て、多くの人々の注目を集め には、三木清の o マ...

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九三 O 年、 マルクス主義者と 一、はじめに 一九三 O 年の『中外日報』の紙面には、 義と仏教に関する記事、あるいはマルクス主義者が書いた宗教論が 一年を通じてマルクス主 絶え間なく掲載されていて、 ただならぬものがあっ その量たるや、 た。その前年も翌年も マルクス主義に関する記事はさほど多くな 一年きりのブ 1 ムであったようである。『中外日報』といえ ば、仏教系の業界紙であり、当然ながら仏教各宗派に関わる時事的 な話題を載せているのが通常であった。しかし一九二九年頃から、 マルクス主義と仏教に関する記事はぽつりぽつり出ていて、 一九三 O 年に一斉に花開いたという印象はある。その年の正月元日一の紙面 には、三木清の 「文芸と宗教とプロレタリア運動」が第一面を飾つ て、多くの人々の注目を集め それに対して服部之総が批判を行 }字 い、両者のやり取りが行きかうなかで、『中外日報』は 心に躍り出たかたちになった 。三木、服部のみならず、多くのマル クス主義者が招かれて座談会に出席して、 ある時には宗教批判を語 り、ある時にはマルクス主義者同志が激しい論争を行っていた。 本稿で検討しようとするのは 「マルキシズムと宗教」 「仏教 とマルクス主義」と銘打った座談会である。前者は、三木、服部な どのマルクス主義者を招き、彼らに宗教を語らせようとしたもので あった。ただし三木の名前は予告には出ていたが、座談会には欠席 していた。本当ならば、三木の記事を対象にした座談が、企画され ていたと思われるが、 そうはならかった。この二回の座談会は、 ぎのような趣旨で企画された。 今や世界を風麻酔するマルキシズム||それは一切の上に価値 の転換を与えつつある。その舌鋒は宗教の分野にも向けられて

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Page 1: て、多くの人々の注目を集め には、三木清の O マ …kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__22F/02__22_1.pdf日している。大正年代の始め、私が学生であった頃は吉野作造先生の民本

九三

O年、

マルクス主義者と宗教学者の論争

一、はじめに

一九三

O年の『中外日報』の紙面には、

義と仏教に関する記事、あるいはマルクス主義者が書いた宗教論が

一年を通じてマルクス主

絶え間なく掲載されていて、

ただならぬものがあっ

その量たるや、

た。その前年も翌年も

マルクス主義に関する記事はさほど多くな

一年きりのブ

1ムであったようである。『中外日報』といえ

ば、仏教系の業界紙であり、当然ながら仏教各宗派に関わる時事的

な話題を載せているのが通常であった。しかし一九二九年頃から、

マルクス主義と仏教に関する記事はぽつりぽつり出ていて、

一九三

O年に一斉に花開いたという印象はある。その年の正月元日一の紙面

には、三木清の

「文芸と宗教とプロレタリア運動」が第一面を飾つ

て、多くの人々の注目を集め

それに対して服部之総が批判を行

}字

い、両者のやり取りが行きかうなかで、『中外日報』は、論壇の中

心に躍り出たかたちになった。三木、服部のみならず、多くのマル

クス主義者が招かれて座談会に出席して、

ある時には宗教批判を語

り、ある時にはマルクス主義者同志が激しい論争を行っていた。

本稿で検討しようとするのは

「マルキシズムと宗教」

「仏教

とマルクス主義」と銘打った座談会である。前者は、三木、服部な

どのマルクス主義者を招き、彼らに宗教を語らせようとしたもので

あった。ただし三木の名前は予告には出ていたが、座談会には欠席

していた。本当ならば、三木の記事を対象にした座談が、企画され

ていたと思われるが、

そうはならかった。この二回の座談会は、

ぎのような趣旨で企画された。

今や世界を風麻酔するマルキシズム||それは一切の上に価値

の転換を与えつつある。その舌鋒は宗教の分野にも向けられて

Page 2: て、多くの人々の注目を集め には、三木清の O マ …kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__22F/02__22_1.pdf日している。大正年代の始め、私が学生であった頃は吉野作造先生の民本

