月泉良印の伝記史料...

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  • 駒澤大學佛敎學部論集 

    第四十二號 

    平成二十三年十月

    六九

    凡 

    一、以下は南北朝期に奥州胆沢郡黒石(いまの岩手県奥州市黒石)の大梅拈華山円通正法寺の第二世として活躍した曹洞宗峨山派(月泉派祖)の月

    泉良印(仏覚古心禅師、一三一九│一四〇〇)の伝記史料「二代月泉和尚行状」について、その翻刻と訳註を施したものである。

    一、「二代月泉和尚行状」は室町中期の応永一五年(一四〇八)二月二四日に月泉良印の嗣法の小師であった虎渓良乳(一三五三│一四二二)が奥

    州磐井郡峠村(いまの岩手県一関市花泉町老松)の龍雲山大祥寺の住持として撰述したものである。

    一、底本に用いたものは京都花園の正法山妙心寺の塔頭龍華院に所蔵される臨済宗大応派(妙心寺派)の無著道忠(葆雨堂、一六五三│一七四四)

    が書写した『諸師行録』二に所収される「二代月泉和尚行状」であり、ここでは花園大学・禅文化研究所で撮影した影印本をさらに駒澤大学図書

    館所蔵で複写したものを使用している。

    一、異本として対校に用いたのは、奥州南部閉伊郡小国(いまの岩手県宮古市小国)の雞頭山大円寺に所蔵される「仏覚古心禅師月泉良印大和尚行

    状」であり、これは江戸後期の文化元年(一八〇四)三月二四日に大梅拈華山円通正法寺の住持であった俊巌雅堂(俊嵓、?│一八一七)が寺内

    に所蔵されていた原本を書写して大円寺に寄贈したものであり、大概は『諸師行録』収録本の「二代月泉和尚行状」と同内容といってよい。ただ

    し、現在、かつて正法寺に所蔵されていた「仏覚古心禅師月泉良印大和尚行状」の原本の方はすでに失われている。

    一、参考史料の第一として出羽置賜郡浅川村(いまの山形県米沢市浅川)の龍燈山瑞雲院に所蔵される月泉派の金堂良菊(妙菊とも、一四〇八│

    一四七七)が撰した「正法二世瑞雲開山月泉良印禅師行状記」(『続曹洞宗全書〈寺誌・史伝〉』に所収)を、第二として岩手県東磐井郡藤沢町黄

    梅の熊谷元治氏(現在は熊谷正雄氏)のもとに所蔵される『黄きのみ海熊谷氏系図』所収の「月泉良印大和尚」の箇所を載せておく。

    一、底本には改行などは存していないが、解釈の便を図って全体を内容的に区分し、各箇所に主要な事項についての表題を﹇ 

    ﹈のかたちで挙げて

    おきたい。 月

    泉良印の伝記史料

       

    │『二代月泉和尚行状』の翻刻と訳註│

    佐  

    藤  

    秀  

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    七〇

    一、底本の「二代月泉和尚行状」は白文で句読点・訓点・返り点などは付されていないが、「仏覚古心禅師月泉良印大和尚行状」にはルビと返り点

    などが付されており、本稿でもこれを参考に用いている。また小文字で二行にわたって記されている注記の類いは〈 

    〉で一行に表記しておきたい。

    一、「二代月泉和尚行状」の本文に関しては、原則として正字(旧字体)で表記することにしたいが、原文の書体をそのまま用いた場合も存する。

    一、本史料の内容は拙稿「無底良韶の伝記史料│『大梅拈華山円通正法寺開山無底良韶和尚行業記』の訳註│」(『駒澤大学禅研究所年報』第

    一三・一四合併号、二〇〇二年一二月)と対をなすものであり、正法寺の開山である無底良韶と第二代である月泉良印の事跡は、東北地方におけ

    る曹洞宗の展開を窺う上できわめて貴重な内容を多く含んでいる。

    一、本文の異体字・略体字・俗字については可能な限り底本に忠実に翻刻したいが、活字による表記の問題から正字(旧字)に統一した場合も存す

    る。(例)為│爲 

    │ 

    │歸 

    │繼 

    │鎌 

    舉│擧 

    │號 

    │再 

    │參 

    │旨 

    │事 

    │稱 

    │韶 

    │雖 

    │禪 

    │叢 

    │添

    一、踊り字の「々」に関しては、文の区切りや状況などにより元来の字に改めた箇所が存する。

    一、原文は正字体ないし筆写体をそのままに用いるが、訓読文では原則として常用漢字に改め、送り仮名も歴史的仮名使いではなく、現今の表記で

    統一しておきたい。

    一、註記は読解上に必要と思われる語句の意味を明らかにする範囲に限っておきたい。なお、註記を付するのに際しては、岩手県立博物館編『〈み

    ちのく曹洞の古刹〉奥の正法寺』(昭和六二年一〇月刊)と、正法寺刊『〈奥羽曹洞の古刹〉大梅拈華山円通正法寺│沿革と写真│』(平成二一年

    六月、光陽美術)と、曹洞宗宗宝調査委員会(後に曹洞宗文化財調査委員会と改称)編『曹洞宗宗宝調査目録解題集2│東北管区・北海道管区編

    │』(平成六年九月、曹洞宗宗務庁刊)などを参考にした箇所が多い。

    一、あくまで本史料を読解することを目的としているため、他の諸伝との比較検討を通じた月泉良印伝の総括的な考証は煩瑣にわたるため最小限に

    留めておきたい。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    七一

    二代月泉和尚行状

    ﹇伝記史料の表題﹈

    二代月泉和尙行狀。

    二代月泉和尙行狀│佛覺古心禪師月泉良印大和尙行狀

    瑞…正法二世瑞雲開山月泉良印禪師行狀記。

    熊…黃梅熊谷氏系圖。

    (正法)二代月泉和尚の行状。

    正法寺第二代の月泉和尚の行状。

    二代…『諸師行録』二に「大梅拈華山円通正法寺開山無底良韶和尚行

    業記」につづいて所収される史料であり、二代とは正法寺第二世の

    こと。おそらく正式には「正法二代月泉和尚行状」とでもすべきで

    あろう。

    月泉和尚行状…曹洞宗峨山派(月泉派祖)の月泉良印の伝記史料でも

    最古層をなす。京都妙心寺塔頭の龍華院所蔵『諸師行録』二に所収

    される「二代月泉和尚行状」を定本とする。良印には伝記史料とし

    てほかに岩手県宮古市の大円寺所蔵「仏覚古心禅師月泉良印大和尚

    行状」が存し、概ね内容は「二代月泉和尚行状」と同文であるが、仏

    覚古心禅師の勅諡号が付されている。正法寺の寺伝によれば、仏覚

    古心禅師の勅諡号は良印の一〇〇回忌に当たる明応八年(一四九九)

    に後土御門天皇より賜ったものと伝承されている。また山形県米沢

    市の瑞雲院には「正法二世瑞雲開山月泉良印禅師行状記」が所蔵さ

    れており、これは先の史料に内容を付加して成立したものであるが、

    そこには仏覚古心禅師の勅諡号については記載が存していない。禅

    師号が下賜される前に内容が瑞雲院に伝えられたためであろうか。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    七二

    ﹇出生の機縁と幼少時の逸話﹈

    師諱良印、號月泉。姓藤氏。奥州本吉連熊谷尙能叔子也。母甞祈橫山不動云、妾願産敏子爲佛母。毎日稱號一百八拜。或夢臨

    清泉掬月飲、爾後有胎。覃于誕、骨氣異常、于時元應元己未二月廿四日也。七歳通倭歌、知事如神。父母怡愛。

    不動│不動尊 

    或夢│或時夢 

    己未二月│己未年 

    七歳│七歳而

    瑞…師諱良印、號二

    月泉一。姓藤原、熊谷直頼之子也。以二

    元應元己未仲春二十四日一、生二

    奧州本吉郡一、實熊谷尙能之叔子也。母甞祈二

    橫山不動一

    曰、妾願

    産二

    敏子一

    爲二

    佛母一。毎日稱號一百八拜。或夜夢下

    臨二

    清泉一

    掬レ

    月飲上、即有レ

    胎。覃レ

    誕、儀貌偉秀、氣宇超邁。七歳通二

    和歌一、知レ

    事如レ

    神矣。

    熊…月泉良印大和尙、熊谷金吾校尉丹墀直能第四固、直常・直朝同母弟也。母所レ

    希欲下

    生二

    聰敏児一

    為上レ

    僧、到二

    於横山大德寺一、頻禱二

    不動尊一、夢三

    掬レ

    呑二

    掌中月一

    有レ

    孕。元應元年二月二十四日、産二

    於波洛上城一。故小字名二

    月泉一。元德二年二月、與二

    父母一

    倶從二

    於桃生郡寺﨑塞一。

    師、諱は良印、月泉と号す。姓は藤氏、奥州本もと吉よし連むらじの熊谷尚なお能よしの叔子なり。母甞て横山不動に祈りて云く、「妾わらわ、願わくは敏

    子を産みて仏母と為らん」と。毎日、称号して一百八拝す。或るとき夢に、清泉に臨んで月を掬すくいて飲む。爾しかる後、胎むこと

    有り。誕まるるに覃およんで、骨気は常と異なる。時に元応元己つちのと未ひつじ二月廿四日なり。七歳にして倭わ歌かに通じ、事を知ること神の如し。

    父母、怡び愛す。

    先生は法諱(僧名)が良印であり、月泉と号した。俗姓は藤氏であり、奥州の本吉連の熊谷尚能の叔父の子である。母はかつ

    て横山不動尊に祈願して「私は敏い子を産んで仏門に投ずる子の母となることを願います」と述べ、毎日、真言を唱えて百八

    拝していた。あるとき夢の中で清らかな泉に臨んで水面に映る月を掬って飲んだ。その夢を見た後、妊娠したのである。その

    子が誕生するに及んで、気概は常の子と異なって優れていた。ときに元応元年(一三一九)己未の二月二四日のことである。

    その子は七歳のときには和歌に通じ、ものごとを知るのが神のように素早かった。父母は悦んで愛育した。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    七三

