平戸・出島闘館の医薬関係者について 一七世紀の -...
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江戸時代に来日した蘭館医の一覧表はよく知られているも
(1)
のがいくつかあるが、そこに掲載されている人物について具
体的な出典が示されていないため、使用者はこの内容を信じ
るしかない。私も長年そうしてきた。しかし一七世紀の東イ
商館長
」四○口このめの己の○×
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j
〕四○口巨の⑳Uロ①、×
卜
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でgゴ囚崩楓ぐ四国z凰苛日貝昌①
一七世紀の
平戸・出島闘館の医薬関係者について
雪【四〆芦目己屋四①ロ伊①三角四吋の
■黄1J
甸胃画〕后○扇亡mRg]
、ノ●「J
厄后庁四則ぐ四口ひ四国計①晨国」
z旨○両ののnoロ9$ご画、戸田
ヴォルフガング・ミヒェル
商館長の在任期間
四つ。や。」、今④l』、。』。]m目図
画、、函.胃の」国1,.m.」、』一
つ。、。』、昌心1国や。]つ・罠③い罠
四や.』つ.』争画」l函」。昌昌。』争い四
画目。昌胃。畠④画的l哩旨.胃.」つ四四
酌’四‐』の』Cl」四.画。』つ峰」
学胃‐]‐]③唾哩1句、や‐胃つい四
つ。や。胃つい由’四。函.]、い④
」一.画.』③↑」’四つ.』つ。』の饅]
ンド会社の様々な資料に眼を通していくうちに、多くの場合
偶然にではあるが、上記の表の不正確な箇所や未知の人物
⑦菌目RH、勺色巨厨》穴①日耳》⑦①胡座》菅8房N・》国四月穴P国画RF
印四口ロ』陣昌呉の『号の愚)が浮かび上がってきたり、周知の藺館
医についても新たな情報が得られることがあった。また、こ
れまで見落とされてきた下位外科医(○コ号月三目伺旨)、薬剤師
(go号異①『)の存在も注目に値する。外科医などの身分が商
人より低いため、出島藺館日誌に彼らの名前が記されていな
い場合が多いので、商館長の手紙、後任への申し送り状、契
(2)
約更新の記録などで丹念に調べなければならない。
○日‘里Fo目①。闇[()○口](勗望)年から)舞
国2円の国日ロ閏(届曽年)鵠
○日,里Fo匡尉①ロめい
○閏里Fo員g闇.(晟謡年まで)
二{煙①鼻Q〕二ほめm里言い彦(屋四m》晟唖・孟酌司年,)暑
困四国、勺画匡厨警
當毎N”①己、]匡国四①ロ串肖①。⑩①三口い}〕幹
】ご吋茜の自国①自用胃信彦
医師、薬剤師など
(85)103
JanvanElseracq
PieterAnthonijsz.Overtwater
2436416.1
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1446611.、0
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JuriaenHenselingh
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CasparSchambergerE
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Johannes/JanStipel*
Johannes/JanStipel
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HansJtirgen/JuriaenHancko*
PieterJacobsz.
HansJuriaenHancko
PieterJacobsz.
Steven/Stephan[us]delaTombe(?)*
PieterJacobsz.
寺つ寺
JanvanEIseracq 1.8.1643-24.11.1644
PieterAnthonijsz.Overtwater
Reiiniervan'tZum
WillemVerstegen(Versteijen)
408
232
070
321
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666
111
567
444
666
111
110
111
100
111
FrederickCoijet
DircqSnoecq
AnthoniovanBrouckhorst
PieterSterthemius
AdriaenvanderBurgh
FrederickCoiiet
GabrielHappart
LeonardWinninx 5
01345
89552556
44665661
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111。111.
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395.21443
(や幻)
JoanBoucheljon 23.10.1655-1.11.1656
ZachariasWagener/Wagenaer 1.11.1656-27.10.1657
JoanBoucheljon 27.10.1657-23.10.1658
Stephan[us]delaTombe
PieterJacobsz
Stephan「usldelaTombe異
PieterJacobsz.
Herman「uslKatz
HermanKatzE
Palm(?)
DanielBusch3
AbrahamvanKerpenm
DanielBuschn
Herman[us]Visscher(Fischer?)E
DanielBuschE
JohannesWunsch(?)
Cornelisz.deLaber(?)
A「elrnou[d]tDircksz[oon]*
ArnOutDircksz.
AmoutDircksz.(9.1.1669f)
MoiisesMaroon(lll671T)*
PietervanderVeste[n]g
GodefriedHaeck/Haak(鰡羅屋)*
MoiisesMarooll3
PietervanderVeste[n]
FransBraun(灘羅塩)E
WillemHoffman*
22.10.1658-4.11.1659ZachariasWagener
4.11.1659-26.10.1660JoanBouchelion
1626616,1
1.11.1
1,26
01666611
0111
6121
Hendricklndijck
DirckvanLier
6.11.1662-20.10.1663Hendricklndijck
20.10.1663-7.11.1664WillemVolger
6
566661
11坐。
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722|’5
4666611。.0
111。“8
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JacobGruijs
WillemVolger
(吟函}
DanielSix/Sicx
ConstantinRanst
DanielSix
FranCoisdeHaas
9
7860
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2.11.1670-12.11.1671MartinusCaesar
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22.10.1671-12.11.1672JohannesCamphuijs
○○昌里画自庁冒罰四弓曾Qの当〔旨い①
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シき①再国吊spoQ
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両①旨耐司三富①『芦ご風冒(》)
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〕四○○ヶローQSO球劉
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当四昌団画耳①房国「○○口]L
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国①ロ・国穴○ず心
塵①口胃時○ずの
ン弓①耳○吋○○口幟
】四コ画画風①房騨
〕画自国、耳①房い
(88) 406
*印が付いている外科医について以下に詳しく紹介するこ
とにする。名前の綴りは、当時の文献により多少異なること
がよくあるので、その相違の幅を示しながら、名前の統一を
行った。
⑦胃巴F、胃の冒閏[c①邑これまでは一六三○年と一六三一
年の数通の書翰から知られていたカーレルの名字は一六三四
(羽)
年三一月二四日の鴨口角巴①目幽ぐ①に現われる。一六三○
年、人質として他のオランダ人たちと共に大村に囚われてい
た前台湾総督ピーテル・ノイッ(国の房『z昌房)の息子ローレ
ンス・ノイッPC員の国、園.z昌厨)が、激しい下痢を伴う病気
にかかり、同じく人質であった下級商人ピーテル・ムイゼル
(国里閏巨昌印の『)の知らせに対して、平戸の商館長ナイエン
ローデがすぐに返事を送った。その返書から、大村にカーレ
ルという外科医がいたことがわかる。ナイエンローデは、カ
ーレルには薬品についてのラテン語の説明書は理解できない
事を挙げ、また、外科医の薬箱よりも薬屋の方が品揃えがよ
いと当時の外科医による治療の問題点を指摘した上で、役に
立ちそうなワイン、アーモンド、干しぶどうや肉豆蒄(冒国。。の.
