平戸・出島闘館の医薬関係者について 一七世紀の -...

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江戸時代に来日した蘭館医の一覧 (1) のがいくつかあるが、そこに掲載され 体的な出典が示されていないため、使用者 るしかない。私も長年そうしてきた。しかし 商館長 」四○口このめの己の○× 函①ロ回国○戸団員〕巨弓①岡 〕四○口巨の⑳Uロ①、× F①○ご画尽は(○閏ごロの 、lみ 4■ でgゴ囚崩楓ぐ四国z凰苛日貝昌① 一七世紀の 平戸・出島闘館 雪【四〆芦目己屋四①ロ伊①三角四吋の ■黄1J 甸胃画〕后○扇亡mRg﹈ 、ノ●「J 厄后庁四則ぐ四口ひ四国計①晨国」 z旨○両ののnoロ9$ご画、戸田 ヴォルフガング・ミヒェル 商館長の在任期間 四つ。や。」、今④l』、。』。﹈m目図 画、、函.胃の」国1,.m.」、』一 つ。、。』、昌心1国や。﹈つ・罠③い罠 四や.』つ.』争画」l函」。昌昌。』争い四 画目。昌胃。畠④画的l哩旨.胃.」つ四四 酌’四‐』の』Cl」四.画。』つ峰」 学胃‐﹈‐﹈③唾哩1句、や‐胃つい四 つ。や。胃つい由’四。函.﹈、い④ 」一.画.』③↑」’四つ.』つ。』の饅﹈ ンド会社の様 偶然にではある ⑦菌目RH、勺色巨厨》穴① 印四口ロ』陣昌呉の『号の 医についても新たな情報が得 れまで見落とされてきた下位外科医 (go号異①『)の存在も注目に値する 人より低いため、出島藺館日誌に彼ら い場合が多いので、商館長の手紙、後任への (2) 約更新の記録などで丹念に調べなければならな ○日‘里Fo目①。闇﹇()○口﹈(勗望)年から)舞 国2円の国日ロ閏(届曽年)鵠 ○日,里Fo匡尉①ロめい ○閏里Fo員g闇.(晟謡年まで) 二{煙①鼻Q〕二ほめm里言い彦(屋四m》晟唖・孟酌司年,)暑 困四国、勺画匡厨警 當毎N”①己、﹈匡国四①ロ串肖①。⑩①三口い}〕幹 】ご吋茜の自国①自用胃信彦 医師、薬剤師など (85) 103

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江戸時代に来日した蘭館医の一覧表はよく知られているも

(1)

のがいくつかあるが、そこに掲載されている人物について具

体的な出典が示されていないため、使用者はこの内容を信じ

るしかない。私も長年そうしてきた。しかし一七世紀の東イ

商館長

」四○口このめの己の○×

4函①ロ回国○戸団員〕巨弓①岡

〕四○口巨の⑳Uロ①、×

F①○ご画尽は(○閏ごロの

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一七世紀の

平戸・出島闘館の医薬関係者について

雪【四〆芦目己屋四①ロ伊①三角四吋の

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厄后庁四則ぐ四口ひ四国計①晨国」

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ヴォルフガング・ミヒェル

商館長の在任期間

四つ。や。」、今④l』、。』。]m目図

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ンド会社の様々な資料に眼を通していくうちに、多くの場合

偶然にではあるが、上記の表の不正確な箇所や未知の人物

⑦菌目RH、勺色巨厨》穴①日耳》⑦①胡座》菅8房N・》国四月穴P国画RF

印四口ロ』陣昌呉の『号の愚)が浮かび上がってきたり、周知の藺館

医についても新たな情報が得られることがあった。また、こ

れまで見落とされてきた下位外科医(○コ号月三目伺旨)、薬剤師

(go号異①『)の存在も注目に値する。外科医などの身分が商

人より低いため、出島藺館日誌に彼らの名前が記されていな

い場合が多いので、商館長の手紙、後任への申し送り状、契

(2)

約更新の記録などで丹念に調べなければならない。

○日‘里Fo目①。闇[()○口](勗望)年から)舞

国2円の国日ロ閏(届曽年)鵠

○日,里Fo匡尉①ロめい

○閏里Fo員g闇.(晟謡年まで)

二{煙①鼻Q〕二ほめm里言い彦(屋四m》晟唖・孟酌司年,)暑

困四国、勺画匡厨警

當毎N”①己、]匡国四①ロ串肖①。⑩①三口い}〕幹

】ご吋茜の自国①自用胃信彦

医師、薬剤師など

(85)103

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(88) 406

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*印が付いている外科医について以下に詳しく紹介するこ

とにする。名前の綴りは、当時の文献により多少異なること

がよくあるので、その相違の幅を示しながら、名前の統一を

行った。

⑦胃巴F、胃の冒閏[c①邑これまでは一六三○年と一六三一

年の数通の書翰から知られていたカーレルの名字は一六三四

(羽)

年三一月二四日の鴨口角巴①目幽ぐ①に現われる。一六三○

年、人質として他のオランダ人たちと共に大村に囚われてい

た前台湾総督ピーテル・ノイッ(国の房『z昌房)の息子ローレ

ンス・ノイッPC員の国、園.z昌厨)が、激しい下痢を伴う病気

にかかり、同じく人質であった下級商人ピーテル・ムイゼル

(国里閏巨昌印の『)の知らせに対して、平戸の商館長ナイエン

ローデがすぐに返事を送った。その返書から、大村にカーレ

ルという外科医がいたことがわかる。ナイエンローデは、カ

ーレルには薬品についてのラテン語の説明書は理解できない

事を挙げ、また、外科医の薬箱よりも薬屋の方が品揃えがよ

いと当時の外科医による治療の問題点を指摘した上で、役に

立ちそうなワイン、アーモンド、干しぶどうや肉豆蒄(冒国。。の.

