風土性に立った倫理と公共性 - chiba...

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8 特集/風土論・環境倫理・公共性 基調講演 風土性に立った倫理と公共性 国際日本文化研究センター客員研究員   オギュスタン・ベルク Augustin BERQUE, 辺留久) 私の選んだテーマは、風土論と環境倫理と公共性との間の関係を明らかにす るということですけれども、風土論をやっている者の立場から言えば、やはり その関係の基盤になっているのは「風土性」であると述べたいのですが、それ よりも先に「風土」と「環境」と「公共性」の間にどのような関係がありうる か、ということを考えさせていただきたいと思います。 和辻哲郎の風土論 和辻哲郎の風土論によりますと、その要になっている「人間」の概念がまず ありまして、人間、人―間の関係そのものが人間存在の構造であり、それを通 じて人間と環境との関係が成り立つということがいえると思います。とします と、「人間存在の構造契機」と和辻哲郎によって定義されている風土性も人間 という契機から発生するわけです。その契機こそが、風土と環境との関係でも あり、それに「間」あるいは「間柄」といえば、人間の「間」なのですね。そ の間柄は、もちろん個人の次元を超えた次元ですから、自然に共通的なものに なります。そういう立場ですと、人間関係は、多かれ少なかれ、良かれ悪しか れ、とにかく倫理的なものですから、風土性という「人間存在の構造契機」こ そ本質的に倫理的であり、公共的でもあるはずといえると思います。 これは原則ですけれども、それを理解するのは難しいです。このような人間 と、環境または自然との関係、あるいは空間との関係の考え方は、まず古典近

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特集/風土論・環境倫理・公共性基調講演

風土性に立った倫理と公共性

国際日本文化研究センター客員研究員  オギュスタン・ベルク

(Augustin BERQUE, 辺留久)

 私の選んだテーマは、風土論と環境倫理と公共性との間の関係を明らかにす

るということですけれども、風土論をやっている者の立場から言えば、やはり

その関係の基盤になっているのは「風土性」であると述べたいのですが、それ

よりも先に「風土」と「環境」と「公共性」の間にどのような関係がありうる

か、ということを考えさせていただきたいと思います。

 和辻哲郎の風土論

 和辻哲郎の風土論によりますと、その要になっている「人間」の概念がまず

ありまして、人間、人―間の関係そのものが人間存在の構造であり、それを通

じて人間と環境との関係が成り立つということがいえると思います。とします

と、「人間存在の構造契機」と和辻哲郎によって定義されている風土性も人間

という契機から発生するわけです。その契機こそが、風土と環境との関係でも

あり、それに「間」あるいは「間柄」といえば、人間の「間」なのですね。そ

の間柄は、もちろん個人の次元を超えた次元ですから、自然に共通的なものに

なります。そういう立場ですと、人間関係は、多かれ少なかれ、良かれ悪しか

れ、とにかく倫理的なものですから、風土性という「人間存在の構造契機」こ

そ本質的に倫理的であり、公共的でもあるはずといえると思います。

 これは原則ですけれども、それを理解するのは難しいです。このような人間

と、環境または自然との関係、あるいは空間との関係の考え方は、まず古典近

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代的人間観とは違います。根本的に違います。近代的人間観はもちろん個人の

存在をまずおきますから、それから個人同士の関係は倫理的なのですけれども、

環境は客体になってしまいますので、それとして何の倫理的な価値もない、本

質的に何の価値もないはずです。その価値を与えるのは、やはり人間なのです。

人間は人間同士の関係を、あるふうに環境に投影し、あるいは投射しますから、

その時初めて環境は何らかの価値を得るわけです、あるいは意味を得るわけで

す。従って、まず人間関係がありまして、次に環境は倫理的な問題になりうる

わけです。このような投影的な関係が一つの可能性です。もう一つの可能性は、

近代自然科学をもとにして自然法、あるいは環境の働きを分析して、人間をも

その働きの一面として考えることです。人間は生物ですから、やはり自然法に

従わなくてはなりません。この二番目の立場は、還元論的な立場で、人間を自

然法という枠の中に閉じこめ、還元するわけです。近代存在論の立場では、投

影か還元かという両可能性しか考えられないということです。

 このような近代的な存在論と根本的に違う見方がある、あるいはあったので

すが、その中に和辻哲郎ふうの、風土論的な存在論があります。これは私の基

本的な立場なのですけれども、同時に和辻哲郎が『風土』という本の中で述べ

ている論理にも限界があると思います。というのは、まず和辻は「風土」と「環

境」の違いをおきます。どうして違うかというと、『風土』はまず、人間存在

を前提としています。人間存在の主体性、主体としての人間をまず想定します。

それを前提に環境との関係ができ、その関係とは風土であるということが言え

る。確かにそうだと思いますけれども、その主体性を分析してみますと、誰が

主体になっているかと問わなくてはなりません。

 『風土』を読みますと、和辻哲郎は、ご存じのように日本からドイツまで長

い旅行をして、さまざまな風土に出会います。それで、それらの風土を紹介し

ます。それは結局『風土』という本の内容なのですが、そこには基本的に和辻が、

自分の受けた印象を分析しているのです。例えば、アラビアの南のアデンに着

いた時に、アデンの山を発見します。それらの山は日本の山と根本的に違いま

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して、死んだ山です。つまり植物のない山で、日本の青山とは本質的に、ある

いは存在論的に違う山なのだと和辻は述べています。そのような砂漠的な山と

青山は、風土性の立場で論じますと、一方は「砂漠的人間」、もう一方は「青

山的人間」の条件になります。もちろん和辻自身は青山的人間ですけれども、

砂漠的人間の存在を解釈しようとするのです。そこには、ちょっとおかしい理

屈が出ます。というのは、自分が砂漠的人間ではないからこそ砂漠の本質が分

かるというような理屈なのです。つまり、自分の存在構造と違う、砂漠的人間

の異質性を強く感じるからこそ、その砂漠的人間の本質が解釈できるというわ

けですが、そこには方法論上、明らかに限界があります。なぜならば、青山的

人間が初めて砂漠に出会うというような関係において、何が分かるかというと、

それは自分が砂漠的人間ではないということで、それは確かにそうなのですけ

れども、これで終わり。砂漠的人間自身はどのような人間であるか、分かる術

がないのです。それを知るためには、やはりさまざまな、砂漠に生きている社

会を対象にして研究しなければならないのです。

 以上のような理屈の限界を、もう一つの例を取り上げて明らかにしたいと思

います。後になって、和辻哲郎の風土論をもとにして、鈴木秀夫氏が超越を砂

漠と関連づけたのが知られています。そういう関連とは、砂漠はこうであって、

一神論がそういう自然条件から生まれたという理屈です。このような考え方は、

かつて地理学には多くあった、環境決定論と呼ばれていますが、これは間違っ

ていると簡単に証明することができます。世界にはたくさんの砂漠があるけれ

ども、例えば北アメリカのアリゾナや、南アメリカのアタカマとかグランチヤ

コがあり、オーストラリアの大部分は砂漠なのですし、アフリカのサハラやカ

ラハリも、中央アジアのタクラマカンも有名ですけれども、そのさまざまな砂

漠には一神論が生まれなかったのは事実です。では、どうして中近東以外のす

べての砂漠には、一神教ではなくアニミスムがあったのか。明らかに一神論が

生まれた過程は、特殊な歴史的過程で、文化的な過程だったからです。これは、

環境の自然法で説明できるような過程ではないのです。自然法の因果関係では

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なく、どこか違う次元に属する現象なのです。

 その次元とは、人間による環境の解釈なのです。環境の解釈は環境そのもの

ではないのですから、環境を司る自然法の範囲を超えた人間的な歴史、あるい

は人間の文化という次元なのです。したがって、こういう次元をまず理解しな

ければなりません。それを理解するためにはやはり、他の社会にとっての現実

を勉強しなければなりません。このためには社会学や人類学などのいろいろな

社会科学的な方法があるのですけれども、基本的にそれは自分とは違う、他の

人間の立場を理解し、解釈するということなのです。

 確かに和辻哲郎は『風土』において「解釈」という言葉を使いますけれども、

彼は結局、解釈しているのは自分の印象にすぎないのです。それは他人の主体

性ではなく、自分の主観性なのです。どうしてこのような間違いが生まれたか

というと、彼の風土論において、やはり「我」と「我々」の間の境界が曖昧だっ

たからです。そのような境界の曖昧そのものが「美」であり「善」であるとす

る日本文化がありまして、日本の風土の中に育てられた人間にとって、やはり

「私=個人」と、「我々=集団」との間の境界が曖昧であることこそ望ましい

という伝統が感じられます。これは文化的、倫理的、歴史的な選択なのですが、

そのような人間関係がありますと、やはり日本人一人が日本の風土に関して感

じることは、だいたい日本人全体、われわれとしての日本人全体が、だいたい

似たような共通感覚を持っています。けれども、このような日本人同士の共通

感覚との関係をそのままアラビア等に移すことが誤りなのです。場違いで、効

かなくなるからです。現地の「我々」は罪行者の「我」とは違う、別の文化の

人間なのですから。そういうわけで、その現地において、人と社会、あるいは

個人と社会との関係などをまず対象にして、直感的にではなくて、やはり近代

方法論をもって社会科学的に分析しなくてはならない、というのが解釈の基本

的な条件なのです。この条件なしには、かならず勝手な、間違った解釈に陥っ

てしまいます。

 このような間違いの例としては、和辻哲郎によるヨーロッパの近代科学の由

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来の解釈が挙げられます。彼によれば、その原因は自然の従順性、規則性だっ

