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61 上 田   修 All modern American literature comes from one book by Mark Twain called Huckleberry Finn. If you read it you must stop where the Nigger Jim is stolen from the boys. That is the real end. The rest is just cheating. But it’s the best book we’ve had. All American writing comes from that. There was nothing before. There has been nothing as good since. Ernest Hemingway, Green Hills of Africa 1935 これは,アメリカ文学の研究者が,マーク・トウェインの『ハックルベリー・ フィンの冒険』(Adventures of Huckleberry Finn(1885))について言及する 際,またアメリカ文学史を語る際,必ずと言って良いほど引用するヘミング ウェイの言葉である。例えば,辻和彦は著書『その後のハックルベリー・フィ ン マーク・トウェインと十九世紀アメリカ社会』において以下のような訳 で紹介している。 すべての現代アメリカ文学は『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる マーク・トウェインの一冊の本から発している。この小説を読む場合 は,黒人奴隷ジムが少年から盗み取られるところで止めなくてはなら ない。それが本当の結末だ。残りは単なる欺きに過ぎない。しかしそ 『ハックルベリー・フィンの冒険』31 章 “All right, then, I’ll go to hell” におけるハックの葛藤について⑴

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上 田   修

All modern American literature comes from one book by Mark

Twain called Huckleberry Finn. If you read it you must stop where

the Nigger Jim is stolen from the boys. That is the real end. The

rest is just cheating. But it’s the best book we’ve had. All American

writing comes from that. There was nothing before. There has been

nothing as good since.

Ernest Hemingway, Green Hills of Africa 1935

これは,アメリカ文学の研究者が,マーク・トウェインの『ハックルベリー・

フィンの冒険』(Adventures of Huckleberry Finn(1885))について言及する

際,またアメリカ文学史を語る際,必ずと言って良いほど引用するヘミング

ウェイの言葉である。例えば,辻和彦は著書『その後のハックルベリー・フィ

ン マーク・トウェインと十九世紀アメリカ社会』において以下のような訳

で紹介している。

すべての現代アメリカ文学は『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる

マーク・トウェインの一冊の本から発している。この小説を読む場合

は,黒人奴隷ジムが少年から盗み取られるところで止めなくてはなら

ない。それが本当の結末だ。残りは単なる欺きに過ぎない。しかしそ

『ハックルベリー・フィンの冒険』31章“All right, then, I’ll go to hell” におけるハックの葛藤について⑴

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れはアメリカで最もよい小説である。すべてのアメリカの著作はそこ

から発しているのだ。それ以前には何もなく,またそれ以来同じ水準

のものは存在しない。

ヘミングウェイのこの言葉は内容から見て次のように3パートに分けて考え

られる。

A)All modern American literature comes from one book by Mark Twain

called Huckleberry Finn.

B)If you read it you must stop where the Nigger Jim is stolen from the

boys. That is the real end. The rest is just cheating.

C)But it’s the best book we’ve had. All American writing comes from that.

There was nothing before. There has been nothing as good since.

辻訳は全パートA)B)C)を紹介しているが,研究者によっては各A),B),C)

のみ,またはA)C)を組み合わせて紹介する場合がある。A)やC)が選

ばれる場合,本小説のアメリカ文学史上の意義,すなわち,アメリカ文学に

おける口語による語り手の創始,英国文学の呪縛からの脱却という点がとり

あげられ,B)に焦点がある場合は本小説の結末の問題点が論じられるとい

う傾向があるように思われる。つまり,ヘミングウェイの言葉には,小説に

おける新しい文体の創始,すなわち,真のアメリカ文学作品の誕生および本

小説の結末の問題という2点が含まれているのである。特に後者である結末

の問題点は,彼の言葉を皮切りに(すでに,1885年にトーマス・サージェン

ト・ペリーが,また,1932年にバーナード・ディボートが結末に対する不満

を述べてはいるが),文学界において何度もとりあげられてきた。代表的な

ものに,ライオネル・トリリング,T. S. エリオット,ジェイムズ・コックス,

フォレスト・ロビンソン,ラッセル・ライジング,レオ・マークス,ヘンリー・

ナッシュ・スミスなどの批評家による論があげられる。また日本の研究者も

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『ハックルベリー・フィンの冒険』31章“All right, then, I’ll go to hell”におけるハックの葛藤について⑴(上田)

