アダム・スミスの蔵書 一橋大学社会科学古典資料セ …...hitotsubashi university...

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Hitotsubashi University Repository Title Author(s) �, Citation � Study Series, 19: 1-26 Issue Date 1989-03-31 Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/17062 Right

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Page 1: アダム・スミスの蔵書 一橋大学社会科学古典資料セ …...Hitotsubashi University Repository Title アダム・スミスの蔵書 Author(s) 水田, 洋 Citation

Hitotsubashi University Repository

Title アダム・スミスの蔵書

Author(s) 水田, 洋

Citation一橋大学社会科学古典資料センター Study Series, 19:

1-26

Issue Date 1989-03-31

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL http://doi.org/10.15057/17062

Right

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アダム・スミスの蔵書

   水 田  洋

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目 次

1 蔵書の形成……・……………………………・….・……一……・………・・………・・…、……・ 1

皿 蔵書の散侠一………・………’じ●。’・。’騨’●’‘’…●。….●●…’”。……●’.’”….”.●’。●’…’………” 11

皿 蔵書の記録………・………………………・………一…・…・……一・………………・…… 17

IV 蔵書の分析・………………・…一∵…・一…・………・…・……・…・…….………・…∴…… 22

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アダム・スミスの蔵書

水  田 洋

1 蔵書の形成

 ドゥーガルド・スチュアートは,アダム・スミス追悼講演のおわりで,「かれの貴重な蔵書は,

その他の財産とともに,弁護士であるいとこの,デーヴィド・ダグラス氏に遺贈された」とのべた

が,その蔵書の内容にはふれなかった。おなじ講演のなかで,かれが晩年のスミスの収入につい

て,つぎのようにのべたときも,同様に,内容にはたちいっていない。「かれのあたらしい職務

〔関税委員〕がもたらした収入は,それまでのかれの境遇がゆるしたよりもずっとおおきな程度

で,かれのうまれながらの性向である慈愛を,満足させることを可能にした。そして,かれが死ん

だときの資金の状態を,かれのひじょうにつつましい生活規模とくらべると,かれのしたしい知人

たちがしばしばそうではないかと疑っていたとおりに,まちがいなく,かれの年々のたくわえの大

きな部分がひそかな慈善にあてられていたことを,確認させた。選書におけるすばらしい判断力を

もってしだいに形成した,ちいさいが卓越した蔵書と,かれがつねに形式ばった招待なしに友人を

よろこんでうけいれた,簡単だが心のこもったもてなしの食卓とだけが,かれ自身の出費と見なさ

れうるものであったi)。」

 同時代では,『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の主要執筆者とされるウィリアム・スメ

リーが,スミスがかれにむかって「自分は蔵書につ.いてだけはボーbeauだ」とかたったことを

記録しているが2),これも内容にはかかわらないし,それどころかbeauとかmy booksとかい

うことばの意味も,あまりはっきりしない3)。こういう状態で,後述のようなマカロクの発言ま

で,スミスの蔵書の内容への言及は,生前にも死後しばらくのあいだも,見あたらない。

 周知のように,スミスは1756年発行の匡エディンバラ評論』第2号に,当時の(主としてフラン

スの)学界展望を書いている。そこでとりあげられたのは,ディドロ=ダランベールのr百科全

書』,ビュフォン=ドーバントンのr自然誌』,ブイ.イのr快適感情論』,ルソーのr人間不平等起

源論』,ヴォルテールのrルイ14世の世紀』とrシナの孤児』,.および「全ヨーロッパで評価されて

いる∬メタスタジオ氏の諸著作」である。ただし,ヴォルテールについては,「フランスがこれま

でに生んだなかで,おそらくもっとも普遍的な天才であるヴォルテール氏は,ほとんどあらゆる種

類の著作において,主としてひとつの種類のことに専念した前時代の最大の著作者に匹敵する」と

.いって,その一例として「かれの最近の悲劇である『シナの孤児』」をあげているのだから,スミ

スの関心はヴォルテールの他の作品にもおよんでい牟と,考えるべきであろう。

 では,これらの本を,スミスは自分でもっていたのかというと,現在わかっているかぎりでのか

れの蔵書のなかには,該当するものは,ほとんどないのである。スミスは1751年にグラーズゴウ大

学の論理学教授に任命されたので,rエディンバラ評論』時代には,大学図書館を利用できる立場

にあった。しかも1753年1月から1764年1月までは,スミスはquaestorとして図書館の会計責任

者(したがって図書購入の責任者)であっだ)。したがって,学界展望の執筆には,大学図書館を

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利用したという想定が可能である。

 当時の大学図書館の蔵書数は,1760年に5,643冊とされているから,たいしたものではなかった

が,スミスが,1758年6月から1760年6月目でに,図書館に購入させた15点のなかには,r百科全

書』の最初の7巻がふくまれていた。これは,・学界展望執筆の時期よりおそいので,スミスがその

ときの執筆のために利用したとはいえない。意地のわるい見方をすれば,執筆の時点では読んでい

なかったのかもしれない。r自然誌』は,スミスによる購入分にはふくまれていないけれども,1791

年の図書館蔵書目録には初版(1749一未完)があり,スミス自身の蔵書は1780年代の新版である

から,前者を利用したと考えられる(ただし,初版をいっ購入したかは,目録ではわからない)。

 双方の蔵書目録には,メタスタジオのr詩集』9巻(1755)はあるが,ブイイはない。ルソーと

ヴォルテールについ.てみると,まずルソーはスミス蔵書に1753年ロンドン版著作集というのがあっ

て,これはセヌリエ5)にもシオラネスク6)にもない奇妙な版なのだが,年代であきらかなように,

r学芸論』ははいっているが『人間不平等起源論』も『社会契約論』もはいっていない。このほか

に,rエミール』(1762)とr新エロイーズ』(1761)があるけれども,学界展望の時期よりあとで

ある(スミス蔵書中のそのほかのルソーの著作は,出版年が1755年よりあとか確認不可能)。ヴォ

ルテールは,rルイ14世の世紀』(1752)とrシャルルマーニュ以降の帝国年代記』(1754)が,ス

ミス蔵書中の該当分である。図書館蔵書の方にも,ルソーのr学芸論』(1751)はあっても,ほか

のものはなく,ヴォルテールは,rアンリアード』(1721)と『マホメット』(イギリス訳,1744)

が,時期的に該当するにすぎない。

 したがって,スミスがrエディンバラ評論』でとりあげたフランスの出版物のうち,かなりの確

実さをもって,そのときスミスが利用したと推定できるのは,図書館のr自然誌』と個人所有の

rルイ14世の世紀』.だけだということになる。すくなくともこの初期にかんしては,スミスが利用

した本は,個人蔵書と図書館蔵書の枠の外にもあった(むしろその方がおおかった)か,あるい

は,個人蔵書であって紛失したか,いずれかなのである。

 スミスは『道徳感情論』の好評によって,バックルー公の大陸旅行つきそい教師を依嘱されるの

だが,すでに1759年10月には,グラーズゴウのファウルズ書店から,46点80冊を,エディンバラの

キンケイド書店経由で,バックルー家に送らせている7)。ファウルズ書店は,床屋の徒弟をしなが

らハチスンの講義をきいたというロバ温ト・ファウルズ(1707-1776)が,弟のアンドルー(1712-

1775)とともに,1738-40年にオクスフォードで古書をあつめ,1741年にグラーズゴウで,大学附

属印刷所兼書店を開業したことにはじまり,1806年にアンドルーの子の同名アンドルーが廃業する

まで存続した。バックルーのためにスミスが購入を指示したのは,ギリシャ,ローマの古典であっ

て,そのことはまず,スミス自身もその種の本を同様にして入手したことを想像させる。それだけ

ではなく,同書店が1740年に発行したカタログは,r新着輸入書目録。ほぼすべてのギリシャ,

ローマ著作者の最稀少版,同様に最高の文献学,数学,フランス,イタリア,スペインの著者のも

の多数。大部分はH・ステフェンス,ヴァスコザン,トゥルネブス,コリネウス,モレル,クラモ

ワシー,アルディ,ギュンタエ,ヴェヘルス,王立印刷所,ル弱ヴル,プランタン,エルセフィエ

ル等の出版。……8)』となっているので,エルセフィエルが出版したホッブズのr市民論』など

が,このルートでこの時期に,スミスの手にはいったことは,十分に考えられる。スミスの蔵書の

なかに,プランタン版はわずかしかないけれども,エルセフィエルその他のオランダ版は,かなり

あり,他方でファウルズ自身が印刷出版したものも,』チャイルド,ジー,マン,タッカーなどの経

済書をふくめて,1763年には450点近くなっているので,ファウルズ経由でかなりの蔵書が,グ

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ラーズゴウを離れるまえのスミスの手もとにあったのではないかとおもう。そして,もし,スコッ

トが指摘するように9),{756-1763年には,七年戦争で貿易が杜絶していたとすれば(後述のよう

に,全面的には信頼できない),r道徳感情論』執筆まで,さらにはその第2版(1761)を経て大陸

旅行に出発するまでのスミスの蔵書は,それ以外にはほとんどなかっただろう。もちろん,一方で

はハスチンのr道徳哲学体系』(1755)のように,スミスが予約者名簿にでているばあい(これも

ファウルズの出版)があるし,他方では,図書館からキンケイドやミラーに支払った証拠があるの

で,スミスも,エディンバラとロンドンの両書店から購入したということも考えられるが,これに

は証拠がない。

 スコットは,「あきらかに,スミスがそこ〔グラーズゴウ〕にいたときは,かれは図書館蔵書に

たよっていた。のちに,カコーディで執筆していたときに,かれは,それらの本を参照する必要を

感じ,自分でおなじものを買った。こうして,かれの蔵書のかなりの部分は,かれがグラーズゴウ

をはなれてから形成されたと,考えていいであろうゆ」と書いたのは,スミスがグラーズゴウ時

代に重農学派の著作をしっていたかどうかという間題に,否定的にこたえる前提としてであって,

そういうバイアスから焦点をフランス書にしぼりすぎたために,全体像がぼけてしまった。r道徳

感情論』の執筆のため,あるいは法学や修辞学・文学の講義のためでさえ,スミスはあまりフラン

ス書を必要としなかったから,それをのぞけば,この時期に一応の蔵書をつくりあげることはでき

たはずである。たしかに,r百科全書』やr自然誌』については,図書館に依存したとはいえ,そ

のほかについては,・図書館購入とならんで自分でも買ったと考えることもできる。そういうことが

ありえないかどうかは,図書館利用についての,個人・国民・時代の慣習によるのだから11),断

定はできないが。まして,前にあげた4冊の経済書のように,ファウルズ発行でありながら,図書

館にないものについては,この時期にスミスが購入したという推定が妥当であろう。

 なお,スコットのフランス書輸入杜絶説(七年戦争による)についても,疑問がある。なぜな

ら,ヒュームがr道徳感情論』初版についての手紙のなかで,スミスにエルヴェシウスのr精神

論』(1758)とヴォルテールの噛rカンディド』(1759)を推奨しているからだ12)。前者について

は,ヒュームは,一読の価値があるといい,後者については詳細をしらせるといっているから,か

れ自身は読んだわけであり,ロンドンでヒュームが読んだということは,グラーズゴウでもフラン

ス書(ただしrカンディド』の出版はジュネーヴ)が入手できたどいうことである。もちろん,ス

ミスがじっさいに入手したという証拠はないが,かれは1763年12月に,パリのヒュームにあてた手

紙で,「私についていくらかでも知るという名誉を与えて下さったフランスの才人たちによろしく

お伝え下さい。とくに,エルヴェシウス氏に,かれが私についてなにかを知ろうと知るまいとよろ

しく。私の本は,私がかれの本〔r精神論』〕を読む機会をえるまえに,印刷されていて,そのため

に私は,他の哲学諸体系といっしょに,それに言及することができなかったのだということを,伝

えて下さい13)」と書いたのだから,読んだことは確実であるし,蔵書のなかには,第2巻だけで

はあるが初版が残っ幽ている。

 この手紙でスミスは,エルヴェシウスのまえにドルバックにも言及しそいて,それはr道徳感情

論』のフランス訳に関係があるらしいのだが,ドルバック自身の著作は,ブーランジェの著作とさ

れるものにかれがどれだけかかわっていたかを別にすれば,1760年末からはじまっていて,スミス

蔵書のなかにあるものも,1770年代の出版であるから,ここでは問題にならない。コンドルセにつ

いても,同様である。ついでに,ほかの百科全書派についてみると,スミス蔵書のなかにあるかれ

らの著作で,スミスが大陸旅行にでるまえに出版されたのは,ダランベールのr音楽論』(1752),

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r文学・歴史・哲学論集』(1760-67),コンディヤックの・r人間意識起源論』(1746),r動物論』

(1755),.r感覚論』(1754), r体系論』(1749),ディドロのr哲学的思索』(1749), r自然の解釈』

(1759)である。大学図書館には,以上のうち,コンディヤックの『体系論』とディドロの両著の

ほかは,すべてはいっている。もちろん,個人蔵書はスミスが死んだ1790年まで,図書館蔵書は

1791年までの記録であって,個々の本がいっ購入されたかは不明なのだから,断定的なことはなに

もいえないわけだが,すくなくともスコット説に疑問を提出することはできる。

 スミスは,フランス滞在中に,これらの著者と知りあったから,そのときに著書の寄贈をうけた

かもしれないのだが,時期的に該当するダランベールのrフランスにおけるジェジュイットの弾

圧』(1765)は,ファウルズが印刷してエディンバラのバルフォアが発行した版であるから,著者

寄贈ではないだろう。そうすると,これまであげた百科全書派のなかでは,ダランベールのr論

集』(5巻,1760-67)が,かろうじてあてはまるだけである。したがって寄贈があったとしても,

上記のほかは,スミスの帰国後のことでしかありえない。

 しかも,寄贈本にはたいてい,著者自筆でなくても,寄贈であることが書きこまれているのに,.

