朝鮮・後金聞の使者往来について (1631-1633)...朝鮮固と後金問aisin...

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Meiji University Title �1631-1633Author(s) �,Citation �, 155: 1-27 URL http://hdl.handle.net/10291/18632 Rights Issue Date 2015-09-30 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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  • Meiji University

     

    Title 朝鮮・後金間の使者往来について(1631-1633)

    Author(s) 鈴木,開

    Citation 駿台史學, 155: 1-27

    URL http://hdl.handle.net/10291/18632

    Rights

    Issue Date 2015-09-30

    Text version publisher

    Type Departmental Bulletin Paper

    DOI

                               https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

  • 駿台史学第 155号 1-27頁, 20日年9月SUNDAI SHIGAKU (Sundai Historical Review) No, 155. Septem ber 2015, pp,ト27,

    朝鮮・後金聞の使者往来について (1631-1633)

    鈴木 関

    要旨 後金(清)固による二度の朝鮮国侵略である丁卯の乱 (1627).丙子の乱(1636・

    1637)の戦間期における両国の関係は,後の朝清関係を論じる上で不可欠の前提をなす

    と考えられるが,基本的な事実関係は十分に解明されていない。これは当時の両国関係

    が,国境における交易(互市).越境朝鮮人(犯越人)の引き渡し,朝鮮人捕虜の後金か

    ら朝鮮への逃亡者(逃還人・走回人).朝鮮にいる女真人(向化人)の返還要求,朝鮮か

    ら後金への礼物といった項目に分けて論じられる形式が一般的であったためである。

    確かに,個々の項目に限れば,両国関係はいかにも円滑を欠いたようにみえるが,そ

    の一方で両国間の使者住来は十年間途切れることなく続けられ,多様な外交交渉が繰り

    広げられていた。両国交渉を項目別に分けて論じるのではなく,総合的な‘流れの中で把

    握するのでなければ,当時の両国関係の実態に迫ることはできないと恩われる。両国聞

    を往来した使者の名称や人員,派遣時期といった基本的な事実がいまもって明らかでな

    いことが,従来の研究の問題点を象徴している。

    本稿では以上のような問題意識から,戦間期における両国間の使者往来の実態を解明

    する端緒として仁桓9年から 11年までの時期を考察することとした。仁祖9年は従米

    の研究において両国関係が「悪化」したとされてきた時期であるが,その実態について

    は必ずしも明確ではなかった。本稿での考察の結巣,仁祖9年から翌年にかけて後金は

    礼物の増額を要求し仁祖 11年には朝鮮がこの要求に部分的に譲歩して応じたが.その

    一方で互市の実施要求には応じず,朝鮮使者の派遣に際して商人を随行させるという代

    案を提示するに至っていたことが明らかになった。

    キーワード:朝鮮,後金,朝清関係,明清交替,外交

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  • 鈴木 関

    はじめに

    朝鮮固と後金問 AisinGurunの関係は,大清閏 DaicingGurunの対外関係の主要な前提のー

    っという点で重要な意味を持ち,一方の朝鮮にとっても,了卯の乱(1627).丙子の乱(1636-1637)

    が国制に深刻な動揺を与えたという点で重要な意味を持つ。そのため,丁卯の乱,丙子の乱の

    戦間期における朝鮮・後金関係は早い時期から研究がなされたが.必ずしも体系的に行われて

    きたわけではない。その一端を紹介すれば以下の通りである。

    まず,比較的早い時期に行われたものとして金声均氏の研究がある。金氏は,戦間期の朝鮮・

    後金聞の経済関係について「中江互市J1藩陽交易J1会箪私市J1潜商団束J1歳幣Jの五節に

    分けて論じたが,これらの問題の顛末や相互閲係について言及せずず、.単に「諸般の関係」は「清

    国(後金を含む{引用者)の意思通り解決できる方向で進められるようになつたのであろう」

    とまとめた(臼ω1)

    金氏以後の研究を概観すると,朝鮮・後金関係を全般的に論じたのが,陳捷先(2) 劉家駒(3)

    柳在域(4)金鍾円(5)の各氏の研究であり,部分的に論じたのが,関市については荘官発(6) 張存

    武(7)の両氏,礼物については江嶋寿雄氏の研究で、ある。また森岡康氏の一連の研究は,朝鮮人

    捕虜の買い戻し(瞭還)という営為に着目し,開市などともかかわるかたちで論じた点が特徴

    的である。ただこれらの研究でも,金氏の研究会意識するとしないとにかかわらず,開市,越

    境朝鮮人(担越人).朝鮮人捕虜の後金から朝鮮への逃亡者(逃還人・走回人).朝鮮にいる女

    真人(向化人).礼物といった項目に分けて論じる形式が踏襲され.基本的な事実関係を十分に

    解明しないまま後金の外交的圧力を強調するという問題点もまた継承された叫

    こうした中,張存武氏が時期を仁祖5年から 8年までと,同 9年から 14年までの二期に区分

    して両国関係を分析していること(吋ま注目される。しかしこの研究でも,第五章「天聡五年至

    十年的金鮮交渉」の第一節「金鮮関係的悪化」では,仁祖9年正月から 4月までの朝鮮使者の

    礼物問題の顛末が概述されるのみで,それがどのような意味での「悪化」であったのかは述べ

    られていない。

    仁祖9年正月から両国関係が「悪化」したという認識は,江嶋氏が後金の礼物増額要求が仁

    祖9年正月に始まり,それにともなって後金の態度が強庄的になったと主強し(10) 森岡氏が仁

    祖 10年2月以降,丙子の乱に至るまでは買運は殆ど断絶状態にたち至った」と述べた(11)ことに

    表れる認識とも符合する。こうした認識が,特に仁祖9年以降の両国関係を「悪化」したとす

    る認識に根拠を与えることになったと考えられる。

    本稿では以上のような従来の研究の問題点を踏まえ,戦間期の両国関係を通時的に検討する

    端緒として.特に仁祖9年から仁祖 11年までの両国交渉の主要な経過を明らかにすることと

    した。両国間の使者往来を中心に論じる形式をとったのも.従来の研究ではこうした基本的事

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  • 朝鮮・後金問の使者往来について (1631-1633)

    実がほとんど明らかになっていないためである。なお紙幅の都合上,単純な事実凶係を示す場

    合.典拠の提示を省略したところがある。

    一礼物問題の始まりと蹟還の再提起一仁祖9年

    1 後金の摂島討伐と秋信使朴筆一行の派遣

    この年の正月に藩陽に到着した春信使朴蘭英一行はホンタイジ Hongtaijiから礼物の受け取

    りを拒否され, 3月初にアジユフ Ajuhu,ドゥンナミ Dungnami(朴仲男)一行をともなって漢

    城に帰還した。礼物問題の始まりであった。朝鮮朝廷では物品を改めて訳官を送って再び礼物

    を伝達しようとしたが認められず,新たに回答使妻鹿廷詰一行を派遣した。調廷苗一行は4月に

    礼物の伝達に成功しこの時の礼物問題は一旦収束した。この時のホンタイジは雛廷詰に対し

    て礼物の額数を仁祖5年7月の回答官申景琉一行の時の水準に戻すよう要請するにとどまって

    いる。

    その後,後金から派遣されてきたマンダJレハン Mandarhan,ドゥンナミ一行は.3月の劉興

    治の死亡に乗じた根島討伐のための船や食糧の援助を要請した(1九仁祖はマンダルハンイ子に

    託した図書の中で,

    蓋し我が国寡弱にして,一念区区たりと難も,恒に信義を以て重きと為す。西は皐朝に事

    え,北は費固に和し,南は日本に通ず。事大交隣,只此の心を保つのみ。ー諾の虚妄も,

    天心之を厭う。〔中略〕軍馬の旅次に在りて,若し飢乏の息有らば,或いは穀石を略給し,

    一番相済けるべし。

    と述べ,食糧の援助のみ応応、じることとしている。マンダルハン一行は 6月2却9目に椿陽に帰還

    して国書を伝達した{倒1ロ凶3由)

    この間, 5月末には後金軍一万二千人余りが椴島討伐のために鴨緑江を越えて襲来してい

    た(]九平安兵使柳琳の報告によると.後金軍は「船十余隻Jを奪って根島を攻め.r初め来る時,閏家に入らず,小しも侵害無し。而れども十一日自り以後,馬を回沓に牧L.民間を鎗掠す」

    という状況であった倒。

    このような状況下,朝鮮朝廷では呉信男を秋信使として派遣しようとしていたが,備辺司で

    は「今の事機,前日に異なり,多く争弁酬酢の事有りJとして, r鄭文翼の例に依」り「堂上以上一員」を「上使」に,キト蘭英と呉信男のどちらかを「副使」として送ることが提案され(16)

