学力問題と教育改革をどうとらえるか 苅谷剛彦 ·...

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Page 1: 学力問題と教育改革をどうとらえるか 苅谷剛彦 · 問題にする必要があるだろうと思ったんです。 長尾函だから実態的な差別の問題と実態的不平等の問

インタビュー/学力問題と教育改革をどうとらえるか27

長尾卵最近、苅谷さんは新聞や雑誌などで非常に精力的

に学力問題や教育改革について発言されています。しか

し苅谷さんはこれまで、教育をめぐる差別と不平等の問

題についてもいろいろと書かれたりしてきています。

今日は、そのあたりのことをお聞きしたいと思います

が、苅谷さんの学問的な流れや関心のありようとして、

どうして教育における不平等と差別問題に関心をもたれ

たのか。そのバックグランドもかねて、まず自己紹介し

ていただければと思います。

苅谷函個人的な話から入ると、僕の世代は、いわゆる全

共闘世代の後ですが、多少なりとも社会的な問題に意識

をもっていた世代です。僕は一九五五年生まれなんです

が、子どもの頃はまだ生活の中に貧しさが残っていたし、

僕自身が生まれ育ったのは東京の下町で、在曰韓国人の

人も近所に住んでいました。また、「ドヤ街」といわれる

特集

インタビュー

学力問題と教育改革をどうとらえるか

所も近くにあったりして、僕にとっては差別や不平等の

問題は非常にリアリティのある問題でした。ですから社

会の中に階層性があるということは、僕にとってはそれ

ほど違和感のないことでした。また、僕の行った中学校

は東京の中でも比較的高校進学率が低かったと思いま

す。中卒ですぐ働く友だちもいたし、けつこう勉強でき

る人の中にも大学に行くことを断念してはじめから就職

高校に行くような生徒もいました。学校生活を通じて人

がいろんな階層に分かれていくようなことについてはリ

アルな体験があったんだと思います。

たぶん僕らより前の世代でそういう関心をもっと、も

っと左翼的な運動にコミットするということが多かった

かもしれませんが、僕らのときはそれが弱くなってしま

ったんです。では、それをどうとらえ表現するのかとい

うと、前の世代とはちょっと違う態度をとっていた。た

苅谷剛彦

インタビユーアー長尾彰夫

研究部
テキストボックス
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階層と教育の研究自体は長年あって、僕のやった研究