それに続くように論を展開してきた。大作家ヘミングウェイのこの言葉はそ

れだけ文学批評に影響力のあるものだったのである。

しかしながら,読めばわかることだが,ヘミングウェイの言葉には明らか

に彼の勘違いと思われる部分がある。2010年に彩流社より出版された『マー

ク・トウェイン文学/文化辞典』が「社会派としてのマーク・トウェイン 

小説『ハック・フィン』評価と人種問題」(後藤和彦担当)においてこの点

を指摘しているので引用してみる。

(1)『ハックルベリー・フィンの冒険』の達成,というよりむしろ問

題ないし課題として最後にあげておくべきは,主として人種問題とい

うアメリカ社会最大の問題に対する批判,いわば社会小説としての

『ハック・フィン』の評価である。(2)この「序説」の冒頭にヘミン

グウェイの言葉を引用したが,同じ箇所に「ただし,黒んぼジムが少

年たちから盗まれてしまうところで読むのをやめなくてはいけない。

そのあとはただのインチキだから」と留保をつけている。(3)ヘミン

グウェイの言葉にはいくつか誤解があって,この小説には1箇所も「黒

んぼジム(Nigger Jim)」という言葉は出てこないし,(4)ジムは作品

後半にでてくる王と公爵と名乗る詐欺師2人組によってハックから奪

われ,売り飛ばされてしまうのであって,「少年たち」とはおそらくハッ

クに加えてトムを念頭においていたのであろうが,その時点でトムは

まだ登場していない。(5)それにしても,作品の結末4分の1ほどの

分量をなしている,あらためて囚われの身となったジムをハックとト

ムが助け出す場面をいかに読めばよいのか,その解釈をめぐって今日

なお議論が絶えない。

(引用内番号は筆者)

後藤によれば,ヘミングウェイが誤解している点は上記引用における(2)(3)

(4)の内容である。すなわち,(2)(4)プロットの勘違い,(3)Nigger Jim

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という言葉についての勘違いである。

まず,(2)(4)について言えば,確かにこれはヘミングウェイの勘違い

である。ヘミングウェイは31章のことを言っていると思われるが,そこで

は,ハックが,詐欺師二人に売り飛ばされた黒人のジムの居場所を “Miss

Watson, your runaway nigger Jim is down here two mile below Pikesville,

and Mr. Phelps has got him and he will give him up for the reward if you

send. Huck Finn.”という(ジムの所有者である)ワトソン夫人宛の手紙を出

し知らせるかどうかでさんざん悩んだ挙句,“All right, then, I’ll go to hell”と

言って手紙を破ってしまう。しかしながら,ここには,ヘミングウェイの言

う「少年たち」(the boys)は出てきておらず(おそらくヘミングウェイはト

ムとハックを指しているのだろうが,トムが出てくるのは33章である),後

藤はこの点を指摘しているのである。ところで,本稿で先に,ヘミングウェ

イの言葉は,A),B),C)のみ,またはA)C)の内容を組み合わせて言及

される場合があると紹介しているが,A)やC)だけ,または,B)を抜いてA)

C)の組み合わせで紹介されるのは,批評家たちがB)に見られるヘミングウェ

イの「少年たち」の誤解について言及することを意図的に避けようとしてい

るからであると筆者には思えて仕方がない。ちなみに,以下は『マーク・ト

ウェイン文学/文化辞典』の他の箇所に見られるヘミングウェイの言葉の引

用例である。

A)C)型

アーネスト・ヘミングウェイは(1935)で,「アメリカの近代文学はすべてマー

ク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』という一冊の本から出

発している …… それ以前には何もなく,それ以降にもこれに匹敵するもの

はない」と書いている。

p.44 序説(後藤和彦担当)

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『ハックルベリー・フィンの冒険』31章“All right, then, I’ll go to hell”におけるハックの葛藤について⑴(上田)

A)型

「アメリカの近代文学はすべてマーク・トウェインの『ハックルベリー・

フィンの冒険』という一冊の本から出発している」(『アフリカの緑の丘』,

1935)とヘミングウェイが述べたことは,よく知られている。

p. 58(井川眞砂担当)

後藤の引用は,この引用の後で,B)部分を紹介し,ヘミングウェイの誤解

を指摘しているので問題ないが,井川では,単にB)C)部が端折られた引

用となっている。もちろんこれらの部分が文脈上必要ない場合もあるだろう

し,紙幅の都合もあるだろう。しかしながら,ヘミングウェイの言葉は,井

川の例のようにB)が端折られて紹介されがちなのが現状である。ヘミング

ウェイの言葉の引用から展開される論文の数は膨大であるので,確信を持っ

て言えないというのが正直なところだが,筆者の経験からすれば,後藤のよ

うな指摘をしたうえでの律儀な論文は全体の論文数から見ると多くはないよ

うに思う。この傾向は,先に引用した辻訳にも見られる。辻訳ではヘミング

ウェイの言葉全体が紹介されてはいるが,the boysはなぜか「少年」と単数

形で訳されており,ヘミングウェイの誤解部分がぼかされている。

ところで,批評家たちの論争は,ヘミングウェイの言う“you must stop

where the Nigger Jim is stolen from the boys”が31章のことだという前提で

のものであるが,これもよくよく考えてみればおかしいことである。という

のも,ハックにせよハックとトムにせよ「少年(たち)」がジムを盗み出すシー

ンなど,本小説のどこにもないからである。ヘミングウェイは,ハックとト

ムがジムを盗み出し無事に救出するという場面が本小説にはあったという誤

解をしているのだが,そんな場面は実際には存在しない。おそらくヘミング

ウェイは本小説を熟読していたわけではないだろう。批評家は,そんなヘミ

ングウェイの勘違いを認めつつも,それを31章のことだと解釈し,さらに,

その誤解についてあまり言及しない。

次に(3)Nigger Jimについての勘違いである。後藤は,上記引用において「ヘ

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ミングウェイの言葉にはいくつか誤解があって,この小説には1箇所も「黒

