第十二章蘇軾次韻詞考371 第 十 二 章 蘇 軾 次 韻 詞 考 ― ― 詩 詞 間 に...

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371 使稿使(1) (2) (3) 使第十二章 蘇軾次韻詞考

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    第十二章

    蘇軾次韻詞考

    ――詩詞間に見られる異同を中心として――

    はじめに

    元明以來、盛唐の詩が、古今體詩の典型として、その搖るぎない地位を確立したように、北

    宋の詞も、詞の享受製作の歴史の上で、一つの確固たる典型として仰がれ、安定した評價を得

    ている。宋以降、ジャンルとしての詞が文學の主流たりえなかったという事實を差し引いても、

    宋代の古今體詩が實にしばしば評價の高下を經験したという事實を想起する時、ともに同時代

    の詩歌を代表するジャンルでありながら、兩者はきわめて好對照な評價の歴史の足跡を後世に

    刻んだといわざるを得ない。

    さて、その北宋の詞の中でも、蘇軾(一○三七―一一○一、字子瞻、號東坡)の詞が、あるいは

    また詞人蘇軾の存在が、きわめて重要な意義を有していたことは、宋代乃至後世の詞話・詞論

    の類の書を繙けば、容易に察することができる。詞における質的な一大轉換點が北宋中~後期

    にあり、その中で一つの大きな中心的役割を蘇軾が果たしていたことを、それら書の夥しい言

    及例が明確に示している。

    本論では、そのような從來の認識に依據しながらも、〈次韻〉という一作詩技法を通じ、主

    として蘇軾の古今體詩と詞における〈次韻〉の異同を手掛りとして、質的轉換期における蘇軾

    の詞を改めてとらえ直したい。かつまた、詞の質的轉換期において、〈次韻〉が使用されたこ

    との意味について、新たな視點から檢討しようとするものである。

    なお本論では、原則として、蘇軾の古今體詩に關しては中華書局校點八册本『蘇軾詩集』に、

    詞に關しては曹樹銘『蘇東坡詞』に依據した(蘇軾詞の作品番號は、『蘇東坡詞』に據る)。蘇軾以

    外の詞については、全て唐圭璋『全宋詞』に據る。本稿で原文を引用し、卷數頁數を注記する

    場合は、全て前掲の各テキストに據るものである。

    古今體詩における次韻

    まず古今體詩における次韻に關わる諸事情を、

    定義、

    傳統的使用形態および技巧的獨自

    (1)

    (2)

    性、

    次韻の効果、の三點に絞って整理しておきたい。中唐以來北宋中期に到るまで、次韻は

    (3)

    もっぱら古今體詩において使用されていた技法である。詞における次韻との異同をより明確に

    するため、まずは古今體詩における次韻を確認しておく必要があろう。

    第十二章 蘇軾次韻詞考

  • 372

    第十二章 蘇軾次韻詞考

    次韻の定義

    「次韻」とは、旣製の詩(原篇)の脚韻を使用して、新たなる同詩型の詩(和

    (1)篇)を作る技法〈和韻〉の一形態である。〈和韻〉は、作詩時に課せられる拘束條件の多寡に

    よって、

    依韻、

    用韻、

    次韻の三つに分類される。

    (a)

    (b)

    (c)

