『ハックルベリー・フィンの冒険』における ハックの「良心...

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『ハックルベリー・フィンの冒険』における ハックの「良心」の分析 早奈子 〔抄 録〕 『ハックルベリー・フィンの冒険』(Adventures of Huckleberry Finn, 1885)にお ける主人公ハック(Huck)の心の成長を良心に焦点を当て分析する。 ハックは誰にも拘束されない自由を求めミシシッピ川を冒険する。ハックの求める 自由は勝って気ままに暮らしたいという、言わば「行動の自由」を意味している。し かし、冒険の結末を読むと冒険の目的は成就されていない。ハックの心の成長を良心 に焦点を当て考えると、ハックは冒険の最中様々な南部民衆と出会い、南部社会の抱 える問題に巻き込まれる。その都度ハックは考え判断し困難を乗り越え心の成長を果 たす。ハックの善悪の判断は、南部社会や聖書の教えを基準としたものから、ハック の理性を基準としたものにと変化する。 本論では、王様と公爵と名乗る詐欺師により売り渡されたジムを、ハックが助ける か否か悩んでいる箇所を特に取り上げハックの良心の変化を説明する。ハックの社会 の常識に委ねられた他律的良心と神の教えに委ねられた神律的良心が、自己の理性に お け る 判 断 と、見 て、聞 い て、感 じ る 自 己 の 感 性 が 葛 藤 し、カ ン ト(Immanuel Kant)の規定する自律的良心へと成長を遂げるまでを分析し、自律的良心を育んだ ことでハックが「精神的自由」を得たことを証明する。 キーワード 行動の自由 精神の自由 自律的良心 カント はじめに 『ハックルベリー・フィンの冒険』の主なテーマは「自由」である。主人公ハックは、「自 由」を求めダグラス夫人(Widow Douglas)が示す秩序ある生活と、ハックの父親(Pap) が示す無秩序な生活から逃れる。筏でミシシッピ川を下る途中、黒人奴隷ジム(Jim)と再会 し二人は筏で生活を始める。その生活は拘束や支配がなく、好きなときに好きなことをする生 活である。この生活がハックの求める「自由」である。従ってハックは「行動の自由」を求め ていると解釈する。 「行動の自由」を手に入れたハックだが、南部民衆達と出会い民衆たちが繰り広げる問題に ―19 ― 佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第42号(2014年3月)

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  • 『ハックルベリー・フィンの冒険』における

    ハックの「良心」の分析

    田 染 早奈子

    〔抄 録〕

    『ハックルベリー・フィンの冒険』(Adventures of Huckleberry Finn,1885)にお

    ける主人公ハック(Huck)の心の成長を良心に焦点を当て分析する。

    ハックは誰にも拘束されない自由を求めミシシッピ川を冒険する。ハックの求める

    自由は勝って気ままに暮らしたいという、言わば「行動の自由」を意味している。し

    かし、冒険の結末を読むと冒険の目的は成就されていない。ハックの心の成長を良心

    に焦点を当て考えると、ハックは冒険の最中様々な南部民衆と出会い、南部社会の抱

    える問題に巻き込まれる。その都度ハックは考え判断し困難を乗り越え心の成長を果

    たす。ハックの善悪の判断は、南部社会や聖書の教えを基準としたものから、ハック

    の理性を基準としたものにと変化する。

    本論では、王様と公爵と名乗る詐欺師により売り渡されたジムを、ハックが助ける

    か否か悩んでいる箇所を特に取り上げハックの良心の変化を説明する。ハックの社会

    の常識に委ねられた他律的良心と神の教えに委ねられた神律的良心が、自己の理性に

    おける判断と、見て、聞いて、感じる自己の感性が葛藤し、カント(Immanuel

    Kant)の規定する自律的良心へと成長を遂げるまでを分析し、自律的良心を育んだ

    ことでハックが「精神的自由」を得たことを証明する。

    キーワード 行動の自由 精神の自由 自律的良心 カント

    はじめに

    『ハックルベリー・フィンの冒険』の主なテーマは「自由」である。主人公ハックは、「自

    由」を求めダグラス夫人(Widow Douglas)が示す秩序ある生活と、ハックの父親(Pap)

    が示す無秩序な生活から逃れる。筏でミシシッピ川を下る途中、黒人奴隷ジム(Jim)と再会

    し二人は筏で生活を始める。その生活は拘束や支配がなく、好きなときに好きなことをする生

    活である。この生活がハックの求める「自由」である。従ってハックは「行動の自由」を求め

    ていると解釈する。

    「行動の自由」を手に入れたハックだが、南部民衆達と出会い民衆たちが繰り広げる問題に

    ―19 ―

    佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第42号(2014年3月)

