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調 青少年の心:取り巻く人々の中で

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Page 1: 青少年の心:取り巻く人々の中で · 只今御紹介いただきました細江と申します。よろしくお願いいたします。表題のような 話に直結するかどうかは皆さんが聞いた後で御判断いただきたいと思いますが、この後パ

基 調 講 演

青少年の心:取り巻く人々の中で

Page 2: 青少年の心:取り巻く人々の中で · 只今御紹介いただきました細江と申します。よろしくお願いいたします。表題のような 話に直結するかどうかは皆さんが聞いた後で御判断いただきたいと思いますが、この後パ

●講 師

ほそ え たつ ろう

細 江 達 郎

岩手県立大学社会福祉学部教授、岩手県臨床心理士会副会長、いわて被害者支援

ネットワーク運営委員、盛岡家庭裁判所調停委員、日本犯罪心理学会理事、日本

応用心理学会理事、NPO法人 いわてこどもの心研究懇話会(IK-kon)

理事長。

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はじめに

只今御紹介いただきました細江と申します。よろしくお願いいたします。表題のような

話に直結するかどうかは皆さんが聞いた後で御判断いただきたいと思いますが、この後パ

ネルディスカッションがありますので具体的な問題はそこに譲りたいと思います。今日は

青少年に関わる我々の心の問題というか、私たち自身の問題について少し考えてみたいと

思っています。今、司会の方が私を紹介いただきましたが、実は紹介するということも、

ある私たちの心を一つの方向に設定するためにやっているわけです。私が突然出てきて何

処の馬の骨か分からないような状態で話を聞くことは皆様方には大変不安をおぼえます。

そうすると司会の方がこれはあそこの馬の骨だと言ってくれると、そのことである期待を

して安心する。実はこういう心のありかたというのは青少年へ接する際にちょっとした問

題を起こすわけですので、このことも後でお話したいと思います。

心理学のなはし

私は心理学が専門でありまして、しかし心理学という学問は一般の人が思っているよう

なものとは若干違います。ただ若い人や高校生などは大変心理学に関心があります。大学

で心理学のコースなどには結構志望者が多いので良いのですが、その動機を聞いてみます

と大概は心霊写真が好きだ、占いが好きである、夢判断をしたいなどということが多く、

心理学というよりはココロジーといった世界への関心があるようです。また、少年漫画な

どを見ますと皆さんも御覧になっているかと思いますが、自分は何々の生まれ変わりだな

どという輪廻転生という話がよく出てきまして、こういう心の世界を好むというのも実は

この世代、若者の時代の特徴でもあります。このことも後で考えてみたいと思います。

青年に関わらず人々は人の心に関し相当なことを考えています。私、心理学専攻という

ことで色々心の講義というのをしているのですが、この間、「心の世界」という話をするこ

とになりました。人々はどのように心について語っているのだろうと思って、色々と見て

みますと例えば故事ことわざ辞典などというものを開いて見ますと、まあたくさん心につ

いて書いてあります。大体 100 以上ありまして、「女心と秋の空」や「一心不乱にやると岩

をも通す」、「人の心は計りがたし」というように、実に心について人のことわざは多い。

心は人によって違う、心は変わる、心次第でどうにでもなるといったような色々な表現が

使われている。そういう意味でやはり心というのは大変重要なことでありまして、その人

が心をどう持つかということで相当変わるということは、我々は普通に知っている。だか

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らこのように人の心については何も心理学者が言わなくても相当のことを昔から話してい

る。皆様生まれてこの方十分お話をしている。ですから心理学者が何も言わなくても人々

は人間の専門家でありまして、今更心理学で何が判るかということになります。

青少年問題を人々は説明する

実は青少年問題に関しても人々は相当説明をします。先程、知事のあいさつということ

で御登壇いただいた私の尊敬する橋田出納長は、以前県の教育長でありまして、当然、教

育や青少年問題について、一家言を持っておられます。本日お集まりの皆様はまさに青少

年の専門家でありますのでそれぞれ御意見をお持ちです。そうなりますと我々は専門家と

して何も話さなくても良いわけです。心理学をやっている人間が専門家づらをして何を言

っているのだということになります。この辺のところがなかなか面白いところです。心理

学という学問は心の問題を何やら専門的に普通の人の考えとは違ったすばらしい理論で持

って説明するという期待をされるとそれは大分違います。このような期待を持たれる人は

逆に心理学で人間の心を説明されてたまるかなどと言ったりします。テレビドラマに出て

くる心理学者などは、君の行動は心理学的に説明できないなどと言ったりします。それは

かなり変なことで、人間の心とそれを説明する心理学が別にあるわけではありません。

つまりこれからお話することは、普通の人の説明、私たちが若者について色々な説明を

することについてのことです。例えば、最近の若者の問題は戦後の教育のせいである、な

ど色々と説明します。そういう説明自身が実は色々な影響を与えるわけです。そのあたり

を見ていきたいと思います。また、我々がするそういう説明には色々と問題があるのです。

あまり客観的ではないのです。つまり今日お集まりの皆様方は相当こういうことについて

色々とお考えをお持ちの方だと思いますのであえてそういう話をします。皆様の持ってい

る論理というものには様々な問題があるということを少し理解していただきたい。それを

理解しながら若者に接していく。そういう意味で若干前置きが長かったのですが、人々が

持つ青少年に対する論理、それはしつけの論理もそうですし教育論もそうですが、皆様方

がお持ちになっている色々な理論があるわけです。そこには色々と問題があるということ

をお話ししたい。

人々のもつ「理論」と説明の特徴は

さて、皆様方は子どもや青少年に対して色々と論理を持っています。自分は理論を持っ

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ていないと言う人がいるかもしれませんが、持っていない人はいないのです。さて、そう

いう人々の持つ理論というものが持つ特徴を見ていきますといくつかおもしろいことが言

えます。まず我々は現実に起きている問題、特に異常な問題、困った問題に関して何とか

説明をしたいと思うのです。これが先ず大前提のようなものです。説明しなければ良いの

ですが説明をしたいのです。何とか説明をしたい。特に不可思議なことや異常なこと、既

存の説明でうまくいかないということになると何とか説明しようと思います。説明しない

と我慢が出来ないのです。私の所にも事件が起きると新聞記者などから何とか説明を求め

てきます。さて事象の説明に関してですが科学者は説明する場合、その論理を数式で表し

たり公式で表したり文章で表したりする必要があります。ところが普通の人は「いやそん

なはっきりした理論を私は持っていない」、と思っている方が多いのです。つまりそういう

理論は暗示的にははっきりしないが大抵暗黙に持っているのです。自分でもよく分からな

いが暗黙に持っています。したがって現代の青少年問題についてどう思いますかと聞けば、

皆さんはその理論を示すことができる。大概憂慮に堪えないとかこれからどうなるのかと

言った悲観論や大変だという理論が多い。

立場によって「理論」が変わる

当事者である青少年を見てみますと、これもまたそれぞれ理論を持っていまして、青少

年自身が最近の青少年は問題があると言っている。ちょっと前に 17 歳の青少年の事件が目

立つと、人々の中には 17 歳青少年犯罪論など出てきます。そうすると当事者である青少年

は、当然問題を起こす人が我々青少年のすべてではない、一緒にしないでくれ、別に 17 歳

の少年が全部悪いわけではありませんといいます。大人のほうが今の若者が悪いと一まと

めて説明をすると、今度は青少年のほうも大人が悪い、大人だって色々問題があるという。

つまり青少年問題について大人の理論も青少年自身の理論もある。その理論は置かれた立

場によって変わる。しかも当事者とその方の理論が違う。やった本人と取り巻く我々の言

っている理屈は違うのです。青少年も自分の行動を説明している。理屈を持っている。我々

も持っている。しかもそれは同じではないのです。必ずそこはずれている。自然科学だと

これはスッキリしているのですが、人間に関する説明の理論というのは実にあやふやです

からそれぞれ別々に持っている。「盗人も三分の理があり」など言われるように、どうして

盗んだか理屈を持っている。人間の行動についても置かれた立場によって理論が変わると

いう当たり前のことです。

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大学などでいつも入試制度が問題になるのですが、様々に研究してあの入試をやります

