モンゴル西部カザフ集住県におけるイスラム信仰と伝統文化...

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研究報告 モンゴル西部カザフ集住県におけるイスラム信仰と伝統文化の復興」 スヘー・バトトルガ(モンゴル国立大学教授) モンゴル国の首都ウランバートルに近い鉱山町の ナライハに住むカザフ人は、モンゴル人の中で生活 していますので、モンゴル語を話します。若い人たち は、カザフ語のほうができないかもしれません。文化 的にもモンゴル人と非常に近くなってきています。 しかしモンゴルの西の端のバヤンウルギー県にいき ますと、カザフ人が県の人口の大部分、つまり 90 ーセント以上を占めています。ですからカザフ人の 県といってもいいくらいです。私が初めて訪れたの 1998 年です。彼らは私にカザフ語で話しかけてき ました。モンゴル語はしゃべってくれない。もちろん 県の中心部に住んでいる人たちはモンゴル語ができ ますが、まずはカザフ語で話しかけてくるという状 況でした。 13 世紀にいろんな部族を統一してモンゴル帝国が できました。15 世紀から諸部族が独立をしていきま す。ハルハ、チャハル、オルドスの大きな3つの部族 が分かれていくわけですが、現在ではハルハと名付 けられている人たちがモンゴル国に住んでいます。 チャハルが中国内モンゴル自治区(南モンゴル)に住 んでいます。オルドスは中国の内モンゴルの西の方 と新疆の方とモンゴルの西部にも住んでいます。 モンゴル国にはハルハを中心とするモンゴル系の 人たちが大部分を占めているのですが、4%がイス ラム系のカザフ人です。少数民族は、モンゴル国の西 と北の辺りに分布しています。少数民族の大部分が カザフスタンや中国の新疆ウイグル自治区、ロシア の国境に近いところにいるわけです。カザフ人の人 口を見てみますと、 1930 年頃は1万人いたというこ とになっています。2010 年には 10 万人に達してい ます。90 年代に 12 万人に達していたのですが、カ ザフスタンへ集団移住した結果、減少しました。バヤ ンウルギー県の人口は今は 9 万人くらいで、その 9 割くらいがカザフです。 歴史的には、彼らは新疆ウィグル自治区から移動 してきたということです。もともとはカザフ高原は 大きく3つ地域に分かれています。その中で「中ジュ ズ」というところの人たちです。1760 年頃、政治的 な変動があって、中ジュズの一部の人が新疆ウィグ ル自治区へ移動してきました。そこで 100 年くらい 住んで、またそこから一部の人がモンゴルの西部の 方に移動してきました。新疆ウィグル自治区に 100 年くらい住んでいたときにイスラム教を取り入れま した。文化的な面からみますと、モンゴル人と同じく 家畜を飼って、放牧生活をしています。しかし、モン ゴル人が仏教を信仰していますが、カザフ人たちは イスラム教を信仰しています。 この西部に来た人たちですが、 1940 年にバヤウル ギー県という新しい県が西部にできた時にバヤウル ギー県やホフド県というところに半分ずつくらい住 んでいました。社会主義時代には、モンゴル全体で宗 教が禁止され、また伝統的なことをやってはいけな かった。モンゴル人も伝統的な縦文字も禁止され、使 わなくなってしまいました。同じくカザフ人におい てもそのような悲しい出来事があったと思いますが、 辺境に住んでいて、遊牧生活をしていた人々にはそ れほど厳しい圧力はなかったようです。 そして 90 年代に入って、市場経済化と民主化によ って大きく変わっていくわけです。経済の変化と共 に、文化と信仰の復興が起こります。 現在は県の中心部にいろんなお店ができています。 2012 年の 8 月に訪れた時、バヤンウルギー県中心部 に住んでいるモンゴル系の人が経営しているお店、 レストランとホテルを訪問しました(写真 1)。バヤ ンウルギー県でモンゴル系の人が大きなビジネスを するのは難しいようです。このお店は2~3年前に できたそうですが、数少ない成功の例です。経営者た ちはカザフの大きなお祭りになると、年配の人たち を呼んで、ごちそうしたり、おみやげを持たせたりし ているそうです。そうしないと緊張関係になり、難し くなるということでした。モンゴル人の経営でも、ほ とんどのお店が今はカザフ語の看板をかけていたり、 カザフ語を使っています。社会主義時代にはカザフ 語を使っていませんでした。 その隣にトルコのレストランがあります(写真 2)。 現在バヤンウルギー県にはトルコ人も住んでいます。 モンゴルのカザフ人と結婚した人ですが、レストラ ンを経営していて、このレストランには wi-fi が導入 されているので、外国人の利用客が多いです。 カザフ民芸品のお店はカザフ人が経営しています (写真 3)。 2000 年に訪れた頃とは店が様変わりして いました。このお店のオーナーのご主人がバヤンウ ルギー県の議会の議長をやっていたこともあり、県 の中心部のいいところを購入して、このお店を作っ たそうです。確かに以前、このお店はバーでした。ビ ールなどのアルコール類を売ったり、カラオケがあ

