瀬戸の魅力再発見 まちめぐり part8...

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1 歴史文化基本構想ワークショップ 瀬戸の魅力再発見 まちめぐり Part8 水野地区 瀬戸市交流活力部文化課 平成28年2月28日 ( 日 ) ①水野代官所跡→②三 さんじゃだいみょうじんじゃ 社大明神社(マルバタラヨウ)→ ③東 とうこうじ 光寺→(④殿様街道)→⑤八幡神社(ツブラジイ)→ ⑥御 おはやしかたぶぎょうしょあと 林方奉行所跡→⑦北脇の大 おおむく 椋(ムクノキ)→(⑧地下軍需工場跡) 「山の中でも水野は城下、地 じかた 方・山 やまかた 方両役所」 これは、地元で謡われてきた里謡です。地 方とは水野代官所、山方とは御 おはやしかたぶぎょうしょ 林方奉行所の ことで、江戸時代の尾張藩政の重要な機関で ある二つの役所がともにこの水野の地にあ り、名古屋城下と直接的に繋がる地区である ことを謡っています。 水野川沿いに広がる水野地区は、古くは縄 文時代中期末の狩猟用と考えられる落とし穴 が発見された内 うちだ 田町遺跡や、北側丘陵内に広 がる穴 あなだ 田古墳群・四 よつや 谷古墳群など、原始・古 代から人々の暮らしがありました。平安時代 から中世にかけては、この地域を拠点とした 水野氏に係る文書類や定光寺の祠 しどうちょう 堂帳、条 じょうり ちわり 割の痕跡や地名などから、耕地の開発が進 み社寺や集落などが整っていったことが伺え ます。 この水野が「城下」と謡われるようになる のは何故でしょうか。その答えを探しにまち を巡ってみましょう。 水野盆地の米軍航空写真 昭和23年(1948)

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歴史文化基本構想ワークショップ

瀬戸の魅力再発見 まちめぐり Part8 水野地区

瀬戸市交流活力部文化課平成28年2月28日 ( 日 )

①水野代官所跡→②三さんじゃだいみょうじんじゃ

社大明神社(マルバタラヨウ)→③東

と う こ う じ

光寺→(④殿様街道)→⑤八幡神社(ツブラジイ)→⑥御

おはやしかたぶぎょうしょあと

林方奉行所跡→⑦北脇の大おおむく

椋(ムクノキ)→(⑧地下軍需工場跡)

「山の中でも水野は城下、地じ か た

方・山やまかた

方両役所」

 これは、地元で謡われてきた里謡です。地

方とは水野代官所、山方とは御おはやしかたぶぎょうしょ

林方奉行所の

ことで、江戸時代の尾張藩政の重要な機関で

ある二つの役所がともにこの水野の地にあ

り、名古屋城下と直接的に繋がる地区である

ことを謡っています。

 水野川沿いに広がる水野地区は、古くは縄

文時代中期末の狩猟用と考えられる落とし穴

が発見された内う ち だ

田町遺跡や、北側丘陵内に広

がる穴あ な だ

田古墳群・四よ つ や

谷古墳群など、原始・古

代から人々の暮らしがありました。平安時代

から中世にかけては、この地域を拠点とした

水野氏に係る文書類や定光寺の祠しどうちょう

堂帳、条じょうり

地ち わ り

割の痕跡や地名などから、耕地の開発が進

み社寺や集落などが整っていったことが伺え

ます。

 この水野が「城下」と謡われるようになる

のは何故でしょうか。その答えを探しにまち

を巡ってみましょう。

水野盆地の米軍航空写真 昭和23年(1948)