と、受かった人はこの入試制度はとても良いと言うのです。落ちた人は良くないと言うの

です。つまり我々は同じことに対する理屈を立場の違いによって変えるということです。

このことを我々は青少年問題を見るときには考えておかなければならない。人々は違う理

屈をそれぞれ持っているのだということです。当事者と取り巻く人の違いは違うというこ

とです。これを我々の方では、行為者=観察者効果と言います。行為者というのは、今喋

っている私です。皆さんは取り巻いて私の行動を観察しているわけです。この二つは相当

違うのです。違います。大体、今私がここで悪いことをやると、皆さん方はどのような説

明をするかと言うと、私自身に原因があると、このように大体は説明します。ところが本

人の私は、いや実は周囲が原因であるとお話します。

少し分かりやすい例をしますと、あまり悪い話ばかりするといけないので、人を助ける

という話をします。人を助けるということは良いことですが、私は以前人命救助というこ

とを調査していたことがあります。岩手県だと新聞を見ていると大体年間 20 件前後人命救

助で警察が表彰しています。新聞を見てその当事者のところへ飛んでいく。私は以前から

犯罪の研究をやっていたのですが、犯罪者にはなかなか会えないし、喋ってくれないので

すが、人命救助をやってくれた人は会うことができます。表面的には全く逆にみえること

を対象にしているのですが、なかなか面白いことがわかります。新聞や警察または周囲の

人は人命救助をした人に対して何というか。皆さん、おそらくこう言います。あなたは大

変勇気のある人だと。あなたの愛の心が人を助けたと言うわけです。つまり当事者でない

周囲の人は人助けをしたのは、その人と中に勇気のある心があるから助けたと言います。

ところが当事者に聞くと、いや別に勇気があったわけではなくて他に誰もいなかったし仕

方がないからやったのです。その立場にいれば誰でもやったのではないですかという説明

をする。これが事実かどうかは別としてそういう説明をする。つまり助けた人と見る人と

の違いというのがあるということです。

このことは最近の、今日論議する若者論にも同じようなことがあります。青少年に関係

する事件があったり、又それを傍観しているといったニュースが報道されたりすると、身

も蓋もない話になって皆さんに怒られるのですが、最近の若者は愛の心がない、思いやり

がない、と人々は批判します。大体それがいちばん説明としては落ち着くわけです。けし

からんと文句を言う。ところが阪神大震災のようになって若者がボランティアでたくさん

駆けつけますと、今度は最近の若者は捨てたものではないという。実は皆さん方はそうい

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う体験をいくらでも持っている。若者に会ってみるとなかなかいい。これが本当です。別

に愛の心がないわけでもないし、助けるという気持ちが全くないというわけでもないので

す。

実はこのことが我々の説明の基本的な特徴と言われています。観察者である我々、周囲

にいる我々は助けたり助けなかったその人本人の当事者の心の内部にその原因を求めがち

だということです。つまりそれは取り巻く人々の中にも様々な原因があるのですが、それ

は面倒くさいので、そういうことは言わないのです。それよりはやったその人の中に愛の

心がないと言う方が、これは簡単なのです。実際に人の行動はもっと周囲や状況というも

のが関わっている。したがって今日の主題の取り巻く人々や大人の役割ということは、実

は単にお題目ではなく行動が何故起きるかということから言っても間違いないのです。し

かし我々はそこをあまり見ないという話はまた後でお話します。さて、まず人がそれぞれ

の理論を持つということは大体御理解いただきました。又、理解を持つが取り巻く人と本

人との間の理論は違う。

単純な理論が好み

次に今度は皆さんの持つ理論の別な特徴を見てみます。これをちょっと反省しなければ

いけないものです。その特徴というのは単純理論が好きということです。簡単なほうが良

いのです。単純や極端な理論です。これですべて説明ができるという単純理論が好きとい

うことです。これは大変問題なのです。場合によっては 2 極化した理論、良いか悪いかど

ちらかなのです。例えば現代の青少年はすべて悪い。そんなことはないということは皆さ

ん分かっているが全て悪い。ニュース報道というのは大いにこの傾向があるのです。集中

豪雨的なニュース傾向です。今悲しいニュースを毎日やっていると思っていると、あと 2

週間から 3 週間で忘れられてしまう。我々大人自身の成熟度が欠如したというか、曖昧さ

とか寛容さというものが段々なくなってくるとこういうことになる。大体この 2 分法とい

うのは教育では昔からよく出てくるものです。青少年問題や教育問題には 2 極化の理論と

いうのがずっとある。簡単に言えば規律重視派か自由放任派というやつです。このどちら

かです。厳しくしなさい、自由にしなさい。同じ人間に関して全く違うことを言っている。

様々な人間科学の歴史を見てもあっち行ったりこっち行ったりするのですが、規律重視か

自由放任か、法の権威か自由か、あるいは心理学のほうでは指示的方法か非指示的方法か、

こちらからああしろと言うのか放っておいた方が良いのか、子ども中心か親中心か、教育

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論では教え込むのか引き出すのかという、そういう 2 分法です。この 2 分法は教育の場面

