hermes-ir - アメリカ国務省におけるジェンダー・ポリティ...

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アメリカ国務 ーコミュニティ ( 53 ) 7)C l) fa~l~~~~:~C:~;~~~ ~;- ~~'- ' T}~ l) ~ i i はじめに 一九九六年、アメリカ合衆国は、アメリカ史上初 性国務長官を誕生させるという歴史的な出来事を経験 た。しかし、それは決して偶発的な事件ではなく、数多 くの女性外交官たちによる、長く険しい遣のりの上に築 かれた成果であった。社会学者ジャネット・リチャーズ (富冨↓甲雲争彗島)が、「男性が絶対的に優位である (1〕 職務において、女性は完全に疎外されている」と指摘し ているように、国務省は、歴史的に、女性雇用に関して、 きわめて消極的な婆勢を示してきた。 アメリカ合衆国における女性と外交の歴史を遡るとき、 外交機関に足を踏み入れることが許されなかった女性が、 女性参政権獲得を経てフォーリン・サーヴ 職業外交官となった後、やがて大使や上級官僚 策決定にたずさわることとなり、ついに国務長官の に到達した意義は大きい。けれども、女性外交官の実績 を単に列挙することによづて、「女性もアメリカ外交に 貢献した」とする、表層的な評価を下すことは、きわめ て危険である。女性外交官の軌跡を追う作業は、「女性 外交官の歩みを国務省の歴史に書き加える」という、単 なる”落ち穂拾い〃にとどまるべきではない。なぜなら、 国務省においてアメリカ外交を支えてきた外交官たちを、 ジェンダーという視点を用いて考察する目的とは、国務 省の男性優位性を糾弾することではないからである。 ジェンダー的観点の重要性は、国務省という集団が、

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  • アメリカ国務省におけるジェンダー・ポリティクス

       ーコミュニティ形成と発展の歴史

    ( 53 ) 7)C l) fa~l~~~~:~C:~;~~~ ~;- ~~'- ' T}~ l) ~ i i7 ;~

    はじめに

     一九九六年、アメリカ合衆国は、アメリカ史上初の女

    性国務長官を誕生させるという歴史的な出来事を経験し

    た。しかし、それは決して偶発的な事件ではなく、数多

    くの女性外交官たちによる、長く険しい遣のりの上に築

    かれた成果であった。社会学者ジャネット・リチャーズ

    (富冨↓甲雲争彗島)が、「男性が絶対的に優位である

                      (1〕

    職務において、女性は完全に疎外されている」と指摘し

    ているように、国務省は、歴史的に、女性雇用に関して、

    きわめて消極的な婆勢を示してきた。

     アメリカ合衆国における女性と外交の歴史を遡るとき、

    外交機関に足を踏み入れることが許されなかった女性が、

    前 田

    眞 理 子

    女性参政権獲得を経てフォーリン・サーヴィスにおける

    職業外交官となった後、やがて大使や上級官僚として政

    策決定にたずさわることとなり、ついに国務長官の地位

    に到達した意義は大きい。けれども、女性外交官の実績

    を単に列挙することによづて、「女性もアメリカ外交に

    貢献した」とする、表層的な評価を下すことは、きわめ

    て危険である。女性外交官の軌跡を追う作業は、「女性

    外交官の歩みを国務省の歴史に書き加える」という、単

    なる”落ち穂拾い〃にとどまるべきではない。なぜなら、

    国務省においてアメリカ外交を支えてきた外交官たちを、

    ジェンダーという視点を用いて考察する目的とは、国務

    省の男性優位性を糾弾することではないからである。

     ジェンダー的観点の重要性は、国務省という集団が、

  • 橋論叢 第121巻 第1号 平成11年(1999年)1月号 (54)

    単なる性差別の温床ではなく、女性と男性が相互的に影

    響しあってきたという認識を引き出すという点にある。

    言い換えるならば、男性が政策決定を支える上級官僚職

    を独占してきたという事実、そしてそのような状況の下

    で、女性が差別され、排斥されてきたという認識は、ジ

    ェンダー的視点においては、議論の展開における前提条

    件に過ぎないのである。むしろ、着目すべきは、そのよ

    うな状況の中で、女性と男性のパワー・ダイナ、・、クスが

    どのように変容してきたかという点である。

     このような観点から、本小論では、女性外交官が歩ん

    できた軌跡を通して、彼女たちが形成してきたコ、ミュニ

    ティに着目したい。こうした=ミュニティの存在は、女

    性外交官と男性外交官の関係を映し出す鏡であると同時

    に、国務省の性差別を脱本質化する一つの手段であると

    言えよう。なぜならそれは、女性外交官たちの手によっ

    て作り上げられたと同時に、男性外交官たちからの多層

    的な影響を受けてきたと言えるからである。

    1 国務省における性差別の背景

    従来、外交から女性を排除してきた背景には、

    二つの

    大きな要因が考えられる。これらの要因は、外交とジェ

    ンダーを論じるとき、きわめて重大主言えよう。なぜな

    ら、そうした要因こそが、国務省における性差別を支え

    てきたからである。第一の要因は、”女性は政治には不

    向きである〃というヨーロッパから引き継がれた概念で

    ある。「闘う戦士」である男性と「葵しき魂」である女

    性の対置は明確であり、男性が政治や外交におけるリー

    ダーシップを執る決断カと統率力を持っているのに対し、

    女性はあくまでも平和を愛し、非攻撃的であり、戦時に

                (2)

