コミュニケーション・メディア史2017 04

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コミュニケーション・メディア史④ ラジオ—商業主義と国策と

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コミュニケーション・メディア史④

ラジオ—商業主義と国策と

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メディアイベントメディアがあらかじめ準備し,宣伝し,視聴者に事前に働きかけをおこなったうえで生中継されるイベント(=メディアによるイベント)ただし,開催者はメディアだけでなく,別の機関・国家・国際機関など電波媒体で実施される場合,視聴者の日常は“中断”され非日常化する

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メディアイベントの物語形式競技型(フェアネス)– スポーツ,テレビ討論,紅白歌合戦制覇型(カリスマ)– 英雄が「人類にとっての一大飛躍」を達成– アポロ11号月面着陸戴冠型(伝統)– 王室の冠葬葬祭,凱旋パレード

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メディアイベントの役割混乱からの回復,新秩序の形成,成功などを「祝う」ためのイベント– 事件・事故のニュースは秩序の崩壊・危機の

しらせ視聴行為を通じてイベントに「参加」した視聴者は「全体を見渡せる特権的立場」を得られる– 「現場に居合わせた人には味わえない」経験

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メディアイベントの効果社会的紐帯関係を再認識させ,再生される契機となりうる– イベントへの「参加」を契機とした人的つな

がりの再生ただし「社会的権威」の再活性化を可能にし,国家のための強力なイデオロギー装置となる危険も秘めている

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メディアイベントとしてのラジオ体操

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ラジオ体操かつては夏休みに,自治会主催のラジオ体操の会に「毎日定時に参加する義務」(→『おもひでぽろぽろ』)最近は夏休み期間中に5~6日程度「子どもの義務」ではなく任意参加ラジオ体操への取り組みの変遷に,日本の社会(地域社会)の変化が窺える工業社会→情報社会?

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ラジオ体操の歌現在の第一は3代目(1951.5.6~)「ラジオ体操の歌」も3代目(1956.3~)

(藤浦洸:作詞,藤山一郎:作曲)

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創始1928(昭和3)年11月1日御大礼(天皇即位式)記念正式名は「國民保健躰操」

7:00開始逓信省簡易保険局と日本

放送協会の共同事業では…考案者は?

放送する江⽊理⼀

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クイズ日本の「ラジオ体操」の原型となった音楽と体操を考案したのは誰?

① チェコスロバキアの「放送体操」

② 日本陸軍軍令部と軍楽部③ アメリカの生命保険会社④ 東京女子高等師範学校教授

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正解は③

メトロポリタン社が「Setting Up Exercises」を1927年に放送開始日本生命保険会社協会も参画時間が短くて身体機能増進に合理的労少なくして効果が大きい毎日定時にラジオ体操をすることで,近代的生産様式のリズムが会得できる

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ラジオの歴史

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マルコーニのラジオ1895年,無線通信の基本技術複雑に入り組む技術特許が実用

化のネックに。アメリカ海軍の仲介で,米ゼネラル・エレクトリック社が英マルコーニ社を買収。1919年,国策会社「アメリカ・ラジオ会社」が設立

送信機

受信機

RCA=Radio Co. of America

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三六式無線機日本は軍事目的で無線電話技術を開発し,明治36(1904)年に「三六式無線機」を実用化。日本海海戦で信濃丸が発信した「敵艦見ユ」は世界初の実戦利用

三笠丸の三六式無線機

開発者・松代松之介

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ラジオ放送の実用化(米国)1920年代,教育機関,新聞社,自治体,宗教団体などが576局のラジオ局を設立(担い手は第一次大戦中の通信兵)1920年11月2日(*),ピッツバーグでKDKA局(ウェスティングハウス社:WH)が開局。百貨店でWHのラジオ受信機を購入した顧客向けのサービスとしての放送

*―ハーディングが当選した大統領選挙の開票日

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放送の分離スピーカー付き炉辺型受信機

(RCAビクター)を大量拡販1924年,AT&Tが大陸横断チェーン・システムを形成。1926年,RCAがNBCを設立。AT&Tは接続電話回線利用を条件に全資産をNBCに売却。映画会社(RKO),蓄音機/受信機製造(ビクター)を傘下に収めるコングロマリットに

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1927年ラジオ法ラジオ放送=パブリック・サービスと認定し,被免許者に周波数の独占的使用を認める(混信対策),ラジオ法が成立電波行政の主体として,連邦無線委員会(FRC,34年にFCCへ)が設立NBCに対抗する独立ラジオ局も出現した。1928年にタバコ成金・ウィリアム=ペイリーが買収しCBSに(コロムビア・レコード)