(列)
百コの皀○gg)を送った。肉豆蒄は、当時ョ-ロッパでかなり
○○コ届一耐いく閏]○匡吾○〔頁ロ
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国四岸彦四の四門ひニョ①のHの
国四己凰○戸ぐ四三国昌詳Q〕ず①汽己
r○国吊一厨ぐ曽自○昌匿○○国〕
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』唖。]つ.」mmml胃.]」.』の、④
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画」。]一・』つCつ1つ①.』胃。骨mや]
④‘農]。』つや目’四℃。』一。昌③や函
の反響を呼んでいたという。また、前年カレル宛に平戸に届
(訓)
いていた薬缶も送ると記してあるが、この書翰が書かれたと
(鋤)
き、ローレンス・ノイッはすでに死亡していた。
カーレル・ローレンスは長く日本に滞在していたようであ
る。一六三○年代半ば頃、東インド会社との契約が切れた時、
彼は「自由民」(ぐ島冒晶の『)として平戸に留まっていたが、一
六三五年、バタヴィアから届いた命令によりローレンスは、
同じく「自由民」として平戸に住むことにしていた元航海士
(羽)
ヘンドリック・アーレンッ田のロ島言汽シH①具の国)と共にグロ
(別)
ル号(⑦且)で日本を去ることになった。恐らく、日本側も東
インド会社側も、管理しにくい自由な身分のオランダ人が日
本で活動することが気に入らなかったのであろう。命令によ
ると、バタヴィア、アンボイナやパンダに住み着くか、それ
ともョ-ロッパヘ帰るのか、を迫られたが、ローレンス自信
がどういう決定をしたかは不明である。長年に亙る日本滞在
(妬)
を終えた時点で、彼の財産は五○○タイルになっていた。
国の富『聾騨冒胃再平戸侯(松浦肥前守隆信)が、一六三一年
三月に発病した江戸の町奉行嶋田弾正忠次兵衛利正のために
「経験豊かな外科医」とあらゆる薬品を要請したことは、永
]曽胄国四耳①房瞬
]四口の庁○,六口〕四口偲
両呂祠①弓①鼻【四①口〕己貯吋働
両罠循①弓の再【四①pごロ討司・脚
(89)407
(洲)
積洋子氏の研究によりすでに周知のことである。はじめナイ
エンローデはカーレル・ローレンッを派遣するつもりであっ
たが、どういう訳かそれには江戸からの許可が必要だった。
しかし時が迫っていたため、フレーデ号(く『&①)のピーテル・
スタンペルを送ることにした。長崎奉行は彼をいくらか知っ
ており、おそらく腕の確かな外科医と見なされていたであろ
う。町奉行嶋田の病気については、依頼状には、「体中にふけ
や悪性の腫物」ができて日本人医師には手のほどこしようが
(師)
なかったとしか説明されていない。そこで停泊中のすべての
オランダ船に乗っていた外科医たちが協議して、大急ぎで必
(犯)
要と思われる薬品を用意した。
幸い町奉行嶋田の病気についての依頼状の説明はかなり誇
張されたものだった。しかしながらこの、善意で行われた援
助は後味の悪いものを残してしまった。厳重に注意されてい
たにもかかわらず、酒癖の悪いスタンペルは途中で飲んだり、
かなり攻撃的になったりしていた。ナイエンローデは、日本
食が合わなかったときのために四タイルを与えていたが、こ
れもお酒に使ってしまい、京都では盗みまではたらいた。平
戸へもどると、祖国にはかり知れない恥をかかせたとして、
(”)
ナイエンローデが厳しい罰を科したのもうなずける。当時の
三○年戦争の物語に登場する「藪醤師」を思わせるスタンペ
ルの振る舞いは、彼の外科医として能力にも陰を落とすこと
になる。
三冒胃蔚旨君$賂]旨晦彦マルテン・ウェセリングはコペン
(Ⅲ)
ハーゲン生まれとなっている。バタヴィア日誌に写された、
一六三七年一月一二日付の総督ヴァン・ディーメン(ぐ四口
ロ房目g)宛ての手紙では、長崎代官末次平蔵は外科医ウェセ
リングを大変賞賛している。ウェセリングは一六三五年と一
六三六年に末次と長崎奉行をひとり治療し、侍医たちに「多
大な愛情と熱意をこめて多くのことを」教えたという。再び
衰弱することを恐れていた末次は、ウェセリングを再度日本
(狐)
へ派遣するよう依頼した。一六三七年二月一九日付の末次
からディーメンヘの二通目の手紙から、この依頼が次の日本
向けの船によって果たされたことがわかる。しかし、二月
にはすでに彼は(恐らくは回復したため)来る必要がなくなっ
(岨)
ていた。ウェセリングはその後船で台湾へ向かったが、
腺①両且園の日誌には二年間繰り返し外科医としてその名を
(州)(Ⅱ)
とどめている。その後も台湾で下級商人として働き、一六四
(胴)
一年タマカル(弓目国富一○の)で殺害された。
国画自の宅騨昌肋ハンス・パウッはドイツ・マグデブルク近郊
の小さな町オシェルスレーベン6mg①回①胃己出身で、月給
二二ギルダで下級外科医としてアンボイナ号(ショg言“)に乗
り一六三五年七月にバタビアに着いた。一六三九~四○年、
ドイツ・ウルムa言)出身の砲術下士官ハンス・ヴォルフガ
ング・ブラウン畠四口め君○局四局即四厘目)の指導のもとで将軍
のために臼砲、榴弾、砲架やその他の付属品が製造されてい
た時、平戸商館では火傷やその他の外傷が頻発していたよう
である。また、ブラウンが江戸で自ら体験したように、試砲
(90) 408
は、非常な危険を伴った。誤砲の際には臼砲がその中味とも
(姉)
ども粉々になってしまうのである。一六四○年一月一日付の
商館長カロンの記述によれば、パウッは特に、将軍の命によ
りしばらく仕事の監督のために派遣されてきた役人三人の面
倒をよく見ていた。おそらく彼は、在任期間が過ぎていたた
め、帰国することを考えていたであろうが、上述の役人たち
を怒らせまいとして、カロンはパウッの月給を一六三九年七
月二六日に遡り四○ギルダに上げ、上級外科医に任命してさ
らに三年間東インド会社で働くよう、契約を結んでいる。鋳
造の仕事と武器の設置にはその後何ケ月間もかかったので、
パウッは少なくとも一六三九年夏から一六四○年秋までは日
(灯)
本にいたことになる。
』弓晦①目色臣凰胃己函の目如里旨ぬぎユリアーン・ヘンゼリン
(側)
グもマグデブルク出身のドイツ人で、月給二五ギルダでアミ
リア号(醇日罠幽)の外科医として一六三八年一○月にバタヴィ
アに着いている。一六四一年一○月に三年の契約が切れ、一
六四二年九月三○日に出島商館長エルセラックにより契約を
(卿)
更新した。この間の事情については一六四二年一○月一七日、
日誌に新たに記載されている。エルセラックによれば、ヘン
ゼリングは大目付筑後殿と長崎奉行の求めにより日本に留ま
(抑)
っている。彼の勤務振りと、大目付、奉行の求めにより上級
(弧)
外科医に昇進した。商館日誌にもユリアーン・ヘンゼリング
(鼬).
