倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 ―近代の教育認識を...

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倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 19 倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 ―近代の教育認識を乗り越えて― 山 本 敏 子 はじめに―家庭教育論への批判 日本の幼児教育の父と呼ばれる倉橋惣三(1882-1955)は、1930(昭和 5年前後の時期に集中して家庭教育に関する論考を発表している。その中でも 特に重要なのは、「家庭と家庭教育」(1928)、「家庭教育総説」(1931)、「家庭 教育」(1932)の三本である (1) 本稿では、以上一連の論考に展開された倉橋独自の家庭教育についての見 解を総称して昭和初期家庭教育学説と呼び、その中核にある「家庭生活の教 育性」理論の形成過程を跡付けていきたいと思う。なぜならば、この時期の 倉橋による家庭教育関係の論考が、いわゆる家庭教育論とは明らかに異なっ て、日本近代教育学説史上、「家庭教育」なるもの(家庭教育言説一般に見ら れる通俗的な家庭教育についての認識)を批判的に対象化して考察した最初 の試みであり、しかも、そこから導き出された「家庭生活の教育性」理論と は、家庭教育の本質に迫った画期的な理論であるばかりでなく、近代の教育 認識を乗り越える先駆的な試みでもあったからである。 単なる家庭教育論ならば、この時期、かなりの蓄積がみられた。すでに明 らかにされているように、その歴史は新しく、明治初期に福沢諭吉や中村正

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倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 19

倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論

―近代の教育認識を乗り越えて―

山 本 敏 子

はじめに―家庭教育論への批判

日本の幼児教育の父と呼ばれる倉橋惣三(1882-1955)は、1930(昭和 5)

年前後の時期に集中して家庭教育に関する論考を発表している。その中でも

特に重要なのは、「家庭と家庭教育」(1928)、「家庭教育総説」(1931)、「家庭

教育」(1932)の三本である(1)。

本稿では、以上一連の論考に展開された倉橋独自の家庭教育についての見

解を総称して昭和初期家庭教育学説と呼び、その中核にある「家庭生活の教

育性」理論の形成過程を跡付けていきたいと思う。なぜならば、この時期の

倉橋による家庭教育関係の論考が、いわゆる家庭教育論とは明らかに異なっ

て、日本近代教育学説史上、「家庭教育」なるもの(家庭教育言説一般に見ら

れる通俗的な家庭教育についての認識)を批判的に対象化して考察した 初

の試みであり、しかも、そこから導き出された「家庭生活の教育性」理論と

は、家庭教育の本質に迫った画期的な理論であるばかりでなく、近代の教育

認識を乗り越える先駆的な試みでもあったからである。

単なる家庭教育論ならば、この時期、かなりの蓄積がみられた。すでに明

らかにされているように、その歴史は新しく、明治初期に福沢諭吉や中村正

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直、植木枝盛、巌本善治等によって様々に提唱され始めた家庭教育言説が、

ある種定型化した中身(「家庭教育」なるもの)をもつ家庭教育論という形で

言説の層を厚くしていくのは、漸く 1900(明治 33)年頃のことである(2)。し

かし、それから程なく、倉橋が 1917(大正 6)年に東京女子高等師範学校教

授に就任し、以後、三期にわたり同校附属幼稚園主事として幼児教育の改革

に取り組む大正・昭和初期の頃になると(3)、家庭教育書の刊行数や新聞・雑

誌に掲載される家庭教育関係記事数は飛躍的な増大をみせる。そして、それ

らを媒体とする家庭教育論の流布によって、あるいはまた、小学校教師の努

力や高等女学校教育を通して、「家庭教育」なるものが日本国民の大多数の間

に浸透するまでになっていた。さらには、こうした家庭教育論の勧める「教

育的知識と教育的方法」(4)を実際に応用しようと努める新しい日本近代の家

族(日本型近代家族)が、広く都市中間層の間に成熟し始めていた。

ところが倉橋は、相当な進歩を遂げたかのように見える当時の家庭教育論

に対して疑問を投げかけ、「家庭教育の学術的組織的研究」が久しく「怠られ」、

「欠けている」と批判する(5)。家庭問題の細別化、専門化に応じて、「家庭教

育熱心家」の尽力により、「こんなに家庭教育の問題が複雑になり、家庭教育

の方法が大に発達して行く」現状にあるけれども、「今日家庭教育家の研究の

傾向は、何を食はせ、何を着せ、如何に遊ばすべきかをのみ考へ論じて居る」

だけではないかというのである(6)。1910 年代半ばに着手された倉橋による家

庭教育論批判の論点は、次の二点に及ぶ。第一に、「親其物、子其物を切りは

なしてそれぞれに研究し考へて居る」こと。従って第二に、「何を如何に与へ

るべきかと云ふ事のみで、其完全を誇る」傾向にあること。要するに、学校

教育が前提としている教育の四要素―教育主体(「親」)・教育客体(「子」)・

教育内容(「何を」)・教育方法(「如何に与へるべきか」)―を大前提に家庭教

育を考えていて、「家庭教育の本来の性質換言すれば其特別の意義任務を忘れ

て、普通の学校教育に堕して行くものと云ふべきだ」と論断した(7)。

先の昭和初期家庭教育学説は、こうした往年の倉橋による家庭教育論への

批判意識が、長い歳月を経て「家庭教育の本質とは何か」の探究として昇華

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していったものといえよう。「家庭生活の教育性」理論は、その結晶ともいう

べきものであった。さらに重要なことに、家庭教育の本質についての倉橋の

考察は、1920 年代半ばから 30 年代にかけて教育学界の大きな潮流となる教

育概念再検討の試み、つまり、教育方法論から教育本質論への転換という研

究動向と深い関わりをもっていた。近代学校システムが整備されるに伴い、

当時の教育現場には様々なひずみや欠陥が顕在化し、教育の本質および教育

学という学問の性格づけをめぐる根源的な問いが教育学者たちの主要な関心

事となっていた。倉橋の昭和初期家庭教育学説は、そのような潮流の中で形

成された主要な学説の一つを構成している。「家庭生活の教育性」理論とは、

子どもの就学前教育に深い関心を寄せていた倉橋が、家庭教育の本質とは何

かという視点から従来の教育概念を問い直し、教育本質論にアプローチした

一つの解答でもあったのである。

倉橋の昭和初期家庭教育学説の中核をなす「家庭生活の教育性」理論とは、

どのようなものだったのか。それはまた、倉橋が、いかなる教育現実を前に、

どんな課題意識をもって理論形成していったものなのか。その過程を倉橋の

ライフヒストリーや学問形成の場、倉橋が生きた全体社会の情勢との関わり

で読み解き、「家庭生活の教育性」理論の現代教育(学)への射程を明らかに

することが本稿の課題である。

1.「家庭教育」概念再考

(1) 昭和初期の三つの論考と時代背景

東京女高師教授および同校附属幼稚園主事として保育の理論的探究と実践

を積み重ね、50 歳を目前に書かれた冒頭の三つの論考は、倉橋の体系的保育

論「就学前の教育」(1931)とほぼ同時期に発表され、「倉橋惣三の保育論の

結晶であると同時に、わが国保育界における不朽の名著」(8)と評される『幼

稚園保育法真諦』(1934)にわずかに先だっている。同じ頃、児童保護論の著

作もまとめられており、倉橋の学問形成において 1930(昭和 5)年前後の数

年間は、保育と教育についての倉橋の思索が円熟をみせ、理論的な完成をみ

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た時期にあたる。もう一点、看過できなのは、これらの論考が、当時の世界

的な両親教育運動の影響を受けながら、倉橋も深く関わった文部省の家庭教

育振興政策着手の中で語られ、執筆されたということである。

初の「家庭と家庭教育」は、日本両親再教育協会の編集によって 1928(昭

和 3)年 9 月・11 月に刊行された『子供研究講座』の第 1 巻・第 2 巻に収録

されたものだが、この講座こそ、日本における両親教育運動の本格的な始ま

りを象徴するものだった。第一次世界大戦後の欧米では両親教育運動が大き

な展開を見せており、1925(大正 14)年 4 月から勤務先の南満州鉄道株式会

社の命を受けてアメリカやイギリス等で社会事業の研究調査にあたっていた

上村哲弥は、この運動と出会い大きな影響を受ける。1928 年 8 月、帰国後直

ちに設立したのが「日本両親再教育協会」だった(9)。『子供研究講座』(全 10

巻、同協会会員にほぼ毎月 1 回 1 巻の割合で配本)は、その 初の事業とし

て刊行されたものである。日本各地の会員が、この講座を中心に集まって同

協会の支部(両親の子ども研究団体)を自主的に組織し、相互に研究を助け

合うことが期待されていた。上村に先立ち欧米での在外研究を経て家庭教育

の重要性を再認識していた倉橋は(10)、同協会機関誌『いとし児』の賛助員と

なり(11)、『子供研究講座』では「家庭と家庭教育」の他に「幼児の心理と教

育」(第 3 巻・第 4 巻)を執筆している。「聴き手」(audience)(12)は同講座の

購読者、日本両親再教育協会の会員となっている日本各地の一般の親たちで

あり、わかりやすく平易な文章で書かれている。

次の「家庭教育総説」は、1931(昭和 6)年 4 月に文部省社会教育局編纂

により発行された『現代家庭教育の要諦』に収められている。当時、全国各

地へと熱心に「家庭教育行脚」を始めていた倉橋は(13)、1929(昭和 4)年か

ら文部省社会教育官を兼任し、戦時下にかけて官製の両親教育運動ともいう

べき文部省の家庭教育振興政策の精力的な推進者となる。1930 年 12 月 23 日

の文部省訓令第 18 号「家庭教育振興ニ関スル件」に先立つ 6 月 4 日~10 日、

文部省は 初の事業として初の文部省主催家庭教育指導者講習会を東京市

(於帝国教育会館)で開設するが、その際に行われた 9 名の講師による講演

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を、速記校閲の上、収録したものが『現代家庭教育の要諦』である。従って、

