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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 黒いアメリカの神 : 土着主義運動としての黒人神学(Black American God : Black theology as a Nativistic Movement) 著者 Author(s) 長嶋, 佳子 / 柴田, 佳子 掲載誌・巻号・ページ Citation 大阪学院大学国際学論集 = International studies,1(1):85-106 刊行日 Issue date 1990-12 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/90001733 PDF issue: 2020-11-14

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Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

黒いアメリカの神 : 土着主義運動としての黒人神学(Black AmericanGod : Black theology as a Nat ivist ic Movement)

著者Author(s) 長嶋, 佳子 / 柴田, 佳子

掲載誌・巻号・ページCitat ion 大阪学院大学国際学論集 = Internat ional studies,1(1):85-106

刊行日Issue date 1990-12

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/90001733

PDF issue: 2020-11-14

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大阪学院大学 I1iJ際学ロ命集

第 1巻第 lりー 19904'.12月

黒いアメリカの神

土着主義運動としての黒人神学一一

長嶋佳子

Black American God:

Black Theology as a N ativistic Movement

N AGASHIMA Y OSHIKO

RESUME

Black Theology, which was born during the Civil Rights

Movement and Black Power Movement in the USA in the 1960's,

has been regarded as an intellectual product of black elite theolo

gians, such as James Cone. However minor this new ideological

stream might at first appear to be, the whole concept and the

processes of interactions both within and without the black theo.

logy groups can usefully be interpreted as a significant nativistic

movement within American Christian culture but stressing black

ethnicity. This article aims to show the validity of such a view-

point.

First, it must be said that theology itself may properly be

treated as a branch of anthropology. As some modern theologians

have emphasized, without an anthropocentric viewpoint and the

inter-linkage among Theos, Anthropos and Cosmos (with the

emphasis upon the latter two), any theology would be useless. A

cosmocentric viewpoint should place human beings in a more

concrete historical, socio-cultural context, and such a theology

would thus inevitably exist as an anthropology as well.

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国際さ評論集

It is also important to realize how the “Blackness" of Black

Theology has passed through processes of relativistic renewal

and has carried an assortment of historical, social and symbolic

meanmgs.

Secondly, Black Theology can be regarded as a blackcentered

movement....・M

(l)which is created by those who

a) are ρositively conscious of being members of black commu. nities and Christian Churches within Ameガcansociety, and

b) stick within the black community or seek to maintain

blackness within Christian society, and

c) se芭 blacknessas doomed to sink and disappear under the

pressure of white culture and white expectations, unless

they seek to revive and p巴rpetuateit, c1aiming a place for

it on the suゆceof the American cultural mainstream,

(2)which for Afro.Americans would create and make them con.

scious of a more satisfying society and culture,

(3)which is initiated independently by Afro.Americans and orga.

nized collectively.

Black theologians have criticized very severely the Eur.

ocentricism and the too white concepts of God and Christ within

common Christianity. However, it can nevertheless be argued出at

Black Theology is a manifestation of America・centeredideology

and practices, albeit from new angles. It is this aspect especially

which will be dealt with in a subsequent paper, which will com‘

pare Black Theology in America with the situation in the Carib.

bean.

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黒いアメリカの神(長嶋)

マイノリティの声が高くllIj.Iまれて久しい。独立を含め、近代国家の統治機

構の中での権斡、あるいはエスニック・アイデンティティに関する彼らの主

張は、為政者のみならず、隣人として平凡に生活している一般の人々との関

にも、大きな波紋を投げかけている、といった状況に我々は生かされているo

日本でもアイヌ、「部落民J、在日韓関・朝鮮人といった人々の「問題J が政

治的レベルでも論じられている。今や我々は、世界中妥る訴での民族関題や

ヱスニシティ (ethnicity)に関する情報を、マス・メディア等を返して(表

面的にしろ)知ることができる。しかし大多数の場合、彼らの(及び我々の)

主張がエスノセントリック (ethnocentric)な偏見に色づけされていること

は、じきにわかってしまう。そのような主張は体系立っていることもあれば、

そうでない場合もあるが、ある時期他者に大きな衝撃を与え、噂や議論の渦

に巻き込んできたものの多くは、それ自体の論理性と主張者のコスモロジー

を的確に反映しているのである。

我々がこの「小さくなりゆく地球J上で、これ以上不必要な文化摩擦や誤

解、争いといった百定的な相互交渉を避けるためにも、今まで以上に、相互

の文化の真の理解を深める努力をE重ねる必要があろう。そのために辻、{纏)

力や権威に取り髄まれ、寄りかかっていれば安泰な体制側 (establishment)

や、優勢で支配的な文化に属する側の人々の意見や情報に偏向していては、

真にその社会の文化、人々の考えを鰹解することにならないことは、承知し

ておくべきである。むしろ今こそ、これまで以上にマイノリティの動向に悶

を向け、その見解により司深く耳を傾けるべき碍ではないだろうか。

ところで現代の日本が最も大きく影響を受けている相手はアメリカ合衆国

であり、アメリカ文化であることは、ほとんど疑いの余地がないであろう。

しかしアメリカが、次々と移民及びその希望者が押し寄せることを許してい

ること、そして現在のあの複雑な民族構成を見てみれば、 rアメリカ文化Jの

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凶際 学 論 集

特徴を述べることが至難の技であることも、周知の事実である。近年はヒス

パニックが人数の上でも急上昇をし、マイノリティ聞の関係にも少なからぬ

影響を与えているが、アメリカのマイノリティとカテゴリ一化されるものの

いわば代表格は、インディアンと黒人であろう。なかでも黒人系は「残酷き

わまりないJ r特異な制度」であった奴隷制をくぐり抜けてきた膝史をもち、

他のマイノリティとは違い、その苦難の経験も筆舌に尽くし難いものがある。

彼らの苦境は現在まで様々なレベルで続いている。もちろん60年代の公民

権運動、ブラ ック・ パワーなどを通じて諸権利を勝ち取り、彼らの地位や生

活条件も改善されてきた。現今では黒人市長の誕生があちこちで拍手喝采を

浴び、M.L.キング牧師のノーベル平和賞受賞、].ジャクソン師の大統領選挙出

馬等々と、スポーツや音楽・ダンス等の芸術分野のみだけではない彼らの数々

の輝かしい活躍の様子がマスコミを賑わせている。 しかしそうであればある

程、多くの無名のごく 平凡な住民は、相変わらず陰口や偏見や噸笑、 差別、

攻撃の的になっていることも、やはり忘れてはならない。彼らのことはアメ

リカの「恥部」として取り扱われてきたことも少なくなかった。(不幸にして)

