卒業論文概要 - 新潟大学 · 第3章では、a+v型複合名詞において後項...

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藍  はなみ 現代日本語における複合名詞の語構成に関する研究 1 熱田 亜寿沙 『或る女』における人物関係 2 天津川 祥子 日本語訳漫画からみる朝鮮語オノマトペの様相 3 井田 麻梨花 『夜の寝覚』における〈暁〉 4 井上 美沙紀 中国語の動詞重ね型とその関連表現について 5 丘山 武昭 『墨子』の研究 6 風間 智代 現代日本語における程度副詞に関する考察 7 金子 真美 程度副詞と文にあらわれる評価との関係についての一考察 8 神部 詩帆子 『速夫の妹』における「自分」の存在 9 北原 沙友里 式子内親王の和歌における物語受容 10 北村 瑞穂 曽我兄弟の人物造型 11 今田 真子 ハシ的形容詞の派生と展開 12 斉藤  『更級日記』の研究 13 酒井  読本『義仲勲功図会』考 14 佐々木 絵里子 『源氏物語』の研究 15 佐藤 冬実 翻案小説としての『近江縣物語』 16 佐藤 桃子 伊丹椿園『両剣奇遇』における白話小説享受の方法 17 関根 貴紀 現代日本語における形容詞性接尾辞に関する一考察 18 瀬和 幸介 連用・連体・終止用法の出現頻度から見た形容詞分類 19 高頭 勇貴 高見順『死の淵より』における植物の表現 20 高野 なつみ 『とりかへばや物語』論 21 高橋 千尋 〈成長物語〉としての「風の又三郎」 22 高森  李良枝作品研究 23 出貝 香奈江 谷崎潤一郎「吉野葛」の研究 「構造」と「語り」を中心に24 冨所 桃衣 西鶴の描いた衆道 25 成田 千夏 現代日本語における接続詞の二重使用に関する研究 26 難波 祐希 現代日本語における局面動詞に関する一考察 27 原  菜々子 現代日本語における時をあらわす従属節についての研究 松本 惇暉 『卍』試論 28 谷澤 亜純 『古今和歌集』における掛詞の研究 29 山口  山形市方言における格についての記述的考察 30 平成二十六年度 卒業論文概要 新潟大学 人文学部 日本・アジア言語文化学主専攻プログラム 2015年1月提出

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藍  はなみ 現代日本語における複合名詞の語構成に関する研究 1熱田 亜寿沙 『或る女』における人物関係 2天津川 祥子 日本語訳漫画からみる朝鮮語オノマトペの様相 3井田 麻梨花 『夜の寝覚』における〈暁〉 4井上 美沙紀 中国語の動詞重ね型とその関連表現について 5丘山 武昭 『墨子』の研究 6風間 智代 現代日本語における程度副詞に関する考察 7金子 真美 程度副詞と文にあらわれる評価との関係についての一考察 8神部 詩帆子 『速夫の妹』における「自分」の存在 9北原 沙友里 式子内親王の和歌における物語受容 10北村 瑞穂 曽我兄弟の人物造型 11今田 真子 ハシ的形容詞の派生と展開 12斉藤  静 『更級日記』の研究 13酒井  遥 読本『義仲勲功図会』考 14佐々木 絵里子 『源氏物語』の研究 15佐藤 冬実 翻案小説としての『近江縣物語』 16佐藤 桃子 伊丹椿園『両剣奇遇』における白話小説享受の方法 17関根 貴紀 現代日本語における形容詞性接尾辞に関する一考察 18瀬和 幸介 連用・連体・終止用法の出現頻度から見た形容詞分類 19高頭 勇貴 高見順『死の淵より』における植物の表現 20高野 なつみ 『とりかへばや物語』論 21高橋 千尋 〈成長物語〉としての「風の又三郎」 22高森  楓 李良枝作品研究 23出貝 香奈江 谷崎潤一郎「吉野葛」の研究 ―「構造」と「語り」を中心に― 24冨所 桃衣 西鶴の描いた衆道 25成田 千夏 現代日本語における接続詞の二重使用に関する研究 26難波 祐希 現代日本語における局面動詞に関する一考察 27原  菜々子 現代日本語における時をあらわす従属節についての研究松本 惇暉 『卍』試論 28谷澤 亜純 『古今和歌集』における掛詞の研究 29山口  茜 山形市方言における格についての記述的考察 30

平成二十六年度

卒業論文概要

新潟大学 人文学部日本・アジア言語文化学主専攻プログラム

2015年1月提出

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2014年度卒業論文概要

新潟大学人文学部 日本・アジア言語文化学主専攻プログラム

卒業論文では、複合名詞の前項と後項の関係について、どのような傾向や法則が存在するのか分析した。以下、内容について述べる。

第1章では先行研究概観について述べ、第2章では『日本国語大辞典 第二版』からリストアップした2,872語について、『分類語彙表(増補改訂版)』を用いた数値による分析方法を述べている。

第3章では、A+V型複合名詞において後項が分類に影響する複合名詞は名詞的、前項が分類に影響する複合名詞は形容詞的な用いられ方をしやすいことや、前項の修飾を受けて、後項動詞がより細かな意味を含んだり新たな意味を持ったりすることで、複合名詞となる際に、前項及び後項と分類が異なるものが多いことを確認した。

第4章では、N+V型複合名詞について前項名詞と後項動詞の格関係を中心に考察した。後項が分類に影響している複合名詞、前項が分類に影響している複合名詞、複合することで前項及び後項と分類が異なる複合名詞それぞれによって格で分類したときの偏りが異なり、格関係の特徴が異なることを確認した。また、格関係が異なる原因としては、後項動詞の意味幅が広いことによる前項の影響力拡大や、前項の意味幅の狭まりが考えられる。

第5章では、V+N型複合名詞について前項が後項に対してどのようにはたらいているかを考察した。前項が分類に影響している複合名詞、後項が分類に影響している複合名詞、複合することで分類の所属が異なる複合名詞それぞれで ①前項と後項が「修飾―被修飾」

の関係にあるもの ②前項が後項に対して形容詞的にはたらいているもの ③前項の結果後項になるもの、の3つの割合は異なっていることを確認した。また、この原因としては、前項動詞が後項の名詞の意味を限定する程度が異なることが挙げられる、と考えた。

第6章では、第5章までの考察を踏まえ、前項及び後項と複合名詞の分類における関係や、前項と後項の関係を整理した。前項によって後項の意味が限定されたり、新たに意味を含んだりした結果、複合名詞が前項及び後項と異なる分類の意味を持つ場合は、後項の分類項目番号を基準として、複合名詞自体の分類も概ね定まることを確認した。

これらの考察から、複合名詞の前項と後項の関係については、右側主要部の原則もあるものの、前項も複合名詞の意味上に大きく関わっており、後項が前項に影響を受ける程度が強い場合には前項が主要部たり得ると考えた。

卒業論文では、「右側主要部の原則」に従って捉えられがちであった複合名詞の前項と後項の関係について、『分類語彙表』を用いることで前項、後項、複合名詞をそれぞれ数値で示し、複合名詞の意味上の主要部を客観的に捉えようと試みた。考察の結果、「右側主要部の原則」では説明しきれない用例も多数発見され、複合名詞における前項の重要性に気づくきっかけとなった。本研究の客観的な分析は、複合語における語形成と形態素の関係について新たな視点を与えるきっかけとなったであろう。

現代日本語における複合名詞の語構成に関する研究~語彙分類から見た前項と後項の関係を中心として~

藍  はなみ

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2014年度卒業論文概要

新潟大学人文学部 日本・アジア言語文化学主専攻プログラム

『或る女』における人物関係

熱田 亜寿沙

『或る女』研究は本多秋五氏に始まり、作者有島が描こうとする明治という時代性より藻、主人公葉子の内面性に焦点をあて進んできた。しかし近年において、中村三春氏や千田洋幸氏など、本作が描かれた時代性に重きを於いて論じられることが多くなってきている。例えば千田氏は読者が葉子の内的な世界引き込まれるのは、明治三十年代という社会的コードを植え付けられるためだとし、明治社会の秩序と対立する女主人公を描かれることの重要性を述べている。しかし、氏が力説する程『或る女』は時代性によって、読者を引き込んだ作品なのだろうか。

これを一つ目の問題として挙げ、本論文第一章一節では、『或る女のグリンプス』から

『或る女』前編への改稿点に着目した。もし、有島や千田氏が述べるように、時代性に重きを置いているのであれば、改稿での加筆はその点に力を入れているだろうと考えたからである。

一節の論考から『或る女』を葉子の内面性に焦点を当てた作品であると解釈し、二節以降の論を進めた。その際注目したのは、加筆が葉子と他者とのやり取りや葉子の内面性の描写に多く見受けられる点である。

このことから葉子の内面性が他者とのやり取りにおいて構築されると仮説をたて、葉子と他者との人物関係について追求した。二節では葉子が前編で主に関わる人物達を挙げ、彼らが主に社会的性質を有していることを有島の論文、『惜しみなく愛は奪う』と絡めながら考察した。二章では前編の葉子が多くの登

場人物と接点を持っているのに対し、後編ではその幅が狭まっていることに注目した。その中でも社会的性質を持つ人物たちと概ね対極の位置にいる倉地、社会的性質とは関係ない妹愛子との関係について論じた。その結果、前編において社会に反抗していた葉子が、社会と対極の倉地との生活を選んでも内心では解消しきれない自己矛盾に陥っていることが分かった。また愛子においても、葉子とは異なる性的な性質をもつ彼女の中に自己を見出そうとする矛盾が見受けられた。

以上から『或る女』は葉子の内面性に焦点をあてたものであり、その内面性とは自己矛盾に陥る葉子を描いたものだとした。他者との関わりに於いて生じる矛盾、葛藤が生そのものであり、有島の意図しない生に対する思いが表出したのが本作品であると結論した。

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オノマトペは、一般語彙よりも生き生きとした臨場感のある、微妙な描写を実現するのに不可欠な言語要素である。日本語では擬声語・擬態語・擬音語・擬情語などと訳されている。

本論文は、オノマトペの母音(陽/陰)や子音の交替形に着目し、音声象徴の意味内容を考察した。あわせて、インフォーマントの意見を参考に、どのような臨時のオノマトペが用いられているかについても検討した。

一章では、「빡」と「뻑」のような母音が一つしかない単音節オノマトペの母音交替形の比較により、その状況の描写の違いから母音が表す音声象徴を考察した。18個の母音交替例より抽出した35個の意味対立からは、「低/高」「速/遅」など、先行研究では見られなかった意味対立が見られた。また、今回収集した用例から判明した同性母音内での強弱は

「ㅏ < ㅑ」「ㅗ < ㅏ」「ㅔ < ㅣ」であった。二章では、韓国語の子音が表す音声象徴と

子音加勢法則の現れを考察した。収集した用例の単音節オノマトペを初声・終声によって分類し、どのような語感を表しているのかを考察した。その結果、初声閉鎖音の「固体同士、または固体と液体の接触」、初声「ㅊ」の