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研究報告

モンゴル西部カザフ集住県におけるイスラム信仰と伝統文化の復興」

スヘー・バトトルガ(モンゴル国立大学教授)

モンゴル国の首都ウランバートルに近い鉱山町の

ナライハに住むカザフ人は、モンゴル人の中で生活

していますので、モンゴル語を話します。若い人たち

は、カザフ語のほうができないかもしれません。文化

的にもモンゴル人と非常に近くなってきています。

しかしモンゴルの西の端のバヤンウルギー県にいき

ますと、カザフ人が県の人口の大部分、つまり 90パーセント以上を占めています。ですからカザフ人の

県といってもいいくらいです。私が初めて訪れたの

は 1998年です。彼らは私にカザフ語で話しかけてきました。モンゴル語はしゃべってくれない。もちろん

県の中心部に住んでいる人たちはモンゴル語ができ

ますが、まずはカザフ語で話しかけてくるという状

況でした。 13世紀にいろんな部族を統一してモンゴル帝国が

できました。15世紀から諸部族が独立をしていきます。ハルハ、チャハル、オルドスの大きな3つの部族

が分かれていくわけですが、現在ではハルハと名付

けられている人たちがモンゴル国に住んでいます。

チャハルが中国内モンゴル自治区(南モンゴル)に住

んでいます。オルドスは中国の内モンゴルの西の方

と新疆の方とモンゴルの西部にも住んでいます。 モンゴル国にはハルハを中心とするモンゴル系の

人たちが大部分を占めているのですが、4%がイス

ラム系のカザフ人です。少数民族は、モンゴル国の西

と北の辺りに分布しています。少数民族の大部分が

カザフスタンや中国の新疆ウイグル自治区、ロシア

の国境に近いところにいるわけです。カザフ人の人

口を見てみますと、1930年頃は1万人いたということになっています。2010 年には 10 万人に達しています。90 年代に 12 万人に達していたのですが、カザフスタンへ集団移住した結果、減少しました。バヤ

