學藝 : 北海道學藝大學機關誌, 2(1): 28-33 url...

7
Hokkaido University of Education Title Author(s) �, Citation � : �, 2(1): 28-33 Issue Date 1950-08 URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3469 Rights

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Hokkaido University of Education

Title 古代人の「夢」について

Author(s) 渡辺, 茂

Citation 學藝 : 北海道學藝大學機關誌, 2(1): 28-33

Issue Date 1950-08

URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3469

Rights

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▽ol.2, No.I

                    

GA1

ではなかろぅか。之は古代の天皇が、牧民的、政治的、武

力的存在でありて、 農耕的、中園的な在り方とは異って

いたという優説から出発しなければならない問題と考え

られる

 

此の事に就いては縞を改めて論じたいと思う。

 

    

以上論の進め方が冗漫に流れたきらいがあったと思わ

れるので、一願結論をまとめておこう。

 

従来の研究では、此の添申話構成が鎮魂祭を原型として

いるということに殆ど意見が一致していた。此の点は筆

者も何等疑うものでない。 只この紳話の最後の構成がな

されたと思われる時代は、何といっても中国文化の圧倒

的な影響化にあって、農耕文化の色彩が強かった鷺に、

その紳話的装飾にまどわされて、この鎮魂祭を太陽に関

して多より春にかけての回春の儀礼と結びつけた点に問

題があった。更に一部に唱えられた日蝕説にも自然現象

としての太陽が考えられている。

 

そこで、この静話から農耕的色彩の外嶺を一懸はらい

のけて考えてみたのである。そしてその結果あらわにさ

れた紳話の骨格が古くより日本列島には拡がっていたと

思われる北方シャーマニズムの要素よりなって いるこ

と、そして中心にある天照大荊の性格が、古代王者の政

治的、職斗的な点をよく物語っていて、この荊を中心に

古代で行われたと思われる様々な祭蔵形式が綜合されて

いるということ、なおこの構成の仕方に古代天皇の王者

とし・(の性格が窺われるこ.と、等が明らかになったと思

われる

 

更に言うならば、、日本古代文化形成の生命的表現とし

ての講話の構成が、 アジャ文化圏内に於いても、 中園

的、農耕的要素によって本質を改襲されてしまうことな

く、より古い北方的な要素を級心として持っていたこと

GAKU(キ総1総l

                     

    

Aug.1950

は、.日本文化の一つの性格を物語るものであるというこ

とが、この辞話構成の研究によって得られたことに注目

したいと思う。

   

 

1. 三 品 彰 英

 

添IP話と丈化境域

   

大八州出版飛土

 

2. W.・wundt,Vm{erI)sycl・ologie.Bd.=

 

Mythus

   

and

 

Religion,Leipxig

 

l905一一〇9.

 

3, 三 品 彰 英:建国司=話論考

      

日 黒 書 店

 

4. 岡正雄o八幡一郎・江上波夫:日本民族=文化の

   

源流と日本国家の形成 民族学研究

 

13.3

 

5, 上

 

 

 

6, 松村 武 雄:日本科話,の実相

    

 

 

 

7. 例へば鳥居龍減博士の「日本周囲民族の宗教」

   

に鏡や細女命の動作がシャーマン的色彩を帯

   

びていることを指摘 していられる

 

8. 護

  

雅 夫:遊牧園家に於ける「主本蓬副1授」と

   

いふ考え

 

歴史学研究 133

 

9, 三 品彰 英:「記紀爺,=-話異像研究の一繭(日匪た

   

買,IP話偉説の研究所収)

      

柳 原 書 店

10. 柳 田 国男:日本の祭

        

 

 

IL

 

謎 雅 夫ミ

 

前 掲 書

12. ゼーデルブルーム:潤す信仰の生成

 

             

三枝義夫訳

 

岩波文庫版

i3. 後藤 守一:古墳文化「新修日本文化史大系

   

原始女化所牧」

 

      

誠女堂、新光副:

14, 後 藤 守一:上古時代の家

 

史潮 1ノ2

15. 出石 誠 諺・:麦那派IP話像謙研究

    

中央公論徹

16. 小 島ず瀦馬:古代麦那研究

      

 

 

17, 筆

   

 

日本柳11話像承構成の研究

 

未発表

18, 肥 後 和 男:日本ホ111話研究

      

 

 

 

附記

 

護芽IE夫氏に.は直接懇切なる御指導を賜わった。

 

殊にシャーマニズムに就v・て南方、北方両方を考え

 

る必要のあることの御指示もあったのであるが期日

  

に迫られて一廠今後に保留した・同氏に厚くお礼dJ

 

上げる次第である。

古 代 人 の 「夢」 に つ い て

 

 

函館分校史学研究室

Sigeru

 

IFatalmbe:01・the”Conceplionof

 

Dream:’b)γtlle 1^lcient

 

JapanFsp.