日本(人)のアメリカ観がWASP中心的なものに偏向しがちであったことも

一因となり、黒人系に対する知識は限定されたり、間接的すぎるものが多か

った。つい最近も日本人、特に政治家の無知と非常織をさらけ出した黒人差

別的な見方や意見について多くの抗議が出されたばかりである。我々は彼ら

を真に理解しているのだろうか。特に彼らの世界観、コスモロジーについて

はどうだろうか、と冷静に問えば、やはり残念ながら、答えは否定的になら

ざるをえないで、あろう 。

彼らはいかに個人として、また黒人として、そしてアメリカ黒人としての

アイデンティティをもち、自己に誇りをもって生き、様々な苦難をいかに解

釈し、それを乗り越えようとしてきたのか。「アメリカ(人、文化)J をより

良く、そしてより複眼的に理解するためにも、今だにあまり知られていない

黒人文化、それもアメリカ以外の地へも拡がる「ディアスポラJ (diaspora)

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祭いアメリカの神(長嶋)

にも共通し、彼らとも、また彼ら以外のしばしば抑圧されてきたマイノリテ

ィにも影響を与え、あるいは共感し合える部面、というフィルターを通して

アプローチしてみることは、やはり意義があると考える。そしてその答えを

探る一つの大きな鍵は、彼らのキリスト教信仰であると言ってよいだろう。

黒人の多くが信仰心篤い、敬慶なクリスチャンであること、キリスト教は

奴隷制時代に白人より強制的に与えられ、アンクル・トム的ノfーソナリティ

をモデルとするよう強要されたこと、しかし少なくともダブル・スタンダー

ドを生き残り (survival)のために身につけ、「サンボJ (Sambo)や「マミー」

(Mammy) を槙じたものが多かったこと、そして黒人なりに信仰を受け入

れ、自己と同胞の位樫づけを帯解釈していたこと、また信仰共同体としての

教会が、政治的、経済的、社会的、教育的、そして文化的、と生活の全局面

にわたる多くの機能を采たし、教会の 1)ーダーがしばしばコミュニティ内の

リーダーとしても活躍してきたことなどは、よく知られている。また黒人教

会は白人教会とは異なった役割、機能をもち、それゆえにコミットメントの

あり方も必ずしも伺じではなかった。聖書の解釈においても、さらに礼拝や

祈藤会といった議事しにおいても、多くの黒人教会は黒人としてのアイデンテ

ィティを追求し、あえて独自牲にこだわり、そしてそのように実践してきた

場であり、しかも一種の統合の象徴でもあった。

ただし一口に黒人、といっても実は彼らの信仰のもち方、教会形成、組織

形態、儀礼の内容やプロセスなどは多様で、ある。この多様性も知らなくては

「黒人」を理解することからは程遠い。ゴスペルやブルースあるいはパプテ

スト派のある教会、またはキング牧師などを知っているだけでは、片手落ち

である。その多様性のーっとして、筆者はここで黒人のクリスチャンの問で

も必ずしもよく知られているわけではなく、またその誕生以来、賛否両論を

巻き起こしてきた、一種特殊な知の形態とも言うべき「幾人神学J (Black

Theology)を取り上げたいと思う。たとえそれが奥入の中のマイノリティの

知識人たちの知的体系、思考の求め方であるにせよ、アメリカ国内はもとよ

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国際ヤ論集

り、第三世界の知及び精神のみならず人間性そのもの、あるいは全体的人聞

の F解放J を志向する同様の動向とも呼応し、多くの波紋を投げかけ、立Z要

な問題提起をしてきたことは事実だからである。これは一般に丙獄中心主義

的掻綾観の集大成としてのキリスト教神学に対して、一穂のアンチテーゼと

なったものと解釈してよい。日本(人)はアメリカのキリスト教や教会につ

いてさえ知見を深めているとは言い難いが、「黒人神学」を取り扱うことによ

って、むしろその側面をも逆照射していくことができるであろう。

ただしこの小論では、黒人神学そのものについて、その誕生の経緯、発展、

内容や問題点などの歴史的、政治的、経、済的、社会的、文化的、または哲学・

思想的、論理的、道密約そして神学的考察や分析を意図しているわけではな

い。ぞれらについては、黒人神学が 1969年に著名なアメリカの黒人神学者

].H.コーン(JamesH. Cone) のBlackTheology and Black Powerにおいて

その名で呼ばれ、神学界のみならず広く社会・文化的にも何らかの影響を及

ぽして以来、様々に取り上げられてきたからであるo 日本でも、その中心的

論客であるコーンの著作のうち Zイエスと黒人革命ふ F解放の神学』、 r黒人

霊歌とフツレースれそして F抑圧された者の神』の訳書刊行をはじめ、その解

説や雑誌;等での言及や論説により、主題とされるところは限られた分野では

あったが紹介されてきた九黒人神学はそれ自身の君主要性や諸問題の議論の

みに溜まらず、今や広くブラジルを代表とするラテン・アメリカの解放の神

学 (teologiade la liberacIon)や韓国、フィリピン、ス 1)ランカ、インド等

アジアでの解放の神学、あるいは民衆の神学(韓国で、はMinjungTheology)