「機敏な動き」、初声摩擦音の「障害のない変化・動き」、終声「ㅅ」の「日本語音転記の痕跡」といった音声象徴の意味を明らかにした。子音加勢法則に関しては、「平音―濃音―激音」間で交替が起こっている単音節オノマトペを比較したところ、激音より濃音の方が強い語感を示す例が確認された。「平音<濃音<

激音」という子音加勢法則には例外もあると言えるだろう。

三章では、インフォーマントが臨時のオノマトペと判断したものについて考察した。

「디-잉(ポーン):エレベーターが目的階に着いた音」のように、オノマトペの語中に長音符が用いられると臨時のオノマトペと感じる傾向があるようだ。また、「생기발랄하다」(生気溌剌だ)が「생기생기」(生気生気→生き生き)となるように、オノマトペのように使われる動詞や形容詞については、一部を反復形にするとオノマトペのように感じられるという。また、日本語の臨時のオノマトペの多くは、韓国語版でも臨時のオノマトペに翻訳されていた。インフォーマントは、聞き慣れない臨時のオノマトペであっても、意味内容は容易に理解していた。このことから、オノマトペにおける音声象徴と意味との結び付きの強さを再確認した。

オノマトペは、非母語話者にとっては、音声象徴の理解が難しく、学習困難であるが、本稿で明らかにした点を参考にすれば、より容易い習得が可能となろう。

日本語訳漫画からみる朝鮮語オノマトペの様相

天津川 祥子

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卒業論文では、平安時代後期の物語である『夜の寝覚』を取り上げた。本来時間表現であり、夜明け前の時間帯を指す〈暁〉という語は『夜の寝覚』においてこれまで注目されてこなかった。本論文ではこの〈暁〉に着目し、

『夜の寝覚』における〈暁〉の用例を分類・分析することで〈暁〉が象徴するものを明らかにすることを目的とした。

第一章では、『夜の寝覚』に先行する、または同時代の和歌や物語の〈暁〉に注目し、用例の特徴を分析した。〈暁〉は古くから恋人同士が別れる時間であり、後朝の歌の趣をもつ恋歌に多く詠み込まれた。和歌によって培われた〈暁〉の「男女の別れ」のイメージは

『源氏物語』などの物語作品にも継承される。『源氏物語』の〈暁〉の用例は後朝の場面に集中するが、後朝の場面のみならず死別の場面にも〈暁〉が描かれることから、物語内で

「別れ」のイメージが独自に深化していったことが明らかになった。

第二章では、第一章で明らかにした古代の〈暁〉の姿をふまえ、『夜の寝覚』における〈暁〉の用例を分類・分析した。『夜の寝覚』における〈暁〉の意味系統は、時間表現、情景、男女の逢瀬を意味するものの三つに分類することができた。特徴的なのは男女の逢瀬を意味する〈暁〉であり、用例のほとんどが物語第一部に集中する。そしてそれらは全て、主人公の女君と男君が初めて逢った「九条の逢瀬」を指していた。九条の逢瀬は女君の人生最大の事件であり、彼女が不幸な運命に巻き込まれていく契機となる事件であった。

〈暁〉で九条の逢瀬を回想するのは男君と、女君の後見役の女性である対の君である。彼ら二人は同じ〈暁〉という語で同じ九条の逢瀬を回想しているが、二人の用いる〈暁〉には

「歓喜」と「絶望」という全く異なる感情が込められていることが分かった。また、女君自身の言葉で〈暁〉が回想されないことは、彼女の代弁者たる対の君よりも暗く深い絶望が女君の心を占めていることを象徴しているのではないかと考えた。

第三章では、〈暁〉と同じように男女の逢瀬を意味する〈夢〉を観点として、『夜の寝覚』における〈暁〉が象徴するものについて考察した。『夜の寝覚』において〈夢〉は〈暁〉と同じように逢瀬を回想する語として用いられる。〈夢〉のもつ現実と非現実の間に揺れるような曖昧さは、夜と朝、闇と光の間に揺れる〈暁〉の在り方と相通ずるものがあると考えた。〈暁〉の内包する闇と光のように、女君と男君の想いは一つに重なることはないのである。

以上のように、夜と朝、闇と光に溶ける〈暁〉の在り方を物語に見事に取り込んで男女主人公の逢瀬を描き、彼らの心中を反映させたことこそが『夜の寝覚』独自の手法であることを明らかにした。九条の逢瀬からすれ違い続ける女君と男君の関係性こそ冒頭部に示される「よに心づくしなる」恋であり、〈暁〉が象徴するものであると考える。

『夜の寝覚』における〈暁〉

井田 麻梨花

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2014年度卒業論文概要

新潟大学人文学部 日本・アジア言語文化学主専攻プログラム

動作時間の短さや、動作量の少なさを表す中国語表現の代表的なものとして、動詞重ね型と動詞の後ろに“一下”を付けた形があり、日本語では主に「ちょっと〜する」と訳される。文法書による動詞重ね型の解説を見ると、構造について言及され、働きについてはあまり触れられていないことが多く、統一性も見られない。動詞重ね型には、動詞を重ねたもの(VV型)と動詞の間に“一”を挟むもの(V一V型)があるが、二者の違いについては、「二音節動詞の場合はV(了)一V型を取ることができない」という記述に留めているものが多い。また、多くの教科書や文法書で動詞重ね型と同じ意味を表すものとして、動詞の後ろに “一下”を加えたもの(V一下型)が挙げられている。本稿では、3章において、VV型、V一V型、V一下型の用例を取り上げ、それらが持つ表現機能について動作者の人称という観点から考察し、さらに4章において、三者の使い分け、用法上の違いについて検討した。

第2章では、先行研究を概観し、動詞重ね型の基本的な意味は「不定の少量」であること、また、動作の鄭重さという点から見ると

「V一V型 > VV型」、「V一下型 > VV型」であるということを確認した。

第3章では、VV型、V一V型、V一下型が用いられている状況を、その動作を行う動作者の人称という点に着目して考察した。VV型、V一V型、V一下型を「試み」、「勧誘」、「命令」、「叙述」という4つの表現機能を持つものと考え、それらの分布が動作者の人称とどのように関わっているのかを探った。第3章で

の考察から、動作者の人称とVV型、V一V型、V一下型の表現機能には相関性があるということが確認された。これは当然ともいえるが、動作者が一人称、三人称の場合には「叙述」が見られるのに対し、動作者が二人称、または二人称を含む場合にはそれが見られないことは注目すべき点だと考える。VV型、V一V型、V一下型の表現機能は、その動作者の人称、特に二人称の場合に大きく影響を受けることが分かった。

第4章1節では、已然の動作を表すVV型、V一V型、V一下型について、“了” に関する論考を参照し考察した。すでに少量の動作が実行されているが、特に際立たせる必要がない動作である場合に、VV型、V一V型、V一下型が効果的に用いられていると考えた。4章の第2節では VV型とV一V型の違いについて考察した。伴う連用修飾語の違いなどから、先行研究通り、V一V型が表す動作はVV型が表すものよりも鄭重であると考えた。第4章3節では、二音節動詞である“商量”を取り上げ、VV型とV一下型の違いについて考察した。二音節動詞は一般的にV一下型をとるとされるが、“商量” はVV型を多くとるという特徴がある。ここでも先行研究通り V一下型が表す動作はVV型が表すものより鄭重であると確認できた。

以上本論文では、VV型、V一V型、V一下型の意味や違いについて考察した。

中国語の動詞重ね型とその関連表現について

井上 美沙紀

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『墨子』の研究

丘山 武昭

『墨子』は、中国春秋時代末期から戦国時代末期にかけて活動した、墨家と呼ばれる集団の開祖である墨子とその弟子や後学らの著作集である。『漢書』藝文志によると七十一篇あるとされるが、一部の篇が散逸し、現行の墨子書は十五巻五十三篇から成っている。その中で、特に尚賢篇、尚同篇、兼愛篇、非攻篇、節用篇、節葬篇、天志篇、明鬼篇、非楽篇、非命篇の十篇はまとめて十論とも呼ばれ、

『墨子』の主要な思想が述べられている。本稿では『墨子』中の「義」の語に注目し、十論からその内容の解明を試みた。

第一章では、十論の中から「義」に直接言及のある箇所を取り上げ、内容解明のための手掛かりを探った。その結果、「義」は「正す」ことであるという内容を含むこと以外に、

『墨子』の想定する「義」は、天の「義」のことであり、それは天意によりその内容を規定され、また天が人に賞罰を下す際の基準ともなることが分かった。他に天下の人々もまた、天・鬼・人の利と聖王の法を「義」とみなすことも判明したため、天の「義」と天下の人々の「義」が考察対象であると判断した。

第二章では、天意と天の賞罰から天の「義」について考察した。天意には兼愛、非攻および職務精励の実行、それらによる人の生・富・治の達成が含まれており、この四点が天の「義」の一部であることが分かった。また、天は賞罰を下す際に、天の「義」に合致するものを賞し、合致しないものを罰しているため、天の賞を受けた兼愛、非攻、天と鬼への祭祀もまた天の「義」であることが分かった。

そして、これら天の「義」には利を重視する姿勢があることも明らかにした。

第三章では、まず天下の人々の「義」について考察し、次いで『墨子』の「義」の内容を示した。天下の人々が「義」とみなす天・鬼・人の利には二種類あり、また、聖王の法は人に利をもたらすことを目的とした行動基準として、天・鬼・人の利となることを明らかにした。天下の人々の「義」である天・鬼・人の利は、兼愛、非攻、職務精励という天の「義」によりもたらされ、利の面から天の

「義」の実行を要請するものであった。天は『墨子』の主張の代弁であるため、天の「義」はそのまま『墨子』の「義」となる。その内容は、兼愛、非攻、職務精励、天と鬼への臣事、人の生・富・治の達成、「義」に一致するように行動を賞罰で「正す」という六点であり、これらは利に直結していることが明らかになった。

以上、本稿では十論から『墨子』の「義」の内容を明らかにした。『墨子』の「義」は人を害うことなく利をもたらす手段であり、為政者が採用し、人々の「義」を統一させる尚同体制の下で天下の人々に浸透し、実行されることにより、天下に大いに利をもたらすものであった。

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現代日本語における程度副詞に関する考察~程度副詞「かなり」について~

風間 智代

卒業論文では程度副詞の「かなり」について取り上げた。程度副詞はこれまで「計量構文と比較構文」、「純粋程度副詞と量的程度副詞」といった体系づけがなされてきている。本稿では程度副詞「かなり」がどのような特徴を持っており、どの体系に位置することができる程度副詞であるかを、用例をまとめながら考察を行った。