    朴箸が上使に,呉信男が副使に任命され, 6月初日に漢城を出発した。派遣目的は,当初は後

    金軍の速やかな撤退であったが,程なくして平安監司閲聖徽から 26日に後金主主が撤退したと

    の報告が朝鮮朝廷にもたらされた問。このため朴蓄は 7月初4日に漢域に引き返し(18) 新たな

    国書を受け取った後,再び出発した。新たに託された仁祖の国書は基本的に今次の出兵の非道,

    特に平安道における略奪.3月の義州開市での後金側による取引価格の抑制.5月末から 6月初

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  • 鈴木 関

    の時期に会寧にきたジャヌ Januらが「託するに宿債と称し,徴責万端」であったことなどを非

    難するものとなっていた(19)。キト管一行は8月初2日に鴨緑江を渡り.11日に椿陽に到着した闘

    が,ホンタイジは大凌河攻城戦のため 7月27日には漕陽を出発しており,しばらく藩陽で待機

    することとなった。

    2 大港河攻域戦と秋信使朴箸一行

    大凌河攻城戦は山海聞の突破に向けて明の前線基地の一つである大凌河の城を攻撃したもの

    で,後金にとっては初めての長期にわたる包囲戦ともなった。包囲戦それ自体は 8月初 6日か

    ら, 10月28日に総兵祖大寿が投降するまでの二ヶ月余りで終息したが,帰順したモンゴルの

    二旗,漢人の一旗,ホルチンをはじめとするモンゴル諸部の兵が動員され,諸勢力からなる後

    金において国としての一体感を演出する思惑もあったといわれる倒。

    ホンタイジは 9月29日に大凌河から指示を出して, ドゥンナミを朝鮮に派遣した倒。この

    時に作成された書簡は「金圏域守王子」の名義で, 7月27日に兵を発し.8月初6日に大凌河

    の域を囲み.i祖河ニ総兵」が率いる「山海以西黄河以北兵馬十万Jにもおよぶ援軍も退けて勝

    利したことを伝えるものであったと考えられ(23) 朝鮮朝廷に朴箸一行への対応が遅れた理由な

    どを通知しようとしたと考えられる。ホンタイジはこの時点で朴筆一行が持参した仁祖の国書

    の内容を把握していない。ホンタイジが仁祖の図書の内容を把握したのは 10月初 10日のこと

    であった例。

    そうして.10月15日にはドゥンナミが「従胡十一名」を率いて義州に出来し(25) 26日に漢

    城に入ったが,持参してきた書簡が「城守王」の名義であったため.朝鮮朝廷は仁祖への謁見

    を許可しなかった。匂管堂上(話)よりこのことを告げられたドゥンナミは「此れ実に汗の意なり」

    と食い下がったが, i尊卑無別等の語を以て之に諭」したところ,引き下がったという (2九朝鮮

    朝廷でも対応、には慎重を期し.i朝鮮国王,金関城守王に奉答すJという聞書を送り,使者の派

    遣に対する謝意を示している{制。ドゥンナミ一行は 10月29日に漢域を後にし.11月19日に

    滞陽に帰還した。

    一方の朴筆一行は 11月11日に留守を預かっていたドゥドゥ Dudu,サハリヤン Sahaliyan.

    ホーゲ Hoogeとともに溶陽の城から四十里先まで出迎えにいき.ホンタイジに謁見した(制。

    その後,閏 11月初2日には藩陽を出発し,初8日に鴨緑江を渡って帰還した。同時にク jレチャ

    ンKtircan.マンダルハン,ドゥンナミらが「従胡七十一名」を率いて出来しており (30) 朴醤一

    行の帰還にあわせて派遣されたものとみられる。

    朴智一行の活動の詳細は伝わらないが,帰還後に仁祖に報告したところによれば,ホンタイ

    ジについて「容貌則ち諸将に比して精異なるも,動止は則ち戯嬉言笑すること,群胡に異なる

    無し」としながらも.r飲食及び賞物,必ず手自ら与え,毎に宴飲に於いて,酒器数十余を置き,

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  • 朝鮮・後金問の使者往来について (1631-1633)

    愛将を床下に呼ぴ,親酌して之に憤る。蓋し雑種を牧合するが故に,能く其の心をーにせざる

    を患うるのみ」と人心掌握に意を砕いている様子を伝えている。また人旗については「但八王

    互相猪疑するのみ。量久しく安んずるを得んや」と述べ,その例として「竜骨大.汗最も信愛

    す。而れども臣に見える時,必ず入高山の人と借に来る。其の疑を見て以て陰事を告せられる

    を恐れるなり」と,ホンタイジの信任を受けているイングルダイ lnggilldaiでさえも.他の旗

    の人物と行動して疑惑を受けないようにしていることを挙げている。また鄭文翼が派遣された

    時には. ["其時文と武とを知らず。故に諸胡は姓名を通じずして直に入る。今則ち必ず大門外

    にて下馬し,其の姓名を通じ,入れと云えば則ち入る。礼の甚だ恭し」と城門の出入りが管理

    されるようになったこと.["汗も亦私室に於いて,別燕を設く。臣の坐傍に坐し,錨艶五重にし

    て,金鉢玉査を以て,酌酒して之を勧むJと歓待されたことを伝えている (31)。これは 11月29

    日にホンタイジ、が大凌河の戦で連れ帰った漢人武将らを招いて酒宴を行い.戦の勝利を「見せ

    つける機会」として朴嘗らを末席に招いた(32)時のことであると考えられる。

    3 クルチャン一行と礼物,開市,蹟還をめぐる交渉

    クルチャン一行は朴嘗一行が持参した仁祖の国書に対するホンタイジの返書をもたらした。

    ホンタイジはこの図書の中で,確かに仁祖の図書にもある通り丁卯の乱の際に「各おの封彊を

    守札彼此過江を得る無きを以て約と為」したが,朝鮮朝廷は明兵を領内に住まわせ,食糧を

    援助し,また朝鮮人を変装させて後金の動静を探らせるなどの背盟行為をしていると述べてい

    る。義州開市での取引価格の抑制,会寧での収奪については「我人の我を欺く者之有り。王人

    の王を欺く者も亦之有り。是厳しく究めざるべからざるなりJと一定の理解を示し,特に会寧み

    については「両国各おの好官一員を差わし,同に彼処に到らしめ,共に虚実を勘さしむるべし」

    と提案している。しかし続けて.5月には「ト児恰兎J(布爾恰図)で.9月には「灰抗J(輝発)

    と「寛典J(寛旬)で,越境朝鮮人を捕えたと記し,朝鮮朝廷の背盟を責めている。なおあわせ

    て「秋使」への返礼として人事十斤,紹皮十張が伝えられており (33) クルチャン一行には朴嘗

    一行への返礼という役割もあったことが分かる。

    またホンタイジはクルチャン一行が藩陽を出発するのと前後して戸部を管轄していたデゲレ

    イDegeleiに書を下して,諸ペイレを除いた大臣や民が煙草を吸うことを禁止するとともに,

    「諸ベイレは吸うとしても植えるな。朝鮮から量を限って買って吸えJと指示を出している例。

    この制限令によって朝鮮の煙草供給地としての役割がこれまで以上に後金から重視されるよう

    になったと考えられる。図書には厳しい言辞を並べたホンタイジであるが,それは物資供給地

    としての朝鮮に対する期待の現れでもあったといえる。

    クルチャン一行は閏 11月21日に漢城に入り,翌日,崇政殿で仁祖に謁見した。その後は連

    行してきた越境朝鮮人の金太守,安徳幹の取り調べを待ち.27日に彼らの斬首と西小門(昭義

    5

  • 鈴木 関

    門)での巣示に立ち会い(35) 翌日,漢城を後にした(描)。これに先立つ 22日には, Iマフタとイェ

    ヘYeheのクルチャンが人家の八十人と通事二人を率い」て義州に出来し(37) 副元帥鄭忠信,

    義州府予申景珍は 26日に「商胡九十九名Jが持参した「銀子」の「発売」のため安州に向かっ

    たと報告している倒。ホンタイジは同時期に関市を実施しようとしていたようである。しか

    し後述するように,朝鮮朝廷の要請でこの時の開市は実施きれなかった。

    また,この時のク JレチTン一行は,礼物を定額通り送ることを求め. 12月18日に帰還した

    後,ホンタイジにそのことが朝鮮国王に認められたように報告している (3'九しかしこれまで

    みてきた通り,この点についてホンタイジの図書には何も記されていない。江嶋氏はクルチャ

    ンらの「使命が歳増額を主眼としたもので、あったことは明らか」と断定し,この時の交渉を増

    額交渉と位置付けてもいる倒。確かに,礼物について何らかの交渉があり,何らかの額数が示

    された可能性は高いとしても,両国間で様々な懸案をめぐって交渉がなされる中で.I歳増額を

    主眼とJして交渉がなされたかは定かではない。また増額といっても,回答官申景琉一行の時

    の水準を定額化しようとする動きと理解した方がよいと思われ,増額という部分を過度に強調

    するのは避けるベきでで、あると思われる (4削削4剖叫I日)

    クルチヤン一行のj帰帯還に先立つ 1ロ2月初7日には'仁祖の国書を託された訳官朴仁範が溶陽

    に到着した。国書では,クルチャン一行が安州に出来して唐突に開市を行うとし,漢城でもこ

    れを行うと述べたが.I春間開市の後.公私赤立し,兼ねて島中連なりて変有るの故を以て,久

    しく通貨の路を断つjという状況であり. I姑く期日を緩定」することを要請するものであっ

    たω。これに対してホンタイジは「原より一年春秋二次,義州に於いて開市するを約す」としかえ

    ながらも「後市既に倣すを得ざれば,前市も亦必しも倣さず。全て回すが可なり」と,非公認

    の取引(後市)もなされていない状況で,公認の取引(前市)は行うことはできず,持参した

    銀を全て撤収することを了承する国書を送っている。またあわせて,もと亀域の人で.I其兄名

    林鳳林涛,林」とする朝鮮人捕虜の逃亡者を送漉することも要請された制。ホト仁範は 19日に

    帰還して国書を伝達している。

    備辺司では「即ち汗書を見るに,深怒の意無きに似たるも,而れども末端措語.頗る不平の

    意思有りて,全回を以て言と為すに至る」と一抹の不安が述べられ.I物貨を優送Jすることが

    提案されたが,仁祖は「既に乏貨を以て言と為す」と述べてこれを認めなかった刷。

    また朝鮮人捕虜の逃亡者については,朴蘭英が「禦戎の策を疏陳Jしたのを受けて 12月24

    日に備辺司が行った回啓の中で,クlレチャンが漢城に滞在していた際,朝鮮人捕虜の逃亡者を

    「辛未閏月以後,一一刷還せよJと述べていたという(品)。備辺司ではこの言が「若し誠心より出」

    たものであれば「未だ不可と為さ」ず二「購還の価jも「六桶青布に過ぎ」ないので. I今後国すなわ

    書,申ねて約束を定め,走問者は便即ち価を備えて瞭還すること,ーに林仲福の事の如くせば,

    則ち我に在りでは直にして,而して彼も亦辞無し」としている(岨)。詳細は不明だが,ホンタイ

    6

  • 朝鮮・後金聞の使者往来について (1631-1633)