    依韻は、原篇で使用されている韻字と同一の韻目に屬する韻字を使用して和篇を作る技法

    (a)であり、和篇の韻が原篇の韻と共通でありさえすればよく、使用する韻字には特に拘束がない。

    用韻は、原篇で使用された韻字を全て使用しなければならないが、使用する次序は任意に

    (b)變えてよい技法である。

    次韻は、原篇で使用された韻字を全て使用し、なおかつ使用する次序も原篇と全く同じく

    (c)作詩する技法である。

    以上の分類は、若干の例外はあるものの、北宋以來今日に到るまで、最も一般的であり、本

    論においてもこの分類に從って論を進める。

    傳統的使用形態および技巧的獨自性

    次韻(和韻)を最初に意欲的に使用した詩人は、中唐

    (2)の元稹(七七九―八三一)と白居易(七七二―八四九)である。彼らは、基本的に相隔たる別々の

    土地に身を置きながら、十韻、二十韻、時には五十韻、百韻というような長篇の詩を送り合い、

    相互に次韻の應酬をした。次韻(和韻)という行爲を通じて、兩者は互いの作詩技量を競い、

    かつまた友情を深めたのだと考えられる。

    〈元白〉に先行する作例として、從來、戴叔倫(七三二―八九)の「寄禪師寺華上人、次韻三

    首」(『全唐詩』卷二七三)や、大暦十才子の一人・盧綸(七四八?―九八?)がやはり十才子の一

    人・李端の詩に次韻した「酬李端公野寺病居見寄」(『全唐詩』卷二八○)等が指摘されている。

    しかし、量的な多寡、影響力の大小、そして當事者の意識の濃淡という點からみて、〈元白〉

    ことに元稹が次韻(和韻)の確立・一般化に最も寄與していたことは論をまたない(元稹「令

    狐相公に詩を上るの啓」參照)。

    さて、〈元白〉における作例によって明らかなように、次韻は、同時代の複數の詩人間で、

    主として書簡等に添えられる形態で使用されていた。この形態は、〈元白〉の九世紀初めより、

    北宋中期十一世紀後半までの間、大きな變動はなく忠實に踏襲されている。これを、本論では、

    「次韻の傳統的形態」と呼ぶ。

    ところで、同時代の複數の詩人間で使用された以上、次韻は社交的色彩の濃い作詩技法の一

    つであると見なされる。古今體詩において、次韻(和韻)の他、社交的作詩技法の代表的なも

    のに、分韻、分題(賦題)、聯句等がある。これらの技法は、六朝から初唐にかけて一般化し

    た技法であるが、中唐はもちろん、蘇軾の北宋後期においても、次韻と同樣に使用されている。

    續いて、これら他の社交的技法と比較することによって、次韻の社交的技法としての獨自性を

    明確にしたい。

    分韻、分題(賦題)、聯句等の技法は、樣々なバリエーションをもつが、さしあたってその

  • 373

    第十二章 蘇軾次韻詞考

    基本形を次のように規定する。

    ・分韻、分題(賦題)……複數の詩人が集う場において、あらかじめ用意された韻や題

    材を各詩人に分配し(賦題の場合は一般に同一題材)、各詩人が一定時間内に、與えら

    れた課題に取り組み詩を完成させる技法。

    ・聯句……複數の詩人が、數句ごと、交互に詩句を詠い繼ぎ、一篇を完成させる技法。

    次韻(和韻)の傳統的形態と、右三種の技法とを比較すると、次韻(和韻)には、以下のイ~

    ニのような四つの顯著な獨自性が存在する。

    イ、右三種の技法は、基本的に、同時同座という條件下で使用された。しかし、次韻(和

    韻)において、それは必須の條件ではない。したがって、右三種の技法において要求さ

    れる卽興性は特には重視されない。

    ロ、分韻、分題(賦題)においては、複數の詩人がそれぞれに課せられた課題に一齊に取り

    組み作詩することを基本形態とする。したがって、ある作品が他の作品と有機的連關を

    もつことは期待できない。しかし、次韻(和韻)では、原篇と和篇との間に緊密な呼應

    關係がある。

    ハ、右三種、ことに分韻、分題(賦題)においては、集團(サロン)文學としての性格が濃

    厚であり、したがって作るべき作品も、その場における最大公約數的な(或いは特にホス

    トの)文學觀に大きく左右されたはずである。次韻は、一詩人對一詩人という關係の中

    で使用されるため、個人の文學觀をより積極的に作品に展開しやすい。

    ニ、右三種、ことに分韻、分題(賦題)は、一回性をその基本的性格とする。次韻は、當事

    者の意志次第では、半永久的に應酬可能な、持續性を具備している。

    以上の如く、同じく社交的な技法でありながら、次韻には、分韻、分題(賦題)、聯句とは相

    異なる獨自性が存在していた。この差異の最大の要因を求めれば、次韻が同時同座を必須條件

    としないのに對し、他の三種がそれを必須とするという、使用される場の相違にあったといえ

    るであろう。

    次韻の効果

    それでは、中唐以降、北宋に及ぶ詩人は、この技法を使用することによって、

    (3)そこに一體いかなる効果を求めていたのであろうか。それは、おそらく次の三點に集約できよ

    う。

    遊戲性競技性の効果

  • 374

    第十二章 蘇軾次韻詞考

    コントラスト明確化の効果

    社交交情の効果

    まず第一に、①遊戲性競技性の効果

    を指摘できる。韻字における拘束を克服する、という

    行爲の中に、ある種の(對自的)遊戲性が含まれている。また、次韻した作品は、當然、原篇

    と比較されて鑑賞されるわけであるから、次韻する詩人は、韻字の拘束を克服するとともに内

    容的に原篇を凌ぐべく努力したはずである。したがって、そこには自ずと(對他的)競技性が

    生ずることになる。

    第二に、原篇と和篇との間の②コントラスト明確化の効果

    を指摘できる。これは、作品の

    質的優劣をより明確にする効果、とも言い換えられる。つまり、次韻を使用したことによって、

    原篇と和篇は、同一詩型、同一の韻字、しかも韻字の配置も同一、という點が保證される。そ

    のような共通項のない詩どうしを相互比較する場合に比べ、客觀的な條件が近似している分だ

    け、兩者の質的差異が際立ってくることになる。前掲①の効果を念頭に置くと、より明確にさ

    れた質的差異は、質的優劣をも同時により鮮明に表示することに直結している。

    第三に、③社交交情の効果

    を指摘できる。この効果は、次韻という技法そのもの中のに具

    備されている前二者の効果とは異なり、次韻を使用することによって結果として期待されうる

    という種類の効果であるが、當時の詩人たちは、次韻するという行爲を通じて、原篇およびそ

    の作者に對する尊重の意を表明していたと想像される。當時の詩人たちにとっては、廣く一般

    的に詩を應酬するという行爲そのものに、何ほどか社交的意味合いが含まれていたであろが、

    さらに寄せられた原篇の韻字を使用するということにより、原篇が次韻するに値するというこ

    とを端的に示し、あるいはまた原篇の提供者との交友を重視していることを示す、より有効な

    手段となったと考えられる。

    以上、本節で整理した三點に基づき、蘇軾における次韻を考察していきたい。

    蘇軾の古今體詩における次韻

    中唐の〈元白〉によって確立した次韻(和韻)は、皮日休や陸龜蒙等、晩唐の詩人に愛用さ

    れより一般化した。しかし、唐の後、五代十國の約半世紀において、その流行は繼續せず、北

    宋王朝成立(九六○年)以後も、およそ一世紀にわたって、この技法は餘り顧みられていない。

    それが、北宋第四代皇帝仁宗(在位期間は一○二二―六三)の末期から、またにわかに使用され

    始める。

    一例を擧げれば、梅堯臣(一○○二―六○)は、皇祐五年(一○五四)前後から、詩題に「依韻」

    と稱する作例が增加し、嘉祐三、四年(一○五八、五九)の晩年の二年間において次韻の作例が

    急增している。とりわけ、嘉祐四年(翌五年四月に梅堯臣は沒する)には、その數は

    首に上り、

    81

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    この年の作詩総數

    首の五割近くを次韻詩が占めている。

    174

    梅堯臣が次韻を多用し始める、嘉祐三、四年の前後、新進氣鋭の詩人として活躍していた者

    王安石、蘇頌、劉攽、呂陶、韋驤)や、この時期に進士及第した者(蘇軾、蘇轍、劉摯)の多く

    exが次韻詩を多數のこしている。彼らに後れて官途についた者(彭汝礪、徐積、黄庭堅、秦觀、陳師道)

    に至っては、次韻多用の傾向はいっそう顯著である。この時期の詩人からは、その世代が下に

    なればなるほど――和韻三形態の中で最も難度が高い――次韻を使用する頻度が高まる、とい

    う傾向を見出せる。

    こうした次韻再流行の時代的氣運の中で、この技法をとりわけ意欲的に活用したのが蘇軾で

    あった。

    蘇軾は編年可能な古今體詩計二三八五首の中、確かに次韻を使用したと確認できる作例が七

    八五首、およそ三分の一を占めており、量的にも、頻度という點においても、同時代の詩人を

    壓倒している。だがしかし、計量的に群を拔いているという事實は、――彼の生前の蘇軾ブー

    ムとでも呼ぶべき一種の社會現象(後述)とも相俟って――、彼の作品全般の殘存率がきわめ

    て高いという特殊事情にも依據することおそらく大であろうから、もっぱらこの事實をもって、

    同時代の他の詩人よりも蘇軾がとりわけ意欲的であったと、斷定することは難しい。また、筆

    者もこの點のみを力説しようとは思わない。筆者が、それを意欲的と形容した理由は他にある。

    蘇軾の七八五例の次韻詩を仔細に觀察してみると、この技法の傳統的使用形態とは明らかに

    相異なる使用法で作った次韻詩が系統的に存在することに氣がつく。それが以下の

    の二類

    (a)(b)

    である。

    過去の自作に次韻する形態

    この類の次韻詩は計

    首存在する。次韻の傳統的使用形態を想

    (a)