では長い論議であります。戦前はたぶん、私はあまり知りませんが、一般に規律重視派だ

ったと思うのですが、戦後は自由派が優勢です。最近はそういうことでは規律派がまたが

んばってきているということです。学者でさえそうですから一般の親たちもすっかり翻弄

されるわけで、戦後は実にこの極端な論議に引きずられたわけです。真実は真ん中辺にあ

るのですが自由でなければいけないといった極端な方向で引きずられた。どちらも正しく

はないのです。どちらも真実を言っていないのだが何やら我々は極端ですっきりしたほう

が良い理論だと勘違いをするのです。皆さんもたくさんの講演を聴くことと思いますがあ

まり極端やすっきりした話は少し変だと思ってちょうど良い。真実は真ん中辺にあるので

す。はっきりしない所にあるのです。ところが我々はそれは嫌ですからすっきりしたい。

規律主義も自由主義も間違ってはいないのです。これが困るところです。半分は合ってい

るのです。どちらも合っているし、どちらも間違っている。つまり子どもの発達や問題の

状況に応じて状況即応的で、これは当たり前のことです。その時々の状況に応じて規律を

したり自由にしたり、おさえたりのばしたりということを柔軟にやっていかなければいけ

ないのです。これは実際は大変なわけです。子どもも成長するのですから一つの方向でい

くなどということはあり得ない。それを一つの説明でいこうとする所に問題がある。今日

御参加の方はそういう方はいらっしゃらないと思いますが、しかしながらその状況に合わ

せて変える、複合性、多面性というものが必要である。しかしこれは嫌われる。一般に評

判が悪い理論であまり受け入れられない。もっと単純ですべてを網羅するすっきり理論、

すべてが分かる、統一理論が良く、そうした話がうける。しかし先程も言いましたが、こ

れですべてが分かるというような理論があるとすればこれはたぶん間違っていると思うの

です。すべて解決するといった理論があるとすれば、そういうことを言っている人を疑っ

てかかるべきだと思います。私たちの中にもっと複雑な理論を持つことは必要ですが、単

純な何か説明できる理論というのは私はおかしいと思います。もちろんこれは反論があっ

ても結構ですが、たしかにそういう複雑な理論があると単純に考えるのがおかしいという

理論もあるので、これも複雑なところです。

一人一人の子ども、これは人間と言っても良いかもしれませんが、一人一人の人間はそ

れぞれ多様で個性的で違う、また、人間も時間や状況に応じて相当変わっているのだとい

うことを受け止めて、その違いに対応できる柔軟な思考法や理解の枠組みを我々の中に持

つということが期待されることです。心理学のほうでは色々な理論がありますが、その中

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に一人一人は違うという、英語で言うと personality is unique というのですが、人は違う

のだということ、パーソナリティーのこれが第 1 原理と言われています。同じ人は 1 人も

いない。これは G.W Allport という人が言っています。なるほど人は違うのだというとこ

ろから出発することは大変重要なことだと思っています。しかし我々は違うというのは面

倒くさい。まとめて簡単に単純にということであります。

暗黙に持っている人格観

さて、人々の持つ理屈、理論があるということを御理解いただきました。皆さんみんな

それぞれ持っている。色々なことに対して理論を持っている。青少年問題に関する理論も

あれば商品を買う時の理論もあるわけです。その中で対人関係にとって重要な理論という

のは、人を評価する時に使うものさしです。これもみんなが持っている。それに合わせて、

皆さんは私を今評価しているわけです。大学の先生などは大したことは言わないものだな

どと色々なことを考えておることでしょう。それは皆さん方が大学の先生というのはこう

いうものだというものさしを持っているからです。あの人は良い人だ、あの人は嫌いだな

どと、毎日毎日人を評価して生きています。こうした人を評価する判断のものさしをそれ

ぞれ持っています。そうしたものさしははっきりと意識して持っているわけではないので、

「暗黙の人格観」と言っております。人を評価する暗黙に持っているものさしという意味

です。暗黙ですからあまり気がつかない。意識して自覚して持っている人もいますが普通

はあまり気がつかない。だからそのものさしを口で言ってみなさいというと言う人はいる

のですが、あまりはっきりしない。人によっては、私は人間を 3 種類に分けています、信

長型、秀吉型、家康型などといったりする人がいますが、あまり意識をしているわけでは

ないが皆さん持っています。

実はこの人を評価する理論の更に奥には人間観というものがあるのです。皆さん方はそ

もそも人間とは何であるかということの理論もかなり持っている。人間とは何であるか。

これも先程の教育論と同じように様々なものを持っています。人を見たら泥棒と思え、渡

る世間に鬼はなし。もっとも鬼はあるというのが最近のテレビ番組のようですが。そのよ

うに人間に対しては俗に性善説、性悪説という人間観というのがあるわけです。人間は悪

の塊である、いや人間は善の塊である。さっきの青年論の自由派から規制派まで色々とあ

ると同じように、我々は気がつかないがそういうものを皆さんの心の中に持っているので

す。そういうものを背景に皆さんは出会う人々に対して様々な人間の評価をする。あいつ

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はこうだ、こいつはこうだと評価する。そういうものさしを持っています。だから、もの

さしがあるからちょっとした情報があれば相当推測してしまうのです。めがねをかけてい

るというだけで何とかだなど、何か情報をちょっと提供すると皆さん方のものさしで相当

推測してしまうのです。世間ではちょっとした情報でその人を読んでしまうという人をす

ぐれた人だ、すごい人だと言いますが、あれは問題があります。ちょっとした情報でその

人の人間性を判断するなどということは相当怪しい。ところが俺はちょっと見ただけでそ

の人のすべてが分かるなどと自慢したりする。俺は人間を見る目があるなどと言っている

のです。これが占いであり、街ではびこるインチキな「性格検査」まがいなどもそういう

傾向があります。ちょっとした情報を与えるとそこの占い師があなたの過去から何でも喋

ってくれる。そんなばかなことはないのです。ところがこういうのが好きなのです。我々

はちょっとした情報で、生まれ月を聞いただけでその人が分かる、星座を聞いただけで分

かる、血液型を聞いただけで分かるなどというのがいかに問題であるかというのは冷静に

なればよく理解されるでしょう。個性のある複雑な人間をちょっとした情報で分かろうと

する。そしてその判断をそうだと固定化してしまう。これは皆さん方が青年というこれか

ら長い人生を出発していかなければならない人物を評価しなければならない時に心してお

かなければならないことなのです。何か過去の部分的なデータでその人をこうだと決めつ

けることはかなりの問題があるのです。占いですべての人を判断するとか、茶髪であると

か顔つきがどうだこうだというような外見でもって紋切り型的、ステレオタイプ的な、判

断する、そういう問題点について我々は常に反省していかなければならない。茶髪だから

あいつは変っているのだということはそう簡単に言えません。最近はみんな茶髪になって

いるから黒い髪のほうが変わっているということになるかもしれません。そのような簡単

なものさしではなかなか人のことは言えない。しかしみなさんはそれぞれものさしを持っ

ている。そこで皆さんにそれではそのものさしを示して下さいといってもなかなか出てこ

ない。そこでどうやるかというと、まず皆さんに人を評価する形容詞を挙げてくださいと

お願いします。これもなかなか挙げられないようですが、実は沢山のことばを使っている。

身体にテレビカメラをつけておいて 24 時間中録画しておけば、相当なことを言っているこ

とがわかります。太っている、美しい、かわいい、きれい、やさしい、親切だなど様々な

評価をしている。そのような形容詞を落ち着いて考えてもらうと 30 くらいは出てくるので

す。つまり我々はいつも自分との関係で人々を位置付けていることになります。我々は人

を評価するということは何かと言うと、その人をどういう人物かということを自分と関係

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付けながら生活しています。品定めの連続をしているわけです。周りの人をいつも自分と