    ジはクルチャンを通じて,間 11月以降,朝鮮人捕虜の逃亡者を一人当たり六同の青布で臆還す

    ることを提案したと思われる。そして朝鮮朝廷は,送還が要請された林姓の人物すなわち林仲

    福について.この提案に沿って蹟還しようとしていたものと考えられる。

    後金は多大な労力をかけて大凌河攻城戦を行ったが,経済的利益は少なかった上,多くの漢

    人の投降を受け入れたことで,短期的には経済的負担が増していたといわれる問。このため朝

    鮮に対しては少しでも多くの礼物の送付を求め,また開市や臆還による着実な物資の取得を目

    指していたものと考えられる。

    二 後金による関係改変の試み一仁祖 10年

    1 春信使鄭柚一行

    この年の春信使鄭櫨一行は前年 12月16日に鴨緑江を越え.26日に藩陽に到着し,義州開市

    における後金側の取引価格の抑制や,会寧における物資の略奪を問題視する国書(岨)を後金に伝

    達した。鄭櫨一行は元且の朝賀儀式にも参列し,ホンタイジに対して叩頭を行っている。国書

    と礼物もこの時に伝達された(叫。溝陽を出発した鄭雄一行は正月 11日に鳳風域でlt:.宿してお

    り,程なくして帰還したものと思われる。

    鄭櫨一行の帰還と前後して,青布の代価となる人毒事を持参したマフタ Mafuta.イェへのクル

    チャンと「八高山家丁及び率従胡千余名」が派遣されてきており(印正月 28日にも「胡騎十余

    人jが義ナI-lに来て.r関市時」に朝鮮側が対価となる物資を用意できず,余ってしまった銀子を返還するよう迫ったという(出 o 3月29日にはホンタイジの図書を託されたランゲLanggeが

    「従胡百七十人,馬百余匹」を率いて会寧に出来し朝鮮にいる女真人の送還と会寧での開市の

    実施を要求した(功。ランゲらは 4月25日に引き上げた仰が,この時の会寧開市は,後述するよ

    うに実施には歪らなかったちのと思われる。

    この間,朝鮮朝廷では.2月23日に,前述の林仲編の瞭還を履行するため,訳官キ卜仁範を派

    遣することを決定した刷。キト仁範は3月22日ι仁祖の国書を後金に伝達した(55)。

    その後.4月28日にドゥンナミ一行が義州に到着した。ドゥンナミは翌月初7日に漢城に入

    り.12日に崇政殿で仁祖に謁見した。ドゥンナミ一行の帰還に際しては訳官権仁禄が仁祖の国

    書を託されて派遣され.7月21日に渚陽に到着した。仁祖の国書には, 3月に会寧に伝達され

    たホンタイジの図書への回答が遅れたことを詫びた上で,送還を要求された女真人について調

    査したところ,逃亡や死亡など,大部分が引き渡しできる状況にはないと判明したことなどが

    記されていた。調査対象者一人ひとりの出自や現況が詳細に記された「一紙」もあわせて伝達

    され(邸,これによってこの問題に対する朝鮮朝廷の誠意を示そうとしたと思われる。

    7

  • 鈴木 開

    2 秋信使朴蘭英一行と後金使者の接待問題

    その上で朝鮮朝廷では7月初 6日に朴蘭英を秋信使に任命し,後金側に対してさらなる働き

    かけを行おうとした。キト蘭英一行は8月23日には鴨緑江を渡り (57),9月初8日に溶陽に到着し

    た(刷。後金では 4月から 7月までのチャハル,張家口への遠征を経て,その事後処理が一段落

    した時期に当たる(,~)。朴蘭英に託された仁祖の図書は 6 月 28 日に宣祖継把の仁穆大妃が死去

    したことを伝え,朝鮮で罪をえて後金に逃亡した人物の送還を要求する簡潔なものであった側

    が,義州に帰還した後の朴蘭英の報告によると,後金側と激しいやりとりがあったことが分か

    る。

    溶陽に到着した朴蘭英は,イングルダイらに対して①朝鮮で罪をえて後金に帰順した洪大雄

    らを早急に引き渡すこと,②仁祖7年12月,いわゆる己巳の役に際して後金の捕虜となり,一

    旦は後金に降ったが,仁祖8年9月に再び明に走った総兵黒雲竜が,崇禎帝に明の物資が朝鮮

    を通じて後金に流れていることを訴えて以降,明の物資の調達が難しくなったこと,③訳官の

    学習のため後金で用いられている「翻書」を入手すること,④罪人梁嗣福の子継賢が後金に逃

    亡しているので引き渡すことの四件を要請した。しかしホンタイジは「近日故有りて,出坐す

    るを得ずJと述べ,仁祖の図書のみ人を介して受領するにとどまった。

    その後,イングルダイ,マンダ1レハン,マフタ, ドゥンナミらが朴蘭英のもとを訪れ,仁穆

    大妃の弔問のためマンダルハンを派遣することになったと伝え, 1礼単は則ち以て少なしと為

    さず。而れども但我を指して財を貧ると為す。故に之を受けるを得ず」と述べ,数量の問題で

    はないことを強調している。さらにイングルダイらは,

    朝鮮父母を以て南朝を待す。故に南朝使臣出去の時,朝鮮大小官,皆下馬して相接す。我

    が国の朝鮮に於いて.是兄弟の固なるも,彼此使臣往来の時,馬上にて相揖して以て接す

    るに過ぎざるのみ。我差往来の時,一路四大官,出接を為さずと云う。今後又是くの如く

    せば,則ち我差当に自ずから還来すべし。

    とのホンタイジの意向を伝えた。四大官とは平安監司関聖徽が述べるように平安監司,兵使,

    黄海兵使,開城留守のことを指し(61) 安州,平壊,黄j、I-J,開城での接待を要求したようである。

    義州,定ナトlが含まれていないのは当時の事情を踏まえてのことであると思われるが,後金側が

    かつての朝明関係の事情に十分に通じていなかったこともあると思われる問。

    後金側から,沿路での使者の接待を明と同様にせよとする要求が出されたのは,丁卯の乱に

    おける平壌盟約捌以来,初めてのことであったが,平壌盟約については言及していないようで

    ある。

    キト蘭英一行の帰還に先立つ 9月 17日には訳官権仁禄が帰還し,ホンタイジの国書を伝えて

    いるが, 1書中来意,率多強弁飾非にして,道義に循わず」と,朝鮮側の主張を全面的に退ける

    内容であった刷。朝鮮にいる女真人の調査を行うことで,この問題に対する誠意をみせるとい

    8

  • 朝鮮・後金聞の使者往来について(1631-1633)

    う朝鮮側の戦略は不調に終わったといえる。

    マンダルハン一行は 9月13日に藩陽を出発し(65) 秋信使朴蘭英一行とともに 9月21日に鴨

    緑江を渡り,朝鮮領に入った。マンダJレハンは,平壌にて.["天朝に進貢せば,則ち春秋両度の

    外.又聖節等方物有り。而れども我に於いては.則ち只春秋の礼有るのみ。華使の来れば,金

    銀器を排用す。間れども我に於いては,則ち皆沙器を以てす。我を待するに何ぞ独り草率にせ

    んか」と述べていたと平安監司関聖徽は報告している(問。 10月初9日には漢城に入り.12日に

    は弘政殿にて進香の儀が執り行われた。後金側が用意した祭文は「白綾に書し,而れども字画

    甚だ大にして,措語も亦多く未妥なり」というものであったが,備辺司では「必ずしも此れを

    以て相争わず」と,柔軟に対応することが主張された。祭文は「維天運之壬申季秋月丙申朔越

    二十六日辛酉,金国特差礼官蛮刺漢等」という書き出しで始まるもの附で,天聡年号を用いて

    いなかった点も,朝鮮側が問題視しなかった理由の一つであると思われる。

    マンダルハンは,秋信使朴蘭英一行の礼物を受領しなかった理由を「前日貴国書中,未安の

    語有り。且つ貴国北道に於いて開市するを肯ぜ」なかったためと説明しており{鎚国書の文言

    のほか,会寧での開市に朝鮮側が応じなかったことが主な理由であったようである。マンダル

    ハン一行は 15日に回答使元翻一行とともに漢城を後にした。元翻一行は 11月 11日に漕陽に

    到着し,マンダルハン一行の派遣に感謝する仁祖の国書と礼物を伝達した{制。

    3パドウリ一行と礼物の増額要求

    ホンタイジはマンダルハン一行の帰還を待つことなく,さらにパドゥリ Baduri. チャハラ

    Cahara. ドゥンナミ一行を朝鮮に派遣した。この時,ホンタイジはパドゥリ一行を通じて一年

    に一度.金百両,銀千両,綿紬 (miyanceo)千匹,麻布(jodon)千匹,細布 (narhunboso)

    万匹.豹皮 (yarhasuku)百張,瀬皮 (h凶]un)四百張,水牛角 (mukei ihan i weihe)百副,

    蘇木 (sumu)二百勧,大紙 (ambahoosan)千秩,次紙(i1hihoosan)千秩.竜文細席 (harhun

    derhi)一条,花席 (alhaderhi)百条,胡根 (hujiyoo)十斗,青黍皮 (sempi)二百張,腰万 (sain

    loho)二十口,順万 (seleme)二十口,松羅茶 (sung10 cai)二百包を送付するよう要求した(7010

    この額数は従来の十倍に近く,仁祖 15年正月に丙子の乱の降服条件として朝鮮に課された歳

    貢の額数に非常に近いものであった(71)。以下.この時に示された額数を江嶋氏にならってパ

    ドゥリ定額と呼ぶ。

    パドゥリ一行は 10月末に鳳風城に至って「今香接待の礼.ーに天使の例の知くせば,則ち前

    進し,然らざれば則ち当に自ずから此れ還去すべし」と朝鮮側に伝えており (72) マンダルハン

    一行の時と同様の主張を繰り返した。パドゥリ一行は安州に至り,平安兵使申景環の迎接がな

    いことに憤った(73)。さらにどの段階での発言かは不明だが, ["当に兄弟の盟を草め,更に君臣の

    約を結び,来使を待するに天使の礼を以てすべし」とまで述べたという (7410

    9

  • 鈴木 関

    しかし漢城に入城した後には,句管堂上の戸瞥判寄金蓋国,刑曹参判李漢,判決事朴醤ら

    に対して,r寧ろ汗に罪を得るも,両国和好の意を傷なろを欲せず。故に忍びて此こに来るのみ」

    と述べ,また「朝廷若し京官を迎候に送れば,則ち吾等量必ず監兵使を責出せんやjと,代案

    を提示した。これに対して金蓋国らは「父子の国,兄弟の固と,其の礼同じからず」と朝鮮の

    立場について理解を求めたが,バドゥリは「吾只汗の言う所を伝えるのみ」と答えた上.金蓋

    国らが朝鮮側の「礼単の数」に対する後金側の対応について,今回のホンタイジの国書にはど

    のように記されているのかを問うと.r本より国書無し」とまで答えている (7510備辺司でも「金差問答の語,前日に異なるに似たりJと述べられたように,後金側の姿勢の