(列)

百コの皀○gg)を送った。肉豆蒄は、当時ョ-ロッパでかなり

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の反響を呼んでいたという。また、前年カレル宛に平戸に届

(訓)

いていた薬缶も送ると記してあるが、この書翰が書かれたと

(鋤)

き、ローレンス・ノイッはすでに死亡していた。

カーレル・ローレンスは長く日本に滞在していたようであ

る。一六三○年代半ば頃、東インド会社との契約が切れた時、

彼は「自由民」(ぐ島冒晶の『)として平戸に留まっていたが、一

六三五年、バタヴィアから届いた命令によりローレンスは、

同じく「自由民」として平戸に住むことにしていた元航海士

(羽)

ヘンドリック・アーレンッ田のロ島言汽シH①具の国)と共にグロ

(別)

ル号(⑦且)で日本を去ることになった。恐らく、日本側も東

インド会社側も、管理しにくい自由な身分のオランダ人が日

本で活動することが気に入らなかったのであろう。命令によ

ると、バタヴィア、アンボイナやパンダに住み着くか、それ

ともョ-ロッパヘ帰るのか、を迫られたが、ローレンス自信

がどういう決定をしたかは不明である。長年に亙る日本滞在

(妬)

を終えた時点で、彼の財産は五○○タイルになっていた。

国の富『聾騨冒胃再平戸侯(松浦肥前守隆信)が、一六三一年

三月に発病した江戸の町奉行嶋田弾正忠次兵衛利正のために

「経験豊かな外科医」とあらゆる薬品を要請したことは、永

]曽胄国四耳①房瞬

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(89)407

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(洲)

積洋子氏の研究によりすでに周知のことである。はじめナイ

エンローデはカーレル・ローレンッを派遣するつもりであっ

たが、どういう訳かそれには江戸からの許可が必要だった。

しかし時が迫っていたため、フレーデ号(く『&①)のピーテル・

スタンペルを送ることにした。長崎奉行は彼をいくらか知っ

ており、おそらく腕の確かな外科医と見なされていたであろ

う。町奉行嶋田の病気については、依頼状には、「体中にふけ

や悪性の腫物」ができて日本人医師には手のほどこしようが

(師)

なかったとしか説明されていない。そこで停泊中のすべての

オランダ船に乗っていた外科医たちが協議して、大急ぎで必

(犯)

要と思われる薬品を用意した。

幸い町奉行嶋田の病気についての依頼状の説明はかなり誇

張されたものだった。しかしながらこの、善意で行われた援

助は後味の悪いものを残してしまった。厳重に注意されてい

たにもかかわらず、酒癖の悪いスタンペルは途中で飲んだり、

かなり攻撃的になったりしていた。ナイエンローデは、日本

食が合わなかったときのために四タイルを与えていたが、こ

れもお酒に使ってしまい、京都では盗みまではたらいた。平

戸へもどると、祖国にはかり知れない恥をかかせたとして、

(”)

ナイエンローデが厳しい罰を科したのもうなずける。当時の

三○年戦争の物語に登場する「藪醤師」を思わせるスタンペ

ルの振る舞いは、彼の外科医として能力にも陰を落とすこと

になる。

三冒胃蔚旨君$賂]旨晦彦マルテン・ウェセリングはコペン

(Ⅲ)

ハーゲン生まれとなっている。バタヴィア日誌に写された、

一六三七年一月一二日付の総督ヴァン・ディーメン(ぐ四口

ロ房目g)宛ての手紙では、長崎代官末次平蔵は外科医ウェセ

リングを大変賞賛している。ウェセリングは一六三五年と一

六三六年に末次と長崎奉行をひとり治療し、侍医たちに「多

大な愛情と熱意をこめて多くのことを」教えたという。再び

衰弱することを恐れていた末次は、ウェセリングを再度日本

(狐)

へ派遣するよう依頼した。一六三七年二月一九日付の末次

からディーメンヘの二通目の手紙から、この依頼が次の日本

向けの船によって果たされたことがわかる。しかし、二月

にはすでに彼は(恐らくは回復したため)来る必要がなくなっ

(岨)

ていた。ウェセリングはその後船で台湾へ向かったが、

腺①両且園の日誌には二年間繰り返し外科医としてその名を

(州)(Ⅱ)

とどめている。その後も台湾で下級商人として働き、一六四

(胴)

一年タマカル(弓目国富一○の)で殺害された。

国画自の宅騨昌肋ハンス・パウッはドイツ・マグデブルク近郊

の小さな町オシェルスレーベン6mg①回①胃己出身で、月給

二二ギルダで下級外科医としてアンボイナ号(ショg言“)に乗

り一六三五年七月にバタビアに着いた。一六三九~四○年、

ドイツ・ウルムa言)出身の砲術下士官ハンス・ヴォルフガ

ング・ブラウン畠四口め君○局四局即四厘目)の指導のもとで将軍

のために臼砲、榴弾、砲架やその他の付属品が製造されてい

た時、平戸商館では火傷やその他の外傷が頻発していたよう

である。また、ブラウンが江戸で自ら体験したように、試砲

(90) 408

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は、非常な危険を伴った。誤砲の際には臼砲がその中味とも

(姉)