百科全書派の著作にはそれがないのである。これに対して,ケネーのrフィジオクラシー』は,

「フランス王の第一侍医である著者ケネー氏から」とフライリーフに書きこまれているが,出版年

が1767-68年なので,帰国後におくられた可能性がある。フランス滞在中という可能性を完全に否

定しきれないのは,タイトルページの出版年は,かならずしも実際に本ができあがった年ではない

からであり,とくにこのばあいは,スミスの帰国が1766年10月であるから,差は数か月しかない。

 確実に大陸旅行中に入手したとおもわれるものは,第1に,スミスのトゥルーズ滞在中に名誉回

復判決があったカラス事件について,シュードルその他によるパンフレットがあり,第2に,マン

チェスタ出身のジャコバイト,ジョン・ボルカー(1719-1786)の織物技術論(1764)もそうであ

ろう。ボルカーは,ジャコバイト反乱に参加して逮捕され,ニューゲイト刑務所からフランスへ逃

亡し,フランスの製造業総監になった人物で,ルーアンに工場をもっていた14)。スミスがホル

カーにあったということも,ルーアンを通過したということも,証拠はなにもないのだが,この本

が,フランス財政の現状を論じた三篇の手稿といっしょに製本されていて,手稿がすべて1766年と

なっていることは,手稿というものの流通範囲を考慮すれば,あわせてフランスで入手したと推定

していいであろう。第3に,1753年から65年におよぶ,70篇をこえるパルルマンの法令や建言があ

り,そのなかには,スミスが比較的ながく滞在したトゥルーズ(および近くのモンペリエ)につい

でルーアンのパルルマンのものがおおい。スミスは,トゥルーズからジュネーヴにいくときに,モ

ンペリエを通過したことは確実だが,ルーアンも,パリから帰国するときの経由地として考えられ

ないわけではない。いずれにせよ,これらのパルルマン書類は,フランス滞在中に入手したもので

あろう。なお,第4にラヴィーについて,ボルカーの場合とおなじような推定ができるのだが,後

述(p22注14)にゆずる。

 ボナーは,ブルギニョン・ダンヴィルの地理学書および地図について,「おそらく寄贈書,ダン

ヴィル夫人は1766年にパリで,アダム・スミスと知りあった15)」と書いているが,確証がない。

たしかにスミスは,旅行中に,ロシュフーコー・ダンヴィル侯夫人と知りあったが,それは1765年

で,しかもジュネーヴでのことである。そして,ロシュフーコー・ダンヴィルとブルギニョン・ダ

ンヴィルは,関係がないし,夫のジャン・パティストがまだ生きていて,アゥデミー会員として活

動しているのに,夫人だけがスミスと知りあったというのも,ありえないことではないけれども,

やや奇妙である。そういう個人的な接触とかかわりなく,スミスが,その蔵書のなかにかなりおお

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い旅行記や地理学書の一部として,ダンヴィルのものを入手したことは∫自然のなりゆきだったか

もしれないが,それが12点もあって出版年は1735年から1776年におよんでいるということを考える

と,.ボナ」でなくても特殊な関係を想定したくなるだろう。ダンヴィルは一流の地理学者として知

られていたからジ入ミスが,ツランス滞在中にそれに気づいて何冊かを買い,帰国後にそのこの出

版についても注意して入手にっとめたと,考えられないであろうか。

 著者が自分の著書を寄贈サるという風習が当時存在したことは,ケネ甲の例でもわかるし,スミ

スのばあいは,r道徳感情論』についてはスミスからアッドルー・ミラーへの指示によって16),

r国富論』については,ヒューム,ブレア,ブラック,ロバートスン,ファーガスンなどからの手

紙によってi7),確認できる。ヒュームもスミスに対して, r道徳・政治論集』の新版(1753)の準

備中にアイディアをもとめながら,「もし君がまえの版をもっていないならば,一冊送ろう」と書

いた18)。.この手紙1ま,ヒュームからスミスへの手紙としては,現存するかぎりでは最初のもので

あるから,rそれ以前にヒュームが著書を送っていたという証拠はないし,この文面ではむしろ反対

のことが推定されるのだが,以後については,たとえば,1757年3月のスミズあての手紙には,

rぼくは近ごろロンドンで出版されたぼくのr論集四篇石b礎D醜磁。旧』を数二手にいれたの

で,いちばん早いグラーズゴウ貨物便で,君に一冊送る19)」と書いている。

 スミス蔵書をみると,たしかにr道徳・政治論集』の方は,r諸主題論集』となったものが,「著

者より」と書きこまれているが,1753年一54年の4巻本初版ではなく,1758年の1巻本新版である。

1757年に送られたはずのr論集四篇』は,1781年のスミス蔵書目録(手稿)にはあるけれども,現

在は行方不明である。前者については,’ヒュームが手紙で,送ろうかといっているのは,まえの版

であり(これは1741年版が,ボナーによってエディンバラ大学所蔵とされているが,行方不明),

新版ではないのだから,蔵書と手紙とのあいだに矛盾はない。ヒュームがただ,r諸主題』が出た

ときに寄贈するのをわすれて,つぎの版を送ったと考えればいいのである。ヒュームのほかの,ス

コットランド啓蒙のリーダーたちについてみると,・かれらがスミ・スに著書を送ったとし)う証拠はな

い。そういうことにふれた手紙が残っていないし,スミス蔵書中のそれらの著書には,著者の自署

はもとより1ケネ}についてまえにのべたような「著者より」という書きこみ(これは受領者側の

ものだが,スミスの自筆とはかぎらない).もないのである。このことは,ケイムズのように,r良

俗ど自然宗教の諸原理』の第3版について,スミスを批判した手稿を送って意見をもとめていると

いう例があることを考えると20),奇妙な感じをぬぐいされない。スミス蔵書のなかのケイムズの

著書にも,寄贈を示す書きこみはないのである。1スミス.の側でのミスと考えればいいのだろうか。

 スミス蔵書のなかの著者寄贈本は,・ケネー,、ヒューム,テユルゴからのものをふくめて10点ぐら

いだが,その大部分は,r国富論』が出てからであり,この三人とマサチューセツ総督パウヌルを

のぞけば,スミスより若い世代の著者である。それら1涛スミスの影響力の指標として重要である

が,時期的にはここでとりあげるべきことではない。ただいまとりあげている大陸旅行前のスミス

との関連でいえば,その当時のスミス,すなわちr道徳感情論』の著者としてのスミスの名声は,

たしかにモスクワ,ジュネーヴから留学生をひきよせ,フランスでは三つも翻訳がでるほどであっ

たが,国内ではタウンゼンドやシェルバーンがバックルーやフィツモーリスの教師として注目する

ようになったとはいえ,あまり大きくなかったのではないかとおもわれる。

 ここで,スミスがフランスから帰国した時点にもどると,帰国後数か月たった1767年2月12日の

シェルバーンあての手紙に,スミスの蔵書が登場する21)。このときスミスはまだロンドンにいて,

r国富論』のための資料をあつめていたのだろう。しかし,手紙にでてくるのは,経済書ではな

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く,旅行記である。その手紙は,サミュエル・パーチャスの『旅行記』のなかに翻訳されたペドロ・

フェルナンデス・デ・キロスの回想記を送るということから書きはじめられていて,パーチャスの

本は,スミス蔵書のなかにあることが確認されているのである。この手紙には,続いてアリグザン

ダ・ダルリンプルの「多数の論文papersを通読した」とあるので,やがて出版されるかれの航

海記(1767,1769)も,スミス蔵書にふくまれることを期待させられるが,現在までのところで

は,その期待にこたえる証拠はない22)。

 しかし,それからひと月あまりたった1767年3月25日に,かれの著書の出版者のひとりであるト

マス・カデルあての手紙は,フランスからもちかえった本の,エディンバラへの輸送の依頼と,ふ

たつの経済書の入手依頼である。「あなたがすでに,私に関してお骨折り下さったことに,心から

お礼を申しあげるとともに,さらにいささかのお骨折をねがわなければなりません。それは,あな

たが四つの箱のすべてを,できるだけ早く,キンケイド氏気付でエディンバラに送って下さるだけ

でなく,それに20σポンドの保険をかけて下さること,そして,あなたが最近ご親切に私のために

入手して下さった二冊の本,すなわちアンダスンとボスルスウェイトをふくあた,すべての費用の

計算書を,できるだけ早く送って下さることです23)。」この四箱が,スミスが大陸旅行中および帰

国後ロンドン滞在中に入手した本であろうということは,出版者から出版者へ輸送を依頼したこと

から推定するだけであるが,あるいは「最近の二冊の本」ということばが,そのまえあ四箱も本で

あることを,前提していると考えることもできよう。

 1767年6月にカコーディに帰ってきて,r国富論』を書きはじめたスミスが,ヘイルズ卿に対し

て,食料品価格史についての資料を借りたことへの感謝につけくわえて,才私は,フリートウッ

ド,デュプレ・ドゥ・サン・モール,穀物政策〔エルベール〕,メッサンスの人口および穀物価格

論,小麦商業論〔チャールズ・スミス〕などのような印刷書を,かなりもっています24)」と書いた

のは,例の四箱の内容の一端を示すといえないだろうか。これらはすべて,蔵書のなかにある。

 カコーディでr国富論』執筆中のスミスについてみると,1769年1月から5月までの,ヘイルズ

との往復書簡(前掲のものをふくむ)は,スミスの関心が,法定価格を回心とした法制史・価格史

にあったことを示す。スミスは,すでに(まえに引用したような)資料を手もとにもつていたの

で,ヘイルズから助言をうけてはいるが,なにかあらたに購入した形跡はない。むしろこれらの手

紙からわかるのは,スミスが,スキーンのrレギアム・マエスターテム・スコティアエ』(1613)、

をそのとき所有していたことである。そのほかマドックスのrイングランド王室財務局史』,イン

グランド議会法令,フランス王命令などがあげられ,「私はスコットランド法令集Scots Actsを

読もうとおもっています」と書かれていることからも,同様の推定ができる。ただ,その手紙のお

わり近くに,「あなたがスコットランド法についてのべられたことは,イングランド法について

バーリントン判事がのべていることと,ほとんどおなじ性質のもので,それはきわあてひろくうけ

いれられています」とあるのに,バーリントンの著書は25),蔵書のなかにみあたらないのであ

る。これもまた紛失と考えるべきであろうか。

 1773年2月のヒュームの手紙は,アンドルー・スチュアートのrマンスフィールド卿への手紙』

(1773)とモンボドのr言語の起源』第1巻を推奨していて26),これは双方とも(モンボドは1773-

76年刊の前半3巻)スミス蔵書にふくまれている。ウィリアム・パルトニーあての手紙で27),

ジェイムズ・スチュアートのr経済学原理』について,「それに一度も言及することなく,そのな

かのすべてのまちがった原理を,明白にきっぱりと反駁した」と書いたことはよくしられている

し,r原理』は,第1巻だけではあるが,蔵書として残っている。おなじ手紙のなかに「ベンガル

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における鋳貨の混乱」への関心がのべられていることからすれば,スチュアートのrベンガル鋳貨

