アンスラサイクリン系抗癌剤の術前化学療法による 薬剤性心...

8
108 宮崎医会誌 2011 ; 35 : 108-15. 症  例 はじめに アンスラサイクリン系抗癌剤は,心毒性や二次発 癌などのリスクを有するものの,乳癌の化学療法に おけるkey drugとして,広く実地臨床で使用され ている。近年のメタアナリシスにおいて,ヒト上皮 増殖因子受容体2型(HER2)陽性乳癌に対するア ンスラサイクリンを含むレジメンの有用性が示され ている 1) 。一般的に,抗癌剤投与による心毒性は, 血液毒性,消化器毒性に比べると頻度は少ないが, 非可逆的変化を来たすものが多く注意が必要であ る。乳房温存を目的に,アンスラサイクリン系薬剤 を含む術前化学療法が施行され,原発腫瘍と腋窩リ ンパ節転移巣は縮小したものの,有害事象である心 機能低下がみられた乳癌の手術を経験した。その手 術は,周術期の循環動態を厳重に管理することによ り,安全に施行し得たので,その要点を報告する。 アンスラサイクリン系抗癌剤の術前化学療法による 薬剤性心筋症合併乳癌の1切除例 綾部 貴典 富田 雅樹 原  政樹 1) 清水 哲哉 松崎 泰憲 2) 鬼塚 敏男 要約:乳房温存手術のために,アンスラサイクリン系抗癌剤を含む術前化学療法が施行され,その心 毒性による薬剤性心筋症と慢性心不全を発症した乳癌の手術を経験した。周術期リスクの高まった乳 癌手術は,胸部外科領域で一般的に行われる周術期循環管理下に行われ,懸念された心イベントも出 現せずに安全に手術を完遂できたので報告する。[症例]45歳女性。2005年3月左乳頭部の腫瘤性病 変を自覚した。前医で左乳癌[E,33×30×20mm,invasive ductal carcinoma, ER(−),PgR(−), HER-2(3+),T2N1MO,cⅡB期]と診断された。乳房温存のために術前化学療法(シクロホスファ ミド 75mg/㎡,1-14d,エピルビシン 75mg/㎡,d1,6 cycles)が施行された。原発腫瘍と腋窩リンパ 節転移巣は縮小しCRに近いPRと判定された。心エコー検査では,化学療法施行前の左室駆出率(EF) は46%から33%へ低下した。心臓精査目的に心臓カテーテル検査が施行されたが,検査中,血圧上昇 に伴う心不全症状の悪化がみられ,検査後ICUで心不全の治療が行われた。アンスラサイクリン系抗癌 剤による心毒性が原因と思われる薬剤性心筋症,慢性心不全と診断された。薬剤性心筋症を合併した 乳癌の手術は,全身麻酔を含めた周術期に心イベントが出現するリスクが中等度以上あると考えられ, 2006年1月当科に入院した。胸筋温存乳房切除前(Bt+Ax+Ic,level III)は,術中より肺動脈カテー テルを留置し,血行動態をモニタリングし,輸液管理を厳重に行った。術後はICU管理とし,突然死の 原因となる心室性不整脈や低心拍出に対する対策,心房細動時の心拍数コントロールを行った。入院 中の心イベントは起こらなかった。術後病理検査では,原発腫瘍も腋窩リンパ節転移巣も病理学的完 全奏効(pCR)がみられた。患者は乳房温存を期待して術前化学療法を受け,腫瘍は縮小したものの, 有害事象である心機能低下がみられ,乳癌の手術リスクが増大する結果となった。最終的には完治を めざして乳房切除術を選択し,周術期の厳重な循環管理下に,手術は安全に施行できた。心毒性を有 する抗癌剤を含む術前化学療法は,本症例のように手術リスクに影響を与え,功罪となる症例もみら れるので,治療前と治療経過中の心毒性モニタリングが重要であると思われた。 〔平成23年6月25日入稿,平成23年7月11日受理〕 宮崎大学医学部第2外科 1)けいめい記念病院 2)海老原病院

Upload: others

Post on 15-Nov-2020

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: アンスラサイクリン系抗癌剤の術前化学療法による 薬剤性心 …...胸部CT(術前化学療法前):左乳房E領域に33mm 大の不正な腫瘤を認め(図2,a),左腋窩に2cm

− 108 −

宮崎医会誌 2011 ; 35 : 108-15.

