コンラッドとアナキズム - osaka city...

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-96- コンラ ッ ドとアナキズム Conrad) は, (Nostromo 1904) 完成後, 1905 年から 190611 三にかけて, (TheMirror01theSea) と題する船員時代の思い出(‘ sea ( a n ce 1 913 )として完成される長篇を執筆していたが,同時 比, いくつかの短筋小説を書いている。 そのなかには,のちに 『六つの短 鮮は (A 01 &.)i . r 1908) ζ 収録主れる 「無政府主義者 J ( i¥.n i¥narchise 1906) や「街告者 J・ The 1906) がある。さらに, 19061*: (TheSecretAgent 1907) も進行中で あった。 「無政府主義者 J i 湾告者 j および『宿偵c J,さらに数年のちの『西 !放の似のもとにjJ (UnderWesternξ ves 1911)は,いづれもアナキ ス‘ム にかかわる作品であり , 19 世紀末からロシア革命に至る 数 10 年聞において, しばしばテロリズムによって|世間の耳目を驚かせた当時の革新思想 対する コンラッドの嫌悪と軽蔑を明瞭に読みとる ζ とができる作品である。 コンフ y ドは, において,自分がアナキストや アナキスト運動について ltf 接知っているのではないことを明確に述べて,こ の作 I ! 日の JJX ぐにの発端 に ついて ,次のように話っている。 W i,手 i 偵』の主題(物語という怠味)は,アナキスト,あるいは,むしろ アナキストの活動氏関する何気ない会話において,あ る友人がいったわず かな言架から思い浮んだものである。この『活がどうしてもら出されたか は, 今 お ぼえていない。 守ーンラッドは, さらに続けて,アナキス卜に対する彼の 1 工場をかなり明確 にしながら ,次のように述べている。 ( 330 ) 7 ・ー . . -ー 4 .

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- 96-

コンラ ッ ドとアナキズム

横 山 徳 爾

コンラ y ド (Jo~e ph Conrad)は, w ノストローモ ~ (Nostromo, 1904)

完成後,1905年から190611三にかけて, w海の鏡~ (The Mirror 01 the Sea)

と題する船員時代の思い出(‘sea ~ ketches') を綴った友章や, のちに 『チャ ン ス ~ ( (.~h a n ce, 1 913 )として完成される長篇を執筆していたが,同時

比, いくつかの短筋小説を書いている。 そのなかには,のちに 『六つの短

鮮は (A S~et 01 &.)i.r, 1908) ,ζ収録主れる 「無政府主義者J (‘ i¥.n

i¥narchise, 1906)や 「街告者J ・ The Informer ~ , 1906)がある。さらに,

19061*: 11月比完成される 『筏偵~ (The Secret Agent, 1907) も進行中で

あった。 「無政府主義者J,i湾告者j および 『宿偵cJ,さ らに数年のちの 『西

!放の似のもとにjJ (Under Westernξves, 1911)は,いづれもアナキ ス‘ム

にかかわる作品であり ,19世紀末からロシア革命に至る数10年聞において,

しばしばテロリズムによって|世間の耳目を驚かせた当時の革新思想{ζ対する

コンラッドの嫌悪と軽蔑を明瞭に読みとる ζ とができる作品である。

コンフ y ドは, W~官偵』 の 「作者の序Jた において,自分がアナキストや

アナキスト運動についてltf接知っているのではないことを明確に述べて,こ

の作I!日のJJXぐにの発端について,次のように話っている。

Wi,手i偵』の主題(物語という怠味)は,アナキスト,あるいは,むしろ

アナキストの活動氏関する何気ない会話において,あ る友人がいったわず

かな言架から思い浮んだものである。この『活がどうしてもら出されたか

は, 今おぼえていない。

守ーンラッ ドは, さらに続けて,アナキス卜に対する彼の 1工場をかなり明確

にしながら,次のように述べている。

( 330 )

