かつて福島市と伊達市内を結んでいた路面電車 合併 …3...

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3 かつて福島市と伊達市内を結んでいた路面電車 合併する以前から伊達市をひとつに結んでいた そして、伊達市誕生 10 年の節目に帰ってきた 世代を超えて語り継がれ、市民の心を結ぶだろう

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かつて福島市と伊達市内を結んでいた路面電車合併する以前から伊達市をひとつに結んでいたそして、伊達市誕生 10 年の節目に帰ってきた世代を超えて語り継がれ、市民の心を結ぶだろう

路面電車で結ばれていた元気だった時代のように

チンチン電車を修復しようとしたのは、ひょんなきっかけからでした。数年前に新聞記者から「駅前(保原バスセンター付近)じゃないのに、なぜ駅前なのか」と聞かれて、

「昔に走っていた路面電車の駅だったから」などと路面電車の話をしているうちに、「路面電車は現存するのか」と聞かれ、保原中央交流館の隣にボロボロとなって保存されていた路面電車を紹介したことが修復のきっかけとなりました。 保原ロータリークラブの仲間に会うたびに、「チンチン電車を修復してはどうか」と始めのうちは冗談で話しているうちに、ボディを修復してくれた協三工業さんとつながりを持つ会員や、内装などの修復をしてくれた白井木工所さんや酒井東栄さんがいてくれたことで、修復が現実味を帯びてきました。ただ、修復費用は現実的に難しいものがありましたが、市をはじめとして、企業や個人から協力をいただくことで、修復できることになりました。 私のチンチン電車との出会いは、昭和 39 年に保原へ引っ越してきたときに、伊達の保育園まで毎日チンチン電車に乗って通園していました。当時はチンチン電車が通勤、通学に利用され、当たり前の存在で欠かせないものでした。路面電車は、伊達市旧 5 町を繋いでいて、路面電車で結ばれた旧 5 町は路面電車と共に発展して結びつきの強いものになっていたと思います。その後、路面電車の廃止により、各町独自の発展へと時代が変わっていきます。そして平成の大合併により 5 町が合併して伊達市が誕生し、再び結びつき、ひとつになったのは路面電車で結ばれていたからではないかと思います。 路面電車が走っていた時代は、地域が元気だった時代です。震災・原発事故以降、元気のない状況が続いています。修復することで、路面電車への恩返しと再び元気だった時代のように元気で活気あふれる伊達市になってほしいです。

私の知るチンチン電車

若いときから鉄道ファンで、路面電車の写真を 120 枚ほど撮っていました。退職後に地元の伏黒郵便局のスペースを借りて 20 枚ほどの写真を展示したら、報道で

取り上げてくれたこともあり、静岡や埼玉からも写真を見に来てくれるほど大きな反響がありました。そのような活動を行っていくうちに、仲間が増え、「路面電車を偲ぶ会」を発足して、現在も写真の展示などを通して路面電車を伝える活動をしています。 全国的に見てもこの路面電車は、町と町を結び、総延長が長かったこと、そして田園の中を走っていた、非常に珍しい路面電車でした。それは当時、この地に全国的に評価の高い養蚕があって、それを運ぶために鉄道が必要だったからです。そんな路面電車の中でも修復された 1116 号は、走っていた路面電車の中でも静かで、走り出しが速い車両でした。特に走り出しのモーターの音やレールのつなぎ目を通過するときの音がとても好きで、ずっと記憶に残っています。 たくさんの思い出のある、路面電車が修復され、復活してくれて感無量です。そして多くの方々に路面電車を知ってもらえるきっかけとなってくれたらうれしいです。私たちの活動の中では、きれいに復活させたい想いはあってもなかなか行動できずにいたので、保原ロータリークラブさんを中心に復活に賛同され、出資してくださった企業や個人の皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。 今後も路面電車を広く知ってもらう活動を続けていきたいです。そしてこの路面電車を使った、イベントなどを通して、再び路面電車が見直されて市内と福島市を結んでいくことを期待します。

 1957 年生まれ、保原ロータリークラブ会長、福島県全私立幼稚園協会理事など多くの役職を務める海老原さん。保原シャローム学園理事長として、学園名となっている「みんなが平和で過ごせるように」と信念をもって子育てや教育に力を注ぎ、多方面で活躍している。