たのですが、思想史を調べてみますと実は逆だったのです。ギリシャ人にとっ

て自然現象は不規則だったからこそ、それらを超えた次元を求めなければなら

ないというような見方が生まれたのが本当の由来だったわけです。つまり現地

の生きられた事実は旅行者和辻の印象とはすっかり異質的だったのです。確か

に日本から来た人間ならば、ヨーロッパの自然は規則正しいように見えますが、

これはあくまでも外来者の印象にすぎず、風土の歴史ではない、よそものの見

方であると言わなければなりません。

 しかし、これは結局、1935年に出版された本なので、あの時代によくあっ

たような誤りなのです。今は、このような間違いをしてはいけないとはっきり

言える時代になっています。

 「通態化」―述語化の世界観

 本論に戻りますと、和辻哲郎が『風土』の最初の文章において述べている風

土性の定義をもう少し説明しなければなりません。「人間存在の構造契機」と

いう表現なのですが、その「契機」こそ問題なのです。どうして契機が成るか

というと、先ほど簡単に申しましたように、それは人間、つまり人と人との「間」

(あいだ)から発生するのです。間あるいは間柄とは何かというと、それはも

ちろん人間同士の間柄ですけども、それだけではなくてやはり人と物との関係

をも含みます。人周関係あるいは間柄を通じて、人と物との関係がはじめてあ

り、はじめて可能であるということなのです。それで、風土性という人間存在

の構造契機が成り立つわけです。契機とは言うまでもなくダイナミックな関係

です。そのような契機を、今の風土論においては、和辻哲郎の時代よりも、詳

しく分析することができると思います。

 西田幾多郎からヒントを得て、まず人間風土の世界性を考えなければならな

いと思います。ご存じのように、西田にとっての世界は述語的なのです。した

がって、風土性を述語性との関係で考察しなければならないと思います。一見

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して述語というのは語源学とか論理学に属する概念に見えますが、この場合は

そういう範囲に限らないのです。私にとっての述語性は現実全体に関係してい

ますので、この全体的な関係を表す言葉としては「通態」、「通態化」という言

葉を使います。これは何であるか、これから説明させていただきたいと思います。

 まず自然界から始めましょう。戦前に、動物行動学の親の一人と言われたヤ

コブ・フォン・ユクスキュル(Jacob von Uexküll)の動物観を簡単に紹介し

なければなりません。ユクスキュルによれば、動物あるいは一般的に生物は直

接的に環境の中に生きているのではない。環境を解釈して自分の世界をつくる、

または生むということがまずあるわけです。われわれの科学的な立場から見た

環境をユクスキュルは Umgebungと呼びます。Gebungは「与えること」で、

つまり与えられた状態、条件です。“Um”は「環」(まわり)、環境の環。与

えられた環境ですね。Umgebungのなかに生きているけれども、それとは自

分の種特有の関係付けがあるのです。生物各種の特有の関係付け、関わりがあ

るわけです。その Umgebungとの関わりを表す言葉として、ユクスキュルは、

Umweltと言います。つまり「まわりの世界」、「環境世界」という言葉を使い

ます。生物の本当の生は、その環境世界の中に行われています。自分にとって

本当に存在するのは、環境そのものではなく環境世界なのです。

 ユクスキュルから影響を受けて、後になって人間存在を考察したハイデガー

は、人間は“Welt”、つまり「世界」を持っているということを主張しまし

た。彼の存在論によれば、動物の世界は人間の世界に比べて乏しいです。動

物は、“weltarm”なのだ、つまり「世界に乏しい」と。石ならば、つまり生

きていないものならば、世界が全然ない、“weltlos”、「世界なし」だといいま

す。このような関係を考えますと、存在論的な階層があります。下にあるの

は weltlos、石の「世界なし」。その上に発生するのが、生物の「乏しい世界」。

ハイデガーの言葉で生物は weltarmだというわけです。その上に発生するの

が、やはり人間らしい世界、本当の世界、本当のWeltがあります。

 この考え方は本質的にユクスキュルの動物論と違わないのです。こうしてみ

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ますと、その人間特有の世界性は、どのような過程によって発生するかを考察

しなければなりませんが、それに関する明らかな答えはハイデガーにはないと

思います。ここではやはり西田幾多郎の述語世界論が非常に教えのある哲学だ

と言わなければなりません。世界は述語的だとしますと、何が、どういうふう

に述語化されるかを考えねばなりません。私に言わせれば、述語化されるのは

環境(または自然、地球)であって、その述語化の仕方は4つに整理すること

ができると思います。

 一つ目は、人類として、つまりヒトという種によっての環境の解釈です。ヒ

ト特有の Umwelt、環境世界の出現です。これは歴史よりも進化の、文化より

も自然の水準であって、普遍的な人類特有の Umweltなのです。例えば人間

の目には赤が見えて、われわれは赤のある環境世界に生きていますが、牛は赤

の見えない環境世界の中に生きています。これは無意識的な、感覚の進化の次

元と整理してもいいと思います。

 二つ目以降は明らかに歴史的、文化的な次元になります。人間は意識的にそ

の環境世界を解釈し、述語化しているわけです。

 そのひとつ(二番目〉の仕方は思想です。頭の中の解釈で、述語化なのです。

 三番日の仕方は言葉としての解釈です。つまり、言葉で、言葉をもって環境

世界を述語化するのです。

 四番目は、行動し、労働をもって具体的に環境世界に働きかけるという、積

極的な「述語化」の仕方です。

 以上の4つの関係を要約しますと、人間は、地球または自然環境を自分の世

界として解釈し、述語化します。こういう捉え方の結果として、人間特有の述

語的世界が現れます。論理学においては、述語化されるもとのものは、主題ま

たは主語と呼ばれています。それを S(subject)と表します。Sを述語化する

ものは述語で、それを P(predicate)と表します。述語化の関係を簡単に表

現しますと、それを S/ Pと書き、「Sを Pとして捉える」ことだと読みます。

 風土論に戻りますと、Sは環境、地球または自然のことで、Pは世界なので

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す。S/ Pは言い換えれば、「環境(地球、自然)を世界として捉える」こと

になります。世界とはもちろん、人間特有の現実という意味を持ちます。例えば、

山(S)を薪とか炭という資源(P)として捉えることです。明らかにこれは、

動物の Umweltの次元を超えた次元のもので、人間世界(Welt)に限られた

風土的・歴史的な現実(S/ P)なのです。ちなみに、このような現実を簡単

に整理してみますと、4種類あって、先の「資源」と「制約」と「リスク」と「ア

メニティ」です。この4つも、動物にとって木は燃料という資源にはなってい

ないように、環境そのものにはないのです。環境(S)の述語である人間世界(P)

があって初めて存在する通態的(風土的・歴史的)な現実(S/ P)なのです。

 この通態的な現実はどうやって現れたかというと、そこには西田にはないけ

れども、人類学者のルロワ=グーラン(Leroi-Gourhan)の人類の進化に関す

る説を使っています。ルロワ=グーランは、人類の発生過程を次のように解釈

しています。われわれの祖先は霊長類だったのですけれども、その霊長類の体

が本来さまざまな機能をもっていました。例えば、爪で土を掻いて、蟻を取る

とか、それを歯で噛んで食べるとかいうような機能。このような機能を人類に

なりつつある動物はだんだん外部化して、ついにヒトに進化したという過程な

のです。ルロワ=グーランはそういう過程を分析して、それにおいて3つの相

互作用的な面があると示しました。

 一つの面は技術であって、体の機能を外部化して展開していく体系になっ

ています。言い換えれば、手の延長なのです。技術は手の延長だという説は周

知なのですが、それだけではないのです。同時に、もう一つの外部化が起こり、

それは象徴体系の、シンボルの次元の発達なのです。これが発達すると、環境

の意味は表象し、伝達する事のできるような次元を持つようになります。そう

いう次元をもって、人間世界が成り立つわけです。三番目に、以上の技術体系

と象徴体系がからんで、霊長類の体を変え、進化させるのです。相互作用的に、

この進化が技術体系と象徴体系を発達させます。そういう三つ巴の作用が結局、

ヒトを生んだのです。その三つの面を別々に考えてはいけません。構造的な契

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機になっていますから。

 こういうふうに見ますと、人間世界、つまり技術的であり象徴的である人

間世界が、人間の肉体にも関わっているわけです。われわれの肉体そのもの

が世界的なのです。つまり身体性と世界性を分離することができないわけで

す。人間の身体性そのものを明らかにした哲学者としてはメルロ=ポンティ

(Merleau-Ponty)が知られていますが、彼は非常に面白い表現を使います。

人間の環境が人類的な predicate、人類的な述語を帯びているという表現です。

メルロ・ポンティは西田幾多郎の述語世界説を全然知らなかったのですが、た

だの偶然ではないと思わなければなりません。基本的には、人間世界には述語

性が確かにあると考えねばならないと思います。先ほど申しましたように、四

つの面を持った述語化が行われ、感覚、思想、言葉、働きの四つの仕方をもっ

て環境(地球、自然)を世界として捉えています。主語が述語の基盤であるよ

うに̶̶ラテン語の「スブジェクトウム」(subjectum)はギリシャ語の「ヒュ

ポケイメノン」(υποκειμενον)の訳語で、両方の基本的な意味は「下に置か

れたもの」、つまり基盤のことなのですが̶̶基盤である自然、地球または環

境がそれを述語化する人間世界を支えていると同時に、世界として展開してい

くわけです。この過程を S/ Pと表現します。言語だけではなく、肉体にも

関わり、物理的な環境とも関わる過程ですから、それをただ述語化と言います

と、誤解を導きます。したがって私は、それを特殊な言葉をもって「通態化」

と呼びました。

 どうして現実が「通態」的なのかと言いますと、先ほどのルロワ=グーラン

の外部化説を思い出していただきたいのです。彼は技術体系も象徴体系も外部

化されたと言いますが、それは現実の半面にすぎないと思います。技術体系は

確かに人間の身体から外部化された機能です。例えば、今は人類が、火星など

のような地球以外の惑星へ機械を送ることができます。そのような機械、また

はロボットに命令を送って働かせる。これは明らかに人間の手の延長なのです。

けれども、同時にこの外部化された機能は常に戻って来ます。技術的に、情報

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として戻ってくるのですけれども、それだけではない。いくら世界の果てま

