彼の

日豪貿易の開始を正確に確定し,その商況を詳しく把握することは難しい.

日本のオーストラリアにおける博覧会への参加・出品を日豪貿易の起源と

すれば,マークスと同程度の古さでもって,日本人の手によっても日豪貿

1)成田勝四郎編著『日豪通商外交史』新評論, 1971年, 79ページ.ただし,

 上記引

 ……」とあるのは,「メルボルンで」の誤り.起立工商会社はメルボルン万国

 博覧会の前の1879-80(明治12-13)年のシドニー万博にも参加・出品して

 いるが,政府派遣事務官徳田利彦および起立工商会社代人秋山貞治が参加し

 たのはメルボルン万博においてである.シドニー万博の報告書(前出の坂田

 著)に,彼らの名前は出ていない.

2)村上雄一「オーストラリアから日本への訪問者:1854年から1890年まで」

 『行政社会論集』(福島大学)第12巻第4号, 2000年3月, 170ページ.

3)彼の活動については,第3章で詳述してある.

                -4-

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

易が開始されていたことになる.

 この2点に鑑みて,日豪経済関係すなわち日産貿易の歴史を,口本の

オーストラリアにおける博覧会への参加・出品から説き起こすこととする.

 それに入る前に,第2次世界大戦前の日豪経済関係を検討する第1部

「揺藍期の口豪経済関係」の全体構成との関連上,一言触れておきたい.

日豪経済関係,とくに口豪貿易は,本章で以下に述べる19世紀のオース

トラリアにおける諸博覧会への口本の参加・出品によって幕が開かれ,次

章で述べる1890年代以降の日豪羊毛貿易の開始と発達によって本格的な

発展に至るのであるが,これは日豪間財貿易の側面におけるものである.

その一方で,別の観点から日豪経済関係の起源を探ると,日本人契約労働

者のオーストラリア北部地域への進出,すなわち日本からオーストラリア

への労働サービスの輸出という形で,商品貿易とほぼ同時期の古くから,

長い歴史が刻まれているのである.この口豪間サービスの貿易の側面につ

いて,続く第3, 4章で検討することとする.

 以上によって,第2次大戦前の日豪経済関係の歴史の検討が,日豪財貿

易および口豪サービス貿易の両側面にわたって網羅される構成となってい

る.

H 1875年メルボルン植民地間博覧会への参加

 1851年にロンドンで世界最初の万国博覧会が開催された後,国威発揚

の場として博覧会ブームが先進国間で生じたが,それはオーストラリアに

まで及び,1879-80年にシドニーで初めて開催され,そのすぐ後の1880 -

81年のメルボルンでの万博がこれに続いた.日本は1867 (慶応3)年のパリ

万国博に初めて正式に参加し,その後オーストラリアのこの両万博へも公

式参加したが,それに先立つ1875 (明治8)年のメルボルンの植民地間博覧

会への参加が,非公式ではあるが,オーストラリアにおける博覧会への日

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

本参加の最初のものである.そして,この三つの博覧会への参加の経過に

ついては,政府派遣事務官による詳細な報告書が残されている.前2者の

報告書では,博覧会参加の結果の報告(上巻)のみでなく,当時のオーストラ

リアについて植民地別,各年別に人口,諸産業の生産高,政府の財政伏況,

貿易等々について驚くほど詳細な説明もなされている(下巻).そこで,

日本初参加の1875年のメルボルンの博覧会から始めることとしよう.

 1 日本初参加に至った経緯

 同博覧会は,翌1876年のアメリカ建国100周年を記念するフィラデル

フィア万国↑辱覧会への予行をもともとの動機として開催され,その名称は

メルボルン植民地副専覧会(Melbourne IntercolonialExhibition)であっ

た1)同博へは,オーストラレーシアのイギリス,フランス,オランダの

全植民地およびその近隣諸島の住民が出品するよう招待されていた.単に

オーストラリアの諸植民地が参加するもの以上へのレベルアップをとの熱

意にもかかわらず,日本の参加は議題にさえ上っていなかった.それにも

かかわらず,日本が参加するに至ったのはなぜであろうか.

 フィラデルフィア博覧会のためのビクトリア委員会の委員長レドモン

ド・バリー卿(Sir Redmond Barry)は,その責任の自然の延長線上で,同

博の予行博である1975年メルボルン博覧会の責任者となった.彼は1862

年のロンドン万国博覧会でビクトリア出品委員会の委員長を務め,同博に

参加もしていたことから,当時のオーストラリア諸植民地間で最も経験豊

かな博覧会行政官であったから,それは当然の成り行きであった.彼は

1874年暮れに,首相のJ.G.フランシス(Francis)への手紙で,メルボルン

1 )p. F. Kornic】ii,“Japanat the Australian Exhibitions," Australian

 Studies, No. 8,July 1994, p. 19.彼の文中には,Victorian Intercolonial Ex-

 hibitionとの表現も混用されているが,ここでは,橋本正人の報告書の題名

 通り,正式名称と思われる「メルボルン(植民地間)博覧会」の表記をとる.

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

での予備博擁護論を主張し,オーストラレーシアからのみならずイギリス

やヨーロッぺ大陸,インド,東洋海域諸国からの参加も含む最も包括的な

ものとすることによってそれを引き立たせるべきであると力説した.しか

しながら,返答は芳しいものではなく,さらなる文通を経てバリーは,万

国博覧会ではなく植民地附|専覧会をメルボルンで開くことに同意した,そ

こで彼はセイロン,香港,モーリシャス,喜望峰,ジャワ,フィジー,ニュー

カレドニア,サンドイッチ諸島(現ハワイ諸島),およびその他に招待状を

送った.しかしながら,それぞれの当局からは,準備の時間不足やフィラ

デルフィア博への努力傾注の必要性を理由に辞退する旨の返事が来た1)

 そこでバリーは,おそらくは委員会の承認なしにと思われるが,日本参

加の途を探り始めた.彼は1874年12月3日,東京のイギリス全権公使ハ

リー・パークス卿(Sir Harry Parks)に手紙を書き,「ビクトリア政府は

1875年8月にメルボルンで植民地阻|専覧会を開催するよう計画している

が,競技会の領域がオーストラリアの範囲を超えて拡大すれば魅力と有益

性を高めることになると思われるから,日本政府が日本の植物や鉱物の標

本,測量技術や造船技術の産物,茶やタバコや絹などの産品の展示をして

くれると,オーストラレーシアの大衆を啓発し,……j皮らと日本人との間

の通商関係の拡大と改善に資することは明白である」と力説し,日本参加

へ向けてのハリー卿の積極的な援助と強力な協プコを要請したのである. 12

月30日に,彼は再度,予定されている博覧会の詳細を記した手紙を書き,

日本政府は新しい世界すなわちオーストラリアでその技術と生産物を適切

に展示することによって,自国に利益がもたらされることを知るであろう

ことを期待する旨を表明した2)

 1875年2月4[ヨ,パークスは1874年12月3日付のバリーの手紙を時

の外務卿の寺島宗則に提出し,この件について何度か会談した.その後バ

O Ibid., p. 20.

2)Ibid.

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

リーの後の手紙も提示され,寺島は太政大臣三条実美と協議したが, 1873

年のウィーン万国博参加によって生じた費用や1876年フィラデルフィア

博参加のための出費予定を理由に,政府はメルボルン植民地博への公的参

加は見合わせるとしたものの,日本人の出品希望は許可,後援すると決定

したのである.

 バリーが日本の参加をかくも熱望したのはなぜか. 1862年のロンドン

万博で,彼は日本商品との最初の接触をすでに持つに至っていた.同万博

に日本の公式出品はなかったものの,イギリスの初代駐日公使ラザフォー

ド・アルコック卿(Sir Rutherford Alcock)が彼の日本の収集品を展示し,

多くの訪問者の注目を集めていたのである.こうした経緯はあったが,

コーニッ牛はいくつかの理由を推測している.バリーは策士であったのか.