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コンラッドとアナキスム ー 97-

しかし,アナキストによる犯罪の無意味さについて,主義,活動,心』情

l乙ついて,また常lζ悲劇的なまでに自己破壊に熱心な人間の痛ましい惨め

さや情熱的な軽信を利用しようとする厚顔な欺きに見られるよ うな,気違

いじみた軽蔑するへき態度について諮った ζ とは憶えている。乙れ乙そ,

アナキスト哲学の主張を私にとって許しがたいものとした点で、あじ

ζの 1序文Jの 「友人J (‘omniscient friend')が,フオート ・マドック

ス ・フォード (Fo古川doxFord, 1873-19~9) であることは,フォード

身が認めて lいるが,コンラッドとフォードは,乙の会話において,アナキ

スト活動の具体例として,1894年 2月の グリニ ッフ 天文台爆破未盗事件

(the Green,¥,ich Bomb Outrage)を惣起した。乙の事件は,コンラ ッドによ

れば,i理性的{乙せよ,非理性的にせよ,思考という過程によって,その動

を推測する ζ とは不可能であるほ ど路、かな, l[nまみれの段しL、活動Jであ

る。

:ムの友人は,しばらく黙っていたが.それから,彼特有の何気ない,全

てを知りつくしているかのような調子でいった。 『あいその兇は 1]掬だ

ったんですよ。彼の姉は, のらに自殺しました。』私たらの間でえされた

雪在宅は,乙れだけfだfつた。というのは,私は乙の忠いがけなL、V叶i↑情|↑1

かり惣いてしまつて,しばらく 言葉が出なかったからであり,また彼がす

ぐに別の話題{乙移ったからである。彼が,乙の知識をどのようにして得た

かとたずねる乙とは,のら(乙も,私{ζはjgいっかなかった。もし彼がアナ

キストの後盗を一度だけ見た乙とがあったとしたら ,それがアナキストの

世界についての彼の全てのかかわりであったにちがし、ないと ,私は舵信し

ている。しかし,彼は,あらゆる人Hillと話すのが好きな男であったので,

乙の真相解明i乙役江つ事実ぞ,街頭!削除人か,退職したf警官か,クラブの

誰か得体の知れない人聞から,あるいは,も しかすると ,私的あ ぞいは公

的危レセプションで会った|時務大同あたりから t~}t.のかもしれない。

コンラッドは, w筏偵』の場合,乙の 「友人Jフォードの訴からl暗示会得

たことを間違いなく認めはがら,彼から得た具体的知識は少ない乙とを明雄

氏述べており,フォード自身もアナキストについての知識は限られたもので

あった乙と金ぷ唆しているが,乙の点については後述する。

( 331 )

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さらに,コンラッドは,彼を刺激して,想像力をかき也てる起縁となった

1冊の本について語っている。それは,ア ンダソン (Anderson) とい う名

のある警察副署長 (AssistantCommissioner of Police)の回想録であると述

べ, そのなかで,ある思いがけないダイナマイト事件のの ち,ア ンダソン

が,下院の ロビーで当時の内務大臣 (HomeSecretary) のサー・ウィリア

ム ・ハーコートぽrWilliam Harcourt)と交している短い対話に心を惹か

れたと語っている。

コンラッドが言及している書物は,サー ・ロ パート ・ア ンダソン (Sir

Robert And???) の Sidelightson the Home Rule Move1附 lt(London,

1906) であり?アンダソンのもうひとつの著作 TheLighter Side of my

Official L約がコ ンラッ ドの序苧乙含まれていたので,この問題の本 も多分

あったであろうと推測される。サー ・ウ ィリアム ・ハーコートは,1880-

85年比グラッ ドスト ン (Gladstone)の内閣の内務大臣を務めており, w密

偵』の内務大臣サー・エセルレ ッ ド (SirEthelred)にあ たる のであるが,

彼は,在任中,フィニア会ダイナマイト爆破事件 (theFenian dynamite

outrages)に対処しなければな らなかっ た。ロパート ・ア ンダソンの著作に

は,やはりフィニア会の陰謀の裏をかくために,警察のスパイが使われていた

乙とについての記述がある。また同書には,コンラッドの興味をヲIt、たサ

ー ・ウィリ アム ・ハーコートの言葉 “All that's very well. But your idea

of secrecy over there seems to consist of keeping the Home Secretary in

the dark-" に対応する “Anderson' s idea of secrecy is not to tell the

Secreta ry of Sta te. "がある乙とが指摘されている。

しかし,サー ・ロ パート ・ア ンダソンは,警察副箸長ではなく,ハーコー

トが内務大臣在任当時の警察副署長は,サー ・ハワード ・ヴィンセント

(Sir Howard Vincent)であった。イギリスの伝統的な政治家の典型である

サー・ウィリアム・ハーコートは, w密偵』では, ‘the Grea t Personage'