といった、第三世界に独自な状援に穏差し、必要とされ、そして生きられた

1)コーンの原普及び訳flHま以下のとおり。

①Black Theology and Black Power. The Seabury Press, 1969‘②A Black Theology

01 Liberation. ]. B. Lippincott Co., 1970. ③The Spiritz“お andBlues: A舟 I抑向rpre司

tatio凡 TheSeabury Press, 1972. ④God 01 the均台ressed.The 缶詰uryPress,

1975. ①大隅啓三訳、 1971年、②~④梶原寿訳、②1973年、③1983伴、④1976if¥①

~④新教出版社。

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黒いアメリカの神(長嶋〉

思想・実践・経験の統一体としての新しい神学とも、手を結び合うところま

でさしかかったと言える。

筆者はここで、黒人神学のもつアメリカ性に注目したい。そのアメリカ性

は、ヱスニシティに関する議論やブラック・パワー運動の高揚の波を存分に

洛びたことに一留していると考えられる。このアメリカ牲を考察するために

は、アメリカの外側から見る、つまり比較の視点を導入する必要もあろう。

筆者はその一例として、黒人系が住民の過半数を出めるカリブ海地域と比較

する論考を別稿で予定している。ただし本稿では、アメリカの中でもアメリ

カ'註を考察するのに有効と宏、われる筏点をまず提供したい。アメリカ生まれ

という生いたちは、アメリカという枠内で、エスニックな援魚で、つまりエ

スニシティを強く意識しつつ、抱え直した土着主義連動 (nativistic move-

ment) としての性格を与えたと解釈できないだろうか。

黒人神学と 4 口に言っても、実はその立場は様々にある。筆者はここでJ.

コーンを弐記長とする立場を主践に護き、その兄弟C.(Cecil)コーンら誌の黒

人の神学者からの諸批判をふまえた上で、大枠としての黒人神学を級うこと

にする。

ところで黒人神学の主張を土器主義運動として見直すためには、神学自体

に一度、このゴニ着主義{運動)というトピックがこれまで中心的に問題とさ

れてきた人類学の土議に下りてきてもらわね誌ならない。

1.r私は雄? 神とは何、離?J 一一人類学・人間学としての神学

キリスト教神学はヨーロッパの学関的缶銃の中で形成され、発展的に継承

されてきた。そしてキリスト教(のメッセージ、福音〉は実在に至るまで、

世界中で多様なレベルで再解釈され続け、またそれとほぼ平行して神学自体それぞれ

も多様に変越し、分岐してきた。神学には各独自の主張や価値観が含まれて

おり、そのどれーっとして、唯一絶対的な「正統性J など主張しきれるもの

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国際 学 論集

ではない。時代精神や生態系すらも大きく学問の有様に関わりうるものであ

り、神学もその例外ではないはずであるo 英国の神学者ワイルズ (Maurice

Wiles)の言うように、「神学者の生きている時代と場所の中でのもろもろの

経験が、その神学的確信の内容に大きな影響を与え」、結局我々はその「主観

的側面」の不可避性を確認せざるをえないのではないだろうか九従来の主要

な神学も、歴史的過程を経て変化してきた流動的な文化構築物であり、今後

も主観的解釈を通して変化しうるはずのものと考えられる。

またヨーロッパ中心主義的なキリスト教神学の伝統の中で、神は普遍牲を

もった個人とその集合体である人類との関わりにおいて、最も深遠に探究さ

れてきたと設えよう。その人間像は、ともすれば無色透明で非文化的か、哲

学的、及び神話的イメージで彩られたものが多かった。そして神学研究が「過

去との対話l)に傾斜しがちだ、っ たように、黒人神学や解放の神学など社会神

学的運動が拾頭するまでは、その対象もやや固定的で過去的人聞に依拠する

傾向があったことも否めない。

それゆえ、きわめて今B的問題状況の只中にいる個々人、集合的人間生活

集団、彼らの神、そしてそれら相互の関係において、伝統的なヨーロッパ、

そしてそれから派生した(白人)アメリカ神学では、もはや過去性のフィル

ター自体が偏見を強化する方向に働きがちなのだ、ということに異論をはさ

むのは難しい。神学が現実に生きる諸個人の多様な状況を真Jこ理解すること、

悶離な諸問題へ襲極的に取り組むこと、そして「そこに生きている人々を真

に援助するもの」叫となっていないのならば、それはもはや死んだ神学と言わ

ざるをえないであろう 。もしキリスト教が普遍性、絶対性を今なお主張する、

あるいはしたいのならば、その神学は「特定の人々やグループの精神や経験

2 )モーリス・ワイルズ著、 窪寺俊之訳「神学とは何か』新教tH版社 1986ff-、 p.79.

3 )上掲書 p.81.

4)上掲書 p.150.

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黒いアメリカの神(長嶋)

