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平成29年10月3日誤植再訂正 平成29年7月6日付 ホツマツタヱ 超古代史 新年表 ホツマツタヱ研究家 吉田 六雄 Ⅰ、日本の起源年を捜して 林羅山らは古代日本が、1年2倍化暦と知っていた はじめに 少しホツマツタヱから離れて、古代日本を眺める機会に恵まれました。 それは、2017年6月17日に神奈川県大和市の古民具骨董市より始まります。駅の周辺では、 平成10年より毎月第三土曜に早朝より開かれている古民具骨董市。今月も古文献はないか と思い、午前10時頃から露天のお店を回り始めます。何軒か見て歩いた内に、あるお店に心 引かれものがあり、ふと立ち止まると、掛け軸、古本、絵画の展示の一角に、無造作に並べら れた2~3個のダンボールを目にします。そして、ダンボール内の古本を上から一冊ずつ表 紙、中身と見ては元に戻ししている内に、薄い紺色の表紙で、和紙に木版印刷された本が出 てきました。 題名を見ますと「日本王代一覧巻之一」と云う、横181×縦253×厚 10 でB5サイズの大 きさの本でした。また、中身を見ますと、日本書紀の神武天皇~斎明天皇までを記述する本 でしたが、文字は漢文でなく、漢字と片仮名で書かれた文章でした。そのため、最初の印象 は、「まあ、日本書紀を勉強のため、誰かが書き写したものだろう」と軽く考えましたが、 一度、 手にしたものは購入する。これが、古文献を購入する時の私の信念でしたので、店主と軽い 丁々発止の末に、それなりの価格で買い求めることができました。自宅のパソコンで「日本王 代一覧巻之一」を検索して見ますと、この古本の所在が判明しました。驚くことに、江戸時代 前期の林羅山の三男で、後の林鵞峯(がほう)により編集された歴史書であり、慶安5年(16 52年)に成立した全7巻中の1巻とのことでした。また、Web 情報で他にも「日本王代一覧巻 之一」が保有されている画面が紹介されていましたので、沢山の同本が出回っていると思い、 字体を調べますと、木版画で印刷された本でした。恐らく、私の手元にある本は、江戸時代に プリントされ本の中の一冊の古本と思われます。 日本王代一覧巻之一 当「日本王代一覧巻之一」の内容は、前述したように、神武天皇~斎明天皇の各天皇記を 記述したものですが、その内容は日本書紀の内容を、漢字と片仮名で箇条書きにまとめられ たものでした。だが、その中には、天皇記と伴に、異朝(シナ)の王名と御代年代が併記され ておりました。それも、江戸時代前期に編集された「日本王代一覧巻之一」の中に記述されて いるのには驚かされました。そのため、神武天皇~景行天皇記までについてどれだけの異朝 の記述があるかと思い、異朝の記述を抜粋した所、次頁の四編が記述されておりました。

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Page 1: 10indigoseal30.sakura.ne.jp/woshite/nitsupon_oudai_itiran.pdfBC660 に換算 同 天皇在位七十年 御年百二十七 2 四代 懿徳天皇記 此御代元年 異朝ニテ周ノ敬王十年

平成29年10月3日誤植再訂正

平成29年7月6日付

ホツマツタヱ 超古代史 新年表

ホツマツタヱ研究家 吉田 六雄

Ⅰ、日本の起源年を捜して

林羅山らは古代日本が、1年2倍化暦と知っていた

はじめに

少しホツマツタヱから離れて、古代日本を眺める機会に恵まれました。

それは、2017年6月17日に神奈川県大和市の古民具骨董市より始まります。駅の周辺では、

平成10年より毎月第三土曜に早朝より開かれている古民具骨董市。今月も古文献はないか

と思い、午前10時頃から露天のお店を回り始めます。何軒か見て歩いた内に、あるお店に心

引かれものがあり、ふと立ち止まると、掛け軸、古本、絵画の展示の一角に、無造作に並べら

れた2~3個のダンボールを目にします。そして、ダンボール内の古本を上から一冊ずつ表

紙、中身と見ては元に戻ししている内に、薄い紺色の表紙で、和紙に木版印刷された本が出

てきました。

題名を見ますと「日本王代一覧巻之一」と云う、横181×縦253×厚 10 でB5サイズの大

きさの本でした。また、中身を見ますと、日本書紀の神武天皇~斎明天皇までを記述する本

でしたが、文字は漢文でなく、漢字と片仮名で書かれた文章でした。そのため、最初の印象

は、「まあ、日本書紀を勉強のため、誰かが書き写したものだろう」と軽く考えましたが、一度、

手にしたものは購入する。これが、古文献を購入する時の私の信念でしたので、店主と軽い

丁々発止の末に、それなりの価格で買い求めることができました。自宅のパソコンで「日本王

代一覧巻之一」を検索して見ますと、この古本の所在が判明しました。驚くことに、江戸時代

前期の林羅山の三男で、後の林鵞峯(がほう)により編集された歴史書であり、慶安5年(16

52年)に成立した全7巻中の1巻とのことでした。また、Web 情報で他にも「日本王代一覧巻

之一」が保有されている画面が紹介されていましたので、沢山の同本が出回っていると思い、

字体を調べますと、木版画で印刷された本でした。恐らく、私の手元にある本は、江戸時代に

プリントされ本の中の一冊の古本と思われます。

日本王代一覧巻之一

当「日本王代一覧巻之一」の内容は、前述したように、神武天皇~斎明天皇の各天皇記を

記述したものですが、その内容は日本書紀の内容を、漢字と片仮名で箇条書きにまとめられ

たものでした。だが、その中には、天皇記と伴に、異朝(シナ)の王名と御代年代が併記され

ておりました。それも、江戸時代前期に編集された「日本王代一覧巻之一」の中に記述されて

いるのには驚かされました。そのため、神武天皇~景行天皇記までについてどれだけの異朝

の記述があるかと思い、異朝の記述を抜粋した所、次頁の四編が記述されておりました。

Page 2: 10indigoseal30.sakura.ne.jp/woshite/nitsupon_oudai_itiran.pdfBC660 に換算 同 天皇在位七十年 御年百二十七 2 四代 懿徳天皇記 此御代元年 異朝ニテ周ノ敬王十年