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水野三郷 水野地区は江戸時代の上

かみ

・中なか

・下しも

の水野

三村にあたります。文献上で「水野」の

地名が現れるのは永仁6年(1298)の

『熱あつたしゃりょうしんべつのうごうとうちゅうもんあん

田社領新別納郷等注文案』にある「水野

上かみみくりや

御厨」です。「上」は水野川上流部を指す

ものと考えられ、「水野」は現在の品野地区

も含めて水野川流域を指す所領名であったよ

うです。またこの所領は「山やませんよちょう

千余丁」を含む

とされ、耕地だけでなく広大な山や荒野も囲

い込んだ所領とされています。

 その後、15世紀から16世紀にかけて

の寄進者を記録した定光寺の祠堂帳には、

水野「上かみごう

郷」、「中なかごう

郷」、「下しもごう

郷」の記載があ

り、江戸時代の三村の前身となる「郷」と

してのまとまりがあったものと思われます。

『寛かんぶんむらむらおぼえがき

文村々覚書』によれば、上水野村は石高

(元高)704石、戸数76戸、人口456

人、中水野村は石高408石、戸数31戸、

人口227人、下水野村は石高258石、戸

数29戸、人口149人となっており、瀬戸

市域でも規模の大きな村落であったことが分

かります。

 水野川は、東部山地内の片かたくさ

草川・白しらいわ

岩川

等を源流とし、上品野町から鹿か の り

乗町までの

12.37Kmを流れる市内最長の河川です。

市域北部の古こ せ い

生層や花か こ う が ん

崗岩層などの基盤岩類

に沿うように流れ、十軒町から鹿乗町の間は

古生層の固い岩盤地帯を削って庄内川へと合

流しています。

 水野地区への入口と河口付近は、いずれ

も固い岩盤のため狭く、落差が大きな渓谷

となっています。入口付近では支流である

樋と い が さ わ

ヶ沢川に花か こ う

崗岩の方ほうじょうせつり

状節理による「石いしどい

樋」

(瀬戸市指定名勝)、河口側では小石により穿

目鼻石(十軒町)石樋(水北町)

たれたポットホールによる「目め は な い し

鼻石」(瀬戸

市指定名勝)などがみられ、独特の峡谷美が

形成されています。

 一方、水野盆地内ではゆったりと大きく蛇

行した流れとなり、水田を主体とする豊かな

耕作地が広がっています。この沖積地は、水

野川が何度も氾はんらん

濫して形成されたもので、時

には水田や集落に大きな被害をもたらしまし

た。明和4年(1767)の大水では、上・

下水野村では集落が水没し、上水野村では南

側の新田へ集落が移動しています。

水野川

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城主とされています。

 水野系図では戦国時代に致むねまさ

正、致むねかつ

勝が織田

信長、信雄父子に仕えたとされていますが、

他の史料では確認できません。致勝の子致むねしげ

(番)の代に尾張徳川家へ召し出され、「水野

御案内」として初代藩主義よしなお

直へ仕えています。

 水野氏系図によれば、水野氏は海あ ま ぐ ん

部郡諸もろくわ

(愛西市)に拠点を置く桓か ん む へ い し

武平氏で、12世

紀末に平たいら

高たかいえ

家(隆家)が志談郷の郷司に任じ

られたとする文書があり、このころから名古

屋市の志段味地区へ進出してきたようです。

その後、13世紀に水野地区へ勢力を拡大

し、14世紀には水野氏を名乗るようになり

ます。

 南北朝時代になると、足利尊たかうじ

氏と弟の義よしなお

が対立する「観かんおう

応の擾じょうらん

乱」に水野致むねあき

秋(致顕)

が義直派、水野致むねくに

国が尊氏派に分かれ伊勢や

近江で戦います。義直派が敗れた後、致秋は

新田氏につき関東に所領を得ています。しか

しその後水野に戻り、致国の権益を吸収して

水野の支配権を得たようです。なお、致秋の

子致むねたか

高は水野川河口付近に所在した入い り お

尾城の

水野氏

水野家墓地

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1 水野代官所跡 尾張藩の村方支配は、名古屋城下の国奉行