程度副詞「かなり」は計量構文にも比較構文にも立つこと可能な程度副詞であるが、計量構文か比較構文かで判断構造や程度が示すところ、程度副詞がかかる語の程度性、表現性、などに差異が生じる。まず、判断構造は計量構文では比較対象が明確化されないものの、その根底には一般常識や話者の思いなどの基準があるため、潜在比較構文と言える。対して比較構文においては比較対象は明確に文に現れるため、顕在比較構文をとる。そしてその構造から、計量構文にて「かなり」が示すのは「程度」が大であり、比較構文にて示されるのはその「程度の差」が大であるという点であることを述べた。次に、「かなり」は計量構文でも比較構文でも、「面白い」などプラス評価性を持つ語と「つまらない」などマイナス評価性を持つ語のどちらにもかかることが出来、その表現性については計量構文では

「驚嘆」を表し、比較構文では「吟味」という表現性を持つことを示した。ここまで「かなり」が程度的に用いられることを前提として述べてきたが、「かなり」が量的に用いられる際にも、「かなり」は計量構文では「量」が大であること、比較構文では「量の差」が大で

あることを示しており、その評価性や表現性については程度的に用いられる際と同様である。

また、「かなり」が動詞にかかり用いられる用例についても考察を行った。主体変化動詞やテイル形、との共起から「変化の度合い」という程度はもちろん、「動作の継続」「動作の結果」をも状態としてみて共起可能であることを示した。また、潜在的に比較の性質をもっていることから、程度副詞では原則不可能とされている、はたらきかけの用法との共起、否定形では「―なくなる」の形で共起可能であるということについても言及した。

これらのことから、程度副詞「かなり」は計量構文、比較構文どちらにも立ち、程度にも量にも用いられることが出来るなど、幅広く用いられることが分かる。その中で「かなり」がどのような程度を表しているのか、どのような違いが生じてくるかという面に注目することで改めて体系づけが可能であり、「かなり」はそれまで属するとされてきた「多少」類から外れるのではないかと考えた。

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程度副詞と文にあらわれる評価との関係についての一考察

金子 真美

程度副詞には、従来、評価性との関係が指摘され、程度副詞を含む文中にプラスやマイナスの評価性を示す語があらわれることができるかという考察が行われている。卒業論文では、そのような観点から更に踏み込み、そもそも程度副詞自体に評価性があるのか、また、「評価の基準・内容」はどのように判断されているのか、評価の定義を明確にし、定義に則して考察した。

まず、程度副詞とほかの品詞との関わりについて意味を基に分類し、程度副詞に続く語が評価要素を持つ場合、持たない場合で検討を重ねた。程度副詞には、副詞自体が評価性との関連を示すものがあり、形容詞や形容動詞などの品詞と関わりを持つ語に分かれ、ほかの品詞として用いられる際に見られる評価性が大きく影響する。具体的には、「形容詞としての用法も持つ副詞」である「ひどく」

「すばらしく」等は、形容詞として用いられる際にあらわれる評価性が副詞として用いられる際にも影響し、評価の方向性に偏りを示す。

「形容動詞としての用法も持つ副詞」である「あんまり」「はるかに」等は、形容動詞として用いられる際に評価性があらわれるものは、その評価の方向に影響されるものとされないものが混在している。そして、「形容詞・形容動詞どちらの用法も持たない副詞」である

「とても」「極めて」などは、ほかの品詞との関わりという面で動詞との関連性が見られるものもある。また、「形容詞としての用法も持つ副詞」「形容動詞としての用法も持つ副詞」と比較すると、副詞自体に評価性は見え

ず、評価の対象がどうあることが望ましいかという点から、文中に評価性が示されている。

続いて、評価の観点から、さらに詳しく程度副詞について考察を進めるため、「評価の基準」と「評価の内容」について検討を行った。その結果、「評価の基準」に関しては「主観的な価値判断の基準」と「社会的な価値判断の基準」から、「評価の内容」に関しては〈心理的な側面〉と〈状態の側面〉からの考察を進めることができるという結論に至った。「形容動詞としての用法も持つ副詞」のグループは、

「主観的な価値判断の基準」により〈心理的な側面〉から評価している場合が多く、「形容詞・形容動詞どちらの用法も持たない副詞」のグループは、「社会的な価値判断の基準」により〈状態の側面〉から評価している場合が多い。「形容詞としての用法も持つ副詞」のグループは、「評価の基準・内容」ともにグループでの偏りはなく、グループ内の語によって割合に差がでている。これは、語の持つ意味に大きく影響されたための偏りであり、このグループは3つのグループの中で中間的位置をとると結論付けた。

以上のことから、程度副詞と文中にあらわれる評価との関係は、ほかの品詞とのつながりと主観性と客観性の連続的なつながりという2つの観点から体系づけることができると考察した。

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『速夫の妹』における「自分」の存在

神部 詩帆子

『速夫の妹』は、志賀直哉の初期の短編である。この小説は「自分」という一人称によって書かれている。この「自分」は作中において特別行動を起こすことがない。この語り手によって物語が語られる意味は何か。

一章ではこの小説において語られていない事柄について考察する。これについては「『自分』が訪れなかった期間の浅香家」「『自分』の心情」「『自分』の身の上について」見ていく。これらを考察すると、「自分」がどのような人物なのかという記述が極端に少ないことがわかる。この小説の舞台は浅香家である。

「自分」について浅香家と関わらないことは語られることが無いのは「自分」があくまで語るためのそうちになっているからである。この小説の主題は「自分」には無い。

二章では同情する視点としての「自分」について作者の他の作品と比較して考察する。ここでは『孤児』『城の崎にて』と比較する。『孤児』では語り手の「私」の従妹であり義理の妹の敏、『城の崎にて』では「自分」が石を投げて殺してしまった蠑螈に対してそれぞれ同情の目線を向けている。『速夫の妹』においてお鶴さんに同情する場面はこの作品では数少ない「自分」の感情が描かれる部分である。

三章では「自分」から見たお鶴さんについて考察する。この小説の語り方は、「自分」が大人になってから少年時代の出来事を回想するという形をとっている。しかし、登場人物に対する視線は当時の印象をそのまま描写している。語っている「自分」より年下である当時の速夫やお徳さんが幼く描写されるこ

とはない。一方で「自分」よりも二歳年下のお鶴さんは子供として描かれている。七章で

「自分」は将来の自分とお鶴さんを想像している。これを現在の「自分」は「実に妙な事」

「十六か七の子供にしては憎らしいやうな考」「理窟にもなつていない」と述べている。だが、お鶴さんの語った将来と「自分」が想像する将来では、「自分」の方がより具体的に考えている。二人を比較するとお鶴さんはより幼い考え方をしているように描かれている。『速夫の妹』の「自分」は、没個性的で語る

ことに専念した語り手である。「自分」自身が物語に及ぼす影響はほぼない。しかし、「自分」の目を通したお鶴さんの描写は彼特有のものである。

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2014年度卒業論文概要

新潟大学人文学部 日本・アジア言語文化学主専攻プログラム

式子内親王の和歌における物語受容

北原 沙友里

卒業論文では『式子内親王集』を考察の対象とした。『式子内親王集』は式子内親王の歿後に編まれた他撰私家集で、3つの百首和歌

(A百首、B百首、C百首)と70首前後の歌群(D歌群)から成る。本論文では物語受容の和歌に注目し、物語の和歌を本歌とする〈物語和歌取りの歌〉、物語の場面を本説とする〈物語取りの歌〉を取り上げ、受容という観点から1首ずつ検討した。その上で4つのまとまり毎の特徴や傾向をまとめ、最後に『式子内親王集』全体における物語受容の特徴を論じた。

第1章では、どのような定義のもと本歌取りの技法を扱うのかを明示し、考察対象となる和歌71首とその本歌・本説を一覧にして示した。物語の受容という広い視点に立っての考察を目的とするため、各注釈書が1つでも本歌や参考歌として物語和歌、物語場面を挙げている和歌をすべて考察対象とした。

第2章で物語和歌取りの歌の考察を、第3章で物語取りの歌の考察を行った。分析の観点として語句と物語世界の取り込みという2点を重視した。まず本歌や本説からどの詞を取り出し、その詞を歌の何句目に置いているのかを調べた。その上で物語を受容しているか、受容しているならばどのように物語を取り込んでいると考えられるか分析した。

まず〈物語和歌取りの歌〉の特徴である。本歌のみならずその場面や本歌の贈答歌、対となる歌の要素も取り込んでいる。また、同じ場面を繰り返し取り込み続ける傾向にある。A百首からC百首に移るにつれ、詞の取り出

し方や置き方、物語世界の取り込み方にも工夫が感じられるようになる。D歌群の歌は、C百首と同様の傾向にあり、加えて斎院時代を回想した歌に『源氏物語』を受容した歌を詠んでいる。

次に〈物語取りの歌〉の特徴である。物語取りの歌はA百首からC百首へと移行するにつれ少なくなっていくが、本説場面を踏まえて歌に重層的に意味が込められるようになり、受容の仕方は洗練されていく。

これらの特徴や傾向から、式子内親王は物語受容の場合、本歌取りと本説取りを区別していなかったことや物語の和歌場面を重視していた可能性があることを指摘した。また、物語に描かれている悲しみや辛さ、厭世感などを自身の歌の中に取り込む傾向にあり、詞や物語世界の取り込み方もどんどん洗練されていくことも指摘した。

近年では式子内親王を、その実生活から想像される孤独な歌人ではなく、歌の構成や技法にも鋭い意識を持って作歌を試みていた歌人として捉え直そうとする傾向にある1。式子内親王が受容していた物語素材の傾向は、孤独の歌人とみなされてきた従来の式子内親王像に重なる。他方で、洗練されていく受容方法は構成的な詠法の歌人としての式子内親王を示す一要素にもなるといえるだろう。

1 石川泰水「式子内親王への視点」(『國文學 解釈と教材の研究』42巻13号、1997年11月)

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曽我兄弟の人物造型―訓読本を中心に―

北村 瑞穂

『曽我物語』は、曽我十郎祐成と五郎時宗兄弟の仇討と死を描いた物語である。真名本、訓読本、仮名本に大別される多くの諸本があるが、卒業論文では、真名本を読み下し本文中の経典引用などを省略した形である訓読本を扱い、訓読本の本文において兄弟がそれぞれどんな人物として造形され、それが作品のどのような魅力であるかを述べた。

本文から見出される十郎と五郎の人物造型について、本論では兄弟が涙を流す場面、父・河津三郎祐通と兄弟の共通点、仇討への姿勢の三つの観点から分析した。

兄弟が涙を流す場面について、十郎についてのみ「不覚の涙」という表現が用いられていることから、十郎が感情を抑えきれない素直で人間らしい人物であること、五郎の落涙の場面で「さらぬ体に」が多用されることから、五郎が感情や衝動を上回る理性を持つ冷静な人物であることが明らかとなった。更に、兄弟が共に涙を流す場面について、袖や額を

「合せて」泣いたという描写が繰り返されることから、互いに強い絆で結ばれている兄弟として描かれていると言える。

父・祐通と兄弟の共通点からは、兄弟は父の特性をそれぞれ受け継ぎながらも、父の「小賢し」その表れ方が、兄の場合は、軽薄にことを荒立てない賢さを示し、五郎は非情にも見える冷静さを示すといった違いが見られた。