我闘の古典の中には夢に関する議運が少くないご夢と

いう現象に対する研究はいろいろの分野から検討する事

が可能であり、叉すぐれた研究も発表されてゐるが、こ

こでは特に之を歴史的見地に立って我国古代思想、特に

・悌数思想の穆透する以前の状態に於て夢が如何なる構造

と意義をもつものと考えられ・(いるかを論じて見たい。

 

言うまでもなく夢は極めて主観的な現象で ある が故

に歴史的立場に於ては夢を見た人がこれを如何に感じ叉

28

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第 2巻

 

第1.号

之に則って如何に行動したかゞ最も関心の対照となる。

従つてこの研究に際しては乏しき古代女献史料に依存す

るのみならず民俗学、考古学、心理学、其の他之に関連

する鹿い観点から綜合的に検討する事が必要である事は

謂うまでもない

 

たゞ筆者の浅学筒未だこの分野に開拓

の斧銭を進めろを得ず、徒らに前者●の分析にのみ終始せ

る事に対するそしりは甘受せねばならないが、之を整理

する事によって得られる成果も亦古代思想探求の一助た

ろ事を信じ、敢て御批判を乞うものである。

 

我国古代史に関する女献史料はその数極めて限定され

てゐるが、この中万葉歌集に於ける如く作者自身の感情

表現の形式をもっているものは、夢に関する意識の告白

としては尤も員実感に近いものと見倣さねばならないo

か▲る見地に於て本稿は先づ万葉の中から古代人のもつ

夢の観念を分析してその構造の大要を把握し、之を手が

かりとして誰紐の中、特に評議、崇前職巳に現れる夢の持

つ意義を考えて行きたいと思う。

 

万葉の中から夢に関連した歌を拾って見ると長短歌合

せて其の数90余首に及ぶが、 共の大部分は相聞の歌で

ある。今これらの夢の歌の中、 先づ恋人の相互間・夫婦

間の場合も之に含めて一に於ける心情の交流が、夢に於

ては如何なる状態に於て可能であったかを分析すること

から問題を展開させて見ること、する。

 

「思ひつ 寝れば力もとな鳥玉の一夜もおちず夢にし

見ゆる」(釜15-3738)「足引の山東へなりて漉けども心

し行けば夢に見えけり」 (維17一3981)等の歌に現れる

夢では、自分が相手を思ひこがれているその思ひが先方

に通じたが篤に、相手の姿が自分の夢に現れるのだと感

じられるものがある。これに対して自分が受身の形で考

えられると「吾が背子が斯く恋ふれこそぬば玉の夢に見

えつ いねられずけれ」 (巻4-639)という様に、自分

が相手に恋されてゐるが故に、それが自分の夢に見える

という歌や、家持の歌に「夜書といふ別知らに書が恋ふ

る」bば蓋し夢に見えきや」 (巻4-716)とある如く、自

分の恋ふる心が先方に通じたであろうかを問うているの

もある。これらの歌に見える夢は、もはや単なる偶然に

生じる現象としてではなくして、相手・を恋ひ慕う者の切

実なる感情が凝ってそれが樹夢に現れて来るという信念が

潜在している

 

か る信念があればこそ叉「夢にだに見

えばこそあらめ斯くばかり見えずしあるは恋ひて死ねと

か」 (巻4

 

749ノ 「相思はず君はあるらしぬば玉の夢に

も見えず……」 (巻ー1-2589)の如く自分の夢に現れぬ

事を以て相手の薄情を恨めしく,思う歌ともなり、叉両者

うつふには逢うよしもなしぬば玉の

  

    

夜の夢にをつぎて見えこそ(穫5-807)

          

 

            

 たゞに逢はずあらくも多くしき妙の

枕さらずて夢にし見えむ(笹5-809)

の如き、叉

すべもなき片恋をづ-とこの頃に

吾が死ぬべき{ノま夢に見えきや(巻i2h一3111)