(1)人王一代 神武天皇記

(抜粋) 天皇在位七十六年ニシテ。崩御マシマス御年百二十七 此御代ノ元年。異朝ニテハ

周ノ恵王ノ十七年ニ當レリ

(2)四代 懿徳天皇記

(抜粋) 在位三十四年。崩ス御年七十七 此御代元年異朝ニテ周ノ敬王十年ニアタレリ。

(3)七代 孝霊天皇記

(抜粋) 在位七十六年ニシテ崩ス歳百二十八 此代異朝ニテハ。秦ノ始皇ノ時ニアタリテ。

徐福ト云モノ。蓬莱山不死ノ薬ヲモトメントテ。日本ヘワタリ。富士山ニ留ルト云傳タリ。

(4)十一代 垂仁天皇記

(抜粋) 八十六年ニ。初テ異朝ヘ使ヲ遣サル後漢の光武皇帝ノ末年ニアタレリ 在位九十九

年ニシテ崩ス。歳百四十。天下泰平ニテ目出度ク御代ナリ

(5)異朝年を西暦に換算

江戸時代初期に「日本王代一覧巻之一」を作成した林鵞峯は、「神武天皇元年」に「周の恵

王の17年」を当てておりました。また、その恵王の17年を筆者の手により西暦に換算します

と、紀元前660年のことでした。また、周の敬王10年は紀元前510年でした。それにしても、

江戸時代でも人の平均寿命は50歳以下と云われる時代の林鵞峯(がほう)です。その林鵞

峯は暦に精通していたと云われるその人が、神武天皇の在位年数を七十六年と記述し、また、

神武元年を恵王17年と記述したことに疑問が残ります。その二つは、根拠が曖昧だからです。

異朝年を西暦に換算した表 表-1

No, 世代 天皇記 天皇年 崩御歳 異朝年の記事 異朝年と西暦年

1 一代 神武天皇記 此御代元年 異朝ニテハ周ノ恵王ノ

十七年

恵王 17年は

BC660に換算

同 天皇在位七十六年 御年百二十七

2 四代 懿徳天皇記 此御代元年 異朝ニテ周ノ敬王十年 敬王 10年は

BC510に換算

同 天皇在位三十四年 御年七十七

3 七代 孝霊天皇記 天皇在位七十六年 歳百二十八 秦ノ始皇ノ時ニアタリ

テ。徐福ト云モノ。

始皇帝の御代

BC259~BC210

4 十一代 垂仁天皇記 天皇八十六年 初テ異朝ヘ使ヲ遣サル

後漢の光武皇帝ノ末年

光武帝の御代

BC6~AC57

同 天皇在位九十九年 歳百四十。

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儒学者 林鵞峯

「日本王代一覧巻之一」を作成した林鵞峯について、(1)大辞林第三版の解説を調べて見

ますと、「本朝通鑑」などを編纂したと記述しておりました。更に、前述の「本朝通鑑」のことを

調べたくて、(2)日本大百科全書(ニッポニカ)の解説、(3)世界大百科事典内の《本朝編年

録》の言及を見ますと、「本朝通鑑」は、「江戸前期の幕府編修の歴史書。神代から後陽成天

皇に至るまでの日本の通史。中国の『資治通鑑(しじつがん)』の名称と記述法に倣ったもの。

正編(初名は『本朝編年録』)は林羅山が 3 代将軍徳川家光の命により編修、神武天皇から

宇多天皇までで40巻を編纂したが、明暦の大火で焼失しため、羅山の子鵞峰らが、《本朝編

年録》の稿本を復元校勘して正編とし,続編を林梅洞,林鳳岡,人見友元,坂井伯元らが分

担起草し,林鵞峰が統轄して《本朝通鑑》として1670年(寛文10)に完成させて幕府に献上

した」との記述がありました。また、本朝通鑑の年代は「天皇一代ごとの編年体で事実をあり

のままに記述」としたされております。

中国の「資治通鑑(しじつがん)」 (注記)下記の桃色文字は、誤植訂正文を示す。

また、上記の文章で気になっておりました「資治通鑑」の名称と記述法に倣ったもの。」との

記述があったため、詳細内容を資治通鑑_ウィキペディアより周王の在位年数を調べて見まし

た。資治通鑑の収録年代の範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)~959年(後周世宗

の顕徳6年)までの1363年間ですが、ここでは神武天皇を網羅する周王の1~25代の在位

年数を調査して見ました。(表-2参照) その結果、25代の平均在位年数は約21年、最短0

年~最長58年になっておりました。この在位年数は、現在でも一代当たりの約30年と云われ

ておりますので、周王の在位年数の約21年はそれより9年少ない年数です。

また、資治通鑑の収録年代の範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)以降になり、その

間の周王は 20~26 代の6人ですので、一代当たりの在位年数は約28歳になります。

それに対し日本王代一覧巻之一に記述される天皇の在位年数は、71年(表-3参照)となり

周王の約3.5倍または、約2.5倍になります。

訂正後 周王朝 25代の在位年数 表-2

王名 御世年 御世(西暦年) 在位年数

1 代、平王 1 年~51 年 BC770年~BC720年 51年

2 代、桓王 1 年~23 年 BC719年~BC697年 23年

3 代、荘王 1 年~15 年 BC696年~BC682年 15年

4 代、釐王 1 年~5 年 BC681年~BC677年 5年

5 代、恵王 1 年~24 年 BC 676 年~BC 652 年 25 年

6 代、襄王 1 年~33 年 BC 651 年~BC 619 年 33 年

7 代、頃王 1 年~6 年 BC 618 年~BC 613 年 6 年

8 代、匡王 1 年~6 年 BC 612 年~BC 607 年 6 年

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9 代、定王 1 年~21 年 BC606年~BC586年 21 年