の名前が記載されている。これらの記述を照らし合わせると
彼は少なくとも一六四一年秋から一六四四年秋まで日本にい
たことになる。一六四三・四四年の江戸参府に伴う負担を軽
くするため(さ厨○巳四四①日①具)、彼は特別手当として一七タイ
(卵)
ルを得ている。
○自冒島閏.聾2①邑農[。⑦己オランダのミデルブルフ
(言&①冒一侭ご出身のコルネリス・ステフェンスゾーンは、
月給一八ギルダでオストカペレ号soめ時g①馬)の下級外科医
(C且の『g『三の『)として、一六三六年七月にパタヴィァに来
る。彼は、後にバタヴィア総督の指示により外科医e胃亘の『)
(別)
に昇進し、月給は二倍になっている。遅くとも一六四二年秋
には来日している。一六四二年末の江戸参府の決算を見ると、
一七タイルの特別手当を得たのは上記のヘンゼリングではな
(弱)
く就任したばかりのステフェンスゾーンである。一六四三年
四月九日に出島で数人のオランダ人と日本人の立会のもとに
作られた甲板長ピケ・エッセルス国亘ハの屏印の易)の遺言状に
(卵)
彼は、相続人の一人としてその名を挙げられている。一六四
三・四四年、彼の上司上級外科医ヘンゼリングは江戸参府に
(”)
同行しているが、ステフェンスゾーンは出島に残っていた。
一六四四年一○月六日付の契約更新により、彼は同年一二月
一日付をもって上級外科医に昇進し、月給は四四ギルダにな
った。その理由について、商館長エルセラックは、彼の外科
医の仕事振りと熱心に書記と倉庫の見張りを勤めた業績を強
(認)
調している。新契約の任期は三年であった。その二日後の一
○月八日にはステフェンスゾーンの名が初めて商館長日誌に
(調)
も現われる。同年末の江戸参府で彼は上位外科医として一七
(91)409
(帥)
タイルの特別手当を支給された。一六四五年秋に離日し、一
(例)
六四六年にはポーランド王号禽○昌凋く自国一①己で勤務した。
閑胃]房の昌頁言胃里尻⑦目壱三カール・ケンプフは一六一
七年二月二三日にルター派の市参事会幹部ハンス・ケンプ
フ田四吊肉①冒耳)と妻マルガレット(臣⑳侭閏8の息子とし
てドイツ・プファルッの地方都市ランダウ(旨.§口)に生ま
(腿)
れた。なぜ上流家庭の子であった彼が身分の低い外科医職に
就いて東アジアに来たのか不明である。彼は一六四五年秋に
日本へ赴いたと考えられる。一六四六年一月にケンプフは江
戸参府に同行し、一八タイルの特別手当を得た。この参府の
(鯛)
決算は、彼の名前、職業及び出生地を示す唯一の文献である。
』肖呂ぐ四目の閉駕]オランダのユトレヒトで生まれたヤー
コップ・ゲッセルもこれまで知られなかった外科医の一人で
ある。彼は、月給一○ギルダでオーリファント号(○言四員)の
兵士として一六四六年末にバタヴィアに来た。いつ頃から出
島で臨時に(冒○く回○昌の昼oご下級外科医を勤めていたかは不
明であるが、豊富な知識と経験を持っていたゲッセルは、一
六四八年二月九日には前年の一月一二日に遡って下級外科
医に正式に昇進し、月給は一八ギルダに上がっている。昇進
したとき彼は東南アジアのトンキンにおり、長崎とトンキン
(帆)
の間を通っていたと考えられる。
ぎぎ酌自国の”君屋邑伽島ドイツ・エァフルト(卑言己出身の
ョハネス・ヴンシュは、月給二六ギルダでクー号負。の)の下
級外科医として一六四七年五月末にバタヴィアに到着した。
そこで初めは要塞の病院で働き、後に様々な船の上級外科医
を勤めた。ヴンシュは一六五一年の夏カスパル・シャムベル
ゲルの後任として来日し、契約の任期満了のため、一○月六
日に上級外科医として三○ギルダの月給で新たに三年の契約
(砧)
を結んだ。その年の商館長ステルテミウスの日誌には「外科
医」としてしか記されていないが、一緒に出島で勤務してい
たスウェーデン人オーロフ・ヴィルマン(go魚弓邑日四国。)の
(妬)
旅行日記にはヴンシュの名前が見られる。彼は一六五二年の
秋に日本から離れ、一六五四年には再び来日し、商館長ヴィ
(師)
ニンクスと二度目の江戸参府に同行している。
閨①彦画目目のの含騨三m盆己里ヨハネス・スティペル(またはヤ
ン・スティペル)はオランダのユトレヒトで生まれた。彼は月
給三四ギルダでヴィテン・オリファント号(弓胃の昌○胃卸昌)
の下級外科医として一六五○年二月にバタヴィアに着い
た。最初は上級外科医として東南アジアの小島ソロルの「ヘ
ンリクス要塞」(ざ胃①mの①国の目呂の)で働き、一六五二年には
(卵)
日本へ転勤してきている。初年の日記には職業名言①言の①の‐
5吋でしか現われていない・次の任期中には、一箇所で9吋目‐
(㈹)
唱言旨自陣台座、あとはすべて日[①①⑰訂]H菅口聾冒里となっ
ている。彼の雇用契約は一六五三年で終わっている。一六五
四年一○月二日には、前回の江戸参府での業績や満足でき
る立派な勤務振りから新たに上級外科医として認められてい
る。昇給や任期については具体的な取り決めはなされず、そ
(加)
の後のことはすべてスティベルに任されていた。翌春にはヴ
(92) 410
ンシュが上級外科医として江戸へ赴いているので、スティペ
ルは一六五四年の晩秋には日本を離れていたものと考えられ
プ(》○
国里①円曽8房函[。○弓]オランダのミデルブルフ出身のピ
ーテル・ヤコプスゾーンは、一六五一年五月にタイオワン号
(月旦○匡目)で下級外科医として月給一二ギルダでバタヴィ
アに来た。彼は遅くとも一六五四年の夏頃には来日した筈で
ある。任期が満了し、出島で下級外科医を必要としていたた
め、同年一○月二日、商館長ハッパルトによって新たな契
(、)
約が三年の期限で結ばれ、月給は二二ギルダになった。
当時の上級外科医ヴンシュが一六五五年春に江戸へ行って
いる問、ヤコプスは出島に残ったオランダ人の世話をして
(だ)
いた。彼は商業への転職を熱望し、倉庫関係の仕事で業績を
上げた。一六五七年一○月に任期三年の契約が切れたため、
ヤコプスは商館長ワーゲネルの出航直前の二七日、同じ月給
でさらに三年の契約を結んでいる。もう一年出島の下級外科
医をつとめる条件で、彼は翌一六五八年五月一○日から助手
(湖)
の職に就くことを約束されたが、少なくとも一六六○年まで
は相変わらず江戸参府中の外科医の代理を兼担せざるを得な
(別)
かつた。
西騨易]胃媚の目色自己煙の三国幽旨烏①ハンス・ユリアーン・
ハンコは東部ドイツのブレスラウ(犀①の盲屋、現在はポーランド
のプロッラフ)で生まれた。彼は月給三二ギルダでクー号
負○①)の上級外科医として一六四七年六月にバタヴィアに
来た。任期五年の契約が切れてから、彼は毎年ョ-ロッパに
帰るつもりでいたので、期限付きの契約を結んだり、「昇進」
を願うこともなかった。出島で一年間の勤務を終えた一六五
六年の秋もそうだった。江戸参府の際、数名の大物の診察や
治療で彼は大きな業績を挙げたが、商館長ブヘーリョンが勧
めた滞在延長に対しては非常に消極的であった。結局特定の