    87

    起すれば、この種の形態の特殊性は容易に理解できよう。つまり、元來、複數の詩人間におい

    て使用されていた次韻を、自己完結的に使用しているという點で明らかに異なる。

    前節において整理した次韻の三効果に照らし合わせて、この形態の次韻を檢討してみると、

    まず第一の遊戲性競技性の効果は、原篇が自作であることによって半減する。第三の社交交情

    の効果も、直接的には期待できない。かりにこの形態による次韻詩を誰かに寄贈し、その人と

    親交を深めることがあったとしても、それは次韻するという行爲そのものが社交交情を意味し

    た傳統的形態とは、本質的に異なると言わねばならない。

    のこる第二の、コントラスト明確化の効果は、そのまま保持される。そして蘇軾はこの効果

    に着目し、系統的にこの類の作例をのこしたのだと考えられる。周知の通り、蘇軾は新法舊法

    の黨爭によって人生の浮沈を幾度か經験した。この經歴を背景にして、およそ明と暗がくっき

    り顯れ出るような局面で、蘇軾は必ずといってよいほどこの形態の次韻詩をのこしている。

    たとえば、その詩に朝政誹謗の作が多いという嫌疑で御史臺の獄に繋がれた事件(元豐二年

    〔一○七九〕蘇軾四四歳)を背景として、蘇軾はこの形態の次韻を使って詩を作っている(以下に

    詩題のみ掲げる)。

    第十二章 蘇軾次韻詞考

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    〔原篇〕「予以事繋御史臺獄、獄吏稍見侵、自度不能堪、死獄中、不得一別子由、故作二詩

    授獄卒梁成、以遺子由、二首」(『蘇軾詩集』卷一九)

    〔和篇〕「十二月二十八日、蒙恩責授檢校水部員外郎黄州團練副使、復用前韻」(同卷一九)

    また、晩年、嶺南に貶謫された際も、南遷の旅の途次(紹聖元年〔一○九四〕蘇軾五九歳)に詠ん

    だ作に、赦免され北歸行の途次(建中靖國元年〔一一○一〕蘇軾六六歳)、同一地點で次韻した作例

    をのこしている。一例を擧げれば、

    〔原篇〕「過大庾嶺」(卷三八)

    〔和篇〕「余昔過嶺而南、題詩龍泉鐘上、今復過而北、次前韻」(卷四五)

    がある。

    この二組の詩は、原篇が人生の暗、和篇が人生の明、という點で、共通する。蘇軾の人生を

    通覧できる今日の我々からみても、この二組の背景にある事件は、彼の人生において最も明暗

    の分れた、最も重大な意味を持つものと判斷される。まさにそのような渦中に身を置きながら、

    蘇軾は的確にその機を逃さず、この形態の次韻を用いて、詩的効果を最大限に引き出してみせ

    た。讀

    者は、和篇の詩題に、某々の詩に次韻した旨が明記されていることにより、詩集の中から

    原篇を探し出し、相互に比較しつつ鑑賞するであろう。當時の讀者も現代の讀者も、この二組

    の作品の背後にある事件については、常識としてすでに知っている。讀者は、その間に存在す

    るであろう作者の心理的ギャップを十分に念頭に置きつつ、作品を鑑賞することになろう。

    作者と讀者の間に、こうした暗黙の了解が成立し、この二組の詩は、作品内の各表現によっ

    て構築される世界以上の奥行を獲得することになる。そして、次韻によって保證される客觀的

    作詩條件の近似が、兩者の微妙な質的相違までをも浮き上がらせるのである。

    過去の詩人の作に次韻する形態

    この類の次韻詩は、計

    首存在する。その中、東晉の陶

    (b)

    128

    淵明の詩に次韻した作例、所謂〈和陶詩〉が

    首に達し、九割以上を占める。〈和陶詩〉以外

    124

    の作例は、李白、韋應物、韓愈(および梅堯臣)に次韻したもので、各々一首存する。

    この類は、嚴密に言えば、蘇軾の創案になるものではない。すでに晩唐において、唐彦謙が

    陶淵明の詩に次韻した作例をのこしており(「和陶淵明貧士詩七首」/『全唐詩』卷六七一)、蘇軾と

    同時代にも、王安石(一○二一―八六)に孟郊と張祜の作に次韻した

    例があり、郭祥正(一○三

    2

    五―一一一三)には李白の詩に次韻した

    例がある。

    44

    しかし、郭祥正の作例を除き、他の作例はいずれも單發的に製作され、そこからは作者の明

    第十二章 蘇軾次韻詞考

  • 377

    確な意圖と意欲は見出しがたい。さらに後世における詩人としての影響力という點を考慮に入

    れると、この形態の次韻の定着に蘇軾が最も多大な役割を果たしたことは疑いようがない。む

    ろん、蘇軾の

    首の中でも九割以上を占める〈和陶詩〉の影響力が最も多大である。

    128

    この形態の次韻において、原篇の作者はすでに死去しているわけであるから、次韻の三効果

    の中、第三の社交交情の効果は全く期待できない。しかし、第一の遊戲競技的効果は、傳統的

    形態におけるのとは異なる意味で、十分に期待できる。そしておそらく蘇軾の〈和陶詩〉製作

    はこの點に最も大きな動機があったと推察される。

    蘇軾の〈和陶詩〉は、「和陶飲酒二十首」が揚州知事時代(元祐七年〔一○九二〕蘇軾五七歳)

    に作られたのを除き、全て晩年の嶺南および海外謫居期に作られた。尊崇する陶淵明の作品に

    次韻して詩を作ることにより、僻遠の地にあって埋沒しがちな詩人としての自己を振るい起こ

    すという對自的目的があったことは容易に想像できよう。また同時に、次韻した作品によって、

    同時代の詩人に對し、自己の健在ぶりを誇示するという對他的目的も存在していたと思われる。

    次韻する作品の作者が同時代的に高い評價を得ているものであればあるほど、その次韻詩に

    對する注目度も高まったはずである。そして、陶淵明は北宋において一樣に高い評價をもって

    受け入れられていた詩人であった。北宋詩人の別集を繙けば必ずや陶淵明に言及した作品が見

    つかるという事實がそれを端的に證明している。

    むろん、他ならぬ蘇軾自身に陶淵明に對する共感が人一倍あったことが、〈和陶詩〉製作の

    根底にあったことは疑いようもない。しかし、――他の同時代の詩人にとっても同じく尊崇す

    べき存在であった――陶淵明の作に次韻するという行爲が、同時代の詩人の注意を喚起すると

    いうことは當の蘇軾としても容易に想像できたであろうし、同時により嚴しい批評眼に曝され

    るであろうことも豫想し得たはずである。こう考える時、蘇軾自身も、同時代の詩人の批評眼

    との間に成立する競技的効果を豫想しつつ、〈和陶詩〉を製作し續けたと考えるのが自然であ

    ろう。また、次韻のもつ第二の効果(コントラストの明確化)は、原篇と和篇の質的優劣をも際

    立たせるものであるから、〈和陶詩〉の制作は僻遠の地にある蘇軾にとっても十二分に刺激的

    な行爲であったと考えられる。

    以上、傳統的使用形態とは、明らかに異なる蘇軾の二種類の次韻について槪述した。

    過去

    (a)