んぼジム(Nigger Jim)」という言葉は出てこない」と言っている。しかし,

上に引用したハックのワトソン夫人宛の手紙“Miss Watson, your runaway

nigger Jim is down here two mile below Pikesville, and Mr. Phelps has got

him and he will give him up for the reward if you send. Huck Finn.”を見て

もわかるように,本小説には“nigger Jim”という表現自体は出てくる。実際

のところniggerは,目次も含めて作品中214回出現し,その内2回が“nigger,

Jim”,1回が“nigger Jim”という表現に使われている。それらは以下の通り

である(下線筆者)。

Miss Watson's nigger, Jim, had a hair-ball as big as your fist, which

had been took out of the fourth stomach of an ox, and he used to do

magic with it.

(Ch. IV)

"Pa was pretty poor, and had some debts; so when he'd squared up

there warn't nothing left but sixteen dollars and our nigger, Jim."

(Ch. XX)

Miss Watson, your runaway nigger Jim is down here two mile below

Pikesville, and Mr. Phelps has got him and he will give him up for

the reward if you send.

(Ch. XXXI)

最初の2例では,“nigger”と “Jim”の間にコンマが挿入されており,“nigger”

と“Jim”は同格と読み取れるので, “nigger Jim”と全く同じとは言えない。ま

た,手紙では “runaway nigger Jim”という表現で出てくる。「Nigger Jimと

いう言葉」が出てくるか来ないかで言えば,ヘミングウェイの勘違いではな

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『ハックルベリー・フィンの冒険』31章“All right, then, I’ll go to hell”におけるハックの葛藤について⑴(上田)

く,後藤の勘違いということになる。実は,問題となるのは,以下朝日由紀

子が言うように,Nigger Jimという言葉があるかないかではなく,この言葉

が呼び名・名前として使われているかいないか,なのである。1)

アフリカ系アメリカ人たちの感情を害する言葉「ニガー」が作品中

213回も使われていることは明らかであるが,「ニガー・ジム」 という

呼び名は,作品中一度も使われていないにもかかわらず,出版時から

今日まで,誤ってその呼び名が繰り返し使われ,定着してしまった感

がある。ジョナサン・アラックは,その問題を取り上げ,影響力をも

つ批評家たちがいかにその呼び名を用いてきたかを例証する。バー

ナード・ドゥヴォトですらその著『マーク・トウェインのアメリカ』

で用い,その後,『ハンニバルのサム・クレメンス』の著者ディクソン・

ウェクターも,ジムに対しマーク・トウェインが使わない呼び名を使っ

ていると指摘する。

(朝日由紀子『ハックルベリー・フィン』をめぐる道徳問題,2006年)

ヘミングウェイは“the Nigger Jim”と定冠詞つきの表現を使っているので,

呼び名としての意味で使っているわけではなく,なんの誤解もない。後藤は,

批評界における呼び名としてのNigger Jimの定着問題とヘミングウェイの言

葉における表現“the Nigger Jim(黒人奴隷のジム)”を混同しているように

思われる。

さて今度は,ヘミングウェイの言う小説の結末の問題について触れてみよ

う。これは,先の後藤からの引用に見られる(1)と(5)の点にも関わってくる。

本小説の結末の問題とは,32章以降で展開される馬鹿げたジム救出劇と,

ジムを助けるためならば “All right, then, I’ll go to hell”とハックが決断する

31章の内容とにあまりにもギャップがあることである。そのため長年論争が

続いている。今一度ヘミングウェイの言葉を引用してみる。

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If you read it you must stop where the Nigger Jim is stolen from the

boys. That is the real end. The rest is just cheating.

1935年の彼のこの言葉が大きな引き金になり,32章以降の内容検討が続くこ

とになる。文学界にこのような流れが生まれたのは,この発言が,当時すで

に作家として名声を確立していたヘミングウェイという大作家のものであっ

たからというのは否めないだろう。32章以降のことを亀井俊介が『アメリカ

文学史講義2』で紹介している。

ところで,しかし,そこからは先は話がちゃらんぽらんになっちゃ

うんです。ハック・フィンがジムを救出に行くと,ジムを買い取っ

ていた家がトム・ソーヤの親戚であって,しかもハックをトムと間違

えて歓迎してくれる,なんていうことになるんです。裸一貫のハッ

クがまた社会の中に取り入れられたわけで,精神的なスリルは一挙

に失われます。しかもそこに本物のトム・ソーヤが訪れてくる。ス

トーリーは目茶苦茶ですね。ハックはトムと一緒にジムを助け出す努

力をいろいろするんですけれども,それはもう読者の笑いを誘うた

めのものにすぎない。(批評家の中には,それでもこの部分を評価す

る人たちもいますけどね。)そんなことをしながら,ハックにはひと

つ不思議でしょうがないことがあった。つまり,トム・ソーヤという

「ちリ ス ペ ク タ ブ ル

ゃんとした,育ちのいい子」が,どうして逃亡奴隷を救出する自

分の行動に協力してくれるのか,という問題です。ところが最後に,

本当はジムの主人のミス・ワトソンが死んじゃっていてね,死ぬ時に

遺言でジムを解放してくれていたということが分かるのです。だから

ジムはもう奴隷ではなく,自由な存在だったのです。トム・ソーヤは

それを承知の上で,いわば遊びとしてジムの救出ごっこをしていただ

けなんですね。

(亀井俊介『アメリカ文学史講義2』南雲堂 1998)