任期を定めずに月給を三二ギルダーから四二ギルダーに上げ
(両)
ることで納得してもらった。新任商館長ワーゲネルヘの引き
継ぎ報告の中ではさらに、上級外科医ハンス・ハンコはあら
ゆる授業を行っておること、また次の春にも江戸へ行かせる
(妬)
よう助言したことなどが記載されている。モンターヌスもこ
(両)
の報告を引用している。ハンコは一六五六年から翌年にかけ
て向井元升に西洋外科術について教え、その軟膏薬はアン
ス・ョレアムという名で様々な写本に現れる。なお、洋学史
事典は一六五六・五七年の欄にアブラハム・ヴェインス(シ胃四‐
冨日雪の旨ゆ)を載せているが、彼は助手で、せいぜい下級外
(沼)
科医だった。
留①ご①員聾呂冒騨雪[易]号盲弓①冒胃オランダのシーダム
⑦n画の3日)出身のステファヌス・デ・ラ・トンブは、月給
三○ギルダでブルーメンダール号(四○の日のロ呂巴)の外科医と
して一六五五年六月にバタヴィアに着いた。彼がいつ出島の
外科医に就任したかははっきりしないが、一六五八年六月一
○日付のバタヴィア総督マートソイケル(冨闇厨昌呉①『)が署
名した新契約書には前年度の出島商館長ブヘーリョンによる
(93)111
デ・ラ・トンブヘの高い評価が付けられているので、彼はす
でに一六五七年の秋から日本で働いていたはずである。残念
ながら、ブヘーリョンの日誌にはトンブの名前が見られない。
上記の任期三年の契約更新によりデ・ラ・トンブは、上級外
(刃)
科医として四五ギルダの月給を得た。一六六○年、日[の①の房]
同煕22が江戸へ行っている間、ピーテル・ヤコプスは出島
の呂胃貝豐吊言ヨ鳥色を担当するという記述から、デ・ラ・
(帥)
トンブは引き続いて日本で活動していたと分かる。尚、洋学
史事典に見られるコルネリス・ムロックは下位商人と倉庫管
(帥)
理者(昌呂①。99)を勤めていたことになっている。
陰門自C員皀禺闇[②①目]アムステルダム生まれのアルノウ
ト・ディルクスゾーンは、一六六三年にバタヴィアに到着し、
一六六六年一○月から日本で勤務することになった。商館長
日誌の数ケ所にが挙げられている彼の名前(シgo員目鼻の①》
ど己○三目『厨》P①昌○巨貸目鼻⑳g)を見ると、恐らく正式な名
(魂)
前は少目○員目鼻間[○○口]だったと思われる。一六六八年一月
二一日彼は医師瀬尾昌琢のためにあの有名な証明書を発行
(剛)
する。ディルクスゾーンは出島で一六六九年一月九日遺言状
を書かずに、体をむしばむ病で(①g且斥①閏①且①農、胃の)死
亡した。翌日、奉行所から来た二人の検士が死体を「湾の向
(剛)
こうのオランダ墓地で埋葬した」。
旨C涜鵠旨胃①①コモイセス・マローンは一六六九年から上
(蹄)
級外科医として出島におり、一六七一年一月一日夜から二日
にかけて出島で死亡した。それまでの二、三ケ月は病気で、
体が麻陣していた。彼も「出島の向こう岸のいつもの墓地に
(柵)
運ばれた」。
の①胃凰&困儲鼻(困画鼻)名前からはドイツ出身と思わ
(師)
れるゴットフリード・ハークは若い薬剤師であった。薬草の
専門家と蒸留者が求められていたため、彼は一六七○年日本
に派遣されたが、日本側はより経験の豊富な人を期待してい
(洲)
たようである。
弓冒弓因国届冒薬剤師のフランス・ブラウンは一六七一年
にハークの後任として「チュールペンブルッヒ」号(弓巨冒①国‐
(柵)(帥)
官侭写で長崎に到着した。彼は一六七三年まで出島にいた。
シ骨旨の冒解風青宍胃号臼砺アドリアーン・ストライケルス
ベルッヒはロッテルダムで生まれた。一六七三・七四年に日
本で任に就き、七四年末にハーゼンベルッ上号(国閉①号の侭写
でバタヴィアヘ向かった。そこでは、アルベルッス・ボップ
(津守①『目⑭胃g)が八月一三日に死亡してから砦の上級外科
医の職が空席になっており、ストライケルスベルッヒはその
(卯)
後任に指名された。一六八二年四月八日に彼は砦の医局長に
なっている。一六八四年六月六日には上級商人になり、この
地位に彼は少なくとも一六九六年まで就いていた。一七○二
年まで公衆衛生業務の長をしていた。その一五年間に彼が外
(兜)
科医から上級外科医に昇進させたのは三人だけだった。
君筥①冒困員目色目ヴィレム・ホフマンは、一六七一年に日
(師)
本に来て、続けて五年間も上級外科医として勤務していた。
一六七二年一二月一七日ホフマンは「筑後殿」の医師に証明
(94) 412
害を発行している。この「89日」はニハ七二年二月二六
日から外科学と油類の蒸留法を学び、「殿様と他の日本人に対
してその学識が強調できるように」証明書の発行を依頼した。
(弧)
残念ながら、この証明書は行方がわからない。
一六七六年の商館長日誌には、「同時に上級外科医も勤める
下位商人」という記述があるので、ホフマンが商人への転向
(蝿)
に成功したことが分かる。この年、彼は病気のため江戸へは
(%)
行っていない。尚、一六七四年一○月から一六七六年一○月
まで出島に滞在していたヴィレム・テン・ライネ博士は通常
(W)
の藺館医ではなく、別枠で日本へ派遣された人である。
閏①冒号旨宍①意ヘンドリック・オベーは「新ネデルラン
ド」(z①雪国○升?)出身で一六八三年夏に上級外科医として
来日し、日本側の要請により一六八四年秋以降、さらに一年
留まることになる。一六八五年にはしかし下級商務官にな
(蛇)
った。クラフトによれば彼は一六八六年には日本を離れなけ
ればならなかった。一六八九年には東南アジアのセマラング
(”)
島あのョ四国畠)の総督になっている。一六九五年にはヤパム
島の管理官になり、一六九五年九月二○日に商務官に昇進し
た。一六九六年一月二五日にバタヴィアヘ戻ったが、そこで
問題が起きたようである。同年三月一日に改めて行政官とし
てヤパムヘ派遣されたときには、報酬や地位の「待遇改善」
を条件にした。ここで彼のキャリアは終わり、昇進も昇給も
(Ⅲ)
なくョIロッパヘ帰った。オベーの名前は商館長日誌の所々
(Ⅲ)
で見られる。
冒旨国胃篇房園[cc己当時のラテン語指向により、ヤン・
バルテルスの名前は旨己国閏邑の四呼己①呂只宮のと綴られるこ
とがある。添え名の冨巨&冒吊(つまり恵まれているもの)は
幸福な生活を暗示している。バルテルスはまず一六八○年に
三年の予定で来日し、二度目の滞在期間は一六八六年から一
六八九年だった。なぜ彼はあれほど管理されていた出島商館
での生活に、一七世紀のどの外科医よりも長く、七年間にわ
(伽)
たって耐えられたのだろうか。
「スティビン」江戸時代の写本にはよく「スティビン」の
名で現われる。これはヤン・スティペルだという説もあるが、
日本語での表記は元来の発音とはかなりかけはなれている。
おそらくステファン・デ・ラ・トンブ(聾g冨自月面弓○ョ房、
つまり昌用牌閏陣29)のことではないだろうか。
「コルネリス」これはコルネリス・ムロック(9目①房国.
