軍国少年たちの戦前・戦後 - 東北学院大学 · 2013. 4. 26. ·...

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人間情報学研究1820131338Journal of Human Informatics Vol.18 March,2013 軍国少年たちの戦前・戦後 片瀬 一男 *) Pre and Post War Period of Boys Who Wanted to be Soldiers. Kazuo KATASE - 原 著 - 13 東北学院大学教授 Tohoku Gakuin University Abstract Using 1975 SSM Survey data, we examined Japanese boys who wanted to be soldiers (Gunkoku Shonen) in pre‑war period and their life course in post‑war period. We found that they came from lower‑middle strata and had ambitious aspiration in pre‑war period and also achieved lower‑middle status in economic growth period. Many of them entered public sector and finally occupied administrative position. We see that they also continued to hold cult of success and high occupational aspiration in post‑war period. Keywords: 1975 SSM Survey data, Occupational aspiration, Gunkoku ShonenCult of success

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人間情報学研究,第18巻2013年,13~38頁

Journal of Human Informatics Vol.18 March,2013

軍国少年たちの戦前・戦後

片瀬 一男*)

Pre and Post War Period of Boys Who Wanted to be Soldiers.

Kazuo KATASE

- 原 著 -13

* 東北学院大学教授 Tohoku Gakuin University

AbstractUsing 1975 SSM Survey data, we examined Japanese boys who wanted

to be soldiers (‘Gunkoku Shonen’) in pre‑war period and their life course inpost‑war period. We found that they came from lower‑middle strata and hadambitious aspiration in pre‑war period and also achieved lower‑middle statusin economic growth period. Many of them entered public sector and finallyoccupied administrative position. We see that they also continued to holdcult of success and high occupational aspiration in post‑war period.

Keywords: 1975 SSM Survey data, Occupational aspiration, ‘GunkokuShonen’ Cult of success

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片瀬一男

人間情報学研究 第18巻 2013年3月

軍国主義軍事力を国家の中核とし、政治・経済・教育などをこれに従属させようとするイデオロギーや体制のこと。

1936(昭和11)年の二・二六事件以降に軍部が政権を掌握し、1937(昭和12)年の日中戦争の開始以来、翌38

(昭和13)年の国家総動員法によって統制経済体制を確立し、40(昭和15)年の大政翼賛会や大日本産業報国会による政界・労働界の支配、41(昭和16)年の東条内閣による太平洋戦争開戦をもたらした。政治・経済教育研究会編,2009,『改訂版:政治・経済用語集』:20

はじめに

かつて―主として大正・昭和初期には、「軍国少年」と呼ばれた男子がいた(瀬戸・小島 ,2004,佐藤 ,1999,2007)。たとえば、映画評論家の佐藤忠男は、昭和5(1930)年に新潟県に生まれたが、小学校時代のこんな体験を紹介している(佐藤,2007:10‑11)。尋常小学校6年で佐藤は性に目覚め、妊娠の仕組みについて友人と情報交換をしていた時に、友人から天皇も性行為をするのかと尋ねられた。そこで、思わず「そうだ」と言ってしまった後、自分は「不忠者、非国民」ではないかという不安から、その夜一晩中、「得体のない恐怖」に襲われた、という。彼は「本当は天皇も普通の人間なんだと分かっていたのに、神かもしれない、少なくともそう信じるべきだ、という気持」があり、「半信半疑」だった、という1)。さらに小学校6年の3学期に中学受験のための補習授業で模擬面接が行われ、担任の教師から「日本に生ま

れた仕合わせは何か?」と質問され、受験参考書などに載っている模範回答が「日本は軍隊が強いからです」「万世一系

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の天皇をいただいているからであります」であると知りながら、言い淀んでいるうちに、憤慨した担任に中学受験の資格はない──ただし、後日その担任は佐藤の中学受験を認めたが──と叱責されたという。その後、市内に新設された中学──のちにみるように、この時期は、中等教育の拡大期にあたっていた──を受験するが、学科試験ができたはずなのに、佐藤は不合格になってしまう。その後、仕方なく入学した小学校高等科のとき、その中学の入試の「裏情報」に詳しい教員から、佐藤は自分が不合格になった理由を知らされる。中学受験の初日、中学の校長──愛国主義者として知られていた──は、受験生全員の首に番号札をぶら下げて講堂に集め、明治天皇の短歌を3首、朗読したが、その際、頭を下げていなかった受験生を受験生の周りに配置した教師たちに番号札で確認させ、合否判定に使っていたからだという(佐藤,2007:19‑21)。そこで、佐藤の進学や学校に関する考え方が大きく変わった。相変わらず母親は進学を勧めるが、中学や師範学校にも行きたくない。これ以外の進路で、当時の小学校高等科で奨励していたのは、満蒙開拓少年義勇隊への応募と少年兵への志願であった。また近在の工場に就職するという道もあったが、いずれにせよ20歳になったら兵役があって、戦争が激化しつつあった状況──佐藤が14歳だったというので、昭和19

年頃──から見て、間違いなく戦争に行き、戦死する確率も高いと思われた。ただ、少年兵に志願すれば20歳では下士官で死ねる、そうすれば自分を入試で落とした中学校長を見返し、自分の方が本物の愛国者だと証明できる、うまく

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軍国少年たちの戦前・戦後

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いって生還できたら軍隊で身に付けた技術で身を立てられることができるかもしれない2)、―こんな思いで佐藤は、「愛国的情熱に燃えていたわけでもないにもかかわらず、とりあえず、愛国的な日本男児らしいフリをして」(佐藤,

2007:26)、小学校高等科を卒業後、乙種海軍飛行予科練習生となって高野山海軍飛行隊に入隊した。そして、その3ケ月後、高野山麓の村で農作業の手伝いをしているうちに終戦を迎えた。この佐藤(2007)の体験は、いわば屈折した消極的な軍国少年のあり様を物語っているが、もっと積極的に軍人を志願した少年もいた。放送作家・タレントだった前田武彦は、「典型的な軍国少年」で、昭和4(1929)年に東京・大森区(現・大田区)の田園調布で倉庫会社社長の次男として生まれたが、小学校時代から戦争ごっこが好きで、昭和12(1937)年に始まった日中戦争下、映画館で戦果を伝えるニュース映画に熱中し、海軍に入って戦闘機乗りになることを夢見ていた。そして、中学3年の時、親に「予科練に行く」と宣言する。両親は内心は反対だったようだが、それを口にすれば「非国民」扱いとなるので、しぶしぶ前田少年の意向を認めざるを得なかった(前田,2004:372‑375)。戦況も悪化しつつあった昭和18(1943)年、前田少年は予科練甲種飛行予科練習生として、搭乗員の短期養成を受けることになる。というのも、ミッドウェー・ソロモンの航空線で搭乗員を失った海軍当局は、搭乗員の短期養成生を急募したからである。前田は、入隊後すぐに奈良分遣隊に配属されて丹波市(現・天理市)に向かい、数学・物理・歴史・国語などのほか、通信、軍制史、航海術などを「座学」で学ぶが、海のない奈良ではカッター訓練など受けることができ

なかった。その上、昭和19年になると、戦況のひっ迫から、飛行術を学ぶといった悠長な時期は過ぎ、「海上特攻兵器要員」(前田,2004:383)に振り分けられ、山口県の柳井基地に赴任することになる。そして、真珠湾攻撃にも使われた特殊潜航艇を発展させた「蚊竜」(甲標的丁型潜航艇)に乗る訓練を受けているうちに終戦を迎える。「負けて悔しいというより生き延びることができてうれしい」というのが、前田の終戦時の感慨であった(前田,2004:387)。前田が都市部の上層ホワイトカラーという出身階層から海軍軍人を目指したのに対して、農村部の貧しい家庭から陸軍士官を目指した者もいた。佐藤(2004)が詳説した「情報官」(終戦時の階級は陸軍大佐)・鈴木庫三はその典型であろう。彼は明治27(1894)年すなわち日清戦争開戦の年に茨城県の農家の第7子として生まれ、小学校時代に日露戦争を見聞している。彼の「思出記」をもとに、佐藤(2004)は、鈴木の幼少期の「出生の秘密」から紹介する。鈴木家は、多数の雇用人を抱える豪農であったが、末子である庫三は、生後間もなく、母親の母乳が出なくなったという理由で、小作人であった大里家へ養子に出される。しかし、養家がその後、困窮を極めるなかで、尋常小学校の成績はクラスで一番、級長も務めるが、貧困のため遠足にも参加できなかった。『太閤記』を読みふけり、日露戦争の戦果の報道に刺激されて、鈴木はやがて軍人を志願する。しかし、養家の経済力では高等小学校への進学もままならず、結局、実家の鈴木家から援助を受け、進学を果たす。けれども、彼の陸軍幼年学校への進学の夢は養父によって退けられる。養父にとって鈴木はなくてはならない農業労働力であったからだ。そこで、高等小学校卒業後は、養家の農業

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片瀬一男

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を続けながら、通信教育(講義録の勉強会)などで独学をする。やがて養家は、「村で一番大きい小作人とな