第22号

いることは又当然の事である。ここにマルクス主義者しかも宗

教の何たるかを知るであろう諸氏の座談の記を公にして宗教界

人間文化

の参考に処する所以である。宇野円空氏の御尽力を特に謝し他

の諸氏の熱心なる研究を喜ぶ次第である。尚ほ次に宗教より見

たるマルキシズムの高見を更めて拝聴する期があることを待望

する。

二回目の座談会「仏教とマルクス主義」

の方は

もともとは

教より見たるマルキシズム」という趣旨であった。そこに宗教の代

表として招かれたのは、現場の僧侶でも教団の指導部でもなく、宗

教学者と仏教学者であった。

マルクス主義者との論争に加わり、宗

教の立場を擁護したのは、現場の僧侶や教団人ではなく、宗教学者

や仏教学者であった。この時代に宗教学者が、対外的に宗教の立場

を代理表徴していたことに注目しておきたい。

二回の座談会では、忌惜のない討議がなされて

マルクス主義者

と宗教学者の間で真剣勝負の論戦がなされた。

一九コ二年になる

と、四月に反宗教闘争同盟準備会が結成されて、宗教打倒がスロー

その運動は戦闘的無神論者同盟と改称されて、

三四年

五月まで継続した。運動自体は、社会的な広がりをもてずに終わっ

ガンとなり、

たが、戦闘的無神論者同盟の人々にとって、

もはや宗教家、宗教学

者は、対話の相手ではなくなり、

ひたすら打倒すべき敵にしか見え

なかった。その点から見ても

一九三

O年という年に行なわれた座

2

談会は、最初にして、最後のマルクス主義者と宗教学者との対話に

なった。

筆者は

一九三

O年前後のマルクス主義、宗教学の展開を視野に

いれて、この座談会の歴史的意義を考察し

一九三

0年代における

マルクス主義と宗教学の関係について考えてみたいと思う。

一方

乞士='

刀て

で、東京帝国大学経済学部のように戦前より、講座派、労農派を問

わず、

マルクス主義経済学者の住まう場所となったところもある。

日本史学のように、早川二郎、渡部義通らの古代史研究、

羽仁五

郎、服部之総らの明治維新史研究の如く、在野の研究会を中心にし

たマルクス主義の実証的・理論的研究が、戦後の学問的展開の基礎

をつくりあげたりすることもあった。経済学、

日本史学とは違つ

て、宗教学の場合には

マルクス主義との接近は見られず、早くか

ら非マルクス主義、

しだいに反マルクス主義の色彩を強めた。

二、反宗教運動の日本的展開

反宗教運動に入る前に、簡単にマルクス主義の活性化について触

れておきたい。

一九二七年の経済恐慌、二九年の世界恐慌が、大学

に通う青年学生の聞におけるマルクス主義の台頭を促進したようで

ある。矢内原忠雄は、時代の急激な変化について、

以下のように証

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日している。

大正年代の始め、私が学生であった頃は吉野作造先生の民本

主義の論陣が活発であり、次いで河上肇博士によるマルクス主

義経済の普及が始まった。私が始めてマルクス資本論の大要を

教へられたのは、大学一年生の時に於ける吉野博士の政治史の

講義であった。併し当時に於いて学生を支配した進歩的思想

は、概して言へば人道主義的な民主主義であった。然るに昭和

二年の経済恐慌以来、日本の社会情勢は急激に変化し

マルク

ス主義の科学的研究と政治的宣伝とが全く日本の青年学生の心

一九三O年、マルクス主義者と宗教学者の論争(林)