  • 巻き込まれる。ハックはその都度、自分で考えそして判断し問題を乗り越え、心の成長を果た

    していく。この心の成長の土台となるものが良心である。ハックの心の成長と共に変化する良

    心は、他律的良心と神律的良心を経て、カントが規定する自律的良心(石川『良心』53)へと

    成長する。成長を果たしたハックの良心は、社会常識や通念に委ねられた他律的な良心ではな

    い。また、神の律法や教えに委ねられた神律的良心でもない。それは自律的良心である。自己

    の理性で考え、自ら打ち出した道徳法則に従う良心である。本論ではハックの良心が自律的良

    心へと育まれる過程を追跡し分析を試みる。そして、ハックが「精神の自由」を得たことを証

    明する。

    1.良心とは

    ハックの良心を語るのに、良心とはどのように育まれるものなのかを考えてみよう。従って

    ここでは、他律的良心、神律的良心、自律的良心を説明する。

    他律的良心とは、見て、聞いて、感じる感性的自己による判断を、自分以外の他者との共通

    理解や、社会の常識や通念に委ね成立させる良心である。神律的良心とは感性的自己により判

    断したことを、聖書によって与えられる神の言葉や神が決定している律法に委ねるという意味

    である(石川『良心』19-30)。

    古典的な神律的良心に対して、近代となり良心の自由が唱えられ、カントは自律的良心を完

    成させた。この自律的良心とは「英知的自己と感性的自己に二分化される」(石川『良心』

    95)。見て、聞いたことを自己の経験から判断し感じる感性的自己と、理性である英知的自己

    による判断とが葛藤し生まれる良心である。カントは英知的自己による判断を“...we should

    act in accordance with our duty,not according to our feelings”(Strathern 34). としてい

    る。“duty”とは「義務」である。カントはこれを英知的自己内で下される「命令」であると

    している。“feeling”とは「感情」である。カントはこれを自己の経験からくる「感性」であ

    るとしている。

    「英知的自己には自己内他者が存在する」(石川『良心』95)。この自己内他者は欲望や満足

    や利益を追い求めるものではない。どんな状況においても、自己内他者は万人が望むと確信で

    きる考えを導き出す。その導き出された考えとは道徳法則である。道徳法則とは社会的道徳で

    はない。自らの理性から打ち出される道徳である。万人が望むと確信できる考えとは、目的へ

    の手段ではない。条件をつけることなく人間の心に生じる普遍的妥当性をもった命令である

    (石川『良心』81-100)。その命令とは、正しいことを正しい理由で行うということである。例

    えば、迷子になっている子供を見付けたとする。大抵の大人はその迷子を助けようとする。助

    けようとする動機はかわいそうだから、心配だから、感謝されるから、または自分自身の気持

    ちが良くなることだからと理由は様々であろう。しかし、これらは自己愛や自己満足が関係し

    ているので不純な動機となり普遍的妥当性を持たない。では迷子になった子供を助けなくても

    ―20―

    『ハックルベリー・フィンの冒険』におけるハックの「良心」の分析 (田染早奈子)

  • 良いのかという疑問が出てくる。私ではない他の誰かが助けるだろうと考えてみたらどうだろ

    うか。この原則は普遍的妥当性を持つだろうか。誰もが迷子の子供を誰か他の人に任せたら、

    子供は迷子のままになってしまうということになる。だからこの例も普遍的妥当性を持たない。

    カントは自己内他者に生じる動機は純粋なものでなくてはならないとしている。子供が迷子に

    なっていたら無条件に助けるという純粋な「命令」は正しいことであり、「助ける」という行

    為に道徳的価値と普遍的妥当性を与えるとしている。これが英知的自己で自己内他者が示す命

    令である。自律的良心とは英知的自己に存在する自己内他者が打ち出す命令に、経験からくる

    感情である感性的自己が従うということである。自らが打ち出した命令に自らが従うというこ

    とである。これは言わば「精神の自由」であると考える。

    2.ハックの良心とは

    浮浪児であったハックは、ダグラス夫人に引き取られ、文明化された生活を送る。その生活

    の中には、聖書の時間が設けられている。ある日、ハックはダグラス夫人に、毎日お祈りをす

    ることを言いつけられる。その日与えられた聖書の箇所は「マタイ伝」6章6節の“But

    thou,when thou prayest,enter into thy closet,and when thou hast shut thy door,pray to

    thy Father which is in secret;and thy Father which seeth in secret shall reward thee

    openly.”である。ハックは祈りを実行するが、ハックが願うことは一つも叶うことがなかっ

    た。ハックはそのことを尋ねると、ダグラス夫人により次のように教えられる。

    I went and told the widow about it,and she said the thing a body could get by praying

    for it was“spiritual gifts.”This was too many for me,but she told me what she meant

    ―I must help other people,and do everything I could for other people,and look out for

    them all the time,and never think about myself.(Huck 23)

    ハックによるとダグラス夫人は祈りについて聖書の箇所を、神(Providence)に代わって、

    人を助け、人を思いやる気持ちを持ち、人のために祈ることで“spiritual gifts”を得ること

    ができるとハックに教える。ダグラス夫人は神を信じ、聖書をハックに教え、神の教えに忠実

    に生きるようハックを教育している。しかし、以前浮浪児であったハックは“...I couldn’t see

    no advantage about it―except for the other people―so at last I reckoned I wouldn’t worry

    about it any more,but just let it go”(Huck 23). と語るように自分には何の得もないことで

    あると考える。ダグラス夫人に引き取られる以前は、自分で寝起きする場所を決め、自分で食

    べるものを探し、誰にも依存せず抜け目なく生きてきたため損得勘定でしか物事を考えられな

    いのである。

    その後もダグラス夫人とミス・ワトソン(Miss Watson)はハックに聖書を教える。ハッ

    ―21―

    佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第42号(2014年3月)

  • クは教えられた聖書の箇所に疑問を持ち始め質問をする。ハックは神の教えを知ろうとしてい

    るのである。ハックはダグラス夫人の話の後、次のように語る。

    Sometimes the widow would take me one side and talk about Providence in a way to

    make a body’s mouth water;but maybe next day Miss Watson would take hold and

    knock it all down again. I judged I could see that there was two Providences,and a

    poor chap would stand considerable show with the widow’s Providence,but if Miss

    Watson’s got him there warn’t no help for him any more. I thought it all out, and

    reckoned I would belong to the widow’s,if he wanted me,though I couldn’t make out

    how he was agoing to be any better off then than what he was before,seeing I was so

    ignorant and so kind of low-down and ornery. (Huck 23-4)

