『危険な関係j - osaka city...

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-1- 『危険な関係 J イリュ ージョ ンの誘惑(下) 宣加 西 『危険な関係』を「社交性 (sociabilit めの書J と規定したボードレーノレ の『覚書』の結語をもう一度想起しよう。乙の作品は社交性という複雑な関 係の網によって織りなされている。社会関係をあらわす語としては,十七世 紀に一般的に用いられた commerce がしだいに特殊化されて卑狼な意味に なり,かわって十八世紀に liaisonが用いられるようになる。乙の語も十九 世紀には「性的関係」を意味するようになるが,ラクロの時代にはまだ社会 関係一般をきしていた ω。とはいえ, リベノレティナージュの物語が,人間と 社会の認識の根底に欲望を見出し,く性〉を欲望の特権的対象とした乙とは言 うまでもない(欲望は性欲に限られるわけではないが, I 関係J を意味する commerceliaison の語がともにつぎの世紀に「性的関係」に特殊化され たという事実はなにほどか示唆的であろう )0 W 危険な関係』も少なくとも性 的関係を原点とし,そ乙に繋留されている。 その観点から , 乙の小説におけるセシノレの役割の重要性にふれておく必要 がある。われわれが小説世界に導き入れられるのは,親のきめた結婚をひか えて修道院の学校から社交界に出されようとしているセシノレのぎこちなさと 不安,それと裏腹な期待をったえるたどたどしい手紙によってだが,ここで 早くも読みとれるのは, 乙の未熟な娘の肉体的感応の鋭敏さと ,それを口に する無邪気さである。それはまだ直接には官能の言葉ではないが,以後の急 速な開花を十分に暗示している。そしてこの第一信にきわだった対照をなし て配置された第二信メノレ トゥイ ユの策略の手紙は , 乙のようにし て提示され た肉体をひ とつの賭け金とした復讐ゲームの開始を告げるのである O さらに セシノレは乙の作品のなかでもっとも多くのく関係〉の対象となる存在である。 ヴォ ラン ジュ夫人の盲目的母性愛の , ジェノレク ーノレの将来の結婚の , ダ ンス ニー 騎士の恋愛の , ヴ ァノレモン の誘惑 と凌辱の , そしてメノレ トゥイ ユ夫人の く教育〉 と同性 愛 (54) の対象〈乙 乙で メノレ トゥイユ は「あの娘ほ ど感覚の鋭敏 な子はあり ません J と評 してい る〉 。セシノレは他者の幾重もの欲望が書 き込 ま (239 )

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Page 1: 『危険な関係J - Osaka City Universitydlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd0390501.pdf · (1754) からリベノレタン的小 説におけるイニシエイション物語の「定型」をとりだしている(5)。恋愛術に

-1-

『危険な関係Jイ リュ ージョ ンの誘惑(下)

宣加 幸西

『危険な関係』を「社交性 (sociabilitめの書Jと規定したボードレーノレ

の『覚書』の結語をもう一度想起しよう。乙の作品は社交性という複雑な関

係の網によって織りなされている。社会関係をあらわす語としては,十七世

紀に一般的に用いられた commerceがしだいに特殊化されて卑狼な意味に

なり,かわって十八世紀に liaisonが用いられるようになる。乙の語も十九

世紀には「性的関係」を意味するようになるが,ラクロの時代にはまだ社会

関係一般をきしていたω。とはいえ, リベノレティ ナージュの物語が,人間と

社会の認識の根底に欲望を見出し,く性〉を欲望の特権的対象とした乙とは言

うまでもない(欲望は性欲に限られるわけではないが, I関係Jを意味する

commerceや liaisonの語がともにつぎの世紀に「性的関係」に特殊化され

たという事実はなにほどか示唆的であろう)0W危険な関係』も少なくとも性

的関係を原点とし,そ乙に繋留されている。

その観点から,乙の小説におけるセシノレの役割の重要性にふれておく必要

がある。われわれが小説世界に導き入れられるのは,親のきめた結婚をひか

えて修道院の学校から社交界に出されようとしているセシノレのぎこちなさと

不安,それと裏腹な期待をったえるたどたどしい手紙によってだが,ここで

早くも読みとれるのは,乙の未熟な娘の肉体的感応の鋭敏さと,それを口に

する無邪気さである。それはまだ直接には官能の言葉ではないが,以後の急

速な開花を十分に暗示している。そしてこの第一信にきわだった対照をなし

て配置された第二信メノレ トゥイ ユの策略の手紙は,乙のようにして提示され

た肉体をひとつの賭け金とした復讐ゲームの開始を告げるのであるO さらに

セシノレは乙の作品のなかでもっとも多くのく関係〉の対象となる存在である。

ヴォ ラン ジュ夫人の盲目的母性愛の,ジェノレク ーノレの将来の結婚の,ダンス

ニー騎士の恋愛の,ヴァノレモンの誘惑と凌辱の,そしてメノレ トゥイ ユ夫人の

く教育〉と同性愛(54)の対象〈乙 乙でメノレ トゥイユは「あの娘ほど感覚の鋭敏

な子はあり ませんJと評 している〉。セシノレは他者の幾重もの欲望が書き込ま

(239 )

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- 2ー

-ーー、

れる身体,さらには書簡体のエクリチューノレが刻み込まれる一つの特権的な

場なのである O 乙の感覚論哲学の世紀の代表的なメタファーを借りるなら,

セシノレはコンディヤックの「彫像」になぞらえられるだろう。小説冒頭の手

紙はいわば社交界という「世界」への彫像の「誕生」をつげていたのであるO

彼女はメノレトゥイユから恋愛指南と手紙の書き方の手ほどきを受ける (105)