ども粉々になってしまうのである。一六四○年一月一日付の

商館長カロンの記述によれば、パウッは特に、将軍の命によ

りしばらく仕事の監督のために派遣されてきた役人三人の面

倒をよく見ていた。おそらく彼は、在任期間が過ぎていたた

め、帰国することを考えていたであろうが、上述の役人たち

を怒らせまいとして、カロンはパウッの月給を一六三九年七

月二六日に遡り四○ギルダに上げ、上級外科医に任命してさ

らに三年間東インド会社で働くよう、契約を結んでいる。鋳

造の仕事と武器の設置にはその後何ケ月間もかかったので、

パウッは少なくとも一六三九年夏から一六四○年秋までは日

(灯)

本にいたことになる。

』弓晦①目色臣凰胃己函の目如里旨ぬぎユリアーン・ヘンゼリン

(側)

グもマグデブルク出身のドイツ人で、月給二五ギルダでアミ

リア号(醇日罠幽)の外科医として一六三八年一○月にバタヴィ

アに着いている。一六四一年一○月に三年の契約が切れ、一

六四二年九月三○日に出島商館長エルセラックにより契約を

(卿)

更新した。この間の事情については一六四二年一○月一七日、

日誌に新たに記載されている。エルセラックによれば、ヘン

ゼリングは大目付筑後殿と長崎奉行の求めにより日本に留ま

(抑)

っている。彼の勤務振りと、大目付、奉行の求めにより上級

(弧)

外科医に昇進した。商館日誌にもユリアーン・ヘンゼリング

(鼬).

の名前が記載されている。これらの記述を照らし合わせると

彼は少なくとも一六四一年秋から一六四四年秋まで日本にい

たことになる。一六四三・四四年の江戸参府に伴う負担を軽

くするため(さ厨○巳四四①日①具)、彼は特別手当として一七タイ

(卵)

ルを得ている。

○自冒島閏.聾2①邑農[。⑦己オランダのミデルブルフ

(言&①冒一侭ご出身のコルネリス・ステフェンスゾーンは、

月給一八ギルダでオストカペレ号soめ時g①馬)の下級外科医

(C且の『g『三の『)として、一六三六年七月にパタヴィァに来

る。彼は、後にバタヴィア総督の指示により外科医e胃亘の『)

(別)

に昇進し、月給は二倍になっている。遅くとも一六四二年秋

には来日している。一六四二年末の江戸参府の決算を見ると、

一七タイルの特別手当を得たのは上記のヘンゼリングではな

(弱)

く就任したばかりのステフェンスゾーンである。一六四三年

四月九日に出島で数人のオランダ人と日本人の立会のもとに

作られた甲板長ピケ・エッセルス国亘ハの屏印の易)の遺言状に

(卵)

彼は、相続人の一人としてその名を挙げられている。一六四

三・四四年、彼の上司上級外科医ヘンゼリングは江戸参府に

(”)

同行しているが、ステフェンスゾーンは出島に残っていた。

一六四四年一○月六日付の契約更新により、彼は同年一二月

一日付をもって上級外科医に昇進し、月給は四四ギルダにな

った。その理由について、商館長エルセラックは、彼の外科

医の仕事振りと熱心に書記と倉庫の見張りを勤めた業績を強

(認)

調している。新契約の任期は三年であった。その二日後の一

○月八日にはステフェンスゾーンの名が初めて商館長日誌に

(調)

も現われる。同年末の江戸参府で彼は上位外科医として一七

(91)409

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(帥)

タイルの特別手当を支給された。一六四五年秋に離日し、一

(例)

六四六年にはポーランド王号禽○昌凋く自国一①己で勤務した。

閑胃]房の昌頁言胃里尻⑦目壱三カール・ケンプフは一六一

七年二月二三日にルター派の市参事会幹部ハンス・ケンプ

フ田四吊肉①冒耳)と妻マルガレット(臣⑳侭閏8の息子とし

てドイツ・プファルッの地方都市ランダウ(旨.§口)に生ま

(腿)

れた。なぜ上流家庭の子であった彼が身分の低い外科医職に

就いて東アジアに来たのか不明である。彼は一六四五年秋に

日本へ赴いたと考えられる。一六四六年一月にケンプフは江

戸参府に同行し、一八タイルの特別手当を得た。この参府の

(鯛)

決算は、彼の名前、職業及び出生地を示す唯一の文献である。

』肖呂ぐ四目の閉駕]オランダのユトレヒトで生まれたヤー

コップ・ゲッセルもこれまで知られなかった外科医の一人で

ある。彼は、月給一○ギルダでオーリファント号(○言四員)の

兵士として一六四六年末にバタヴィアに来た。いつ頃から出

島で臨時に(冒○く回○昌の昼oご下級外科医を勤めていたかは不

明であるが、豊富な知識と経験を持っていたゲッセルは、一

六四八年二月九日には前年の一月一二日に遡って下級外科

医に正式に昇進し、月給は一八ギルダに上がっている。昇進

したとき彼は東南アジアのトンキンにおり、長崎とトンキン

(帆)