    変化を認識し仁祖も交えて対応が協議された。 仁祖は「宴享は則ち許して三処に設け,而し

    て京官送接の事,従うべからざるなり」と述べたが.延平府院君李貴は「宴事は則ち弊有りJ

    としつつ.r許して京官を送るに如かず」といい,金尚容も「倭使」の場合には「京官送接の礼有り」としてこれに同調した判。また「礼単の数」については,句管堂上を通じてパドゥリと

    チャハラに「某物の弁ずと弁ぜざると,減ずと減ぜざるとの説」について意向を聞いた(77)上で,

    備辺司が各種木綿については千五百匹を定数としその他の物品も含めた「別単物目jを作成

    して仁祖に提出した。仁祖は各種木綿を千匹とするなど減額を指示し,予防,呉先謙らの増額

    を求める意見を退けた(78)。パドゥリ一行は「京官迎候Jについて「此れ則ち好きに似たり」と

    答えたという問。

    11月19日にはパドゥリ一行の仁祖への謁見があったが,それに先立ち,仁祖と備辺司の聞

    で,後金使者の接待は平壊,黄ナN.開城の三ヶ所において,それぞれ平安監司,黄海兵使,開

    城留守が担当し.r宴享」も各所で実施されることが決定された(曲)。その日の夕方,金蓋国らがバドゥリ一行のもとを訪れ.r干し単加定の数を兵言」すると「渠等顔色を喜動J~.三ヶ所での接待の件も「頗る亦欣喜」したが,パドゥリのみ「不快Jの意を示したという。また.r礼単駄載の数Jが多くなるため,甜水姑において後金側が「事輔を調発し,我が国刷馬と替代Jする

    ことも了承された刷。翌日,パドゥリ一行は漢城を後にし. 12月26日に溶陽に帰還した(回)。

    朝鮮朝廷では,パドゥリ一行が漢域に滞在していた 11月19日に翌年の春信使に申得淵を任

    命し,申得淵一行は礼物が用意された後の 12月15日に漢城を出発した。これに先立つ 12月

    11日には,回答使元翻一行が「金国答書」を持参して帰還したが,答書の内容は不明である。

    漢城を出発した春信使申得淵一行であったが,鴨緑江を前にして足止めされることになった。

    23日に副元帥鄭忠信らが朝鮮朝廷に報告したところによると.r騎胡十人Jがホンタイジの次のような書簡を伝え,春信使の受け入れを拒否したためである。

    諭して朝鮮国辺官に知らしむ。爾王我が固と証盟の時,礼物の南朝と一様なるを許す。後

    漸く減薄す。故に此番専人して講説す。礼単の果たして去人の言う所の如くせば,則ち進

    入を妨げず。愉し或いは前の鉱くせば,必ずしも来らず。来れば即ち来るも.亦我が辺に

    10

  • 朝鮮・後金関の使者往来について(1631-1633)

    入るを得ず。特に諭す(側s幻制3幻)

    このため朝鮮朝廷では備辺司での議論に従つて木綿五百匹を礼物に加え,各種木綿の額数を二

    千匹に増額することを決定した制)。もともと備辺司において主張されていた前年閏 11月のク

    ルチャン一行到来の際に定められた額数による礼物の送付閣が承諾されたのはこの時点で、あっ

    たと考えられる。またこれ以降,申得淵一行は春信使ではなく回答使とされ,藩陽に派遣され

    たと考えられる。

    ホンタイジから秋信使朴蘭英に提案された沿路四ヶ所での接待.パドゥリの「当に兄弟の盟

    を革め,更に君臣の約を結」ぶべきとの発言,さらにバドゥリ定額の提示と,この年9月以降,

    後金は明と同様の待遇を口実に従来の関係の改変を試みたと考えられる。しかし以上の要求は

    ホンタイジの図書によるものではなく.また春信使の受け入れを拒否した主な理由は丁卯の乱

    の際に礼物を明と同様にすると「証盟Jしたことに求められている。この「証盟」が江華盟約

    を指すのであれば事実と異なり,また明への礼物には金,銀,水牛角,松羅茶(あるいは天池

    茶)などは含まれていない。このような後金側の要求に朝鮮側が反論する余地は大いにあり,

    翌年にはそうした動きが顕著に現れてくることとなる。

    三 関係改変の動きに対する朝鮮の反発一仁祖 11年

    1 回答使申得淵一行と新定額の提示

    回答使申得淵一行は正月初9日に藩陽に到着し仁祖の国書を伝達した。仁祖の国書では,

    まずクルチャン一行が来た際に朝鮮側が後金側に送る「土産数日Jについて「接待の臣Jと協

    議したが.r曽て明白にせずして停当」し,ホンタイジの図書にも言及がなく,鄭雄一行が帰還した際にもたらしたホンタイジの図書の中で,クルチャンが礼物の額数を定めようとしていた

    ことについて初めて認識したとする経緯が述べられる。その上で,マンダルハン一行が要請し

    た「土産の数」は「前に比すること十倍」となっているが,朝鮮側の事情ではこれに応じるこ

    とは難しく,クルチャンが提示した額数の内.r士産にあらざる者を除Jいた額数を「恒規」としたく,申得淵一行を派遣し「兼ねて秋信礼単を付Jしたと使節派遣の経緯を説明している(問。

    これに対して後金側では礼物を受領せず,ホンタイジの国書のみを申得淵一行に託して帰還

    させた。ホンタイジは国書の中で,礼物の送付について「備し一年二次能わざれば,則ち一次

    を以て約と為すが可なり。但礼単及び交易の物.漸く少なく漸く悪く,甚だ観るに堪えず。如

    し予の言う所を允きざれば,往来倶に止めるべく,只相貿物するのみ」と述べ,パドゥリ定額

    に若干の増額を施した「新定数」を提示した。さらにホンタイジは,根島を攻撃するための「兵

    船三百捜」の貸与を求め,この「兵船礼物二事Jに従わなければ,再び使者を往来させてはな

    らないとし「向年盟替の時,王は族弟を以て仮に親弟と為し,我が国に詣らしむ。此れ欺岡に

    似たり」と,丁卯の乱における朝鮮側の対応などに言及して圧力をかけている。とこでも平壌

    11

  • 鈴木 関

    盟約について言及はない。あわせて「開市約書」が伝えられ, 3月初 l日に義州で開市を行うべ

    きことが要請された(問。

    2 征虜の謡と回答使金大乾一行

    こうした後金側の強硬な態度に接して,仁祖は昌徳宮において領議政予防,右議政金尚容,

    延平府院君李貴,平城府院君申景讃,兵曹判書李弘宵吏曹判書昼鳴吉を引見し「征虜Jにつ

    いて議論した(掴)。金向容は「開市の説,必ず是東捨の意なり」と述べる一方,予防は「虜中飢

    鐘頗る甚だし。今の恐喝,必ず貨物を求索するの意に出ずるに似たり。姑く加給を許すこと妨

    げ無し」と述べる。続いて崖鳴吉が「此の虜の撒盟,己に答書に著れり。但渓盤の慾を充たさ

    んと欲するのみ。今若し之に鴇鷹を与えれば,或いは数年事無かるべくも,而れども厩終われ

    ば,則ち甚だ憂うべきなり」と述べる。予防が述べるように,この時の後金では前年6月に藩

    陽を襲った洪水のために食糧不足が起きていたと考えられ(鈎崖鳴吉が述べるように,現時点

    で後金に抵抗の意志を示すべきであるという見解が,当時の朝鮮朝廷の方針であったと考えら

    れる。こうした議論を受けて,仁祖は次のように述べる。

    今日の事,決して姑息に絶和すべからず。執言の端有らば,急ぎ辞令に能う者を択ぴ,書

    を粛し入送せよ。書中措語.曽て丁卯に在いて,告天立誓す。両国共に太平を事くるを庶ねが

    翼うも,従い難きの請,謹かに意外に出ず。爾実に先に絶ち,我の之を絶つにあらざるな

    り。且つ開市の事,我が国の人,自ら答書辞意を聞き,皆憤慨を懐く。思うに一戦せんと

    欲するも,其れ誰か爾と利を争うを肯んか, との意を以て辞と為すが可なり (90)。

    無理な礼物の要求は江華盟約によって成立した両国の関係を絶つに等しいものであり, r我が国の人」も開市の実施よりは,後金との「一戦」を望むだろう,という図書を送り.朝鮮側の

    この問題に対する断固とした態度を示そうとしたものと考えられる。翌日には後金軍の侵入に

    備えるよう呼びかける教書が下され(9l) 対後金戦の準備が慌ただしく進められた。朝鮮朝廷の

    思惑は,後金が「飢鐘」にあることを考慮し,短期的もしくは局地的な戦闘によって,礼物,

    借船.開市といった問題の釘聞を図ろうとするものであったと考えられる。回答使には金大乾

    が任命された。備辺司では朴蘭英を随行させて可能な限り戦闘を回避する方策を探るべきとの

    意見も出されたが.仁祖はこれを退けた倒。こうした朝鮮側の強硬策は,仁祖の意向によると

    ころが大きかったものと思われる。回答使金大乾一行は 2月初2日にi莫城を出発したが,用意

    された国書には,おも

    貴国区区の意を諒わず,又従い難きの言を発す。此れ量当初立誓の本意ならんか。人の義

    を以て敢えてせざる所を強い,人の力を以て能わざる所を責め,而して我に他心無しと謂

    う。其れ誰ぞ之を信ぜんか。開市の難,前に己に累陳す。況んや今日に在いて,信使を許

    さずして,市して猶互市せしむるがごとし。奨ぞ此の理有らんか。貴国言外の意.己に知

    12

  • 朝鮮・後金問の使者往来について (1631-1633)