10 代、簡王 1 年~14 年 BC585年~BC572年 14 年

11 代、霊王 1 年~27 年 BC571年~BC545年 27 年

12 代、景王 1 年~24 年 BC544年~BC520年 24 年

13 代、悼王 0 年 BC520年 0 年

14 代、敬王 1 年~43 年 BC519年~BC477年 43 年

15 代、元王 1 年~8 年 BC476年~BC469年 8 年

16 代、貞定王 1 年~27 年 BC468年~BC441年 27 年

17 代、哀王 0 年 BC441年 0 年

18 代、思王 1 年 BC441年 1 年

19 代、考王 1 年~15 年 BC440年~BC426年 15 年

20 代、威烈王 1 年~23 年 BC425年~BC402年 23 年

21 代、安王 1 年~27 年 BC402年~BC376年 27 年

22 代、烈王 1 年~7 年 BC375年~BC369年 7 年

23 代、顕王 1 年~48 年 BC368年~BC321年 48 年

24 代、慎靚王 1 年~6 年 BC320年~BC315年 6 年

25 代、赧王 1 年~58 年 BC314年~BC256年 58 年

(コメント) ・25 代の一代当たりの在位年数 20.56 歳

・資治通鑑の収録年代の範囲は、BC403 年以降の 20

代~25 代になり、一代当たりの在位年数 28.17 歳

日本王代一覧巻之一の在位年数と御年 表-3

No, 世代 天皇記 在位年数 崩御歳

1 一代 神武天皇記 76 年 御年 127

2 四代 懿徳天皇記 34 年 御年 77

3 七代 孝霊天皇記 76 年 歳 128

4 十一代 垂仁天皇記 99 年 歳 140

4代の一代当たりの在位年数 71.25 歳

神武天皇元年を周の恵王17年に置き換えていた林羅山、林鵞峰

それにしても後世の風聞では、日本長暦を編纂した渋川春海の手によるものと云われてお

りますが、江戸時代の林羅山、林鵞峰、渋川春海とそれぞれの歴史文献を時系列的に比較

しますと、神武天皇元年を異朝の周の恵王17年(換算年:紀元前660年)に置き換えを指示

したのは林羅山説が有力になるようです。また、林羅山が生きた江戸時代の前期の国際情

勢を見ますと、朝鮮通信使が12回訪問しており、三人の生存中に8回も来ておりました。更に、

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林羅山はその接待役を寛永20年に仰せ使っておりました。このことから、シナ、朝鮮情報も

国内に伝えられたことが容易に推定され、中国宋代の史書『資治通鑑』に倣い、本朝編年録、

本朝通鑑が編纂されたことが容易に推定されるようです。その指示が元で慶安5年(1652年)

に林鵞峰が「日本王代一覧巻之一」を編纂していたと思われます。その編纂年は、渋川春海

が貞享暦を具申する33年前のことでした。(表-4参照)

林羅山、林鵞峯、渋川春海の歴史書の編纂年 表-4

年代 西暦 通信 林羅山 林鵞峯 渋川春海

天正 11 年 1583 年 生まれ

慶長 12 年 1607 年 〇1

元和 3 年 1617 年 〇2

元和 4 年 1618 年 生まれ

寛永元年 1624 年 〇3

寛永 13 年 1636 年 〇4

寛永 16 年 1639 年 生まれ

寛永 20 年 1643 年 〇5

天保元年 1644 年 本朝編年録の上梓

慶安 5 年 1652 年 日本王代一覧

(異朝の記述)

明暦元年 1655 年 〇6

明暦 3 年 1657 年 大火の 4 日後死亡

寛文 10 年 1670 年 本朝通鑑の編纂

延宝 5 年 1677 年 長暦の編纂

延宝 8 年 1680 年 死亡

天和 2 年 1682 年 〇7

貞享 2 年 1685 年 貞享暦を具申

正徳元年 1711 年 〇8

正徳 5 年 1715 年 死亡

干支の継続を重視して作られた長暦

その後、天文方となった渋川春海も「長い年月にわたっての暦日をまとめた長暦」を編纂し

たと、世界大百科事典第2版の解説に記述されておりますが、その内容は「《日本書紀》にあ

る神武天皇元年を紀元前660年とする長暦で貞享2年(1685)に至る暦日,すなわち全年の

毎月の朔を計算し,その干支,月の大小,閏月などを記した《日本長暦》 (1677)」となってお

りました。そのことは、干支を継続させる暦法のみの証拠主義で作られた長暦でした。そのた

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め、天皇の年齢が「御年百二十七」「御年七十七」「歳百二十八」「歳百四十」などとする異常