と労察副署長の両方l乙描かれているといえよう。

コンラッドが 『密偵Jの中心事件の素材lζグリニッジ天文台爆破未遂事件

というアナキストによる実際の事件を使用するに当っては,乙の事件に関す

る12年前の新聞記事を利用した。乙の事件は,当時,世間の耳目を大いに驚

か~たのであるが,マルシャル ・ブールダン (MartialBourdin) というア

ナキストがグリニッジ天文台爆破を企図したけれども ,天文台付近のグリニ

ッジ公闘で,事故によって, (~ら爆死した事件である。ブールダンの姉の夫

( 332 )

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コンラッドとアナキスム - 99ー

サミュエルズ (H. B. おamuel,)は,アナキストとして知られた男で,窓名

高いアナキスト新聞の編集者であったが.その新聞は, w筏{貞』て,ヴァー

ロック (¥1erloc) が .彼の応で売っているような 「たいまつ (The

Torc/z) ~ rゴングJ (The Gong) などの 「威勢のいい題名で,印刷の粗志

台‘いかがわしい新聞の,どう見ても古い号カ丸、くつか置かれている」と儲

かれている種類の新聞であったと考えられる。 「アナキスト J (Anarchist)

という当時のアナキスト新聞がコ ンラッドの素材の一部にな ったことか惟測

斗れている。

らちろん.当時は 「モーニ ング ・リーダーJ (ルlorningLeader)や 「タ

イムズ ~ (Tlze Tinlω)のような新聞も ,乙の爆破事件-を洋細{乙報道してお

り3 コンラッ ドは,乙れらの記事をあ2人だにらがL、ない。爆被事件前後の

1894勾三1~, 2月{乙は. コンラッドは,ロン ドンのジリンガム街17・fs:士山(17

i Ili時 ham Street) l乙住み,w オールマイアー の阿呆館~ (A/ rna.ver's Fo/-

らうを執筆中であったはずである。

爆破事件ののら.サ ミュエルズは.犠牲者の義盟の兄と して,新聞からイ

ンタビュー巻市し込まれたり 、また自ら 「公衆の福利J (C、οnlrnο川 oeal)と

いうアナキスト雑誌{乙,ブールダンの追悼記事を書いたりした。 ヴァーロ ッ

ク.ウィニー(¥ヘlinnie),スティーヴィー (Stevie)をめ ぐる 『街偵』にお

ける人間関係は.実際の事件の情況とよく合致している。とくに,サミュエ

ルズが". 指導的なアナキストであった乙と ,また彼か讐察のスハイであると

者えられていた乙とが.コンラッドの 民宿偵Jの主題を示唆したものと考え

られる。アツャン ・プロヴォカ.トウール (agentprovocateur)とH子ばれた挑

発 ・扇動を目的とする警察の凶し者 (2京スノマイである乙ともあった)の存

在は,1世紀末ヨーロッパの肢も陰傍なH与代1tlを物語るものである。 (1 G )

乙れに関連して興味深いのは,コンラッドが,19071:t=:10月 7FI付占的で,

カニンガム ・グレアム (1<. B. Cunninghame Graham)宛 「ウフ J ミル氏

(Mr. 'Vlad:irnir)は,ノマドレフスキ (Padlewski)が,(ノマ リで 90年代{乙射

没したあのイ二時なセリヴェルストフ将軍(( ;e n e r a 1 Se 11 we rs t 0 w )によって思

いついた乙と j ぞ述べている点である。乙の将軍は,おそらく ,ロ シア政治

倣祭のQ帝íC~}jJ第三部 (theThird Section)の部長として,ノマリで公刻刻係

の情報只ぞ務めていたらしい人物である。ペドレフスキは,4伎をホテルの部

隔で銃撃したのら,盗 Jを消した。その所在については,さまぎまな惚iWJが行

われたが,フランス将察は,行万全っきとめる気持は必かったらしい。乙の

( 333 )

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事件は, rタイムズ」紙1890年11月19日付で、報道されてい訂

.さて , フォードが,エ ドワード ・ガーネット (Edward Garnetta

1868 1937)の紹介によって,コ ンラッドと協力したのは, 1898年より;

別 9年まで、の約10年間で、あり,コンラッドが, r無政府主義者J,r密告者Jおよび『密偵』を執筆した期聞に相当するために, w密偵』についても,フ

ォードの次のような主張が生まれた。

『密偵』の小さな部分,つまり,と乙ろど乙ろの文章,そのほとんど

は,コンラッドが全然知らなかった西ロンドンの地誌や警官やアナキスト

についての詳細であるが,乙れは私が書いたもので、あど)