症  例

は じ め に

 アンスラサイクリン系抗癌剤は,心毒性や二次発癌などのリスクを有するものの,乳癌の化学療法におけるkey drugとして,広く実地臨床で使用されている。近年のメタアナリシスにおいて,ヒト上皮増殖因子受容体2型(HER2)陽性乳癌に対するア

ンスラサイクリンを含むレジメンの有用性が示されている1)。一般的に,抗癌剤投与による心毒性は,血液毒性,消化器毒性に比べると頻度は少ないが,非可逆的変化を来たすものが多く注意が必要である。乳房温存を目的に,アンスラサイクリン系薬剤を含む術前化学療法が施行され,原発腫瘍と腋窩リンパ節転移巣は縮小したものの,有害事象である心機能低下がみられた乳癌の手術を経験した。その手術は,周術期の循環動態を厳重に管理することにより,安全に施行し得たので,その要点を報告する。

アンスラサイクリン系抗癌剤の術前化学療法による 薬剤性心筋症合併乳癌の1切除例

綾部 貴典 富田 雅樹 原  政樹1)

清水 哲哉 松崎 泰憲2) 鬼塚 敏男

要約:乳房温存手術のために,アンスラサイクリン系抗癌剤を含む術前化学療法が施行され,その心毒性による薬剤性心筋症と慢性心不全を発症した乳癌の手術を経験した。周術期リスクの高まった乳癌手術は,胸部外科領域で一般的に行われる周術期循環管理下に行われ,懸念された心イベントも出現せずに安全に手術を完遂できたので報告する。[症例]45歳女性。2005年3月左乳頭部の腫瘤性病変を自覚した。前医で左乳癌[E,33×30×20mm,invasive ductal carcinoma, ER(−),PgR(−),HER-2(3+),T2N1MO,cⅡB期]と診断された。乳房温存のために術前化学療法(シクロホスファミド 75mg/㎡,1-14d,エピルビシン 75mg/㎡,d1,6 cycles)が施行された。原発腫瘍と腋窩リンパ節転移巣は縮小しCRに近いPRと判定された。心エコー検査では,化学療法施行前の左室駆出率(EF)は46%から33%へ低下した。心臓精査目的に心臓カテーテル検査が施行されたが,検査中,血圧上昇に伴う心不全症状の悪化がみられ,検査後ICUで心不全の治療が行われた。アンスラサイクリン系抗癌剤による心毒性が原因と思われる薬剤性心筋症,慢性心不全と診断された。薬剤性心筋症を合併した乳癌の手術は,全身麻酔を含めた周術期に心イベントが出現するリスクが中等度以上あると考えられ,2006年1月当科に入院した。胸筋温存乳房切除前(Bt+Ax+Ic,level III)は,術中より肺動脈カテーテルを留置し,血行動態をモニタリングし,輸液管理を厳重に行った。術後はICU管理とし,突然死の原因となる心室性不整脈や低心拍出に対する対策,心房細動時の心拍数コントロールを行った。入院中の心イベントは起こらなかった。術後病理検査では,原発腫瘍も腋窩リンパ節転移巣も病理学的完全奏効(pCR)がみられた。患者は乳房温存を期待して術前化学療法を受け,腫瘍は縮小したものの,有害事象である心機能低下がみられ,乳癌の手術リスクが増大する結果となった。最終的には完治をめざして乳房切除術を選択し,周術期の厳重な循環管理下に,手術は安全に施行できた。心毒性を有する抗癌剤を含む術前化学療法は,本症例のように手術リスクに影響を与え,功罪となる症例もみられるので,治療前と治療経過中の心毒性モニタリングが重要であると思われた。 〔平成23年6月25日入稿,平成23年7月11日受理〕