な高齢は無視され、只々、日々が継続していたこと説明できるだけの暦となっており、この暦

法は長暦にも採用されておりました。そして、このような歴史的な経過により、江戸時代~明

治~大正~昭和へと続き、今では、国際的に相手にされない、日本書紀暦の記法暦が、唯

一、日本の古代暦として残されております。そして、その継続された長暦が元で日本の建国

記念日が制定されておりました。

見直す機会を失った日本書紀暦

周王の在位年数は、上記の通り 現在の尺度で判断しても妥当と思われます。その利点を

活かして本朝編年録の編纂時には、その「中国の資治通鑑の名称と記述法に倣った」と云わ

れております。だが、こと、天皇の年代を本朝編年録に記述された年代は、旧態依然として日

本書紀の「天皇一代ごとの編年体で事実をありのままに記述」されており、神武天皇の在位

年数七十六年、御年百二十七歳などが記述されておりました、だが、この時点でも江戸時代

までの平均寿命50歳以下であったことが判明しており、本朝編年録に活用できなかったこと

は残念なことです。その利点を生かせなかった原因を考察して見ますと、日本書紀など漢字

文献には、天皇の年齢が異常な歳になる原因を究明できる資料が残されてないことです。そ

のため、日本書紀と江戸時代の暦を対比する評価尺度が不明になっており、このため、本朝

編年録の編纂時に年代の是正される機会を失うことになったようです。

異常な天皇の年齢に関する原因を教えてくれるスス暦

ホツマツタヱでも神武天皇の在位年数七十六年、御年百二十七歳など、神武天皇~景行

天皇までの天皇は、異常な高齢です。この異常な原因の記述は、日本書紀暦と同様にアス

ス暦の御世においても明記されておりませんでした。

だが、同じホツマツタヱでも神話と呼ばれるアマテル神~フキアエズのアマキミ(天君)の

御世には、アスス暦と違う暦がありました。この暦を筆者は、スス暦と読んでおりますが、現

在の暦法とは違い、ヱトを数える方法の暦法がありました。また、その作り方も記述されてお

りました。そのため、スス暦の全容を解読するため、日夜研究して見ました。

すると、(1)古代人は「一日をある任意の数字」で表していた記述が発見されました。それ

も、途中で数字が半分に変更しておりました。そして、年齢を計算しますと、変更前に対し後

の年齢が「異常に長大化(2倍)」しておりました。

自然現象と不一致なアスス暦

上記で、「この異常な原因の記述は、日本書紀暦と同様にアスス暦の御世においても明記

されておりませんでした。」と記述しておりますが、スス暦において、古代人が「一日をある任

意の数字」で表していたことが判明したため、アスス暦も全アヤ(綾)を検証して見ました。

すると、

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(1)アスス暦の神武天皇以降の暦は、自然現象と不一致する暦でした。それも、一見しただ

けでは正常な暦に見えますが、春の記述は奇数年のみに集中し、偶数年には冬と春の2

件が記述されておりますが、その春の1件の記述は曖昧でした。(偶数年の表示に対しヱト

の年が奇数年の記述)なお、日本書紀では奇数、偶数年の差がなく全て春が表示されてお

りました。

(2)また、不知火は近年、旧八朔(旧七朔が一回あり)に現れておりますが、ホツマツタヱ、日

本書紀では、景行天皇18年の旧五朔に現れた記述になっておりました。近年で調査では

「条件が合えば不知火は現れる」と云われておりますが、旧五朔の記録はなく、旧七朔、旧

八朔のみになります。

(3)更に、景行天皇の后のイナヒオイラツ姫が、「二十一月を経て二年の師走の望にモチヒト

のオウス皇子、ハナヒコのコウス皇子(ヤマトタケ)の双子をお生んだ。」との記述がありま

す。この二十一月の記述は、女性の妊娠月の約2倍になっていたことです。

そして、三つの現象を共通に説明できる事象は、「1年2倍化暦」になります。だが、現在の

日本人からは、認めがたい「説」になるようです。だが、前述したよう、日本の江戸時代の文献

の「日本王代一覧巻之一」にも記述されていたことは、前述した通りです。古代天皇の4人の

平均在位年数は約71年となり、周王の25人の平均在位年数約21年の約3.5倍だったこと

です。また、歴史を記録した資治通鑑の収録年代の範囲は、紀元前403年(周の威烈王23

年)以降になり、その間の周王は6人ですが、平均在位年数は約28歳の約2.5倍になるよう

です。このことからも、現在の太陽暦と同じ一年の日数は成り立ってなく古代日本はホツマツ

タヱに根拠がある「1年2倍化暦」であったことが云えるようです。

【ご参考】

「1年2倍化暦」の解明に至った研究本、原稿を下記の通り 紹介しました。ご覧頂ける

と更にご理解が深まるものと思います。

件名

(1)スス暦、アスス暦の解読

①本名

ホツマ暦の解読書素朴な疑問!古代日本は、いつから始まったのか : 秘伝の書ホツマ

ツタヱに隠された、古代暦を解読する 本(A4) 67頁、約30cm 国会図書館に寄贈済

②PDF 原稿

古代暦法「スス暦」、長暦(暦)「アスス暦」解読秘伝の書

~紀元前後の御世に「ホツマの世界」が存在した~

http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/hotsuma-koyomi.pdf

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③PDF 原稿

(仮)27鈴頃~スス暦は、2倍化暦で誤植された古代太陽暦であった。 その史料を基に、

長暦(暦)の太陰太陽暦の(現)アスス暦が編纂されていた。 !!