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『ハックルベリー・フィンの冒険』31章“All right, then, I’ll go to hell”におけるハックの葛藤について⑴(上田)

ところで,32章以降に描かれる茶番劇が小説の欠点であるのかどうかとい

う論争の背景には,一つの定着した解釈があることを見逃してはならないだ

ろう。それは,31章に描かれるハックの“All right, then, I’ll go to hell”とい

う決心が彼の道徳的覚醒や倫理的成長を表しており,それゆえ31章が小説

の本質的なクライマックスであるという解釈である。この解釈を基本として,

31章は,奴隷制が敷かれていた本小説の時代設定,また,本小説が南北戦争

から20年後のアメリカ文化の中で出版されたという時代背景,さらに,作

者マーク・トウェインの生涯,宗教観をも視野に入れて,キリスト教,奴隷制,

南部白人の良心といった点から論じられ研究されてきた。しかし,改めて31

章のハックの決心を考えてみると,それはいささか過大評価の方向へ進んで

きたようにも思えてくる。

本小説はいくつかのエピソードによって成り立っているので,当然各エピ

ソードにヤマ場がある。31章の“All right, then, I’ll go to hell”の場面もその

ヤマ場の一つである。しかしながら,上記のような長年に渡る批評の変遷の

中で,31章のヤマ場が,他のヤマ場と比べて桁違いに大きな意味を持たされ,

本小説のクライマックスであるという解釈が定着していると言うのが現状で

あろう。奴隷制,南部社会問題,宗教などほとんどすべての論点がハックの

発した“All right, then, I’ll go to hell”にのしかかっているのである。結末の

問題は,こういった31章の過大評価と密接に関係しているように思われる。

そこで本問題を考えるため,31章のハックの決心“All right, then, I’ll go to

hell”を小説内のコンテクストを中心に見直す作業を試みたいと思う。その際,

南部社会の価値観,奴隷制度,人間関係,良心,キリスト教などが論点とな

るが,本稿では,手始めとして,特にハックのキリスト教観の点から見るこ

とにする。

当然のことながら,マーク・トウェインと宗教という点からの詳細な研究

は数多く存在する。しかしながら,問題となるのは,その研究結果をハッ

クの宗教観を観察するためのフィルターにしてしまう傾向があることである。

ハックの“All right, then, I’ll go to hell”を考えるとき,まず考えるべきはハッ

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クの宗教観であり,作家の宗教観ではない。両者は分けて考えられるべきだ

ろう。ハックのキリスト教観を読み解くには,やはり『ハックルベリー・フィ

ンの冒険』というテクストから読み取る他にはないだろう。

ではテクストから読み取れるハックのキリスト教観はどのようなものなの

だろう。まず,批評家の典型的な捉え方を見てみよう。先に引用した朝日は

以下のように語っている。

だが,作品の重要な分岐点となる31章と32章をあらためて検討し,

「ふたつのプロヴィデンス」ではない「ハックのプロヴィデンス」に

ついて考察していく必要がある。逃亡奴隷のジムが,ふたりの筏に闖

入してきた「王様」と「公爵」によって勝手に40ドルで奴隷として

売り渡されたことを知ったハックが,試練に立たされるのが31章で

ある。ジムは,一生見知らぬ土地で奴隷となるのがよいのか,あるい

は家族のいる土地に戻るのがいいのか,ハックは考える。もしミス・

ワトソンにジムの居所を知らせれば,ジムをやはり別なところに売り

飛ばすかもしれない。また,ジムが自由な身になるために手を貸した

ハックは,町の人々から辱めをうけるかもしれない。このふたつの考

えにハックの「良心」はひどく苦しめられる。まさに板挟みになって

身動きが取れない状態になったとき,“when it hit me all of a sudden

that here was the plain hand of Providence slapping me in the face

and letting me know my wickedness was being watched all the time

from up there in heaven,...”それまで経験したことのない衝撃的な啓示

といえよう。自分に危害を加えたことのなかった気の毒な老女から奴

隷を盗み出している恥ずべき行為をずっとご覧になっておられ,この

瞬間に神の怒りは下されたとハックは恐れたのである。ジョナサン・

エドワーズの説教を想起させる言葉,「地獄の炎に焼かれる」とまで

思いつめるほど,ハックは神の面前に引きだされた罪人の恐怖を経験

する。ここで初めてハックは,必死の思いで祈ろうとする。だが,祈

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『ハックルベリー・フィンの冒険』31章“All right, then, I’ll go to hell”におけるハックの葛藤について⑴(上田)