宮崎大学医学部第2外科1)けいめい記念病院2)海老原病院

Page 2: アンスラサイクリン系抗癌剤の術前化学療法による 薬剤性心 …...胸部CT(術前化学療法前):左乳房E領域に33mm 大の不正な腫瘤を認め(図2,a),左腋窩に2cm

− 109 −

綾部 貴典 他:術前化学療法による薬剤性心筋症合併乳癌の手術

図1.a: 身体所見.前医での術前化学療法前には,左乳房E領域に3cm大の腫瘤を認め,左腋窩に2cm大のリンパ節転移巣を認めた.

図2.a,b: 術前化学療法前(2005年4月).左乳房E領域に33mm大の乳癌腫瘍を認め,左腋窩に20mm大のリンパ節転移を認めた.

   c,d: 術前化学療法後(2006年1月).乳癌腫瘍本体と左腋窩リンパ節転移巣はどちらも縮小し,ほぼCRに近いPRと判定した.

b.

a.c.

d.

Page 3: アンスラサイクリン系抗癌剤の術前化学療法による 薬剤性心 …...胸部CT(術前化学療法前):左乳房E領域に33mm 大の不正な腫瘤を認め(図2,a),左腋窩に2cm

− 110 −

宮崎医会誌 第35巻 第2号 2011年9月

症 例

症 例:45歳女性。主 訴:左乳頭部腫瘤。現病歴:2005年3月左乳頭部の腫瘤性病変を自覚し,前 医 に て 左 乳 癌(E,33×30×20mm,invasive ductal carcinoma, ER(−),PgR(−),HER-2(3+),T2N1MO,cⅡB期)と診断された(図1,a)。心エコー検査では,左室駆出率(EF)46%であった。術前化学療法(CE,シクロホスファミド 75mg/㎡,1-14day,エピルビシン 75mg/㎡,6 サイクル)が施行されCRに近いPRが得られた(図2,a,b,c,d)。

図3.a:胸部X線写真.CTRは61%と拡大した.   b:術前化学療法前胸部CT(2005年4月),EF45%.   c:術前化学療法後胸部CT(2006年1月),EF33%,心拡大がみられた.

a.

b. c.

エピルビシンは,総量630mg投与された(推奨最大量 900mg/㎡)。心エコー検査では,化学療法前のEF46%から33%へと低下がみられ,心機能評価のための心臓カテーテル検査が施行された。検査中に血圧上昇により,うっ血性心不全症状が悪化し,ICUにおいて心不全治療が行われた。精査の結果,抗癌剤使用による薬剤性心筋症,慢性心不全と診断された(図3,a,b,c)。治療後は,自覚症状と心不全症状はみられなかった。 乳癌手術において,心イベントが出現する可能性が中等度以上あると考えられ,2006年1月当科に入院した。

Page 4: アンスラサイクリン系抗癌剤の術前化学療法による 薬剤性心 …...胸部CT(術前化学療法前):左乳房E領域に33mm 大の不正な腫瘤を認め(図2,a),左腋窩に2cm

− 111 −

綾部 貴典 他:術前化学療法による薬剤性心筋症合併乳癌の手術

身体所見(図1,a):前医での初診時に,左乳房E領域に3cm大の原発腫瘍,左腋窩に2cm大のリンパ節転移の腫瘤を認めていたが,術前化学療法後の当科入院時には,腫瘍はどちらとも触知できなかった。検査所見:心臓カテーテル検査所見は,〈CAG〉normal coronary, <LVG> Seg 1 : severe hypo., Seg 2-3 : moderate hypo., Seg 4-5 : akinesis, EF 33%