の間を通っていたと考えられる。

ぎぎ酌自国の”君屋邑伽島ドイツ・エァフルト(卑言己出身の

ョハネス・ヴンシュは、月給二六ギルダでクー号負。の)の下

級外科医として一六四七年五月末にバタヴィアに到着した。

そこで初めは要塞の病院で働き、後に様々な船の上級外科医

を勤めた。ヴンシュは一六五一年の夏カスパル・シャムベル

ゲルの後任として来日し、契約の任期満了のため、一○月六

日に上級外科医として三○ギルダの月給で新たに三年の契約

(砧)

を結んだ。その年の商館長ステルテミウスの日誌には「外科

医」としてしか記されていないが、一緒に出島で勤務してい

たスウェーデン人オーロフ・ヴィルマン(go魚弓邑日四国。)の

(妬)

旅行日記にはヴンシュの名前が見られる。彼は一六五二年の

秋に日本から離れ、一六五四年には再び来日し、商館長ヴィ

(師)

ニンクスと二度目の江戸参府に同行している。

閨①彦画目目のの含騨三m盆己里ヨハネス・スティペル(またはヤ

ン・スティペル)はオランダのユトレヒトで生まれた。彼は月

給三四ギルダでヴィテン・オリファント号(弓胃の昌○胃卸昌)

の下級外科医として一六五○年二月にバタヴィアに着い

た。最初は上級外科医として東南アジアの小島ソロルの「ヘ

ンリクス要塞」(ざ胃①mの①国の目呂の)で働き、一六五二年には

(卵)

日本へ転勤してきている。初年の日記には職業名言①言の①の‐

5吋でしか現われていない・次の任期中には、一箇所で9吋目‐

(㈹)

唱言旨自陣台座、あとはすべて日[①①⑰訂]H菅口聾冒里となっ

ている。彼の雇用契約は一六五三年で終わっている。一六五

四年一○月二日には、前回の江戸参府での業績や満足でき

る立派な勤務振りから新たに上級外科医として認められてい

る。昇給や任期については具体的な取り決めはなされず、そ

(加)

の後のことはすべてスティベルに任されていた。翌春にはヴ

(92) 410

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ンシュが上級外科医として江戸へ赴いているので、スティペ

ルは一六五四年の晩秋には日本を離れていたものと考えられ

プ(》○

国里①円曽8房函[。○弓]オランダのミデルブルフ出身のピ

ーテル・ヤコプスゾーンは、一六五一年五月にタイオワン号

(月旦○匡目)で下級外科医として月給一二ギルダでバタヴィ

アに来た。彼は遅くとも一六五四年の夏頃には来日した筈で

ある。任期が満了し、出島で下級外科医を必要としていたた

め、同年一○月二日、商館長ハッパルトによって新たな契

(、)

約が三年の期限で結ばれ、月給は二二ギルダになった。

当時の上級外科医ヴンシュが一六五五年春に江戸へ行って

いる問、ヤコプスは出島に残ったオランダ人の世話をして

(だ)

いた。彼は商業への転職を熱望し、倉庫関係の仕事で業績を

上げた。一六五七年一○月に任期三年の契約が切れたため、

ヤコプスは商館長ワーゲネルの出航直前の二七日、同じ月給

でさらに三年の契約を結んでいる。もう一年出島の下級外科

医をつとめる条件で、彼は翌一六五八年五月一○日から助手

(湖)

の職に就くことを約束されたが、少なくとも一六六○年まで

は相変わらず江戸参府中の外科医の代理を兼担せざるを得な

(別)

かつた。

西騨易]胃媚の目色自己煙の三国幽旨烏①ハンス・ユリアーン・

ハンコは東部ドイツのブレスラウ(犀①の盲屋、現在はポーランド

のプロッラフ)で生まれた。彼は月給三二ギルダでクー号

負○①)の上級外科医として一六四七年六月にバタヴィアに

来た。任期五年の契約が切れてから、彼は毎年ョ-ロッパに

帰るつもりでいたので、期限付きの契約を結んだり、「昇進」

を願うこともなかった。出島で一年間の勤務を終えた一六五

六年の秋もそうだった。江戸参府の際、数名の大物の診察や

治療で彼は大きな業績を挙げたが、商館長ブヘーリョンが勧

めた滞在延長に対しては非常に消極的であった。結局特定の

任期を定めずに月給を三二ギルダーから四二ギルダーに上げ

(両)

ることで納得してもらった。新任商館長ワーゲネルヘの引き

継ぎ報告の中ではさらに、上級外科医ハンス・ハンコはあら

ゆる授業を行っておること、また次の春にも江戸へ行かせる

(妬)

よう助言したことなどが記載されている。モンターヌスもこ

(両)

の報告を引用している。ハンコは一六五六年から翌年にかけ

て向井元升に西洋外科術について教え、その軟膏薬はアン

ス・ョレアムという名で様々な写本に現れる。なお、洋学史

事典は一六五六・五七年の欄にアブラハム・ヴェインス(シ胃四‐

冨日雪の旨ゆ)を載せているが、彼は助手で、せいぜい下級外

(沼)