(簡易版 古代暦法 解読秘伝の書)

http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/susu_asusu_kisetsu_no_kijyutsu_kai_3.pdf

(2)ヤマトタケが証明する「1年2倍暦化」の根拠

ヤマトタケは、去年4月に妊みて生まず、21月経て師走望に双子として生まれていた。

PDF 原稿

ヤマトタケの生まれに見る アスス暦の2倍化暦の文書発見記

http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/2bai_ka_reli_no_hatsuken_bunsyo.pdf

アスス暦のヱトによる検証

先に、アスス暦は、「自然現象と不一致なアスス暦」と述べましたが、この現象がわかった

のは、研究を開始から約17年過ぎだったと思います。それまでは、暦法の基本は「干支が動

くと日が動く」と云われておりますので、アスス58年~アスス843年までについて、年(含む

ヱト)、月、日(含むヱト)を計算しておりました。計算方法は、ホツマツタヱに記述される21個

の暦日のヱト番号と自編の計算式で求めたヱト番号を、対比し一致するまで再計算を繰り返

しておりました。その結果、計算式の精度は、「±1日」を達成することができました。

その時の計算式は、(1)1年約385日の式、(2)1年約265日の式、(3)儀鳳暦の式を用

いておりました。なお、(3)儀鳳暦は太陰太陽暦です。また、(1)と(2)項の式を組み合わせ

ますと、19年間の平均日数は1年約365日の太陽暦が隠れておりました。このように、アス

ス暦は暦法を確認しただけでも問題なく、近代の暦と同じでした。

隠しても隠しきれなかった古代と近代の矛盾、アスス暦

上記のように、精度を有する暦法上は問題ありませんが、「神武天皇の在位年数七十六年、

御年百二十七歳などであり、他の天皇も異常な年数、御歳」に記述されていたことです。更に、

致命的な欠陥は、原アスス暦があったと仮定しますと、季節(春)、自然現象(不知火)、生理

学(妊娠)の記述は移動できなくそのまま据え置かれたと思われます。現アスス暦に転記、移

動されたのは、年(含むヱト)、月、日(ヱト)のみだったことが推定されるようです。

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Ⅱ、ホツマツタヱ 超古代史 新年表

趣旨

ホツマツタヱ(本)は、ヲシテ(古代文字)で書かれているため、一般に読み書きはできない

ようです。況して、偽書とされておれば尚更です。そのため、ホツマツタヱの長年の研究によ

り、太陽暦に準じたスス暦、アスス暦の隠れた暦法が解明され、この結果、スス暦、アスス暦

とも「1年2倍化暦」の暦法で是正ができるようになりました。そして、その是正の範囲は、アマ

テル神の御世まで遡れ、ホツマツタヱの古代年を西暦に換算できることになりました。そして、

作成された年表を「ホツマツタヱ 超古代史 新年表」と命名し、2014年12月にすでに発表

しておりました。

【スス暦】

暦法:世界に類を見ない高齢を記述する暦である。そのため、アマテル神の年齢は約百七

十三万歳、また、臣の年齢も約八十四万歳などであった。

スス暦の解析

アマテル神、臣たちの年齢に隠された秘密がないか、スス暦の仕組みを解析し、太陽暦で

の年齢表示に挑戦して見た。

1~約27鈴

アマテル神の生まれは 21 鈴であり、ホツマツタヱの4アヤ(綾)39~40に「天の原 十六

穂居ますも 一日とぞ」との記述があった。ホツマ・ヱトで解析すると、「1 日を 16 穂」で数え

ており、この期間は 1 鈴~約 27 鈴に及んでいた。後に、1 日と 16 穂の関係は、「アヱヤヱ

の法則」で成り立っていることが立証された。

27鈴~50鈴

改暦

アマテル神、オオヤマスミ、モノヌシの臣たちの家系の各 5~6 人の年齢を、1 日 16 穂で

計算すると、約 27 鈴以降は逆に年齢が増加し、現在人と比較すると約2倍(長暦)の年齢に

なっていた。その原因調査のため、ホツマツタヱの記述を精査すると、21 アヤ(綾)64 に、

「アヱよりヤヱの 中五日 森お離れて」との暦に関する記述があった。

この記述の御世は、「二十六鈴十七枝二十三穂(スス暦の記述)弥生初日」から始まる御

世であり、キヨヒトの皇孫が「名も新治宮 フトマニに宮造り法 定めよ」と大物主に勑りしてい

た頃であった。更に、「アヱよりヤヱの 中五日」の記述をホツマツタヱ・ヱトで丹念に解析し

て見ると、1 日は 8 穂(2 日で 16 穂)が隠されていた。

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このことからスス暦は 1 日 16 穂⇒2 日 16 穂に改暦されており、その時期は約 27 鈴(紀