が,けっきょく官能の開花のみにとどまり,メノレトゥユは彼女の「ほとんど

癒しがたい性格の弱さ」を見抜いて 「快楽機械にすぎない」 として見限る

(106)。 一方ヴァノレモンは自分の凌辱によってセシノレが妊娠した乙とを知っ

て, I将来ジェノレクーノレ家の家長がヴァノレモン家の分家にほかならなくなるJ

ことに期待する(115)。 それはたんなる貴族の血の継承への期待ではなく,

メノレトゥイユがセシノレの 「教育」 に賭けた乙とに照応する, リベノレタンの

く再生産〉への願望であるO だがセシノレは流産し, すべてが閣に葬られる

(140)0 乙うして, セシノレは肉体を超えたリベノレティーヌのレヴェノレに上昇

しえない存在として,メノレトゥイユやヴァノレモンのリベノレティナージュ・シ

ステム自体のく再生産〉の挫折を象徴 しているのであるO

「社交性の書」という規定と書簡体小説という形式を考え合わせるとき,

乙の作品において十九世紀的な「登場人物」の「内在的性格」よりも ω,種

々の関係のありかた,それをつうじて構成される諸主体とその変容,および

諸関係の関係性(布置)を一義的な読解の対象とすべきである O そしてわれ

われは乙の小説の真の結末が, Iたった一つの危険な関係J(175)によるすべ

ての関係の無化であることを知る。だれ一人勝利することなく,ただ手紙の

束といういわば関係の廃嘘だけが残り,それをエクリチューノレのレベルに吸

い上げたところに「作品」が成立する〈330

以下にわれわれは主要人物に限定してその相互関係をとりあげる。その際,

トゥーノレヴェノレーヴァノレモン, ヴァノレモンーメノレトゥイユという, これまで

主として扱ってきた関係のほかに,見逃されがちだが本質的にはより重要な

メノレトゥイユの自己にたいする関係およびメノレトゥイユートゥノレヴェノレの関

係を主題化することで,物語展開の軸となるいわば関係のロンドを描いてみ

たい。さらに留意すべきなのは,これらの「相互関係」がつねにもう一人の

「他者」との関係によって媒介されているということである。関係をうみだし,

関係をつうじて「主体」とそのイリュージョンをうみだすのは言うまでもな

く欲望である。そしてノレネ・ジラーノレがあざやかに示したように,社会的関

係においては,主体と対象を直線的に結ぶようにみえる欲望は,第三者"主

(240 )

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r危険な関係J - 3一

体と対象に同時に光を放射している媒体」ω によって媒介されているのであ

る。われわれがかりに「関係のロンド」と名づけた運動がテクストに見出され

るとすれば,その動因を乙の欲望の媒介性にもとめることができるだろう。

* * *

クロード・レシュレノレは近著『リベノレティナージュの時代』において, ク

レビヨン・フィスの仙女物語 Ah,quel conte! (1754) からリベノレタン的小

説におけるイ ニシエイション物語の「定型」をとりだしている (5)。恋愛術に

たけた仙女が若い王子に恋し,彼の気を引き,仕込もうとする。魔力によっ

て運命的な出会いを仕組み,誘惑に成功する。快楽に満ちた完全な愛の数週

間ののち,幸福に酔い痴れた仙女は,王子を自分に惹きつけるために用いた

策略を漏らしてしまう。王子の愛は醒め,それまで理想の愛人とみなしてい

た仙女を棄てるばかりか, 軽蔑 し,彼女の淫蕩な過去を疑るようになる。男

の心変わりに当然怒りに駆られた仙女は,王子にたいして,近づきがたく,

禁じられ,滑稽な対象(呪いで鷲鳥に変えられた王女〉に熱烈な情熱を抱き,

数々の並はずれた冒険をへて追い求め,その心を射止めねばならないように

仕向ける。著者は乙乙から三つの定型的段階,すなわち, 1)理想化,2)支配

と幻滅, 3)近づきがたい対象の追求,を導きだし,それを用いてクレビヨン

の代表作『乙乙ろの迷い,気の迷い』を分析している。

俗に言う年上の女による青年の性的手ほどき(イニシエイション〉である。

乙の「定型」は,青年ヴァノレモンを単一の主人公にしてはいない『危険な関

係』の物語展開の全体にそのまま当てはまらないにしても,i関係のロンド」

の進行を考えるとき,いくつかの有力な手掛りをあたえてくれる。メノレトゥ

イユはヴァノレモンのトウーノレヴ、ェノレ夫人誘惑の計画を聞いて,即座に乙う返

事している。「あなたが トウーノレヴェノレ法院長夫人をものにするですって !

でも何という滑稽な気紛れでしょう!やはり例のあまのじゃくなのね,とう

てい得られないものしか欲しくないというJ(5)。つまり乙の物語は「定型J

の第三段階から始まるわけである。メノレトゥイユはクレビヨンの仙女のよう

に若者を諦めないが, ヴァノレモンを近づきがたい対象の追求に運命づけた

のはリベノレタン・ヴァノレモンに磨きをかけたメノレトゥイユだと言ってよい。

もはやメノレトゥイユの「奴隷ではなくなった」ヴァノレモンは「征服する乙と

がわれわれの運命ですJ(4)と言つてのけるのである。『危険な関係』が「定

周回,

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(241 )

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型Jからはずれる最大の要因は,前にふれた「呼び戻し」のテーマの存在で

あり,それが物語を直線的でなく,諸関係が同時進行的に絡みあう複雑なも

のにしているのだが,このテーマに即して,物語の過去におしゃられた他の

段階がシャツフノレされたように見え隠れすることも確かめることができo 例

えばヴァノレモンに難物だと評されたりベノレタン・プレヴァンを見事に陥れて

イニシエイターとしての範を示したメノレトゥイユが,みずからを仙女になぞ

らえて自分のく魔力〉を誇示している箇所があるo i私のような女を友だちに

お持ちになるあなたはよほどの果報者ですo 私はあなたに恩恵をもたらす仙

女ですo あなたは心をささげた恋人から遠く離れて焦がれていらっしゃるO

私が一言いうとあなたは恋人のそばヘ行けるのですo 自分に仇なす女に復讐

しようとなされば,私は相手の急所を教えてその女をあなたの自由にしてあ

げますJ(85 MV)。

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さきに, ヴァノレモンのトウーノレヴ、エノレ誘惑の根源にはく女性的なるもの〉か

