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追手門学院大学文学部紀要30号1994年12月30日 教授メディアとしての『世界図絵』 井ノロ “Orbis sensualium pictus" as the Teaching Media Junzo Inokuchi コメニウス(Comenius, Jan Amos Komensky 1592-1670)がその名をヨーロッパに知られる ようになったきっかけは,『言語の扉』(1631年)の出版によるものである。この書物は初級者 1) 用のラテン語教科書だが,それまでには見られなかったさまざまな工夫をこらしていた。それ によって『言語の扉』は,出版直後から画期的な教科書として迎えられ,ヨーロッパのすべて の言語,及びアラビア,トルコ,ペルシャ,モンゴル,ムガル,アルメニア等の言語に翻訳さ れた。 ところが,『言語の扉』は17世紀の末にはもはや関心を持たれなくなってしまった。これに 対して『言語の扉』の挿絵付きの改訂版とも言える『世界図絵』は,その後200年間にわたっ て実際に教科書として使用されているのである。その違いは,やはり『世界図絵』には挿絵が 付けられているということが大きく作用している。 このことからも『世界図絵』の教育的意義について考察する場合,挿絵の分析を欠くことは できないはずである。これまでの研究において『世界図絵』の内容や挿絵が時代によって変化 していることは,断片的ではあるがすでに指摘されている。我が国における先駆的なコメニウ ス研究者である故梅根悟氏は次のように述べていた。「……教材も時代とともに誰かによって さしかえられ,たとえば一九世紀になって汽車ができると,汽車という新しい課が加えられた 版が出るようになるというようにして,さまざまの版が出され,数百年にわたってヨーロッパ や南北アメリカでラテン語の初等教科書,あるいは国語のそれとして用いられてきたものであ る。およそ教科書でこれほど世界共通に用いられ,しかも長い生命をもったものは他に比類が 3) ないであろう」。また江藤恭二氏は「一七二〇年のラテン語・ドイツ語版になって,初めて新 しい挿絵が取り入れられている」ことを指摘し,「挿絵を根本的に書き加えた版」として1755 -239-

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追手門学院大学文学部紀要30号1994年12月30日

教授メディアとしての『世界図絵』

井ノロ 淳一

“Orbis sensualium pictus" as the Teaching Media

Junzo Inokuchi

は じ め に

 コメニウス(Comenius, Jan Amos Komensky 1592-1670)がその名をヨーロッパに知られる

ようになったきっかけは,『言語の扉』(1631年)の出版によるものである。この書物は初級者

                                        1)用のラテン語教科書だが,それまでには見られなかったさまざまな工夫をこらしていた。それ

によって『言語の扉』は,出版直後から画期的な教科書として迎えられ,ヨーロッパのすべて

の言語,及びアラビア,トルコ,ペルシャ,モンゴル,ムガル,アルメニア等の言語に翻訳さ

れた。

 ところが,『言語の扉』は17世紀の末にはもはや関心を持たれなくなってしまった。これに

対して『言語の扉』の挿絵付きの改訂版とも言える『世界図絵』は,その後200年間にわたっ

て実際に教科書として使用されているのである。その違いは,やはり『世界図絵』には挿絵が

付けられているということが大きく作用している。

 このことからも『世界図絵』の教育的意義について考察する場合,挿絵の分析を欠くことは

できないはずである。これまでの研究において『世界図絵』の内容や挿絵が時代によって変化

していることは,断片的ではあるがすでに指摘されている。我が国における先駆的なコメニウ

ス研究者である故梅根悟氏は次のように述べていた。「……教材も時代とともに誰かによって

さしかえられ,たとえば一九世紀になって汽車ができると,汽車という新しい課が加えられた

版が出るようになるというようにして,さまざまの版が出され,数百年にわたってヨーロッパ

や南北アメリカでラテン語の初等教科書,あるいは国語のそれとして用いられてきたものであ

る。およそ教科書でこれほど世界共通に用いられ,しかも長い生命をもったものは他に比類が

      3)ないであろう」。また江藤恭二氏は「一七二〇年のラテン語・ドイツ語版になって,初めて新

しい挿絵が取り入れられている」ことを指摘し,「挿絵を根本的に書き加えた版」として1755

                    -239-

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                教授メディアとしての『世界図絵』