をとらへてしまった。而して政府の弾圧と愚かな思想対策と

が、その或る者らを牢獄に投じ、或る者らを思想的に去勢し

た。かかる状態の下に満州事変に入り、

それから十余年に亘る

戦争中青年たちを風廃したものは軍国主義の思想であった。

学生青年の中でのマルクス主義の浸透を象徴していたのは、福本

和夫の登場であった。フランス、

ドイツの留学から帰った福本は、

これまでの労働者出身の指導者とは違って、外国語で書かれた原書

を読み、自前の理論をもって多くの学生を惹きつけた。福本の論文

が、バイブルのように読まれた時期があった。福本の理論の流行に

ついて、松田道雄は、敵の所在を明示できたことにあったと指摘し

ている。福本は、敵を

「絶対的、専制的勢力」

と名付けて、正面の

敵として名指した。そこでいう

「絶対的、専制的勢力」とは、明治

以来の支配体制であり、大正時代の自由主義の雰囲気で育った学生

にとっても桂桔となっていたものであった。

大正十三年に帰国して昭和二年まで、明治的支配に反感をも

つ学生をとらえた理論家福本和夫の登場は劇的であったが、彼

の没落もまた劇的であった。福本和夫の権威がどれほど大き

かったとしても

それは理論の世界のことであった。学生は

『社会の構成H並に変革の過程』をよみ、『マルクス主義』

期読者になることで福本理論を反第しながら

つぎつ、ぎと日本

訳のでるレ

lニンの著作を

「研究」すればよかった。

ついでに

いえばレ

lニンの翻訳の出版は、大正十四年一冊、大正十五年

十冊、昭和二年三十四冊、昭和三年二十一冊、昭和四年二十三

冊、昭和五年二十一

冊、昭和六年十二冊、昭和七年二冊であっ

た。それが日本共産党の党勢と一致しているのも興ふかい。

一九二七年にコミンテルンが福本理論を批判し、福本が無条件降

伏したために、

日本のマルクス主義者の間ではコミンテルン崇拝が

一層強化された。学生あがりのマルクス主義者に代わって、鍋山貞

親、渡辺政之輔など労働者出身の理論家が返り咲き、共産党を指導

するようになった。東京帝国大学法学部を卒業し、友愛会を経由し

て、労働運動に入った佐野学は、両者の中間にあったと位置付けら

の定

3

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第22号

れる。さきの引用にあったように

レ1ニンの著作を始めてソビエ

トのマルクス主義の書物が

つぎつぎに翻訳されていくようになっ

人間文化

マルクス主義を学ぶ時の語学が、ドイツ語からロシア語へと変

わった。

ロシア語の堪能の青年マルクス主義者が、翻訳者としても

活躍して、

マルクス・レ

1ニン主義の正統的な後継者として振舞う

機会が与えられるようになった。

一九一三年に結成される反宗教運

動に集まった人たちは、

ロシア語系の青年マルクス主義者であっ

た。当事者であった秋沢修二は

つぎにように時代状況の変化を述

べている。

三木清の去ったあと、プロレタリア科学研究所の唯物弁証法

研究会は、川内唯彦、永田広志の二人と私とが中心にとなって

続けていくことになったのだが、川内君も永田君もロシア語を

主としてやっていた。『マルクス主義の旗の下に』もロシア語

で読む。言ってみればドイツ語の唯物論弁証法研究会からロシ

ア語の唯物論弁証法研究会に変わったような形になったわ

7だ。

プロレタリア研究所においても

一九三

O年を境にして三木清か

ら、川内唯彦たちへとヘゲモニーが移り、川内、永田を中心にし

て、ソビエトでの反宗教運動をそのままに模倣した反宗教運動が開

始されるのであった。話は前後するが

マルクス主義と宗教という

問題を本格的に取り上げたのは、佐野学であった。佐野は、『マル

4

クス主義と無神論』(一九二七年)、『プロレタリアートと無神論』

(同年)、『宗教論』(一九二九年)

を上梓し、宗教との闘争が、

マlレ

クス主義の政治闘争にとっても不可欠なものであることを、

ス、レ

lニンなどを引きながら訴えている。共産党幹部であった佐

マルク

野は

一九二九年に逮捕されて、獄中で転向し、左翼運動に一大衝

撃を及ぼした。そのために佐野の存在は、共産党史では無視される

ことが多いが

ソビエトの反宗教の理論を紹介し、宗教的社会主

義、社会民主主義との闘いでもあることを指摘し、戦闘的無神論者

同盟の先縦となった。

三、宗教学の展開

この座談会の、もう一方の主役は、宗教学者であった。宗教学者

は、自らの主観からすると、宗教を科学的に研究する価値中立的な

研究者であり、宗教の擁護者でも批判者でもなかった。しかし

ルクス主義者のみならず第三者の眼には、宗教学者は、宗教の擁護

者にか、ぎりなく近かった。

つぎに日本における宗教学の歴史を一瞥

してみよう。

東京帝国大学に一九

O五年に宗教学の講座ができて、

それ以降、

京都帝国大学、東北帝国大学にも同じ講座は設けられた。西洋の宗

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教学、仏教、

そこでは研究対象となった。東京

キリスト教などが、

帝国大学で講座をもった姉崎正治は、西洋の宗教学説を紹介しなが

らも、心理主義的な宗教観をもっており、宗教家としての

一面を有

していた。姉崎のみならず、初期宗教学は、宗派性を嫌い、諸宗教

の協調を説いたユニテリアン

ユニ

パlサリストの影響を受けてい

た。宗教学は、西洋哲学、倫理学、中国哲学、印度哲学などととも

に哲学系の

一分野であったが、象牙の塔にたてこもる性格ではな

かった。日本に社会主義を紹介したのは

ユニテリアンであったこ

とを、ここで付け加えておいてもよいかもしれない。宗教学者が、

一九三O年、マルクス主義者と宗教学者の論争(林)