1858 (安政5)年の安政の5力国条約で関税自主権を喪失した日本を,あ

る種の植民地とみなしたからか.これらの理由をコーニッ牛は肯定しつつ

も,最大の理由として,「オーストラリアの日本との貿易関係の将来の発

展に対する彼の認識」(his perception of the future growth of Australia's

tradingrelationshipwith Japan)を強調している1)このことは,パークス

がバリーに宛てた1875年5月25日付の手紙において,「日本政府はあな

たの招待に最大限の努力をしてくれた.オーストラリアの諸植民地を日本

との関係に組み込もうとしてきたあなたの努力が満足な結果をもたらすこ

とになれば,幸せに思う2)」とした表現にもあらわれているとみられる.

すなわち,バリーの関心は単に博覧会への日本の参加にとどまるのでなく,

より長期のゴールを目指していたと理解されうるのであり,日豪経済関係

の淵源模索という本章のテーマ上,きわめて重要かつ示唆に富むものとし

て注目される.

1) Ibid.、p. 21.

2 )Ibid., p. 22.

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

 2 政府派遣事務官の選任と出発

 明治政府は勧業寮(国内産業の振興を司る役所)7等出仕の橋本正人を団

長に,同9等出仕の坂田春雄を副団長に任命した.橋本は数年にわたる

ヨーロッパ留学の経験かおり,坂田はウィーン博およびロンドン↑専を通し

て博覧会の経験豊富であり,またロンドンの王立鉱山学校で学んだことも

あった(彼は後の1879 -80 年のシドニー万国博覧会への日本参加団長を務める).

さらに勧業寮12等出仕の舟木侃と同13等出仕の飯田孝次の2名をオース

トラリアの農事講究のために加え,計4名を派遣して参加することとした.

ほかに,在京のイギリス人ロバート・ページ(Robert Page)を彼らの秘書

として雇った.

 一行は1875 (明治8)年6月1日に東京を出発し,横浜で乗船,香港,

ジャワ・バタビヤ港などを経て7月25 El, シドニーに着港した.同地に

てメルボルン博覧会事務官と電報連絡をとり,シティー・オブ・アデレー

ド号に乗り換え, 8月2日,メルボルン外港のサンドリッジ港に到着し

た1)そして,9月2日の博覧会開幕から11月16日の閉幕を経て,11月

29日にメルボルンを出港し, 1876 (明治9)年2月8日,横浜港に帰着し

た2)ただし,農事講究者の2人は博覧会閉幕後ビクトリア,南オースト

ラリア,タスマニア,ニューサウスウェールズを訪れ,1876年3月末ま

でオーストラリアに滞在し,その後,日本における牧羊業開始計画のため

の何種類かの羊数頭とともに帰国した3)

 彼らのオーストラリア到着は,シドニーでもメルボルンでも, I専覧会参

加への勧待の意をもって報じられたが,そこには早くも,ビクトリアと日

本との将来の通商関係の成立・発展の可能性,大人口を擁する日本がビク

1)橋本正人『赴豪洲|即厘供府博覧会紀行』上巻,勧業寮,明治9 (1876)年,

  1-13ページ。

2)前掲書,土。巻, 47-65ページ。

3 )Kornicki, op.cit。p. 23.

                 -9-

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

トリアにとって有望な輸出市場となることの可能性への期待が込められて

もいた,ちなみに,ビクトリア政府は日本からの参加者のために,メン

ジーズホテルの最上級の部屋を予約し,ワイン以外のすべての費用を負担

したい.

 3 日本の出品者・出品物とオーストラリア側の評価

 メルボルン植民地問博覧会は,1875 (明治8)年9月2日に開幕し,11

月16日に閉幕した.この76[3間の開幕中に,24万人が同↑専を訪れた.

この人数はロンドンやパリに比べれば少人数であるが,当時のビクトリア

の人口が約80 フJ人であったことからみると,かなり多いといえる.ビク

トリアのほかタスマニア,ニューサウスウェールズ,南オーストラリア,

ノーザンテリトリーが参加・出品したが,外部からの参加は日本とシンガ

ポールの2匡|のみであった.しかも,シンガポールの参加は,公認の博覧

会参加委員なしのものであった2)

 日本からは工商会社と七宝会社の2社が出品担当として参加しご回覧会

館に近接する図書館の広大な2室の割り当てを受けた.それは陳列に十分

な広さであり,そこに日本各地の物産を工商会社は242点,七宝会社は

556点,合計798点を出品した3)開場中の売上高は,工商会社973ポッ

ト膀)43シリング10ペンス,七宝会社453ボンド98シリング6ペンス,

ほか個人2名分若干を加えて総計1,543ポンド13シリング2ペンス(原価

3,299円75銭5厘)であった')主な出品物は陶磁器,漆器,象眼品,七宝

1 )Ibid., p. 22.

2 )Ibid., p. 23.

3)角山栄「口豪通商史の開幕-メルボルン博(1875年)とシドニー博

 (1879年)についてー」『経済理論』(和歌山大学)No. 182, 1871年7月,

 8ページ.

4)橋本,前掲書,上仏 44 -45ページ.報告書では,「卦度」と表記されて

 いる.

-10

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

焼,甲冑・刀剣などの古来品と,多数の絹製品,扇子,びょうぶ,急須,

子供用玩具,花びんなどの当時の新製品であった1)

 これらに対するオーストラリア側の反応はどうであったか.橋本の報告

書によれば,日本の出品物が陳列された2室は顧客がつねに多く,反面,

その他の陳列所はやや閑散としており,とくに人目を引く物品も少なく,

過去のメルボルンでの博覧会に比しての同博の成功は,日本の出品の功に

帰せられると,当地の事務官や書記官が保証したという.そして,日本の

出品物中最も衆人の注目を集めたのは,木製のたんす,机,盆および銅製

の品々であったが,日本茶の見本を欠いたことに壹|感の意を表している2)

 一方,メルボルンの地元各紙も,日本の博覧会参加と出品物を称賛した.

たとえば,『エイジ』紙は,日本の展示会場ほど人気を集めた会場はほか

になかったと思われると報道した.そして,陶磁器や七宝焼は,他国がこ

れまで到達したことのない完成度に達しているとしており,漆器はこれま

での一般大衆への展示品中最高のコレクションの一つであると称賛してい

る.さらに,絹製品の魅力と日本の絹産業の将来匪にも言及している3)

 このような地元紙における日本参加と出品物の称賛記事の行間において,

とくに注目すべき点が二つ見いだされる.一つは,日本が工業国家,文明

国家への変貌過程において急速な進歩をとげていることを確認したことは,

若いオーストラリア諸植民地が単に万国博覧会の世界においてだけでなく,

国際的な通商と競争の世界においても努力して行くうえで励みとなるに違

いないというものであり,もう一つは,世界におけるビクトリアの地理的

位置を考えると,日本との将来の緊急な貿易関係は必然的かつ望ましいと

考えられるというものである.たとえば,『ヘラルド』紙は,「若いビクト

1 )Kornicki, op. cit.,p.24.

2)橋本,前掲書,上巻, 29ページ.

3)Age, 3 September 1875(村上雄一[1890年以前における日豪の貿易及び

 文化交流の諸相]『行政社会論集』第13巻第4号, 2001年2月, 65ページ).