        4)年版をあげている。しかし,いずれの場合にも挿絵の変化を検討することが論文の主題ではな

かったこともあってか,挿絵が具体的にどのように変化しているのか,またその理由としてど

のようなことが考えられるか等については詳しく論じられていないのである。そこで本稿では

『世界図絵』における挿絵の持つ意味について考え,各版の挿絵の相違について検討する。

L写実的な図柄

 教育の手段として絵を用いるというアイディア自体は,コメニウスの創意によるものではな

い。カンパネッラは,理想の国である「太陽の都」で「どの環状地区の内側の周壁にも外側の

周壁にもことごとく,また上部の防塞部分にまで,あらゆる学問を絵に描かせ」ている様子を

記述していた。これは1623年のことである。

 それでは『世界図絵』の挿絵の独自性は,いずれに認められるのであろうか。これについて

              6)はアルトの研究が注目される。アルトは,『世界図絵』の挿絵の図柄が中世の書物にみられる

同様の題材のものとくらべてはるかに写実的であり,実際の自然観察に基づいたものであるこ

とを具体的な例をあげて説明している。そして『世界図絵』が最初の絵入りの本ではないとし

ても,自然と社会の実際現象に忠実な挿絵への転換をはかったのはコメニウスであったと主張

するのである。アルトはまた,『世界図絵』における身体器官の図をとりあげ,それをドイツ

の医学書の挿絵と比較してその由来を証明した。さらに,社会生活上のテーマに関しては,

1568年に刊行されたヨースト・アマンの木版画とハンス・ザックスの詩による(身分と手職

 7)の本』における表現との類似性を指摘している。

 ところで,この『世界図絵』の挿絵の作者に関してはさまざまな説があり,今日まで確定し

    8)ていない。コメニウス自身の関与について言えば,彼は原案を見た上で「4 火」を初め幾つ

                                          9)かの項目についていっそうリアルな図柄に変えるように注文をつけたと伝えられている。

                瓦各版の挿絵の比較

 『世界図絵』の異版本は,これまで260種類以上に及んでいる。 1658年の初版刊行以後330

年以上も経過しているのであるから,その挿絵にもずいぶん異なったものが見られる。挿絵に

使用された木版は,くりかえし印刷すると磨滅するので,同じものを何度も使用することがで

きない。新たに出版する際には,以前の版の挿絵の図柄を踏襲する場合も多いが,時代や地域

の違い,編者の考えによって異なることもある。ここではそれらの中から時代の隔たったもの

を幾つか選び,図版の意味について考えることにしよう。ここで比較の対象にするのは,①

                            II)1658年にニュルンベルクで刊行された初版本(1978年の復刻版), ②1777年にロンドンで刊行

                    o/in

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                 井ノロ 淳 三

              12)された英訳版(1979年の復刻版), ③1833年にフラディッツィ・クラーロヴェーで刊行された

                                     13)ラテン語-ドイツ語-チェコ語-ポーランド語-フランス語の5カ国語版である。この版を選

んだのは5カ国語版というきわめて珍しいタイプのものであることによる。5力国語版という

のは18世紀に刊行されたおよそ100種類の異版本の中でもわずかに1種類しかなかったし,

19世紀においてもほとんど見られない。また発行された場所がプラハの近郊とはいえ地方の

町であることも珍しい。それまでの版の多くは,ニュルンベルクで印刷されていたのである。

そしてこれと同様の図柄は,プラハで1991年に出版された版にも見られる。この1991年版は