所で行われ、代官や奉行は現地には赴任せず、

必要に応じて手代を派遣する程度でした。し

かし18世紀後半になると、大洪水などの災

害が相次ぎ、加えて役人の不正や農村の困窮

など、問題が山積するようになってきました。

そのため天明元年(1781)に大改革を行

い、現地に代官所を置き、所付代官を赴任さ

せることになりました。

 水野代官も天明元年に設置され、初代代官

には林奉行の水野正まさゆき

恭が就きました。

 代官所は中水野村の御鳥林の麓に置かれま

すが、当初は役人の官舎がある程度でした。

代官職が水野氏の手を離れると、本格的な陣

屋整備が文化10年(1813)に行われま

す。

 水野代官所の支配村は愛知郡25ヶ村、

春日井郡81ヶ村、美濃国可児郡5ヶ村の

111ヶ村で、石高6万1310余石でした。 水野代官所碑

陣屋には代官の他、手代、同心(足軽)、小

使が置かれ、支配下の村への触れの伝達、年

貢免定の発給、庄屋の任命、百姓からの願い・

訴えの受理など民政全般を行っていました。

2 三さんじゃだいみょうじんじゃ

社大明神社(マルバタラヨウ) 三社大明神社は中水野の村社ですが、初め

は水野三村の氏神であった尾張戸神社の里宮

として創建されたと伝えられています。『寛

文村々覚書』に社地は「前々除」(太閤検地

の免租地)とあり、創建時期は織豊期まで遡

ることができます。

 神社南側には、神社の祭祀に用いられた

「湯ゆ ざ さ

笹」の採集地という伝承があり、小字名

が残っていました。

 社しゃそう

叢の中に、市指定天然記念物のマルバタ

ラヨウがあります。モチノキ科のモチノキと

タラヨウの交雑種で、昭和54年(1979)

に日比野修氏によって発見され、平成8年

(1996)に学会誌に新種として報告され

ました。国内では最初の発見で、新種の植物

の発生過程を考える上でも、全国的に貴重な

発見です。

三社大明神社

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3 東と う こ う じ

光寺 薬王山東光寺は臨

りんざいしゅうみょうしんじ

済宗妙心寺派の寺院で、

定光寺の末寺です。永えいしょう

正元年(1504)

雪せっしん

心和尚による開基と伝えられています。本

尊は観世音菩薩、また秘仏として行基作と伝

えられる木造薬師如来があります。大般若会

が感応寺と1年ごと交替して1月15日に、

地蔵祭りが8月第4日曜、お薬師が11月8

日、12日に行われます。

東光寺

 殿様街道沿いの寺院であることから、尾張

旭市印場の良りょうふくじ

福寺と共に藩主の休憩場所と

されていました。また、東光寺の西側には

「七ひ ち ろ う ざ

郎左」の小字があり、中水野庄屋を務め

た桜井七ひ ち ろ う ざ え も ん

郎左衛門屋敷があったとされていま

す。桜井七郎左衛門は代々苗字帯刀を許され

た水野三村中最大の豪農であり、東光寺創建

の際、京より雪心和尚を招いたのも七郎左衛

門であると地元では伝えられています。

4 殿様街道 尾張藩主の行列が通ったことから名づけら

れました。尾張藩初代藩主義よしなお

直が葬られた定

光寺への墓参りの道として,また水野の付近

で行われた狩りのために通う道です。

 東光寺の前の水野大橋を渡って東に折れ、

山に入っていき、定光寺野外活動センター前

の林道を正伝池に向います。

 尾張藩初代藩主義直は元げ ん な

和2年(1616)