    の自作に次韻する形態、

    過去の詩人の作に次韻する形態の兩者は、從來次韻が擔ってきた社

    (b)

    交交情の効果を削ぎ取ることによって成立している。この技法において、從來同時代の他詩人

    の存在は必要不可缺であったが、蘇軾はそれを基本的に必要としない、自己完結型の次韻を確

    立し、それを積極的に運用して、次韻の歴史に新たなる展開をもたらした、といいうるであろ

    う。

    の形態は、讀者が過去の自作を知っているということを前提條件とする。したがって、同

    (a)時代的に自己の作品が廣範な愛讀者を持っていた蘇軾のような詩人を除いて、この形態の次韻

    詩はどの詩人にとっても現實的に使用可能な用法であったとは考えにくい。實際に、蘇軾と同

    第十二章 蘇軾次韻詞考

  • 378

    時代の詩人の中で、明らかにこの形態の次韻詩をのこしたと判斷できる詩人は、管見の及ぶ範

    圍では存在しない。

    蘇軾は、自己の詩が原因で獄に繋がれた詩人である。その折、審議の過程で民間で刊行され

    た詩集が御史によって證據物件として提出されている。また生前に數種の詩文集が他人の手に

    よって編纂刊行されていたことを、蘇軾自身の書簡や當時の文獻から確認できる。これらの事

    實は、印刷術の普及という社會現象を背景にして、蘇軾がおそらくほぼリアル・タイムで自己

    の文學作品の反響を肌で感じることができたであろうことを示唆していよう(このような意味に

    おいて、あるいは中國文學史上、メディアを最初に活用した詩人が蘇軾であった、とも見なすことができる)。

    以上のように、この形態は時代の寵兒ともいうべき蘇軾ならではの手法であり、

    の古人の

    (b)

    作に次韻する形態のようには後世に大きな影響を與えてはいない。

    一方、

    の形態は、理念的に全ての詩人に開かれた形態である。すでに一定の評價を得てい

    (b)

    る古の詩人もしくは作品であれば、讀者がそれを知っていると想定して次韻することは、さほ

    ど無理な作詩姿勢ではない。したがって、次韻詩が原篇と比較されてなお遜色ないという自負

    さえあれば、この形態の次韻は誰にも使用可能であった。その故にか

    の形態に比して、この

    (a)

    形態の次韻は、後世少なからぬ追隨者を生み、一つの獨立したジャンルともいうべき作詩の領

    域を確立した觀がある。

    蘇軾の詞における次韻

    前の二節において、古今體詩における次韻の諸相を槪觀した。本節では、詞における次韻の

    一般的使用卽況をまず確認した上で(

    )、蘇軾詞における次韻(

    )を檢討してゆく。

    (1)

    (2)

    詞における次韻

    詞において文獻的に次韻が最初に使用されたと確定できる例は、張先(九

    (1)九○―一○七八)の「好事近・和毅夫内翰梅花」(『全宋詞』六二頁)であり、北宋六代皇帝・神宗

    の煕寧二年(一○六九)一二月の作とするのが最も妥當である。張先は、現在確定できるもの

    で計三首の次韻詞を作っているが、「好事近・和毅夫内翰梅花」を除く二首は、いずれも蘇軾

    「定風波(今古風流阮歩兵)」に次韻した、煕寧七年(一○七四)の詞である(「定風波令・次子

    036

    瞻韻送元素内翰」、「定風波令・再次韻送子瞻」/『全宋詞』七四頁)。

    唐圭璋『全宋詞』に基づき調査すると、蘇軾より上の世代の詩人では、張先の他に、王安石

    に次韻詞がある(「訴衷情・和兪秀老鶴詞」三首、二○八頁)が、李德身『王安石詩文繋年』(一九八

    七年、陜西人民敎育出版社)によれば、この詞はともに元豐五年(一○八二)の作で、蘇軾の最初

    の次韻使用例よりも後れる。

    蘇軾が詞の製作を本格的に始めるのは、杭州通判時代(煕寧四年~同七年〔一○七一~一○七四〕

    蘇軾三六~三九歳)である。近人・曹樹銘の『蘇東坡詞』によれば、現存の編年可能な蘇軾の詞

    第十二章 蘇軾次韻詞考

  • 379

    の中で、最も早い作例は、煕寧五年(一○七二、蘇軾三七歳)の

    「浪淘沙(昨日出東城)」である。

    001

    そして、常州にて六十六の齢を閉じるまでのおよそ三十年間に、蘇軾は計

    首(未編年の詞を含

    250

    めると

    首)の詞をのこしている。

    310

    また、現存資料の限りで、蘇軾が詞において最初に次韻を使用した作例は、煕寧七年(一○

    七四)八月の作、

    「南歌子(苒苒中秋過)」である。以後、計

    首(編年不可能な詞を含めると

    首)

    027

    27

    28

    の次韻詞をのこしている。

    古今體詩における次韻詩の數量(

    )及び比率(約三割)と比較すれば、蘇軾の詞におけ

    785

    2387

    る次韻はたしかに見劣りがするが、いずれにせよ、現存の詞作品によって判斷する限りにおい

    て、蘇軾より以前に二桁の次韻詞をのこした詩人はおらず、蘇軾が詞において次韻を最初期に

    多用した詩人であると、位置づけられる。そして、作詞の場で次韻が比較的一般的に使用され

    始めるのは、蘇軾が初めて次韻詞を作り、張先が蘇軾の「定風波」に二度次韻した、神宗の煕

    寧年間の後半以後のことと推察される。

    この後、北宋末までの間は、詩人によっては全く次韻詞をのこしていない場合も少なくない

    (後述)が、南宋に入ると、詞における次韻は普遍化し、今日に五○首以上詞を傳える詩人の

    ほとんど全てが、頻度の差こそあれ次韻詞をのこしている。

    蘇軾の詞における次韻の諸相

    ――古今體詩との比較に即して――

    (2)續いて、蘇軾の次韻詞の諸相を檢討してゆきたい。まず古今體詩における次韻の三つの使用

    形態(①傳統的使用形態、②過去の自作に次韻する形態〔

    〕、③過去の詩人の作に次韻する

    (a)

    形態〔

    〕)が、果たして詞においても使用されているか否かを確認しておきたい。

    (b)