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炉辺談話Fireside Chat。

1933年3月12日・日曜夕方に,フランクリン=ルーズヴェルト大統領がホワイトハウスから生放送(1期目に計8回)カトリック神父,チャールズ=コグリンがラジオ説法を通じて,「社会正義のための全国連合」を組織し,会員は36年に925万人に達する

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公共放送(英・独)1922年,BBCが単一民間事業者による免許放送方式により,実用化。27年にイギリス放送協会として,国益の受託者たる公共放送事業体に改組ドイツは「私的資本による公的地方分権放送」体制に。1923年,ベルリン・ラジオシュトゥンデ㈱を皮切りに,全独9社による放送体制(RRG)がスタート

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放送の公共性BBCの理念:①公共サービスの担保,②財源の安定(受信料),③道徳的義務感(娯楽よりも教養・報道を重視),④国民統合の手段RRGの理念:言論の自由を担保するため,運営に対する議会の監視や介入を回避。各州政府に監督機関,文化評議会・政治監督委員会の委員任命権を付与

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日本のラジオ放送

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宮崎駿監督『風立ちぬ』(2013)における,

関東大震災の描写

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日本のラジオ放送1915年無線通信法。「無線電信及ビ無線電話ハ政府之ヲ管掌ス」

関東大震災の流言蜚語や混乱状況を目の当たりにし,1923年12月「放送用私設無線電話規則」が公布放送内容の事前提出(検閲),受信機の検定を条件に,免許制による民間放送に道を開く

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公益社団法人新聞社など多数の出願を一本化調整し,東京放送局(JOAK),大阪(BK),名古屋(CK)の三つの公益社団法人(1924年)1925年3月22日(*),AKが放送開始①文化の機会均等,②家庭生活の革新,③教育の社会化,④経済機能の敏活ニュース報道は各新聞社の輪番制に

*―普通選挙法成立の四日前

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朝令暮改1925年8月,3社が合併し,社団法人日本放送協会(NHK)が成立。28年に札幌,熊本,仙台,広島に新局が設立され,同11月の昭和天皇「即位の大礼」を機に全国中継システムを確立報道・教養講演が70%で,音楽は10%というイギリス式の放送内容を展開(米独では比率が逆)

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ラジオの転機:1927~28アメリカ…連邦ラジオ委員会(FRC)誕生(ラジオ法)イギリス…BBCが国王特許状による公社形態に移行ドイツ…ドイツ放送会社(RRG)による地方局の統括日本…NHKによる全国ネットワーク化総力戦に向けた,国民統合の手段としてラジオを位置付ける

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ラジオ体操その後

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国家規模の文化を創出ラジオは階層や知的水準を問わない,フローなメディア(蓄積・記録が不能)受信機から流れる音を“ながら聴取”できるので,時間を奪わない一瞬にして全国津々浦々を単一の情報で塗りつぶすことが可能理性というより感情(情緒)を刺激するホットなメディア(マクルーハン)

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ラジオの意義公共圏の解体=情報へのアクセスと物理的場所の伝統的関係の破壊→家庭に居ながらにして情報にアクセス大衆社会の出現=知識量による序列化から解放。最初から(広告)宣伝媒体伝統的権威による支配の終焉=逆に,内省の機会を減少モノクロニック社会の実現

モノクロニック=(単一)時間厳守型。対語はポリクロニック

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時間・空間の操作「(近代の)モノクロニックな時間は,人間固有のリズムや創造的な活動の中に内在するものでもないし,自然の中に実在するものでもない。組織,とくに企業や官僚制度は人間を組織に従属させるが,それはおもに時間・空間体系を操作することによって成し遂げられる」

エドワード・ホール『文化を超えて』

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社会教化運動論「ラジオによる時間の告知により,ややもすれば時間不確守の悪弊を脱しづらい我が国民の短所を是正することが可能になる。ラジオは国民の生活時間の管理者になるとは過言ではない」(下村寿一)ラジオ体操に始まる,規則正しい生活を植え付ける

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思想善導「ラジオ体操は,時間・設備・経費・訓練を要さずとも,老若男女,いかなる階級をも問わず,①広く,②正しく,③絶えず行いうる―という体育振興の基礎として重要性を持つ」(北豊吉・文部省体育研究所長の論文(1928)「体育運動と思想問題」)