    諱は良印…諱はここでは法諱のこと、僧名で出家者の実名をいう。良

    印という法諱はおそらく出家得度した際に受業師から与えられたも

    のであろうが、あるいは峨山下に投じて後に「良」の系字を与えら

    れているのかも知れない。

    月泉と号す…号は道号のこと。月泉という道号は法諱の下字「印」に

    因んで名づけられたものであり、良印自身が自号として称したもの

    か、あるいは得法して後に本師の峨山韶碩のもとで与えられたもの

    であろう。ただし、『黄海熊谷氏系図』では、もともと小字を月泉と

    名づけたとする。

    姓は藤氏…藤原氏の流れ。姓は名字。氏姓。ここでは藤原氏の一族の意。

    奥州本吉連…奥州(宮城県)の北東部の本吉郡の地、岩手県気仙沼に

    近く、東は三陸海岸。『葛西実記』『封内風土記』などによると、千

    葉氏の一族と熊谷氏がこの地の地頭職にあったとされる。本吉は本

    良・元吉とも。連(むらじ)は古代の姓の一。

    熊谷尚能の叔子なり…『宮城県姓氏家系大辞典』によれば、熊谷氏は

    奥州吉本郡赤岩城(気仙沼市)に代々居城し、一族が付近の月館・

    長崎館・中館などに在って、本吉郡・桃生郡を支配していたとされる。

    また熊谷正雄氏所蔵『黄梅熊谷氏系図』の「月泉良印大和尚」の項

    では「熊谷金吾校尉丹塀直能の第四固(子)にして、直常・直朝の

    同母弟なり」と記されており、父の名を丹塀直能(熊谷金吾校尉)

    とし、母を同じくする俗兄に直常と直朝が存し、ほかに俗姉もいた

    とする。これらによれば、月泉良印の伯父の子が尚能であり、父が

    直能であり、尚能と良印らは従兄弟の関係にあったことになろう。

    一方、『正法二世瑞雲開山月泉良印禅師行状記』によれば、良印は熊

    谷直頼の子と記され、父の名が直頼であったとされる。また同じく『正

    法二世瑞雲開山月泉良印禅師行状記』によれば、良印の父直頼は文

    和二年(一三五三)三月一三日に逝去し、法名が力伊元越居士であっ

    たとされる。『続群書類従』第六輯上に所収される「熊谷系図」など

    には月泉良印の名が見られない。いずれにせよ、良印の俗系につい

    ては混同が見られる。

    母…母の氏姓や名前については記載が存していない。ただし、『正法二

    世瑞雲開山月泉良印禅師行状記』によれば、母は延文元年(一三五六)

    三月二八日に逝去し、法名が越縁張刃大姉であったとされる。

    横山不動…奥州本吉郡横山にあり、現在の宮城県登米市津山町横山本町

    にある白魚山大徳寺のこと。『黄梅熊谷氏系図』には横山の大徳寺と

    記されている。宮城県東北部に位置する古刹で、保元元年(一一五八)

    に百済(朝鮮半島)から流れ着いた仏像を祀って建てられた堂宇を

    起源とし、開基は橘知禅と伝えられる。もと明王山金剛寺と称し、

    真言密教の道場として開かれたが、永正元年(一五〇四)に鴻巣城

    主葛西氏の武将男沢蔵人によって再興されて曹洞宗に改宗し、大徳

    寺と称して現今に到っている。本尊の不動明王坐像は伝弘法大師作

    と伝えられ、日本三不動の一つと称される。

    妾…わらわ。女性が自らを謙遜して用いる自称。

    敏子…聡い子。聡明な子。敏は頭の回転が早く賢いさま、勤勉なさま。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    七四

    ﹇塩

    での出家と下野薬師寺での受戒﹈

    正慶元壬申〈師歳十有四也〉、投塩

    出家、受經習真言。建武二乙亥〈師歳十有七也〉、執行護摩供。同年、登野州薬師戒壇、

    屢探教内玄旨。

    仏母…仏の母。ここでは「仏縁を結んだ母」の意。

    称号…名号を唱えること。大徳寺では本尊の不動明王に対して唱えら

    れているのは「不動明王真言」であり、その真言は「南謨三曼多、

    縛曰羅赧、戦拏、摩訶路灑拏、薩破

    也、吽怛羅他、憾

    (ノーマク、

    サンマンダー、バーザラダン、センダー、マーカロシャーダー、ソ

    ワタヤ、ウンタラター、カンマン)」というものであり、大意は「激

    しい大いなる怒りの相を示される不動明王よ。迷いを打ち砕きたま

    え。障りを除きたまえ。所願を成就せしめたまえ。カンマン(種子)」

    となる。

    一百八拝…百八という数は人間の持つ百八煩悩に因む。母は煩悩を一

    つ一つ払うために礼拝をなしたものであろう。

    清泉に臨んで月を掬いて飲む…清泉はおそらく横山不動尊に流れる霊

    泉であろう。掬月は水中の月を両手で掬い取ること。

    誕まるるに覃んで…誕生するに及んで。覃は及に同じく、及ぶの意。

    骨気は常と異なる…骨気は気概。品格・人柄や持ち前の気質。気概が

    普通の子供と異なって優れていること。

    元応元己未二月廿四日…鎌倉後期の元応元年(一三一九)二月二四日。

    『黄梅熊谷氏系図』によれば、この日、月泉良印は本吉郡の波路上城

    (いまの気仙沼市波路上)において生を受けたとされ、すでに俗名を

    月泉と名づけられたと伝えている。

    七歳…良印が数え年で七歳になったのは正中二年(一三二五)に当たる。

    この年八月一五日(中秋日)に法統の師翁に当たる瑩山紹瑾(仏慈

    禅師か、一二六四│一三二五、または一二六八│一三二五)が能登

    (石川県)鹿島郡酒井保の洞谷山永光寺で世寿六二歳(または五八

    歳)の生涯を終えている。『黄梅熊谷氏系図』では「元徳二年二月、

    与二

    父母一

    倶従二

    於桃生郡寺崎塞一

    」という記事が存しており、元徳二年

    (一三三〇)二月に良印が一二歳で父母と共に奥州桃ものう生郡ぐん寺崎塞(い

    まの宮城県石巻市桃生町寺崎)に身を寄せたことを伝えている。

    倭歌…倭は和に通ずる。和歌のこと。良印はおそらく幼い頃から父母

    より和歌を習っていたものであろう。

    事を知ること神の如し…物事の道理を知るのが神のように素早かった

    ことをいう。良印が幼き頃より聡明かつ機敏であったさまを述べた

    もの。

    怡び愛す…怡は喜ぶ、和むこと。両親が喜悦して愛育したこと。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    七五

    薬師│藥師寺 

    教内│教内之

    瑞…正慶元壬申〈師歳十有四〉、白二

    父母一

    求二

    出家一。父母喜隨レ

    之。乃投二

    教院一、受レ

    業習二

    眞言一。建武二乙亥〈師歳十有七〉、執二

    行護摩供一。同年、

    登二

    野州藥師寺戒壇一、屢探二

    教典一。

    熊…正慶元年、十四歳時、祝二

    髮於鹽竃法蓮寺密院一、以習二

    密宗一。建武二年、登二

    於野州藥師寺戒壇一、屢探二

    教門奥義一。

    正慶元壬みずのえさる申〈師の歳は十有四なり〉、塩しおがま

    に投じて出家し、経を受けて真言を習う。建武二乙きのとい亥〈師の歳は十有七なり〉、護摩

    供を執行す。同年、野州薬師の戒壇に登り、屢しばしば教内の玄旨を探る。

    正慶元年(一三三二)壬申に、先生の年齢は一四歳となり、塩

    の地に投じて出家し、経を受けて真言の教えを習った。建武

    二年(一三三五)乙亥に、先生の年齢は一七歳となり、密教の護摩供養の修法を執行した。同じ年に、下野(栃木県)の薬師

    寺の戒壇に上って、しばしば仏教の内典の奥深い真理を探った。

    正慶元壬申…鎌倉最末期の正慶元年(一三三二)のこと。この年は南

    朝方の後醍醐天皇の元弘二年に当たり、北朝方では元徳四年が四月

    二八日に正慶と改元されている。鎌倉幕府が滅亡する直前であり、

    このとき良印が出家する何らかの因縁が存したものであろうか。

    師の歳は十有四なり…正慶元年は良印が一四歳のときに当たる。

    …奥州の塩

    。岩手県塩

    市森山に存する塩竃神社のこと。祭神

    は塩しおつちのおじの

    土老翁神かみ・武たけみかづちの槌神かみ・経ふつぬしの

    津主神かみ。神社の創立年代は明確でないが、

    伝説によると、武

    槌神と経津主神がこの地を平定するにあたって、

    塩土老翁神を案内にその目的を果たしたと伝えられる。同社は古来

    から「陸奥一之宮、正一位塩土老翁神」と称されて厚い信仰を得て

    いる。また塩竃神社別当として法蓮寺が存し、金光明山蓮華院法蓮

    寺と称している。塩竃神社には鎌倉後期には神宮寺など寺院が付属

    していたことが知られ、古くは天台宗寺院であったともされるが定

    かでない。永禄年間(一五五六│一五七〇)の頃には明確に法蓮寺

    の名で活動していたことが諸史料に見えている。かつて法蓮寺は塩

    竃神社の東北山頂に存したが、後に裏坂に移っており、現在は京都

    仁和寺末に属する真言宗寺院となっている。『正法二世瑞雲開山月泉

    良印禅師行状記』では「塩竃の教院に投じ」とあり、『黄梅熊谷氏系図』

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    七六

    ﹇總持寺の峨山韶碩への参学﹈

    暦應三〈師歳二十有二〉、参能州總持峩山和尙、便問、三密歸一、一歸何處。山竪起拂子云、作麼作麼。師無言可對、低頭去。

    更衣侍會下八年、不出

    辨道。

    暦應│歴應 

    二十有二│廿有二也 

    能州│能刕 

    便問│便向 

    何処│何處 

    可對│對

    では「塩竃法蓮寺の密院に祝髪し」と記されている。

    出家…剃髪得度すること。ただし、良印が塩

    の教院(後の法蓮寺か)