問題に適用された貨幣の原理』(1772)も,あってよさそうだが」これはみあたらない。

 1773年4月16日にスミスは,ヒュームを文筆上の遺産管理人に指定して28),ロンドンにむかっ

た。ロンドンでしばらくかれはr国富論』の仕あげに日時をついやすのだが,そのためには,ブリ

ティシュ・ミュジアムの読書室も,すでに使用できたはずである。この時期には,ヒュームの論敵

ビーティをプリーストリが批判して論争がはじまりそうになった。スミスのヒュームへの手紙は,

リチャード・ハードがビーティに,応答の必要がないと忠告したことを残念がつている29}。ビー

ティのヒューム批判はすでに1770年置出版され,1773年目ロンドンでジョンスンのグループにもて

はやされる。スミスにはファーガスンがそのことを知らせているけれども30),蔵書のなかにある

r真理の不変性』は2巻本となっているので,おそらく1778年のダブリン版であろう。プリースト

リの本は,ビーティ,リード,オズウォルドのコモン・センス哲学を批判したものなので,スミス

がビーティの議論にあまり関心がなくても,これをもっていてもいいのだが,みあたらない。

 このロンドン滞在中に,スミスはギボンとともに,ジョン・ハンターの医学講義をきいた。ウィ

リアム(1718-83)とジョン(1728-93)のハンター兄弟は,グラーズゴウ出身の外科医で,兄はハ

チスン時代にグラーズゴウ大学でまなんだが,活動したのはふたりとも,国外とロンドンであった

から,スミスとのめぐりあいも,このときがはじめてだった。スミスは『国富論』第2版(1778)が

出る直前に,ストラハンあての手紙で,寄贈先にハンターを追加するように指示している3D。ス

ミス蔵書のなかのハンターのr人間の歯の自然史jG771-78)やr性病論』(1786)には,「著者か

ら」という書きこみはないけれども,そういうものとして理解していいだろう32)。

 r国富論』初版を契機として,1760年までマサチューセツ総督であったトマス・パウヌルのrパウ

ヌル総督のアダム・スミス法学博士への手紙』(1776)が出版され,スミスはふたたびロンドンに

でてきたときの手紙(1777年1月置で,「私がエディンバラを出発するまえの日に,あなたのお手

紙というたいへんな光栄に浴しました33)」とのべているのだが,これは後述のようにヴァイナー

が発見するまで,スミス自身の蔵書目録にもなかった。つづいて,ヒュームの死についてスミスが

書いたことにくいさがった,ホーンのr友人デーヴィド・ヒュームの生涯・死・哲学について,ア

ダム甑スミス法学博士にあてた手紙』(1778),M. T.のrエディンバラの一紳士から,国防問題に

ついてバックルー侯爵閣下にあてた手紙,附論,アダム・スミス博士の著書「国富論」のなかのこ

の主題にかんする章について』(1778)があらわれる。スミスは,前者を無視したかもしれない

が,後者についてはアンドレアス・ボルトあての手紙のなかで,1この紳士は,もし私がきいてい

る名前がただしければ,私の知人のひとりなので,私への攻撃にはほとんどおどろきませんし,そ

のやりかたについては,なおさらのごとです34)」と書いているのだから,あきらかに読んだので

ある。しかし,いずれも蔵書としてはのこっていない。おなじ手紙のなかの,ジェイムズ・アンダ

スンのr国民産業精神振興論』(1777)についても,同様である。モロー・ドゥ・・ボーモンを入手

したという手紙(1778,11.24)については,後述する(p.25注2)。

 1777年10月にはスミスはふたたびカコーディにもどって,ストラハンに,スコットランド関税委

員の候補にあげられたこ、とを告げているし35),ひと月あとには,ギボンから,その決定をいわう

手紙をうけとった36)。翌1778年2月(任命は1月)から,死にいたる12年を,かれは主としてエ

ディンバラで,閑職の高官としてのみならず,長老文化人としてくらすのだが,そのあいだには,

かれの名声に応じて,またじづさいに出版のあっせんをしたことに対して著書の寄贈をうけた。た

とえば,ロシュフーコー侯からはr箴言』の新版(1778)が贈られ37),ギルバート・エリオット

7 一

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の女婿ウィリアム・イーデン(1744-1814,イーデン条約の締結担当者)は,自分の意向をスミス

がダンダスに伝達したことに38)感謝したためか,rカーライル伯への四篇の手紙』(1779>でスミ

スをほめているし,スミス蔵書のなかのこの本は,著者寄贈と考えられる。ただし,スミスが,

「あなたの手紙は,あなたがあげている旧版のほかに,この狭い国〔スコットランド〕で.も一版を

かさねている39)」と書いていることに該当する版はみあたらない。『感情の人』(1771)やr世故

の人』(1773)の著者であるヘンリ・マケンジー(1745-1831)は,年少の友人としてスミスとした

しく,1780年にはその編集する雑誌rミラー』への原稿を,スミスに読んでもらっている40)。こ

れらとともに,rジュリア・ドゥ・ルビネ』も雑誌rラウンジャー』幽も,ずべてスミス蔵書のなか

にあるのは,とうぜんであろう。

 出版関係では,スミスは,ストラハンに,1783年にドーメニの牧師トマス・ロバートスンのr音

楽史』(1784),サミュエル・チャータズの説教集を41),1785年にはジョン・ローガン(1748-1788)

のr歴史哲学要論』(1781)を推せんし42),ついで同年11月から翌年はじめにかけて,ジョージ・

チャーマズ(1743-1825)のrブリテン国力の歴史的比較推定』(1782)の改訂版のために,資料を

提供した43)。1786年5月には,エディンバラ大学の哲学教授,ジョン・ブルース(1745-1826)を

カデルに紹介し44)翌年3月には,ロバート・・ビートスン(1742-1818)のr大ブリテン・アイアラ

ンド史の政治的索引』(1786)の新版への助言をもとめて,かれを司教ジョン・ダグラスに紹介し

た45)。かれらの著書は,チャータズのものをのぞいて,あきらかに著者が寄贈したものとして,

現存しているが,バーンズのエディンバラ版r詩集』(1787)は,スミスが後援し,4部も予約し

ていたのに,残存していないのである。

 1787年置は,スミス批判の手紙をふくむベンサムのr高利の擁護』が,著者から送られてくる。

これをスミスが全面的にうけいれたという話はよく知られているから,く・りかえさない。ジョン・

マクファーランのr国民的重要性をもつ諸主題について』(1786)とr貧民研究』(1782)がともに

(後者は2部)著者寄贈となっているのは,マクファーランが,スミスの住居に密接したキャノン

ゲイト教会(そこにスミスの墓がある)の牧師だったという関係からであろう。だが,カゾー(1727-

96)のr社会機構の多数の部分についての考察』(1785)や,コートニー(1741-1816)のrフラン

ス革命についての哲学的省察』(1790)が,著者から寄贈されていることについては,内容的に

も,交友関係からも,理由がよくわからない。

 以上の寄贈本については,蔵書の内容をややたちい6て分析するときに,またふれることにし

て,さいごに,晩年のスミスが,余暇をギリシャ詩人の研究にあてていたという,ドゥーガルド・

スチュアートの証言をあげておこう46)。このときスミスが読んだであろうホメロス,ヘシオドス

などが,蔵書としてグラーズゴウ時代から持っていたものだったと考えておかしくはないにして

も,晩年に多少の追加があったかもしれないとも考えられるからである。

 なお,この時期にスミスが,本をあらたに買っていたことは,カデルにあてたっぎのような手紙

で知ることができる。「私は,スコットランドに帰ってからの怠惰について,たいへん申訳なくお

もいます。じつをいえば,私はロンドンで,かなり多くの本を買いました。その一半は新刊本,他

方は旧刊本の新版または私にははじめての版でした。それらを読んで気ばらしをすることのたのし

みが,私の本来の仕事すなわちr国富論』新版の準備から,私を誘惑してそらせたのです4η。」

 カデルあての別の手紙によれば,スミスはロイヤル・ソサイァティのr哲学論集』の全巻をそろ

えようとしていたし48),またモルレのr国富論』フランス訳の入手を依頼したが,これが誤報と

わかってとりけしている49)。「最近ロンドンにいったとき,あなたの店でチェスタフイールドの著

8

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作集を買いました」という記録もあるから50),スミスの蔵書形成は,晩年になっても,停止しな

かったことはたしかである。

1) Dugald Stewart;B6q卿p襯㎜mo‘ハ氏Ed㎞burgh 1858, pp。72&80-81.

2).William Smellie・加e叩α雇c1㎜陀脇lc切伽偽qr Gr留。り㍉Mn・H恥mθ・Lαd㎞s・1λ温班ηε,απd・4d㎞5櫨ん,五ゐ,ひ, Edinburgh 1800. この本は,あまり.利用されたことがないし,日本

にはいっているかどうかも疑問である。ここでは後掲のボナーrアダム・スミス蔵書目録』初版(1894)の

序文の引用による(p.v鐙。ボナーは,第二版では,この引用だけでなく,スミス蔵書についてのほかの説

明もすてている(たとえば量と装丁)。

3)my booksとは,自分の著書ということかもしれないが,それはズメリーの文脈をしらべればわかる

として,beauについてはOEDにふたつの意味があげられている。「1.服装,物腰,社交的礼儀に特別

の,、あるいは過度の,注意をはらう男。……ダンディ。2.女性の同伴者または求愛者,恋人,スイート

ハート。」このふたつのうち,2の意味をとれば,スミスは自分が愛書家だといいたかったのだ,というこ

とに.なり,じっさいにそうだったとおもわれるのだが,それでは,、愛書家としてかれは本をどうあつかった

のかが,つぎの問題である。1の意味では,相手(本)をどうあつかうかという問題はでてこない。ボナー

は,この問題にこたえて,「原則としてかれは,製本のみごとさよりも強さを目ざしていたようであり,稀

珍本や善版本をさがす人ではなかった」とかいている(p.ix)。あとでのべるように,スミスの蔵書のなか

には,インクナブラは一冊もないし,全体として特に版をえらんで集めたとはおもわれない。ボナーの初版

から100年たっているせいもあるが,製本もとくに強固とはみえない。蔵書家としてのスミスの特色は,読

んだ痕跡をのこさないこと,つまり本に書きこみをしないことしか考えられない。

4)スミスと大学図書館との関係については,W.RScott, A勧η&η餉αs s伽鹿就απdpr碗ssoろGlasgow

1937,.pp.168・王84.なお,時期がややずれるが,スミ.スの死の直後(1791)におけるグラーズゴウ大学図

書館については,蔵書目録がある。(励9砺、脚r醐㎜η妨r◎㎜加B塀醜heα1 U伽e磁薗G伽一8ze蔵s, secμ磁〃ηZ琵e㎜oπ伽em(繍αs. Impensis academiae,1abore et studio Archibaldi Arthur,

A.M. philosophiae morahs professoris. Glasguae 1791.これを編集した図書館長アーチボルドpアー

サー(1744-1797)は,1758年にグラーズゴウ大学に入学,したがってスミスのもとでまなび,1780-1796年

には,道徳哲学助教授(正教授はリード),1796年にリードの後任として正教授にならたが,翌年死亡した

(このことをここに書いておくのは,スミスの学生たちがどうなったかを追跡する資料としてであって,蔵

書とは直接に関係がない)。

5) Jean S6nelier, Bめ蜘h詑86蕨}z泓θ6陀s oeωり陀s(血」一Jl Ro㎜6, Par蛤1950.

6)Alexandre Cioranescu, B雌q卿1瓦e dセ伽醸e艇鷹かα㎎α煙伽d臨一1漁ηε醜。蝕TQme皿.Pa■is 1969.

7) Adam Smit瓦α)r贋p()読ηce(The Glasgow edition of the works and correspondence of Adam

Slnith, vo1.6, 2nd ed.,1987), PP.57-58.

8)Philip Gaske11,,A励Z㎏㎎酸y(ゾ伽R)認お伽亀second e“ition, Winchester 1986, p.65.

g)W,R. Scott, qρ. c肱, p.173.

10)Zわ‘(義,p.172.

ユ1)スコットは,スミスが図書館に購入させた本を自分でも所有していたことを,r蔵書のかなりの部分

が,グラーズゴウをはなれてか.ら形成された」こζの論撫としている。ゐ楓,p.172.

12)Ada皿Smith,、(:bma卿。π虎解θ, p.34.ただし,スミスはヒュームの推奨する本をすべて購入したわ

けではないらしく,たとえば,1754年にヒュームはスミスへの手紙で,友人たちにブラックロックのr詩集』

(1754)を売りさばくようにもとめたが,「君自身が一冊をとって」とわざわざ書いているにもかかわらず,

スミス蔵書にはそれがない(α)r鵬poπ鹿ηoθ, pp,10-11.)。もちろん,くりかえしていうように,\蔵書は

紛失したとい.う可能性もあるから断定はできない。あとで言及するバーンズの詩集は,紛失。例である。

13)Adam,S加th,(br幽幽ρoη吻駕θ, PP 4ユ3-414.

14)1)冊, (レv.

15)James Bonar,,A cα瞭(ゾ伽配b曜ソqr Adαm蹴εん, second edition, London 1932, P.8.

16)Adam Smith,(:b㎎o漉πoθ, P.39.

17)必鼠,PP・187-194. もっとも,これらの手紙では,スミスが寄贈したのか,かれらが自分で買ったの

9

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のかは,はっきりしない。

18)めZd, p.8. この「まえの版」(1748)は,スミス蔵書中にみあたらない。

19) め‘d,P.19.

20)め‘d,P.194. このケイムズの草稿(自筆ではない)とおもわれるものが,バナマン文書(したがって

スミス蔵書)のなかにあって,現在はグラーズゴウ大学図書館にある。後述のように,スミス蔵書中のバナ

マン家所口分は,全部,エディンバラ大学図書館にはいったのに,バナマン文書は,おそらくスコットの調

査の収穫として,.ダラー’ズゴウにあるのだ。

21)め‘(孟,pp.122-123,

22)しかし,ダルリシプルがヘイルズの弟であり,スミス蔵書がこの種の航海記に対するかなりの関心をし

めしていることからすれば,紛失と考えたくなる。

23)め鳳,p.124. このときのアンダスンは,欠陥本であり,スミスはのちに,カデルあてにクレームを

づけている(p.248)。

24)観d,p.139.前掲ボルカーのばあいもそうだが,これらの本はすべて,スミス蔵書として確認されて

いるので,書誌的記述はすべて,ここでは省略して蔵書目録にゆずる。

25)Daines Barrington,(厩π励めηs oπ〃泥甑脇。励∫}℃海ル霞㎎ηα(魏α次)ε舵伽e纏y.ガ競σ

魏sオんθ瓦7s‘, c㈱,皿14 Lρndon 1766.

26)Adam Smiもh,α)η●駕ρo漉ηcθ, PP.166-67.

27)εわ‘d,p.ユ64.

28)め‘(孟,p.168.

29)εわ‘d,p.182,

30)め‘(孟,p.169.