った」(佐藤,2004:63)。この時期、鈴木は、現役士官が陸軍士官学校を受験できる可能性は、数学や物理などを学んだ砲兵工長になることだと知った。砲兵工長ならば、陸士受験に必要な普通学を兵営内で修得できたからである。大正2(1913)年、彼は砲兵工学校への受験願書を出し、養父母にそのことを伝えると、ようやく進路を認めてもらう。鈴木は、弟らに後事を託し、受験に臨み、合格する。東京の砲兵工学校入学後も苦学を続け、やがて陸軍士官学校受験を目指して勉学に励む。その間、三等銃工長として、青森の歩兵第五連隊、盛岡の騎兵第二四連隊を経て、ついに大正7(1918)年、陸軍士官学校に入学した。その後、鈴木は「情報将校」としての道を歩むが、その形跡は佐藤(2004)が、鈴木の日記や手紙などをもとに、丹念に記述し、その再評価を試みている3)。

1.奉公・献身の恣意的解釈:軍国少年の

「立身出世主義」

このように、近代日本におけるアスピレーションの形成過程とそれが果たした歴史的役割を考える上で、特異な位置を占めるのは、これまでみてきたように、戦前の少なからぬ少年たちが抱いていた職業軍人(とくに少年志願兵や将校)へのアスピレーションである。日本における社会階層・移動研究で、アスピレーションが最初に調査されたのは、1975年の「社会階層と移動全国調査」(SSM調査)である。この調査では、義務教育の最終学年の時点で、どのような教育を受けたかったのか、またどんな仕事に就きたかったか回顧的な回答を求めている。戦

前の義務教育は、原則として 尋常小学校6年までなので、12歳時点でのアスピレーションを尋ねていることになる4)。そこで、1932年生まれ以前の者が旧軍人アスピレーションを抱く可能性があった。表1は、この1932年生まれ以前のコーホートについて職業アスピレーションを小分類レベルで集計したものである。もっとも多いのが農耕・養蚕作業者21.8%(177名)であるが、これに次いで職業軍人が17.0%(138名)となっており、この2つのカテゴリーだけで4割近くを占めていることになる。このうち農耕・養蚕作業者は、家業を継承するという意味合いであろうが、職業軍人は後にもみるように、それとは性格を異にしている。

16

%

177 21.8

138 17.0

* 35 4.3

* 31 3.8

27 3.3

26 3.2

* 24 3.0

* 24 3.0

22 2.7

19 2.3

* 16 2.0

13 1.6

* 12 1.5

11 1.4

表1 1.1932年以前生まれの職業アスピレーション

注)度数10 以上。*印は職業小分類にあてはまらない自由回答をまとめた追加コードを意味する

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軍国少年たちの戦前・戦後

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もちろんアジア太平洋戦争(第二次世界大戦)は、必ずしも職業軍人だけによって担われたわけではなく、河野(2001:11)も指摘するように、明治6(1873)年に導入された「徴兵制」という近代国民国家の所産が、「動員社会」すなわち社会のあらゆる階層から戦争へと動員する体制の端緒を開いたことになる。さらに第一次世界大戦以降、戦争は軍隊と軍需産業だけでなく、政治・経済・文化をはじめとするあらゆる領域を巻き込んだ「総力戦」の観を呈し、本格的な「動員社会」という体制を整えてきた。こうした総力戦体制のなかから「職業軍人アスピレーション」が生じてきたのである。とくに総力戦体制下では、兵士の「戦闘意欲」を高めることが重要となる。河野(2001:14)によると、いかに軍隊組織を整備し、官僚制化をすすめて近代的兵器をもたせても、兵士の戦闘意欲を高めなければ戦闘はできない。そこで第二次世界大戦で米軍捕虜になったドイツ軍兵士への面接調査によって、戦闘意欲を高めるのは、クーリー(Cooly,1902=1921)のいう「第一次集団」の重要性が指摘されてきたという。すなわち、兵士の士気を高めるにはイデオロギーや敵対感情よりも軍隊のなかで培われた「第一次集団の絆」であるとされた5)。河野(2006)は、ガダルカナル島における総力戦の史料をもとに、慢性的な飢餓状態と弾薬不足にあった日本兵を戦闘に向かわせたのは、皇軍意識や天皇制イデオロギーではなく、彼らの連帯感すなわち「第一次集団の絆」であることを明らかにしている。実際、先の表1でみたように、戦前期には、

軍人になることは、少なからぬ男子にとって憧れの的であった。しかし、このことは天皇制イデオロギーの「内面化」という図式によって説明されるものではない。戦前期の史料を猟歩し

た広田(1997)は、その結論部にこう記している。

結局のところ、すべての国民が「臣民」または「皇民」として、イデオロギーを心理構造の中核的な価値として内面化したから、巨大な抑圧機構としての天皇制が作動していった、というわけではなかった。イデオロギーの内面化はそれほど徹底していたわけではなく、それにもかかわらず、人々は抑圧機構の管理者でもあり被管理者でもあるような役割を担っていったのである。言い換えれば、戦前期の天皇制は、内面化なしでも十分作動しうるシステムをなしていたわけである。

広田(1997:416)

広田(1997:378‑381)が、戦前期の職業軍人アスピレーションの形成において注視するのは、天皇制イデオロギーの内面化ではなく、陸軍士官学校生や幼年学校生、士官層が特異な仕方で形成した立身出世主義である。すなわち、陸士教育によって「反集団的性格を除去した立身出世アスピレーション」が国家への「奉公=孝行=出世という同値化によって、立身出世を積極的に肯定する心理構造の形成へと導かれていった」(1997:380)とされる。広田によれば、立身出世主義は、陸軍士官学校生が戦時体制の担い手層として参戦していった際のある種の「自発性」の源泉であったという。必ずしも社会の上層出身ではない──このことについては、本稿でものちに検討する──陸軍士官学校生や幼年学校生においては、上昇移動欲求は精神的に昇華されて、天皇への距離の近さという精神的満足に収斂したのではなく、刻苦勉励による「出世」を奨励する「金次郎主義」(見田 ,1967=1971:189‑190)がそのまま戦時体制を支える別のイデオロギーへと再編されていったのである。この再編成されたイデオロギーは、

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戦局が絶望的となった時期にも、上官への「点数稼ぎ」のために部下を酷使する下士官にみられるように、その機能を失わなかった。また、見田(1967=1971)のいう「タテマエ

とホンネとの間の矛盾」すなわち建前は国家に献身しつつも、本音では家郷を背負った個人が利己目的を追求するという矛盾は、広田(1997)によれば、少なくとも戦時体制を積極的に担っていた憲兵や教員においては矛盾しておらず、作田(1972)のいうように「相互浸透」あるいは「同じ個人の意識の中に微分化して併存」していたという。こうして、広田(1997)によると、国家への「滅私奉公」は「立身出世」を「滅私奉公の儀礼化」をつうじて正当化するだけではなく、両者が「相互浸透」していたから、その両者の間には2つの現実的な心理機制がみられるという。1つは私的利害を優先して充足しようとしながら、結果的にそれが所属集団への奉公になるという「予定調和」である6)。もう1つは、私的な利害の充足を否定する規範ゆえに一度は自己利益の追求を否定しながら、実際にはそれを「奉公」「献身」に結びつける思考である。そこでは、奉公・献身の「恣意的解釈」→欲望の潜入→献身行為への没入→結果としての欲望の充足という思考回路が働き、「自らは献身行為と意識しながら結果的に私的充足に向かう」(広田 ,1997:379)という。しかも、この2つの思考回路は、明治・大正期から戦時期の官僚組織の末端にも引き継がれ、軍国主義の担い手から「自発性」を引き出すことで、戦争への積極的加担を可能にしていたのである。実際、広田(1979:173‑301)による陸軍士官

学校・幼年学校における将校養成教育の分析からは、集団利害と対立する私的利害の追求は「利己主義」として排斥されたが、集団規律に

則った競争は集団への貢献として賞揚されることで、「反集団的性格を除去」されたアスピレーションの発現として、「立身出世を積極的に肯定する心理構造の形成」に向かった、とされる。つまり、「もっともイデオロギー的な性格が強かった」はずの「将校養成教育ですら、「無私の献身」の教え込みは立身出世アスピレーションを消し去らなかった」(広田,1997:380)のである。本稿では、こうした「軍国少年」たちの立身出世主義が、戦後日本に何をもたらしたのか検討することを課題としている。これまでの戦前期の教育に関しては、広田

(1979)をはじめ、陸軍将校の教育と選抜・昇進に関する研究(河野,1989a,b,2001,遠藤,1994)が中心だったが、本稿では1975年のSSM調査データの再分析によって、いわゆる「軍国少年」──後にみるように実際に「職業軍人」になった者は少なかった──の戦前(出身階層)と戦後(職歴と社会意識)を考察していきたい。

2.職業軍人アスピレーションの盛衰:軍国

少年たちの戦前

2.1. 軍人アスピレーションの推移

明治後期から大正・昭和前期に軍人志望者の変動が、その時代相を反映して著しかったことは、広田(1997:60‐63)がすでにふれている。それによると、陸士志願者・採用者数の推移からは、明治20(1887)年の士官候補生制度の発足以降、数年間は減少したものの、明治27(1894)

年の日清戦争の勃発以降激増している。「日清戦争の勝利は青少年の軍事的英雄の崇拝熱を生みだした。士官学校の志願者の中には高等中学(後の旧制高校)から陸士を受験して軍人をめざす者すらあった」(広田,1997:60‑61)とされる。そして、広田(1997)は、後に陸軍大臣(斎