が目新しいものではなかったし、不平等や差別を実態の

部分だけでとらえるのならいろんな議論があったと思い

ます。ただ僕がやろうとしたのは、実態を隠してしまう

メカニズムはどこにあるのか。実態と意識との関係をも

う一度見直さなければいけないんだ。実態だけ示す研究

はたくさんあったけど、その実態がどのように人びとに

解釈され受入れられるのかということ自体も視野に入れ

問題にする必要があるだろうと思ったんです。

長尾函だから実態的な差別の問題と実態的不平等の問

だし、そういう中で、僕自身が教育的社会学を勉強しよ

うと思ったときにずっと最初から不平等の問題をやろう

としていたわけではありません。ただ、学校や教育を通

じてどのように人が分化していくのか、という問題は卒

論の時から関心をもったテーマでしたが。それを自分自

身でもっと強く意識しはじめたのは留学でアメリカにい

るときです。アメリカで教育の問題、とくにそれを社会

学でやろうと思えば必ず階層の問題が出てきます。曰本

の場合は教育の議論の中で、たとえば、能力主義的な差

別の問題について論じる時、どちらかというと成績によ

って序列化すること白体を問題視する議論が多く、その

背後にある社会との関係はあまり見てこなかった

長尾亜そういう形のパックグランウドがあってのことな

のでしょうが、最近、苅谷さんは、学力について精力的

に発言されるようになりましたね。不平等の問題や差別

意識の問題をベースにもっている苅谷さんが、かなり積

極的に学力問題に発言しだした経緯や関心の接続性につ

いて、もう少し聞かせて下さい。

苅谷二番最初のきっかけは、|昨年一年弱、アメリカ

にいましたが、その間、努力や学習時間の研究をしてい

題、それと差別意識の問題との関係を社会学的に解明し

たいというのが苅谷さんの研究の特徴になるということ

ですね。

苅谷》そうですね。その場合に差別観・学力観という問

題にも関係してきますが、教育問題を論じる論じ方や問

題を認識する視点、つまりどのようにその問題をとらえ

ようとするかによって問題が見えたり隠れたりするとい

うことが、僕の中で共通してあるテーマです。だからそ

ういう意味でいうと、今回の学力低下の問題はまさに問

題をどうとらえるのかということと関連しているんで

す。

学力問題への発一一一一』の経緯は

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たんです。どれだけ勉強しているのかを量的に把握しよ

う、ということをやっていました。社会学的研究で、学

習時間の研究はあるようでないんです。

長尾函具体的に学習時間というのは。

苅谷卵簡単にいえば、家で何時間勉強するかです。努力

をどうやってとらえるかを考えたときに、努力そのもの

はなかなか量的にとらえられないので、個人が何かの活

動をしている量ではかるしかないですね。日本の場合は

帥能力は平等だとされているので、それを前提とするなら

城ば学力の差は努力によると考えられる。しかも努力はみ

とんな努力できるはずだから、できなければお前が努力し

シつ

どてないんだ、という話になるわけです。能力だと生まれ

を革た家庭環境や竺退伝も含めて社会構造の問題になりますか

敵ら、アメリカやヨーロッパの中で教育の不平等を論じる

鍬場合は、原点にあるのはほとんど能力の問題です。とこ

醜ろが曰本の場合は能力は平等だ、という意識が強いわけ

勃だから差を作っているのは努力じゃないか、となる。c

/やあ努力と階層はどういう関係にあるのかというのはき

幸わめて重要な問題のはずですよね。そうしたところから

化努力するという事柄自体を階層論の文脈にのせて考える

ンとどうなるかという研究をアメリカでやっていたんで

イ9す。アメリカに行く前の年に、日本でぼくが大学院の頃

にやった一九七九年と同じ調査を九七年に繰り返した。

これは二つの県でこの高校を対象にしたかなり大きな

調査で樋田大二郎さんを研究代表者とする共同研究で

す。この調査では珍しく親の学歴や職業を調べることが

できました。しかも勉強時間についても聞いています。

まず七九年と九七年とで勉強時間を比較すると、全体と

して勉強をしなくなっています。しかも、階層の低いほ

うの子どもたちのほうが勉強しなくなっている。

(図1を参照)

長尾叩深刻な問題ですね。

苅谷函全体として、高い階層の子も勉強しなくなってい

るんだけど、しかしより勉強しなくなっているのは階層

の低い子どもだということがわかった。それをたまたま

帰国してすぐに朝曰新聞の文化欄に書いたんです。その

とき僕は学力低下のことはこんなふうに正面きってやろ

うなんて思わなかったけど、努力の絶対量が減り努力の

階層間格差が拡がれば全体として学力は落ちるし、しか

も学力間格差は拡がる、という推論はそんなに特殊な発

想ではない。学力データそのものはないけど少なくとも

学習時間、努力の量からみれば社会の変化の中でそうい

うことをわかってもらう意味はあると思ったから、新聞

に書かせてもらいました。その中で、学力全体も低下す

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図1母親の学歴別に見た学校外での学習時間の変化(平均時間・分)