ンウルギー県の人口は今は 9 万人くらいで、その 9割くらいがカザフです。 歴史的には、彼らは新疆ウィグル自治区から移動

してきたということです。もともとはカザフ高原は

大きく3つ地域に分かれています。その中で「中ジュ

ズ」というところの人たちです。1760年頃、政治的な変動があって、中ジュズの一部の人が新疆ウィグ

ル自治区へ移動してきました。そこで 100 年くらい住んで、またそこから一部の人がモンゴルの西部の

方に移動してきました。新疆ウィグル自治区に 100年くらい住んでいたときにイスラム教を取り入れま

した。文化的な面からみますと、モンゴル人と同じく

家畜を飼って、放牧生活をしています。しかし、モン

ゴル人が仏教を信仰していますが、カザフ人たちは

イスラム教を信仰しています。 この西部に来た人たちですが、1940年にバヤウル

ギー県という新しい県が西部にできた時にバヤウル

ギー県やホフド県というところに半分ずつくらい住

んでいました。社会主義時代には、モンゴル全体で宗

教が禁止され、また伝統的なことをやってはいけな

かった。モンゴル人も伝統的な縦文字も禁止され、使

わなくなってしまいました。同じくカザフ人におい

てもそのような悲しい出来事があったと思いますが、

辺境に住んでいて、遊牧生活をしていた人々にはそ

れほど厳しい圧力はなかったようです。 そして 90年代に入って、市場経済化と民主化によ

って大きく変わっていくわけです。経済の変化と共

に、文化と信仰の復興が起こります。 現在は県の中心部にいろんなお店ができています。

2012年の 8月に訪れた時、バヤンウルギー県中心部に住んでいるモンゴル系の人が経営しているお店、

レストランとホテルを訪問しました(写真 1)。バヤンウルギー県でモンゴル系の人が大きなビジネスを

するのは難しいようです。このお店は2~3年前に

できたそうですが、数少ない成功の例です。経営者た

ちはカザフの大きなお祭りになると、年配の人たち

を呼んで、ごちそうしたり、おみやげを持たせたりし

ているそうです。そうしないと緊張関係になり、難し

くなるということでした。モンゴル人の経営でも、ほ

とんどのお店が今はカザフ語の看板をかけていたり、

カザフ語を使っています。社会主義時代にはカザフ

語を使っていませんでした。 その隣にトルコのレストランがあります(写真 2)。

現在バヤンウルギー県にはトルコ人も住んでいます。

モンゴルのカザフ人と結婚した人ですが、レストラ

ンを経営していて、このレストランにはwi-fiが導入されているので、外国人の利用客が多いです。 カザフ民芸品のお店はカザフ人が経営しています

(写真 3)。2000年に訪れた頃とは店が様変わりしていました。このお店のオーナーのご主人がバヤンウ

ルギー県の議会の議長をやっていたこともあり、県

の中心部のいいところを購入して、このお店を作っ

たそうです。確かに以前、このお店はバーでした。ビ

ールなどのアルコール類を売ったり、カラオケがあ

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研究報告

りました。オーナーである奥さんに、息子と娘がいて、

彼らがカザフスタンとトルコに留学に行き、帰って

きた時に、「お酒を売るような悪いことはしないで欲

しい」と両親に言ったそうです。イスラム教では飲酒

は許されていませんので、「このようなことでお金も

うけするのは辞めましょう」と何度も言ってくるの

で、家族みんなで話をして、このような店に変えたと

いうことでした。 バヤンウルギー県にはトルコの学校もあります。

トルコ語と英語を中心に授業をやっています。95,

6年くらいにできました。この学校に入学すると、学

生寮に入らなくてはいけない。当然、そこでは宗教的

なことを守らなければなりません。 早朝 6 時頃、広場にたくさんの人が集まり、小さ

な車に乗り込みます(写真 4)。荷物もたくさん積んで、3、4台で、新疆ウィグル自治区の国境に向かっ

て出発します。この光景は週に2,3回見られるので

すが、中国とモンゴルはビザがないので、簡単に往来

できます。中国や中国を経由してカザフスタン、トル

コの留学先に向かいます。 観光会社やツアー会社の宣伝はカザフの伝統的な

文化、行事を取り入れた内容を使っています(写真

5)。バヤンウルギー県では、ナウルズやイヌワシ祭になると、中心部の広場にいくつかのゲルを建てて、

ゲルの中でカザフの伝統的な儀礼や習慣を観光客に

紹介しています。これには政府からも少し援助があ

ります。90年代になってモンゴルの大統領がモンゴル国のひとつの祭としてやりましょうと決めました。

ゲルごとに担当があって、ひとつのゲルでは結婚式

の様子を紹介しています(写真 6)。彼らは自分たちの文化のことをよく知っていてやっているわけでは

