医療人類学入門 - 大阪大学...で,未開医療(primitive...

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療人類学Introduction to Medical Anthropology 阪大学ミュニケーションザイン・ンター Center for the Study of Communication-Design, CSCD 田 IKEDA Mitsuho 近代医療の起源(9章) 感染症の隠喩(10章) 1

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医療人類学入門Introduction to Medical Anthropology

大阪大学コミュニケーションデザイン・センターCenter for the Study of Communication-Design, CSCD

池 田 光 穂IKEDA Mitsuho

近代医療の起源(9章)感染症の隠喩(10章)

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医療のさまざまな〈かたち〉

•近代医療(modern medicine)という用語が登場する19世紀末期から20世紀初頭にかけての欧米では,近代医療とは異なった「医療」すなわち,伝統医療,古代医療,民間医療など,今日では代替医療(alternative medicine)や補完的医療(complementary medicine)と称される医学への学問的関心が生じる。

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四百年以上の広がり?• 近代医療の出発点と主張される医学上の発見やその歴史的事象については,多くを指摘することができます.医学理論に注目すると,古くは血液循環を発見したウィリアム・ハーヴェイ(1578~1657),臨床現場における観察を重視し,今日的な病気観察の類型論を確立したトマス・シデナム(1624~1689),30歳で夭折するまでに精力的な病理解剖を行なった組織解剖学の祖マリ・フランソワ・ビシャ(1771~1802),実験にもとづく生理学の基礎づけを行なったクロード・ベルナール(1813~1878),実験医学の基礎をつくったルイ・パスツール(1822~1895),パスツールとならび細菌学の祖とされるロベルト・コッホ(1843~1910)まで,その科学的認識の始祖とされる人たちの活躍にはおよそ四世紀の広がりがあります.

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社会統制としての医療

•近代医療を典型的な近代制度と見立てて,社会統制のシステムであるとみると「医療警察」制度を考案したヨハン・ペーター・フランク(1785~1821),イギリスの衛生改革運動の強力な推進者であり公衆衛生法と行政機関としての保健局の設置に貢献したエドウィン・チャドウィック(1800~1890)などが,まさに近代医療の確立者であると言えなくはありません.

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近代科学としての医療• 近代医療を今日のようなシステム化された科学的知識とその技術的外挿と考えると,そのモデルは新大陸の北アメリカに求められ,定番となる医学教科書をつくったウィリアム・オスラー(1849~1919)やジョンズ・ホプキンス大学設立の功績者であるウィリアム・ヘンリー・ウェルチ(1850~1934),医療の定式化をロックフェラー財団の全面的な援助をバックに制度改革として精力的に推し進め,世界の最高水準にまで高めたサイモン・フレクスナー(1863~1946)の名前を忘れるわけにはまいりません.

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近代という時間性

• 近代(modern)という表現における時間概念は,それが同時代の(contemporary)中にあるということです.ということは,我々が享受している同じ医療体系が,ある時期以降に到来した/誕生した/確立した医療と同じものだと感じた際に,それを我々は近代医療と呼んでいるのです.しかし,その時間的概念を軸にして近代医療というものを理解する人の態度は,ただ単にその基準の中に安住しているだけではありません.同時代においてさえ,時代遅れの医療や近代医療と異質なものであると見なされる医療は,近代よりも時間的に遡る「前近代」ないしは「古代」や「中世」といったレッテルを貼られます.

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反医学とは?

• 同時代性が保証する普通の世界の外側にいるという意味において,否定的な「反医学」とか「非医学」という接頭辞を付けられて表現され,同時代性つまり同じ世界の圏外に放り出されてしまいます.なぜなら,たいていの人間集団は,自民族中心主義つまり「自分たちがつねに他の集団の人たちよりも優れている」という偏見の色眼鏡によって自分たちが当然とみなすものを最高ないしは最適なものと見なしがちだからです.