    ハックは神をダグラス夫人の神とミス・ワトソンの神に分け、ダグラス夫人の神を信じると語

    っている。ミス・ワトソンが教える聖書の内容と、ダグラス夫人が教える聖書の内容は同じで

    ある。しかし、ミス・ワトソンの厳しさとダグラス夫人の優しさを比べて、ダグラス夫人の神

    を信じるとしている。ハックの信仰心は深くない。なぜなら聖書を読み、自分で学ぼうとする

    気がないからである。ダグラス夫人が教えてくれたことのみが全てなのである。ハックと神の

    関係はダグラスおばさんが介在している。ハックが知る神の教えはダグラス夫人によって教え

    られたことのみであると考える。

    ハックはダグラス夫人に引き取られ聖書教育を受けるうちに、神の教えを心に留め、ハック

    の心の中に神が存在するようになる。この神の存在が冒険の最中、神の教えを中心に善悪の判

    断をする神律的良心となる。その後、ハックのダグラス夫人との生活は、貧困白人層に属する

    酒浸りですぐに暴力を振るうハックの父親の出現によって一変する。

    ハックの父親はハックをミシシッピ川の対岸にあるイリノイ州へと連れ去り、小屋に閉じ込

    める。ハックの父親はセント・ピーターズバーグ(St. Petersburg)へと出向き、小屋に帰っ

    てくると、自分の思い通りにならなかったことに怒り不平をいう。そのことがハックによって

    語られる。

    His lawyer said he reckoned he would win his lawsuit and get the money,if they ever

    got started on the trial;but then there was ways to put it off a long time,and Judge

    Thatcher knowed how to do it. And he said people allowed there’d be another trial to

    get me away from him and give me to the widow for my guardian,and they guessed

    it would win,this time.(Huck 37-8)

    ― 22―

    『ハックルベリー・フィンの冒険』におけるハックの「良心」の分析 (田染早奈子)

  • ハックとハックの金を取り戻すためにハックの父親は弁護士を雇う。ハックによるとその弁護

    士は裁判にもっていくことができれば、お金とハックを手に入れることができるとハックの父

    親に語ったとされている。しかしハックの父親が要求している裁判に対し人々は“another

    trial”(別の裁判)の措置をとろうとしている。ハックの父親は実の父親であるから親権を主

    張するのは当然のことである。だから、ハックの父親が雇った弁護士も訴訟で勝つと予測した

    にちがいない。ここで考えなければならないのはセント・ピーターズバーグの人々が、ダグラ

    ス夫人をハックの保護者にするために“another trial”を考えているということである。ダグ

    ラス夫人や町の人々から見れば、ハックの父親は良い父親とはいえない。しかし、ハックの父

    親は貧困白人である。従って、当然ハックも貧困層であり、ハックの父親がハックの金を横取

    りしようとすることも、ハックに学校へいくことを許さないのも、暴力を振るうことも、ハッ

    クにとっては想定できる範囲のことである。ハックはハックの父親に暴力を振るわれ、支配さ

    れることを嫌ったが、ハックが父親をPapと呼ぶように、自分の父親であることを認めてい

    るのである。その実の父親が、わが子を他の人にとられまいと裁判をおこそうとしている。そ

    の裁判に対しダグラス夫人とサッチャー判事(Judge Thatcher)は“another trial”を考え

    ているのである。実の父親が親権を主張することは正当なことである。そして、その裁判を阻

    止しようとすることは不当なことである。これは南部社会の法の不安定さを表していると考え

    られる。

    “Life on the Mississippi”(1883)においてマーク・トウェイン(Mark Twain)は当時の南

    部民衆の法に対する意識を薄弱で、裁判がうまく機能していないと述べている(Mississippi

    332-6)。またアレクシス・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)は Democracy in

    America (1835)において、アメリカ南西部を“In the new states of the Southwest, the

    citizens almost always take justice into their own hands and an endless series of murders

    ensues”(Tocqueville 263). と述べている。当時のアメリカ南部においては法が十分に機能

    していなかった。そのため民衆が裁判に対し暴動をおこすと、法律も裁判も完全に機能せず、

    その代わりに民衆による私裁が行われた。

    この当時法律がうまく機能していなかったのだから、上流階級にいるダグラス夫人が、貧困

    層のハックの父親が開こうとする裁判を阻止し、別の裁判を考えるということなど簡単なこと

    なのである。また反対に、貧困層であるハックの父親が、ダグラスおばさんが求めた裁判を阻

    止することは難しいことなのである。だからハックの父親は怒るのである。

    ハックの父親はさらに南部社会を批判する。ハックの父親は貧困白人層という白人社会の中

    では最も底辺の階級に属する人間である。その階級の下は黒人となる。ハックの父親が唯一白

    人であるという優越感を持って意見することができる相手が黒人なのである。ハックの父親は

    次のように述べる。

    ―23―

    佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第42号(2014年3月)

  • There was a free nigger there,from Ohio;a mulatter,most as white as a white man.