口語体で記され、講演時間の制約のためか、倉橋による講演「家庭教育総説」

の後半部分は簡略化された内容になっている。先の講演会が対象としていた

全国の家庭教育の指導者層に頒布することを目的に出版され、主な聴き手と

しては道府県の社会教育指導者や教化団体指導者・代表者、女子教育関係者、

学校教育教職員等が想定されている。

「家庭教育に関する講習会」を「母のため、母たらんとする人のため」に

開催することは、1914(大正 3)年来の倉橋の悲願であった(14)。この時期の

倉橋が、いかに熱心に、全国規模での家庭教育振興を視野に収め、両親再教

育の実践とも関わりながら、家庭教育に直接・間接に関わる全国の様々なレ

ベルの層に向かって家庭教育の本質を説いていたか、察せられよう。その試

行錯誤の過程で倉橋は、「家庭生活の教育性」理論を徐々に深化させていった。

その際に学術的な水準の高さという点において格好の機会を提供したのが、

城戸幡太郎らによる教育科学研究運動の胎動である。

1932(昭和 7)年 7 月発行の『岩波講座 教育科学』(全 20 冊)第 10 冊に

収載されている「家庭教育」は、学説形成という点では も完成度が高い。

この講座は、当時法政大学文学部教授だった心理学者の城戸が中心になって

企画、編集発行したものであり、雑誌『教育』の刊行と相俟って、城戸を指

導者とする教育科学研究運動のきっかけとなるものである。城戸は、それま

での「ヘルバルト式の規範学としての教育学」を脱却して、学問になってい

ない教育学を科学たらしめるべく、教育の事実を事実として問題にする。「教

育を科学的に研究する方法なり、態度なり」を模索することが重要だと考え、

この講座を「科学的研究を意図した論文などで構成」するという編集方針を

とった(15)。倉橋の「家庭教育」は、先の「就学前の教育」(第 6 冊所収)と

共に事実や歴史を重んじ、学術用語を駆使した文体となっている。倉橋にし

てはめずらしい学術論文のスタイルであり、広く保育・教育・福祉に関心を

寄せる知識人層を主な聴き手に執筆されている。

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(2) 「家庭教育」という言葉への着眼

どんな学説であれ、その学説形成の途上にあってしばしば見受けられるよ

うに、昭和初期の三つの論考の間には、文体や構成の違いはもちろんのこと、

論述の上でも不整合が見受けられ、必ずしも統一された見解とはなっていな

い。ここでは、 も完成度の高い論考「家庭教育」(1932)を中心に取り上げ、

具体例の豊富な他の二つの論考をも参照しながら、倉橋による昭和初期家庭

教育学説の輪郭を次節にわたって描き出したい。

さて、家庭教育の本質を明らかにするにあたって倉橋が問題にしたのは、

当時、すでに人々にごく当たり前なものとして受け入れられていた「家庭教

育」概念だった。倉橋は、次のように述べる(16)。「教育の研究が方法論の研

究から本質論の方へ進んで居る時代」において、「学校教育の本質如何」につ

いては非常によく考えられている。これに対して、「人類の古い時代」からあ

り、「何処で誰がやつて居ると云ふことがなく、然かも誰もやつて居ります所

謂平凡なる家庭教育」の方は、「他の種々な教育」と比較して「如何なる特質」

において違っているかということが検討されたことがない。それは、この「家

庭教育と云ふ言葉」が案外考えられずにきたためなのではないかと。

こうして倉橋は「家庭教育」という言葉を改めて問い、吟味する。そして、

この言葉が、次の二つの意味で用いられていることを明らかにした。

一つの意味は、「家庭に於て特に施行せらるゝ方法によつて行はるゝ教育」

であり、これについて倉橋は「方法的家庭教育」と呼んでいる(17)。要するに、

「親の教育意識」と「親の立案的教育方法」の下に(18)、「家庭に於て我子の

ために計画的に実行する教育」であり、「訓戒」や「予習復習の指導とかいふ

類のこと」がこれにあたると説明する(19)。「我子の教育を完成するために、

家庭も種々の方法を用ゐなければならぬ。如何にして教ふべきか、如何にし

て諭すべきか、如何にして矯むべきか、皆方法を俟つ。方法は目的の手段で

ある。家庭に於て、教育目的が意識せらるる時、それぞれの方法が講ぜらる

べきは当然である」。

ところが倉橋は、「家庭は必ずしも教育目的を意識してゐると限らない」か

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ら、この意味での「家庭教育」は「家庭必具のものではない」と述べる。そ

うした教育主体による目的意識的・方法自覚的な教育ならば、むしろ学校教

育の本領とするところである。では、学校教育にはない家庭教育本来の特質

とは何か。倉橋は、「親の教育意識」と「親の立案的教育方法」とを取り去っ

た後になお残る「自然的」かつ「具体的」な「家庭生活」そのものの中に家

庭教育の特質を求めて(20)、そこから「家庭教育」のもう一つの意味、すなわ

ち「家庭生活それ自体の裡に自然に存する教育」という意味を引き出し、「本

義的家庭教育」と呼ぶのだった。「特に計画的に施行するといふよりも、おの

づからに、家庭生活から与へられてゆく教育効果」(21)である。倉橋によれば、

これは「生活による教育といふ、現代教育理論の一考案に他ならない」のだ

が、児童中心主義の新教育運動との決定的な違いは、教育客体側の教育を受

けつつあるという「意識」のみならず、教育主体の側にも教育しているとい

う「意識」が全く見られないところにある。「そこにあるものは、徹頭徹尾たゞ

生活そのものだけで、どこにも此の教育意識が行はれてゐない」。特別な「理

想的教育家庭」(22)でなくとも、「世間一般の平凡家庭、尚ほ極端には、条件

的には非教育性を帯び居る如き家庭」であっても、「家庭としての生活的本質」

があればよい。倉橋は、教育主体(「親」)と教育客体(「我子」)の双方が依

って立ち、どちらもが参与している「家庭そのものとしての大いなる生活事

実」の内に家庭教育の本質を見るのである。

それでは、「その家庭生活そのものに、教育的結果を生むどんな教育性があ

るのであろうか」。次節の「家庭生活の教育性」理論は、このような問いで始

まる後者の意味についてのさらに掘り下げた考察の中から生み出された。

倉橋が 1910 年代半ば頃から家庭教育論に対する批判意識をもっていたこ

とはすでに触れたが、その際に念頭にあったのは、家庭教育論をはじめ「世

俗一般の傾向」として、家庭教育を「方法的に行はるゝ教育」の意味におい

てのみ「偏し考へる風が多く、その為に、家庭教育重んぜられて却て家庭教

育失はるゝといったやうな結果をさへ生じたりする弊」のある現実だった。

倉橋は、こうした「世俗一般の傾向」の誤りの理由として、次の三つを指摘

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する。第一に「教育といふ概念が学校教育の概念に於て多く思惟せられてゐ

るため」であること、しかも第二に「概念的にのみでなく、現代に於ては、

学校教育が児童の教育の中軸を占めてゐる事実」があること。そして、第三

に「人生に於ける家庭生活の意義そのものの認識の不足」である。「家庭教育」

概念の検討を通じて倉橋が行おうとしたのは、当時、多くの人々が疑う余地

のないものと受け止めていた「家庭教育」概念から、学校教育の圧倒的な影

響(「所謂教育的―余りに教育的なるもの」)を取り除き、その中に家庭生活

それ自体が有している本来の教育的な意味を付与していくことであった。

(3) 「家庭生活の教育性」理論の深化

従来の家庭教育論では、「家庭の教育作用といふことを、家庭生活そのもの

から区別して考慮する」ところから、「教育のため」の理想や努力のみを説い

て、そのために子どもにとって も大切な「家庭生活の溌溂たる真 卒(ママ)