日本社会のなかで、学術的な性格を生かして、政治的社会的な面で

活躍したのは

一九一二年の三教会同からであった。内務省次官の

床次竹二郎が発案して、姉崎が協力して、仏教、

キリスト教、神道

の代表者を集めて、将来、国民教化に宗教家を動員しようとした試

みであった。

一九二八年には、昭和天皇の御大典にあわせて日本宗教大会が聞

かれるが、三教会同の系譜を引くものであった。これは、政府が動

いたものではなく、宗教界と宗教学者が協力して行われた。そこで

活躍したのは、姉崎正治より宗教学を学んだ人が多かった。日本宗

教大会では

マルクス主義への反感に満ち満ちており、大会宣言に

も「共産主義等の結社、及其の運動の絶滅を期す」

とあった。

一九三

O年には、宗教学の講座や科目をもった大学の研究者が集

まって日本宗教学会が立ち上げられた。宗教学が、帝国大学と宗教

系の大学の双方で教えられるようになり、制度的な充実を遂げるこ

とができた。大正年間に帝国大学が増え、大学令によって私立大学

が公認されたことが、宗教学を充実させて、日本宗教学会設立を準

備したと見るべきである。宗教学の内実にも変化がおこったことに

ついては、佐木秋夫がつぎのように指摘している。

宗教学は日本に於ては、

その哲学的ないし心理学的方面に於

いて明白な行き詰まりを示しつつあった時期に、

はじめて本格

的に輸入されだした。かくて、

その宗教学の姿は、

むしろ民族

学的ないし社会学的方面に主流を求められなければならなかっ

た。|略ーかかる事情の下に、姉崎、加藤両博士を代表とする

時代を第

一期とすれば、第二期、

すなわち現在の中堅的宗教学

者以後の学界の主流は、寧ろ宗教民族学、宗教社会学を中心と

して進みつつある。もともと宗教民族学が顕著な発達を示し得

たことの根拠は、

それが現実から全く切り離されてゐながら強

く実証主義的であり得る点で一応の科学的粉飾が容易であるた

めに、宗教発生論を中心として一見科学的な、

しかし根本に於

いては宗教的な||教会と矛盾しない||宗教「理論」を樹立

するのに役立つからであり、直接には資本主義諸国の植民地政

5

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第22号

策に基いて未開宗教に関する多くの資料が供給されたからで

ある

人間文化

佐木が説くように、哲学的心理学的な性格を持っていた宗教学

一九二

0年代以降、宇野円空、古野清人などによって民族学、

社会学の理論が受容されて、

それが宗教学の主流を形成した。宗教

学者は、西洋の民族学、社会学の摂取によって、自らを科学の研究

者であると自認するまでに至ったのである。

マルクス主義者と宗教学者の論争

つぎに検討するのは、座談会「マルキシズムと宗教」(一月十六

日)、座談会「仏教とマルクス主義」(三月十八日)