                 -11-

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

リア植民地は,世界で最も古い帝国の一つの支配者によって,われわれが

あまり幸運だとは思いえない事実を認識させられることになった.われわ

れの貿易は,時の経過とともに,われわれに最も近い諸国に戻っていくて

あろう」と報じた.また,『アーガス』紙は,「日本国民とオーストラリア

国民との間には,他日,輝かしい両国の将来の世代にとって有利な収獲物

をもたらす友好的同盟関係と自由な通商の二重の関係(double relation of

friendly alliance and unfettered commerce)が形成されるであろうと,将来

の密接な関係を展望している1)

 このようにオーストラリア側において,単に日本の博覧会への参加・出

品にとどまらず,それを通して将来の通商関係の形成と発展をすでに展望,

期待していたことは,日豪経済関係の淵源模索上大いに注目されるべきで

ある.これと同様に,日本側においてもまた,同様の展望と期待,さらに

具体的な提案がみられていたことにも留意しなければならない.つぎに,

これについて検討しよう.

 4 橋本正人のオーストラリア観と政策提言

 メルボルン植民地博覧会に参加した一行の団長を務めた橋本正人は,帰

国後明治9 (1876)年5月に,詳細な報告書を政府に提出した.それは上

下2巻から成っており,上巻は往路の航海日誌,博覧会の景況,復路の航

海日誌を含み,下巻は,すでに触れたが, 1836-74 (天保7一明治7)年の

間のビクトリアの人口,畜産頭数,農産物の耕作面積と産出高,政府財政,

輸出入,学校数および生徒数などの統計を掲げ,ビクトリアを中心にオー

ストラリアの歴史と現状を概説し,最後に彼個人の対※政策案を提示して

結びとしている.この下巻の叙述は,日本人の手に成るオーストラリアに

1)Herald, 2 September 1875 and Argus, 3 September 1875,in Kornicki,

 op. cit。p. 28.

12

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

関する政治・経済事情の記述としては,おそらく初めてのものであろう.

 まず,彼はオーストラリアについて,「南洋中ノ絶域ニシテ我邦人ノ未

タ曽テ腫ラサル所ナリ今此会二赴クモノ是ヲ修交ノ始トス白と書き出し

ている.博覧会参加の状況については,既述のように,日本の参加と出品

は現地で大いなる人気を博し,高く評価されたと述べている.これは,自

らが団長として参加した結果の報告ではあるが,既述のようにメルボルン

の地元各紙も絶賛に近い賞揚を表している2)ことからみて,また,ケンブ

リッジ大学のコーニッ牛も,「日本の出品物はビクトリアの大衆に日本を,

美的に新奇なるものとして,また潜在的な貿易相手として認識させること

に驚くべき成功を収めた(astonishingly successful)^)」と評していること

からみても,誇張や自画自賛に終始するものでないことは明らかである.

 しかしながら,橋本の報告書が本章のテーマとの関係上真に重要な点は,

それが博覧会の単なる結果報告に尽きるのでなく,その最後部において,

博覧会参加をきっかけとして日豪貿易の将来性に明るい展望を表明し,そ

の実現のために若干の具体的提案を行っていることである.これは,その

後の日豪貿易の実際の発展からみて,それに先行する慧眼として高く評価

されなければならないものである.

 彼はまず,オーストラリアの貿易を分析し,輸出入は大半がイギリス市

場との間で行われており,主に茶,砂糖,雑貨および衣服等を輸入し,皮

革および羊毛を輸出しているとしている.ついで,日本がオーストラリア

に輸出して利益をあげることができる商品として日本茶(その香味により,

既存の輸人中国茶に対抗しうる),日本米(その上品質のゆえに,金鉱に多数居住

する中国人の需要大),および北日本産の鮭(オーストラリアに存在せず)をあ

1)橋本,前掲書,上巻, 1ページ。

2)唯一の例外は『メルボルン・パンチ』紙(Melbourne Punch)であったが,ち

 なみに,同紙は人種差別主義に立っている. Cf. Kornicki, op。cit, pp. 25 -27.

3)Ibid。p. 31.

-13-

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

げ,一方,輸入すべき商品として皮革(現在の他国からの輸入を直ちにオース

トラリアからに転換すべい,羊毛および冷凍肉(輸入の試みを推奨)をあげて

いる1)

 とくに羊毛に関しては,日豪貿易の形成と発展に導くものとして,きわ

めて重要な提案を行っている.オーストラリアでは,イギリスおよび外国

市場に羊毛を輸出し,ツイード,フランネル,毛布等になった製品を輸入

しているが,ビクトリア,タスマニア,ニューサウスウェールズの各政府

は毛布製造業者に賞金を約束して支援し,その結果らしゃ製造は緊要の工

業となり,輸入品を圧倒する勢いにあるけれども,工場労働者の高賃金を

はじめ運送費,梱包費,倉庫料,船賃等の一切の諸経費がその進展を妨げ

ている.これに対して日本は,賃金が低廉で労働者が多いから,毛布製造

所を建築し,機器とオーストラリア羊毛を輸入して毛布を製造すれば,費

用を著しく安くすることができ,一大工業となしうる.当初は粗毛布,粗

じゅうたん,粗末ならしゃから始め,工業の熟達とともに上級のらしゃお

よびツイードを製造すべしと提言しているのである2)彼のこの着想こそ

は,次章でみるように,その後の日豪羊毛貿易の開始と発展によって実現

され,両国の羊毛関連産業の発達と経済の拡大をもたらし,日豪経済関係

の一大発展に結実することとなるのである.したがって,彼のこの提案は,

きわめて重要なものであったといわなければならない.しかしながら,残

念なことに,それは明治政府によって直ちに採用されるところとはなりえ

なかったのである.

 上記に続いて,彼はさらに,オーストラリアの有識者といえども日本に

全く無知であることに脆ほし,また,日本側においても同様の指摘を受け

るであろうとして,オーストラリア各植民地の首相や行政官が日本との情

1)

2)

橋本,前掲書,下巻, 114-17ページ.

前掲書,下巻, 114-15ページ.

-14 -

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19世紀後単こおけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

報交換を熱望している旨を明らかにしている.そして,日豪間の貿易航路

を開設し,相互に情報交換を行うことにすれば,日豪貿易は昌盛,永続し,

日本の国益に資するところ大なりと結んでいるのであるI)

m 1879-80年シドニー万国博覧会への参加

 日本は1875年のメルボルン植民地間博覧会に参加した後,ニューサウ

スウェールズ農業協会(Agricultural Societyof New South Wales)の後援

で1877年4月10日から5月9日にかけてシドニーで開催された第9回

ニューサウスウェールズ首都植民地間博覧会に,ほんの形式的にてはある

が参加した2)しかし,日豪経済関係史上重要なものは,その2年後に開

催されたシドニー万国博覧会への参加である.本章では,これについて検

討する.

 1 初の公式参加

 (1)政府のシドニー博参加軽視に対する坂田春雄の抗議

 シドニー万国博覧会(Sydney InternationalExhibition)は,ニューサウ

スウェールズ農笑協会が数年来開催してきた植民地間博覧会の成果に鑑み

て,同協会に1877年4月に初の開催提案がもたらされたが,財政問題に

よる意気阻喪から, 1878年2月にその京議を受けてニューサウスウェー

ルズ政府が開催を決定したものであった.それはオーストラリア初の万国

博覧会であり, 1879(明治12)年9月17日に開幕, 1880(明治13)年4月

20日に閉幕し,この216日間の会期中の入場者は1日平均約5千人,総

1)前掲書,下巻, 118-19ページ.

2)その内容については,つぎに詳しい. Kornicki, op. cit.,pp. 32 -33.なお,

 シドニーでは1870年代に,植民地階博覧会の開催は毎年の行事となっていた

 ようである.