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体育振興「極端なる思想の持ち主の多くは,身体に何らかの欠陥を有する者だったという事実」

「合理的な体育運動を国民の間に徹底せしめ,もって不健康なる身体の所有者を減少させることは,同時に不健全な思想の所有者を減少せしめる一方策ともなりうる」(北豊吉,前掲論文)

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日本における「体操」

集団のもの,屋外で実施されるもの号令のもと,一糸乱れずに動くもの整列して,前を向き,立った姿勢で行うもの個々の身体の鍛錬と同時に,集団の規律を内面化する行為であり“場”ラジオ体操はそこに,“早起き”“地域社会”という付加がある

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ラジオ体操の会1930(昭和5)年の夏休みに,全国各地で「ラジオ体操の会」が始まる在郷軍人会,青年団などが中心ラジオ体操には「民族精神・国家観念の涵養に至大の効果」があり,「我が国民の古来からの美風である隣保共助の精神,協同一致の精神を発揮するにも多大な効果がある」

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ラジオ体操の会 式次第国旗掲揚宮城遙拝「君が代」斉唱体操「愛国行進曲」斉唱個々の身体と国家との連続性・一体感を高める演出

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『お山の杉の子』

四 ラジオ体操 一二三子どもは元気で 伸びてゆく昔々の 禿山は 禿山は今では立派な 杉山だ誉れの家の 子のように強く 大きく 逞ましく椎の木見おろす 大杉だ 大杉だ

文部省唱歌(サトウハチロー詞,1945)

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ファシズムの象徴?太平洋戦争後,GHQ(連合軍司令部)はラジオ体操を「軍国主義およびファシズムの象徴」との嫌疑をかけ,1947年にラジオ体操はいったん中断されるしかし,講和直前の1951年5月から,現行のラジオ体操が再開。ラジオ体操の会も復活し,全国ラジオ体操連盟も創設される(1962年)

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甲子園

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メディアイベントの典型朝日新聞社が主催する「全国中等学校優勝野球大会」―1915(大正4)年・豊中球場で開始。3回から鳴尾球場1924(大正13)年から甲子園球場1925(大正14)年8月13日~,本放送開始直後のNHKがラジオ実況放送を開始

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メディア側の狙い一高・三高戦,東京六大学(早慶戦)など対抗戦はあるが,人気が地域的に偏在し,年に数試合しか開催されない「朝日新聞」は東京を足がかりに全国展開を模索。NHKも全国ネットワークの早期完成が目標全国から予選を勝ち抜き甲子園へという競技型/戴冠型の物語形式

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人口の流動性

大正末期から農村から都市への人口の流動が加速していた。東京・大阪などは地方からの流入者が混住する街都会の「まつり」には馴染めない(「東京音頭」が1932年にできた)社会的紐帯を維持するため,新たな「まつり」を創設する必要性「甲子園」は格好の素材だった

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「野球と其害毒」

「朝日新聞」が1904年に展開したキャンペーン– 学生の大切な時間を浪費せしめる– 疲労の結果,勉学を怠る– 慰労会等の名目の下に牛肉屋・西洋料理屋などへ上がって堕落の方向に近づいていく

– 体育としても野球は不完全なもの

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害悪論の反動その「朝日新聞」が中学生の野球大会を主催するわけだから,「球児は害悪に染まらない精神力を備えた,野球によって陶冶された人格者であること」を,ことさらに強調する結果になった「球児=ピュアな存在」という祭り上げ方は,甲子園という祭礼で,球児が一種の生贄として機能していることを意味

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敢闘精神1933(昭和8)年,中

京商―明石中戦は延長25回で決着 “伝説の大投手”嶋清一(和歌山・海草中)。1939(昭和14)年,全5試合完封,準決勝・決勝を連続ノーヒッターという偉業を達成。剛速球と懸河のドロップ。明治大進学後,学徒動員で応召し戦死。2008年に野球殿堂特別表彰

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1939年(昭和14年)、第25回全国中等学校優勝野球大会で海草中学(和歌山)の嶋清一投手は全5試合を完封、準決勝・決勝で2試合連続ノーヒットノーランで優勝。嶋は星飛雄馬のモデルとも言われる。嶋はプロに入らず応召し戦死した。

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神州不滅の横綱・双葉山昭和11~14年1月場所3日目に69連勝の不滅の記録を達成“負けない横綱”“神格的存在”として,神州不滅(日本は負けない)の象徴として祀り上げられた

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