科医だった。

留①ご①員聾呂冒騨雪[易]号盲弓①冒胃オランダのシーダム

⑦n画の3日)出身のステファヌス・デ・ラ・トンブは、月給

三○ギルダでブルーメンダール号(四○の日のロ呂巴)の外科医と

して一六五五年六月にバタヴィアに着いた。彼がいつ出島の

外科医に就任したかははっきりしないが、一六五八年六月一

○日付のバタヴィア総督マートソイケル(冨闇厨昌呉①『)が署

名した新契約書には前年度の出島商館長ブヘーリョンによる

(93)111

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デ・ラ・トンブヘの高い評価が付けられているので、彼はす

でに一六五七年の秋から日本で働いていたはずである。残念

ながら、ブヘーリョンの日誌にはトンブの名前が見られない。

上記の任期三年の契約更新によりデ・ラ・トンブは、上級外

(刃)

科医として四五ギルダの月給を得た。一六六○年、日[の①の房]

同煕22が江戸へ行っている間、ピーテル・ヤコプスは出島

の呂胃貝豐吊言ヨ鳥色を担当するという記述から、デ・ラ・

(帥)

トンブは引き続いて日本で活動していたと分かる。尚、洋学

史事典に見られるコルネリス・ムロックは下位商人と倉庫管

(帥)

理者(昌呂①。99)を勤めていたことになっている。

陰門自C員皀禺闇[②①目]アムステルダム生まれのアルノウ

ト・ディルクスゾーンは、一六六三年にバタヴィアに到着し、

一六六六年一○月から日本で勤務することになった。商館長

日誌の数ケ所にが挙げられている彼の名前(シgo員目鼻の①》

ど己○三目『厨》P①昌○巨貸目鼻⑳g)を見ると、恐らく正式な名

(魂)

前は少目○員目鼻間[○○口]だったと思われる。一六六八年一月

二一日彼は医師瀬尾昌琢のためにあの有名な証明書を発行

(剛)

する。ディルクスゾーンは出島で一六六九年一月九日遺言状

を書かずに、体をむしばむ病で(①g且斥①閏①且①農、胃の)死

亡した。翌日、奉行所から来た二人の検士が死体を「湾の向

(剛)

こうのオランダ墓地で埋葬した」。

旨C涜鵠旨胃①①コモイセス・マローンは一六六九年から上

(蹄)

級外科医として出島におり、一六七一年一月一日夜から二日

にかけて出島で死亡した。それまでの二、三ケ月は病気で、

体が麻陣していた。彼も「出島の向こう岸のいつもの墓地に

(柵)

運ばれた」。

の①胃凰&困儲鼻(困画鼻)名前からはドイツ出身と思わ

(師)

れるゴットフリード・ハークは若い薬剤師であった。薬草の

専門家と蒸留者が求められていたため、彼は一六七○年日本

に派遣されたが、日本側はより経験の豊富な人を期待してい

(洲)

たようである。

弓冒弓因国届冒薬剤師のフランス・ブラウンは一六七一年

にハークの後任として「チュールペンブルッヒ」号(弓巨冒①国‐

(柵)(帥)

官侭写で長崎に到着した。彼は一六七三年まで出島にいた。

シ骨旨の冒解風青宍胃号臼砺アドリアーン・ストライケルス

ベルッヒはロッテルダムで生まれた。一六七三・七四年に日

本で任に就き、七四年末にハーゼンベルッ上号(国閉①号の侭写

でバタヴィアヘ向かった。そこでは、アルベルッス・ボップ

(津守①『目⑭胃g)が八月一三日に死亡してから砦の上級外科

医の職が空席になっており、ストライケルスベルッヒはその

(卯)

後任に指名された。一六八二年四月八日に彼は砦の医局長に

なっている。一六八四年六月六日には上級商人になり、この

地位に彼は少なくとも一六九六年まで就いていた。一七○二

年まで公衆衛生業務の長をしていた。その一五年間に彼が外

(兜)

科医から上級外科医に昇進させたのは三人だけだった。

君筥①冒困員目色目ヴィレム・ホフマンは、一六七一年に日

(師)

本に来て、続けて五年間も上級外科医として勤務していた。

一六七二年一二月一七日ホフマンは「筑後殿」の医師に証明

(94) 412

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害を発行している。この「89日」はニハ七二年二月二六

日から外科学と油類の蒸留法を学び、「殿様と他の日本人に対

してその学識が強調できるように」証明書の発行を依頼した。

(弧)

残念ながら、この証明書は行方がわからない。

一六七六年の商館長日誌には、「同時に上級外科医も勤める

下位商人」という記述があるので、ホフマンが商人への転向

(蝿)

に成功したことが分かる。この年、彼は病気のため江戸へは

(%)

行っていない。尚、一六七四年一○月から一六七六年一○月

まで出島に滞在していたヴィレム・テン・ライネ博士は通常

(W)

の藺館医ではなく、別枠で日本へ派遣された人である。

閏①冒号旨宍①意ヘンドリック・オベーは「新ネデルラン

ド」(z①雪国○升?)出身で一六八三年夏に上級外科医として

来日し、日本側の要請により一六八四年秋以降、さらに一年

留まることになる。一六八五年にはしかし下級商務官にな

(蛇)

った。クラフトによれば彼は一六八六年には日本を離れなけ

ればならなかった。一六八九年には東南アジアのセマラング

(”)