兄弟の仇討への姿勢の違いについてはそれぞれの幼少期の体験に由来していると考えられる。弟・五郎は、物語中たびたび兄・十郎に意見し、叱咤して仇討のために行動すると

いった場面が見られる。このように五郎が仇討に対して積極的な姿勢を取る理由は、彼が家族と離れて箱根山で生活したことで、父の不在をより強く実感したことと、仇・祐経に対面し何も出来なかった体験をしたことであろう。五郎は、箱根での体験を通して仇討への欲求を深めていったと考えられる。一方、兄・十郎の仇討への態度は弟に比べて積極的ではなく、周囲の人間や故郷と離れることに名残り惜しさを表すことが多い。この兄・十郎は、父が死去した当時5歳であり、人の死を理解できる年齢であった。そして、夫の死を激しく嘆く母の姿も近くで見ており、生き残った人間がいかに嘆き苦しむかということを幼い十郎に理解させた。その結果、十郎は死者に残された者の心情を思う想像力を身につけ、自分たち兄弟が討ち死にした後の母や恋人の苦しみを思いやる。それゆえに彼女らを苦しめることを望まず、仇討へ積極的な姿勢をとることが出来ないのである。

以上、訓読本『曽我物語』の本文を3つの観点から分析し、兄弟の人物造型を明らかにした。弟の分まで人間らしい素直な感情を露わにしている兄と、その兄を叱咤し、時には非情に仇討へ突き進む弟が堅い絆で結ばれ、共に行動していくことで、訓読本『曽我物語』が情感と躍動感を持った魅力的な物語として広く読み継がれてきたのである。

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ハシ的形容詞の派生と展開

今田 真子

本研究では、「侮あなづ

らはし」「如何はし」「忙がはし」「労

いた

づかはし」「忌まはし」「驕おご

らはし」「頑なはし」「軋

きし

ろはし」「汚らはし」「曇らはし」「謗

そし

らはし」「潰つぶ

らはし」「嘆かはし」「似つかはし」「憚

はばか

らはし」「紛らはし」「世よ

付づ

かはし」「笑

まはし」という計18の古語形容詞を、ハシ型形容詞として認定している。これらのハという成分に注目し、その存在意義を探るのが本研究における目的である。現代語においても、「〜わしい」という形を持つ形容詞はいくつか存在する。しかし、「〜わしい」という形であるからといって、「疑わしい

(疑はし)」などをハシ型形容詞に含めてはいない。語構成を考えたときに、「疑はし」からは動詞「疑ふ」が想起でき、「疑は(「疑ふ」の未然形)」+「し」と分解できる。一方、例えば「似つかはし」の場合、想起できる動詞は「似つく」であるが、分解すると「似つか

(「似つく」の未然形)」+「は」+「し」のようになり、「疑はし」と比較したときに、余分ともいえるハという成分が含まれていることがわかり、ここに関心を抱いた。ハシ型形容詞は、従来の形容詞研究では深く取り扱われなかった分野であることから、ハという成分の正体と、これら形容詞がハシ型をとる理由をここで明確化したいと考えた。

結果的に、ハという成分のもともとの由来は、継続・反復の助動詞「ふ」に求めることができた。「ふ」は上代でのみ助動詞としての機能を有していた語であり、原則未然形に接続したが、次第に助動詞としての意味機能はなくなり、特定の語に接続した「動詞活用形

+ふ」という形のまま一動詞として扱われるようになる。例えば「語らふ」「住まふ」などがそれにあたる。この形をもつ動詞の存在をいくつか発見し、そのうちハシ型形容詞への派生を確認できたものがあった。そして、「忌まはし」「軋ろはし」「曇らはし」「汚らはし」

「紛らはし」「笑まはし」は、この「動詞活用形+ふ」動詞が派生元にあることが判明した。よってこれら6語における、ハという成分の正体が明らかになった(例:「忌まは(「忌まふ」の未然形)」+「し」)。一方で「動詞活用形+ふ」動詞からの派生とは確認できない他の形容詞群は、これらこそ「純粋なる」ハシ型形容詞とも言うべきであり、ハシが接尾語化して形式的に付いているものであると捉えた。この「ハシの接尾語化現象」は中古にはすでに起こっていたと考えられる。「頑なはし」という、語基が動詞ですらない形容詞が中古に出現していることが、ハシを形式的にくっつける現象が定着していることを物語る。

ハシという接尾語が選択されて形容詞が誕生した理由については、「程度の甚だしさ(特にマイナス評価)」の含みをもたせるため、ということで結論付けた。ハシ型をとることで

「強意」を帯びていると考えたのである。

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卒業論文では『更級日記』を研究の対象とした。本稿では『更級日記』の虚構性や、『源氏物語』の浮舟を意識した記述等に注目し、その意図や、孝標女が自己の人生をどのように捉え、読者に何を示そうとしたのかを明らかにすることを目的とした。

第一章では、『更級日記』の虚構性について考察した。第一節では先行研究を概観しながら、記述の面と構成の面から『更級日記』の虚構性を検討した。記述の面では自己の三人称化、事実の改変、地名の誤り、夢の記述、人物描写などから、構成の面では、素材の選択、省筆と補筆、記事の整序の問題などから

『更級日記』の虚構性を認めることができた。第二節では孝標女が『更級日記』に虚構を取り入れた意図と、その意図からわかることを考察した。稿者は和田律子氏の論1に首肯し、孝標女は『更級日記』という作品を通じて自己の半生を再構成しようとしたのだと考えた。そこから孝標女は自己の生をしっかりと見据え主体性をもって生き、その生に満足していたことが明らかになった。

第二章では、『源氏物語』の浮舟を意識した記述について考察した。第一節ではなぜ浮舟を対象としたのか考察した。その結果、出自の共通性、浮舟の劇的な運命の展開が自分自身の生にはなさそうなこと、浮舟は死や往生成仏のイメージの強い人物であったこと、浮舟が「さいはひ人」であったことなどが考えられた。第二節では浮舟は孝標女にどのように意識されているのか、またその意図と、孝標女が自己の生をどのように捉えていたか考

『更級日記』の研究

斉藤  静

察した。その結果、諸研究が指摘するような浮舟憧憬とは異なり、孝標女は自己の生が浮舟のそれとは異なることをはっきりと自覚し相対化していることが明らかになった。またその意図は、満足している自己の生の内実を読者に強調して示すことにあるのだとわかった。

第三章では、孝標女独自の幸福観について考えた。第一節では孝標女の信仰に関する記事と夢の記事から、孝標女独自の幸福観について考察した。孝標女は現実離れした願望を成就させることはできなかったが、現実に即した願望は信仰によって成就させており、大きな幸福は手にできなくとも、小さな幸福はいくつも手に入れてきたことがわかった。第二節では宮仕えの記事から、孝標女独自の幸福観について考察した。孝標女は宮仕えをする中で他者との貴重な交流を経験し、個性を活かす場を持ち、自覚できるほど厚い信頼を得ており、宮仕え生活においても大きな幸福を手にすることはなかったものの、小さな幸福をいくつも手にしていたことがわかった。このように小さな幸福を『更級日記』に詳述する点から、小さな幸福を大切にしようという独自の幸福観をうかがうことができた。

1 和田律子「『更級日記』冒頭部に関する試論」(『立教大学日本文学(80)』、立教大学日本文学会、一九九八年七月)

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読本『義仲勲功図会』考

酒井  遥

『義仲勲功図会』は好華堂野亭による「図会もの」と呼ばれる読本で、木曽義仲の生涯を描いた一代記である。「図会もの」は文学的評価が低く、『義仲勲功図会』も研究はほとんどされていない。しかし本文にはいくつかの従来の義仲関連作品にはない工夫が見られ、その検討をせず価値がないと切り捨ててしまうのはいささか早計であろう。本論では『義仲勲功図会』の細部を検討し、『義仲勲功図会』に見られる義仲像から本作品の再評価を目的とするものである。『義仲勲功図会』を検討するにあたっては、

表現やエピソードに類似性がある『源平盛衰記』との比較を中心として、その他義仲関連作品と比較しながら『義仲勲功図会』独自の義仲像を探った。

第二章第一節では主に『平家物語』諸本における義仲像を確認した。その際参照した諸本は『覚一本』『屋代本』『高野本』『中院本』

『延慶本』『源平盛衰記』である。『平家物語』諸本における義仲には、先行研究でも指摘されているような義仲像の矛盾が確認できたが、どちらかというと朝敵寄りの描写が多かった。

『平家物語』諸本以外では、『太平記』で「日本朝敵ノ事」で義仲の名前が見られた。謡曲

『木曾願書』及び『吾妻鑑』も参照したが、義仲像を探るに当たっては有機的な描写が見られなかった。

第二節では管見の限りではあるが近世における義仲関連作品及び歴史書における義仲像を確認した。参照した義仲関連作品は『きそ物かたり』『信濃源氏木曾物語』『白髪實盛黒

髪實盛加賀国篠原合戦』『ひらかな盛衰記』『軍法富士見西行』『垣根草』『義仲一代記』『繪本巴女一代記』で、歴史書は『平家物語評判秘伝抄』『保健大記』『読史余論』『大日本史賛藪『和漢軍書要覧』『大日本史』である。義仲関連作品では『白髪實盛・黒髪實盛/加賀国篠原合戦』『ひらかな盛衰記』『軍法富士見西行』『繪本巴女一代記』が義仲を英雄あるいは英雄寄りに描いており、歴史書では『読史余論』のみが義仲を擁護する姿勢を見せる。

第三節では第一節第二節で確認した義仲像と比較しつつ『義仲勲功図会』における義仲像を検討した。その結果『義仲勲功図会』には従来の義仲像にはなかった〈孝〉という要素を見出すことができた。また中国の儀式である「児試し」を取り入れたり、『三国志演義』の「美女連環の計」を取り入れたりするなどの工夫が見られた。とくに「美女連環の計」については『源平盛衰記』でいう「木曾貴女の遺を惜しむ事」の中に入り込んでおり、英雄義仲像を後押しする重要な要素となっている。

以上の考察の結果、『義仲勲功図会』が従来になかった義仲の新しい解釈を打ち出していることが発見できた。一貫して〈英雄〉義仲を描いた『義仲勲功図会』では、義仲像の矛盾が解消されており、読者が違和感なく〈英雄〉義仲を受容できただろうことが窺える。

『義仲勲功図会』は〈英雄〉義仲を描いた作品として評価できるものなのである。

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『源氏物語』の研究―「雨夜の品定め」をめぐる女性達―

佐々木 絵里子

卒業論文では『源氏物語』を研究対象とし、特に本文中における「雨夜の品定め」を取りあげた。その中でも「今は、ただ、品にもよらじ、……」の結論的一文を中心に論じた。第一章では、この一文をそのまま作者の女性観として見ることは不適切であると思われるが、ここにまったく紫式部の考えが含まれていないかといえば、そうではないと考えられることについて述べた。特にこの一文に現れている考え、「品」や「容貌」といったこの時代の価値基準よりも「心のおもむき」を重視したという点は、注目すべきである。