    で得度を受けた際の受業師の名は伝えられていない。

    経を受け…経典を読誦し受持すること。受経得度の意。

    真言…真言宗の教え。真言はdhāranī

    陀羅尼。ここでは東密の教えを習

    得したこと。

    建武二乙亥…建武二年(一三三五)のこと。この年に後醍醐天皇と足

    利尊氏が不和となり、翌年には時代が南北朝並存へと動いていく。

    師の歳は十有七なり…建武二年には良印は一七歳に当たっている。

    護摩供…真言宗(密教)の修法の一つ。護摩を焚いて諸尊の供養をな

    すこと。護摩は梵hom

    a

    ホーマの音写、供物を火に投げ入れて祈願す

    ること、焼施。

    執行…執り行なうこと。実行すること。

    同年…建武二年の内。この年に良印は塩

    の教院から下野の薬師寺ま

    で赴いたことになろう。

    野州薬師の戒壇…野州は上野(群馬県)と下野(栃木県)に分かれる

    が、ここでは下野に存した薬師寺のこと。下野の薬師寺には古く戒

    壇が建てられ、南都(奈良)の東大寺戒壇や筑前(福岡県)の観世

    音寺戒壇とともに天下三戒壇と称せられる。薬師寺の創建に関して

    は明確でないが、およそ天智朝から天武朝にかけての頃と推測され

    ている。現在は下野市薬師寺町(もとの河内郡南河内町薬師寺)の

    真言宗智山派の医王山安国寺となっており、当寺所蔵の『薬師寺縁起』

    によれば、鎌倉幕府の滅亡で衰退していた薬師寺を南北朝期の暦応

    二年(一三三九)に足利尊氏が下野の安国寺・利生塔に改めたとさ

    れる。詳しくは『南河内町史・通史編〈古代・中世〉』を参照。なお、

    『延宝伝燈録』や『日域洞上諸祖伝』の月泉良印の章では下野薬師寺

    で登壇受戒したことになっている。

    教内の玄旨を探る…教内は禅宗(宗門)以外の仏教諸宗の教え。経律

    論など教法によって成り立っている教宗のこと。玄旨は奥深い教え。

    探は尋ねること、さぐること。薬師寺では六年間の修学となる。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    七七

    瑞…遂知レ

    有二

    教外別傳之大旨一、於レ

    是志レ

    参二

    禪門知識一。或日有二

    一丈夫一、語レ

    師云、具二

    禪門直指之大眼目一

    宗匠者、爲二

    能州總持主一。往見了二

    己事一、而廣

    度二

    群品一。師喜躍従レ

    之。是歳歷應三〈師歳二十有二〉、參二

    總持峩山禅師一、便問曰、三密歸レ

    一、一歸二

    何處一。山竪二

    起拂子一

    曰、作麼作麼。師無二

    言可一レ

    對、

    低頭去。更レ

    衣傾レ

    心依附、不レ

    出レ

    者八年。

    熊…厂応二年、到二

    於能登國摠持寺一、師二

    事於峩山大和尙一、号二

    良印大禪師一、專傳二

    洞上深旨一。

    暦応三〈師の歳は二十有二なり〉、能州總持の峩山和尚に参じ、便ち問う、「三密は一に帰す、一は何処にか帰す」と。山、払

    子を竪起して云く、「作そ麼も、作麼」と。師、言の対うべき無く、低頭して去る。衣を更めて会え下かに侍すること八年、しきい

    を出で

    ずして辨道す。

    暦応三年(一三四〇)に、先生の年齢は二二歳となり、能登(石川県)の總持寺の峩山韶碩和尚に参じ、すぐさま「三密は一

    に帰します、その一はどこに帰するのですか」と問うた。峩山は払子を立てて「さあ、どうだ、どうだ」と言った。先生は答

    えるべきことばがなく、頭を下げたまま退いた。袈裟を改めて峩山の門下に随侍すること八年に及び、山門の敷居を出ること

    なく仏道修行に努めた。

    暦応三…北朝の暦応三年(一三四〇)のこと、南朝の興国元年(延元五年)

    に当たる。干支は庚辰。

    師の歳は二十有二なり…暦応三年は良印の二二歳のときに当たる。

    能州總持…能登(石川県)鳳至郡に存した諸嶽山總持寺のこと。『洞谷

    記』によれば、元亨元年(一三二一)の開創で瑩山紹瑾を開山とする。

    正中元年(一三二四)に紹瑾は峨山韶碩に第二世の法席を譲り、正

    中二年八月一五日に六二歳(五八歳とも)で示寂している。瑩山紹瑾・

    峨山韶碩の後、總持寺は峨山下の五哲と五院を中心に輪番住持制に

    よって全国展開を図り、多くの末寺を抱えて曹洞宗の大本山に位置

    づけられていった。明治期に火災によって焼失したのを機に、現在

    の横浜市鶴見区鶴見に移転して現今に及んでいる。また旧地の石川

    県輪島市門前には總持寺祖院が再建されている。横浜市教育委員会

    『總持寺調査報告書』(平成九年三月刊)や圭室文雄『總持寺祖院古

    文書を読み解く―近世曹洞宗教団の展開―』(曹洞宗宗務庁刊、平成

    二〇年)などを参照。

    峩山和尚…總持寺第二世の峨山韶碩(紹碩、一二七六│一三六六)の

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    七八

    こと。能登羽咋郡瓜生田の源氏。比叡山で出家受戒し、加賀大乗寺

    の瑩山紹瑾に参じて法を嗣ぐ。能登總持寺の第二代を継承し、能登

    永光寺の第四代ともなる。貞治五年一〇月二〇日に九一歳で示寂。

    多くの門人を育成し、曹洞宗発展の基盤を作る。伝記史料として『總

    持二代御喪記』「總持二代和尚抄箚」や「總持第二世峨山和尚行状」「總

    持開山二祖禅師行録」『仏祖正伝記』『洞谷五祖行実』などが存する。

    詳しくは岩永正晴・飯塚大展・桐野好覚・松田陽志「『山雲海月』研

    究序説│『總持第二世峨山和尚行状』│」(『曹洞宗宗学研究所紀要』

    第一二号)を参照。

    三密は一に帰す、一は何処にか帰す…唐代に活躍した南泉下の趙州従

    (真際大師、七七八│八九七)の「趙州七斤布衫」の公案を踏まえた

    問い掛けである。『碧巌録』第四五則の本則に「僧問二

    趙州一

    、万法帰レ

    一、

    一帰二

    何処一

    。州云、我在二

    青州一

    、作二

    一領布衫一

    、重七斤」とあるのに因む。

    当時、良印は密教を修めていたことから、韶碩としては三密の奥旨

    を禅の問答で試したものであろう。三密とは密教でいう身口意の三

    業のこと。この三つのはたらきが仏のはたらきとなったとき、身密・

    口密・意密と称する。良印としては万法を三密に置き換えて質問し

    ているから、ある程度は禅のことばにも馴染んでいたものであろう。

    払子を竪起す…払子はもともと蚊や蝿などを払う道具。法具として用

    いる。竪起は真直ぐに立てること。ここでは三密が一に帰したさま

    を払子を立てて示したものである。

    作麼…どうして、どのように。ここでは「さあ、どうだ」と迫る語気。

    低頭…頭を下げて敬礼すること。恐れ入って頭を下げる、項垂れること。

    韶碩の訓示に脱帽したさまを表わす。

    衣を更めて…衣服を着替えること、袈裟を改めること。改衣とも。宗

    派を変える意。具体的には密教から禅宗に転じたこと。

    会下…特定の師匠の門下。あるいは師匠のもとに集って教えを受ける

    人々のこと。『黄梅熊谷氏系図』によれば、良印という法諱もこのと

    き峨山韶碩によって命名されたとする。峨山下には無底良韶や実峰

    良秀など良を系字とする禅者が存している。

    侍すること八年…二二歳から八年間とすると、暦応三年から北朝の貞和

    三年(南朝の正平二年、一三四七)まで随侍した計参になろう。なお、

    古く六祖下の南嶽懐譲(大慧禅師、六七七│七四四)は八年間にわたっ

    て六祖慧能(盧行者、大鑑禅師、六三七│七一三)に随侍しており、

    近くは明峯素哲(常禅、一二七七│一三五〇)も八年間にわたって

    瑩山紹瑾に随侍したとされる。佐藤秀孝『明峯素哲禅師の生涯』(氷

    見市光禅寺刊)を参照。

    を出でず…

    は出入り口の敷居のこと。ここでは山門の敷居を出ず

    に坐禅修行に邁進したことをいう。

    辨道…辦道とも。道に努める、仏道修行に精進努力すること。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    七九