チェコ語-ドイツ語一英語-ロシア語の4カ国語版であり,ラテン語の含まれていない数少な

     14)い版である。 ただしこの図柄が登場したのは1833年が最初ではなさそうで,プラハで最近出

版された廉価版から推測すると,すでに1720年のことかも知れない。 というのは,この廉価

版は1883年の色彩画の版本を部分的に復刻したものなのであるが, 1720年の木版画も「79

鏡」「84 車両」「91 書法」「93 印刷術」「125 犯罪者の身体刑」「131 奇術」「136 少年

の遊び」の7点が収められており,そのいずれも1833年版とよく似た特徴を示しているから

   15)である。

 次に図柄については, 150の項目の中から「93 印刷術」「97 学校」「Ill 勤勉」の3項

目を選んだ。前の二つは「メディアと教育」という本稿の主題に関連性の認められるものとし

て選び,後の一つは目には見えない抽象的な内容をどのように図絵で表現しているかを検討す

るために選んだものである。

 それではそれぞれの図版を比較してみよう。まず「93 印刷術」の項目である。1658年版

(Ill1)では,左側に印刷機,右側に活字ヶ-スがある。働く人は3人で,部屋に窓はない。

1777年版(図2)では,印刷機が右側になり活字ヶ-スははっきりしない。働く人は4人で窓

が二つ見えている。 1833年版(図3)になると,活字ヶ-スが奥の位置に二つ見え,働く人が

7人に増えている。窓も三つある。

 このように働く人が3人から4人,あるいは7人へと増加していることや,窓のない部屋か

ら窓が2個,もしくは3個へと増えていることから,作業の規模が大きくなっている様子がう

かがえる。また,初版では手前に植字工の姿が描かれているのに対して,後の版ではいずれも

印刷機を操作する印刷工が前にきている。これも時代の変化によって仕事の位置づけが異なっ

てきたことの反映であろう。

 コメニウスは印刷術の発展に大きな関心を抱いており,『世界図絵』においても「91 書法」,

「92 紙」,「93 印刷術」,「94 本屋」「95 製本屋」,「96 本」という具合に幾つかの項目を

それと関連する内容の記述にあてている。教科書の使用を中軸とした教授法の改革という彼の

構想も,当時の印刷技術の進歩と無関係ではなかったのである。彼は『大教授学』においてた

びたびそのことにふれているが,とりわけ「第32章 ごく精密な・学校の全般的秩序につい

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教授メディアとしての『世界図絵』

図1 1658年版

図2 1777年版

図3 1833年版

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井ノロ 淳 三

て」では,相当の紙幅を費やして論じている。 コメニウスによれば,「私たちは,教授の技法

を完成させて,今まで因襲的に使われてまいりました教育形式と私たちの新しい教育形式との

間にあります相異が,ペン書きで書物の数をふやして行く旧式の技術と,その後に発明されて

今ではどこでも使われております活字による技術との間に見られる相異に匹敵するものである

ことが明らかになるところまで,もって行きたいのであります」とされる。そして彼は「印刷

術の名前をもじって,この新しい教授学に教刷術という名前を考えても必ずしも不適当ではあ

              16)りますまい」とまで述べている。ここでコメニウスの言う印刷術と教刷術との比較を示すと次

八1 W・_・_-

   印 刷 術              教 刷 術

用 紙         …… 生 徒

文 字         …… 知 識

活 宇         …… 学習者用の教科書と教授者用の手引き書,教具

インク         …… 教師の肉声

圧印機         …… 学校の規律

的確な作業       …… 一人の教師が全部の生徒を同じ教則で教える

印刷の済んだ紙の乾燥  …… 知能の風通し(反復練習・進級試験・競争試験)