の関係で位置付けている。このことは今日の課題と関係しますのでここで強調しておきま

す。つまり我々のまわりの相手は別に空中に浮いているわけではないのです。私との関係

でどういう人なのかということを常に考えているのです。ですからこういう関係が切られ

たり、分からない事態になりますと大変不安になる。このように関わりが分からないとい

う事態を防ぐために人はまわりの人々を大体説明しようとする。この講堂でも私はどうい

う馬の骨かということをパンフレットに書いておく。こういう情報を見て皆さんは私を品

定めするわけです。その他、年をとっているとか親切だとか頭が悪いなどというそれぞれ

のものさしに当てはめて判断している。

こういう形容詞をたくさん集めてきますと、大体 20 くらいは出てくるのです。しかし 20

くらいと言っても同じような種類のものがいくつかあります。こういう 20 位の形容詞もい

くつかの傾向にまとめることができます。まとめる計算の方法があるのです。因子分析と

いいます。それでまとめていきますと大体どんな人でもかなり共通に持っているというも

のさしもあります。しかし同様にやはりこの人特有のものさしというのがあるのです。こ

のように共通のものさしと一人一人が持つ個人的なものさしがあります。共通なものさし

もあるが、人によって相当違うものさしがある。一人一人違うものさしを明らかにしよう

と、私どもは「暗黙の人格観検査」というものを開発しています。ここではそのことは置

いておきまして共通のものさしの話をします。

大体共通なものさしというのは普通は 3 種類あると言われていますが、分かりやすく主

要なものを 2 つみてみます。それは、やさしい、親切、面倒見が良い、仲が良い、といっ

た言葉、つまりこれは個人的親しみやすさ、対人関係に関する形容詞です。それともう一

つは何かと言うと、能力に関するものです。仕事ができる、お金がある、背が高い、社会

的に評価される、美人である、美人であるなどと今はあまり言ってはいけないのでしょう

が、社会的に評価できるものを持っているとか、持っていないとか、こういう能力に関す

るものと二つあるということになっています。親切、やさしい、対人関係を表す形容詞と

仕事ができる、勉強ができるという相手の能力を表すこの二つがあるわけです。誰かの演

歌の歌詞に、やさしさと甲斐性の無さが裏と表についてくるというものがありました。や

さしさと甲斐性があるか無いかというのは違う次元だということを言っているのです。甲

斐性というのは仕事ができるということでしょう。やさしい人と甲斐性の無いのは別次元

だというのは大体我々は分かっているのです。

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さて、ではこの二つの軸のどっちが重要かということになってくるのです。様々な比較

の方法がありますが対人関係・個人的親しみやすさというほうが大体重要だということに

なっているのです。これも我々の分野では古典的な研究ですが、対人関係の印象形成、初

めての人をどのように評価するかという分野があります。その研究では色々な形容詞の言

葉を使って人の印象はどう変わるかを調べております。人を紹介するときに仕事ができる、

あたたかい、能力があるといった、色々な言葉を使い、それを取り替えていってどれが一

番大きく人の印象を変えていくかという研究です。それによりますと温かい、冷たいとい

う中心となる特性となっております。もちろん温かい、冷たいというのは体温のことを言

っているわけではなく、自分と相手との関係を言っているのです。まず我々はその相手と

の関係はどうであるのかで、その人をまず見ていると。この関係がうまくいってなければ

なかなかその人の言うことを聞いてくれない。相手の関係がまずうまくいくかどうかとい

うことです。関係がうまくいかないところに色々と情報をあたえても受け取ってくれない。

相手との関係がうまくいかない所で色々やろうとしてもこれはなかなか難しいのです。こ

れは別に若者ということではなく、我々自身が人を評価する時にまず相手との関係を問題

にする。大人はなかなか素直でないので、いやそんなことはない人は能力だよ、仕事がで

きるのが良いと言いますが、実際にはそうではないのです。若い世代はもちろんやさしい

というのが一番多く選ばれます。やさしい、親切、まずそこから出発するわけです。自分

との関係がまず第一にある。そのように相手との関係に基づいて人を評価している。

「仮説」で人をみる

暗黙の人格観というものは大体御理解いただいたと思いますが、そのように皆さんは一

人一人持っているわけです。私も持っている。つまり人格観とは、我々の心の中にある人

の評価のものさしです。我々は他の人を客観的に見ているように相当思っているのですが、

残念ながら実は自分のものさしで人を見ているのです。相手側外側にあるのではなくこち

ら側にあるのです。見ているほうの側にあるのです。自分のものさしで人を見ている。自

分の仮説、理論を通して他の人を見ている。そんなことは思いたくないですが、やはり若

者はダメだというときは、若者はだめだというものさしを自分の中に持っている。我々は

その人のイメージ、相手のイメージは、その人の行動から自然に生まれたものだと思って

います。皆さんが今持っている私のイメージを、皆さんは私が喋っている情報から出てい

ると思っている。ところがそうではないのです。皆さん方の中にある仮説で見ているので

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す。すべてとは言いませんが、他の人をどのように考えているかは、その大部分は皆さん

方が持っている自分を取り巻く世界についての皆さん方自身の仮説の反映なのです。仮説

や理論に由来しているということです。皆さん方が持っている世界観や人間観や青年観に

基づいて人を評価しているということです。もっと積極的に言えば、創作しているとは言

いませんが、自分の持つイメージを背景に、作り出している。皆さんの持っているイメー

ジで人に対する評価を作り出している。我々がある状況でどういう行動が適切なのか、何

が適切でないのかということを我々は判断します。私が今ここで裸になってはいけないと

いうことになっている。私もそう思っている。そしてこういう年齢の人はこうしなければ

いけない、この性別の人はこうしなければいけないというものを持っている、こうあるべ

きだという仮説を皆さんは持っている。その仮説や期待が、我々が出会う他者に対する評

価、場合によっては行動、この人と付き合うべきかどうかということまで影響を及ぼして

いる。相手方にあるように見えているが、私たちの側にその枠組みを持っている。このよ

うに他の人を見るということは、その人々を自分が仮説的に想定した自分の社会的な世界

の枠組みに合わせて取り込んでいることなのです。ある人についてのそれぞれの人の異な

る見方が違うということは、それは人々が持っている仮説が違うから違うのです。なかな

かそう思いたくないのですが、我々は外側のほうに、相手側に原因があると思いたいわけ

ですが、実はほとんど我々の側の心の問題だといえます。

他者のイメージが見る人の枠組みによって作られているということを示す簡単な実験例

を御説明します。子どもたちに、これは大人でも良いのですが、ある人を評価してもらい

ます。相手はどういう人かということを書いてもらう。先ず別々な子どもが同じ子どもを

評価する。それから同じ子どもが別々の子どもを評価する。そしてそれぞれで使われてい

る言葉にどの程度の一致度があるかということを調べます。前者の場合、同じ人間を評価

しているのですが二人の評価者の間では相当違っている言葉が使われている。ところが後

者の場合は全く違う人間を評価しているのですがほとんど同じ言葉が使われている。つま

り我々は評価される対象の側のほうに違いがあると思っているが、実は評価する人の頭の

中にそれぞれ違いがあるということなのです。簡単に言うと我々は見ている自分の側の尺

度で人を見ているということです。本来同じ人を見ているのですから相当同じ評価でなけ

ればいけないのですがこれが見る人によって相当違う。もし他の人についての我々の見方

の違いが、見た対象にある差であるとするならば、それは相当一致しなければいけないの

です。ところが残念ながら一致しないのです。実際には一人の子どもが二人の別々な子ど

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もを見た時に最も重なっている。考えてみればこれも当たり前です。つまり他の人をイメ

