エピソード記述の社会福祉研究への...

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要約:本稿の目的は,現象学に関連する三つの視点を提示したうえで,社会福祉実習の事 後学習で学生が書いたエピソード記述を検証したうえで,エピソード記述を社会福祉領域 の研究に援用する際の意義と可能性を示すことである。その結果,まずエピソード記述を とおして学生が実習体験の意味について理解を深められたことから,エピソード記述を用 いた実習指導における成果が認められた。また,現象学的アプローチによる社会福祉研究 において,「普遍性を示す」ことがどのようなことを意味するのかを検討することができ た。 キーワード:エピソード記述,社会福祉実習の事後学習,現象学的アプローチ,間主観的 アプローチ,臨床的アプローチ 目次 1.はじめに 2.本稿の目的 3.事後学習におけるエピソード記述の指導の概要 3-1.社会福祉実習の位置づけと概要 3-2.実習事後学習の概要 3-3.エピソード記述の概要 3-4.エピソード記述の指導の方法 4.本稿における検証の方法と視点 4-1.検証の方法 4-2.筆者が書いたエピソード記述:F さんは見ていてくれた 4-3.現象学的アプローチ 4-4.臨床的アプローチ 4-5.間主観的アプローチ 4-6.現象学に関する若干の考察 5.二つのエピソード記述の検証 5-1K さんのエピソード記述 5-2.筆者による検証 5-3M さんのエピソード記述 5-4.筆者による検証 ──────────── 同志社大学社会学部助教 *2015 3 30 日受付,2015 4 21 日掲載決定 研究ノート エピソード記述の社会福祉研究への 援用可能性の検討 ──社会福祉実習の事後学習におけるエピソード記述の検証をとおして── 森口弘美 145

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Page 1: エピソード記述の社会福祉研究への 援用可能性の検討5−5.二つのエピソード記述の了解可能性 6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

要約:本稿の目的は,現象学に関連する三つの視点を提示したうえで,社会福祉実習の事後学習で学生が書いたエピソード記述を検証したうえで,エピソード記述を社会福祉領域の研究に援用する際の意義と可能性を示すことである。その結果,まずエピソード記述をとおして学生が実習体験の意味について理解を深められたことから,エピソード記述を用いた実習指導における成果が認められた。また,現象学的アプローチによる社会福祉研究において,「普遍性を示す」ことがどのようなことを意味するのかを検討することができた。

キーワード:エピソード記述,社会福祉実習の事後学習,現象学的アプローチ,間主観的アプローチ,臨床的アプローチ

目次1.はじめに2.本稿の目的3.事後学習におけるエピソード記述の指導の概要

3−1.社会福祉実習の位置づけと概要3−2.実習事後学習の概要3−3.エピソード記述の概要3−4.エピソード記述の指導の方法

4.本稿における検証の方法と視点4−1.検証の方法4−2.筆者が書いたエピソード記述:F さんは見ていてくれた4−3.現象学的アプローチ4−4.臨床的アプローチ4−5.間主観的アプローチ4−6.現象学に関する若干の考察

5.二つのエピソード記述の検証5−1.K さんのエピソード記述5−2.筆者による検証5−3.M さんのエピソード記述5−4.筆者による検証

────────────†同志社大学社会学部助教*2015年 3月 30日受付,2015年 4月 21日掲載決定

研究ノート

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討──社会福祉実習の事後学習におけるエピソード記述の検証をとおして──

森口弘美†

145

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5−5.二つのエピソード記述の了解可能性6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

1.はじめに

社会福祉実践の本質にアプローチする研究においては人と人との間における複雑な関

係性や相互作用を捉える必要があることから,質的アプローチへの関心が高まってい

る。筆者らは「同志社大学社会福祉研究・教育支援センター」における第 3期センター

教育・研究プロジェクト(2013年 4月~2016年 3月)として「社会福祉教育・研究に

おける『エピソード記述』の展開プロジェクト」に取り組んでいる(1)。「エピソード記

述」は,鯨岡によって発達心理学の領域で提示された質的アプローチの方法論であり,

観察しようとする対象者に関与しながらの観察によってとらえられた事象に対して「生

の実相のあるがままに迫る」ための方法である。現象学の考え方に基づくその方法論の

特徴的な点の一つが,関わり手に主観的に感じられたことを記述し,さらに「その生の

実相を関わり手である自分をも含めて客観的にみる」という手法である(鯨岡 2005 :

