誠心堂書店の目録第一号を発見 古本屋の仕事場エッセイ 古本屋の仕事場...

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Page 1: 誠心堂書店の目録第一号を発見 古本屋の仕事場エッセイ 古本屋の仕事場 21 誠心堂書店の目録第一号を発見 橋口 侯之介 (誠心堂書店)

エッセイ

古本屋の仕事場21

誠心堂書店の目録第一号を発見

橋口

侯之介(誠心堂書店)

おかげさまで、誠心堂書店は創業八十年を迎えた。それを記念して簡

単な「書目」の小冊子を発行し、巻末に誠心堂の年表とエッセイを掲載

した。ところが、この編集を終えて印刷にかかってから、思いがけない

収獲があった。

八十年前の「誠心堂書店古書籍目録」である(左図はその表紙)。先代

の田中十蔵が現在地に店を開いたのは昭和十年のこと。その年の十一月

に早くも目録を発行していたことがわかった。その翌年四月発行の二号

目とともに古

書市場に出て

きたのである。

当時のいろい

ろな古書店の

目録を集めて

いた人が誠心

堂の分もいっ

しょに綴じこ

んでくれてい

た。よく保存してくれたおかげで、思わぬものを手にすることができた。

実は、わたしはこの目録を初めて見た。先代からも話を聞いていなか

った。その後、目録販売はしておらず、昭和四十年代に発行したことは

聞いていた。それを「創刊号」だとばかり思っていた。ところが、独立

間もない時期に古書目録を出していたことがわかったのだ。

私が誠心堂の勤務を始めたのは昭和五十年のことだ。当時は店売りだ

けで商売をしていたために二所帯分稼ぐには心許ない状態だった。でき

たら目録販売をして少しでも収益をあげたいと私は希望していた。それ

が実現したのは、昭和五十五年になってからだった。これを「復刊第一

号」とした。それが現在一三二号になったわけである。

古書目録を出すには、

低でも千点以上の在庫を持つこと、千人以上

の顧客のリストを用意する必要がある。目録の印刷代、送料などの経費

もかかるので資金的余裕も必要である。ふつう独立開業してそこまでこ

ぎ着けるには数年以上の経験と蓄積が必要だ。だから、私は戦前の古書目録

は存在しないと思い込んでいた。先代からもとくに聞いていなかった。

先代・十蔵が奉公していた山本書店の当時の主人は体が弱い人だった

そうで、その分十蔵が精を出して働いた。番頭になってからは市場の仕

入れもまかされるようになった。十五年働いて二十七歳で独立した。そ

の開業半年で目録が出せたのは、番頭時代からの知識と経験がものをい

ったのだろうと思う。

ちなみにその目録の巻頭部分を紹介すると(次頁上画像)、古事記、日

本書紀関係の和本で始まり、宣長や篤胤の国学、日本史、源氏物語や枕

草子などの国文注釈書と続くのが

初の二頁である。今の誠心堂の目録

とあまり変わらない構成である。三頁以降は、「和漢三才図会

八一冊

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十二円」「谷干城遺稿

二円五十銭」など和唐本、洋装本とりまぜて掲

載され、総頁は二十九、点数にして九八〇点である。印刷は麹町にあっ

た大島印刷所とある。初めての目録としては上出来である。

後の頁に

は唐本がはいり、「明嘉靖刊本

劉子

三十五円」「明刊本

五雑組

りゆうし

八円」と高価な本が並ぶ。嘉靖本は珍しいが、当時の三十五円は現在の

価格で百万円しない。今なら千万円以上でもおかしくない本である。

私が驚くのは、半年後の昭和十一年四月には次の号が出ていることだ。

今回入手できた

のはこの二冊だ

けで、その後三

号が出たかどう

か確認はできな

いが、おそらく

二号で止まった

と思う。

それでもこの二

号も、同じくら

いの点数である。

一号で売れた分

が新しい本で補

填されている。

初号の明版は載

っていないで、

かわりに「皇清

こうせい

経解

三百六十冊

百五十円」「停雲館法

十二帖

八十円」「東瀛

けいかい

ていうんかんほうじよう

とうえい

詩選

十六冊

四十円」と唐本の高価な本が巻頭に並ぶ(左の画像)。質、

単価共により充実しているのである。

目録にはどこにも電話番号が書かれていない。まだ電話がなかったの

だ。だから、顧客はハガキなどを使うか直接来店して注文することにな

る。電話はもちろん、FAX、電子メールなどの媒体がいくつもある現

代と大いに違う。表紙に「神保町ヨリ水道橋方面へ一丁」とあって地図

が載っているので来店してくれる客を歓迎したようだ。その地図を見て

初めて知ったのだが、白山通り沿いの店の向かい側が市電をはさんで郵

便局だった。このあたり太平洋戦争の空襲で皆焼けてしまったので、戦

後、郵便局は移転してしまった。目録には郵便振替口座番号だけが記さ

れていて

支払いは

現金か郵

便局のみ

というこ

とになる

が、誠心

堂にとっ

ては便利

だったの

だろう。

古い目録を見ているとおもしろいことがたくさんある。今後も機会が

あったらまた紹介したいと思う。

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