乙の期聞にフォードがコンラッドに種々の情報を提供した乙とは, 1905年

10月刊PRコンラ ッドのウェルズ (H. G. WeJls)宛書簡によっても知

られるが,他方,コンラッドは, r序文Jにおいて,次のように述べている。

環境を描くためには, ヒントが不足していなかった。私は若い頃,夜の

ロンドンの街の至ると乙ろを,ひとりで歩き回ったが,その時代の記憶

が,乙の物語の頁のなかに侵入してきて,圧倒してしまう乙とがないよう

に,その記憶を遠ぎけておくように努力しなければならなかっ完了

フォードのアナキストの世界についての知識は,コンラッドが述べている

よりも深いものであったと考える乙とは可能であるが,乙の点については,

彼の経歴をふり返る必要がある。フォードは, 1873年,サリー (Surrey)州

マ一トン (Merton)民生まれ,フォード ・ハーマン ・ヘファーと名づけら

れた。のちに,彼は, さらにジョウゼ、フ ・レオポルド ・マド ックスを,クリ

スチャン ・ネームとして付け加えている。父はドイ ツ人で,フランツ ・カー

ノレ・クリストーフ・ヨハネス・ヒュファー (Dr. Frantz Carl Christoph

lohannes Huffer) といったが,1869年にイギリ スに移住し,姓名も イギリ

ス風に,フランシス・ヘファー (FrancisHue仔er) と改めた。 (乙の姓は,

彼自身はフーファーと読ませたらしい。)彼は多彩な関心の持主で,哲学者

とヤては,ショウぺンハウアー (A. Schopenhauer)の,音楽学者として

は,ヴァーグナー (R. W:agner)の研究家として知られ,イギリス移住の

のちに,それぞれ, ショウぺンハ ウアーとヴァーグナー研究のための雑誌

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コンラッドとアナキズム ー 101-

The New QuarterLy と TheMusical Worldを発刊している 。彼は,ヴィ

クトリア時代の有名な画家フォード ・マドックス ・ブラウン (FordMadox

Brown, 1821-93)の娘キャサリン (CatherineEmma Brown)と1872年に

結婚し,翌73年に, Fordが誕生した。従って,フォード ・マドックス ・

ブラウンは,フォードの母方の担父であり,乙の祖父を通じて,フォード

は,ラファエル前派 (thePre-Ra phaelites) の詩と絵画の世界へつながり,

その芸術的雰囲気の影響のもとに成長した。フォードの母は,ウィリアム ・

マイケル ・ロセッティ (William Michael Rossetti, 1829-1919)の義E型の

姉妹にあたる。ウィリアム ・ロセッティは,ラファエル前派の著名な詩人ダ

ンテ ・ゲイブルエル ・ロセッティ (DanteGa briel Rossetti, 1828 82)の

弟であり,クリスティーナ (ChristinaGeorgina Rossetti, 1830 -94)の兄

であり,去術批評家として,兄妹の詩集 ・書簡集の編集l乙ぱ力した。彼の 3

人の子供たら,アーサー (Arthur),オリ ーヴ (Olive),ヘ レン (同 lTJ

は,フォードのいと乙にあたる。フォードが‘ myjuvenile relatives' と呼

ぶ乙の 3人は, 1890年代,つまり彼らが10代 (アーサー14歳,オリーヴ16

歳,ヘレン12歳)の乙ろに StEdmund's Terraceの家の地下室でアナキス

ト新聞の印刷所を設けていた乙とで知られる。乙のアナキスト新聞は,

The Torch: A Revolutionary Journal 01 Anarchist Communism と呼ばれ

ど と くにヘレン ・ロセッティは,その美貌によって知Uれたが,コンラ y

ドが, w街偵J やアナAキスト l乙関する短~を執筆する以前 l乙,彼 l乙 2 刷会った乙とを話してお‘67「密告者 |の若いアナキスト女性(‘the a narchist

young lady')のモデルとなった。彼友は,後年, Pre-RaphaeLite Twilight

( London, 1954 )を書いている。

フォードは, 1889年の父の死後, Regent's Park の住屑 (1St

Edmund'5 Terrace) に暮したが,これは,ウィリアム ・ロ セッティの住居

(3 St Edmund's Terrace) のほとんど隣りであった。乙のロセソティの家

は,コンラノドが, i密告者J,乙拙いている家であるが,フォードが,コ ン

ラメドはロセメティ家の娘のひとりと彼らのアナキスト有明を 『密偵~ t乙描

いたといっているのは, もちろん 「街告者」の誤りである。

さらに,フォードの妹の回想、によれば,オリーヴとアーサーが,大部分の

記事を書き,日曜日に,ハイf、・ノマークや大きな鉄道の駅のフラットフォー

ムで,新聞を販売したといiぅ;'また, i密告者」の若いアナキスト女性が,

イタリア語やフラ ンス語のアナキス ト出版物を校正しているように,ロセ ツ

( 335 )