    ﹇大悟の機縁と入室問答﹈

    貞和三丁亥佛生日、出雲堂赴佛殿。因活雀兒遮眸去、忽然大悟、遍體汗流。即

    偈云、奇哉活雀兒、要捉飛過之、忽得露柱力、

    掣断壁上

    。驀上方丈、呈和尙。山擧目云、猶帯滲漏在。師便拂袖去。山喚云、良印。師回頭。山竪起拂子云、觸此用乎、背

    此用乎。師並竪右五指、握左手云、背觸之中不可得。山云、正恁麼時、汝作麼生會。師云、炭裡忘吾位。山云、轉側去也否。

    師云、轉不道。山云、如是如是、汝今已得。師九拜去。子午長養究宗旨。

    赴│趣 

    師便│師 

    擧目云│挙目曰 

    山喚云│山喚曰 

    師回頭│印回頭 

    拂子云│拂子曰 

    山云│山曰 

    炭裡│炭裏 

    山云│山曰 

    山云│山曰 

    養│長

    瑞…貞和三丁亥佛生日、出二

    雲堂一

    赴二

    佛殿一。因雀児遮レ

    眸去、師忽然大悟、遍體汗流。即述レ

    偈曰、奇哉活雀児、要レ

    捉飛過之、忽得二

    露柱力一、掣二

    断壁上一。

    上二

    方丈一

    呈レ

    偈。山挙レ

    目云、猶有レ

    帯二

    滲漏一。師拂袖去。山急喚二

    良印一。師回レ

    首。山豎二

    起拂子一

    曰、觸二

    此用一

    乎、背二

    此用一

    乎。師並二

    竪右五指一、握二

    左手一

    曰、

    背觸之中不可得。山曰、正恁麼時、汝作麼生會。師曰、炭裏忘二

    吾位一。山曰、轉側去也否。師曰、轉不レ

    道。山曰、如是如是、汝今已得。師便九拜。

    遂蒙二

    印可一。子丑長養、宗旨古曲參得畢。

    熊…貞和三年夏佛生日、視二

    活雀児遮レ

    眼飛去一、即得レ

    省矣。

    貞和三丁ひのとい亥

    の仏生日、雲堂を出でて仏殿に赴く。活かつ雀じゃく児じの眸ひとみを遮りて去るに因みて、忽然として大悟し、遍体に汗流る。即ち

    偈を述べて云く、「奇なるかな、活雀兒。捉えんと要すれば、飛び過ぎて之く。忽ち露ろ柱ちゅうの力を得て、壁上の

    かずら

    を掣せい断だんす」と。

    驀として方丈に上り、和尚に呈す。山、目を挙げて云く、「猶お滲じん漏ろを帯びれり」と。師、便ち払袖して去る。山、喚びて云く、

    「良印」と。師、頭を回らす。山、払子を竪起して云く、「此の用ゆうに触るるや、此の用に背くや」と。師、右の五指を並び竪て、

    左手を握りて云く、「背はい触そくの中に不可得なり」と。山云く、「正しょう恁いん麼もの時、汝、作そ麼も生さんか会す」と。師云く、「炭裡に吾位を忘

    ず」と。山云く、「転てん側そくし去るや」と。師云く、「転ずれども道いわず」と。山云く、「如是、如是。汝、今已に得たり」と。師、

    九拝して去る。子し午ごに長養して宗旨を究む。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    八〇

    貞和三年(一三四七)丁亥の仏生日(四月八日)に、先生は雲堂(僧堂)を出て仏殿に赴いた。活発な雀が目の前を通り過ぎ

    ていったのに因んで、忽ちに大悟し、全身から汗が流れた。すぐさま悟道の偈を述べて「すばしこいな、活発な雀よ。捉えよ

    うとすれば、飛び去って行った。忽ち露柱の力を得て、壁の上に纏わり付いた蔓を抜き取った」と言った。まっしぐらに方丈

    に上って、峩山和尚に偈を呈した。峩山は目を挙げて「まだ煩悩が漏れ出ているぞ」と言った。先生はそこで袖を払って出て

    行く。峩山が喚び止めて「良印よ」と言った。先生は振り向いた。峩山は払子を立てて「このはたらきを肯うのか、このはた

    らきを肯わないのか」と言った。先生は右の五本の指を並び立てて、左の手を握って「背いたり肯ったりする対立概念の中で

    は捉えられません」と答えた。峩山は「まさにそのようなとき、君はどのように分かったのか」と言った。先生は「炭の中に

    自らのありようを忘じました」と答えた。峩山は「静まり返った境地から新たにはたらきを転ずるのか」と言った。先生は「転

    じたとしても言いません」と答えた。峩山は「その通り、その通り。君はいますでに悟りを得たぞ」と言った。先生は九度も

    礼拝して方丈を出た。その後も日夜に聖諦長養して奥深い真理を究めた。

    貞和三丁亥…北朝の貞和三年(南朝の正平二年、一三四七)のこと。

    良印が二九歳のときに当たる。

    仏生日…四月八日の降誕会。中国・日本ではこの日に仏陀が生誕した

    とされ、灌仏会とか花祭りとも称される。この日、禅寺では仏殿に

    て読経がなされ、法堂にて「仏生日上堂」が行なわれる。

    雲堂…僧堂のこと。雲水(修行僧)が多く集まって修行する堂宇であ

    るからいう。

    仏殿…釈迦三尊など寺の本尊を祀る堂宇。大殿とか大雄宝殿とも称す

    る。阿弥陀・釈迦・弥勒の三世如来のほか、釈迦を中心に文殊・普

    賢の両菩薩を脇侍に配したもの、釈迦を中心に摩訶迦葉・阿難陀の

    両弟子を脇侍に配したものなどが存する。このとき良印が僧堂から

    仏殿に赴いたのは、仏生日に大衆(修行僧)として仏殿で行なわれ

    る供養法要に随喜するためであろう。

    活雀児…元気よく飛び跳ねる雀。活は活き活きしている、勢いが好い、

    活発な。児は名詞に付く接尾語であり、雀児で単に雀のことをいう。

    雀児のほか猫児・牛児などのごとく使用される。

    眸を遮りて去る…目の前を遮って飛び去ったこと。目を翳めて通り過

    ぎること。

    忽然…はたと、ふと、忽ちに。

    大悟…大いに悟ること。開悟。真に悟境の域に達すること。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    八一

    遍体に汗流る…全身から汗が流れること。遍体は全身・通身、身体中

    から。この場合の汗は冷や汗のこと。

    偈…ガータgāthā

    の音写。偈陀・伽陀。偈頌のこと。詩句のかたちで仏

    徳や教理を賛嘆したもの。禅宗ではとくに韻文のかたちで示された

    ものを偈、詩偈と呼ぶ。ここでは五言四句の詩偈となっている。

    奇哉…珍しい、素晴らしい。感嘆のことば。

    露柱…禅寺の建物の外に立つ石柱や木柱の類い。壁などに就いていな

    い一本立ちの丸柱。無情のものの代表として用いられ、真実のすが

    たを露呈しているさまに譬えられる。

    壁上の

    …壁の上に纏わり付いた蔓。

    は纍に同じ、草木のつる、蔦

    のこと。

    を纏わり付く煩悩に譬えている。

    掣断…抜き取る、引き抜く。掣は引く、引っ張ること、抜くこと。

    驀として…真っ向から。忽ちに、急に、いきなり。

    方丈…禅寺における住職の居間。丈室。『維摩経』にいう維摩居士の一

    丈四方の居室に因む。

    目を挙げ…目をあげて眺めること。挙眼とも。

    猶お滲漏を帯びれり…いまだ煩悩が漏れ出ていることをいう。滲漏と

    は染み通り漏れること、具体的には煩悩を指す。曹洞宗の洞山良价

    (悟本大姉、八〇七│八六九)に「三種滲漏」の説示が存し、見滲漏・

    情滲漏・語滲漏に分けられる。

    払袖…衣の袖を振り払うこと。「払袖して去る」とは、袖を払って立ち

    去ること、訣別を告げる仕草。

    頭を回らす…首を廻らすこと。振り返ること。

    此の用に触るるや、此の用に背くや…このはたらきを肯うのか、この

    はたらきを認めないのか。用は作用・はたらき、師家が学人に示す

    作略。

    右の五指を並び竪て、左手を握りて…右の手は五本の指を並び立てた

    というから、ジャンケンの「パー」のかたちとなろう。左手は握っ

    たというから、ジャンケンの「グー」のかたちとなろう。

    背触の中に不可得…背は背くこと、触は触れること、突き当たること。

    背触とは背くことと触れること。取捨に当たる。洞山良价の『宝鏡

    三昧歌』に「背触倶非」とあり、取捨ともに誤りであることを示し

    ている。ここでは「対立概念では捉えることができない」と答えた

    ものであろう。

    正恁麼の時…正当恁麼時、正与麼時とも。まさにこのようなとき。ちょ

    うどそのようなとき。恁麼は与麼と同じく「このような」とか「そ

    のような」の意。

    作麼生か会す…どのように捉えるか、どのようにわかったか。作麼生

    は「如何」に同じく、「どのように」「どのような」の意。

    炭裡に吾位を忘ず…すべてのはたらきを絶した中に自らの位をも忘じ

    る。炭裡は灰裡と同じく、活動を絶して冷え切った状態を指すもの

    であろう。吾位は自分の地位や立場。『景徳伝燈録』巻一五「舒州投

    子大同禅師」の章に「問、如何是焔裏蔵レ

    身。師曰、有二

    什麼掩処一

    。曰、

    如何是灰堆裏蔵レ

    身。師曰、我道汝黒似レ

    漆」という問答が存する。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    八二

    ﹇諸刹への歴遊遍参﹈

    又敲京都鎌倉諸刹・永光・淨住・大乘・永平・大慈・由良等門、所到

    大器。問荅機緣、有本錄。

    又敲│亦敲 

    京都│京 

    鎌倉│鎌倉之 

    │稱 

    機緣│機綠

    瑞…觀應文和之閒、遊二

    歷諸叢席一、到處以二

    大器一

    稱、蒙二

    賞職一

    已。而文和二癸巳三月十三日、父喪〈力伊元越居士〉。延文元丙申三月廿八日、母喪〈越

    緣張刃大姉〉。訃音遠傳、兩忌歸二

    省于郷里一。

    熊…徃二

    西都一

    來二

    関東一、會二

    於諸禪德一、所レ

    徃咸為二

    大器一。

    又た京都・鎌倉の諸刹、永よう光こう・浄住・大乗・永平・大慈・由ゆ良ら等の門を敲き、到る所にて大器と称す。問答・機縁は本録有り。

    また京都や鎌倉の五山叢林、能登の永光寺、加賀の浄住寺と大乗寺、越前の永平寺、肥後の大慈寺、紀伊由良の興国寺などの

    門を叩き、至るところで大器と称された。それぞれでなした問答や機縁については、本録に収められている。

    転側…あちこち移動する、体の向きを変えること。寝返りを打つこと。

    「転側し去るや」で、静まり返った境地から新たなはたらきをさらに

    転ずるのか否かと問い質している。

    転ずれども道わず…転じたとしてもことばでは表現できない。

    如是…是の如し。その通りと認めることば。所解を肯定した印可証明

    のことば。

    九拝…坐具を展べて仏菩薩や師匠などに対して九度礼拝すること。お

    辞儀を繰り返すこと。禅宗における最高の御拝。

    子午…十二支の子と午。方位では子は北、午は南。時刻では子は夜の

    十二時、午は昼の十二時(正午)に当たる。ここでは十二時中すな

    わち一日中の意。

    長養…聖胎長養。聖胎を長養する。自らの悟った境地をさらに修養す

    ること。

    宗旨…宗門(禅宗)の奥義。禅宗の要旨。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    八三

    京都・鎌倉の諸刹…京都五山や鎌倉五山など五山十刹。良印は十四世

    紀中葉の五山派禅林に掛搭し、当時、著名な臨済宗の禅匠に参禅し

    たものであろう。南北朝中期の当時、京都五山といえば南禅寺・天

    龍寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の五ヶ寺であり、鎌倉五山は建長寺・

    円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺の五ヶ寺である。『正法二世瑞雲開

    山月泉良印禅師行状記』によれば「観応・文和の間、叢席を遊歴し、

    到る処に大器を以て称され、賞職を蒙り已わる」とあり、良印が観

    応年間(一三五〇│一三五二)から文和年間(一三五二│一三五六)