    He had the whitest shirt on you ever see,too,and the shiniest hat;and there ain’t a man

    in that town that’s got as fine clothes as what he had;and he had a gold watch and

    chain,and a silver-headed cane―the awfulest old gray-headed nabob in the State. And

    what do you think? they said he was a p’fessor in a college,and could talk all kinds

    of languages,and knowed everything. And that ain’t the wust. They said he could

    vote,when he was at home. Well, that let me out. Thinks I,what is the country

    a-coming to? It was’lection day,and I was just about to go and vote,myself,if I warn’t

    too drunk to get there;but when they told me there was a State in this country where

    they’d let that nigger vote,I drawed out.(Huck 39)

    ハックの父親は、投票のあり方について不平をいう。その不平とは人種に関することである。

    白人であるハックの父親にとって、自由黒人が投票権を持っていることも、大学教授であるこ

    とも、身なりがよく金持ちであることも許されない。貧困層に属する人間は“A sallow

    undernourished,and illiterate class,envious of successful white men and bitter haters of the

    Negro,their only pride was their color”(Morison 504). というように黒人を捉えていたか

    らである。しかし、黒人が投票権を持つことに怒りを覚えたのは、ハックの父親に限ってのこ

    とではない。

    But it has not been sufficiently stressed that Pap’s racial views correspond very closely

    to those of most of his white southern contemporaries,in substance if not in manner

    of expression. Such views were held not only by poor whites but by all“right-thinking”

    southerners,regardless of their social class.(Smith 106-7)

    貧困白人層に属する人間だけが黒人を差別的に見ていたのではなく、階級に限らず、南部白人

    は黒人を人間としての権利など持たない別の生き物と捉えていたのは、ごく当たり前のことで

    あった。ハックの父親が属する貧困白人層のみが黒人を軽蔑していたのではないということを

    理解しなければならない。ハックの父親の不平不満は南部社会の現実の姿を物語っている。ハ

    ックは南部社会に生まれ育ったのだから、南部社会の奴隷制度も薄弱な法体系も当然だと見な

    していたと考えられる。

    ミシシッピ川へ逃亡する前のハックを取り巻く環境は、ダグラス夫人が示す信仰心のある生

    活とハックの父親が示す南部独特の問題を抱えた南部社会である。二つの環境はハックの良心

    が育まれることに影響を及ぼしていたと考える。

    ―24―

    『ハックルベリー・フィンの冒険』におけるハックの「良心」の分析 (田染早奈子)

  • 3.ハックの心に混在する他律的良心と神律的良心

    ハックはハックの父親の下から逃亡しミシシッピ川を筏で下る。その途中逃亡奴隷ジムと出

    会い、ジムの逃亡の手助けをする。ハックはこの当時推定十四歳である。大河であるミシシッ

    ピ川に筏一つで逃れたハックは、孤独感や不安感にさいなまれていた可能性がある。その状況

    の下、顔見知りのジムに出会えたことはハックに安心感を与えたと考えられる。

    ハックとジムは冒険を進める。その間に南部の社会問題を露呈する人々に出会う。第13章に

    おいて、ハックは難破船に忍び込み、盗みを働こうとする。しかし、そこにはすでに強盗団が

    いた。ハックは難破船が川の中に沈みそうになったとき、一艘のボートがあることに気づき、

    強盗団を残し脱出する。無事に逃げることができた時、強盗団を思いハックは“I says to my-

    self,there ain’t no telling but I might come to be a murderer myself,yet,and then how

    would I like it?”(Huck 82)と心の中で語る。そして、岸に泊めてあった船に一人の男を見

    つけ嘘をつき、強盗団を助けに行かせる。その後ハックは強盗団を助けた行為に満足し次のよ

    うに語る。

    But take it all around,I was feeling ruther comfortable,on accounts of taking all this

    trouble for that gang,for not many would a done it. I wished the widow knowed about

    it. I judged she would be proud of me for helping these rapscallions,because rapscal-

    lions and dead beats is the kind the widow and good people takes the most interest in.

    (Huck 85)

    ハックは“I was feeling ruther comfortable”と強盗団を助けた行為に満足している。これは

    自己満足である。自己満足はカントのいう普遍的妥当性を持たない。沈もうとしている船に取

    り残された人間を純粋に助けようとしたのではないことを証明している。普遍的妥当性を持た

    ないのであるから、自律的に判断した良心ではない。この様に考えるとハックの良心は、神律

    的良心、または他律的良心となる。

    ハックは“I wished the widow knowed about it”と語る。“the widow”とはダグラス夫人

    のことである。ハックは強盗団を助けた行為をダグラス夫人に知ってもらいたいと願っている

    のである。ダグラス夫人と過ごした生活から、ダグラス夫人が好む考え方を知っていたことに

    なる。ダグラス夫人は聖書の言葉を守り生活をすることをハックに教えた人物である。ダグラ

    ス夫人は神の掟を基準とした良心の持ち主であると考えられる。

    ハックはダグラス夫人が悪党を助けた自分のことを誇りに思ってくれるだろうと推測する。

    その理由を“rapscallions and dead beats is the kind the widow and good people takes the

    most interest in”と語る。ハックはなぜダグラス夫人や良い人々が、悪党や、人にたかる怠

    ―25―

    佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第42号(2014年3月)