第二章では、「心ばせ」という「心のおもむき」に似た意味を表わす語に注目しながら、

『源氏物語』全体での「心のおもむき」の描かれ方を見た。主に男性から女性への評価として使われることの多いこの語は、容貌と対置される表現であることが確認できた。しかし、この「心ばせ」は容貌以上に女が生きて行く上で大切な要素であり、これを備えることで、男との生活を守る必要があったと同時に、男からも求められるものであった。また、この「心ばせ」は女性自身の心構え次第で変えることができたという点は注目すべきである。「雨夜の品定め」の結論的部分、「心のおもむき」を重んじる考え方は「心ばせ」を重要視するという形で『源氏物語』全体にちりばめられていることがわかった。

第三章では、『源氏物語』中の女君たちが、具体的にどのような「心ばせ」を持って生きていたのかを見ていった。第一節、空蝉がたしなみの深い女君であった点と、第二節、夕顔

が「おほどか」で「らうたし」という性質を持っていながら、自分というものを持って生きた女君である点と、末摘花がその人物造型を通して、人間は容姿や才覚でなく心根を見るべきであるということを伝えている点は全て「雨夜の品定め」の結論的部分「今は、ただ、品にもよらじ、」の考えが反映されているように思えるのである。また、第三節、花散里は「雨夜の品定め」の結論的部分に言われる理想の女性像をもっとも体現した女君であるといえないだろうか。

それぞれの女君たちに「雨夜の品定め」の「今は、ただ、品にもよらじ、」の一文と重なりを持つような部分があった。これは、「雨夜の品定め」の考えが重要視されているという意味でもあり、第二章の「心ばせ」の分析結果からも言えるだろう。女君たちは生来の気質というだけでなく、各々が、理想の女性像ともいえるこの一文に自らの意志で近づいているという風に感じられた。身のほどを自覚し、自らの生き方を模索していく態度がそこに表れているのではないだろうか。『源氏物語』の作者紫式部は『紫式部日記』

において、「さまよう、すべて人はをひらかに、すこし心をきてのどかに、おちゐぬるをもととしてこそ、ゆゑよしもをかしく、心やすけれ。」と述べている。「心ばせ」を重んじる考えは、作者の中にも、女君達の中にも、そして『源氏物語』全体の中にも深く浸透しているのである。

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翻案小説としての『近江縣物語』

佐藤 冬実

卒業論文では『近江縣物語』を取り上げた。『近江縣物語』は石川雅望によって書かれ文化五年(一八〇八)に刊行された長編伝奇小説である。石川雅望は話の大筋を中国の戯曲に依り、その他多くの作品を取り込みながら物語を完成させた。

本論ではまず、登場人物にも関わり物語の世界として重要な要素である『前太平記』が、作品にどの程度組み込まれているかを具体的に検証した。結果、一部においては『前太平記』と全く同じ語や言い回しなどが用いられていることが確認できた。相違する部分では、主人公に焦点が当てられその人物像が描き出されており、そこに作者なりの工夫が伺えた。さらに全体的に平易に、簡略にまとめて読みやすくする工夫も見て取ることができた。また、石川雅望は国学者であることもあり、雅語を巧みに操る技術はすでに評価されているが、その例も複数確認することができた。

次に、国学者石川雅望が熱心に研究していたという『源氏物語』の利用についても具体的に検証した。結果、『前太平記』ほどではないものの同じ語や言い回しを使っている部分がいくつか確認できた。しかし『前太平記』のように単純に似た場面に同じ語を用いるだけではなく、敢えて流れとはずれたところで用いるなど、より物語に溶けこませて利用されていることがわかった。雅望が『源氏物語』をかなり深く研究し理解した上でその語を自在に扱うことができたといえ、作者の知識の深さと工夫を伺うことができた。

続いて『近江縣物語』と継子物のお伽草子

との関連性を指摘した。全体的な話型の面では、継子いじめから主人公の追放、遍歴からの再会という話の展開とかなり似たものが、『近江縣物語』にも見られることを述べた。そして、話型は同じでも細かい内容や設定、登場人物等には相違が見られる部分が多く、その展開の広がりや人間関係の複雑さはお伽草子に比べかなり増幅されていることも確認した。次に、継子物のお伽草子の中でも夫婦流離再会説話の要素を持つ作品と比較をし、話型の類似を指摘するとともに、主人公とヒロインを支え再会へ導く役割の人物が登場することの共通性を述べた。そして最後に、『近江縣物語』の主人公が申し子であり観音を深く信仰する描写が多いことから、継子物の中でも神仏霊験譚・申し子譚の要素を持つ作品と比較を行った。結果、申し子である主人公が神仏から何かを授かり、その助けによって困難を乗り越えていくことに共通性が見出されることを指摘できた。しかしその授かり方や展開には、お伽草子のような超自然的な要素があまりなく、あくまで自然的に物語を進行させていくところに石川雅望の独自性が現れていることも合わせて指摘した。

以上、『近江縣物語』が他作品をどのように取り込んでいるかを部分的に確認し、全体的には継子物のお伽草子との類似性について述べたうえで、作者石川雅望並びに『近江県物語』という作品の再評価をすることができた。

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伊丹椿園『両剣奇遇』における白話小説享受の方法

佐藤 桃子

卒業論文では、安永八〈一七七九〉年に京都菊屋安兵衛を版元として刊行された伊丹椿園作『両剣奇遇』を取り上げた。この作品は前期読本という文芸ジャンルに位置付けられており、その特徴としては歴史に取材した短編小説形態であること、中国白話小説を参考に創作されることが多いことがある。本論文では、『両剣奇遇』が前期読本というジャンルに位置しながらも、読本の中では比較的長編に近い構成で、明代の『平妖伝』をはじめとした中国白話小説をどのように享受したのか考察した。

第一章では、作者伊丹椿園について、『両剣奇遇』についての先行研究の確認を行った。本論で取り上げた『両剣奇遇』への評価は、先行研究の中で必ずしも高いものではない。特に「翻案」という手法に関わって、田中則雄氏は『両剣奇遇』には『平妖伝』の趣向が利用されているものの、全体の筋まで『平妖伝』を踏襲するには至っていないと指摘している。この点に注目して、第二章・第三章では物語の軸を担うとされる二人の人物の造型について分析を行い、検討を行った。

第二章では、善なる女性・雪の江について考察した。まず、先行研究で既に趣向を受容したと指摘されている、中国白話小説や前期読本における女性との比較を行った。その結果、女性が守るべき「貞節」を重んじながらも「烈女(あるいは烈婦)」として讃えられるという「善」なる共通性が明確になった。また、この女性像は『平妖伝』にも描かれており、雪の江と『平妖伝』との関連性も見出さ

れた。一方で、遊女という立場に身を置きながらも亡き父や夫を弔うその姿から、『曾我物語』や『英草紙』などに描かれる恋人を弔う遊女という人物像を継承している事も加えて指摘した。雪の江の人物造型には日本の古典作品や同時代の読本も影響されていることが分かった。

第三章では、自らの大望と不義の狭間に身を置く主人公・秦織部について考察した。織部についても、既に先行研究で人物像に影響を与えたかと指摘されている『平妖伝』の王則、実録『慶安太平記』『天草騒動』の由井正雪との比較を行った。王則との相違点は正雪との共通点であったり、三者ともに異なっている描写が見られたりと、織部独自の人物像を浮彫りにすることができた。特に、冒頭で抱いていた漠然とした織部の功名心が物語の進行に従って明確化していくことは、『両剣奇遇』全体の展開に関わって重要な変化である。そして望みを叶えるためなら不義を厭わないその姿に、雪の江とは対概念となる悪が現われていた。

以上の考察の結果、『両剣奇遇』を構成する二人の人物は、『平妖伝』をはじめとした中国白話小説から発想を得て、それぞれ日本の古典文学作品や読本あるいは実録などを参考に造型された事が確認出来た。また本作品においては、物語全体の筋に関わっての翻案ではなく登場人物の造形にあたっての受容という方法がとられたのではないかという考察に至った。

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現代日本語における形容詞性接尾辞に関する一考察―対象への判断を表す「ぽい」、「らしい」を中心に―

関根 貴紀

卒業論文では他のものを基準としての対象への発話者の判断を表す形容詞性接尾辞の

「ぽい」、「らしい」を中心にその働きを探った。第1章では考察対象である形容詞性接尾辞

の「ぽい」や「らしい」と、助動詞として用いられる「ぽい」や「らしい」の違いを明らかにした。

第2章では「ぽい」、「らしい」に関して、それぞれの接尾辞を単独で考察しているものや類似表現と比較しているものなど、先行研究を挙げた。その上で働きの分類基準や評価性のブレなどを問題点として挙げた。

第3章では「ぽい」の働きについて、上接語の品詞ごとにその働きを考察した。上接語が形容詞の場合は色彩形容詞とそれ以外の形容詞の場合で異なり、動詞は動作動詞と状態動詞で異なる。名詞の場合は3種類に分類することができる。さらに形容動詞にも「ぽい」がつくことを示した。加えて、それぞれの場合の評価性についても触れた。

第4章は「らしい」の働きについて、「ぽい」と同じく上接語の品詞ごとに考察した。「らしい」は動詞につくことはなく、一般名詞につく場合、固有名詞につく場合、形容詞または形容動詞につく場合の3種類に分類した。そしてそれぞれの場合の評価性についても言及した。

第5章では「ぽい」、「らしい」を類似表現である「くさい」、「みたいな」、「のような」と比較してそれぞれの共通点や相違点、置き換えの可否について論じた。

第6章では各章における考察をそれぞれの

接尾辞、表現ごとに整理した。

全体としては、先行研究においてはその働きが類似していると述べられることの多かった接尾辞「ぽい」と「らしい」について、「上接語(X) っぽい/らしい対象(Y)」という形で対象が上接語とどのような関係であるときに用いられるか、どのような評価性を持つかについて上接語の品詞ごとに考察を行った。その上で類似表現との比較も行った。「ぽい」、「らしい」は共に対象を、別のもの

との関係を用いて形容する発話者の判断を表す接尾辞であると言える。「ぽい」は基本的に対象Yは本来、上接語Xの性質を持たないことが前提条件として用いられるのに対し、「らしい」は対象Yが上接語Xの性質を持ち得ることを前提条件として上接語の品詞ごとに異なった働きを持つという考察に至った。

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連用・連体・終止用法の出現頻度から見た形容詞分類

瀬和 幸介

卒業論文では、形容詞の連体形・連用形・終止形という3つの用法の出現頻度の調査結果と各々の形容詞の性質から分類を試みた。形容詞分類に関する先行研究では属性と感情と区分されるのが一般的だが、形容詞には連体・連用・終止の各用法に出現しやすい形容詞には違いがある。これらの用法に着目し、形容詞の全体を分類・検討する必要がある。

分類の上での着目点は、形容の対象、共通認識性、不変性、心的反応の4点である。形容の対象とは、形容詞が何を形容しているのかという点に注目したものである。<モノ>、<コト>、<動作>の3つを提示した。また、共通認識性というのは発話者以外の他者も対象に備えられた性質を認識でき、発話者と同様の認識を持ち得るという性質である。「私は