    にかけて各地の叢林を遊歴し、到るところで大器と称され、要職を

    歴任したことを伝えている。また『黄梅熊谷氏系図』によれば「西

    都に往き、関東に来たり」とあり、良印が西都(この場合は京都を

    指すか)より関東(とくに鎌倉を指すか)の禅林で諸禅徳に参じ、

    やはり到るところで大器と称されたことを伝えている。

    永光…能登(石川県)鹿島郡酒井保の洞谷山永光寺のこと。現在の石

    川県羽咋市酒井町に存する。正和元年(一三一二)に海野三郎滋野

    信直夫妻の帰依を得て瑩山紹瑾が開創し、文保元年(一三一七)頃

    に紹瑾が実際に開堂する。良印が到った当時は第二世の明峯素哲

    (一二七七│一三五〇)が退いた後、瑩山門下の四門人とその門流に

    よる輪住制が敷かれてまもない時期に当たる。四門人とは紹瑾の法

    を嗣いだ明峯素哲・無涯智洪・峨山韶碩・壺菴至簡の四禅者である。

    石川県立歴史博物館『永光寺の名宝』(平成一〇年一〇月刊)を参照。

    浄住…加賀(石川県)石川郡山崎荘に存した法苑山浄住寺のこと、詳

    しくは法苑山蟠龍峰浄住護国禅寺という。現在は石川県金沢市長土

    塀に存する。瑩山紹瑾の開創になり、正安三年(一三〇一)の創建

    とも応長元年(一三一一)の創建ともされる。紹瑾の示寂後は、無

    涯智洪(?│一三五一)とその門流によって維持されており、良印

    が到った当時は智洪の高弟である寂室了光(?│一三六三)が住持

    していた時期に相当しよう。

    大乗…加賀石川郡野々市に存した東香山椙樹林大乘寺のこと。現在は

    金沢市長坂町に存する。弘長三年(一二六三)に富樫家尚が真言宗

    の澄海を寺主に迎えて創建し、後に永平寺三世の徹通義介を勧請し

    て禅寺となした。二世に瑩山紹瑾が就き、その後、明峯素哲とその

    門流によって維持されている。良印が到った当時は、明峯下の松岸

    旨淵(?│一三六三)や珠巌道珍(?│一三八七)などが住持して

    いた時期に相当しよう。寺史として舘残翁『加賀大乗寺史』(昭和

    四六年刊)や石川県立美術館『〈加賀の古刹〉大乗寺の名宝』(昭和

    六二年三月刊)が存し、また『野々市町史〈通史編〉』(平成一八年

    一一月刊)や『野々市町史〈資料篇1〉』(平成一五年三月刊)に詳しい。

    永平…越前(福井県)吉田郡志比荘に存する吉祥山永平寺のこと。現

    在は福井県吉田郡永平寺町志比に存する。越前大守の波多野義重(如

    是居士、?│一二五八)が山中の古寺を復興し、開山に道元(仏法房、

    一二〇〇│一二五三)を拝請して創建した。曹洞宗の大本山であり、

    中世には寂円派の義雲(一二五三│一三三三)の系統によって維持

    されており、良印が到った当時は義雲の高弟である第六代の曇希が

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    八四

    住持していた期間に相当しよう。寺史として『永平寺史』二巻、『永

    平寺史料全書』などが存する。

    大慈…肥後(熊本県)河尻に存する大梁山大慈寺のこと。現在は熊本

    市野田町。弘安元年(一二七八)に建立され、順徳天皇の子とされ

    る寒巌義尹(法王長老、一二一七│一三〇〇)が開山となる。亀山

    上皇の祈願所となり、寒巌派(法王派)の拠点として門下による輪

    住制が敷かれたものらしい。熊本県立美術館『〈第一一回熊本の美術

    展〉寒巌派の歴史と美術』(昭和六一年一〇月刊)を参照。本史料に

    大慈寺の名が記されることによって、良印が九州にまで足を伸ばし

    た事実が知られるとともに、当時の曹洞宗の拠点寺院をほぼ網羅的

    に遍参して歩いたことが窺われる。

    由良…紀伊(和歌山県)日高郡由良のこと。紀伊水道に面した由良湾

    に臨む。葛山五郎景倫(願性)が三代将軍源実朝の菩提のため安貞

    元年(一二二七)にこの地に西方寺を建立したことに始まり、この

    とき帰国直後の道元が依頼を受けて寺号額を揮毫したとされる。正

    嘉二年(一二五八)に臨済宗楊岐派(法燈派祖)の無本覚心(心地

    房、法燈円明国師、一二〇七│一二九八)が開山に迎えられ、その後、

    鷲峰山西方興国禅寺と改名されている。由良の興国寺は臨済宗法燈

    派の拠点寺院であり、法燈派と曹洞宗の交流の延長線上に良印も存

    したことになろう。良印が訪れた当時、興国寺では輪住制が敷かれ

    ていたものと見られ、時期的には瑩山下六兄弟にも列した孤峯覚明

    (三光国済国師、一二七一│一三六一)が活動していた時期に当たろ

    う。興国寺については臨済宗法燈派大本山興国寺刊『鷲峰餘光』(昭

    和一三年一〇月刊)を参照。

    到る所…「二代月泉和尚行状」に記載された順に各地の諸刹を歴遊し

    たか否かは定かでないが、はじめに京都から鎌倉に赴いて五山禅林

    で研鑽し、ついで總持寺開山の瑩山紹瑾ゆかりの能登の永光寺と加

    賀の浄住寺・大乗寺を巡り、道元の開いた越前永平寺を経て肥後曹

    洞(寒巌派)の拠点であった大慈寺まで足を伸ばし、帰路に由良の

    興国寺を訪れて法燈派の臨済宗に触れた後、能登の總持寺に帰還し

    たことになる。良印の遍参期間は少なくとも五年前後に及んだもの

    と推測され、当時の主要な臨済宗と曹洞宗の寺院を踏破しているこ

    とになろう。

    大器…すぐれた才能や度量を具えた人。とくに仏法を担うに足る人材。

    法器。器量人。

    問答・機縁は本録有り…問答は師資の商量。機縁は修行僧が参学の師

    から受ける仏道契当の機会。本録は語録の類いと見られ、かつて良

    印には現在伝わる小部の『補陀寺開山月泉和尚語録』とは別に、参

    学期の問答や機縁なども載せた大部の『月泉和尚語録』が編集され

    たものらしい。これが現存していれば、良印の参学の過程はもちろ

    んのこと、初期の正法寺僧団の実態や良印の上堂・小参などがより

    詳しく辿れたはずであり、その散逸はまことに惜しまれてならない。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    八五

    ﹇無底良韶の示寂﹈

    康安元辛丑、奥州無底和尙寂而無嗣。曹洞正燈、到此滅矣。山聞悲淚無窮、擇大器欲挑之。

    奥州│奥刕

    瑞…康安元辛丑六月十有四日、正法無底韶

    化、無二

    嗣者一。峨山禪師聞レ

    之、悲淚無レ

    窮、欲下

    擇二

    大器一

    續中

    正法上。

    熊…康安元年六月、師兄無底禅師寂二

    於江刺正法寺一。

    康安元辛かのと

    うし丑

    、奥州の無む底てい和尚、寂して嗣無し。曹洞の正しょう燈とう、此に到りて滅す。山、聞きて悲涙すること窮まり無く、大器を択

    びて之れを挑げんと欲す。

    康安元年(一三六一)辛丑に、奥州の無底良韶和尚が示寂され、後を継ぐ法嗣がなかった。曹洞宗の正しい教えの灯火がここ

    に至って消えてしまった。峩山はそのことを聞いて悲しみの涙に暮れること窮まりなく、すぐれた人材を選んでその法の灯火

    を再び挑げようと思った。

    康安元辛丑…北朝の康安元年(南朝の正平一六年、一三六一)のこと。

    良印が四三歳のときに当たる。この年には三月に肥後(熊本県)に

    おいて寒巌派の天庵懐義(慧義とも、?│一三六一)が世寿八〇余

    歳で示寂しており、五月二四日には臨済宗法燈派の孤峯覚明が世寿

    九一歳で示寂している。また永平寺の義雲にも参じた大応派の月堂

    宗規(水月老人、一二八五│一三六一)が九月二七日に筑前(福岡県)

    博多の石城山妙楽寺で世寿七七歳で示寂している。

    奥州…陸奥の国。東北地方の太平洋側。具体的には奥州黒石の大梅拈

    華山円通正法寺のことを指す。

    無底和尚…峨山韶碩の筆頭の高弟、無底良韶(一三一三│一三六一)