    は決断力に欠けるとされていた。この固定観念は、アメ

    リカ合衆国においても広く受け入れられるところとなっ

    た。第二の要因とは、建国以来、女性に参政権が与えら

    れていなかったという事実である。外交にたずさわるた

    めには、当然、一国を代表する”市民〃でなければなら

    ないが、参政権を持たない彼女たちは、”二流市民”に

    過ぎなかった。女性が国務省において初めて事務官とな

    ったのは、男性に遅れること一世紀近い一八七四年のこ

    とであり、職業外交官に至うては一世紀以上遅れた一九

    二二年のことであった。こうして女性外交官は、否定的

    な先入観と実質的な経験不足に直面し、外交官として男

    α

  • (55) アメリカ国務省におけるジェンダー・ポリティクス

    性に大きく後れをとることになったのである。

     国務省における性差別は、こうした意識と事実に支え

    られたものであり、その本質とは、女性外交官たちが、

    いわぱ二重のキャリアを強いられてきたという現実に集

    約される。すなわち、女性外交官は、与えられた任務を

    全うするだけでなく、その任務を遂行するために、性別

    に基づいた差別を乗り越えなければならなかったのであ、

    る。このキャリアの二重性こそが、女性外交官たちにコ

    ミュニティ形成を促した最大のきっかけであったと言え

    よう。

     他方、男性外交官たちが独自のコミニニアィを持って

    おり、そこに女性外交官が入り込むことができなかった

    という事実も、重要な意味を合んでいた。国務省では、

    ”古き良きボーイズ・ネットワーク(OqoaO巨σO壱、

    冨暮o芙)”と呼ぱれる男性外交官の団結が伝統となっ

    ており、外交に関する知識から出世に必要な情報までが、

    年齢や地位が上の男性から下の男性へと伝達される仕組

    みが出来上がっていた。その申に、女性が入り込んでい

    くことは、言うま.でもなく不可能に近-かった。男性外交

    官の中には、個人的に女性外交官に対して知識や情報の

    伝授をおこなった者もいたが、大多数は、”古き良きボ

    ーイズ・ネットワーク”に女性を加えることに対して、

    否定的だったのである。

     このような困難にもかかわらず、長い年月を経て、女

    性外交官は、徐々にいわば”新しき良きガールズ・ネッ

    トワーク(oqoa冨ミσq三ω.コg峯o募)”を構築してい

    った。「良い指導者の存在は、キャリアを組み立ててい

              〔3〕

    く上できわめて重要である」という伝統を持つ国務省に

    おいて、この新しいネットワークは女性外交官の歩みを

    促す結果となった。女性が国務省に初めて入省を許され

    た時点においては、なお女性独自のコミュニティを形成

    するには人数も人材も不足しており、女性同士のつなが

    りは、個人レベルに限られていたが、一世紀という時の

    流れの中で、国務省における女性の数は徐々に増加し、

    彼女たちが占める地位も上昇していった。さらに一九七

    〇年代には、国務省内に公的な女性団体が誕生し、他省

    庁に生まれつつあった様々な女性団体とも、連帯を広げ

    ていった。こうして、”新しき良きガールズ・ネットワ

    ーク”は、個人レベルから団体レベルヘ、私的なつなが

    りから公的なつながりへと拡大していったのである。

  • 一橋論叢 第121巻 第1号 平成11年(1999年)1月号 (56)

       皿 国務省における女性事務官の誕生と

         〃新しき良きガールズ・ネットワーク”

     アメリカ合衆国建国の際に、女性に参政権が与えられ

    なかったことは、多くの女性たちを想像以上に困難な状

    況に追い込む結果になった。特に、外交関係に興味を抱

    いた女性たちの場合には、致命的であった。なぜなら、

    外交にたずさわるためには、当然一国を代表する”市

    民〃でなけれぱならないが、選挙権を持たない彼女たち

    は、法的には”市民”の資格が与えられてパなかったか

    らである。しかし、この制約にもかかわらず、限られた

    政治的手段を駆使して、外交面で活躍をしたいと考える

    女性の数は相当数にのぽった。

     こうした女性たちは、一九世紀後半に女性の国務省入

    省が認められるまで、外交機関の”インサイダー”とし

    て活動することを許されなかった。歴史学者ガータ.ラ

    ーナー(Ω彗訂ピ①;9)が、「女性の政治への参加手段

    と活動内容は、男性のそれとは全く異なった次元で行わ

      (4〕

    れていた」と指摘しているように、本来なら外交官を志

    したであろう女性たちの多くは、間接的な手段によって

    外交政策に影響を与える、いわゆる”アウトサイダー”

    としての活動を模索せざるを得なかった。彼女たちは、

    たとえぱ、大統領や連邦政府への文書攻勢、雑誌や新聞

    における執筆活動、あるいは精力的な署名運動など、一

         (5)

