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装丁 溝上なおこ
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3 はじめに
はじめに
―静岡人と浜松人―
同じ静岡県でも、浜松の文化は静岡のそれとは違う。静岡市の文化があたかも公家文化とすれ
ば、浜松の文化は何と表現したらよいのであろうか。それは、浜松まつりに参加すればわかる。
五月の三・四・五日の連休に行われる、凧揚げ合戦と夜の御殿屋台の引き回しである。士気を鼓
舞する突撃ラッパの勇ましい音と、御殿屋台の上の少女たちのおはやしの音色の動と静の不思議
な調和。浜松人はまことにお祭りが好きだ。祭りとなるとどっと盛り上がる。しかし、熱しやす
く冷めやすい、というのが浜松人の特徴のようだ。
静岡県といっても、昔は三国に分かれていて、西から遠江・駿河・伊豆の三国である。東西に
長い県域をもっている。
静岡市と浜松市はともに、現在は政令指定都市であるが、「永遠のライバルだ」、という人がい
る。静岡の人は、県庁所在地だから、どっかとかまえているが、浜松の人は、静岡をライバル視
しているらしい。「群馬県の高崎市と前橋市のようなものだ」という人もいる。
ところで、「浜松は文化不毛の地」と評する人もいる。「浜松には文化が根付かない、だから、
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文化が素通りしてしまう。」というのである。確かに、仙台や金沢、高知などには、どっかと座っ
た伝統がある。城主がずっと替わらずに、城下町を繁栄させたからだ。
浜松には城下町と宿場町の両方の役割があったが、宿場町のほうの役割が大きかったのは事実
である。浜松城主が、ころころ変わっていたのも、文化の醸成に難儀(なんぎ)な原因となった
のではないだろうか
今、ここに、徳川家康の浜松時代の実像を描くことにより、浜松の文化の創造にも着手したい
のである。家康の謎に満ちた壮年期にスポットを当てて、それを、すなわち「私の浜松論」とし
てみたのが、本書である。
徳川家康はどん底からはい上がった男である。
「人生は重き荷を背負いて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず、云々」
この言葉は、実は家康生前の言葉ではないと、最近、徳川義孝氏の考証によって否定されてい
るが、家康自身の人生を思うて、余りあると、筆者も感ずるところ大である。
実際のところ、私は、成功してより後の家康にはあまり、興味がわかないのである。
よく企業経営者が大成功をしたのちに、創業時の苦労話を聞くのに似ている。彼が、苦労人と
呼ばれた前半生の中にこそ、私は興味を覚えるのである。
いわゆる歴史とは、その人物亡き後、において、後世の人々がその彼の出来事やら、行ったこ
と、遺したこと、その人物を評して、語られるものと思っている。
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5 はじめに
家康は「タヌキおやじ」とよばれたことは、有名な話である。明治時代、とくにその傾向は強
かった。ところが、昭和も戦後になって、山岡壮八の『徳川家康』が出版され、NHKの大河ド
ラマになったことから、家康にたいする評価も変わってきたように思われる。山岡壮八は築山殿
を悪女と描いている。
ただし、浜松人からみた家康はこっけいなところがあり、庶民的である。大御所時代とは少し
違う。三方が原の戦いに敗れたからであろう。だから多くの家康伝説が、残されている。
しかし、たしかに、徳川家康には謎が多い。公にはできない、隠されている部分も多い。忍び・
忍者を最も煩雑にかつ有効に使ったのも家康であるという。
今、その隠されている部分に光を当て、真の徳川家康像に、とくに苦労人時代の浜松の徳川家
康にスポットを当てたいと思っている。
郷土浜松に住む者として、その彼の隠された、人生の悲哀に満ちた人生にせまることができれ
ば、それに勝るものはない。本書はそのような意図から出来上がっている。
大御所時代のいわば静岡人から見た家康ではなく、浜松人からみた家康像でもある。
ここに、読者の方々から、広くご意見をいただければ幸いである。
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目次はじ
めに
3
―静岡人と浜松人―
3
家康伝説の街、浜松
10
「小豆餅」と「銭取」
10
遠州の家康伝説①
14
家康伝説②
15
家康伝説③
20
地名の由来
徳川氏は源氏か
24
ユキヨシサマ伝説
26
宗良親王と水窪の地名
28
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7 もくじ
「浪合記」と天野信景の経歴
30
天あま野の信さだ景かげの経歴
35
考
察
39
宗良親王の末裔と津島
42
遠州における南北朝の争乱の推移
46
愛知県津島市良王町歴史探歩①
48
津島周辺の歴史探歩②
50
良王神社由緒書より
54
良王君奥都城処に関する伝説
津島の歴史・文化より
55
平安末期から戦国期の浜松人
59
秀吉びいきの庶民性
60
家康の徳川改姓
60
世良田氏は、徳川氏か?
61
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8
真船氏を名乗った世良田氏末裔
62
徳川家康と築山殿事件
66
悲運の正妻・築山殿
66
たたる築山御前
69
築山殿事件の真相は?
71
築山殿事件の動機は何か?
73
西来院・月窟廟
75
「築山殿は悪女にあらず」か?