    るべきなり。敵邦の商買,量赴くを肯んずる者有らんか。貴国未だ一番虚行を免れざるを

    恐る。窓に使臣を遣わし,申ねて孤意を告げ,或いは翻然改図を以てする有るを巽うのみ。

    とあった(93)。基本的に仁祖の案に沿って作成されたと考えられるが,最後に「惑に使臣を遣わ

    し,申ねて孤意を告げ,或いは翻然改図を以てする有るを翼う」と.後金側の翻意を促すとい

    う回答使の派遣意図カ宮記されている。この部分については,可能な限り戦闘を回避しようとす

    る備辺司, とりわけ「独り挑怨速禍の非計を陳」した崖鳴吉{仙の意向が反映されたのではない

    かと思われる。崖鳴吉も出兵はやむをえないとする立場であったが,全面的な戦争は回避すべ

    きとの意向であったと思われる。

    その後,金大乾一行は義州に赴くが, 2月初7日に安州を通過した際,都元帥金時譲と副元帥

    鄭忠信がこの図書の内容を問題視し.一方では金大乾一行を義州にとどめ,もう一方では, I金

    大乾持する所の図書,其の語を略改し,善く措辞を為し,黄金の土産にあらざる者の如きの外,

    姑く其の意に従い,試みに其の答える所を観,然る後に之を絶つも,未だ晩からざるなり」と

    連名で上疏した。「一年用兵の費,量数年の礼単に至るのみならんや」とあるように側'二人は

    辺境防衛の観点から,性急に戦端を聞くことに反対したものと考えられる。両元帥は解任され

    るものの,備辺司では「大乾粛す所の国書,略加剛改し.余地有らしむれば,恐らくは機宜に

    合たり」と二人の判断を擁護する意見が出され,仁祖もこうした意見を受けて「国書宜しく速

    やかに改撰し,敵人生怒の患を無からしむるべし」との指示を出すに至った(時)。金大乾一行は

    2月22日に後金に国書を伝達し(併に 3月初6日に帰還して,ホンタイジの図書を伝達した。

    ホンタイジは国書の中で,仮に朝鮮を攻める意志があれば, I自ら明かすに告語を以てし,

    必ず暗中に愚を欺かざるなり」とし, I王の若し徒心易慮を言と為さば,予量聴さざるの理有ら

    んか」と述べた(9九仁祖の国書の文言にどのような変更が加えられたのかは判然とせず(抽既

    に述べたように金大乾一行の出発以前に,図書中の挑発的な文言はやや控えられるようになっ

    ていたと考えられる。また,前述した一連の流れの中で,金大乾一行の交渉方針も転換したと

    考えられる。さらに後金側も, 2月14日にはランゲ,ウパハイらを送って会寧で関市と女真人

    の捜索を行おうとしており(1∞もともと侵略の意図はなかったと思われる。以上のようないく

    つかの要因が重なり.戦乱勃発は回避されたといえる。

    ただし, 2月17日には,漢語をよくし長く朝鮮との交渉にかかわったクルチャンが,生前

    親密であったアイタ Aitaの屍を丁重に扱ったことなどを理由に殺され,またドゥンナミも, 3

    月15日に子のトセ Toseが戦でえた朝鮮人を許可なく妻としたことなどをとがめられて奴僕

    に落とされた(m~ アイタの死亡は仁祖8年正月のことであり,ドゥンナミについても,この段

    階で処分が行われた理由の詳細は不明であるが,後金の対朝鮮外交の転換を象徴する動きであ

    ると思われる。

    朝鮮朝廷では今回のホンタイジの国書について, I其の意は増幣に在りて,而して撒盟に在ら

    13

  • 鈴木 関

    ざるに似たり」とみて. 3月初7日に春信使朴嘗の派遣を決定した(四10 副使として羅絵素が帯

    同したとみられる (1ω)。翌日の備辺司の啓には「開市既に停めたれば,則ち札単は従優定数せざ

    るべからず」とあり,義州での開市は中止されていたと考えられる。仁祖は朴嘗一行が持参す

    る礼物については. I金銀弓角」は除き. I紬苧以下雑物,並ぴに宜しく量減すべ」きことを指

    示した口帥)。

    3 春信使朴箸一行

    春信使朴智一行は4月初3日に漢城を出発したが,樺陽から派遣されてきたイングルダイ,

    ロキ Loki一行と遭遇し,彼らが漢城を訪問して帰還するまで,定州で待機することになったた

    め,鴨緑江を渡ったのは 5月11日になってからであった。 4月 14日に漕陽を出発していたイ

    ングルダイ一行は,同月 28日に漢城に入札孔有徳,取仲明をはじめとする「新附来山東官軍」

    のための食糧援助を要請するホンタイジの国書を伝達した。イングルダイ一行はほかにも「阿

    奴J(アルカリ,チャハルといったモンゴルからの帰順者のための食糧援助も要請した畑)。しか

    しながら,朝鮮朝廷はこれを許さず,また礼物中の「土産」物の増額も許さず,さらに開市も

    認めなかったため.I胡差の幹する所の三事,ーも成るを見る無し。其の意を観るに,頗る無珊

    に似たり」という様子であったという(刷。 5月初 3日に漢城を後にした彼らは,キト嘗一行とと

    もに溝陽に向かったと思われる。朴箸一行は 5月22日に漕陽に到着して仁祖の図書を伝えた

    が,そこでは,

    唯是の来差を接待するに,天朝に同じくせよと云うは,平壌誓文,果たして此の語有り。

    而れども実に弧の知る所にあらざるなり。〔中略〕貴国王子,乃ち帰路に於いて,兵を分か

    ちて縦に掠し,平壌に到りて別に誓文を為すに及ぶ。曽て我と講定せざるは,甚だ道理に

    あらず。故に丁卯自り以後,両国交際,ーに江都誓文に遵い.之を行うこと己に六七年た

    り。

    と,改めて丁卯の乱における交渉に立ち返って,この時期に接待方法の変更を求めたことを非

    難し,その上で前年 11月と同様に「平安黄海京畿三処」での「宴事」を提案した{問。翌日には

    イングルダイ一行に託された仁祖の図書も伝えられ,こちらでは.I今此の両賊,金にあらず漢

    にあらず。反復変幻L.其の計は専ら我が地方を図るに在」るため,食糧接助に応じることは

    できないということが詳細に説明された(10九後金軍の侵略は当面ないとみた朝鮮朝廷が. I江

    都誓文」を持ち出しつつ,後金帰順者への食糧援助,礼物の増額.義州開市,後金使者の接待

    の四点にわたって攻勢に転じたといえる。朴嘗は 26日に大政殿においてホンタイジに謁見し,

    礼物を伝達した{酬。

    14

  • 朝鮮・後金聞の使者往来について(1631-1633)

    4 イングルダイの二度目の派遣と礼物問題の一時的決着

    朴嘗一行の帰還にあわせてイングルダイ,ダイスンガ Daisungga一行が派遣され, 6月16

    日にホンタイジの図書が朝鮮側に伝達された。国書は三通に分かれており,それぞれ,①朝鮮

    は既に「南朝を以て父母と為し我を以て兄弟と為」しているが, r王は則ち父母兄弟の間,情を通じて和解すること,力めて主張を為すも,未だ不当を為さざるなりJと,孔有徳,歌仲明

    らの帰順にともない.明との講和の仲介を行い,あわせて孔有徳らを攻撃する朝鮮の「兵船」

    を撤退させること,②朴笛一行が持参した礼物は「数の足らざると雄も,屡屡納めずして,兄

    弟の和に誰くを恐る」ために受領したが, r金銀弓角」を除いた「貴国産物」は定額通り送ること,③「請いて義州開市を為すの事Jについて記されていた(110)。

    ①ついては,イングルダイ一行に朝鮮の出兵に感謝する総兵周文郁の「謝帖J(111)をみせ,一方

    でホンタイジの問書を周文郁のもとに送って,明と後金の聞を取り持つ役割を果たしたととを

    後金側に示すという方策がとられた(112)。既にみた通りこの図書には,朝鮮が「南朝を以て父母

    と為し,我を以て兄弟と為」すとあり,ホンタイジは朝鮮・後金関係を依然として朝明関係と

    は異なる「兄弟」関係にあると認識していたと思われるο ②については,既にイングルダイ一

    行が漢域に入る前の時点で,備辺司からホンタイジへの答書には「礼単未准の数,被差言う所

    有ると難も,決して従うべからざること,措辞構草せよ」との啓が出され,仁祖も了承してい

    た(113)。この図書によって,金銀,弓角を除き,それを朝鮮の産品によって補うというかたちで,

    礼物問題は一時的に決着したといえる。③については格別に議論が交わされた形跡がないが,

    後金側通訳の金吾尿らと句管堂上との問答の中で, 5月にイングルダイ一行が帰還する際,安

    州において人事ー斤を十六両の高値で売り付け,また今回も人暮八百斤を無理に売ろうとして

    いるとのやりとりがあり (114) 開市の実施を強く望んでいたことがうかがえる。

    イングルダイ一行は6月24日に仁政殿で仁祖に謁見し, 30日に漢城を後にした。 8月初 1

    日には藩陽に帰還し,先日,干し有徳,歌仲明らの船を守る後金兵には「辺臣をして粟を発して

    以て救わしめたJが,明との関係があり,食糧の援助はできないこと,礼物のとれ以上の増額

    には応じられないこと.r開市の事,前書に己に悉Iくしており,朝鮮側に応じる余裕はないこと,などの内容を含む仁祖の国書を伝達した(115)。ホンタイジはすぐにウンタシ Untasi一行を

    平壌に送って図書を伝達したが,そこでは,会寧方面に逃亡した女真人や漢人の送還に感謝の

    意を示しつつ,朝鮮が根島に食糧援助をしてはならず,根島から後金に帰順する者を妨げては

    ならないと述べるにとどまった(1l6)。ウンタシ一行は9月初 1日に藩陽に帰還し,越境朝鮮人の

    送還をはじめとする後金側の寛大な処置に感謝する仁祖の国書を伝達した

  • 鈴木 関

    5 後金の対外政策論議

    これに先立つ 6月,後金では諸ベイレ,諸大臣が今後の対外政策についてホンタイジに述べ

    る中で朝鮮の扱いについて言及している。それぞれの朝鮮に関する発言についてまとめると,

    ジルガラン Jirgalang:朝鮮が我らの言の通りにできないならば,送ってきた物を退けて.