    連の「前政治的」な活動を通して世論に訴えかけた。む

    ろん、〃アウトサイダー”の声は、国務省に屈かぬこと

    が多かったことは言うまでもない。しかしながら、”ア

    ウトサイダノたちの存在は、国務省における女性外交

    官コミュニティの担い手を生み出すきっかけになった。

    すなわち、政治に接点を持つ中流階級以上の白人女性が、

    ”新しき良きガールズ・ネットワー1を担うことにな

    ったのである。

     より具体的に言うならば、これらの”アウトサイダ

    ー”たちの代表として、ジョン・アダムス大統領夫人の

    アビゲイル・アダムス(>宴oq邑>ま冒ω)や、奴隷制

    反対の論客リディア・マリア・チャイルド(■旨試

    ζ胃壷O巨δ)などが挙げられる。注目すべき点は、彼

    女たちが、幾つかの有利な条件を共有していたことであ

    る。その第一の条件は、彼女たちの背景であった。外交

    政策に関与を求めたのは、総じて中流階級以上の白人で

  • (57) アメリカ国務省におけるジェンダー.ポリティクス

    あり、行き屈いた教育を享受してきた女性たちであった。

    第二の条件は、政府関係者あるいは有カ者との血縁関係

    や交友関係を有していたことであった。女性が外交に接

    近するためには、女性と政府の橋渡し役である男性の存

    在が必要であり、彼女たちは、父親や夫、友人、教え子

    などの権力や名声を巧みに利用して、目的を果たそうと

    した。そして第三の条件は、経済力あるいは社会的影響

    力を有していたことであった。多額の資金を動かす実権

    もしくは社会的な影響力を持つことができた女性は、た

    とえ〃女性らしくない”という批判を受けたとしても、

    それを突破するだけの実カと支持を確保していた。

     こうした特徴は、一八七四年、事務官として、初めて

    国務省シヴィル・サーヴィスヘの入省を許された女性た

    ちにも受け継がれた。まず、彼女たちは、〃アウトサイ

    ダー”同様、全員中流白人であった。そして彼女たちは、

    政府に対して何らかのコネクションを持っており、大統

    領や国務長官などの推薦を受けていたり、議員の子女も

    合まれていた。これらの女性事務官たちは、”アウトサ

    イダノに徹した女性たちのような経済的な特権あるい

    は知名度を持たなかったものの、彼女たち同様に、政治

    が身近な環境の中にいた。他省庁に入省した女性事務官・

    の多くが、収入の問題を主たる勤務理由として挙げてい

    るのとはきわめて対照的である。こうして入省した女性

    たちは、”新しき良きガールズ・ネットワーク”を形成

    するには至らな-かったが、その基盤を築いたという意味

    で、きわめて重要と言えよう。

     五人の最初の女性事務官は、国務省初の女性”インサ

    イダー”となウただけでなく、国務省における女性の位

    置付けを決定したという意味において、きわめて重要で

    ある。すなわち、彼女たちは、その優れた事務能カある

    いは外国語の知識を評価されただけでなく、同時に「魅

    力的である(島胃ヨま①q)」という点も重視された。さ

    らに、彼女たちは常に「婦人(5身)」という名称で呼

        (6)

    ぱれていた。そこには、「婦人」という言葉が一般的で

    あった時代的な背景があるとしても、彼女たちが本質的

    に〃部外者”であることを意味していた。すなわち、こ

    うした表現は、彼女たちが、下積み時代を乗り越えて出

    世していく国務省の一員であるよりも、国務省に真の意

    味では属さず、むしろ装飾的であり、いずれは辞めてい

    く外部の人間に過ぎなかったという、国務省側の態度の

    57

  • 一橋論叢 第121巻 第1号 平成11年(1999年)1月号 (58)

    現れであった。

     このような認識は、国務省に深く根を張っており、後

    世の女性外交官にとっても、重要な問題であり統けた。

    実際、五人の女性うち最後まで国務省に残ったメアリ

    ー・マーコー(…弩}ζ胃ぎ①)の経歴は、後につづく

    国務省勤務の女性の苦悩を予感させるものであった。彼

    女は、一八七七年に一等事務官(g①鼻o};①~g

    ○冒ωω)への昇格の後、三〇年後に退職するまで、この

    地位以上に昇進することはできなかった。一方、マーコ

    ーと同期に就職した男性事務官のうち、一八八三年まで

    国務省に残うた四人は、すべて役職についており、マー

                        (7)

    コーと同級に留まった男性は一人に過ぎなかった。むろ

    ん、マiコーが事務手腕に欠けていた可能性はある。し

    かし、五人の女性のうち最後まで残った彼女が、五人の

    男性事務官との比較の上で、最も低い地位に廿んじなけ

    ればならないほど、能カに欠けていたとは考え難い。女

    性が昇級するためには、男性以上に知識を蓄積し、実功

    を発揮しなければならなかった。それでも、様々な制約

    に阻まれて、同時期に入省した男性同僚と互角に昇進を

    受けることは不可能であった。一世紀後、アリソン・パ

    ーマー(≧戻昌霊一ヨ①『)によって法廷で糾弾される

    ことになる国務省における女性差別の歴史は、国務省勤

    務の女性事務官第一号の誕生とともに、始まったと言え

    る。 

    一方一最も排他的とされていたフ才ーリン・サーヴィ

    スは、外交とは従来男性のたずさわるべき仕事という従

    来の主張を繰り返し、女性雇用を極カ避けてきたのであ

    (8)

    った。一九世紀中頃、外交官の家族でその通訳や秘書と

    なった女性、および夫の死後新しい担当がやって来るま

    で責務を担った外交官夫人が数人いたとされるが、 一九

    世紀を通して外交官としてアメリカの対外政策に専門的

                 (9〕

    に関わった女性は、皆無であった。フォーリン・サーヴ

    ィスにおける女性事務官に関しては、シヴィル・サーヴ

    ィスが女性事務官を採用しはじめたため、一八八O年代

    に入るとフォーリン・サーヴィスもそれに倣う決定を下

    した。しかし、フォーリン・サーヴィスにおける女性事

    務官の採用は、シヴィル・サーヴィスにおける状況とは

                   (10)

    異なり、あくまで臨時的措置であった。

     政府機関における女性の公式雇用は、社会的に大きな

    波紋を投げかけ、新聞や雑誌が、こぞってこの新しい現

    58

  • (59) アメリカ国務省におけるジェンダー・ポリティクス

         〔H)

    象を取り上げた。その多くは否定的な見解を示したが、

    にもかかわらず、国務省勤務の女性の数は徐々に増加し

    ていった。初めての女性省員が誕生してから四半世紀後、

    合衆国内の東海岸沿岸を中心としたさまざまな地域から

    優秀な経歴を持った女性たちが、国務省に集まって来る

        (12)

    よ・つになった。

    シヴィル・サーヴィスの女性たちと

    〃新しき良きガールズ・ネットワーク”

     アカデミアにおいても経済界においても、性差別の厚

    い壁に阻まれ、才能の発揮を妨げられてきた女性たちに

    対して、国務省勤務は新しい可能性を開いた。また国務

    省が、法偉家や経済学者など専門的な知識を持りた女性

    のために特別に専門職枠を作ったことも、国務省におけ

                     (旧)

    る女性知識人の増加につながったと言える。こうして一

    九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて、最初の女性外交

    官とも呼ぶぺき女性が登場する。中でもマーガレット・

    ハナ(竃胃oq胃g≦=彗畠)は、一八九五年に目録蔵

    書局(巾昌⑦彗o=邑婁窃彗α>8巨く窃)の極秘事務

    にたずさわるようになり、その後二〇年以上にわたり、

    第二国務次官補アルヴィー・アディー(≧く2>.