さ」

が失われがちであったと、倉橋は「家庭教育」なるものの弊害を指摘する。

家庭教育の「方法や条件」はもちろん必要なことではあるけれども、もっと

それらの根本にある「家庭生活の教育性といふものを、家庭生活そのものゝ

自然の生活事実さながらの中に見出して、その存分の作用と効果とを、家庭

教育の第一本質として考へてゆきたい」のだという(23)。 ところで、この難しい課題に対する倉橋の見解は、先の三つの論考で異な

っており、試行錯誤の思索過程が垣間見える。「家庭生活の教育性」とは何か

について、 初の「家庭と家庭教育」(1928)が「人間性」「現実性」「理想性」

を挙げていたのに対して、次の「家庭教育総説」(1931)では「人間交渉」と

「現実性」のみとなっている。「理想性」には教育主体側の「意識」が働き、

純然たる「自然の生活事実」とは言えないと判断されたのであろう。また、

も完成度の高い「家庭教育」(1932)は、「家庭員の純人間交渉」と「家庭

生活の現実性」に、新しく「家庭生活の限定性」を加えている(24)。ただし、

前二者に限っていえば、倉橋の見解は明快かつ首尾一貫している。

まずは「家庭員の純人間交渉」について、倉橋は次のように述べる。「家庭

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倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 27

が人間の集りであり、そこに諸様の人間交渉の行はれてゐる場所であるこ

とゝ、その人間交渉が、人間を人間に育てゝゆくに何よりも欠くことの出来

ない作用であることゝは、更めて多く説くを要しまい。子どもは生れながら

人間であるに相違なく、生来、人間性の所有者たるは素よりであるが、それ

が、ほんとうに正しく発達した人間性の所有者となり得るためには、幼時か

ら生活の間に経験する人間交渉の結果によるのである」(25)。

人間らしい喜怒哀楽の感情を有し、言葉や身体を媒介に内なる思いや外的

世界を表現すること、他者に共感し応答的に関わること等、子どもの「人間

性」を養う も重要な経験こそ「家庭員の純人間交渉」であり、そこに家庭

生活の教育性があると倉橋は考える。なぜならば、家庭生活における互いの

交渉が、一般社会のそれとは異なって、「功利打算以外のもの」をもち、「規

範以外のもの」をもって、「極めて密なる又 も純なる人間交渉体」だからで

ある。しかも、その交渉範囲が「小さくして恒定的」であるからだ。それは

必ずしも「理想的なものであるとは限らない」が、「祖父母、両親、兄姉弟妹、

その他の準家族員、或は縦に、横に、或は与へられ、与へ、人間交渉のあら

ゆる方向が経験され」、「その関係は、いづれも親愛、好意の関係として、倫

理的といふよりは情味的であり、交渉の仕方を知るといふよりは、交渉の味

ひを味ふといふところに、家庭に於ける人間教育の真諦がある」(26)と見る。

「即、愛さるゝことによつて愛することを知り、親しまるゝことによつて親

しむことを覚え、扶けらるゝことによつて扶くることを学びゆくのである。

殊に、それが、一々意識されることなく、その中に生れ、その中に育ちて、

いつといふこともなく、おのづからの経験を重ねてゆくところに、理を俟た

ざる体験として、人間性の真の内熟を進めてゆくのである」(27)。

その場合、特に留意したいのは、この「家庭員の純人間交渉」について倉

橋が、どこまでも具体的な生活場面に密着した「実際的」「実務的」「実行的」

なものと捉えている点である。例えば、親と子の接触ということであれば、

その第一の形式は、単なる「感情のとりやり」ではなく、「我子の日常に対す

る親の世話であり、骨折り」だという(28)。「小さい時には襁褓の世話から、

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段々大きくなりますれば着物のことから御飯のことから色々世話をして居

る」、その間に意識せずとも「物を通して」行われる相互交渉こそが大事なの

だと述べる(29)。また、第二の形式として挙げているのは、物を通さず、教育

的配慮からでもなく、ただ一緒になって直接に「子供の生活を挟んで親子が

相触れ」ること、つまり、日常生活の何気ない場面で何時とはなしに親が子

どもの「遊び相手」、「話相手」になることであった(30)。

さて、もう一つの「家庭生活の現実性」とは何か。「家庭なるものは、人間

交渉の和楽境であると共に、どこまでも現実な生活事実である。(中略)生計

の資となるべき収入、収入のための勤労、生産、計画的に営まれてゆく消費、

及び、社会生活の一単元として、国に対し、市に対し、町内に対し、近所隣

りへ対しての、さまざまの実際的交渉、一日もこれ等の現実を離れて存在し

てゆくことは出来ない。而して、生活の現実性を知ることは、人間教育の大

切な要義であつて、これを欠くものは、空な抽象的な生活者となるの外はな

い。そのもつとも大切な教育が、家庭生活の現実性そのものによって、おの

づから行はれてゆくのである」(31)。

倉橋は、世間ほどには厳しくない家庭の「現実裡に生活させられてゐるこ

とによつて、我子に人生現実が経験させられ」、自ずから「現実性」(現実感

覚)が養われていくと述べる。当時の家庭教育一般の考え方として、「生活現

実味の多い家庭」、すなわち「親が生活に多忙であつては、我子のために方法

的教育を与へる暇がなくては、到底家庭教育が出来ない」とする誤謬があっ

た。それに対して倉橋は、家庭の中で行われることは、たとえ米一つ磨くの

でも、「何処迄も実際の生活に迫られて目的に向つてやつて」いるものであっ

て生活の「具体味」「実際味」「現実味」を持っている、そのことに重要な意

味があるのだと説く。「実際の必要と目的」を離れ、「練習」や「稽古」の場

所となって、「生活」という面では「抽象味」の多い学校教育では伝授できな

いものが、家庭生活の中で培われるというのである(32)。

家庭教育の本質とは何かを問い、「家庭生活の教育性」理論を形成する過程

で、以上のような「人間性」と「現実性」というカテゴリーを導き出した倉

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倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 29

橋の思索の根底には、いわゆる家庭教育論とは異なって、人間形成への深い

洞察が脈打っている。幼少期に育む必要のある、人間存在にとって不可欠な

基本的経験とは何かについての洞察である。人間が孤独(「寂しい生活」)や

「厭世」のために身を滅ぼすことなく、「生の喜悦」や「生きて行くことの愉

快」を心に感じて人生を送るためには、子どもの「人間性」を培うことが人

間教育の 重要課題だと倉橋は考える(33)。しかも、人間が現実世界にしっか

りと根を下ろして、確かな「現実性の所有者」として生きるために、子ども

の中に「現実性」を養うことが要請されていると見る。そして、それらを可

能にするものこそが、「人間教育の一番の基礎」(34)であるところの「家庭員

の純人間交渉」「家庭生活の現実性」だというのである。次節では、こうした

人間形成への洞察に支えられた「家庭生活の教育性」理論がどのように形成

されていったのかを学説内在的に明らかにしたい。

なお、 後の論考「家庭教育」(1932)では、もう一つ「家庭生活の限定性」

が加えられている。家庭が何代にもわたって受け継がれてきた「一伝統体」

であり、「社会内の一区画体」であるところから生ずる「各家庭の個性」のこ

とである。「家憲」や「家風」を例示したために、やがて家族国家観に足元を

すくわれることになるが、ここでは単に「育ちゆくものの性格形成」のため

には「生活の或る限定が与へられること」が必要で、そのことによって子ど

もは生活の中で「性格のまとまり」を育まれると述べているにすぎない。

2.「家庭生活の教育性」理論の形成過程

(1) 現実認識―近代化に伴う子どもの「生活」破壊

倉橋の昭和初期家庭教育学説の中核をなす「家庭生活の教育性」理論は、

森上史朗によれば、1917(大正 6)年夏に郡山幼稚園で開催された福島県保

育会主催保育講習会での講演「家庭及び幼稚園に於ける幼児の教育」の中で

早くも触れられているという(35)。ただし、その萌芽は、さらに遡って 1912

(明治 45)年の論考「教えない教育」に認められる(36)。それから約 20 年近

い歳月をかけ、倉橋をして「家庭生活の教育性」理論の形成へと内面から突

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30 駒澤大学 教育学研究論集 第 28 号 2012 年

き動かしていったものとは、一体何だったのだろうか(37)。

その一つが、家庭教育論への批判意識から出発した「家庭教育の学術的組

織的研究」の必要性についての認識であり、「家庭教育の本質とは何か」とい

う問いであったことは、すでに見てきたとおりである。保育理論研究に取り

組み、「すべての教育の基礎的様式は家庭教育に発す」と考える倉橋にとって、

「家庭教育学」は「幼稚園教育」の根本となるものであり(38)、その意味から

も「家庭生活の教育性」についての探究は不可欠なものだった。

これが「家庭生活の教育性」理論の形成を促した倉橋の学問上の課題意識

だったとすると、もう一つは、同時代の教育現実を倉橋がどのように見てい

たかという点に関わる。理想的教育家庭の落とし穴や早教育の弊害等を例に、

学校教育の普及によって家庭教育本来の機能が失われつつある現実を憂える

倉橋だったが、生来子ども好きで、第一高等学校時代から東京女高師附属幼

稚園に足繁く通い、1903(明治 36)年 9 月に東京帝国大学文科大学哲学科に

入学後も、同幼稚園で子どもと遊ぶ体験を重ねながら児童研究を志していた

倉橋のまなざしは、より一層根源的な現代社会の病理に向けられていた。す

なわち、近代化に伴う子どもの「生活」破壊の現実である。1911(明治 44)