元前 270 年)頃であった。そのため、1 日 16 穂に戻した年齢を見ると、スス暦当時の年齢

も、現在人と変わらない年齢が隠れていた。

新年代の表示

上記の通り 高齢にて至った原因が判明したため、スス暦を現在の太陽暦の年齢表記に

修正する。

修正方法

(式) 太陽暦 〓 スス暦 ÷ 一日の数え穂 ÷ 太陽暦の一年の日数

【アスス暦】

暦法:19 年の延べ日数は、理科年表の「1900 年 1 月 0 日 12 時の回帰年」の 19 年間の

延べ日数と近似日を有する太陰太陽暦、また、神武天皇~景行天皇 55 年間は、日本書紀

暦と同じ年代を有する太陰太陽暦であった。

なお、ホツマツタヱの上奏年は、ホツマツタヱを編纂された翌年の景行天皇 56 年であっ

た。だが、スメラギ(天皇)などの年齢は、長大化しており、スス暦と同様に暦の本質は長暦

(暦)であった。

アスス暦解読時の検討内容

アスス暦の暦日の計算ペースを、スス暦→改訂太陽暦に変更した。

比較内容 新 旧 オリジナル

暦日の基準 改訂太陽暦の

経過日数

スス暦の延長である 仮想

の大きい暦数字

スス暦の延長である 仮想の

大きい暦数字

1 年の日数 365.2422 日 365.2422 日×1.1086 384.1948 日、264.1946 日

ヱトの再現性 不可 不可 再現性大

長暦(暦) 回避 回避 長暦(暦)のまま

年代評価 西暦に準じる ほぼ西暦に準じる 諸外国の暦と対比不可

呼び名 普通暦 是正暦 なし

スス暦とアスス

暦の差

1 年 33 年 33 年

年表の開示 説明あり 旧のため削除 旧のため削除

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【日本書紀暦】

変更内容

第 13 代成務天皇~第 16 代仁徳天皇について、それ以後の天皇の治世年数と比較し長

大化のため、長暦(暦)であったと判断し、太陽暦(普通暦)に変更した。この傾向は、スス暦、

アスス暦での長大化の現象と同じであった。

超古代史 新年表

超日本史新年表は、日本史の懸案であった長暦(暦)の壁(原因が判明)を突破し、「スス

暦の太陽暦」「アスス暦の太陽暦」を編纂し、更に西暦の太陽暦に変換した本格的な超日本

史年表である。またホツマ暦の解読書である。また、超日本史新年表の期間は、紀元前六世

紀~紀元三世紀に対応しており、ホツマツタヱの記述と考古学の出土物(銅鐸、埴輪、鉄の

伝来など)年代を対比することができ、その結果、製造などの年代がほぼ同年代であることが

実証され、その結果を発表できた画期的な新日本史年表の論文集になったようです。

【超古代史】

①アマテル神ことワカヒト

アマテル神は、富士山の南山麓で、生まれられた年は、紀元前 330 年であった。ワカヒト

天御子は、紀元前 320 年に日高見(宮城県)より移られ、紀元前 289 年に長男のオシヒトが

天日嗣されており、ワカヒトの在位期間は約 31 年になる。

②アマテル神の長男のオシヒト(箱根の駒ケ岳の神)

オシヒトの天日嗣は紀元前 289 年であり、テルヒコが葦原国を治めた、またキヨヒトが新治

の宮を治められたのが紀元前 280 年のため、オシヒトの在位期間は約 9 年になる。そう云え

ばオシヒトは体が弱かった記述が残されている。

③ニニキネ尊ことキヨヒト(高千穂の神)

キヨヒトの在位期間は、新治の宮を治められたが紀元前 280 年。ウツギネに天日嗣された

のが紀元前 224 年になり、キヨヒトの在位期間は約 55 年になる 。キヨヒトことニニキネが活

躍されてアマキミ(天君)、高千穂の峰で神上がられるまで、新治、伊勢、高千穂と周られて

いることからも長い期間が経っていることが伺える。

④ヒコホホデミことウツキネ(海彦、山海彦の海海彦)

ウツ・・・宇都宮の語源になった人、ウツギネの 天日嗣は紀元前 224 年、また神上がりさ

れて「ケヰの神」になられたのが、紀元前 189 年になる。ウツギネの在位期間は約 35 年間

であった。

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⑤ワカヒト~オシヒト~キヨヒト~ウツキネまでの四人の在位期間は、約 130 年であり、平均

在位期間は、約 32.5 年になる。現在の一代当たりの約 30 年間と大差がないようである。

【論文に基づく 超古代史年表】

【年代評価】

考古学とホツマの新年表の年代が、同年代で一致する。

【ホツマツタヱが明らかにする古代日本】

有史の古代日本は、紀元前6世紀~始まり、空白の紀元前4世紀~紀元3世紀を照らして

いた。この史実は、ホツマツタヱにより証明される。古事記や日本書紀では、解明できてない

ようだ。 (ホツマツタヱの記述が正確であった)

【縄文時代】

【アマカミ(天神)の御世】

①古代暦(スス暦)の初年

スス暦 新世紀 新年代 日本書紀暦

初年 紀元前6世紀 紀元前 536年頃 神話時代

ウビチニ=ひな祭りの原型になった

「アマカミ(天神)」

「スス暦」の記述を元に計算した、遡った

「スス暦」の初年を表す

【弥生時代】

【アマカミ(天神)の御世】

②タカヒトの婚姻 (注)タカヒト=イサナギ

婚姻年 新世紀 新年代 日本書紀暦

21鈴 紀元前4世紀 紀元前 331年頃 神話時代

4アヤ(文)7、「二十一の鈴の 年すでに百二十万七千 五百二十に」

【鉄の伝来時期とイヅクリ】

鉄の伝来 :紀元前4世紀~紀元前3世紀、福岡県の石崎曲り遺跡(考古学)

ホツマの記述:紀元前4世紀 (紀元前330年~331年)

真澄鏡 イヅクリ(鋳物作り)進む イサナギは 天お治する うつの子お

(ホ 4アヤ(文)、15)