冨巳〔)。ごとされてきたが、オランダの資料ではムロックにつ
いては商人としての職歴しか見当たらない。たとえばコルネ
リス・ステフェンスゾンかコルネリス・デ・ラーベルだった
かも知れない。
「伊保宇」、「多阿須」亨保三年(一七一六年)の「阿蘭陀
(川)
外科和朝世系之図」では加須波留(8mg『粋冨日胃侭国)、須
庭賓(聾のぐの旨)、阿無須與利安(国目旦こ『旨の自国目鼻。)、阿留
曼須加津国の『日曽巨の宏蝕罰)、阿留能登(胃。○昌皀『具闇・)と
二三の問題点
(95)413
並んで「伊保宇」と「多阿須」の名前も挙がっている。他の
名前が特定できる以上、最後の二者についてもこれまで知ら
れていない外科医だった可能性がある。
「ハルム」桂川甫築の繕生室医話(巻一)ではその書物にっ
(Ⅲ)
いての説明の中で、オランダ人の名前が挙がっている….:。
「寛文元辛丑九月四日従鎮信公長崎御奉行黒川與兵衛殿江
御頼下拙阿藺陀外科稽古ス其時ノ師匠ハハルマンスカッ
ッカビタンノ名ハデレキハンリイルト云同二年寅正月廿
六日右ノメストル江府江参向二付下拙モ参候此ハルマン
スハ阿蘭陀ニテモ名人ノ由カビタン云ナリ此メストルニ
ニ年附添其後代リニダンネルト云メストル来朝スカビタ
ンヲインデレキト云又其代リニハルムト云メストル来朝
スダンネルニ三年パルム一二年都合六年ノ間通詞各立合
吟味ヲ遂ゲ右雨師ノ印可井通詞ノ連判ノー巻二稽古ノ目
録箇條委細有之也夫ニテ其品々ヲ見合可有事凡阿藺陀江
的傳卜云事ハ曽テ難成事ナレドモ太守ノ御逓寄相叶所也
又此耆ハ師匠江此方ヨリ問懸通詞二和ケサセ書集蛍仕立
素下愚無学短才ナレバ文章更不宜然トモ全ク無違説也其
慥成所ヲ愚息二知ラセン為二言キ記ス也更二他人之見二
一同九月ニダンネル江白銀十枚帰帆二又十枚樽一荷肴一
箱 白銀三十枚御使野口小右衛門
アラザレバナリ
一右ノ師禮二寛文二寅九月廿三日歸帆ニハルマンスヘ
一同卯九月ニハルム江白銀十枚都合白銀六十枚太守ョリ
遣ル者也
旨二天和三癸亥五月雨中法橋甫安春育五十一歳ニテ改害
之子甫安景富愚息江附属スルニョリ四十七歳ニテ書籍上
中下三冊二改害之」
商館長と外科医の名は出島商館の記録と合っている。寛文
二年九月二三日(一六六二年二月四日)の日付も信頼できる。
二月五日にはリールe閂)と任期を終えた部下が旅立って
おり、外科医「ハルム」令里見)の存在を疑う理由はない。
「ハンス」宗田一氏所蔵のカスパル流猪股伝兵衛系の相伝
証(元禄七年、一六九四年)は「紅毛医渡扶桑之衆」としてカ
スパル、ステヒン、アンスヨレアン、ハルマンス、ヤン、コ
ルネリス、カツ、ハンスの名を挙げている。このリストで初
めて現われるのはハンス(函四コの)で、おそらくドイツ語圏の
(Ⅲ)
出身者と思われる。
(96) 414
文献
(1)大烏蘭三郎「藺館日誌の医史学的研究」・日本医史学雑誌、
第一○巻第一号、昭和三七年(一九六二年)、二~一六
頁。大鳥蘭三郎「蘭館日誌の医史学的研究」。日本医史学
雑誌、第一○巻第二、三号、昭和三九年(一九六四年)、
一~一二頁。服部敏郎『江戸時代医学史の研究」吉川弘
文館、東京、昭和六三年(一九八八年)、三三○~三三八
頁。日蘭学会編『洋学史事典」、雄松堂出版、東京、昭和
五九年(一九八四年)、付表三。
(2)オランダの国立中央文書館(ど鴨目の①邑国房の閏。冨呉印”
の国く①。冨帰Ⅱン宛シ)の資料についての略号はシ詞P胃.
三画』ゞz&曾訂己陥甸肖8昌盲冨邑Ⅱz国十番号。出
島商館日誌の資料にはさらにロロを付記するⅡz国十