に名古屋城へ入ります。これ以降、義直によ

る尾張統治が行われますが、藩主として領国

内の民情を把握するため行われたのが、鹿

狩や鷹狩でした。特に水野には、元和8年

(1622)に初めて訪れて以来、20回以

上訪れています。また、義直は鷹狩の際、定

光寺を訪れ、その景観に感銘を受け、自ら定

光寺を墓所と定めたとされています。

 義直と二代光みつとも

友の時代には、水野に別荘を

建てたとする記録があります。場所は水野

久きゅうのじょう

之 丞屋敷の本田高の内とされ、「水野村狩

場・殿舎図」では上水野村に「御殿」が描か

れており、後の御林方奉行所の場所にあった

ものと思われます。殿様街道

東光寺薬師堂

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5 八幡神社 上水野村の村社で、社伝は不明ですが、尾

張藩二代藩主徳川光友によって再建されたと

伝えられています。

 境内には、本殿、武内神社、直会殿宮があ

り、周辺は鬱そうとした社叢に囲まれていま

す。南西側には市内最大のツブラジイの木が

ありますが、老木のため幹の上部が大きく枯

れています。その下には常夜灯が置かれてい

ます。 八幡神社

6 御おはやしかたぶぎょうしょあと

林方奉行所跡 「水野御案内者」として尾張藩に召し出さ

れた水野氏は、狩場や水野御殿の管理の他に

藩林地(御おはやし

林)の支配も合わせて行っていま

した。五代将軍綱吉の「生しょうるいあわれ

類憐みの令」によ

り狩猟の規制が行われると、御林支配が主

体となり、享保元年(1716)に御林方

奉行職に任ぜられます。その後、元文5年

(1740)に水野御殿敷地に御林方奉行所

が置かれたと考えられています。

 御林方奉行所では、最初は愛知郡、春日井

郡の御林の管理を行っていましたが、後に知

多郡の御林も支配に組み入れられています。

天明期の御林方奉行所には奉行の他手代5

人、手代並1人、御案内25人、足軽(同心)

11人、中間5人、御案内之者36人他で総

勢94人が配下となっています。主な職務と

しては植林、伐採、枝下し、下草刈り、諸普

請への材木の供給、土取りの許可などがあり、

現在の山林管理とほぼ同様な業務を行ってい

ます。

7 北脇の大椋(ムクノキ) 水北町では大イチョウと並んで目を引く大

木です。樹高は20m、樹冠は傘を架けたよ

うに枝をたれ、優しい樹形をしています。樹

齢600年とも言われる老木です。

  こ の ム ク ノ キ の 下 に は 阿 弥 陀 堂 が あ

り、薬師如来が祀られています。寛政4年

(1792)の村絵図でも、北脇嶋の西に「ミ

ダ堂」が描かれています。

ムクノキ合掌観音

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8 地下軍需工場跡 ( 愛知航空機㈱瀬戸工場 ) 愛知航空機㈱は昭和18(1943)年に

設立され、名古屋市港区の永徳工場で「彗星」

「流星」等の戦闘飛行機を生産しました。昭

和20年(1945)には空襲の激化に伴い、

大 垣・ 福 井・ 瀬 戸・ 津 な ど に 疎 開 工 場 が 作

られ、瀬戸には水野丘陵地に地下工場 ( 零地

区 )、 菱 野 地 区 に 覆 土 工 場 ( 百 地 区 ) が あ り

ました。零地区では一~五区からなる総延長

3,900mのトンネルが掘られ「彗星」の

翼部分を製造しましたが、まもなく終戦をむ

かえ、現在は坑道入口や貯水漕等のみが地上

から見ることができます。

コンクリート造の坑道入口 ( H17年に進入防止柵設置 )

水野小学校

瀬戸

市民公園

陸上グラウンド

地下軍需工場跡 ( 零地区第一・二区 ) の坑道・入口および貯水槽( 瀬戸地下軍需工場跡を保存する会2010『証言・資料集第4集 平和への散歩道を ぼくらの街にも戦争があった』より作成 )

第 一 区

第 二 区

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 水野地区には古城跡として入い り お

尾城、大おおひらやま

平山

城、シンド山城、一色山城が所在したとされ

ていますが、現在も遺構が確認できるのは一

色山城です。県道定光寺山脇線の西側の丘陵

内にあり、標高240mの尾根上に幅30m、

長さ120mの平坦面が確認できます。堀切

や中段に小曲く る わ

輪なども残っています。

 地誌類によれば鎌倉期の水野氏の居城とも

戦国期の磯い そ む ら さ こ ん

村左近の居城ともされています。

磯村左近は織田信のぶひで

秀(信長の父)に仕え、天

文3年(1534)に落合城の戸と だ い え み つ

田家光と

余よ と こ

床で戦って戦死したとも伝えられ、地元に

はその落城にまつわる「ちゃぼ」という伝説

も残されています。

 昔田窯跡は昭和43年(1968)に市内

で最初に発掘された大窯(第1号窯)です。

平成15年(2003)には保存目的の試掘

調査が行われ、さらに2基の窯(第2・3号

窯)が発見されました。

 この3基の窯は、古瀬戸後期末から大窯の

初めにかけてのもので、地下式の窖あながま

窯から地

上式の大窯への変遷を知ることができます

(第3号窯→第2号窯→第1号窯)。

 昔田第3号窯が最も古く、全長7.2m、

最大幅2.0mで、側壁は地面を掘り込んで

作る地下式構造で、古瀬戸後期末の窯です。

これに対し第2号窯は、全長8.2m、最大

幅2.5mで、側壁は窯体の外側に土を積み

上げ、石材を張り付けた地上式の構造で、焼

成室内には天井を支える支柱がありました。

さらに第1号窯は、全長8.2m、最大幅3.