夢に見て衣を取り著よそふ間に

妹が使ぞ先立ちにける(魯12一3112)

の如く、両者の心情が相互に交流するものとして考えら

れても来るのである。

 

恋人相互の心情がこの様に交流する事が可能であると

考えられるならば、其処には既に恋うる「心情」そのも

のが、相手の「心情」に触れ合うべく行動するとの観念

,も見られる。 「人の見て事誉めせぬ夢にわれこよひ至ら

むやどさすなゆめ」(巻12-2912)「暮さらばやとあげ設

けて我待たむ夢に相見に来むといふ人を」 (巻4‐744)

の歌によってその一端を知る事が出来る。前者は遊仙窟

の一節の瀦訳であると云われるが、かふる表現が単なる

模倣のみでなかった事は「門たてム戸もさしたるをいづ

くゆか妹が入り来て夢に見えつる」 (巻12一31171 「門

たて}戸はさしたれど盗人のほれる穴より入りて見えけ

む」 (巻12一3118)の一対の歌によっても察する事が出

来る。これらの歌では戸を閉したるに尚入り来て夢に見

える不思議さを間 引こ対して、盗人のほれる穴から「入

りて見えけむ」と推量の形をもって答えている事によっ

て、夢の逢に出かける自分の「心情」が既に自己とは別

個の客観的なものと見る考えが潜んで居り、か▲る心情

は「たしかなる便をなみと心をぞ使にやりし夢に見えき

や」 (筏Z2一2874)の歌に於て、肉身より分離された

「ID」の来往を信ずる万葉人の心境を端的に窺うことが

出来る。

 

斯くて万葉人の心理には夢を媒介とする相患者間の心

情の感腹交流が蝿実感を以て語られていたと見る事が出

来る 夢に現れる現象が贋実であるとの信念はアニミ,ズ

ムに根拠を提供する原始蔵会に於て屡々見られる事実で

あるが、万葉人の心理にもか る思想の片鱗は残存して

   

(t)いた様であり、この場合相感臆する心が「タマ」 と呼ぼ

るべきものであった。 「霊合はゞ相宿むものを小山田の

しふ田もる如母し守らすも」 (巻12一3000) 「筑波嶺の

をてもこのもに守部すゑ母い守れども魂ぞ逢ひにける」

(巻14一3393)のタマはかふる用例であり、恋人同志の

心情の交流が「霊合う」という表現によって越べられて

ゐる,この霊が更に激しく躍動する時には「魂はあした

の心情が一致する時には

昭和25年8月

29

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GAKU(÷冠1

 

Vol.2, No.1

   

               

GA

夕にたまふれど青が胸痛し恋の繁きに」 (巻15一3767)

の歌むこ於ける響く恋精の激しさのあまり肉体から遊離し

ようとする魂に対し、之を鎮めようとする他の自己の存

在が考えられて屠る。換言すれば、 肉体から遊離して第

二存在たらむとする「タマ」の存在が肯定されていたと

見ねばならず、万葉の歌の中、夢に関する歌の多くが相

聞の歌であるという事も、恋愛に方きける心情の興奮は、かふるタマの躍動によるものと考えたのであり、か る

タマの自覚があればこそ夢に於ける心情の交流も亦可能

であると確信されたのであろう。

 

言EL・岩波文庫本「宗教生活の原初形態」

       

デュルケム著o古野滴人訳

 

上 91頁

 

斯くの如くタマ自体の存在を肯定し、それが肉体より

遊離して夢に出没するものであったとしても、それがア

ニミズムの立場に於ける如く人間の死後に於ても筒、 か

ふるタマが不滅の存在として夢に現れるや否やについて

は次に検討すべき問題でなければならない。

 

人間の死が如何に悲しむべき現実であったかについて

は挽歌に於て充分に察する事が出来るが、之等の歌に於

て生者と死者の間の惜別の情の交流を夢の舞台に於て求

め様としている歌は極めて少く、其の内容から見ても崩

せられた天皇を毎朝々々御慕い申していた所その天皇が

夢に綴れたと詠ずる長歌(巻2一150)や、 「三諸の静の

而iH杉夢にをし見むとすれどもいねぬ夜ぞ多き」 (巻2一

156)等がその主なものである。 之を先の例(巻4一639)