    >忌①)の第一秘書官として勤務した。さらに彼女は、

    一九一八年に文書局(;①OO胃①名oa98巾…①署)

                           (M)

    局長となり、国務省における最初の女性管理職となった。

     〃歩く国務省”と呼ばれたアディiが、ハナの指導に

    当たったことは、”新しき良きガールズ・ネットワーク”

    の形成に関して、きわめて重要な結果を生み出した。

    ”新しき良きガールズ・ネットワーク”の誕生である。

    ハナは、アディーから学びとった知識を、後進の女性た

    ちに伝授した。後に旅券課(;①~ω名o二冒く邑昌)

    課長となったルース・シップリー(刃⊆亭軍ω巨旦2)

    は、ハナの秘書官として勤務した経験を持っている。ア

    ディーとハナ、ハナとシップリーのつながりは、その後

    も国務省において管理職およぴ専門職に就いた女性に見

    られるパターンを形成した。すなわち、それは、”古き

    良きボーイズ・ネットーワーク”から盗み出した情報を

    利用しながら、〃新しき良きガールズ・ネットワーク〃

    を編み出す、という構図であった。

     その一方で、〃新しき良きガールズ・ネットワーク”

    の形成は、危険をはらんでいた。当時の国務省において、

    ω

  • 一橋論叢 第121巻 第1号 平成11年(1999年)1月号 (60)

    〃インサイダー”となることは、女性が男性の価値観や

    目的意識を共有することを意味していた。女性が”アウ

    トサイダー”に過ぎない時代においては、女性の特性を

    強調することが戦術的に有利な場合もあったが、女性が

    ”イ。ンサイダー〃となって男性と対等に勤務していくに

    は、男女の差違を説くことは、女性を〃アウトサイダ

    ー〃に引き戻しかねない危険性をはらんでいたのである。

    そのため、〃新しき良きガールズ・ネットワーク”とい

    う、女性のみのコミュニティを作り出す試みには、女

    性の特殊性を印象付けるという危険性が常に内在してい

    た。 

    最初に女性が事務官として採用されてから五〇年の問

    に、国務省における女性のキャリアの特徴は定着したと

    言える。国務省における女性雇用は、限られた部署のな

    かで、主として非専門的なレベルに隈られて行われてい

    た。国務省に勤務する女性のうち、大多数は政策決定と

    は関係のない一般事務にたずさわる者であった。国務省

    に勤務する女性の大多数は一般事務官が占めており、専

    門知識を要する立場にあった女性は、一握りにも満たな

    かった。また、専門職や管理職女性も、男性同僚との比

    較において、低額の給料と不本意な等級に廿んじなけれ

    ぱならなかった。フォーリン・サーヴィスにおいては、

    女性は事務官に限られ、それも必要に応じて臨時的に雇

    用されるのみにとどまった。

     先に述べた”新しき良きガールズ・ネットワーク。は、

    ”古き良きボーイズ・ネットワーク”とは異なった側面

    を持っていた。それは、女性外交官に課せられたキャリ

    アの二重性に直結していた。つまり、〃古き良きボーイ

    ズ・ネットワーク”が、知識や情報の伝授に重点を置い

    たのに対して、〃新しき良きガールズ・ネットワーク”

    は、ノウハウの伝達にとどまらず、性差別に立ち向・かう

    ための実際的な戦術と精神的な癒しを与えたのであった。

    また、”新しき良きガールズ・ネットワーク”は、女性

    外交官同士の個人的なレペルにとどまっていたとはいえ、

    昇進を狙う女性のほぼ全員が加わうていた。これは、

    〃古き良きボーイズ・ネットワーク”が、部署や専門に

    よって細分化されており、ネットワークに加わらなかっ

    た男性もいた状況とは対照的であった。言い換えるなら

    ば、”新しき良きガールズ・ネットワーク”は、より総

    合的なサポート・システムとなったのである。

    ω

  • (61) アメリカ国務省におけるジェンダー・ポリティクス

     このように、”新しき良きガールズ・ネットワーク”

    は、女性たちに精神的な癒しを与えはしたものの、国務

    省や連邦政府に女性の権利を訴えかける公的な影響カは

    有していなかづた。一九三〇年代の大恐慌による経済不

    況が押し寄せると、シヴィル・サーヴィスにおける女性

               (15)

    の立場は再び暗転していった。彼女たちの多くは、世界

    大恐慌により国務省が打撃を受けた際に、退職に追い込

    まれた。なかでも、専門知識を持たない女性事務官たち

    は、真っ先に職を追われたのであった。特に一九三二年

    の経済法(向8昌昌<>g)は、国務省に勤務する女性

    の多くに大きな影響をもたらした。これは人員削減の場

    合、既婚者のうちすでに夫あるいは妻が政府機関に勤務

    している者から退職させるという内容のものである。退

    職宣告を受けた際には、夫妻のうちいずれが退職しても

    よいことが決められていたが、退職を決意した女性の数

    は、はるかに男性のそれを上回づた。こうした状況は、

    第二次世界大戦の勃発後、国務省が人員不足に直面する

    まで、改善されることはなかった。

    w

    フォーリン・サーヴィスの女性たちと

    〃新しき良きガールズ・ネットワーク”