    傳統的使用形態

    まず、傳統的使用形態――同時代の他者の作に次韻し、主として書簡等

    を介して贈答された作例について。

    首の蘇軾の次韻詞の中で、

    首がこの類に相當する。そ

    28

    8

    の代表的なものを一首擧げれば、章楶の「水龍吟(燕忙鴬懶花殘)」(『全宋詞』二一三頁)に次韻し

    た、

    「水龍吟(似花還似非花)」がそれである。

    088蘇軾が章楶に宛てた書簡(「與章質夫三首」其一)に、次のような條があり、この點を裏づけて

    いる。

    「柳花」詞妙絶、使來者何以措詞。本不敢繼作、又思公正柳花飛時出巡按、坐想四

    子、閉門愁斷、故寫其意、次韻一首寄去、亦告不以示人也。「七夕」詞亦錄呈。

    「柳花」詞

    妙絶なれば、來者をして何を以てか詞を措かしむる。本より敢へて繼作せ

    ざるも、又た公が正に柳花の飛ぶ時巡按に出で、坐して四子を想ひ、門を閉ざして愁斷す

    るを思ひ、故に其の意を寫す。次韻一首

    寄せ去るも、亦た告げん

    以て人に示さざれ、

    と。「七夕」詞も亦た錄し呈す。

    第十二章 蘇軾次韻詞考

  • 380

    右文にいう「柳花」詞は、章楶の「水龍吟」である。「寄去」の語が使用されていることか

    ら、蘇軾はその場にいない章楶に對し、次韻した「水龍吟」を郵送していたであろうことが知

    られる。詞においても、蘇軾が傳統的形態によって次韻を使用していたことを、この書簡は端

    的に物語っていよう。

    過去の自作に次韻する形態

    第二に、過去の自作に次韻する形態については、計

    首がそ

    19

    れに相當する。その代表的な作例を掲げれば、

    の一組の「滿庭芳」がそれである。

    163

    176

    原篇の

    「滿庭芳」は、元豐七年(一○八四、蘇軾四九歳)に作られ、次のような小序が附され

    163

    ている。

    元豐七年四月一日、余將去黄移汝、留別雪堂鄰里二三君子、會李仲覧自江東來別、

    遂書以遺。

    元豐七年四月一日、余

    將に黄を去り汝に移らんとし、雪堂鄰里の二三君子と留別す。

    會たま李仲覧

    江東より來り別る。遂に書して以て遺る。

    たま

    そして、和篇の

    「滿庭芳」は、元豐八年(一○八五、蘇軾五○歳)に作られ、次のような小序が

    176

    附されている。

    余謫居黄州五年、將赴臨汝、作滿庭芳一篇別黄人。旣至南都、蒙恩放歸陽羨、復

    作一篇。

    黄州に謫居すること五年、將に臨汝に赴かんとし、滿庭芳一篇を作り黄人と別る。

    旣に南都に至り、恩を蒙り陽羨に歸るを放され、復た一篇を作る。

    ゆる

    右の小序によって明らかなように、原篇は蘇軾が黄州(湖北省黄岡)を離れる直前、元豐七年(一

    ○八四)四月の作である。この時、恩赦により蘇軾は黄州における幽閉生活から解き放たれ、

    汝州(河南省臨汝)への轉任の命を受けていた。蘇軾は、五年にわたって生活し住み慣れた黄

    州を離れる際、土地の友に黄州に隱居するよう勸められた。結局、蘇軾は黄州を後にしたのだ

    が、戀戀として立ち去り難い氣持ちと、行方の定まらない心中の不安を込めて、「歸りなんい

    ざ、吾

    何れの處にか歸る(歸去來兮、吾歸何處)」という歌い出しの原篇を詠んだ。

    蘇軾は、黄州を離れた後、約十箇月をかけ、水路、南京應天府(河南省商邱)まで移動した。

    この間、蘇軾は、常州宜興に購得した莊園に居住する許可を幾度か皇帝に願い出ている。それ

    が叶えられて、和篇のやはり「歸去來兮」で始まる、次韻詞「滿庭芳」となったわけである。

    和篇では、「歸去來兮」に續いて、いざ向かわんとする常州宜興の光景が美しく描寫され、歸

    第十二章 蘇軾次韻詞考

  • 381

    着すべき方向も定まり充足した蘇軾の心情が吐露されている。終老の計を共通のテーマとして

    詠じつつも、原篇と和篇との間には、作者の心理的背景の差異に由來する微妙なコントラスト

    が存在しており、次韻を使用したことにより、それがより顯在化している。

    この一組の「滿庭芳」に見られるように、過去の自作に次韻する形態が、詞においても使用

    されていたことを確認できる。

    過去の詩人の作に次韻する形態

    この形態の次韻詞は、歐陽脩(一○○七―七二)の「木蘭

    花令(西湖南北煙波闊)」(『全宋詞』一三三頁。『全宋詞』では詞牌を「玉楼春」に作る)に次韻した、222

    「木蘭花令(霜餘已失長淮闊)」の一首だけである。この次韻詞は、元祐六年(一○九一、蘇軾五六

    歳)、潁州(安徽省阜陽)知事時代の作である。歐陽脩の原篇は、おそらく、仁宗の皇祐元年(一

    ○四九)、歐陽脩が知事として潁州に二月前後滯在した頃のものと考えられる。蘇軾次韻詞の

    前闋の終末に、

    佳人猶唱醉翁詞

    佳人

    猶ほ唱ふ

    醉翁の詞

    四十三年如電沫

    四十三年

    電沫の如し

    とあり、元祐六年より逆算すると、「四十三年」前は、ちょうど皇祐元年に當る。歐陽脩は、

    潁州を終老の地として選び、晩年の約一年間(煕寧四~五年)を潁州西湖の畔で過ごしている。

    蘇軾は師・歐陽脩の沒後およそ二十年後、その地を知事として訪れた。わが師がこよなく愛し

    たその同じ場所に立ち、回憶の情に勝えずに詠んだのが、蘇軾の次韻詞ということになろう。

    この次韻詞に見られる蘇軾の姿勢は、〈和陶詩〉以外のこの形態による次韻詩のそれとほぼ

    同じい。作者と同一地點に立ったり、類似の作詩環境に身を置いたりしたことに端を發し、興

    に乘じて次韻した作例である、と判斷できる。少なくとも、古今體詩における〈和陶詩〉の如

    き、明確な作詩意圖を見出すことは難しい。

    古今體詩においては、非常に大きな意義を有したこの形態であるが、詞においては作例自體

    がわずか一首と寥々たる數であり、その詞業全體におけるウエイトも大きくはない。しかし、