落丁の点検       …… 学校視察官の調査,公開試験

 以上見てきたように,コメニウスの意図は,教授=学習に伴う労力と苦痛を軽減し,彼が

「汎教授方法」と呼ぶ普遍的な教育形式を求めるところにあった。印刷術の発明によって,学

識の伝達手段である書物の数が増えたことと同様に,教刷術ないし汎教授方法によって学識あ

る人間が増えること,そしてそのことを通して人間に関する事柄を改善する上にも大きな進歩

が得られることをコメニウスは期待していたのである。『世界図絵』において印刷術に関連す

る内容の項目が幾つも記載されているのも,彼の関心の深さを示していると考えられよう。

 では次に「97 学校」の項目を見よう。 1658年版(図4)では,教師は左側で椅子に腰をか

け,その前に生徒が1人立っている。二,三の生徒は教卓のそばに座って書き方をしている。

その他15人の生徒が右手の長椅子に腰をかけている。生徒は全部で18人である。黒板もすで

に使用されている。人物は,教師も生徒も全員ほぼ同じ大きさで同一平面上に描かれている。

1777年版(図5)では,教師とその前に立つ生徒が教壇の上に大きく描かれ,ふざけて不真面

目な生徒は窓際の後景に移されている。そしてそのような生徒をこらしめるために用いる杖や

笞を手前に配置してよくわかるように描かれている。生徒の人数は15人に減っている。 1833

年版(図6)では,構図が1777年と比較して左右反対になっているものの,教師とその前に

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教授メディアとしての『世界図絵』

図4 1658年版

図5 1777年版

図6 1833年版

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                 井ノロ 淳 三

立つ生徒を大きく描く点は変わっていない。生徒の人数は,初版と同様の18人である。

 このように初版では教師と生徒が同一平面上にいるのに対して,後の版では教壇が描かれ,

両者の間に段差がつけられていること,教師の姿も生徒にくらべて大きく表現されていること,

さらに不真面目な生徒を窓際に移し,他方でそれらの生徒に用いる杖や笞を教卓の上に置いて

いることなどから考えあわせると, 18世紀以降しだいに教室内の秩序が確立され,教師の権

威が保たれている様子がうかがえよう。カーテンや本棚など学校の設備も整えられている。

 教壇について言えば,『世界図絵』の最初と最後に登場する教師と生徒の対話の場面におい

ても,初版(図7)とは異なり,後の版(図8および図9)では明確に描かれている。ただし,

コメニウス自身は教壇の必要性をみとめており,『大教授学』の第19章において次のように述

べている。「ちょうど,太陽がその光線を万物の上に撒き散らすのと同じように,教師が教壇

から動かなければにこにいれば,教師の姿も声も生徒全部の耳に届きます),どの生徒も瞳を凝ら

し耳をそばだて魂をはりつめて,教師が話すこと手や絵で見せてくれることを一つ残らず吸収

     17)するのです」

 また,体罰を否定するコメニウスの姿勢も次の記述から明白である。「うまく行かないと怒

鳴りなぐるような教師は,冷酷無残というよりほかありません。これが青少年を責め殺すこと

でなくてなんでしょうか。………ですから,これからは学問のために鞭をふるうことは,絶対

            18)に止めてほしいと思います」

 したがって,コメニウス自ら挿絵を確認している初版の図絵に教壇がなく,他方で鞭が描か

れているのは,そのことをコメニウス自身が肯定していたからではなく,あくまで当時の教室

の風景をありのままに表現するという彼の考えによるものと思われる。そこに描かれている学

校の様子は,コメニウスの時代の一般的な姿であり,必ずしも彼の理想とするものではない。

『世界図絵』の他の章でもそうなのだが,あるものをありのままにリアルな形で子どもに示そ