31)め‘(孟,p.230.

32)スミス蔵書のハンターr性病論』は,松戸市の日大歯学部図書館にある。その序文は,「同感について」

という節からはじめられているが,内容的にスミスの同感論につながるものとしてではなく,同感という用

語の普及=流行の一例としてあげておく。33) ゐ‘d, p. 224.

34>め‘d,p.251.

35)め‘(云,p.226.

36)めごd,p.228.

37)ゐ‘(孟,p.233.

38)めεd,p.239.

39)め楓,p.244.

40)εわ鼠,pp.246-47.

41)εb鼠,p.269.チャータズ(1742-1825)は,グラーズゴウでのスミスの弟子であった。

42)εb鼠,p.285.なお,ローガンはのちに,自分が書いたr古代史論』(1788-91)を,「旧友ラザフォ砧

ド」の著作といつわって,スミスの予約購読をもとめた。c£p.307,

43)εわε(オ,pp。287-91.

44)め‘d,p,296.

45)め‘〔オ,p.301.

46)Dugald Stewart,窺q鯛ρ脛節㎝仙。斡Edinburgh 1858, P.311. スチュアートは,晩年のスミス

が,青年時代の愛読書にたちもどることをこのみ,古代ギリシャの悲劇詩人のものを読んでいたと書いてい

る。「私はかれが,卓上にソフォクレスかエウリピデスをひらいたまま,そうくりかえすのをきいた。」

47)Adam Smith, Cbη細。漉ηce, P.263.

48)必‘d.,pp.277, 278, 281, 324.

49)即製pp.276r 279,281. このときの依頼状のなかに「私のために1部入手して下さるよう努力をお

ねがいします,愛情または貨幣とひきかえに」ということばがあって,スミスのユーモアを示している。

50)め‘(孟,p.277, 278.’

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皿.蔵書の散秩

 スミスが死んだとき,遺産が,蔵書をふくめていとこのデーヴィド・ダグラス(1769-1819>に

よ1っ.て継承されたことは,まえにのべた。ダグラスが死ぬと,かれの蔵書(スミスのそれをふく

む)は,ふたりの娘に等分されたD。この等分というのは,機械的に冊数をわけたらしく,ディド

ロ,ガッサンディ,モリエールの著作集,ルソ』のrエミール』などがばらばらになっている。ス

ミス自身の目録で4巻となっているラフィトーが,第1巻と第2巻はエディンバラ大学,第4巻は

ニコルスンの寄贈(1925年)によっ.てガコーディ図書館,第3巻は行方不明,という状態(した

がって,第3-4巻はカニンガム家から後述のようにして売られたもの)にあるのは,「等分」のし

かたをよく示す例といえよう。ふたりの娘,バナマン夫人とカニンガム夫人が継承したのは,じつ

はスミス丁丁だけではなく,ダグラス蔵書といった方が正確なのである。すなわち,それはスミス

蔵書のほかに,ジョン・ミラーのもとにまなんだ法律家としてのダグラスが,スミスの生存中と死

後に入手したものをふくんでいた。したがって,それらのうちで,スミスの死後に出版されたもの

が除かれるのは当然であるが,そのほかにもスミス蔵書でないダグラス蔵書があるにちがいない。

両者を区別する明白な指標は,スミスの蔵書票があるかないかということだが,これについてもふ

たつ問題がある。第一は,60×38mmのスミスの蔵書票は,12折とか24折とかいう小型本には,物理

的に貼れないわけではないがむずかしいので,貼られていないこと,第二は,スミスの蔵書票は,

簡単なもので,容易に偽造できるし,偽造でなくても剥落したものを別の本に貼ることはできると

いうことである。いずれのばあいも,ほんとうにスミス蔵書であるかどうかを判定することは,き

わめて困難であり,つぎのような妥協にあまんじなければならない。すなわち、第一に,スミスの

蔵書票がなくても,剥落が確認できるか,シリーズもので他の巻には蔵書票があるか,あるいは、

バナマン,カニンガム家にスミス蔵書として伝えられたことがあきらかであるか(とくに小型本の

ばあい),このどれかに該当するばあいは,スミス蔵書とみなすこと,第二に,蔵書票が偽造と確

認されないかぎり,それが貼付されていれば,・スミス蔵書とみなすことである。蔵書票の剥落は,

製本めさいにも生じるし,そのことはかならずしも記録されないので,トロント市のメトロ・ライ

ブラリの三冊のように,推定しかできないこともある。

 バナマン,口中ンガム両家のいわゆるスミス蔵書のうち,バナマン家のものは,バナマン夫人の

避く1879)後,「息子の牧師デーヴィド・ダグラス・バナマンによって継承され,かれは1884年と18

94年の二回にわたって,「エディンバラ大学神学部(ニュウ・カレジ)に寄贈した。あとでのべるよ

うに,ボナーは,バナマン家からうけとったリストにようて,この部分にはBおよびN(B)とい

うしるしをつけている。このバナマン蔵書は,いわば無傷で神学部図書館にはいったわけだから,

これとおなじ冊数がカニンガム蔵書として存在した.こと,このなかの・ものは,小型本あるいはシ

リーズの一部分に蔵書票がなくても,スミス蔵書であったことを,推定してほぼまちがいがないで

.あろう。だが,その後の状態が完全に無傷であったかというと,図書館として完全に目録カードを

作成していなかっただけでなく,地下書庫に放置して,学生が他の本をとるために大型本をふみ台

にするという状態のまま,』半世紀以上が経過したのだから,スミス蔵書としての特別の管理は,な

かったわけである。したがって,とうぜん予想されるように,ボナーの記録と対照すると,若干の

行方不明本がある。ただし,それが,神学部時代に紛失したのか,あるいは,「訪問した五つの図

書館のなかで最悪の状態2)」という批判の衝撃によって,1970年代に中央図書館に移管したさいに

そうなったのかは,わからない。

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 他方カニンガム蔵書は,失のカニンガム牧師が1878年に死んだときに,かなりのものがエディ

ンバラで競売に付された。これが,大量門門のはじまりであるが,そのうちで,エディンバラ大学

の初代の経済学教授(1871-80)であったウィリアム・バランタイン・ポジスン(1815-1880)が購

入したものは,1880年目大学図書館に寄贈された。のこりのカニンガム蔵書は,息子のR.0.カニ

ンガムのものとなり,かれはベルファストのクインズ・カレジの教授(化学だといわれる3))で

あったので,そこに半分を寄贈したが,のこりの半分は売却された。このときの最大の買手は,東

京帝国大学教授新渡戸稲造であり,約140点が4),かれによって東京帝国大学経済学部の独立を記

念して,同学部に寄贈された。「今日実際上の御参考にはならずとも経済学者の宝物とも申すべき

ものと被存候に付,右を新設経済学部へ寄贈致度候」という’新渡戸の手紙がのこっている5)。

 日本にきてからの,東大経済学部でのアダム・スミス文庫は,関東大震災(1923)と第二次世界

大戦の戦災(1941-45)を生きのびた。前者については「永峯という小使」の奮闘がつたえられ6),

後者については,・甲府に疎開させたところ,甲府が爆撃されて関係者が「青く」なった7)という回

想が記録されている。ついでにいえば,関東大震災は,東大のスミス文庫には影響がなかったけれ

ども,横浜でスミス蔵書を1冊,焼失させた。それは,左右田喜一郎の自宅にあったルソーのrエ

ミール』第1巻(1762)である。これはボナー目録の初版ではバナマンとされ,2版ではVo1. i

(?)・としてバナマンとされているが,流入の経路からみればカニンガムであろう。じっさいに第

3巻は東大にあり,第2巻はエディンバラにあるので,例の機械的等分方式によって,カニンガム

家に帰したと考えてもおかしくはない。左右田が購入したとき,おなじ古書店(デュローかミュジ

アム)の目録で発注したのは,武藤長蔵であった。もし,武藤の手紙が左右田よりはやかったな

ら,この本は長崎に保存されていたであろう8)。

 東大スミス文庫には,手稿が2冊ある。ひとつは,1781年につくられたスミス蔵書の目録であ

り,もうひとつは,ヴェネツィア刑法である。前者は,省略がおおくて(手書きの判読の困難にく

わえて)同定が困難であるが,あとでのべるように,スミス蔵書を再構成するうえで,きわめて有

力な手がかりを提供した。もうひとつのrヴェネツィア刑法』は,1954年に新渡戸蔵書として東京

の古本屋に出たものを,東大が購入したのだが,新渡戸は,ロンドンで購入したスミス蔵書を東大

に直送させたはずなのに,これだけを手もとにとどめておいたのは,羊皮紙に手書きというめずら

しさを別にすれば,理由がわからない9)。

 なお,東大スミス文庫には,そのほかに,トマスのrブリティシュ・ネゴシエイター』(1759)

が大河内一男によって寄贈され10>,1973年にはエドマンド・ウォーラーのr詩集』(1694)とrお

とめの悲劇その他』(1690)の2冊合本,およびドゥ・トーのrトルコとタルタルの回想』(1784)

4巻が,ピトロホリのデュヴァル書店から購入された11)。このう.ち,トマスの本には,「J.シー

ルド・ニコルスンからW.R。スコットへ,1911年クリスマス」と書かれていて,ポジスンの女婿で

後継者であったニコルスンから,グラーズゴウ大学のアダム・.スミス講座の教授であったスコット

に,おくられたものであることがわかる。この本をボナーは,初版ではニコルスン所蔵第2版で

は,rJ.S.ニコルスン教授からこれを入手したW.R.スコット教授によってグラーズゴウ大学に

寄贈された」と注記して,グラーズゴウ大学所蔵としている。しかし,大学側には受入れの記録は

ないので,スコット蔵書のままで,かれの死後ハーディング書店に買いとられたと見るほかはな

い。

 日本には,これらのほかに9点のスミス蔵書の所在が確認されていて,そのうち,W.トムスン

のrヨーロッパ・アジア・およびアフリカ旅行記』(1782,匿名)は1918年に京都大学が購入12),

12

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モンボドの『言語の起源と発展』1-4巻(1773-87,匿名)は,1917年に柴山健三によって同志社

大学に寄贈された13)。柴山は,1913-14年にロンドン大学に留学していたので,そのとき,あるい

は留学時代の縁でその直後に購入したQであろう。そのほカ、日本大学法学部のガリレオ・ガリ

レイ,・スウィフト,ギボン,同歯学部(松戸)のハンター,福山大学のボッカチオは,すべて1970

年代以降の入手であり,1988年には,ゴードンが雄松堂経由で大渕利男蔵書にくわえられ,また,

かつてデュ.ヴァルの目録にでていたアナタレオンが,丸善にはいった。戦後入手の分は,アナタレ

オンの例でもわかるように,カニンガム蔵書の売却から直接にきたものではなく,ボッカチオは一

度パリの古本屋の手にわたってからイギリスにもどって日本にきたことがわかっている。あとでの

べるカコーディにニコルスンが寄贈した3冊のように,ドイツ語蔵書票があることから,ドイツ人

の所有だったのではないかとおもわせるものもある。

 ここでもう一度,カニンガム蔵書の売却の時点にもどって,イギリス,アメリカ,カナダ,イタ

リアで,スミス蔵書の行方をおうことにしよう。現在のところ,これらのほかの国には,スミス蔵

書はないようである。

 カニンガム家の第一回売却のとき,ポジスンがかなり購入したことは,まえにのべた。地理的に

も地位的にも,かれはもっとも有利(売却地エディンバラの経済学教授)であったから,すくなく

とも主要部分を見のがすことはなかっただろう。わざわざ主要部分というのは,全部を買ったにし

ては,すくなすぎるようにおもわれるからである。のこりはどうなったのかということになると,

このときの散侠と第二回売却分の(東京大学にきたものをのぞいて)散侠との区別は,ほとんど不

可能である。これらの散侠分をもっともおおく再収集したのは,ユニヴァシティ・カレジ・ロンド

ンの経済学教授(1881-1927)であったハーバート・ソマートン・フォクスウェル(1849-1936)で

あって,かれの蔵書は,まず1903年に,ロンドン金匠組合が買いとってロンドン大学にゴールドス

ミス文庫として寄附し,その後の収集は1929年に,ハーヴァード大学ビジネス・スクールが,ク

ロ「ド・ウォシントン・クレスの寄附金によって購入して,クレス文庫とした。双方にスミス蔵書

は10点ぐらいふくまれているので,1903年と1929年というふたつの時点だけをみれば,ゴールドス

ミスには細螺ンガムの第一回売却から,クレスには第二回売却から,フォクスウェルが入手したも

のがはいったのだと考えたくなるかもしれないが,ゴールドスミス文庫の目録第1巻の序言は,つ

ぎのようにのべている。・「1903年から1914年まで,金匠組合は7483ポンド,大学は約7370ポンド

を,この文庫に投下した。これらの金額のうちで図書の購入と製本に使用されたものは,ほとんど

すべてフォクスウェルがつかった。……大学はまた,ひきつづき,文庫の維持と発展にその資金を

あてた14>。」したがって,ゴールドスミス文庫とクレス文庫のスミス蔵書を,フォクスウェルの入

手時期によって区別することはできない。

 アメリカでスミス蔵書を,クレスに匹敵するだけでもっているのは,ジョンズ・ホプキンズ大学

のハツラー・コレクションである。購入時点は1905-6年および1912年というのだが,そのことはゴ

新君田が買うまえに,かなりのスミス蔵書が市場に出ていたことを意味する。新渡戸が買ったのは

1918年,ロンドンのデュロー書店からであり,その契約直後にグラーズゴウ大学からも購入希望が

あ・つたことからすれば,・カニンガム家の第二次売却分が,そっくり東大にきたと考えられそうだ

が,一次も二次も,エディンバラからロンドンへと,古書店を経由するうちにすでに散侠しつつ

あったのではないかという推測も可能である。エディンバラのしにせ,グラントが最初にひきう

け,デュローやミュジアム書店などに流したのかもしれない。個別的には,同志社や京大もふくめ

て;・ミゴジアム書店からの購入といケのが,かなりおおいのである。もしそうだとすれば,第二次

13

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売却を新渡戸の購入の年,すなわち1918年とする根拠はなくなるわけである。ハツラー・コレク