  • け者に関心があると考えるのか。それは“And the second is like unto it,Thou shalt love thy

    neighbour as thyself.”という聖書の「マタイ伝」22章の39節が関係しているのではないかと

    考える。この箇所はキリスト教において、もっとも重要とされる律法の一つである。信仰深い

    ダグラス夫人がこの律法をハックに教えていたということは、ハックが悪党を助けたというこ

    とを自負したことから理解できる。ハックはダグラス夫人から、好き嫌いで人間を判断するの

    ではなく、常にどんな人でも自分を愛するように接しなさいと学んだことが心にあった。なぜ

    なら、ハックは強盗団を助けようと決める前に、強盗団の立場に自分を置き換え“how would

    I like it?”と考えるからである。ハックはこれまで自由に暮らすことしか考えなかった。しか

    し、そのハックが自分の心情を強盗団の心情に置き換え考える。そしてハックは危機的な状況

    のなかに自分自身が置かれた場合、ハック自身が求めることを強盗団にしようと試みる。これ

    は神の掟を基準とした良心から判断している。ハックはダグラス夫人を介した神を基準に、強

    盗団を助けることを試みた。従ってハックが神律的良心から強盗団を助けたことを証明してい

    る。

    第14章において、ハックは難破船での出来事を振り返り話す。ハックによるとジムは“...he

    didn’t want no more adventures”(Huck 86). と語ったとされている。ジムは助かったとし

    ても、また助からなかったとしても奴隷という立場から自由になることに関して、絶望的であ

    ると判断したからであった。この時ハックは“Well,he was right;he was most always right;

    he had an uncommon level head,for a nigger”(Huck 86). と語る。ここでハックはジムの

    ことを頭が良く正しい判断をすると述べる。しかし、その後“for nigger”と付け加える。ハ

    ックはジムを仲間でも友人でもなく黒人奴隷と捉えていることが理解できる。ハックも南部の

    人々と同様に黒人奴隷すなわちジムを「人間族から切り離された人間存在」(本田 71)と捉え

    ている。従って、ハックは南部の道徳や通念を基準に他律的に物事を判断したということを証

    明している。

    ハックの良心は時には神律的良心となり、また時には他律的良心となる。これらはダグラス

    夫人との生活とハックの父親との生活において育まれたのだと考える。

    4.ハックの良心の成長の兆し

    ハックは第15章においてジムによって恥を経験する。霧が発生したためハックはカヌーに乗

    り換え、筏を砂州につなごうとした。その時、ジムの乗っていた筏とハックの乗っていたカヌ

    ーは深い霧の中で離れ離れになる。再び二人は会うことができるのだが、再会を喜ぶジムに対

    しハックは霧などでていなかったと嘘をつきジムをからかう。ジムが霧によって離れ離れにな

    った事情を再度説明するとハックは“‘I think you’re a tangle headed old fool,Jim’”(Huck

    94). や“‘You couldn’t a got drunk in that time, so of course you’ve been dreaming’”

    (Huck 94). とジムに告げるのである。ジムはハックに対し次のように告げる。

    ―26―

    『ハックルベリー・フィンの冒険』におけるハックの「良心」の分析 (田染早奈子)

  • I’s gwyne to tell you. When I got all wore out wid work,en wid de callin’for you,en

    went to sleep,my heart wuz mos broke bekase you wus los’,en I didn’k’yer no mo

    what become er me en de raf’. En when I wake up en fine you back agin,all safe en

    soun’,de tears come en I could a got down on my knees en kiss’yo’foot I’s so thankful.

    En all you wus thinkin’bout wuz how you could make a fool uv ole Jim wid a lie. Dat

    truck dah is trash;en trash is what people is dat puts dirt on de head er dey fren’s en

    makes’em ashamed.(Huck 95)

    ジムはハックがいなくなり胸がつぶれそうになるくらい心配した。心配する理由は逃亡を手助

    けしてくれる者がいなくなったからでないことは、“I didn’k’yer no mo what become er me

    en de raf”から理解できる。ジムはハックの無事を願い祈るような気持ちで筏の上で待って

    いたのである。それゆえ、ジムはハックと再会したときの気持ちを“I’s so thankful”と語る。

    しかし、ハックはジムに不誠実な態度をとったため、ジムはハックを非難する。

    ジムに非難されることによってハックは“It made me feel so mean I could almost kissed

    his foot to get him to take it back”(Huck 95). とジムよって恥を経験する。「恥を知る」と

    は「その人自身の主体性に向けて語られている。たとえば『心に深く恥じなさい』という言い

    方は、恥が心、つまり良心の方向に向かって深まっていることを示している」(金子 15)こと

    を意味する。このことはハックの心の成長に関連性がある。ハックは恥を経験した後“It was

    fifteen minutes before I could work myself up to go and humble myself to a nigger―but I

    done it,and I warn’t ever sorry for it afterwards,neither”(Huck 95). と語っている。ハッ

    クは黒人奴隷であるジムに頭をさげるのに、約十五分を要している。悪いと思っていてもすぐ

    には謝れなかったのである。貧困白人層のハックにとっても、唯一、優越感を持つことができ

    る相手は黒人奴隷である。そしてジムは黒人奴隷であるだけではなく逃亡奴隷なのだ。白人優

    越社会で生きてきたハックにとって、黒人に謝るという行為は苦渋の決断なのである。しかし

    ハックは黒人奴隷に対する白人感情を乗り越えジムに頭をさげる。そして後悔しないと語って

    いる。

    後悔とは何らかの行為の後に起こる良心の作用に他ならない。自分が「~べきである」と

    思っていながら、実際にはそれを行わなかった、あるいはそれに反することを行ってしま

    ったことを回顧して抱く意識である。言ってみればマイナスの結果を意識する作用である。

    …「後悔していない」という言明は、かれが、「~べきである」と判断して、実際にもそ

    れを貫徹したという自覚、すなわち良心の清廉潔白を意味していると言ってよいであろう。

    (石川『良心』40)

    ―27―

    佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第42号(2014年3月)