である。宗教の

立場を代表するのが、宗教学者となり、仏教の立場を代表するの

が、仏教学者と見なされていた。仏教学者である木村泰賢は、自ら

を仏教の立場であると唱えており、

そこに矛盾はない。しかし宗教

学者の場合には、主観的には、宗教の立場と同一視されるものでは

戸、、AO

+ん、BUV

マルクス主義者の目からは、宗教家と宗教学者との聞に

ほどの差異がなく、

どちらも宗教の永遠性を説き、信仰しているの

だから、当面の敵なのである。宗教学者は

一般の人の見方から

も、宗教家が学者になったぐらいの存在であろうが、宗教学者の自

意識からは、宗教を科学的に研究する学者であって、宗教批判をも

合む研究の営みに従事しており、決して宗教の立場とは同一視でき

6

るものではなかった。にもかかわらず、結果としてみると宗教学者

は宗教を代理表象し、宗教を肯定する立場に立

っていたのである。

大鳳閣法界雑祖社と中外日報東京支社の共催で、座談会「マルキ

シズムと宗教」が聞かれることになった。『中外日報』

一月十二日

には、予告の記事が載っており、参加者として長谷川如是関、三木

清、神近市子、室伏高信、北沢新次郎、大宅壮

一、江口換、三枝博

音、宇野円空、服部之総、村松正俊、本荘可宗の名前が載ってい

る。しかし一月十六日に催された座談会には、長谷川如是関、宇野

円空、江口換、高津正道、村松正俊、大宅壮一、服部之総、三校博

音が参加し、司会は真渓蒼空朗が行った。その記録は、二月四日号

より「マルキシズムより検討したる宗教」として連載されるように

なった。

この座談会の特徴は、宇野以外はマルクス主義者たちであり、反

宗教の立場から発言している。

一人、宇野は

それに応戦してい

え」

た。以下、

つの論点を紹介したい。

一に、宗祖は革命家であるという見解が出された。服部は、

「多くの祖師達が持って居たアイデアリズム」を認めるが、現実に

人類解放の条件が整った時点では、宗教はかつて持っていた革命性

を喪失しているし、反動化すると指摘した。

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第二に、宗教は搾取の役割をはたすかどうか。江口は、宗教は支

配者による搾取の道具であったという。服部によると、支配階級の

宗教でも非支配階級の宗教でも、

どちらもプロレタリアートの認識

の敵である。現実に人類を解放しようというプロレタリアートの運

動が現存する以上、

その認識を妨げるという意味で敵である。

第三に、社会民主主義者との連帯、宗教者との連帯について議論

が進行し、意見は分かれる。高津は、利用すべきことは利用すると

言い、服部も、宗教家の運動が無産階級の運動に合流する可能性を

示唆する。それに対して、江口、三枝、大宅は、宗教家との合流を

一九三O年、マルクス主義者と宗教学者の論争(林)