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軍国少年たちの戦前・戦後

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藤・岡田内閣)から昭和12(1937)年に総理大臣を歴任した林銃十郎を例にとりあげ、林が旧制第四高等中学校(現・金沢大学)時代に経験した日清戦争を契機に、政治家(県知事)志望から軍人志望に転じ、陸軍士官学校に入学したことを指摘している。林の家はもともと加賀藩士の流れをくみ、伯父の1人が陸軍少佐として日清戦争に従軍し、戦況を林に詳細に伝えたためであるとされる。さらに、図1(広田,1997:61)に示したよ

うに、明治37(1904)年の日露戦争開戦時から志望者(実線)が急増し、大正6(1917)年に第一のピークを迎えている。また採用者(破線)も軍縮ムードにあった1910年代後半から20年代半ばまでは陸士志願者は2,000名程度で推移していたが、1920年代後半から40年代にかけては急増し、第二のピークを迎えている。また採用者数をみても、日露戦中の明治38(1905)年には1,190名、また日中戦争の開戦の翌年にあたる昭和13(1938)年には1,686名と突出した数となっている。広田(1997)によれば、陸軍幼年学校は日露・日清戦間期の明治30(1897)年

に、それまでの東京1校体制から、仙台・名古屋・大阪・広島・熊本に陸軍地方幼年学校が5校増設され、東京と合わせて各校50名、計300

名の採用となった。それでも競争率は4倍前後と、当時の旧制高等学校(2倍程度)より高く、東京高等商業学校(4倍前後)、東京高等工業学校(3~4倍)に比肩するほどであった。その背景には、明治前期には地域的偏りがあった競争が、戦前期には全国化したこと、中学校生徒の増加によって志望者の社会的背景が拡大していったことがあるとされる(広田,1997:63)。

そこで、1975年SSM調査における職業軍人アスピレーションの時代的変化から広田(1997)の指摘を確認してみよう。この分析をするにあたって、1932年以前の出生コーホートを表2にあるように3つに分けた。まず戦前第1出生コーホートは1906‑15年生

まれで、義務教育終了(12歳)時は大正7(1918)年から昭和2(1927)年にあたる。この義務教育終了期に起こった事件や政治の動きとしては、シベリア出兵と米騒動(大正7年)、原敬内

19

図1 陸士志願者・採用者数の推移  出典:広田(1997:61)

採用者

志願者(人)10000900080007000600050004000300020001000

採用者(人)500450400350300250200150100

志願者

1900

11901686

1910 1920 1930 1940

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閣のもとでの国際連盟加入(大正9年)、普通選挙法公布(大正14年)などがあり、軍縮と大正デモクラシーの時代として特徴づけられるが、大正14(1925)年には加藤高明内閣のもとでの治安維持法の公布、昭和2(1927)年には田中義一内閣による第一次山東出兵など、のちの軍国主義につながる時代でもあった。これに対して、戦前第2出生コーホートは、

義務教育終了時が昭和3(1928)年から昭和12

(1937)年の間であり、この時期は張作霖爆殺事件(昭和3年)に始まり、世界大恐慌(同4年)、浜口雄幸内閣のもとでのロンドン海軍軍縮条約調印と統帥権干犯問題(同5年)の後、満州事変(同6年)、五・一五件(同7年)、国際連盟脱退(同8年)、二・二六事件(同11年)を経て日中戦争(同12年)へと次第に日本が戦争へと歩みを速めた時期にあたる。最後に、戦前第3コーホート(1926‑32出生)

は義務教育終了が昭和13(1938)年から昭和19

(1944年)にかけてであり、この時期には国家総動員法の制定(昭和13年)に始まり、ノモンハン事件(同14年)、近衛文麿内閣のもとでの日独伊三国同盟の締結と大政翼賛会の発足(同15年)を経て、最終的にはアジア太平洋戦争の開戦(同16年)と至る本格的な軍国主義体制の確立と戦争の時代であった。

そこで、この3つのコーホートごとに、職業軍人アスピレーションをもつ者の度数と比率を上位5位に限って示したのが、表2である。まず戦前第1コーホートでは、職業軍人志望者は4

位(10人、全体の5.2%)であるのに対して、戦前第2コーホートでは2位(53人、17.4%)、戦前第3コーホートでは1位(75人、23.7%)と、軍国主義体制が固まり、戦争に突入するにしたがって急増していることがわかる。これに対して、「商売・店をつぐ」(2位→4位→9位)、大工(3位→10位→10位)を志望する者が順位を下げている。その一方で、「農耕・養蚕作業者」を志望する者は戦前第3コーホートでは、順位を2位と下げるものの、この間、一貫して2割台を保っており、農業層の家業継承への執着をみせている。もちろん、こうした職業軍人熱の高まりの背景には、河野(2001)が指摘するように、第一次集団をはじめ、文部省と陸軍省による青年教育による働きかけがあったことは間違いない。それによると、まず徴兵検査前の社会化過程において、青少年は「重要な他者」(Mead,1934

=1973)である家族や親族の影響をうける。この時代、父親もしくは親族には日露戦争経験者が少なくなかった。そのことが戦前期の青少年に将校といった軍人への志望を植え付けた事例

20

1916-25

12 1928-37

46 24.0

17 8.9

13 6.8

10 5.2 *

8 4.2 *

1906-15

1918-27

*

12 1918-27

1926-32

12 1938-44

67 22.0

53 17.4

13 4.3 *

12 3.9

10 3.3

75 23.7

64 20.2

16 5.0

10 3.2

10 3.2

表2 戦前出生コーホート別にみた職業アスピレーションの分布(上位5)

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がみられるという(河野,2001:54)7)。その後、社会化のエージェントとなるのは地域社会と学校教育である。河野(2001:29‑34)によれば、日露戦争後の明治39(1906)年に採択された「帝国国防方針」は、この時期以降の日本の「動員社会」体制を急速に進めた。この時期の動員規模の拡大は、在郷軍人を中心とした「予備兵力重視型の動員体制への移行を余儀なくさせた」。その結果、現役歩兵の在営年数は3年から2年へと短縮されたが、このことは徴集率の増加に伴う徴集兵の質の低下をもたらした。また同時に予備兵力の戦時動員の効率を上げるために、平時における在京軍人の「練度」を維持することが新たな課題となった。そこで、陸軍が注目したのは、「在郷軍人組織」であり、これを官製の「帝国在郷軍人会」へと組織化しなおし、動員業務を始めとする軍事行政を確立することであった。在郷軍人会の全国的な組織化は、明治43(1910)年から始まり、大正元(1912)年の規約改正によって入会が義務化された。この規約改正によって、現役を終了した小学校教員が新たに在郷軍人会の正会員になることが定められ、義務教育と在郷軍人会が軍の支配下に入った。さらに、徴集兵の質の低下に対応するため、

義務教育終了後の青少年を訓練する機関としての「青年団」も官製化されていった。義務教育と軍隊教育を連結させるという青年団組織は、のちに「青年訓練所」から「青年学校」へと次第に学校制度に統合されていった。その背後にはドイツの「青年ドイツ会」を理想とした田中義一の構想があったとされる。明治40年代には、地方青年組織は自然村秩序を担った「若者組」としての性格を弱め、国家秩序の一翼を担う「青年団」へと再編されていった。その際、従

来の青年団の年齢構成(15,6歳から40歳くらいまで)を徴兵制との連結を考えて、その上限を徴兵検査の年齢である「最高20歳まで」と規制した。こうして田中は、「義務教育―青年団―軍事教育(兵役)―在郷軍人会」という動員システムを完成させるに至った(河野,2001:30‑31)。田中の構想を引き継ぎ、青年組織を改編していったのは、陸軍大臣の宇垣一成であったとされる。彼はいわゆる「宇垣軍縮」(昭和元年)を行ったが8)、それとともに「陸軍現役将校学校配属制度」と「青年訓練所」を創設した。これはいずれも軍縮によって余剰となった陸軍軍人の失業対策であったと同時に、学校教練修了者による一年志願兵制度(のちの幹部候補生制度)の設立によって予備役将校の大量養成を可能にするものであった。この青年訓練所は、昭和4(1929)年の世界恐慌を機に実業学校への進学者が増えていったために、両者は統合され「青年学校」となった。この背景にあったのは、河野(2001:33‑34)によると、「壮丁学力の低下」──すなわち徴兵検査を受ける青年の相対的な学力の低下であったという。兵器の進歩に伴い、機関銃だけでなく通信をはじめ距離や方位の計測などの技能が必要になったために、尋常小学校卒の知的レベルでは不十分となったので、義務教育終了後の非進学者を入営までの期間に普通教育の機会を強制的に与える必要が生じた。青年学校制度は、こうした軍の要求によって、昭和14(1939)年に男子の青年学校義務制と兵役法改正──これによって在営期間は1年半から2年に延長された──によって、すべての男子は「動員システム」に組み込まれていった。こうして、河野(2001:54‑56)によると、尋