ションのうち,1905-6年に購入された10点は,第一次から,のこりは第二次から1912年にはいった

とも考えられる。いずれにしても,カニンガム家の二回の売却から,約500~700点が,散干して

いったことは,まちがいがなく,グラーズゴウ大学にボナーが寄贈したものも,イタリア共和国元

大統領ルイジ・エイナウディが購入して,現在フォンダツィオーネ・ルイジ・エイナウディにある

1冊も,トロントのメトロ・ライブラリにある3冊も,また比較的最近エール大学のフランクリン・

コレクションにはいった1冊も,すべてそこに起源をもつものである。いまとつぜん500~700点と

いう数字をあげたが,これは,バナマンとカニンガムがおなじ冊数をもっていたとして,エディン

バラ大学のバナマン蔵書が約1000点2000冊,カニ・ンガム蔵書のうちベルファストと東大があわせて

300点弱,500冊とすれば,のこりは700点となり,その後確認されたもの(クレス,ゴールドスミ

ス,ハツラー,グラーズゴウ大学など)が100点とすれば,不明は600点となる。この数字は,現在

作成中のカタログができあがり,そのなかでバナマン(これは無傷のはずだから)蔵書が確認され

れば,さらにはっきりしてくるだろう。ただし,両家への等分は,点数ではなく冊数によったもの

だという問題はのこる。

 以上は,両家に分割されたものが,スミス蔵書のすべてだということを前提している。しかし,ス

ミスの生存中に蔵書が贈呈されることはなかっただろうか。スミスは晩年のエディンバラ時代にす

くなくとも,二人の友人に蔵書を贈ったことがわかっているのだ。一人は,弁護士マコノキーであ

り,もう一人はコミショナー・リードであって,前者には,コンドルセの三著作とラアルプとを合冊

にしたものがおくられ,儲にはr道徳感情論』第6版(“From the Author To Co㎜. Reid”)

とr二二』第4版(“Co㎜issioner Reid”)のほかに,ホラチウスなどがおくられたらしい。

 ホラチウスについて,「らしい」と書いたのは,1955年に,グラーズゴウ南部のポロクシールズ

で見たりヴィングストーン蔵書のなかに,上記のr道徳感情論』とr国富論』とともに,フライ

リーフに“Jas. Reid Edin.1793”と書かれたホラチウスと,コートニーのフランス革命論(著者

献呈本),ドゥ・ロルム,J.ヤング, R.ドズリー,タッソがあり,すべて一括して古本屋から(サ

ミュエル・ロジャーズに贈られたr国富論』第5版といっしょに)買ったとのことだったので,

ジェイムズ・リードが税関委員デーヴィド・リードの息子だとすれば,ロジャーズの本をのぞくす

べてが,スミスから同僚リードに贈られ,ホラチウスにだけ,ジェイムズが署名したと,考えられ

るからである。もちろん,両リードの関係が証明されず,ロジャーズがほかの本をもらわなかった

という確証もないから,「らしい」というほかはない。なお,こうして発見された蔵書6冊は,リヴィ

ングストーンが,マクフィーの学校友だちだったことがわかって,グラーズゴウ大学に寄贈された。

 マコノキーの方は,リードより重要な関係をもっている。というのは,キャナン版法学講義が発

見されたのが,マコノキー家なのだからである。アラン・マコノキー(1748-1816)とアリグザン

ダ・マコノキー(1777-1861)は,父子ともにエディンバラの法律家で,父は1770年に弁護士,1779-

96年にエディンバラ大学公法教授,1796年にメドウバンク卿として裁判官,という経歴をもち,息

子は,1799年に弁護士,1813年置検事総長,1817-18年に下院議員となっている。コンドルセの本

に書かれた「弁護士マコノキー氏,1790,アダム・スミス博士から」という字は,スミスの自筆で

はなく,マコノキー自身である可能性がおおきいが,父子のうちで,1790年に,「弁護士マコノ

キー」と自称したのはどちらであろうか。息子は,たしかに,この時点では弁護士という肩書きし

かもたない。しかし父もまた,裁判官メドウバンク卿であるとともに,弁護士マコノキーでもあっ

たはずである15)。キャナン版グラーズゴウ講義(略称ム1B)の手稿に署名したrJ.A.マコノ

14

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キー1811」は,アリグザンダの弟であるが16),経歴はわからない。この手稿については,W. R.ス

コットが,アリグザンダ・マレイ(1736-1795)蔵書からマコノキーにうつったと、推定して,マレ

イの死(179う)からマコノキーの署名(1811)までの所在が不明だといっている。しかし,マコノ

キー家は,そのころ三代にわたって法律家を出していたのだから,法学関係の蔵書もおおく,した

がってそのなかから,ジェイムズ・アランが1811年に,この手稿を自分のものとしたと考えても,

おかしくはないのである。ということは,マレイからマコノキーへの手稿の移転が,1811年よりま

え,すなわちジェイムズ・アランの父の代であったかもしれないという可能性を意味する。スミス

の蔵書と講義ノートは,とくに所有者にかんしては,直接に関係がない。しかし,マコノキー家

が,スミスに対して,親近的な関係ないし感情をもっていたということから17),蔵書の寄贈は,

ほかにもあったのではないかと,想像することはできる。

 デーヴィド・リードへの寄贈は,r道徳感情論』第6版がふくまれているから,1790年であり,

マコノキーへの寄贈も1790年と書かれていて,いずれもスミスが死ぬ直前(あるいは直後)に,寄

贈されたことがわかる。そうすると,ほかにも側近の友人(遺言執行人のブラックとハットン,お

よびマケンジーなど〉に,形見として寄贈したものがあったのではないかと考え℃もよさそうだ

が,これまでのところではなにも証拠はない。

 スミス蔵書が,バナマン,カニンガム両家に移ってから,バナマン蔵書はそのままエディンバラ

大学にはいり,カニンガム蔵書が散罪したということは,すでにのべたとおりだが,この部分は,

散侠がはじまるまえにも,すくなくとも二冊がひきぬかれ,逆に散侠がおわったあとにも,すくな

くとも一冊がのこっていた。前書のうちの一冊は,ティモシー・カニンガムのr関税・上納金・補

助金・国債・租税の歴史』であって,これは1854年にカニンガム家からラムジー・マカロクの手に

わたり,、現在は,オーヴァストン文庫の一部としてレディング大学図書館にあるのだが,もう一

冊,ブショーの相続税論がおなじようにしてマカロクのものとなったのち,ジェイムズ・トムスン・

クレイグにゆずられ,クレイグ蔵書の競売目録にのせられた18)。

 他方,カニンガム家にめこった最後の一冊は,r国富論』.ドイツ訳(1776)第1巻で,モロッコ

皮にジョー・ジ3世のモノグラムがあり,スミス蔵書票もはられている。ジョージ3世の蔵書がどう

してスミス蔵書にはいったのかわからないし,逆にスミス蔵書がジョージ3世蔵書になったとすれ

ば,スミスは寄贈本にも蔵書票をはったことになるし,そうだとしてもジョージ3世蔵書がどうし

てカニンガム家にまいもどったのかわからない。しかも,この本の第2巻は,ボナーによって,カ

ニンガム家からの散二分のひとつとして記録されているのである。

 カニンガム家の子孫は,W. R.スコットとは連絡があったが,その後の消息がわからなかった。

ところが,1950年代に,バーミンガム大学のロドニ・ヒルトンのたすけを得て,ふるいヘリブ矛ド

市の電話帳からたどって,もとその地域で教師をしていたミス・カニンガムをさぐりあてることが

できた。そのけっかでてきたのが,上記のドイツ訳であり,それ以外にはなにもないということで

あった。

 これまでのべてきたところがらあきらかなように,カニンガム家からの散侠を,再収集によって

くいとめたのは,まずポジスンであり,ついでフ牙クスウェル,新渡戸,ハツラー(ただしこれは

ゴールドスミス,クレスとおなじく,出資者)であった。ボナーもまた,カタログを作成しただけ

でなく;収集にもっとめて,成果を母校グラーズゴウ大学に寄贈した。ポジスンの女婿で後継者で

あったニコルスンは,ポジスンの蔵書をエディンバラ大学に寄贈しながら,自分があつめたスミス

蔵書は,すべてカコーディ博物館に寄贈した。内容的にあまり重要でない(端本が大部分)こと,

15

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博物館にスミス記念コーナーがあることなどが理由として考えられる。このニコルスン蔵書は,こ

れまで報告されていなかったし,他方で,ボナーがニコルスン所有としているフィルマーは,行方

不明である。

1)J,Bonar,・4α痂9麗qr伽妨聞(~f・4面η蹴仇2nd edition, London 1932, P. xvii.「等分

equally divlded」ということばは,ボナーの初版(1894)にはない。この訂正は,マカロクがティモシー・

カニンガムのr関税・上納金・補助金・国債・租税の歴史』に書きこんだノートによるものとおもわれる

(これについては後述)。

2)H:.Miz凪a, A(㎞蹴ん’s妨⑬,α{岬伽ηe濡‘o R)ηα〆sα放心θ, Ca:【hbridge 1967, P. xii.こ

れについて,書評のなかで「苛酷なことばharsh words」という反響があり,調査当時の図書館長ラムの

あとをついだハワードは,スラッファにあてて,「ミズタ目録をout of dateにしてみせる」と書いた。ハ

ワードは1988年目,大学中央図書館の貴重書司書に転じた。

3)ボナーはnaturalistと書き,矢内原はそれをうけて「博物学」と書いた(次注の論文)が,ベルファ

ストの名誉教授ブラックは,化学ではないかといっていた。さしあたってどうでもいいことなので,確認に

いたっていない。

4)矢内原忠雄「東大経済学部所蔵アダム・スミス蔵書について」(アダム・スミスの会/大河内一男編『ア

ダム・スミスの味』東大出版会,1965年)p.199によれば,141点,308冊であるが,セットで1点とみる

か,それぞれ単行書とみるかによって,数字がわずかながら変動するので,約140としておく。

5)同,p.198.新渡戸の山崎覚次郎あての手紙の一部分が,矢内原によって引用されている。「(前略)不

図数日前当市書騨Dulau&Co.の目録に依りアダ:ム・スミスの蔵書三百余冊が売物となり居るを承知致

候。右は御承知のBonar “List of Lhe Books in the Library of Adam Smith”中に掲げられたる物

の一部にて,今日実際上の御参考にはならずとも経済学者の宝物とも申すべきものと被存候に付,右を新設

経済学部へ寄贈二度候。就ては本日右書騨より直接貴学部宛書籍入六箱発送二二二間,到着の上は何卒可然

御取計ひ被成度候。実は拙者儀買入申込後可なり諸方面より希望出で,殊に蘇国の某大学より切なる希望も

有之候へ共幸に拙者の手に落ち候故,愈々日本の持物と相成り,又帝大の一の誇とも相二言事は甚だ愉快に

存候(下略)」

6)同 pp.198-9.「それでこちらに来てから後に,ζの蔵書の運命はどういうことになったかと申します

と,大正十二年の関東大震災のときに経済学部の研究室は丸焼けになりました。その際書物も大部分焼けて

しまったのであります。永峯という小使が当時おりまして,これは目つかちの小男でしたが,かねがね高野

岩三郎先生の薫陶といいますか,感化によって,書物というものは大事なものである。ことに先生方が大事

にしている本は特に大事だということを知っておりまして,震災のときに猛火をくぐって,このアダム・ス

ミスの蔵書を救い出したのであります。永峯と,もう一人の小使が助太刀をいたしまして,それでこの蔵書

は関東大震災の厄を免れたのであります。」

7)大河内一男r暗い谷間の自伝』中公新書,1979年,p.216.

8)武藤長蔵「アダムスミスの生涯二二著作(其三)」長崎高等商業学校研究館年報r商業と経済』5-2,

1925, 男ll届唖pp.22-23.

9)田添京二「羊皮紙・手書きの一本rヴェネチア刑法』について」前掲rアダム・スミスの味』pp.315-

17.

10).大河内r男rS. Thomas, The British Negociatorについて」前掲rアダム・スミスの味』PP.312-

14.

11)水田洋「アダム・スミスの蔵書」アダム・スミスの会/大河内一男編r続アダム・スミスの味』東大出

版会 1984年,pp.305-13.

12)出口勇蔵「W.トムソンrヨーロッパ・アジア・およびアフリカ旅行記』二巻(一七八二年)につい

て」前掲rアダム・スミスの味』pp,305-12.

13)山崎怜「あるスミス蔵書のこと」前掲『続アダム・スミスの味』pp,293-94.