    しばらく互市するようにしていよう O 討つのをやめよ。

    ドド Dodo:和睦した朝鮮を礼物が少ないためにや11悪くして何になろう O

    ドゥドゥ:朝鮮を討つことをやめたい。朝鮮は我らの手に入れたはずであるぞ。

    サハリヤン:明,チャハル,朝鮮の三国の緩急を論じれば,朝鮮を寛大に処置して,チャ

    ハルを監視して,明を討ちたいと思う。

    ホーゲ:朝鮮をしばらく平静にしておいて,チャハルは興安嶺から二三日程離れており再

    考したい。

    ヤングリ Yangguri:今我らはチャハル,朝鮮のことを考えるのは止めよう。山海間の手

    前の寧逮,錦州を攻めるのを止めて,内地を攻めよう。内地を得れば,朝鮮は我らの

    手足のようになるだろう。

    レンゲリ Lenggeri:朝鮮とはなお偽って仲良くしていよう。明に専念すれば,朝鮮は自然

    と我らのものとなるぞ。

    となり臼19) 朝鮮とは当面ことをかまえず,チャハルを警戒しながら,明との戦争に専念しよう

    という見解が支配的であったようである。ホンタイジが朝鮮の礼物を受け取り.その増額を強

    要しなかった背景には,とのような情勢認識が存在していたことが分かる。孔有徳.耽仲明ら

    が5月に来婦してから聞もない時期であることを考えると,明軍と協力して彼らを攻撃したこ

    とも,後金側は殊更に問題視していなかったといえる。ただ,レンゲリが「なお偽って仲良く

    していようjと述べているように,朝鮮に対する不満が全くなかったわけではないようである。

    6 イングルダイの三度目の派遣

    ホンタイジは 9月14日にイングルダイ,伊愁,萎加大一行を派遣し,開市の実施と,人事一

    斤当たり後金側は十六両,朝鮮側は九両と双方の希望価格に聞きがあることを問題視する国

    書を伝えさせた{ロヘイングルダイ一行は「従胡九十三人,牒馬ー百七十余匹」で義州に出来し

    国書中にもあるように満浦から越境してきていた朝鮮人の引き渡しを行った(121)。彼らは漢域

    に入札 30日には明政殿で仁祖に詩見したが主な目的は持参した人事などによる物資の取得

    にあった。

    10月初 1日,イングルダイらは持参した人暮などが平市署を通じて「発売jきれず.物資を

    入手することができないために「盛気作怒し尽く所帯の従胡(扶一字一原注)を率い,直に

    門外に出立す。話罵H宣露.至らざる所無し」という有様であった。イングルダイは「吾が汗既

    16

  • 朝鮮・後金問の使者往来について (1631-1633)

    に回還日子を定むれども,今巳に期を過ぐ」と述べ,苛立ちを隠さなかった。その日の夜には

    ウンタシが金琶尿,グルマフン Gulmahun(鄭命守)らをともなって朴醤のもとを訪れ,明との

    講和の仲介を依頼した件について問い合わせており口22) 後金側のこの件に対する関心が継続し

    ていたことカち子かる。

    イングルダイらの「督迫は甚だ急」であり,平市署の官員は「其の事の生じるを恐」れ,市

    塵商人に「鞭f卜狼藷」を行って物資を集めたという。また,安州に留置してある人事について,

    以前に朝鮮朝廷がー斤当たり十三両では高すぎるとしたため,今回は十二両にまで価格を下げ

    て売りにきていたが,朝鮮側はそれに相当する物資を用意できなかった。このためイングルダ

    イらは.r前後雷う所,一事も成るを得る無し。何の面白を将て,帰りて我が汗に報ぜん」と述べ.r顕く失望不平の色有り」という様子で、あった(123)。その一方で,イングルダイは「家に還るの後,家聞に事有り」として,私的に「白紙立千巻」を求め,さらに「路中にて食する所の紅

    柿を得んと欲」する(I剖)など,利殖にも余念がなかった。

    なお 10月初4日には「八高山頭胡盆古大,仏大jなる者二人が,金歪尿とともに匂管所を訪

    れ,ホンタイジの「朝鮮若し八処に於いてし難ければ,則ち四処に減じ,安州平壌黄州開城府

    等四処設宴の意,講定せよ」との言を伝えて,四ヶ所での接待を要請した。これに対して朝鮮

    側では「大将別差Jあるいは「大官出来」の時のみこれを執り行い.r常時往来例差」の際には行わないと前年にパドゥリと「丁寧に相約Jしたと答えている (125)。イングルダイ一行はその日

    のうちに漢域を出発し. 26日に、藩陽に帰還して仁祖の国書を伝えた。

    仁祖の図書には,明の産品である「青布彩段」の入手が難しく,開市には応じられないこと,

    女真人の送還要請と関連して「辛未聞十一月ニ十一日以前の両国逃民」の送還要請は行わない

    ことは,ウンタシ一行に託した国書で既に確認済みであり.r今日応に守るべき約条」であることなどが記されていた(126)。それでも開市の実施を望むホンタイジは,イングルダイにこの年四

    度目の朝鮮使行を命じた。

    7 イングルダイの四度目の派遣

    イングルダイ一行は「従胡四十九名Jを率い(127) 11月16日に藩陽を出発し 30日には平壊

    からホンタイジの図書を伝達し,朝鮮側に検討を求めた。ホンタイジは国書の中で,丁卯の乱

    後に自身が盟約に背いたことは一度もないとした上で,仁祖の背盟行為として,①李玖を王弟

    と偽って派遣したこと,②義州撤兵時に漢人の追放を約束したのに履行しないこと,③萎弘立

    に与えた漢人妻を根島に送還したこと,④越境朝鮮人を既に三度に渡って送還し.現在も十一

    人を拘留しており.際限がないこと,⑤義汁|開市は年二回としたのに,現在まで計二回しか行

    われていないとと,⑥孔有徳,歌イ中明らの帰JJj買に際して,二回に渡って攻撃を加えたと左,⑦

    孔有徳,欧イ中明らの舶を監視する後金兵に攻撃を加えたこと,⑧明との往来断絶を開市拒否の

    17

  • 鈴木 関

    理由として挙げるが,捕獲した漢人によると,明との往来は継続しているといい,後金を欺い

    ていること,⑨会寧開市で朝鮮が用意する綿紬や牛は朝鮮の産品であるので,明との往来断絶

    が開市拒否の理由にならないこと.⑮新たに七城を建設していること,以上十項目を数え上げ

    た。

    注意すべきは,もう一書に「来書を観るに,市事己に絶つと言う。然れども両国和好し,相

    通市せざるは,理に於いて宜しからず」とある(溺)ように,背盟行為の列挙が,朝鮮との開市を

    実施するためになされたということである。

    今回のイングルダイ一行の動静はほとんど伝わらないが. 12月初7日には,自身が「大官」

    とみなされず.["三処設宴」が行われなかったことについて不満を述べて,朝鮮朝廷から回答が

    あるまで「退いて安州に留まる」と述べていた(129)というから,平壌まで来て引き上げたものと

    思われる。

    イングルダイ一行が椿陽に帰還したのは 23日のことである。持ち帰った仁祖の図書では,

    「本国信使の行に於いて,商買を例帯して以て通貨に資せんと欲す。斯れも亦己むを得ざるに

    出ずるなり」と,朝鮮信使の派遣に際して商人を随行させるという代案が示され.安州の人事

    も管鮪使が「尽力発売Jするとの意が示された(刷。朝鮮朝廷の対応は開市には応じられないと

    いう基本路線を維持しつつ,一定の譲歩をしたというものであり.イングルダイを四度まで派

    遣して行われた後金の開市をめぐる交渉は不調に終わったものといえる。

    おわりに

    ここまで考察してきた両国交渉の主要な経過は次のようにまとめられる。

    ( a)仁祖9年正月からホンタイジは朝鮮の礼物の減少を問題視するようになり .11月にクル

    チャン一行を派遣して朝鮮が送るべき礼物の額数を提示したと考えられる。同時にクルチャン

    一行は,彼らが漢城に入った閏 11月21日以前の朝鮮人捕虜の逃亡者については不聞としそ

    れ以後の逃亡者の膿還を着実に行うことを提案したとみられる。

    (b)仁祖 10年9月,ホンタイジは椿陽を訪れていた秋信使朴蘭英に対して,安州,平壌,黄

    州,開城での接待の挙行など,後金使者の待遇を明と同様にするよう要求した。 10月に漢城に

    入ったマンダルハン一行,続けて送られてきたパドゥリ一行も同様の要求を行った。これに対

    して朝鮮は「大将別差J["大官出来」の時に限って安州を除いた三ヶ所で接待を行う旨をパドゥ

    リ一行に伝えたとみられる。

    ( c )さらにホンタイジはパドゥリ一行を通じて,一年に一度.従来の十倍近い額数(パドゥリ

    定額)の礼物を送るよう朝鮮に要求した。続けて仁祖 11年正月には,回答使申得淵に対して新

    定額を提示し,根島討伐のための兵船の貸与とあわせて,応じない場合には使者往来を停止す

    る, と朝鮮に通告した。

    18

  • 朝鮮・後金聞の使者往来について (1631-1633)

