松本央 美術史における自画像の変遷と自分の作品についての考察

3
美術史における自画像の変遷と自分の作品についての考察 松本央 自画像(self-portrait)は、作者自らを対象とした肖像であり、人物を扱うことから肖 像画(portrait)の一種と考えられている。普通は油彩画やドローイング、似顔絵などの 絵画の形式であることが多いが、中には自らを刻んだ彫刻、自らを写した写真など他の手 法が使われることもある。 上に記した文章が一般的に自画像の定義とされている。さて、美術の長い歴史において、 自画像なるものが描かれだしたのは一体いつごろからだろうか。 PHAIDON から出版されている「500の自画像」によると、最も古い自画像とされている のは二=アンク=プタッハ(生没年不詳)が紀元前2350年ごろエジプトのサッカーラ にて高官プタハ=ホテップの墓の石灰石の壁に浮き彫り状に描かれた《船に乗る自画像》 であるといわれている。この作品では画面両端でエジプト人の水夫たちがボート漕いでい るその船の真ん中で酒を楽しむ自己の姿を描いた。この作品が現在で一番古い自画像であ るとされている。そして、当然これを描いた二=アンク=プタッハは史上最古の自画像画 家ということになる。 しかし、この作品は我々が親しんでいる自画像の概念からずいぶんと離れている。その 原因は、作者自身の顔が他者である水夫たちの顔とはっきりと違いが判別できないことに ある。現在多くの人が共有している自画像のイメージとは、ゴッホやレンブラントに代表 される画家本人の内面を描き出したものであろう。 それに比べるとこのエジプトの最古の自画像は何か行事を行う集団の中に自分も紛れて いるように見える。いわば、記念写真のような作品である。つまり、我々の抱いている画 家の内面を描いた自画像ではない。これが違和感の原因だと考えられる。だが、実は美術 の歴史の中では、そのような画家の内面を描いた自画像だけが初めから存在していたので はない。徐々に長い歴史の中でその様式を変化させ、現在の我々の抱いている自画像のイ メージへとたどりついた。これから少しその歴史を振り返ってみる。 これまで美術の歴史の中で数多くの自画像が制作されてきた。それこそ画家の数ほどあ るといってもいいぐらいなのだが、それら自画像の中でも大きく分けて三つのジャンルに 振り分けることができる。 一つ目は歴史画や宗教画などの主題に関係した人物たちの中に、画家自身の肖像も隠れ ているもので「参列者型自画像」といわれている。家族や集団の肖像の中に画家自身も参 加している集団肖像画もここに含まれる。このタイプの自画像が最も古いタイプの自画像 の様式であり、ルネサンス以前の初期の西洋美術に見られる自画像は殆んどこのタイプで

Upload: combine

Post on 02-Dec-2015

451 views

Category:

Documents


0 download

DESCRIPTION

http://www.combine-art.com〒600-8033京都府京都市下京区寺町通仏光寺下る恵美須之町521番地 4FTEL.075-585-8660 FAX.075-585-6510