に比べる時、後者では夢に見えすぎて寝られぬとするの

に対し、前者では夢にだけでも見たいものなのに寝られ

ぬとするは、逢ふべきタマの一方が既に真の活力を減じ

た事を予想せしめるものがある。 之に反し、恋人相思の

間に於て生前にはあれ程夢に去来した心情が死の間際に

臨んでは実に坦々たる心境に帰しているのは一驚に慣す

る程である 繊二の「柿本朝臣人膳在二石見図-臨し死時

目傷作歌」に「鴨山の砦根し趣ける吾をかも知らにと妹

が待ちつふあらむ」 (223) という歌が見えているが、

之に対して妻依羅娘子は、 「今日今日と吾が待つ君は石

川の貝に交りて在りとい0まずやも」 (224)「直に逢ふは

逢ひかっましじ石川に雲立ち渡れ見つ 偲ばむ」、(225)

と詠み、夫の死を聞いて悲痛の感をいだいてはいるが、此の場合人塘は、先の歌の如く「我が死ぬべき‘ば夢に見

えきや」という様に夢に期待をかけている様子はなく、妻も亦「夢にだに見えぱこそあらめ」という期待は何等

表現Lていない。この事は万葉人の霊の観念と、夢の性

格を規定するに大きな手がかりとなるものでなければな

U(÷冠1

         

             

Aug,1950

 

らない。 之に類する歌は尚維

 

βの3341,3342.3343等

 

にも見られるが、之等によりて見れば、万葉人の場合に

 

は死を契機として生者と死者の間の夢に於けるタマの交

 

流は、遮断されてしまったと見る事が出来るのではある

 

まいか。 更に之を後世の説話文学に於ける生死両者間の

 

霊の交流と対比して見よう。十訓抄には粟田衆房がかね

 

がね良い歌をよまんと心をこ人暦を念じていた所、ある夜

 

翁房の夢に人膳が現れて「年比人丸を心にかけさせ紛へ

 

る其の志燦きによりて形を見え奉るなり」と云って い

                      

(〇

 

る。 万葉時代には其の妻の許にさえも通うことの出来な

.かった人膳の霊が、遠く時代を距てた後世の人の夢に現

 

れるとする所に音々は万葉人と後世人の霊観念の相違を

 

見ることが出来るのである。其の他平安時代説話文学で

 

は、死の予告、死後の様子、前世の様子等が夢によって

        

(2)

      

(3)

       

(4)

 

告げられている話が少ぐなく、これらに見られる夢の舞

 

台は前世より現世来世を結ぶ一大パノラマの役割を果し

 

ているのである。

  

万葉の夢に於ける霊の観念に比してこ′の様な大いなる

 

相違は何に依るのであらう,か。 デュルケムに依れば、之

 

に類するタイラーその他の報告に対し、 「これらの夢は

 

既に精霊、霊魂、死者の図の観念が存ずる所、 換言すれ

 

ば宗教的進化が比較的に進んだ断にしか可能でない」と

                             

(の

 

いっているが、我国の場合に於ても畢党来世や輪廻を説

 

く悌教観の畿札を受けたと否とに由来するものと考えね

 

ばならない。 勿論万葉の時代は,悌教も漸く我国に根を下

 

さんとする時代に当り、人々の胸中に現世の無常を痛感

 

する様になって来ていた事は之を詠じた歌も少くない事

 

より推測出来ることであるが、 近親の霊の行方に対する

 

実感としては「したべの使員ひて通らせ」 (総5一905)

 

の如く牛ば健数思想に基く来世観はきざしつ あったと

 

しても、尚古代的霊観念に立脚して考えたものが多かっ

 

たのではないかと思う。 何となれば、これらの霊の行方

 

について見るに、之を地下に求めるものもあったが(巻

 

3-418419等)、 一般的観念としてはむしろ「腰口の泊

 

瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ」(懇3一

 

428) 「高照らす日の皇子は……天の原砦戸を開き誠上

 

り上り坐しぬ」 (雀2一167)等之に類する歌が多い所か

 

らすれば霊は室の彼方に去るものと考えるのがより一般

 

的な考へ方であり、日本武鰍の霊が白島と化して飛翻し

 

たとする説話も之に類するものであったようである。 一

 

方考古学の成果によれば墓制や副葬品等は古くから行わ

 

れてゐた点より見て死後の霊が肉体の消滅によって全く

 

消滅してしまったとは考えられないが、要するに楽天的

 

にして叉現世肯定的な人生観に生きる古代人にとっては

 

死後の霊の存在は肯定しても、それは基の彼方に漢とし

30

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第 2 巻

 