[形容詞]」、「きっと[形容詞]だろう」、確認要求に対する否定的反応の可否の3つのテストによって共通認識性を認めた。更に不変性というのは、時間が経過しても、変化することのない恒常的な性質のことである。不変性は、「昨日」との共起の可否により検討を行った。そして、心的反応というのは、発話者の個人的な価値観や知識、経験、判断をもとにして行われる心理的な反応であるとした。

形容詞の分類にあたって、連体・連用・終止の各用法の出現頻度を調査し、用法ごとに出現しやすい形容詞について前述の4点を検討し、形容詞の分類を行った。

連体形に出現しやすい形容詞は、属性に関する形容詞が多く属している。<モノ>を対象として対象物に備えられた性質を示し、対

象物の性質を位置づけるものである。連用形に出現しやすい形容詞には、様々な

副詞的な形容詞がある。その中で最も基本的と考えられるのが、動作に関する様相副詞的な形容詞である。連用形に出現しやすい形容詞は、動作を対象に変化的な側面を捉えることのできる形容詞である。

終止形に出現しやすい形容詞は、発話者の心の中に生じた一時的な反応を述べる形容詞である。<コト>を対象として発話者の個人的な価値観や判断、経験をもとに主観的な反応を表す形容詞が属している。

形容詞全体を見渡すと、各用法で用いられやすい形容詞は、独立して存在している訳ではない。相互に関係しており、連体から連用、終止へと向かうにつれて形容の対象が<モノ>から<動作>、動きをまとめて捉えた<コト>へと連続的に推移している。また、共通認識性と不変性両方備えているものから、不変性が失われ、次第に共通認識性も失われていく。それに従って心的反応を表すようになる。

形容詞は<モノ>という静的な事象から<動作>という動的な事象、また個人的な心の中の事象まで広い用法がまとまっている。連体、連用、終止の用法に注目し、形容の対象や意味を考えると互いに相関しながら内実はグラデーションをなし、体系を作っている。

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高見順『死の淵より』における植物の表現

高頭 勇貴

高見順は、小説家としても詩人としても活動した作家である。特に詩作は胸部疾患に罹った40歳のときから本格的に始まった。詩集『死の淵より』にも高見が食道癌との闘病生活を描いた作品が収められている。また、高見の詩作において植物が表現として多く用いられている。本論は先行研究の問題点について考察しながら、なぜ植物が描かれたのか、植物の表現が『死の淵より』にどういう効果をもたらしているのかを探ったものである。『死の淵より』は、3部構成が取られている。

Ⅰ(手術直後に書かれた詩)、Ⅱ(入院・手術直前に書かれた詩)、Ⅲ(自宅に帰ってからの詩)という形となっている。

Ⅰの植物はすべて「非生命的で病的なイメージ」であるという主張がある。さらに

「赤い風景画」と付された複数の作品の中で赤は、「ザクロの実が割れる」などの表現から血が連想されるため、病の色として捉える論がいくつかあった。しかし、「赤い風景画」の詩を見てみると、赤は「すごく澄んで清らかな色だ」とポジティブに表現されたり、腐食という言葉が想起される「赤錆」として現れたりすることから、病の苦しみより、赤は生と死の両方を表現する色ではないかと考えられる。他のⅠにおける植物の表現にも目を向けると、死が匂わされている中で「蔦がのびる」や「草ぼうぼう」と書かれているために、ここに非生命的なイメージがあると言い切れない。

Ⅱにおいては植物の表現がわずか2篇のみに登場するところが疑問であった。その理由

を考えるにあたってⅡに収められる詩を概観すると、死に方に対する願望や死への未練について思うことを書いたものが多かった。一方、植物が多く詠われる理由を『死の淵より』以前の詩作から考えると、「植物を詠むことによって自らの生を養う」という姿勢があったためであることが分かった。これらのことから、Ⅱでは自らの生命を養う植物を詠うよりも死について思考したイメージの描写が優先されたのではないかという考えが導出された。

Ⅲになると、植物の捉え方が変わってくる。まず植物は詩作の欲求や祈りを表すものとして登場する。特に祈りに注目して過去の作品を辿ると「生きたい」という祈る姿が書かれた詩があった。仮にその「祈り」と『死の淵より』における祈りが同質であるならば、余生をより充実して「生きたい」とする願いが込められていると解釈できよう。そうした「祈り」を投影した植物はさらに、自己受容をしたり、超現実の美に気付いたりする表現とも結びついてくる。いわば悟りともいえる境地に至ったように読める。生命を養うものとしてだけではなく、『死の淵より』における植物は、生命の営みである「生」と「死」の両面を高見にはっきりと捉えさせたものとしても表現されているのであった。

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『とりかへばや物語』論―女君の独自性―

高野 なつみ

卒業論文では『とりかへばや物語』を取り上げ、女君の独自性を明らかにすることを目的とした。表現への注目、物語中の他の人物との比較、他作品の女性との比較という三つの観点を通して考察を進めた。

第一章で女君に使われる「世づかぬ」に注目し、その語に内包された女君の苦しみを分析した。また四の君、宰相中将、男君との関わりを通して、女君の苦悩がどのように変化するかを明らかにした。第一節では男装時代、第二節では男装解除後の女君に関する「世づかぬ」を取り上げた。女君の「世づかぬ」は、始めは男装を指していたが、男装時代の四の君の密通事件を契機に、男性としても女性としても生きられない苦しみへと変化した。更にその苦しみは宰相中将との関わりを通して、嘆きという明確な形に変わった。男装解除後も女君はその苦悩を手放すことはできない。苦悩から解放されたのは、女君が女性としての生活に慣れ、男装時代に関わりのあった人物と交流を絶ってからだったことを示した。

第二章で四の君との比較を通し、女性としての女君の独自性を導き出した。第一節では宰相中将と初めて密通をした場面を、第二節では子どもを身ごもって宰相中将に世話される場面を取り上げた。四の君は、密通直後は状況理解が追いつかず、泣くことしかできない。しかし四の君は宰相中将を次第に受け入れるようになる。一方女君は、男装を見破られた不安から涙を流すが、今後の影響を考える冷静さを持っている様子が見られた。それゆえ女君は宰相中将を拒み続けるのだ。受動

的でどんな状況も受け入れる四の君に対して、女君は主体的に自分の生きる道を探る様子が描かれている。そこに女君の独自性が見出せると結論づけた。

第三章で『有明の別れ』の男装の女君(以下「女大将」)との比較を通し、女君の男装の姫君としての独自性を見出した。第一節では第一章で取り上げた「世づかぬ」に注目し、女大将の「世づかぬ」思いは女君と比べて単純であることを示した。第二節では、男装時代の経験をどのように生かすかを比較した。第二章で女君が「男に馴らひにし御心」を女姿になってから発揮したのとは対照的に、女大将が男装経験を発揮するのは男装時代のみであると分かった。第三節では男装時代を回顧する場面を取り上げ、女君と女大将の男装時代に対する思いに違いが見られることを明らかにした。第四節では以上の節を踏まえて、出生と男装の経緯の違いに注目した。「報い」による人生の女君と、「神の御しるべ」による人生の女大将では、苦しみの差異が生じ、それが人生の違いに繋がることを示した。

女君の独自性とは、男性としても女性としても生きられない思いに苦しみつつも、主体的に自分らしく生きる道を模索したことであると結論づけた。「世づかぬ」苦しみを持ちながらも型にはまらず生きようとする姿は、四の君や女大将には見られない。その点に女君の独自性が見出せるのである。

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〈成長物語〉としての「風の又三郎」

高橋 千尋

従来の「風の又三郎」研究では、作品全体に渡って問われている、村の学校に転校してきた高田三郎は風の神風の又三郎なのかという問いに主眼が置かれてきた。それらの論稿においても作品世界の分析が精緻に行われてきたが、あくまでも中心は三郎あるいは彼と混同されて考えられがちな又三郎であって、彼と関わる村童たちについての言及は少なかった。卒業論文では、三郎は又三郎かと問い続ける村童たちの視点から「風の又三郎」を読み解くことで、作者宮沢賢治が憧れた未来や願いを明らかにすることを目的として執筆した。

第一章では「風の又三郎」のテクストに従いながら私見を提示した。本作に登場する又三郎は、嘉助に死の恐怖を与えた点で「ひかりの素足」に登場するそれと類似する死神的性質を有していると同時に、人間である高田三郎と混同されてしまうという点で「イーハトーボ農学校」に見られる人間的肢体を備えたそれと同様の性質をも有していると考えられる。そんな又三郎と交流できる人物として嘉助と一郎がいる。又三郎と出会った直後の嘉助は風妖伝説の実在を信じる自由で奔放な子どもであったのに対し、一郎はそれを疑い、否定するという大人のような子どもであった。しかし、又三郎との関わりを通して、嘉助には子ども心の中にも大人の観点を芽生えさせ、一郎には幻想的なものの実在を信じる子どもの心を取り戻させていると思われる。二人の内面的変化から、村童たちの視点で本作を読む時、又三郎との交流を通して変化を遂げる

二人の〈成長物語〉と捉えることができると考えられる。

第二章では前章の結論を明確にするために、賢治童話の中でも〈成長物語〉と指摘されて久しい「セロ弾きのゴーシュ」および「銀河鉄道の夜」、さらに類似の構造を持ちながらも

〈成長物語〉と呼ばれなかった「山男の四月」と「茨海小学校」の作品世界を検討した。その結果、①現空間から異空間へ入り込む際に、何らか負の感情によって心身共に疲労した状態にある、②異空間に溶け込み、他者との交流・交信を経て、内面的変化を遂げる、③異空間で得た感覚や力を現空間に持ち帰り適合させる、という賢治童話が〈成長物語〉になり得るための三つの条件が見出せた。この三点は「風の又三郎」にも該当するものと考えられる。本作を〈成長物語〉として読み解くことでこそ、賢治が理想とした子ども像と彼がそこに願った未来とを魅力として引き立てることができるのではないかと結論付けた。

以上、「風の又三郎」において三郎は又三郎かと問い続ける嘉助と一郎の〈成長物語〉として読む時、賢治が期待した子ども像が作品の魅力として引き立つということを明らかにした。謎や矛盾を孕みながらも如何様にも成長し続ける作品であるがゆえに、長い間親しまれているのかもしれない。

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李良枝作品研究

高森  楓

李イ

良ヤン

枝ジ

(1955-92)は、在日朝鮮人女性として初めて日本文壇で芥川賞を受賞した作家である。作品の主人公も彼女と同じ在日朝鮮人二世に設定されることが多い。本稿では、李良枝の作品世界を、登場人物を通して描かれる家族の様相、李良枝自身の言語観や母国観を手掛かりにして、考察した。