常小学校を卒業後、農業に従事していた青年は、軍事技能や知識の基本を青年学校で学んだ。青

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年学校と言っても、農業の傍ら週に1日か2日、午後に3時間程度、退役軍人による軍事教練を受けるだけであった。他方、中等学校以上の教育を受けた者は、学校への配属将校による教練の評価がその後の軍歴に大きな影響をもち、たとえば入隊後、甲種幹部候補生になれるかにまで影響したとされる。この時期の中等教育を中心とした学校制度改革に大きな影響をもったのは、大内(2002)によると、文部省普通進学務局の文部官僚から東京帝国大学の教育学教授に転じた阿部重孝であった。彼は第一次世界大戦後の世界各国の総力戦以後の教育政策に関わる資料を収集し、まず大正4(1915)年から同9(1920年)にかけて、文教政策の基礎となる膨大な「時局に関する教育資料」を作成・刊行した9)。その内容は、前期(1915年6月‐17年6月)は、愛国主義教育思想・実践が中心で、第一世界大戦が国民の動員を必要とする「総力戦」であるとの認識が示されている。また、同時に「理化学」の発展の重要性や、産業分野の計画化・合理化についての資料もみられた。中期(1917年10月‐19年3月)は、やはり合理主義的教育改革思想・政策の紹介が中心であった。すなわち、第一世界大戦という総力戦によって、教育による国民意識の統一が必要になったが、そのためには教育の機会均等すなわち全国民に均一な教育を施し、一人の例外もなく兵士・銃後の産業労働者として動員可能な「国民」を形成するために、教育に対する国庫補助による教育費の無償化、さらには義務教育の年限延長が論じられている。最後に後期(1919年7月‐20年3月)の「時局に関する教育資料」は、アメリカを中心とする教育資料である。とくにアメリカの学校調査

で用いられる統計的方法を紹介したうえで、それにもとづく教育の機会均等への施策の必要性が、「教育の社会化」すなわち「社会的安定を達成するために教育が「国民的統合」を促す社会的機能を果たすこと」(大内,2002:107)との観点から主張されている。こうして阿部は従来の教育哲学中心の観念的な教育学を、教育制度の実証的分析にもとづく「教育科学」へと転換していったのである。そして、彼の「教育科学運動」は、やがて国策研究会であった「昭和研究会」(1933年発足)の一部をなす「教育問題研究会」へと結実した。大内(2002)によれば、こうした阿部らの教育科学運動に注目することは、もっぱら「愛国教育」による軍国体制の構築のみに着目する従来からの視点に疑義を呈することになるという。こうした視点からは、この教育科学運動が、20世紀の「国民」教育システムの基盤を「下から」の参加によって形成したことを軽視してしまうという。実際、阿部らが提起した教育科学による諸政策は、1930‑40年代に、義務教育の年限延長、中等教育の拡大、教育財政の整備という形で進められていく。まず義務教育の年限延長についていえば、

1930年代(昭和初期)の重化学工業の発展により、産業界からでなく、政府の側からも義務教育の年限を尋常小学校6年、高等小学校2年の計8年へと延長が提起された。教育科学運動の拠点となった雑誌『教育』も、義務教育年限の延長を積極的に支援し、昭和13(1938)年の教育審議会に国民学校設置案の答申を経て、昭和16(1941)年の国民学校令施行規則として結実し、義務教育の8年間への延長が実現した。次に中等教育の拡大についてみると、第一世界大戦以降、義務教育後の学校系統は、①旧制中学

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―旧制高校―帝国大学・専門学校(私立大学)、②実業学校や高等女学校などの中等教育機関、③初等教育の延長としての高等小学校、④勤労青少年のための実業補習学校といった複線的な階層構造をもっていた。これに対して、昭和元(1926)年に陸軍省の養成によって兵役前の教練を行う「青年訓練所」ができたが、これは実業補習学校と同様、勤務しながら学ぶ学校であったため、この両者は、先にもみたように、昭和10(1935)年に統合されて「青年学校」となった。阿部が中等教育改革で注目したのが、大内(2002)によると、この「青年学校」であった。彼は中学校と青年学校をともに6年制(前後期各3年)とし、義務化するとともに、青年学校を中等教育に「格上げ」することを主張した。これによって、中等教育を大衆化・普遍化し、教育機会の均等化をはかることが阿部の狙いであった、とされる。その結果、昭和13(1938)年には、中等教育と青年教育の境界が取り払われ、青年学校の義務化──ただし、男子のみ──が実現した。さらに、戦時下の昭和18(1943)年の中等学校令では、中学校、高等女学校、実業学校が中等学校とまとめられることにより制度的共通化も進み、戦後の単線型教育制度への地ならしがなされた。最後に、教育財政制度については、明治以来、地方に教育事業の費用負担が求められ、それが市町村の慢性的な財政窮乏を招いていたが、大正7(1918)年の市町村義務教育費国庫負担法が成立し、国庫による教育費の一部負担がスタートした。しかし、1920年代後半の世界金融恐慌による地方財政の窮乏、1930年代の軍事費支出の増大による民生費の削減を背景に、阿部はこの市町村義務教育費国庫負担法を批判し、地方の教育費負担の現状を批判し、教

育費の全面的な国庫負担を主張した。教育費の国庫負担問題は、最終的には昭和15(1940)年の地方分与税制制度の制定によって一応の決着をみたが、とくに義務教育の教員給与負担が都道府県・国に移されることで、市町村の財政負担は大幅に軽減されたという(大内,2002:113‑

119)。

2.2.職業軍人アスピレーションをもつ者の出身

階層

こうした教育制度の変転を経験しながらも、昭和初期の青年男子は、「動員社会」(河野,2001)なかで、未来の「軍人」に向けて社会化されていったが、そのなかでも特に職業軍人アスピレーションを形成した者はどのような出身背景をもつ者であったろうか。やはり広田(1997)による陸軍士官学校生徒の出身階層に関する分析によれば、明治後半になると学力による将校選抜の導入により、そのリクルート基盤を農業層も含む平民層へと拡大させたが、昭和期には高等教育の拡大や企業・行政組織の整備により軍人の社会的威信が低下して、最上層の社会層出身の子弟にとっては軍人は望ましい進路ではなくなった。その結果、陸軍士官学校生徒も急速に社会の中層部分の出身者によって占められていったとされる。他方、河野(1989)による陸軍士官学校・海軍兵学校卒業者への郵送調査によると、1922‑45年に旧軍学校を卒業した者では、戦時期になるほど全体として農家の出身者が減少し、会社・商店経営者や会社員の子弟が増えていった。そこで、再び1975年SSM調査データに戻って、父職ごと(ただし父事務職およびアスピレーション事務から「職業軍人」を区別)にみると(表3)、サンプル数の少ない父軍人の再生産率

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の高さを別にすると、管理職で軍人アスピレーションがもっとも多く、半熟練・熟練といったマニュアル層が続いている。農業はこれらに比べると少なく、専門職の子弟は軍人への志向性がもっとも低い。また父親の勤務先からみると、専門職アスピレーションをもつ者に次いで、大

企業や官公庁が多い(表4)。このことは後に見るように、軍人志望がある種の「官途」あるいは組織志向のアスピレーションであった可能性も示唆する。また、15歳時暮らし向きからみると(表5)、どの層でも軍人アスピレーションがみられるものの、「豊か」になるほど志望者が

24

表3 父職ごとにみた職業アスピレーション

0-4 14.7 3.4 8.6 10.1 8.0 5.0 0.4 35.2 14.7 100.0 477

5-499 19.6 2.2 15.2 12.0 9.8 9.8 0.0 9.8 21.7 100.0 92

500 25.0 0.0 18.8 9.4 9.4 9.4 0.0 6.3 21.9 100.0 32

50.0 2.0 8.0 4.0 2.0 2.0 0.0 10.0 22.0 100.0 50

18.6 2.9 10.0 9.8 7.8 5.7 0.3 28.3 16.6 100.0 651

表4 父親の従業先規模

表5 暮らし向きごとにみた職業アスピレーション

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増える傾向はある。「豊か」の比率は専門職志望者に次いで多い。

3.職業軍人志望者の教育アスピレーション

と教育達成

3.1. 職業軍人志望者の教育アスピレーション

1975年の SSM調査の分析(中山・小嶋,1979:295‑302)によれば、教育アスピレーションの上昇は職業アスピレーションの上昇に伴って生じると考えられるが、戦前生まれの世代でも義務教育以上の教育アスピレーションを抱いていた人が7割以上いた。そして、この戦前期の高い教育アスピレーションをもたらした要因の1つが職業軍人という職業アスピレーションであったと考えられるという。というのも、戦時下においては職業軍人志望者を増加させることが当時の戦時体制の維持や戦争の遂行にとってとくに重要であった。そして、先にみたように、そのための国家による働きかけが青少年

になされ、実際に職業軍人を職業アスピレーションとする者が増大したが、このことは同時に軍人養成機関への教育アスピレーションも高めた。戦前期の軍人養成機関としては、旧制中学程度に陸軍幼年学校・海軍甲種予科練、旧制高校程度に陸軍士官学校・海軍兵学校があるが、軍人志望者には旧制中学や旧制高校レベルの教育アスピレーションを抱くものが半数以上いた。つまり、戦時下の「皇民化」教育によって高められた軍人への職業アスピレーションは、結果的に戦前期の高い教育アスピレーションをもたらした、という。ただし、この知見では、軍人へのアスピレーションを抱いた者と、他の職業(たとえば他のホワイトカラー的職業)へのアスピレーションを抱いた者の教育アスピレーションの比較がなされていない点でさらに検討の余地はある。そこで、教育アスピレーションを職業アスピレーションごとに集計してみると(表6)、中等