第1号

              

てあるものであり、従って霊の世界の構想は尚充分に成

熟していなかったのではないかと思う。

 

斯く考えて来ると死者と生者の霊の交流は少くも万葉

人の観念に於ては不可能に近いものであったと云わねば

ならず、藷泉国市中話に於てイザナギの命が自身で黄泉園

を訪れたとするのもか る霊観念が基調をなしているの

ではあるまいか, 「死は生命的エネルギーを高めうるど

ころか、、それを弱める作用をもってゐなければならぬと

き~思はれる。‐‐…肉体が傷つくと霊魂もそれに腫ずる

箇所が傷つく」というデュルヶムの主張は叉万葉人の霊

      

(6)観念に於ても当てはまるものがあり- 肉体の死滅によっ

て霊の活力も亦弱まり生ける人に作きかける力を失って

しまったものと考えられねばならなかった。 辞武説話に

見える日の市IPが高倉下の夢に現れたとするのも天皇が

「像忽にをえまし」 「不平み坐す」獣態に於ては既に天

                

(7)皇の霊の生気衰え、篤に夢に於て日の利きの霊とふれ合う

だけの生気に欠ける・ものとなっていたと・の考えに基くも

のである。

 

 

1.新訂増補

 

園史六系18.十司=抄第4.P.51.

 

2.大日本側;教会書「拾紙往生像」。中.P.62

  

3. 日本古典全集本「今昔物語」9.P,367. 「日本

   

霊異記」中

 

P.134.

  

4, 同

 

上 「今昔物語」14.P,655,P,698

  

5.岩波女庫本.「宗教生活の原初形態」上,P.IQ6

  

 

  

  

「同

        

上」 上,P,108

  

7, 同

  

  

「古事記」P,50,P.51,

        

 

第ー節に於て人間のもつ生気あるタマの躍動する所に

夢の現象が生ずる事を見、第2節に於て生死者の間に於

ける夢の記述に乏しいのは・夢に於て交流するタマの生

気の衰えたるに依る事を推論したのであるが、然らば詔

組樽承に見られる譲人間の夢は如何に鰹すべきかについ

て次に考えて見たい。

 

この問題を橡討するに当って一つの手がかりとなるも

のは、紳代遂に夢に関する記述が見当らぬことである。

古代人の持つ紳の観念は本来は「人力以上の力もしくは

はたらきを有ってゐて、何等かのしかたで人の生活を動

かす或るもの」であり、具体的には人間の個人的、直会

     

・(1)的生活に吉凶調編を輿えるものと考えられて いた が篇

に、之を人間の側からすれば辞意の存する所を正しく認

識し、之に則って行動する事が要請せられたのである。かくて辞意を付度する手段としてウラ、ウケヒ、 託宣、夢筈等が一般に行われたのであるが、辞代史に関する限

り前三者のみが記され、夢については全然ふれていない

のである。この事が全く偶然に記されなかったか否かに

               

昭和25年8月

ついては今少しく静代雀に於ける市中意受託の内容を橡討

して見る必要がある。

 

先づウラについて静代史で述べている所は書細の園土

生成の段の第一の一書に n特に天紳太古を以てト合ふ…

乃ち時日をト定て降ります」とあり、次に天孫降臨の段

の第二の一書では「放れ太占のト事を以て仕もヘ奉らし

む」とあり、何れも′「太占」を以てトヘなす事が明示さ

れている。 之に対して人代機ではウラの記述は少くない

が「太占に卜ふ」 とするものは-っも現れてゐない。

(古事記をこ於ては国土生成の,段と共に、人代穣で垂仁燐

に「、とまにに占相へて云々」と見えているが、後者の

意義については後述する)。斯く考えて見ると少くも書細

では単なるトと、太占にうらぅこととは区別して記載し

ていると云えるが、それが辞代港に於てのみ太占に卜う

事を記しているのは.この場合の卜が宣長の云う如く「諸

卜の中殊に重く、 主とせしト」であったとするならば、

        

       

(2)ウラの観念に於ても静代と人代とではその内容に軽重の

差異が考えられていたと云えるのである÷

 

次にウケヒについて見るに・古事記では之を一様 に

「字気比」と記して居り、其の語源についても諸説があ

って、明かでないが、之に類する用語はシナに於ても譲

 