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モダンメディシン• アメリカ合衆国ミシガン州バトルクリークにあるサナトリウム兼病院において『モダンメディシンと細菌学の世界』という雑誌が1893年に発刊されます.細菌学は,その当時の近代医療におけるもっとも強力な学問的パラダイムでした.この雑誌は翌年に「世界」を「レビュー」に変えた後,1900年に細菌学の名前が消え『モダンメディシン』と改名されます.モダンメディシンを冠した雑誌は1943年に『モダンメディシン・マニュアル』,これは15年後に『レビュー・オブ・モダンメディシン』と改名されますが,この『モダンメディシン・マニュアル』になるまで現れません.

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W.H.R.リヴァーズ• イギリスの精神科医で人類学者のウィリアム・H・R・リヴァーズは1915年と1916年にロンドンの医学校での講演で,未開医療(primitive medicine)について重要な指摘を行なっています.リヴァーズは,未開医療の研究以外に,第一次世界大戦期に起こったシェルショックすなわち戦争神経症や,産業革命から飛躍的に進歩を遂げた大量旅客輸送手段である鉄道の大規模な事故によって生じる心理的トラウマ,当時は鉄道脊損と呼ばれていましたが,それらの心理的ショックの研究を行なっていました.今日ではリヴァーズの名前は,PTSD研究における,もっとも初期に精確な臨床記録と心理的トラウマの理論を打ち立てた1人としてよく覚えられています.

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William Halse Rivers Rivers, FRCP, FRS, (12 March 1864 – 4 June 1922) was an English anthropologist, neurologist, ethnologist and psychiatrist, best known for his work with soldiers during World War I who were suffering from shell shock.

Haddon

Rivers

Seligman

RayWilkin

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2つの異質性

•1つは同時代性を拒絶する発展の途中で古くなってしまったモダンメディシンの部分的過去であり,

•他の1つは前近代=非近代=伝統=未開という発想の連鎖の中で位置づけられる民俗医療という近代医療から排除された迷信や宗教的要素のこと

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医療的多元論(medical pluralism)

•復習•多元的医療システム/多元的医療体系•多元的医療行動

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生物医療の多元性

•一見一枚岩に見える近代医療つまりモダンメディシンにおいてすら,その実態は,中心的な考え方をなす生物医療(biomedicine)を中核に,相矛盾する複数の理論と実践からなる構成体である可能性が高いということです.このように見ることで,非近代医療つまり民俗医療もまた近代医療との同列の次元で取り扱うことができる地平を我々は持つようになった

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「社会の脱病院化」とは?• 2002年12月2日ユダヤ人でカトリック司祭であったイヴァン・イリイチ(1926~2002)が亡くなりました.イリイチは「社会の脱病院化」について直接このスローガンを掲げたわけではありません.イリイチの著作の原題である『医療の限界』を1978年に日本語に翻訳した金子嗣郎氏という精神科医が,イリイチの著作がもつメッセージを日本語のこの標題として掲げたのです.

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「加療のために入院する」

• hospitalizeは「加療のために入院する」という意味があるので,この用語法は日本語ならではの特殊なものです.病院を「近代システムの収容所」という風な悪い意味合いで用いている点でも,脱病院化の意味はさまざまな誤解を産む可能性のある多義的な用語になりました.そして,当時の世界的な近代医療批判の時流に乗って,この言葉は人々の心を魅了した。

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医療化の現在• 医療化(medicalization)に関する議論や病院のシステムそのものは,時代や経済の流れを受けて変容を遂げてきました.そして,病院はかつての全制的施設(total institution)という古典的な意義を失いつつあることは明らかです.したがって,現況の日本において脱病院化の理念は,それをオリジナルに掲げた人たちとはかなり異なったかたちで実現されつつあるといえます.

•  しかし「病院化」とは医療化のことであり,病院が社会の中の施設から社会の制度そのものへと,あるいは,身体を収容する施設から時代精神を収容する社会制度となったと理解すれば,病院化社会は脱病院化という経路を通らずに別種の病院化社会になったのかもしれません.

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感染症の隠喩

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隠喩から逃れることはできぬ

•隠喩という想像力を抜きにしては生きてはいけない.感染症にまつわる様々な社会的現象においても隠喩の力が作用していると言ってもよい.隠喩は人間の創造力の源泉であると同時に,私たちの思考の範囲を限界づけ,それ以上,自由に観念を使わせないようにする呪縛の原因にもなる。

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隠喩の呪縛からの解放

•隠喩の呪縛から解放されるためには,(1)隠喩から自由になる,(2)自らも隠喩を駆使しながらも隠喩の作用につねに自覚的になる,という2つの処方箋が考えられます.筆者の立場は,隠喩から自由になれるという幻想をもつことを放棄しながらも,希望を捨てずに(2)の立場をとるものです.