    この最大の要因を求めれば、詞作品が古今體詩のように悠久の歴史と多數の古典的作例を持た

    なかったという點こそにある、と考えられる。次韻を使用するという前提の下、作詩する際に、

    必要不可缺となるのは、同一詩型の原篇の存在である。その先行例が乏しければ、當然この形

    態の次韻詞も生み出されにくいと考えられる。

    さらにいえば、詞の中に、――古今體詩における陶淵明詩のように――當時、安定して高い

    評價を獲得していた經典的作品が多く存在しなかったから、とも考えられる。この形態の次韻

    において、何よりも肝心な要素は、同時代の誰もが知っていて、誰からも平均して高い評價を

    得ている原篇が存在することである。誰もが知っていて、誰もが素晴らしいと感じる作品に、

    第十二章 蘇軾次韻詞考

  • 382

    あえて挑むという點に、この形態の次韻の妙味があった。しかしながら、北宋の當時にあって、

    陶淵明に匹敵する存在が詞においてはまだきわめて稀であり、その上、詞という樣式自體の評

    價さえもけっして安定していなかった、と考えられる。

    蘇軾の時代、他にほとんど類例を見ないこの形態の次韻詞ではあるが、時代が下り、詩歌全

    體における詞の地位が安定してゆくにつれて、古今體詩におけるのと同樣に各詩人に多用され

    るようになる。しかも、蘇軾を始めとする北宋の各詩人の詞が一つの典型として位置づけられ

    るようになり、他ならぬ彼らの作品が原篇とされ、この形態の次韻詞が作られている。

    前述のように、蘇軾におけるこの形態の次韻詞は、彼の次韻詞の中にあっても、著しく比重

    が小さいが、次韻ではないものの、陶淵明の「歸去來兮辞」を詞にアレンジした、

    「哨徧(爲

    126

    米折腰)」の如き作例ものこしており、総じて、古今體詩におけるのと同樣の傾向を見出すこ

    とができる。

    以上の通り、詞においても、蘇軾は槪ね古今體詩と同樣に次韻を使用していたことが認めら

    れた。しかし、使用された場という點に着目して、つぶさに作例を檢討していくと、古今體詩

    におけるのと明らかに異なるケースが存在することに氣がつく。次節以下において、その點を

    指摘し、併せてその異同の示唆する内容を論述したい。

    蘇軾の詩と詞における次韻の異同

    前節でも述べた通り、詞における次韻にも古今體詩同樣の傾向が認められた。しかし、その

    使用された場という點に着目すると、少なくとも古今體詩においては一般的ではない場におい

    て、一部の次韻詞が製作されていたことがわかる。その作例が、

    「浣溪沙」五首と、

    109

    113

    210

    「西江月」三首である。

    212「浣溪沙」五首は、元豐四年(一○八一、蘇軾四六歳)、黄州謫居期の作で、次のような小序が

    ある。

    十二月二日、雨後微雪、太守徐君猷攜酒見過、坐上作浣溪沙三首。明日酒醒、雪

    大作、又作二首。

    十二月二日、雨後

    微かに雪ふり、太守の徐君猷

    酒を攜へ過らる。坐上

    浣溪沙三首

    よぎ

    を作る。明日

    醒むれば、雪

    大いに作り、又た二首を作る。

    おこ

    また、第二、第三、第五首の題下に「前韻」という二字の注があり、第四首の題下には「再和

    前韻」の注がある。五首ともに、「蘇、車、無、珠、鬚」という共通の韻字が使用されている。

    「西江月」三首は、元祐六年(一○九一、蘇軾五六歳)、杭州知事時代の作で、第一首(原篇)

    第十二章 蘇軾次韻詞考

  • 383

    に「寶雲眞覺院賞瑞香」という題下注がある。〈寶雲眞覺院〉は杭州の佛寺の名。〈瑞香〉は

    花の名。第二首に、「坐客

    和せられ復た次韻す(坐客見和復次韻)」という題下注が附されてい

    る。韻字は、三首ともに「通、風、夢、紅、穠、動」である。

    この「浣溪沙」五首と「西江月」三首は、第一首(原篇)を除く作例が全て次韻詞である。

    そして、「浣溪沙」の小序に「坐上作浣溪沙三首」とあり、「西江月」第二首題下注に「坐客

    見和復次韻」とあるように、宴席の場における次韻の使用が明示されている。

    古今體詩における次韻は、基本的に同時同座という條件下で使用されたものではなかった。

    分韻、分題(賦題)、聯句等の社交的各作詩技法と比較した時、次韻の獨自性が鮮明に表れ出

    た最大の要因が、使用された場の相異にあったことは、本章においてすでに述べた。しかし、

    前掲の「浣溪沙」及び「西江月」は、明らかに――次韻が次韻としての獨自性をより有効に發

    揮し得る――傳統的形態を無視した作例とも見なし得る。この現象をどう解釋すべきであろう

    か。筆

    者は、この現象を、詞の傳統的製作の場に合うよう次韻の使用形態に改變が加えられた結

    果、生じたものである、と判斷する。次韻が詞に歩み寄った形態とも言い換えられよう。つま

    り、蘇軾の當時、詞の製作の場としてなお主流であったのは、酒宴の席であった。そして多く

    の場合、そのような場面では作られた詞を歌妓が管弦の演奏に合わせ歌い實演していた。むろ

    ん、宴席の大小、宴が公的なものか私的なものかによって、官妓が私妓に變わったり、樂奏が

    簡素になる等、宴の樣相それ自體は多種多樣であっただろうが、宴席が詞の製作兼發表の主た

    る場の一つであったことは動かない事實であろう。それは、宋代の詞(詩)話・筆記類に記さ

    れた内容や詞の題下注等から容易に窺い知ることができる。

    この樣な詞における傳統的な製作の場という點を念頭に置きつつ、あくまでも詞において次

    韻を使用するという前提で考えた場合、同時同座という條件は避けて通れないものとなる。そ

    れが、このような次韻の形態を生んだ最も主たる原因ではないかと考えられる。また、この種

    の形態では、當然のことながら、次韻の三効果の中、第一の遊戲・競技性の効果が最も期待さ

    れ、卽興性がとりわけ重視されたと考えられる。

    他方、前節

    において言及した、章楶と蘇軾の「水龍吟」は、これに對し、逆に詞の方が次

    (2)