22)。同プロジェクトでは,「エピソード記述」を質的研究の方法としてだけではなく,

実習やフィールドワークにおいて,観察者が捉えた現象を記述し考察するためのユニー

クな方法の一つと位置づけ,社会福祉における教育方法や研究方法の開発・提案につな

げるためのさまざまな試みや検証を行ってきた。

本稿では,その取り組みの一部として取り組んだ,社会福祉実習の事後学習における

エピソード記述の試みを報告し,社会福祉研究において援用するにあたっての意義と可

能性を提示する。

2.本稿の目的

筆者は同志社大学社会学部社会福祉学科の社会福祉実習の授業において,2013年度

および 2014年度に,実習指導を担当した学生に対して実習体験に関するエピソード記

述を書く指導を行った。本稿ではその試みから完成に至った二つのエピソード記述を紹

介し,鯨岡が提示する三つの視点に沿ってそれぞれのエピソード記述の理解を深め,そ

のうえで社会福祉研究におけるエピソード記述の可能性を示す。

なお,実習に行った学生にエピソード記述を書くための指導を行った第一の理由は学

生にとっての学びに役立つと考えたからであり,実際にその手ごたえを感じることがで

きた。本稿では,学生の学びにどのように役立つのかの可能性にも若干触れるものの,

社会福祉実践の実態に質的にアプローチするための研究方法としてどのような意義や可

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能性があるのかを最終的に示すこととする。

3.事後学習におけるエピソード記述の指導の概要

3−1.社会福祉実習の位置づけと概要

本稿で取り上げるエピソード記述は,本学の社会福祉実習ⅤおよびⅥの授業の中で行

ったものである。本学におけるこの科目では,国家資格である社会福祉士を取得するた

めに必要な社会福祉援助技術現場実習および実習指導を通年で展開し,夏季休暇に社会

福祉施設・機関で実習を行い,春学期・秋学期の授業に実習指導を行っている。主に学

科の 3年次の学生(一部 4年次以降の学生)が受講し,指定の施設・機関の条件と学生

の希望を調整したうえで配属先を決定している。実習指導は受講生全員のクラスで進め

ていくが,年間の授業のおよそ半分は実習先の施設・機関の種類によって小クラスに分

かれ,クラスごとの担当教員が中心となって指導を行っている。

筆者は 2012年度より障害児・者施設に配属された学生の小クラスを担当しており,

2013年度,2014年度の秋学期の小クラスの実習指導(事後学習の指導)においてエピ

ソード記述を行った。クラスの人数は,2013年度,2014年度ともそれぞれ 8名であっ

た。

3−2.実習事後学習の概要

社会福祉援助技術現場実習指導の内容は厚生労働省が示されたものを基準に行ってい

くが,そのうち本学のカリキュラムにおいては実習記録や実習体験を踏まえた課題の整

理と実習総括レポートの作成等が,主に秋学期の事後学習で行う内容として位置づけら

れる。具体的に行っていることとしては,実習を行った学生と教員が個別に面接時間を

設定して行う個人スーパービジョン,小クラスにおいて学生が互いに実習中の課題を出

し合いながら共に学ぶグループスーパービジョン,実習での学びを小クラスごとに発表

する実習報告会,そして実習報告集に掲載する総括レポートの作成等である。

実習直後においては驚きや戸惑いといった実習中の体験が整理しきれないままであっ

た学生たちの多くが,これらの事後学習をとおして体験の意味を理解し,それまでに理

論や技術として学んできたことを実感を伴った学びとして身につけていく。筆者は,そ

れまでの自身の調査研究活動においてエピソード記述を行った経験から,学生が実習体

験中の気づきに関してエピソード記述を書くことがこの事後学習をより深く質の高いも

のにできると考えた。

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3−3.エピソード記述の概要

エピソード記述は,(1)とらえたい事象の客観的な流れを描き出し,読み手がおおよ

その共通了解が得られる第一段階(エピソードの提示),(2)「それを描き出したいと思

い立った書き手の背景(暗黙の理論)」とエピソードとの関連を「多方面にわたって吟

味し,その意味の全幅を押さえる」第二段階(メタ意味の記述)の二つの要素で構成さ

れる。とりわけ書き手の主観をとおして捉えられたことについて,なぜその場面をエピ

ソードとして描こうと思ったか,なぜそのように感じたのかを問うことでその意味(メ

タ意味)を深める第二段階が重要で,鯨岡はこの段階を踏むことで記述されたエピソー

ドが体験記や記録ではない「質的アプローチにつながる」としている(鯨岡 2005)。

エピソード記述が従来のさまざまな質的アプローチと異なるもっとも特徴的な点が,

書き手の主観を考察対象にするという点である。事後学習においては,実習に行った学

生が自らの主観をきっかけに学びを深めるという点で,エピソード記述が有効に機能す

ることが期待できる。

3−4.エピソード記述の指導の方法

秋学期の事後学習は,春学期の事前学習と実習中に行う巡回指導および帰校日指導と

連動して行うことになる。エピソード記述は,体験を事後に振り返ってじっくり吟味す

ることでメタ意味を深めていく過程が大切になるため,実習後から秋学期にかけての間

にエピソード記述を書く機会を設けることにした。そのためにまず春学期の事前学習に

おいてエピソード記述の概要と方法を伝え,個人スーパービジョンの時にエピソード記

述を書いて持参する課題を科した。ただし,実習前は,学生は実習に向けての期待や緊

張感でいっぱいになっており,また実習中は実習記録を用いた学習が中心になるため,

春学期の時点においては事後学習の課題に対する心構えができる程度に留め,秋学期の

事後学習の最初に具体的な書き方を詳しく伝えることとした。

エピソード記述の書き方を伝える方法は,2013年度に試みたことの反省を踏まえて,

2014年度に大きく変更した。その具体的な経緯は次のとおりである。

まず 2013年度は,春学期の時点で鯨岡の文献(鯨岡 2005)を引用しながらの説明,

および筆者が学位論文で書いたエピソード記述の一部を紹介し,さらに看取りを扱った

ビデオを視聴してそこで感じたこととそのメタ意味を書いてみるという演習を行った。

しかしながら視聴したビデオを元にエピソード記述を書くという方法では,エピソード

記述の書き方は伝わらなかったようで,小クラスの学生 8名全員が「メタ意味」を書き

あぐねるという結果になった。

その原因としては次のことが考えられる。本稿 4章で述べるように,エピソード記述

は「はっと気づかされる」(鯨岡 1999 : 112)形で受動的に訪れた「感じ」を捉え,そ

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の意味を深めていくものである。ビデオを鑑賞するという方法では,そのような体験が

得られるかどうかは個人によって大きく違ってくるうえ,そのビデオが教員が選んで提

示したものとなると,何らかの気づきを得られる可能性は極めて小さくなると考えられ

る。さらに鯨岡が「そこでそれが必ず生じるというふうに先を見通すことのできない性

格のもの」(鯨岡 1999 : 112)と述べているように,「今からこのビデオを観て,エピソ

ード記述を書きましょう」という設定は,「このビデオを観て,何か気づきを得ましょ

う」と言っているに等しく,この演習自体に無理があったと考えられる。

そこで,この年は秋学期の最初の授業時に,筆者が実際に福祉実践現場で体験したこ

とをエピソード記述に書き起こした具体例を示したところ,実習中に似たような体験を

した学生がエピソード記述らしい形にして個人スーパービジョンの時に持参することが

できた。その後,筆者のアドバイスを経て本人が加筆し完成したのが,5章で紹介する

K さんのエピソード記述である。

このような経緯を踏まえ,2014年度は,鯨岡の文献を引用しながらの説明に加え,

秋学期に集中して複数のエピソード記述を学生に読ませてそれに関してディスカッショ

ンをすることで,自分自身の実習体験をエピソード記述に書くというイメージを共有す

ることとした。エピソード記述の例として学生に示したのは,前年度に完成した K さ

んのエピソード記述に加え,筆者自身がフィールドで体験した出来事について作成した

エピソード記述である(2)。最終的には,個人スーパービジョンにおけるアドバイスを経

て 8名全員がエピソード記述を書くことができた。ただし,8名のエピソード記述の中

にはメタ意味の考察が不十分なものや,重要な気づきを得ているにもかかわらず言語化

に至らなかったものも少なくなかった。5章で紹介する M さんのエピソード記述は,

それらの中でも比較的よく書けているもの,すなわち実習中にもたらされた気づきを的

確にとらえてその意味を深めることができたものの一つである(3)。

4.本稿における検証の方法と視点

4−1.検証の方法

本稿では,社会福祉研究におけるエピソード記述の可能性を検討することを目的とし

ているため,取り上げるエピソード記述は,学生が書いたエピソード記述のうち,メタ

意味がある程度良く書けていると判断したものを意図的に選んだ。なお,本稿を執筆す

るうえで,エピソード記述の執筆者である学生,および実習先の担当者には事前に了解

を得るとともに,本稿が完成した時点で再度原稿を確認してもらうという手順を踏ん

だ。

次章より,学生が書いたエピソード記述を紹介し,それぞれに対して筆者が検証を加

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え,筆者自身の視点で学生の体験を意味づけ直していくこととする。その際,検証の視

点として鯨岡(1999)が示している「現象学的アプローチ」「臨床的アプローチ」「間主

観的アプローチ」を用い,それぞれの視点から学生の書いたエピソード記述をどのよう

に意味づけられるかを読み解いていく。本章では,まずこの三つの視点について鯨岡の

文献を引用しながら詳述するが,これらの視点をより具体的に理解するために,エピソ

ード記述を指導する際に用いた筆者自身の書いたエピソード記述に照らし合わせながら

述べていくこととする。

4−2.筆者が書いたエピソード記述:F さんは見ていてくれた

筆者は 1994年から 5年間,身体障害者通所授産施設(当時)で働いた経験がある。

次に示すのは,筆者のその 5年間の現場経験のなかで最も印象に残った出来事の一つを

エピソード記述として書いたものである。

エピソード記述(例)「F さんは見ていてくれた」記述者:森口〈背景〉私は大学を卒業して社会福祉法人 W で 5年間,授産施設(当時)の指導員として働いてき

た。私は社会福祉系の学部を出たわけではなく,そのためこの 5年間は楽しいことも多かった半面,利用者やその家族への対応に関してわからないことが多く,とまどったり失敗したりの連続でもあった。そうしたとまどいや失敗を次の支援に結び付けることもできず,徐々に疲労感を感じるようになった私は「もう続けられない」と思い,いちどきちんと社会福祉を学んでみようと思い,法人 W を退職することにした。

〈エピソード〉利用者の F さんは知的障害と軽い身体障害のある女性である。F さんは,平易な言葉で説明されたことは理解できるが,自分自身から話す言葉の数は決して多くはない。顔見知りの人には「やあ,元気かい?」とニコニコ話しかけ,周りからの声掛けには「はいー」「いやー」というシンプルな返事をする。F さんは,ふだんは気が向けば仕事(授産の作業)をするが,多くの時間を施設の玄関を入ってすぐのところにある事務所の入り口に座って過ごしていた。そこで,事務所に出入りする職員やボランティアに「元気かい?」とニコニコ話しかけたりしていた。そんな F さんが,私が退職する年度末が迫ってきたころに,急に私のことを名前で呼び始めた。そして私はそのことに大いに驚かされた。実は F さんは,女性職員や女性ボランティアを名前で呼ぶことはほとんどない。男性職員

のことは名前で呼ぶが,なぜか女性に対しては,それぞれの名前を認識しているにもかかわらず,話しかけるときは「なあなあ」と呼びかけるだけで,決して名前を言おうとはしない。私がその当時知る範囲では,F さんが名前で呼ぶ女性は,この施設に F さんが通い始めた当初から働いている職員の Y さんと,同じように長年ボランティアをしている G さんの 2人ぐらいであった。二人に共通するのは,どんな人とでもすぐに仲良くなれるような明るい性格であ

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った。そんな F さんに,名前を呼んでもらったこと,またそれが,まだ利用者には伝えていなかった私の退職を目前とした出来事であったことに,私はとても驚き,また「F さんは私のことを見ていてくれたのだ」という深い感慨に包まれた。

〈メタ意味〉私が F さんに名前を呼ばれて驚いたいちばんの理由は,私が F さんに対して名前を呼んで

もらえる関係になりたいと思って特に積極的に働きかけてきたわけではなかったからである。F さんは事務所の入り口に座っていることが多かったので,「元気かい?」と話しかけられれば「元気よ」と答えるし,「F さんは元気?」と尋ね返して,F さんが「はいー」と答えるようなやりとりはしていた。しかし,私は指導員として F さん個人の担当ではなかったこともあり,F さんが女性スタッフの名前を呼ばないことも「そういうタイプの人だ」と捉えており,ほとんど気にとめていなかったし,またその余裕もないぐらい自分が担当する部署の作業や担当する利用者のことで精いっぱいだった。それにもかかわらず,F さんが私の名前を呼んでくれたということが意外であり,私はおおいに驚いた。そして,驚きとともに,なぜか私の心の中に「F さんは見ていてくれた」という思いがわきあがった。その時はなぜそんな思いがわいてきたのかよくわからなかったが,それでもそのわきあがったうれしい気持ちは私に強いインパクトをもたらした。

F さんがいつも座っていた事務所の入り口というのは,私が担当していた作業部屋がよく見わたせる場所だった。女性の名前をほとんど呼ばない F さんが,私からはあまり積極的に働きかけをしていないにもかかわらず私の名前を呼び始めたのは,私の姿が F さんの目に映っていた時間の積み重ねによるものだと思われる。「F さんは見ていてくれた」という思いについて後で振り返ると,そのような理由が考えられる。