らの誘惑があり,両者の誘惑関係の相互性,およびそこに介在したメノレトゥ

イユの力を指摘した。ここでもう一度トウーノレヴェノレ夫人のく欲望〉のありか

たを考えてみよう。信心深い女にとって,神と美徳への献身とはじつは欲望

対象の遠隔化による欲望の隠、蔽にほかならないo メノレトゥイユは議からトウ

ーノレヴェノレ夫人に関して,心底からの貞女からは何の快楽も期待できない,

「全面的な自己放棄,快楽がその過剰によって浄化されるまでの官能の錯乱,

乙うした愛のめぐみはそういう女のには分からなしリとヴァノレモンに忠告す

る(5)0 それはメノレトゥイユ自身が自覚的に放棄したものでもあるO そして il 9'7院 Y

4 読者はまさにそれこそヴァノレモンに陥落したあとトウーノレヴェノレ夫人が体験

することになるものだということを知っているO このメノレトゥイユの言葉に

よって作者はすでに物語の伏線をはると同時に,メノレトゥイユの知的洞察力

の抜かり,そこから逸脱するものの所在を暗示しているのだ。

むろんヴァノレモンにはなおさらこの結果を予期できょうはずはない。だが

彼はみずからが捉えられたイリュージョンのなかでこそ,ほとんど直感的に

トウーノレヴェノレ夫人の不在の対象への情熱を見抜いているo i自分の夫にま

で情愛をおよぼし,つねに不在の存在をつねに愛するには,どれほど驚くべ

き情愛が必要でしょうか(6)J (6)。 乙の信心深い女にとそ「あなたを崇めま

す」という言葉を吐かせるに値する。ヴァルモンはそこで「私が真に彼女の

選ぶ神になろう」と決意するo 不在の対象に向けられる情熱は,かえって隠

(242 )

可6

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r危険な関係J - 5ー

蔽された欲望の強度を物語る。ヴァノレモンの誘惑(==道を逸脱させる)戦術

の巧妙さは, トウーノレヴェノレ夫人の情熱の方向を逸らすのではなく,それが

向かう線上に立ちはだかることにある。ジラーノレの理論によれば,欲望の媒

介には,媒体と主体が接触しえない距離にある外的媒介と,距離が縮まって

接触しうる内的媒介の二種類がある。ヴァノレモンの戦術は, トゥーノレヴェノレ

夫人の神への欲望を媒介する線上で内的媒体のぎりぎりの範囲内で変幻自在

の距離をとることにあると言える。それが成功したとき, 彼は夫人の欲望

の媒体である乙とによって同時に欲望の対象になりおおせる乙とができるの

だ。そしてそれは,ヴァノレモンを過去の放蕩から放心させ,正道に引き戻し

てあげたいという夫人のく口実)(無意識の自己欺踊)とぴったり合致する。こ

れを利用するためにヴァノレモンが貧しい村に出かけて施しをする偽善のエピ

ソードはま乙とに示唆的である。一人の若い農夫の言葉でその家族が「乙の

ー、

.

生き神様 (imagede Dieu)Jの足元にひれ伏すo I私は自分の弱さを告白し

ます。目は涙に曇り ,内心に,思いもかけない,けれど甘美な動揺を覚えたの

で、すo 私は善行を施したときにひとが感じる快楽に驚きましたJ(21 VM)。

乙のヴァノレモンの感情の自発性に彼の「本質的Jな善良さを読みとるだけで

は無邪気にすぎる。乙れは第ーに,乙のリベソレタンが一方で「感受性」流行

の同時代人でもあることを示している。そのことがメノレトゥイユの意志的な

自己統御に比して,彼の「弱さ」となり,のちにトゥーノレヴェノレ夫人とメノレ

トゥイユとのあいだで両義的な揺れにつながっていく。もう一つは,偽善行

為のなかにさえ感情を同化させうるところに見られるような,神を模倣する

ヴァノレモンのく悪魔的〉な同化能力であり,それはむしろ誘惑者としてのメリ

ットなる。じつのところトゥーヴェノレ誘惑の成功にはこの両面が不可欠なの

である。

乙の「外的媒体Jを模倣する「内的媒体Jとしての誘惑者に見据えられた

とき,逃げようとする意志そのものが,震に陥ることを意味する。その畏は

身体と言語の二重のレベノレで仕掛けられる。すなわち, 視線と手紙。「目を

上げるとかならずあなたの自に出会います。たえず視線をそらさねばなりま

せん。しかも何ともちぐはぐなことに,私が自分自身からさえ目をそらせた

いときに,あなたは一座の視線を私にお集'めになるのですJ(78 TV)。そし

てこの手紙も含めて,彼女はヴァノレモンの言い寄りを拒絶するために幾重も

の弁明の手紙を積み重ねる。またヴァノレモンからの手紙も,のちの告自によ

れば, I封は聞きませんでした。でも私はそれらを見つめながら泣いていた

( 243)

寸.

-

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ー画-

-6-

のですJ(114 TR)o 交わす視線とそらす視線,そして開封できず, しかも

視線をそらすこともできずにその上に涙のあとを印すフェティッシュとして

の手紙。ここには身体と言語のメトニックな相互転換,その二重の毘がみど

とにあらわれている。あげくのはてにトウーノレヴェノレ夫人は陥落す前にパリ

ヘ逃亡する (100 VM)o だがその乙とによって彼女はく距離を置く〉という

危険に陥ったのである O 対象が不在である乙とで,かえってイリュージョン

は増殖するo 何のことはない,彼女はあまりに近づきすぎてもはや振り払う

乙とのできなくなっている欲望対象を,もう一度神にむかう方向に押しゃっ

たのだ。彼女はこの突然の出立の理由を邸の女主人ローズモンド夫人に打ち

明けるo r私は愛しております,そうです,身も世もなく愛しているのです。

(j'aime, oui, j'aime eperdument.)j (102 TR)o 欲望対象の名を口にで

きないがゆえに目的語を欠いた他動詞のく絶対〉用法が,かえって彼女の愛に

禁忌の強さに釣り合うだけの絶対性を付与するのだ。 トウーノレヴ、エノレがもは

や抵抗するすべての力を失ったと言って,はじめて積極的に愛を告白するこ

の手紙は,それゆえ一転して感動的な力強さを帯びる。 rどうしてその方を

お慕い申さずにいられましょう,その方には生命以上のものを負うているの

です。Jヴァノレモンがそうとは知らず彼女の逃亡を口汚く罵っているとき,

彼はまさに神になる ζ とに成功したの t~"o いや, トウーノレヴェノレ夫人のほう

が神を選び,そ乙から彼自身の知らない力,すなわちくイリュージョンの力〉

を得ていると言うほうが正確であろう。ローズモンド夫人は慧眼にも見抜い

ている。「そ乙まで行ってしまった場合, いつまでも離れていることは難し

いものですO 胸の思いがたえず私たちをその人に近づけるからです」と。そ

してこう助言する。 r人間の知恵ではできない乙とでも神の御心にかなえば

恩寵がそれをなしとげて下さいますo (…) 今日はお持ちにならない力も明

日は授かる乙とを期待なさいましj(103 RT)。 だがこのジャンセニスト的

なく隠れた神〉にかわって, トゥーノレヴェル夫人はすでに新しい神のイリュー

ジョンを造りだしてしまっている。

「女性のために復讐し男性を征服するために生まれたj(81) と自認する

メノレトゥイユは自分以外の女を冷静な目で類型的に分類することに長けてい

る。手紙81(MV) では,く現役〉の女を二つのタイプに分けているoそれは

「有頂天になる,いわゆる感情の女 femmesa delire, et qui se disent a

sentimentsjと, i活動的な有閑夫人, 殿がたのいう感じやすい女 femmes

( 244)