ージするため使われるカテゴリーはこちら側にあるのではなくこちら側にあることが分か

るのです。

さて、これまで人間に関する問題について人々は様々な理論を持っているということを

お話しました。そこにはいくつかの問題点があるということもお話をしてきましたが、我々

が青少年について論評し評価するには、まずそれは我々自身が持っている仮説に基づいて

いるということを、認識しておく必要があると思います。青少年自身にもちろん問題があ

るのですが、我々自身の仮説に基づいて見ているということです。

仮説は経験でつくられる

それでは皆さん方が持っているその仮説はどこからでてきたのだろうかということにな

ります。実はこの理論や仮説は私たちのこれまでの経験に基づいたものです。経験に基づ

いていることはとっても良いようにみえますが、実は経験の怖さというものもあるのです。

最初のところで私は科学としての心理学いうものと日常的な人々の判断についての話をし

ましたが、実はそこに問題があるのです。科学というのはどういうものか、実はこれも科

学者の間で色々と議論がありますが、ちょっと難しい話ですが、反証の理論といわれてお

ります。それに対して人々の持つ理論は経験論、実証論といわれるものです。経験の理論

というのは、経験に基づいて理屈を作る。実証論というのはあったこと、存在したことで

作る。しかし科学はかなりちがいます。科学はコップを二つ用意してこっち側に薬品を入

れて色が変わった、こっちに薬品を入れなかったら色が変わらなかったという二つを証明

して初めて説明をするのです。ところが私たちの人間に関することはあったことだけ、無

かったことは見ていないのです。盛岡に今日来て雨が降ったという 1 回の経験で盛岡は雨

の降る町であるということを言うのと同じことです。盛岡に 1 回来た人が盛岡は暑いなど、

それはたまたま暑かったのでそう思った。人々の理論はそういう実証の理論です。しかし

科学的理論というのは盛岡以外は暑くなり、盛岡は暑い日がないという反証が必要なので

す。つまり人間の現象に関してはそのように反証するというのが実際にはできないのです。

できないから困る。ある子どもがある育て方をしたら非行になった。ではこの子どもを別

の育て方にするというわけにはいかないのです。この子どもはこういう育て方しかしなか

ったのです。この子どもを元に戻してこちらは別の育て方をするというのは不可能です。

もちろん心理学などではこういう育て方をしたら頭が良くなったと言うとき、その他の

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様々なデータを総合することになりますが、そのようなことは普通はできない。自分を取

り巻く経験で説明をする。だから結果としてこの育て方が良いということになるのです。

そういう意味で人間についてはこのことは難しいのです。つまり経験から学んだ理論とい

うのは相当怪しいというか、限界があるということを見ていく必要があります。

このことで考えなければならないことに、若者と私たちの間には年齢の違いがあります。

私たちは経験をたくさん積んでいる。若者と絶対に違うのは年齢差ですから、経験量が違

う。そこで勘違いをするのです。経験を積み重ねると自分のほうがものを知っていると思

ってしまうのです。もちろん経験は素晴らしいですが、経験を沢山もつことによって問題

がおきることがあるのです。これが若者への対応に関することで問題がでてくるのです。

つまり子どもたち自身は自分の経験で大人とは別の理論を持っているということです。大

人は自分の持っている理論ということを本来は年をとって経験を踏んでくれば、相対化し、

子どもの考えでそれはそれで一つの理論だと考えてくれればいいのですが、なかなかでき

ない。これはその理論が良いか悪いかはまた別です。しかし子どものもつ理論を相対化す

ることはなかなか出来ないです。特に自分の子どもの考えは何馬鹿なことを言っているの

だといって認めないことになる。しかし落ち着いて話をしていればそれぞれ相手の言うこ

とは分かる。そういう話になって初めて経験論の相対化が出来る。そういう余裕と言いま

すか、広さがなかなか持てない。年をとっていると経験を積んでくるので特に難しい。あ

の著名な政治評論家がよく引用しますが「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という

ことはそういうことなのです。

さらに経験論というのは「選択的確証の理論」と言うのですが、自分の理論に合うだけ

のデータを探すという危険性を持つ。自分の理論に合うデータや事実だけを選択的に探し

出して、当てはまらないデータは見ないか無視するのです。子どもたちの良いことは見な

い。悪いことだけを見て、やはり最近の若者は悪い、根性がないというように。もちろん

私自身もそのように思わないわけではないのですが、根性がないとは言えないようなこと

もあるのではないかと思うのです。ところが反対のデータが出てきましても、もとの理論

を捨てないのです。反証が出てきても捨てないのです。別な解釈をする。たまたまその子

が良かったのだ。その子は特別な人間だと、別な解釈をする。心理学で「認知的不協和の

解消」という理論があるのですが、自分に合わないときは別の理論を作って、自分の論理

は変えないということです。当てはまらないデータは別な解釈をする。たまたまそうだっ

たというように解釈をしてしまう。ですから自分の理論は結果的に正しいということにな

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るのです。さらに実は選択的確証ということではなくて、予言が、予測が、仮説が当たる

ということは「予言の自己成就」という話で教育心理学の中でよく出てきます。この人間

がこういう人間だろうと、あの手の奴は悪いことをやるよと思うと、予言の通りになる。

教育場面では典型的に「ピグマリオン効果」と言われます。成績を本人のものとは無関係

にランダムに割り当てて、その成績を先生に渡す。成績が良いとされる生徒には先生はい

つも声をかけて結果的に成績が良くなる。成績が悪いという子どもにはあまり声をかけな

いので成績が悪くなるという非常に困った話です。日本ではそういうことは無いと思いま

すが、こちらが仮説を持つことによって相手の良いところを引き出す、こいつはだめな奴

だという仮説を持つことによって声もかけないということで能力は低くなるということを

「ピグマリオン効果」といいますが、そういうように予言が当たるのです。そしてますま

す自分の仮説が間違いない。私も歳をとってきますので、いつも反省をしていなくてはい

けないと思いますが。これは良い方になった生徒は、こいつは良い奴だといって伸ばして

いくので結構かと思いますが悪いと思われたやつはたまりません。「敵意の自閉的連鎖」と

いった喧嘩が起きるのもこれのようです。こちらがあいつはだめだと思っていると、その

とおり失敗をしてくれるのです。こちらが敵意をもつと、相手も緊張します。冷たい目で

じっと見ていれば相手も緊張してミスをして、敵意が敵意を生み、敵意の自閉的鎖を作っ

て、やはりあいつはだめな奴だということになるのです。

プラスがプラスを生むか?