を心理的に表現する必要」があり、かっ「人々の生きている社会状況と積極

的関わりをもっ発言をしなくてはならないfはずで、ある。時間、空間を超越

し、普遍かっ不変の神学という幻想的立場は、現代的状況の中ではもはや妥

当ではないといえよう。

神学するのは生きた人間である。人聞の営為である限り、その置かれた、

生きている歴史、政治、経済、社会、文化等、あらゆる所与の条件/状況/

限界的コスモスの影響を受けている。また人間があってはじめて神のことも

語りうる、という単純な事実に目を留めなくてはならない。「私は誰か」と人

聞はまず聞い、その聞いの中で同時に、「神とは何か」、あるいは「神とは誰

か」という根源的主題を追求するのであるO 真先に神に目が向くというので、

はないだろう。人聞は神の視点には絶対に立てず、(ほとんど)常に限界ある

人間の眼で神を見、その耳で神に聴き、全感覚で神を感じ、そして神を経験

するのみなのであるへその意味でも、カリブ海地域の神学者ハミド(Idris

Hamid)も言うように、「人聞が神学の焦点にならなければならないfと考え

られる。

またこの人間は、考察の対象とされる神 (Theos)、人間 (Anthropos)、コ

スモスあるいは役界 (Cosmos)において、前二者間関穏でのみ強調されて捕

5) liilL ド点筆者。

6) rほとんど常に」としたのは、いわゆる“ecstacy",“possessionぺ“trance"などの術語

で表現される「神秘的J で「非合理ぷJJ に映るが、豊かで多種多様な「神」や霊的保

イ上との合一、交流経験の存在を認めるからである。あるいは多発、終にc.カスタネーダ

(Carlos Castaneda)が著したような体験もここに含まれる。幾人の宗教経験につい

ては、 Johnson,C. H. ed., God St間 ckMeDωd: Reli~ダóus Conversion Eψ6問時ces

and Autobiographies 01互指laves.Pilgrim Press, 1969など参持者。

7) H amid, I.,“Theology and Caribbean Development," in D. Mitchell. ed., With Eyes

Wide印'en.CADEC (Christian Action for Development in the Eastern Caribbean),

Bridgetown, Barbados, 1973, p.126.など。 Cf.Davis. E., Root草 andBlossoms. The

CEDAR (Christian Engagement in Dev日lopmentAnd Renewal) Press, Bridgetown,

1977, p.1l3.など偽の衿学者にも肉類の関心が克られる。

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国際学 iij命集

出されるものではない。これまで軽視されがちであったコスモス中心的(cos-

mocentric) な観点へ特に後二殺の不可分性のなかで、生きざるをえない現

実、環境の中で浮沈する具体的人間である。それゆえ黒人神学のみならず解

放の神学、民衆神学、カリブ海の新しい神学的模索においても、人間とコス

モスの桔互交渉、関係、及びコスモスのやの個別の人爵への詑授が求められ

ている。コスモスの影響を満身受け、圧倒的力を感じつつも、積極的な存在

意義を見い出すために、主体的に能動する人間という視点の強調が誕われる

べきなのである。そうした後はじめて、神、人間、コスモスが三位一体的に

統合された機能的神学が可能となるであろう。

コスモス中心的視点への傾斜は、人需をより呉格的歴史、社会、文化状況

ないしコンテクストの中で見直し、各の存在状況を問題視させてくれるo そ

の意味でこのような神学は人類/人関学 (anthropology) として存在しうる

ことにもなる。そうならば、人類学がそうであったように、相対化の洗礼と

いう通過儀礼を経験し、新生(再生)した神学の存在も可能になるはずであ

る。それゆえ黒人神学も歴史一社会一文化的コンテクストにより再び相対化

され、新しく構築しl反されてきたものと見倣せるであろう。他の欧米の(白

人〉神学と比べると、黒人神学において「見えない入額J (invisible man)の

側から見える存在への抗議や自己主張は、しばしば痛烈になされてきた。彼

らの相対化の網をくぐり抜けた発言は、特に白人神学のあり方を否定し去る

程、自らの立場を絶対fとする傾向が晃られる。それも、神の下にある設界な

いし:社会の中の人聞による再考の所産と考えてよいであろう Q コーンらの主

張は単なる相対主義を拒否し、黒人の実存的、状況的な諸経験の要求を満た

す神学の発践を目的としているo 「黒人性Jはこの点でも一度相対化された上

で、より歴史的、社会的、そして象徴的意味を深く秘めた用語として再生さ

8 )例えliRm弘、elI, H.,“The Challenge of Theological Reflection in the Caribbean

Today." in 1. Hamid, ed., Troubling 01 the Waters. Rahaman Printery Ltdリ San

Femand,つrrinidad,1973, p.26.など。

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黒いアメリカの神{長嶋}

れたと考えられるのである。

ところでこれま?にも多く批判されてきたように、禁入神学はヨーロッ/~

神学の落とし子でもある。例えばJ.コーンの場合、知的作業の多くをK.バル

ト(KarlBarth)、P.ティリッヒ (PaulTillich)、D.ボンへッファー(Dietrich

Bonhoeffer)、S.キェルケゴール (SorenKierkegaard)等の白人の先達の業

績に負っていることは知られている。 F.シュライヱルマッハー (F.E.D.