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『危険な関係J - 7 -

actives dans leur oisivete, que vous nommez sensiblesJである。乙 乙

でラクロはメノレ トゥイ ユの口を借りて同時代の社交界の女性風俗を流行語に

よって描き分けている。前者が世紀後半のく感受性の時代>~ζ表象されたいわ

ばプレロマン主義的タイプ (asentiments は1769年のスタ ーンの翻訳から

フランス語に導入された sentimental という形容詞と同義)だとすれば,

後者は乙の世紀に対する一般的イメージにあらわれる軽銚浮薄なロ ココ的タ

イプといってよい。だが乙乙での問題は類型ではなし、。メノレトゥイ ユは,後

者は「恋lζ恋する」類だと言い,それにたいして,前者については乙う続け

る。「その激しい想像力をみていると, 自然が彼女たち頭のなかに感覚をそ

なえさせたと思わせる。反省というものをした乙とがなく ,たえず恋と恋人

を混同し,狂ったイリュージョンのなかで,自分がいっしょになって快楽を

求めた男だけが恋の一手販売人と信じ,まったくの迷信家で神のみに捧げる

べき尊敬と信仰を,司祭にたいして抱いている。」 まさに乙乙でメノレト ゥイ

ユは,まだそうとは知らずに,われわれが分析してきたようなトゥ ーノレヴェ

ノレ夫人の欲望のありかたを正確に見抜いている。その乙とを,さきに引用し

た手紙 6における洞察とともに銘記してお乙う。

手紙81においてメノレトゥイユは,ヴァノレモンのリベノレタンとしての取り柄

が, 美貌,優雅之才気,強引さといった,天性と習慣がもたらした武器で

しかないのに対し,もともと不利な勝負をする友性のほうが慎重さや絞智に

おいては優っており,さらに彼女自身は彼を「千倍も凌駕している」と自負

し,そのよってきたる所以を解き明かすO 作中随一の長大な乙の手紙は一般

に「自伝的書簡Jと呼ばれるように,メノレトゥイユが乙の作品においてただ

ひとり,自己への関係、を認識し, しかも自伝というエクリチュールをもった

人物である乙とを示している。 r私は自分の主義と言いました。わざとそ

う言ったのです。それは他の友たちの主義のように偶然にあたえられ, n今

味もせずに受け入れ,習慣的lζ従っているものではありません。深い内省

(refiexions)の果実なのです。私がそれを創造したのであり,私とは私の作

品であると私は言えます (jepuis dire que je suis mon ouvrage)J。既成

のコードに従うのでなく ,みずから コードを創出する自由な主体の自己形成。

乙の手紙に関して「エロス化された『方法序説~J という評言があり〈8〉 , ま

たカントを持ち出したものもある (9)。たしかに,メノレ トゥイユの自己凝祝と

自己に対する労働による自己統御は,すでに経験的 ・紐越的二重体としての

カント的主体(=あたらしい主観性〉の誕生を告げているといって過言では

(245 )

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-

- 8ー

ない。だが,引用の最後はそれにとどまらず,対象としての自己 (jesuis) ,

操作主体としての自己 (monouvrage),および言表主体としての自己 (je

puis dire)の三重体になっていることに注意せねばならなし'¥0 つまり自己へ

の折り重なりケeflexions)が二重になっているのだ。〈メノレトゥイユ自身,

「作者の才知と役者の腕Jを修業によって身につけたことを誇っている〉。一

般に自伝には自己にたいする誠実の願望と, (意識的・無意識的たるを問わ

ず)他者にたいする自己演出の側面が混在する O だがメノレトゥイえの手紙に

おいて特徴的なのは,語られる自己,すなわち操作主体としての自己が,も

っぱら対象としての自己を隠し偽る乙とのみを本領としており,それゆえ通

常の自伝とは逆に絶対に公表しえないといういわば倒錯した自伝であるため

に,逆説的に,語る自己に純粋な誠実さが可能となることであるo

クロード・レシュレノレにつぎのような興味深い指摘があるo リベノレティナ

ージュ小説を特徴づ、けるのは, 女性の謎(アイデンティテ ィ,身元), その

内面の追求であるo その点に関して,小説は女の秘密を探究する男の語り

手の物語と,自己意識の獲得過程を語る女の語り手の物語の二系列に分たれ

るo 前者では,対象との距離は埋め難く,謎は厚みを増していき,結局他者

は見失われ,自らの他者性のみが残り,欲望は究極的に一つのく知〉を構成す

るに至らない。しかしエクリチューと言語は彼に別の認識をもたらすo すな

わち,欠落した表象に彼が付与する意味によってとらえられる,自己自身の

イマジネーノレの認識であるo 乙れに対して,女性を語り手とする回想録のエ

クリチューノレは,女性の自己との距離,自己の内面の謎を征服し,その語り

の透明性が獲得された人格の透明性を表現するo それは自己開示の手段とし

ての言語への全面的な信頼を証し,語ることと存在することが自己発見の企

てのなかで合致しえている (10)。

だが『危険な関係』がほかのリベルティナージュ小説と一線を画するの

は,乙の自伝的書簡が物語の到達点ではないという点であるo 手紙81はちょ

うど作品の中聞に置かれており,その長大さと透徹した分析によって頂点を

なすが,頂点は同時に物語が転回する分水嶺にほかならないのであるo

ヴァノレモンとメノレトゥイユの関係に話を進めよう。メタ・レベルのコミュ

ニケーションとして機能する二人の関係は,メノレトゥイユの呼び戻しの誘い

にもかかわらず,作中では文通に限られ,差し向かいの対話は作者によって

意図的に避けられているo 唯一の会見はダンスニーとメノレトゥイユの差し向

かいの場に来合わせたとき (151VM) だが,乙の出会い乙そ,ヴアルモン

(246 )

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を排除するメノレトゥイユの斜めの視線によって,まっしぐらに二人の離反,