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『Z』(C.コスタ=ガヴラス監督,1969年)

• フランスの俳優イヴ・モンタン扮する民主運動のリーダーZ氏が危険を冒して政治集会に臨み,右翼の暴漢に殴打され死亡します.民主的運動を抑圧する軍事政権の暴力のメカニズムをドキュメンタリータッチで描いたものですが,映画の中には登場人物に関する挿話がパッチワークされており,複雑な人間模様をみることができます.物語の後半は,民族楽器を使った音楽をバックにさらにテンポのよい映像が続いていきます.未来を約束された法律エリートである予審判事が,ちょっと怪しいカメラマンの助けを借りながら当局の隠蔽工作に屈することなく事件の真相究明を行い,ついには軍事政権の上層部の逮捕までにいたるという痛快な物語展開を遂げます.ヒーローの予審判事が迎える結末はまだ観賞されていない読者の楽しみのために,ここでは沈黙

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軍事政権のまがまがしさ• この映画の冒頭では,軍事政権の農務次官が,農作物のぶどうの病害ベト病(糸状菌の寄生による)の猛威について語り,〈病害=ばい菌〉の防御について疫学に基づくボルドー薬剤液の散布のキャンペーンの説明から始まります.続いて憲兵隊司令官がその説明を受けて今度は〈思想の病害〉の駆除も同じ論理で行うべきだと熱弁を振るいます.このシーンは抑圧的権力のまがまがしさを伝えて,筆者は冒頭の見事な映像だと感じる瞬間でもあります.ちなみにこの時期の〈思想の病害〉とは,冷戦期における共産主義思想を指していると思われます.軍事政権の側からみると,自らの思想弾圧のやり方を表現するには,作物にはびこる〈ばい菌〉を制圧せよという喩えがぴったり

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隠喩/換喩/提喩• 事物としてはお互いに相互に関係がなくても,それらがある意味の体系の中における意味づけが類似しているとき,それらを隠喩(メタファー)関係にあるといいます.たとえば,王様の隠喩表現としてライオンが使われるとき,それは人間の王と動物の王の類似性を指し示しているわけです.隠喩と似たものにメトミニー(換喩)という言葉があります.隠喩でいう王とライオンは同じものではありません.しかし王の権威の象徴たる王冠や杖のように身体の部分であったり延長上に位置づけられるものはどうでしょうか.王様のことを言う代わりに,王様が身につけているもの(すなわち部分)をもって王様を表現することを,ここではメトミニー(換喩)と言います.さらに,隠喩と換喩のほかに,表現するものと,表現されるものの関係が,包含,発展(成長)あるいは変化の関係で示されるものがあります.大きな玄関はただ単に屋敷の一部として表現されますが,大きな屋敷に住む豊かな家族の成功と繁栄という成長の結果を意味することがあります.このような表現はシネクドキ(提喩)の関係にあると言います.

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『フレキシビリティ:ポリオの日々からエイズの時代までのアメリカ文化における免疫性の役割』

•エミリー・マーチン『フレキシビリティ:ポリオの日々からエイズの時代までのアメリカ文化における免疫性の役割』1994年の著作

• 1950年代以降のアメリカ合衆国における免疫概念が,どのような大衆化を遂げたかについて,専門家ならびに非専門家へのインタビュー調査,科学的読み物の分析等を駆使して明らかにしている

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資本主義社会におけるサバイバル用語として

• 免疫学における身体の防御機構の説明のように,現代アメリカの社会では個々人の身体は,さまざまな外部からの個々の侵襲から身を守るために柔軟に対応することを要求されます.あたかも身体が細菌に対して免疫力を高めるように,産業化された社会のなかでは個人はそれぞれの労働現場における個人的資質を高めなければなりません.しかし労働現場では,さまざまな上司や部下からのプレッシャーにより個人の身体はストレスに苛まれます.個々人は免疫システムのリンパ球のように,お互いに協力しながらサバイバルしなければなりません.しかし組織もまた,同時にひとつの身体のようでもあり,外部からの侵襲(ライバル会社からの追い上げ,金融市場と連動した企業買収などの動き)に適切に対処していかねばなりません.