15

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

数111万7千人超に達した1)

 明治政府は今回は,イギリスの駐日公使ハリー・パークス卿を通して

ニューサウスウェールズ政府からの正式の招待を受けた.それを受けて政

府は明治12 (1879)年2月,公的に参加することを決定し,内務省御用掛

准奏任坂田春雄を団長に,他1名を随行員に任命し,予算1万円をつける

こととした.しかしながら,これは先の明治11 (1878)年パリ万国博覧会

への参加時と比べると,余りにも粗末な扱いといわざるをえないもので

あった.パリ↑専への派遣事務官は+数名に上り,予算も18万3,241円60

銭という規模であった2)からである.

 政府はなぜシドニー万博への参加をこのように軽視し,低い関心と熱意

しか示さなかったのであろうか.先のメルボルン植民地間博への日本の参

加・出品が現地において大変な好評を博し,かつオーストラリアの対日関

心の高揚と日本の対座関心の喚起に大きく貢献したという事実からみて,

これは奇異にすら感じられる.そこには,二つの理由が推測される.一つ

は,当時の日本の外国貿易においてオーストラリアはほとんど実績がなく,

欧米諸国や中国に比べて格差があまりにも大きかったことであり,もう一

つは,当時の政府官僚の欧米観とオーストラリア観の落差が大きく,交際

相手として全く有望視されていなかったことが考えられる.

 第1に,当時の政府の対外関心は,もっぱら貿易額の大きい欧米諸国と

O Ibid。p. 33・

  なお,坂田の政府への報告書によれば,日本の参加は,当初9月初則捌幕,

 12月末13閉幕と伝聞していたので,経費の関係上,閉会式を待たずに, 3月

 17日に陳列品を撤去, 4月17日に帰港の途についた.入場者総数は

 1,045,898人となり, 1851年のロンドン以来最多数を集めた前年1878年のパ

 リ博の16,032,725人に比べると1桁違いに少ないが,人口100人についてみ

 ると,それまで設高のパリ博の43.0人を大きく上回る143.0人と,過去断然

 トップであった(坂田,前掲轡, 1こ欽,1ページおよび60-61ページ).

2)角山,前掲論文, 10ページ.

16

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

中国に向いていた.表1-2は,当時からみて8年後の数値を表わしてい

るが,その時点でさえ,オーストラリアの順位は輸出で9位,輸入で15

位に過ぎず,しかも上位集中度が極端に高かったから,金額では上位との

第T -9表 日本の輸出人品価額劃別表〔1887 明治20)年1輪出

順位 匡賜(" 金額(円)<=,. 通計に占める比率(%)

10

アメリカ

支  那

フランス

イギリス

ドイ ツ

カナダ

イタリア

朝  鮮

オーストラリア

東インド(2)およびタイ

21,529,266

10,970,043

9,528,396

3,478,729

 921,723

 714,174

 554,976

 551,907

 535,082("

 453,472

42、6

21.7

18.8

6.9

1.8

1.4

1.1

1,1

1.1

0.9

通 計 50,551,523 100.0

輸入

順位 国名(" 金額(円ド・ 通計に占める比率(%)

15

イギリス

支  那

東インド(2)およびタイ

ドイ ツ

アメリカ

フランス

朝  鮮

スイ ス

ベルギー

オーストラリア

18,970,544

7,985,820

5,291,614

4,010,915

3,283,096

2,313,345

1,010,374

 507,580

 322,196

 32,265('')

45.9

19.3

12.8

 9.7

 7.9

 5.6

 2.4

 1,2

 0.8

 0.08

通  計 41,304,251 100.0

注(1)匡I名は当時のまま,

  (2)East Indies(インド・インドシナ・マレー諸島を含む地方の旧称).  (3)金額の円未満は切り捨て.

  (4)オーストラリアへの輸出の最大は米の428,456円(輸出総額の80.1%)であった(下

    記資料127ページ).

  (5)オーストラリアからの輸人の最大は,羊毛の29,666円(輸入総額の91.9%)であった

    (同, 195ページ).

(l±囲)大蔵省編『大日本外国貿易年長 明治20 ・21年』(復刻版)東洋書林, 1990年,3ペー

    ジより作成.本書は明治第1期(全7巻)で,最も古い時期についての統計である.

    なお,1873 (明治6)年以降本表まで,輸出上位4力国(アメリカ,支那,フラン

    ス,イギリス)は,順位の変勁はあっても不変であり,輸入上位4 力国は,順位の変

    動はあるが,本表の上位6力国で占められている,

」7 一一

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

差はそれ以上に大きかつた.貿易の比宣を反映した政府の対外陽に、度高低

の傾向はその後も不変で,事実,明治政府がオ―ス卜ラリアの博覧会に参

加することは,1889 ―9O 年のメルボルン万博を殼後になくなつてしまつ

たが,欧米渚国の万博にはその後も公式参加を継続したのである.

 第2に,明治

1)坂田,前掲書,上欽, 19ページ

-18

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

回の博覧会への参加は通商貿易形成の絶好の機会であると主張したのであ

る1)

 以上を要約して彼は,朗治12年2月8日付で↑専覧会掛に対して,

 「第1 規模ヲ拡張スヘ手事

  第2 事務官ノ位置ヲ高進シ又属員ヲ加フヘキ事

  第3 定額金ヲ増スヘ牛事2)」

の3点を要求した.

 政府は議論のうえ,おおむねこれを受け入れることとした.その結果,

予算は1万9,817円余を増額して2万9,817円30銭とほぼ3倍に増やし,

派出者事務官は坂田のほか,内務6等属村上要信および勧農局雇渡辺洵一

郎の2名の随行員の計3名としたのである3)

 2 日本の出品者・出品物とオーストラリア側の評価

 o)主な出品者と出品物

 坂mが派出事務官を拝命した当初は,↑専覧会開場の時期の切迫にもかか

わらず,出品請願人はI人もいないという状況であったが,参加の人員規

模拡大と経費の増額により政府が奨励に努めるに及び,出品請願者は意外

な急増をみるに至った.このように,シドニー万博への政府関与は4年前

のメルボルン植民地肌博時よりもより多大となった結果,出品者は官費渡

航会社だけでなく自費渡航の個人も含めて,はるかに多勢となった・1)

 結局,出品者は96人に上った.出品物はじつに多種多様であり,その

原価合計は3万2,644円98銭8厘に達した.大口出品者としては,東京

の起立工商会社,三井物産,大倉組にの3社の出品物原価は計1万円で,全

O

2)

3)

4)

坂田,前掲書,上牧, 19-21ページ

前掲書,上欺,25ページ。

前掲書,上牧,28-29ページ.

Kornicki, op. cit.,p.34。

             -19 -

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

体の約3分の1を占めた), 愛知の岡谷惣助の七宝会社([5j 3,318円15銭],東

京の太田万吉(同3,25判円57銭),神1奈川の宮川香山(同2,800円),長崎の

香蘭社胴1,220円79銭),そして勧農局(同1,193円99銭)などがあった.

出品物の主なものとしては,起立工商会社・三井物産・大倉組の銅器,陶

器,漆器,七宝,織物等,七宝会社の七宝,陶器等,太0:1万吉の指物・家

具,漆器,陶器,銅器,雑貨,宮川香山の陶磁器,香蘭社の陶器,および

勧農局の紅茶があった1)

 原価3万3,640円33銭3厘の出品物は, 4,782ポンド8シリング2ペン

スの売上高をあげた.これを3シリング=1円で換算すると,3万1,883

円41銭3厘となった.ほかに,原価1,503円90銭2厘の持ち帰り品が

あった2)なお,多くの陶器,磁器,銅器,七宝製品のほか若干の農産物

や生糸,紙製品,真珠細工等合計57点の物品が政府から,また陶器の花

瓶や香炉,漆器見本,竹製品等5点の物品が三井・起立工商・大倉と3個

人から,シドニー万|専に贈呈された3)

 (2)オーストラリア側の評価

 坂田の報告書によれば,日本の出品物は今回も,現地で大変な好評を博

した.そして坂田は,それが日豪「両国ノ通商ヲ振起スルノ媒介」となれ

ば,これ以上の喜びはないとしている■1)

 一一方,現地の博覧会委員会の報告書によれば,日本の展示場はアメリカ

の隣で,両者間の対照が大いに注目を集めたという.アメリカの実用・便

益を主とした出品物の展示場を出て,日本の芸術と産業の標本や優美で完

成度の高い装飾的物品の並んだ展示場へ入った際の変化は想像もつかない

ほどで,著しい対照を成しており,このショーへの日本の貢献は最高に興

O

2)

3)

4)

坂田,前掲書,上牧,30-37ページ.