りの言葉は口から出てこない。自分の本心を隠して,嘘を祈ることは

できないと悟るが,これは,ハックは全能の神がすべてを見通されて

いると信じていることを示すものである。ハックは,まず良心の命ず

るところに従い,持ち主にジムの居所を知らせる手紙を書く。すると,

「罪」がさっぱりと洗い流された気分になって,ハックには,今度は

祈ることができると分かった。しかし,ハックはすぐにそれをせず,

しばらく思いにふける。ジムとのミシシッピ川での旅のいろいろな場

面が鮮やかに蘇ってくると同時に,ジムが,ハックは世界で最高のたっ

たひとりの味方だと語った言葉を思い出したとき,手紙が目に入る。

ハックは,このとき本当の決断を迫られたのである。そして,この作

品のなかで最も有名な言葉,‘All right, then, I’ll go to hell’ を自分に言

い聞かせ,ハックは手紙を破る。このとき,ハックは,地獄行きと引

き換えに,奴隷制度に基づく社会道徳の重圧をはねのけたのである。

地獄の炎,神の怒り,罪人の恐怖,全てを見通す神。朝日だけでなく,多く

の研究者は程度の差はあれ,このようにハックのキリスト教観を交えて解釈

している。こういった解釈の根拠は何か,亀井は言う。

この小説を読んだ人の圧倒的多くが,この作品のヤマ場と見るのは,

これも南部の否定的側面を代表する人物だと思える王様と侯爵と称す

る二人のペテン師にジムが捕まり,売り払われてしまったため,どう

すべきか,ハック・フィンが思い悩むところでしょう。ここで制度上

の自由の問題と,ハックの存在の自由の探求とが,一つに合わさりも

するのです。ハック・フィンは社会の外の人間ですけれども,ダグラ

ス未亡人に養子にされ,教会やサンデースクールに少しは通い,南部

の社会の常識といったものを教えられてもいました。それで逃亡奴隷

を助けるのはとんでもない,地獄に落ちる行為だとわきまえ,ついジ

ムを助けてここまで来てしまったことに激しい「良心」の呵責を感じ

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てもいました。

(亀井俊介『アメリカ文学史講義2』南雲堂 1998)

朝日のごとく31章の“All right, then, I’ll go to hell”がことさら価値ある内容

として捉えられる場合,亀井の言うように,ダグラス未亡人やワトソン夫人

との生活が,ハックのキリスト教理解の当然の根拠として挙げられる。しか

し,これを根拠にするのには無理があるのではないだろうか。

ハックは学校へも行かず,教会へも行くことのない少年であった。そし

て,トムとの「冒険」の後ダグラス未亡人に息子として引き取られ「まとも

な」生活をすることになる。そんな中で,ハックは確かに聖書を「学び」ま

た教会へも通うことになる。しかしながら,トムとの冒険以降,ハックがダ

グラス未亡人の家で生活していたのは数年に渡るような長期間のことではな

い。常識的に考えて短期間の養子生活の中で,ハックが,キリスト教教義を

理解するまでの「成長」をしたと考えるのは無理があるだろう。短期間にせ

よ,例えば,ダグラス未亡人やワトソン夫人に徹底的にキリスト教の教えを

叩き込まれ,ハックが感化されるという場面でもあれば別だが,小説にはそ

んな場面はなく,そんなことが読み取れる場面もない。むしろ,キリスト教

に疑問を抱く場面に満ちており,それも滑稽に描かれている。ハックは,モー

ゼに興味を持つが,すでに亡くなった人物だと知ると興味をなくしてしまう。

ワトソン夫人が描く「良いところ」(the good placeおそらく天国)にはト

ムは行けないだろうと聞くと自分も行くつもりはないからと喜ぶ。また,祈

ればなんでも手に入ると聞き,釣り針が欲しいと祈るが上手く行かない。そ

こでワトソン夫人に尋ねると理由もなしに「バカ」と言われ困惑する。はた

また,ダグラス未亡人の涎が出るほど素敵なProvidenceの話の一方で,ワ

トソン夫人の全く違う種類のProvidenceの話を聞き困惑し,結局2種類の

Providenceがいるのだと結論付ける。このような「キリスト教」理解の少年

が“All right, then, I’ll go to hell”を口にした時,それがどれだけ本来的な意

味においての「地獄行き」を決心した言葉になるのだろう。確かにこの場面

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『ハックルベリー・フィンの冒険』31章“All right, then, I’ll go to hell”におけるハックの葛藤について⑴(上田)