14)Un三versity of London Library,(麗d彫(ゾ伽Gb翻s’μb㎎y(ガθcoπσ而。砒e磁μ陀com-

piled by Margaret Canney and David Kno㌻t, Vol.1, Cambridge 1970, P. xvii.

  し15)ただし,.W. R.スコットは,アリグザンダ・マコノキーについて,「裁判官になったあとでr弁護士』

という肩書の蔵書票をはることは,とうていありえない」と書いている。J. Bonar,11α囎e(~r‘加

16

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妨π姥ソ(~ヂノ乱(㎞踊,2nd ed.,1932, p.212.

16)Adam Smi七h,.Lecε{鷹s oπ∫臨εce, po乱ce, reひe肌泥απdαms, ed. by E.、Cannan, Oxford i896, PP.

xvi_xvii.

17)ただし,スミスが1765年にトゥルーズで,ダグラス事件の証人となったとき,アリグザンダ・マコノ

キーは,反対側の弁護士であった。W.民Scott, A〔㎞&η軌αs s励πεα加i p脚湾GlasgoW 1937,

P259.

18)M.IA..Bouchaud,1%Z’〃ηρδご伽ひ‘㎎励ηεsωr伽釧cce謡α縞…Parお正772.

皿 蔵書の記録

 スミス蔵書の目録を最初につくった(正確にいえばっくらせた)のは,スミス自身であり,東大

アダム・スミス文庫のなかにある1781年の手書き目録がそれであるdこれは,省略書架目録(著者

名工でない)であること,スミスの生涯のさいこの9年がふくまれないことが,難点であるが,巻

数と省略の範囲内での語順はほぼ正確であり,復原の手がかりとして有力であった。後述の矢内原

カタログの後半に,このスミス・カタログが全部印刷されていて,’ボナー・カタログへの参照注が

っけられている。

 本格的な目録作成作業は,ジェイムズ・ボナー(1852-1941)によって前世紀末に開始された。

ボナーは,1874年グラーズゴウ大学でMAをとったのだから,アダム・スミスの後輩にあたる。し

かも彼はライプツィヒとテユービンゲンの大学にまなんだのち,スネル奨学金によってベリオルに

はいるので,ここでもスミスの後輩になる。この時代のボナーに影響を与えたのは,アーノルド・

トインビーとアルフレド・ミルナーであり,かれが1877-80年に,東ロンドンで大学公開講座の講

師として開拓者的役割を演じたのは,そのためであろう。1881-1907年にはかれは文官任用委員会

の試験宮であり、,そのこ1919年まで,造幣局オタワ分室次長であったが,引退後はロンドンのハム

ステッドに住んでいた1)。ボナーがスミスの蔵書に関心をもったのが,いっごろ,どのような理由

によるのかは,わからないけれども,東ロンド.ンでの公開講座時代に,かれはすでにアダム・スミ

ス・クラブをつくっていたし,r哲学と経済学』(1893)でも,スミスに一章をさいている。

 ボナーの経歴を考えると,かれがスミス蔵書を直接に点検したのではないことは,容易に想像が

つく。初版の序文には,「編者は,きわめて少数のばあいしか,自分で本をみて処理することがで

きなかった2)」とあり,第2版の序文には,「バナマン,カニンガム両家からくわしいカタログを

うけと・つた3)」とあるし,エディンバラ大学神学部にあったスミス蔵書の一冊(テオドシアヌス)

にも,ボナーの手紙(1893年4月19日)が貼付されていて,それは,当時の主任教授であったらし

いジョージ・スミスにあてた,.蔵書リスト受領の礼状である6

 ボナーは,1932年に80才で蔵書目録の第2版をだしたあとも,1rエコノミク、・ジャーナル』に二

回にわたって(vo1.44, p.349,1934;vo1。46, p.178,1936),追加を発表した。そのこ,スコッ

トが;東京からとりよせた1781年目録のコピーにもとづいて,追加書目をつくり,「ボナーに送った

という。シャーラスのボナー追悼文によれば,スコヅトのノートのほかに,ボナーは,再版カタロ

グに白紙を挿入して製本したものをもっていたそうだから,第3版の準備が進行していたのだろ

う。しかし グラーズゴウ大学に寄贈されたボナー蔵書のなかには,それらしいものは見あだらな

い。.

 散侠分のうちで,東大にはいったものについては矢内原目録が出版され4),クレスとゴールドス

ミスにはいったものは,それぞれの総目録に収録された。ジョンズ・ホプキンズのハツラー・コレ

17

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クションについては,クロード・ジョーンズによって1940年に,チャールズ・J・マクガーヴィに

よって1949年に報告されたが5),ヴァイナーは,これについて二つの問題を提起した6)。ひとつ

は,1912年にまとめてミュジアム書店から購入されたというが(実際にはブルーイットのように

1930年に購入されたものもある),そのうちボナー目録にないものは,1878年のカニンガム家売却

からきたものであろうということ,もうひとつは,とくに『新旧交易原理の比較』(1788)とテユ

ルゴのr富の形成と分配』(1793)をあわせて製本した一冊は,デーヴィド・ダグラス蔵書からす

でに流出したのではないかということである。このうち後者は,スミスの死の直前直後の散侠の問

題として,前章でとりあげるべきであったが,ヴァイナーが,推測の根拠としているのは,Wm. J.

Powe11という署名と, Abergavemy, Grays㎞,179□,という地名磯関名・年だけなので,

パウエルがなにものかがわからないかぎり,展開のしょうがない。

 また前者は,ボナーがあげているカニンガム,バナマン両家からの完全なリストが,1878年のカ

ニンガム売却分をふくまないということを前提しなければ,なりたたないのだが,もしそうだとす

ると,ボナーが,QC(ベルファスト)でもC&J(カニンガムから日本へ)でもなく, Cという

しるしをつけた本の存在を,売却リストなしにどうして知りえたのかという疑問がでてくる。ボ

ナーは,第2版の序文で,Cはカニンガム家留保分だけでなく,「著者寄贈本をのぞいて,すべて

の行方不明本は,Cとすべきだと推定されている」のだと書いた7)。しかし,それらが存在したこ

とがわからなければ行方不明であることもわからないわけなのに,どうしてCのマークをつけるこ

とができたのだろうか。そうするとポナーがカニンガムからうけとったリストは,1878年(目録初

版の16年前)の売立(おそらく競売)リストをふくんでいたとしか,考えられない8)。書籍競売目

録は,スコットランド中央図書館(NLS)にもブリティシュ・ライブラリ(BL)にも,かなり

よく保存されているのだが,そのなかにカニンガム家のものは見あたらない。サザビーのような大

手の競売業者が介入していれば,その方面からさぐっていくこ.ともできるが,現在までのところ手

がかりは皆無である。

 もしボナーが,初版のときに,両家から完全な目録をうけとっていたとしたら,増補再版の必要

がどうして生じうるだろうか。可能な説明は,1878年売却分があとからわかったということか,こ

れまでCとされていたもののほかに,新手のCがあらわれたことしかない。あるいはCでなくて

も,マコノキー,リード,パウエル,マカロクのばあいのように,かなりはやい時期に寄贈された

本が,でてきたということも考えられる。それをたしかめるための有力な手段が,1781年目録であ

るが,それをボナーは利用していないし,利用したとしても1781-90年の入手分は,当然わからな

い。

 そこで,1781-90年分はあきらめるとして,スコットがやったように,1781年目録によって,ボ

ナーを補充することが必要になるが,そのばあいに,この省略目録の項目が完全に同定できれば,

1878年の売立目録があったとしても,1781-90年分を知る手がかりとしての意味しかなくなるわけ

である。矢内原目録が,その後半に,1781年目録を収録したとき,ボナー目録との対照は一応おこ

なわれたけれども,それは,スミス目録の諸項目がボナーに収録されていることを示しただけで,

その対応関係の指摘でさえも,やらないほうがよかったくらい不完全であった。たとえば,rジュ

リーまたは新エロイーズ』がボナー目録のルソーの項に副題のrふたりの恋人の手紙』と’して収録

されていることが無視され,r世故の人』がボナーのマケンジーの項に収録されていることが無視

ざれているという調子である。そのうえ,じっさいにボナーにないものは,同定されなかった。

 ボナー目録の補遣というかたちで王立経済学会から出版された水田目録(1968)9)は,1791年目

                  一 18一

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録だけでなく,ボナー自身の追加,ハツラー・コレクションについてのアメリカからの報告,さら

にエディンバラ,グラーズゴウ,ベルファスト,ロンドンにおける実地点検にもとづいて,ボナー

を補足したものであるが,いくつかの欠陥があった。タイトルの転記にさいしての誤記や脱落とい

う初歩的なミスはいうまでもないが,1781年目録の省略記述を同定するときに(このことに内在す

る問題はあとでのべる),しばしばBしやBNなどの目録で確認するにとどめ,じっさいに現物を

手にしなかったし,ボナーが収録したものについては,その記述にあやまりがあっても,追加を意

味するのでないかぎり,ふれなかったあである。ボナー目録の大部分は,両家から提供されたしろ

うと目録によっているので,ローマ数字の読みちがいがあったり,実際には存在しない版がでてき

たり1おおくの点で訂正を必要としたのだが,それは,福島大学経済学部のr商学論集』(25-1,

25-3)とrアダム・スミスの味』(1965)pp.215-303に発表されただけであった。 r商学論集』の

抜刷がどういう偶然によってかスラッファの目にとまったことが,上記水田目録の出版のきっかけ

になったのである。なお,r商学論集』に送られた原稿は,当初r一橋論叢』に送るつもりでい・た

ところ,そのときの論叢編集者は,諾否の回答を与えなかった。

 スラッファが,『エコノミク・ジャーナル』の論文として発表することをすすめてくれたもの

が,単行本と’オて出版されると,いくつかの書評があらわれまたいくつかの影響がみられたが,

書評のなかではヴァイナーのものがもっともくわしく有益であり,影響としては,第一には前述の

ように,エディンバラ大学がスミス蔵書を中央図書館に集中し,目録にくみいれたこと,第二に

は,ベルファストのブラックがクインズ・ユニヴァシティ所蔵分について,再点検をしたことがあ

げられるlo)。エディンバラでは,マリ・シンプスンによって,いくつかの発見と紛失が確認され

たが11),ベルファストでは,むしろ紛失の方がおおかった。ヴァイナーの書評は12),ボナーに

あって水田にないものとして,トロント大学所蔵(じつは公共図書館)の3冊合本のパンフレット

をあげ,さらに追加として,スコットのメモによってムアのr哲学論文集』(1759)とプフェンド

ルフのr自然法』フランス訳,またかれ自身がドイツの古本屋の目録でみたというニコルスンの

rスコットランド歴史文庫』『(1702),ニューヨーク公共図書館所蔵のパウヌルrアダム・スミスへ

の手紙』(1776)をあげた。このうちプフェンドルフは,すでに水田目録にでているし,rムアについ

てはヴァイナーの誤解13)である。ほかの2点は追加である。

 もうひとつ,ヴァイナーが指摘したのは,ヘンリ・ヒッグズのr経済学書誌1751-1775』(1935)

に収録されたスミス蔵書である。この書誌は,ゴールドスミスとクレスの目録が出版されるまえ

に,フォクスウェルがあつめた資料にもとずいて,ヘンリ・ヒッグズの編集で出版されたもので,

フォクスウェルの蔵書だけでなく,かれが古本屋の目録や文献の注記などからひろいあつめた書誌

的情報を収録し,しかも,分類項目内の記載は順序不同という,常識はずれのしろものであるが,

ヴァイナーは,それがスミス蔵書を50点ふくんでいるのに,水田目録にはそのうちの22点しかない

のは,どうしたことかというのである。だが,ヒッグズの書誌は,ボナー目録からも収録したこと

を明記しているし,フォクスウェルの資料にはとうぜん,クレス,ゴールドスミスがふくまれてい

るから,なにも問題はないはずである。

 以上のような経過のうちに,現在作成中のスミス蔵書目録は,つぎのような方針にもとづいてい

る。

 ‘1 スミスの蔵書票がはられている本は,すべてかれの蔵書と見なして,そのタイトル・ページ

の記述を,できるだけ正確に転記するが,以下の点で省略と変更をおこなう。

   (1)大文字の使用は,必要最少限にとどめる。したがって,ギリシャ語とフランス語のタイ

19

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    トルについては,小文字にしたばあいにアクセント記号を追加するあ