で行っても、常にわれわれの頭の中に意味として宿るのです。いわば、世界の

果てそのものが常にわれわれの脳の中に戻っているように。象徴体系を通じて、

表象としてわれわれの脳の中に生きているわけです。何千万キロも離れたもの

でも、同時にわれわれの肉体の中に生きているということは、象徴体系がなけ

れば、ありえないのは当然です。物理的に不可能です。この同時性は光速を越

えているからです。

 この物理の自然法を超越した次元は人間特有の世界性なのです。動物におい

ては象徴体系がほとんど発達していないから、そういう世界性は存在しないの

です。つまり、世界を自分の頭の中に表象することができず、直接的に環境の

中に生きています。それとは違って、われわれの身体は一方で世界の果てまで

外部化され、それで世界の果てはわれわれの肉体に戻るわけです。外部化され、

内部化される。あるいは、身体が世界化され、世界は同時に身体化されるわけ

です。

 このような動きは「通い」(かよい)なのです。現実がこういうふうに通っ

ているから、「通態」という状態にあります。したがって、人間の環境も通態

的な環境です。近代存在論の考えている客体ではない。ただの主体の投射だけ

でもないのです。このような「通い」の働きによって、人間世界特有の通態的

な環境ができ、それが風土にほかならないのです。人間世界を通じて風土が生

まれるわけです。

 もちろん、この通態的な現実は常に環境(自然、地球)を基盤としています

ので、必ず生態学的な面を持っています。このような生態系的な事実は、同時

に技術的な事実でもあり、象徴的な事実でもあります。生態、技術、象徴が一

緒になって、これが人間風土なのです。通態的な人間の風土。

 これに人間存在の契機そのものが関わっているから、最初に申し上げまし

たように、本質的にこれは共通な倫理学的次元を帯びています。また明らかに、

個人の動物身体の次元を超えていて、人間同士の間柄を前提としているから公

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共的なのでもあります。しかし、この事実に関して、近代の世界観には構造的

な欠陥があります。周知のように、近代の世界観はまず個人を前提としてい

ます。これは、デカルトから明らかになっています。個人の意識がまずあって、

これは客体的な世界に対面しています。ついでに、私は「客体」という言葉が

あまり好きではないのです。なぜならば、客体は、こちらに来て、私の家に入

る。でも、近代の客体はそうではないのです。外に留まる、外の世界なのです。

ですから私はむしろそれを、「外体」と呼びたいのです。Objectはそういう外

体的な存在です。このような外体と個人の内なる世界との間の関係はどのよう

なものになっているかというと、物理的なぶつかり合い以外に、投影的、投射

的な関係しかありえないのです。もちろん人間は物理的に、空から石が落ちた

ら、頭蓋骨が割れて死にます。物理的に死にますけれども、これは物体的な次

元だけです。それが意味を持つためにはまず、個人の意識がそれに何かの意味

を投影、投射しなければならない。あるいは人間同士の関係を投影しなければ

ならないのです。

 言うまでもなく風土論の立場では、これは本当の人間と物の関係ではないの

です。一方的です。全然、通態的ではないのです。通っていない。しかし、こ

のような個人的意識の前提は近代の三世紀の間にはだんだん発達し、絶対化さ

れつつ、いろいろな方法論を生みました。簡単にそれらを要約しますと、個人

的方法論ということなのです。まず個人を前提して、その一点からすべてを解

釈する。例えば、19世紀にありましたスペンサーとデュルケームの間の論争

を考えますと、デュルケームがスペンサーの立場を、だいたいこのような個人

的方法論の誤りだと批判しました。もちろんそういう表現を使っていないけれ

ども、そのような意味であって、まず個人を前提にして、個人同士の関係を次

に考える、というような関係ができて初めて社会が成るというスペンサーの見

方を、デュルケームは根本的に拒絶しています。彼に言わせると、社会関係が

まずあって、それはいろいろな進化を経て、分業になって、労働の分業が発達

して社会関係そのものが変わるわけです。そういう変化によって、近代個人が

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生まれたのです。確かに、近年の社会史研究が明らかにしたように、近代個人

とそれを伴う個人主義が生まれたのはだいたい 18世紀のことにすぎないので、

その前は人間が別な存在だったのです。もちろん、近代個人の誕生以前、それ

に導いた長い精神史はあるけれども、本物の個人が現れたのはたった二世紀前

のことにすぎないのです。

 しかし、やはりその前提の歴史は長いです。その中の一つの基本的な条件

は、アリストテレスの思想にあると思います。特にアリストテレスの「トポ

ス論」が大きな影響を及ぼしました。アリストテレスにとっての「トポス」

(τδποξ)とは、限られた範囲、物の周りです。例えばこのペットボトルがあっ

て、これは中にある水のトポスになっています。この水は、このトポスを超え

られない。この中にその同一性が限られています。これは、アリストテレスふ

うのトポス論ですけれども、もののアイデンティティがそのトポスに限られて

います。近代個人もやはりそういうトポスに限られています。自分自身の体を

持っていて、それを超えてはいない。近代個人の存在は、体というトポスを越

えていないというわけです。

 そういう見方とは根本的に違って、ルロワ=グーランは人間には動物身体と、

技術体系と象徴体系でできている社会身体があり、合わせて本当の人間になる、

と主張しました。これは和辻哲郎の人間論に似ています。ルロワ=グーランは

和辻の人間論を全然知らなかったし、彼の方法は現象学とは関係がなく、実証

科学的古生物学や考古学だったので、それはただの偶然ではないのです。基本

的には人間はそういうものだと、私は強く信じています。和辻の言葉であって

も、ルロワ=グーランの言葉であっても、言葉は違っても基本的には同じ人間

存在の構造なのです。

 トポス的存在論

 このような考え方はやはり、近代存在論とは根本的に違います。近代存在論

はトポス的なのですよ。トポス的な存在論です。それによれば、近代個人とし

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風土性に立った倫理と公共性

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ての私の存在範囲は自分の体に限られています。その外にあるものは私ではな

い。外の世界です。これは風土になりえないのです。客体として、あるいは外

体としての対象的な環境にすぎない。

 この存在の見方は、今のトポス論あるいは環境論だけに限らず、われわれの

世界観全体、現実観全体に影響を及ぼしています。このようなトポス的な存在

を前提にしますと、人間の世界との関係は投影的にしかありえないのです。わ

れわれの存在の構造契機にはなりえないのです。あくまでも他界、外体にすぎ

ないのです。

 このような近代的な現実観、または世界観が確かにいろいろな進歩を可能に

しました。それは科学の進歩、技術の進歩、生活条件の上昇、自由の展開など

でした。その中に、情報革命、ITなどを可能にした進歩があります。この場合は、

E-mailなどの形で、情報は世界の果てから一瞬間(とにかく光速)でこちら

に届きます。それは非常に便利ですが、同時に危ない幻想を生んでしまいまし

た。この幻想とは、昔の象徴体系を近代技術に取り替えられるという幻想なの

です。それは根本的に、人間世界を物理の世界に還元するという近代特有の幻

想です。どうしてこれは幻想なのかというと、先ほどの述語世界のことに戻り

ますけれども、Sから Pへという動きに関わります。Sが Pとして捉えられ

るという動きは述語化の原理です。その動きにおいて、Sの本質が変わります。

Pになります。それは一種のメタファー、隠喩なのです。基本的には、Sは S

であって、Pではない。例えば、「これはペットボトルだ」と言います。この

述語化において「ペットボトル」という言葉(述語)を使っていますけれども、

ペットボトルそのものはもちろん言葉ではないのです。言葉は物理的なボトル

とは別な物です。この識別は典型的に近代的な見方なのです。すなわち、一方

は物体があり、もう一方は言葉がある、という見方なのです。物体と言葉の間

には恣意的な関係しか存在しないのです。

 人間の生活世界を抽象すれば確かにそうなのですが、それにおいては関係が

あるのが事実です。生きられた関係、具体的な関係、歴史のある関係、つまり

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風土的な関係(和辻哲郎の言う「関わり」)。ですから、物体と言葉は別々な存

在ではなくて、やはり物体(S)が言葉(P)になるというメタファー、生き

られた具体的な隠喩という動きが、人間世界の基本的なダイナミックです。

 視野を広げて、地球(S)が世界(P)になるという述語化(メタファー)

に他なりません。これはやはり人間の恣意的なメタファーだけではないのです。

人間の任意的なメタファーだけではなくて、やはり自然世界の中に根を下ろし

た動きです。先ほどのユクスキュルのいう Umgebungが Umweltになるとい

う現象を思い出していただきたいのです。これは生物にとって現実そのものな

のですけれども、やはり人間になりますと、人間特有の象徴体系と技術体系が

加わりますから、この動きによって生成する現実(S/ P)がまた別な次元に

達します。本当の人間世界になります。このような次元は全然、物理的な次元

に還元しえないのです。なぜかというと、やはり Pと Sのアイデンティティ

が違うからです。「ボトル」という言葉はやはり、ボトルという物体ではない

のです。そういうわけで、風土(S/ P)は環境(S)に還元し得ないのです。

和辻が察したように、両者を混同してはいけません。

 風土においては、われわれ人間同士は言葉や他の技術・象徴体系を通じて一

緒になっているので、社会的な存在になっています。そういう社会身体を通じ

て初めて、人間世界特有の通態的な現実が出現します。S/ Pという現実な

のですから、ただの物理的な物に還元しえない現実なのです。これは人間世界

の現実、S(物体、外体)だけではなく P(言葉、主観的な表象)だけでもない、

通態的(風土的・歴史的)な現実(S/ P)なのです。

 以上の分解的な還元の他に、近代の帯びているもうひとつの危険がありま

す。近代的な二元論は現実(S/ P)を外体(S)に還元するだけではないの

です。生物、つまり生命そのものが S/ Pという動き(それを Umgebung/

Umweltという述語化と観てもいいし、新陳代謝と観てもいい)の始まりな

ので、Sへの還元は世界性だけではなく、生命をも否定しています。本質的に、

進化とは逆の動きです。この還元はまず風土を環境に還元し、次は環境を純粋

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物理的・化学的な要素に還元しようとします。つまり、人間の生活世界をまず