  • ハックのおかれている状況は南部社会である。ハックは南部に生まれ育った南部の子である。

    南部の黒人奴隷に対する通念や、神も認めた制度であるという認識はハックの心の中でもごく

    当然のことだと感じとっていた。そして、それはミシシッピ川へ逃亡しても消え去るものでは

    ない。しかし、ハックは南部の黒人奴隷に対する通念に反しても、または神に背いてまでも、

    自分自身で考え、自分がジムに対して行った不誠実な行為を謝るべきだと判断しそれを貫徹し

    たのである。他律的良心と神律的良心を行き来するハックの良心は、自律的に考えるという成

    長の兆しを見せるようになる。

    5.「地獄へ行く」という決断

    冒険の途中にハックとジムは王様(King)と公爵(Duke)と名乗る詐欺師に出会う。王様

    と公爵は金欲しさにジムをサイラス・フェルプス(Silas Phelps)という農家へ引き渡す。ハ

    ックはジムを助けるか否かで悩む。

    ハックの良心は逃亡奴隷を助けるという重圧から、再び他律的良心を経て、神律的良心へと

    移り変わる。先ず、ハックは逃亡奴隷の手助けをした事を反省する。そして、ハックはジムの

    所有者であるミス・ワトソンの状態を推測し“...she’d be mad and disgusted at his rascality

    and ungratefulness for leaving her,...”(Huck 221). と語る。ハックはミス・ワトソンを基準

    にジムを、“rascality and ungratefulness”だとしている。さらに、“...everybody naturally

    despises an ungrateful nigger,...”(Huck 221). と“everybody”によって南部の人々を基準

    にジムの行く末を考えていることが理解できる。そしてさらに、ハックは自分自身が犯してし

    まった、ジムを助けるという行動を“...that Huck Finn helped a nigger to get his freedom;

    and if I was to ever see anybody from that town again,I’d be ready to get down and lick

    his boots for shame”(Huck 222). と心の中で語る。セント・ピーターズバーグの人々がハ

    ックのことをどう捉えるかについて思い悩む。戻るつもりのない町であるから悩む必要などな

    いのに、ハックは悩む。ハックは完全に南部の子なのである。その南部の子ハックは、再び南

    部の人々を基準に善悪を考える。これはハックの「良心の知の基準は他者に委ねられている」

    (石川『良心』23)ことを証明している。従って、他律的良心であると理解できる。

    次に、ハックは心の中の神の存在に気付く。ハックによってその神が逃亡奴隷の手助けをす

    るハックの行動をどのように捉えているかが語られている。“...ain’t agoing to allow no such

    miserable doings to go only just so fur and no further,I most dropped in my tracks I was

    so scared”(Huck 222). と神はハックがこれまでジムを匿い、逃亡を手助けしてきたことは

    許したが、その先は許さないとしている。神はハックの心の中でジムを助けてはならないとい

    っているのである。ハックはジムを助けるか否かを神の教えに委ねようとしている。従って神

    律的良心の「神の完全と神に対する自分の関係にかなうこと、さらにまた人間の本性の本質的

    完全性にかなう事を行い、それに反する事をおこなうなかれ」(石川『良心』27)であると考

    ―28―

    『ハックルベリー・フィンの冒険』におけるハックの「良心」の分析 (田染早奈子)

  • えられる。

    ハックの心の中に存在する神とはダグラス夫人を介した神である。ダグラス夫人は南部に住

    む南部人である。その南部の人々の信仰は、聖書を読み、奴隷がでてくる箇所を文字通りに捉

    え、神も奴隷制度を認めていると解釈していた。トウェインの自伝では奴隷制度のことを

    “...the local pulpit taught us that God approved it,that it was a holy thing...”(Autobiogra-

    phy 8). としている。つまり南部の人々は奴隷制度を神が認めた神聖なる法であると信じ、奴

    隷に対する教えを疑うことをしなかったということである。さらにウェッバー(Thomas L.

    Webber)によると Deep Like the Rivers (1978)では“Most slaveholders were convinced

    that God quite clearly sanctioned slavery in the Bible”(56). と語られている。南部の人々

    が信仰する神とは、奴隷制度を背景とした南部独特の宗教の体系にある神であると考える。そ

    う考えるとハックの心の中にいる神はダグラス夫人を介している神であるから、南部の人々が

    信じる神と同じであると考える。ここでは南部の人々が奴隷制度を容認していたキリスト教を

    信仰し、その神の教えを信じて疑うことをしなかったことから、奴隷制度が背景にある、神の

    教えを基準とした神律的良心であることを前提としなければならない。

    ハックはミス・ワトソンへジムが捕らえられていることを知らせようと手紙を書く。しかし、

    ジムと筏の上で過ごした暮らしを思い返す。

    I see Jim before me, all the time, in the day, and in the night-time, sometimes

    moonlight, sometimes storms, and we a floating along, talking, and singing, and

    laughing. But somehow I couldn’t seem to strike no places to harden me against him,

    but only the other kind.(Huck 222-23)

    ハックはジムとの楽しかった暮らしばかりを思いだす。ハックはジムが自分自身にとってどの

    ような存在だったのかを考える。ジムには悪いところが見当たらない。その代わりにハックが

    “but the other kind”と語るように、その反対の場面ばかりを思い出す。

    I’d see him standing my watch on top of his’n,stead of calling me―so I could go on

    sleeping;and see him how glad he was when I come back out of the fog;and when I

    come to him again in the swamp,up there where the feud was;and such-like times;and

    would always call me honey,and pet me,and do everything he could think of for me,

    and how good he always was;and at last I struck the time I saved him by telling the

    men we had small-pox aboard,and he was so grateful,and said I was the best friend

    old Jim ever had in the world,and the only one he’s got now;and then I happened to

    look around,and see that paper.(Huck 223)