うとするのが彼の方針であり,教科書だからといっていたずらに「教育的配慮」をしていない

のである。

 さて今度は「Ill 勤勉」の項目を見ることにしよう。 1658年版(図10)では,勤勉の象徴

である女神が,右手に鎌,左手に鋤を持っている。怠け者が木の下に寝そべっている。 1777

年版(図11)では,左手に持っていた鋤が麦の束に変わり,怠け者が左側の小屋の前で寝てい

るという構図に変化している。さらに1833年版(図i2)の構図を見ると, 1777年版と基本的

に共通しているのだが,小屋の中からロバが顔を出し,怠け者をなめている様子が描かれてい

る。“ノロマ”という隠喩を持つロバにさえなめられている,という表現は,怠け者のイメー

ジを一層強めているように思われる。

 これらの三つの版を比較してみると,初版の構図では両手に道具を持っている。これではそ

れぞれの道具を実際に使用することはできないのであるから,あくまでこれはシンボリックな

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教授メディアとしての『世界図絵』

図7 1658年版

図8 1777年版

図9 1833年版

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                井ノロ 淳 三

表現である。それに対して後の版では,いずれも鎌で刈ったものを抱えて見せることによって,

実際の働きぶりを具体的に示し,勤勉であることのーつの姿を提示しているのである。

 このように見てくると『世界図絵』の図柄の変化の中に,それぞれの時代において何を重要

と考えているか,またその認識をいかに図像として提示するかということがうかがえて興味深

い。同じ文章を用いながらそれを異なった図絵で表現するという作業の中には,メディアの一

つとしての図絵という意識がすでに芽生えているのではないだろうか。

皿 マルチメディア教材の原点

 はじめにも記したように,『世界図絵』は『言語の扉』のいわば「挿絵付きの改訂版」と

いった関係にあるのだが,両者を比較してみると,『世界図絵』では鳥類や動物類,そして食

品・衣服・什器等の製造技術に関する記述がより詳しくなっている。イ也方,学芸部門は章が削

減されているが,それは絵では表現しにくい抽象的な内容の箇所である。章の数では1.5倍に

増加している『世界図絵』において個々の章に関する本文の記述がむしろ簡略化されているこ

とは,それがやはり年齢の低い子どもにも図示という方法を用いて感覚的に理解できるように

配慮された作品であるとみることができる。世の中で子どもが出会う「すべてのこと」を体系

的に教授するという汎知学の理念を実現するには,言葉だけによる教え込みではうまくいかな

い。言葉を具体的な事物と結びつけて教えることが必要であり,その事物を実物で,それがで

きない場合には図や絵という媒体を用いて提示することが効果的であるとコメニウスは考えた。

『世界図絵』の序文において彼は次のように述べている。「あらかじめ感覚の中に存在しないも

のは,何ごとも理性の中に存在することはありません。したがって事物の区別を正しく把握す

るように,感覚をよく訓練することは,すべての知恵とすべての知的な能弁さ,および人生の

活動におけるすべての思慮にとってその基礎をおくことになるのです」。 そして彼は「世界に

おける主要な事物のすべてと,人生における人間の諸活動を絵で表し,命名すること」を提案

したのである。

 『世界図絵』は「世界最初の絵入りの教科書」と言われるが,単に絵を使用しているだけで

はない。絵に添えられているものと同一の数字を文中の述語につけて,両者が同じ内容を表現

していることを示す工夫が教授メディアとしての図絵の効果を高めたのである。このような工

夫を「現在のマルチメディアに通じる」と考えた近藤智嗣氏は,次のような興味深い見解を述

べている。これは「いわば手動でリンクさせるハイパーテキストなのである。もしこの本の著