〈右心カテ〉RA 1,PCWP 23,CO 3.8,Cl 2.67,Forrester IIで,BNP:938pg/ml(<18.4)であった。心 電 図 所 見 は,HR 97bpm,irregular, rhythm tachycardia, PVC, Axis NAD, ST-T changes(−),SV1+RV5=6.20mV,LVH(+)であった。心エコー検査所見は,LAD 40 ↑(18-40),LVDs 46 ↑(13-25),LVPWTd 11 ↑,MR(2+),TR(1+),PR

(1+ ),EF 28 %,Wall motion : diffuse severe hypokinesisであった。胸部CT(術前化学療法前):左乳房E領域に33mm大の不正な腫瘤を認め(図2,a),左腋窩に2cm大のリンパ節転移の腫瘤を認めた(図2,b)。胸部CT(術前化学療法後):左乳房E領域に認められた腫瘤は縮小し,治療効果あり,PRと判定した(図2,c)。左腋窩の2cm大のリンパ節転移の腫瘤は

縮小し,治療効果あり,PRと判定した(図2,d)。胸部X線検査:CTRは61%に拡大していた(図3,a)。胸部CT検査:術前化学療法前後で心拡大がみられた(図3,b,c)。入院後経過:前医では乳房温存の予定で術前化学療法が施行され,腫瘍とリンパ節転移巣は縮小したが,心機能が低下し,低リスクである乳癌手術が全身麻酔を含め中等度のリスクがあると判断した。乳房温存手術は,腫瘍が縮小し非触知となり乳腺部分切除の切除範囲の決定が難しくなったこと,局所再発のリスクや,術後放射線照射の可能性と,放射線散乱線の心臓への影響なども考慮し,また患者最終選択

(心臓合併症発症により乳房温存にこだわらなくなった)により,術式は胸筋温存乳房切除術(Bt+Ax+Ic,level III)を選択した。手術による心不全の合併症リスクを5%以上と見積もり,術中より,肺動脈カテーテル留置による血行動態モニタリング下に,厳重な輸液管理を行った。術後はICU管理として,突然死の原因となる心室性不整脈や低心拍出に対する対策を行い,心房細動時の心拍数コントロールを行った。術後経過は,危惧された心不全症状増悪や心イベントは起こらず,元気に退院した。

図4.a. 図4.b.

図4.病理写真a: 術前化学療法前.invasive ductal carcinoma, ER(−),PgR(−),HER-2(3+),cT2N1MO,

cIIB期と診断された.b:術前化学療法後.腫瘍細胞は消失し,病理学的完全奏功(pCR),Ef. 3と判定した.

Page 5: アンスラサイクリン系抗癌剤の術前化学療法による 薬剤性心 …...胸部CT(術前化学療法前):左乳房E領域に33mm 大の不正な腫瘤を認め(図2,a),左腋窩に2cm

− 112 −

宮崎医会誌 第35巻 第2号 2011年9月

病理検査:術前化学療法施行前の生検病理標本(図4,a)ではinvasive ductal carcinoma, ER(−),PgR(−),Grade 1,HER2(3+)と診断した。術前化学療法施行後の手術摘出標本の病理組織検査

(図4,b)では,原発巣の腫瘍細胞の消失を認めた(Ef.3)。郭清リンパ節の結果は,level I 0/16,level II 0/7,level III 0/4で,ダウンステージがみられた。術前化学療法の治療効果は,病理学的完全奏功(pCR)を認めた。