(3)当するものが見当.らない断からすれば、或は我古代思想

特有の内容をもつものであったかとも思われる。たゞ書

記では之に漢字を充当.して居り、 しかも場所によって其

の女字と内容に多少の相違を示しているので、之を手が

かりに検討して見ると、之も亦辞代議と人代巻とでは区

別して用いられている事が知られる。 即ち,、前者では天

照大綱-と素養鳴⑩のゥヶヒ、及び皇孫の鹿葦津嫌えの寵

幸に現れるウヶヒとがあるが、此等に関しては本文・一

書の記述共に之を「誓約」或は「誓ひ」 と記してゐる。,然るに後者に至るき市中武以降静功組辺迄は一様 に「所

ひ」と記され、欽明細以後よりは「誓ひて」 (欽明組)

「盟ふ」 (綾達紐) 「誓言を発つ」 (崇峻紐・孝徳紐)

「誓盟ひて」 (天智紐)等の用例が見えて来る。之を記

述内容から見ると、ホ申代巻では自己の主張の正当.なるこ

とを稗も亦之を支持するものとして誓うのであり・其の

具体的事例として素養鴫尋では「子を産むこと」鹿葦樫

姫では火を放った「無戸室」の中で子が火に筈ぼるや否

やという客観的事実によって実証しようとする。 之に対

し人代裳の「所ひ」では例えば評武組で水無しの飴を造

ることで「所ぴ」し・(「飴成らぱ、則ち吾れ必ず鉾瓢の

威を仮らずして、坐ながら天下を平けむ,乃ち飴を造り

たまふ、飴即ち自らに成りぬ」と運べて居るが、此処で

は天下の平定が自己の襲い意志としてあるよりは、現在

自己の置かれている苦難に対し、 辞意の加護が期待さ

31

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GAKU(÷E工

 

Vol,2, No.l

れ、それによって環境が打開されるや否やを辞意にたゞ

しているといった意味を有じ〔いる。 それだけに人代港

では「所ひ」を通じて人間が誠に対する新譜の度が大で

あつたといえる。

 

次に託宣についてもこの点は同じことが云ひ得ると思

う。 託宣の具体的な形の一としては縛がかりが考えられ

譜代巻では詑紐共に天鋼女命に縛がかりした事が記され

ているが、この記述では何辞が如何なる目的でかふって

来たかゞ明示さ才t‐〔居ない。 然るに人代巻に至るとこの

点は極めて明瞭であり、従って宣長も前者について「此

段の譜懸は物の著て正心をラミヘる状に、之も云へぬ割戯

言を云て俳優をなすを云なり」と云っている如く、紳代

               

(の巻のそれは贋の意味に於て「某々の罰allの有るべき事を皆

覚し給、」 所の禾IHかかりとは其の性格を異にしているも

    

(6)のであった。

 

この様に見て来ると、ウラ、ゥヶヒ、託宣等を手段と

する辞意の受諾の記述に於て紳代と人代とでは内容的に

可成の差異が存する事に気付くのである。 この事は古代

人が「譜代」をいかに考えて居たかを考察する大きな手

がかりとなる.ものであると思う。

 

譜代という概念は古代人の観念の所産である事は云う

までもないが、か る譜代の世界に於ては純然たる恐長

の対象としての前ーIP、・謂はゞ第一義的な静と・古代人の糟

進んだ観念の所産としての人間的性質を奥えられている

ホ申即第二義的なホi1とが混在している様である。 そして前”

代に於ける赫々も筒太占、.ウヶヒ、託宣などによって辞

意の受諾を必要とするのは後者が,前者に対してのみ見ら

れ得るのであり、この点は古代人の諺会に於て人間が辞

意を所請ずる●という行篇を譜代の世界に写象したものと

考えられるのである。 従って静代に於ける第=義的な静

々も亦第一義的な静々の意を受けねばならぬと考えられ

る所に静代遂に活躍する前者の人間的臭みを見逃し得な

いものがある。、しかも筒静代が「緑の代」として考えら

れる限り、こ ”こ活躍する第二義的な辞々が全然人間と

同一のものとは考えられぬ断に、 ウラ、 ウケヒ、 託宣

等に於ける記述に於て人間就会に於けるそれとは異なっ

た体裁を具える事が要請されたものと考えられるのであ

る。

 

譜代に於ける翫珪1々 が以上の如きものであるとするなら

ば示IP代に夢告に関する記述がないという事も亦・当然の

帰結として考えられねばならない。 何となれば夢の現象

が第1節に述べた如き構造に於て現れるものとすれば・

静代に於ける第一義的な静々は非人間的存在としてウラ

ウケヒの対象とLて考えられる事は出来ても、夢の舞台

に登場すべき人間性に於て欠けるものがあったと見徴さ

(÷E工

                         