前掲乱上牧,62-63ページ.

前掲書,上牧,73-81ページ.

前掲書,上牧,69-75ページ.

-20 一一

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

味をそそる,非の打ちどころのないものの一つであり,出品物の配列はき

わめて効果的であったと称賛している1)現地紙が主に注目し,取り上げ

たのは花瓶等の陶器類,漆器類,青銅製美術品,象眼木製品等で,その他

はあまり注目を払われなかったという2)

 3 坂田春雄の日靉貿易観と政策提言

 坂mの報告書で注目しなければならないのは,彼もまた橋本と同様に,

単に博覧会への参加・出品の結果報告にとどまるのでなく,日豪貿易の振

起と発展に言及し,若干の重要な提言を行っている点てある.それは,つ

ぎの三つに要約することができるであろう.

 第1に,橋本が日本の輸入品としてオーストラリア羊毛に注目したのに

対して,坂田は日本の最も有望な対豪輸出品として紅茶を重要視した.報

告書において彼は,「勧農局ヨリ出品スル紅茶ハ我出品中最モ緊要ノモノ

ニシテ彼ノ市場二期スル殊二大ナリ」と,諸出品物の品評の記述を紅茶か

ら始め,他の全出品物に関する叙述を上回る6ページ3)を当てて詳述して

いる.そして実際に,日本産紅茶の名声がオーストラリアの大衆開で広ま

るよう, |専覧会参加の機会をとらえてレストランやホテルに現物を配布し,

試飲に供し,また,日本の展示場に茶店を設けて最初は無料で,後には廉

価で販売した.そして,この実践を通して, (彼ノ庶人ヲシテ多ク我紅茶

ノ良味ト其価値ノ廉ナルトヲ知ラシムルヲ得タリ4)」と,オーストラリア

における日本産紅茶の需要の喚起と対mm出品としての将来に期待を寄せ

たのである.

 この紅茶の販売に関して彼は,じつに重要な改革の要を説いている.

1 )Sydney Morning He?・■aid,18September 1876,in Kornicki, op. cit。p. 35.

2)Ibid。pp. 36 -37.

3)坂|王1,前掲書,上欺,63-68ページ。

4)前掲書,上銭,63ページ。

21

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

「但之ヲ販売スルー一モ外商二依ラサリシ是レ設シ外商二委セハ他ノ雑製ノ

茶ト混シ一朝ニシテ其声価ヲ失スルノ虞アレハナリ門とし, (之ヲ外商

二委シ去ラハ必ス支那又ハ印度ノ製茶二参混シテ以則坂売スルヤ明ケシ2)

」と警戒を表明し,さらに「這回出品スルモノハ包装其宜シキヲ得標号亦

夕完全肯テ間然スヘキモノナカリシモ此般ノ事往々忽諸二付シ為メニ以外

ノ失敗ヲ受クル者アリ」と,今回の出品経験を基にその対策として包装の

重要性を指摘し,特殊の紙,特殊の記号,漆箱の使用という細かな注意を

与えているのである3)(外商支配下の袖出において,実際に後に深刻な問題が発

生したが,これについては次節で述べる).

 第2に彼は,メルボルンとシドニーの両博覧会に参加した経験から,日

本の貿易相手としてはメルボルンよりもシドニーの方が有望であるとの強

い信念を開陳している.貿易の現状をみる限り,メルボルンに比してシド

ニーは活発ではないが,つぎの五つの理由から,シドニーの方が将来有望

であるというのである.

 (1)ニューサウスウェールズの天然資源は,ビクトリアよりも豊かであ

  る.

 (2)国民性が実着で,心変わりのおそれが少ない.

 (3)政治体制や教育方法がよりよく,社会の気風もより沈静で,繁栄は

  他日ビクトリアを超える兆しがある.

 (4)航路はより近く,その港の地勢は日本船の停泊に適している.

 ㈲ 関税はより低い-1)

「此五理アルヲ以テ予ハ断然悉徳尼ヲ以テ我力商戦ノ牙城トナスヘシトナ

セリ」と,メルボルンに比してのシドニーの日豪貿易上のの優位性,有利

1)

2)

3)

4)

同ページ.

前掲書,下欽,163ページ.

前掲書,下欽,164ページ.

前掲書,下欽, 160-61ページ

一一22

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

性を強調しているのである.

 第3に,交際が始まったばかりのオーストラリアとの関係を今後深め,

貿易の振興を図るうえで重要な事項として彼は,すでにいる外国人の名誉

領事ではなく,日本人の領事を置くべきであると主張している.シドニー

万博が開かれた1879 (明治12)年のまさにその年に,アレクサンダー・

マークスがビクトリアの日本名誉領事(Japanese Honorary Consu1)に任

命されたが,日本政府が彼を任命した主な理由として,近づくメルボルン

万時への日本の出品者のための面倒をみる人物の必要性が見込まれていた

ことが推測されている1)が,マークスはまた,ビクトリアにおける日本の

貿易およびその他の利害関係に記慮する責任も負っていた.しかしながら,

坂田は,シドニー万博に宮川香山ら出品者4名の代理として私費で渡航・

参加して彼を手助けし,それ以前の1873年のウィーン博や1876年のフィ

ラデルフィア博でも彼を手助けしたことのある浅見忠雅とともに,メルボ

ルンにおいて日本の外交関係の代表者に日本人以外の者が任命されたこと

に大変批判的であった.

 その理由の一一つは,シドニーの方が目本により近く,オーストラリアに

おける日本の基地とすべきであるとの前述の彼の聞い信念であり,もう一

つは,オーストラリア育ちのアメリカ人であるマークスのごとき人物に対

する日本の利害の保護者としての信頼吐への懐疑であった2)「我若シ外

O Kornicki, op. cit。p.38.

2)Ibid. ただ,メルボルン万円博への参加報告書にマークスの名は出ていな

 いから,彼が果たした役割は明らかでないが,彼は日本の代表として数年来熱

 心に努力し,オーストラリア経済,日本からの輸入品の評判,オーストラリ

 アでの日本の貿易機会の拡大等に関する詳細な報告を東京に送り,日本の対

 豪輸出の利益が,横浜のイギリスやオーストラリアの業者にではなく日本の

 業者に帰するよう特別の関心を払っていたから,坂田と浅見の懸念はこの

 ケースに関する限りは不当であると,コーニッ牛はマークスを弁護している.

                -23 -

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

国貿易ノ利ヲ獲ント欲セハ豪洲ノ各藩ハ必ス遺棄スヘカラス果シテ遺棄ス

ヘカラスンハ之ヲ栄誉領事二委シ去ルヘカラス故ヲ以テ予ハ切二適当ノ官

ヲ悉徳尼二派出セラレン事ヲ期望ス1)」と述べ,日豪貿易の積極的推進論

の展開とともに,外国人の名誉領事で事足れりとするのでなく日本人の領

事を,メルボルンでなくシドニーに置かなければならないと強く主張した

のである.