考 察

 ファルモビルシン(一般名:塩酸エピルビシン)は,1975年イタリアで合成・開発されたアンスラサイクリン系の抗腫瘍性抗生物質製剤である。塩酸エピルビシンは,塩酸ドキソルビシンの4'位のOH基が反転した立体異性体で,腫瘍細胞のDNAとcomplexを形成することにより,DNA,RNAポリメラーゼ反応およびトポイソメラーゼII活性を阻害し,その結果,DNA,RNAの生合成を抑制して,抗腫瘍効果を発現する2)。塩酸エピルビシンは,塩酸ドキソルビシン(アドリアマイシン)と比較して,心毒性が軽減されたアンスラサイクリン系薬剤である3)。日本では,1982年に臨床試験が開始され,急性白血病,悪性リンパ腫,乳癌,肝癌,胃癌,卵巣癌,尿路上皮癌に対し有用性が認められ,1989年に輸入承認され,現在まで幅広くのレジメンに使用されている。とくに,乳癌の化学療法においては,key drugとして,広く実地臨床で使用されている。アンスラサイクリンを含むレジメンと非アンスラサイクリンレジメンを比較検討したメタアナリシスにおいて,HER2陽性乳癌に対するアンスラサイクリンの有用性が示されている1)。重大な副作用として,心筋障害(0.12%),骨髄抑制(頻度不明),ショック(頻度不明),間質性肺炎(頻度不明),萎縮膀胱

(頻度不明),肝・胆道障害(頻度不明),胃潰瘍(0.02%),十二指腸潰瘍(0.02%)などが薬剤添付文書に記載されており,アンスラサイクリン薬剤未治療例では,総投与量が900mg/㎡を超えるとうっ血性心不全を起こすことがあると使用上の注意に記載されている4)。本症例は,エピルビシンを総量630mg投与されており,総投与量900mg/㎡以内で

あるにもかかわらず,心エコー上の心機能(EF)が低下した。エピルビシンの総投与量が900mg/㎡以下であっても,うっ血性心不全を来たすことがあり,特に他のアンスラサイクリン系薬剤等心毒性を有する薬剤の前治療歴のある患者や,心臓・縦隔に放射線照射を受けている患者では,慎重に投与しなければならない。また,心筋障害等の心毒性については,薬剤投与中はもちろんであるが,投与後も長期にわたって心機能検査を行い経過観察することが必要である。 アンスラサイクリン系抗癌剤の投与により,フリーラジカル(O2・H2O2・OHなど)が生成され,酸化ストレスが亢進する5)。フリーラジカルは,標的腫瘍内のDNA鎖を酸化修飾したり,切断したりすることにより,抗腫瘍効果を発揮している。しかしながら,正常の心筋細胞のミトコンドリア内にも,フリーラジカルが産生され,不可逆性の心筋傷害が引き起こされる6)。組織学的には心筋線維の崩落や壊死,心筋細胞間の空胞化などの変化がもたらされる。アドリアマイシンは,ミトコンドリアのチトクロームcオキシダーゼとも反応し,その酵素活性を阻害し,心筋のミトコンドリアDNAを酸化的に修飾し,その結果,8-OHdGが蓄積していくことで,ミトコンドリアがさらに強く傷害され,DNAが欠失する。組織や細胞においては,これらアドリアマイシンによるミトコンドリアの膜機能障害やそのDNAの変異欠損によって,エネルギー代謝が阻害され,チトクロームc遊離などによりアポトーシスが起こる。以上の事項が,アンスラサイクリン系抗癌剤で一般的に知られている心筋障害発症のメカニズムである。心毒性の発症機序をまとめると,心筋細胞のミトコンドリア機能障害(CoQ10システムの抑制),ミクロソームを介したフリーラジカルの産生と脂質の過酸化,細胞膜透過性の変化によるCa2+

の過剰流入とCa2+代謝の変化によるミトコンドリア障害,細胞膜のNa+/K+ATPase活性の障害,DNAやRNAの合成障害などの事象が,複雑にからんで生じる。その結果,臨床病理学的変化として,薬剤性心筋症の発症となる。心筋症の病理学的所見は,両心室の拡張,肥厚,間質の繊維化,心筋細胞の減少,筋原繊維の減少,ミトコンドリアの膨化な

Page 6: アンスラサイクリン系抗癌剤の術前化学療法による 薬剤性心 …...胸部CT(術前化学療法前):左乳房E領域に33mm 大の不正な腫瘤を認め(図2,a),左腋窩に2cm