Aug,ー950

ねばならぬからである。

 

 

1.津田右左吉博士「日本のホ=-道」 P.9

   

2.岩波文庫本「古事記博」 (-) P.250

   

3.次田

 

潤・「古事記新議.」 P,88.参照

4,5,岩波文庫本 「古事記簿」 (二)P一

 

i98

         

・4

次に人代巻に於ける夢の構造を橡討して見るに、此処

では辞意を啓示せんとする静 ・々とそれを受諾しようとす

る人間(天皇によって代表される)との相会する場とし

て考えられてゐる。 そして更に見るべき事は、此処に現

れる赫々はすべて第二義的辞として極めて人間的性質を

濃厚にして来ている事である

 

高倉下の夢では天照大稗

と武難雷譜の対談があり(古事記では高木の辞も之に加

わり)、 その結果武喪雷縛が高倉下に呼びかけている

八腿島派遣の夢でも天照大縛が天皇に呼・びかけている。

これらの辞々は高木の譜の外は皆鴎に市1-代に.於ても人間

的具体性をもった稗であったが、更に崇示IP組に現われる

大物主御できえも辞婚説話に於ては「美麗しき小飽」で

あっても天皇の夢に現れる場合には「一貴人」となって

出現している。此等の点より云えば静武崇辞儀の夢に現

われる静々 は人間的性質の所有者であるべき事が潜在意

識として要請されていたといえる。斯くて第i節の形式

に換元して云えば、 天皇が辞と夢に於て相会する事が出

来るとするのは、擬人化され得る紳と、耐性化され得る

天皇とのタマの交流が其の基調をなすものであった,何

となれば、天皇のタマは皇組繭のタマを分有するもので

あり大物主市iHも亦人間生活に恐畏を奥える「モノ」の断

 

(1)有者であったが、これらのタマやモノが皇室勢力の消長

        

(2」に重大な関連をもつ事件に直面する時に躍動し、天皇の

タマにふれ合った断に夢が生じたと考えられるからであ

る。斯く考えれば古事記入腿鳥派遣の記載に「夢の語が

現はれていないのも、こ、では高木大辞のみの意志によ

って派遣されたとしたために、ホIP代以来人間的性質を具

備されてゐないこの市中を夢に現れさす事に無理があると

考えられた鷺ではないかと思う。

 

最後に一つ残る問題は、古事記垂仁燐に見える本牟智

和気御子に関する博承の中の夢についてであるが・之に

類する像承は書紐にもあり、曲では夢の記載なく・叉尾

張風土記、出雲風土記にも畝愛された説話として記され

ている。 津田左右吉博士は「書誰の方が話の原形に近く

古事記の方はそれから発展したものであらう・÷…」と速

                           

(3)ベているが、然りとすれば夢の記述を持たない書記の話

が民間に流布されても・る中に大物主説話に類似した古事

記の様式となったり、風土記の地名、武名起源説話に利

用される様になったのではないかと思う。太占にトヘた

32

Page 7: 學藝 : 北海道學藝大學機關誌, 2(1): 28-33 URL …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/... · の如き、叉 すべもな き片恋を づ-とこの頃に 吾が死

第 2 笹

 

第1 号

            

 

り、夢の誰遮に統一がないのも書記の原形に古来の懲承

が附加され、更に故愛されたが篇であると見たいのであ

る。

長E

 

1,肥後和男博士「日本に於ける原始信仰の研究」

                      

P.221

  

2. 同

      

                 

P,

 

42

  

3.津田左右古博士「日本古典の研究」上

 

P.253

に J

 

ホIP人間の夢も亦タマの交流によるものとすれば、一方

から他方えの作らきかけによって夢を生じさせる事も可

能であった。榊武、崇辞組に於ける夢について見るに、

これが稗の側からする場合には辞意のまにまに自由に天

皇の夢に現れ得たが、天皇の側からする場合には専らウ

ケセによる事が必要であったと見られてゐる,之を艶組

について見ると、明かに「所ひて寝ませり、夢みたまは

く」とあるのは紳武細に一箇処あるのみであるが、其の

他崇詳細では「天皇乃ち沫浴費成して殿内を潔頚めて所

みて日く、朕辞を瞳ふこと尚未だ憲きざるか

 