海老原 三 博 Ebihara Mitsuhiro

 1941 年生まれ、根っからの電車好きで路面電車の写真などを数多く撮影。小さな写真展を開いたことをきっかけとして同じ想いの仲間が集い、現在は路面電車を偲ぶ会会長として、路面電車の写真展を開いて後世に路面電車の歴史と魅力を伝えている。

安 齋  武  Anzai Takeshi 復活!チンチン電車路面電車 1116 号が修復を終え、4 月18 日に完成お披露目式が行われた。懐かしむ声と子どもたちの歓声が響き渡る。

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1. どこかぬくもりを感じ、ほっとする車内 /2. チンチン電車を背に子どもたちが元気いっぱいに太鼓を叩き、音色が響き渡る /3. 子どもたちの息の合ったハーモニーが会場を包み込む /4. 会場は多くの来場者でにぎわう /5. 車内は、タイムスリップしたかのような気分に /6. 子どもたちは興味津々。運転手さんの気分

 

この路面電車は、昭和46年

(1971)の廃止後に保原

中央交流館の脇に保存されて

いた1両で、近年、老朽化が

目立ち、保原ロータリークラ

ブの創立50周年のプロジェク

トとして修復されました。

 

式典では、海老原三博保原

ロータリークラブ会長が「チ

ンチン電車の復元がこの地の

復興と発展のシンボルになっ

てほしい。」とあいさつ。仁

志田昇司市長は「当時は住民

の足として欠かせないもの

だった郷土の遺産を復活して

くれた。」と祝辞を述べ、関

係者による除幕が行われ、電

車がお披露目されました。電

車の内部は一般公開され、当

時を知る人は懐かしみ、子ど

もたちは初めて見る電車に歓

声を上げました。

 

また、記念イベントとして、

保原協会幼稚園や認定こども

園大田・上保原の園児による

ステージ発表などが催され、

多くの来場者でにぎわいまし

た。

修復されたチンチン電車を見て、高校に通っているときに、保

原中央交流館に古く傷んできたチンチン電車があったのを懐かしく思い出しました。子どもは乗り物が好きなので、新しく生まれ変わった電車に、自由に乗ったりできて楽しい一日でした。

「高校と時を…」

菅野 都みや

子こ

さん、平なる

稀き

くん

45

チンチン電車にかける想い

廃止されて44年、チンチン電車への記憶。

その当時の伊達市は明るく未来に向かっていた。

当時の国道 4 号線高架橋

現在の伊達橋

現在の掛田バスターミナル

保原駅でのお別れセレモニー

67

伊達市を

ひとつに

伊達・保原・梁川・霊山・月舘から福島を結んだ63年

①伊達市をひとつに結んだ

 路面電車

 

現在、交通機関の主役は道

路網であり、主に自動車で移

動しています。しかし、自動

車が普及する以前は、鉄道が

主な交通機関だった時代があ

り、鉄道の駅を中心にまちが

発展しました。

 

ここ伊達地方でも、日本鉄

道(後の国鉄、現在のJR)

が建設した東北本線や、軽便

鉄道としてスタートした福島

交通軌道線(路面電車=チン

チン電車)が交通機関の主役

として活躍した時代があり、

この軌道線の主な経路は福

島、瀬上、飯坂、長岡(伊達)、

保原、梁川、掛田(霊山)で

あり、現在の伊達市内と福島

市内を結んでいました。

②東北本線が通らなかった

 梁川・保原

 

明治20年(1887)に東

北本線が開業しました。その

建設にあたっては、当初は現

在の阿武隈急行ルートが検討

されましたが「蒸気機関車の

煤煙が桑や繭を汚す」「阿武

隈川の水運が寂れる」などの

理由で沿線地域の反対にあ

い、東北本線は現在の経路に

なったといわれています。

 

東北本線が通らなかった梁

川・保原地域ですが、やがて

鉄道の優位性、必要性が認め

られるようになると、鉄道建

設の動きが活発になります。

こうして雨宮敬次郎氏※1

責任者となり、地元有力者な

どが出資して「信達軌道株式

会社」が設立されました。国

や民間大手が鉄道を建設する

場合は、どうしても幹線や大

都市近郊が中心となるため、

地方のローカル線は地元の出

資により建設されたものが多

くありますが、信達地方の路

面電車もこうした経緯で建設

されたのでした。

 