 以上三つの坂[日の政策提言を,その後の経過に照らして簡単に論評すれ

ば,以下のごとくである.第1の日本産紅茶の対豪輸出は,その後わずか

の進展をみせただけで途絶し,橋本の提案し九日本のオーストラリア羊毛

の輸入のごとき成功には至りえなかった.

 第2のメルボルン(ビクトリア)よりシドニー(ニューサウスウェールズ)

重視,および第3の外国人名誉領事批判については,その後の展開は彼の

提言通りに推移した.彼がシドニーをことさらに強調した背景には,当時

の政府の対豪貿易路線の主流をメルボルン派が占めていたことが推測され

る.しかし,その後の推移をみるとシドニーがメルボルンを圧し,日本の

対豪貿易の中心地としての地歩を確保したのである,その間の若干の経緯

として,つぎをあげることができる.まず, 1890(明治23)年に兼松房治

郎は,日本へのオーストラリア羊毛輸入の拠点をシドニーに開設するとと

もに,外商を排した日本人の手による直輸入を初めて果たした,つぎに,

日本政府は1896 (明治29)年のタウンズビルに続いて翌1897 (明治30)年

にシドニーに領事館を開設し,日本人領事を任命し,そして, 1901(明治

34)年12月にこれを総領事館に昇格させた.さらに,こうした経緯を受

けて, 1879(明治12)年の任命から20余年の長さにわたってビクトリア

の日本名誉領事を務めてきたマークスは, 1902(明治35)年に退任するに

至るのである.

1)坂田,前掲書,下欽, 160ページ

-●24 -

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

W 1880 -81 年メルボルン万国博覧会への参加とその後

 1880年代には,その10年の始めと終わりの2回,メルボルンで万国博

覧会が開催され,この両方に日本は参加した.まず,先の博覧会への参加

から検討しよう.

 I 第2回目の公式参加

 (1)日本の出品者と出品物

 メルボルンで最初のこの万国博覧会は, 1880(明治13)年10月1日に

開幕し, 1881 (明治14)年3月31日に閉幕した.総入場者は130万人超

で,シドニー万|専のIll万人超を超えた.これは,当時のビクトリアの人

[180万人,メルボルンの人口25万人未満からみると,かなり多い.それ

だけでなく,地元地方紙は,メルボルン博の展示はシドニーに勝るもので

あったと報じるにやぶさかでなかった1)

 日本はこの博覧会にも,駐日イギリス公使パワー・パークスを通してビ

クトリア政府の正式招待を受け, 1879年のシドニーに次ぐ2回目の正式

参加を行った.派出メンバーの団長の事務官長には大蔵大書記官の河瀬秀

治を当て,事務官の大蔵省御雇の徳田利彦と事務官長随行の同城戸虎雄の

2名を加えた計3名を派出した.予算は3万3,014円であった2≒ これら

の規模は,補強の改善を受けたシドニー万㈲時に匹敵するものであった.

 博覧会開幕の時期が迫っても,当初は出品請願者が1人もいない状況で

あったが,わが国の面目失墜と将来の通商拡張の好機逸失の恐れから,出

品に好適の物産をあらかじめ選定し,松方正義総裁の認可を得,奨励に努

O Kornicki, op.ciた,p.39.

2)河瀬秀治「メルボルン万国博覧会報告」帽京正人編円丿治前期産業発達史資

 料』(勧業博覧会資料236),明治文献資料刊行会い]河口51 (1976)年,6-7

 ページおよび16ページ.

-25

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

めた結果,諸官省および国民から意外に多くの出品物が集まった.出品人

員は97人,出品種類は167種,出品原価は2万3,500円となった1)

 出品物の選定では,目本特産の天産物でオーストラリアの需要に適した

ものを最優先し,ついで,オーストラリアの大衆にとって日常不可欠かつ

廉価の製作品を採択した,これはノI専覧会参加を機に,将来の両国間貿易

の拡充を切望したからである2)ここから,この頃のオーストラリア博覧

会への参加は,当初から,将来の両国問貿易振興という役割を強く意識す

るようになったことが明らかである.

 具体的には,天産物は米,種子,紅茶・緑茶,麻,生糸,魚類缶詰,木

材や鉱物の見本等であり,製造品は陶器,七宝および銅器,漆器,小物木

製品,雑貨,織物類などであった.他に日本の教育上の進歩を示す目的か

ら,学校用器具や書籍・地図等の教育諸品,日本固有の美術を示す目的か

ら日本画,刺しゅう,彫刻等の美術諸品があった3)

 出品人のうちオーストラリアに渡航を出願し,許可を得,諸出品物の依

託を引き受けた者は,起立工商会社代人の秋山貞治と他の3名であった.

 (2)オーストラリア側の評価

 河瀬の報告によれば,出品者の当初の懸念に反して,今回の出品も現地

で好評を博した.出品物はすべて売り尽くされ,多くの利益をあげ,わが

国の物産の将来の市場となることを確認できたとしている4)

 出品物申衆人の賞賛を最も多く得だのは,文部省が出品した教育器具お

よび書籍であり,日本の教育進歩の状況を嘆賞させることができた.和紙

製の人形や七宝焼,銅器,陶器等も,衆人の称揚を得た.千住製絨所の製

絨類,開拓使や農務局製の缶詰,印刷局の紙類,小池卯八郎製の鉛筆,新

1)

2)

3)

4)

前掲書,11ページ.

前掲書, 7-8ページ.

前掲書, 8-10ページ

前掲書, 2-3ページ,

-26

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

燧社のマッチ等は,日本の工業の進歩を示すに十分であった.これに反し

て,最も人目を引く場所に配列したにもかかわらず,米や紅茶は衆人の賞

賛を得るに至らなかった1)

 一方,地元紙の評価はどうであったか.『アーガス』紙は,「日本会場の

教却関連展示品への訪問は,ヨーロッパの衣服やマナーや諸制度を取り入

れてきたかの注目すべき国における西欧思想の発達を示すものとして,特

別に示唆に富むものである2)」と評している.他の多くの出品物にも言及

した後コーニッ牛は,「要するに,若干の出品人はシドニーとメルボルン

の両方に出品したが,出品物の全体としての性質は異なっており,メルボ

ルンでは紅茶や絹のような輸出の可能性を持つ商品や,日本の進歩を示す

狙いを持った諸用具の展示がはるかに多く,骨とう品は結果として重要で

はなかった3)」と,新しい変化に注目している.この変化は,日本のオー

ストラリアの博覧会参加の積み重ねにおける対豪輸出への志向性のいっそ

うの高まりを示すものとして留意の要があると思われる.

 2 秋田商会の設立と不正茶事件の発生

 (1)秋田商会の設立

 上述のように,明治政府においては, 1880(明治13)年のメルボルン万

博への参加は1879 (明治12)年のシドニー万博への参加時に比べて,日豪

貿易の形成・発展への志向性がいっそう明確かつ強化されたが,その後実

際に,それへ向けての重要な一歩が踏み出されたのである.それは,オー

ストラリアにおける初の日本の貿易会社「秋m商会」の設立である.そし

て,そこで起こった不正茶事件は,日豪貿易のみならず日本の対外貿易全

1)

2)

3)

前掲書, 67ページ.

Official Record, p. cxxii, in Kornicki, op. cit.,pp. 40 -41

Kornicki, op. cil・,,p.41.

                -27 -

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

般における外商支配からの脱却という質的改革の必要性をいやがうえにも

深刻に喚起せしめたのである.

