大西山の崩壊(1961) -...
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この崩壊は,中央構造線が侵食されてできた谷底に向かって,急傾斜に耐えられなくなった岩盤が
崩れ落ちたものです。
中央構造線は日本列島がまだアジア大陸の一部だった時代にできた断層で,関東~九州へ続く長
大な弱線になっています。今の地形をつくっている地殻変動は約200万年前に始まりました。赤石山
脈と伊那山地(伊那山脈)は1年に数mmの速さで隆起しています。隆起地塊の中を通る中央構造線
の弱線が侵食され,両側から岩盤が崩れて断層沿いに谷がつくられています。大西公園から赤石岳
を見通せる一直線の谷も小渋断層沿いの谷です。
岩石園の岩塊は,恐竜時代の9500万年前に深さ15km!付近でマグマが固まった花こう岩です。温
度が300℃以上ある地下深くで中央構造線のずれ動きを受け,延ばされるように変形したマイロナイ
トという岩石になりました。中央構造線沿いのマイロナイトはとくに「鹿塩マイロナイト」と呼ばれてい
ます。
伊那山地側のマイロナイトは石英の結晶がたいへん細かく,緻密で固いため急傾斜の岩壁になっ
ています。一方、赤石山脈側の岩石は結晶片岩で,地すべりを起こすため斜面がなだらかです。
大西山は、1961年6月中旬からの豪雨により、28日には
総雨量424mmにたっした。29日午前9時10分頃大西山
山腹斜面が大音響とともに高さ451m、幅280mに渡って
崩壊し、約280万m3の土砂が下市場、文満の集落を襲
い、39戸の住宅を破壊、水田30余町歩を埋没させ、42
人の尊い命を瞬時のうちに奪い去った。36災害であっ
た。
1961年、6月9日に梅雨入りしたものの同年は好天が続き空梅雨が心配される
状況であった。23日頃から熱帯低気圧の北上に伴い梅雨前線もようやく北上・
活発化し、東北から九州までの広い範囲に雨が降り始めた。当初は恵みの雨
とも見なされたが、24日から本州南岸に停滞した梅雨前線は熱帯低気圧から
発達した台風6号の接近に伴い26日頃より四国、近畿、東海、甲信、北陸、関
東各地の44都府県に大雨をもたらした。6月末から7月初めに一旦弱まったも
のの、7月3日から5日にかけて東北や九州にも大雨を降らせて、その後ようや
く終息した。
この年は6月中旬までは雨の少ない地方が多く、水不足であったが、23日に熱帯低気圧が北上すると共に南
海上にあった梅雨前線も活動が活発化しながら北上、24日から本州南岸に停滞、また26日には四国に接近した
台風第6号の影響もあり、四国、近畿、東海、関東甲信、北陸の各地方で大雨となった。 また、7月3~5日には
東北地方や九州地方でも大雨となった。
期間降水量は、尾鷲(三重県尾鷲市)で1061.9mmになったほか、中部地方を中心に400~600mmに達した。
北海道を除く全国各地で被害が発生したが、特に兵庫県南部、東海、甲信と神奈川県で大きく、長野県では天
竜川が氾濫したほか、伊那谷地域を中心に多数の土砂崩れが発生し、100名を超える死者が出た。
気象庁は6月24日から7月10日の雨を「昭和36年梅雨前線豪雨」と命名した。
このページを参照しました。 http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1961/19610624/19610624.html
大西山の概要
大鹿村は,長野県南部に位置し、南アルプス01峰赤石岳の麓に開けた,
面積約2万5千ha,人口約1, 500人の山村であり,村の中央を分杭峠から
地蔵峠へと、中央構造線が縦断し東西の地質を2分しており,中央構造線
の東側は,外帯と呼ばれ三波川帯,御荷鉾帯で,大西山は西側の内帯で,領
家帯に属し、南側岸壁斜面は鹿塩マイロナイトであり,長くのびた北側斜
面及び崩壊源頭部は斑状花崗岩・珪質花崗岩で問にホルンフェルスを挟
み,いずれも圧砕による変成作用を受けており破砕・風化が進んでいて非
常に脆弱な地質構造をしています。
大西山崩壊地は、昭和36年6月伊那谷を襲った梅山前線豪雨により,山
の中腹部から高さ450m幅280mにわたって崩壊し,崩壊土砂280万㎡,
死者42名,家屋全壊流失39戸という人惨事を引き起こし、年々その面積
を広げ,現在の面積は約18haの大崩壊地です。
左の文は 大西山の無人化機械の施工について 著者 古畑・酒井・岡田 を参考にさせていただきました。