拒否する。

第四に

マルクス主義者における宗教のイメージについてであ

る。宇野は

マルクス主義者の宗教は中世キリスト教のイメージで

作られていると言い、彼岸的で救済的な理想主義的な宗教観である

が、現実の宗教はもっと物質的なものだという。この宇野の批判に

対して

マルクス主義者は、宗教H観念論を反復するのみであっ

た。第五に、社会主義で宗教はあるかという問題である。宇野は、社

会主義的宗教も出るかもしれないと言う。

マルクス主義者たちの反

応は鈍く、宇野の立場はフィクションであると切り捨ている。さら

に宇野は、宗教学もマルクス主義も科学であるとしたら、

その科学

性とは何かと述べている。宇野は宗教学を科学であると信じてお

マルクス主義者にとってはマルクス主義が科学というならば、

異なる複数の科学はあるのかどうかという議論を展開しようとした

七三

マルクス主義者の反応は鈍かった。宇野は、宗教の本能的根拠

を述べて、科学にも限界はあるのだから、宗教は残るだろうと指摘

し、服部は、反論して、宗教も生産力に規定された歴史的産物だか

ら、科学的認識に立った場合には将来の宗教は消滅すると述べてい

る第六に

マルクス主義者の葬式はいかに営まれるべきかという問

いである。これは

マルクス主義者の間で議論された。服部は

りえないと切り捨て、三枝は、同志がお経のようにマルクスの著作

を読むようにすべきだと提言している。

この座談会は、

もともとマルクス主義者が宗教について、

どのよ

うな意見を持っているのか、彼らの意見を聞くという趣旨で開催さ

れたが、実際は、非マルクス主義者であった宇野が、残りのマルク

ス主義者と議論を応酬し、双方の意見の相違が際立ってきた。そし

て計らずもマルクス主義者の問でも見解に差異があることが明らか

こょっ

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Lアィ

f

『中外日報』三月十四日に、十八日に

「仏教とマルクス主義座談

会」があることが公示されている。参加者は、木村泰賢、矢吹慶 あ

7

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第22号

輝、高島米峰、宇野円空、小野清一郎、二木保幾、川合貞

一、古野

清人、長谷川如是閥、河上肇、猪俣津南雄、服部之総の名前が、順

人間文化

不同と断り書きがあって挙がっている。当日近くなって、河上肇

は、労農党委員会が出席を中止するように決議して、参加できなく

なった。猪俣は、新潟の母親が悪くなり、急速、新潟に帰ることに

なった。その代わりに本荘可宗、村山知義が、参加することになっ

一月十六日の座談会が、宇野以外は

みなマルクス主義者であ

り、彼らが宗教諭を展開して、宇野が応戦するというかたちであっ

た。宇野は一人で

マルクス主義者と論争した。二回目の座談会

は、宗教学者、仏教学者の数が増え

マルクス主義者と対決した。

こちらの方は、両者の対立は深刻で、亀裂がはいりこんだ。どちら

の立場からも、再度議論を行った方がよいという発言は聞かれな

、A

、JFao

,刀て宇九

座談会「マルクス主義と仏教」

は、古野が司会を進行させ、

五つ

の大きな論点をめぐって議論はすすんだ。

第一に、論者による

「宗教」

の定義についてである。各人ごとに

定義が多様で、収拾がつかなかった。矢吹は、

キリスト教と仏教と

の違いを強調し、神本位と人間本位の相違であると述べて、拝むこ

とに宗教の意味を見ようとした。本荘は、独自な立場から宗教と

は、他力道のことであり、華厳天台は東洋の自然弁証法であると主

8

張した。これに対して、宇野は他力を宗教の基準とするのは間違い

であり、超自然的なものに出会い、感激することの生活が重要だと

述べている。宗教学者の意見も区々に分かれ、本荘のような仏教マ

ルクス主義者は、仏教の知識とマルクス主義の知識をブレンドして

独自な世界観を語ろうとしていた。

第二に、宗教はいつまでも永遠のものか

いずれは消滅するのか

という点が争われた。服部は、宗教は歴史的のものであり、永遠な

ものではないという原則論を述べた。

それに対して、木村、宇野

は、社会変革のあとの社会主義社会でも、精神的安心の問題はある

であろうし、

だから宗教は残ると主張した。矢吹も、

パンのあとに

も問題が残り、宗教は滅びないという。矢吹によると、

日本の仏

教、西洋のキリスト教の歴史を見た場合に、宗教の社会的力を消滅

させることはできない。宗教が無くなるというマルクス主義者こ

そ、空想的だと反論する。

それらの議論に対して、長谷川は、パン

は現在の問題であり、

それの解決こそが大切だと反論した。この点

では

マルクス主義者と宗教学者とは、互いに妥協できない、ぎり

ぎりの線に立っていた。矢吹によるマルクス主義者批判は、自らも

社会問題に取り組んでいるだけに厳しく

マルクス主義のような極

端な考えでは、社会問題の地道の解決はできない。仏教の腐敗では

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なく社会の腐敗こそが問題であり、

それは社会政策として漸次的に

取り組む必要があるという。

第三に、木村が

マルクス主義者は経済を行い、自分のような仏

教学者は仏教を研究して、

それを以て互いに分業し、集中したらど

うかと提言する。なぜならばマルクス主義者の社会的提言には意味

があり

マルクス主義と仏教教理の聞にも共通点があると思うから

である。宗教学者が

マルクス主義者との協力・共存を否定したの

に対して、木村は共存の可能性をさぐる。もちろん木村個人の思想

的な資質もあるであろうが、宗教学者と微妙に異なるスタンスがあ

一九三O年、 マルクス主義者と宗教学者の論争 (林)