訣別,そして双方の破滅へと向かう契機となる。ヴアノレモンとトウーノレヴェ

ノレ夫人,ダンスニーとセ、ンノレ,ダンスニーと メノレトゥイユの場合はそれぞれ

文通と差し向かいが交錯し,それが関係、の種々相(接近,離別,逃亡,再接

近など)を仕組む。『危険な関係』において文通は両義的な機能をもってい

る。一方でコミュ ニケーションの維持(たとえばヴァノレモンのトウーノレヴェ

ノレ夫人とメノレトゥイユ双方にたいする戦術)であると同時に,距離の維持(メ

ノレトゥイユがヴァノレモンにたいして仕掛ける戦術)である。それゆえ,文通

は接触と乗離の二つの可能性の不安定なバランスのうえに立っていると言え

る。乙の点でヴァノレモンを聞にはさんで, トゥーノレヴェノレ夫人とメノレトゥイ

ユは対照的な経過を辿る。前者はコミュニケーションを避けようとして畏に

はまり, I接触jへと転落する。後者は距離を維持しようとして, あげくの

果てに乗離へと走る。

自尊心を本質とするリベノレタン同士にはもともと平等な相互関係は成り立

たない。しかしリベノレタン(男)とリベノレティーヌ〈女)の関係には社会的

条件からくる非対称性があるo I危険のない闘いをするのですから(…)あな

たがた男にとって,失敗は成功の数が減ったというだけです。乙れほど不平

等な乙の勝負では,私たちの幸運は負けないこと,あなたがたの不運は勝た

ない乙とですJ(81 MV)。 男のリベノレタンはなかば社会の公認のなかにあ

り,彼の自尊心は世間の評判によって満たされうる。それだけではない。リ

ベノレタンにとっては誘惑が困難な相手,すなわち美徳の誉れ高い女ほど価値

ある対象である。それだけ犠牲者を破滅させたときの功績が大きいからであ

る。しかし乙乙に男のリベノレタンの逆説が生じる。つまり彼が犠牲者を社会

的に葬る手段は,相手が自分に陥落した証拠の手紙を公表する乙とによって,

つまり社会道徳〈世間の限)に委ねる乙とによってである。リベノレタンは出

発点では公認の社会道徳を冒潰しながら,最終的には目的達成のために社会

の公認された価値としての美徳の手を借りざるをえず,それよって秩序の維

持に手を貸してしまうのである(11)。 ヴァノレモンの決闘による死は象徴的で

ある。彼はまさしくこの時代の秩序どころか,幻想の彼方のさらに堅固な秩

序としての騎士道に殉じるのである。それに対してリベノレティ ーヌは徹底的

に反社会的存在を余儀なくされるため,よりラディカノレであるといえる。結

末において二人のリベノレタンの反時代性は正反対の方向を指している。

ヴァノレモンーメノレトゥイユの文通関係において,前者は後者ほど相手を必

(247 )

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-10 -

要としなし、。彼の欲望は,先生に認められたい生徒のナノレシシックな欲望に

ほかならなし"'0メノレトゥイユの沈黙や留保を前にして,彼は躍起に説得しよ

うと言い募るが,ますます相手の反撃と瑚弄を招く。ヴァノレモンのナノレシシ

スムを特徴づけるのは自分の手紙からの引用の多さだが,前に分析したよう

に,メノレトゥイユのほうではヴァノレモン自身のうかつな言葉を引用するとい

うかたちで鏡をつきつけて,彼のナノレシシスムを傷つける(手紙134など)。

ヴァノレモンがもっとも憤るのはメノレトゥイユから生徒扱いされたときである

(151, etc.) のに対して,メノレトゥイユがもっとも敏感に反応するのは「奴

隷」という言葉である (10,81,127,141,152, etc.)o (ヴァノレモンのほうは

「私があなたの奴隷でなくなった乙とを悔やむのは今に始まった乙とではあ

りませんJ(4)と軽く言う。男にとってく恋の奴隷〉である乙とはギャラント

リにすぎない〉。 ヴァノレモンがメノレトゥイユへの依存から脱しようともがく

のとは別のと乙ろで,メノレトゥイユのほうがリベノレティーヌの本質において

より一層ヴァノレモンに依存しているO 作者であり役者である孤独なリベノレテ

ィーヌの劇場にとって,ヴァノレモンだけが唯一の観客であり批評家なのだ。

さらに言えば,彼女の危険な「自伝」の唯一の読者でもあるO 彼女のヴァノレ

モンに対する超然たる態度は承認(喝采〉をもとめる欲望と裏腹であり,そ

れは作家の批評家に対する両義的な態度にほかならなし、。ヴァノレモンがナノレ

シシスムに生きているとすれば,メノレトゥイユの自己意識(==主観性)はま

さしくヴァノレモンという他者を媒介とする主と奴の弁証法を生きるO それが

両者の非対称な,噛み合わない相互依存を形成している。

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メノレトゥイユは手紙81において「けっして手紙を書かず,男に降伏した証

拠をけっして渡さない」乙とを提としていることを語っている。だがメノレト

ゥイユの破滅をもたらすのは,降伏の証拠となる手紙よりもさらに悪い乙の

詳細きわまるく自伝的〉手紙なのであるO 乙の手紙が最後に暴露されるまで

は,メノレトゥイユは他の登場人物のだれからもその内面を観察されない唯一

の人物であるO 彼女だけがみずからの社会的人格〈ペノレソナ〉と内的存在の

分裂を自覚的にっくりだし,その緊張の強度を生きている。逆に言えば,彼

女にとっては秘密の露見はいかなるものでも破滅のきっかけになりうるのだ

が,些細な破綻なら糊塗できる才覚は十分にもっている。乙の小説の結末では

恋愛/誘惑関係にあったすべての登場人物がなんらかのかたちで破滅もしく

は挫折するが, じつは真に破滅したと言えるのはメノレトゥイユのみであるo

(248 )

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その理由を登場人物の心理的ないし道徳的原因のみに求めるならば,そ こか