我々のもつ理論については先程もお話をしましたが、繰り返しますが、単純とか二分法

とかいうものがお好みである。複雑性はあまり好まない。ここに来た人たちは相当プロで

ありますから心配要らないわけですが、何か少年を取り扱う単純なマニュアルが無いかと

いうことを聞く方がよくいますが、残念ながらそういうものは無いのです。そういうもの

があれば世の中はもっと変わっている。そうしたら人間そのものがもっとはやく滅びてし

まっているかもしれません。人間はそれぞれ違った多様性があるから一生懸命考えて、そ

の複雑性に合う理論を作ろうとするわけであります。ですから単純や極端というものはあ

まり良くない。悪い奴は悪い、良い奴は良いというようなことは割り切れないということ

は皆さんもよく御理解いただいております。もともと多面的で複雑なものが人間です。良

い奴は良いなどとは言い切れません。「ハロー効果」というか「後光効果」といわれるもの

は、あるひとつのことが良い奴は皆良いと思っていることです。ひとつ目立つことが悪い

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奴は皆悪いと思っている。こういうのは単純で良いですね。ところが優等生はすべて良い

と思っていると、優等生というのもなかなか悲哀があります。優等生の孤独とか場合によ

っては自分を良い水準、高い水準にきちんとみんなの期待に合わせて維持しなくてはなら

ない。これをずっと維持してくれていれば良いのですが、維持していくのが大変なのです。

つまり非常に高い水準で維持しなくてはならない。つまり良い奴は良いと我々が硬直して

みていると問題がおきる。これは今日の主題ではありませんからあまり話はしませんが、

私ども非行とか犯罪をするというときは当然その前の心の準備状況というものがあると考

えています。その心の準備状態はいくつかのタイプに分けております。上のように非常に

硬直化した見方、良いものは良いということだけ行っていると、実はそれが維持出来ない

ことに直面する。例えばお母さんが非常にすばらしいものを子どもに提供しプラスと言い

ますか、良いことだけを提供しているとします。実はお母さんがずっと生きていてくれれ

ば良いのですが、そのお母さんもいつか急に亡くなってしまうこともある。あるいは家庭

が急におかしくなって、その子どもが放り投げ出さなくてはいけないかもしれない。そう

しますと実はその事態の変化に対応できず、問題行動は一挙に起きてくるという例がある

のです。ですからその内容が良くても非常に硬直的だということ自体が今度は問題になる

のです。したがって母親が子どもにとって良いことだけを硬直的に提供して、それ以外は

絶対にダメだということを行っていると大変なことになってしまうということもあるので

す。ですから良いとかプラス面だけを与えていても、なかなかうまくいかないということ

があります。ですから単純で硬直的な対応ではなく必ずもう一方の面を教えていくといい

ますか、両面の複雑さを教えていかなくてはならないということになります。

ここにお集まりの方は青少年の問題を相当研究して、経験があるので人の多様性とか複

雑性については十分分かっていると思いますが、それほど難しいことではないと思います。

私が若い頃、少年院で少年に面接などをさせていただいていたのですが、そのなかで様々

な人たちに教えてもらいました。私の先生が「お前は面接するときにこういうように言い

なさい」。「何かこれまでに良いことをしたことはないかと聞いてみてください」。そうする

とびっくりするのです。大体何か事件をおこして少年院まで来るには 10 回以上は事件につ

いて聞かれているのです。お前はどこで何を悪いことをやって、何を盗んだと質問されて

いる。ところがずっと悪いことを質問され続けているので、すっかり自分は悪だと思い込

んでおります。ですから「何か良いことはしたことはないですか」などと言うとびっくり

するわけですが、散々考えているといくつかでてくる。後輩の面倒をみて褒められたとか、

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運動会で入賞した等ということを言うわけです。このような良い人だから全て良い、悪い

人だから全て悪いというような単純にはいかない。

先にお話したように我々はまず原因を求めようとする。何かの行動、非行なり何かの問

題がおきたときにその原因は何かということを考える。しかも過去に原因を求める。それ

も出来る限り簡単な原因を求める。先ほどのように複雑な原因ではだめです。簡単な、成

る程分かったという原因を求めようとします。つまりそれはよく考えると、その少年がな

ぜ非行をするようになったのは何かということではなくて、非行になった原因を私なりに

何か理解したいという話になるわけです。先ほど言った私たちの枠組みで理解するという

視点からいうと、この少年がなぜ非行を行ったかどうかではなくて、その少年が非行にな

ったかどうかということの原因を私の枠組で単純に分かったといっているだけの話になる

のです。こうした思考のモデルは自然現象ではともかく人間の現象では大変無理なのです。

現在の現象を過去の中に求めても実際にはどうにもならない。ところが人は過去に求める。

又、過去に原因があると考えたとしても、非行であるから何かそれに関連すると思われる

悪いものを探す。つまりマイナスがマイナスの、プラスがプラスを生むというように考え

るのです。過去の何か悪いものを探そうとするのです。実は研究者も結構そのようなこと

を行っています。ある研究者の本を見てみたら、非行の原因と書いてあって 1 ページにず

っと書いてある。それは何とまあ世の中の悪いことを探すとこのくらい悪いことがあるか

と思うほどいっぱい書いてある。まずは体の悪いことを書いてある。良いことは書いてな

い。知能が高いなんて書いてない。知能が高いから非行を犯すという例はいっぱいあるの

ですが、書いていない。知能が低い、能力が低い、性格異常、家族貧困、欠損と書いてあ

る。そのうち社会の混乱、そういうマイナスのものがマイナスになるというのは単純な話

です。そういう単純な議論を作ろうとする人もいます。非行の原因を悪いことだけ列記し

てある。マイナスにみえるものがマイナスの影響を与えると考えるのは単純なのです。良

いことを続ければ、あるいは善意で正しいことだけを行えば子どもは良くなると単純に考

えたいわけでありますが、たまたま昨日だか一昨日の朝日新聞の天声人語を見ていたら誰

かの言葉なのか「善人は困る」と書いてありました。どうも善意が必ずしも善意を生むと

は限らないということです。悪意はもちろん悪意を生む可能性はありますが、善意にも色々

あります。良いことをしたからといって、子どもが全て良くなるわけではありません。先

程言いました「非行を前提とする心の準備体制」の一つに順法的集団に反発するタイプが

あります。これはすばらしい家庭で、すばらしいことを子どもに提供しているのですが、

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それがこの子ども本人の状況や、本人の発達段階、本人の考え方とうまく合わないときに