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【アマキミ(天君)の御世】

③ワカヒトの生まれ (注)ワカヒト=アマテル

生れ年 新世紀 新年代 日本書紀暦

21鈴 紀元前4世紀 紀元前 330年頃 神話時代

4アヤ(文) 24、「二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ 初日ほのぼの いづる時」

28アヤ(文)11、「二十一鈴 百二十五枝 三十一穂キシヱの 初日の出」

④オシホミの天日嗣 (注)オシホミ=オシヒト

天日嗣 新世紀 新年代 日本書紀暦

25鈴 紀元前3世紀 紀元前 290年頃 神話時代

19Bアヤ(文)1、「二十五鈴 百三十枝の 年サナト 春の初日に」

⑤テルヒコの葦原国治め (注)テルヒコ=クシタマホノアカリ

葦原国 新世紀 新年代 日本書紀暦

26鈴 紀元前3世紀 紀元前 280年頃 神話時代

20アヤ(文)1、「二十六鈴 十六枝 四十一穂 年キヤヱ 弥生」

⑥キヨヒトの新治宮治め (注)キヨヒト=ニニキネ

新治宮 新世紀 新年代 日本書紀暦

26鈴 紀元前3世紀 紀元前 280年頃 神話時代

21アヤ(文)1、「二十六鈴 十七枝 二十三穂 弥生初日」

⑦ウツキネの天日嗣 (注)ウツキネ=ヒコホホデミ

天日嗣 新世紀 新年代 日本書紀暦

36鈴 紀元前3世紀 紀元前 224四年頃 神話時代

26アヤ(文)1、「三十六鈴 三十四枝 三十八穂 弥生望」

【スメラギ(天皇)の前夜】

①アスス暦の初年

初年 新世紀 新年代 日本書紀暦

21穂 紀元前2世紀 紀元前 151年頃 神話時代

28アヤ(文)65、「二十一穂の キナヱの春は アメフタヱ 天鈴暦と」

【河内湖とタケヒトのヤマト討ち】

紀元前666年~紀元前660年(約2660年前) 神武東征(日本史) 長暦(暦)のため、紀

元前7世紀と古代過ぎる疑問がある。

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調査結果

大阪府の全域は、古地図「弥生時代中期(約2000年前)」によると、大きな河内湖になって

いた。その中でも、上町台地の半島の先端が岬になっていた。 (考古学)

上町台地は、三津は、現在の大阪城付近で、現在「御津宮」があるが、古くは「三津」の地名

がある。

ホツマツタヱの記述

「タケヒトの大和討ち」の年代は、紀元前136年(約2131年前)頃、弥生時代・中期頃であ

り、また「ホツマツタヱ」には、「早浪立つる 三津岬 名も浪速の 港より」の記述があった。

(ホツマ情報 29アヤ(文)、17)

柿本人麻呂の時代(飛鳥~奈良時代)

ホツマの「三津岬」が、後の「柿本人麻呂」の時代でも存在していた証明

三津埼、 柿本人麻呂 羇旅の歌八首の一首 万葉集249

(年代は不詳であるが、660年~720年頃の人と云われる)

【元歌】 三津埼 浪矣恐 隠江乃 舟公宣奴嶋尓

【訳文】 三津の崎の波が恐ろしくて (早浪立つる) 隠れたような入江に入って

(三津岬の入江)野島の土地神に舟旅の無事を祈ろう 舟が密集して

浮かんでいる

【スメラギ(天皇)の御世】

②タケヒト(神武)の初年

初年 新世紀 新年代 日本書紀暦

58穂 紀元前2世紀 紀元前 133年頃 紀元前 660年

29アヤ(文)67、「年サナト 橿原宮の 初年と 御代神武の 大ひなるかな」

30アヤ(文)13、「年サナト(58) 初日 サヤヱ(17)に」

③ヤスキネ(綏靖)の初年

初年 新世紀 新年代 日本書紀暦

134穂 紀元前1世紀 紀元前 95年頃 紀元前 584年

31アヤ(文)38、「新都 カダキ(葛城) に建て宮移し」

時天鈴百三十四年 ツアヱ(13)春 初日 サナヱ(57)の」 「長弘本は、ツアト」

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④シギヒト(安寧)の初年

初年 新世紀 新年代 日本書紀暦

170穂 紀元前1世紀 紀元前 77年頃 紀元前 548年

31アヤ(文)61、「時天鈴 百七十年 ネアト(50)天フミ(七)三日 御子シギ(磯城)

⑤ヨシヒト(懿徳)の初年

初年 新世紀 新年代 日本書紀暦

208穂 紀元前1世紀 紀元前 58年頃 紀元前 510年

31アヤ(文)74、「時天鈴 二百八穂 サミト(28)キサラ(二月)四日 ネアヱ(49)」

⑥ミルヒト(孝昭)の初年

初年 新世紀 新年代 日本書紀暦

243年 紀元前1世紀 紀元前 40年頃 紀元前 475年

31アヤ(文)83、「時天鈴 二百四十三年ツミヱ(3)春 ム(一)ツキ ツウヱ(23)初」

⑦オシヒト(孝安)の初年

初年 新世紀 新年代 日本書紀暦

326年 紀元1世紀 紀元 3年頃 紀元前 392年

31アヤ(文)94、「時天鈴 三百二十六年 初のナカ シギ(磯城)ナガハヱが」

⑧ネコヒコ(孝霊)の初年

初年 新世紀 新年代 日本書紀暦

428年 紀元1世紀 紀元 54頃 紀元前 290年

32アヤ(文)1、「時天鈴 四百二十八年 初十二日 シキ(磯城)クロダの」

⑨モトギネ(孝元)の初年

初年 新世紀 新年代 日本書紀暦

504穂 紀元1世紀 紀元 92年頃 紀元前 214年

32アヤ(文)32、「時天鈴 五百四穂 ム(睦)月 十四日 新都 カルサカイバラ」

⑩フトヒヒ(開化)の初年

初年 新世紀 新年代 日本書紀暦

560穂 紀元2世紀 紀元 120年頃 紀元前 158年

32アヤ(文)48、「時天鈴 五百六十穂冬 メ(十)の十二日 春日イサ川 新都」

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⑪ヰソニヱ(崇神)の初年

初年 新世紀 新年代 日本書紀暦

621年 紀元2世紀 紀元 151年頃 紀元前 97年

33アヤ(文)1、「時天鈴六百二十一年 キナヱ(21)春ム(睦)ツキ ネシヱ(19)初」

【銅鐸とミソコタカラ】

紀元前1世紀(紀元前37年7月)、日本書紀は、「甘美御神 底宝御宝主」の文のように、

「神、底宝」と誤訳した痕跡あり。「御底宝」と訳しておれば、「ミソコタカラ」と訳した筈であろ

う。(日本史)(朝間ヒラク氏より引用) もし、日本書紀が、誤訳をしてなければ、世紀の発見

になった筈であった。この発見は、「ミソコタカラ」として、ホツマツタヱ遺跡の発見につながっ

ていた。

紀元前2世紀~紀元2世紀に銅鐸が作られ、1996年に加茂岩倉(出雲)にて、銅鐸が発見さ

れ、その銅鐸総数が三十九(ミソコ)個であった。(考古学)