25

2.7 27.4 19.2 30.1 0.0 0.7 14.4 0.7 4.8 100.0 146

13.0 30.4 13.0 21.7 0.0 0.0 4.3 0.0 17.4 100.0 23

2.6 38.2 11.8 13.2 7.9 1.3 17.1 0.0 7.9 100.0 76

13.2 30.3 11.8 10.5 0.0 0.0 1.3 0.0 32.9 100.0 76

25.9 29.3 15.5 1.7 1.7 0.0 1.7 1.7 22.4 100.0 58

13.5 40.5 2.7 2.7 2.7 0.0 0.0 2.7 35.1 100.0 37

0.0 40.0 20.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 40.0 100.0 5

30.3 35.1 4.9 0.0 2.2 0.0 0.5 0.0 27.0 100.0 185

4.8 37.3 16.7 13.5 1.6 0.8 4.0 2.4 19.0 100.0 126

13.8 33.5 12.3 11.7 1.9 0.4 5.9 0.8 19.7 100.0 732

1975 SSM

表6 職業アスピレーションごとにみた教育アスピレーション

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教育以上(旧制では旧制中学・実業学校・師範学校以上)を希望する者は、専門職92%、事務職90%に対して、軍人志望者は74%と若干、低い。ただし、これは軍人志望者で旧制大学志望者が少ないことによる(陸軍大学は職業軍人が連隊長の推薦によって入学した)。軍学校を含む旧制中学・高校レベルに絞ると、軍人志望者は進学希望者が54%と事務職の50%とほぼ並ぶ。しかし、軍人志望を除いても事務職志望者はすでに高等教育も含めた高い教育アスピレーションを示しているので、とくに軍人志望が戦前期の教育アスピレーションを高めたとまでは言うことができない。

3.2. 職業軍人志望者の教育達成

他方、軍人志望者の実際の教育達成についてみると(表7)、大学(旧制高校・新制短大も含む)進学者は専門職志望者(36%)に次いで多く(18%)、中等教育以上の経験者も専門職志

望者(72%)、事務職志望者(59%)に次いで53%と多くなっている。軍人アスピレーションを抱いていたものは、その後、比較的高い教育達成をしている。

4.職業軍人志望者の職業達成

4.1. 職業軍人志望者の初職

他方、中山・小嶋(1979)はまた、職業アスピレーションと初職との関連から、職業アスピレーションで希望が多いにも関わらず、実際に初職で入職した者が少なかった職業を「希望職」としているが、これには医師、裁判官、プロスポーツ選手などの専門職とならんで、職業軍人をあげている(職業軍人のアスピレーション実現率は3.5%10))。そして、職業アスピレーションで軍人をあげた者で初職で他の職に就いた者をみると、事務職がもっとも多かった。ここから中山・小嶋(1979:323)は、「官職志向の表れ」として公務員になった者が多かったのでは

26

(

4.6 23.0 33.6 16.4 9.9 0.0 3.3 1.3 7.9 0.0 100.0 152

8.7 39.1 34.8 8.7 0.0 4.3 0.0 0.0 4.3 0.0 100.0 23

2.5 38.8 26.3 11.3 2.5 0.0 15.0 0.0 3.8 0.0 100.0 80

20.0 41.3 25.0 5.0 7.5 0.0 1.3 0.0 0.0 0.0 100.0 80

18.8 62.5 15.6 3.1 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 100.0 64

25.0 57.5 12.5 0.0 0.0 0.0 2.5 0.0 2.5 0.0 100.0 40

20.0 20.0 20.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 40.0 100.0 5

24.6 57.6 12.3 1.0 0.0 3.4 0.5 0.0 0.0 0.5 100.0 203

8.7 37.7 29.0 8.7 2.9 0.7 5.8 0.0 6.5 0.0 100.0 138

14.3 43.4 23.1 7.1 3.4 1.1 3.6 0.3 3.3 0.4 100.0 785

表7 職業アスピレーションごとにみた教育達成

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ないかと推測する。またそのうち21%の現職が管理職であることから「戦前には上昇意欲の強い、比較的能力のある少年が職業軍人に憧れており、彼らは戦後成人して多く上級ノンマニュアル職に流れ、戦後30年を経た現在21%の人々が管理職についているということが想像される」としている。またその一方で専門職や販売職が初職で少ないことを指摘し、戦前期には専門職の魅力が職業軍人にとってかわられていたこと、また軍人志望者の価値志向が販売職(商人)と相容れなかった可能性を示唆している。そこで、表8で実際に職業アスピレーション

ごとに初職をみると、軍人アスピレーションを

もった者では事務職がもっとも多く、またその比率も事務職・管理職志望者に次いでいる。軍人アスピレーションはブルーカラーというよりホワイトカラーに親和的な志望であったといえる。また従業先規模をみると(表9)、父職の場合と同様、官公庁が多くなっている。また、現職でも(表10)管理職が多い(ただし販売職が特に少ないとは言えない)ことからみて、軍人アスピレーションは中山ら(1979)が指摘するように「官職志向の表れ」であった可能性が高い。

27

31.5 0.7 24.7 5.5 14.4 7.5 4.8 11.0 100.0 146 4.5 31.8 18.2 9.1 9.1 4.5 22.7 100.0 22 3.9 1.3 32.5 3.9 18.2 14.3 6.5 19.5 100.0 77 16.7 43.6 15.4 12.8 2.6 9.0 100.0 78 4.8 4.8 68.3 4.8 7.9 9.5 100.0 63

2.6 7.7 23.1 43.6 12.8 10.3 100.0 39 20.0 60.0 20.0 100.0 5

1.0 1.5 1.5 4.0 3.0 3.0 86.1 100.0 202 8.2 2.2 26.9 9.0 15.7 11.2 7.5 19.4 100.0 134 8.2 0.8 16.4 8.7 17.0 9.9 5.7 33.2 100.0 766

表8 職業アスピレーションごとにみた初職

0-4 5-499 500

18.4 29.8 19.1 32.6 100.0 14122.7 54.5 18.2 4.5 100.0 2224.0 32.0 30.7 13.3 100.0 7551.3 34.2 11.8 2.6 100.0 7640.3 41.9 11.3 6.5 100.0 6222.2 44.4 22.2 11.1 100.0 3640.0 20.0 20.0 20.0 100.0 584.1 6.2 4.6 5.1 100.0 19530.5 26.0 19.1 24.4 100.0 13144.0 26.0 15.2 14.8 100.0 743

表9 職業アスピレーションごとにみた初職従業先規模

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4.2.職業軍人志望者の現職

次に現職についてみてみよう。表10は、戦前出生コーホートについて、職業アスピレーションと現職をクロス集計した結果を示した。1975

年時点で1906‑32年出生コーホートは、43~69

歳という働き盛りから引退期を迎えている。そのことも念頭に職業軍人志望者の現職をみていくと、まず管理職が約2割ともっとも多く、管理職志望者よりは少ないが、専門職・事務職志望者とほぼ同じ水準にある(ただし、サンプル

数の少ない非熟練は除く)。次に多いのは農業であり、これは家業継承によるものであると考えられ、専門・管理職志望者よりは多いが、事務職志望者よりは少ない。また事務職・熟練・半熟練がいずれも14%前後となっている一方で、専門職に就いた者および非熟練職に就いた者は少ない。これらのことから、軍人志望者は壮年期には社会のほぼ中上層を占めたとみることができよう。また、表11には、職業アスピレーションごと

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28

29.8 34.4 13.0 22.9 100.0 131

30.0 50.0 5.0 15.0 100.0 20

35.1 31.1 21.6 12.2 100.0 74

51.9 37.7 6.5 3.9 100.0 77

56.4 36.4 3.6 3.6 100.0 55

33.3 38.9 13.9 13.9 100.0 36

50.0 25.0 25.0 0.0 100.0 4

69.6 22.8 4.9 2.7 100.0 184

37.6 31.6 18.0 12.8 100.0 133

46.8 31.7 11.2 10.4 100.0 714

表11 職業アスピレーションごとにみた現職従業先規模

24.6 20.1 16.4 6.7 14.2 4.5 0.0 13.4 100.0 134 5.0 35.0 15.0 5.0 5.0 15.0 10.0 10.0 100.0 20 8.0 21.3 24.0 6.7 8.0 8.0 4.0 20.0 100.0 75 1.3 15.6 2.6 33.8 14.3 15.6 10.4 6.5 100.0 77 1.8 5.5 10.9 7.3 36.4 7.3 9.1 21.8 100.0 55

2.8 11.1 8.3 8.3 13.9 30.6 5.6 19.4 100.0 36 0.0 25.0 0.0 0.0 25.0 0.0 25.0 25.0 100.0 4

1.1 4.3 5.3 5.9 8.0 8.0 4.8 62.8 100.0 188 5.2 20.7 14.1 11.9 14.1 14.8 3.0 16.3 100.0 135 7.2 14.6 11.5 10.4 13.4 10.6 4.7 27.6 100.0 724

表10 職業アスピレーションごとにみた現職

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軍国少年たちの戦前・戦後

Journal of Human Informatics Vol.18 March,2013

に現職規模をみたが、500人以上の大企業で従業する者は18%と、事務職志望者に次いで多く(ここでも、サンプル数の少ない非熟練は除く)、また官公庁勤務の者も13%程度と、専門・管理職志望者に次いで多い。以上のことからみて、軍人志望者の戦後は、大企業や官公庁の管理職を中心とした社会の中上層を占めていたのであり、中山・小島(1979:323)の言う「戦前には上昇意欲の強い、比較的能力ある少年」であった可能性が確認できた。

5.職業軍人志望者の社会意識

では、職業軍人志望者が、中山・小島(1979:323)の言うように、「戦前には上昇意欲の強い、比較的能力ある少年」であり、戦後は社会の中上層を占める存在であったとするならば、彼らは高度経済成長期終盤から安定成長期に至る時期にあたる1975年の時点でどんな社会的性格なり社会意識をもっていたのであろうか。まず代表的な階層意識である階層帰属意識からみていこう(表12)。