何ぞ不享

の甚き 襲はくは亦夢裏に数へて以て辞恩を畢 したま

へ」と云い、古事記では「爾に天皇愁歎ひたまひて、縛

株に坐しませる夜、大物主大辞、御夢に穎れ……」と選

べている 辞豚とは「碑の御命を所諸て膏戒潔宿はりて

坐す・御淋を」云うのであるから書系巳の「所みて日く」

     

(1)とあるのも其の意味は辞武組の「所ひ」と同じであると

云えるし、 叉崇紳天皇の皇太子決定に際しての夢でも

「二皇子是に於て命後被り、獅旅みて所みて寝ませり。

各夢を得たまひつ」とあるのも全く同様に考える事が出

来る。かくてゥヶヒて夢見るとは、辞意を所諸するに際

し、潔費して腹に就き夢筈を請うたのであるが、ゥヶヒ

て恋人を夢見ようとした万葉の歌では充分の数果が得ら

れなかった(巻.4一767。 巻=一2589)≧のに比して、市中

武、崇示iHの記達ではそれが非常に数果的な結末を示して

ゐるとする所に誰組僻承に現れる夢の政治的意義を考え

る事が出来ると思う。

 

古代冠会に於ける首長は稗と人との間に立つ〔辞意を

鰍達する虚脱的性格の所有者であったといわれるが、天

                           

(2)皇のホiH的性格もかふる所に由来するものがあったと考え

られる。 そしてウラ、ウヶヒ、夢筈、斜がかり等に関連

する説話が沖武以降仲家紐辺迄の間に頻繁に現れるとい

  

          

     

副和25年8月

 

ぅ事編 大和朝廷の成立がかふる天皇の静的性格が顕著

←に発揮される事によって・正しく市li意に則って実現出来

 

たものとする所に人代巻初頭の主張が存するのではなか

,ろうか。 殊に縞武、崇詳細では重大事件に直面した場

 

合、ウケヒ、ウラによるのみならず、夢筈によって辞意

 

を一層詳細に語らせているが、夢が耐のタマと天皇のタ

 

マのふれ合う所に見える事を確信してゐた古代人に対

 

し、それは極めて数果的であり、かふる夢皆の可能性に

 

対する古代人の信頼感が充分に其の内容を承認するもの

 

であったのである0高倉下の稗剣奉献、八腿鳥の振遣、

 

大物主市坪-の祭流、狭穂彦王の謀漉等がすべて夢告によっ

 

てなされている事は詔紐共に之を記す所であり、 其 の

 

外、辞武組の戊午年九月係に見える夢では賊虜降伏に対

する児術的方法さえも教示して居る等は、皇威の確立を

支持する辞意が如何に創業期の皇室に支援を奥えたかを

強調せんとするものに外ならないJ

 

叉崇詳細に見える立太子選定の方法を夢占によったと

するのも、其の意図する所は立太子の選定に際して辞意

 

が那辺に存せるやを知らんとした所によるも・ので あろ

 

う。 たゞこの夢の内容から見れば、この説話には重仁細

 

の立太子決定の説話と共に儒教的徳治思想が其の片鱗を

示して居り、更に云えば、景行絹の稚足蓄尊立太子の事

情、誉田天皇降誕の奇蹟、大鵬粥韓と菟道精錬=の説話等

 

の如く、この記事以後には皇太子の選定に対しそれにふ

 

さわしい逸話を挿入して其の意味づけを行っているが、

 

それらは何れも儒教思想の影響による所大なるものがあ

 

ると見なければなるまい

 

たゞ崇緯糸巳の場合は一方にか

 

る思想の影響を示すと共に、他方には太古以来の犀nil意

奉体に基く政治思想の片鱗を「ゥヶヒて夢見る」事によ

って表現してゐる所に其の特異性を見る事が出来る。

 

副….1,古事記博.23(本層宣長全集 第2.P.1380)

   

2,まil由左右青博士「日本古典の研究」上 P,249

      

之を要するに人間のタマの交流によって 「夢」.が生ず

るという信念が基調をなし、こふから爺il人間に於ても人

間の場合と同一構造に於ては夢に於て夕々の交流が可能

であると信じられたのであり、かふる夢に現れる辞意に

基い(大和図家創業に際しての重要な政治が展開された

と強調する所に、耐il武、崇市11鱗の夢の意義がある。(継)

                 

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