F さんはまた,口数は少ないものの物事に対する好き嫌いをとても率直に表現する人でもある。そんな F さんが私の名前を呼んだということは,F さんの目に映る私の姿が,F さんにとっては少なくとも不快なものではなかったということである。F さんの率直さを知る私は,F

さんに私の働く姿勢が好ましく映っていたのだと素直に認めることができた。そしてそのことが退職目前の私には,誰からのねぎらいや励ましよりもはるかにうれしい言葉として強いインパクトを伴って感じられたのだと思う。

4−3.現象学的アプローチ

本稿で用いる検証の視点の一つ目が,現象学的アプローチである。現象学とは,フッ

サールが創始した哲学であり,重要なキー概念に現象学的還元がある。現象学あるいは

現象学的還元については,どのようにその概念を理解し意義づけるかについてさまざま

な見解があるが,ここでは現象学の現代的意義を積極的に評価する立場の竹田の解説を

用いることとする。

竹田は,現象学的還元とは,「その方法自体がまさしく哲学的思考の原理を示すもの」

(竹田 2004 : 27)だという点で画期的であるとしている。その方法の具体的な説明は次

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のとおりである。まず「われわれはふだん世界を自然な『客観的視線』で見ているがこ

れを『自然的態度』と呼ぶ」(竹田 2004 : 32)。そのうえで,この「自然的態度」をい

ったんやめて,「『自分からの視線』(主観的な視線)から“構成”されている」(竹田

2004 : 34)ものとして置き戻す。そしてそこから,「他者にとっても必ず生じているは

ずだと考えられるもの,すなわち共通項と考えられるものを『抽出する』」(竹田 2004 :

52)という作業が現象学的還元であるという。

一方,鯨岡は次のように現象学的還元を説明したうえで,自らの理論を展開するうえ

で「生きられる還元」という概念を提示している。まずフッサールの現象学的還元につ

いては,「素朴な意識(自然的態度)が下す諸判断を括弧に入れ(エポケー),その上で

志向的意識の対象を想像作用のなかで様々に変容させて,そのような視点変更にもかか

わらず不変であるものこそ,当該対象の本質」(鯨岡 1999 : 101)であるとする方法態

度と説明しており,ここまでは竹田の説明とおおよそ一致していると言える。そのうえ

で鯨岡が着目するのは,現象学的還元をいざ実行に移そうとするときに生じる抵抗であ

り,この抵抗が「それだけ研究者がさまざまな常識や自明さのなかに深くとらえられて

いる」(鯨岡 1999 : 102)ことの証左であると指摘し,この「抵抗と抵抗分析のうちに,

現象学的アプローチの核心を見ようとする立場」(鯨岡 1999 : 102)に立つことを表明

している。そして,「自分の意識や存在のあり方にまとわりついている様々な自明なも

のが,出会いの場ではっと気づかされる形で急に浮き上がってくるような経験」を「生

きられる還元」と呼んでいる(鯨岡 1999 : 112)。つまり,自明性を問い直そうとする

際の抵抗分析は,研究者が能動的に反省の作業を行うことによってのみならず,「さま

ざまな人との出会いのなかで,不意に向こうから訪れてくる形で受動的に身に被る」

(鯨岡 1999 : 114)という経験によっても可能であり,この後者を「生きられる還元」

と名付けている。

では,前節で提示した「F さんは見ていてくれた」というエピソード記述において描

かれたことが,鯨岡の言う「生きられる還元」にあたるのだろうか。もしそれにあたる

とすれば,どのようにそれを説明することができるだろうか。

このエピソードに描かれた時の筆者の経験を振り返るとき,筆者に訪れた大きなイン

パクトは,まず F さんが名前を呼んでくれた驚きだったと言える。メタ意味において

は,その驚きの理由として,とりわけ筆者の方から積極的に関わったわけではないが

「それにもかかわらず,F さんが私の名前を呼んでくれた」からであると意味づけてい

る。しかしながら,この経験の意味についてもう少し踏み込むと,この驚きが生じた理

由として,筆者自身の自明性,すなわち現象学で言うところの「自然的態度」の存在が

説明できる。つまり,筆者はそれまで F さんのことを,「自分の名前を呼び得る人」あ

るいは「自分のことを見る存在」とは感じられていなかったのである。このことは,筆

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者にとって F さんが,施設の「利用者」であり,援助の「対象者」でしかなかったこ

とを意味している。

もちろん筆者は F さんのことを,単に援助を受ける受動的な存在としてしか見てい

なかったわけではなく,呼びかければ応えてくれるし,さまざまな感情や気持ちを表現

し伝えてくれる人だと考えてはいた。しかしながら,筆者にとっては大勢の利用者の中

の一人に過ぎず,F さんにとっての筆者も当然大勢の職員やボランティアの中の一人に

過ぎないはずだということを疑うことはなかった。ところが,それだけだった関係性か

ら一歩踏み出し,筆者に対してより親しい新たな関係を迫ったのは F さんの方であっ

た。F さんから名前を呼ばれること,そしてそこに大きな驚きを感じるという経験が予

期せずふいに訪れたことで,筆者自身はその瞬間,F さんに対する「利用者」や「対象

者」という客観的視線をいったん脇に置くことが可能になったと言える。

以上のように,この時の筆者の経験は,それまで当たり前だと考えていた筆者の自明

性を打ち壊したと意味づけることができ,「生きられる還元」の経験であったと言うこ

とができる。

4−4.臨床的アプローチ

二つ目の視点が臨床的アプローチである。鯨岡は,「還元」の中身として,「理性的,

反省的還元」と「感性的還元」の両方が必要であると述べている。そして,前節で詳述

した「生きられる還元」は前者に属するとし,臨床的アプローチとしては後者の「感性

的還元」にフォーカスしている。

まず前者の「理性的,反省的還元」には二種類の方法があり,その一つは「反省の力

によって能動的,積極的に推し進める」方法としての「発達心理学的還元」であり,い

ま一つが,前節でも紹介した「人との出会いのなかで受動的にその気づきが得られる」

方法としての「生きられる還元」である。それらに対し,後者の「感性的還元」とし

て,「出会いのなかで対人関係が自然に生きられる」ようになる「臨床的還元」を位置

付けている(鯨岡 1999 : 117)。

鯨岡によると,「生きられる還元」は,「純粋な理性的反省の作業を踏み越えたもので

ありながら(中略),基本的には認識者の位相に立って」(鯨岡 1999 : 122)論じられる

ものである。ここでいう「認識者の位相に立つ」とは,たとえば研究者がフィールドに

行ったときに研究者としての位相でもって子どもを理解しようとするような態度のこと

である。それに対して「臨床的還元」とは,「単に抵抗を抵抗として記述するようなこ

とではなく,むしろ自然的態度の態度変更によって臨床の場における抵抗感が地平化」

(鯨岡 1999 : 122)される事態であり,極めて「実践的な課題」であると述べる。つま

り,専門的な学知が邪魔をして,たとえば目の前の障害児をついその障害の特性をとお

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して理解しようとしてしまうような状況から,お互いのぎこちない関係性がふと解除さ

れ,自然に「共に在る」ことが可能になるような事態をさす。このような事態を「還

元」と意味づける根拠として鯨岡は,研究者としての学知があることでかえって目の前

の子どもや養育者等との「出会いの場を自然に生きられないという実感が,第一義的に

『抵抗』として感じられるもの」(鯨岡 1999 : 116)であったという自身の経験を挙げて

いる。

「F さんは見ていてくれた」のエピソードにおいては,筆者が F さんのことを「利用

者」や「対象者」としてしか捉えられていなかったことがまさに「認識者」としての視

線であると言うこともできる。メタ意味の最初の段落には「F さんが女性スタッフの名

前を呼ばないことも『そういうタイプの人だ』と捉えて」いたと記述しているが,「そ

ういうタイプの人」ということの中身には,「そういう障害がある」あるいは「障害が

あるがゆえに特有の言動をしがちである」という意味も含まれていると現時点では自覚

することができる。

このように,「つい利用者の一人にすぎないと感じてしまう」あるいは「障害者であ

るという先入観をもって見てしまう」ということは,鯨岡の言う「抵抗」であると意味

づけることができる。そして,その「抵抗」の内実や,なぜそのように見えてしまうの

かを理性的に反省する作業が「理性的,反省的還元」であり,前節や本節で筆者が述べ

たことがこれにあたる。一方,F さんが筆者に対して「お互いに名前を呼び合うような

新しい関係性」を提示し,筆者も喜んでそれを受け入れたという,その場のその時点で

起きた筆者の態度変更とそれに伴う互いの関係性の変容が「臨床的還元」であると意味

づけることができる。

4−5.間主観的アプローチ

三つ目の視点が間主観的アプローチである。間主観性とは現象学に関連づけられる概

念であり,鯨岡は「一方の主観的なものが,関わり合う他方の当時主体の主観性のなか

に或る感じとして把握される」経緯と説明している(鯨岡 1999 : 129)。そして,間主

観性に言及する際に鯨岡が特に強調することが,「他者の主観的なものが直接的にこち

らへと押し寄せ(中略),まさに我が身が共鳴して感性的に感じ取らされたものと意識

され,その限りでは動かしようのない一つの事実として受け止められる」(鯨岡 1999 :