この表12から「上」と「中の上」の合計を求めると職業軍人志望者では27.7%となり、販売職志望者の39.8%、管理職志望者の34.8%、専門職志望者の30.6%、農業志望者の29.3%より低い。また表13に示した階級帰属意識でも「労働者階級帰属」が7割と、農業層よりは少ないものの、事務職やブルーカラー層(熟練・半熟練・非熟練)とほぼ同じ水準にある。先に軍人アスピレーションをもつ者が官公庁・大企業の管理職を中心とした社会の中上層を占めると指摘したが、その割には彼らは階層帰属が低く、労働者意識が強い。このことは、あるいは彼らの地位達成アスピレーション(立身出世意識)が強いために、現状に満足できないことを意味しているかもしれない。そこで、彼らの職業意識をさらに探っていこう。まず、「望ましい仕事の条件」から見ていこ

う。表14aには各アスピレーションの保持者ごとにもっとも望ましい仕事の条件、表14bには二番目に望ましい仕事の条件を集計した結果を示している。表14aのもっとも望ましい仕事の

29

0.7 29.9 51.7 13.6 4.1 100.0 147

4.3 30.4 56.5 8.7 0.0 100.0 23

2.6 21.1 56.6 18.4 1.3 100.0 76

1.3 38.0 43.0 16.5 1.3 100.0 79

1.6 20.3 43.8 28.1 6.3 100.0 64

0.0 17.1 56.1 19.5 7.3 100.0 41

0.0 20.0 80.0 0.0 0.0 100.0 5

1.5 27.8 47.5 18.2 5.1 100.0 198

1.5 26.3 49.6 16.8 5.8 100.0 137

1.4 27.1 49.7 17.4 4.3 100.0 770

表12 職業アスピレーションごとにみた階層帰属意識

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片瀬一男

人間情報学研究 第18巻 2013年3月

条件からみると、軍人アスピレーションを抱いた者が望ましい条件としてあげているもので、他に比べ相対的に多いのは、「失業の恐れのない仕事」(26.3%で農業・事務に次いで3番目)や「仲間と楽しくすごせるような仕事(12.4%で熟練・販売・農業に次いで4番目)と大きな特徴はない。これに対して、表14bの2番目に

望ましい仕事に注目すると、「高い収入がえられる仕事」が32.1%と、サンプル数が少ない非熟練を別にするともっとも多い。また、「自分の能力が思いきり発揮できる仕事」も23.1%ともっとも多い。これに対して「世のなかのためになる仕事」は12.7%と、管理職・専門職志望者に比べ明らかに少ない。もっとも望ましい仕

30

11.3 13.9 3.3 2.0 55.0 6.6 7.9 100.0 151

8.7 4.3 8.7 0.0 60.9 4.3 13.0 100.0 23

11.3 32.5 2.5 0.0 41.3 8.8 3.8 100.0 79

15.8 15.8 2.6 0.0 42.1 15.8 7.9 100.0 78

19.0 9.5 7.9 3.2 38.1 19.0 3.2 100.0 64

15.0 30.0 5.0 0.0 37.5 5.0 7.5 100.0 40

0.0 20.0 0.0 0.0 40.0 0.0 40.0 100.0 5

16.8 36.0 5.6 1.0 20.3 12.7 7.6 100.0 197

12.4 26.3 0.0 0.7 40.9 12.4 7.3 100.0 137

14.0 24.1 3.8 1.0 38.7 11.1 7.3 100.0 774

表14a 望ましい仕事の条件(1番目)

高い収入がえられる仕事

失業のおそれがない仕事

働く時間が短く、暇な時間が多い仕事

昇進や成功のチャンスが多い仕事

自分の能力が思い切り発揮できる仕事

仲間と楽しくすごせるような仕事

世のなかのためになる仕事

合計 実数

57.2 38.6 4.1 100.0 145

65.2 34.8 0.0 100.0 23

70.9 21.5 7.6 100.0 79

58.2 35.4 6.3 100.0 79

66.1 29.0 4.8 100.0 62

68.3 22.0 9.8 100.0 41

100.0 0.0 0.0 100.0 4

76.4 19.6 4.0 100.0 199

70.4 25.2 4.4 100.0 135

67.8 27.2 5.0 100.0 767

表13 職業アスピレーションごとにみた階級帰属意識属意識

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軍国少年たちの戦前・戦後

Journal of Human Informatics Vol.18 March,2013

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15.3 18.0 2.0 3.3 18.0 22.0 21.3 100.0 150

8.7 13.0 0.0 8.7 13.0 26.1 30.4 100.0 23

23.1 15.4 2.6 3.8 16.7 24.4 14.1 100.0 78

15.1 17.8 13.7 5.5 11.0 21.9 15.1 100.0 73

21.0 21.0 1.6 3.2 17.7 27.4 8.1 100.0 62

15.0 17.5 10.0 0.0 20.0 22.5 15.0 100.0 40

40.0 40.0 0.0 0.0 20.0 0.0 0.0 100.0 5

15.7 12.6 7.3 1.6 22.0 24.1 16.8 100.0 191

32.1 16.4 1.5 2.2 23.1 11.9 12.7 100.0 134

19.6 16.3 4.8 2.9 19.0 21.4 16.0 100.0 756

表14b 望ましい仕事の条件(2番目)

19.5 38.3 6.0 3.4 11.4 12.1 0.0 3.4 4.0 2.0 100.0 149

13.0 34.8 8.7 0.0 13.0 8.7 4.3 8.7 4.3 4.3 100.0 23

12.8 39.7 5.1 1.3 3.8 21.8 2.6 5.1 3.8 3.8 100.0 78

19.2 38.5 11.5 3.8 9.0 9.0 0.0 3.8 0.0 5.1 100.0 78

14.5 43.5 9.7 6.5 6.5 6.5 0.0 4.8 3.2 4.8 100.0 62

23.7 42.1 10.5 7.9 7.9 5.3 0.0 2.6 0.0 0.0 100.0 38

25.0 50.0 0.0 0.0 0.0 25.0 0.0 0.0 0.0 0.0 100.0 4

17.9 45.1 4.1 6.2 5.1 8.7 1.0 3.6 6.2 2.1 100.0 195

12.5 40.4 8.8 3.7 8.1 14.7 0.0 3.7 4.4 3.7 100.0 136

16.8 41.2 7.1 4.3 7.6 11.5 0.7 3.9 3.9 3.0 100.0 763

表15a 出世の条件(1番目)

事を「建前」、2番目に望ましい仕事を「本音」と考えるなら、軍人アスピレーションをもっていた者は、収入の獲得を中心とした「階層志向性」(片瀬・友枝,1990)すなわち立身出世志向が強く、社会貢献意識が弱いとも考えられる。そして、この背後には、広田(1997)が、陸軍将校に特有の思考回路とした「奉公・献身の恣

意的解釈→欲望の潜入→献身行為への没入→結果としての欲望の充足」と通底する思考様式があったのかもしれない。

そこで、次に出世の条件(どのような人が出世しやすいか)についてもみてもよう。出世の条件についても、もっとも重要なもの(表15a)

才能がある 努力する 幸運にめ

ぐまれる人柄が良い

処世術がうまい

学歴が高い

家柄がよい

財産がある

父の社会的地位が高い

縁故関係がある 合計 実数

高い収入がえられる仕事

失業のおそれがない仕事

働く時間が短く、暇な時間が多い仕事

昇進や成功のチャンスが多い仕事

自分の能力が思い切り発揮できる仕事

仲間と楽しくすごせるような仕事

世のなかのためになる仕事

合計 実数

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と二番目に重要なもの(表15b)を訊いている。まず、もっとも重要なもの(表15a)からみていくと、軍人アスピレーションをもつ者では他に比べ、「努力すること」が40.4%と多い。(度数の少ない非熟練を除くと農業・熟練・半熟練に次いで4位)また「学歴が高いこと」(14.7%、事務に次いで2位)も多い。また二番目に重要なものでは、「才能がある」ことをあげる者が27.8%と多く、「人柄がよい」をあげる者が熟練とともにもっとも少ない。以上のことからみて、軍人アスピレーションをもっていた者は、文字通り才能+努力のメリトクラティックな価値意識を内面化していたと考えられる。そして、才能や努力によって学歴を獲得し、社会の上層に出世しようという階層志向性が強かったとみることができる。

むすび

実際、今回のデータからみて、義務教育終了時に職業軍人というアスピレーションをもち、その後、実際に職業軍人を経験したのち、1975

年時点の現職が非農業という者は2人いる。彼らの履歴と意識を追うことで、戦前期に軍人を志望した「軍国少年」の戦前・戦後を再構成してみよう。まず最初の者は、軍縮期にあった大正12

(1923)年に北陸地方の農家(15歳時の父職は農業)に7人きょうだいの末子として生まれた。父母とも学歴は高等小学校卒で、子ども時代の暮らしむきは「ふつう」であった。性格は「小さい頃から、お山の大将になるのが好きなほうだった」。その後、尋常高等小学校を卒業し、14歳に職業軍人(おそらく少年志願兵と考えられる)となった。その後、22歳で退役し、大規模な(従業員数1,000人以上)化学工業の工場で会計事務の仕事を30歳まで続けた。この間、結婚をしたが、妻の父親は農業を営んでいた。30歳で化学工業の工場で「他に分類されない管理職」に就き、38歳で工場の「看守・守衛・監視人」となっている。そして、52歳の現在もその職にとどまっている。現在の「仕事の内容」「勤め先」「収入」「学歴」「生活全般」にはいず