でハックは,奴隷制度擁護の南部社会の価値観や自律的良心との間で葛藤し,

自分の行動の判断基準の一つとしてProvidenceやhellについて言及している。

しかし,このハックの語りをそのまま受け取って,ハックの姿に,自分の行

いを見守るProvidenceを意識し信仰に目覚めつつある子供の姿を重ねてしま

うのはいかがなものだろう。小説全体の文脈からこの場面を読むとき,リア

リストであるハックが,普段信じてもいないProvidenceにまで思いを巡ら

せるくらい悩んでいると解釈する方が自然ではないだろうか。ハックの“All

right, then, I’ll go to hell”は,窮地に陥った少年が一人で進む道を決めなけれ

ばならない岐路に立たされているときの単なる表現でしかなく,「地獄行き

と引き換えに」といった本来的な意味が含意されているとは思えないという

のが正直なところである。

ハックの言語からも,同様のことが言える。例えば,本小説でのProvidence

である。31章では,ハックはジムのことで悩む自分の頬をProvidenceにひっ

ぱたかれる思いがする。31章のコンテクストだけで読むと,いかにも神を恐

れているハック,神に従おうとしている悩める少年ハックと読むことができ

る。しかしながら,小説全体に広げてこの語を見ると,Providenceはハック

にとって,それほど大きな意味を持つものでもない。

この語は,本小説では9回使われており,その内7回はハックの語りの中に,

2回は詐欺師である王様の言葉の間接話法と直接話法で見られる。それぞれ

のProvidenceは以下の通りである(下線及び括弧は筆者)。

a ダグラス未亡人とワトソン夫人の2種類のProvidenceについて語

る。Providence理解が全くできていない場面。

Sometimes the widow would take me one side and talk about

Providence in a way to make a body’s mouth water; but maybe next

day Miss Watson would take hold and knock it all down again. I

judged I could see that there was two Providences, and a poor chap

would stand considerable show with the widow’s Providence, but

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if Miss Watson’s got him there warn’t no help for him any more. I

thought it all out, and reckoned I would belong to the widow’s if

he wanted me, though I couldn’t make out how he was a-going to

be any better off then than what he was before, seeing I was so

ignorant, and so kind of low-down and ornery.

(Ch. III)

b 詐欺師である王様の言葉の中で。ハックはProvidenceをdevilの同

義語にしている。ここではProvidenceは信じていれば助けてくれると

いう都合のよいものとして描かれている。

They (the king and the duke) couldn’t hit no project that suited

exactly; so at last the duke said he reckoned he’d lay off and work

his brains an hour or two and see if he couldn’t put up something on

the Arkansaw village; and the king he allowed he would drop over to

t’other village without any plan, but just trust in Providence to lead

him the profitable way--meaning the devil, I reckon.

(Ch. XXIV)

c 盗み取ろうと狙った金を見つけた王様がProvidenceを信じている

から見つけたのだと言う。bと同様にProvidenceは信じていれば助け

てくれるという都合のよいものとして描かれている。

“It ain’t no use talkin’; bein’ brothers to a rich dead man and

representatives of furrin heirs that’s got left is the line for you and

me, Bilge. Thish yer comes of trust’n to Providence. It’s the best

way, in the long run. I’ve tried ‘em all, and ther’ ain’t no better way.”

(Ch. XXV)

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『ハックルベリー・フィンの冒険』31章“All right, then, I’ll go to hell”におけるハックの葛藤について⑴(上田)

d “All right, then, I’ll go to hell”の前の文脈

The more I studied about this the more my conscience went to

grinding me, and the more wicked and low-down and ornery I got

to feeling. And at last, when it hit me all of a sudden that here was

the plain hand of Providence slapping me in the face and letting

me know my wickedness was being watched all the time from up

there in heaven, whilst I was stealing a poor old woman’s nigger

that hadn’t ever done me no harm, and now was showing me there’s

One that’s always on the lookout, and ain’t a-going to allow no

such miserable doings to go only just so fur and no further, I most

dropped in my tracks I was so scared.

(Ch. XXXI)

e フェルプス農場で。困ったらProvidenceが助けてくれると思う場

面。これはb, cの王様の捉え方に近い。

I went right along, not fixing up any particular plan, but just trusting

to Providence to put the right words in my mouth when the time

come; for I’d noticed that Providence always did put the right words

in my mouth if I left it alone.

Well, I see I was up a stump--and up it good. Providence had stood

by me this fur all right, but I was hard and tight aground now. I see

it warn’t a bit of use to try to go ahead--I’d got to throw up my hand.

So I says to myself, here’s another place where I got to resk the

truth.

I opened my mouth to begin; but she grabbed me and hustled me in

behind the bed, and says:

(Ch. XXXII)

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小説全体から見ると,ハックにとってのProvidenceは,時にはdevilと同義

であり,また,困った時に身を任せればなんとか難局を乗り越える手助けを

してくれる都合の良いものである。

ちなみに,Godは以下2例で,どちらも会話(ハック以外の発話)に出て

くるが,ハックがGodに対して畏敬の念を抱いているかどうかなどわからな

い。

ジムが娘のことを語る場面。この “God”がクリスチャンのそれと同義

かはわからない。

De Lord God Amighty fogive po’ ole Jim, kaze he never gwyne to

fogive hisself as long’s he live!’ Oh, she was plumb deef en dumb,

Huck, plumb deef en dumb--en I’d ben a-treat’n her so!”

(Ch. XXIII)

サリーおばさんの言葉。godは単に“thank God”という慣用句にでて

くるだけ。

“He’s alive, thank God! And that’s enough!” and she snatched a kiss

of him, and flew for the house to get the bed ready, and scattering

orders right and left at the niggers and everybody else, as fast as

her tongue could go, every jump of the way.