生物の生命世界に分解し、続いて生命世界を石の無世界(weltlosの状態)に

分解します。

 ハイデガーは近代の「脱世界化」(Entweltlichung)を論じましたが、それ

を伴う脱生命化の危険をあまり察しなかったようです。この危険に気づくた

めには、やはり風土性の立場が必要です。和辻哲郎はこの立場からハイデガー

を批判しました。ハイデガーの存在論は結局、人間存在論ではなく、ただ個

人(「人」)の存在論にすぎない、と。どうしてそんなことが言えたかという

と、いろいろな理由がありますが、その中の一番代表的なのはハイデガーが

Daseinという存在は絶対的に限られていると言っているからです。絶対に超

えられない地平線を持っています。それは死なのです。したがって、ハイデガー

は Daseinを「死への存在」と定義します。それに対して、和辻哲郎は、確か

に個人は死ぬけれども、社会は死なないので、人間存在は死への存在ではなく

て、「生への存在」であると主張しました。個人が死んでも間柄が続くわけで、

個人と間柄の二重性を持つ本当の人間は生への存在です。

 人間は死にながら、ある面では生き続けるということは非常に不思議なこと

です。これはずっと昔から、曖昧に意識されてきたと言えると思います。それ

は宗教によって象徴的に表現されています。たくさんの、あるいはほとんどの

宗教において、人間には死なない魂があると信じられています。人が生物とし

て死んでもやはり、魂や霊として生き続ける。この信仰は宗教と密接な関係

を持っていて、本当の存在論とは言えないのですが、今のように風土学的に考

えてみますと、やはり人間存在は、あるいは人間の生命はただの生物的な生命

に限りません。体というトポスを超えた次元を構造的に持っていますから、体

が死んでも生き続けることが可能になるわけです。したがって、人間存在そ

のものはこのようなメタファー、死でありながら生であるという不思議なメタ

ファーを構造的に帯びているといえると思います。

 われわれはあまりにも近代的なトポスに囚われています。この問題は、た

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だの哲学者同士の討議の範囲を超えています。なぜならば、環境論そのものな

のですけれども、今の世界は生き続けられない。このペースで行きますとあと

三十年くらいたちますと崩れるしかないのです。われわれの文明を支えている

主な資源の枯渇だけではなく、われわれの命を保証する生物圏の現状が脅かさ

れています。周知のことですので、その危険を防止する方法はいろいろ考えら

れていますが、根本的には人間存在そのものを考え直さなければならないと思

います。環境と他人と本質的に関わる、風土性という人間存在の構造契機を意

識し、積極的に実践において表現しなければならないのです。人間の風土性を

認めれば初めて本当の環境倫理と公共性が可能になるというわけです。

 どうもご清聴ありがとうございました。

■質疑応答

司会(鬼頭秀一・東京大学) どうもありがとうございました。ベルクさんの

風土論の基本的でかつ、根幹的な部分に関して展開していただいて、最後は特

に、環境の問題、環境倫理と公共性とつないでいただいたと思います。12時

まである程度十分に時間をとってありますので、今日のご講演についていろい

ろなご質問、ご意見とかあると思います。ぜひ質問していただきたいと思いま

す。質問は手を挙げていただきましょうか。

 公共性の原理と風土論

内山田 康(筑波大学) 公共性の部分、人間存在が基本的に公共的であると

いうところをもうちょっと聞きたいのですが。トポス的であるということと、

ポリス的であるということの矛盾。そのポリスですが、民主主義、公共の場の

生まれた場所がポリスであると、都市国家である。その都市国家は、ある意味

でペットボトル的な世界でもあるわけです。そこに公共性の苦しさというのか

な。ですから、ベルクさんはこのような公共性とは違う公共性をおっしゃって

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風土性に立った倫理と公共性

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いると思うのですが、いかがでしょうか。

 公共性、この風土論を通してわれわれの存在が基本的には公共的な存在であ

るという、そういう結論でしたが。ベルクさんの公共という定義は、近代的な

思想の中に出てくる公共とずいぶん違う。そこは、おそらく公共の一番出発点

のギリシャの都市国家、ポリスの政治ですよね。あれが基本的には狭い都市の

世界である、そこから公共性の窮屈さというのが出てくる部分があると思うん

です。今の話を伺っていて、ベルクさんの公共性は、トポス以来の外と内とし

て市民、狭い市民の、特権的な市民の公共ではなくて、それを超えた公共性の

ことだと思いました。いかがでしょうか。

ベルク 公共性にはいくつかのスケールがあると思います。公共性の原理は個

人の次元を超えた、人間の存在的な関係性の中にあるというふうに考えていま

す。この原理そのものは、狭い世間の場合にも、広い世界の場合にも変わらな

いのですけれども、スケールは違います。スケールが違ったら、問題も変わり

ます。同じことではなくなります。例えば、国際的な問題になったりするわけ

ですね。あるいは狭い世間を超えた、国家的な単位になるなどのようなことが

あるのです。

 もう一つの問題がここにあります。これは伝統的な共同体と、近代的な社会、

ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの進化なのですけれども、それについ

ての社会関係の本質まで変わります。しかし、基本的にはやはりトポス的な次

元を超えなければならないのです。それがまず必要です。

 近代的民主主義の考え方は、まず個人を想定しています。個人を想定して、

個人の自由をまず必要な条件として考え、個人同士の社会がデモクラシーの場

になるわけですけれども、これは和辻哲郎が言うように、具体的な風土がなけ

ればただの抽象的なものにすぎません。つまり、個人だけを考えるとやはり抽

象的なのです。私もそう思っています。例えば、いくら「西洋デモクラシー」

といっても、実はさまざまなのです。日本から見たら「西洋的」なのですけれ

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ども、アメリカの民主主義は、フランスのそれとはだいぶ違います。またイギ

リス等もそうなのです。つまり民主主義そのものが個人の自由という普遍的な

原理を持ちながら、具体的にはやはり風土的でなくてはならないのです。同

時に普遍的と特殊的であり、個人的・共時的なものです。この弁証法的関係が、

和辻が指摘したように、風土論の基本的な問題です。

司会 今の公共性の問題は今日の問題の中で非常に重要だと思いますけれども、

特に千葉大学の COEの方でも公共性の問題はかなり議論されていると思いま

すので、小林さんの方からちょっとその辺について言っていただければと思い

ます。

 近代科学ではSはO

小林正弥(千葉大学) ありがとうございます。とても感銘を受けるお話で、

私もベルクさんが強調されている近代世界観批判と、それに対して主張される

関係論的あるいは通態論的アプローチには非常に賛成なのです。その上で、今

話題に出た公共性との関係についてお聞きしたいと思います。

 ベルクさんの議論では、Sと Pという記号において、Sは普通の意味での「主

体」ではなく、環境を意味しますね。それを「述語 Pにする」というふうに

議論されているのですが、当然、普通の意味での、人間の主体としての Sと

の関係、しかもその「S=主体」について、単数形の Iと複数形の weのそれ

ぞれとの関係が議論になると思うのです。ゲマインシャフト的な古い意味での

共同体の場合には、複数の主体間の差異があまり意識されないのに対して、ゲ

ゼルシャフトについて、また近年のさまざまな議論においては、人間個々人の

主体の差が非常に意識されています。最近の議論では、主体の差が意識される

がゆえに、「普通の意味での共同性と区別された公共性が必要である」という

議論が、公共性や公共哲学に関してなされているわけです。ですからベルクさ

んが書かれている R= S/ P(「現実 Rは述語 Pとして捉えた Sである」)と

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いう考え方自体には賛成した上で、公共性の問題に関して、その主体間の差異

の問題についてどう考えられるか、伺いたいと思います。

ベルク やはり Subjectは両義的です。これはヨーロッパの言語に大きな問題

の一つです。というのは先ほどおっしゃったように主体は S(Subject)なの

ですけれども、同時にまたこの Sは Pとの関係においての S(Subject)でも

あります。後者は「私」という主体ではないのです。それは論じられている題

という Subjectです。確かに紛らわしいです。論理上 Sとは「下に置かれた」

話題というのが基本的な意味なのです。つまりその話題を下にして共同の論

理のテーマにすると Subjectになるわけです。これをラテン語で言うと「スブ

ジェクトゥム」(subjectum)、「下に置かれた」もので、ギリシャ語の「ヒュ

ポケイメノン」(υποκειμενον)の翻訳語ですが、ヒュポケイメノンも「下

に置かれた」「下に横たわっている」という意味なのです。基盤という意味です。

述語の「基体」なのです。というのは、その上に述語があって、いろいろなふ

うにこの「基体」を捉え、解釈するわけです。

 私の風土論においては基盤あるいは基体は地球または自然であって、人間は

それをいろいろなふうに、いろいろな文化を通じて捉えている。いろいろな象

徴を通じて理解し、さまざまな技術をもって利用しています。これは先ほど話

しました世界による地球の述語化なのです。この述語化をもって、人間は自分

の風土を歴史的に作るわけです。風土とは S(地球、自然環境)という基盤と、

Pである世界との関係S/Pです。けれどもこのSという基盤は近代科学にとっ

ては客体、Objectですよ。Subjectではなく Objectなのです。たとえば生態

学がそのような基盤を分析の対象にしています。対象化し、近代的な方法をもっ

てそれを分析します。論理学者の Subjectは、物理学者の Objectなのです。

小林 今の理解を前提とした上で、仮に Sと S’というように2つに分けてみ

ましょう。ベルクさんの使われている意味での Sがそういう意味だとすると、

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通常の主語という意味での、人間の主体を S’としましょう。この場合、述語