年 4 月の論考「児童と自然」の中で、次のように述べている(39)。「二十世紀

は児童の世紀と叫ばるる気運の趨勢を喜ぶと共に、その気運を促さざるを得

ない一面の原動力に就いて先ず悲しむべきことを忘れてはならぬ。他なし、

忙しい二十世紀は(中略)如何に児童の生活を迫害しているか、それを考え

てみねばならぬ。或いは父に生活の過労を負わせて強健なる体質の遺伝を奪

い、或いは母を日夜に工場に送って、暖かき哺育の幸を奪い去るの類を初め

として、その迫害は広くいろいろの方面に渉っている」。

一高に入学する直前の 1900(明治 33)年夏に内村鑑三が主催した第一回夏

季講談会に参加し、翌年に発足した角筈聖書研究会の熱心な会員になってい

た倉橋は、東京帝大大学院時代の 1908(明治 41)年 3 月に、大阪と神戸の聖

書講演に招かれた内村に伴って随行旅行をし、一人「煤煙と砂塵」にまみれ

た大阪の町(天王寺あたり)を歩いている(40)。おそらくは、その際であろう。

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倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 31

「大都会における子供はいかなる特別の事情の下に生活しているか」という

問題に関心をもち、以後研究した結果、「我国の都会の子供が彼の西洋におけ

る都会の子供の受けている種々の損害に、漸次近づきつつある」という認識

を獲得するに至った、と述べている(41)。

こうして「児童の生活」が多方面から「迫害」を受けている現実を直視す

るようになった倉橋は、その「迫害」の実態を次の二方面から解明し、現代

社会における「人間性」の荒廃を繰り返し問題にするようになる。

第一の迫害は、先の論考「児童と自然」で端的に言及されているように、

都市化の進行とともに子どもの生活から「自然」が失われつつある現状であ

った。「中にもわけて もはなはだしいのは、児童の生活から次第に自然を奪

い去ることである。その日光を奪われる。その新しい空気も奪われる。自由

なる遊び場は言わずもがな、路傍の花も軒端の鳥も奪い去られて、児童のた

めに何より大切な師友自然の接触から遠く遠く隔てられている」(42)。倉橋は、

20 世紀の人為的文明の「多忙」と「喧騒」が人類一般に与える影響の中で

大の問題は「疲労」であり、その結果、単なる「身心の能力の減少」のみな

らず、時に「不良児童」の「罪悪」の原因ともなる「疲れたる心情の荒廃」

が起こっているという。「この喧しい、干燥した、刺激の悪強い、興奮ばかり

多くて静かな趣味も慰安もない都会に成長して、自然からいよいよ離れるに

つれて」、子どもは「その天性の柔らかい優しい心情」、「人間らしい性情」を

涸らされていると述べ(43)、「人間性」の荒廃を重く受け止めるのだった。

もう一点、論考「児童と自然」の頃には「生活上の不利」(44)として簡単に

触れるに止まっていたが、欧米留学(1919.12-1922.3)を経てからの倉橋は、

当時のアメリカの「欠陥家庭の研究」によって「社会現実に対する鋭い目を

養われるところが多かった」と述べ(45)、第二の迫害として、資本制生産様式

による「家庭生活の破壊」の現状を大きく取り上げるようになる。1924(大

正 13)年 6 月に発表された論考「現代人の人間的不安」は、現代の物質・機

械文明に対する倉橋の批判的な見解が鮮やかに表明されている稀有な論考で

ある。第一次世界大戦後の深刻な世界状況を踏まえて倉橋は、現代人の「不

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32 駒澤大学 教育学研究論集 第 28 号 2012 年

安」の空気に触れ、その根っこに「今日の 大欠陥たる人間性の欠乏」(「人

間性を失へる自己の寂しさ」や「荒涼さと、人間的情味を失へる寂寞」)を見

る。そして、それが「戦争といふ臨時の不幸なる結果」であると同時に、次

のような「近世(広義の意味で「近代」と同義語…引用者注)生活のそれ自

身の帰趣」によるものと結論づけた。「所謂近代的生活とは現代の産業制度を

基とする所の意味であつて、一面には大資本の力に依り、一面には大機械の

力に依る所の近世的生産の方法が人間の生活をして次第に資本の道具たらし

め、又は機械の側に立つ機械そのものたらしめて、人類を人間的生活から次

第に遠ざからしめて行つたのである」(46)。

第一の現実認識が倉橋をして「今日の時代は何をもっとも幼児教育に要求

するか」という視点から幼稚園教育の新しい「明確なる根本的の目標」を提

起せしめ、その改革の原動力になったとすると(47)、「家庭生活の教育性」理

論は、特に第二の現実認識に深く根ざして形成されたと考えられる。当時の

アメリカの工業的大都市における一見「便利」で「幸福」な生活の根底にあ

る「人間性の生活が日毎に奪はれて居るの寂しさ」を見逃さなかった倉橋の

関心は、「所謂現代的生活」によって人類が脅かされている一番の焦点となっ

ている「家庭」そのものへ、そして、「人間性」が妨げられている対象の核心

たる「親子の関係」へと向けられていった。しかも、その際に倉橋は、「政治

的解決」や「経済的解決」、「社会政策的解決」を志向するのではなく、「家庭」

および「親子の関係」に一層根本的な「人間的解決」の足がかりを求めて、

「人間をして真に人間的生活を得しむ」方途を模索していくのだった(48)。

(2) 「家庭生活の教育性」理論の出発点「教えない教育」

「家庭生活の教育性」理論の萌芽は、先に述べたように 1912(明治 45)年

の論考「教えない教育」に見受けられる。論考「児童と自然」が発表された

翌年のことであった。子どもの周囲から「自然」が失われ、「家庭生活」が「破

壊」されることによって子どもの人間教育に大きな欠陥が生じているとの現

実認識に至ったことで、倉橋は学校教育とは対極にある「教えない教育」へ

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倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 33

の関心を高めていったのではないだろうか。以下に詳しく検討しよう。

この中で倉橋は、一般に「教育」と言われているものを考察して、①「先

ず教える教育」、②「間接に教える教育」、③「教えない教育」の三種に分け

ている。①が「普通にいう狭い意味の教育」であり、「小学校以後即ち学校と

いう所でやりまする課業」であるのに対して、②は「主として遊戯を利用し

まして、子供の方では今先生に何か教わっている、課業を学んでいるという

ような考えは全くもちませんで、ただ面白く遊んでいる間に此方から適宜の

手段を施して多少の教育的結果を生ぜしめる」ものだという。後の誘導保育

論につながるものだが、倉橋はさらに議論を推し進め、③の「教えない教育」

について次のように述べる。「教える方でもその時、その場合に必ずしも今子

供を教えているのだという明らかな考えはもたない、もちろん子供の方でも

今教育を受けているという考えは少しも自覚しておらない場合でしかも大い

に教育に関係のあること」なのだと(49)。「要するに教えない教育という問題

は子供に適当な周囲を与えるということの問題に帰するのであります」(50)。

ここでの「教育」概念の考察が、「家庭教育」概念再考に発展していく。①

に「方法的家庭教育」を、③に「本義的家庭教育」を重ねることは難しいこ

とではない。この論考で倉橋は、さらに子どもを中心に「周囲」の問題を考

えた際に大別できる「社会」「天然」「家庭」を取り上げ、特に「家庭」に焦

点化して「教えない教育」を考察している。「家庭生活の教育性」理論の出発

点は、この論考にあると見てよいだろう。ただし、「生活」への着眼はまだ現

れていない。「模倣とか暗示とか或いは生理的影響とかいうものによって子供

はいろいろ周囲の影響を受けますが、その周囲というものの中で、家庭から

はどういう風に影響を受けてくるか」。このように問うて倉橋が注目するのは、

専ら「物的周囲」としての「近所」「その家の建物の具合」「家の中に用いま

する道具もしくは家の装飾品の類」であり、「人的周囲」としての「家内の人」

の「顔色」「態度」「挙動」「言葉」なのである(51)。

東京帝大大学院において心理学講座初代担当教授元良勇次郎の下で児童心

理学を研究していた倉橋が東京女高師の講師となるのは、1910(明治 43)年

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34 駒澤大学 教育学研究論集 第 28 号 2012 年