Schleiermacher)以来の近代自由主義神学における人間中心主義、歴史的批

判主義、社会・心哩主義は、黒人神学におけるそれらと共通あるいは欄似し

た側面をもっていると考えられる。また黒人神学を考えるにあたって、神を

観る人間や社会的リアリティの強調という筏点は、ティリッヒ以来の弁託神

学 (apologetictheology)、存在論的神学 (ontologicaltheology)あるいiま

超越主義的神学 (transcendentaltheology)における神と人間の断絶や人間

的努力の不可能性、経験及び認識の否定と信仰や啓示の優位性という中心的

テーゼなども、祭人神学で提示されるものと対話や議論が可能な土壌を共有

していると思われる。しかしこれらのテーマは、黒人神学の提唱者たちが西

欧神学のこれらの流れの中で問題意識をもった、あるいは見つけたものと考

えるのは性急であろう o というのは、これらが実は黒人神学以前、奴隷制時

代からの祭人民衆の経験 (blackexperience)や視点の中からも発掘される

ものだからである。つまり黒人神学の源はこの黒人経験に遡り、それを黒人

神学ヱ 1)ートが、主にヨーロッパ神学の枠組を信用しつつ再構築してきた、

と考えてよいものなのである。

黒人神学自体は完成品でもなければ、閉じた体系でもない。終始一貫した

論旨をもっ整合体でもなく、むしろ内に多くの矛盾さえ含みつつ展開された

知的作業、そのプロセスと総体である。その強調点は、コスモスの網の自に

捕えられながら、神に訴え、うたい叫ぶ人間としての黒人の姿にある。苛酷

きわまりない歴史的環境の中で、人間として懸命に生きた熟人たちにとって、

自らの眼で明らかにできる形でしか神は存在しえなかった。つまり自己の存

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国 際学論集

在状況の全き理解者としてしか表現しえなかったのである。そして白己脊定

を観念的にも、また経験的にも繰り返したくなる臨界状況を生き、生存とア

イデンティティの危機を通過する黒人たちは、まず「私は、私たちは、一体

誰なのか」と問うていたと考えられる。このような聞い、つまり人間である

ことの追求と確認作業に告を向けること、ぞれが神学を人類学/入部学のー

支流として扱えてもよいと考える根拠であり、妥当性である。

では人類学の地平では黒人神学をいかに考・察することが可能なのか、その

一つの試みとして土着主義運動という視点で扱ってみたい。

2. 「私は、私たちは黒いJ一一土藷主義運動としての黒人神学

いわゆる黒人神学は、 1960年代の公民権運動、ブラック・パワーの爆発等

の環境から生み出されたと解釈されている。本稿ではそれを同時代の落とし

子でもあるエスニシティ論沸騰の煽りを受け、黒人性を基軸に置いた土幸子主

義連動のー形態として控えてみよう。

まず運動という側面に注目してみる。黒人神学の椛唱者の聞には、異なっ

た見解が存在する。ワシントン(Joseph Washington)、クリージ (Albert

Cleage, Jr.)、J.コーン、ウィノレモア (Gayraud羽Tilmore)、ロパーツ (Deotis

Roberts)やジョーンズ (MajorJones)などの先導者はそれなりに、またそ

れに対する厳しい批判はC.コーン的をはじめ殺しい内輪のIゃからも活発に出

されてきた。しかもこれらは一方通行で相互をけなすだけの近視眼的交流で

はない。彼らは相違をJi.いに知り、批判し合いつつ、黒人神学運動の出発点

でもあり、批判の対象でもある自人神学(者)への訴えを続け、相互理解剖菜

9)例えばCone,C., The Id,仰 tityCrisis in Black Theology. The African Methodist

Episcopal Church, 1975.{皮が批判jの対象としているのは1コーンの他に].ワシントン

と].D.ロパーツである。

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議いアメリカの神(長崎)

めるべく対話をしてきた。それらの対話は単なる個人間コミュニケーション

を越える。彼らやカリスマ的指導者の背後には賛同者が多少なりとも存在し、

特に強力な示唆を与え続けてきた。その集会牲は錨性的な指導者の徐に揺れ

がちだが、これらの指導者の誕生さえ民衆経験を母胎にしていることは、彼

ら自身も認めるところである。

黒人神学は当初より決してーヶ所に閣まってはこなかった。また必ずしも

定点を目指したものではないようだが、方向牲をもった集合現象としての運

動の性格は明瞭に出ている。この運動は、ヨーロッパ白人神学及び黒人同胞

からのものも含め、提訴や相互批判の弁証法的対話を通じて、軌道修正し統

けてきたと考えられる。

ところで土着主義を考える kで、文化変容論が活発だった頃のリントン

(Ralph Linton)やウォレス (AnthonyWallace)による、古いが有名な定

義を再度参照してみよう。リントンによると、土着主義連動は F社会の成員

により、当該文化の選択された側面を復活あるいは持(永)統させようとする

意図的で組織的な試み/0)である。またウォレスは f土着主義Jという表現は

用いないが、比較的類似した局面を有する現象を得活性化運動 (revitaliza-

tion movement) とし、その定義を「社会の成員による、より満足のいく文

化を建設するための意図的な、組織的な、意識的な努力J11)としている。ここ

で黒人神学をこれらの定義に即して再解釈してみよう。土着主義運動として

は、アメリカ社会、アメリカ祭入社会、あるいは/及びキリスト教会の成員

により、黒人文化、黒人性をアメリカ文化の水商戸上に浮上/復活させ、それ

を持{永}続させようとする意罰的で組織的な集会的試みとなる。そして再活

性化運動としては、アメリカ社会、アメリカ黒人社会、あるいは/及びキリ

スト教会の成員による、彼らにとってより満足のいく文化を建設するための

10) Linton, R.,“Nativistic Movements," A押zericanAnthropologist 45, 1943, p.230.

11) Wallace, A.,“Revitalization Movements," American A毘thropoゐ<gist58, 1956,

p.265.

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国際学論集

意図的、組織的、そして意識的な努力の総体となろう。はたしてこのような

見方は妥当だろうか。次にその妥当性を検討してみることにする。

ここではこれら二つの定義を総合して、以下の点に注目してみよう。第一

に、主体(運動の担い手)が、アメリカ社会全体、及ぴその一部としての黒

人社会、もしくは共同体、そしてキリスト教会の成員であることを強く積桜

的に意識した人々であること。第二に、彼らが取り固まれ、また一員である

その共同体の中で、黒、黒いこと、黒人であること、ないし黒人性に極端な

までに固執し、またそれらを追求すること。第三に、それらをアメリカ文化

の水面下で、埋没し、ほとんど無視され、あたかも無価値で死せる、あるいは

死すべき存在とされていた状態から浮上させ、復活させ、さらにそれらを持

(永)統させてアメリカ文化の表層で自己主張させようとしている日的をもっ

ていること。第四に、それが黒人(アフロ・アメリカン)にとって、より満

足できる社会と文化を創り上げるためと白覚されていること。そして最後に、

これらが彼ら自身の子で意図的に、かっ組織的になされた集合的試みである

こと。黒人神学は、これら五つの側面についていかなる立場にあるのだろう

か。

第一点については、黒人神学形成とその展開が、公民権運動のf台頭の歴史

と切り離せない関係にあることを思い出せばよい。黒人神学は、時に白人神

学に対して過激な主張を繰り返し突きつけてきたが、その強さ、激しさはブ

ラック・パンサーやブラック・ムスリムなど、ブラック・パワー運動の中の

過激派やそれに近い立場と類似している。ただ黒人神学の全体的基調音はア

ナキズムには程遠い。それはあくまでもキリスト教であり、そのコスモロジ

ーの中での白人神学とその思考枠組に対する強烈な異議申し立てである。そ

れを主眼に置くと、 M.L.キング牧師らの正統派クリスチャンの情熱的な愛に

根差した献身、憤怒、正義、公義への激しい希求と訴え、非暴力主義的抵抗

といった一連の流れを黒人神学は汲み上げ、キリスト教の枠内でコスモロジ

ーの再構築を行なってきたと言えるだろう。黒人神学とキングらの運動は、

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!!!:いアメリカの神(長嶋)