    のこと。能登鹿島郡酒井保の人。二二歳で永光寺の明峯素哲に投じ、

    ついで總持寺の峨山韶碩に参じて法を嗣ぐ。奥州黒石に到り、長部重

    義・黒石正端の帰依を得て、大梅拈華山円通正法寺を開創し、貞和

    四年(一三四八)に開堂出世する。文和四年(一三五五)に能登の

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    八六

    ﹇峨山韶碩の指示と書簡﹈

    喚師云、汝曽雖承嗣吾、更須嗣良韶而準七佛法壽。〈拜塔指南、或始于此時、擧世不知也〉。山自書与師云、夫無底長老者、老

    僧門下上足高弟也。是以、傳來六祖大鑑袈裟、并如浄真筆、切紙秘書等、五種法財・佛舍利・永平瑩山兩師靈骨、悉傳附、以

    顯吾嫡髓體之信者也。雖然、不幸早寂、遂欠其正統之嗣。故今改敎你拜塔繼彼已墜、實是七佛法壽之真證也。謹盡未來際莫令

    断絶。聽吾偈。曹溪無底流將竭、月印長江再正傳、位裡轉身大梅下、春薫億劫密綿々。

    喚師云│喚師曰 

    承嗣│嗣承 

    不知也│不知 

    与師云│與印監寺曰 

    并如浄真筆│並如淨眞筆 

    切紙│ナシ 

    髓體│髓 

    真證│眞證 位裡│位裏

    億劫│億刧

    瑞…一日召レ

    師云、無底長老、我門之上士也。是以、六祖傳來之袈裟、并淨翁眞筆之切紙・五種法財・佛舎利・永平瑩山兩師之霊骨等悉傳附、以顕二

    永光寺に輪住し、翌年に任期を終えて正法寺に帰る。康安元年六月

    に世寿四九歳で示寂する。良韶の伝記については、佐藤秀孝「無底

    良韶の伝記史料│『大梅拈華山圓通正法寺開山無底良韶和尚行業記』

    の訳註│」(『駒澤大学禅研究所年報』第一三・一四合併号、二〇〇二

    年一二月)および船岡誠「無底良韶と正法寺の開創」(北海学園大学

    人文学部・大濱徹也編『東北仏教の社会的機能と複合的性格に関す

    る調査研究(二)』に所収、二〇〇五年三月)を参照。

    寂して嗣無し…無底良韶は北朝の康安元年六月一四日に世寿四九歳、

    法臘二八齢で示寂しているが、いまだ法を託するに足る人材を後継

    者に得ないまま終わった。嗣とは嗣法の門人、仏法を相承した法嗣、

    伝法の高弟のこと。

    曹洞の正燈、此に到りて滅す…曹洞の正燈とは、永平寺開山道元より

    以来、曹洞宗に師資相承された正統の法燈の意。永平道元・孤雲懐奘・

    徹通義介・瑩山紹瑾・峨山韶碩・無底良韶と伝えられた六代の血脈

    をいう。その法統が良韶の代に至って断絶したことを指す。

    悲涙…悲しみの涙。本師の峨山韶碩が良韶の早すぎる死を嘆いたこと。

    このとき韶碩は八六歳の高齢であった。弟子が師に先んじて亡くな

    ることは法の相続の上で惜しむべきことである。

    大器を択びて之れを挑げんと欲す…大器は偉大な法器、すぐれた才能

    を具えた仏法を担う人材。すぐれた人材を選んで正法寺の法燈を再

    び掲げようとしたこと。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    八七

    吾嫡髓之信一

    者也。雖レ

    然、不幸早

    化、遂欠二

    其正統之嗣一。爾往拜レ

    塔、繼二

    後席一

    而糺二

    正脈一

    立二

    法幢一。復老僧所二

    親附一

    之法財等、善能護持、莫レ

    令二

    斷絶一

    矣。次召二

    道叟一

    云、良印今莅二

    無底之跡一、汝與助行。復謂二

    良玉一

    曰、印監寺、老僧門下之大器、故今拔擢令レ

    董二

    無底之法席一、子伴如、而他日

    承二

    嗣印一

    去、云云。

    熊…ナシ

    師を喚びて云く、「汝、曽て吾れに承じょう嗣しすと雖も、更に須らく良りょう韶しょうに嗣ぎて七仏の法寿に準ずべし」と。〈拝はい塔とうの指南は、或い

    は此の時に始まるも、世を挙げて知らざるなり〉。山、自ら書して師に与えて云く、「夫れ無底長老は、老僧門下の上足高弟なり。

    是を以て、六祖大だい鑑かんより伝来せる袈裟、并びに如にょ浄じょうの真筆、切紙・秘書等、五種の法財、仏舎利、永平・瑩けい山ざん両師の霊骨、悉

    く伝附し、以て吾が嫡ちゃく髄ずい体たいの信を顕わす者なり。然りと雖も、不幸にして早くに寂し、遂に其の正統の嗣を欠く。故に今、改

    めて你をして拝塔して彼の已に墜つるを継がしむ。実に是れ七仏の法寿の真証なり。謹んで尽じん未み来らい際さいに断絶せしむること莫か

    れ。吾が偈を聴け。曹そう溪けい・無底、流れ将に竭きなんとす。月は長江に印して再び正伝す。位裡に身を転ず、大梅の下。春は億

    劫に薫りて密綿々たり」と。

    そこで(峩山は)先生を喚んで「そなたはかつて私に法を嗣いだけれども、さらに良韶に嗣いで七仏の法寿に準じなければな

    らぬ」と告げた。〈墓塔を拝して嗣法せよという指南は、あるいはこのときに始まったのだが、世を挙げて誰もそのことを知

    らなかった〉。峩山は自ら文書を記して先生に与えて「そもそも無底長老は、我が門下の最も優れた筆頭の弟子であった。そ

    のため、六祖大鑑慧能禅師より伝来した袈裟、ならびに如浄禅師の真筆、切紙や秘書など、五種の法財、仏舎利、永平道元禅

    師と瑩山紹瑾禅師のお二人の霊骨を、悉く伝え附して、それで我が正嫡の弟子たる証しを顕わしたのである。しかしながら、

    不幸にして早くに示寂し、ついにその正統の法嗣を欠いてしまった。そのため今、改めてそなたに墓塔を拝し、彼のすでに墜

    ちてしまった跡を継がせるのである。まことに七仏法寿の真の印証である。どうか未来永劫にわたって断絶せしめないでほし

    い。我が偈頌を聴きなさい。曹溪から無底まで伝えられた流れがまさに尽きようとしたとき、月が長江の水面に映されて再び

    正しく伝えられた。あるべき位置に身を転じて大梅拈華山の下に到ると、春は永劫にわたって梅花の薫りを親密に漂わせてい

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    八八

    る」と告げた。

    承嗣…跡取り。親の後を受け継ぐこと。ここでは法を受け継いで後継

    者となること。

    七仏の法寿に準ず…七仏とは過去七仏のこと。釈迦牟尼仏より以前の

    六仏に釈迦牟尼仏を加えて七仏という。毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏・

    拘留孫仏・拘那含牟尼仏・迦葉仏・釈迦牟尼仏。法寿は法体の寿命。

    ここでは過去七仏のそれぞれの寿命。準とは則ること、手本や標準

    にすること。過去七仏はそれぞれ面授することなく、前仏が遷化し

    て久しくして、後仏が世に出現したとされる。

    拝塔…墓塔を拝すること。拝塔嗣法の意であり、具体的には月泉良印

    が峨山韶碩の指示で亡き無底良韶の墓塔を拝登してその法を受け嗣

    ぐこと。禅宗で変則的な嗣法がなされた例としては、北宋代に雲門

    宗の薦福承古(古塔主、?│一〇四五)がすでに亡き雲門文偃(匡

    真禅師、八六四│九四九)に嗣法した記事、曹洞宗の投子義青(青

    華厳、一〇三二│一〇八三)が臨済宗の浮山法遠(遠録公、九九一

    │一〇六七)を介して大陽警玄(明安禅師、九四三│一〇二七)の

    法を嗣いだ代付の故事があり、南宋代には臨済宗大慧派の拙庵徳光

    (仏照禅師、一一二一│一二〇三)が海を隔てて日本の大日房能忍

    (深法禅師)を印可した隔海嗣法の故事がある。また日本でも良韶・

    良印と前後して臨済宗大応派の滅宗宗興(円光大照禅師、一三一〇

    │一三八二)が亡き南浦紹明(円通大応国師、一二三五│一三〇八)

    に拝塔嗣法した故事などが存する。

    指南…教え導く、案内をする。ここでは峨山韶碩が良印に拝塔嗣法す

    るよう勧めたこと。

    世を挙げて知らざるなり…韶碩の指南を介して良印が亡き良韶との間

    で拝塔嗣法を行なうという事実を世の人々が誰も知らなかったこと。

    自ら書して…このとき峨山韶碩が自ら書して良印に与えた文書は残念

    ながら正法寺には現存していないようである。

    長老…徳行が高く年長なる比丘僧のこと。禅宗では住持のことをいう。

    老僧門下…我が門下。老僧は禅僧の自称。ここでは峨山門下のこと。

    上足高弟…上足は門下の中でもっともすぐれた弟子。高足とも。高弟

    もすぐれた弟子のこと。無底良韶は峨山韶碩の門下ではもっとも伝

    法の早い筆頭の法嗣に当たる。正法寺所蔵『古本住山記』「峩山大和

    尚之法嗣帳」では「一番無底長老、平号良韶侍者」とあり、良韶を

    第一番の法嗣となしている。

    六祖大鑑より伝来せる袈裟…六祖大鑑は韶州(広東省)曲江県の曹渓

    山宝林寺(後の南華寺)に住持した六祖慧能(盧行者、大鑑禅師、

    六三八│七一三)のこと。ただし、六祖慧能から代々相承された袈

    裟が伝衣として峨山韶碩を経て無底良韶にまで伝来したとするのは

    あまりに不自然である。実際には永平道元から無底良韶に至る六代

    の伝衣と見るべきであろう。正法寺には「六祖伝衣・桐竹文綾九条

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    八九

    袈裟」が伝えられており、縦一三五センチ、横幅三一七センチで、

    岩手県指定文化財となっている。

    如浄…曹洞宗真歇派の長翁如浄(浄長、一一六二│一二二七)のこと。

    越州(浙江省)の人。俗姓は毛氏か。明州(浙江省)奉化県の雪竇

    山資聖寺にて曹洞宗の足庵智鑑(一一〇五│一一九二)に参学して

    法を嗣ぐ。建康府(南京)の石頭山清凉寺に開堂し、杭州(浙江省)