番号ゞロロ十日付、またはシ詞シ』・言・己、オランダ東イン
ド会社はく○○十番号。その他の資料については5凋閨‐
鴨口巨ヨョ関を付記する。
(3)「○g①胃言『昌四旨冨里目のQ○房の巳は日記の引用箇所
にのみ見られる。z国・ロロ騨届.屋急ゞ目・]・屋台・匡嵯.
届ミ等など。
(4)この外科医もクロウセンかも知れない。彼は江戸参府同
行者として一八タイルの特別手当を得た(z国匡霊》
罰陥冨三目鴨晟ミ酉窪停①g国胃豆閏)。また日記の他の
箇所ではただ「の寓目品言」とだけ記されている(zご倉
ロロ圏障尽急・沼.崇屋岳〕農&自登等)。
(5)この「O三目侭言」は常に職名で現われる(z国sゞpp
P騨晟ちゞ鴎・~圏.酌届ら等など)。
(6)zご争いロロ鵲』.届9石四9円粋冨ヨウ巨侭のユ。ロロ屋.
巨・屋印つ青三の再匡狛宣言○四の口のHの、ずぃ口舌①円いの己。シヤムベ
ルゲルの生涯について以下の論文を参照(a)W・ミヒ
ェル「出島蘭館医カスパル・シャムベルゲルの生涯につ
いて」「日本医史学雑誌」三六巻三号、二○一~一二○頁、
一九九○年(平成二年)。(b)W・ミヒェル「カスパル・
シャムベルゲルの「弔辞」について」『日本医史学雑誌」
三七巻四号、一四三~一五一頁、一九九一年(平成三年)。
(7)京都市稲葉神社所蔵の「永代日記』による寛文元年三月
四日(外科あるまいすかつ)。
(8)外科医カツは河口良庵に遡る「阿蘭陀外療集」、巻四(慶
応大学医学情報センター蔵、乞鰐里○幻‐この中で見られ
ブ(》O
(9)z甸]認》ppm・巨・晟亀(目[①①m房]『ロ四三の一瞬口の。一旦○℃ロ①『
ⅢⅡ○壹弓ロ”ご己)
(皿)z蜀]認・ppm.巨.晟忠(P耳四ゴ鼬ョぐ四口尿の号のロ.○国Qg
ⅡⅡ○ず吋匡[R]ぬ弓旨〕)
(u)z甸]司々ロ口曽.g,晟昆S四三里団匡印の壷○でロ①月巨昌同,
哩旨》国の昌国口巨mご房閂宜閏呂さ)
(咽)z甸当弓》ロロ巴・己・屋困e画昌の一mこののごCpRRご冒弓
哩冒、国囚冒曽昌のく尉閂彦閏昌目)
(過)一六五五年一月二一日、ブッシュは、平戸侯により長崎
に勉強のため派遣されていた嵐山甫安に証明書を発行し
た(平戸観光資料館)。z国認》ロロ馬②.勗霊e四口邑
国こめ○ごg〕胃匡司四一三
(M)ヴァン・デル・ヴェステは一六六八年から出島の下級外
115 (97)
(皿)
ヘハ印ヅー
〆勺IL』
、八M〕一
一○ノム』
へへへ
181716曹菅…
(喝)
へへ
2524……
(湖)
(羽)
(塊)
科医であった。z国麗ゞロロ畠.障扇弓(Oagg吋昌唱旨
雪里[巴門く画。・閏くの輿里
z甸]望》ロロ騨房届昌(○ロロ①門の三『二吋哩旨三○耐Oの
三[四門○○コ)
z蜀]、少己口匡.刃ご
z司]謡ゞロロE・画屋忌宙ロで○号①の穴国司『四口の団吋豐昌)
z司当認.ロロ園』.屋認(言[の①里①]叶夛三一の冒国○索日四口
①邑○四]mQの尉扁目庁○○吋己巴酎伊冒日ロ里
洋学史事典による。
z句]、ヨロロき』.晟理さロでの『、三『匡吋唱旨二三行目
国○時計ロ四コ)
z甸]謡ゞロ口晟.届.岳忌)弓.届.晟塁》ら・津忌引》旨・陣
忌引ゞ囲い.畠計》ごい、届鼠望・い畠計等など言三房盲目
目のロ詞冨旨巴
一六七六年に職を変え、日記には「○己の異O8g智]二三,
一の目国○ヰコ回己」と記されるようになるが、「同時に上級外
科医の職にも就いていた」(z国窓》ロロ瞳.]』雪e
z甸]、鱒ロロ鰐]・晟司穿弓』・晟司動画吟戸屋司・弓』・
』の『の暫四吟.』.]つ『の〕画一.↑。』m「の》図画.今.胃、『②〕画』.』.胃の司句》函、。《.
