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早稲田大学総合研究機構・早稲田大学高等研究所国際セミナー
〔 コ メ ン ト 3 〕
スペイン王国における地域エリートについて 内 村 俊 太
(上智大学外国語学部助教)
ハプスブルク期のスペイン王国の国制を考察する際には、ショーブ氏の報告でも言及されたように、J・H・エリオットによる論文「複合王政のヨーロッパ」(1992年)で示された“複合王政(複合君主制)”という概念が基本とされている。エリオットによると、スペイン王国を代表例とする近世ヨーロッパの複合
王政においては、君主が複数の地域を同君連合によって結びつけ、王権と諸地域の支配エリートの間での
相互契約にもとづく緩やかな統治構造が機能していた。すなわち、王権は各地域における固有の法と特権、
そしてそれにもとづく地域エリートのヘゲモニーを容認する一方、地域エリートはこのような状態が維持
されるかぎりは王権に臣従するという、両者の相互的な協力関係にもとづく近世国家イメージをエリオッ
トは強調した。このような複合王政を維持し、機能させていくためには、地域エリートの自治的な権力を
容認し、各地域エリート層とのいわば“同盟”関係を良好に保っていくことが必要であった。現在のスペ
イン近世史研究では、このようなエリオットの複合王政論を前提としながら、そのなかでカトリック宗派
や宮廷ネットワークが果たした統合機能などが論じられる傾向にあるといえよう。
さて、このようなエリオットによる近世国家に関する理解は1992年の「複合王政のヨーロッパ」論文で
突然登場したわけではなく、むしろ1960年代から積極的にエリオットが発表してきた諸研究の積み重なり
の結果として複合王政論は形成されてきたとみるべきであろう。つまり、エリオットは1960年代から、地
域レベルでのヘゲモニーを握っていた貴族、高位聖職者、都市支配層などの地域エリートに注目し、この
地域エリート層を「政治的ネーションpolitical nation」という特徴的な語で表現したが、この問題関心が後の複合王政論につながっていった側面に注目したい。エリオットはこの「政治的ネーション」の特質と
して、以下の二点を指摘した。第一に、地域の法と特権に対して王権が改革や削減などの措置をとろうと
すると、それに抵抗し、情勢によっては王権から離反する場合もありえた。第二に、何らかの原因によっ
て民衆蜂起が発生し、地域レベルでの社会秩序が動揺すると、王権の権威・軍事力を背景として民衆蜂起
を鎮圧し、地域の秩序の回復をめざした。このような「政治的ネーション」の性格をよく表している事例
は、1640年にスペイン王権から離反したカタルーニャの地域エリート層の行動である。彼らは、王権から
の軍事費の恒常的な負担の要求をカタルーニャの地域特権を侵害するものとして反乱にまでいたったが
(第一の側面)、反乱の過程のなかで民衆層との利害対立が深刻化すると、スペイン王権に帰順してこれを
抑圧した(第二の側面)。つまり、王権と民衆という上下どちらからの圧力に対しても、既存の地域秩序
を守ろうとする傾向が「政治的ネーション」にはあり、みずからを頂点とする地域レベルの権力構造を維
持することをめざす、近世国家の下での中間権力の担い手であったといえよう。ネーションという語感は
誤解を招きやすいが、形容詞の「政治的」というのは、この特権層があくまで政治的な支配システムに依
拠しているということを明示しているのであり、文化的または民族的な集団を指しているわけではないこ
とを意味している、と受け取ることができよう。
エリオットはこのような地域ごとの「政治的ネーション」と王権との協力関係が近世国家の基盤となっ
たと1960年代から論じており、このような認識が後の複合王政論につながっていったといってよい。
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では、このようなスペイン王国における中間権力の担い手としての地域エリート層の存在に注目したと
き、ショーブ氏の講演において言及されたスペイン領アメリカ植民地はどのように位置づけられるであろ
うか。本コメントでは、ヨーロッパ側のスペイン領地域との共通点と相違点に注目して考えてみたい。
まず共通性としては、ヨーロッパ側の諸地域でもアメリカ植民地でも、地域レベルにおける自治的な権
力をもつ集団が存在していた点が指摘できる。ショーブ氏のご報告にあったように、アメリカ植民地にお
いても都市自治体(その中心となる都市参事会であるカビルドCabildo)を掌握する白人支配層が王権に対する自立性を保ちつつ、王権から現地における地域支配を委託されることで、植民地社会におけるヘゲ
モニーを維持していた。たしかに、アメリカ植民地都市にも、ヨーロッパ側のカスティーリャ都市と同じ
く国王代官corregidorが王権によって派遣され、都市参事会に対する監視がなされたため、どちらの大陸の都市支配層もあくまで王権の後見の下での“自治的な”権力を享受できたにすぎず、完全に独立的な権
力を有していたわけではない。すなわち、地域レベルにおける自治的な権力=王権の下での中間権力の担