    韻の舊來の形態に歩み寄った形と判斷できる。この作例は、古今體詩における次韻から見た場

    合、きわめて一般的傳統的な形態といえるが、前述のように詞の傳統的製作の場という點を考

    慮に入れれば、むしろ新しい形態のものと位置づけられる。

    傳統的詞の製作の場において、次韻という技法が導入されたことにより、同時同座という、

    從來の古今體詩においては多見できない、非一般的な次韻の形態が自然發生的に誕生した。他

    方、傳統的な使用形態に則って次韻が用いられたことにより、詞が宴席という場を自然に離脱

    し、當意卽妙を第一義としない文學樣式へと大きく變質する可能性を得た、といえよう。

    本節において掲げた、二組の作例は、次韻という手法を介して、ともに詩と詞の境界が希薄

    化していった顯著な指標と見なすことができる。

    第十二章 蘇軾次韻詞考

  • 384

    詞における次韻の意味するもの

    村上哲見氏は、蘇軾の當時、書簡を媒介として詞が贈答唱和されるようになった事實にいち

    早く着目し、「書簡の上で贈答された詞は、もとより曲にのる形を備えてはいたであろうけれ

    ども、さし當っては、古體や今體の詩と同樣に、單に讀むだけで友情の交換の手段としての機

    能を果たしていたに違いない」と述べ、詞が當時の文人にとって古今體の詩を作るのと同樣、

    日常的な表現方法の一つと變質したことを指摘されている(「詩と詞のあいだ――蘇東坡の場合」)。

    まさに、村上氏の指摘される通り、書簡を介して次韻の應酬がされた章楶と蘇軾の「水龍吟」

    は、詞における新しい製作の場が生まれたことを端的に示す例であり、そしてそれが詞の質的

    變化を促した要因の一つと考えることは妥當であろう。

    しかしまた、前掲「浣溪沙」および「西江月」の、同時同座による次韻が示唆することもき

    わめて象徴的である。むしろ、これらが傳統的な作詞の場において作られたものだけに、その

    示唆する内容は、よりいっそう重大であると考えられる。

    前述の通り、從來、詞は詩人によって製作された後、すみやかに樂曲の演奏を伴い、主とし

    て歌妓によって歌われ發表されていたものと想像される。鑑賞者の理解を助けるため、あるい

    は紙面に抄寫されたものが、宴會の參加者に配られたことがあったかもしれないが、そのよう

    な場において、鑑賞者は基本的に歌妓によって歌われた言葉を耳を通じて聽き鑑賞するという

    ように、聽覺の鑑賞を優先させていたものと推測される。

    しかし一方、次韻はきわめて視覺的な技法である。たとえば依韻のように、もっぱら原篇と

    共通の韻を使用するという條件下で和篇が製作されたのであれば、あるいは聽覺のみの鑑賞に

    より、和篇が拘束條件を滿たしているか否かを確認することも可能であったかもしれない。だ

    が次韻のように、韻字そのものが拘束の對象となる技法において、聽覺のみに頼ってそれを確

    認することは、實際上甚だ困難をきたすに相違ない。

    もとより、詞の傳統的製作の場において次韻が導入されるにあたり、次韻の第一の効果、す

    なわち遊戲・競技性が期待されていたとするならば、鑑賞者は先ず眞っ先に作品が次韻の條件

    を滿たしているか否かを自らの目によって確認したはずである。そして、原篇と和篇とを相互

    に比較して、和篇がどのようにして韻字における諸々の拘束を克服したかを吟味したに違いな

    い。こ

    の推測に誤りがなければ、舊來的な詞の製作の場において次韻が使用されたという事實は、

    詞の發表および鑑賞の形態をも變質させた可能性が高い。つまり、その樣な舊來的傳統的な作

    詞の場面においてさえも、詞はもはや聽覺よりも視覺を優先させた鑑賞が重視されていたこと

    を、これらの作例は示唆していると考えられる。

    詞の鑑賞次元における、聽覺重視から視覺重視への轉換、言い換えれば、詞が樂奏から離脱

    第十二章 蘇軾次韻詞考

  • 385

    してゆく傾向は、それが次韻によってもたらされたのか、あるいは逆にその樣な傾向がすでに

    あった結果、次韻が詞に導入されたのか、卽斷しがたい側面をもっている。しかし、宴席の場、

    すなわち舊來的な詞の製作の場においてさえも、次韻が導入されたという事實は、その轉換が

    決定的になったことを明らかに示す事例と言えるのではないだろうか。

    おわりに

    以上の各節において、主として古今體詩と詞における異同を中心として、蘇軾の次韻につい

    て論述してきた。詩詞それぞれの樣式的特性に卽した異同が認められたことは、前述の通りで

    ある。しかし、ひとたび詩歌全體の高みから、蘇軾の次韻を眺める時、そこに共通の傾向が認

    められることも確認できよう。以上の各節において記した蘇軾の次韻の諸相それ自體は、彼の

    次韻が從來のそれと比較して多樣であったことを示しているが、同時にまた蘇軾が、詩と詞と

    いうジャンルの相異を越え、あるいはまた集團か個かという場面の異同に關わりなく、次韻を

    好んで使用していたことを雄辯に物語っている。そしてそこに、舊來的傳統的な用法に拘泥せ

    ず、次韻のもつ可能性を追求しようとする蘇軾の基本的姿勢を見出すことは、そう困難ではあ

    るまい。

    次韻におけるこの自由な發想は、そのまま彼の創作姿勢全般にもある程度あてはまる。詞に

    限定して端的な例を擧げるならば、後世〈豪放〉詞として位置づけられた諸篇は、もしかりに

    蘇軾が、眞っ先に樣式それぞれの傳統を考え、それを墨守するタイプの詩人であったならば、

    おそらく決して生まれ得なかった作例と考えられる。彼にとっては、おそらく樣式的傳統や特

    性よりも歌うべき内容が優先したのではないだろうか。高らかに歌聲とともに自己の感情を表

    現したい時、舊時にあっては樂府が擔ってきた部分を、その代わりに蘇軾は詞を用いて表現し

    たのではないか、それが一連の〈豪放〉詞を生んだのではないか、と推察される。したがって、

    各樣式の傳統や獨自性を重視し、それぞれの間に明確な一線を引こうと考える詩人とは異なり、

    蘇軾の場合、時として各ジャンル間の境界が曖昧になったと考えられる。

    この點にも關連して、ひとつ興味深い現象を指摘するならば、蘇軾より下の詞人にあって、

    詞における次韻に對する姿勢が明確に二分され、その差異がそのまま後世のその詩人に對する

    詞の評價と直結しているという點である。蘇軾同樣、詞において次韻を多用した詞人に黄庭堅

    がいる。一方、古今體詩においては使用していながら、詞において全く次韻を使用しなかった

    詞人に、秦觀と賀鑄がいる。後世、後者がより多く〈詞人〉としての名聲を獲得し、詞の正統

    的流れを汲む者と目されることが多かったことは言うまでもない。

    秦觀や賀鑄が、蘇軾(もしくは黄庭堅)と親交厚かったことはよく知られている。次韻を多用

    する詞人と交際しつつ、それでいて彼らは詞に限っては次韻の使用をしなかったのであるから、

    彼らの中にある種の明確な峻別意識が働いていたことは間違いない。おそらく彼らにとって、

    第十二章 蘇軾次韻詞考

  • 386

    古今體詩において使い古された次韻を、別個の獨立した傳統と表現機能をもつ詞に持ち込むこ

    とは、違和感をもたらすことであったのではないかと想像される。

    南宋に入ると、作者の詞風を問わず、次韻は詞においても一般化する。しかし、詞に次韻が

    導入されてまだ歴史の淺かった北宋後期にあっては、詞に對する意識の相異がきわめて鮮明に

    次韻の使用狀況に反映されているのである。以上、北宋後期、詞における次韻が蘇軾を境に一

    般化してゆく過程で、頑なに次韻使用を拒否した秦觀や賀鑄のような詩人も存在した事實を指

    摘し、本論の結びとする。

    第十二章

    【注】

    一九八三年一二月、臺灣商務印書館刊、二册本。

    北宋・劉攽『中山詩話』、明・徐師曾『文體明辨序説』、清・呉喬『答萬季埜詩問』等は、本稿で

    規定したように、和韻三形態を分類している。なお、明・胡震亨『唐音癸籤』卷三「法微」では、

    依韻と用韻の説明が各々本論と逆になっている。

    花房英樹『白居易研究』(一九七一年三月、世界思想社)第二章「白居易文學集團」の各節參照。

    戴叔倫の用例に關しては、

    鈴木修次「中・晩唐詩に見る押韻のくふうの極限」(一九八四年五月、

    (a)