第一章では、作品中の家族の不和と兄の死について見た。自分にとって朝鮮とはどのような存在なのか、李良枝の作品で問われ続ける疑問が、主人公の両親の、朝鮮への愛憎に満ちた複雑な感情が渦巻く家庭から生じたものであると考えた。また、家から逃れ、居場所を求めて新たな場所へと逃避を繰り返す「ナビ・タリョン」の主人公愛子に、李良枝が周囲の環境ではなく、愛子自身の生き方自体に帰属場所を見出していく過程を描いたと考えた。あわせて、李良枝の、民族の伝統芸能であるサルプリを通して兄亡き現実を受け入れ、生きていく活力を得た姿が、登場人物たちに投影されていることを見た。

第二章では、「刻」の主人公スニ及び李良枝自身の伽耶琴に対する態度を検証し、また、李良枝の言語に対する胸中を明らかにした。第一節では、李良枝にとっての、伽耶琴の練習と小説を書く行為との関連を考察し、伽耶琴を通じて体感した在日朝鮮人ゆえの苦悩が、李良枝の小説の基盤となっていることを明らかにした。第二節では、李良枝自身の、自分の中の2つの母語(書く母語としての日本語、身体の母語としての韓国語)の存在を認められるようになるまでの過程が作品「由煕」に

投影されていることを見た。第三章では、「ナビ・タリョン」の登場人

物であるお千加の出自についての考察と、李良枝が「朝鮮」「母国」「韓国」「祖国」「ウリナラ(わが国)」という5つの呼称を使い分けていることの意図を分析した。第一節では、自身の出自を明かそうとしない人物としてお千加を設定したことに、出自に対する差別意識や劣等感を普遍的なものとして描く李良枝の目的があったと分析した。第二節は、「ウリナラ」という呼称に込められた意味を中心に論じた。「ナビ・タリョン」の愛子にとっての「ウリナラ」は、民族の伝統芸能に従事することによってのみ、近づくことのできる理想郷であった。しかし、「由熙」では、「ウリナラ」は主人公を苦しめる足枷となっていた。由熙は、韓国の地に「韓国人」ではない

「在日朝鮮人」である自分を、ありのままで受け入れてくれる「ウリナラ」を見つけ出せず、韓国を去ってしまった。「由煕」で、「ウリナラ」という自分のこしらえた韓国像に翻弄される主人公が描かれていることは、李良枝が「ウリナラ」を、あるがままの現実の韓国を受け入れる率直な眼差しを封じ込めてしまう存在として捉えていたことを示していた。

今後、より多くの人が李良枝の作品に触れ、彼女の自分の命を削りながら紡ぎだしているような力強くもあり悲痛な言葉の力を感じてほしい。

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谷崎潤一郎「吉野葛」の研究―「構造」と「語り」を中心に―

出貝 香奈江

本論文は、谷崎潤一郎作が執筆した「吉野葛」(昭和六年『中央公論』一、二月号初出)のその特異な「構造」と「語り」の持つ意義を明らかにしようとしたものである。

今日でこそ高く評価されている「吉野葛」であるが、発表当時は単なる紀行文であるという評価を与えられていた。この点に関しては考察の余地があると考え、第一章では「吉野葛」が紀行文として受け止められる要因を構造面から検討し、その構造の意義について考察した。先行研究では「吉野葛」の構造について〈各挿話の組み立て方、関連の仕方〉といった観点から考察されてきたが、第一節では〈「吉野葛」が紀行文の枠組みを終始崩さず、「その四 狐噲」「その五 国栖」での友人津村の打ち明け話も語り手「私」の吉野の旅に内包されている〉構造であることを呈示した。〈各挿話の組み立て方、関連の仕方〉とは

芥川龍之介との「小説の筋」論争での谷崎の主張の中に見られる観点である。しかし、第二節では「吉野葛」が、谷崎が論争で主張した「構造的美観」を有していることに触れつつ、芥川が論争で主張した〈「話」らしい話のない小説〉の特徴である「通俗的興味の乏しさ」という側面から「吉野葛」の構造を考察した。

第二章では「吉野葛」の語りについて「その四 狐噲」と「その五 国栖」の章を中心に考察した。第一節では「その四 狐噲」の語りが、友人津村が「私」に語った打ち明け話を、語り手「私」がそのまま再現している

ような語りであることを指摘した。津村から直接に話を聴いているように錯覚させる語りからは、津村が今でも一字一句違わずに亡くなった母に纏わる唄を歌えることが示され、津村がそれらの唄を大切に歌い続け不確かな母の記憶を埋めていったことが推測されることを論じた。また、「その四 狐噲」で語られる「母―狐―美女―恋人―」という津村独自の連想は、当事者である津村自身に語らせる方が適切であり、津村をして語らしめる語りの方法は、語り手「私」が津村の連想のプロセスを尊重したものとして捉えられるのではないかと結論づけた。「その五 國栖」で語り手は「私」に戻るの

だが、その内実としては〈津村の打ち明け話を読者に伝える語り手〉としての「私」の存在感が希薄であり、津村の心情・推量なのか、語り手「私」が津村の話を聞いて判断したことなのかが判別できない箇所が見られることを第二節では指摘した。これは語り手「私」が津村の話を「間接に取り次ぐ」にあたって、津村の推量や心情をそのまま手を加えないで採択し、主語を省略して伝聞であることを示さないでいることが原因であることを論じた。これらの語りからは、津村と同じく幼くして母を亡くした語り手「私」にとって、津村の母を慕う心情は共感・共有できるものであっただろうことが示されると結論づけた。

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西鶴の描いた衆道―「傘持つてもぬるる身」を中心に―

冨所 桃衣

貞享四年正月に刊行された『男色大鑑』(以下『大鑑』)は、井原西鶴によって書かれた計四十章から成る短編小説集である。前半部は主に武家社会の義理と意気地に殉ずる男たちを描き、後半部は歌舞伎若衆の男色を扱っている。卒業論文の題目とした「傘持つてもぬるる身」は前半部の一篇である。先行研究では、物語に含まれる「孝行咄」や「怪異談」を「夾雑物」と見るか否かと、主人公小輪の行動を、衆道の意気地に基づく美しいものと見るか、それがかえってグロテスクな話、人間の愛の暗さを示すものとなったかで評価が分かれている。本論文では、これらの課題について『大鑑』以前の男色物や西鶴武家物、怪談物などと比較・検討し、「傘持つてもぬるる身」を再評価することを目的に執筆した。

まず「孝行咄」について『大鑑』一の三「垣の中は松楓柳は腰付」と比較し、「孝行咄」には、小輪の衆道に対する思いの強さを強調し、小輪の人物造形を鮮明にする効果があることを指摘した。

次に「怪異談」について、『大鑑』周辺の怪異談と比較した。その結果、孝行心よりも

「衆道」を優先する小輪と、孝行心を持つ狸の子という対照的な関係にし、狸の子により報いを受けるという構図になっていることが挙げ、そして、古狸を退治してもそれを名乗り出ないことは、小輪が「武勇」よりも「衆道」を大切にしていたことを強調することを指摘した。さらに、狸の子の言葉は、読者に後の小輪の危険な行動と、残虐とも言える死を予想させる伏線のようなはたらきをしてい

る可能性を指摘した。念者との密通が明るみになった小輪は最期、

主君の手によって殺される。このことに関し先行研究では、井口洋氏や染谷智幸氏によって、小輪が究極に願望していたのは、主君に殺されることであり、若衆の意気地を最後まで貫き通しながら、しかも主君に命を奉った小輪は、まさに武士の理想的な姿であったと指摘されている。そこで『大鑑』内の他の物語や武家物と比較し、小輪の忠義心の有無について考察した。忠義心と衆道をどちらも選ぶために自ら死を選ぶということは、衆道を貫くことにより、主君を裏切るという不義を、主君の手にかかることでつぐないをしようとし、その心底には、主君の恩に対する忠義心があったことを指摘した。

以上、「傘持つてもぬるる身」において、物語のまとまりを欠く「夾雑物」とされる「孝行咄」、「怪異談」には、むしろ主人公小輪の人物像を鮮明にする効果があり、目的を持って描かれている事が確認できた。また、小輪は、「孝行心」や「忠義心」といった問題に直面しようと、彼なりにあるべき姿、理想像を追求しようとする強い意志があった。そして、その理想を貫くと、その先には「死」しかないとわかっていても、そこに突き進んでいくことは利害を超越した態度であり、それは小輪という人間を、その生き様をより一層美しくさせ、読者を深い感動に誘う結果となったのである。

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現代日本語における接続詞の二重使用に関する研究

成田 千夏

現代日本語において、接続詞は語と語、文と文などを繋ぐ重要な役割を担っている。卒業論文では、「しかし一方」や「あるいはまた」のように、接続詞が二つ重ねて用いられている例を「接続詞の二重使用」と呼ぶこととした。そしてそれぞれの接続詞がもつ性質に注目し、二重使用のされやすさや、働きを考察した。今回は接続詞を逆接型、添加型、対比型、転換型、補足型、順接型、同列型の7種類に分類し、先行する接続詞の分類で実例を分け考察を行った。

第3章では、逆接型が先行する場合について考察した。「逆接型+逆接型」は「(だ)がしかし」という組み合わせが多いことに注目し、それが歴史的変遷に関わっていることを指摘した。「逆接型+添加型/対比型」はその用例を検討し、意味としては逆接型の働きをもつことが結論として考えられる。

第4章では、添加型が先行する場合について考察した。添加型の接続詞は、前件と後件が大きな括りでは同じ話題だが、細かく考えると異なる内容であるという「同類異項目性」を持つ。そのため「添加型+逆接型」が表れにくいことを述べた。「添加型+添加型」に関しては、「そして」と「また」が似た性質をもつことから二重使用されることが多いことを結論とした。「添加型+対比型」は用例を検討した結果、対比型の働きが大きいことが分かった。

第5章では、対比型が先行する場合について、対比型の性質から添加型との併用がしやすいことを明らかとした。しかし組み合わせ

としては「あるいは」の用法が、同じ対比型の接続詞である「一方」や「それとも」よりも広いことから「あるいはまた」が多いことを指摘した。

第6章では転換型の接続詞が先行する場合について検討した。転換型は、前件の内容とは全く違う内容を導く接続詞であるため、二重使用されにくいことを考察した。さらに、「ところで」は逆接型の接続詞、「(それ)では」は転換型の接続詞と二重使用されづらい理由を言及した。また、接続詞としては転換型の働きが大きいことが分かった。

第7章は補足型が先行する場合について論じた。「ただ」のもつ「前件とは逆の評価を後件でしなければならない」という性質に触れ、逆接型との接続詞と二重使用されやすいことを考察した。

第8章では、順接型と同列型が先行する場合について考察した。順接型は「したがってまた」の用例数がやや多かったが、働きとしては「したがって」の順接型が大きいことが分かった。同列型は二重使用されづらく、理由として前件と後件の内容が全く同じでなくてはならないのが同列型しかないことを指摘した。

以上のことから、接続詞が二重使用される際の組み合わせや働きについて、先行研究ではなされてこなかった詳しい考察ができたと考えられる。この考察は、個別の接続詞の性質をより深く理解する際に役に立つのではないだろうか。