   (2)著者名は,題名の一期分となっていないかぎり,省略する。姓名を省略しないばあい

    も,職業・地位をしめすことばは,省略する。

   ③ モットーは,例外なく省略する。

   (4)出版者・印刷者名は,省略しないが,その住所は省略する。

, ⑤ 出版年は,原典の記述様式と位置にかかわらず,最後にアラビア数字で示す。

   ㈲.版次・巻数な,タイトル・ページにあるかぎり,タイトルの一部として示すが,そうで

    なければ,2版以降,2巻以上のばあいに注記する。

 2 蔵書票がなくても,その剥落が推定されるもの,セットのなかの他の巻に貼られているも

の,エディンバラ大学,ベルファスト大学,東京大学(スミス蔵書をバナマン,カニンガム両家か

ら直接またはほぼ直接に継承した図書館)で,スミス蔵書と見なされているものは,それにしたが

う。記述の様式は前項のとおり。

 3 スミスおよびボナーのカタログに記載されながら所在が不明のものについては,できるだけ

その記載にちかい書誌データをもったものをさがし,それについて1のような転記をする。ふたつ

のカタログのうち,スミスのカタログは,著者名,編者名,巻数を,ボナーのカタログは,たいて

いのばあい,そのうえに出版年,出版地を示しているので,それらからスミスが所有していたと推

定される版本をさがしだすことは,原則的には困難はなかった。困難は,つぎのようなばあいに生

じた。

   (1)記述にまちがいがあるばあい。まちがいと断定するには,記述どおりの版本が存在しな

    いことを確認しなければならないわけだが,たとえば,ボナー・カタログには,アディス

    ンの作品集が,バーミンガム,1741年として記載されているのに,1741年バーミンガム版

    は存在せず,1761年版しかない。これはMDCCLXIをMDCCXLIと誤読したためであ

   しろう。また,ゴールドスミス詩集2巻というのも,ゴールドスミスには2巻本詩集はない

    ので,作品集のタイトルの誤記と考えられる。

   ② カタログの記述と一致する版本が見あたらず,前項のように誤記と推定する根拠がない

    ばあい。

     たとえばアエスキネスとデモステネスの弁論集は,スミス・カタログの記述どおりのも

    のが,ボドリアンのカタログにしがなかった。しかも,それにはタイトル・ページがな

    かったので,タイトル・ページなしにどうしてタイトルがわかったのかを,きこうとお

    もってつぎにいったときには,それはカタログから削除されていた。したがって,これは

    現在のところ謎である。また,スミス・カタログに,伽Cαpsp三門θ診鹿陀㎜

   go卿erπem巖ε2Toms。という匿名書の記載があり,これはヒッグズのr経済学書誌』

    (i七em 3347)では, J. C. de Laineの著書で,リヨン1764年出版,プラトンの共和国の抄

    訳であるとされている。ところが,レイヌでさがしても,プラトンでさがしても,出てこ

    ない。あきらめかけたときに,ホッブズ生誕400年記念の学会で1フランスワ・トゥリ

    コーにあった。かれは『リヴァイアサン』を,ラテン語版をふくめてフランス語に全訳し

    た,リヨン大学教授である。質問に応じて,トゥリコーがしらべてくれたところによれば,

    著者はJ.C. de Lavieであり,内容は,プラトンの抄訳というより,ボダンの要約であっ

    た(序文には,これは要約ではなく,ボダンよりも順序と方法と推理においてまさってい

   』る,と書かれている)監4)。ヒッグズが,手書きのLavieのviをinと誤読したのだろう。

20

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     スミス・カタログには,どうしても確認できないものが,なお5点あって,そのうち3

    点は,rラロシュの高等法院』, rルソー著作集10巻11巻』, rルソー関係論集』というよう

    に,.記述があまりに漠然としているが,あとの2点は,!晩rひ漉s五顔◎oπ鹿mα1㎜一

    的粥s,胱磁痂pπΣε伽勘π〔熔加(}めな鹿あr2と,かなりはっきりしている。前者はJ.

   .Ro99,磁η(泌㏄ん(たrm醜η廊c1Leπ肱επ伽りomA面㎎e(泥rBαc1ぬ物c13ε伽蔵

   わお2㎜&)ん憾e(旛ゐ1お1830,T馳ingen 1830, erste Abteilung S.234にあること

    がわかったけれども,現物は,BN, BL, Nσσに.ない。後者は, BN, BL,1>ひCなどの

    ほかに,,レイデン大学とオランダ国立図書館でもしらべたが,見あたらない。.

     ボナー・カタログでは,R3c画Z d腐cor㎎(伽e尻r㎎edE粥伽p如s ce妨娚…Edhlbourg

    1784というのが,ESTCデータベーズにない。

   ③逆に,ス.ミス・カタpグには,版次も刊年もないから,同一著書,同一題名(カタログ

    に省略記載されたかぎりで)のものが,複数あったらど.うするか。それらのうちのどれを

    スミスがもっていたかは,確認できないから,その範囲でいちばんはやいものをとるとい

    う,きわめて安易な方針をとったが,たとえば,ふるい版とファウルズのリプリントで

    は,.後者の方が確率がたかいかもしれない。したがって,スミス・カタログに,著者名の

    ほかに,編者や巻数が示されていて,それに該当する版(および省略されてはいても語順

    まで一致する版)が,ひとつしかないばあいをのぞけば,スミス・カタログだけからの推

    定は,便宜的なものである。

 4 編者の注は,紙の大きさをたてよこのミリメーターで示すことにはじまり,補足的書誌事

項,所在,典拠(主としてふたつのカタログ),ファウルズ版とエルセフィエル版についてはギャ

スケル15)とウィレムス16)のカタログのアイテム番号,スミスの著作と手紙における利用あるいは

言及,逆にスミスへの言及,さらに,スミスとの関係で重要とおもわれる著者については,簡単な

紹介という構成である。おわりの三点は,どこまでくわしくするかを,一定の評価によってきめな

ければならない。たとえば,ニューカスルの教会オーガニストという注記が必要かどうかは,論争

の余地があるだろうが,それは研究の今後の展開をどこまで考慮にいれるかということでもある。

1) ここでの略歴はD四Bによっているが,Ebo1物omZcゐ礁ηαZ 1941と丹㏄θθ(沈㎎β(ヅ‘舵B漉醜A翻一

eηη,vo1.27,1941に(三Findlay Shirrasの回想記がある。

2) J.Bonar,ノ曳(蜘qr孟1泥麗わ曜ソqヂA(㎞S幅‘ん, London 1894, P。 ix.

3) よBonar, qp. c肱,2nd ed.,1932, p. xvi上

4)T.Yanaihara,.Aルπαηd鹿伽惚dα磁㎏ε(~ヂbOQ如ωん娩bθZb㎎θdめAヵm舗‘んπoω‘π‘1昭

購{窺。π(~彦舵融。峨yqr&o融。亀σんεひθ面電y(ヅ招b勺り,ω航ηoオθsαπ(1㈱如η碗。ηs, Tokyo 1951.

5) Claude J◎nes, Adam Smith library-some additions,1動。㎜門門。πy, vol.4, no.15,1940, pp.

326τ!・晦1es」M・・G肛ve脇Notes gn Ad㎜,S血tM重b「目地d噸BonπCat記。帥e 1932・勘ぴア㎜ノ。ωη協Z 1949, pp.259-64.

6)J.Viner, Guide to J◎㎞Rae’s 1迂e of…Ada皿Smith(prefixed to L加qr A(㎞8襯んin血e

Reprints Qf Economic Classics by Augustus M. Kelley, New York.1965), pp.117-138.

7) BonaLr,(凋. c菰,2nd ed., P. xxxi.

.8) しかし,.この想定は,後述(p.25注2)のテ箔ルゴのr予算書』についての,ボナーの説明と矛盾す

る。くわしいリストをうけとったにしては,説明が簡単すぎるのである。

9)E:.Mizuta,湾(㎞嗣孟ん’s Z必㎜1ツ,αs噸P㎞腐め&)ηα〆sα泥αゐ劇eω記んαc1協。ん一臨qf‘hεω乃。陀

Zめ7uり~, Cambridge 1967. ・     .    〆

..10)RD. q Black, in敬01ツqr&oηom直。餓。㎎出超㎞磁θろNo.3, Nov.1969, PP.20-32.

21

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11)Murray G T. Simpson, Books belonging tG Adam Smith in Edinburgh University Library=a

survey of newly discovered items, with a general d三scussion.%θ1勤Zめ6んθ駕vo1・9,正979, nα6, PP.

187-199.

12)J.V血er,血&戯θs‘ηB㏄η勉α掘駕sめ厩&vo1.9. no.3(Spr㎞g 1968).

13)James Moor(1712-1779)はギリシャ語教授として,スミスの教師であり同僚であったが, r哲学論文

集』という著:書はなく,ヴァイナーは五榔ノ認加α砒θ㎜ッ30c嬢y…1759のタイトルを誤読したよう

である。(校正付記 実はこの誤読はスコット自身のものであって,スコットはスミス・カタログにある

躍卿ん虫歯五葉がヒュームまたはバルフォアのものであるにもかかわらず,前記のように誤読し,そ

れをヴァイナーがひきついだのである。)

14)ケラールの書誌事典(J.M. Qu勧ard, LαF㎜θ乱伽藏㎎,膨(伽めπη厩肥励順ρ伽ε, vol、4,

Paris 1830)によれば,ラヴィーは,ボルドーの高等法院長であった。ボルドーとトゥルーズは,ガロンヌ

河でむすばれているし,スミスがパリからトゥルーズにくるとき,ボルドーを通過した可能性もある。した

がって,ラヴィーがスミスに会った可能性もあるわけだ。しかも,問題の著書の第2版(1766)には,Dis-

cou玲sur les loixという序論がついていて,そのなかにr道徳感情論』フランス訳(1764)からの引用が

ある。引用されているのは,金持の邸宅の外壁の装飾についての文章だから,どうでもいいようなもの

だが,この1764-1767黛という時期は,スミスの大陸旅行の時期と一致する。すなわち,かれは1764年1月

末か2月はじめにロンドンを出発して,パリにエ0日間滞在したのち,トゥルーズに着いて,そこに1年半滞

在する。そのあとで2か月にわたって南フランスを旅行したのち,ジュネーヴに着いて1765年12月まで滞在

する。そして,12月から翌年10月までパリに滞在して,帰国するのである。この期間にスミスがラヴィーに

会い,それがきっかけになって,ラヴィーが序文を書いて,スミスを引用し,その本をスミスに贈呈した,

ということは考えられる。

15)P.Gaskell, A b遡G即ρ伽qヂ伽万bμ薦砺ss、 second edition, Winches七er 1986.

16)A.Willems,五es肱θひ‘θ鳳撫。加e6απηα1お伽幽ρ1吻郷, Bruxelles, Paris, La Haye,1880.

IV蔵書の分析

 あたらしい蔵書目録の原稿は,現在(1989年3月)item 1000まで,すなわちほぼ半ばまででき

ていて,全部が一応リストに収録されるのは7月末の見込みであり,そこで残った疑問を,8月に

アメリカとイギリスで解決する予定である。

 したがって,全体の分析は,出版後にゆずらなければならない(それどころか,2000にちかい蔵

書の「分析」などということが,可能かどうか疑問である)。しかし,これまでの1000点について

はもちろん,そのあとの約1000点についても,カードは作成してあるのだから,.いくつかの特徴を

あげることは,現在でも可能である。

 まず,全体の印象としては,ギリシャ,ローマの古典がおおく,とぐにストア学派のものは,か

なりマイナーな著作まで,よくあつめてあること,スコットランド啓蒙の主要著作はほぼそろって

いること,文学作品としては,小説より詩と劇がおおく,小説としては,マケンジー,、スウィフ

ト,スターンぐらいしか見あたらないこと(rデカメロン』のようなものを小説とみればすこし多

くなるが),神学・宗教関係はきわめてすくなく,r説教』と題されるものは3点しかないこと(し

かも,そのうち,キャップの説教はあとでのべるようにアメリカ革命についてのものであり,マシ

ヨンの説教は,たしかにr道徳感情論』でとりあげられてはいるが,批判の対象であり,.スターン

のヨリックは,小説であって説教ではない),諸国の歴史・紀行・探険記などがかなりおおいこ

と,それらにくらべると経済書はむしろすくないくらいであることを,指摘することができる。

 しかし,目録が全体としてどういう効用をもつかといえば,スミスの想源だけでなく,影響をさ

ぐるための手がかりとしてであろう。想源については,すでにキャナンやグラーズゴウ版著作集の

22

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編集者が,かなりの仕事をのこしている(フランス側については弱い)が,蔵書をつうじて影響を