らは相対的な差異しか出て乙ないはずである。メノレ トゥイ ユの完髪な破滅を

理解するためには,書簡によるコミュニケーションで構成される小説世界の

構造そのものを見る必要がある。 ジャン ・ノレ ッセは, 乙の小説を手紙の性

質によって二つの陣営に分けている。一方はリベノレタンたちの「目的計算の

陣営」であり, 他方はセシノレ, ダンスニー, トゥーノレヴェノレ夫人の属する

「感情の直接性の陣営」である (11)。 しかし乙の二分法は,誘惑者と犠牲者

という二分法の焼き直しであり,同じ単純さを共有している。 トゥーノレヴェ

ノレ夫人ですら,かならずしも感情の直接性の陣営に帰属させられない乙とは

すでに見たとおりだが,セシノレとダンスニーの場合は別の問題があるO 彼ら

は手紙の書き方を知らないのだ。だから乙そく教育〉の必要がある。セシノレは

メノレ トゥイユから「思っている乙とをみんな言って,恩わない 乙とは何も言

わない」子供っぽさを諭され, I自分の考えている乙とを言うより,なるべ

く相手を喜ばせる乙とを書く ように」と教えられる (105)。 ダンスニーは逆

にメノレトゥイ ユに「手紙は魂の肖像でありj,Iすべての感情を容れる乙とが

できるJと反論する (150)。 つまり二人はそれぞれの「陣営」への手前にあ

ると言ってよい。ただし,ノレッセの指摘どおり, トゥーノレヴェノレ夫人,セ シ

ノレ,ダンス ニーが手紙のなかで真の気持ちを伝えるのは,彼ら自身の気づか

ないやりかたによってであり ,自分が考えていると思っている以上の乙とを

言わせる感情の衝動がはたらくのである。それゆえ,両陣営の手紙はいづれ

も二重性をもち, しかもそれが対称的な構造をなしている。

目的計算の陣営 感情の直接性の陣営

裏の真意、 f持制ル白川附→虚偽の表面 / 表層マかし h 働脱、→深層

乙の矢印の起点から終点まで〈言い換えればメタ レベ、ノレから深層レベルまで〉

を完全に掌握しているのはメノレトゥイ ユただ一人である。彼女がヴァノレモン

のトウーノレヴェノレ夫人誘惑の手紙を批判する箇所(33)にはその乙とが見事に

示されている。ヴァノレモンの恋文は「整然と書かれているからかえって一句

どとに尻尾を出しているj,I色恋沙汰では感じてもいないことを書く乙とほ

ど難しいことはないのです。乙乙で,書くというのは本当らしく書く乙とで

す。j (ヴァ ノレモンが乙の忠告に従って「できるだけ支離滅裂に書く J(70)の

( 249)

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はもうす乙し後になってからである〉。 乙のようにメノレトゥイユにとっては

ζの書簡的コミュニケーションが織りなす世界は自らの意志で左右できると

いう意味で,ほとんど「内部世界Jと言ってもよい。それゆえ,彼女の真の

破滅はとの内部世界が破綻し,さらに内と外が反転してしまうととである。

結末で彼女の全身に吹き出る悪性の天然痘は,たんなる勧善懲悪の一手段に

とどまらない暗喰的な意味をもっている。 i癒り乙そしましたが,顔の相が

恐ろしく変わり,乙とに目を一つ失いました。(…)**侯爵などは,病気が

あの人を裏返しにした,今では心が顔に出ている,と申されましたJ(175

VgR)。それが「自分の回を思いのままに動かしJ, i顔の表情を統御J(81)

しえたメノレトゥイユの破滅,というよりは文字どおりく崩壊〉を物語るO そし

て彼女の懲罰は「いつまでも他者の視線という地獄に生き続ける乙とを宣告

されたJ(13)という事実にある。

だが彼女のく崩壊〉は彼女自身の「主義jの本質的な矛盾からくる必然的な

自壊だろうか。フェミニストならずとも, w危険な関係』の誠実な読者であ

れば,メノレトゥイユ夫人にたいして「もっともよく戦ったものがもっとも深

く敗北する」という感慨を禁じえないのではないだろうか。敗北の真の原因

が『女性論』で述べられたような「社会状態Ji両性の不断の戦争状態」に

ある乙とは暗黙の前提であるとしても,乙乙では小説そのもののディナミー

クをたどるほうが重要である。それではこの破滅はヴァノレモンとの危険なリ

ベノレタン同盟に起因するものだろうか。たしかにメノレトゥイユとヴァノレモン

のリベノレタンたちの共犯関係が矛盾をはらんでいる乙とは事実である。だが

乙の小説を多くの論者のようにリベノレティナ一行の本来的矛盾子子子必然

的自壊を描いていると考えるなら〈14〉, それは関係というものを固定的にと

らえるという矛盾をおかす乙とになる。われわれが関係のロンドという視点

を導入したのは,小説のダイナミズムを重視し,関係の破綻がそれ自体の内

部からではなく,く他〉の関係,く外〉の関係,すなわち関係の関係性からもた

らされると考えるからである(結末の天然痘というく偶然〉は,それ乙そ戯画

的な外部の導入による仕上げという古典的小説作法のパロディーでもある)0

書簡体小説においては読者は手紙の直接の名宛人ではないo 形式的には編

集された書簡集の読者であり,実際は書簡体「小説」の読者である。それゆ

え一般論として読者は各書簡の内容の真偽,書簡の作用力,配列の効果とい

ったテクストのメタ情報をも知りうる立場にある。

(250 )

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ところで,ついにトゥーノレヴェノレ夫人を手にいれたヴァノレモンの高揚した