者であるコメニウスが現在に生きているとしたら,挿し絵の部分に触れると動画が表示され,

解説が各国語で話され,関連情報の聞を自由に移動できるようなマルチメディア教材を作るか

     19)もしれない」

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教授メディアとしての『世界図絵』

図10 1658年版

図11 1777年版

図12 1833年版

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井ノロ 淳一一

 この近藤智嗣氏の発言は,けっして想像の世界だけのものではない。今日のメディアの発展

を反映して, 1992年に開催されたコメニウス生誕400年記念の国際会議では「情報工学と教

材」を主題とした分科会が設けられ,会議場の前のフロアではコンピュータを利用した教育機

器の展示を中心とする「コメクスポ92」という催しも行われ,参加者の関心を集めていたの

である。また,コメニウス生誕の地に近いウヘルスキー・ブロトの博物館では,未来の教室と

いうコーナーかおり,そこでは一人ひとりの生徒の机上にパソコンが置かれ,子ども達が操作

できるようになっていた。

 さて,現在『世界図絵』は,高橋勉教授(早稲E日大学)によってCAI連動の光ディスクに収

                                 20)納され,キーワードによる解読,検索,印字印画化か可能となっている。コメニウスの時代に

は想像もできなかったような新たなメディアの世界が私たちの前に広がりつつあると言えるの

である。

お わ り に

 『世界図絵』について考察しなければならない課題は多い。たとえば,そこでは一つの主題

に関連する内容を一つの章の中にいろいろと盛り込もうとするあまり,実際には同一の場所で

は見られるはずのない別々のものを1枚の絵の中に一つの風景として収めようとする手法がし

ばしばとられている。そのことが,コメニウスの意図した「あるものをありのままにリアルに

伝える」という方針にそぐわないものになりはしなかったかという疑問が生じる。この手法は,

いずれの時期の挿絵にも共通するものであり,この点からも幼い子どもの認識の発達について

の配慮が近年までなされていなかった様子がうかがえる。

 また,『世界図絵』には,子どもにとってきわめて身近で親しみやすいさまざまな事物と並

んで,はるかに遠い異国の,あるいは架空の動物も登場している。この背景には何かあったの

か。「当時のプラハは,ティコ・ブラーエ,ケプラー,ジョン・ティー,ジョルダーノ・ブ

ルーノ,アルチンボルドを惹きっけたコスモポリタニズムの一大中心地であり,マニエリスム

の華やかな都であった。文学,天文学,植物学,鉱物学,冶金学から絵画,工芸,建築に至る

まで,おりとあらゆる文化の粋が当時のプラハに結集されている。そして,このマニエリスム

                             21)の宮廷の支配者こそ崎人中の崎人,憂愁の王ルドルフであった」と言われるように,ハプスブ

                                  22)ルク帝国の皇帝ルドルフ二世の百科全書的な珍品蒐集趣味は有名である。彼のお抱え画家であ

                                   23)るルーラント・サフェリーの「楽園」(1618年)や「鳥のいる風景」(1622年)には『世界図絵』

の原風景とも思えるほどに,鳥や動物が画面一杯に描かれており,そこでは,犬と豹とが,あ

るいは孔雀とらくだとが隣合わせに描かれているのである。『世界図絵』にこうした手法の影

響があったのか否か,興味はつきない。コメニウスの描いた『現世の迷路と魂の楽園』の中の

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               教授メディアとしての『世界図絵』