    ( d)後金の一連の処置に反発した朝鮮では仁祖 11年正月末から 2月にかけて,後金出兵が議

    論されたが,都元帥金時譲,副元帥鄭忠信の建議によって出兵は回避された。出兵の動きがあっ

    ても,ホンタイジが朝鮮を責める姿勢をみせなかったため,以後の朝鮮は外交交渉において攻

    勢を強め.食糧援助や義州,会隼での開市の実施要請にも応じず, 6月には礼物の品目から金

    銀,弓角を除くことを認めるホンタイジの図書が朝鮮に伝達された。

    ( e )この仁祖 11年.ホンタイジは四度にわたってイングルダイを派遣し,義州での開市の実

    施を求めたが果たせなかった。これに対して朝鮮は 11月末,四度目の朝鮮使行を命じられて

    きたイングルダイを通じて,朝鮮信使の派遣に際して商人を随行させるという代案を提示した。

    以上を踏まえれば,確かに仁祖9年正月以降,礼物問題を皮切りにホンタイジが朝鮮との関

    係改変を試みたことは間違いない。しかし,関係改変の提案は膿還の再提起,後金使者の待遇,

    パドゥリ定額の提示.と翌年 10月にかけて順次行われ,憤者往来の停止にまで言及したのは仁

    祖 11年正月に至ってからのことである。種々の要求に対し,朝鮮は部分的に譲歩して応じて

    おり,後金出兵が回避された後の対応も,新定額に限定的に応じる代わりに,義州,会寧での

    開市を拒否したものと評価できる。

    礼物問題に限れば,鴛淵一氏の「天聡六年の如きは莫大の額を要求して朝鮮之に応ぜず,七

    年には朝鮮が増したけれども清帝は満足しなかった位であると云われて居る」とする見解叫

    が,いまとなっては妥当であったようにも恩われる。ただ既に述べたように,仁祖 11年6月に

    は礼物の額数は一応の合意に遣し,関市の問題がより主要な争点として浮上してくることにな

    る。

    さらに,この仁担9年から 11年にかけての両国交渉で注意されるのが,仁祖 10年12月に派

    遣された回答使申得淵が江華盟約の誓文を持参し,後金使者の待遇についても仁祖 11年5月

    に派遣された春信使朴笛が持参した仁祖の図書に「平壌誓文,果たして此の語有り」と平壌盟

    約に明確に言及してその無効を主張していることである。一方の後金が,後金使者の待遇の要

    求に多少なりとも根拠を与える平壌盟約について言及しないのは不自然なようにも思われる。

    また後金使者の交渉姿勢にも疑問が残る。谷井俊仁氏によると,仁祖 14年, ~青の成立前後の

    時期においても,公的な意志伝達は口頭で行われ,文書はそれを補完する記録や証拠のための

    手段と認識される傾向が強かったという(132)。従ってホンタイジにとっては,後金使者と朝鮮側

    との口頭でのやりとりが重視されていたと考えられる。仁祖9年間 11月に派遣されたクル

    チャンの礼物の交渉に関する記録がほとんどなく,パドゥリ定額がホンタイジの国書もないま

    まに提示されたことも,こうした文脈で初めて理解できる。しかし仁祖 11年,義州での開市の

    実施を求めて,この年四度目の朝鮮使行を命じられてきたイングルダイは,漢城に入ることな

    く帰還している。その理由は不明とせざるをえないが,彼のこうした動きから.後金の関市実

    施に向けた意志がどれほど強いものであったのか,朝鮮にはにわかには量り難かったと思われ

    19

  • 鈴木 開

    る。

    同様に,仁祖 10年11月にパドゥリが「当に兄弟の盟を革め,吏に君臣の約を結」ぶべきで

    あると述べたと考えられることは,ホンタイジの意向の一端を伝えたものとして確かに重要で、

    ある。しかし実際に行われた要求は,明と朝鮮の関係をそのまま踏襲したものでもなかったし

    明との関係断絶を求めたものでもなかった。また仁祖 11年6月から 10月にかけては. r兄弟」の関係にあることを根拠として朝鮮に明との講和の仲介を依頼しでもいる。従って「兄弟の盟

    を革めjるという一言のみをもって,直ちに内子の乱勃発の要因に結び付けることは難しいと

    思われる。

    なお両国の使者の構成や任命の背景,政治的立場などに関する分析は,前後の時期の検討を

    経た上で.改めて行うこととしたい。

    (1) 金声均[初期斗朝j青経済関係交渉略考J(W史学研究j5.韓国史学会. 1959年 11月)p.41。金氏はそ

    の後.ri替商団東jについて「朝金関犯越刷還問題応酬略考J(W史学研究j18. 1964年9月)で論1:.r朝鮮中期斗対満関係Ja白山学報j24. 1978年6月)では.r犯越H刷還H互市H干し幣H根島関係」と再整理して論じた。金氏の研究は「初期9J朝清経済関係交渉略考」でも稲葉岩吉 n青朝全史~ (早稲田大

    学出版部.1914年)や『満洲発達史j(大阪屋号出版部.1915年)を引用するなど,稲葉岩吉氏の枠組み

    を援用していると思われるがこの点については別稿で詳しく述べることとする。

    ( 2 ) 陳捷先「略論天聡年間後金与朝鮮的関係Ja東方学志~ 23・24. 1980年2月)。陳氏は「互通使節H互市貿易H人口交渉H越界採捕」に加えて「紹介謀和」すなわち後金が朝鮮に明との交渉の仲介者として

    の役割を求めたことを挙げているが,事実関係の把握は十分ではない。本稿第三章第四節.第六節を参

    照。

    (3) 関市については劉家駒「金国,朝鮮之建交与関市J(同日青朝初期的中韓関係』文史哲出版社.1986年,

    初出 1979年 5月),越境朝鮮人については「治初貿易於明朝与朝鮮閥的潜商考J(W韓国学報j5. 中華民

    国韓国研究会, 1985年 12月).朝鮮人捕虜の逃亡者については「清太宗時代的朝鮮逃人問題J(楊聯陸.

    全漢昇.;JJ広京主嬬『陶希聖先生九秩栄慶祝寿論文集国史釈論』上冊,食貨出版社, 1987年).礼物につ

    いては「従朝鮮進金国的礼単与貫単分析両国貿易的物貨(西元一六二七至一六四ー年)J(r国史館館刊』復刊 9. 1990年 12月)がある。

    ( 4 ) 柳在域『丙子胡乱史.1 (国防部戦史編纂委員会. 1986 i.ド)pp.117-133。

    ( 5 ) 金鍾円『近世東oい10ト関係史研究.1 (慧眼. 1999年)pp .113-1550 (6 ) 荘吉発「満鮮通市考Jcr食貨月刊.15-6. 1975 ip: 9月)。(7) 張存武「治入関前与朝鮮的貿易J(r東方学志.121. 1979年3月)。

    (8 ) この点.当時の国際情勢に着目し,朝鮮が束アジア国際貿易の仲介者として振る舞ったことを指摘し

    た辻大手日「朝鮮の対後金貿易政策J(JIl原秀減稀『朝鮮朝後期の社会と思想』勉誠出版.2015年)は.従

    来の研究とは一線を画している。

    ( 9 ) 張存武『清天聡時代後金汗国与朝鮮的関係.1(国立台湾大学者質士論文.1970年)。このうち第五章がri青韓関係 a 一六三一一一六三六J(W韓国学報.11. 中華民国韓国研究会. 1981年4月)として刊行されが,碩士論文では「金鮮関係的悪化H劉興治事件H金使的接待与増幣交渉H孔歌事件H在戦争辺縁上的年

    代H貿易H瓦爾時人的刷滋H朝鮮人越境採参Jの八節に分けられていたものが.r余鮮関係的懇化H戦争辺縁上的勾代」の二節にまとめられている。

    (10) 江嶋寿雄「天聡年聞における朝鮮の歳幣J(同『明代清初の女直史研究』中図書府.1999年.初出 1969

    20

  • 朝鮮・後金聞の使者往来について(1631-1633)

    年 11月)pp .496-498。江嶋氏は結論部分においては「後金が朝鮮の物資を欲したことは事実であるが,

    欲した通りに受領出来たか否かは別問題である」と述べている (p.503)。しかし仁祖9年正月から両国

    関係が悪化したとの認識は韓明基『丁卯・丙子胡乱斗束。い]o}.J(プルンヨッサ.2009年)p.108.附『歴

    史評説丙子胡百U1 (プルンヨッサ.2013年)p.287でもかなり強調して述べられている。

    (11) 森岡康「丁卯の乱後の蹟選問題J(W朝鮮学報.132. 1964年7月)p.102。

    (12) 以上,この年初めの両国関係については拙稿 rr洛陽往還日記J叫l斗斗せ仁視9年 (1631)朝鮮後金関係J(~韓国文化JJ 68. 2014年 12月). r劉奥治斗朝鮮斗崎関係叶~ 1羽叫吋J(r満洲研究J19. 2015年6月).辻大和「朝鮮の対後金貿易政策Jp.74を参照。なお呉淵『野言記略JJ (国史編纂委員会.2001年)

    によればマンダルハンー行は「従胡三十名」を率いていたという(巻2.崇禎4年辛未9年6月初4日条)。

    (13) 以上『朝鮮国来書簿J天聡5年分6月分29日漫打刺韓東南明資来。この史料は稲葉岩吉「満鮮史体系

    の再認識J(同『増訂満洲発達史』日本評論社.1935年,初出 1933年11月)p.523でも引用されている。(14) 鄭忠信『晩雲日記J(国史編纂委員会所蔵 MF)は「虜騎二万余」とする(辛朱6月初 1日発卯条)が,

    ここでは『仁祖実録』の「甲騎一万二千余人」とする記述 (9年6月庚午 (28日〕条)に従う。なお李光

    涛「言i~崇禎四年南海島大捷J (同『明清檎案論文集J聯経出版事業公司.1986年,初出 1948年1月)p.491

    も参照。

    (15) 鄭忠信『晩雲日記J辛米6月15日粂。

    (16) r仁但実録.19年6月丁巳 (15日)条。仁祖六年の回答使鄭文翼一行については拙稿「鄭文翼「以金国回答使在洛陽啓」についてJ(r明大アジア史論集.117. 2013年3月).寺内威太郎「朝鮮仁祖朝における

    股還問題のー側面Ja駿台史学j151. 2014年3月)を参照。(17) W承政院日記』仁祖9年7月初2日甲成条。

    (18) r承政院日吉田仁祖9年7月初4日丙子条。(19) r朝鮮国来書簿』天聡5年分8月分不記日遇政大夫刑曹参議朴笛驚到。ジャヌらが会翼手に出来した時期

    は不明であるが.6月初9日,ジャヌ以下三十九人が持参した「胡種刷還別録Jと「汗書」が朝鮮朝廷に

    送付されてきている (W承政院日記』仁祖9年6月初9日辛亥条)。

    (20) 清朝満州誇棺案史料の総合的研究チーム訳注『内閣史院槍天聡五年Jn (東洋文庫, 2013年)pp.217-218o同書によると.朴答一行の総勢は百九人馬七十二頭で,そのうち何らかの官職をwびていた者とみられる fdah百hagucu (従った伴の者)Jは十三人であった。

    (21) 楠木賢道『清初対モンゴル政策史の研究J(汲古書院.2009年)pp.145-165。大凌河攻城戦については谷井陽子『八旗制度の研究j(京都大学学術出版会, 2015年)pp.221-222も参照。