国79年露鐘97年140

120

100

80

60

40

20

全体 大学卒 短大。専門学校卒

母親の学歴

高校卒 中学卒

苅谷皿アメリカにいたので直接はよくわかってなかった

んですが、小中学校の新しい学習指導要領は見ていまし

たし、そのことへのコメントもある新聞に書いていまし

た。要するに、ゆとりを増やそうということで全体の教

育内容を減らすということになっている。しかしこれは、

ゆとりがなくなっているという現状把握がなければこう

いう改革が本当に必要かどうかはわかりませんよね。そ

の現実把握がどれぐらい正しいのか。さっきの話からす

ればみんな勉強しなくなってるんだから逆の方向をむい

てるじゃないですか。つまりゆとりがなくなっているわ

けではないと思った。

それと同時に、教育改革のいろんな文章を見ていくと、

僕としては学力の問題以上に大きな問題だと思ったの

が、自己責任。自己選択が改革のキーワードになってい

ろし学力格差も拡がると書いたんです。

長尾皿その点でいうならば、努力の減少がより不平等を

拡大するような形で現れているということにもなります

ね。

苅谷”そういうこと。

長尾函それはなかなか興味深いことですが、それと新し

い学習指導要領批判がどうクロスしていくのでしょう

カコ0

~一一

97.1

層 79.1

123.2 124.9

量iiT:Zi二霞 86.5

Fラヨ

63.8

翻轟圏

27.4

麗翻

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31インタビュー/学力問題と教育改革をどうとらえるか

ることでした。ゆとりの教育とは一一一一口葉を換えれば、学校

がいろいろお世話をする規制をゆるめて、強制もやめて

それぞれ子どもたちの意欲に応じて子どもたちが独自に

勉強するように個性を重視してやりましょう、というこ

とです。そこに自己選択・自己責任が結びついてくる。

選択科目を増やしたり、さらにいえば学校も選べるよう

にしようという選択の拡大は、結局選んだ結果を個人の

問題として問うことにつながる。そのときに、仮に何ら

かの階層差を拡げないような仕組みが備わっているなか

でゆとりや選択の幅を広げるのであればその問題は回避

されるのだけれど、ところがまずその問題自体が認知さ

れていない。

すでに二○○二年からの学習指導要領実施以前に、い

ままですでに拡大したゆとりの中で勉強する子としない

子の格差が拡がっているのだとすれば、それを二○○二

年からゆとりをさらに推し進めればその格差はもっと拡

がる。しかも全体として落ちながら拡がるということが

予測されます。

長尾血だからゆとりや新しい学習指導要領は不平等を拡

大するというか、そのような危険性をもっているという

ことになる。

苅谷”そうです。それが一つの問題。と同時にもう一方

で僕は、全体の学力が下がること自体も大きな問題だと

考えました。しかもそうしたことについて、今回の教育

改革については、学力面でのチェックが一切行われてい

ないという問題があったのです。改訂に際して実証的な

データがない。子どもの生活実態を把握していない。ま

してや階層的な視点なんてまったくないですよね。とこ

ろが言葉だけはみんなきれいなわけです。個性尊重、ゆ

とり、受験教育の緩和、選択です。新聞の論調でも批判

的議論はなく、教育改革大賛成というのが大部分でした。

ところが調べてみると、こうした教育改革が起きたとき

にどうなるであろう、と予測するためのデータはほとん

どないし、議論さえなかったんです。

長尾血そのへんのことはまた後で議論するとして、いず

れにしても新しい学習指導要領でいわれているようなゆ

とりや新しい学力観が、結果として努力のある種の放棄

を促進する形になるということなのですね。そのことに

より学力格差がさらに拡大していくのではないか。苅谷

さんがいっているのは、そこではより社会的な不平等が

厳しい形になるということで発言されている部分が確か

にある。しかしもう一つ、前文部大臣の有馬さんとの対

談のなかにも出てくるんですが、こうした教育改革は技

術立国論としての国の危機にもつながっていくという形

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でも批判しているわけです。いまは国家の危機というか、

エリート教育にマイナスになるんじゃないかということ

で、苅谷さんの主張をむしろマスコミなんかは取り上げ

ているんじゃないかなと思うんだけど。苅谷さんも日本

の国のあり方を考えているのですか。

苅谷函考えていることになると思います。ぼくはそれで

よくこういうことをいいます。曰本で年間使われている

教育費だけで幼稚園生から大学院生まで一人あたり約一

一一○万円ぐらいです。そこには塾とかの費用は入れませ

んが、先生方の給与、授業料なども入っている国家プラ

ス民間のお金の平均です。ところが、世界の一四○近い

国のうち一人あたりのGNPが一一一○万円を超える国は

わずか三○数カ国ですよ。曰本で一人の子どもを育てる

のに一年間で使っている富と、世界二○カ国ぐらいの