ありません。急に途中で「これはどうするの?」「こ

れはわからないんだけど、こうでよかったのか?」な

どと、観光客の目の前でこのような会話がされます。

現在ではこのようなことは少なくなってきて、新し

い様相も取り入れてきています。 イヌワシ祭は 10月に開催されます。ナウルズは昔

から伝統的にあって、正月ということで復興されて

いるのですが、イヌワシ祭は新しくできたお祭りで

す。地域振興ということで、観光会社を経営している

人たちが、外国人の資本なども取り入れて、一緒にお

祭りをするようになりました。それから何年か経ち、

カザフ社会のひとつの伝統的なお祭りのひとつとし

て行われるようになっています。カザフ社会では男

性が中心です。宗教的な礼拝も男性が中心にやるの

ですが、このイヌワシ祭のときも男性が中心で、いか

にカザフ人らしく、伝統的な様相を取り入れて、衣装

を着るとか、イヌワシを持って再現して見せられる

かというコンテストが行われます。馬に乗っている

男性たちが、バヤンウルギーの中心部だけではなく、

周辺の村からも集まってきます(写真 7)。これは観光を目的として行われています。しかしこの祭の中

には、伝統的なカザフ人の文化的な様相がたくさん

含まれています。 次に宗教についてですが、いろんな国からの支援

があり、たくさんのモスクが建ちました。私もこの

2012年 8月に訪れた時に、バヤンウルギー県とその近くの村のモスクを全部回りました。沢山のモスク

ができています。モンゴル全国を見ますと、県ごとに

モスクができています。というのは、全ての県にカザ

フ人が住んでいるからです。このモスクができると

いうのは、いつでもカザフ人が礼拝できるように、そ

の場所を提供しているのです。西の方に注目してみ

ますと、たくさんのモスクが集中しています。現在、

バヤンウルギー県だけで、40近いモスクができています。バヤンウルギー県の中心部に十何か所もモス

クができています。サウジアラビアやトルコから資

本が入っているわけですが、もともとは国営のよう

なモスクもあったのですが、民間のモスクもたくさ

ん増えています。それは留学に行って宗教の勉強を

して、帰ってきた人たちが、友達を通じて資本を取り

入れて、自分でモスクを作ります。そのモスクは宗教

的な意味もありますが、彼らが生きて行くために経

済的な面でも非常にいいわけです。モスクが沢山で

きると、若い人たちを集めて、いろんなことを指導し

て、それから留学させるというシステムにもなって

います。 県中心部にあるモスク(写真 8)で、8月にどれく

らいの人が来ているか、調査しました。社会主義時代

に出来ていたので規模は少し小さいですが、金曜日

の礼拝におよそ 200 人の人が来ていました。若い人が多かったです。イスラム教の礼拝の時間が決まっ

ていますので、それに従っています。 モスクのリーダーたちも非常に熱心で、いろんな

ことをやっています。中心部にあるもう一つのモス

クは、2階建てになっています。2階で女性や女の子たちが礼拝をしていました。昔は女性が礼拝すると

いうのはなかったのですが、最近は変わってきまし

た。私が写真を撮っていると、礼拝に来ていた女の子

が「どうして写真を撮るの?」と聞いてきました。私

がモスクに入る時にリーダーに許可をもらって写真

を撮っていたんですが、「ここはダメですよ」と言っ

てきました。非常に熱心だと感じました。彼女に「い

くつの時から礼拝に来ているの?」と聞いたら、「小

さい時からです」と答えてくれました。90年代に民主化というのがあって、復活したのですが、小さい子

が大きくなって、自分の生活の一部として、やってい

るんです。礼拝が終わってから、アラビア語の勉強や

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コーランの勉強、個人的なレッスンをやっていまし

た。お金もかかりません。指導するおじいさんは時間

があって、ボランティアでやっているわけです。 県中心部の郊外に新しい建物が 2~3 年前にでき

ました。カザフ社会の中ではリーダーが何人かいて、

年配の人や知識人などです。その中にトルコやサウ

ジアラビアに外交官、大使として行っていた人がい

て、積極的に宗教の復興に関わっています。彼が大使

として中央アジアに行った時に、資本を取り入れて

モスクを作ったりしたのですが、現在のカザフ人の

留学制度も彼によって成り立っているのです。 彼がウランバートル中心部にも大きなモスクを作

ろうと建築中ですが、資本がなくなってしまったの

で、現在ストップしています。今度はバヤンウルギー

県でもこういう建物を作ろうとしています。

写真1モンゴル系経営者の店

写真2トルコ料理のレストラン

写真3カザフ民芸品店

写真4 カザフスタン、トルコへの乗合バス

写真5 観光の宣伝(イヌワシの絵)