(Ch. XLII)

では,hellはどうであろうか。31章でのハックの決意は,hellへ行く道を

選ぶということで,絶賛されているわけだが,ハックの持つhell観はどのよ

うなものなのか。hellという語は,本小説には2回しか出てこない。それらは,

ともに31章のワトソン夫人への手紙のくだりで使われている。

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『ハックルベリー・フィンの冒険』31章“All right, then, I’ll go to hell”におけるハックの葛藤について⑴(上田)

手紙を書いたすぐ後。

I felt good and all washed clean of sin for the first time I had ever

felt so in my life, and I knowed I could pray now. But I didn’t do it

straight off, but laid the paper down and set there thinking--thinking

how good it was all this happened so, and how near I come to being

lost and going to hell.

ハックが決心を口走る場面。

“All right, then, I’ll go to hell”--and tore it up.

(下線筆者)

繰り返すが,hellは31章のこれら2例にしか見ることができない。言い換え

ると,31章で突然出てくる言葉なのである。また,おそらく同義として使わ

れているthe bad placeは以下の1例のみでハックにとってはむしろ「行きた

いところ」なのである。

Then she told me all about the bad place, and I said I wished I was

there. She got mad then, but I didn’t mean no harm.

(Ch. I)

ちなみに, heavenは以下3例である。

キャンプミーティングにおける牧師の言葉。ハックはミーティングを

眺めているのみ。

“Oh, come to the mourners’ bench! come, black with sin! [Amen!] ... the

waters that cleanse is free, the door of heaven stands open--O, enter in

and be at rest!”

(Ch. XX)

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ワトソン夫人宛の手紙を書く場面。ハックは“heaven”をProvidence

の居る場所として認識している。

And at last, when it hit me all of a sudden that here was the plain

hand of Providence slapping me in the face and letting me know

my wickedness was being watched all the time from up there in

heaven, whilst I was stealing a poor old woman’s nigger that hadn’t

ever done me no harm, and now was showing me there’s One that’s

always on the lookout, and ain’t a-going to allow no such miserable

doings to go only just so fur and no further, I most dropped in my

tracks I was so scared.

(Ch. XXXI)

トムの言葉。トムが読んだ伝記からの一節の引用。

‘Son of Saint Louis, ascend to heaven!’

(Ch. XL)

heavenもハックにとって重大な意味を持つものとは思われない。またその

同義語表現であるthe good placeは2例あるが,それはワトソン夫人とのや

りとりの中で出てくるもので,ハックにとっては「トムが行けないところな

ら行けなくていい」という程度のものである。

以上から言えることは,ハックにとってのProvidenceやhellは,漠然と

した認識のものでしかなく,信仰を通して意味づけされたようなものでは

ないということである。批評家は,ハックが31章でジムを助ける決心をし

“All right, then, I’ll go to hell”がその意思表明であるとする。そして,hell

を文字通りの意味で解釈しようとする。当然この解釈の根底には,ハック

がProvidenceやhellを何かしら確固とした意味,それもダグラス未亡人や

ワトソン夫人のような敬虔なキリスト教徒が理解している意味で捉えてい

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『ハックルベリー・フィンの冒険』31章“All right, then, I’ll go to hell”におけるハックの葛藤について⑴(上田)

るという前提がある。しかしながら,上に見たように,ハックにとっての

Providenceやhellは,そんな意味を持ってはいない。Providenceの意味は場

面ごとで変化し,あるときは笑い話のネタであったり,彼を見下ろす畏れ多

い神であったり,自分を落ち着かせるための都合の良いものであったりする

のである。このことは,特に,31章と32章を見るとよくわかる。31章でハッ

クはProvidenceを恐れおののきの対象として大げさに描いているが,その

Providenceをある意味裏切る「大決意」をした直後の32章では,再びちゃっ

かりとProvidenceに頼っている。こういったことを考えると,Providence

がハックに大きな意味を持ち,いわゆる「地獄」へ落ちる決心をしたとはと

うてい思えないのである。プロテスタント社会で生まれた本小説であるから,

批評家はどうしてもキリスト教教義の枠内での解釈から抜け出せないが,キ

リスト教の枠外から眺め小説のコンテクストを素直に読み取れば,31章で

のハックの決意“All right, then, I’ll go to hell”は,子供の誇張表現の一種で

あろうと理解することができる。半ば神聖化されたと言って良い“All right,

then, I’ll go to hell”を単なる誇張表現の一つと捉えると,32章以降の違和感

はほとんどなくなるのである。2)3)4)

以上のことは,コンテクストからだけでなく,語りの構造から見ても言え

ることである。1人称小説『ハックルベリー・フィンの冒険』の語り手を考

える際,少なくとも,Samuel Langhorne Clemens(SLC)/ Mark Twain

(MT)/ Narrator Huck(NH)/ Protagonist Huck(PH)の4者の存在を

意識する必要がある。つまり,31章で“All right, then, I’ll go to hell”を口に

したのは,PHであり,MTでも,SLCでもない。ここでポイントとなるのは,

2点,すなわち,A)NHは,ある時は読み手を楽しませるエンタテーナーで

あったり,ある時は痛烈な視点から社会を分析するレポーターであったりと,

場面ごとに役割を変えるという点,また,B)NHはPHの言動を思い出しな

がら語っている,つまり,時間的にはPHの言動を経験した後で語っている

という点である。3)