TRANSCRIPT

Page 1: 松本央 美術史における自画像の変遷と自分の作品についての考察

美術史における自画像の変遷と自分の作品についての考察

松本央

自画像(self-portrait)は、作者自らを対象とした肖像であり、人物を扱うことから肖

像画(portrait)の一種と考えられている。普通は油彩画やドローイング、似顔絵などの

絵画の形式であることが多いが、中には自らを刻んだ彫刻、自らを写した写真など他の手

法が使われることもある。

上に記した文章が一般的に自画像の定義とされている。さて、美術の長い歴史において、

自画像なるものが描かれだしたのは一体いつごろからだろうか。

PHAIDON から出版されている「500の自画像」によると、最も古い自画像とされている

のは二=アンク=プタッハ(生没年不詳)が紀元前2350年ごろエジプトのサッカーラ

にて高官プタハ=ホテップの墓の石灰石の壁に浮き彫り状に描かれた《船に乗る自画像》

であるといわれている。この作品では画面両端でエジプト人の水夫たちがボート漕いでい

るその船の真ん中で酒を楽しむ自己の姿を描いた。この作品が現在で一番古い自画像であ

るとされている。そして、当然これを描いた二=アンク=プタッハは史上最古の自画像画

家ということになる。

しかし、この作品は我々が親しんでいる自画像の概念からずいぶんと離れている。その

原因は、作者自身の顔が他者である水夫たちの顔とはっきりと違いが判別できないことに

ある。現在多くの人が共有している自画像のイメージとは、ゴッホやレンブラントに代表

される画家本人の内面を描き出したものであろう。

それに比べるとこのエジプトの最古の自画像は何か行事を行う集団の中に自分も紛れて

いるように見える。いわば、記念写真のような作品である。つまり、我々の抱いている画

家の内面を描いた自画像ではない。これが違和感の原因だと考えられる。だが、実は美術

の歴史の中では、そのような画家の内面を描いた自画像だけが初めから存在していたので

はない。徐々に長い歴史の中でその様式を変化させ、現在の我々の抱いている自画像のイ

メージへとたどりついた。これから少しその歴史を振り返ってみる。

これまで美術の歴史の中で数多くの自画像が制作されてきた。それこそ画家の数ほどあ

るといってもいいぐらいなのだが、それら自画像の中でも大きく分けて三つのジャンルに

振り分けることができる。

一つ目は歴史画や宗教画などの主題に関係した人物たちの中に、画家自身の肖像も隠れ

ているもので「参列者型自画像」といわれている。家族や集団の肖像の中に画家自身も参

加している集団肖像画もここに含まれる。このタイプの自画像が最も古いタイプの自画像

の様式であり、ルネサンス以前の初期の西洋美術に見られる自画像は殆んどこのタイプで

Page 2: 松本央 美術史における自画像の変遷と自分の作品についての考察

あり、また先ほどのエジプトの自画像もこの「参列者型自画像」に入ると思われる。西洋

でルネサンス以前にこのような作品が多く見られるというのは、歴史的背景も関係してい

る。中世ではキリスト教の教会の力が強く、画家の描くものといえば宗教画であり、そこ

に個人の創作の自由は認められていなかったということが大きいと考えられる。

どちらかといえば、このタイプの自画像は自分を描くというよりは他の主題を描くのが

目的であり、作者の自らに対しての意識、例えば見るもの見られるものといった意識は希

薄であり、殆んど制作者としてのサイン代わりに自分を登場させている作品も多い。

二つ目は「権威型・象徴型自画像」と呼ばれるもので画家自身が歴史的英雄や宗教的人

物に扮した変装自画像の一種である。おそらくこれが「参列者型自画像」の次に美術史上

に現れた様式である。人物モデルとして画中に自らの姿を登場させる点では、先ほどの「参

列者型自画像」となんら変わることはない。

では、異なっている点はどこか。それはこの「権威・象徴型自画像」というのは、ほぼ

単独から数人で描かれていることであり、例え多くの人物と描かれることがあったとして

も、その画中に描かれた画家自らの容姿をした人物の役割が、非常に大きく絵の主題や内

容と直接的に結びついていることが指摘できる。

例えば、ロヒール・ファン・デル・メイデン(1399-1464 年)の《聖母子をデッサンする

聖ルカ》などは、絵を描いている自らの姿を描いているにも関わらずわざわざ聖ルカに扮

して画中に登場させている。

また、聖人のほかにも歴史的な英雄などのイメージに自らを重ねて描かれることも多い。

1500 年に描かれたアルブレヒト・デューラー(1471-1528 年)の《自画像》は自らの姿を

キリストの姿と重ねている、といわれている。

いずれにせよ画中に占める、自らの姿の割合が多くなってくるということは間違いない。

ちなみに現代の作家である森村泰昌やシンディー・シャーマンが用いている方法もこの

権威・象徴型自画像の一種であると考えていいだろう。

三つ目は「独立型」と呼ばれるもので、作者が変装したりすることなく描かれているも

の。その殆んどの場合が単独像である。まさに作者の肖像といえるもので現在多くの人が

自画像画家として認知しているゴッホもこのタイプである。もっとも我々に親しみのある

様式といってもいいだろう。この独立型が時代的には最も新しい様式である。この様式が

確立され始めたのはルネサンスのあたりで、デューラーが初めて画家としての姿を絵にし

たといわれているが、実際はもっと古くから画家の単独像というのは描かれていたようで

ある。しかし、それらは多くの場合が人物デッサンのための習作や、単に記念碑としての

彫刻の域を出るものではなかった。

ルネサンスという時代の流れで、これまでキリスト教の権威の中抑圧されていた人間本

来の素晴らしさが見直されたことも、この様式が成立する上で大きかったと考えられる。

Page 3: 松本央 美術史における自画像の変遷と自分の作品についての考察

この「独立型自画像」は画家が自らを見つめ描くという意味において典型的な様式であ

り、最もその本質に迫れるものであるように私は思う。

以降、現代に至るまで芸術家たちは紹介した様々な様式をもちいて自画像を描き、作り

続けていく。そして自己のイメージを用い表現する作家はここ最近ますます多くなってき

ている。かくいう私もその一人であるが、そこにはやはり個人の権利がますます自由にな

り、また情報が氾濫して何を選択していいのかわからないといったような、ある種のこの

時代特有の空気みたいなものを感じ取りシンパシーを起こしているのかもしれない。

ルネサンス以前から西洋では個人の権利をいかに獲得するかということが問題となって

争われてきた。それは第二次世界大戦ぐらいまでは続いていたかもしれない。そして先進

国の間では民主化が進み我々は様々な自由を手にした。そして最近のインターネットによ

る、情報を手にすることの自由を得た我々は、これまでもっていた個人の権利の獲得とい

うモチベーションの方向を見失い迷走を始めているように感じる。 それまで縛られていたものから自由になるということはすべて自分で保障しなければな

らなくなるということである。極端な言い方をすれば弱肉強食の野性の世界に戻るという

ことに等しい。力を持つものだけが繁栄し、他を切り捨てるという野蛮な懐古主義が我々

の求めていたものであったのか、今一度問い直すべきであり、もう一度自らの足で自らの

道を作り、その道を歩み直すべきである。そして新しい人間の生き方を未来にむかって提

示することこそが今の我々に求められていることではないだろうか。 そう、自画像の歴史を振り返ることは、人間による、個人の権利獲得の歴史を見ること

でもあったのだ。

参考文献

自画像の美術史 三浦篤 東京大学出版 美術の解剖学講義 森村泰昌 ちくま学芸文庫 画家と自画像 田中英道 講談社学術文庫 500 の自画像 PHAIDON