5 月満 27 歳の時であった。青山学院高等女学部および青山女学院手芸部の教

師に就任した年でもあり、6 月には東京女高師附属幼稚園内にある保育の研

究会「フレーベル会」に加入し、以後倉橋は、同会機関誌『婦人と子ども』

(1901 年創刊、1919 年に『幼児教育』と改題、1923 年より『幼児の教育』)

の編集発行や同会の例会、夏期講習会等の活動に精力的に関わっていく。そ

の傍ら、附属幼稚園の書庫にこもって明治初年からの保育書類を読みあさり、

フレーベルの原典にも取り組み始めている。論考「教えない教育」(1912)は、

まさに倉橋が、保育理論研究という当時の日本において未だ開拓されていな

い研究領域へと歩み出した時期に執筆されたものだった。倉橋の学問形成上

の転換期に位置する代表的著作といえよう。そこには、後の「家庭生活の教

育性」理論を彷彿とさせながらも、近代の教育認識―この論考では、教育主

体である「教える方」が、教育客体である「子供」に対して合理的な働きか

けの技術の一種として「適当な周囲を与える」という考え方―から自由でな

いばかりか、自然科学的な方法論をモデルに実験心理学としてスタートした

ばかりの講壇心理学の「ものの見方」が如実に出ている。すなわち、子ども

を「周囲」から切り離して対象化し、その行動を外部から客観的に観察する

ことにより、子どもは様々な「周囲」からどのような影響を受けているか、

そのメカニズムを明らかにするという分析的思考法である。そのどちらにも

共通して流れているのは、「教える方」(観察者)対その対象としての「子供」、

「周囲」対その影響を受ける「子供」等といった主客の二分法的な捉え方で

あり、両者を対立図式で考える発想であった。

(3) 学校教育批判から「生活」に内在する教育性の探究へ

1912(明治 45)年の論考「教えない教育」から発展して 1930(昭和 5)年

前後の「家庭生活の教育性」理論へと至る学説形成の道筋、換言すれば、教

育主体―教育客体の二項対立図式克服への途を、倉橋は、明治国家が近代日

本の公教育制度を確立・整備するにあたって移入した西洋近代の教育認識を

批判的に検討することを通して切り開いていった(52)。

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倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 35

倉橋が子どもの「生活」に着眼し、「幼児教育は常に幼児の生活全体を其の

対象とすべき」ことを明らかにしたのは、1914(大正 3)年から翌年にかけ

て発表された論考「保育入門」においてであり(53)、「家庭生活の教育性」理

論の原型が初めて公にされたのは、1917(大正 6)年夏の福島県保育会主催

保育講習会での講演「家庭及び幼稚園に於ける幼児の教育」だった。同年に

は、論考「家庭教育の第一義」も執筆されており(54)、この頃に「家庭教育の

本質とは何か」という課題に本格的に取り組み始めたと見られる。

従来の倉橋惣三研究においてほとんど注目されることはなかったが、翌年

の 1918(大正 7)年頃から倉橋は、それまでの心理学的児童研究に基づいた

論考に代わって、学校教育に関連する様々な論考を『小学校』『教育論叢』『教

育時論』等の教育雑誌に数多く寄せている。学校教育の特質とは何か、学校

教育が必然的に抱え込んだ欠陥や矛盾はどこにあり、それらを解決するため

の学校改革案をどのように構想するのか。さらには、学校教育では代替でき

ない家庭教育本来の教育作用とは、いかなる点に求められるのか、等々。倉

橋の「家庭生活の教育性」理論は、近代の教育認識に基づいて も効率よく

組織された学校教育を様々な局面から問い直すことにより完成されていった

といえるだろう。同時にそれは、「生活」自体が有する教育性についての認識

に目覚め、その理論的探究を深める過程でもあった。

さて、倉橋が近代の教育認識を乗り越えるにあたって度々問題にした「教

育」概念とは、「従来多くの教育学の教科書に於いて」(55)定義されている狭

い意味でのそれで、例えば「教育は成熟者が未熟者に対する有意具案的の作

用である」(56)といった類いのものである。倉橋は、この定義の下に組織され

た学校教育の何を批判したのだろうか。その主要な論点は、1919(大正 8)

年 12 月に文部省より欧米留学を命ぜられ、教育学・心理学の在外研究員とし

て日本を離れる直前の二年間に、「人間教育」(1918)、「目的教育」(同)、「教

師の生徒化」(1919)、「相互教育」(同)等の論考の中で明確に示され、1922

(大正 11)年 3 月に帰国後、さらに深められていった。

第一点は、今日の学校において「教育者たる教師」と「被教育者たる児童」

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36 駒澤大学 教育学研究論集 第 28 号 2012 年

との間に行われているのは「知識」の「授受」という人間以外のものであっ

て、教師も児童も「知識授受の道具に使用されて居る」だけではないか、と

いう論考「人間教育」(1918)の系列に見られる批判である(57)。

たとえ、それが「道徳」だとしても、教師は単にその道徳を児童に上手に

与える「訓練の特別なる技量」をもった「運び手」にすぎない。学校教育の

「制度」「方法」「教師の実質的学力」は非常に進歩したが、そのことにより

かえって「人間教育の働」が損なわれてしまった、というのが倉橋の見解で

ある。その場合の「人間教育」とは、「道徳教育」や「厳格なる訓練乃至監督」

ではないのはもちろん、あまりにも高尚な「倫理学的乃至哲学的のもの」に

止まる「品性の陶冶」「人格の完成」でもない。「もつと平凡普通なる所謂人

間らしさ」や「人間として極く当り前なる情味人情」であって、「人間味」の

経験と言った方がよいものだと述べている。

ここでも倉橋は、現代社会の精神生活上の大欠陥である「人間性の欠乏」

(「真に自分の人らしさを保存し、又人らしさを以て相交り又人らしさを以て

相楽み相親むと云ふ潤のある人間味に欠けて居る」こと)を問題にする。そ

して不良少年の事例を取り上げ、その原因の多くは、「家庭生活」のみならず

「学校生活」においても、「幼年の時から真正の人間味と云ふものを味ふの機

会を持たず、従つて人間的に発達することが出来ずに居るものである」から、

この「人間教育」の不足という学校教育の大欠陥に対して、「吾人教育者」は

「教師としての狭い意味の任務以外に、人間対人間の関係をして居る所に大

きな任務のあることを忘れてはならぬ」と注意を喚起した。

学校教育批判の第二点は、今日の学校が、教科書・時間割・黒板・机・教

材等が整えられて「生徒にとって、勉強のために勉強をする処」となってし

まい、そのために「人間の生活に も大切な或る一つの発達の機会の奪わる

ること」、すなわち「目的生活の発達」が損なわれているという、論考「目的

生活の教育」(1919)の系列で展開される批判である(58)。

「今日の学校教育は、子供をして、人から与えられた問題を解き人から与

えられた目的に適応することばかり練習させて、自分で目的を捕らえ、自分

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倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 37

の目的に向かって生活することを経験させない」。倉橋は、「目的生活そのも

のの準備即ち練習」の欠如について、「学校教育の方法の誤り」というよりも

「学校教育そのものの本来的弱点」であり、さらに言えば、「教育ということ

の考え方それ自身に根をもつ欠陥」だと述べる。学校教育とは対極的な位置

にあるもの、例えば「丁稚奉公」や「職人の見習弟子」等の徒弟制教育を標

準に考えてみると、そのことがよくわかるという。教育という面では時に損

をしながら、「経験から経験へ、必要から必要へ、終始自分の生活をしてゆく」

のだが、実はそのことが「目的生活の練習」になっていて、結果として「そ

の将来に於いて、彼等の方に、生徒にない或る強味があり、力があり、自主

性が却ってよく発達している」。これに対して学校教育の場合には、「他人の

立案的計画によって教育せられる」方式をとるために、「強味が足りない。生

活の力が足りない。役には立つ、雇われれば役には立つ。与えられた仕事は

相当に果たしてゆく。しかも自分の目的を立て、自己の目的に生きてゆく力

が弱い」と分析するのだった。

従って今日の学校教育は、「その学校という本来性に基づく、この教育上の

弱点」に気がついて、その改良を試みなければならない。「目的生活」とは「必

要生活」であり、その発達のために不可欠な条件は「現実」の「『必要』に会

わせ、『必要』を経験させること」にある。そのためには、「生活形式の現実

性」(「現実の必要と、それに対する必要感とそれに基づく目的による生活と

いうこと」)と「経験の現実性」(「自ら事実に触れてゆく生活の教育効果」)

を持たせる工夫をすることこそが肝要であると述べた。

このように見てくると、以上に検討した学校教育批判の中に、「家庭生活の

教育性」理論で展開される「人間性」と「現実性」というカテゴリーが鮮明

に現れ、考察されていることを確認できよう。そして、「人間性」と「現実性」

のいずれについても、学校教育では得難いもの、その欠乏は「学校教育その

もの」、さらには「教育ということの考え方それ自身」に内在する弱点・欠陥

と捉えられている。それは何故なのか。生活と教育との関係を考察した 1919

(大正 8)年の論考「教育と生活」および「生活か教育か」の中で、倉橋は

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38 駒澤大学 教育学研究論集 第 28 号 2012 年