晟認等などつ言房里目弓の己詞巨旨巴
洋学史事典による。
一六八五年一○月一八日にクローンが原三信にオランダ
外科の免状を与えた(現在は福岡市、原家蔵書)。
z甸〕己野口ロ口巨.屋窓さ己己囚日①閉扁引]四国陣○冨亘四己.
z句]弓輿ロロ畠◆屋.屋窓(○℃ロ①『日①①輿①【]四口⑳8戸日四三.
z甸]邑興ロロP届.屋窓色四.陣○天日四コ○℃で①月三目引唱‐
言).z甸]己興国口争』.届宕(○つで閏ョの①異閏]巴〕聾○家
ョ画己.z甸当]g》ロロ己函.晟宕(○℃での『ロー①①鴬①]『盲口
碑○戸目四己.z句]呂巽ロロ圏&、屋宕(○℃で9o三『巨門哩甘
]四目m庁○穴『己四三)
(”)シ宛P》z甸]]sゞロロ圏.巨・晟宕(○℃R月三司昌哩言両皀‐
ぬ①弓①耳〆の昌耳閏)》雪②.晟留(○壱℃の『ヨの①の房H【①.5ゴ閏)》
ぷふ.晟宮(○℃己閏呂旨吋哩旨両国猶①房の再穴の国目彦匡ユ
(魂)P”シz甸]]sゞロロ$.旨.畠臼(ョのso扇同ロ開き[閏嵜
【のロぢず①ユ》函唖・晟冨さでロ①『日①①の扁門両口函①一宮の嗅弄①目,
でゴ臼)》弓函.届縄aogoR【のヨロゴの『)〕易い.忌縄aogoR
【①目耳の『)ゞ曽上.届褐(目○コの[厨己氏尿のヨロゴ閏)
(羽)く○○匡匡烏昌.屋号面のロ閏巴の目凰朋弓①》罰四国く賦匿.届.
]つい吟)
(鋤)丸い肉豆蒄は「女性」、長いのは「男性」と見なされてい
アーO
犬
(訓)z句]令駕》ロ堂?些侭(ナイエンローデからムイゼルヘ
の書翰、閏国号曽馬屋ご)
(犯)z国畠画〕壱虐甲と踵、ナイエンローデからムイゼル他
への書翰(国耳目○司.].晟巴).z国畠騨壱堂ヤム急、ナ
イエンローデからヤンセンヘの書翰(闇国号『」」認二.
z国あいも.急?上段、ナイエンローデから台湾のプット
マンスヘの書翰、勇国目勗.幹屋筐).ョ-ロッパヘ送ら
れた次の写しも参照。く○○匡急胤巳匡更ヤンセンから
ナイエンローデへの書翰)○段冨忌』』露ご々さ一・巨等
(ヤンセンからナイエンローデへの書翰)○路冨“』
晟曽)↑ざ一』己(ヤンセンからナイエンローデへの書翰)
416(98)
○囲天皿岳』』露二さ一.届言(ヤンセンからナイエンロー
デへの書翰、○の巴臼鵠.]・扇曽)
(翌アーレンッについては金井圓「ヘンドリック・アレント
センとヤン・フォスの五島探検記」、「日蘭交渉史」思文
閣出版、東京、昭和六一年(一九八六年)、一四五~一五
四頁参照。
(劉)ぐ○○巨巨》さ].]烏す
(弱)く○○匡匡ゞさ一・匡号両の。①H巴の『己の鰹ぐ①》国四国ぐ国瞳.届.
骨、函渠)
(鍋)永積洋子「平戸商館の日記』第二輯、岩波書店、東京、
昭和五五年(一九八○年)、二一、四○、一六四、五二六
頁。
(師)z可]鹿いざ』L弓(ナイエンローデからヤンセンヘの書
翰、冨国号腿.幹岳曽).z国岳蝉さ』娼包(ナイエンロ
ーデからヤンセンヘの書翰、閏『且○韻印.勗曽)
(銘)z国あいざ一ムョ(ナイエンローデからヤンセンヘの書
翰、雪函§麗塵」露ご
(調)z甸]お国〉ず一・孟霞(ナイエンローデからヤンセンヘの書
翰、閏国号囲L』$ご
(伽)四口の$〕]。F、ぐ巴]○用国二三.画、、弓の》四○国目掲出○
(①Q)”ロ①口四晦吊唱牌①届く巴〕}〕倶歸四里①堅いの里四国巳聾
弓皿冒四.晟患l屋s・舅z言○魚〕の‐の国くg冨照ら霊も.
↑つつ
(似)Cいい胃①哩里閏団卸国ぐ量》腿』白露算国.弓.○○一①岸号国目,
Qの同ロ四m亨罰①哩里のH館の壷○匡旦の。戸三○四の吊里団、国く]四・
ゞ印‐の国ぐ①ロゴ勉噸①屍韻球.ゞショ己屋鹿‐屋堂・ロ匡霞.
へへ
5453…
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4342…
z司]望》ロロg◆閏.巨」塞司
く○○匡麗“馬・障畠圏》巴.弾屋路》刃卸晟認.騨鈩届葛、
PP屋路.く○○]畠岸g・騨屋窓.届』.屋患》舌.崇展$.