130)という点である。

たとえば乳児がガラガラにじっと目を向けている,あるいは離乳食で初めてのものを

口にしたときに顔をしかめるといった場面において,母親は,「ガラガラが欲しいのね」

あるいは「すっぱいね」と自らも顔をしかめたりしながら乳児に対応するが,その際母

親は,乳児の様子を事実として観察して子どもの気持ちを解釈したというよりも,母親

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討154

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自身にとっては「もっと直接的に子どもの気持ちそのものである」(鯨岡 1999 : 131)

と感じられている。つまり,母親は子どもの気持ちを能動的に理解しているというより

も,むしろ「感じ取らされる」というような受動的な体験をしており,このような様相

を間主観的な把握と呼んでいるのである。もちろんここに「解釈」が入り込む余地がな

いわけではないが,なるべく解釈という回路を通さずに,他者から直接的に押し寄せて

くる「或る感じ」を掴むことによって,「還元」がより可能になるというのが鯨岡の解

説である。

筆者は,F さんに名前を呼ばれた直後に「F さんは見ていてくれた」と確信した。先

に示したエピソード記述においてはその理由をメタ意味として記述しているが,それは

事後に振り返ってなぜだろうかと考えて出した一つの理由であって,実際にはそれらの

理由はその時点で私に認識されていたわけではなかった。当該の出来事の時点では,た

だ「F さんは見ていてくれた」という「或る感じ」だけがあり,根拠のないその確信の

強さにむしろ筆者自身がとまどいを覚えたほどである。鯨岡の解説に照らせば,F さん

の「主観的なものが直接的にこちらへと押し寄せて」きたことは筆者にとっては動かし

ようのない事実であり,F さんの見てきた光景やその光景の中に登場する筆者の姿を間

主観的に把握した瞬間だったと意味づけることができる。

4−6.現象学に関する若干の考察

以上,本稿でエピソード記述を検証する際の三つの視点について詳述してきたが,言

うまでもなくこれらの三つの視点は相互に深く関係している。そしてそのベースとなっ

ている共通の学問的基盤が現象学である。ここで,筆者がエピソード記述の社会福祉研

究への援用可能性を検討するうえで現象学に関して得た示唆を付記しておきたい。

竹田は先の文献において,現象学を,近代哲学が取り組んできた「認識問題の原理論

としてもっとも深い原理にまで達している」(竹田 2004 : 18)と述べている。つまり,

フッサール現象学はそれまでの哲学全体を超える新しい考え方の原理を開いたものであ

り,未だそれを超える原理は示されていないとする見解である。その原理の説明とし

て,「どこかに『正しい』世界像が存在するという想定をいったん廃棄し」(竹田 2004 :

64),世界を「信憑構造」として捉えたうえで,「それぞれがその世界観を確信するに至

る『条件』」(竹田 2004 : 62)を取り出すことが,本質構造の解明につながると述べて

いる。そのうえで,現象学において重要なキー概念である現象学的還元を行うプロセス

として興味深い方法を提示している。それは「ふつうの自然な考え方の順序を“ひっく

り返す”」という方法である。具体的には,「私が目の前に赤くてつやつやしているリン

ゴを見ている場面」を挙げ,リンゴが目の前に存在しているから,赤くてつやつやして

いる様子が見えると考えるのは自然的態度の考え方であり,これを逆にする,すなわち

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討 155

Page 12: エピソード記述の社会福祉研究への 援用可能性の検討5−5.二つのエピソード記述の了解可能性 6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

「『いま私に赤くて,丸くて,つやつやした様子が見えている,だから私は目の前にリン

ゴが実在しているという確信をもつのだ』,という考え方へと変更する」(竹田 2004 : 74

−75)と説明する。

ここで再び鯨岡のエピソード記述に立ち戻ると,まさしくエピソード記述がこのひっ

くり返した手順を踏むことがわかる。エピソード記述は,「『あれ?』『ん?』『えっ?』

というふうに,事態がこちらの思いとずれたり,そこで一時滞ったり,急に方向を変え

たりと,何かこちらの気持ちに引っかかるとき」(鯨岡 2005 : 93)を捉えることから始

め,メタ意味の記述においては,エピソード記述の書き手がなぜそのような感覚を抱い

たのかの意味を明らかにしていく。「ふつうの自然な考え方」であれば,そのような感

覚を抱いた要因となる何らかの動かしがたい事実があって,「だからこのような感覚を

抱いた」という説明になる。しかしながら,エピソード記述においては,「そのような

感覚を抱いた」という事実をこそ動かしがたい事実として,「だからこのエピソードに

はこのような意味がある」と,当該の出来事やその意味を確信するに至った経緯を記述

することになる。

先に紹介したエピソード記述では,筆者は「F さんは見ていてくれた」とまさに「確

信を持った」のであるが,「実際に F さんが筆者を見ていた」から筆者にそのように感

じられたとするのではなく,「筆者にそのように感じられた」ことを起点として,「……

だから『F さんが見ていてくれた』という確信に至った」という経緯や理由を記述する

ことになる。ここでは,「F さんが本当に筆者を見ていたのかどうか」や「F さんと筆

者はその出来事をきっかけにしてより親しい関係になったと言えるのかどうか」と考え

ることを停止し,筆者自身が「F さんは見ていてくれた」と確信をもつに至った条件

を,どれだけ深く掘り下げて吟味し記述することができるかが重要になってくるのであ

る。

このように,竹田の解説と鯨岡のエピソード記述は,現象学に対する見解という点に

おいて類似性が見られるが,竹田の解説する現象学一般についての見解に対して,鯨岡

が具体的に示している手法の独自性を一点指摘するとすれば,「臨床的アプローチ」に

欠かせない身体および身体感覚の重視であると筆者は考える(4)。鯨岡が「臨床的アプロ

ーチ」として主張するのは,学知によって相手(関与しながら観察しようとする対象)

との関係性を自然に生きられないのは,学知が邪魔をしているのであって,まずはそれ

を還元しなければならないという点である。その目的は,「おのれの生きた身体が素朴

に感じ取るのを可能にすること」(鯨岡 1999 : 126)であり,エピソード記述の書き手

が「感じる身体」としてその場に現前することが何よりも重要なのである。この「感じ

る身体」が感じ取ったことを,ひとまずそれを感じた主体にとっての動かしがたい事実

とし,それを手掛かりになぜそのように感じられたのかを記述していくのがエピソード

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討156

Page 13: エピソード記述の社会福祉研究への 援用可能性の検討5−5.二つのエピソード記述の了解可能性 6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

記述であると言えるだろう。

このように,現象学においては,目の前で起きている事実を,それを見ている主体に

とってどのように感じられているか,どのように確信されているかという「信憑構造」

として捉えようとするが,現象学的還元は「自然的態度」をやめて終わるのではなく,

そこから「知覚体験において誰にとっても『共通項』として取り出しうることがら」

(竹田 2004 : 52)を抽出する作業が含まれる。どのような世界像を確信しているかは国

や宗教によって,あるいは個人と個人の間でも異なっているが,現象学においては「私

という個人にとって,世界はこのように見えている」という確信を動かしがたい事実と

して位置づける。ただし,それだけでは「それぞれ違う」ということで終わってしまう

が,重要なのはそれぞれが世界をそのように確信するに至る条件(「確信成立の条件」)

や構造を,「共通了解」が成立する領域や「共通構造」として普遍化することだという

のが竹田の見解である。

この点について,質的アプローチの方法論として提起されたエピソード記述において

は,「了解可能性」という言葉で説明される。エピソード記述を質的アプローチの方法

論として提示する場合,当然ながらその信頼性や妥当性が問われることになる。ここで

重要になるのが,「読み手」の存在である。鯨岡はエピソード記述が「単なる個別事例

の提示」をどのようにして超えることができるかについて論じるなかで,客観主義に基

づく従来の発達心理学が要請する「普遍性」に対して,「公共性という意味での一般性」

を目指すべきであるとしている。そして,「読み手の読後の了解可能性,つまりどれだ

け多くの読み手が描き出された場面に自らを置き,『なるほどこれは理解できる』と納

得するか,その一般性を問題にする」と説明している(鯨岡 2005 : 41)。

具体的には,筆者のエピソード記述を読んだ人が,「自分にも似たような経験がある

が,確かにそのような意味があるかもしれない」とか,「そういえば自分もクライエン

トのことを,『障害者』や『被援助者』としてしか見ていなかったかもしれない」とい

うふうに,読み手に納得感や共感をもたらす内容であることが,単なる事例の提示を超

えたエピソード記述であることの条件の一つであると言える。

では,竹田の言う「共通了解」や「共通構造」を見出すという最終的な局面は,鯨岡

の展開する方法論においてはどのように提示されているだろうか。筆者は鯨岡の次の文

章にそのことが表現されていると考える。

理論の意義が何ものかによって測られるとすれば,われわれの理論は,どれほどそれが普遍的に妥当するか,したがってそこから行動予測がどれだけ可能になるかという点からではなく,むしろ現出した問題の意味を個々具体に即してどれほど深く理解できるか,あるいはそれを理解するためにどれだけ適切な枠組みを提示できるか,という点からでなければならないだろう。(鯨岡 1999 : 15)