化する、すなわち P化するのが S’ですよね。私がお聞きしたのは、「この述

語化するのはある一人の人間(I)であるのか、述語化するのが複数の人間(we)

なのか」という点です。この述語化する主体の複数性という問題をどう考える

のか。後で私の総括コメントでも言いますけれども、これは和辻倫理学をめぐ

る最大の問題ですね。通常の意味での主観性と間主観性の問題に相当しますが、

「この点を先生の図式でどう考えられるのか」ということが質問の趣旨です。

ベルク 解釈する、あるいは述語化する主体は主観とも呼ばれています。その

主観は、「私」というためには、あるいは“I”というためには、自分の存在と

いう基盤を言葉でもって述語化するわけです。無意識的に基盤 S(自分の存在)

と述語 P(「私」という言葉)を同一化し、意識する主観になるわけです。こ

の不思議な関係を、詩人のランボーが“Je est un autre”つまり「私は他者だ」

と、うまく表現しました。

 どうして「私」が「他者」になりうるのかというと、言葉は必ず共通的なも

のだからです。しかし同時に、個人の自己同一性の印、保証なのです。間柄の

表象体系に属し、人間の「間」ですが、同時に、個人の自我意識(「私」と言

える意識)の基本的な支えでもあります。言葉だけではなく、すべての象徴体

系と技術体系もそういう両義性を持っています。ですから、我と我々の関係は

確かに紛らわしいです。個人主観性と共同主観性の間には、はっきりとした境

界線が絶対にあり得ないのです。文化によって変わり、歴史を通じてまた変わ

ります。和辻哲郎の倫理学はそういう風土性と歴史性を帯びていますし、西田

幾多郎の場所論もそうなのです。あまりにも簡単に、個の存在を共通述語の中

に没入させる、あの時代の国家論に相当します。

 風土論の「私」は具体的

桑子敏雄(東京工業大学) ベルク先生のお声にいつも刺激を受けております

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風土性に立った倫理と公共性

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けれども、いろいろたくさんのことを話されたので、どれをお伺いしていいか、

なかなか難しいのですが、今の私というところでいうと、近代的な社会、たと

えば都会のようなところで議論する場合に、人びとが言っている「私」という

のと、たとえば、この間数年田舎の方に行きまして、河川整備とかダム問題と

か、住民と行政の話し合いの現場にいて議論を進めることをやってきましたが、

そういう人たち、特に地域の人たちがそういうところで使う「私」というのは、

孤独な一つの一個の人格としての「私」というよりは、ここで生きている「私

たち」という意味での「私」なんですね。特に伝統的な地域の文化とか、歴

史とかそういうことの中に自分のその存在理由、自分がそこで生きているとい

うことの意味を実感して、あるいはそういう実感が脅かされているような状況

ですね。こういう状況の中に初めてその「私たち」という「私」という言葉を

使うわけで、その「私」というのはまさに、そういうベルク先生がおっしゃっ

ている通態的な、環境と一個の身体的な存在である人間との境界といいますか、

境界を行き来しているまさに「私」であるというふうに思うのです。

 公共性の問題を考える時に、常に近代市民社会の自覚した一個の人格として

「私」が複数いる中でどういう公共性が成り立つか、ということを議論するこ

とが非常に多いですね。ところが、そういう現場に行きますと、そうではない

もっと違う意味での「私」を基盤にした公共性を考えなくてはいけないのでは

ないかと、よく実感するのですね。そういう日本の伝統的な社会の「私」とい

うのと、近代のヨーロッパから伝わってきた、特にその近代社会のあり方を研

究している研究者が使っているような「自我」とか「自己」とか「私」とかで

すね。このへんのことを、ベルク先生が「風土」という切り口で整備されよう

とされているのではないかというふうに思います。先生は日本で暮らされてい

て、そういうその点については何かお考えのことはありますでしょうか。

ベルク おっしゃるとおり、風土の中に生きている人間が「私」という時に、

具体的な存在でありまして、やはり風土を前提とするものなのです。普遍的に

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言いますと、「私」とか“I”、“je”、“Ich”など言う時には、もちろん言葉を使っ

て言うのです。先ほど申しましたように、言葉は必ず社会的なものでありまし

て、共通性、公共性を帯びています。“I”と言う時でさえも、公共性は私の中

に生きています。それは、言葉は一つの述語であって、共通述語世界の一面な

のですから、人間存在は必ず述語的であります。主体的、自然的、基盤的であ

りますと同時に、述語的、歴史的なのです。自分の捉え方(述語化の仕方)が

変わるわけです。こう考えればいろいろなことが相対化されていきます。例え

ば、近代が絶対化した私有 private propertyはそうです。それを伴って、個

人「私」の自我意識を絶対化しました。またそれと相俟って、客体を絶対化し、

それに対する個人の存在をも絶対化しました。しかし、private propertyがあ

りうるためには、社会制度が必要です。つまり、風土論的に考えれば、私有そ

のものが社会的なもので、ある意味では入会なのです。

桑子 私はベルク先生が最後におっしゃった「新しい人間観」が必要だという、

そのあたりのことと、今おっしゃった「私」というところと「風土」との関係

をどうこれから考え直していくか、そこが問題だと思うのです。そういう方向

で理解してよろしいのでしょうか。

ベルク その点に関して私は、日本語の影響を強く受けました。日本語を習い

始めた時にショックを受けたのは、“je”あるいは“I”に当たる言葉がないと

いうことです。もちろん「私」ということはできますけれども、それに相当す

る言い方は他にたくさんあります。まずこれが大きなショックであって、結局

“je”は相対的な存在だということに初めて気がつきました。各文化がそれな

りの表現の仕方を持っているのを知ったと同時に、言葉の問題だけではなくて、

存在そのものが文化によって違うということを、前に読んだことはあったけれ

ども、日本語のおかげで初めて実感しました。人類の普遍的な次元を持ちなが

ら、特殊な文化的な存在が現実なのであります。

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 そのようなことを理解するために、われわれは人類学の研究が必要です。例

えば、私はアボリジニーの世界に非常に興味を持つようになりました。彼らは

非常に強く風土との関連を具体的に感じています。感じているだけではなくて、

意識的にそれを通じて自分の世界を作るのです。例えば夢をもってまでですよ。

夢とは個人の頭の中に浮かぶものですが、彼らの文化においては、夢は社会的

な次元を持つようになります。近代人は夢を見たら個人の脳の中の現象にすぎ

ないというのですけれども、彼らにとっては夢は社会的な存在になりうる。話

し合って解釈し、議論しますので、それは世界という共通述語 Pの一部になり、

彼らにとっての現実 S/ Pのもう一つの面になります。

 これは 19世紀の近代人の目から見れば、現実ではなく、ただの神話として

片付けられましたが、20世紀において、人間にとっての現実はやはりこうい

うふうに、社会的に構築されるということが、少しずつ分かるようになりまし

た。科学的でないから事実ではないという近代の幻想をわれわれは超克しつつ

あるわけですが、科学さえも一種の共通的な述語なのだから、科学の理想を尊

敬しながら、科学主義というイデオロギーを完全に超克しなければならないと、

風土論の立場では言わなければなりません。

 価値共通化のプロセスと風土

フロア Sの部分ですけれども、Sが複数になる。つまり社会という場をつくっ

ていく、あるいは共同体になっていく。複数になっていきますね。そこに例えば、

権利という問題とか倫理という問題が入ってくる。あるいは他の言葉や概念が

あてはまるかもしれませんけれども。そこは述語としてのあり方にも関わって

くると思いますが、社会的なレベルでの関係性において、そこにある人間、象

徴的な世界の価値観、特に権利とか原理とかいった概念を、どのように考えて

おられるのか。あるいはアボリジニーの世界との比較でもよいのですが。

ベルク まず物に価値を与えるのは、基本的にはわれわれの肉体なのです。肉

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体が世界を感じているから、人間特有の価値と意味をもった感覚世界が出現す

るわけです。それがまた文化的に、歴史的に述語化され、本当の意味での人間

世界になりますが、無意識のレベルで感覚世界は既に価値体系になっています。

それがその上にまた意識的に構築される結果、プラトンが『ティマイオス』に

おいて言いますように、世界は一番大きい、一番きれい、一番良い、一番完璧

なのです。つまり、原理的に世界は価値の極み、真善美の極みというふうに捉

えられています。それぞれの文化は皆それなりの世界をもっていますので、原

則としてそれら皆同等なのですが、また原則として皆相対的なものなのです。

自分の世界の中から見れば、その価値体系が絶対化されがちなのですが、少し

でも歴史や人類学を習えば、そういう絶対化が誤りだとすぐに分かるはずです。

とはいえ、人間存在の構造契機に関わるものですから、それを尊敬し、慎重に、

民主主義的に扱わなければなりません。

フロア ある価値意識が共有されてくる時に、そこに公共という領域が出てき

ますね。つまり公共の場合にあるかたちで価値意識が収斂されてくる。あるい

は、共通にそれが共有されてくると言ってもいいですが、例えばそれが真善美

でもよいのですが、そのプロセスがどういう価値ないし関係性として普遍化し

ていくのか・・・・・・。たとえば、ちょっと話の視点を変えますと、そこに制度と

いう仕組みを作るとか、一例として民主主義でもよいですが。そこに価値の

仕組みが、あるシステムとして形成していくということがあると思うのですね。

ですから、公共というテーマにつながるわけですが、一方で概念としての公共

という問題はあるのですけれども、それを支える仕組みがそこについてくる。

そのへんのところを、どういうふうに考えておられるのでしょうか。

ベルク 風土は本質的に公共性を帯びています。けれどもそれは歴史を通じて

構築されたものです。文化を通じてさまざまな Sの解釈の仕方、仕組みが実

践されます。ですから、一方は民主主義になったり、もう一方は暴君政治になっ

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風土性に立った倫理と公共性

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たりする、いろいろな歴史の結果が現れるわけです。もとにある風土の無意識