島あのョ四国畠)の総督になっている。一六九五年にはヤパム

島の管理官になり、一六九五年九月二○日に商務官に昇進し

た。一六九六年一月二五日にバタヴィアヘ戻ったが、そこで

問題が起きたようである。同年三月一日に改めて行政官とし

てヤパムヘ派遣されたときには、報酬や地位の「待遇改善」

を条件にした。ここで彼のキャリアは終わり、昇進も昇給も

(Ⅲ)

なくョIロッパヘ帰った。オベーの名前は商館長日誌の所々

(Ⅲ)

で見られる。

冒旨国胃篇房園[cc己当時のラテン語指向により、ヤン・

バルテルスの名前は旨己国閏邑の四呼己①呂只宮のと綴られるこ

とがある。添え名の冨巨&冒吊(つまり恵まれているもの)は

幸福な生活を暗示している。バルテルスはまず一六八○年に

三年の予定で来日し、二度目の滞在期間は一六八六年から一

六八九年だった。なぜ彼はあれほど管理されていた出島商館

での生活に、一七世紀のどの外科医よりも長く、七年間にわ

(伽)

たって耐えられたのだろうか。

「スティビン」江戸時代の写本にはよく「スティビン」の

名で現われる。これはヤン・スティペルだという説もあるが、

日本語での表記は元来の発音とはかなりかけはなれている。

おそらくステファン・デ・ラ・トンブ(聾g冨自月面弓○ョ房、

つまり昌用牌閏陣29)のことではないだろうか。

「コルネリス」これはコルネリス・ムロック(9目①房国.

冨巳〔)。ごとされてきたが、オランダの資料ではムロックにつ

いては商人としての職歴しか見当たらない。たとえばコルネ

リス・ステフェンスゾンかコルネリス・デ・ラーベルだった

かも知れない。

「伊保宇」、「多阿須」亨保三年(一七一六年)の「阿蘭陀

(川)

外科和朝世系之図」では加須波留(8mg『粋冨日胃侭国)、須

庭賓(聾のぐの旨)、阿無須與利安(国目旦こ『旨の自国目鼻。)、阿留

曼須加津国の『日曽巨の宏蝕罰)、阿留能登(胃。○昌皀『具闇・)と

二三の問題点

(95)413

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並んで「伊保宇」と「多阿須」の名前も挙がっている。他の

名前が特定できる以上、最後の二者についてもこれまで知ら

れていない外科医だった可能性がある。

「ハルム」桂川甫築の繕生室医話(巻一)ではその書物にっ

(Ⅲ)

いての説明の中で、オランダ人の名前が挙がっている….:。

「寛文元辛丑九月四日従鎮信公長崎御奉行黒川與兵衛殿江

御頼下拙阿藺陀外科稽古ス其時ノ師匠ハハルマンスカッ

ッカビタンノ名ハデレキハンリイルト云同二年寅正月廿

六日右ノメストル江府江参向二付下拙モ参候此ハルマン

スハ阿蘭陀ニテモ名人ノ由カビタン云ナリ此メストルニ

ニ年附添其後代リニダンネルト云メストル来朝スカビタ

ンヲインデレキト云又其代リニハルムト云メストル来朝

スダンネルニ三年パルム一二年都合六年ノ間通詞各立合

吟味ヲ遂ゲ右雨師ノ印可井通詞ノ連判ノー巻二稽古ノ目

録箇條委細有之也夫ニテ其品々ヲ見合可有事凡阿藺陀江

的傳卜云事ハ曽テ難成事ナレドモ太守ノ御逓寄相叶所也

又此耆ハ師匠江此方ヨリ問懸通詞二和ケサセ書集蛍仕立

素下愚無学短才ナレバ文章更不宜然トモ全ク無違説也其

慥成所ヲ愚息二知ラセン為二言キ記ス也更二他人之見二

一同九月ニダンネル江白銀十枚帰帆二又十枚樽一荷肴一

箱 白銀三十枚御使野口小右衛門

アラザレバナリ

一右ノ師禮二寛文二寅九月廿三日歸帆ニハルマンスヘ

一同卯九月ニハルム江白銀十枚都合白銀六十枚太守ョリ

遣ル者也

旨二天和三癸亥五月雨中法橋甫安春育五十一歳ニテ改害

之子甫安景富愚息江附属スルニョリ四十七歳ニテ書籍上

中下三冊二改害之」

商館長と外科医の名は出島商館の記録と合っている。寛文

二年九月二三日(一六六二年二月四日)の日付も信頼できる。

二月五日にはリールe閂)と任期を終えた部下が旅立って

おり、外科医「ハルム」令里見)の存在を疑う理由はない。

「ハンス」宗田一氏所蔵のカスパル流猪股伝兵衛系の相伝

証(元禄七年、一六九四年)は「紅毛医渡扶桑之衆」としてカ

スパル、ステヒン、アンスヨレアン、ハルマンス、ヤン、コ

ルネリス、カツ、ハンスの名を挙げている。このリストで初

めて現われるのはハンス(函四コの)で、おそらくドイツ語圏の

(Ⅲ)

出身者と思われる。

(96) 414

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文献

(1)大烏蘭三郎「藺館日誌の医史学的研究」・日本医史学雑誌、

第一○巻第一号、昭和三七年(一九六二年)、二~一六

頁。大鳥蘭三郎「蘭館日誌の医史学的研究」。日本医史学

雑誌、第一○巻第二、三号、昭和三九年(一九六四年)、

一~一二頁。服部敏郎『江戸時代医学史の研究」吉川弘

文館、東京、昭和六三年(一九八八年)、三三○~三三八

頁。日蘭学会編『洋学史事典」、雄松堂出版、東京、昭和

五九年(一九八四年)、付表三。

(2)オランダの国立中央文書館(ど鴨目の①邑国房の閏。冨呉印”

の国く①。冨帰Ⅱン宛シ)の資料についての略号はシ詞P胃.