実践レベルでは相異が大きく、また両者が直接問題とし、扱う対象、アブロ

ーチの方法や用いる枠組において幾分その差異がクローズアップされるもの

の、人間学と神学の雨領域をまたにかけて需題と取り組み、またそれらを基

教とした解決、実践化を目指す点は共通している。

アフロ・アメリカンがアメリカ社会の一員であること、そして黒人共同体

の一員であることとを同時に強く主張するのは、双方のメンバーシップが同

心円状に君主なって存在しているということである。つまり双方のアイデンテ

イティが両者を不可欠としていることを意味している。キングの有名な「私

には夢があるJ (“1 have a dream.")の説教演説でも、「アメリカ」、「我々の

社会J (ド点筆者)といった言葉が繰り返され、それに大多数の黒人が熱狂的

に賛同の拍手を送ったことを思い出してみよ 70 このここ重のメンバーシッブ

は本来矛盾したものであってはならないのだが、奴隷制からの桂桔のために

あらゆる暴虐が許されたため、二つの社会はあまりにも長く分離してきたの

だ、った。それゆえブラック・パワーは、黒人共同体が常に無価値に等しいも

のに毘められてきたという屈辱は(ビューリタニズム以来の) r神の国アメリ

カ」の名がjちされたことを意味するのだ、と神の名において決然と白人に宣

告したのである。この神の国共同体の失われざる貴震な成員として、その名

に相応しく取り扱われることこそが神の摂理である、というメッセージは、

終始一貫している。アメリカ社会内でのアフロ・アメリカンとしての位置づ

けの再確認は強く主張され続け、 黒人神学のf台頭において、それが最後の牙

城とも言える神学界からも提出されたというわけなのである。

黒人神学におけるアメリカ性及ぴアフロ・アメリカンとしてのアイデンテ

ィティは、当初より濃厚であったと考えられる。しかしまもなく彼らの授点

はグローパルに拡大し、アメリカ以外で抑圧され苦悩する黒人、特に南アフ

リカを中心とするアフリカやカリブ海地域の同胞(黒人)をも配慮し始めて

いく点は興味深い。さらに、ラテン・アメリカやアジアの解放の神学、民衆

の神学との連帯を深め、白人神学界の一部との「内部コミュニケーション」

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I調際学論集

(incommunication) 12) ~、世界教会協議会 (World Council of Churches)

などヱキュメニカル (ecumenical) な運動組織との協調を経て展開してき

た。これらの拡がりは、もちろん知的作業としても、また実践的にも、相互

のコミュニケーションや協力の進展と深化を意図したものと解釈してよいで

あろう。このようなアメリカを越えた関心は、実は公民権運動以来の黒人運

動の中にも見られる。それは政治、経済レベルから社会的公正、不正の排除、

差別や偏見の解消へ向けて、つまり全体的な「真の解放J を目標とした関心、

及び文化的レベルでの表現様式とテーマについて、また伝統と創造、新しい

文化の構築といったテーマまで含み、小規模ながら様々なレベルでの異文化

問交流を進めてきたのである。

しかし全体としてみる限り、黒人神学者たちの議論や関心は、アメリカ社

会内の現実的諸問題に焦点が当てられ続けている。これらのことは、特に黒

人神学がアメリカ社会と文化、そして支配的白人キリスト教界の限界領域を

超克したことを意味しえない。むしろ個人的経験や宗教の核としてのブルー

スやゴスペルの開題をJ.コーンが深〈掘り下げねばならなかったように、や

はり出発点であり、また中心となっているのはアフロ・アメリカン出有の経

験である。つまり黒人神学の提唱者の関でアメリカ社会とその関心円内の祭

人共同体への執着が見られるのは、そこに問題の出発点も、アイデンティテ

12)“Incommunication"という表現は、 1973if5月にジュネーブのエキュメニカル・セン

ターで関かれた黒人神学とラテン・アメリカの解放の神学に関する神学シンポジウム

の内容が、後に 『リスクs誌 (Risk)(1973年 vo1.9no.2)に掲載された際の題名に佼わ

れた。このシンポジウムの意図は、黒人解放神学とラテン・アメリカの解放の神学を

ヨーロッパの神学体制に紹介することにあった。この「インコミ ュニケーション」は

黒人及ぴラテン・アメリカの解放の神学の関でのものというよりは、ヨーロッパの神

学者とラテン・アメリカ及び黒人神学者双方の代表の衡に起こったが、ヨーロッパ側

が黒人神学に対して示した難渋は、北米自人が示した休l難と類似していたと三う。

Cone, J..“lntroduction" in G. Wilmore and J. Cone eds., Black Theology: A

Docume河taη Histoη"1966.1979. Orbis Books,ぬ79,pp.138-139.