     ところで、国務省フォーリン・サーヴィスの任務のな

    かでも、最も狭き門であり、また最も華やかなポストと

    しては、職業外交官が挙げられる。職業外交官になるに

    は、さまざまな応募資格を充たしたうえ、難解な筆記試

    験と口述試験に合格しなければならない。実のところ、

    この「さまざまな資格」の筆頭は、「男性であること」

      (”)

    であった。そのため、一九世紀から二〇世紀初頭にかけ

    て、多くの女性が受験資格さえ与えられずに門前払いさ

    れてきた。ところが、憲法修正項第一九条により、性別

    を根拠に女性の受験を拒否することができなくなった。

    かくして、一九二二年には、行政命令一九〇九号に基づ

    いて施行された外交官試験に合格したルシール・アッチ

    ャーソン(「⊆9①きo幕易O=)が、また一九二五年に

    は、ロジャーズ法施行後のフ才ーリン・サーヴィス試験

    に合格したパティー・フィールド(霊三①ヨ①5)が、

                   (π〕

    女性初の職業外交官となったのである。

     女性職業外交官の存在は、フォーリン・サーヴィスに

    α

  • 一橋論叢第121巻第1号平成11年(1999年)1月号(62)

    おいて、頭痛の種となった。フォーリン・サーヴィス人

    事委員会の一員であったウィルバー・力-(ミ亭巨二、

    ○彗H)領事機関長は、女性がフォーリン・サーヴィス

    にふさわしくないという主張の根拠として、気温・天候

    など自然環境による困難、女性蔑視など社会的な拘束、

    厳しい労働による体カの限界などを挙げているが、これ

    は、フ才ーリン・サーヴィスの中で前進しようとする女

                  (18)

    性に対して繰り返される論理である。カーに比べ、第三

    国務次官補バトラーニフイト(』.}旦一雪ミユOq巨)の意

    見はより率直であった。彼は「女性が負担の少ない任地

    に就くことによって、男性が好ましくない任務に遣い込

                  (㎜)

    まれる」という憂えを隠さなかった。実際、大使や公使

    の中には、こうした意見に同調し、女性の赴任を拒否す

    る者も多かった。その中で、国務次官であったジョーゼ

    フ・グルー(-oω⑫昌ρ9①峯)は、女性の採用を容認

             〔20)

    していた少数派であった。彼は、後に女性初の職業大使

    となるフランシス・ウィリス(~竃O后申峯巨邑の指

    導に当たり、次のように書き残している。「もし女性受

    験者のなかに困難な課題と取り組んでいくことのできる

    性格と強さの持ち主があれば、彼女たちを受け入れてそ

                ^別〕

    の才能を試してみるべきであるL

     渦巻く偏見のなかで、女性が外交官として勤め続ける

    のは困難なことであった。先に紹介したアッチャーソン

    は、ベルン公使館で二年あまり働いたが、結婚を理由に

      (22)

    退職した。また、フィールドは、アムステルダム総領事

    館に副領事として三年半ほど勤務した後、転職を理由に

                 (鴉〕

    外交官としてのキャリアを終えた。彼女たちの上司は、

    辞職の理由として、海外における生活の困難やホームシ

    ックなどを挙げたが、最大の原因である,フォーリン.サ

                          〔別)

    ーヴィスの体質については一切触れようとしなかった。

     こうしたフォーリン・サーヴィスの婆勢にもかかわら

    ず、一九二六年から四一年までの一五年問に、二六〇人

    以上の女性がフォiリン・サーヴィス試験を受験した。

    実際に職業外交官となることができたのは、わずか四名

    にとどまったが、しかし職業外交官という選択肢が、も

    はや女性に閉ざされたものでないことが、明らかにな

    (珊)

    った。また、一九二九年以降、他省庁からの移動や専門

    枠の設置などの人事改革によって、職業外交官や、中級

    官僚および上級官僚となる遣が開かれることになった。

  • (63) アメリカ国務省におけるジェンダー‘ポリティクス

    V

    女性外交官の増加と”新しき良きガールズ

    ネットワーク”の発展

     女性がめざましい社会進出を遂げた第二次世界大戦の

    後、女性は国務省においても要職を務めるようになった。

    それはまず、政治的任命という形で現れた。戦後まもな

    く、国連へのアメリカ代表団に加わった”世界のファー

    スト・レディー〃エレノァ・ローズヴェルト(>.ヨ①甲

                           (蝸)

    目o『宛oo窒く①5は、人権問題の理解に大きく貢献した。

    一九四九年には、ノルウェイ大使パiル・メスタ

    (勺窒ユ竃鶉訂)とデンマーク大使ユージー二1・アン

    ダーソン(向仁σq雪汗≦>ま①易昌)の二人の女性が、

    アメリカ合衆国を代表する大使として赴任した。とは言

    え、ローズヴェルトは例外として、一般に国務省に勤務

    する女性外交官の問には、政治的任命を受けた女性に対

                     〔27〕

    して、複雑な感情があったことは否めない。また、政治

    的任命を受けた女性は、その知名度を用いて、女性を外

    交に引き寄せる役割を果たしはしたが、他方で女性を外

    交の門外漢として位置付けた。その典型は、イタリア大

    使を務めたクレア・ルース(〇一彗Φ更ピ9①)である。

    彼女は、タイムHライフ社の社長夫人であり、連邦議員

    を務めた経験を持っていたが、実際の外交政策に関して

    は、疎い面が目立ち、政策決定の大半を国務省官僚に頼

    ることが多かった。

     女性外交官たちにとって、これらの政治的任命を受け

    た女性たち以上に、大きな意味を持ったのは、初の女性

    職業大使となったフランシス・ウィリスであった。彼女

    は、学究生活を経て、一九二七年にフォーリン・サーヴ

    ィスに入った後、一九五三年にスイス大使に就任し、続

                       (蝸)