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討 157

Page 14: エピソード記述の社会福祉研究への 援用可能性の検討5−5.二つのエピソード記述の了解可能性 6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

この引用文の前段で述べられている「普遍的に妥当するか」「行動予測がどれだけ可

能になるか」というのは,行動科学的な手法に基づいて個体の能力を測り,そこから共

通した傾向を見出して普遍的な発達の様相を提示してきた従来の発達研究に対する鯨岡

の見解である。子どもの育ちは個々それぞれ異なっていて,子どもに関わる大人の側も

またそれぞれに異なる歴史を歩み異なる経験や考え方をもっているのであり,客観的に

観察できる事柄を分析して共通項を取り出すような研究は,養育や保育という実践に対

してどれだけ意味を為すのかという鯨岡の批判的なまなざしが込められている。

このような従来の行動科学に基づく発達研究を乗り越えるために提示するのが,個別

具体の事象に迫る「エピソード記述」という方法論であるが,鯨岡が目指すのもやはり

「それぞれ違う」という単なる事例の提示ではなく,「共通了解」や「共通構造」を明ら

かにすることである。すなわち,エピソード記述の妥当性の評価は,「現出した問題の

意味を個々具体に即してどれほど深く理解できるか」,あるいは「それを理解するため

にどれだけ適切な枠組みを提示できるか」によって為されると理解することができる。

なお,エピソード記述は,現場の実践者(保育や介護等に携わる人,時にはケアを担

う家族など)によっても書かれるし,研究者が研究手法として用いることもある。先に

引用した鯨岡の文章では,「現出した問題の意味を個々具体に即してどれほど深く理解

できるか」という点と,「それを理解するためにどれだけ適切な枠組みを提示できるか」

という点が並列して述べられている。ここからは筆者の見解になるが,実践者が書くエ

ピソード記述の場合は,前者の意義でもって書かれることがほとんどであろうし,実践

に役立てるという意味ではそれで十分であると考えられる。一方,研究者が研究手法と

して用いる場合は,前者の意義でもって用いることも可能ではあるが,後者で示されて

いる「適切な枠組みの提示」を研究結果として示すことが,現象学という研究パラダイ

ムに沿った結論の提示の仕方の一つになると考えて良いだろう。

5.二つのエピソード記述の検証

5−1. K さんのエピソード記述

本章では実習指導をとおして二人の学生が書いたエピソード記述を紹介し検討を加え

ていく。まず 2013年に筆者が実習指導を行った K さんの書いたエピソード記述を紹介

する。

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討158

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*背景私は 1ヶ月間,A という障がい児余暇支援センターで社会福祉士の実習をした。大学のボランティアサークルで障がい児の余暇支援をしているため,障がいのある子どもと関わることには慣れているつもりだった。しかし,施設という空間の中で子どもと関わるとき,ボランティアでは経験したことのないような出来事が次々と起こり,自分の知識はあまりあてにならない場合が多かった。そこで,「こうしてみよう」と思ったことは何でも行動に移してみることにした。私は施設の子ども全員にまんべんなく関わるようにしていたが,S くんの個別支援計画を立てると決まってからは,特に S くんに関わった。

*エピソードS くんは中学 2年生で,自閉症と診断されている。「あう」,「あっち」などの短い単語や,ジェスチャーを使ってコミュニケーションをとる。ビデオや You tube 動画を見るのが好きで,気に入った作品を何回も見たり,好きなシーンを巻き戻して繰り返し見たりする。A では余暇支援のプログラムのひとつにドライブがある。「ドライブ」と「A に残る」の選択肢のうち,ドライブを選択した子どもは職員さんが運転する車に乗って,買い物や公園等に出かけるというものだ。このドライブを楽しみにしている他児は多かったが,S くんはドライブを好まず,いつも A に残ってビデオか動画を見るといった余暇の過ごし方をしていた。私が S くんの支援計画を立てるよう指示されたのは「引きこもりがちな S くんの“遊び”を,実習生という新鮮な視点で見つけてほしい」という職員さんの願いからであった。

S くんと初めて会った日,ビデオか動画しか興味を示していないと気付いた私はとりあえず行動を合わせてみようと思い,ビデオを見る S くんの隣に座って一緒にビデオを見た。すると S くんは怒り,うなって私を手で払いのけた。当時は理由がわからなかった上に体格の良い男児に体を押されたので驚いたが,「あっちいけ!」と表現しているのが伝わってきたため,私はすぐにその場を離れた。

A に来所する子どもは日替わりだったが,S くんはほとんど毎日来所していたため,私と S

くんは顔を合わせる回数が多かった。毎日起こる出来事を通して S くんそのものを知り,S

くんに払いのけられた日に感じた苦手意識は,自然となくなっていた。実習最終日には子どもたちとの別れが急に悲しくなり,いつもと変わらずビデオを見ている

S くんの隣に行って,なんとなく「今日で,ここに来るの最後…」とつぶやいた。S くんはそれを聞いたのかわからなかったが,私の方を振り返り,ちらっと見た。初日に怒らせてしまったことを思い出し,「また払いのけられるかも…」と覚悟した。しかし S くんは何も言わず,何もせずにまたビデオの方へ向き直して,楽しそうにしていた。

S くんの行動は単なる偶然だったのかもしれないが,ビデオを見るという S くんの遊びに介入しても抵抗されなかったのは,初日と比較して心の距離が縮まったことを表していると捉えることもできた。「さようなら」も言ってもらえなかったが,言葉より嬉しいものをもらったような感覚がした。「関わり続けることの大切さ」を肌で感じた体験であった。

*考察S くんの遊びの幅を広げたい思いもあり,ビデオや動画を繰り返し見てばかりなことに疑問を抱いた私は,職員さんにその理由を尋ねたことがあった。すると職員さんは,「ビデオや動

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討 159

Page 16: エピソード記述の社会福祉研究への 援用可能性の検討5−5.二つのエピソード記述の了解可能性 6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

画って,毎回映像が変わったりとかの“変化”がないでしょ?自閉症の特徴でもあるけれど,変化が苦手だから,同じものを繰り返し見るのは落ち着くんじゃないかな? 私たち職員も遊びの幅を広げたい一心で他のことをさせたいとも思うけど,S くんにとってはビデオをずーっと見てる方が幸せなのかもね。」と答えてくださった。その言葉を思い出した私は,ビデオを見るという「変化のない,安心できる空間」に他人が関わってくるというのは,S くんにとって大変なことだったのかもしれないと思った。しかしS くんは,自分の空間に私が介入することを受け入れてくれた。行為そのものは些細なことであったし,その行為の意味に実習が終わってから気が付いたが,嬉しいという感情が無意識に印象に残っていたのだと思う。うまく言葉では言い表されないが,毎日関わる中で何かが育まれていたのではないかと感じる出来事だった。

5−2.筆者による検証

K さんのエピソード記述に関して,ここでは第 4章で二つ目の視点として述べた

「臨床的還元」という視点,および三つ目の視点として言及した「間主観的把握」とい

う観点から検証する。

K さんのエピソードの後半で描かれているのは,おおむね 4週間にわたる 180時間

強の実習の最終日の出来事である。エピソードを書くための起点となったのは,K さ

んの中に残っていた「嬉しい」という感覚であった。「『また払いのけられるかも…』と

覚悟した」と書いていることから,そのような予測が当たらなかったことに対する意外

さや驚きといった感情もあったことも考えられる。そして,その時にもたらされた複雑

な感覚がエピソード記述で取り上げる動機になった可能性も考えらえる。その「嬉し

い」という感覚が何によってもたらされたのかについて K さんは,S くんが「初日と

比較して心の距離が縮まったことを表している」からであり,また「自分の空間に私が

介入することを受け入れてくれた」からであると説明している。

このエピソード記述を「臨床的還元」という視点から検討するうえで,筆者が着目す

るのが,実習最終日に急に子どもたちとの別れが寂しくなった K さんがとった「S く

んの隣に行って,なんとなく『今日で,ここに来るの最後…』とつぶやいた」という行

動である。

「臨床的還元」とは,お互いのぎこちない関係性がふと解除され,自然に「共に在る」

ことが可能になるような事態をさす。K さんが,S 君が自分を受け入れてくれたと感じ

たということは,少なくとも K さんにとっては,S 君と「共に在る」という事態を経

験したことを意味しているが,鯨岡によるとこのような事態が可能になるのは「自然的

態度」が還元されたときである。

K さんは S 君の友達として実習に行ったわけでもなければ,ボランティアや地域の

住民としてそのフィールドに来たわけでもない。社会福祉士に必要な専門性を学ぶため

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討160

Page 17: エピソード記述の社会福祉研究への 援用可能性の検討5−5.二つのエピソード記述の了解可能性 6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