おとなも子どもも入れた富全体一人あたりの額を比べる

と、実は曰本の教育費の方が多いんです。

それほどの教育費を使っておいて、なぜその効果を測

定しないのか。そのことがもっと問題です。たとえば、

個人的な意見を離れて制度としてみれば、学習指導要領

って国民的合意によってできているわけじゃないです

か、少なくとも制度としたら。個人的には異論があるか

もしれませんが、少なくとも文部省がこれは国民共通の

学習すべき内容だといっているんでしよ。何でその結果

を文部省は測定しないんでしょうか。学習指導要領に書

かれている中味が測定不可能なものだったら別ですが、

測定可能なものはいっぱいあるんです。もちろんそれは

留保つきの学力です。少なくとも学力という言葉をやめ

て、測定可能なものだけ、アカデミック・アチーブメン

トという意味で限定して使ってもいいと思います。合意

を得ている教育内容を教育を通じて学習して得られる知

識と技能、それについて測定可能な部分だけでもいいか

らそれはそれとしてきちんと分けて論じるべきなので

す。

長尾卵それはわかる。たとえば、解放の学力といったこ

とでもそれをあまり抽象的にいうと学力そのものの分析

ができない、といったことにもなる。態度主義といって

いいのかどうかわからないけど、解放の自覚だとかとい

うことは、ある種態度主義的なところもあった。そうし

たこともあって学力を常に抽象的なものにして、理念的

なものに高みに放りあげていくということは、解放教育

でも最近はけつこう批判的にみています。

苅谷皿だからなるべくそういう意味では、僕は「禁止語

のすすめ」なんていっている。個性尊重といったような

マジックタームが出てきたらそのことばを使わずに個性

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33インタビュー/学力問題と教育改革をどうとらえるか

尊重ということについて語ってみる。ゆとりを別のこと

ばにいいかえたりね。

わかったつもりになっちゃうじやないですか、個性や

ゆとりというのは。そういうのをやめて論じると、意外

といろんなものが見えてくるというのがある。論じ方を

変えるというのはいまの状況ではまずは大事です。「総合

的な学習の時間」も、時間の枠としてできるのはいいし、

先生方が工夫して授業実践する、しかも文部省は口を出

さない、今回に限っては教科書も指導要領による内容の

規定もない。それはそれとして危いところもあるけれど、

意欲のある先生方にとってはチャンスだと思います。し

かし、それをどういう言葉で語るのか。例えば教師は支

援者だといったいい方があります。しかし、下手すれば

なにもやらないことへの教師の自己正当化になってしま

います。僕も大学で授業をしていてわかりますが、学生

に自分で考えさせるということをするには、教師の力量

はすごくいります。そんな簡単に教師は支援者だといっ

てもらっちゃ困るという思いがあります。

長尾皿自ら考え自ら学ぶなんてね、大変ですよね。

苅谷函そう。簡単にできるものではないという気がしま

す。それを四○人学級で本当にできるのか。大学生を二

○人くらい相手にしていたって大変なことですよ。です

から曰本中の教室で、今の学校の枠組みのままそうした

授業を実践するとなると大変ですよ。しかも教師の側に

場をつかむ能力がなければ、なかなか子どもたち全員に

機会を与えようなんてのはよっぽど準備しないとできな

いですよ。そういう意味で「自ら学び自ら考える」教育

といってもそう簡単ではない。ところがキャッチフレー

ズとしては「自ら学び自ら考える」力を育てる教育とい

うのはとても受けがよいし、とってもいいことのように

思えてしまう。だから行われていることに対する反省と

いうか、とらえ返すうえでまず流行語をみんなやめる。

流行ってる一一一一口葉をやめて別な一一一一口葉で言換えたり、別な眼

で見直してみるというのは大切なことだと思っていま

す。そうすることで、地に足のついた議論ができる。

長尾“できるだけ実態がちゃんとつかまえられるような

言葉で再定義していこうということですね。

苅谷四そう。だから学力といわれているものもまずその

中で把握できるものがあれば計測したっていいわけで

す。僕のいっている学力は、いわゆる受験学力でしかな

いといった批判もあるようですが、社会学者としていえ

るのは受験に出るか出ないかではなく測定可能なものを

まずはきちんととらえておくことが制度のパフォーマン

スを測る上で重要だということです。教育改革について

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も同じようなことがいえます。少なくともこれまでやっ

てきた事柄をきちんと検証しないまま、これからやろう

としていることはいいことだから、ある文部省の政策責

任者がいったように走り出したんだからつり橋を渡るよ

うにみんなで前を向いて走るしかない、なんていう話は

無責任ですよ。

長尾叩ところで最初に出ていた、努力の不足と階層間格

差の拡大の問題これは非常におもしろそうなテーマだと

思うのですが、結局どうなんですか。こうしたことは解

放教育でも深刻な問題となっているといわれています。