写真6 旧正月「ナウルズ」結婚式の再現

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研究報告

モスクはただ礼拝するだけではなくて、若い子た

ちが寮として使う文化的な施設でもあります。そう

いう意味合いも含めた施設を作ろうとしています。

現在はお金がないから止まっているのだそうです。 バヤンウルギー県から 2 時間くらい離れたトルボ

という村についてお話したいと思います。ここでは

昔から伝統的な遊牧生活を行っています。私はこの

村には 2002年に初めて行きました。カザフ人の牧民

たちは夏営地にいました。そこで結婚式にも出合い

ました。お祝いでは、カザフ人独特のお祈りをして、

羊を屠ります。カザフ人は集まって飲んだり食べた

りするときに、かなり時間をかけて話をしたり、歌っ

たりします。モンゴル人の場合は、お客さんが来る時

は前もって肉とかを煮て準備するのですが、カザフ

人の場合は、肉は前もって準備しません。羊を生きた

まま準備します。そして結婚式が始まった時に、お客

さんにその羊を見せ、神様にも許

しを求めて、礼拝し、祈って、そ

れから解体が始まります。解体し

て、一時間から二時間煮て、それ

で肉が準備することができるの

です。時間がかかりますが、その

間に遠くから来た親戚といろん

な話をする時間を作っているわ

けです。 ある人の 100 歳のお祝いに参加しました。この時に相撲大会が

行われ、モンゴル人もカザフ人も

一緒に参加します。ナライハでは

モンゴル人が多いのでモンゴル

人が勝つことも普通ですが、バヤ

ンウルギー県ではこのような大

会をやって、モンゴル人が勝って

しまうと、ちょっと大騒ぎになっ

てしまいます。モンゴル人が残っ

て、カザフ人と争うと非常に盛り

あがって、カザフ人の方を応援し

ます。世界大会にカザフ人、モン

ゴル人が出ると、モンゴルのカザ

フ人はどちらを応援するのかな

と、疑問に思います。非常に面白

い問題です。 トルボから草原のほうに行き

ますと、途中でカザフ人のお墓を

見かけます。このようなお墓に対

して、モンゴル人は文句を言いま

す。モンゴル人の遊牧民が使って

いた質のいい草原に、カザフ人が

お墓を作ってしまった、と。モン

ゴル人は伝統的に墓の近くに住

むことはしないので、他のところ

に移るしかありません。しかし、

カザフ人は近く住んでも構わな

いと思っている。「土地をどんど

んとっていくんだよ」とモンゴル

人が話してくれました。これはも

うちょっと詳しく調査しなけれ

写真7イヌワシ祭り。

写真8 モスクでの礼拝

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研究報告

ばならないのですが。 このバヤンウルギー県にはイヌワシを持っている

人がたくさんいます。ですからイヌワシ祭というこ

とをやります。しかし、このトルボ村にいるイヌワシ

を飼っている人たちは、そのお祭りになかなか出た

がらないのです。彼らは「私たちは昔からイヌワシを

飼ってきた。でもそれは祭のためではなく、狩りをさ

せるために山から獲って、調教して持っているんだ。

冬にイヌワシを連れて狩りをする。狩りに使うイヌ

ワシは、人がたくさん集まる祭のために見せること

はできないんだ。」と話してくれました。 この村にもモスクがあります。モスクに入る時に

身体を清めて入ります。このモスクの経営者はゲル

で奥さんと一緒に熱心にお祈りをしています。彼と

は調査のたびにお会いするのですが、モンゴルのイ

スラム教徒組織の会長になっています。子供たちに

アラビア語を教えることもしています。子供たちは

学校が終わった後に、モスクに行ってアラビア語を

勉強します。ですから、意味がわからなくてもアラビ

ア語は読める、コーランが読めるようになっていま

す。 1998年に調査に行った時、バヤンウルギー県から

カザフスタンに移住しようとしていた家族がいまし

た。2004年頃に、モンゴルから移住した人たちに会いにカザフスタンを訪れたことがあります。その時