    いてノルウェイ、セイロンヘの大使を歴任した。ウィリ

    スに続いて、女性外交官の昇進が相次いだ。コンスタン

    ス.ハーヴィー(Oo冨冨;①宛.=彗く婁)は、一九六

    二年にストラスブール総領事に就任し、女性として最初

            (”)

    の職業総領事となった。また、ロザンヌ・リッジウェイ

    (カoN彗篶「。カ巳⑰qミξ)は、フィンランド大使を経た

    後、一九八五年、女性として初めて国務次官に就任して

    (30)

    いる。その背後には、性差別の実態の隠蔽対策という政

    治的な側面があったことは事実としても、同時に女性外

    交官の実カが、男性外交官によって認められ始めたとい

    うことも確■かである。

  • 一橋論叢 第121巻 第1号 平成11年(1999年)1月号 (64)

     一九七〇年代の女性解放運動は、国務省にも多大な影

    響をもたらし、〃新しき良きガールズ・ネットワー1

    は大きく前進を遂げた。フランシス・ウィリスのような

    「判断の基準と意志決定の方法を教え、大きな枠組みの

    なかで物事を捉えるように導き、味方になり、模範を示

               (別〕

    し、意欲を与え、庇護する」女性外交官の出現と、国務

    省において徐々に増加してきた若い女性たちの台頭が、

    ”新しき良きガールズ・ネットワーク”の躍進を促した

    のである。一九六四年にノルウェイ大使となった女性外

    交官マーガレット・ティベッツ(竃胃oq胃g-.

    -gg邑にとって、ウィリスは仰ぐべき先輩であっ

    た。そのティベッツは、後にリッジウェイに対して、外

    交官としての知識を伝授した貴重な存在であった。この

    ように、女性外交官たちが”古き良きボーイズ・ネット

    ワーク”に対抗する手段である”新しき良きガールズ.

    ネットワーク”は、女性外交官の躍進に大きな役割を果

    たすこととなづたのである。

     さらにこの時期、〃新しき良きガールズ・ネットワー

    ク”は“国務省全体、さらに連邦政府全体に広がり、組

    織化されることになったのである。国務省内に性差別撤

    廃を唱えるWAO(ミo昌昌.ω>oご昌O『oq彗一墨ユ昌、

    女性活動機構)が結成され、連邦政府にFWP(箒■

    ま邑考oヨ引.ω甲o①q正昌、連邦政府女性連盟)が組織

    されたのであうた。国務省側も、省全体における女性雇

    用の実態調査に乗り出したり、各サーヴィスにおける女

    性雇用改善諮問委員会を組織するなど、女性雇用の問題

    に取り組むようになった。”新しき良きガールズ.ネッ

    トワーク〃は、もはや国務省にとって無視できない存在

    となったのである。さらに一九七二年、国務省の女性差

    別に業老煮やした女性職業外交官、アリソン.バーマー

    が、国務長官を相手取って起こした訴訟は、〃新しき良

    きガールズ・ネットワーク”に社会的な知名度と政治的

    な影響力をもたらした。この裁判には多くの女性外交官

    や女性事務官が証人として関わっており、国務省勤務の

    女性に関する統計も明らかにされたこともあって、この

    訴訟は国務省における女性差別に光を当てる結果をもた

    らした。”バーマー対国務省裁判(ぎぎミ毫b魯ミ、-

    §§hミω§㊦L彗M)”はバーマーの勝訴に終わり、彼

    女は昇級や損害賠償を獲得した。そして一九七六年、パ

    ーマーは再ぴ、他の女性外交官やWAOやFWPなどと

  • (65) アメリカ国務省におけるジェンダー・ポリティクス

    ともに、国務省を相手取うて団体訴訟”パーマー対国務

    省裁判(き§ミsミ葦ωぎ員冨ぎ)”を起こしたの

      (脱)

    であった。二二年問にも及ぶ闘いの末、パーマーたちは

    勝訴を勝ち取り、六〇〇人を超える女性外交官たちが、

                    (33)

    昇進および昇級を受ける結果となった。こうして、”新

    しき良きガールズ・ネットワーク”は、国務省内の個人

    的な関係から、国務省および連邦政府に対して政治的影

    響カを持つ団体へと成長を遂げたのである。

    w 終わりに

     このように、〃新しき良きガールズ・ネヅトワーク。

    は、徐々に国務省に根を張りつつあり、その恩恵に浴す

    る女性外交官は、増加の傾向にある。古い世代の女性外

    交官たちが、女性として特別視されることを危倶したの

    に対し、新しい世代の女性外交官たちの中に、国務省に

    おける男女平等に立ち上がる女性が増えてきたことは、

    まさしく”新しき良きガールズ・ネットワーク”におけ

    る新しい傾向と言えよう。言うなれぱ、”新しき良きガ

    ールズ.ネットワーク”は、女性解放運動を経て、多元

    化し、国務省全体に浸透しつつある。

     とはいえ、今後〃新しき良きガールズ・ネットワー

    ク”に残された課題は大きい。国務省における女性の分

    布は、下級・から中級の等級に集中しており、白人女性の

    数は、非白人女性のそれを大きく上回っている。また、

    同じ等級における男女の平均年令には、大きな格差が見

      (釧)

    られる。さらに、政治評論家デイヴィッド・ウィリスが

                         (的)