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黒いアメリカの干申(長嶋)

ィの核も埋め込まれているからなのである。

第二、第三の点は切り離すことは不可能である。黒、黒さ、黒いこと、黒

人であること、黒人性は、まず遺伝的形質を含む生来のもので、否定不可能

なものである。それはかつて忌避され、消去されるべき恥辱の象徴ではあっ

たが、 60年代以降めざましくその本来的葉、豊穣性や生命の躍動といったも

の全てを結びつけるような積極的評価により、再生の潮流に乗っていった。

そしてその潮流は今度、黒人共同体内に浸透し、彼ら自身のものとなったと

思われていた既存のキリスト教が、実は真に黒人自身のものとはなっていな

かったという主張を、黒人解放の神学という形で浮き上がらせることになっ

たのだった。ぞれはアイデンティティとしての黒人性と、神やキリストの姿

とイメージとの関係性をめぐり、「正統派」キリスト教会の従来の見解に大き

な挑戦をしかけたのである。

例えばイエス・キリストの図像は、ほとんど白人ヨーロッパで形成された

そのままのかたちで移植されていた。多く色白の青い眼をした、長い巻毛で

金髪の白人としてのイエス像が多く肥られ、巣敬の対象や媒介となったりし

ていた。イエスの外観を中近東世界により近づけ、黒っぽい眼と皮膚の色、

茶掲色の髪に議り変えたところで、西欧中心的な色彩はどうみてもなくなっ

ていない。したがって白人が植民地的権力、威厳や権威を伴ってそのイメー

ジを伝達し、ある時は強要したため、黒人は主イエスのみならず主人への服

従という形で日々要求された生活経験と照応しつつ、白人の伝統を継殺する

ことにもなったのだ、と繰り返し認識させられるのである。

無論黒人の宗教経験自体は、白人のそれとは異質なものを多く含んでいる。ヴ4ジョン

例えば夢や幻とその解釈、リズムと音や声に溢れた彼ら同士の、そして神や

霊 との交流経験、及び異言といった滋依現象の頻出、予言や儀礼パフォー

マンスの不定型的表現も許される自由なエネルギーの放出などは、白人のも

のとは際一立った特徴である。それらはきわめて個人的で、ありながら、共同体

の財産として共有されている経験でもある。しかしそれらは白人の神やキリ

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00 際学論集

スト襲、麗史的人物としてのイヱス操という人轄を伴った対象と摂会した持、

自己の黒人性や泉さが、神の悲i姿・イメージを反映するはずの神の子、すな

わちクリスチャンとしてのアイデンティティとの詔一化において、矛!吉 e 綿

克を深刻に感得させてしまうものだったのである。

なぜ黒人が白い神、白いキリストを媒拝し、黒人のクリスチャンが自のイ

メージに支配されなけれ誌をらないのか。確かに黒人が「黒J について語る

持、それはまず皮膚の色のことを意味している問。しかし単にそれだけではな

い。この累さは泰愚約な理示であり、他者への変え重量い自己表現であるのみ

ならず、歴史的かっ文化的に構築された象徴である。これは深層では個人及

び集合体としての黒人の担源的部分にまで浸透し、それを百が応でも肯定し、

積極的に受容し統けねばならない性紫のものである。

仏領マノレティニク島生まれのラデイカルな黒人エリート、ファノン(Franz

Fanon)が言ったように、 F黒い皮灘、白い伝扇J (peau noire, masques

blancs) 14)としての黒人の実存的状況は、奴隷制や植民地主識のもたらした長女

も残酷で、、今もうずく蕩掛である。幾人が祭人らしくあるためには、「白い仮

面』を剥ぎ取り、心底から黒くあり統けなければならない。黒いこと、黒さ、

黒人牲に深い誇りを抱きもアイデンティティの棋に据えられてこそ、象徴と

しても重要な意味をもつからである。ぞれゆえに、それはアメリ 7きではまず

WASPなるものへの拒否から始まり、白人性とそれを代表するアメリカニズ

13)カリブ海t世界では、皮膚の色にこだわる。その色具合で黒人と呼ばれたり、混血カラ

ード (colored)、ムラト (mulatto)、ブラウン (brown)などと呼ばれた号するが、

その区分は無論きわめて媛妹で、状i兄やコンテクストによっても災なってくる。合衆

ffiJ I村では、黒人はその色や髪、鼻、 fl軍事その他の身体形質のみでなく、「パッシングJ

(passing)がs可能な混血でも熟人と見倣される程、 rJfu.Jの作夜が1重視される。この定

義されにくい入灘あるいは民主主:牲によるi又分において溺縁部にいるおーたちの総では、

そのアイテ。ンティティの模索と形成{立総筏維で、:家階イヒする{傾向がある。

14) フランツ・ファノン事号、海老桜式、加藤勝久共訳 『然い1文様・ nい仮liliJ みすず芹

房 1970年。

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思いアメリカの神(長嶋)