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柔軟な身体=フレキシブル・ボディ• 免疫の隠喩は,個々人の身体の外部へも伸展してゆく隠喩でもあります.ちょうど会社組織が雇用者調整をして,不確実な経済環境を生き残ったり,解雇された労働者が次の雇用機会を生かしたりしていけるように.「柔軟な身体=フレキシブル・ボディ」という一種の身体観あるいは世界観は,私たちに現代社会で生き残るための可能性をあたえてくれます.組織なしには給料を稼げない私たちをかえって弱い存在に過ぎないと思いこませるという可能性も同時にあります.柔軟な身体のあり方は,別の局面では柔軟ではない古典的な,それまでの疾病観や健康観への挑戦にもなります.私たちは最新の免疫理論からヒントを得て,病原を完全に駆逐するという不可能な理想を抱くよりも,(予防注射やカウンセリング,あるいは個々人の資格取得などの)自己の免疫力をつけて,いかに上手に病気に軽く罹るのかということが重要であることを学びます.ここでは健康の本質主義に代表されるような「柔軟ではない身体観」に対して挑戦が行なわれています.

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アントノフスキー仮説• アントノフスキー[2001]は,健康達成ないしは回復には,(1)健康を生み出す社会における身体的メカニズムと,個々人の主体のなかに(2)身体統一感(Sence of Coherence;SOC)が不可欠であるとしました.前者すなわち,健康を生み出す社会における身体的メカニズムは,サルートジェネシスすなわち健康の生成論という考え方で,健康を維持できる個人と社会がおかれている状況のなかに健康を支配する要因すなわち衛生的要因(sanitary factors)があり,それらがうまく働くことが重要であるとしました.また,後者すなわち身体統一感が不可欠であるという考え方は,健康を増強するような強さは主体がもつさまざまな身体的社会的要素の結合力(ないしは首尾一貫性)が十全であることを示したものであり,尺度化可能なものとされています.

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アントノフキー仮説の可能性と限界

• アントノフスキーがいくつかの書物を通して,このような仮説(理論)に到達したのは,彼自身のユダヤ人同胞に対する第二次大戦中ないしは戦後のシオニズム国家のなかで,生存条件の危機的な状況に遭遇しても「健全」な身体と精神をもつ同胞がいたことに対する経験からきています.健康が人間にとって非常にダイナミックな実体であるということを指摘した点ならびに,健康達成を個人的な到達ではなく社会との関係のなかで考えたことは重要な指摘です.他方,医療化により,個人の主体感覚や医療行動が変容することや,その理論自体もやがて一種の健康主義化するということを予言できなかった点で,理論的には仮説のままにとどまっており,明らかに欠陥のある仮説です.

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軍事化する公衆衛生• 学問としての公衆衛生学は〈新しく登場した感染症〉により再び社会的活力を取り戻しています.あるいは新たな活力を得つつあると言ってもよいでしょう.感染症と闘うことは,人びとの福利と世界の平和に貢献するからです.新型インフルエンザに関する政府や自治体の広報,あるいは細菌戦争風の摸擬演習などについては,近年ではよくマスメディアでの紹介で読者もご存じでしょう.異教徒の聖戦については私たちにはなかなか理解が困難ですが,他方で,生物医学的〈聖戦〉の概念に関しては,私たちは誰も疑うこともせず,日常生活に少しずつ定着しつつあります.もちろん,この聖戦は世界での同じ信仰を有する同志たちのネットワークのおかげで,国際的な協調を呼びかける社会効果を生みました.と同時に,HIV感染患者の自助グループの形成や政府の救済措置への政治的な動きなど地域社会においても,さまざまな世界再編の機会をもたらしています.そこで重要になることは,この種の病気の隠喩の共有とそれに立ち向かう人びとの新たな組織の再編にほかなりません

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