勝利の報告で始まる第四部は,乙の冒頭から連続21通 (L. 125--., 145) がヴ

ァノレモンとメノレ トゥイユ問, トゥーノレヴェノレ夫人とローズモンド夫人閣の往

復主的のみで構成されている。わけでもはじめの 9通はつぎに示すように,

それぞれの往復書簡が偶数番と奇数悉に振り分けられでほぼ完全な対称性を

もって配置されている。 125V→M,126R→T, 127M→V, 128T→ R,

129V→M, 130R→T, 131M→V, 132T→ R, 133V→M, 134M→ V,

135T→ R。 乙の作品における書簡配列の技巧についてはつとに論じられて

きたと乙ろだから,乙乙でのあまりに整然とした配列が偶然であると考える

のはおよそ不可能である。われわれは乙の配列から,各登場人物たちの思惑

~Etl をこえた,作品 レベルでのメナtJI1報を読み取る乙とができるはずである。

との鐙然たる配列が乱れだすのは, トゥーノレヴェノレ夫人が「オペラの終演

同駄! 後に」娼婦エミリーと述れだったウ。アノレモンを目撃して絶望するときからで

ある (135)。 じっさいわれわれはそれまであたかもオペラの四重唱のような

ものを聴いていたのではないか。オペラの舞台では時として二組のカップノレ

が互いに独立して, それぞれの二重唱をうたう場面が見られる。乙の二組の

聞には直接の コミュニケーションはない。しかしこの「平行二重唱」とも い

うべきものは,同 じ旋律にのって歌われる。そのとき,二組の歌唱はそれぞ

れ異なった内容でありながら,微妙に浸透しあい, しだいにひとつのハーモ

TJ| ニックな世界を形成していくのである。われわれが作品レベノレでのメタ情報

ぷ引 と述べたものは,乙 うした事態にほかならなし、。

乙の四重唱の主旋律は トウーノレヴェノレ夫人によってもっとも力強く歌われ

る恋の幸福の主題である。乙のとき トウーノレヴェノレ夫人ははじめて強い誘惑

の力を放射する。そして,乙の力がもっ とも効果的に届くのは,それまで一

方的に彼女を観察し,見くびっていたためにかえって彼女にたいしてもっと

も無防備であったメノレト ゥイユ夫人なのであ る。

メノレ トゥイユ夫人は手紙81において, 夫との結婚で自分が「多感 sensiblej

であ る乙とを見出し, それゆえかえって「冷たさ froideurjを装った乙 と,

そして経験をつんだ結果 「快楽の原因 といって褒めそやされている愛は,た

かだか快楽の口実にすぎない」乙とを確信したと語り,べつの手紙では 「恋

とか幸福とかのすべからく余計な言葉 (tousles mots parasites)j(85 MV)

と言っていた。 四重唱の磁場のなかで乙 の「確信」がどのように微妙に変質

するかを見る 乙とができる。

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(251 )

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-14 -

手紙130RT: i男は自分の感じる幸福を楽しみ,女は自分の与える幸福を楽しみ

ます。〈…〉男の快楽は欲望を満たす乙と,女の快楽はとくに欲望を起こさせる乙と

にありますJi恋愛の特徴である独占欲は, 男の場合は快楽を増すのに役立つより

好みにすぎませんが〈…),女の場合は深い感情で,乙れはほかのあらゆる欲望を滅

ぼすばかりか,自然、よりも強く,その支配を受けないために,快楽が生じるはずの

まさにそのときに不快と嫌悪しか感じさせないのですJi恋は, 完全な幸福などと

いう途方もない観念で必ずわれわれの想像力をたぶらかさずにはおきません。J、

手紙131MV: i快楽はたしかに両性結合の唯一の動機にはちがいありませんが,

双方の関係を結ぶには足りません。また快楽に先立つものは双方を惹きつける欲望

ですが,後にはやはり相手を退ける嫌悪が続くく…〉。それが自然、の法則であり,そ

れを変えうるのは恋愛だけです。ととろで恋愛は望んだときに得られるでしょうか。

でも恋愛はいつでも必要です。〈…〉幸いなととに恋愛は一方だけにあれば十分なの

です。〈…〉実際,一方は愛する幸福を楽しみ,他方は相手を喜ばせる幸福を楽しむ。

とちらの幸福は力の弱いものですが,私のように相手を騎す楽しみを加えると釣り

合いがとれるのですJ

-

すでに『女性論』に見た(15) 同じ主題をめぐって,恋愛から出発して幸福

についての悲観的な認識に到達するローズモンド夫人の世間智と,快楽から

出発して幸福の算術的認識を語るメノレトゥイユの絞智が,みごとK交差し,

その瞬間共鳴しあう。そして,同じ手紙の最後にメノレトゥイユはふいに「私

たちが愛しあっていた頃(だってあれはたしかに恋だったと思うのです)私

は幸福でしたo あなたはどうだったの ?Jと漏らし,すぐに「でも戻りえな

い幸福をいまさら思って何になるでしょう。いいえ,どうおっしやろうとそ

れが戻ってくるととは不可能なのです (c'est un retour impossible.) J と

言い切る O あの「呼び戻し」の主動機が一瞬明確なかたちをとり ,振り払う

ようにして打消される。

つぎのトウーノレヴェノレ夫人の手紙(132)で彼女はローズモンド夫人に答え

て言う o Iああもしこれが幻 (il1usion)なら,それが果てるまでに死ねばよ

いのです。」メノレトゥイユの 「不可能な回帰」に, トウーノレヴェノレ夫人の断

ち切られた未来が照応する O ヴァノレモンが「夫人に働きかけるのに,彼女を

幸福に,完全に幸福にすることが必要なら,どうして私がそれを拒みましょ

うJ(133) と書くのにたいして, メノレトゥイユは彼の急所を衝く o Iあなた

をトウーノレヴェノレ夫人につなぎとめている感情について, 本当に思い違い

(illusion)をなさっているのかしらo それこそ恋,さもなくば恋など存在し

(252 )