東北本線開業に遅れること

21年、ようやく福島~長岡~

湯野と長岡~保原間に鉄道

が走り出します。明治41年

(1908)のことでした。

※1雨宮敬次郎氏:山梨県出身

「信達軌道株式会社」の代表

③結ばれ広がる鉄道

 

同社は福島~湯野間開業を

皮切りに、次々に路線を延長

します。線路の幅は762

ミリ(2フィート6インチ)

で東北本線・阿武隈急行の

1067ミリ(3フィート6

インチ)より狭い、いわゆる

「軽便鉄道」でした。線路の

幅が狭いと輸送力や速度は劣

りますが、建設が容易で車両

も小型にできるため、コスト

をかけずに鉄道を伸ばせる利

点がありました。

 

こうして、信達地方の主要

な拠点が総延長約57キロメー

トルの鉄道によって結ばれま

した。それは、鉄道が営利事

業として成り立つことを予測

できたからこそ出来たもので

あり、伊達地方の経済が養蚕

業によって興隆を極めたこと

の証明でもありました。

 

開業した当初は、小さな蒸

気機関車が数両の客車を引い

て走っていました。福島~梁

川間の所要時間は2時間程度

だったといわれており、現在

の感覚からするならば随分の

んびりした運転でしたが、歩

けば半日かかる距離だけに画

期的な交通機関の出現でし

た。

 

その後、時代の進展に伴い

蒸気機関車が引く「軽便鉄道」

は電化・改軌され、「路面電車」

に生まれ変わります。その際

に保原~桑折間と掛田~川俣

間は電化しても採算の見込み

が立たないとして廃止されま

すが、それでも路面電車の総

延長は約32キロメートルに及

びました。東北最大の都市で

ある仙台市の路面電車の総延

長が約16キロメートルだった

ことを考えれば、信達地方の

路面電車ネットワークが大規

模であったことがわかりま

す。

④路面電車が残した遺構

 

長岡分岐点から保原方面へ

出発した電車は国道4号と阿

武隈川を渡ります。この、道

路と河川を越えるための橋

は、この区間のみならず路面

電車全体を語る上で欠かせな

い「遺構」となっています。

 

国道4号を越える鉄橋その

ものは、その後の国道の拡幅

工事により残っていません。

しかし前後の高架橋はほぼそ

のまま残っており、たもとに

は1本だけですが当時の架線

柱が街路灯として残っていま

す。また、阿武隈川を渡る鉄

橋は、改修工事により当時の

姿そのままではありません

が、路面電車の最大の遺構と

も言えるものです。その伊達

橋は、現在も歩行者・自転車

用の橋として余生を過ごして

います。

 

掛田線は保原駅を出発する

と四丁目付近で保原の目抜き

通りに別れを告げ、現在の国

道349号ルートで掛田を目

指していました。やがて、柱

田付近から緩やかな上り坂と

なり、電車は山間を縫うよう

に走っていました。柱田と掛

田の境にある切り通しは、鉄

道を通すために作られたもの

で、この「峠」を越えると

掛田の町並みに入っていきま

す。

 

掛田駅は、当時の霊山観光

の玄関口であり、福島~掛田

駅の路面電車と掛田駅~霊山

登山口のバスの連絡きっぷも

発売されていました。現在も、

掛田駅の周辺には霊山への案

内看板が残っています。

 

また、掛田駅の駅舎は現在

も使用されています。保原駅

はバスセンターとして残って

いますが、ホームは一部削ら

れたうえに建物も改築された

ため、掛田駅は路面電車の駅

舎が残っている唯一の駅と

なっています。

⑤路面電車全面廃止

 

昭和30年代から、全国的に

路面電車を取り巻く環境が変

わり始めました。特に大都市

周辺で自動車の普及と地下鉄

の建設が進み、「路面電車は

時代遅れの乗り物」という

レッテルを貼られるように

なっていきます。

 