− 113 −

綾部 貴典 他:術前化学療法による薬剤性心筋症合併乳癌の手術

どが観察される。心毒性の臨床症状としては,無症状の心電図異常,非特異的なST-T異常,陰性T波,またはQRS波の低電位化,不整脈(心房性期外収縮,心室性期外収縮),心膜炎,心拡大,浮腫,うっ血性心不全などが見られる。 抗癌剤投与に関して,教科書的には,アンスラサイクリン系抗癌剤による心毒性は,ドキソルビシンを相対心毒性1とすると,推奨最大量は400mg/㎡と書かれている。これに対し,エピルビシンは,相対心毒性は0.66,推奨最大量は900mg/㎡となる。心毒性の予防の要点をまとめると,1)治療前に心電図,心エコーを行う,2)総投与量がドキソルビシン300mg/㎡と450mg/㎡のときに再検査を行う,3)洞性頻脈,ST-T波異常,QRS,T波の減高,上室性および心室性期外収縮が出現したり,在室駆出率の20%以上の低下がみられたら,投薬を中止する, な ど で あ る。 ド キ ソ ル ビ シ ン 総 投 与 量 は450mg/㎡以下にする。さらに危険因子として,高齢者,小児,心疾患合併,縦隔への放射線既治療例,他の心毒性を有する抗癌剤を併用する場合には,300mg/㎡以下に減量する。ドキソルビシン総投与量と心不全発症頻度は,500〜550mgで4%,551〜600mgで18%,601mg<で,36%と上昇する7)。慢性心毒性は,総投与量に依存して心不全症状が発症するので,塩酸ドキソルビシンでは550mg/㎡を超えると急激に増加すると報告されている8)。 本症例は,当初,乳房温存を目的にアンスラサイクリン系抗癌剤による術前化学療法が施行されたが,薬剤性心筋症と慢性心不全が発症し,その結果,低リスクである乳癌の手術が,手術施行のリスクが中等度に高まる事態となった。「循環器病の診断と治療に関するガイドライン(2001−2002年度合同研究班報告)」9)によれば,乳癌手術は,リスクからみた外科手術の分類では,外科手術カテゴリー 10)で,Category 2(Category 1−4),軽度から中等度の出血量(500ml以下)に分類され,ACC/AHAの非心臓手術患者の周術期心血管系評価ガイドライン11)では,高,中,低リスクの3つの分類では,乳癌手術は,低リスクに分類され,心臓合併症のリスクは1%未満と記載されている。心筋症を合併した非心臓手術の手術リスクは,アメリカ麻酔医学会によ

る全身状態分類12)によると,Class II−III(Class I−V)に分類され,死亡率1.8%と報告されている。Cardiac Risk Index System(CRIS)13)は,術前因子をスコア化して,合計7点でClass II,術後の心臓合併症の頻度を,5%程度と予測することができる。心臓合併症のリスク1%未満の低リスクに分類される乳癌手術が,術前化学療法による心毒性による薬剤性心筋症と心機能低下により,5%程度にリスクが高まり,麻酔を含めた術中術後の管理に慎重な対応が求められる。合併した薬剤性心筋症を含めた心血管系の術前評価と周術期管理が重要となってくる。 われわれ胸部外科医が,心臓血管手術等で施行している標準的な術中・術後管理下に乳癌手術を行い,最終的には合併症もなく術後を良好に経過した。その周術期管理の工夫点について,麻酔・術中管理は,スワンガンツカテーテル留置し,厳重な血行動態のモニタリングを行い,輸液管理を行った。術後管理は,ICUに入室し,血行動態モニタリング,輸液量インアウトのバランス管理,突然死の原因となる心室性不整脈に対する予防対策としてリドカイン持続静注,電解質補正,利尿剤の投与を行い,低心拍出量に対してはカテコラミンの持続静注,心房細動に対しては,心拍数コントロール(正常な洞調律の維持)を行った。術後経過は,心配される心不全などの合併症などは起こらずに,良好に経過した。 原発性乳癌における化学療法の目的は,転移・再発を抑制し,生存期間の延長を図ることであり,局所進行乳癌では,まず化学療法を行いダウンステージングして手術を行うことが標準治療として受け入れられている。乳癌の標準的な化学療法であるACレジメン(ドキソルビシン・シクロフォスファミド)の術前化学療法の評価を行ったNSABP B-18試験では,術前と術後の化学療法において,エンドポイントである無病生存率や全生存率は両者で同等であり,術前に化学療法を行うことによる予後の改善は観察されなかったと報告されている14,15)。また術前化学療法により,腋窩リンパ節転移が減少し(術前化学療法群41% vs術後化学療法群57%),病理学的完全寛解(以下pCR,原発巣における浸潤癌の消失)が13%にみられ,浸潤癌が残存した症例よりも,予