マルクス主義者と仏教学者の共存と分業の提言は、

三木清の立

る。場に近い。

第四に

マルクス主義者の間で、意見の相違があらわになった点

である。それは、長谷川と服部の間で宗教家との論争の意味につい

てであった。長谷川からすると

いくら宗教家と理論的な闘争をし

ていても無駄である、階級を倒しさえすれば、宗教もなくなるから

である。だから実践・行動こそが重要である。服部は、

それをマル

クス主義的な見地ではないと退け、理論闘争に勝ってこそ、実践の

レベルでも勝てるのだと強調した。

以上、二回の座談会の内容をたどってきたが、二回とも出席した

長谷川如是関、服部之総が論客として

マルクス主義の立場を主張

した。二回目の座談会では、宗教学者が反論を展開させて、双方の

間で妥協点がないことが明らかになった。

マルクス主義者の間で

は、宗祖は革命家か否か、

なぜ宗教はプロレタリアートの敵と認識

されるのか

マルクス主義者の葬式はどうしたらよいのか、理論闘

争が先か実践が先か、

という話題はあがった。それと比較して、

ルクス主義者と宗教学者との間では、社会主義革命によって宗教は

滅びるものか、宗教は永遠に残るものかという問題と、

マルクス主

義者と宗教家は協力し、共存できるのかという問題の二点に絞られ

てきた。前者の問題では

マルクス主義者と宗教学者の間で決定的

な亀裂が深まった。

マルクス主義者は

いずれ革命は迫っており

宗教は消滅すると信じており、宗教学者は、

たとえ現存する教団的

な宗教が衰退しようが、宗教的なものの不滅性を疑ってはいない。

宗教は人間存在や社会にと

って不可欠なものだという学問的な信念

が、宗教学者の人生観を支えていた。後者の、

マルクス主義と宗教

家の協力、共存は

マルクス主義の立場を二分した。服部之総は

彼なりに肯定し、高津は、

もっと積極的に宗教家がプロレタリア

l

トの運動に参加することを呼びかけている。それに対して長谷川、

大宅、江口、三枝は両者の協力を否定する。

一九二二年に設立され

る戦闘的無神論同盟は

マルクス主義と宗教家の協力を断ち切り

反宗教を掲げて、宗教撲滅に励む運動をおこした。その中心にいた マ

9

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第22号

川内唯彦にとっては

マルクス主義者が宗教学者や仏教学者と議論

すること自体が、無意味なことであった。実際、三木、服部ではな

人間文化

く、川内、永田広志、秋沢修一のような若いロシア語の世代が、

九一三年以降の反宗教運動を担っていき、公式的なマルクス主義の

中核を握ることになった。

表ーと図ーによって、論者の見解の相違を表と図に表示してみた

が、おおよその傾向性を理解するためであり

それ以上の意味はな

い。表lにあげたマルクス主義者には寺院の子弟であったり、仏教

的な素養に培われていたりする場合が多かったことを指摘しておき

たい。宇野、古野のような宗教学者の場合には原始宗教の専門家で

あり、民族学的知見から、宗教の定義を行い

マルクス主義の無神

マルクス主義者、宗教学者の見解一覧

教刀て 力者両

2伊心へ匂 原哲刀教、心関 仏教

減不 共存協の '̂ の

× ム × × 長谷111

× × × × 枝

× 。× 。津高

× 。× 。服部

。。× 。木

。。× 。木村

。× × 。矢吹

。× 。。。× 。×

(注)有無、賛成・反対を、

O、×で表記したが、実際には論者の見解は二分

できないことの方が多い。ムはどちらとも言えない時に使用した。

論を相対化してみせる。そ

れだけではなく

この座談

では話題に上らなかった

が、宗教起源について、宗

教学者は

アニミズム説に

〈宗教不滅〉

固執するソビエトの宗教論

の時代遅れを指摘し、プレ

アニミズム説、

三木

木村

マナ説、

デュルケ

lム社会学の最新

〈非協力〉〈協力〉

三校

長谷川

服部

高津

〈宗教消滅〉

協力・消滅について論者の配置

ハU唱EEA

図 l

成果を紹介してみせるという、日本のマルクス主義者にはできない

議論を展開できたのであった。当時の日本の学術世界で、

こうした

レハ

1ノフ

分野の最先端にいたのが、宇野であり、古野であった。彼らは、プ

ルカチェアスキーなどのソビエトの宗教論の、西洋民

族学の理解の遅れを冷笑した。

五、ま

あり、 一

九三

O年という年は、戦闘的無神論者同盟が結成される前年で

まだマルクス主義者と宗教家との間での対話の余地が残され

この問題を取り上げたのは、編集者に真渓蒼空朗、

ていた時であった。仏教系の業界紙である『中外日報』が大々的に

三浦参玄洞とい

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う仏教マルクス主義者がいて、彼らのつながりで著名なマルクス主

義者を呼ぶことができたからである。真渓、三浦は、三木と同様に

マルクス主義の運動に共感をもって参加

を呼びかけようとしたと思われる。しかし一九=二年の戦闘的無神

寺院の青年僧侶に向けて

論者同盟の結成によって、こうした仏教とマルクス主義の共存と協

力の模索は否定されてしまい、対話はありえなくなった。『中外日

報』の社主の息子であった真渓は、戦闘的無神論者同盟にも入会し

ている。

かたや宗教学者の世界は、大正年間に帝国大学にも講座が増え、

一九三O年、マルクス主義者と宗教学者の論争(林)

宗教系大学にも学科、科目が置かれて、制度的にも充実し、

一九三

。年には日本宗教学会が樹立される。

一九二八年には昭和天皇の御

大典にあわせて日本宗教大会が開かれるが、

そこで活躍したのは、

姉崎正治の門弟たちであった。日本宗教大会、

その後の日本宗教学

ム冨においては

マルクス主義からの反宗教運動、宗教リ阿片説への

反感と対抗はつよかった。日本宗教大会では、大会宣言は

「不健全

なる唯物主義の能くする所でなく、最高最深の意味に於ける宗教的

信念に依つてのみ、之を完成し得ることを信ずる。依って吾等宗教

者は、反省自覚協心裁力、以て昭和の聖代をして

「光は東方より」

の真善義を実現するに至らしめんことを期する」

と締めくくられて

いマG

。一九二

0年代に国家的な公認をうけて、制度的な充実を計つ

た宗教学は

マルクス主義という時代の寵児と対決することによっ

て、自らの学問の社会的な効用を対外的に披露し、宗教界に対して

も頼りになる立場を築くのに成功したのであった。

注(l)