当時のモータリゼーション

(車社会の進行)は地方にも

及び、各地で路面電車の廃止

が相次ぎました。信達地方の

路面電車も乗客減少はもとよ

り、道路が渋滞して定時運転

や安全確保に支障をきたすよ

うになり、ついに「昭和46年

に全線廃止」の決断が下ろさ

れました(聖光学院~湯野間

は昭和42年に先行廃止)。

 

廃止にあたっては昭和46

年(1971)4月10日に県

文化センターで記念式典が行

われたほか、4月2日から11

日まで花電車が運行され、最

終日の12日には主な駅でお別

れのセレモニーが行われまし

た。こうして路面電車は惜し

まれながら63年の歴史に幕を

下ろしました。

【参考文献】「写真でつづる福島

交通70年の歩み」(福島交通株

式会社)/伊達・梁川・保原・

霊山・月舘各町史

1 福島市と保原・梁川を結ぶ阿武隈急行線 /2 福島市と伊達を結ぶJR 東北本線 /3 伊達市の玄関口、伊達駅 / 4阿武隈急行線の中心駅、保原駅

※このスペースは有料広告です。詳しくは、秘書広報課(☎ 575-1113)にお問い合わせください。

「私に欠かせない電車」

「もっと便利に」1 2

89

1

3

2

鉄道の復活

 

戦後、東北本線に対する需

要が急増し、輸送強化のため、

保原・梁川・丸森経由の東北

本線のバイパス線が浮上しま

す。丸森線と名付けられたバ

イパス線は、宮城県槻木~丸

森間が昭和43年(1968)

に開業しますが、その後建設

は停滞しました。昭和55年

(1980)になると、当時の国

鉄赤字ローカル線廃止の流れ

の中、丸森線は建設中の区間

も含めて廃止対象になります。

 

しかし、関係者の努力に

よって国鉄丸森線は昭和61年

(1986)に第3セクター

「阿武隈急行」として再出発。

丸森~福島間も追加工事が進

められ、昭和63年(1988)

に全線開通の運びとなりまし

た。こうして路面電車が廃止

されてから17年後、こどもた

ちの夢を乗せて駆け巡った路

面電車は、形を変え、再び市

民の夢や希望を乗せて市内を

結んで走り始めました。

阿武隈急行は、福島に行くときに利用しています。私たちにとって

は 1 時間 1 本くらいの本数でもとても貴重です。そして電車とバスの時間が合っているので利用しやすいです。電車を利用するようになって交流範囲が広がって多くの友達ができ、つながりを持つことができました。霊山からも電車に乗れ、保原から伊達にも電車が走るようになってほしいです。

電車が結ぶもの

長谷川咲さく

良ら

さん、三浦亜あ い

依梨り

さん

4 月から高校に通うようになって、電車を毎日利用するようになりまし

た。通学にとても便利で私たちにとっては欠かせない電車です。電車を利用するようになって行動できる範囲が広がり、一人でも遠くに行けるようになりました。JR 東北本線と阿武隈急行とで別々の路線になっているけど、路面電車が走っていたころのように伊達から保原、そして霊山まで電車で結ばれてほしい。

八巻友ゆう

人と

さん、三浦巧こう

輝き

さん

未来を乗せて再び鉄道で結ばれ、地域の交流とにぎわいを!

4

 4 月に旧保原町役場跡地駐車場の全面舗装が完了し、路面電車(愛称:チンチン電車)が修復 移設されました。 市民交流の場として市民から親しみを感じてもらえるような名称を募集します。お気軽に応募してください(1人1点まで)。採用者には記念品が贈呈されます。

[ 募集内容 ] 憩いの空間となるような親しみやすい名称[ 応募方法 ] ①名称②名称の理由(300 字以内)③郵便番号・住所

④氏名⑤性別⑥年齢⑦電話番号⑧職業または学校名など、を記入して、郵便・FAX・E-mail などで応募してください。応募用紙は市ホームページからダウンロードできます(任意の様式も可)。

[ 応募先 ] 保原総合支所業務担当〒 960-0692 伊達市保原町字舟橋 180 番地FAX:576-2419E-mail:[email protected]

[募集期限]

6月30日㊋必着

旧保原町役場跡地の名称を募集