紀元2世紀(紀元179年~180年頃)(ホツマ情報 34アヤ(文)、60)

タマモシヅ 出雲祭らば マグサマジ カヨミ押し振り ねみ鏡 ミソコタカラ(三十九宝)の ミ

カラヌシ (訳文:良くわかってない)

⑫ヰソサチ(垂仁)の初年

初年 新世紀 新年代 日本書紀暦

689年 紀元2世紀 紀元 185年頃 紀元前 29年

35アヤ(文)1、「時天鈴 六百八十九年 ネヤヱ(29)春 ムツキ ツアト(14)初」

【埴輪とハシモノ】

紀元1世紀(紀元3年7月)(埴輪の作り始め (日本史)

紀元3世紀後半~6世紀後半に埴輪が作られた(考古学)

紀元3世紀(紀元200年頃)(紀元3世紀)(ホツマ情報 37アヤ(文)、10)奉る 今より後は

ハシモノ(土師物)お 生けるに代えて 御陵に 植えて例しと なすべしや

【コメント】

この頃に、埴輪が作られて、次の古墳時代へと移行して行ったことが、ホツマ情報より読

み取れます。

【古墳時代】

⑬タリヒコ(景行)の初年

初年 新世紀 新年代 日本書紀暦

788年 紀元3世紀 紀元 243年頃 紀元 71年

38アヤ(文)1、「時天鈴 七百八十八穂の フ(七)ツキ 十一日」

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⑭タリヒコ(景行)五十五年

初年 新世紀 新年代 日本書紀暦

843年 紀元3世紀 紀元 262年頃 紀元 126年

40アヤ(文)98、「時天鈴 八百四十三穂の 秋天日」

【日本書紀の年表】

⑮成務天皇の初年

御世 新世紀 新年代 日本書紀暦

成務初年 紀元3世紀 紀元 264年頃 紀元 131年

⑯仲哀天皇の初年

御世 新世紀 新年代 日本書紀暦

仲哀初年 紀元3世紀 紀元 294年頃 紀元 191年

⑰神功天皇の初年

御世 新世紀 新年代 日本書紀暦

神功初年 紀元3世紀 紀元 299年頃 紀元 201年

⑱応神天皇の初年

御世 新世紀 新年代 日本書紀暦

応神初年 紀元4世紀 紀元 334年頃 紀元 270年

⑲仁徳天皇の初年

御世 新世紀 新年代 日本書紀暦

仁徳初年 紀元4世紀 紀元 354年頃 紀元 311年

⑳履中天皇の初年

御世 新世紀 新年代 日本書紀暦

履中初年 紀元4世紀 紀元 399年頃 紀元 399年

(21)反正天皇の初年

御世 新世紀 新年代 日本書紀暦

反正初年 紀元5世紀 紀元 405年頃 紀元 405年

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(22)允恭天皇の初年

御世 新世紀 新年代 日本書紀暦

允恭初年 紀元5世紀 紀元 410年頃 紀元 410年

(注1) ホツマツタヱ 超古代史 新年表

上の新年表は、紀元399年より、遡り年表として作成しておりますが、日本書紀暦日原典

を検証された研究資料(注2)を見ますと、儀鳳暦と元嘉暦の境目が400年~455年とのこと

であり、このことも、異常な天皇の御世の終息を暗示しているようであり、現に歴中天皇以降

の御世の長さは短くなっておりました。このことから、新年表作成の遡り年の見立ては間違っ

てなかったと思われます。

【理由】長暦(暦)が、解消されたと認められた、履中天皇6年、反正天皇5年、允恭天皇42年

を基準とした。

(注2) 日本書紀暦日原典

元嘉暦や儀鳳暦によって『書記』の暦日を説明しようとする研究も存在する・・(中略)・・神

武紀から五世紀中期(允恭紀付近)までの暦日は儀鳳暦によって計算されており、それ以降

(安康紀付近)の暦日は元嘉暦によって計算されているとして、『書記』暦日計算には二つの

暦法が用いられててることを指摘した点である。両暦の境目が曖昧にされているのは、歴中

元(400)年から安康二(455)年までの暦日がたまたま両暦のいずれにも適合するためであ

り、両暦の境界線を厳密に決定することはできない。・・(後略)・・。

【引用論文:小島壮一 『日本書紀の暦日』―暦日に適合しないいくつかの事例についてー】

(おわり)

【引用文献】

当ホツマツタヱ 超古代史 新年表の原稿は、広くスス暦、アスス暦を紹介するた

め、下記の自編の二つの論文をつなぎ合わせております。論文前後の少しぎこちな

い面もありますが、今後、見直して行きたいと思います。

Ⅰ、日本の起源年を捜して

林羅山らは古代日本が、1年2倍化暦と知っていた

Ⅱ、ホツマツタヱ 超古代史 新年表