次のように説明する。原始の時代には「生活そのものが教育」であったが、

人間生活が複雑になるにつれて、また、経済的分業的な立場からも、次第に

「生活から教育を分離」していき(59)、その結果、教育というものが「人間生

活の中に於いて特殊の位置」(60)を占めるに至った。つまり、子どもの「将来

のための準備」を、「教師」という特殊な人が、特殊な場所「学校」で、「課

業」と称する特殊な教育方法によって行うようになった今日の教育は(61)、ま

すます実際の複雑な生活から遠ざかって「簡単」で「抽象的の性質」を帯び

たものとなっている(62)。従って、すべての「生活」に通じる特性、つまり「現

実の必要」と「人間の相互的必要」とを失っているというのである(63)。

この二つの特性こそ、倉橋において学校教育にはない家庭教育本来の特質、

つまり「家庭教育の教育性」であると認識され、両親教育運動や文部省家庭

教育振興政策が盛り上がりを見せる昭和初期に「家庭生活の現実性」および

「家庭員の純人間交渉」として理論的完成を遂げていくものであった。

3.1920-30 年代の教育本質論における倉橋の位相

倉橋が「家庭生活の教育性」理論を形成した時代は、1872(明治 5)年の

学制発布以降、日本の学校教育を支えてきた教育概念とそれに基づく教育学

体系に疑念が持たれ、再検討に付された時代であった。

例えば、日本で初めての体系だった教育学書の代表作と評される『系統的

教育学』(1909)を著した東京帝大教育学講座の初代担当教授吉田熊次は、1931

(昭和 6)年刊行の『教育及び教育学の本質』の冒頭で、次のように述べて

いる。「明治四十年に欧洲より帰朝し、東京帝国大学に於いて教育学を講ずる

こととなつてから、既に二十五星霜を経た。此の間、教育学に関する諸種の

問題を考究し乍ら、常に不満に感じたることは、教育に関する理論なり学説

なりが、教育の諸問題に対して解決と指導とを適切に与へ得ざることであつ

た。依つて多年省慮の結果其の病源を教育及び教育学の概念の正常ならざる

ことに発見したのである。そこで教育及び教育学の見方に根本的改造を試む

ることは予の不満を解く唯一の道たることを信んずるに至つた」(64)。

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倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 39

こうした動きに呼応するかのように、1924(大正 13)年 8 月に大日本学術

協会編輯の雑誌『教育学術界』が「従来の教育原論にコペルニクス的転向を

加へる心組」(65)で「教育概念改造号」を特集している(66)。「「教育概念構成の

基礎、教育概念の現在及将来」等に関する諸家(小西重直・入沢宗寿ら 17

名の教育学者・・・引用者注)の見解」(67)を掲載し、以後何回かにわたって論

争が展開された。また、京都帝国大学教育学教授法講座では、その前年に伊

藤典が論文「教育概念の基礎づけ」を発表し(68)、1924 年度には小西重直が

特殊講義「教育本質論批判(デイルタイ派、マールブルヒ派其他)」を開講し

ている(69)。1920 年代半ばというのは、1930 年代に本格化する教育方法論か

ら教育本質論への転換という教育学研究の潮流が表面化し、教育概念再検討

が教育学者共通の課題として認識される時代の始まりにあたっていた。

以上の流れの中に置いてみると、1912(明治 45)年の論考「教えない教育」

の頃から、あるいは、遅くとも「家庭生活の教育性」理論の原型が公にされ

た 1917(大正 6)年頃には、学校教育批判という形で従来の教育についての

見方・考え方の再考に着手し、「家庭教育の本質とは何か」への思索を深めて

いった倉橋の歩みは、時代を先駆ける試みだったといえよう。しかも、倉橋

が「家庭生活の教育性」理論を昭和初期家庭教育学説の中で展開する 1930(昭

和 5)年頃というのは、戦前の代表的教育学者による教育本質論の著作が相

次いで刊行された時期でもあった。すなわち、京都帝大教授小西重直の『教

育の本質観』および『労作教育』(1930)、東京文理科大学教授篠原助市の『教

育の本質と教育学』(同)、そして、先の東京帝大教授吉田熊次の『教育及び

教育学の本質』(1931)である。これ以降、総力戦体制下にかけて、次の世代

の若手研究者を中心に様々な教育本質論が展開し、教育学の再構成が模索さ

れるが(70)、錬成論が次第に大勢を占めていく中、その 終段階において「禅

における人間形成」という視角から特異な教育本質論を展開したのが本学教

職課程と縁の深い宮坂哲文であった(71)。

さて、倉橋の「家庭生活の教育性」理論は、1920-30 年代の教育本質論に

おいてどのような特色を持っていたのだろうか。 後に、この点に触れたい。

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40 駒澤大学 教育学研究論集 第 28 号 2012 年

これまで度々指摘してきたように、倉橋がいわゆる家庭教育論に疑問を投

げかけたのは、世間一般の家庭教育言説に顕著に見られる学校教育に支配的

な狭い教育概念に対してであり、その特質とも言うべき教育主体-教育客体

の二項対立図式を倉橋は批判した。教育主体と教育客体の双方を、それぞれ

が組み込まれている「生活」から切り離し、特立させて、前者の後者に対す

る合理的な働きかけの技術を重視する見方について、倉橋は「本義的家庭教

育」の対極にあるものと考える。「人間性」(「(純)人間交渉」)と「現実性」

というカテゴリーによって構成される倉橋の「家庭生活の教育性」理論とは、

教育主体としての役割を過度に期待された「親」と、単なる教育客体として

の地位に追いやられた「子ども」のどちらをも、もう一度「自然的」かつ「具

体的」な「家庭生活」それ自体の中に引き戻し、家庭の生活事実のレベルか

ら家庭教育の本質を捉えていくものであった。それは、次の二つの点におい

て従来の狭い教育概念を克服し、行為する主体の「経験」に基礎を置く新た

な教育認識を切り開いていくものだったと特徴づけられる。

第一に、デカルト的な実体論を退け、関係論の立場から教育の本質を見て

いることである。例えば、ある教師論の特集の中で倉橋は、「教師と云ふこと

の根本概念」は、「完成者」か否か、「感化の主体」か否かといった「人其の

ものにある絶対価値に於て」考えるのではなく、「生徒との関係概念に於て定

められるべきもの」ではないかと問いかけている(72)。「教育と云ふやうなこ

と」は、「教師が有つ教育主体としての絶対性の問題」ではない。「絶対概念

で事の次第を決める前に、先づ相対的に人と人との関係と云ふ関係概念から

出発して考へを進めねばならぬ」、「教育のことは我と汝との関係上に築かれ

る」ものである、というのが倉橋の見解であった。

第二に、子どもが暮らし成長する基盤である生活圏を総体として捉え、生

活事実そのものの中に教育の本質を見出そうとする全体論的あるいは生態学

的な視点に立っていることである。子どもが自発的に活動している「実生活」

それ自体が重要なのであり、当然ながら、その中で子どもと他の様々な世代

の人々、身近な自然や事物等との間に繰り広げられる多元的で豊かな相互作

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倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 41

用にまで視野を広げて教育現象を理解することになる。

ドイツ教育学の圧倒的な影響の下に展開した 1920-30 年代の教育本質論に

おいて、倉橋の「家庭生活の教育性」理論は、子どもの生活経験を重視する

ジョン・デューイの教育理論と響き合う性格を有していたという点において

異彩を放っている(73)。その意味で倉橋は、敗戦を挟んだ時期に禅林修行と禅

僧たちの共同生活訓練の教育史的研究を通して教育本質論的探究を行い、戦

後の「生活指導論」の基礎を築いた宮坂哲文に近いところにある。

おわりに―現代への射程

倉橋が二年間の外遊時代に 初に籍を置いたのは、その当時、デューイが

プラグマティズムに基づく教育改革運動を指導・推進していたニューヨーク

のコロンビア大学だった。倉橋は、そこで『フレーベルの幼稚園原理批判』

(1916)を著したキルパトリックの教育哲学の講義や家庭研究で有名なグー

ドセルの講義「家庭及び家庭論」を聴講する合間に、デューイ流幼稚園の本

山コロンビア大学幼稚園(主管パティ・スミス・ヒル)、さらにはアメリカ各

地の幼稚園、児童遊園、児童図書館を見学している。当時のアメリカはデュ

ーイの生活経験主義的教育原理に基づいた新幼稚園が新興している時であり、

ロンドンのマクミラン「保育学校」の見学と共に、そうした新保育の実際を

自分の目で確かめることは、倉橋の在外研究の主なねらいでもあった(74)。

だが、本稿で明らかにしたように、倉橋による「家庭生活の教育性」理論

の基本的骨格は、幼児教育の実践と理論同様に欧米留学直前にほぼ出来上が

っていた。フレーベルの『人間教育』やデューイらの進歩主義教育運動に学

びながらも、幼少期の家庭での生活経験と、一高時代から女高師附属幼稚園

に通い続けて子どもたちと遊んだ直接体験とを思索の糧に、倉橋自らが学校

教育に典型的な狭い教育概念を批判的に検討することを通して切り開いた独

自な地平であると言った方がよいだろう。しかしながら、同じ危機の時代を

生き、近代の物質・機械文明が支配する 20 世紀に共有された教育課題に取り

組んだ結果として、倉橋の「家庭生活の教育性」理論の根底に流れる思想に

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42 駒澤大学 教育学研究論集 第 28 号 2012 年