にもこの家族にお会いしました。2012年 8月の調査の時に、バヤンウルギー県でその家族に会いました。

息子を連れてきていて、なぜこちらにいるかという

と、息子のためにお嫁さんをもらいに来たのだと話

してくれました。そのお嫁さんとはどこで知り合っ

たのかというと、彼がカザフスタンにいた時に、彼女

が留学のために来ていた。「私の家族はカザフスタン

にいますが、彼女の家族はモンゴルにいるので、家族

に許しをもらうためにバヤンウルギーに来た」とい

うことでした。 教育に関してはいろんな教科書を使っていますが、

社会主義時代には、バヤンウルギー県にはカザフ語

の学校を作りました。そこではカザフ語とモンゴル

語の両方を使っていました。教科書はカザフスタン

からカザフ語の教科書を取り寄せて使っていました。

その教科書は今でも使われています。 この村にはモンゴル系の人もわずかにいます。そ

の中のある家族に出会いました。以前にも会ったこ

とがある人たちで、ちょうど引っ越しするところで

した。彼らは「圧力や緊張もなく、昔からここで暮ら

してきたので、カザフ人たちと仲良くやっている。し

かし一方で、モンゴル人がバヤンウルギー県から他

の県に移っていて、人口の割合が少なくなっている

のだ」と心配そうに話してくれました。

最後にまとめます。このバヤンウルギー県という

のは、カザフ人が9割近く住んでいるところで、カザ

フ人の県といってもいいです。彼らは子孫のことを

強く意識して、自分たちの祖先のことも覚えていま

す。12世代先まで遡ってもみんな祖先の名前を言えるといっています。何か大きな祭があると系図を出

して、飾ったりしています。それとも関係しているか

もしれませんが、例えば先ほど出てきたトルボ村で

すが、冬営地の場所は安定しているので、動きません。

そこのところをちょっと調べてみますと同じ父系ク

ラン(親族集団)に属している人たちが、一緒にまと

まって暮らしている。そして、結婚する時は他のクラ

ンの人と結婚するというふうになっています。 カザフ人社会ではイスラム教が復興しています。

メッカに巡礼に行った人が増えています。巡礼から

戻ると、イスラム協会から証明書が発行されます。祭

もいろんな伝統的要素を含んでいます。例えばナウ

ルズとイヌワシ祭りはひとつのまとまったカザフ人

の伝統文化の要素を含んだものとして文化的な基本

となっています。もちろん外部の関係もあります。モ

ンゴル人とカザフ人は仲良く生活しているのですが、

微妙に緊張している面もあります。大きく争ったり

はしていないのですが、敏感に意識しているようで

す。これは 90年代に入って社会が変わった時に、カザフ人は自分たちのアイデンティティを主張して、

「バヤンウルギー県に自治権を与えよ」というよう

な主張をしました。それとも関係しているかもしれ

ません。また移住も大きく関係しています。カザフス

タンに移住したモンゴル系のカザフ人は、今も遊牧

を続ける非常に伝統的な生活をする集団だと現地で

高く評価されています。 モンゴルのカザフ社会は、大きくカザフ人社会の

影響の中にありながら、モンゴルの社会の中で、グロ

ーバル化、そしてローカル化という同時の変化の中

で、いろんな影響を受けている。もちろん、ここには

いろんな要素が関わっていて、いろんな関係があり

ます。モンゴル人との関係、中国のカザフ人との関係、

またカザフスタンという国との関係、モスクもそう

なのですが、イスラム世界との関係など、様々なこと

について配慮しなければなりません。モンゴル国の

中でも、イスラムが大きく復興しているので、「若い

人たちがイスラム系の国に行って何を勉強してきて

いるのかわからない」というふうに言う人もいます。

カザフスタンで二年前、イスラムの過激派による大

きな暴動、事件がありました。それによってカザフス

タンも宗教の法律を厳しくしました。モンゴルでこ

のようなことが今後起こる可能性がないとは言えま

せん。モンゴルでも、このようなことに関して注意を

払っているように思います。