魔法 · エッセイ 言葉と向き合う 1982年,愛媛県生まれ。鳴門教育...

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1982年,愛媛県生まれ。鳴門教育 大学卒業。ロックバンド「チャットモン チー」のドラマー・作詞家として活躍 後,作家に。作家・作詞家としての活 動のかたわら,詩の朗読,詩と絵の展 覧会,詩作・朗読のワークショップな ども積極的に行う。主な作詞曲に,も もいろクローバーZ「空のカーテン」, KANIKAPILA「トラブルメイカー」な ど。主な著書に,詩画集『 太陽は宇 宙を飛び出した』(FOIL),写真詩集 『家と砂漠』,エッセイ集『思いつつ, 嘆きつつ,走りつつ,』(毎日新聞社) など。 姿使02 03 高橋久美子 たかはし

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Page 1: 魔法 · エッセイ 言葉と向き合う 1982年,愛媛県生まれ。鳴門教育 大学卒業。ロックバンド「チャットモン チー」のドラマー・作詞家として活躍

巻頭エッセイ 言葉と向き合う

1982年,愛媛県生まれ。鳴門教育大学卒業。ロックバンド「チャットモンチー」のドラマー・作詞家として活躍後,作家に。作家・作詞家としての活動のかたわら,詩の朗読,詩と絵の展覧会,詩作・朗読のワークショップなども積極的に行う。主な作詞曲に,ももいろクローバーZ「空のカーテン」,KANIKAPILA「トラブルメイカー」など。主な著書に,詩画集『太陽は宇宙を飛び出した』(FOIL),写真詩集

『家と砂漠』,エッセイ集『思いつつ,嘆きつつ,走りつつ,』(毎日新聞社)など。

「日記と詩は何が違うのですか?」と尋

ねられることがある。日記にメロディー

をつけても歌になるし、日記を詩だと言

い張ったとしても怒られることはない。

詩と日記の具体的な線引きはないのだ。

 

中学三年生のとき、変わった国語の先

生が転任してきた。授業の頭で毎回詩を

作ろうと言い出したのだ。詩人なんて谷

川俊太郎くらいしか知らないぞ、一体ど

うやって書けばいいんだ。私を含め生徒

たちはざわついた。先生はそんな空気お

かまいなしで、黒板に「光」と書くと、コー

スターほどの小さなわら半紙を配った。

「今日のお題は『光』です。それでは三分

間よーい始め」。

 

中学生の私は、詩の面白さはテストの

点と比例しないことだと知った。なぜな

ら授業を放棄して教室を飛び出すような

金髪の男子に限って、素晴らしい詩を書

いたからだ。先生が毎回発表する優秀作

品の中に、ときどき彼らの詩も入ってお

り、それがびっくりするほど良かった。

教室がシーンとなった。先生が朗読し

ている間、金髪のヤンキーは顔を真赤に

して椅子をギッコンバッタンやりながら

そっぽを向いた。何にもとらわれない自

由な発想と言葉の組み合わせは見事だっ

た。きっとこれは優等生には書けないも

のだと感じた。今思うと、彼らが学校

で褒められる姿を見たのはこのときだけ

だった。その後の人生で彼らが困難に当

たったとき、あの日の胸のドキドキと細

やかな喜びを思い出してくれていたらい

いなと思う。作詩講座を開くとき、あの

日の不良少年の顔を思い出す。言葉は音

楽やサッカーみたいに特別な技能や道具

がなくても書ける。だからこそ、詩を作っ

たことのない人にも、国語が嫌いな人に

も、自分自身を変えるチャンスのある世

界だということを忘れないでいたいと思

うのだ。

 

そんな風に、ヤンキーに刺激を受けな

がら、私は詩作の時間が一番好きになっ

ていた。休み時間や家に帰ってからも詩

を作った。それらは、提出される授業の

詩とは一味違っていた。家族にも友達に

も相談できない思春期ならではの心の闇

は、日記帳ではない新しいノートに連な

り始めたのだった。間違いなく私はあの

一冊の作詩ノートに支えられ、中学、高

校時代を乗り切った。人前では明るいく

せに、もんもんと蓄積される心の錆は詩

に形を変えることでしか取れなかった。

本音を言える誰かがいたなら、私は詩を

書き続けていなかっただろう。その必要

がないからだ。その方が人間としては幸

せなことだと思うが、残念ながら大学生

になっても私の作詩ノートはどんどん溜

まっていった。

 

あの頃のノートを見返すと、感情のむ

き出し具合に恥ずかしくなる。けれども、

今の自分には書けない宝物だとも思う。

綴られた言葉は、ときに鋭いナイフにな

り、またエールになり私を明日へ向かわ

せた。決して上手くはないが、やはり日

記ではない。そこには、心情の吐露だけ

でなく「表現」という美しさと面白さを

求める探究心がみられた。ただの愚痴や

嘆きではなく、作品として立たせること

が自分の中のプライドであり、私を夢中

にさせた詩の魅力だったのだと思う。

 

大学時代、軽音部の後輩に誘われてロッ

クバンド・チャットモンチーにドラマー

として加入した。最初は私以外の二人の

作詞・作曲した曲をアレンジして演奏し

ていたが、ある日「久美子さんも詩が書

けたりしますか?」とボーカルのえっ

ちゃんに聞かれた。「うん、ちょっと書け

る」と答えた。嬉しかった。私の詩にメ

ロディーがつき演奏し歌ってくれるなん

て。机の中にしまいこむだけの言葉を認

めてくれる誰かがいることが嬉しくて嬉

しくて、私は翌日までに約十の歌詞を作っ

ていった。そのとき書いたものの多くが、

デビュー後に音源化され今もなお愛され

ている。

 

初期でこそこのように奔放に書けたが、

詩と歌詞は別ものだった。歌になり演奏

というドレスを纏った言葉は、もはや私

だけのものではなかった。私ではない人

の口から歌われステージを見上げるたく

さんのお客さんに届けられることで、み

んなのものになっていった。それはとて

も幸せなことだったけれど、同時に責任

と覚悟がいることでもあった。曲を聞い

た何万人のうちの一人でも自分の歌詞に

よって傷ついてはいけないという思いが、

ファンが増えていく度に強くなった。ま

た、聞いてくれた人の勇気や希望になっ

てほしいと願いを込めてどんなネガティ

ブな歌詞にも希望を添えて終わらせた。

気づけば、私は歌詞とは別にまた詩を書

くようになっていた。

 

言葉は、花束にもピストルにもなる。

だからこそ、私達のように言葉を生業と

する人間はその面白さと危うさを伝えな

ければならない。不良男子に光をあてた

国語教師のように。何となくコンビニか

ら流れる私の歌詞が、誰かの明日を作る

のかもしれないという使命はいつも私の

中にある。

 

人生は山あり谷あり。結局のところい

くら勉強したってわからないことだらけ

だ。悲しいときには泣き、嬉しいときに

は笑い、世の中への疑問をふつふつと募

らせ、どんな時代も心のアンテナを伸ば

して生きることこそが、豊かな言葉と人

生を作る秘訣なのだと思っている。

高橋久美子

作家・作詞家

0203

高橋久美子たか はし く み こ

詩という

魔法