Page 7: アンスラサイクリン系抗癌剤の術前化学療法による 薬剤性心 …...胸部CT(術前化学療法前):左乳房E領域に33mm 大の不正な腫瘤を認め(図2,a),左腋窩に2cm

− 114 −

宮崎医会誌 第35巻 第2号 2011年9月

後 が 良 好 で あ り( 5 年 無 再 発 生 存 率85.7 %vs76.9%),乳房温存率は改善されたことである

(67% vs60%)。これらのことから,現時点では,術前化学療法の臨床的意義は,乳房の温存率の向上に限られているため,腫瘍縮小効果が得られた場合には,温存療法が選択できる可能性がある乳癌を対象として行うべきである。術前化学療法の欠点としては,本症例のようにアンスラサイクリン系抗癌剤の総投与量以下で生じた心毒性により手術の危険性を増大させてしまった点はもちろんであるが,1)術前組織診の限られた標本でしか原発巣の病理学的な検討が行えないこと,2)腫瘍が縮小し非触知となった場合には乳腺部分切除の切除範囲の決定が難しくなること,などがあげられる。 アンスラサイクリン系薬剤を含む術前導入療法後,薬剤性心筋症と慢性心不全により,心機能が低下した乳癌の手術を経験した。乳癌手術は低リスクに分類され,薬剤性心毒性による心機能低下例は,心イベントが出現する可能性が中等度以上あると予測される。周術期の厳重な循環動態管理により,心イベントも発生することなく,安全に手術が施行することができた。心毒性を有する抗癌剤の投与は,定期的な心機能や不整脈など,治療前と治療経過中の心毒性評価が重要と思われた。

 本論文の要旨は,第47回日本乳癌学会において発表した。

参 考 文 献

1) Pritchard Kl, Messersmith H, Elavathil L, et al. HER-2 and topoisomerase II as predictors of response to chemotherapy. J Clin Oncol 2008 ; 26 : 736-44.

2) Di Marco A, Gaetani M, Scarpinato B. Adriamycin (NSC-123, 127) : a new antibiotic with antitumor activity. Cancer Chemother Rep 1969 ; 53 : 33-7.

3) Launchbury AP, Habboubi N, Epirubicin and doxorubicin : a comparison of their characteristics, therapeut ic act iv i ty and toxic i ty . Cancer Treatment Rev 1993 ; 19 : 197-228.

4) Ryberg M, Nielsen D, Skovsgaard T, et al . Epirubicin cariotoxicity : an analysis of 469 patients with metastatic breast cancer. J Clin

Oncol 1998 ; 16 : 3502-8.5) 村岡早苗,三浦俊明,フリーラジカルを介したアド

リアマイシンの心毒性発現機構に関する研究,Yakugaku Zasshi 2003 ; 123 ; 855-66.

6) Gille L, Nohl H. Analyses of the molecular mechanism of driamycin-induced cardiotoxicity. Free Radic Biol Med 1997 ; 23 : 775-82.

7) Lefrak EA, Pitha J , Rosenheim S, et al . A c l in i copatho log i c ana lys i s o f adr i amyc in cardiotoxicity. Cancer 1973 ; 32 : 302-14.