、‐、‐」のい④】]↑.の.胃、唖C〕いい‐の.』、四℃や“』‐の‐』のいや
醇幻シ》⑦巳房具さご聾どのの厨》ぐ四.く屋里)のロ①の×》冨曽昌尉}
zp司屋.届.晟怒
団盲め$、ぐ四コ○℃、国一二弓の》四○》ロ《言
z甸]閉〕ロロ曽旬.届$
z国]興ず一・弓
z甸当回さ]』ご
Z弱]卸さ一.]ご
z甸]卸さ]勒さ
z司]画甘冒印舎
z句]閉.ロロE&.晟含ゞ縄.己.晟邑(宕昌国四]国①易の,
三国、四号耐ユ.z司]認》ロロE』・屋庵(、宮同pH唱旨旨‐
ユ卸①ロ国の目の里ヨ㈹三.z司]認〕ロロ圏わ.届お(○℃でgo三吋‐
匡吋唱言ロー①の⑦扇]〕‐]屋『旨。函。。の巴冒函三.z蜀]認)ロ己昌わ.
晟造青三閉口H哩旨旨吋画四〕国のご用]旨い三・z両]認ゞロロ岳.
P晟堂(の言昌同哩旨岩国、①】]国①己の座ヨ、三.z司]認.ロロ
展わ・畠堂(のご禺匡H哩旨当匡月冨①。出四勗里言い三.z句〕認}
ロロ画.弓.届造(o三目[己唱旨.房員旨①自国①己の里冒脆三.又は
国・弓・og①邑耳四口Q①司口、”ゴカの唱の扇『ぬ①苛○巨・の。昌庁○四‐
牌の堅国四国ぐ国》)甲⑦司四ぐ①ロゴ四m①屍》魚島画鈩吟晟四司色早
円畠の邑困の口開一言いご
z蜀当旨③い〕詞の①宍①三コい①』窪聖堂ロ①匡崗園①口出の口印①一冒噸ご
z甸]仰ぎ一ふき合○ョ里尉凶.聾①ぐのロ関・)
417 (99)
(弱)
(髄)
(W)
(記)
(弱)
(帥)
(師)
ヘ4川孟ノ
ーハ恥U』
(鮪)
(銘)
(舵)
(団)
(髄)
z句]匡臼》罰①の六①ご言いの扇烏産いあ扇ぐ①。ゆず、吋豆のユ
z司]卸さ一.届
z甸当巨簡…詞の①六①.旨いの』霞望堂二①巨門国①。津の。の座旨”ご
z句]卸さ}.超す
z句]雪.ロロ鈩己.晟畠青ご頁再狙旨○日づ里厨の扇ぐの巨闇・)
z甸]匡忠・罰の里冷。旨い①]置菫おち○吋自里尉国聾①く①ロの
○℃ロのRの冒胃匡司姫一一口)
P詞シ].言.房》評冨gの砂○匡号○異⑦ロ(船員の賃金支払
簿)z○.闇認
ケンプフの家族についてはランダウ市史料編墓所の厚
夛{四風言による。
z甸〕匡霞ゞ詞の①一《①邑旨媚の]詮望急合即『里穴の自己彦ぐmご
F四コロ四口言国四門ず席ユ
z国輿甘一◇認又はざ一面g
z国卸さ』.急ご○言自己の⑩弓言邑又はき一‐g色呂画自己①⑳
一ごこごめnヶ)
ヨミ言国ロロ.両.○.“両曾]穴○風国隅天ユ或昌口媚琶己で弓3日吊
詞の隅g’○nヶも閂①四三罠]g昂『肘四昌冒【○国匡邑㈹画ユ菩里
]四壱四口[…]ジョの旨Qご○侭》ど旨○三口○F浅〆目ご》ロ忌吟
一六五二年の商館長日誌には彼は「、三『昌唱旨」とだけ記
されている(z司]詔》ロ己匡.騨畠畠》圏上,晟紹》E,刃
忌紹等)
z蜀〕認ゞロロ展&.勗設言の①言〕[①の異①]局]○画四三コのの
弓巨房の三。洋学史事典に記載されているヨハネス・ステ
ィデン(旨冨ロョ朋陣己g)についての資料は見い出せな
かった。
へへへ
777675ーー曹
へへへへへ
7473727170… … … … …
へへ
6968…酋
(別)
へへ
8079……
(沼)
z司]興さ]函“ず
z国3》ロロ弓』.届圏贈&.孟認ひ』屋認等。z国爲
ロロ屋函.忌望青豆目侭一言百コ陣冒里).また目画・晟望ゞ刃
唖.]つ、一昔』つ◆い、]③切娼
z甸]卸さ].麓ヴ
z句]興さ].$
z蜀「露.ロロ祭吟忌引
z甸]卸さ].房
z国]宙》さ].(旨異同屋gろく○○Hg①g己閏の○○豆巨富Qのロ
○○国昂二間言三○o戸四】詞○座智己Q①○四s四邑閏・Z印伽四囲‐
天]』岸].]つつつ)
z甸]卸さ』.誤ず
z甸]ごゞさ]』凱
冨○三国ごロの》P典ロ①ロ、冨貞一己侭の⑦の囲弓昌將彦呉津の。Q閏
○輿Ⅱ冒巳閂彦①己⑦①陥二肖彦画津言旦のロく閏①旨侭扇。
z耐ロ①ユ叫邑・のH己四目ロ具の耐、三の皇荷茸の〆の琶陥【ぐ○コ]四己四口
言の○ず巨①匡耐・P日里の己曽己畠己・ロ詔や
z甸〕$》ロロ届.騨屋段》晟.函晟認.く智肖・go言誌》]・P.
希Q)“ロ四伽ゴー詞の唱輿の門、のぎ○巨旦臼〕一三○四鴛①里国四国ご国
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『四。』』印。]可④
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京都大学付属図書館蔵。
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(川)岸本裕「本朝和藺陀外科所謂カスパル流外科の本朝史
料」。日本医事新報、第八○二号、昭和一三年一月二二日、
三三一~三三二頁。
(皿)桂川甫築の繕生室医話、巻の一、五頁(京都大学富士川
文庫セー183)
(咄)宗田一「日本医療文化史」、思文閣出版、京都平成元年(一
九八九年)、一二七頁。
(九州大学言語文化部)
(102) 420