2m、地上式構造で焚口と燃焼室には石材が

使用され、分炎柱の奥には左右各7本の小分

炎柱、段差30㎝の昇炎壁がある典型的な大

窯構造の窯でした。

 これまで窖窯から大窯へ窯構造がどういっ

た過程で変遷するかはあまり分かっていませ

んでしたが、この昔田窯跡の調査により、具

体的な変遷過程を知ることができるようにな

りました。またこの旧上水野村域には、古瀬

戸後期にあたる水北A・B窯跡、大窯初期の

窯である小お が ね や ま

金山窯跡などがあり、戦国期にお

けるひとつの郷村の中での窯場変遷を知る上

で貴重な地域です。

昔田窯跡

一いっしきやま

色山城

昔むかしだ

田窯跡

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穴田窯跡 穴田窯跡は江戸時代前期の窯場で、現在ま

でのところ、4基の連房式登窯が調査され、

未確認のものを含めると6基の窯が存在する

と考えられています。昭和52年~55年に

かけて第1・2号窯の調査が行われ、平成

22年~23年にかけて崖地解消工事に伴う

試掘調査と本調査が行われました。

 全体の形状が分かる第1号窯は、全長

14.7mで燃焼室と11房の焼成室が確認

されています。焼成室間は通炎孔である狭間

によって繋がれており、有段斜め狭間の構造

となっていました。また、第2号窯は煙出し

が破損していますが、残存長23.5mで燃

焼室と焼成室15房の有段斜め狭間構造の窯

で、燃焼室に奥壁と一体となった分炎柱があ

る特徴的な構造を持っています。

 第1号窯から出土した敷しきがわら

瓦は、定光寺

源げんけいこうびょう

敬公廟の焼しょうこうでん

香殿(国指定)に使用されたも

のと同形で、水野久之丞の名前を墨書したも

のも含まれており、「水野御案内役」の水野

氏が窯場に対し尾張藩御用を命じていたこと穴田2号窯跡

が分かります。また窯屋文書では、穴田窯跡

のある「上水野村かまの洞」の陶工4名が「御

林方役人衆之屋敷」造営のため引っ越しを命

ぜられたという記事があり、窯場廃絶の経緯

も文書から推察できます。

 源敬公廟造営に伴う敷瓦制作や水野氏との

関係など、近世初期の窯屋と尾張藩の関係を

知る上で貴重な窯跡となっています。

歴史文化基本構想関連事業 今後のスケジュール   日時:3月5日(土)午後1時~3時30分

   場所:瀬戸市文化センター 交流館3階 31会議室

   事業:ワークショップ みんなで語ろう~昔も今も すばらしい瀬戸~

   内容:第1部 地域の歴史文化紹介・語り部トーク

      第2部 みんなで語ろう「ほ~やげな大交流会」

瀬戸市歴史文化基本構想ホームページ   現在、策定している瀬戸市歴史文化基本構想の取り組みを紹介するホームページ

  を開設しました。

   これまでに開催した「まちめぐり」や「学び塾」の様子を紹介するとともに、「まち

  めぐり」の資料をダウンロードすることができます。

アドレス:http://seto-cul.jp/rekibun/                           ぜひ、ご覧ください。

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水野代官所跡

水野代官所跡

水北保育園三社大名神社

三社大名神社

マルバタラヨウ

東光寺

東光寺

八幡神社

八幡神社

御林方奉行所跡

御林方奉行所跡

北脇の大椋

北脇の大椋

殿様街道

ツブラジイ

ツブラジイ

まちめぐりPart8

水野地区コース(予定)