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テ f家lどは,彼らの出身の関係から,イ タリア人のアナキストたちが多数集

まった。後年,フォードがコンラッドをヘレン (彼女が20歳の ζろ)に紹介

したのであろう。ヘレンは , ク ロポト キ ン公爵 (Prince Kropotkin,

1842 1921)の AnAppeaL to the Y oungというノマンフレットを読んで,

アナキスト思想に傾倒し,兄姉を乙の思想へ導いたといわれる。彼女は,ま

た,マルシャル ・ブール夕、、ンを個人的に知っていた。

『西欧の眼のもとに』は,ロシア帝政末期におけるアナキズムを背景とし

ているが, 乙の作品のリチヤード ・カール (RichardCurle, 1883 1968)

の所有する本の書き込みとして,コンラッドは,rジュネーヴで何年も前に

出会ったある人が語ってくれたある乙と〔ラズモフ (Razumov)の運命〕

と,雑誌に発表されている ロシアの革命家たちについての物語のつまらなさ

によって,私は乙の小説を書く気持になっ完了と述べている。 4

コンラッドは,彼の作品を最も早く認めてくれたエドワード ・ガーネット

(Edward Garnett, 1868 1937) とは,長らく ,最も親密な友人関係を保っ

ていたが,ガーネットの妻コンスタンス (ConstanceGarnett, 1861 1946)

とも親しい友人であった。コンラッドが,ロシアの革命運動について多くの

知識を得る乙とができたのは,まず第ーは,ガーネット夫妻との交友を通じ

てであった。ガーネットは, ドストエフスキーやツルゲ、ーネフに精通した当

時の最も優れたロシア文学の理解者であり,後年, wツルゲーネフ J

(T円 en以 1917) を著し,コンラッドが序文を寄せる乙とになどコンス

タンスは,ツルゲ、ーネフ, ドストエフスキー,チェホフ,ゴーゴリ , トルス

トイらロシア文学の多くの作品の翻訳者として有名であり,またロシア問題

への関心によって, ‘Russophile' として世聞に知られ,ガーネット夫妻の

邸宅‘theCearne'において,彼女の周囲には, ロンドンに居住する幾人か

の亡命ロシア人たちがグループを形成し,その多くは著名なアナキストや社

会主義者として知られた人物たらであっ た。

乙ういうわけで,コンラッ ドが『西欧の眼のもとに』を執筆していた時期

(1907 11年)には, 彼自身は苦心して拒絶しようとしていたあらゆる ロシ

ア的なものが,ガーネット夫妻との交際を通じて,コンラッドに迫り,彼は

で5応なしに,乙れと直面しなければならなかっ たのである。 ロシアという現

実は,彼にとっては, いわば強迫観念となっていたという乙とができる。当

然,彼は, ガーネット夫妻の交際範囲にいる乙れらの ロシア人亡命者たちを

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コンラッドと アナキズム ー 103 -

るする乙と(乙よって.ロシア的なものから距離を保とうと努}Jした。乙の

ため.ガーネットとコンラッドの交友関係は.多少冷却したH寺期も あっ た。

とくに3 ガーネットは,終始,コンラッド令‘aSlav・と位置づけるのであ

ったが. これはコンラッドが}~認できない乙とであっ た 。

欧の!恨のもとに」が出版されると .ガーネット は,iネーション

,atl~Oll )誌 (1'911年10月21日付)で12T71批評を発表し,ナタリー ・ハルデ

ィン (1、川lalieHaldin)を ーロシア女性の乙のすばらしいタィヲ?と呼ぴ.

同時に ←ζの小説の芸術的強烈さは.特徴的なロシア人のタイプの顕著な陥a

こあるというよりも. iigL 、D~L~的背誌の援問気の効果(乙ある 」 と汗した。

かし,このガーネットの鋭い批評は、コンラッドを傷つけるものであっ

た。また句コンスタンスカ人ナタリーを 1あまりにも主主会〔カ〈ない (‘too

¥¥'ooden' )と批J干したのに対し‘コンラッドは.次のように符えている。

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:ムはロシア人のことは.ごくわずかしか知らないのです。ほとん

知りません。ポーランドでは,私たちは彼らと何の関係もありませ

ん。ロシア人がいることは知っています。そして.それだけでト分不快?