8) Von Hoff DD, Layard MW, Basa P, et al. Risk factors for doxorubicin-induced congestive heart failure. Ann Intern Med 1979 ; 91 : 710-7.

9) 循環器病の診断と治療に関するガイドライン(2001−2002年度合同研究班報告),非心臓手術における合併心疾患の評価と管理に関するガイドライン,Circulation Journal 2003 Suppl. IV ; 67 : 1175-259.

10) Pasternak LR. Admission patient : Welcome Trends in Anesthesiology 1991 ; 9 : 3.

11) JCS Jo int Working Group . Guide l ines for Perioperative Cardiovascular Evaluation for Noncardiac Surgery (JCS 2008) : Report of the American College of Cardiology / American Heart Association Task Force on Practice Guidelines (Committee on Perioperative Cardiovascular Evaluation for Noncardiac Surgery. Circ J 2011 ; 75 : 989-1009.

12) Vacanti CJ, VanHouten RJ, Hill RC. A statistical analysis of the relationship of physical status to postoperative mortality in 68,388 cases. Anesth Analg 1970 ; 49 : 564-6.

13) Goldman L, Caldera DL, Nussbaum SR, et al. Multifactorial index of cardiac risk in noncardiac surgical procedures. N Engl J Med 1977 ; 297 : 845-50.

14) Fisher B, Brown A, Mamounas E, et al. Effect of preoperative chemotherapy on localregional disease in women with operable breast cancer : findings from National Surgical Adjuvant Breast and Bowel Project B-18. J Clin Oncol 1997 ; 17 : 2483-93.

15) Wolmark N , Wang J , Mamounas E , e t a l . Preoperative chemotherapy in patients with operable breast cancer : nine-year results from National Surgical Adjuvant Breast and Bowel Project B-18. J Natl Cancer Inst Monogr 2001 ; 3 : 96-102.

Page 8: アンスラサイクリン系抗癌剤の術前化学療法による 薬剤性心 …...胸部CT(術前化学療法前):左乳房E領域に33mm 大の不正な腫瘤を認め(図2,a),左腋窩に2cm

− 115 −

綾部 貴典 他:術前化学療法による薬剤性心筋症合併乳癌の手術

Surgical management of breast cancer with cardiotoxicity induced by neoadjuvant chemotherapy of anthracycline.

Takanori Ayabe Masaki Tomita Masaki Hara 1) Tetsuya Shimizu Yasunori Matsuzaki 2) Toshio Onitsuka

Department of Surgery II, Faculty of Medicine, University of Miyazaki, 1)Keimei Memorial Hospital2)Ebihara Hospital

AbstractA 45-year-old female diagnosed with breast cancer [E, 33x30x22 mm, ER(-), PgR(-), HER-2(3+), invasive ductal carcinoma, T2N1M0, c-stage II B] had received neoadjuvant chemotherapy of cyclophosphamide(75 mg/㎡, d1-d14)and epirubicin(75 mg/㎡, d1)in order to undergo breast-conserving surgery. Although the primary tumor and axillary lymph nodal metastasis Shrank, resulting in a pathological complete response, she developed congestive cardiac failure due to the cardiotoxicity of epirubicin. The total amount of epirubicin was 630 mg(the recommended maximum amount < 900 mg/㎡). The ejection fraction decreased to 33% from 46% . Mastectomy is a low-risk operation, however, cardiotoxicity results in an enhancement of the risk of perioperative cardiac morbidity. We managed the patient's perioperative hemodynamics under strict control in the intensive care unit. There was no postoperative cardiac event. (Although neoadjuvant chemotherapy with anthracycline for breast cancer has been a key regimen, cardioechograms should be performed to follow-up the cardiac function and help predict cardiotoxicity to avoid increasing the operative risk.)

Key words : breast cancer, neoadjuvant chemotherapy, anthracycline, cardiotoxicity