長崎医科大学附属図書館における原爆被害
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昭和20年 8⽉9⽉
10⽉
医科⼤学本部を⻑崎商⼯会議所(桜町)に移転。医科⼤学本部を⻑崎経済専⾨学校(⽚淵町)へ移転医科⼤学本部を新興善国⺠学校(興善町)へ移転。
昭和21年 6⽉⼤学本部、附属医院、基礎医学教室、附属図書館を旧佐世保海軍病院諌早分院(諫早市永昌町)に移転。
昭和23年 浦上の旧附属医院外来本館に基礎医学と附属図書館を移転。昭和28年 4⽉旧医科⼤学図書館書庫2棟を改修、医学部分館として使⽤。
主要参考⽂献●Survey, U. S. S. B., ⻑崎市, バイリンガル・グループ. ⽶国戦略爆撃調査報告書. ⻑崎国際⽂化会館, 1996 ●原爆復興50周年記念⻑崎医科⼤学原爆記録集. 1996 ●⻘⽊義勇, ⻑⼤医学部所蔵の⽊製古聴診器と紙製⼈体解剖模型, ⻑崎談叢, 64(別冊), 1981, p16-28
(Survey, U. S. S. B., ⻑崎市, バイリンガル・グループ. ⽶国戦略爆撃調査報告書. ⻑崎国際⽂化会
館. 1996. p.204より写真115)
⻑崎医科⼤学附属図書館における原爆被害⻑崎⼤学附属図書館 松村悠⼦
昭和20年8月10日の夕方、6時過ぎ頃であったと思う。(前略)すっかり焼け落ちた中で、唯一つ白壁の図書館の書庫が焼け残っていた。ふと中を覗いてみると、静寂の中で本が書架に並んだまま、真赤な焔をあげて焼けていた。それが夕闇と白い壁に映えて、異様な生きものの様であった。焼けて灰に化した本の列が、その姿のまま並んでおり、本の背文字が読めるくらいであった。それが時折り一陣の風に吹かれると、まるで魂でもあるかの様に、あたり一面に舞上った。それは何か幻想的な悲しい光景であった。(後略)
(⼭⼝絅⼦, ⽣⽥照⼆. 追憶. 忘れな草 7号. 1985)
60A(⼿前右側)北側書庫。旧書庫。1・2階の資料は焼失。
61(⼿前左側)南側書庫。昭和10年10年に渡り廊下とともに新築されたもの。1階のみ全焼。2階部分は⽕災を免れた。
司書の遺族による⼿記
その後の流転
沿⾰ ⼤正12(1923)年,⻑崎医学専⾨学校が⻑崎医科⼤学に昇格し、⻑崎
医科⼤学附属図書館規程が認可 ⼤正15(1926)年,附属図書館の新築落成。 昭和2(1927)年,に官⽴医科⼤学附属図書館協議会(現:⽇本医学
図書館協会)が発⾜。
蔵書・職員数 蔵書数 77,640冊(図書・雑誌の区別なし) 坪数 156.5坪 座席数 40席 職員数 7名(館⻑を除く)(医科⼤学附属図書館統計 第12次(昭和16年4⽉〜17年3⽉)より)
終戦直前の資料疎開昭和20年5⽉,約5,000点の資料を佐賀県⿅島市に疎開した。この
5,000点の中には,⽇本初の⻄洋式外科書と⾔われる『紅夷外科宗伝』など貴重資料130点が含まれていた。
戦前の⻑医⼤図書館
図書館書庫の被害
南側書庫(建築物番号61)の1階部分。スチール製と⾒られる書架の枠は残っているものの、棚板は全て落ちており、床に資料の残骸が⾒える。
(⽶国戦略爆撃調査団 撮影, (公財)平和推進協会 写真資料調査部会 提供)
建築物番号 ⽤途 爆⼼地 構造種別
耐⽕分類
損傷の程度、爆⾵と⽕災、建築物
表層的 構造的 ⽕災内容物
60A記録保管室
Record Vault
約0.5km鉄筋コンクリート(E2)
R軽度 なし 全壊
61記録保管室
Record Vault
約0.5km鉄筋コンクリート(E2)
R軽度 なし 重度
E2:フレーム構造⾼層建築物、R:耐⽕性
⻑崎医科⼤学基礎キャンパスには76棟の建物があったが、ほとんどが⽊造であったため、甚⼤な被害を受けた。残った建物7棟のうち、2棟が図書館書庫である(建築物番号60A,61)。書庫は共に爆⼼地から約0.5kmに位置していた。図書館の閲覧室・事務室(⼤講堂内部)は全焼した。
⽶国戦略爆撃調査報告書による書庫の損傷状況
蔵書数の推移
「医科⼤学附属図書館統計」蔵書合計より。教室所蔵・製本雑誌含む。
77460
31839 4075058901 63711 77028 83270
0
20000
40000
60000
80000
100000
昭16 昭25 昭27 昭31 昭33 昭38 昭39
旧書庫へ復帰
原爆投下
基礎棟2階へ