つまりムラ(被差別部落)の子が勉強しよらん。だから

といって「努力をせ!」っていうだけではどうしようも

ない。どうしたらいいのかな。

苅谷四例えば意欲ということをどう考えるか、というこ

となんです。意欲を考えるときに前提としてあるのは、

おもしろいことだったらみんな意欲をもつだろうという

ことがあります。楽しいことだったらやる気になるから、

その意欲を高めておけば努力につながるんだという前提

ですね。でもよく考えてみると、つまらないことや大変

努力の不平等

なことはいっぱいあって、それになかなか意欲をもてな

いというのは僕らもいっぱいもっています。やらされる

からやるということももちろんあるんだけども、そのと

きにやりたいかやりたくないかそう性急に問わないよう

な我慢がおとなの側に必要なんだと思います。この一○

年ぐらいは子ども中心の教育を進めすぎて、子どもにや

りたいか、やりたくないかみたないことを聞く風潮が強

かったような気がします。意欲を考えるときに、もちろ

ん内発的な要素は必ずあるし大事ですが、一方で外発的

なもの抜きに内発的な動機は成立しないという議論も心

理学ではあるらしいです。内発的動機づけを学習する上

では、まずは外発的な動機づけが必要だ。ところがだん

だん子どもの意欲中心、個性尊重とかがいわれる中で、

幼稚園や小学校の低学年から意欲中心になってしまう。

けれども、どこかで意欲を感じないこともやらざるをえ

ないというのは生きていく上であるわけだから、その点

はかなりむつかしくなるんじゃないですか。意欲という

言葉はすごく魅力的なんですがへあまりにもどの子ども

も意欲をもちうるということを前提に子どもに学ぶ意味

を問いすぎているんじゃないですか。僕はそんなかんじ

がするんですが。おとなになってやっと勉強したことの

意味がわかるなんてことはよくあるし、しかも、その意

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35インタビュー/学力問題と教育改革をどうとらえるか

味も人によって違うのですから。

それと、努力の不平等と同じように、意欲にも階層差

がある可能性を否定できない。先ほど紹介した私たちの

高校生の調査でも、大変興味深いことがわかっています。

「落第しない程度の成績をとっていればよい」かどうか

という質問への回答を、母親の学歴別に比較しました。

すると、七九年では母親の学歴によって回答率にほとん

ど差がなかったのに、九七年では学歴の低い母親の子ど

もほど「落第しない程度の成績」でいいと答えています。

同じように、「授業で分からない点はそのままにしておか

ない」という質問についても、「授業がきっかけとなって、

さらに詳しいことを知りたくなる」という質問について

も、七九年では母親の学歴による差はほとんどないのに、

九七年だと大きな差が生まれている(図2を参照)。しか

も、これらの質問への回答を見ると、全体としては明ら

かに意欲が低下傾向にある。つまり、この二○年くらい

の間に、全体として意欲が低下すると同時に、社会階層

によって勉強への意欲にも格差が生まれ、拡大している

のです。

子どもの意欲を中心に学習を組織しようとしたとき

に、こういった階層差が現れるということは、かってな

ら考えなくてよかったことかもしれませんが、いまでは

図2授業がきっかけとなって、さらに詳しいことを知りたくなることがある(母学歴・年度別)%

匡二]79年■97年800

70.0

600

50.0

400

30.0

20.0

10.0

0.0

中卒 高卒 短大・高専卒 4大卒

53.5

592 --□

00.丹

Eヨ 三

672

鳶l「富11-富Ⅱ

65.9

:illl

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大変重要な問題だといえるでしょう。そうだとすると、

「授業がきっかけでもっと詳しく知りたい」といったよ

うなへまさに「自ら学び、自ら考える」という学習意欲

についても、家庭的な背景の差が影響してしまうという

ことです。ところが、こういう階層差の問題は、教育改

革の議論ではまったく出てきません。子どもの意欲を高

めようというキャッチフレーズ自体は、心地よく耳に響

く「教育」の言葉です。しかし、それが現実の学校制度

にゆだねられたときに、今の社会状況の中でどのような

結果をもたらすのかという社会学的な問題は残されたま

まです。つまり、教育学の議論とは別にこういう社会

的な問題が生じてきてしまうのです。こういった意味で

も、意欲中心の教育についての考え方を無前提に肯定す

るのはどうかと思います。学校を含め、制度や組織とい

うものは、理想通りにいかずに、思わぬ結果をもたらす

ということによほど慎重でないといけない。そうでない

と、知らず知らずのうちに、こういう格差を見ないまま、

それがもたらす結果をも、「自己責任」「自己選択」とし

て個人が引き受けなければならなくなるからです。自己

責任が問われる時代には、かってなら考えなくてよかっ

た意欲の階層差といったことも、大変重要な初期条件の