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現代日本語における局面動詞に関する一考察―「~きる」「~つくす」「~ぬく」「~とおす」を中心に―

難波 祐希

複合動詞「〜きる」「〜つくす」「〜ぬく」「〜とおす」は従来、動きの「完遂」を表わすとされ、「マラソンで42.195キロを走りきった」「家族を守りぬいた」「秘密を隠しとおした」「商品を売りつくした」などのように、それぞれ「ある行為をやり遂げる、最後まで行う」ことを表わすとされてきた。しかしこれらはいつでも交換可能というわけではなく、

「42.195キロを走りきる/走りぬく/走りとおす」とは言えるが「走りつくす」とは言えず、「商品を売りつくす/売りきる」は言えるが「売りとおす」「売りぬく」とは言いにくいなど、動きの終結局面を表すといってもそれぞれの複合動詞に違いがあることが伺える。卒業論文では、動きの「完遂」を表わすとされてきたこれらの4つの複合動詞を取り上げて比較し、それぞれの複合動詞を支える条件を再検討した。

第1章では複合動詞「〜きる」「〜つくす」「〜ぬく」「〜とおす」に関する先行研究を挙げ、分類基準の曖昧な点や複合動詞間の意味の連続性についての問題点を指摘した。

第2章では『現代日本語書き言葉均衡コーパス 中納言』を利用して「〜きる」「〜つくす」「〜ぬく」「〜とおす」につく前項動詞とその出現数を表にして提示し、第3章から第6章まででこの調査結果を用いながら考察を行った。

第3章では「〜きる」をとり上げ、「〜つくす」と比較して、行為を最後まで続けたことに焦点を置く動作重視の複合動詞であることを、「〜ぬく」「〜とおす」と比較して、行為

の終わる最後の一点に注目することを明らかにした。さらに「〜きる」が極限の状態を表わす場合は事態を客観的に判断し、前項が動作動詞の場合は、意志的な行為の質的、量的な完遂を表わすことができるとした。

第4章では「〜つくす」の「全種類性」を指摘し、対象に全種類的に動作・行為が行う複合動詞であることを明らかにした。また、動作・行為の進展性を客観的に判断できるかという点から、客観的に判断できない場合、動作主の主観的な判断に頼り、ムード性をともない、客観的に同じ判断を下せる場合、行為・動作を行える対象が無くなったことを重視すると結論づけた。

第5章では「〜ぬく」の終了点について考察し、「動作・行為が継続的であること」「事態を実現するため特別に力を加えていること」

「事態達成のあとに実現されるべき何らかの事柄がある“結果重視”の動詞であること」が

「〜ぬく」を支える条件であることを述べた。第6章では「〜とおす」は「〜ぬく」と同

じく一貫した動作の継続を表わすが、「〜ぬく」との比較の結果から、「〜とおす」は行為の結果に何らかの変化や達成を求めず、行為の過程に注目していると結論づけた。

従来のアスペクト研究では、アスペクト標識が動きのどの局面を表わすかによって分類しているものが多かったが、同じ局面を表わし得るものでもどこに焦点を置いているかに違いがあることを明らかにした。

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『卍』試論

松本 惇暉

私は卒業論文において、谷崎潤一郎によって書かれた『卍』という長編小説を取り上げた。谷崎潤一郎の産み出した作品はバリェーションに富んでいるが、その中でも『卍』は形式面での特殊性が際立って見られるものになっている。特に『卍』の本文に挿入されている「作者注」は、一般的な一人称小説とは大きく異なるところだろう。私はこの「作者注」や「聞き書」という作品構造に興味を持ち、それらを考えてみたいと思うようになった。以上のような動機から、私は卒業論文において「作者注」を手掛かりとして、作中におけるその役割や作品自体の構造、『卍』と他の作品における関連というものを考察した。

卒業論文は大きく分けて二章で構成されており、以下にその概要を述べる。まず第一章第一節では先行研究が作品の細部まで踏み込んだ分析を行っていないということを指摘した。それを踏まえて、作品の細部に当たる「作者注」と「語り」の関係性はどのようなものなのか、という問題提起を行った。次に第二節では先行研究を踏まえつつ、「作者注」と「語り」の定義を行い分析の手順を定めた。そして、第三節においては「語り」から見た「作者注」という側面で、第四節においては「作者注」から見た「語り」という側面で分析を行った。加えて、第五節では第三節と第四節の分析結果を踏まえて、「語り」と「作者注」の間にある関係が、人間の対話というものが持っている特性を暗示している、という解釈を示した。第二章第一節では先行研究を概観して、『卍』の前に書かれた『痴人の愛』と

関連付けるものと『卍』の後に書かれた『盲目物語』と関連付けるものの、大きく分けて二つ傾向があること示した。第二節では作品を比較するために「聞き書」の定義を行った。

「聞き書」形式がよく表れており、『卍』と作品構造が似ている『盲目物語』と『蘆刈』を

『卍』と比較の対象とすることを示した。また、第三節においては『盲目物語』と『卍』を、第四節においては『蘆刈』と『卍』を比較した。この二つの節で行った比較の結果、『盲目物語』と『蘆刈』には「聞き書」という形式に別の形式が付与されていること分かった。第五節では比較した結果を踏まえて、純粋な

「聞き書」形式の保持が『卍』の独自性の一つになっている、という解釈を示した。

卒業論文において導き出した結論をまとめると、以下のようになる。まず、『卍』において「語り」と「作者注」の間にある関係には、人間の会話の特性を暗示させるものがあるということが言え、次に『卍』において純粋な「聞き書」形式が保持されているということが言える。

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2014年度卒業論文概要

新潟大学人文学部 日本・アジア言語文化学主専攻プログラム

『古今和歌集』における掛詞の研究

谷澤 亜純

本論では、『古今和歌集』における全掛詞を調査・抽出し、語の承接や和歌内での構造などの言語学的観点から分析することによってそのはたらきを明らかにする。その上で、掛詞の解釈の広がりを見出すことが目的である。

第一章では掛詞の先行研究をまとめた結果、掛詞という技巧の定義が曖昧であることを指摘した。また、現代の注釈書においても定義が曖昧であり、注釈の表現にばらつきがある。表記だけの問題ならまだしも、ある注釈書が掛詞であると認識している語が、別の注釈書では掛詞と認識されていないという場合も多く存在する。こうした掛詞認識のゆれが存在することが明らかになった。

第二章では、『古今和歌集』の注釈書を用いて、本論で分析対象とする掛詞の抽出を行った。本論では『八代集掛詞一覧』(2002年)を参考に、十四冊の注釈書から掛詞を抽出した。ここでは注釈書における掛詞の認識の差に基づき、十冊以上の注釈書が認識している掛詞と、三冊以下の注釈書にのみ認識されている掛詞を抽出し、比較分析を行った。多くの人に認識されている掛詞と、少人数にしか認識されていない掛詞の二つから相違点を見出すことで掛詞の認識に差が生まれる原因を探ることができると考えた。その結果、掛詞は狭義、広義の二つの掛詞構造に分類が可能であること、また、認識の違いとなる要因がこの二種類の掛詞の特徴に関係するということを明らかにした。それは狭義の掛詞「一音声から二語を喚起させる掛詞」であるのに対し、広義の掛詞が「一語から二義を喚起させる掛詞」

であったことである。三章では二章で分類をした二つの構造をも

つ掛詞のうち、実際に『古今和歌集』の中に存在する広義の掛詞をとりあげて、その実態を見てきた。その結果、広義の掛詞の中にも構造が二つ存在することである。一つは一語が二義を喚起させることによって和歌の中で働く広義の掛詞で、もう一つは広義の掛詞より上にある二つの語を受けるために、二回的に働く広義の掛詞である。また、複数の掛詞を内包する和歌に含まれる広義の掛詞は他の掛詞が喚起させた二語を受ける形で一語が二義になるということが明らかになった。以上の結論が明らかになったことで、少人数にしか認識されない広義の掛詞が明確な機能を担っていたことから広義の掛詞は、認識は少ないものの掛詞としてきちんと認識する必要がある。

本論では『古今和歌集』内に存在する掛詞を研究することで、掛詞という技巧の広がりを見出すことが目的であった。二章で明らかとなった狭義・広義の掛詞の二つから、掛詞の認識の差がどのような観点から生まれるのかということを論じてきた。そして認識の少ない広義の掛詞を三章で詳細に分析していくことで、掛詞としての機能を有していることが明らかとなった。

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2014年度卒業論文概要

新潟大学人文学部 日本・アジア言語文化学主専攻プログラム

山形市方言における格についての記述的考察

山口  茜

卒業論文では、山形県山形市方言(以下、山形市方言とする)における格助詞の一つである格助詞バを考察対象とし、その機能や使用可能な条件等を可能な限り詳細に記述することを目指した。

格助詞バは、山形市方言において対格を表す格助詞として位置づけられているが、必ずしも共通語の対格を表す格助詞である「を」と同じ使われ方をしているわけではない。山形市方言の発話においては、希望や好悪、動作の対象を示す格助詞「を」は省略されるのが通常の状態である(山形県方言研究会(1970))。しかし、バは上で挙げたような対象を示す格助詞「を」の代わりとして文に現れるわけではない。山形県方言研究会(1970)において、強調や選択の場合、「を」を省略できない場合に「を」の代わりにバを用いるとされているように、多くの先行研究においてバは前接する名詞を「強調」したい場合に用いられるとされている。卒業論文において格助詞バについて記述する上では、「格助詞バの出現の可否について、「格助詞バの出現の可否について、共通語「を」の用法区分に沿った出現の差やバが前接する名詞による制約等の、何らかの条件があるのではないか」と仮定し考察を行った。バによる強調はどのようなものであるのかをさらに掘り下げ、また強調の場合以外の「選択」の場合や「を」を省略できない場合の用例も参考にし、格助詞バそのものの機能を考察した。

第一章では、バを考察する上での背景知識として、山形市方言を含む山形県方言の特色や山形県方言の格助詞についての先行研究の紹介を簡単に行った。また先行研究を踏まえた上で本稿の目的について確認した。

第二章では、格助詞バの出現の可否に関係すると思われる、前接する名詞の性質の考察を行った。共通語の「を格」をとることができるすべての名詞がバをとることができるというわけではなく、何かしらの制約があるのではないかと仮定した上で考察を行った。結果として、バの出現には音韻的な制約と名詞の性質による制約が存在することが分かった。

第三章では、実際にバ格による強調が起こっている用例を見ていき、バの持つ機能を探った。対格格助詞が省略されているのが常態である山形市方言の発話において、格助詞バは、前接する名詞を当該の文の焦点にさせるという機能を持っていることが分かった。バによる焦点化が行われることによって、当該の名詞の「強調」が引き起こされる。また、バの焦点化機能により「強調」される名詞は、いくつかの候補の中から吟味の過程を経て選び取られたものである、といったある種の「選択」の過程を経ている場合が多いため、山形市方言のバによる「強調」は、「選択」の過程と連続的である側面が強いといえる。