的な共通性がどうやって認められた公共性になるか、あるいは否定された公共

性になるかというと、これはやはり文化の任意性なのだと思います。ご存じの

ように近代のソシュール以来の言語学において、言葉がそのような任意性のモ

デルになっています。意味世界は結局、任意的なのだ、というふうに考えられ

ていますけれども、風土論的に考えるとそうではないのです。意味世界は空

回りする恣意的、無基底的な述語ではなく、必ず基盤を必要としていて、そこ

から発達していきます。しかし、やはり発達していくと、そういう発達過程に

おいて必ず、だんだん述語化の再述語化になっていて、より自由になっていき、

より任意的になるのは事実です。したがって、そのような仕組みをどうやって

変えられるかというと、やはり人間同士の関係において、つまり政治的な関係

において、歴史的に新しい方向に向く可能性がいつもあります。そういうわけ

で、不可変な制度はありえないのです。

 風土の階層性と科学

嘉田由紀子(京都精華大学) 制度化される公共性あるいは現代の政策的な意

味での公共性と、ベルクさんの話をつなぐ事例を、私自身、気にしながら研究

をしてきました。たとえば、「環境の汚染」「水の汚染」という表現ですが、何

気なく使っている言葉の中にかなり根深い認識のクセが隠されています。物質

論的・還元論的な表現からみますと、水の中の物質の量を測る、例えば毒物の

量を測る、あるいはリンやチッソなどの有機物の量を測る、それによって汚染

物を減らそうという認識が一方の極にあります。このような認識は、現在「環

境基準」という制度化の中で、「認識の公共性」を担っています。

 しかし、先ほど桑子さんが言っていたような、地元の人たちの生活の中での

汚染認識は、いわゆる制度化された汚染とは異なった意味から認識されていま

す。ひとことで言うと「身体化された水」「身体化された水辺」というもので

す。そこではリンやチッ素が多いか少ないかという物質的基準ではなく、そこ

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で遊べるかどうか、体を浸せるかどうか、あるいはそこに生き物がいるかどう

か、獲った生き物が食べられるかどうかと、いわば自分たちの生活の文脈の中

で「身体化された水辺」として評価されているわけです。それは環境基準とは

別のものなのです。 

 そういうところにその環境基準という、いわば大変近代化された認識が暴力

のように入ってくる。問題のたて方により、その対策も変わります。水質を問

題視してくると、それを改善するにはどうしたらよいかということになる。つ

まり、物質を測る人たちは物質を制御すればよいということで、水をきれいに

するのは下水道を建設することが問題解決の手段である、ということになる。

 「水辺に子どもが遊ぶ姿が見えないことが問題だ」という問題のたて方をす

る場合には、下水道建設という対策以上に、「子どもたちの遊べる水辺をとり

もどそう」という方向が埋め込まれてくる。

 ある問題を提起する時には、既に解決の手段が埋め込まれている。これが近

代化の大変怖いところでございます。日本中というか世界中、そのような物質

的な近代化が席巻しています。ですから私が毎年訪問しているアフリカのある

国では、トイレをもっていない人口が半分以上いるのに、首都に巨大な流域下

水道ができたりする。

 「身体化された水」「身体化された水辺」とはどういうものか、そのあたりの

ことを一つずつ丁寧に解いていくことが、風土性を自覚する公共性であろう

と思います。水辺の水質汚染は人びとの暮らしの認識とどうかかわっているの

か、水の所有は、あるいは土地の所有はどうなのか、自然の生き物に対する関

わりはどうなのか、と解いていくことで、ベルクさんの言われる風土論的な哲

学と、現代、公共的になされている、制度化され、大変なお金を入れられてい

る、暴力的な自然への改変、あるいは公共事業というものがつなげられるので

はないかと期待をしております。実は今日はそのような議論ができると期待を

して参ったわけです。

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風土性に立った倫理と公共性

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ベルク 嘉田先生と同感ですが、私は残念ながら具体的なことはあまりやって

おりません。ただ言えるのは、風土論の立場で環境問題を取り扱いますと、必

ずケースバイケースでやらなければならないのです。風土はいつも特殊な現実

なのですから。権利なんか制度的、述語的、歴史的なものにすぎないので、自

然に関わるところでは、それを絶対化することを絶対にしてはいけないのです。

様子を見てしかやらない、というのは鉄則です。こう考えれば、テクノクラシー

のような暴力も何とか和らぐはずだと思います。

倉阪秀史(千葉大学) 今日、私も午後お話しすることになっているのですけ

れども、ベルクさんのお話は、デカルト的な、桑子さんの言葉をお借りします

と「空間の履歴」をなくしたような個人、そういった個人観では環境のことを

考えるにあたってもうまくいかないのではないか。やはり、場所であるとか風

土であるとか、そういったものと一体となった人間観を取り戻すことが環境問

題の解決にあたっても必要ではないかと。そういったお話であると理解しまし

た。その場合、例えば三番瀬の再生であるとか、そういうローカルな環境をど

ういうふうに取り扱うかという点では、大変的を射た答えをそこから引き出し

うると思うのですが、地球温暖化のようなグローバルな環境問題になった場合、

そういうふうに一人一人が人間観を変えることが重要だと言い出したとたんに

なかなか広がらなくなってしまうと思うのですが、その点についてベルクさん

はどのようにお考えでしょうか。

ベルク 私の風土の見方は、階層的な存在論です。まず基盤がありまして、そ

の基盤とは物理的な地球なのです。地球の歴史を通じて、生物圏が現れ、それ

はもう一つ、二階めの層です。その生物圏の歴史を通じて、結局人間の風土が

現れ、それは三階めの層です。このような三層があって、上の層は必ず下の層

を前提としています。けれども下からの層は、必ずしも上の層を作るわけでは

ないのです。自然法を越えたような偶然性が加わって、その偶然とは生物によ

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る下(基盤)の層の解釈、述語化なのです。つまり Umwelt化です。続いて、

その Umweltという二階目の層がまた基盤として人間によって再述語化され、

人間世界が成るわけです。進化論的に後になるが、存在論的に上なのです。ま

た、上にありながら、絶対に独立し得ません。下にある層に支えられているか

らです。

 われわれは規模の、スケールの大きい問題を整理するためには、必ず基盤を

考えなければなりません。人間同士の制度、例えば捕鯨の制度を考えると、ノ

ルウェーや日本は獲りたいというのですけれども、アメリカはダメだというよ

うな例がたくさんあります。どちらが正しいかという問題なのですが、このよ

うな問題を解決するには科学しかないのです。つまり、日本の見方も、アメリ

カの見方もそれなりの権利がありますので、それで終わりかというと、そうで

はない。科学という、自然法という基盤に一番近い述語が共通の拠り所になる

はずです。つまり、下にあるもっと普遍的な次元に訴えるしかないのです。下

に行くほど普遍的になり、上に行くほど特殊的になる、それが人間の風土性の

構造なのです。普遍的なものはもちろん、共通の基盤になるはずです。

 しかし、そうしたら、科学主義的な還元論の暴君政治の危険があるのではな

いかと、確かに言えますが、存在論的には基盤が下のほうにありますから、万

能的な解決がそう簡単に成るはずがないのです。現実(風土)が普遍的な S

ではなく、特殊な S/ Pなのだから、やはり人間同士で討論し、ケースバイ

ケースの適当な解決を探らなければなりません。討論そのものは述語化であっ

て、現実の生成(Sの述語化)の一段階です。

司会 科学の問題は結構重要な問題を含んでいると思いますので、私からも少

し質問させていただきます。「科学」という形になると、嘉田さんが言われた

こととちょっと関係がありますが、「科学」自体、近代科学はそれ自体、近代

的な側面を持っていると思いますし、その枠組みの中で、実際に科学的探求が

行なわれています。現実の科学の営みは近代的な価値観の中にあるといって

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もいいと思います。そうなると、文化的な多様性とか、さまざまな差異の問題

があり、合意が取れない時に「科学」をそこに持ってくるということになると、

そこはやはり近代的な価値観に戻ってしまうような感じもするのですが、その

へんのところをベルクさんはどのようにお考えになりますか。

ベルク 風土論の立場で考えますと、科学そのものは一つの述語(Predicate)

です。つまり、Sそのものではなくて一つの世界 Pなのです。科学の世界で

す。したがって、それなりの任意性を持っています。いわゆるパラダイム(範

例)の任意性と歴史性です。その上、環境に関するデータはほとんどの場合不

十分ですし、ましてや社会の主体性を含む風土論的データは不十分なので、科

学者の判断を必ず相対化しなければなりません。人間同士の討論を通じて相対

化しなければなりません。とはいうものの、究極的には何が基準になりうるか

というと、世界 Pの基盤 Sである自然なのですから、自然を科学的な方法を

もって捉えるしかないのです。あくまでも、これは究極の方法ですし、実践の

ためにそういう判断をも必ず社会化しなければなりません。普通は結局、市民

同士の政治的な対話、あるいは闘争を通じて政治的に解釈され、特殊化されま

す。けれども政治的な解決も、やはり科学的に批評なしにはありえないのです。

嘉田 今の倉阪さんのご質問のような、ローカリズムとか地域に根ざした風土

性の問題は地球環境問題にどう踏み込んでいけるのか、というのはよくなされ

る議論です。私たちもローカリズムをやっておりますと、いつもこの部分から

批判を受けます。私は二つあると思っています。一つは、今ベルクさんがおっ

しゃったように、個別のところに普遍がある。例えば人間という存在を考えた

時に、人間は飯を食う、あるいは排出物を出す、あるいは人間は 24時間 365

日暮らしを成り立たせなくてはいけない。人が人を生み育てる、というよう

な形でのある意味で普遍的な暮らしぶりはローカルなところにこそ意味がある。

ベルクさんの言われている、個別のところに普遍があるというのは、そういう

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解釈かどうかわからないのですけれども。私はそのように大変ローカルなとこ