    溪水社刊『三迫初男博士古稀記念論集』所收)、盧綸の用例に關しては、

    村上哲見『三體詩』(一

    (b)

    九七八年九月、朝日新聞社、中國古典選

    、二一四頁以下)參照。また、鈴木氏には、六朝から

    30

    唐にわたる韻に制限を加えて作詩する技法に關して論述した、

    「六朝・唐代の和韻詩の變遷」(一

    (c)

    九八三年一月、神戸大學中文研究會『未名』第三號)という論文もある。ただし、分韻等の集團

    における技法と和韻とが區別されずに論じられており、筆者の立場とは異なる。

    中華書局校點本『元稹集』卷六○「上令狐相公詩啓」。

    注所掲、鈴木氏

    論文、または、赤井益久「大暦期の聯句と詩會」(一九八四年二月、國學院大

    (a)

    學『漢文學會々報』第二九號)等參照。

    朱東潤『梅堯臣集編年校注』(一九八○年一一月、上海古籍出版社)による。

    ここに掲げた詩人のデータを、以下に列記する(次韻詩數/詩総數)。王安石(一五五/一六三七)、

    蘇頌(一六六/五九五)、劉攽(一○七/一二一三)、呂陶(六○/三八八)、韋驤(八九/一一五

    ○)、蘇轍(四九九/一八○七)、黄庭堅(四四○/一四六六)、秦觀(一○八/四三六)、陳師道

    (八五/六六六)。

    この

    首の中には、ほぼ同時連作といえる作例(

    「十一月二十六日、松風亭下、梅花盛開」と

    87

    (a)

    「再用前韻」〔ともに卷三八〕)も含まれる。

    の制作時間にたとえわずかであれ先行する

    (b)

    (a)

    (b)

    という立場からである。また、傳統的形態とこの形態の中間的存在として、〈畳次韻〉と假稱した

    形態の次韻があることもここで指摘しておく(第十一章「蘇軾次韻詩考」參照)。

    第十二章 蘇軾次韻詞考

  • 387

    ○李白……「和李白并敍」(卷二三)○韋應物……「寄鄧道士并引」(卷三九)○韓愈……「二月

    十六日、與張李二君游南溪~」(卷五)○梅堯臣……「木山并敍」(卷三○)。

    『臨川先生文集』卷一三「崑山慧聚寺次孟郊韻」、同卷一六「崑山慧聚寺次張祜韻」。

    第九章「郭祥正と『和李詩』」參照。

    また、歴代の陶淵明に言及した詩文を拔粋した『陶淵明研究資料彙編』(一九六二年一月、中華書

    局、古典文學研究資料彙編、上下二册)を見れば、宋代になり陶淵明に言及するものが急增して

    いる事實を容易に見て取ることができる。

    宋・朋九萬『東坡烏臺詩案』參照。第六章「東坡烏臺詩案考(下)」、第七章「東坡烏臺詩案流傳

    考」參照。

    第八章「蘇軾の文學と印刷メディア」參照。

    この點に關して附言すれば、蘇軾には過去の自作において使った詩語を典故にして詩を作る、と

    いう樣な非一般的用典の方法の作例が認められ、それも、當時の蘇詩の流行を背景にしたものと

    考えられる。第八章「蘇軾の文學と印刷メディア」參照。

    第四章「張先和韻詞二首繋年考」參照。

    中華書局校點本『蘇軾文集』卷五五。

    嚴傑『歐陽脩年譜』(一九九三年一一月、南京出版社)參照。

    南宋初の代表的詞人を擧げれば、李綱、向子諲、蔡伸、王之道、楊无咎等がいる。

    たとえば、楊湜『古今詞話』には、唐五代から北宋末に至るエピソードが記されているが、しば

    しば妓女が登場し、また宴席にて詞が作られていたことが記述されている。また、北宋のみなら

    ず、南宋に入ってもやはり、宴席が作詞の主要な場であったことは、南宋の詞の題下に「卽席作」

    「席上にて作る」等の語がしばしば注記されていることによって明らかである。

    一九六八年一月、東方學會『東方學』第三五號。なお、村上氏には、蘇軾「水龍吟」の製作年代

    を考證した論文もある(「東坡詞札記二則」、一九七三年六月、東北大學中國文史哲研究會『集刊

    東洋學』第二九號)。

    「江城子・密州出獵」、

    「念奴嬌・赤壁懷古」等。

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    『全宋詞』によって調査すると、三五首の次韻詞(総數一八七首)をのこしている。

    秦觀は四三六首の古今體詩が傳わり、うち一○八首が次韻詩である(二四・八%)。賀鑄は五九一

    首の古今體詩が傳わり、次韻詩は存在しないが、『慶湖遺老集』卷五「和答鄭郎中見寄」の序に、

    和韻詩を集に收錄しなかった旨を自ら記しており、賀鑄も古今體詩においては次韻を使用してい

    た。なお、『全宋詞』によれば、秦觀は八七首、賀鑄は二八一首の詞をそれぞれのこし、ともに次

    韻詞は存在しない。

    秦觀は後世〈蘇門四學士〉に數えられることからも知られるとおり、蘇軾・黄庭堅とは親交が厚

    い。古今體詩においては實際に彼らとの間に次韻の作例をのこしている。一方、賀鑄は、『慶湖遺

    老集』に蘇軾の名が散見することによって、蘇軾と交友のあったことを確認できる。また、秦觀

    の「千秋歳(水邊沙外)」詞、賀鑄の「青玉案(凌波不過横塘路)」詞は、同時代の詩人が多數次

    第十二章 蘇軾次韻詞考

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    韻したことで著名であるが、蘇軾、黄庭堅はそのいずれにも次韻した作をのこしている。王水照

    氏に、「千秋歳」の唱和についての專論がある。「蘇門諸公貶謫心態的縮影―論秦觀『千秋詞』及

    蘇軾等和韻詞」(一九九九年五月、河北敎育出版社『蘇軾研究』所收)。

    第十二章 蘇軾次韻詞考