三画』ゞz&曾訂己陥甸肖8昌盲冨邑Ⅱz国十番号。出

島商館日誌の資料にはさらにロロを付記するⅡz国十

番号ゞロロ十日付、またはシ詞シ』・言・己、オランダ東イン

ド会社はく○○十番号。その他の資料については5凋閨‐

鴨口巨ヨョ関を付記する。

(3)「○g①胃言『昌四旨冨里目のQ○房の巳は日記の引用箇所

にのみ見られる。z国・ロロ騨届.屋急ゞ目・]・屋台・匡嵯.

届ミ等など。

(4)この外科医もクロウセンかも知れない。彼は江戸参府同

行者として一八タイルの特別手当を得た(z国匡霊》

罰陥冨三目鴨晟ミ酉窪停①g国胃豆閏)。また日記の他の

箇所ではただ「の寓目品言」とだけ記されている(zご倉

ロロ圏障尽急・沼.崇屋岳〕農&自登等)。

(5)この「O三目侭言」は常に職名で現われる(z国sゞpp

P騨晟ちゞ鴎・~圏.酌届ら等など)。

(6)zご争いロロ鵲』.届9石四9円粋冨ヨウ巨侭のユ。ロロ屋.

巨・屋印つ青三の再匡狛宣言○四の口のHの、ずぃ口舌①円いの己。シヤムベ

ルゲルの生涯について以下の論文を参照(a)W・ミヒ

ェル「出島蘭館医カスパル・シャムベルゲルの生涯につ

いて」「日本医史学雑誌」三六巻三号、二○一~一二○頁、

一九九○年(平成二年)。(b)W・ミヒェル「カスパル・

シャムベルゲルの「弔辞」について」『日本医史学雑誌」

三七巻四号、一四三~一五一頁、一九九一年(平成三年)。

(7)京都市稲葉神社所蔵の「永代日記』による寛文元年三月

四日(外科あるまいすかつ)。

(8)外科医カツは河口良庵に遡る「阿蘭陀外療集」、巻四(慶

応大学医学情報センター蔵、乞鰐里○幻‐この中で見られ

ブ(》O

(9)z甸]認》ppm・巨・晟亀(目[①①m房]『ロ四三の一瞬口の。一旦○℃ロ①『

ⅢⅡ○壹弓ロ”ご己)

(皿)z蜀]認・ppm.巨.晟忠(P耳四ゴ鼬ョぐ四口尿の号のロ.○国Qg

ⅡⅡ○ず吋匡[R]ぬ弓旨〕)

(u)z甸]司々ロ口曽.g,晟昆S四三里団匡印の壷○でロ①月巨昌同,

哩旨》国の昌国口巨mご房閂宜閏呂さ)

(咽)z甸当弓》ロロ巴・己・屋困e画昌の一mこののごCpRRご冒弓

哩冒、国囚冒曽昌のく尉閂彦閏昌目)

(過)一六五五年一月二一日、ブッシュは、平戸侯により長崎

に勉強のため派遣されていた嵐山甫安に証明書を発行し

た(平戸観光資料館)。z国認》ロロ馬②.勗霊e四口邑

国こめ○ごg〕胃匡司四一三

(M)ヴァン・デル・ヴェステは一六六八年から出島の下級外

115 (97)

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(皿)

ヘハ印ヅー

〆勺IL』

、八M〕一

一○ノム』

へへへ

181716曹菅…

(喝)

へへ

2524……

(湖)

(羽)

(塊)

科医であった。z国麗ゞロロ畠.障扇弓(Oagg吋昌唱旨

雪里[巴門く画。・閏くの輿里

z甸]望》ロロ騨房届昌(○ロロ①門の三『二吋哩旨三○耐Oの

三[四門○○コ)

z蜀]、少己口匡.刃ご

z司]謡ゞロロE・画屋忌宙ロで○号①の穴国司『四口の団吋豐昌)

z司当認.ロロ園』.屋認(言[の①里①]叶夛三一の冒国○索日四口

①邑○四]mQの尉扁目庁○○吋己巴酎伊冒日ロ里

洋学史事典による。

z句]、ヨロロき』.晟理さロでの『、三『匡吋唱旨二三行目

国○時計ロ四コ)

z甸]謡ゞロ口晟.届.岳忌)弓.届.晟塁》ら・津忌引》旨・陣

忌引ゞ囲い.畠計》ごい、届鼠望・い畠計等など言三房盲目

目のロ詞冨旨巴

一六七六年に職を変え、日記には「○己の異O8g智]二三,

一の目国○ヰコ回己」と記されるようになるが、「同時に上級外

科医の職にも就いていた」(z国窓》ロロ瞳.]』雪e

z甸]、鱒ロロ鰐]・晟司穿弓』・晟司動画吟戸屋司・弓』・

』の『の暫四吟.』.]つ『の〕画一.↑。』m「の》図画.今.胃、『②〕画』.』.胃の司句》函、。《.