 メルボルン万|専に派出事務官3名中の1名として参加した徳田利彦は,

博覧会開会中の1880年12月16日から1881年1月4日の間に行ったシド

ニー出張の詳細な報告を事務官長の河瀬に提出したが,そこには,日本と

ビクトリアやシドニーとの貿易の形成とその将来匪に対する彼の強い信念

が丿胤していることに注目しなければならない.すなわち,第1に,彼は

河瀬とともに,既述の博覧会への出品物の事前選定を,ビクトリアとの将

来の貿易拡張の好機到来との観点から行った1)そして第2に,日豪貿易

の創開を目的とした市場調査の結果,現地で需要が見込まれる日本物産と

して紅茶を筆頭に,精白米,硫黄,マッチをあげ,詳細な説明を加えてい

る2)

 こうしたビクトリアそしてオーストラリアとの貿易の創始と振興に対す

る徳田の強い信念は,やがて実際に,[秋日]商会」の設立に彼を向かわせ

たのである.彼は,当時わが国の美術工芸品を海外に輸出する唯一の商社

であった起立工商会社の出品代人としてメルボルン万博に参加した名古屋

の岡谷惣介の七宝会社の社員秋山貞治〔嘉永5 (1852)一明治17(1884)

年〕と共同して, 1881(明治14)年にメルボルンに,日本商品の販売店

「秋田商会」を設立した.徳田は木挽町の本店で仕入れ方面を担当し,秋

山は東京・メルボルン開を往復して売りさばき店の経営に専念した.こう

して,オーストラリアに拠点を置いた日豪貿易が,はじめてメルボルンで

開始されたのである.しかしながら,不幸にも,秋山が第4回目渡航の船

中に病を得, 1884 (明治17)年11月に死亡したため,日豪貿易先駆者と

1)河瀬,前掲書, 7-8ページ.

2)徳田利彦「徳田から河瀬への報告書」明治14 (1881)年1月18日,前掲

 書,72-85ページ,

                -28-

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

しての秋田商会の活動は,わずか4年という短命に終わってしまったので

ある1) それは,兼松房治郎の兼松商店創立に9年先立って始まった活動

であった.

 (2)不正茶事件の発生

 秋田商会の活動は4年間という短期間で終わってしまったが,その間に,

日豪貿易のみならず日本と諸外匡|との貿易全般にもかかわる重大かつ深刻

な事件が発生した.それはまた,外商の支配下に置かれていた開港間もな

い日本の貿易の弱点がもたらした可能性も払拭しきれない不祥事であった.

 1858 (安政5)年のアメリカとの,そして1859 (安政6)年のイギリス

他3国との通商条約締結によって強制的に開港させられた日本が, 1860

年代を通して世界市場に供給した輸出品は,生糸が40%合から70%台を

占めてその大宗を成し,それに次いで日本茶(緑茶)が10%台という重

要な地位を占め,イギリス経由でアメリカや,そして中国へ輸出されてい

た(1865年頃からアメリカへの直送が増加して,イギリス経由は激減).しかし,

イギリス支配の世界で茶の主流を占めていたのは紅茶であったから,日本

国内でも勧業寮の指導下に各地の伝習所で紅茶の生産が始まり,世界各国

の博覧会の機会をとらえて輸出市場の開拓が進められていた.シドニー万

博への参加を機会に橋本が,紅茶の大需要地としてオーストラリアに注目

し,日水産紅茶の対使m出lを主張したのは,こうした事情のもとにおいて

であった.

 すでに1879 (明治12)年に大倉組は,伝習所製紅茶をメルボルンで販売

1)石井研堂『明治事物起源』日本評論社,初版, 明治41 (1908)年,増補改

 訂版,明治44 (1969)年,下巻,889ページ。なお同ページに,「明治14年,

 濠洲シドニー府に万国大博覧会あり,……秋山氏はその出品に付いて同地に

 渡りしが,図らずも,これが日濠貿易の基となれり」とあるが,シドニー府

 はメルボルンの誤り。また,「36歳の生涯を閉払 ……」とあるが,上記の

 生没年とは符合しない。

                -29-

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

していたが, 1880 -81(明治13 - 14)年のメルボルン万博では紅茶が実際

に出品され,坂日]が最有望の輸出品として重視するところとなった.しか

しながら現実は,すでに進出していた中国茶および合頭著しいインド紅茶

と競合しなければならないという厳しい状況にあった.しかも,世界市場

へ参入間もない日本の貿易は,輸出入ともほとんどすべて外商の支配下に

置かれていた.外商への委託販売は,日本茶の世界市場進出の手っ取り早

い方法ではあったが,坂田が警戒したように,他国産品や粗悪品を混入さ

れる恐れがあったI)

 ところが, 1882(明治15)年に実際に,秋圧l商会が日本から輸入した緑

茶に,他の物質を混じた不良品が発見されたのである,この事件は世界に

おける日本茶の名声を著しく傷つけ,その後オーストラリアで日本茶はほ

とんど売れなくなってしまった.また,アメリカでも偽茶・粗悪茶が問題

視され, 1883(明治16)年3月にアメリカ議会で「贋茶輸入禁止条例」が

審議にかけられ,同年9月に可決・公布されるに至った2)さらに,オー

ストラリアでの紅茶販売促進のために,明治14 (1881)年に高知,熊本,

福岡の紅茶会社を合併して設立された横浜紅茶商会は,当初は紅茶15万

斤をメルボルンに輸出したものの,その後はインド紅茶との競争激化とこ

の不正茶事件の余波を受けて失敗に終わり,明治15 (1882)年に解散を余

儀なくされた3)

1)前節の3を参照されたい.

2)日本茶輸出百年史編纂委員会編『日本茶輸出百年史』日本茶輸出組合,昭

 和34 (1959)年, 70-71ページ.この条例はとくにEl本茶を対象として発布

 されたものではないが,結果的に,日本茶に対する厳格な取締りを招来する

 こととなった.当時アメリカでは,日本茶とともに中国茶も輸入されていた

 が,中国茶はほとんど着色茶であったから,取締りの網を逃れてしまう率が

 高かった.

3)前掲書,516ページ,および角山栄『茶の世界史一緑茶の文化と紅茶の

 社会-』中央公論社,昭Id 55(1980)年, 136-38ページ.

                -30 -

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

 この不正茶事件が外商の手によるものか否かは不明である川則港後まだ

間もなく,前近代的生産段階にあった日本茶に海外から大量かつ急激な需

要が到来し,袖出華やかなりレリ|治初期の1872 (明治5)年3月に早くも,

日本の偽茶・粗悪茶が海外市場で物議をかもしたが,これを捨ておいては

日本茶の声価を傷つけるとの恐れから,静岡県庁は茶業者に対して,日本

最初の製茶取締りと思われる諭達を,同年3月27日付で発していた.

1880(明治13)年以降も静岡県令の取締り通達が茶業者に対して繰り返し

発せられ,民間でも静岡県の茶業者を中心に粗悪茶撲滅の動きが起こり,

明治17 (1884)年の茶業組合結成となった1)当時の日本の製茶業界は,

海外需要急増下の粗製濫造と長い鎖国後の貿易モラルの未習熟から,この

ような政府諭告が必要な状況にあったのは事実である.しかしながらその

一方で,日本の茶商が高品質の緑茶の海外販売を外商に委託すれば,輸出

前に不純物を混入することはきわめて容易であったことも確かである.日

本の貿易が外商支配下にある限り,事件再発の恐れは消滅しえないという

のが,当時の偽らざる状況であったのである.

 3 その後のオーストラリアの博覧会への参加状況

 O)二.つの非公式参加

 1880 -81 年のメルボルン万|専への公式参加の後,日本は二つのオース

トラリア博覧会に参加した.一一つは, 1881 (明治14)年のアデレード博覧

会である. 1881年7月21日から9月24日までアデレード芸術・産業全

国博覧会(Adelaide Exhibition of the ΛΓtsand Industries of allNations)が

開かれ,会期中の入場者は27万6千人を超えた.これは,当時の南オー

ストラリア植民地の人口を1:万3千人下目]るものであった2)

1)前掲書,68-70ページ,および寺本益英編『日本茶業史続篇』(日本茶業

 史資料集成・第2冊).文生書院,平成15(2003)年, 3ページ。

2 )Kornicki, op.cit.,pp.43 and 44.