1章や3章におけるPHの聖書理解は,一般読者には笑いを誘うものである

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一方で,厳格なプロテスタントにとってははなはだよろしくないものであろ

う。いずれにせよ,先に述べたように,ここでのPHがキリスト教を理解し

ていないと解釈することには問題ないだろう。しかしながら,結末の問題を

論じる研究者や批評家の中には,PHが筏の旅を続ける中で,さまざまな場

面(例えば,20章のキャンプミーティングの場面)に出会い,31章でキリ

スト教信仰の入り口にたどり着くと考えるものもいる。そして,やっと,精

神的にそこまでたどり着いたPHが,その後再び1章や3章にみられたPHに

逆戻りするのが彼らには理解できない。であるから,32章以降には違和感が

あるとする。

しかしながら,1章や3章の内容は,もうひとりのハック,すなわち,語

り手としてのNHによって語られているということを考えれば,32章以降

のPHも何の問題のなく理解できるはずである。つまり,1章や3章のように

“Providence”をエンタテーナーよろしく笑いのネタにしているNHは,この

時点においても “Providence”に対する敬虔さを欠いているからである。で

あるから,ヘミングウェイらの言うように,仮に31章で物語が閉じられて

いたとしても,NHが語る(つまりPHの冒険を経験した後でNHによって

語られている)1章や3章がある限り,PHの中で神の存在を本来の意味に

おいて恐れるまでの経験をしたとは言い難いのである。PHが本当に31章で

“Providence”を恐れる経験をしたのならば,1章や3章のような神を笑いの対

象にするようなエピソードをNHは恐ろしくて書けるはずがない。

以上『ハックルベリー・フィンの冒険』31章におけるハックの決意の意味,

また,それに関連する本小説の結末の問題を,ヘミングウェイの言葉以降の

批評の流れから外観した。そして,主に31章のハックの決心に見られるキリ

スト教観について,文脈,言語,物語の構造という点から論じ,結末の問題

に対する筆者の一応の結論を述べた。しかし,小説内のコンテストから検証

した宗教観からの考察だけではもちろん31章におけるハックの葛藤を説明す

るには至ってはいないだろう。キリスト教の問題をさらに検討する場合,こ

の宗教を柱に奴隷制度が擁護されていたアメリカ社会での価値体系を一応考

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『ハックルベリー・フィンの冒険』31章“All right, then, I’ll go to hell”におけるハックの葛藤について⑴(上田)

慮に入れ,ハックの宗教理解の背景を読みとることも重要かも知れない。ま

た,宗教観よりもっと重要と思われる問題点,すなわち,ハックの身に染み

付いている南部社会の慣習,奴隷制度と自律的良心の間における葛藤の問題

を取り扱う必要があるだろう。これらの点の検討は,次の課題とする。

1 奴隷制時代,通常,黒人奴隷はファースト・ネームで呼ばれており,同じ名前の白人と区別する際は, “Black”や“Nigger”を付けて呼ばれていた。

2 さらに言えば,ハックは,キリスト教,父親のような独特の倫理観,また,ハックには魔術のように見えた黒人たちの宗教に囲まれて生活している。そして,ハックはどれにも耳を傾けているのである。こういったことすべてを考え合わせると,31章のハックの “All right, then, I’ll go to hell”は決して生死をかけたような決心から出た言葉ではないということがわかるだろう。

3 極論だが,ハックの宗教観は,自分の家庭は仏教といいながらも,神社へ初詣に行くようなごく一般の日本人のそれとよく似ていると言っても良い。ほぼ無神論者に近い日本人でも,窮地に陥ればなぜか得体の知れない「神様」のことを考えるのではないだろうか。

4 中島顕治は『「ハック」のアメリカ』(山口書店 1991)の中で,“I’ll go to hell”は,他人への慣用句“Go to hell”を自分に向かって発したと指摘している。

5 したがって,実際の研究ではよく目にするアプローチだが,SLC個人の人生と照らし合わせながら,PHの宗教観を読み解くのは時に危険である。例えば,PHの“All right, then, I’ll go to hell”は,SLCがニュー・スクールと呼ばれるエヴァンジェリカルタイプの教会に母と通っていたとか,サンフランシスコ時代はプレスビテリアン教会に通ったとか,理神論に耽溺したとか,こういったこととは関係ない。しかしながら,これまでの理論では,4者が渾然一体となり語られているのである。

引用・参考文献

朝日由紀子『ハックルベリー・フィン』をめぐる道徳問題(白百合女子大学研究紀要 2006)

朝日由紀子『マーク・トウェイン文学にみるプロヴィデンス』(白百合女子大学研究紀要 2012)

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亀井俊介『アメリカ文学史講義2―自然と文明の争い―金めっき時代から一九二〇年代まで』(南雲堂 1998)

中島顕治『「ハック」のアメリカ』(山口書店 1991)『マーク・トウェイン文学/文化辞典』(渓流社 2010)『Journal of Mark Twain Studies マーク・トウェイン 研究と批評 マーク・トウェイン

と宗教』(日本マークトェウイン協会編集 南雲堂 2009)Twain, Mark. Adventures of Huckleberry Finn. Mark Twain Library. Berkeley: University

of California Press, 1985.