77
築山御前首塚(愛知県岡崎市欠町八柱神社境内)碑文
三方が原の戦い
82
三方ヶ原の戦い②
83
浜松は出世城か
86
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9 もくじ
魔都・「京都」
88
祟りから逃れるために結界と化した都
88
「風水」で守られた都
89
「四し神しん相そう応おうの地」京都
90
京都には幾重にも「魔除け」が施されている
90
京都の地相と浜松・そして江戸の地相
91
「風水」からみた江戸城の立地
95
コラム・カマイタチ
96
むすび
98
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10
家康伝説の街、浜松
「小豆餅」と「銭取」
五月。赤石山系から南へと延びる新緑の山並み。さらに緑の同じ峰につながる青き山が秋葉山
へとずっと連なっている。この山は、とくに、初夏の息吹きを感じさせている。
五月の三・四・五日に行われる浜松まつりの恒例の出し物、凧揚げ合戦と、夜の御殿ばやしの少
女の、化粧した色っぽい三味や太鼓、笛などの音色が、まつりを盛り上げている。
さて、ここは浜松、徳川家康が居城し、一説には「出世城」と呼ばれる。しかし、家康が城を
かまえる前は遠州の国人領主、飯尾氏がいた城であった。
現在も市内の高林および上島近辺には、飯尾姓のお宅が多いが、先の飯尾氏と関連するのか、
昔から気になっている。
さて、浜松は、徳川家康が三河から進出してくる以前、飯尾氏がこの城を「曳馬あるいは引間
城」と呼んでいたものを、徳川家康は「浜松城」と改名したのにはわけがある。
「馬を曳く、あるいは引く」という表現は、戦いにおいて「敗戦」を意味し、武将にとって縁起
の悪い地名であったことからというが、本当のところは、城と地名を改名することで、人心を一
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11 家康伝説の街、浜松
新することが、ねらいであったろうと思われる。
浜松市には「曳ひく馬ま」に関連して、三方原台地の三方原町一帯が「曳ひく馬ま野の」と呼ばれ、筆者の親
戚が居住している。
筆者の少年時代には、いとこと子供同士、泊まりがけで遊び、また、あの懐かしい遠州鉄道の
奥山線に乗った記憶が残っている。
現在、このあたりは、浜松医大や都田テクノポリスができ、政令指定都市に浜松がなった関係
で、道路も立派に整備され、三方原町一帯、むかしの「萩茂る曳馬野」の、そこのあたりはすっ
かり都市化してしまった。
けれども、私の少年当時は、赤土の舞い上がる舗装されていない道と、奥山線の通る、いかに
ものどかな畑作地帯であった。現在でも、三方原馬ば鈴れい薯しょと人参などの農作物は有名である。
さて、浜松の三方原台地には、徳川家康にかかわる家康伝説の地名が二つある。まず有名なの
は、「小あ豆ずき餅もち」、そして「銭ぜに取とり」である。
かつて遠州鉄道奥山線があったころ、それにのって浜松に向かうと「小豆餅駅」「銭取駅」と
車掌が呼んだ。まことに風変わりな駅名であるが、これが有名な三方ヶ原の戦いの舞台である。
武田勢二万五千に対して、徳川勢わずかに八千であった。勝敗は目に見えている。斥候の知ら
せを聞いて、浜松城にいた家康は、歯ぎしりしてこう叫んだ「敵兵が城下を通るのを見て、黙っ
ていられるか、これでは男がすたる。」
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12
家康は、女中に用意させた湯漬けをかきこむと、馬にまたがり、出陣していった。
「殿、お待ちくだされ。」
作左衛門が後を追う。
さらに夏目がそれを追って叫んだ。
「殿、お急ぎめさるな。ここはお引き返しのほどを。」と、
夏目治郎左衛門吉信は、敵の本陣に斬り込もうとする家康の前に馬を進めた。
「夏目よ、どけい。何ゆえそちは、邪魔をする。」
家康は、自分がどんな状況にあるか、とてもわかってはいなかった。ただ興奮し、混乱してい
たのである。
「ごめん。」
冷静な夏目吉信は、家康の馬のくつわを浜松城のほうに向け、槍の石突きでえいっとばかり、
その馬の尻をたたいた。
家康の馬は、突如、走り出し、最前線から離れていった。
夏目はというと、武田の本陣に向けて走っていく。
「われこそは徳川家康なり、いずこに居られるか、信玄公、見参。」
武田の槍やり衾ぶすまが
夏目の腹に突き刺さる。
「殿、別れでござる。」
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13 家康伝説の街、浜松
五十五の老将は息絶えた。
段だん子ず川かわのあたりまで逃げて来て、家康は馬上で失禁している自分に気がついた。
「どこぞに隠れるところはないものか。」
ふと見ると、道端に小さな茶店があって、老婆がひとり、小豆餅を売っていた。
「裏を貸せよ。」
家康は身づくろいを整えると腹がへったので餅をくらった。
すると後方から、武田の鬨の声がこだましてきた。
「敵じゃ。ばあさん、すまぬ。」
家康が駆け出すと、
「お代をくださいませ。」
餅を食ったところを「小豆餅」、老婆が追いついて、銭をとったところを「銭取」という。
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