ムへの同化志向に対するアンチテーゼとなるべきものであったのである。

また黒さ、黒人性は、きわめて歴史的な経験の全体性の表現でもある。そ

れは疎外と忌避、嘆きと岬き、涙と血にまみれた経験である。しかしその中

にも、個人として、また黒人共同体としての生きる努力、生への渇望と歓喜、

享楽、躍動が満ちてもいた。この中では黒さこそが全能の力を発揮し、黒人

性の爆発的エネルギーさえ放出された。しかもそれは続いている。黒人性、

黒さの中に、文化的豊穣性の再発見と復興、及び創造的開花の根があり、そ

れらの復権を黒人神学は強硬な態度で主張しているのである。

ところで、この豊穣な黒人性の追求と永続化への主張の陰に、祖先のアフ

リカ文化の遺産への憧慢のみならず、聖書世界とエチオピアニズムの潮流の

存在も忘れてはならない。それは白人キリスト教会が長年、黒人をノアの呪

われた次男ハムと結びつけ、黒人の白人への絶対的服従を運命づける神告内

谷とは異なっている。それは旧約聖書イザヤ書や詩篇などで言及される、エ

チオビア/クシュとの関係によるものである。エチオビアが神へ子を差し伸

ばしたことや、使徒時代のエチオピアの官官の改宗(彼はそれを国に伝えた

と予想される)などから、キリスト教団としての「正統'性」を主張する妥当

件Jま認められて然るべきであろう。エチオピアはソロモンとシェパの子孫と

される人物を代々王に戴き、 4世紀初頭よりエチオピア教会を創設して以来、

連綿と独自のキリスト教王国としての伝統を育成し、継承してきた。この歴

史と伝統は、しかし事実ないし史実としてよりも、アフロ・アメリカンにと

ってはむしろ象徴的に重要な事項であり、数々のインスピレーションの源と

なってきたものである。アフロ・アメリカンは大局的にはこの伝統との繋が

りを主張する。またこれも含めて黒人神学は、守 l/手f宅kf?ヲ不手手5?中ずの黒さ、アフリカ性の再生、復興を強く願望するのである。

この主張される黒人性は、奴隷制時代より WASP文化の海面下に埋没させ

られてきた。黒人の神学は、その主張を黒人神学という形で始めるまで、白

人神学優越ないし上位の下に長く潜んでいたのだった。しかし黒人宗教経験

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関際学論集

の豊穣性、深遠さ、多様性は、黒人共間体及び醸人の経験の、漏擦として存在

し続け、ただ黒人性とキリスト教神学が無関係か離反すべきものとして取り

沙汰されるのを嫌っただけである。現在でも多く関かれる黒人神学の主張iこ

対する白人の側の否定的言説は、明らかに人種差別的偏見に基づいている。

それを逆手に取り、黒人の人種性、エスニシティを前面的に押し出すことで、

彼らの方が人種主義者だとの非難を浴びる程に、集合的自己主張を意図的に

激化してきたと考えられる。それは白黒にまつわる人種問題が、白人神学者

の吉宮牲を突く最も敏感なアキレス麓だったからである。黒人の隷から見れ

ばぬるま湯に長くどっぷりっかり過ぎ、のぽせてまどろんでいる欧米白人社

会と文化の産物としての自入神学は、鋭くけたたましい吠え声で目覚めさせ

られなければならなかった。白人神学(者)に噛みつき、神学界に希望をも

たらす暴風雨の到来を祈る必要があった。黒く光り、潮を吹き上げ、ブリー

チングする註大を鯨のような黒人神学は波罷に姿を表わしたのである。

第四点は、これらの意図や主張が彼ら自身にとり、より満足のいく社会と

文化の建設のためになされるiまずだ、と強〈自覚されていることである。こ

の強力で持続的な意識は、個人のレベルよりも集合的レベルにおいて、より

深く保持されてきた。それは多分にアブロ・アメリカン独自の共同体意識、

連帯惑に貰うていると患われる。そしてこれは最後の組織的な試みという点

にも関ってくる。黒人神学の場合、この組織化は全体的統合化を目指しはし

ないが、内部で分較し、持に紹矛虐していても、決して愚人プレーに留まる

ものではない。単純な統一化はむしろ運動の進展と活性化のためには不必要、

とさえ見倣されたかのようである。挑戦及び抵抗の相手は、ヨーロッパイとさ

れ過ぎた白過ぎる神やキリストの概念、そして「白い」キリスト教そのもの

である。さらに白い信仰の主体が実は多くの黒人でもあったことへも、警鐘

を鳴らさねばならなかった。ともあれ主導者たちは、あえて大程な発言を提

示することによって、協力支援者の増加と意見調整、より大きな共同体、及

びグローノfルなレベルでの討論や実践への応用、あるいは実践fとへの効果的

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黒いアメリカのJ'l!l(長嶋}

な意見の詔米を意図してきたと考えられる。

以 iニ概括的に考察したように、祭入神学は黒人性というニにスニシティを核

とした土着主義運動としての性格を有していることが明らかになった。そし

てこの運動は過去との対話のみならず、正義と愛と棄の解放を積極的に目指

し、過去・未米という時間紬の両方向を臼自に飛朔し続けていると言っても

過詳ではないのである。

結び

土器主義運動としての黒人神学は、まずヨ…ロッパ的過ぎる、そして白過

ぎる衿やキリストを抹殺し、悪さを主張のや心に謡え、より蒸しいや織車

的に祭く塗り変える作業であった。それは黒人が自分らしさを感じ、取り戻

し、臼信をもって表現し、創造するための運動である。黒人神学の依拠する

基盤がより広義にはアフロ・アメリカ、そしてアメリカにあるということは、

またそれらの膝史的、社会文化的拘束を十分受けてもいることではある。と

はいえ、アフロ・アメリカンのみならず、これはグローパルに議d入金てにとわさ

って、一つの新しい解釈及び選択肢を提供し、そして普遍的な知と業一体と

なった神学構築への一つのステッブとなったと言えるであろう。

筆者はアメリカ生まれの黒人神学のアメリカ性を指摘し、それを土着主義

運動のーっとして説明してきた。それにより、アメリカ黒人のアメリカ的特

徴がより明らかになり、またそれが翻って従来の我々のアメリカ(入、文化)

観に幅と深みを増したかったからである。しかしこの当初の目的を達するた

めには、別の比較の視野が必要であることは前iこも述べた。例えば、黒人神

学の出現と波及に関係し、また黒人神学の側からもアブローチしていったア

メリカの外の黒人ディアスボラの視点である。はじめにも触れたように、そ

の点、できわめて見類の経験を裂の、しかし近接する地理的環境で積んできた

カリブ海地域の黒人系は、格好の対象となる。本稿では紙枚の関係上、その

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間際学論集

比較の視座の必要性を述べるだけにとどめる。例えば黒人神学が、アメリカ

の外側、カリブ海地域からはいかように見ることができ、また実際いかに見

られてきたのか、といった点については別穏に譲ることにしたい。

(付記) 近年は「黒人」や「アフロ・アメリカン」の代わりに「アフリカ系

アメリカ人」という表現の方がよく使われるが、本稿では、色や人種性にこ

だわった「黒人Jや、 60年代より盛んに使われた「アフロ」の表現をそのま

ま生かすために、従来通りとした。

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