さぐることは,ほとんどおこなわれていないので,以下はそのこころみである1)。

 ひとつの手がかりは,蔵書中にある著者寄贈本である。これは約10点,書きこみによって判明し

ているが,そのなかにはベンサムやテユルゴ2),あるいはビートスンやブルースのように,スミス

の手紙などにはっきりと関係が示されているものと,カゾーやコートニーのように,交友関係がわ

からないものとがある。またキャップのように,現物が行方不明であるために,寄贈らしくても確

認できないものもある。・ロバート・ウォーレスの息子のジョージについては,1754年から土ディン

バラ弁護士協会の会員であっ允としかわからないが1晩年のスミスとエディンバラで交友関係が

あったと推定できる。

 そのような限界はあるけれども,同世代と後世代から,比較的知られていない著作をいくつかあ

げてみよう。同世代では,まず,すぐまえにあげたニューカム・キャップ(1733-1800)がアメリ

カ革命について,ヨークの非国教徒集会でおこなった反戦平和の説教がある。これはig52年秋に,

ヨークの古本屋ートマス・ゴドブリのカタログ乞46に,25シリングで出ていた。当時は為替管理がや

やゆるめられて,図書代金は送金できるようになっていたのだから,買っておけばよかったのだ

が,まだスミスの蔵書自体にあまり関心がなかったし,説教というものの重要性についても認識が

なかった。それに就職3年目の助教授の月給(2万円ぐらいと記憶する)では,1500円の本をかん

たんに買うことができなかったのだ。しかし,ブリティシュ・ライブラリでこの説教を読み,1776

年のイギリスでこういう発言をしたことの意味がわかってきたし,妻のキャスリンが書いた伝記に

よって,リーチマンをしたってグラーズゴウにきて(1752L55),スミスともかなり親しかったこと

もわかつ・た。それらについては,別に書いたところにゆずってゴここでは,ふたつのことだけを報

告しておこう。ひとつは,スミスの手紙をふくむキャヅプ文書とでもいうものが残っていないかと

いうことで,この点については,グラーズゴウ版著作集の手紙を編集したロスも気づいていなかっ

たし,ヨーク寺院図書館からの回答は,「われわれはニューカム・キャップの著作をほとんどすべ

て所蔵している」‘というだけで,writin琴sの内容は,じっさいにいってみなければわからない。

もうひとつは,前記のアメリカ革命についての説教が,たいへん好評だらたということで,それ

は,rヨーク新聞回想記』(1868)につけられた「16,17,h 18世紀の著者・印刷業者・出版業者につ

いてのノート」の,・つぎのような記述からわかる6「キャップ氏によって,1776年12月の国民ざん

げの日におこなわれた説教は,かなりの注目をひき,たちまち版をかさねた。当時の卓越した政治

家たちが何人も,それに最高度の称賛をおくった。サー・ジョージ・サヴィルとパーク氏は,それ

を歓迎し,ポートランド侯はそれを読みたいといい,北部巡回裁判所首席でのちに検事総長となつ

だジョン・刃一氏は,声を大にしてそれをほめた。ほかのふたつの説教も同様に好評で,著者をお

おくの著名人の尊敬の的にした。それらのうちのある文章が,アースキン氏によって,トム・ペイ

ン裁判における有名な演説のなかに引用された3)。」

 同時代人どしてはもうひとり,r国富論』がでた年にそれを批判した手紙を出版した,前マサ

チューセツ総督トマス・パウヌル(1722-1805)をあげよう。かれはスミスよりまえに首府のアメ

リカ移転論に言及していることでも,注目されるし,r手紙』のスミスへ寄贈本がニューヨーク公

共図書館にあることは,ヴァイナーの報告によってわかった4)。スミス自身の蔵書目録に,著者名

なしで,r新旧両世界間問題の現状についてヨーロッパの主権者たちによびかけたおぼえがき』と

いうのがあり,これがパウヌルの著書であることが確認された。これまでの経過から,著者寄贈と

考えていいだろうが,現物は行方不明である。しかも,めんどうなことに,初版と2版がとも}ヒ匿

                   一23一

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名で1780年に出版され,エディンバラ大学図書館,ブリティシュ・ライブラリ,クレス・ライブラ

リにあるのはすべて2版である(ボドリアンのは紛失)。’スミスがどっちの版をもっていたのかわ

からないのだから,2版からデータをとってもいいわけだが,同一タイトルのばあいは最初の版に

よるという原則があり,また著者寄贈であるとすれば初版であった可能性がおおきい。ようやく初

版にめぐりあったのは,エール大学のバイネッケ図書館であった5)。

 この本には,スミスからの引用らしいものがひとつあるのだが,どこからかは示されていない

し,現在のところ,まだ不明のままである。それは,113ページに,引用符をつけ,「アダム・スミ

ス博士」と注記してある,つぎの文章である。「農業国民alanded nationにとって,自国の職

人,製造業者,商人を奨励し増加させるための,もっとも有利な方針は,他のあらゆる国民の職

人,製造業者,商人にもっとも完全な自由を許容することである。」

 スコットランド教会の民衆派から,プリンストン大学(当時はニュLジャージ・カレジ)の初代

学長となった,ジョン・ウィザスプーン(1723-1794)の著作は,スコッ・トランド時代のものも,

スミス蔵書にはないが,つぎの匿名パンフレットは,かれにむけられたと考えていいであろう。シ

ルヴァスプーンとはウィザスプーンのことである。r詩人トマスの詩による予言第45章,注と説明

つき,アメリカ反乱の説教師シルヴァスプーン博士に献呈,エディンバラ1776年』。このパンフ

レットは,9点を合わせて製本したなかにあるのだが,フライリーフには10点のタイトルが書かれ

ていながら,そのうちの1点がなく,そこにあるべきスミスの蔵書票もない。ボナーが,Poems

(miscellaneous)の項に,合計10点としているのは,フライリーフの書きこみを信用したためであ

ろう。脱落している皿ε1~ee勉泌・4 poem.(rのぞき見』?)は,ジョン・マクローリンの匿名

の詩で,初版はエディンバラ1760年だから,スミスの蔵書であってもふしぎではない。蔵書票がな

いのは,製本のときに,パンフレット’の表紙とともに捨てられたためだろう。

 わかい世代のなかで,バロン,ビートスン,ブルース,ワトスン,オーグルヴィなどについて

は,すでに別のところで,またこの小論のなかでも,いくらかのべておいた(ただし,オーグル

ヴィは,スミス蔵書とは直接に関係がない)。かれらとスミスとの関係をしるための手がかりは,

まずスミスの手紙であるが,そのほかにrグラーズゴウ大学入学記録』6)が公刊されている。と

いっても,正規に入学しなくても受講はできたから,オーグルヴィやワトスンのような例もでてく

る。逆に,ディクスンという著者について,上記のr記録』から情報をひきだそうとしたところ,

別のディクスンが網にかかった。これも蔵書とは関係がないけれども,スミスの影響(ミラーのと

いうべきか)の一端を示すものとして,あげておこう。蔵書目録の主要目的のひとつは,そこにあ

るのだからである。

 それはウィリアム・スティール・ディクスン(1744-1824)というアイアランドの牧師で,1791

年に結成されたユナイテッド・アイリシュメンの会員であった。この組織は,アメリカとフランス

の革命に刺激され,直接には革命フランスの援助をえて,アイアランド独立を実現することを目ざ

していた。ディクスンがそこでどういう役割を演じたかは,課題として残しておくほかはないが,

かれの経歴をみると,1761年にグラーズゴウ大学に入学したということだから,スミスの最後の学

生だったわけであり,かれ自身,スミス,ミラー,リーチマンから影響をうけたことに感謝してい

たそうである。かれは,1776年12月13日,すなわち前記のキャップの説教とおなじ日に,説教のな

かで,対植民地戦争を「気ちがい十字軍」とよんで,裏切者という非難をうけた。

 ジョージ・チャーマズ(1742-1825)は,アバディーンのキングズ・カレジとエディンバラ大学

にまなび,11763年にアメリカにわたって,1775年に帰国,ロンドンに定住したのだから,直接にス

                  一 24 一  .

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ミ’スのおしえをうけたのではないが,rブリテン国力の歴史的比較推定』(1782)をスミスに寄贈

し,晩年のスミスと手紙をかわしている。その著書のなかでは,スミスがつぎのように称賛されて

いるのだ。「この主題は,アダム・スミス博士によって,適切に議論され,みごとに説明された。

博士は,まえにはわれわれの良俗を強化したことにより,のちにはわれわれの知性を教化したこと

により,称賛される値うちがある」7)。

 シャルル・カゾー(1727-1796)という自称侯爵(むしろ同世代だが)は,『社会機構の多数の部

分についての考察』(1785)をスミスに贈り,そのなかで,「すばらしいr国富論』」といっでいる

                           ㌧けれども,スミスとの関係は,いまのところわからない。、

 rフランスにおける最近の革命の哲学的省察』(1790)を贈ったジョン・コートニー(1741-1816)

についても同様で,わからないのはスミスとの関係だけではなく,D昭が,「フランスの革命家

たちへの熱烈な共感を表明した」、とする根拠もみあたらない。ほぼパークとおなじではないかとお

もわれるし,パークとの関係でスミスに贈ったと,考えられないこともない。そして,D昭の記

述にもときどき,・いい加減なものがあるから,さしあたっては信用しないことにしよう。

 さいごに,晩年の側近ともいうべきヘンリ・マケンジー(1745-1831)とジョン・マクファーラ

ンをあげておこう。マケンジーはいうまでもなく,当時のエディンバラ文壇の王者で,スミスにつ

いてのエピソードを書いているところがらみるξ,,かなりしたしかったらしい。かれの作品は,

r感情の人』r世故の人』rジュリア』と,ふたつの雑誌rミラー』とrラウンジャー』が,すべて

スミスの蔵書のなかにあり,rミラー』には「著者たちからアダム・スミス氏に」と書きこまれて

いる。マケンジーは,スコットランド啓蒙の最後の段階を知るには,不可欠の情報を提供するであ

ろう8)。

 ほぼ同様な位置をしめるだろうと予想されるのがマクファーランであり,かれは生没年さえわか

らないのだが,キャノンゲイト教会の牧師だったのだから,スミスとの日常の交際があったと推定

できる。事実,かれはr貧民についての研究』(1782)とr国民的重要問題論集』(1786)を,スミ

スに寄贈しているのである。『貧民について』は,クリスチアン・ガルヴェによって,ドイツ語に

訳されたという意味でも,注目にあたいするのだが,これまでのところ,エアランゲンのノルベル

ト・ヴァツェクが,学会報告のなかでわずかに言及したにすぎない。質問に対してヴァツェクは,

これから研究しようとおもっているとしか,こたえなかった。

 以上のような手がかりは,さらに増加するとおもわれるが,それが研究成果の増加につながるか

どうかは,研究者の力量の問題である。

1)以下にのべることのなかで,キャップ,ウィザスプーン,ブルース,バロン,マケンジー・については,

「スコットランド啓蒙と市民革命」(田中正司編著rスコットランド啓蒙思想研究』北樹出版,1988年,所

収)といくらか重複することはさけられない。

2)ベンサムからは,’有名なr高利の擁護』(1787)とr重労働法案について』(1778)が,寄贈された。後

者は現在,グラーズゴー大学図書館にあるが,前者は,1936年にボナーによって,マサチューセツ州ウース

ターのG.A.ガスキル所有と報告されたまま,行方不明である(ハーヴァードのK.カーペンターは,一度

所在を確認したといっている)。テユルゴについては,事情がやや複雑である。まずボナーが1894年の初版

で,「テユルゴの筆蹟でアダム・スミスに贈ると書かれた,印刷された予算書が,1878年に売却された」と

書いている。これがカニンガム家の最初の売却であることは,いうまでもない。ところが,エディンバラ大

学には,「〔財政〕総監テユルゴ氏からアダム・スミス氏へ」と書きこまれたr1776年3月12日頃報告書』が

あり,シェルフ・マークがDh.7.12なので,ポジスン蔵書からの寄贈とおもわれる。しかもこれは,ネッ

ケールの『国王への会計報告書』とあわせて製本されているので,ボナー(あるいはカニンガム家からボ

25

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ナーへの報告)が,ふたつのうちどれかを「予算書」とかんちがいしたのかもし.れない。な叙スミスは,

ジョン・シンクレアへの手紙で(1778年11月24日),モロー・ドゥ・.ボーモンの『ヨーロッパ租税論』につ

いて,「テユルご氏の特別の配慮によって一部を入手した」と書いているけれども,この本は行方不明であ

る。テユルゴのr予算書』についての,ボナーの記述のあいまいさは,1878年の売却の内容を,かれが主確

につかんでいないことを示すが,それでは,第2版の序文で,両家から「くわしい目録full catalogUesを

入手していた」と書いたのは,なにを意味するのだろうか。rhad received」となっていることからすれ

ば,これは初版のときをさすものと解される。

3)Robert Davies,ム㎜吻。か(ヅεゐθyb擁舳,ω6‘んηαεα郊(ヅα励。鷹p沈規θ鷹αηd鋤。ηε鳳‘π

伽伽θθπ仇,舘ひeπ彦θeπ疏,α屈〔鉱幽επεんce説痂〔塩Westminster 1868, p.296.

4) ヴァイナーの情報も全面的に信用することはできない。p.22注13)を見よ。

.5)2VひCによれば,議会図書館,ニュー’ベリ図書館(シカゴ),ミシガン大学図書館,コーネル大学図書

館なども,初版をもっているらしい。しかし,NひCは,たしかにひじょうに便利ではあるが,版次,アク

センチュエイション,パンクチュエイションについては,信用できない。

6)W.1㎜es Addison, Z物η説r詫慮めπαめ粥(ガ伽砺ひθ画ノげ(㎏ω,加η172860185&

Glasgow 1913.

7).G. Cha㎞ers, Aπθ虹η鶴θqrε地co脚εひε鋤㎎㎎漉qr B厚厩πd窃か㎎〃乞e p㎎sθπεαπ(オ/~)μr p㎎_

cθ{涜㎎吻τs......, London 1782, P.76.

8)Cf. Horst W. Drescher,昭㎞㎎πα㎡∫bηηεη伽」ρθ厚(兀臨c1㈱螂シη脚π18.」伽んμη(泥rε,

Frankfurt a. M.,1971ドレッシャーの編集で,マケンジーの評論集が出版されたはずだが,未着。 H. W.

Dre6cher(ed.),顕e砒e贋yσor脚)漉ηcθαπ(オπoεeboα姪(~r 1艶澗yハ血。んθη漉,1766-1827. Vo1.1,

Lette聡, Mainz 1989.

                                  (名城大学商学部教授)

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一橋大学社会科学古典資料センターS伽吻8θ吻8.Nb.19

発行所

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印刷所

東京都国立市中2-1

一橋大学社会科学古典資料センター

1989年3月31日

東京都八王子市石川町2951-9

三省堂印刷株式会社

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