塔の絵が,ブリューゲルの有名な「バベルの塔」に大変よく似ているのだが,『世界図絵』の

挿絵にもブリューゲルの影響があったのか否か,美術史からも学ぶ必要があろう。

 『世界図絵』の挿絵の木版製作者が,当時のさまざまな書物の図柄を参考にしていることは,

第1節において触れたアルトの研究からも明らかである。太田光一氏も,「14世紀以降『年齢

の階段Degres d'ages』として図像記述の中に定着し, 19世紀初頭まで続いてい」たものと共

通の構図が,『世界図絵』の「36 人間の七つの年齢段階」の挿絵にも見られることを,アリ

                              24)エスの『〈子供〉の誕生』における論証を媒介にして指摘している。

 挿絵の由来を研究することがなぜ大切なのか。ことわるまでもなく『世界図絵』において挿

絵は本文の理解を助けるために必要とされ,本文の記述に則して図示されたものである。した

がって,図絵による表現は本文と一体のものであり,図絵の中にも事物に関するコメニウスの

認識が反映していると考えられる。たとえば,彼が人生の年齢段階を説明する際に,当時普及

していた図を添えているならば,その基礎となる記述もコメニウスの独自な主張ではなく,当

時の慣例に沿った内容をありのままに伝えたものであることが裏付けられるのである。コメニ

ウスの文章が彼自身の理想とする伏態を必ずしも表現しているのではないとしても,そこから

発達段階に関するコメニウスの認識がどの程度のものであったのかについて推察することもあ

る程度可能となるであろう。このような意味からも,一つでも多くの挿絵についてその由来が

明らかになることが望まれるのである。

 さらに,すでに触れた『世界図絵』の改訂事情についても,挿絵の違いと本文自体の違いを

区別して今後詳しく調べる必要があろう。たとえば,本稿では各版による挿絵の違いを幾つか

の章について見てきたが,他にも「37 人間の身体」の章で,女性の下腹部と陰部をおおらか

に描いていた初版(図13)に比べ,後の版(図14及び15)ではいずれもその部分を手で隠し,

「下には下腹部と陰部があります」という文章に対応する数字も絵の中に記入していないとい

う変化が見られる。これなども性的な事柄に対する意識の変化によるものと考えられるのであ

る。

 本文自体の変化について言えば,今回検討の対象にした1777年版には,初版に比べて「7

雲」と「8 大地」との間に「大水」という章が挿入され,ノアの箱船についての記述が加え

られているし,「17 濯木」と「18 動物と鳥」との間にも「植物学」という章が挿入されて

いる。他方, 1833年版では「138 王の尊厳」という章が削除されているのである。もしこれ

                                         25)が何か意図的なものであるとするならば,「中東欧諸国においては,改革の時代となった」と

言われる1830年代に編集・出版されたことと関係があるのかどうか,検討する意義がある。

それはその時々の教育内容がいかなる配慮によって取捨選択され,教科書が編集されるのかと

いう原理的な問題にもかかわる事柄だからなのである。

 この他出版事情にも未だ解明されていないことがある。たとえば,本稿で検討の対象とした

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井ノロ 淳 三

図13 1658年版

図14 1777年版

図15 1833年版

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              教授メディアとしての『世界図絵』

5カ国語版のように複数の言葉が同時に収められている版は,どのような利用の形態を想定し

て出版されたのか,そして実際にどのように利用されたのか,ということなどである。ラテン

語の学習以外に,別の国の言葉を外国語として学習する際にも利用されたのかどうか。もしそ

のようなことがあったとすれば,『世界図絵』の教科書としての新たな可能性への着眼が見ら

れたということになるであろう。

 以上のように残された課題は少なくないが,自然と人間と神に関するあらゆる事柄について

の知識を体系的に網羅しようと試みたコメニウスの活動の困難さを思えば,後に続く我々は,

課題解決のはるかな道にたじろいでばかりはいられないのである。

1)

2)

3)

4)

5)

6)

7)

8)

9)

10)

拙稿「コメニウスの教科書と汎知学の展開」『追手門学院大学文学部紀要』27, 1993年。

Gerhard Michel; Rezeption und Wirkung der Medientheorie des Comenius und seiner

Schulbucher im 17. und 18. Jahrhundert. In : Mitteilungsblatt Nr. 23 der Comeniusfor-

schungsstelle Bochum 1990.

梅根悟監修『世界教育史大系23 初等教育史』講談社, 1975年,47ページ。

江藤恭二「“Orbis sensualium pictus"に関する一考察-その成立事情と史的位置についての素

描-」細谷俊夫編『学校教育学の基本問題』評論社, 1973年, 173ページ。

近藤恒一訳『太陽の都』岩波文庫,1992年, 18ページ。

Robert Alt : Herkunft und Bedeutung des Orbis Pictus, 1970.