に実習生として S 君と関わってきたのである。そこで要請されるのは,S 君を「援助

を必要とする利用者」理解し,それまで学んできた専門的な学知と照らし合わせながら

関わりをもつことである。そのように考えると,最終日に K さんがとった行動は,「援

助を必要とする利用者」に対して実習生として接してきた「自然的態度」を態度変更し

たと意味づけることができる。というのも,「S くんの隣に行って,なんとなく『今日

で,ここに来るの最後…』とつぶやいた」という行動は,S 君を「援助を必要とする利

用者」として見ている限り決してとらない行動だと考えられるからである。この時の

K さんにとって,S 君という一人の男の子は,自分の今感じている寂しさをなんとなく

聞いてもらいたい相手だったのではないだろうか。K さんは S 君に何らかの反応を期

待していたわけではないが,S 君から返ってきたのは,「払いのけない」という行動を

とおして K さんのことを受け入れるという反応であった。このように理解すると,こ

のエピソードには言語化されていないが,この時 K さんと S 君の間には「共に在る」

と表現できるあたたかな時間がしばらく流れたのではないかと想像することができる。

以上のことから,K さんがエピソードに描いた経験を,「自然に『共に在る』」という

関係性,その時間と空間を実際に経験した事態であったという意味で「臨床的還元」と

して説明することができる。

さらに K さんのエピソード記述には,「間主観的把握」の様相も表現されている。

「その行為の意味に実習が終わってから気が付いたが,嬉しいという感情が無意識に印

象に残っていた」と表現しているが,「嬉しい」と感じたのは,S 君が K さんの存在を

どのように感じているかを,S 君の眼差しに立って感じ取ることができたからではない

だろうか。このことはまさに,その時点においては S 君の気持ちを,「解釈」を通さず

に「感性的に感じ取らされたもの」として受け止めたことを表していると言える。

S 君の側から見れば,初日にはいきなり自分のそばに来て自分の邪魔をした初対面の

実習生であった K さんであるが,毎日のように会って一生懸命関わろうとしてくる姿

を見て,S 君はだんだん K さんの存在に慣れてきたのかもしれない。そのような時間

の積み重ねを経て,ふと隣に「実習生としての構え」を解除した K さんがぼそっと何

かを呟いたこと,それは S 君にとってはもはや不快なものではなくなっていたのかも

しれない。S 君の側の感じ方については筆者の想像の域を超えるものではないが,K さ

んには,少なくとも S 君が感じ取っている K さんの存在が初日とは明らかに異なって

いたということが,我が身が共鳴する形ではっきりと確信できた,つまり間主観的に把

握できたと言えるのではないだろうか。

5−3.M さんのエピソード記述

次に 2014年に筆者が実習指導を行った M さんの書いたエピソード記述を紹介する。

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討 161

Page 18: エピソード記述の社会福祉研究への 援用可能性の検討5−5.二つのエピソード記述の了解可能性 6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

タイトル:支援する側とされる側の関係性に対する隠れた偏見

①背景重度障害者通所介護の施設への実習後半。いつも誰かしら職員さんが研修に出かけているような施設。施設の利用者で唯一知的障害や言語障害を持っておられない T さんは,いつも利用者やスタッフの様子を見ており,何かあるたびに「それはおかしい」「その介助は違う」「こうしたほうがいい」と,指摘しておられる。(悪い意味ではない)その日は特に職員さんが少なかった。T さんはそのことについて,施設で一番長く働いている Y さんに問いかけていた。

②ピソード/その時に感じたことお昼ごはんを食べ終わり,午後の余暇活動(といっても自由時間)の時だった。私はいつものように仲の良い利用者さんとマッサージをしながらお話をしていた。そこに,大きな声で T

さんが話すのが聞こえた。話し相手はパートの Y さんで,内容は職員がなぜこんなに少ないのかという話だった。利用者の為に職員が研修にいって,その研修にいっている職員がいないことで利用者に迷惑がかかっているのでは意味がないという内容で,T さんは自分の意見をやや強めに Y さんに話しながらも,時折 Y さんに「どう思う?」と問いかけるシーンがあった。T さんが話し,問いかけ,Y さんが一言答えるという一連の場面を見て,私は「T さんは利用者なのにあんなに意見が言えてすごい」「利用者さんが職員さんに意見できるなんてすごい」「ちゃんと意見を聞けている,すごい」と思っていた。何に対してもすごいと感じ,「これが利用者と職員が対等,という事か」と感じた時,自分の中に不自然な感覚があった。すごい,すごいと思うという事は,出来るわけないと思っていたということか。自分の考えと偏見に違和感を感じた。

③メタ意味その時に感じた違和感はそんなに大きなものではなかったが,振り返りを続けるにつれてそれは大きくなっていった。頭では「利用者と支援者は対等であるべき」と考えながらも,実は「できるわけない」という思いを持っていたのである。私は昔から,授業で習うような社会の正論を何の疑いもなく,違和感もなく自分の意見としてきたと思う。それが今回の違和感につながったのではないだろうか。教えられたことを何の疑いもなくこれまで過ごしてきたが,実際の現場に合って,はじめて自分の中の偏見に気が付くことができた。この出来事を通じて,「障害者に〇〇はできない」「障害者が〇〇ができたらすごい」など,評価的で上から目線な偏見に気づくことができた。

5−4.筆者による検証

M さんは個人スーパービジョンの時点では課題であるエピソード記述をまだ書けて

おらず,どんなことを書けば良いのかひとまず相談したいということだった。M さん

は筆者と話をするなかで,ここで書かれている T さんと Y さんの会話の場面を想起し

て自らの内に生じた「違和感」について語った。エピソード記述のプロジェクトをとお

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討162

Page 19: エピソード記述の社会福祉研究への 援用可能性の検討5−5.二つのエピソード記述の了解可能性 6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

してエピソード記述を書いたり検証したりする試みを繰り返してきた筆者は,直感的に

「その場面ならエピソード記述にできる」と判断し,その場面をエピソード記述として

書いてはどうかとアドバイスをした。後に提出されたのがこのエピソード記述である。

M さんのエピソード記述に関して,ここでは一つ目の視点である現象学的アプロー

チに関連して「生きられる還元」という観点から検証を行う。このエピソードの起点に

なっているのは M さんにとってふと訪れた「不自然な感覚」であり,後で述べている

「違和感」である。その感覚が「さまざまな人との出会いのなかで,不意に向こうから

訪れてくる形で受動的に身に被る」(鯨岡 1999 : 114)という意味でまさに「生きられ

る還元」と呼べる体験であったと言える。そして,M さんがこのエピソード記述で行

っていることは,「自明性の問い直し」であり,「抵抗分析」であると意味づけられる。

では,M さんが問い直すことになった「自明性」,すなわち「自然的態度」とはどの

ようなものであろうか。M さんが言語化したのは,エピソード記述の「頭では『利用

者と支援者は対等であるべき』と考えながらも,実は『できるわけない』という思いを

持っていた」という部分である。M さんは「私は昔から,授業で習うような社会の正

論を何の疑いもなく,違和感もなく自分の意見としてきたと思う」と書いているが,お

そらく社会福祉学科の学生として,また実習に行く学生として,「利用者と支援者はど

うあるべきか」と問われれば,迷うことなく「対等であるべき」と答えたであろうし,

もしかしたら異なる意見をもつ人に対して「いや,対等であらねばならない」と主張や

説得さえしたかもしれない。それにもかかわらず,実習先の現場で思いがけず見つけて

しまったのは,「自分の意見を主張しながらも,相手の意見をちゃんと聞ける」という,

障害のない人にとっては当たり前のことを「すごい」と感じ賞賛していた自分の姿であ

った。

M さんはここでの気づきを「評価的で上から目線な偏見」と表現しているが,ここ

で「自然的態度」にあたるのは,頭で考える理性的な見方・考え方とは別に,自分自身

の感性や感覚のなかに存在している異なる見方・感じ方だと言うこともできる。学生た

ちは社会福祉を学ぶなかで,当該学問のなかで「正しい」とされている知識や考え方を

学んでいくが,それは理性的な見方・考え方を身につけていくことでもある。しかしな

がら,私たちの生きる社会は必ずしもそのような「正しい」あり方であるとは限らな

い。「支援者と利用者は対等」であり,「障害者も私たちと同じ一人の人間である」こと

は「正しい」ことであるだろうが,現実の社会は障害者を健常者よりも劣った存在とし

て見るまなざしにあふれ,学生たちはそのような社会の中で育ち生活している。M さ

んのエピソード記述は,その現実の社会のまなざしを自明のこととして自らのうちに内

在化させている自分自身にふと気づいた瞬間が表現されており,また M さん自身がそ

のことを一歩引いて自覚的に捉えていることから,「生きられる還元」と意味づけるこ

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討 163

Page 20: エピソード記述の社会福祉研究への 援用可能性の検討5−5.二つのエピソード記述の了解可能性 6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