は、デューイらの教育思想と共振するものがあることもまた事実である。

そもそも、第一次世界大戦後の深刻な世界状況を踏まえて倉橋が直視した

「現代人の人間的不安」の問題は、ハンナ・アレントが「世界疎外」と名付

け、シモーヌ・ヴェイユが「根こぎ」と呼んで正面から取り組んだ 20 世紀

大の病理に深く関連している。倉橋の重んじた「人間性」や「現実性」、「相

互性」について理解する上で示唆に富む E・H・エリクソンのアイデンティ

ティとライフサイクルの理論、ルドルフ・シュタイナーの人智学的な教育学

についても(75)、両者による、この病理への対峙に言及することなく語ること

はできない。しかも、多くの先人たちが格闘してきたにもかかわらず、この

病理は、新しい世紀を迎えた今日においてもなお「移民たち」「居場所の喪失」

「孤族」「無縁社会」等々といった様々な言葉で語られ続け、一層深刻な存在

状況となって私たちの日常生活世界を覆い尽くしている。さらには、倉橋が

直視したもう一つの自然破壊の問題もまた、今や地球規模に広がり、急ピッ

チで進む森林破壊や野生生物種の減少はもとより、化学物質や放射能による

環境汚染、地球温暖化、オゾン層破壊等々、人類の存亡に関わる事態にまで

発展して、現代の科学技術の創り出した人工的な外の世界が子どもの「内な

る自然」を深いところから蝕み続けている。

以上の地点に立って見る時、今から百年近くも前に、こうした問題への「人

間的解決」を求めて倉橋が辿り着いた「家庭生活の教育性」理論とは、素朴

で荒削りではあるが、単に「家庭教育の本質」論であるに止まらず、成長し

ゆく子どもの人生全体を視野に入れて、幼少期に育む必要のある、人間存在

にとって不可欠な基本的経験とは何かという人間形成論の視点から構成され

た「人間教育」への洞察であったということに気づく。そこには、実生活か

ら切り離されて「人間性」と「現実性」とを失い、抽象的・非実際的・非人

間的なものになってしまった学校教育の変革をも可能にするような、人類史

に開かれた教育認識を真摯に探究してやまない倉橋の姿がある。

果たして倉橋の望んだ「人間的解決」は、倉橋が期待した国家主導による

上からの家庭教育振興政策によって可能であったのか、負の作用を及ぼす方

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倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 43

向に働いてしまったのではないかという疑念を抱かざるを得ないが、だから

と言って「家庭生活の教育性」理論が今日においてもなお生命を保ち続けて

いる理論の確かさを否定することはできない。倉橋が学んだフレーベルやデ

ューイ等のみならず、先のエリクソンやシュタイナー、宮坂哲文の人間形成

と教育に対する深い洞察からも示唆を得ながら、倉橋の「家庭生活の教育性」

理論を批判的に継承し人間理解に基づく教育学にまで発展させていくことを、

今後の課題にしたいと思う。 注 (1) ①「家庭と家庭教育」『子供研究講座』第 1 巻・第 2 巻、先進社、1928 年(1931

年版では第 4 巻に収録、本稿の引用はこれに依った)、②「家庭教育総説」文部省

社会教育局編『現代家庭教育の要諦』宝文館、1931 年。③「家庭教育」『岩波講座 教育科学』第 10 冊、岩波書店、1932 年。その他に、次のものがある。④「わが子

の家庭教育」『千駄ヶ谷第二小学校』第 20 号、1929 年、⑤「家庭教育総説」『幼児

の教育』第 30 巻第 6 号、1930 年 6 月、⑥「子どもと家庭教育」『婦人公論大学育

児篇』中央公論社、1931 年 9 月、⑦「真の家庭教育とは何か」『公民教育』第 2巻第 8 号、1932 年 8 月、⑧「家庭教育の根本義」『児童研究』第 36 巻第 1 号・第

2 号、1932 年 12 月・1933 年 1 月。なお、昭和 10 年代に入ってからも、数多くの

家庭教育関係の論考が発表されているが、これらについては戦時下における倉橋

の昭和初期家庭教育学説の変質として改めて論ずべき問題なので、本稿では立ち

入らない。 (2) 「家庭教育」の新しさについては、小山静子「「家庭教育」の登場―公教育におけ

る「母」の発見」谷川稔他『規範としての文化―文化統合の近代史』平凡社、1990年、同『子どもたちの近代―学校教育と家庭教育』吉川弘文館、2002 年、山本敏

子「明治期における<家庭教育>意識の展開」『日本教育史研究』第 11 号、1992年 8 月、等を参照。

(3) 倉橋惣三の生涯および年譜については、森上史朗『子どもに生きた人・倉橋惣三

―その生涯・思想・保育・教育』フレーベル館、1993 年、に依拠する。 (4) 倉橋惣三「家庭教育の第一義」『児童』第 1 巻第 9 号、1917 年 12 月。 (5) 「幼稚園の併行的任務―家庭教育に対する貢献―」『倉橋惣三選集』第 2 巻、フレ

ーベル館、1965 年、373 頁(初出は、「幼稚園の副次的任務―家庭教育に対する貢

献―」『婦人と子ども』第 15 巻第 1 号、1915 年 1 月)。 (6) 前掲「家庭教育の第一義」。 (7) 同前。 (8) 森上史朗、前掲書、261 頁。

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44 駒澤大学 教育学研究論集 第 28 号 2012 年

(9) 小林恵子「両親再教育運動と上村哲弥」『国立音楽大学研究紀要』第 27 集、1992年 3 月。

(10) 「子供讃歌」『倉橋惣三選集』第 1 巻、フレーベル館、1965 年、226-229 頁。「子

供讃歌」は、倉橋の自伝的回想録である。 (11) 「月刊雑誌「いとし児」発行について 会員に告ぐ」『子供研究講座「伝報」い

とし児』第 8 号、1929 年 5 月、12-13 頁。 (12) ある著作が予想した「聴き手」(audience)を考慮することが教育学説史研究の重

要な視角の一つとなること等、本稿の方法論については、寺﨑昌男「日本近代教

育学説史研究の方法と意味」『教育学研究』第 48 巻第 2 号、1981 年 6 月、参照。 (13) 前掲「子供讃歌」、250-261 頁。 (14) 「本会の講習会に就て 家庭の教育の為にも」『婦人と子ども』第 14 巻第 7 号、1914

年 7 月。 (15) 城戸幡太郞『教育科学七十年』北海道大学刊行会、1978 年、46-52 頁。 (16) 前掲「家庭教育総説」、302-303 頁。 (17) 前掲「家庭教育」、3 頁、5 頁。以下、第1章第2節・第3節に限り、煩雑になる

ため、論説「家庭教育」(1932)の 3-14 頁からの引用については注を省略した。 (18) 前掲「家庭教育総説」、312 頁。 (19) 前掲「家庭と家庭教育」、119 頁。 (20) 前掲「家庭教育総説」、303-315 頁。 (21) 前掲「家庭と家庭教育」、119 頁。 (22) 同前、121 頁。 (23) 同前、123-124 頁。 (24) 倉橋による他の家庭教育関係の論考が何をもって「家庭生活の教育性」と考えて

いたかに関しては、志村聡子「倉橋惣三における「家庭教育の脱学校化」論―都

市部の「受験家族」への指導に着眼して」『保育学研究』第 39 号第 2 号、2001 年

12 月、参照。「理想性」を挙げていたのは 1928 年までのことであり、論考「家庭

教育」(1932)で考察されている「限定性」については、その前後において「我家

といふ感じ」、「家庭意識」、「恒常性」といった様々な言葉で表現されている。 (25) 前掲「家庭と家庭教育」、124-125 頁。 (26) 同前、126 頁。 (27) 同前。 (28) 同前、126-128 頁。 (29) 前掲「家庭教育総説」、317-318 頁。 (30) 同前、318-321 頁。 (31) 前掲「家庭と家庭教育」、130-131 頁。 (32) 前掲「家庭教育総説」、323-324 頁。 (33) 同前、325-326 頁。

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倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 45