おきるケースを想定しています。もちろん我々は順法的集団の中に生きており、多くの子

どもはその中で成長していく。しかしこの順法的集団が本人にとってピッタリ合わない、

それに反発するということがあります。その後の経過は単純ではありませんが、結果的に

悪くなるということもあるのです。ですから良いことを提供していれば子どもは良くなる

ということは、単純だということです。又、親や周囲が善意であるから子どもが問題を起

こしたときの調整が大変難しいのです。このことは皆さんのような方々の場合、自分の子

どもが悪くなったときのことを予想してみればわかります。自分は良いことをしている。

青少年問題、健全育成の責任者である。自分の子どもが悪いことをしたら大変です。そう

すると自分が良いことをやっていると思うから子どもにもっとそのプラスの傾向を強める。

その結果ますます状況は悪くなるということです。つまり我々の提供しているものはその

子どもとうまく係わりを持っているのか、そういうことを理解できる状況なのか、立場な

のかということを考えて、提供して行っていないとそういう問題がおきてくるということ

です。

次に親や先生から否定的に評価され続けるとこれはもちろん困る。あいつは悪だという

評価をされている。「非行理論」に「ラベリング理論」というものがあります。周囲からラ

ベルを張る。人からラベルを張られるとそのつもりになるということなのです。根っから

の悪という者もいないし、生まれつきの悪という者もいない。悪だからといってあらゆる

面で能力が低いマイナスだということはない。反抗や非行するには普通の社会的行動の上

手な遂行と同様な能力、場合によっては統率力だとか知的な能力があるはずなのです。悪

いことをしたが、このようなものを持っているということが実は「人間の矯正可能性」と

いえるものです。変えることの出来る可能性がそこにある。泥棒をするということは悪い

けれども、そのために人を統率したり、人をコントロールしたり、場合によっては人をだ

ましたりします。だますということは普通の人は商慣習でしょっちゅう行っているかもし

れないです。だますというのは悪いですが、人をその気にさせる能力を持っている。それ

をたまたま違うことに使っている暴力団や非行少年に「お前は盗みや暴力をお前の仲間に

どうしてしないのか。仲間内では仲良くやっている。それを外の人に広げれば良いのでは

ないですか。」というような話をします。あなたの行っている良いことを如何に仲間の外に

も広げるようにしなくてはだめではないか。ところが人々は悪い奴は悪だとレッテルを張

るのが好きなものですから、そいつは全て悪いということになる。研究者のほうでも相当

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ミスを犯しております。昔からある研究のモデルがあります。今はあまり使いませんが、

非行少年群と正常少年群とに分けるのです。非行少年群は少年院にいる子ども、正常少年

群は仙台や盛岡のある高等学校の生徒。これを比較すると差が出るのです。当然のことな

がら色々な差が出るのです。そうすると論文にして非行少年とはこのようなものだという

説明をする。一生懸命違いを探す。その差が非行少年の原因だ。何も非行した少年と全く

関係の無い別な高校生と比較する必要はないのであります。実は次のような比較をすれば

良い。ある人間が非行しているときはどういうことを行っていたのか。非行しないときは

どのようなことを行っていたのかを調べる。これは一人の人間の中での違いです。その中

で比較を行えば良い。そうするとこの子はこの時こういう状況でああいうことを行ってい

た。別な状況ではこんな良いことを行っていた。どういう状況は良いことが分かる。なか

なかこういう理解をするまでに研究者でも相当時間がかかっている。この違いをみれば彼

がどういうときに問題を起こし、どういうときに落ち着いたかということが分かる。こう

したところに先程言いました少年の矯正可能性があるということになります。しかしそう

いうように見ないで、あいつは非行少年だというようにレッテルを、あるいはあいつは悪

い奴だというようにレッテルをべったりはる。レッテル付けが「なるほど。俺は立派な悪

だ」というように思うようになる。私がある高等学校で行っていた面接でよく経験したこ

とですが、その学校は別な学校で問題を起こして退学になった生徒が入ってきたりします。

前の学校でちょっとした問題を起こしたことがあったが、そのときはその生徒を認めてく

れたある先生がいたのですが、その後又、問題を起こしたときにお前はもうだめだな、お

前は悪だなというように見放された。そのときに急に転がるようになってきて、「自分は悪

い奴だ」というように自己規定をする。つまり先生との関係で自分のアイデンティティー

をなんとか保っていたが、先生に見放されることにより、自分はそういう悪い人間だとい

うような別のアイデンティティーを作って、自己規定をしてしまった。その結果自他とも

に認める悪となる。そうなるとどんどん悪くなる。非行少年とか悪とかの自己規定はこの

ように作られる。このことは逆に他の人との関係が変わることによってプラスに変わるこ

とも意味します。

性格とは関係の産物

非行少年についてはこのことは比較的よく分かるのですが、皆さんは性格に関しても実

は同じだということをあまり考えたこと無いと思います。性格は何も血や肉のように体に

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くっついたものではないわけです。確かに骨格や血液とか身体的機能は遺伝するかもしれ

ませんが、性格というのは生まれたときから他の人によって、周りの人からによって、周

囲の人からによってその人を評価している過程から作られたものです。みなさん赤ちゃん

が生まれた時から「この子はかわいいね。この子はだれそれに似ているね。この子はおと

うさんに似ているね。おじいちゃんに似ていい顔をしているね。」とか色々なことを言って

いる。性格とはこのように言われ続けた歴史なのです。この評価の歴史の中でそれをだん

だん取り入れて自分のイメージを作っていく、性格が作られてくる。その歴史の中で作っ

た自分に対するイメージなのです。つまり先程から言っているほかの人からの評価から作

りあげられたその人のイメージなのです。ですから性格は体の中にあるのではなくて、他

者との関係にある非常にあいまいなものなのです。実際に「自分の性格は何か」と言われ

てみてもあまりはっきりしない。性格テストなどもある面から言えば、どんな記述も半分

くらいは当たっていると思います。だから街のインチキ心理学のテストがはびこるわけで

あります。従って人の性格は変化の可能性はあるということです。変化の可能性というよ

りは、それは状況との係りで、現在生じているひとつの過程であります。その人自身のイ

メージも変えることができます。変化しないとしたらそれは人間関係が変化しないか、取

り巻いている人たちの持っているその人を評価している尺度が変わっていないから変化し

ない。周りの人が変わらないで周りの人があいつは悪だと言っているものですから変わら

ない。人間関係が変化しないと、それによって作られたその人の自己観が変化しない。あ

る日突然昨日まで暗いと思われていた人間が派手な服装で学校にきたらあいつは変だと思

われる。つまりそれはがっちりとした人間関係の中で作られたものがその人の中に固定化

していると思い込んでいる。ですから人間関係の変化や自己観の変化は決して過去にある

ものではない。それは取り巻く人々の関係の変化、そしてそれの変化に伴って自分のイメ

ージを変化していくという未来展望的なものなのです。さきほど「personality is unique」

ということをいった心理学者の Allport が、これも人間についての色々な見方を提供してい

ます。その中に「過去が現在を突き動かしているのだ」という説明をしている心理学は皆

さん知っています。フロイトです。過去の経験が現在を統制している。もう一つは多くの

心理学は「刺激によって人は動く。報酬があるから人は動く。」これは多くの動物がそれに

当てはまる。その 2 つでかなり人間を説明できるが、Allport は「人は未来に向けて発展す

るのだ。そういうプロセスの中にある。現在はプロセスに過ぎない」ということを言って

いる。これから先なのだ。先に向かっているところが人間なのだということを言っている。

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性格とかいうものを何か過去の規定されたものだというように考えるのはいかがかという