ろに、普遍が隠されていると思うのです。

 もう一つ、地球環境問題ということが漠然と抽象的に語られておりますが、

たとえば温暖化の問題、あるいは生物多様性の問題であっても、必ずそこには

個別の現場があります。生物多様性といっても、たとえば私はアフリカのある

村でずっとフィールドワークをしておりますが、そこは貴重な固有種が生息し

ていて生物多様性のホットスポットと言われています。そこでも人びとは、生

物多様性保全の対象である魚を日々食べている。魚を保全することと、食べる

ことはどう関係するのか。これは一つの事例ですけれども、人間がいる限り現

場というのがあるわけですから、地球環境問題だからローカリズムが適応され

ないという考え方が自身に、実は大きな穴が抜けているのではないかと思いま

す。これもまたぜひ、倉阪さんと議論したいところです。

 風土論と時間

フロア ベルクさんに別の視点から少しお伺いしたいんですが、風土論とい

うのは基本的には空間的な spatialな観念がかなり強いと思うんですけれども。

先生が時間のことをどうお考えなのかということをお伺いしたい。つまり、人

間と環境との関係、その瞬間瞬間の空間的なことはわかるのですけれども、た

とえばその人間もずっと、生い立ち、育ってきた環境があります。その中でい

ろいろなものを学んできている。それから家族もあればもっというと人類的に

もずっと引きずってきている、過去の歴史がありますね。そういう積み重ねの

上で、ある瞬間、今たとえば風土をどう見ているか。あるいは風土そのものも

どんどん変わってきていますし。極端な話をすれば、今、私たちが言っている「自

然」も本当の原始の自然ではなくて、人間がコントロールした、人間にとって

都合のよい自然かもわかりません。そういう意味で、一つは今までの過去の人

間なり、世界のずっと蓄積、伝統的な部分ですね。それからさらに言うと、先

ほど三十年で地球は終わるとおっしゃいましたけれども、未来へのまなざしと

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いうか。そういったものを風土論の中では、過去と未来あるいはそういう蓄積

的な、時間的な部分をどうお考えになっておられるのか。鬼頭先生もこの後で

時間論とか、時間のお話もされるかもわかりませんけれども。先生はどうお考

えでしょうか。

ベルク まず説明しなければならない点があります。今のペースでいけば 30

年後に地球が終わるのではないのです。地球は平気です。その長い歴史におい

て、今の危機と比べものにならないものを何回も通過したのです。崩壊するの

はわれわれの世界、言い換えればわれわれの文明または生活様式です。と、そ

の世界の崩壊に伴って、自然火災や戦争などによって、多数の人間が死ぬだろ

うという意味です。

 ご質問に戻ります。時間性の問題に関しましては、私は基本的に和辻哲郎と

同じことが言えると思います。というのは、風土性は必ず歴史性でもあり、風

土は歴史の肉体化なのであって、歴史は風土の動き、または活動なのです。私

は前に風土性を「おもむき」として定義したことがありますが、「おもむき」

は空間において、時間的に展開していくものです。風土において、時間と空間

とはこういうふうに相互に進化していきます。

 もうちょっと具体的な例を申し上げましょう。子供は少しずつ自分の世界を

作りながら、大きくなっていきます。後になって、元に置かれた条件を自分の

原風景として意識するようになり、昔はずっとこうだったと信じますが、実は

これは親の世代が作った世界で、歴史の一段にすぎないのです。各個人の原風

景は、その親の世代が作った世界です。けれども原風景は世界の出発点と感

じられ、人生の日常環境が常に変わる中で、たった一つ変わらないものなので

す。各個人にとって、安定した原点なのです。実はもとにあったものではなく

て、長い歴史の仮の結果に過ぎませんが、原風景がこういうふうに脱歴史化さ

れ、自然化されます。前の世代の作った世界が、次の世代にとってはもとにあっ

た自然、つまり自然的だというふうに感じられています。たとえば、今の日本

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人は、その祖先が作った人工水道を「川」と呼んだりします。実は自然的な川

ではなく、祖先の労働による歴史の結果です。けれども自然化されてしまいま

す。今の社会の原風景ですから。

 こういう過程はどの風土においてもあります。世界は各子供の誕生とともに

再発しますように、歴史が常に自然化されていきます。これは生きられた風土

の動きです。風土はやはり静止的な外体ではなく、人間的に生きられ、生きて

いる、進化していく現実です。この動きのスケールとペースはさまざまです。

確かに、近代になってペースは速くなりました。そこには大きな問題がありま

す。今の子供はあまり外に出ないとか、われわれが子供だった時の自然を知ら

ないとかよく言われていますように、三浦展氏の言葉を借りますと「ファスト

風土化」という時代には、やはり今の子供の原風景はどのようなものになるか

心配され得ます。

 こういう問題に面すると、主観的な印象だけでは答えられません。やはり近

代的な社会科学あるいは自然科学の方法をもって調べ、対象化しなければなり

ません。そうしないと、変な世界になりかねません。変な世界といえば、いろ

いろな例があります。例えばオウム真理教のような、セクトの現象ですね。一

人の人間を神様のような存在に見て、限られた世界に没入し、狂った行動をし

てしまいます。これは限られたスケールの現象にすぎませんが、人類のスケー

ルに考えますと、今の近代文明全体の問題です。われわれがこの文明という世

界の中に生きて、それを絶対化してしまったんです。世界の絶対化とは西田哲

学によく出る論理なのですけれども、私流の風土論の立場では、世界の絶対化

は基本的な間違いだと思います。世界が絶対化されたらその基盤は忘れられま

す。西田によれば世界は「無基底」なのですが、風土論の立場ではそのような

ことはありえないのです。人間は自分の世界に没入しがちだとしかいえません。

確かにそうなのですが、われわれの世界の基盤が地球である限り、非常に危な

いです。基盤を忘れないように、世界と地球との間の風土的な「通い」を意識

し、積極的にそれを維持しなければなりません。その一つの条件は、風土の歴

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史性を忘れてはいけないということです。

フロア 逆に言うと、現代社会は、常に新しいものしか価値がないというよう

な感じになっているのですけれども。実はずっと積み重ねてきたものがあるし、

それからさっき言われた、先のこと――今までは全然見ていなかったのですが

――もある。そのあたりの時間的な広がりをこの時代においてはあえて持つべ

きかな、と。風土という横の広がりみたいなものと縦の広がり両方が重要かな

と思いましたので、お話ししました。ありがとうございました。

 「場所」の倫理

小林 今の問題との関係で、「風土論の中に過去からの歴史性はあるけれども、

未来とか将来の問題をどうやって取り入れるか」をお聞きしたいと思います。

それから、第二点目として、風土との関係についてお話になったのですけれども、

「場所」の観念との関係はどうなのでしょうか。和辻では「風土」が重要ですが、

西田哲学では「場所」が重要な概念になっています。そこで、「場所」と「風土」

の関係についてお伺いしたいと思います。それから第三点目に、今回このシン

ポジウムのタイトルは「風土論・環境倫理・公共性」で、その中で「環境倫理」

を用いていますので、この点についてお伺いします。ベルクさんのご本『地球

と存在の哲学』(ちくま新書、1996年)で「環境倫理を越えて」というサブタ

イトルを使っておられるので、この点についても説明していただければありが

たいと思います。

ベルク 最後の点から言いますと、サブタイトルを選んだのは出版社ですけれ

ども。とにかく私の本ですが、「環境倫理を越えて」という表現の意味は、実

は非常に簡単なことです。というのは環境が近代的な対象にすぎないならば、

それをベースにした倫理はありえない、と。人間存在そのものがそれに関わら

なければ成り立ちませんというわけで、風土的な立場を持たなければならない

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という考え方です。

 次のポイントは将来、未来のことなのですけれども、これはやはり、非常に

人間的な価値観を帯びたものです。楽観的に見ますと、今、真善美と考えられ

ているものが結局多くなるというふうに見ることができると思います。あるい

はその逆の立場、見方もあります。必ず、主観的に生きられた未来にしかなり

えないと思います。

 場所に関する問題はちょっとわかりませんでした。

小林 環境と風土の関係について説明されたので、それらと「場所」の概念と

の関係についてです。

ベルク 先ほどアリストテレスの「トポス論」に触れた時、プラトンの「コー

ラ」(χωρα)にも触れるはずでした。和辻哲郎の定義によれば、風土性とは

人間存在の構造契機なのですが、別の言葉に換えて言えば、その契機とは「ト

ポス」と「コーラ」の関係なのです。「コーラ」は風土のように、曖昧な存在

の場所や条件なのです。それに対して、アリストテレスの「トポス」は、物の

限られた、局所的な位置だけなのです。自己同一性をもつ、動かない局所です。

逆に、プラトンの『ティマイオス』において「コーラ」のことを論じられてい

ますけれども、それはまず曖昧、紛らわしいものだと言います。ちゃんとした

定義もないのです。プラトンはそれに関するメタファーをいろいろ使っている

けれども、一度も定義していない。この曖昧性は第一のポイントです。

 それに、それらのメタファーの間には、いくつかの矛盾があります。簡単に

整理しますと、一方で「コーラ」は存在の「跡形」であって、もう一方は存在

の「原型」である。つまり跡形の逆なのです。確かにわれわれの風土は、ある

程度、原型のようにわれわれに影響を及ぼすと同時に、跡形のようにわれわれ

の行動の影響を受けています。このような矛盾的な関係においてこそ、風土性

という契機が出ると思います。

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 第三は、「コーラ」はプラトンにおいて「ゲネシス」(γενεσιξ)の場なの