とができる。

5−5.二つのエピソード記述の了解可能性

以上,二つのエピソード記述を,三つの視点に沿って検証してきたが,本章の最後に

この二つのエピソード記述の了解可能性について言及しておく。本稿において了解可能

性を判断する観点としては,鯨岡が示している「現出した問題の意味を個々具体に即し

てどれほど深く理解できるか」,および「それを理解するためにどれだけ適切な枠組み

を提示できるか」の二点を用いる。

まず K さんのエピソードに関しては,描かれた出来事およびその意味を「どれほど

深く理解できるか」という点においてある程度達成できていると判断した。学部の 3年

次生が初めて書いたエピソード記述であり,また指導にかけられる時間的な制約もある

ため,意味の掘り下げや言語化がまだできた余地はあるだろう。それでもなお,了解可

能性がある程度認められると判断するのは次のような理由である。

エピソード記述のプロジェクトではおよそ 2か月に 1回のペースで研究会を開き,文

献講読や先行研究の検討のほかに,プロジェクトメンバーがエピソード記述を書いてき

てそれを検証する試みを行ってきた。その中で,「良いエピソード記述は読み手の体験

を喚起するのではないか」という意見が挙がった。鯨岡が述べる「個々具体に即して」

「深く理解できる」というのは,書き手がその場で得た「或る感じ」やそのことに付し

た意味を,読み手もまた自分の経験に照らし合わせて理解し納得することだと言うこと

もできる。

個別スーパービジョンの時に K さんが持参したエピソード記述は,メタ意味の考察

は数行しか書かれていない時点のものであったが,エピソードの部分を読むだけで筆者

にはその場面で起きたことをありありと想像し,K さんにとってのその体験の重要性

を理解することができた。なぜならそこに描かれたエピソードが,筆者自身が大学生時

代に体験したことととても近いものがあったからである。筆者は K さんの書いたエピ

ソードを読み,それまで思い起こすことなどほとんどなかった大学生時代の出来事を思

い出し,思わずその自分の体験を K さんに話していたのである。

また,了解可能性を問うという場合,当然だが指導者である筆者だけが共感したとい

うのでは説得力に乏しい。K さんのエピソード記述については,実習指導の小クラス

やプロジェクトの研究会においても紹介し検証を行っているが,そのような場において

もある程度の了解可能性が確かめられたと考えている。以上の経緯から,K さんのエ

ピソード記述を「了解可能性がある程度認められる」と判断した。

次に,M さんのエピソード記述であるが,こちらについても「現出した問題の意味

を個々具体に即してどれほど深く理解できるか」という点で了解可能性を問うことは可

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討164

Page 21: エピソード記述の社会福祉研究への 援用可能性の検討5−5.二つのエピソード記述の了解可能性 6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

能であり,筆者自身はその点に関してやはり「ある程度認められる」と判断している。

しかしながら,小クラスや研究会での検証はほとんどできていないこともあり,現時点

ではその評価は本稿の読み手に委ねざるを得ない。

次に,「それを理解するためにどれだけ適切な枠組みを提示できるか」という点で筆

者自身の見解を述べることとする。

本稿の執筆をとおして,筆者は改めて K さんと M さんが体験したことの意味,およ

びそこから実習生として得た学びの意味を筆者自身の視点で掘り下げることができた。

とりわけ M さんのエピソード記述を検証するなかで筆者が得た気づきは,理屈で理解

して学びとってきたことと,生活や体験をとおして内在化させてきた感覚や感性とが別

のものであるという点である。これは M さんだけに言えることではなく,また必ずし

もその両者が一致していることが望ましいというわけでもないだろう。しかしながら,

社会福祉の研究・教育に従事する筆者の立場で問題にしたいのは,生活や体験をとおし

て学びとってきた感覚や感性がどのように培われるのか,そしてそこに歪みや偏り,あ

るいは当該領域において「正しい」とされていることから乖離している場合に,それら

をどのように変容させることができるのかという点である。

前節において筆者は,そのような感覚や感性の背景として現実の社会のまなざしの影

響を挙げた。このような社会のあり様やそこから自身が被っている影響は,日常生活の

中ではほとんど意識されることはない。しかしながら,自分とは異なる存在との出会い

や他者の経験に触れるなかで「その『当たり前』が壊れたり,崩れたり」(鯨岡 2005 :

221)することで目に見えるようになる。鯨岡はそのことを「生きられる還元」と名付

け,その方法論としてエピソード記述を提起している。鯨岡はこの「当たり前」の背景

として,社会や文化のあり様にも言及している。曰く,養育者の主観性のありようは

「世間一般の常識や価値観などの共同主観性のありよう等々によって規定されてもいる」

(鯨岡 2009 : 14)のであり,発達や養育のあり方に対する評価も社会や文化の影響を受

けて常に変化するものである。これは,普遍的で抽象的な子ども像や養育者像を描いて

いるかのような行動科学に基づく従来の発達研究に対するアンチテーゼの一側面として

提示されている観点である。

このように鯨岡は,社会や文化の存在およびその時代による変化を,発達をとらえる

際の重要なファクターとして位置づけ,またそれへの気づきを「還元」と意味づけてい

る。しかしながら鯨岡の文献からは,エピソードを記述する観察者やエピソードに登場

する被観察者が社会や文化を変革する主体にもなり得るという可能性についてはほとん

ど言及されていない。

鯨岡の文献からは,関係発達を「子ども-養育者間の間主観的な関係が時間的に変容

してゆく過程である」(鯨岡 1999 : 12)と述べていることからも,育ち・育てられると

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討 165

Page 22: エピソード記述の社会福祉研究への 援用可能性の検討5−5.二つのエピソード記述の了解可能性 6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

いう世代間伝達と社会や文化のありようが相互に影響し合いながら変容していくという

相互変容のプロセスを捉えようとしていることが理解できる。しかしながら,社会福祉

研究・実践にエピソード記述を援用するのであれば,やはりもっと積極的に社会や文化

の変容を働きかけるというベクトルに着目するべきであると筆者は考える。

以上のことから,「それを理解するためにどれだけ適切な枠組みを提示できるか」と

いう点で M さんの体験したことや M さんが書いたエピソード記述の意味を言語化す

るとすれば,さしあたり次のように述べることができる。

社会福祉の領域で実践(実習)を行う私たちの背景には,さまざまな歪みや偏った見

方にあふれる社会や文化があり,その中で生きる実践者(実習生)たちにも内在化され

ている可能性がある。普段はその内在化させているものにはなかなか気づかないが,自

分とは異なる考え方やものの見方,生き方や存在様式の他者と出会うことで,ふとその

自明性に気づくことがある。実践(実習)に携わる者にとってのそうした自明性に対す

る気づきは,自己覚知のプロセスとして自己の専門性の向上につなげられる可能性に加

え,歪みや偏った見方にあふれる社会や文化に働きかけるきっかけや動機にしていける

可能性がある。

以上が,M さんのエピソード記述をきっかけに,筆者自身が本稿で示すことができ

る目の前の事象を「理解するための適切な枠組み」の一つである。もちろんこの枠組み

がどの程度了解可能かは今後検証する必要がある。それはたとえば社会福祉領域の実習

や実践現場において指導的な立場にある人が,スーパービジョンで共有された事柄を理

解し次なる実践につなげようとする際にこの枠組みが役立つかどうかといった点を検証

することであると考える。

6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

本稿では,現象学に関連する三つの視点を提示したうえで,社会福祉実習の事後学習

で学生が書いたエピソード記述を検証してきた。今回紹介してきた事後学習での試み

は,完成したエピソード記述を小クラス等の場で共有したり,時間をかけてより深く意

味を掘り下げたりといったことが不十分であることは否めず,了解可能性が十分にある

とは言い難い。しかしながら,エピソード記述をある程度完成できた K さんや M さん

にとっては,実習直後にはもやもやとした「或る感じ」でしかなかった体験が,エピソ

ード記述を書くことでその意味が明らかになり,そこで学んだことが個別具体の出来事

と共に言語化された記録として残せる形になった。このことはエピソード記述を用いた

実習指導における成果の一つとして位置づけることができるだろう。

最後に,本稿のまとめとして,エピソード記述を社会福祉領域の研究に援用する際の

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討166

Page 23: エピソード記述の社会福祉研究への 援用可能性の検討5−5.二つのエピソード記述の了解可能性 6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