              一一31……-

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

 日本の会場では,メルボルンやロンドンや東京を拠点とする代理店や骨

とう品商が日本からの骨とう品等を展示したが,日本人による出品はなく,

日本の行政官の出席もなかった.最大の出品者は,東京のF. A.シングル

トン(Singleton)であったI)日本の展示場も含めて全体の出品物は,従

来に比べて商業的意図がより明確であった.日本の出品物ももちろん販売

用であったが,地元紙の報道は好意的であった.たとえば,『オブザー

バー』紙は,「日本の会場は陶磁器,漆器,銅製品の美しく古風な見本

の連続であったが,空白を埋める以上のものかおり,倦むことなき

(inexhaustible)ように思われた帽と賞賛した.

 その後,オーストラリア植民100周年を記念する博覧会のシドニーでの

開催がニューサウスウェールズの議会に提起されたが,政府の取り上げる

ところとはならなかった.しかし,植民地の産業進歩の成果を示す「万国

博覧会」はぜひ必要であるとの多くの指導的オーストラリア人の感情から,

その計画はビクトリア政府の内閣の取り上げるところとなり,1888 (明治

21)年8月1日から1889 (明治22)年2月2日の開,メルボルンで第2回

目の万国博覧会が開催された.会期中の入場者は195万人を超え,現在で

もオーストラリアの博覧会の記録となっている3)

 日本はこれにも非公式に参加したが,出品は以前に比してはるかに控え

目な規模であった.アデレードと同様に,在日本のヨーロッパの輸出代理

店やメルボルンの日本商人が出品し,日本の骨とう品がその大宗を占めた.

それ以外の唯一の出品物は,日本政府が出品した測量地図であったパ司万

博の『公式記録』によれば,「日本会場の骨とう品は一一瞥の対象となった

にすぎず,日本の出品はなお人気はあるものの,サプライズを起こす力を

1)

2)

3

H)id。p,44。

Addd面Observer,27Λugust 1881,p. 32、in ibid。p. 45.

)Ibid.,p. 46.

― 32

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

失った」とされており,さらに「このメルボルン万博への日本の参加は,

海外市場の好みに詳しい西欧人の手中にある骨とう品貿易の商業主義の産

物(a product of the commercialisationof the curio trade)であって,経済

関係発展への関心ははるかに低いものであった」と評されている1)

 メルボルンの日本の委員会から,オーストラリアとの関係緊密化を力説

した長文の報告書は,万博への参加ではあったが,今回は出なかった.

 (2)オーストラリア博覧会への参加熱の低下

 こうしたことからコーニッ牛は, 1870年代および1880年代初期の日豪

双方における日豪貿易関係強化の熱狂にもかかわらず,その機会は逸せら

れてしまったと論評している2)たしかに,当時の明治政府の関心は,

1889年に迫ったパリ万博に向いていたと思われ,このメルボルン万博へ

の非公式参加以後,明治政府がオーストラリアの博覧会に参加することは

なくなったが,その一方で,パ川専を始め1900年代の欧米諸国の万国博

覧会には参加を継続した.

 当時は日本でもオーストラリアでも,外交上および経済的優先性は欧米

に強く固定されていたし,日本でオーストラリアを重要な貿易相手とする

信念は政策形成上ほんの短期的影響しか持たず,橋本や坂田のような比較

的下位の官僚に熱心に支持されたにすぎないとコーニッ牛は評している3)

たしかに,明治政府のオーストラリア博への参加熱は大幅に低調となった.

しかしながら,コーニッ牛の見方はあまりにも皮相的に過ぎ,実際には,

次章以下で論じる日豪羊毛貿易の発展や真珠貝採取および砂糖きび農場労

働に従事する日本人契約労働者の陸続を前に,オーストラリアとの通商拡

大および関係強化への明治政府の関心は, 1980年代を通して高く維持さ

1 ) Official Recoi'd of the Centennia□'nlei'nationalExhibition, Melbourne,

 1888-1889 (Melbourne, 1890), pp. 128,479 - 81,in ibid.

2 )Ibid。pp. 46 -47.

3 )I)iにp. 47.

-33 -

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

れたのである.そして,オーストラリア側でも1870年代の日本人移民招

致計画をはじめとして,対剛同心は依然として高かったことが明らかであ

る.

V お わ り に

 以上にみたオーストラリアの博覧会への日本の参加・出品の積み重ねを,

日豪関係とくに日豪経済関係という観点から回顧,吟味してみると,いく

つかの重要な政策問題を提起していることが注目される.重要なものとし

て,つぎを指摘することができる.

 第1に,すべての↑専覧会で出品物の大宗を成してきた陶磁器,漆器,銅

器,七宝焼き等の骨とう品類は,オーストラリアにおける需要からみても,

日本における生産面からみても,量的増大を期待しうる輸出品ではなかっ

た.この点はコーニッ牛も,「1870年代から1890年代の間にオーストラ

リアで創造された日本のイメージは,重要な貿易関係についての思索を鼓

舞するものではなく,少なくとも日本からの輸入品についてはそうであっ

た1)」と適切に述べている.実際,骨とう品のごとき美しい装飾的小物は,

製造業製品のような生産と消費の両面において量的拡大を誘発,可能とす

る種類のものではなかった.しかしながら,それはオーストラリアにおけ

る対日関心の喚起と大衆間の対日理解の促進に大きく貢献することを通し

て,日豪貿易の萌芽を育成し,両国経済関係の形成・発展の先兵としての

役割を果たしたことは疑いない.

 第2に,博覧会への参加は単に日本の特産品の展示にとどまるのでなく,

日豪貿易関係の形成,とくに日本の輸出市場開拓への志向性を堅持してお

り,重要な政策提言の開陳に導いた.最初の橋本の報告書におけるオース

1)Ibid.

34

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19世紀後半におけるオーストラリアの博覧会への日本の参加

トラリア羊毛の輸入とそれによる日本羊毛工業の振興という政策提案は,

残念ながら明治政府の直ちに採択・実行するところとはならなかったが,

その後の現実は彼の提言通りに進行し,日豪貿易の主柱の形成と両国経済

の発展に導いたのである(第2章で詳述する).ついで坂田の報告書で重視

された日本産紅茶の輸出は,不良品混入事件という障害もあって挫折して

しまったが,それを通して外商支配下の日本貿易の弱点を暴露し,外商支

配の排除,内商による直輸出入の実現を喫緊の要事とするという教訓を残

したにれも第2章で詳述する).

 第3に,オーストラリアの博覧会への日本の参加は,それまで相互に未

知であった両国および両国民間に,相手方への大きな関tヽを喚起し,相互

理解の促進を図るうえできわめて有効に作用した.いわば,日豪関係一般

の形成と発展に大きく貢献した.その結果,オーストラリアへの真珠貝採

取や砂糖きび農場労働に従事する契約労働者を誘発するという役割を果た

すこととなった(第3章で詳述).これはまた,両国間の外交関係の緊密化

をもたらしたのである.

 このように,オーストラリアの博覧会への日本の参加は,単なる出品物

の展示の域を超えて,日豪経済関係そして日豪関係全般を創成し,発展に

導くというきわめて重要な役割を果たしたのである.

〔付記〕

 本稿執筆のための資料収集において,東京大学の谷内達教授,福島大学の村

上雄一助教授のお世話になった.記して謝意を表したい.

一一35-

(2006年1月8日受理)