    ― 29 ―

    佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第42号(2014年3月)

  • ジムからハックを見ればハックはまだ幼い少年である。ジムはハックを思い、眠らずにハック

    の代わりに見張り番をする。これは親が与えてくれる愛情のようなものをジムがハックに与え

    ていると考える。次にハックが思い出した場面は本論第3章で述べた、深い霧が発生したとき

    にジムが大喜びでハックを迎えてくれた場面である。そしてジムが不誠実な態度をとったハッ

    クを戒めた場面である。次にハックは貴族同士の宿恨の争いに巻き込まれた時のことを思い返

    す。友人バック(Buck)の死に直面し心が傷ついたとき、ジムに会えてハックは安心する。

    ハックにとってジムとの生活は、ダグラス夫人との生活やハックの父親との生活からは得るこ

    とができなかった、安らぎと居心地の良さを得ることができることを表している。

    全てを思い返すことによってハックはジムを「人格を持った存在者」(石川『入門』166)と

    して捉える。ハックはジムを人間の尊厳を持った者と見なして、ジムを助けるということを

    「奴隷を助ける」のではなく、「友を助ける」と考え始める。

    ハックはジムを助けるという大きな決断をする。それが、“‘All right,then,I’ll go to hell’...”

    (Huck 223). である。“I’ll go to hell”とは神の教えに逆らうと地獄に落ちることを意味して

    いると考えると、ハックは神律的良心で大きな決断をしたと捉えられる。しかし、ハックは後

    に“And I let them stay said;and never thought no more about reforming”(Huck 223). と

    述べている。悔い改めないとしているのである。神を信じ従うことをやめると宣言しているの

    である。これは神律的良心を捨てるということになる。

    ハックの「友を助ける」という決断は普遍的妥当性を持つのだろうか。先ずこの決断は自己

    満足や利益をハックにもたらすのだろうか。ジムは南部社会では逃亡奴隷であるから、ハック

    にとってジムを助けるという行為は不利なことである。また自己満足の点ではどうだろうか。

    ジムを助けたとしても、これから先、ハックには逃亡奴隷を匿い冒険をしなければならいとい

    う難しさがある。そして見つかるかもしれないという恐怖と不安がある。このように考えると

    自己満足が得られるとは考えられない。また、「友を助ける」とは万人が望むと確信できる考

    えなのであろうか。常に親しく交わっている人間、志を同じくしている人間が危機に直面して

    いるときに、非情で臆病な人間ではない限り純粋に「助けよう」と考えるのではないか。ハッ

    クがジムを友と捉え「助けよう」と判断することは万人が望むと確信できる判断であると考え

    る。このように考えるとハックの下した「友を助ける」という決断は英知的自己、すなわちハ

    ックの理性が、ジムと共に暮らした生活から得た経験からくる感性的自己と葛藤し、「友を助

    けるべし」という「命令」を下したと考える。

    ハックの良心は他律的良心と神律的良心を行き来し、カントが唱える自律的良心へと育まれ

    たのである。南部社会の常識も通念も神の教えもハックの心の中にはないのである。何にも縛

    られることなく自分自身で考えた自律的良心によるこの決断こそが「精神の自由」なのである

    と考える。

    亀井俊介は『ハックルベリー・フィンのアメリカ』において“I’ll go to hell”というハック

    ―30―

    『ハックルベリー・フィンの冒険』におけるハックの「良心」の分析 (田染早奈子)

  • の決断を「ハックは、文明の人間の常識といった赴きのある『良心』よりも、自然の人間の感

    情に従おうとする」(112)と述べている。また、『マーク・トウェインの世界』では、「本能的

    な『心』の道を選ぶ」(378)となっている。もちろんそれは正しい考えである。なぜなら感情

    とは感性的自己であり、人間が経験により自然にそして自由に感じるところだからである。し

    かし、カントによると「本能的な『心』」は感性的自己と英知的自己に二分化され、「自然の人

    間の感情」は感性的自己に分類されるとしている。ハックは自分の感情だけで、“I’ll go to

    hell”と決断したのであろうか。南部の子であるハックは奴隷に対する白人感情を持ち、逃亡

    奴隷を助けることが大罪であることを知っている。この二つの問題を乗り越えたジムを助ける

    という決断は、感情のみで判断できるものではない。筏の上での生活の中で、黒人奴隷である

    ジムの能力や考え方や人間性を冷静に思い返し、ハックの英知的自己である理性が「友を助け

    る」と判断したのである。理性とは善悪の判断をする本能の一つであるが、それは「迷信や偏

    見に批判的に立ち向かわなければならい」(宇都宮 22)のである。感情は何かの影響を受ける

    ことによって動かされる。人間の感情は日々の出来事の中で自分の対象物によって影響を受け

    る。感情とは不安定なものである。感性的自己で思い返しているだけでは、ジムを助けると決

    断することは不可能である。従って、ハックの決断は感情という感性的自己のみで判断された

    のではなく、理性である英知的自己と葛藤し生まれた決断であると考える。

    トウェインはハックの“I’ll go to hell”という決断を“‘a book of mine where a sound

    heart and a deformed conscience come into collision and conscience suffers defeat’”