片瀬一男

人間情報学研究 第18巻 2013年3月

32

21.4 22.1 15.9 10.3 9.7 8.3 2.1 2.1 0.7 7.6 100.0 145

21.7 17.4 13.0 13.0 8.7 8.7 0.0 0.0 8.7 8.7 100.0 23

22.1 19.5 7.8 14.3 10.4 7.8 1.3 9.1 3.9 3.9 100.0 77

15.6 28.6 9.1 16.9 6.5 6.5 3.9 1.3 2.6 6.5 100.0 77

14.8 18.0 18.0 9.8 4.9 13.1 0.0 3.3 9.8 8.2 100.0 61

12.8 25.6 5.1 12.8 2.6 20.5 2.6 7.7 5.1 5.1 100.0 39

0.0 25.0 50.0 0.0 25.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 100.0 4

16.1 18.1 19.2 17.6 3.6 9.8 2.6 6.2 1.6 5.2 100.0 193

27.8 19.5 11.3 9.8 6.0 12.0 0.8 3.0 6.0 3.8 100.0 133

19.5 20.7 14.1 13.3 6.5 10.1 1.9 4.3 3.6 5.7 100.0 752

表15b 出世の条件(2番目)

才能がある 努力する 幸運にめ

ぐまれる人柄が良い

処世術がうまい

学歴が高い

家柄がよい

財産がある

父の社会的地位が高い

縁故関係がある 合計 実数

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軍国少年たちの戦前・戦後

Journal of Human Informatics Vol.18 March,2013

れも「まあ満足している」。ただ、「遊びでも仕事でも、やりだすと、とことん熱中して、まあまあものにするほう」ではなく、「少し無理だと思われる位の目標をたてて頑張るほう」でもない。ただし「リーダーになって苦労するより、のんきにひとに従っているほうが気楽でよい」とは考えていない。また、「他人のめんどうをみるのが好きなほうで、他人から頼られる」ことが多い。仕事でいちばん望ましいと思う条件は「働く時間が短く、暇な時間が多い仕事」、また2番目は「失業の恐れのない仕事」である。転職に関しては、「いまよりよい条件の勤め先があっても、一つの勤め先にながく務めるのが望ましい」と考えている。「出世の条件」としては、学歴がよい人や父親の社会的地位の高い人が出世しやすいと思っている。自分の暮らし向きは「やや豊か」で、階層帰属は「中の下」で「中産階級」に属しているとしている。最近1年の生活は、友人を食事に招いたり、

招かりたりしたことや、小説・歴史の本を読んだり、二泊以上の旅行に行ったことは「かなりある」が、映画を見に行ったり、海外旅行やゴルフ・テニス・ヨットをしたことや、芝居見物・コンサートにでかけることはしていない、といった生活である。しかし、こうした余暇生活には「まあ満足している」。財産としては、別荘やスポーツ会員権、貸付信託、ピアノなどは持っていないが、家屋・宅地のほか、電子レンジ、カラーテレビなどの家電製品のほか、応接セットや株券・債券を保有している。交際に関しては、地方議員や町内会の役員とのつきあいは「かなりある」し、企業の経営者との少しは付き合っているが、大学の先生との付き合いは「ない」。職場の仲間・町内会、地域の人々に対しては影響力が「かなりある」。支持政党

は父親も自民党支持だったが、自分も自民党を23歳のころからずっと支持している。個人収入は350万円くらい、世帯収入は450万円となっている。この者の場合、文化資本は豊かではないものの、財産や社会関係資本は着実に蓄積してきたものとみることができる。これに対して、もう1人の者は、それよりも4歳年長で、大正8(1919)年に北海道に生まれたが、15歳時点で父親はいなかった。父親は尋常小学校をでて以前は農業を営んでいた。また、母親も尋常小学校を卒業していた。きょうだいは11人おり、その4番目であった。15歳時の暮らし向きは「ひじょうに貧し」く、性格はやはり「小さい頃から、お山の大将になるのが好きなほうだった」。先の者と同様、子どもの時代から地位志向が高かったといえる。その後、尋常高等小学校を卒業した後、14歳以降に一般機械機器の製造工として働き始めた(その間は家業の農業を手伝っていたと思われる11))。そして、19歳のときに志願して職業軍人となった。その後、26歳で終戦を迎え、32歳(1951年)で「外国公務」で「監督・職長・班長・組長」の役職で「看守・守衛・監視人」となっている。42歳で再び中小企業の一般機械組立工になり、50歳で係長・主任・課長補佐の役職に就き現在に至っている。現在の「勤め先」には「満足」しており、

「仕事の内容」「収入」「生活全般」にはいずれも「まあ満足している」が、「学歴」には「不満」である。ただ、「遊びでも仕事でも、やりだすと、とことん熱中して、まあものものにするほう」で、「少し無理だと思われる位の目標をたてて頑張るほう」である。また「リーダーになって苦労するより、のんきにひとに従っているほうが気楽でよい」とは考えていない。そ

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片瀬一男

人間情報学研究 第18巻 2013年3月

して、「他人のめんどうをみるのが好きなほうで、他人から頼られる」ことが多い。仕事でいちばん望ましいと思う条件は「世の中のためになる仕事」、また2番目は「自分の能力を発揮できる仕事」である。転職に関しては、「いまよりよい条件の勤め先があっても、一つの勤め先にながく務めるのが望ましい」と考えている。出世の条件としては、「努力すること」が重要と考えている。階層帰属は「中の下」で「中産階級」に属しているとしている。最近1年の生活は、映画を見に行ったり、芝居見物・コンサート・展覧会に行ったことはかなりあり、友人を食事に招いたり、招かりたりしたことや、小説・歴史の本をよんだことも「少しある」。ただし、ゴルフ・テニス・ヨットをしたことや、登山・ハイキング。スキー・テニスをすること、海外旅行にでかけることはしていない、といった生活である。しかし、こうした余暇生活には「不満である」。財産は、別荘やスポーツ会員権、ピアノなどは持っていないが、家屋・宅地のほか、冷蔵庫、カラーテレビなどの家電製品のほか、応接セットやステレオ、貸付信託を保有している。地方議員とのつきあいは「かなりある」し、企業の経営者と「少しは付き合っている」が、町内会の役員や大学の先生との付き合いは「ない」。職場の仲間・町内会、地域の人々に対しては影響力が「かなりある」。支持政党は自民党を37歳のころから支持している。個人収入は200万円くらい、世帯収入は600万円となっている。この2人にはいずれも農家の非長子として生まれ、尋常小学校終了後、家業の手伝いなどを経験したのち、少年兵として志願し、退役後は下層ホワイトカラーもしくはブルーカラーとして職業世界に参入し、50代になって役職を得て

いる。また地域社会への影響力もあり、財産も高級財の保有はないものの、宅地・家屋に加えて家電製品のほか、応接セットや金券なども保有しており、いずれも「中の下」意識をもっている。1975年のSSM調査では、いわゆる「中」意識のメカニズムとして、地位の非一貫性が注目された(原・今田,1979)。それは、日本で「中」意識をもつ者が一様ではなく、多様であることを、クラスター分析を用いて明らかにしたものであった。その中で抽出されたクラスターⅣすなわち学歴・職業威信・所得は低いが、財産や勢力(地域での社会的影響力)が高い人々に、今回、取り上げた2人の「軍国少年」の軌跡は重なると考えられる。彼らは貧しい出身背景から少年兵を志願し、戦後はおそらくは軍隊経験で得た技能なり知識をもとに産業世界に参入し、その地位達成意欲の強さをバネに日本の高度経済成長を下支えしてきた人々であったと考えられるのである。

[謝辞]

本稿作成にあたっては、2005年SSM調査研究会からデータの提供を受けた。記して感謝する次第である。また、本研究は、平成23~25年度科研費(基盤研究(B)「戦後日本社会の形成過程に関する計量歴史社会学的研究」(代表・橋本健=武蔵大学教授)による研究成果の一部である。

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1) 軍国主義とセクシュアリティの関連については、近年、従軍慰安婦の問題を中心に論究されるようになった(上野,1998:大越,2004など)が、管見のかぎり、より広範な文脈(たとえば、天皇制の確立・維持と男性のセクシュアリティの抑制もしくは称揚の関係)では、ほとんど究明されていない。これに対して、ドイツ・ファシズムとセクシュアリティとの関係につ い て は 、 モ ッ セ ( Mosse,1988=1996) が 、市民的価値観リ ス ペ ク タ ビ リ テ ィ

による性行動の抑制とナチズムとの関連で論じている。市民的価値観

リ ス ペ ク タ ビ リ テ ィ

とは、18世紀ビクトリア朝に起源をもつ「「礼にかなった正しい」作法と道徳」を意味する。こうした「近代社会の出現から現在に至るまでヨーロッパにおいて規範とされている作法、道徳、性的態度の歴史において、国民主義