『中外日報』一九三

O年二月四日号(マイクロフィルム版)。

(2)

反宗教運動、戦闘的無神論者同盟については、本間唯一「反宗教

運動」(『日本宗教史講座』二三書房、一九五九年)、川内唯彦・犬丸

義一「反宗教闘争同盟、唯研創立のころ」(『現代と思想』四号、一九

七一年六月号)、秋沢修二「反宗教闘争同盟と唯物論研究会」(『社会

主義』一九七六年三月号)、本村四郎「日本マルクス主義無神論史序

説」(『季刊唯物論研究』一六・一七号、

一九八五年)『秋沢修二論述

集』(すくらむ社、一九八七年)、田中真人「共産主義者の反宗教運

動」(『排耶論の研究』一九八九年)。

(3)

矢内原忠雄『マルクス主義と基督教』(新教出版社、一九四七

年)。

(4)

松田道雄「解説」(『近代日本思想大系昭和思想集I』筑摩書

房、一九七四年)。

(5)

(2)の秋沢修二「反宗教闘争同盟と唯物論研究会」。

(6)

佐野学『宗教諭』(上野書届、一九二九年)。

(7)

磯前順一・深津英隆『近代日本における知識人と宗教|

|姉崎正

治の軌跡||』(東京堂出版、二

OO二年)。

(8)

三教会同については、藤井健志「戦前の日本における宗教教団の

協力」(『宗教聞の協調と葛藤』佼成出版、一九八九年)、李元範「日

11

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第22号

露戦争後の宗教政策と天理教」(『宗教研究』二九四号、

一九九二年)。

(9)

日本宗教懇話会編『御大典記念日本宗教大会紀要』(日本宗教懇

話会、一九二八年)。

(叩)東京帝国大学宗教学講座創設二十五年記念会編『宗教学紀要』

(同文館、

一九三O年)。

(日)林淳「宗教系大学と宗教学」(『季刊日本思想史』七二号、

二00

七年)。

(ロ)佐木秋夫『宗教学論』(三笠書房、一九三七年)五七

1六O頁。

(日)中外日報東京支局編『マルキシズムと宗教』(大鳳閣書房、一九

三O年)に収録された。

(M)

長谷川のほうが、ソヴィエトの反宗教運動の立場に近かったと思

われる。

12

人間文化

(日)姉崎正治「会長の挨拶要旨」(日本宗教学会編

『日本の宗教学』

大東出版社、

一九三三年)。

(日)反宗教闘争同盟編『反宗教闘争の旗の下に』(共生閣、一九二二

年)。

(口)古野清人「マルクス主義の宗教理論」(『マルキシズムと宗教』大

鳳閣書房、一九三

O年)。

(日)三浦参玄洞『左翼戦線と宗教』(大鳳閣書房、

は、青年僧侶への叱時と共感にあふれでいる。

一九三

O年)に

〈謝辞〉反宗教運動、戦闘的無神論者同盟について、磯前順一氏、大谷

栄一氏よりご教示を賜わり、さらに資料を閲覧させていただいた。ぉ

二人にお礼を申し上げる次第である。

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資料

マルクス主義と宗教学の年表

一九三O年、マルクス主義者と宗教学者の論争(林)

一 一 一 一 一 一 一九 九 九 九 九 九 九 九 九 九 年次

一 一。 九 J¥ 七 f¥ 五 四 一 J¥

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お十事者盟同 六一 十五五

教会財産接収 教分離令国こ一月 月 二 月月

P月 る月 月F 第

I 連無神論者盟同ソ P I

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十二十月 九月 十十三十月 九月月月 1 一一月

一 月 月月

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化『際文国 新輿科学『 共壁千串二り佐野学 佐学野

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13

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人間文化第22号

一 一九 九 九 九

四 一 一一

活動衰退

十五五月月月 主十月七月五月四3二月 十二 十一十一十月 九月 盟同九月 七月 六月 四月 七月 六月 六月 五月 四月 三月二月月

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14