    の南屏山浄慈寺などを経て明州

    県の天童山景徳寺に住持する。宝

    慶三年七月一七日に世寿六六歳で示寂。語録に『如浄和尚語録』が

    存し、門下に日本の永平道元がいる。鏡島元隆『天童如浄禅師の研究』

    (春秋社刊)を参照。

    真筆…直筆の書。正法寺に天童如浄の墨蹟が伝えられていたのであれ

    ば、南宋代の曹洞禅者の墨蹟としてきわめて貴重なものがあろうが、

    現在、正法寺にはそれらしき如浄の書は伝えられていない。

    切紙…小さく切った用紙に用件を書き付けたもの。禅宗では室内伝法

    の助証として師匠から弟子に伝授され、嗣法の儀礼や葬送・法要の

    儀礼、宗旨の秘訣などを書き記している。詳しくは石川力山『禅宗

    相伝資料の研究』(法蔵館刊)などを参照。

    秘書…秘密の文書。秘蔵の文書。ここでは宗門秘伝の書。

    五種の法財…法財は仏法の教え。あるいは仏法と世俗の財。五種類の

    法財とは具体的に未詳。

    仏舎利…仏陀の遺骨。舎利はシャリラarīra

    の音写。設利羅とも。遺骨

    のこと。とくに仏陀や聖者の遺骨をいう。舎利崇拝はアジア各地で

    見られるが、舎利を象徴する物が代わりに納められている。

    永平・瑩山両師の霊骨…永平は越前(福井県)の永平寺を開いた道元(仏

    法房)のこと。瑩山は能登の永光寺や總持寺を開いた瑩山紹瑾のこと。

    現在、この両者は日本曹洞宗における高祖と太祖として両祖と尊崇

    されている。実際にこの両者の遺骨が「両祖大師御霊骨厨ず子し」とし

    て正法寺に納められている。

    伝附…伝え付すること。ここでは伝法の証しとして付与すること。

    嫡髄体の信…嫡髄体とは仏法の正統なる後継者、すなわち嫡嗣・嫡子

    の意か。「仏覚古心禅師月泉良印大和尚行状」では単に「嫡髄之信」

    と記す。

    不幸にして早くに寂し…無底良韶は世寿四九歳、法臘二七齢の若さで

    示寂している。

    正統の嗣…嗣は後継ぎ、法を嗣いだ高弟のこと。正しい法統を受け継

    いだ法嗣。仏法の嫡嗣。

    你…あなた。汝・

    ・爾・儞とも記す。ここでは峨山韶碩が良印を指

    して呼び掛けている。

    已に墜つる…已墜はすでに落ちてしまった、途絶えてしまったの意。

    かつて臨済宗楊岐派(大慧派祖)の大慧宗杲(妙喜、大慧普覚禅師、

    一〇八九│一一六三)が「天童宏智老人像」において曹洞宗(宏智派祖)

    の天童正覚(宏智禅師、一〇九一│一一五七)を賛して「起二

    曹洞於

    已墜之際一

    、鍼二

    膏肓於必死之時一

    」と記している。

    七仏の法寿…前出。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    九〇

    ﹇奥州正法寺への開堂﹈

    康安二壬寅〈此歳改貞治也〉正月十一日、又宗旨古曲悉参得畢〈師歳四十有三也〉。入奧州大梅拈華山圓通正法寺開堂、耀五

    位信旗於普天普地。

    此歳│此年 

    貞治也│貞治 

    又│重 

    開堂│則開堂 

    五位│五位之

    瑞…貞治元壬寅春〈師歳四十有四〉、師遵レ

    命入レ

    寺〈黒石正法〉開堂、耀二

    五位之信旗於普天匝地一。

    熊…故以二

    月泉一

    為二

    正法第二世住職一。

    真証…真実の証悟、真の悟り。真実の証拠。本当の印。

    尽未来際…無限の未来のこと。未来の果てに至るまで。永久に、永遠に。

    断絶…断ち切ること、切断すること。途絶えること。

    吾が偈…峨山韶碩が良印に贈った七言四句の偈頌。ただし、「正法二世

    瑞雲開山月泉良印禅師行状記」にはこの偈頌は載せられておらず、

    代わりに同門の道叟道愛(?│一三七九)に対して、良印(印監寺)

    の化導を補佐すべき指示が載せられている。

    曹溪・無底…韶州(広東省)曲江県の曹渓山宝林寺(南華寺)の六祖

    慧能(大鑑禅師、盧行者、六三七│七一三)と、奥州(岩手県)黒

    石の大梅拈華山円通正法寺の無底良韶。慧能は中国禅宗初祖の菩提

    達磨から第六代の祖師であり、良韶は日本曹洞宗の永平開山道元か

    ら第六代の祖師に当たる。

    流れ将に竭きんとす…代々伝えられてきた仏法(曹洞宗)の流れが良

    韶の代で途絶えようとしていること。

    月は長江を印して再び正伝す…月泉良印が無底良韶の後席を継いで正

    法寺に再び法統を掲げるのを象徴的に表現したもの。月が長江の水

    面に映されているさまに準えている。正伝は正しく伝わること、正

    しく嗣法相承されること。

    位裡に身を転ず…位は悟りの正位、悟りの真っ直中。位裡で悟りの中。

    具体的には良印が自らのあるべき位置を変えて大梅拈華山に身を転

    じたこと。

    大梅の下…大梅拈華山の麓、すなわち円通正法寺においての意。

    億劫…百千万億劫の略。無限に永い時間のこと。永遠に、永劫に。

    密綿々…密密綿綿の意。綿密・綿綿密密に同じ。細かく行き届くこと。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    九一