    (22) r内国史院檎天聡五年~ II. pp. 261-264。

    (23) 鄭忠信『晩雲日記j辛未 10月17日条。「祖河二総兵Jとは大凌河の城を守っていた祖大寿.何可剛を

    指すと思われ,事実関係に談りが生じているようであるo 明の援軍も実際には閲万余りであったという。

    安州にいた鄭忠信はこの 17日に秋信使軍官李元敬が「金問繊主王子書」を持参してきたと記している。

    (24) r内国史院檎天聡五年1II, pp . 279-2800 (25) r承政院日記J仁祖9年10月20日庚申条。(26) ここでの匂管は金差勾管所のこと。後金使者が渓城に滞在した際に臨時に設霞され.六嘗の判書級一

    名,参判級一~二名程度が勾管(所)堂上として接待ゃうと渉を担当した。

    (27) r仁祖笑録.19年10月丙貧 (26日)条。(28) r朝鮮国来書簿』天聡5年分11月分 19日東南明帯来。(29) r内国史院槍天聡五年.1 II, pp.316-318o (30) 以上『承政院日記』仁祖9年間 11月13臼壬子条。『内国史院稔天聡五年J証では.11月30日にイン

    グルダイ,クルチャン,マンダルハン, ドゥンナミが朴符一行の宿所を訪れ,送別の宴を行ったとある

    (p.328)。

    (31) 以上『仁祖実録.19年間 11月壬成 (23日)条。

    (32) r内国史院指天聡五年.1 II. pp.325-328o

    21

  • 鈴木 関

    (33) 以上『各項稿簿J天聡5年分間 11月分初2日差庫児又大人等驚去朝鮮国王書礼。この史料は稲葉岩吉

    『満洲発達史jpp.576…577,同『増訂満洲発達史jpp.320-321でも引用されている。

    (34) W内国史院槍天聡五年jIl, pp. 330-331。浦廉一氏は『太宗尖録.1(乾隆三修)天聡8年 12月呼l反条を

    引いて「己に久しき以前より,庶民の閑に禁煙令が戸市かれて尽jるとした (1明末清初に於ける満・鮮・

    日関係の一考察H羽田博士頒寿記念東洋史論議j東洋史研究会, 1950ゑ pp.195-196)が,恐らくこの天聡5年 11月末に最初の煙草に関する制限令が出されたものと思われる。

    (35) W承政院日記』仁祖9年間 11月27日丙寅条, r仁祖実録』同月発亥 (24日)条。(36) r承政院日記』仁祖9年間 11月28日丁卯条。なお,この時の句管堂上は京畿監司李景稜,刑曹参判鄭

    斗i原で、あった(同容,同月 26日乙丑条)。

    (37) r内国史院槍天聡五年j II, p. 343. pp. 350-3510 (38) r承政院日記』仁祖9年間 11月26日乙丑条。(39) r太宗実録~ (乾隆三修)に「巴克什庫爾纏及満遠爾漠輩納密歪奏言,朝鮮国王,貢額倶巴従命Jとある

    {天聡5年 12月丙成(18日〕条)。

    (40) 江嶋寿雄「天聡年閑における朝鮮の歳幣Jp.497, pp.50Q-502. p.504。

    (41) r太宗実録J(乾隆三修)には「又背約令明人登岸,復漸減毎年貢献方物。於是遺巴克什摩爾纏及満遥漢董納密往論。嗣後貢献母途定額,従前逃人斯姑免察送,自今以後有逃往者.務察明送還」とあり(天聡5

    年間 11月庚子朔条), i工嶋氏はこの記事を典拠としているが,ここから直ちに「使命が歳増額を主眼とし

    たものであった」とまでいうことはできないと恩われる。江嶋氏は『太宗実録j(乾隆三修)の「朝鮮国

    王李依,遺使臣5!翼,貫元E方物。復違約関額Jという記事(同年 12月壬辰 (24日〕条)も典拠として

    挙げるが,こちらの記述も具体性に欠ける。一方. r仁祖実録jには「金蓋国日.管幸子之来,己言弓面,而今則直言弓角J(10年 11月戊申(14日〕条). 1骨者番給之数J(12月戊子 (25日〕条)などとあり,

    弓角を含めた何らかの額数が提示されていたことは確実である。

    (42) r朝鮮国来書簿』天聡 5年分 12月分初 7日麗官余事金得時蔚到。『内国史院槍天聡五年j Il. pp.352-353。なお後金史料では朴仁範と思しき人物をー賞して金得時としているが,その理由は不明で

    ある。

    (43) 以上『各項稿簿J天聡5年分 12月分初9日付原差来金人戸十途馬恰則及原来麗官金得時務去。(44) r仁祖実録J9年12二月丁亥 (19日)条。(45) この提案は金声均氏が「辛未約定」としてその後の展開も含めて略述し (1朝金関犯越別選問題応酬略

    考Jpp.346-35I).金銭円氏が「辛未約条Jとして言及している (W近世束。いl斗関係史研究jp.142)が.

    蹟還の提案であったことについては触れられていない。

    (46) 以上『仁祖実録19年 12月壬辰 (24日)条。

    (47) 谷井陽子『入族制度の研究jp.2220

    (48) r朝鮮国来書簿J天聡6年分正月分初 1日献是 12月26日差来官折衝将軍行訓錬院都正鄭溢蔚到。(49) 以上『満文原棺~ 8 r地字槍Jp.50-51. 1満附二Jpp.339-341 (r満文老機JV太宗 2,pp. 619-621)。

    同記事ではこの年からホンタイジのみを南面させ,ダイシャンとマングルタイは左右向かい合ってその

    穏に座ることになったとしている。なお紙谷良夫「烏真超喰()¥旗渓箪)の園山(旗)J(r.松村潤先生古稀記念清代史論叢J汲古書院, 1994年)pp.177-188も参照。

    (50) r承政院日記』仁祖 10年正月 15日突丑条。イェへのクルチャンが持参してきた物品は「参価青布jとあるが.当時の取引事情から考えて,青布の代価となる人参,もしくはそれに相当する銀などの金品とみ

    るのが妥当であると思われる。張存武 11青入関前与朝鮮的貿易Jp.193も参照。 n詩文l厳格Jで、は日付が符合しないものの,正月初3日に 1solho de jaku.n booi jaku.n amban sin i jekui yafahan niyalma be gaifi

    mocingan油 a(朝鮮に,八家の八大臣がシンジェクの徒歩の者を率いて毛育を取りに行った)J(8 1地字

    稔Jpp.53-54

  • 朝鮮・後金関の使者往来について (1631-1633)

    (51) r仁祖実録j10年正月丙寅 (28日)条。(52) r仁祖実録~ 10年3月丙寅 (29日)条。

    (53) r承政院日記J仁視 10年5月初 5日壬寅条。(54) r承政院日記』仁祖 10年2月23日辛卯条。森岡康「丁卯の乱後の膿還問題Jp.102も参照。(55) r朝鮮国来書簿J天聡6年分3月分22日金得時粛到。(56) 以上『朝鮮国来書簿j天聡6年分7月分21日東南米橘通事費3lJJ。

    (57) W承政院日記』仁祖 10年8月28日発巴, 29日甲午条。

    (58) W満文原槍J8f地字檎Jpp. 248-249 m荷文老棺jV太宗 2,p.845)。(59) この遠征はもともとチャハル征討を目的として行われたが,チャハルが応戦せず逃げたため.進路を

    変更して張家口を攻め.立府巡撫沈築,総兵萱継告子と講和し,チャハルが受け取る予定であった財貨を獲

    得するとともに.五市を行ったという。補木賢透『清初対モンゴル政策史の研究~ pp .130-134.谷井陽子

    『入旗制度の研究jpp.222-223を参照。

    (60) r朝鮮国来芥簿J天聡6年分9月分初8日差官朴蘭英蔚到。(61) 以上『仁組実録~ 10年9月壬成 (27日)条。

    (62) 明の使節への接待は義州.定州,安州,平壌,賞州,開城で行われるのが通例であった(李鍍涼「明使

    接待考Jr郷土刈会j12, 1961年 11月, pp .103-105)。しかし,この時期は特に清川江以北が荒廃しており,さらに朝明間の使節従来は海路を通じて行われていたため,義州,定州,安州は経由していなかっ

    た。

    (63) 丁卯の乱当時,江華姐約と平壌盟約というこ様の盟約が誓われたが,朝鮮・後金双方が江筆規約を正式

    なものと認識していたと考えられることについては拙稿「朝鮮丁卯胡乱考J(W史学雑誌j123-8, 2014年

    8月)pp.18-21を参照。

    (64) r仁祖実録j10 ~9 R壬子(17日)条。(65) r満文原総j8 I勉学総 Ip.252 (r満文老槍jV太宗2,p.849)。(66) r仁祖実録J10年 10月戊辰(初4日)条。(67) r仁祖実録J10年 10月乙亥 (11日)条。(68) r仁祖実録.110年 10月戊寅 (14日)条。(69) r朝鮮国楽番簿』天聡6年分11月分11日朝鮮国王差副将文書紀費到。(70) W満文原槍jH地字槍Jp.274 (W満文老槍jV太宗2,p.868),江嶋寿雄「天聡年聞における朝鮮の歳

    幣Jp.498o rI嶋氏は n詩文老槍Jを参照しているが, r emu aniya emu jergi (一年一度)Je記した箇所をみおとしている。なお朝鮮側が把握していた額数は,翌年の回答使申得淵が持参したという「所豆里

    増幣数」に, I金一百両.銀一千両,各色綿紬一千疋,苧布一千疋,青斜皮二百張,水瀬皮四百張,倭長

    剣二十柄,倭短剣二十柄.天池茶二百包,雑木綿一万疋,ほ丹!市ー,白紙一千巻,箱花紙一千巻,丹木二

    百斤,弓角一百隻.各色彩席一百張,胡板十斗」とあり(鄭忠信『晩雲日記』壬申 12月24日条), r松羅茶」を「天池茶」と認識していた以外は符合する。

    (71) 江嶋寿雄「天聡年聞における朝鮮の歳幣Jp.500,同「崇徳年聞における朝鮮の歳幣J(同『明代清初の

    女直史研究1初出 1972年8月)pp.512-513o

    (72) r仁祖実録.110年 10月甲午 (30日)条。(73) r仁祖実録.110年 llR庚子(初6日)条,趨慶