(34) 同前、326 頁。 (35) 森上史朗、前掲書、325-326 頁。森上によれば、和トジ 43 頁で「会員及び特別希

望者に実費頒布」されたものだという(同前、382 頁)。未見だが、「(1)は家庭に

ついて、(2)は家庭教育について緻密に論述している」とのことで、紹介されてい

る話題から推測すると論考「家庭と家庭教育」(1928)に近いものだったと思われ

る。ただし、注(4)の 1917 年 12 月に発表された論考「家庭教育の第一義」の段階

では、まだ、「家庭教育」の「 も本来的な もナチュラルな意義」とは「親が自

分自身を子供に与へる」ことに他ならない、と述べているにすぎない。1919 年 7月の論考「親自身を与へて教育せよ」(『婦人週報』第 5 巻第 27 号)でようやく、

「あたりまへの家庭生活夫自身」「親子と云ふ自然的関係」に「教育的意義」があ

り、「教育的価値」があると明言するに至っている。 (36) 「教えない教育」『倉橋惣三選集』第 5 巻、フレーベル館、1996 年(初出は『聖

坂家庭教育会会報』第 1 号、1912 年)。 (37) 倉橋惣三の家庭教育論・保育論には、森上史朗が指摘するように、幼少時代の家

庭生活における「教育を教育として行なわなかった親の態度と親の共楽と信任の

幸福」も大いに与っている(森上史朗、前掲書、331-332 頁、19-23 頁、および、

前掲「子供讃歌」、230-231 頁、240-243 頁)。 (38) 前掲「幼稚園の併行的任務―家庭教育に対する貢献―」、374 頁。 (39) 「児童と自然」、前掲『倉橋惣三選集』第 5 巻、31 頁(初出は、『小学校』第 11

巻第 1 号、1911 年 4 月)。 (40) 「随行記」『聖書之研究』第 11 巻第 4 号、1908 年 4 月。 (41) 「幼児保育の新目標」、前掲『倉橋惣三選集』第 2 巻、326-327 頁(初出は、『京阪

神連合保育会雑誌』第 29 号、1912 年 7 月)。 (42) 前掲「児童と自然」、31-32 頁。 (43) 同前、34-35 頁。 (44) 前掲「幼児保育の新目標」、327 頁。 (45) 前掲「子供讃歌」、229 頁。 (46) 「現代人の人間的不安」『婦人公論』第 7 巻第 6 号、1924 年 6 月。 (47) 前掲「幼児保育の新目標」、322-326 頁。後に倉橋が、神戸の幼稚園長望月くにの

すすめで「東京では、遠慮してひかえていた彼の新保育論、ことに、フレーベリ

アン・オルソドキシーに対する批判的な論」を「勝手に自由に、やや無遠慮なくら

いに説いた」と述懐している記念碑的な講演の記録(京阪神三市連合保育会に於け

る講演大要)である(前掲「子供讃歌」、182 頁)。 (48) 前掲「現代人の人間的不安」。 (49) 前掲「教えない教育」、267 頁。 (50) 同前、286 頁。 (51) 同前、274-284 頁。

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46 駒澤大学 教育学研究論集 第 28 号 2012 年

(52) 倉橋が二元論を克服するに際しては、もう一つ、児童心理学者として出発した倉

橋が、自然科学的な方法論をモデルにした学問としての「科学的児童研究」を脱

却して、教育者に求められる、もっと教育実践と密接に関わり合う「具体的児童

研究」への理解を深めていった過程についても言及しなければならないが、この

点については別な機会に改めて論じたい。 (53) 「保育入門(二)」『婦人と子ども』第 14 巻第 2 号、1914 年 2 月。「保育入門(一)」

~「同(十三)」は、『婦人と子ども』第 14 巻第 1 号~第 3 号、第 5 号~第 10 号、

第 15 巻第 1 号・第 2 号・第 7 号・第 12 号、1914 年 1 月~1915 年 12 月、に連載。 (54) 注(4)に同じ。 (55) 「教師の生徒化」、前掲『倉橋惣三選集』第 5 巻、292 頁(初出は、『教育論叢』

第 1 巻第 6 号、1919 年 6 月)。 (56) 「教師に対する意識の仕方」『教育論叢』第 8 巻第 5 号、1922 年 11 月。 (57) 「人間教育」『小学校』第 25 巻第 6 号、1918 年 6 月。本文の引用は左記によるが、

その他に以下の論考がある。①「其人格に触れしむるに在り」『教育時論』第 1236号、1919 年 3 月、②「相互教育」『小学校』第 28 巻第 3 号、1919 年 11 月、③「社

会性の教育」『教育時論』第 1430 号、1925 年 3 月等。 (58) 「目的生活の教育」、前掲『倉橋惣三選集』第 5 巻、67-76 頁(初出は、『児童教育』

第 13 巻第 4 号、1919 年 2 月)。本文の引用は左記によるが、その他に以下の論考

がある。①「目的教育」『小学校』第 25 巻第 11 号、1918 年 8 月、②「教育の具体

主義的傾向(上)(下)」『小学校』第 33 巻第 7 号・第 8 号、1922 年 6 月・7 月(前

掲『倉橋惣三選集』第 5 巻、所収)、③「現実性の教養―教育の生活化の第一要諦

―」『教育研究』第 374 号、1931 年 7 月(同前)、等。 (59) 「生活か教育か 第二回全国幼稚園関係者大会に於ける講演大要」『幼児教育』第

19 巻第 12 号、1919 年 12 月。 (60) 「教育と生活」、前掲『倉橋惣三選集』第 5 巻、77 頁(初出は、『自動主義』1919

年 12 月、原本未詳)。 (61) 同前、78-79 頁。 (62) 前掲「生活か教育か 第二回全国幼稚園関係者大会に於ける講演大要」。 (63) 前掲「教育と生活」、81-83 頁。 (64) 吉田熊次『教育及び教育学の本質』目黒書店、1931 年、「序」。 (65) 「編輯局より(一)」『教育学術界』第 49 巻第 3 号、1924 年 6 月。 (66) 『教育学術界』第 49 巻第 5 号、1924 年 8 月。 (67) 前掲「編輯局より(一)」。 (68) 『哲学研究』第 8 巻第 10 冊、1923 年 10 月。 (69) 「講義題目」『哲学研究』第 9 巻第 5 冊、1924 年 5 月。なお、吉田熊次が「教育

の本質という特殊講義」を行ったのは、「昭和三年頃から数年にわたって」であっ

た(海後宗臣「吉田熊次先生の思い出」『教育哲学研究』第 11 号、1966 年 10 月)。

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倉橋惣三の「家庭生活の教育性」理論 47

(70) 1930 年代の教育本質論とその後の動向について詳しくは、以下参照。木村元「一

九三〇年代の教育学の場と課題」および山本敏子「日本諸学振興委員会教育学会

と教育学の再編」駒込武・川村肇・奈須恵子編『戦時下学問の統制と動員―日本

諸学振興委員会の研究』東京大学出版会、2011 年、253-291 頁、303-374 頁。 (71) 北村三子「禅と教育学―宮坂哲文の場合―」『駒澤大学教育学研究論集』第 27 号、

2011 年 3 月。 (72) 前掲「教師に対する意識の仕方」。 (73) 1930 年代の教育本質論と比較すると、倉橋のそれは、学校教育の実践を基礎づけ

てきた従来の狭い教育概念を批判し、「教えない教育」にまで視野を広げて教育概

念を拡大させたという点において、吉田熊次の系譜に連なる東京帝大系教育学者

の教育本質論に近い。しかし、1930 年代の教育学界において主流となるクリーク

の影響を受けた彼等の教育本質論とは異なって、倉橋は、小西重直ら京都帝大系

教育学者同様に、教育主体-教育客体の二項対立図式の克服を試みた。人間を行

為する主体として捉え、教育現象に固有な人間と人間との関係性に着眼するのだ

が、京都帝大系教育学者とも立場を異にして、東洋や日本に昔からある思想や理

念に接合することで従来の教育概念の再解釈を図るという方向を選択せずに、あ

くまでも子どもの人間形成がなされる現実の「生活」それ自体の内に教育の本質

を求めたと言うことができる(駒込武他編、前掲書、330-335 頁、参照)。なお、

倉橋がデューイをどのように受け止めていたかについては、田中亨胤「倉橋惣三

におけるデューイ思想の受容―幼児教育カリキュラムの視点を求めて」『日本デュ

ーイ学会紀要』第 30 号、1989 年 6 月、参照。 (74) 森上史朗、前掲書、53-56 頁、333 頁。前掲「子供讃歌」、198-212 頁。 (75) 倉橋とシュタイナーとの思想上の類似性については、今井重孝「ルドルフ・シュ

タイナーと倉橋惣三―両者の幼児教育思想の類似性と類似性を生み出した原因に

ついて」『東京工芸大学工学部紀要(人文・社会編)』第 18 巻第 2 号、1996 年 1月、参照。