差だといえるでしょう。

長尾叩いまの話を聞いてチラっと思ったのは、この間、

小渕さんの諮問機関の「一二世紀曰本の構想」懇談会が

学校一一一曰制といったでしよ。義務教育は週三曰でもいい

けど、そこではおもしろくてもおもしろくなくても、こ

れだけは必ずやるということがある。そしてそれが義務

教育であり国の責任だといっている。それと似ているよ

ね、ちょっと。

苅谷卵そうかもしれない。義務教育が三曰かどうかは別

にして、はっきりと選択肢として打ち出して賛否両論を

問うこと自体は、僕はいいと思う。いまのやり方はそう

じゃない。いろいろのことをあいまいにしたままきれい

なことばで目標を語って結果としていろいろと新しい問

題が起きるというのがいまの状況だと思うのです。たと

えば学習指導要領の改訂でもそうです。過去は何だった

のか、つまり一九九二年からの学習指導要領がどういう

成果を上げてきたのかをきちんと総括をしないと二○○

一一年は迎えられないというのが僕の主張なんです9現行

の学習指導要領は何だったのか。それ以前と比べるとき

に、現行の学習指導要領はドラスティックに学力の考え

方を変えたわけでしよ。そのあと中教審が「生きる力」

という言葉を出してきますが、「新学力観」を打ち出した

現行の指導要領の中ですでに同様の実践は行われている

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37インタビュー/学力問題と教育改革をどうとらえるか

わけです。しかも教育内容も減らしてきた。だけどこの

間の有馬さんとの対談のなかでもデータを出しました

が、わかる子どもの数がその間ぜんぜん増えてない(図

3を参照)。このことに対してどう考えるのか。こんなこ

と一つをとってみても九二年からやってきたことは何だ

ったのかをしっかり問わないと結果的には二○○二年を

迎えたときに何にもかわらない。本当に日本の教育行政

ってその点ではこれまで何もやってこなかった。

長尾函確かにね。七七年の学習指導要領改訂の時に教育

内容を三○パーセント削減したといったわけ。で、こん

どまた三○パーセント削減といっている。これが本当な

ら七七年に比べて今度は半分になっていないといけない

のだけど実際はそうなっていない。その点ではまったく

いい加減なんですよね。

苅谷叩そうしたことをきちんとつめていくことをやって

いかないと、教育問題はとらえられない。いままでは教

育問題というといじめだとか不登校とかにすぐなる。そ

れはそれで重要だけども、もっと曰常的に多くの子ども

が抱えている問題は学校の授業であり、学校生活で何を

学んでいるのかということなんだ。その一番根幹にある

ものを問題にしないというのは、教育問題、とくに教育

改革の論じ方としてまずいですよ。いままで、教育改革

授業の理解度の変化(中学生)図3

50

40

30

20

10

0

よく分かるだいたい分かる 半分くらい

分かる

分からない

ことが多い

ほとんど

分からない

■1998年中学2年生匡三]1979年中学生

79年の数値は深谷昌志「乱塾のなかの子どもたち」麻生誠編『学校ぎらい勉強ぎらい』(福村出版、1983年)98年の数値は文部省「学校教育に関する意識調査川中等教育資料』1999年1月号による。

出典

39.5

4.7

2 0 1

33.5 31.5

4.1

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38

長尾》ものすごくジャーナリスティックな反応ですね。

苅谷恥だから僕は、そういう論じ方ではなく、データを

積み上げ、改革へのステップと検討をしっかりやってい

くべきだと主張しているわけです。

少なくとも基本的な部分でそういうことをきちんとや

った上で、じゃあ何ができるか考えましょうという話に

つながってくる。そうでないと、何ができるのか、何が

といわれているけどいじめがおきればすぐさまその対策

委員会をつくって、そのためには学校をどう変えなきゃ

いけないとなっていく。神戸の殺人事件が起きたら、す

ぐさま「心の教育」だっていう話になっていくわけです

よ。

人権の

まち●

くD

LJを■、二J二J■

- ̄

した確ち参たい立づ加構まし〈と想ちてり交とをい。流実め〈同、践ざ動和人がしき行権語てと政とら住《)を福れ民連発祉ての勤展がい創しき交る意なせ差・とが、す工ら入る夫住権各をん行地凝で政のらみをま

L_」

部落解放・人権研究所編

解放出版社

A5判、222頁

2,200円〒税)

できないのか、そうしたことを無視した空中戦になって

しまう。学力問題でも教育改革の問題でも、そうした空

中戦ではなく、きちんとデータを積み上げて論議しない

とダメというのが僕のスタンスなのです。

長尾羊刈谷さんの主張や考えが、解放教育とピッタリ一

致するというわけではないのだろうけれど、私たちが学

力についてあるいは教育改革について考えていくうえ

で、いろいろと参考にすべき点をお聞かせいただきまし

た。大阪の研究者と、今後ともよろしく交流していって下

さい。

今日は、お忙しい中どうもありがとうございました。

(社)部落溌放一人椎研究所鰯