ナショナリズム

は決定的な役割を果たした」という。とりわけ、18

世紀のプロテスタント復興運動を経たイギリスの福音主義とドイツの敬虔主義において、市民的価値観

リ ス ペ ク タ ビ リ テ ィ

が重視されるとともに、市民的価値観リ ス ペ ク タ ビ リ テ ィ

と国民主義ナショナリズム

の「連携」が図られたという(Mosse,1988=1996:9‑10)。そこでは同性愛をはじめとする性的行動は「異常」なものと見なされ、厳しい処罰の対象となるとともに(とくに男性同性愛は、人口減をもたらし、男性の女性化を招来するものとして忌避された)、性生活や家族生活をはじめとする社会生活のほぼ全領域において性別役割分業の徹底が求められたという。19

世紀になると性科学が「男色」のステレオタイプを作り出し、その「異常性」を強調するようになった。やがてこのステレオタイプには「精神異常者」やユダヤ人が加えられ、アウトサイダーが均一視されることになった、いう。しかし、19世紀末になると、ドイツの青年運動が

「身体の再発見」すなわち自然への回帰や肉体的な健康を称揚したことは、こうした市民的(リスペクタ)価値観 (ビリティ )にとって脅威となった。ただし、市民的価値観リ ス ペ ク タ ビ リ テ ィ

はこれらの運動から官能性を奪い取っていったという。すなわち「身体の再発見は因習的な行儀作法や道徳に対する「世紀末

ファン・ド・スイクル

」の反乱を伴っていたが、国民主義

ナショナリズム

はそこからセクシュアリティを削ぎ落とすのにふさわしい理想を提供した。正常と異常、健全と病気の区別を維持する国民主義

ナショナリズム

の機能が変わることはなかった」(Mosse,1988=1996:84)。こうして市民的価値観

リ ス ペ ク タ ビ リ テ ィ

と結びついた国民主義ナショナリズム

は、男性

らしさや男性美を国民的な標準として彫琢したのである。そこでは、性的情熱を制御できないことは、自己管理能力の欠如とまでみなされた。さらに20世紀になると、これに人種主義とりわけ

反セム主義(ユダヤ人迫害)が合流する。ユダヤ人は「性的倒錯者」もしくはアーリア人女性の「誘惑者」、「売春制度と白人奴隷制の支配者」(Mosse.

1988=1996:168‑169)とみなされ、差別・攻撃された。そして、こうした一連の動きが「歴史のクライマックス」にまで到達したのが、1930年代の「国民社会主義」すなわちナチズムである、という。このように19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパにあっては、キリスト教の宗教復興運動を背景として、市民的価値観リ ス ペ ク タ ビ リ テ ィ

と国民主義ナショナリズム

の連携が強められたのである。これに対して、最近では反論もなされ、ナチズム

は、退廃した市民社会の道徳を批判し、日本と同様、「産めよ増やせよ」という人口政策による軍事強化のため、性的欲望の抑制ではなく、その解放によって大衆支配を推し進めてきたともされている(田野,2012)。なお、モッセ(Mosse,1988=1996)の主張を、明治30年代のミッション女学校(弘前女学校)の卒論の内容分析から検討した結果(片瀬・相澤,2010)からは、国民主義

ナショナリズム

と結びついていたのは、市民的価値観リ ス ペ ク タ ビ リ テ ィ

ではなく、伝統的価値観であることが示唆されている。

2) 佐藤(2004)や高田(2008:32)も指摘するように、「職業軍人とは教育者」であり、とくに平時は訓練や演習、検閲、公表といった「教育活動」で生涯を終える。つまり、軍隊は「教育機関」であり、将校は戦場では指揮官でも、基本的には一般人に主として軍事技術、通信技術などを教え、一人前の兵士に育てることを任務としていた。佐藤(2007)の証言は、軍隊が教育機関としての魅力―たとえ絶望的状況にあったとしても―をもっていたことの証左とも言える。また谷口(2000:153)も、戦前の軍隊観について、小松(1958a,b)の見解を引きながら、軍隊が「人間を一人前の存在に作り上げ、仕上げる場所」としたうえで、この軍隊観が、日露戦争の勝利とともに成立し、日露戦争の軍事的性交によって国民的規模で広がった「確信」となったという。

3) 佐藤(2004)によると、これまで鈴木庫三は、『中

<注>

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軍国少年たちの戦前・戦後

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央公論』、『改造』をはじめとする雑誌等を弾圧した情報局情報官として、いわば「独裁者」扱いされてきた。佐藤(2004)は、新たに発見した日記等の史料から、彼が極貧の生活からも苦学を続け、東京帝国大学で軍人として教育学を学び、学会や言論界のネットワークをもちいて、「教育の国防政策」を唱えた「ペンをもった教育将校」であったことを明らかにしている。なお、最近では梯(2010)によって、金子兜太

(大正8=1919生、俳人、終戦時・海軍主計将校)、大塚初重(大正5=1926生、考古学者、終戦時・海軍気象術予備練習生)、三國連太郎(大正12=1923生、俳優、懲役忌避体験後、終戦時・漢口兵器勤務隊兵卒)などの戦争体験が記録されている実際は、昭和13(1938)年以前は尋常小学校6年

まで、昭和14(1939)年から20(1945)年は高等小学校の2年がこれに加わっているので、12歳(1938年以前出生コーホート)もしくは14歳(1939年以降出生コーホート)時点での回答になる。昭和20(1945)年時点で高等小学校の最終学年を迎えていたのは昭和6(1931)年生まれであったが、その翌年の昭和7

(1932)年生まれ(1945年時点では13歳)にも軍人アスピレーションをいだく者が10名、これが昭和8(1933)年生まれでは2名、9(1934)年生まれでは1名と激減する。これは実際のワーディングが「義務教育最終学年の頃」となっていたので、回答者が回顧する時期に幅をもたせたためであると考えられる。そこで、以下の分析では軍人アスピレーションが集中していた昭和7(1932)年以前出生コーホートを分析の対象とした。

5) ただし、河野(2001)によれば、その後の研究によって、この「第一次集団仮説」への疑義も提起されているという。というのも、第二次世界大戦の東部戦線でソ連兵と戦ったドイツ人兵士は、第一次集団が崩壊していたにも関わらず、ソ連軍による虐待・凌辱・虐殺を恐れて、劣性であるにもかかわらず、必死になって戦ったという。

6) この「予定調和」とは、広田(1997)も引いている作田(1972)の表現を借りると、①「家郷や郷党の期待」に応える「和合価値」、②「報恩の成果や修養の深化に満足する「充足価値」、③「仕事に励んでひとかどの人物になる」という「業績価値」、④その

業績と地位達成によって「国家への奉仕」という「貢献価値」を統合するものであった。

7) 河野(2001:54)によれば、アメリカでも第二次世界大戦中のアメリカ陸軍航空隊の兵士(爆撃機の搭乗員)に対する精神医学的調査によって、戦争体験をもつ家族は兵士を戦闘へと協力に動機づける要因になるとの報告がなされているという。

8) この軍縮の時代、すなわち両大戦間においては、軍人(とくに将校)に対して、一般の民衆などからも厳しい批判があったことは谷口(2000)を参照。谷口(2000)は、当時の『東京朝日新聞』への投書や『中央公論』の記事などを史料として大正中期から満州事変(1931年)に至る「軍人」イメージの変容を跡付けている。それによると、ワシントン会議(1921年)前後の大正9(1920)年から10年頃にかけては、社会復帰する兵士に対して厳しい眼がむけられ、再就職もままならない状況であったという。こうした兵士や兵役経験者への否定的評価は、大正12

(1923)年に起こった関東大震災における軍隊の救助活動・治安維持活動での活躍によって一時的に好転するものの、その後は陸軍の演習の際の民家宿営での狼藉などもあり、再び悪化する。また明治16(1884)年に設けられた「一年志願兵制」すなわち官立の中学校生徒や文部大臣が認めた私立専門学校の卒業生を、試験によって志願兵として採用し、一年の在営だけで済ませる(平時の陸軍徴兵現役年限は3年)制度に対する不満から、徴兵制の平等化を求める意見や、徴兵制の存在自体を批判する(実際、1919年のヴェルサイユ会議では徴兵制の廃止が論じられていた)意見も投書されていた。しかし、谷口(2000)によれば、満州事変後は軍役につく農民・民衆層出身でより身近な「兵士」に対しては同情的な意見が寄せられたが、いわゆる「将校」層には批判的な投書がめだったという。その結果、「一般の人々は・・身近な出征兵士を気づかうことを緊急の問題として優先し、結果的には戦争に協力した」(谷口,2000:165)った。つまり、軍縮といった成果をみせた第一次大戦後の軍部・軍人批判は、「逆説的にその後の軍国主義化の要因もはらんでいた」(谷口,2000:165)とされる。

9) 阿部は、東京帝国大学文学部教育学科の大学院を大正4(1915)年に退学し、文部科学省に入省した。

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この資料が完成した年に、同大学同学科の助教授に復帰したが、その後も文部行政に影響力をもった。なお、「時局に関する教育資料」は、1915年から20年までかけて刊行されたが、全40冊、8,000ページを超える膨大なものだったという(大内,2002, 98)。

10) 職業アスピレーションが職業軍人で実際になった者は5名で、またそれ以外のアスピレーションをもった者で職業軍人になった者が3名あり、SSMデータには職業軍人は合計8名いるだけである。なお、兵役経験者は301名いる。

11) 戦前は、工業労働者最低年齢法の制定(1923年)により、14歳以下の年少者は製造業に雇い入れることができなかったが、尋常小学校の卒業年齢は12歳であったから、学校終了後は家業(農業など)を手伝ってから製造業へと入職するのが一般的であった(苅谷,2000)。

[2013年1月28日受理]

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