晟認等などつ言房里目弓の己詞巨旨巴

洋学史事典による。

一六八五年一○月一八日にクローンが原三信にオランダ

外科の免状を与えた(現在は福岡市、原家蔵書)。

z甸〕己野口ロ口巨.屋窓さ己己囚日①閉扁引]四国陣○冨亘四己.

z句]弓輿ロロ畠◆屋.屋窓(○℃ロ①『日①①輿①【]四口⑳8戸日四三.

z甸]邑興ロロP届.屋窓色四.陣○天日四コ○℃で①月三目引唱‐

言).z甸]己興国口争』.届宕(○つで閏ョの①異閏]巴〕聾○家

ョ画己.z甸当]g》ロロ己函.晟宕(○℃での『ロー①①鴬①]『盲口

碑○戸目四己.z句]呂巽ロロ圏&、屋宕(○℃で9o三『巨門哩甘

]四目m庁○穴『己四三)

(”)シ宛P》z甸]]sゞロロ圏.巨・晟宕(○℃R月三司昌哩言両皀‐

ぬ①弓①耳〆の昌耳閏)》雪②.晟留(○壱℃の『ヨの①の房H【①.5ゴ閏)》

ぷふ.晟宮(○℃己閏呂旨吋哩旨両国猶①房の再穴の国目彦匡ユ

(魂)P”シz甸]]sゞロロ$.旨.畠臼(ョのso扇同ロ開き[閏嵜

【のロぢず①ユ》函唖・晟冨さでロ①『日①①の扁門両口函①一宮の嗅弄①目,

でゴ臼)》弓函.届縄aogoR【のヨロゴの『)〕易い.忌縄aogoR

【①目耳の『)ゞ曽上.届褐(目○コの[厨己氏尿のヨロゴ閏)

(羽)く○○匡匡烏昌.屋号面のロ閏巴の目凰朋弓①》罰四国く賦匿.届.

]つい吟)

(鋤)丸い肉豆蒄は「女性」、長いのは「男性」と見なされてい

アーO

(訓)z句]令駕》ロ堂?些侭(ナイエンローデからムイゼルヘ

の書翰、閏国号曽馬屋ご)

(犯)z国畠画〕壱虐甲と踵、ナイエンローデからムイゼル他

への書翰(国耳目○司.].晟巴).z国畠騨壱堂ヤム急、ナ

イエンローデからヤンセンヘの書翰(闇国号『」」認二.

z国あいも.急?上段、ナイエンローデから台湾のプット

マンスヘの書翰、勇国目勗.幹屋筐).ョ-ロッパヘ送ら

れた次の写しも参照。く○○匡急胤巳匡更ヤンセンから

ナイエンローデへの書翰)○段冨忌』』露ご々さ一・巨等

(ヤンセンからナイエンローデへの書翰)○路冨“』

晟曽)↑ざ一』己(ヤンセンからナイエンローデへの書翰)

416(98)

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○囲天皿岳』』露二さ一.届言(ヤンセンからナイエンロー

デへの書翰、○の巴臼鵠.]・扇曽)

(翌アーレンッについては金井圓「ヘンドリック・アレント

センとヤン・フォスの五島探検記」、「日蘭交渉史」思文

閣出版、東京、昭和六一年(一九八六年)、一四五~一五

四頁参照。

(劉)ぐ○○巨巨》さ].]烏す

(弱)く○○匡匡ゞさ一・匡号両の。①H巴の『己の鰹ぐ①》国四国ぐ国瞳.届.

骨、函渠)

(鍋)永積洋子「平戸商館の日記』第二輯、岩波書店、東京、

昭和五五年(一九八○年)、二一、四○、一六四、五二六

頁。

(師)z可]鹿いざ』L弓(ナイエンローデからヤンセンヘの書

翰、冨国号腿.幹岳曽).z国岳蝉さ』娼包(ナイエンロ

ーデからヤンセンヘの書翰、閏『且○韻印.勗曽)

(銘)z国あいざ一ムョ(ナイエンローデからヤンセンヘの書

翰、雪函§麗塵」露ご

(調)z甸]お国〉ず一・孟霞(ナイエンローデからヤンセンヘの書

翰、閏国号囲L』$ご

(伽)四口の$〕]。F、ぐ巴]○用国二三.画、、弓の》四○国目掲出○

(①Q)”ロ①口四晦吊唱牌①届く巴〕}〕倶歸四里①堅いの里四国巳聾

弓皿冒四.晟患l屋s・舅z言○魚〕の‐の国くg冨照ら霊も.

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(似)Cいい胃①哩里閏団卸国ぐ量》腿』白露算国.弓.○○一①岸号国目,

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(川)岸本裕「本朝和藺陀外科所謂カスパル流外科の本朝史

料」。日本医事新報、第八○二号、昭和一三年一月二二日、

三三一~三三二頁。

(皿)桂川甫築の繕生室医話、巻の一、五頁(京都大学富士川

文庫セー183)

(咄)宗田一「日本医療文化史」、思文閣出版、京都平成元年(一

九八九年)、一二七頁。

(九州大学言語文化部)

(102) 420