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『危険な関係J - 15ー

ません。」そして,そのあとで乙うつけ加える。「まるであなたは,ほかの女

を一度も幸福に,完全に幸福にした乙とがないみたいではありませんか。そ

れをお疑いなら,よほど覚えがお悪いのです。」 不可能な回帰はメノレトゥイ

ユにひそかな嫉妬を生じさせるのである。『女性論』において美と愛と嫉妬

が「三つのイリュージョンJとされている乙とを想起しよう。愛をイリュ ー

ジョンとして拒否していたメノレトゥイユが,過去のヴァノレモンとの関係に恋

を見,さ らにそれが失われた乙とから,もう一つのイリュ ージョンの畏には

まる。彼女は二重のイリュージョンにとらわれるという最悪の事態に陥 って

いるのt:'o

メノレ トゥイ ユは巧妙な手段を用いて復讐を企てる。白分の知り合いのある

男が,つれない女と手を切ろうとして切れないのを見かねて,その女ともだ

ちが手本に送ってやったと称する手紙 (1それは私のせいではない」 という

ノレフランをもっ小唄ふうの手紙〉を引用してヴァノレモンに送りつけるのであ

る(141)。しかし乙の「引用」はじつは彼女の創作であり ,逆に言えば,1引

用」の名手メノレトゥイ ユにとって,それは真の起源をもたない引用であるO

ヴァノレモンはそれを「いともあっさりと写して,いともあっさ りとJトウー

ノレヴェノレ夫人に送ってしまう (142)。 受け取った夫人は「幸福の幻が描かれ

ていたヴェーノレが破れた」ことに絶望する (143)。メ ノレトゥイユは自分の存

在を完全に隠して, しかも直接に(ヴァノレモンの手を素通りして) 1トウー

ノレヴェノレ夫人を殺したJ(ボードレーノレ『覚書j])のである。この成功につい

てメノレトゥイユはヴァノレモンに「あの女に勝ったのではなく,あなたに勝っ

たのですJと言いながら, 1女がほかの女の心臓を刺すときにはめったに急

所をはずす乙とはない(…)。私があの女を刺したとき,というよ りあなたの

切っ先に手をそえたとき,私はあの女が私のライヴァノレであること,あなた

がしばらくでもあの女を私より好ましいと思い,私をあの女より下に置いた

乙とを忘れませんでした。私の復讐が見当違いだった ら,その罪を着る乙と

に同意しますJとつけくわえる (145)。

ジラ ーノレの理論に従えば,メノレト ゥイ ユのヴァノレモンにたいする欲望は ト

ウーノレヴェノレ夫人というライヴァノレによって媒介されている。しかしメノレト

ゥイユがヴァノレモンをライヴァノレとしたという観点からは,もうひとつの三

角形が見えるはずである。すなわち,ヴァノレモンを媒体とするメノレトゥイユ

のトウーノレヴェノレ夫人にたいする欲望の構図が。乙の欲望はさしあたって嫉

妬と呼びうる。だが,いったい何にたいする嫉妬なのか。それはトウーノレヴ

( 253)

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- 16-

ェノレ夫人のなかの「火性的なるもの (フェミニテ)J にたいする嫉妬だとい

ってよい。「友性のために復讐するべく生まれたJ(81)メノレトゥイユがみず

から「着る乙とに同意する罪Jとは,乙のフェミニテにたいする破壊であり,

彼女がうける「罰Jもまた天然痘による醜貌という,みずからのフェミニテ

の破域にほかならない。

錯乱のなかで書かれたトゥーノレヴェノレ夫人の最後の感動的な手紙(161)は

「いろいろなひとに宛てて書かれているため,けっきょくは誰に宛てたもの

でもなくなってJいる (160VgR)。多重の宛先をもつことで,宛先のない

手紙。それはメノレトゥイユの「起源、なき引用」の手紙によって予告された,

書簡体の秩序にたいする根本的な侵犯を完成するo 起源のあいまいさと宛先

のあいまいさが,発信と受信の確定性によって支えられる書簡の制度を対際

的な二つの方向から撹乱しにやってくるo それは同時に「女性的なるもの」

をめぐってメタ・レベソレに立つメノレトゥイユと深層レベノレにあるトウーノレヴ

ェル夫人との見えざる関係をも撹乱するのである。 iもしも女性的なものが

不確定の原理であるとすれば,それは女性的なものの運動という,女性的な

ものが最も不確実になる乙とについてそれ自体が不確実になると乙ろにおい

てであるJ(ボードリヤーノレ)(16) 0

「なるほど乙れで悪人たちは罰せられました。しかし彼らの不幸な犠牲者

たちのためには,そこに何の慰めも見出す乙とはできませんJ(175 VgR)。

だれひとり勝利するものはいない。小説をしめくくる手紙が,登場人物のう

ちでもっとも盲目のヴォランジュ夫人のものであることは, i悪人たち」を

罰した社会そのものの脆弱さを逆説的に物語り,結末に両義性をあたえてい

る。あたかも作品はみずからを閉ざそうとして閉ざしきれないでいるかのよ

うである。

(1) Michel Delon, P. -A. Choderlos de Laclos: Les Liaisons dangereuses, (P. U. F.

1986), p.31.

(2) ロラン・パノレトは rS/ZJにおいて,十九世紀小説の登場人物に関しでもとう

述べている。「作中人物を抹殺するととも,作中人物を紙の外に出して,心理的人物

〈…〉にするととも,同様に間違っている。すなわち,作中人物とディスクールは互

いに共犯者なのだ。Ji人格は意味素の集積でしかない。J(沢崎浩平訳,みすず書房,

211&225ページ〉。

( 254)

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(3) Cf. T. Todorov, Litterature et signification, 1967.邦訳『小説の記号学J(大

修館)65~75ページ。

(4) ノレネ・ジラーノレ f欲望の現象学J(法政大学出版) 2ページ。

(5) Claude Reichler, L' Age libeγtin, (Ed. de Minuit, 1987), pp. 45-46.

(6) <Quelle針onnantesensibilite ne faut-i1 pas avoir pour la I・epandrejusqu'a

son mari, et ρour ai mer tou jouγs un etre toujours absent? >伊吹武彦訳ではイ

タリック部分が「留守がちの人をいつも変わらず愛する」となっているが,それだ

と同じ対象(夫〉のととを二度繰り返しているととになる。だがととは直前の「彼

女は貞女で信心家ですJを受けているので,乙の部分は神を指しているととるべき

である。

(7) 周知のどとく,ジラーノレは後年乙の外的媒介をキリストに見出し,カトリシズム

への』局依をあらわにする。

(8) Henri Duranton, <Les L. D. ou le miroir ennemi>, Revue des Sciences

humaines, 153, 1974, p. 134.

(9) Peter Nagy, Libeγtinage et Revolution, trad. du hongrois (1971), col1.

くIdees>, 1975, p. 137. rラクロの主人公たちにとって,理性はもはや認識機

能の器官のみならず,計算と計画と投企の手段となる。彼らはずばりカントの世界

に入る。メンタリティと視野によって完全にアンシャン・レジームに属し,そのも

っとも完壁な擬人化たる彼らは,その実践においてすでにブノレジョア思想の大いな

る理論的制覇を実現している。J

。0) op. cit. pp. 77-78.

ωCf. Anne Marie ]aton, <Libertinage feminin, libertinage dangereux>,

Laclos et le libertinage, Actes du Col1oque du bicentenaire des L. D. (P. U.

F., 1983) pp. 154-5.

ωJean Rousset, Forme et signification (Corti, 1963), p. 95.

ωRoger Mercier, <Les personnages des L. D. et le regard d'autrui> in

Missions et demarches de la critique~・ mélanges offerts au Pr. J. A. Vier,

(Klincksieck, 1973), p. 681.

ωCf. Mercier, Ibid., p. 678; Delon, Op. cit. pp. 72, 77-78; Henri Blanc,

Les L. D. de Choderlos de Laclos, <Poche critique> (Hachette, 1973) p. 59,

etc.

ω 本稿〈上)19-20ページの引用箇所参照。

ω~ r誘感の戦略j邦訳15ページ。

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