    フォーリン・サーヴィスを評した「トップ・ヘビー」-

    幹部の過多ーという表現は、男性外交官を指摘したもの

    でしかない。今日、”新しき良きガールズ・ネットワー

    ク・は、性差別を克服するための精神的なサポート・シ

    ステムから、労働条件の向上や昇進機会の平等の確保な

    ど、実質的な利益に重きを置く公的団体へと、脱皮を適

    られている。

     本小論で見てきたように、”新しき良きガールズ・ネ

    ットワーク〃は、国務省における女性外交官の歩みとと

    もにあり、その形態は、一世紀という時の流れの中で、

    徐々に変容を遂げてきた。それを促したのは、女性外交

    官と男性外交官のインターアクシ目ンである。すなわち、

    女性外交官と男性外交官が、個人レベルにおいて経験し

    てきた交流や反発、そしてネットワークのレベルにおい

  • 橋論叢 第121巻 第1号 平成11年(1999年)1月号 (66)

    て交わしてきた会話、さらに国務省という組織の申に見

    られる権利や役割の変化にようて、女性外交官および男

    性外交官のコミュニティの関係は、姿を変えてきたので

    ある。そのような意味合いにおいて、”古き良きボーイ

    ズ・ネットワーク”同様、”新しき良きガールズ.ネッ

    トワーク”もまた、国務省を構成している重要な要素な

    のである。さらに付け加えるならば、女性外交官による

    政策面での貢献は、いまだ限られてはいるが、”新しき

    良きガールズ・ネットワーク”の発展は、今後、高度な

    政策形成面での女性外交官の役割が、より大きな意味を

    持つようになるであろうことを示唆していると言えよう。

    (1) 葭O目-o『-.O巴斥-Pき§雨昌}彗』§軸ユoSミき§{窒』曽.

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    2)言彗霧け享①寡巨凹貝き§§§包§二Z姜

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    (3) カ津與ζ団『}-(①=}o↓凹F一、勺巨一U=oζ與目饅印q①『眈…目↓=①ω片o.

     ↓oω一>OOコ一〇凹『赤O目o↓O與『oo『>Oく凹自oo目δ目↓σ}ωo〆、.

     妻サξo』、§}茗}}}『富まosカ雨e{耐ミ’蜆- (σ)’o.卜ooo.

    (4)Oo『冨ピ胃冨『一、;oZ8鶉ω身oh雪9o『く彗α;①

     、『o↓o閉的山o目印-]工-ω吋oユ凹コ一..㌧o冒『so-ミ』ミー雨ユossき餉-oミ①↓

     (』巨目o-ooo心)’o.ω.

    (5)9言幕;員§・§茎.ミきミ吻きき色(寿ミ

     くo『斥一〇宍申oHoCコ~o冨岸}巾『①ω㎝一-oo〇一)一℃.-①蜆-

    (6)量P

    (7)U8彗冒彗;鶉葦oら潟{吻ミこ的ギ』嚢も婁ぎ一

    (8)』蔓ぎぎ妻§軋完§§§雨昌きぎ姜ミ、ミざ

     O§o吊、ミ♪宛ooO『αO『O巨O蜆o(ξO㎝す-コOqけOPU-O∴2匝.

     ↓-o目與->『oプ‘くo眈)■

    (9)ξ菖S§葦§』ぎS§§§§ぎ葦ミき①一ざ

     C§o“、ミ“刃ooo『ρO『O■o㎝〇一〇竺斥-Pミo§雨茗{3㌧§雨§「

     OS昌き§雪㌧さ}毒一〇一蜆OO-㎝POl①O.

    (m) ㌧§sosぎos眈 自彗巨 完雨ooミー§雨ミ軋sミoき吻 盲『 きミざ

      o§o雨、ミ∫カooo『o(キo仁o蜆o.

    (u) r一』o旦-o勺oω片①『]≦o]≦==目.き§“s{s、ぎ雨き~雨§-ω雨『e.

      ざ~(峯饅ω巨目胴一〇PO1O∴Ooくω『コ∋①目↓勺ユ目ご=困O曽o9

      -oムー)’o.①.

    (u) Uo℃凹『ご自o目一〇↓ω訂↓9完亀㎞、雨『1.-oo轟--ooやo団ω色冒F

    (13一.o姜貝き§§ぎト§き§きミ雪㌧さざo’茎

      』Oo目葭O鶉-考=眈O戸、OO目9巨色O目n○↓ζ-o⑭唖目匝]≦oP..-目

      向o妻凹『O、.O『ΦOOガ①α1一;§軸ミSミ軋㌧§雨ミo昌Sきミ{的ミ

      きミQ一トo}}}泳詠一 〇ミ弐o仰 sミ軋 ぎ眈{、雨; (≦自-自-目oqけop

      -〕向…ωカ巾oo斥9-ooM)-一〕■-一ム.

    (M) O巴斥}Pき§雨S{昌』§軸ざo亀ミき『耐清S㌧旨キ眈一〇・ωN-

      曽.

    (叶m)  三〕-O■一〇’トー1心M■

    ω

  • (67) アメリカ国務省におけるジェンダー・ポリティクス

    (蝸) ..>OO=o凹ゴOコωO申ζ凹『}』凹目oO-①目匝o目}戸..㌧§ミo8-

     ぎ葛§軋ぎ8§§§きso毒さ『き§o§sミ貢零-

     oo『φ〔}『o冒o蜆o■

    (17)、>暑=oきo冨o申「9二①>一9婁o戸..』菖-ぎぎ葛

     β3』 完“ooミ}§雨s』8ミoミ} さ「 き}ミo o§o雨 き-軸一 カ①oo『ρ

     (…『o巨o蜆o“-Uωo印『↓目一〇目↓oHω↓與一〇’完縞}吻“雨『..』§一℃.0N…

     -〕oo凹『一『コ①コけo申ω一印一〇1-〕-i-o『コ団一-oω①『く-o①-oo『ユo}]円共・

     螂目一{目①『ω’、刃ooo『戸、目■o’-0NN.

    (18) ミ=σ=『-O匝q一..-≦①ヨo『国目α仁ヨ、一冨09oσ①『-㊤Nト

      (ミ與ωす-目oq一〇目し〕.O-一巾o『ωO目目9[二〕「饅『}).