アルトのこの研究については,すでに次の考察がある。石井正司「コメニウスにおける直観教授」

『奈良教育大学紀要』21, 1972年。同『直観教授の理論と展開』明治図書, 1981年。江藤恭二,前

掲論文。同『世界子どもの歴史5 絶対主義・啓蒙主義時代』第一法規, 1985年。梅津勝「『世界

図絵』の認識論的基礎」『北海道大学教育学部紀要』25, 1975年等。

小野忠重解題『西洋職人づくし』岩崎美術社, 1970年。

Geschichte und Aktualitat 1670-1970 Band 2, Eine Bibliographie des Gesamtwerkes, 1971,

S. 74.

Alt, a.a. a, S.28.

Kurt Pilz: Die Ausgaben des Orbis Sensualium Pictus, 1967.

Dortmund 1978,4. Aufl. 1991.

この版は初版の復刻の中では図版が最も鮮明に印刷されているものである。

12)Toront01979,Tokyo 1987.

   この版は『世界図絵』の異版本の中では日本の国立大学の図書館に最も多く所蔵されている版であ

   る。井ノロ淳三編『コメニウス関係文献所蔵目録』1992年,を参照されたい。

13)Hradcy KralowS 1833.

14)Praha 1991.

15)梅根悟『コメニウス』牧書店,1956年, 49ページ,に紹介されている1740年ニュルンベルク版の

   「97 学校」の挿絵の構図も1833年版のそれとよく似ている。ここからもそのことがうかがえる。

16)『大教授学』第32章第2節。

17)r大教授学』第19章第18節。

― zoz -

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21)

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               井ノロ 淳 三

『大教授学』第17章第40節。

近藤智嗣「マルチメディア教材の今後」『Multimedia World Feb.』1993 No. 8o

高橋勉他「光動静画ディスクファイルをベースとするCAIシステムの研究」『早大特定課題研究報

告書』1989年。

R. J.W.エヴァンズ,中野春夫訳『魔術の帝国-ルドルフ二世とその世界』平凡社, 1988年,

477ページ。

エリーザベト・シャイヒャー,松井隆夫・松下ゆう子訳『驚異の部屋』平凡社, 1990年。

いずれもプラハ国立美術館所蔵作品であり,「楽園」は,油彩・板, 55×107 cm,「鳥のいる風景」

は,油彩・板, 54×108 cmである。

太田光一「コメニウスの発達段階論」『高知大学教育学部研究報告』37. 1985年, 26ページ。

森安達也・南塚信吾『地域からの世界史 第12巻 東ヨーロッパ』朝日新聞社, 1993年, 152

ページ。

                    引 用 文 献

 本稿で言及したコメニウスの著作は,チェコ共和国科学アカデミーから現在刊行中の全集

JOHANNIS AMOS COMENII OPERA OMNIA (JACOO)を使用した。引用に際しては,章・節の

番号を示した。なお翻訳(*印)を参照したが,訳文は必ずしもその通りではないことをおことわりす

る。

  ○『言語の扉J JACOO 15' Janua linguarum reserata. 1631.

      *The Entry-Doore of Languages unloced. 1643 London.

      *TheGate of the La tine Tongue unloced. 1656 London. にれは第二版型である)

      *藤田輝夫訳『開かれた言語の扉』(私家版)1991.

  ○『大教授学J JACOO 15' Didactica magna. 1657.

      *Hans Ahrbeck : Grosse Didaktik. 1961 Berlin.

      *鈴木秀勇訳『大教授学』明治図書, 1962,

  0『世界図絵J JACOO 17 Orbis sensualium pictus. 1658.

      *井ノロ淳三訳『世界図絵』ミネルヴァ書房, 1988.

 本稿は,放送大学における講義「『世界図絵』-コメニウスのもたらしたもの」(1994年9月6日

収録)のノートに加筆・修正したものである。

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1994年9月28日 受理