だそうです。「ゲネシス」とは相対存在のことで、「生まれること」という意味

なのです。生成という過程で、決まった、静止的なアイデンティティをもった

存在ではなくて、進化していく存在です。確かにわれわれの本当の存在は他人

との関係と、風土との関係において必ず進化していきます。生まれ、成長し、

変化し、しまいには死ぬわけです。そういう「ゲネシス」に相当して、「コーラ」

も決まったものではなくて、われわれがある程度作るものであって、われわれ

の存在から生まれるものでもあります。

 存在の両面、「コーラ」と「トポス」を合わせて、和辻の言う、人間の二重

構造になります。あるいは風土性の契機。そういう二重性のためにこそ、人間

存在の構造契機がありうるわけです。とにかく主張したいのは、本当の人間は

限られた近代的な「トポス」だけではなくて、同時に「コーラ」でもある、と。

逆に「コーラ」だけでもなく、同時に「トポス」でもあります。両者の間から

生まれる契機は、人間存在のダイナミックなのです。で、「コーラ」といえば

それを場所とも言えますが、西田の場所論とは関連しますが、先ほど申し上げ

たように、西田のようにそれを無として絶対化するのは考えられません。

小林 風土については和辻に言及されていますよね。これに対して、「場

所」というとやはり西田を思い出すわけで、ご著書『風土学序説』(筑摩書房、

2002年)の中で「コーラ」の概念と西田の「場所」の概念について触れてお

られるので、改めて伺った次第です。「トポス」と「コーラ」は、日本ふうに

いうと「所(place)」と「場所(field)」というふうに対応するような気がします。

それから、環境倫理の点に関していうと、先生のお考えによると、「環境倫理」

は超えられるべきもので、それに変えて「風土倫理」とか「場所倫理」を考え

るべき、ということになるのでしょうか。

ベルク 専門家の討議になりますと、倫理についていろいろ言えるのですけ

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れども。基本的に人間とは倫理的な存在で、人間同士の関係を整理するのは倫

理です。そういうわけで、環境との関係になっても、いわゆる環境倫理とは

本質的に風土的なもので、それを考察するには風土的な立場が必要だと主張し

ていますが、これ以上詳しく倫理の問題を論じません。それは専門家の仕事で、

専門語(「環境倫理」を含めて)を使います。問題はそういう専門ではなくて、

その存在論的な根拠なのです。

 最近の生態学の評価、風土論と戦争

司会 だんだん時間がなくなってきましたので、お一人ずつ話をしていただい

て、それをまとめてベルクさんの方で答えていただくという形でお願いしたい

と思います。

岸 由二(慶應義塾大学) 午後に発表させていただきます、慶應大学の岸と

いいます。生態学、進化生物学をしています。風土論などベルクさんの本もよ

く読んでいますけれども。先ほどのお話のSとPに絡むのですけれども、Sは

物理学者に言わせるとOだという話があって、ある意味では、本質と現象とい

うか客体とその多様な解釈というか、そういうふうに受け取れるわけですけれ

ども、実はそういうものを解釈し続けるデカルト的な主体、「我」のところが

たぶん一番問題だと思っております。ユクスキュルのお話を出されたわけです

けれども、たとえば、ウグイスはウグイスの世界を作るのですが、ウグイスは

世界の中には必ず藪があると確信しているわけですね。比喩的な言い方をすれ

ば、ウグイスにとっては藪というのは自分の暮らす巣を作る大事な場所であり

ますから、世界を飛び回っている時は藪、藪、藪と飛んで回っているわけです

よ。ユクスキュル的な世界構成からいうと、ウグイスは藪のある世界を作る。

 では人間というのはどういう世界を作るのか。これはきわめて多様多彩、よ

くわけのわからないむちゃくちゃ多様なものを作ってしまうというのが普通の

解釈で、その世界で生まれてくる通態性というか、述語の世界は歴史性を帯び、

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いろんなものを帯び、わけのわからないようなものというのがあると思うので

す。私は基本的に自然科学者でありますので、人間が人間の世界を作る時にバ

イオロジカルにある、規則性のある世界を作るほかないと確信しています。こ

こ数十年、ローレンツ、ティンバーゲン、フリッシュあたりの比較行動学、そ

の後のソシオバイオロジーの動きを通じて、人間というのは一体どういう世界

を作る動物なのかが極めて重要なテーマになっていると思うのです。

 これはベルクさんの公式のSに入るのか入らないのか、ちょっとわからない

のですね。SとPの関係を解釈している、デカルト的我の脇に隠れているので

はないかという気がするのですけれども、そのあたりにおける最近の進化生態

学、ダーウィニストたちの仕事をどう評価されますか。評価されませんか。

小川有美(立教大学) ベルク先生は、文化・風土的な対立が高まる場合に、

戦争ではなく、別のレベル、たとえば科学というものによって解決を図ると

おっしゃいました。ただし、逆に言えば、人類は戦争という手段による解決を

行ってきたわけですね。そして過去の風土論も場合によっては戦争と無縁では

ない歴史を歩んできました。今日、「戦争は最大の環境破壊である」と言われ

ます。それだけでなく、ベルク先生が「風土」の翻訳的理解に「メディアンス」

(médiance)という語を用いられているのも、興味深い思想的選択であると思

います。風土論が戦争に対する積極的な代替選択肢、違う世界観を切り開くも

のだとしたら、そのあたりをもう少しお語りいただけませんでしょうか。

ベルク 二番目のご質問から始めますと、風土と戦争との関係はいろいろ考え

られますけれども、和辻哲郎の姿勢そのものは戦前のことなのです。誤りに陥っ

たと先ほど話しましたが、その誤りとは日本人の見方を他の民族に、たとえば

アラブ人の見方に投影して、その民族の本当の世界を見ていないのです。それ

に代わって自分の見方を置き換えたわけです。これは戦前・戦中に唱えられた

大東亜共栄圏のイデオロギーの誤りに似ています。つまり、アジアのそれぞれ

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の民族の世界観に代わって日本人の世界観をその上に押しつけたわけです。相

手の主体性を忘れて、それに代わって自分の主観を押しつけるという誤りです。

 これはやはり、西田の誤りでもあったと思います。西田はご存じのように世

界(場所)を無として絶対化したのですけれども、その世界とはまた彼にとっ

て絶対無としての天皇制でもありました。天皇制という歴史的、相対的なもの

を絶対化したという誤りです。どうしてこのような誤りをしえたかというと、

それは他人の世界を無視し、自分の置かれていた日本人自身の世界を移した誤

り、言い換えれば民族中心主義の幻想のせいなのです。それなりの世界を持っ

た他民族はその日本的世界の中に生きていなかったのは当然で、彼らにとって

日本の天皇制は一般者ではなく、特殊な日本社会の産物で、自分の世界に強引

に被せられた外来の「八紘一宇」に他ならなかったのです。

 このような誤りは歴史を見ますと、どの民族もそれなりにやったし、今でも

やりがちだという気がします。その程度、やり方は変わるけれども、基本的に

は同じ原理なのです。他ならぬ西田自身がうまく捉えた世界(場所)の論理な

のです。この論理においては、世界は自己自身を絶対化しようとします。つま

り、自分が正しい、自分の世界観が正しいから、相手の世界は間違っていると

か、存在さえもしないとかいうような考え方を生みます。場所の論理は、例え

ば第一次大戦を見れば、フランス人はドイツ人が悪い、ドイツ人はフランス人

が悪いとかのような終わりのない戦闘的な関係を温存します。自分の世界の中

だけに生きて、その地平性(ハイデガーの Horizontalität)を超えようとしな

い限り、このようなことになります。

 そういうわけで、基本的に、私はこのような悪循環の出口を作るためには、

先ほど申しましたように、人文を含む広い意味での科学しかないと思います。

あるいは論理、本当の論理。難しいです。事実上不可能かもしれませんけれども、

自分の世界以外の見方を常に参考にし、尊敬するというのが一つの方法です。

ゲーデルの論理の定義を考えれば、一つの世界(論理上それを命題群と呼びま

す)が自分の中において自分が正しいということを証明することができないの

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です。その世界が正しいかどうかを証明するためには、それに属しない、外に

ある準拠が必要だというわけです。われわれの世界の外にあるのは、他人の世

界です。または、人間世界以外の何かでなければならない。で、人間世界の外

にあるのは何かというと、脱世界化した近代科学以外に何もないのです。脱世

界化(Entweltlichung)を行なった、近代科学以外には考えられないという

わけです。

 進化生態学についてのもう一つのご質問がありましたけれども、私は全然

詳しくないので、曖昧に感じていることしか言えません。進化においてもた

だの偶然に変わって、またただの環境(Umgebung)のヴィジョンに変わっ

て、ユクスキュルふうの環境世界(Umwelt)の思想、つまり種による環境と

いう基盤の述語化の過程を認めなければならないと思います。種間の関係は

Umgebungにおいてだけでなく、まず生物にとっての Umweltにおいて存在

し、実際に行われています。というのは、生物にとってもやはり現実とは S/P

であって、ただの S(Umgebung、環境)なのではありません。ですから進化

を Umgebungにおいてのみ、偶然ばかりの話に還元するのは誤りだと信じて

いますが、専門外のことなので、それ以上詳しいことが言えません。将来には

専門的な研究をもとにした風土論的な進化論、つまり生物の主体性(もちろん

低い次元の主体性ですが、主体性を全然認めない機械論的な偶然とは本質的に

違う契機、「おもむき」をもった主体性)を認め、生物による、生物にとって

の現実の通態化(環境の述語化)を考察する進化論の出現を期待していますが、

どうでしょうか。

司会 では午前中の講演はこれで終えたいと思います。講演の中でも今日の議

論で重要な論点が出てきたので、あとのパネルディスカッションで考えたいと

思います。