こと与のです 0 ・一一-あなたがと覧になったにらがL、ない本で.私はもっ{‘。

l勺!芯想、に関心をもらました。

そして , ナタリーについては , j拐を展IJf~するためのliíf(pJ 11~IJ (pi vot )とし

彼!J:'i:必姪としたと述べている。つまり ,ナタリーをよりさ1:彩ある存在

たならば,乙の作品で1:~l 指した去術的1: ~J 的であるひとつのムードの展

悼い一氏rjJし江かったであろうというのである。コンラッドとカーキ

〉閥のロシア告示めぐる微妙な'l!L傑が.この3前11こ!dR矢nできるのであ

~ò)nuの f. 左(こ~ , ,こ怖かれた的況のfTL;ilム 当時のロシアの制定を的

λ乙とは,コンラソドが小説の口頭で述べていると乙ろであ

λ 。189肘11代のロシアでは,f村社f:会i市,"小引"千作九に'〈:命党 (判tけheSo侃tC:iEa州1

とそのテロ純組1織が;打伊活F汚1号:動し警他Jj,学生の!?りで71%台グループが組織されて

た。乙れに対し,ツアー をTA点とする ロシア政府は.普・;弘通の1:キ察の外(こ.

一-U公安!??祭 (tぷ兵隊 ) をもら, これは1.88011~: までは 12帝T\vj第 3 ~11~ 1才11・指開ドにあったが.18801l:以|櫛.は,内.i1l1の件察を配.Iζ{乙irtいていた内務行

列'rqC5とな った。公安1考察は.アジャン ・プロヴォカトゥーノレ舎はは 勺て,

337

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革命クやループの陰謀を摘発しようとした。乙の公安組織は 「オフラーナJ

(Okhrana) と呼ばれた。

ガーネット夫妻が当時交際していた亡命ロシア人のなかには,クロポトキ

ン公爵をはじめ,フェリクス ・ヴォルホフスキー (FelixVolkhovsky),ニ

コライ ・チャイコフスキー (NikolaiChaikovsky),チェルケソフ公爵

(Prince Cherkesov),セルゲイ ・ステフ。ニャーク (SergeyStepnia k)の名で

知られたクラフチンスキー (S.M. Kravchinsky) らがし、た。

ステプニャークは,その著作 『ツアー権力下のロシア~ (Underground

R ussia, 1883) によって知られるが, 1878年 8月4日の臼昼セ ント ・ぺテル

スブ、ルク市街で,散歩中の政治警察長官メゼンツェフ将軍 (GeneralN. V.

Mezentsev)に馬車で追いついて剣のー突きで暗殺し,そのまま馬車で逃亡

し,ロシアからの脱出に成功した人物で、ぁ幻)彼は,イギリスに定住した

が, 1895年に鉄道踏切を横断中に事故死した。デイヴィ ッド・ガιネットに

よれば,ステフ。ニャークはさ志の力で耳完関えなくする能力を有し,そのた

め機関車の接近を聞いていなかったといづ?'ステプニャークが,ラズモフの

部分的なモデルである乙とは推測できるのであり,とくにラズモフが電車に

離かれる事故のヒントは,ステプニャークの事故死にあるといえるかもしれ

ない。

『西欧の眼のもとにJの主要事件であるハルディン (VictorHaJdin)に

よるド ・P氏 (Mrde P-)暗殺は,コ ンラッドのゴールズワージー宛

1908年 1月6日付書簡で明らかにされているように,イゴール・サゾノフ

(Igor Sa zonov )によるプレーヴェ (V.K. Plehve) 暗殺 (1904年 7月

28/15日)に基いている。プレーヴェは, 1846年リトアニア系の家系{乙生ま

れ,ワルシャワとセント ・ペテルスブ、ルク大学に学び,のちにロシア政府の

中継で昇進し,アレクサンドル 2位暗殺 (1881)の捜査でアレクサンドル 3

1せに認められ,ポーランドやリトアニアのロシア化(R ussi fi ca tion)政策を

訂幣に推進して憎悪を買い,ウィッテ (S.Y. Witte)の西欧的政策の反対

者でもあった。 1902年に内相と なり,専制政治の権化として革命運動に冷酷

で狂信的な弾圧を加えていた。サヅノフはモスクワ大学学生であったが,ツ

アーへの定期的報告に向う途中のプレーヴェの馬事の中へ爆弾を投げ込ん

で, t彼の暗殺に成功したが,自身はその場で逮捕され,有名なシュリュッセ

ルブ、ルク (Schlusselburg)監獄に監祭されたのち,別の院獄で,当局のー囚

人lこ対する虐待に抗議して自殺した。プレーヴェ暗殺は,翌年のニコライ 2

( 338 ) •

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コンラッドとアナキズム - 105 -

世の叔父セルゲイ大公 (GrandDuke Sergei)の暗殺 (1905年 2月17/4日)