    (Doyno 167). としている。“a book of mine”とは本作品のことである。そしてトウェイン

    が述べる「健全な心が歪んだ良心と衝突し、良心が敗れる」とはハックが「ジムを助ける」と

    いう決断をしたことについて述べている。トウェインが述べる「健全な心」と「歪んだ良心」

    とはどういうことなのかを考えてみよう。

    トウェインは What Is Man?(1906)の中で人間の善について述べている。3マイルほど山

    の方に住んでいた男が、ある大雪の日の真夜中に鉄道列車に乗ろうとしていた。そのとき飢え

    死にしそうなぼろぼろの服を着た老婆が、助けて欲しいと男に恵みを乞う。男は25セントしか

    持っていなかったが、なんのためらいもなく、老婆に差し出し吹雪の中を歩いて帰った

    (What Is Man 13)。この男の老婆に対する行為を良心からくる行為と考えることは一般的で

    あろう。しかし、青年のこの話について老人は次のように意見を述べる。

    In the first place he couldn’t bear the pain which the old suffering face gave him. So

    he was thinking of his pain―this good man. He must buy a slave for it. If he did not

    succor the old woman his conscience would torture him all the way home.(What Is

    Man 14)

    ― 31―

    佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第42号(2014年3月)

  • 老人はこの男の行為を良心からくるものではないとしている。なぜなら自己犠牲によって自己

    満足や心の平安や喜びという報酬のために善をおこなったからである。これはカントが述べる

    英知的自己内にいる他者は欲望や満足や利益を追い求めてはいけないという法則と同じである。

    トウェインが述べる「歪んだ良心」とは自己犠牲によって自己満足が得られる良心を意味して

    いる。

    「健全な心」とはカントが述べる「健全な思考法」であると考える。この思考法は一つ目に

    対象物を理解する悟性に対し先入観をもたずに「自分自身で考えること」である。二つ目は判

    断力に対し拡大された思考法「自分自身を他者の立場に置いて考えること」である。これは他

    者を基準とするものではない。自分自身を相手の立場に置き換えることによって、先入観が排

    除される。そのことによって普遍的立場が確立するということである。そして三つ目に悟性に

    対し推論を行う理性が、「つねに自分自身と一致していること」である。すなわち、英知的自

    己から下された「命令」に感性的自己が従うということである(石川『入門』202)。「健全な

    思考法」は常に自律的良心に働きかけるのが原則である。これらのように考えられる「歪んだ

    良心」と「健全な心」が衝突し「歪んだ良心が敗れる」と理解すると、やはりハックの決断は

    自律的良心からなるものであると考える。

    おわりに

    ハックが求めた自由とは、朝には起き、着替え、皿にのっている物を食べ、学校へ行き、そ

    して聖書の勉強をし、夜には眠るという生活から逃れることと、ハックの父親に監禁され、暴

    力的支配をうけた生活から逃れることだった。これらの二つの生活を経験したハックは、ミシ

    シッピ川へ逃れることによって「行動の自由」を得る。ハックの「行動の自由」とは自分が決

    めたことのみをハックがするというような自由である。しかし、作品の結末は、ハックの求め

    る「行動の自由」は成就されていない。冒険の目的が果たされていないのである。従って「行

    動の自由」を求める冒険であると捉えると内容のない作品となる。しかし、ハックの心の成長

    とハックの良心の育まれ方を考えると、ハックは堅固でゆるぎない「精神の自由」を得ている。

    ハックが出会う南部の人々との関わり合いやジムとの筏の上での生活は、ハックの心の成長

    を示すとき大きな背景となっている。そして、明らかにハックの良心は南部社会の常識や通念

    を基準とした他律的良心や南部の人々が信じる神に従った神律的良心からカントが唱える自律

    的良心へと向かっている。そしてハックが“I’ll go to hell”と決断したときハックの自律的良

    心が完成するのである。誰にも支配や束縛されることのないハックの決断は、ハックがハック

    自身を律することによって生まれるのである。ハックの確立された自律的良心は「精神の自

    由」をハックが得たことを示していると考える。

    ―32―

    『ハックルベリー・フィンの冒険』におけるハックの「良心」の分析 (田染早奈子)

  • 〔引用文献〕

    Doyno,A.Victor. Writing Huck Finn: Mark Twain’s Creative Process.1991.

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    sity Press,1965.

    Strathern,Paul.Kant in 90 minutes.London:Constable,1996.

    Smith,David L.“Huck,Jim,and American Racial Discourse.”Satire of Evasion? Black Perspec-

    tives on Huckleberry Finn.Ed.James S.Leonard,Thomas A.Tenney and Thadious M.Davis.

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    The Holy Bible.Authorized King James Version.Philadelphia:National Publishing,1978.

    Tocqueville, Alexis de.Democracy in America: and Two Essays on America. 1838. Trans by

    Gerald E.Bevan.Notes by Isaac Kramnick.Penguin Books.2003.

    Twain,Mark.Adventures of Huckleberry Finn.1885.Ed.Thomas Cooley.New York and London:

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    .What Is Man?And Other Essays.The Writings of Mark Twain.Volume XXVI.1906. リプ

    リント版(本の友社 1988)

    Webber,Thomas.Deep Like the Rivers.New York:Norton,1978.

    石川文康 『カント入門』(ちくま新書 1995)

    .『良心論』(名古屋大学出版 2002)

    宇都宮芳明 『カントの啓蒙精神』(岩波書店 2006)

    亀井俊介 『ハックルベリー・フィンのアメリカ』(中公新書 2002)

    .『マーク・トウェインの世界』(南雲堂 1995)

    金子晴勇 『恥と良心』(教文館 1985)

    本田創造 『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書 2006)

    (たぞめ さなこ 文学研究科英米文学専攻博士後期課程)

    (指導教員:野間 正二 先生)

    2013年9月30日受理

    ―33―

    佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第42号(2014年3月)