    康安二壬みずの

    えとら寅

    〈此の歳、貞治と改むるなり〉正月十一日、又た宗旨の古曲、悉く参得し畢りぬ〈師の歳は四十有三なり〉。奥州

    の大梅拈華山円通正法寺に入りて開堂し、五位の信旗を普天普地に耀かす。

    康安二年(一三六二)の壬寅、この年に貞治と改元されているが、その正月十一日に、また曹洞宗旨の古来よりの教えについ

    て、悉く参学し終わられた。先生の年齢は四三歳であった。奥州の大梅拈華山円通正法寺へと赴いて開堂出世され、曹洞五位

    の教えの旗印を天下に輝かされた。

    康安二壬寅…北朝の康安二年(南朝の正平一七年、一三六二)のこと。

    良印が四四歳のときに当たる。

    貞治と改むる…康安二年は九月二三日に至って貞治元年と改元されて

    いる。

    正月十一日…康安二年一月一一日のこと。この日に良印は峨山韶碩よ

    り伝法相承の儀式を了畢したことが知られる。正法寺には「両国曹

    洞本寺峨山禅師置状」一通が存し、「招二

    正法寺一、末代可レ

    為二

    両国曹洞

    之本寺一

    之状、以如レ

    件。康安二年壬寅正月十一日、惣持韶碩。(花押)」

    と記されており、總持寺の韶碩が康安二年正月一一日に揮毫し、正

    法寺を奥羽両国における曹洞の本寺となすべき旨を明言している。

    宗旨の古曲…宗旨は宗門(禅宗)の奥義、ここでは曹洞宗の教え。古

    曲は古い調べ、古調。昔からの正しい教え。

    参得…参は参ずること、師に参じて教えを受けること。得は動詞の後

    について可能や完成を意味する助字。

    師の歳は四十有三なり…康安二年は実際には良印の四四歳に当たって

    おり、一年の誤差が見られる。「正法二世瑞雲開山月泉良印禅師行状

    記」では「四十有四」に改められている。

    大梅拈華山円通正法寺…貞和四年(一三四八)八月二二日に無底良韶

    が奥州胆沢郡(岩手県)黒石の地に開創した曹洞宗の拠点寺院。現

    在の奥州市(もと水沢市)黒石に当たる。熊野権現の託宣によって

    奥州に下った良韶が黒石鶴城館の黒石越後守正端と長島長部館の長

    部近江守清長の帰依を得て伽藍を建立したのに始まる。はじめ拈華

    山正法寺と号する。良韶の亡き後、同門の月泉良印が後席を継いで

    多くの門弟を育成し、正法寺僧団が奥羽の地を中心に大発展を遂げ

    るに至る。なお、詳しくは村上全量『陸中黒石正法寺誌』(大正九年、

    正法寺刊)と岩手県立博物館編『〈みちのく曹洞の古刹〉奥の正法寺』

    (昭和六二年刊)と村井弘典『奥の正法寺〈成立と展開〉』(平成一九年、

    正法寺刊)および正法寺監修『〈奥羽曹洞の古刹〉大梅拈華山円通正

    法寺―沿革と写真―』(平成二一年、光陽美術刊)などを参照。

    開堂…新たに住職となって初めて寺院に着任した際に、最初に行なう

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    九二

    ﹇總持寺入院の要請を何度も辞退する﹈

    應安四辛亥、通幻和尙馳書、勸總持入院。師不赴。又永和三丁巳、實峯・通幻馳書云、滿山伏請、來歳峩山禪師十三回忌拈香。

    師亦不赴。明德二辛未、通幻被寄

    林公論并印籠。應永五戊寅、實峯馳啓請峩山三十三回忌拈香。又揶揄而不赴。所以崇重峩

    山同等無別位金言、而不列總持傍出末寺也。

    又永和│亦永和 

    實峯│實峰 

    書云│書 

    峩山禪師│峩山師 

    并│並 

    實峯│實峰 

    峩山三十三回忌│峩山師三十三回忌之

    瑞…應安四辛亥、法兄通幻馳レ

    書、勧二

    總持入院一。師不レ

    赴。又永和二丙辰、通幻・實峰同馳レ

    書云、滿山伏請二

    來歳峩山先師十三回忌拈香一。師又辭不レ

    赴。明徳二辛未、通幻被レ

    寄二

    林公論并印籠一。應永四丁丑、實峰馳レ

    啓請二

    先師峩山三十三回忌之拈香一。復揶揄不レ

    赴。所下

    以貞和四年戊子四月五

    日、正法寺創成、而後無底馳二

    書於總持一、以請二

    先師峩山禅師一、山親作二

    答書一

    不レ

    起之深意、與崇中

    重師赴二

    正一

    之日、山示レ

    師曰、如レ

    是我聞、彼山

    觀應元庚寅年、敕賜二

    奧羽二州之本寺出世道場常紫衣地一。然則正法也總持也、同等而無二

    別位一、非三

    全列二

    總持傍出之派一、爾重勿レ

    入二

    總持一、疾届二

    法一、開堂燒香一二

    朝恩一。次供二

    無底

    功一、永可レ

    起二

    門風一

    之嚴命上

    也。

    熊…ナシ

    入寺演法の儀式のこと。祝国開堂とか開堂出世ともいう。皇帝(天

    皇)や檀越(開基施主)さらに嗣法の本師などに香を拈じた後、門

    下の僧との問答をなし、上堂説法などを行なう。禅宗独自の入寺式で、

    今日では一般に晋山式と称される。

    五位…曹洞宗の偏正五位や功勲五位などの宗旨。ここでは中世曹洞禅

    者が中心とした五位による曹洞宗旨の宣揚をいう。五位は中国曹洞

    宗の洞山良价(悟本大師、八〇七│八六九)や曹山本寂(元証大師、

    八四〇│九〇一)が用いた禅の機関であり、日本の曹洞宗や臨済宗

    でも好んで用いられている。

    信旗…符信とする旗、信号の旗。ここでは仏教の信心の旗印、転じて

    教えそのものを指す。古より説法が行なわれる際、寺院では境内に

    法幢(幢幡)を掲げたことに因む。

    普天普地…天に普く地に普し。普天匝地に同じ。天地全体。天地あま

    ねく。天下に。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    九三

    応安四辛かの

    とい亥

    、通つう幻げん和尚、書を馳せて、總持の入院を勧む。師、赴かず。又た永和三丁ひの

    とみ巳

    、実じっ峯ぽう・通幻、書を馳せて云く、「満山、

    伏して請う、来歳の峩山禅師十三回忌に拈香せられんことを」と。師亦た赴かず。明徳二辛未、通幻、『叢そう林りん公こう論ろん』并びに印

    籠を寄せらる。応永五戊つちの

    えとら寅

    、実峯、啓を馳せて峩山三十三回忌の拈香を請う。又た揶や揄ゆして赴かず。峩山の「同等にして別位

    無し」との金言を崇重して、總持傍出の末寺に列せざる所以なり。

    応安四年(一三七一)辛亥に、通幻寂霊和尚が書を遣わせて、總持寺への入院を勧めて来た。先生は赴こうとしなかった。

    また永和三年(一三七七)の丁巳には、実峯良秀和尚と通幻和尚が書を遣わせて「總持寺の寺中の者が謹んで、来年の峩山

    禅師の十三回忌に来られて拈香して頂きたいと願っております」と告げてきた。先生はまた赴こうとしなかった。明徳二年

    (一三九一)の辛未には、通幻和尚が『叢林公論』ならびに印籠を寄贈された。応永五年(一三九八)の戊寅には、実峯和尚

    が書簡を送って峩山禅師の三十三回忌に拈香に来てほしい旨を願ってきた。このときもまた真

    に取り合わずに赴こうとしな

    かった。峩山禅師が「正法寺は總持寺と同等にして違いがない」と述べた金言を尊重して、總持寺の傍出の末寺に列しなかっ

    た故である。

    応安四辛亥…北朝の応安四年(南朝の建徳二年、一三七一)のこ

    と。この年一一月二〇日には總持寺第三世の太源宗真(大源とも、

    一三一八?│一三七一)が示寂している。

    通幻和尚…峨山下の通幻寂霊(一三二二│一三九一)のこと。峨山下

    五哲の第二位。豊後(大分県)武蔵郷の藤原氏。京都の人とも。郷

    里大光寺の定山祖禅に従って得度し、大宰府の観世音寺で受戒する。

    加賀大乗寺で明峯素哲に参じ、能登總持寺の峨山韶碩の法を嗣ぐ。

    応安元年(一三六八)に總持寺に輪住し、細川頼之の帰依で丹波(兵

    庫県)永沢寺の開山となる。永徳二年(一三八二)に總持寺に再住し、

    至徳三年(一三八六)に越前龍泉寺の開山となる。嘉慶二年(一三八八)

    に總持寺に三住し、明徳二年五月五日に世寿七〇歳で示寂する。語

    録として普済善救編『通幻大師三山語録』一巻、編者不詳『通幻禅

    師語録』一巻、抄出本『通幻霊禅師漫録』二巻が存する。總持寺五

    院の妙高庵の祖。その門流を通幻派という。

    書を馳せ…書簡(手紙)を発すること。書を送ること。住持が亡くな

    るときに後事を託する書簡などを遣わすこと。

    總持の入院を勧む…能登の總持寺への入寺を要請したこと。当時、總

    持寺では輪住制が開始されたばかりであり、月泉良印を住持に拝請

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    九四

    することで、正法寺僧団を總持寺の配下に位置づけようとしたもの

    である。

    永和三丁巳…北朝の永和三年(南朝の天授三年、一三七七)に当たる。

    応安四年から丸六年が経過している。

    実峯…峨山下の実峰良秀(?│一四〇五)のこと。峨山下五哲の第五

    位。能登(一説に京都)の人。俗姓は藤氏(長氏)と。一九歳で出

    家し、總持寺の峨山韶碩に参じて法を嗣ぐ。總持寺に輪住して後、

    能登の定光寺の第一祖となる。總持寺に再住した後、備中(岡山県)

    の那須氏の帰依で永祥寺の開山となる。応永一二年(一四〇五)六

    月一二日に示寂する。一説に世寿八八歳とも。『実峰秀禅師語録』二

    巻と「実峰和尚行状」が存する。總持寺五院如意庵の祖。その門流

    を実峰派という。

    啓…事情を述べた比較的短い書簡。公文書や上申書。

    満山…山中・寺中、寺全体。ここでは諸嶽山總持寺全体、寺の一同全員。

    伏して請う…平伏して請い願う。謹んでお願いする。

    来歳…来年・翌年。具体的には北朝の永和四年(南朝の天授四年、

    一三七八)に当たる。

    峩山禅師十三回忌…峨山韶碩は北朝の貞治五年(南朝の正平二一年、

    一三六六)一〇月二〇日に示寂しているから、その十三回忌の正当

    は永和四年一〇月二〇日となる。

    拈香…焼香すること。恭しく香を摘んで焚くこと。

    明徳二辛未…北朝の明徳二年(南朝の元中八年、一三九一)のこと。

    南北朝合一が間近いこの時期、總持寺ではこの年五月五日に五哲の

    雄である通幻寂霊が世寿七〇歳で示寂しているから、その直前の出

    来事ということになろう。

    叢林公論…南宋の淳煕一六年(一一八九)に温州(浙江省)南雁蕩山

    の者菴恵彬が編纂した『叢林公論』一巻のこと。禅余内外の典籍を

    紐解いてそれらの正邪是非を論じており、七〇余項からなる。正法

    寺には「通幻寂霊禅師書」として「進上正法寺、叢林公論一冊并印

    籠一个。明徳二年卯月廿日、寂霊(花押)」と記された文書が伝えら

    れており、明徳二年四月二〇日の日付けで寂霊が揮毫している。こ

    の年五月五日に寂霊は越前龍泉寺で示寂している。ただし、寂霊が

    正法寺の良印のもとに贈った『叢林公論』が写本であったのか刊本

    であったのかは定かでない。日本では北朝の延文四年(南朝の正平

    一四年、一三五九)に刊行された五山版が存している。

    印籠…印判・印肉を入れる小さな箱。後には薬を入れて腰に付けた。

    前項のごとく正法寺には『叢林公論』一冊とともに、印籠一箇が実

    際に正法寺に下されたことが知られる。

    応永五戊寅…応永五年(一三九八)のこと。良印が八〇歳のときに当

    たる。

    啓…上申書。公文書。あるいは手紙・書簡のこと。

    峩山三十三回忌…峨山韶碩は北朝の貞治五年一〇月二〇日に示寂して

    いるから、その三十三回忌の正当は応永五年一〇月二〇日となる。

    揶揄…からかう、なぶる。手を上げてからかうこと。嘲りなぶること。

  • 月泉良印の伝記史料(佐藤)

    九五

    ﹇道俗の接化と嗣法門人﹈

    遠近緇素、翔于道德、呼云古佛再來。得度者不知其數。得法者二十七人、恐峩山禪師二十八資欠一箇、又不許人也。後門人古

    山等、品評列拜塔資、都成四十三資也。

    道德│道得 

    峩山禪師│峩山師 

    一箇│壱箇 

    又不許│亦不許 

    古山等│古山

    瑞…遠近緇素翔二

    德風一、呼曰二

    古佛再來一。(中略)應永元甲戌八月望日、所レ

    延二

    嗣子良玉一、啓二

    瑞雲一

    開堂嗣香、供二

    峩山法乳一。此日、紫雲藹二

    殿上一、龍燈

    輝二

    嶺松一。師因レ

    茲名レ

    山云二

    嶺松竜灯一、号レ

    院曰二

    瑞雲一。本是密宗目二

    万年一、乃勅特賜通覚正僧正之高跡。建久頃、後鳥羽院帝有二

    勅願一、賜二

    護國号一。

      

    其前者、飛彈工匠、大同元年創造舊坊也。曾有二

    七種之神異一、云云。師座下常不レ

    減二

    一千餘指一、皆是法

    龍象也。就レ

    中有二

    白妙者一、年久侍而其齢

    不レ

    過二

    二八一、妙知二

    師之所一レ

    欲、毎事能辨レ

    之。佗見レ

    之敬異、後識二

    白山権現一。又有二

    一丈夫一、其形魁岸師生涯仕不レ

    離、是不動明王也、云云。師異

    跡甚多、略不レ

    記レ

    焉。應永乙亥春、讓二

    院〈瑞雲〉事於嗣子良珎一、復二

    法旆於正法一、住二

    太梅一

    三十九白。内栖二

    嶺松一

    八箇月、重二

    先師命、一一二

    正法之寺務一、

      

    領レ

    衆匡レ

    徒之外、無二

    佗事一

    矣。故無二

    自求開之寺一、亦無下

    除二

    瑞雲一

    有中