とともに,帝政末期のテロリズムの歴史で最も顕著な事件として知られる。

プレーヴェ暗殺は,ロシアのあらゆる階層に衝撃を与えたばかりでなく ,

全ヨーロッハに大きな印象をうえるものであった。当時のロシア政界におけ

る政府と革命勢力の聞のさまざまの凌まじい事件は,イギリ スの新聞に詳細

(乙報道されているが,プレーヴェ暗殺す妥件も |タイムズ 紙の1904'rド 7月

29日付以後で報道されており,コ ンラソドもその詳細を点知していたであ

ろう。

『西欧の限のもとに』の 殺し屋 ニキタ (Nikita)が,帝政末期のロシ

ア政治史において悪名高い 2EJlスハイのイェフノ ・アゼフ (YevnoAzev

(Ebno AseffJ ) ,乙基く乙とはほぼ催実である。アゼ、フは長年にわたって

公安警察 |オフラーナ J,[雇われたスパイとして社会辛命党のfI 'flX ,乙以透し

て,革命家クソレープのなかでテロリストの指導行となり ,政府I高行の暗殺を

組織しながら,その機密を政府{乙通じて多数のfr:iJJ志を,克り渡した。ニキタの

正体が暴露される経緯は,アゼフのそれと酷似ヤてい?。)つまり, ミクーリ

ン顧問官 (C'ouncillorMikulin)は,ベイノスやカールがノメ唆しているよう

に,当時のリ ベラルな警察庁長13であったローフヒン (A.A. Lopuhin)

{乙基くと考えられるが, ロー プヒンはフレーヴェに抜擢されて,37歳で合警察

庁長官となり,のちにセルケイ大公暗殺の責任を問われて砕(でした人物であ

る。彼は,政府が政情不安を引き起乙すために,アジャン ・フロヴォカトウ

ールを使っている乙とに衝撃ぞ受け,汽~tfの rll で , ジャーナリスト ・ 暦史家

であるブルツェフ (V.L. Burt、ev),乙,イ ェフノ ・アゼ、フなる人物が公'友

字警察'Lk.~われたスパイであることを暴録した。ブルツェフは ft:会市命党員で、

あり ,革命家ク勺レーブとはi密接な関係舎もつ人物であったが,かねてアゼ、フ

を裏切者と信じて蝉劾し,その;日本暴露l乙献身していたのである。

ロシア政府は,乙の暴露 lζ 衝撃を受けたが,問題は友而化して[~f.~会

(Duma)で論議され,ロ ーフヒンは,アゼフに関して社会革命党はに機怖

を漏洩したという朗自で懲役刑を'lZ告され,シベリア流刑l乙処せられた。乙

の事件は, 1909:,:r三1月16f-3以降 タイムス 紙で詳細に報道された。 1909年

といえば, コンラットか 『西欧のIH~u) もとに』の執筆を開始したのは1907年

であるから, 4415聞にわたる執筆期間のr+l頃にあたる。 ミクー リン顧問日と

ロープヒンの運命の類似点も明I'-1であろう。

さらに,'1'将軍 (GeneralT-)を恕名 I:'JjL 、トレホフ将軍 (GeneralD.

( 339 )