ことです。そういう意味で青年のように発展途上にある人間は、過去よりも現在、将来の

方へ、将来に向かうプロセスであるとみていく。我々の将来は短いですが、青年はこれか

らの大器です。大器と可能性に満ちた人間としての評価を大いにしていく必要だと思いま

す。

真実は中間に

さて、人々の持つ理論の特徴についてみてみましたが、極端とか二分法であるというこ

とは繰り返しお話をしました。このことは先に一部お話しましたが、教育における「厳格

論」と「自由論」とに分かれます。かつて「自由論」、「自主尊重論」が幅を利かせており

ましたが、最近では「厳格論」が多くなってきている。極端でどちらも問題だということ

です。すでに指摘したように、厳格というのは先程言ったように順法的なタイプにおける

問題があります。自由型というのは、これはまた問題がある。これは自主性を重んずると

いいながら実際は、放置しておくということがあります。自主性を重んずるといいながら、

実際にはそれは子どもに自信を持ってきちんとした考えを提起していないのです。子ども

の自由にといいながら実は何も提示していない。先ほどお話した非行の前提としての心の

準備体制のひとつのタイプに「価値基準混濁低水準型」というタイプがあります。何をや

るべきかどうかということを提示しないで、その時その時に子どもが欲しければそのまま

好きなようにしなさい。一貫していないのです。あるいは非常に低いレベルでしか提供し

ていない。これは現代の非行の例として一番多い。自由型は本当の意味では厳格な対応以

上に大変なのです。厳格な対応以上に子どもの状況を常に把握して常に適切な助言や関わ

りが必要な逆の意味で非常に厳しい心の対決を必要とする手法です。現実には青少年とそ

うした対応が面倒だと考える大人が免罪符として使っている。カウンセリングでは古典的

にクライアント中心ということになっている。あるいは指示しないと言います。知らない

人は「カウンセラーってただ話をきいていれば良いので楽ですね。」ということになる。何

もしないから良いのだと。自由にしておけばカウンセラーというのは楽で良いですねと。

ところがとんでもないのです。自由にしてその心の動きを的確に判断して、その時その時

のちょっとした反応にカウンセラーが全身全霊を傾けて適切に反応してその人の自主性を

引き出そうという、まさに戦いなわけです。河合隼雄先生がこの間言っておりましたが、

本当に戦いなのです。大変な厳しい対決をしながら自由に自主性を尊重する方法がカウン

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セリングです。ですから自由型という場合、表面的な厳格な対応以上に子どもの状況把握

していくことが大変なわけです。ですからカウンセラーの人たちはもう大変なのです。厳

しい対応と自由派というのはどちらも、子どもの心に対応できその心にきちんと関わるよ

うな形であればそれはどちらでもいい。ところが厳格派も自由派も極端です。厳格一本や

り、自由放任一本やりで真ん中が無い。

状況を過小評価する

さて、最初にお話しましたが、状況の過小評価ということを終わりに再度触れます。人々

の理論の持つ特徴として状況や関係ということをあまり見ないということです。数年前ラ

ジオの電話相談というものがあり、1 日 3 件くらいありますから 1 ヶ月も聞いているとかな

りのケースが出てくる。あれを聞きながら色々勉強したことがあります。面白いことには

お母さんが電話をかけてきて「中学 3 年の次男が問題なのです」と先ずいう。問題はこの

子だとそこからはじまるのです。この子が問題だと思う。実はこの子を取り巻く全部が問

題なのですが、なかなかそういう風には言えないです。まず特定の子どもが問題だという

ように我々は思う。そうした癖がついている。問題はこの子だ。実は最初から私の家庭が

問題なのですという人はいません。その子の中に特有な、さらにその子の心の中の特殊な、

その子の頭に生理的におかしいとかないので、脳におかしいことがないのか、心理的に異

常がないか、何とかその子どもの心の中に体の中に原因を求める。それを聞くと安心する

のです。冷静に考えれば人の行動はその行動をとる本人と、その行動を引き金としてその

対象となる場や状況や関係の複雑なダイナミックな関係で起きるのです、これは。私が今

ここで話している行動は私一人によっておきているのではない。皆さんがいるからです。

皆さんが熱心に聴いているからしゃべっているのです。誰もいなければ「しゃべろ」とい

われてもしゃべりません。すべての行動は関係の中で起きている。ところが私の今日の話

の中身は皆さん「あいつはあまりたいしたことをしゃべらなかった」とか、「あいつはあま

り頭がよくない」とか言う。まさかそういうことはおっしゃらないでしょうが、そういう

ように私に責任をかぶせる。そう簡単ではないです。皆さん方に相当責任があるのです。

全然拍手がありませんが、相当責任があるのです。ですからつまり我々の行動はこのよう

な関係とか状況とともにあるということです。ところがそう考えない。これは原因説明の

基本的なエラーと言われています。つまり人間が人の行動の責任を考えるときに状況を考

えないという癖がついているのです。行為者自身はもちろん、我々は青少年の問題行動は

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もちろん本人に第 1 次的な責任があるということを否定しているわけではありません。し

かしそれは同時に関わる我々自身の問題でもあるということは、お題目としては言うかも

しれませんが、本当には思っていない。

おわりに

青年期は揺れ動く時代であり、時として青年自身が本来環境や状況に帰してもなんら問

題が無いような状況であってもあえてそうしたことをしないで、青年自身が内省的になる

こともあるのです。つまり青年というのは生産の場面からもっとも遠いところにいるわけ

です。働いていない。だからどうしても内なる世界に入ってしまうことも出来る。勝手に

自ら悲劇のヒーローを演じたり、今までは家庭で庇護されていたところからぬけだそうと

もがいている時期です。自分の中に自分自身の存在証明を求めよう、生き方・価値観を得

ようとしている時期です。自由であるだけにその道には様々な危険が待ち構えている。個

人の内的過程の過大評価は、あなた方がそうなっているのは実はあなただけの問題ではな

いのだということがわからないようになる。だんだん自分の性格のあり方や、内なる神秘

を求めて、間違えると擬似的な宗教に救いを求めるということもあります。自由の尊重と

いう免罪符の中に我々が適切な指針や悩みや展望に状況即応的、適時適切に指針を提供で

きないとしたら、青年たちはそういうものに準拠しないで変な宗教であるとか心の神秘に

はまってしまったり、行動しない、悩みを抱えた内向きの対応をとっていきます。そうで

なければ、もっとも手近な「皆」であの仲間だけを彼らの行動のものさし、行動指針とす

るか、多様な魅力的な表現をする多くのマスコミの世界という非常に魅力的な世界での情

報、さらにインターネットで提供されるバーチャルな世界、これがもう最大の友となり行

動指針となってしまう。こういう情報社会や環境の変化に我々はかなりおろおろしている。

この情報社会は相当変わっている。今時の若者と批判していてもなかなか難しい。多くの

悩みを抱えている青年の問題は青年自身とそれに関わる大人の産物であり、そのことに関

わる方の変化によって変わりうるということをもう一度確認した方が良いと思います。家

族の中で大人として単に存在しているということだけではなくて、この辺は今日のこれの

御議論だと思いますが、一歩踏み込んだ対応というか、コミットする、サポートする、支

持的関係を作るということが求められている。これは単純な厳格さではないということは

述べたとおりです。それぞれの発達段階の状況に応じて適時適切な対応がとられるべきで

す。また、我々自身が成熟した柔軟な包容力のある質の高い理論を持っていなければなら

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ないだろうと思います。

今回の基調講演としての責任はあまり果たせないと最初から思っていましたので、その

点は御勘弁いただきたいと思いますが、この後専門のそれぞれの分野の方にお話をいただ

きますので、そういうところでそういう疑問を投げかけていただければと思います。

熱心に聴いていただきましてまことにありがとうございました。何かお役に立てばと思

います。御清聴まことにありがとうございました。

参考文献

・ 「しろうと理論・日常性の社会心理学」(A.F. ファーンハム著・細江達郎監訳)

北大路書店 1992

・ 「犯罪心理学」(細江達郎著)ナツメ社 2001