意義と可能性について述べる。まず一つ目に,間主観的アプローチによって,言葉での

意思表示や自己表現が難しい知的障害者や認知症の高齢者の主観にアプローチできる可

能性が挙げられる。

筆者が書いた「F さんは見ていてくれた」や K さんの書いたエピソード記述には,

書き手が知的障害者の見ている光景や感じていることを間主観的に把握できた瞬間が描

かれている。もちろんここで把握したことが,本当に F さんや S 君の主観と一致する

かといえばそうではないかもしれない。しかしながら,「本当に事実がそのようであっ

たのか」ではなく,「なぜそのように確信するのか」の理由や経緯を掘り下げるのが現

象学的アプローチである。このことは決して,F さんや S 君が本当にどう思っている

のかは重要でないという意味ではない。社会福祉領域の研究においては近年,障害や病

気,生きづらさを抱える本人の主観にアプローチするために,当事者にインタビューを

して質的分析を行う研究が増えてきている。しかしながら,そもそも知的障害や認知症

でない人の場合であっても,他者の主観を本当に理解するのは極めて困難なことであ

り,言語化されたその人の主観が本当に事実を言い当てているかどうかを確かめること

にも限界がある。現象学的アプローチにおいては,言葉での意思表示や自己表現が難し

い人に対しても,言語化が可能な人に対するのと同じような思考の枠組みでもって彼ら

の主観にアプローチができると考えられる。

二つ目は,「生きられる還元」に関連する可能性についてである。これについては前

章の最後に示したとおりで繰り返しになるが,鯨岡のこの概念を社会福祉領域の研究に

援用する場合,まずは「生きられる還元」をきっかけとして,いかに社会や文化の変容

へと向かうことができるかを検討していく必要があるだろう。

また,「生きられる還元」を行う主体は,研究で取り扱う対象者や対象者に関与する

支援者等のみならず,研究者自身も含まれるという点も重要である。鯨岡がその著書で

繰り返し問いかけていることは,研究者こそが学知にとらわれて真に目の前で展開する

関係を生きられない状態にあるのではないかという点であり,だからこそエピソード記

述では研究者が実践現場で実際に対象者に関与しながら観察を行う「関与観察」という

方法が採用されている。本稿では社会福祉実習を行った M さんのエピソード記述が

「生きられる還元」と意味づけられると述べたが,専門的な知識や技術を十分に習得す

る以前の学生という立場であればこそ,4週間の実習の間に「生きられる還元」に当た

るようなプロセスが踏めたのであって,もしかすると知識や経験を積んだ専門職や研究

者であるほどそれは難くなるのかもしれない。

研究者自身に「生きられる還元」が求められるのは,研究者自身が歪みや偏りのある

社会や文化の中で実際に生きているのであり,そうした歪みや偏りを内在化させている

可能性があるからである。では研究者が皆,自分自身の歪みや偏りを全く自覚せずに研

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討 167

Page 24: エピソード記述の社会福祉研究への 援用可能性の検討5−5.二つのエピソード記述の了解可能性 6.まとめ:エピソード記述の意義と可能性

究しているかというと,実はそうでもないのではないかと筆者は考える。客観的で実証

主義的な研究によって何らかの法則や理論を提示し証明しようとするような研究であっ

ても,最初にそのような法則や理論の必要性に気づいたのは,個々の研究者の主観的で

感性的な気づきであった場合が少なくないのではないだろうか。しかしながら,実証主

義的であることが研究の条件や常識である限り,研究者個人の主観的で感性的な気づき

は取るに足りない出来事として背後に消されてしまう。現象学およびエピソード記述

は,こうした研究者個人の主観的・感性的な気づきを,客観的・実証主義的に証明する

のとは異なる道筋を経て「普遍性の提示」へと至らしめる可能性があるのではないかと

いうのが筆者の考えである。

ではその「普遍性の提示」へと至るプロセスはどのようなものであろうか。本稿で検

討したのは「了解可能性」という概念であり,とりわけ研究者に求められるのは「それ

を理解するためにどれだけ適切な枠組みを提示できるか」であるという見解を示した。

つまり「適切な枠組みの提示」こそがここでいう「普遍性の提示」にあたる。

この点について,ここでは筆者の研究領域である障害者福祉における「自立」の概念

を例に述べていく。障害者の自立の概念はこれまで「ADL の自立」や「経済的な自立」

から,「自己決定による自立」や「社会的自立」へと歴史的に変遷してきた(5)。しかし

ながら,一人の障害者個人において,「自立」と概念づけられる状態があるという前提

にたつ限り,その概念をどのように説明しようとも,そこに当てはまらない人,多くの

場合重度の心身障害者を排除せざるを得ないという限界が生じることとなる。そこで,

「自立」の概念を竹田が言うような信憑構造として捉えてみるとどうなるだろうか。客

観的に「自立しているかどうか」を説明できるような基準や指標は意味を為さなくな

り,「自立している」あるいは「自立に向けて変化した」と「感じられる」「確信がもて

る」ような事態をこそ捉えることがまずは求められることになる。重度の心身障害者の

場合,本人に自分の状態をどのように確信しているかを言語化してもらうのは難しい

が,その本人と関係をもつ周囲の人々,たとえば家族や支援者や友人等にとって本人の

状態がどのように感じられているか,どのように変化することが「自立」すなわちより

望ましい状態だと感じられるのかを言語化することは可能である。またそこで間主観的

なアプローチを用いることもできるだろうし,エピソード記述はそれらを言語化する際

の方法の一つとなり得る。

ただし,エピソード記述をたくさん集めて共通項を取り出すという方法で「普遍的な

自立の概念」を示すのでは,現象学以前の従来の研究パラダイムの域を出ていないこと

になる。ここで最終的に示すべき「普遍性の提示」とは,一人の援助者が目の前の一人

の障害者の自立を促そうとするときに,あるいはその障害者の印象的な変化を理解しよ

うとするときに,実践的に役立つ「適切な枠組み」を提示することである。

エピソード記述の社会福祉研究への援用可能性の検討168

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その「適切な枠組み」がどのようなものであるのかを示し,その枠組みの了解可能性

を確かめる作業は今後の筆者の研究において取り組んでいくべき課題であるが,少なく

とも,鯨岡が従来の「個体発達」という前提から脱して新しい理論を打ち立てたよう

に,自立の概念も「個人の自立」という前提から脱却することが必要ではないかと今の

ところは考えている。以上が,エピソード記述を研究に援用する際に考えられる可能性

である。

鯨岡はエピソード記述を「自分自身の生のありようを含めて,人が生きるということ

の意味を問い続ける」(鯨岡 2005 : 262)ためのものであると説いているが,現象学そ

のものに関しても,また鯨岡の展開する発達理論に関しても,そこで論じられている射

程は非常に幅広く,新しく提起されている概念は非常に多岐にわたっている。本稿でエ

ピソード記述を検証する際の視点として採用したものは,それらの多くの視点のうちご

く一部であり,今後プロジェクトのチームにおいてさらに理解を深めていきたいと考え

ている。

注⑴ 構成メンバーは本学教員,院生,卒業生,本学客員研究員などで,2014年時点で筆者を含め 16名である。およそ 2か月に 1回研究会を開き,エピソード記述の理解を深めるとともに,社会福祉研究・教育・実践への援用の可能性について検討している。

⑵ この時点で,K さんおよび実習先に,今後の授業や研究のために匿名で使用することの許可を得ている。

⑶ なお,筆者は実習指導において,エピソード記述の他に,コミュニケーションにおいて困った場面や,何らかの気づきがあった場面に関してプロセスレコードを書くことを課している。これは主に,実習中に行う指導において,困った場面を共有して以後のコミュニケーションの変容を促すために活用している。筆者が使用しているのは「私が見たりきいたりしたこと」「私が考えたり感じたりしたこと」「私が言ったり行ったりしたこと」の 3項目を書くフォーマットであるが,この項目のうち「私が考えたり感じたりしたこと」を詳細に考察することがエピソード記述のメタ意味につながるという点が,プロジェクトの研究会において指摘された。筆者がそのことを学生に伝えていたことから,エピソード記述を書く際にプロセスレコードを活用した学生が何人かいた。

⑷ もっともこれは,竹田と鯨岡の見解の違いというよりも,鯨岡自身がその著書(鯨岡 2006)においてメルロ=ポンティに多大な影響を受けたことに言及していることから,エピソード記述は,フッサールを創始とする現象学そのものに加えて,メルロ=ポンティが発展させた知覚やその主体である身体にフォーカスした現象学に基づく方法論であることを意味しているともいえる。

⑸ この点については,筆者の学位論文(森口 2012)において,障害者福祉に関連する先行研究において重度の知的障害者の自立の概念について一致した見解に至っていないと考えられることを指摘した。

参考文献鯨岡峻 1999『関係性発達論の構築』ミネルヴァ書房鯨岡峻 2005『エピソード記述入門-実践と質的研究のために-』東京大学出版会鯨岡峻 2006『ひとがひとをわかるということ-間主観性と相互主体性』ミネルヴァ書房森口弘美 2012「知的障害者の『親元からの自立』を可能にするための社会福祉実践-法制度と規範のメカニズムに着目して-」博士学位論文

竹田青嗣 2004『現象学は〈思考の原理〉である』筑摩書房

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This brief note shows three viewpoints about phenomenology and the examination of theEpisode KIJYUTSU that students wrote. The purpose is to clarify the significance of the methodto apply to the study of social welfare. One of the things that become clear by this examinationis that the method is helpful so that students can understand the meaning of their experiencesthrough writing Episode KIJYUTSU. The other thing is how we can clarify the universalitywhen we apply this method to the study of social welfare.

Key words : Episode KIJYUTSU (Kujiraoka-case Description), Learning after the field work,Phenomenological approach, Intersubjective approach, Clinical approach

Examination of Applying of the Episode KIJYUTSU

(Kujiraoka-case Description) to the Study of Social Welfare :

Through an Attempt in the Learning after the Field Work of Social Welfare

Hiromi Moriguchi

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