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106

F. l"re pov) (ζ比定する ζ とができる。彼は,19051:r:: 1月229日のペテルス

ブメレク事件 (il(rrの日曜日 7 ・BloodySunday‘)ののち,ぺテ ルスブルク知

事(ζ任命され,冷献な仰庇舎もって臨み,セルゲイ大公暗殺後は政府の中心

物の一人であっ た。 lさらに, もうひとり ,1878{f=.tCヴェラ ・ザスリ ッチ

(Vera Zasulich)がピストルで‘命ぞねらって失敗したぺテルスブルク知事ト

レポフ将軍 (General'F. F. Trepov)がし、る。彼は,オペ ラその他の芸術

の保護者を気取ってはL、たが.その残虐さによって,当時.セント ・ペテル

スプ崎ルクで最も嫌悪されていた人物であった。

コンラッドの革命家(乙対する嫌;悪感は, ヒーター ・イヴァノヴィ ッチの戯

同化された人物像!ζ最もよく表わされている。彼の感傷的フェミニズムは,

クロポ トキ ン公爵応対する1$織とも受け取られ,またノ¥クーニン(Mikhail

Bakunin, 1814-76)を惣起させる特徴も指摘する乙とができる。ベインス

は, ζ の人物が, トルストイ (LeoTolstoy, 182R -1910)ぞ風刺したもの

であるかもしれはいとし,両者の主張する理惣、の類似点と私生活のむさくる

しさという共通点を指摘している。

主主するに,コンラッ ドカサ郎、たアナキスト像の背景をさ ぐる乙とによって

感知される彼のアナキストへの態度は,郷織と冷笑を特色とし,それが 『密

偵』と『凶l放のIJ良のもとに』において,作者の事l)fに対する超越した姿勢と

t1って独自のアイロ二一ぞ512んffJ1は,コ ンラッドの政治(乙対する視点全般

を考える;場合(ζ無悦できないであろう。

(1) 'The ふ~crel Agent, p. ix. 以下.*陥ほおける Conradの作I121への言及はすべて

[)ent Colleeted Edition 1ζよる。

(2) I bid., pp. ix士 X.

(ねω3司) F‘、k《(併:

(か~ 1り) 7'ht~ Se,杭K正'cγrぜ(~t Agl伊rF40仰ナク'!lげ1,p. X.

(,5) I b,(1.

( G) 1 b /(1., p. x i .

(7) ‘Jocclyn Ba incs, J OSt~þh (~Ol川1(1: A C'rilical Bi()graþh.>~ ( l~)GO ) , p. :131; Abronl

Flや》F戸isl山山h川llnn川1口tへ((:VbJ川11川ど,,/,令)J IP3匂【'01めdJd山必lんli川.〉t

lVωFο仰(Jrlげ川rバ此.イ/μどd(いlω9仰71け),p. 287 参! !賞。

(8) 13(1 incs, p, 48之参!照。

( 340 )

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コンラッドとアナキズム ー 107-

Ibid.. P. 3~ 1参照。

1日 Tht. p. :¥:1.

01) Rol児 rt,Anderson! ぷulelights011 the H onu R ule 1¥1(n:enzent、 p. ~<) ( Ba lne". p.

331参照

O?J Sher庁 l,ibKL.P. 288参照。

Fleishman, p. 213参照。

Tlu:、・,'et t~llt. p. 3.

g sherq.ibkf.,p. 229参照、 0

06) Jean-Aubry, G.. Jose,ρh COJlrad: Llfe and Let/t円(1 92 I ) , ¥ . 0 1. 11 ~ p. 60

0乃 8aines, pp. ~i:i 1 &‘i82参照、。

rthur ~{izener. 'fhe Saddest .. )/のつ': .4 Biograthy of Ford 1'v!ado.l.' F'ord (1 ~Îl )、

p. 11.t参照。

09) Jean-,Aubη'・¥'01. 11, p. 25.

e2Q ~rhe -・.

gent雪 p. XJll.

(21) Ford fvladox Ford, R et的tれurn10 fe.ωω'St

(22) Ford札d. Joωisetμh C'oωIIυr似 1, p. 231. i上•

t23) Sherry, ibid.! p. 213.

凶 Eloise Knapp Hay, 'rhe Political ,N仰的 01.]οsψh C~onrad (196:3), p. 227参

照o

'(25) Juliet kice. Cilapters J~ro"l ('hildho(x1 (1921) ~ p.

(26) ,Notes in Curle' s copy.

・ T urgenev', N'ot信仰 L{/i7UPU-Letftrs(1921).

lor口nnanS1 町 !庁ヴ (μe釘“d.), C,οωF問 d:'l'he C',.il icωtαa/ }-/e仰m才ワケ川r川ril

:I臼I~臼3珂d\var吋d Gametl (e“d. )上? ムμ了fυlelω'sf介rοnlJο何SψhCC'οnrad 18初υ5一lβ92μ'4 (192おδ; ha rter

ks. 1964), pp. 234 -35.

s<8 Edv'la rd Cranksha w, The Shadtnv (グtheWintt?r Palace (1976), pp. 2G 1 -62参

照。

sl) I)avid Ga rnelt, 'rhe Coldel1 Echo (1953 L pp. 10 20参照。

倒 Jean-Aubry,Vol. 11事 p. 6~1 参照。

倒 8aines,p. ~71 参照。制) Frede:ric'k R. Karl, .]oseph C'onrad: 1'lze '[,hree Lit.'l?s (1979), p. 679参jm。

関 Baines, p. 372参!被。

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