い手としての性格は、ヨーロッパ側の諸都市の支配層であれ、アメリカ植民地の都市支配層であれ、共通
していたといってよい。ショーブ氏のご報告においても、アメリカ植民地における白人支配層の“自治”
が指摘されていたが、征服によって獲得された地域であっても、アステカやインカといった先住民王権が
解体された後に白人植民者によってヨーロッパと同様の社団的編成の社会モデルが導入されたことによ
り、地域エリートが中間権力を掌握する社会構造が形成されたのである。本国の王権もそれを前提とし、
現地の白人支配層との協力関係に依存する「交渉にもとづく絶対王政」が存在していた点にショーブ氏も
言及していたが、それはヨーロッパ側についてエリオットが論じた地域エリート層と王権の間で形成され
た近世国家の姿と共通するものだったといえよう。
その一方で、ヨーロッパ側地域とアメリカ植民地の最大の差異は、身分制議会、ないしはそれに相当す
る何らかの代議機関がスペイン領植民地には存在しなかった点であろう。
ヨーロッパ側の諸地域では、中世国家の政体が受け継がれたため、カスティーリャ、アラゴン、バレン
シア、カタルーニャなどのレベルにおける身分制議会がハプスブルク期にも存続していた。これらの身分
制議会は、エリオットのいう「政治的ネーション」を結集する制度的な経路として機能した。すなわち、
それぞれの議会のもつ立法や課税協賛に対する権限には違いがあったものの、①王権に対する集団的な交
渉または抵抗の場として、②地域エリート同士の合意形成の場として、身分制議会は広域の範囲からの地
域エリート層が結集する制度としての機能を果たしていたのである。かつては議会に対する王権の優位性
が強調されていたカスティーリャに関しても、現在の研究では、課税協賛権にもとづいて特定都市の代表
が王権と交渉する場として機能していた点が指摘されている。したがって、イベリア半島側の地域エリー
トは、みずからの基盤となっていた地域社会にとどまることなく、少なくとも制度上は、より広域の政治
社会へとみずからを接続しうる経路を有していたのである。エリオットが“ネーション”という語をあえ
て用いたのも、ごく狭い範囲の在地支配層というニュアンスではなく、このような一定の広がりをもった
特権層の存在を示唆するためだったのではないだろうか。
それに対してスペイン領アメリカ植民地では、イギリス領北米植民地とは異なり、一定の広がりをもつ
領域内での白人支配層を結集する植民地議会は存在しなかった。地域エリート層が掌握する都市自治体の
上位にあったのは、副王領全体を統括する副王府およびアウディエンシアであり、それらは現地の地域エ
リートが参画するのではなく、本国王権が派遣する法曹官僚による司法・統治機構であった。したがって
少なくとも制度上は、スペイン領アメリカ植民地における一定の広さの領域において地域エリート層を結
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集しうる経路は存在せず、この点がヨーロッパ側の地域エリートとの間の大きな差異であったといってよ
い。そして、身分制議会やそれに相当する代議機関がないということは、ヨーロッパ側の諸地域のように
立法や課税の問題に関して地域エリートの間で合意を形成する、あるいは王権に対して交渉や抵抗を行う
という、一定の広さの領域における集団的な政治経験がスペイン領植民地では恒常的な形では醸成されな
かったことを意味している。この恒常的・集団的な政治経験の欠如が、スペイン領植民地が独立後の国家
形成に苦闘する原因の一つになった可能性も考えられるが、さしあたり、近世国家のなかの中間権力の担
い手としてみた場合でも、ヨーロッパ側とアメリカ植民地側では地域エリートを結集させる制度的な基盤
に大きな違いがあったことがわかる。つまり、アメリカ植民地の地域エリートは“ネーション”という語
で表現できるほどの一定の広がりでの政治的な一体性をもつことができなかったのではないだろうか。
この点は、ハプスブルク期のスペイン王国について、ヨーロッパ近世国家の一つとして位置づけ、社団
的編成や複合王政という分析概念を用いて、ヨーロッパ側とアメリカ側を統一的に考察する際には、重要
な相違として認識しておくべき点だと思われる。とはいえ、アメリカ大陸での近世的な秩序のあり方を植
民地社会における特殊なものとみなし、ヨーロッパ側の近世的な秩序とは別個のものとして位置づけてし
まっては、ショーブ氏の報告が示したような広がりのある議論ができなくなってしまう。したがって、一
定の広がりの領域において地域エリートを結集するための制度上の経路が存在しなかったとしても、王権
と各地域のエリート層が多様な形態によって結びつき、相互に交渉を行っていた点を近世国家の特徴とし
て捉え、アメリカ植民地も含めた近世国家のコングロマリットのような構造、つまりは不均質な構成要素
が集まって一つの全体を形作っている近世的な国家構造についてさらに考察していく必要があろう。その
意味で、本日のショーブ氏の報告はスペイン近世史の今後の研究にとって非常に有益な示唆に富むもので
あった。
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