    (19) 』.困一』己耐『ミユ胴す戸。.-≦oヨδ『国目α一』冒、一〇〇09oσ①『-0Mト

      (忍『ωo…①F旨轟q)’

    (州一) -o蜆耐oす (キo毫一-〇一けo『一〇主一』o目巨(ユσωo目。-㊤』o目冒四『}

     -0M㎝(O巴自一UユOOqP ]≦>一=9』Oqす↓O目 「コU『凹『チ =O『くO『α

     ζ目-く而『眈篶}).

    (21)』o8昌9姜二①幕二〇=巨o・す9募昌二〇旨昌胃く

     -0Mム(=0E0目す一〇=--σ『団『}).

    (22)08彗巨彗一9ω§①一宗一品S昌2o.匡a零∋9

     -- 司①ず『E饅『く -0N↓一}=o -Nω>「「M一\ω一匝…-ピζo二① >↓o=①『・

    ω昌一一①葦二〇旨oω8『①↓彗}o鶉3員δ>長畠二〇ミ一-〕①-

     ℃凹『一『コoコ一〇『ω一国一〇.一「o-①oq『由o-]7^〇一蜆oo↓o~o目胆ヨコ凹.Mω①o・

     ↓①ヨロσ①『-0N↓一向--①-Nω>一「N-\蜆ムーo雨s-§-重-“吻h-o-sI』b電.

     カooo『旦(…『o目o蜆⑩.

    (23)~;oヨo亘一①幕二〇Uεき篶葦o二巨Pω盲一}

     -竃3o{胃葦彗けo{ω冨一9童品冨昌8>ヨω訂a四員

      -- 』E-} -0M0.勺二① -Nω向ム㎝\ωム一〇Φ昌、§- 、{』雨閉..-b-o--§一

      刃①OO『α(…『O目O蜆01

    (泌) OO目ω巨5↓oO①コo『団F U7口凹一〇= ZO.NN蜆 一〇 U①O凹具-

      ヨ彗けo申望gp嵩旨{-竃㊤一ヨ一〇冒ω勺ξ\ω戸o§、§-

     ミ雪こ§㌣-§』8oao『o毛睾

    (妬) O巴斥舳P§§Φミ}S㌧§竜ユoSSきミ雪トさ{葛一P-oムー

    (26) エレノア・ローズヴェルトに関しては、本人による著

     書のほか、数多くの伝記や研究審が出版されているが、最

      も信頼性が高いのは、里昌oぎ老討ω彗08珂曼値§ミ

     記8竃§ミ(zo考くo『7≦斥,oqL㊤竃)であろう。

    (η)  フ}凹目o}ζoo-①自 山コ旦 ζω『①α」叶= ω凹『斥o①9 §o§㊦s {3

    きミ雪き-喜’.§雨ぎ之昏葛(z婁さ『τ刃昌け訂島p

      轟8)ら、M曽-ωo。、こうした認識は、女性外交官の間に根強

      く残っている。WA0会長、メアリー・ギャリソンの議会

     報告を参照。ζ彗}-塞o胃まo戸宗g一ヨ昌き、匡塞ユ長

     σo↓O『①↓す①ωE一〕oO目一目二罧①oO目一すΦO-く二ωo『く-ooO↓一す①

     Ooヨヨ津8oo目巾o20ヨo①庄コ」O~=ωo『三〇P=〇一』ω①o↓

     カoO『oω①コ冨巨く①9、目o.-昌-N0o(ミoωす-目oq↓o目一U.O∴C.ω.

     勺ユ目ご目oqOヨoP~Mωoo8∋σo『冨oooo).

    (㎎) O巴斥-P§§⑮S{S』§雨ミ.o自ミきミ蒔S㌧旨{葛一P㊤o-

     -o〇一く竺、o『凹武〇一..ミプω冨、『プo『o.閉国ミ山=涼↓すo『①.ω匝

     4く由}一..き§暗ミ吻“「竈}o軸旨豊§s』(-㊤①⑩)’o.M①■

    (29) 、↓プ① 勺匝ω片凹ω、『O-OOq自〇一〇〇コω一饅目o① カ與< =ΦHく①}

     (-㊤oムー )一勺守ω一ξO目一唖コOO目ωF一-O①目①『凹r-o㎝o-一〇①牟..‘コ

     >ココー≦-=o「一≦o二戸き『睾o軸ミ雨s§、㌧SO§』ま吻δミ県

    67

  • 橋論叢 第121巻 第1号 平成11年(1999年)1月号 (68)

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     -㊤O蜆)一〇.-ω1Mω1

    (30)  ..ωE目一目己↓7一①o目o饒匝一〇『一刃oN団冒コo「①』①団目目o宛-ooq冬団}

     (;ω㎝-)一ヨ己昌旦5ミーOOO彗OO雪ヨ彗忌ξ}OO『きO

     刃ω℃=一〕=O-O00ω-Oρ,.-O]≦O『-目一き、嚢O⑮ミ~S§一℃--OO01N-〇一

     、↓すo-≦①目8冨α 〇一』房己雪一、巨ζoO-ωコ與目α ωo『斤①o9

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    (31) ..↓す①-≦①目↓oH①oO=a己o『一、ζ一≦oO宥コ與コαω與『斥oo9

     ミo§雨ヨ{sき§雪きsQ一〇1-↓と-

    (oo“)  >=ωoコ 、凹-目一〇■ ..一「-『o-①ωm 向o① o↓ ω①■ ]U-ωo『-『ロー目與-

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     -N1Nω-N0o.

    (35) デイヴィッド・ウィリス著西宮一訳『アメリカ国務省

     -その実カを探るー』日本経済新聞社(一九六九年)、一

     七八頁。

                                (一橋大学専任講師)

    68