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ISSN 1882-4552 日本思想文化研究会編 講演・論文 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註 ―白居易詩文摂取の方法(一)―………………………………………吉原 浩人…… 1 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書………………………………………………町 泉寿郞……19 江戸時代における中国術数・卜占書の流布と馬場信武………ハイエク・マティアス……47 遣明船の祭祀…………………………………………………………………陳 小法……67 研究ノート 中国における「神道」研究の可能性………………………………………王 勇……83 胡秉枢の『棉砂糖大利之要論』について…………………………………董 科……93 書評・彙報 入唐僧恵萼からみた東アジア交流史………………………………………田中 史生… 101 新羅遣唐使の経済・文化交流活動…………………………………………権 悳永… 102 遣唐大使多治比広成の述懐詩を巡って……………………………………胡 志昂… 104 聖武天皇の菩薩戒受戒と唐帝………………………………………………河上 麻由子… 105 後宮女官に関する日唐比較研究……………………………………………野田 有紀子… 107 『海を渡る天台文化』刊行…………………………………………………………………… 110 国際ワークショップ案内 ………………………………………………………………………109 投稿規定…………………………………………………………………………………………… 82 第 2 巻 第1号(通巻第 3 号) 2009 年 1 月 15 日

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  • ISSN 1882-4552

    日本思想文化研究会編

    講演・論文

    慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註

    ―白居易詩文摂取の方法(一)―………………………………………吉原 浩人…… 1

    曲直瀬養安院家と朝鮮本医書………………………………………………町 泉寿郞……19

    江戸時代における中国術数・卜占書の流布と馬場信武………ハイエク・マティアス……47

    遣明船の祭祀…………………………………………………………………陳 小法……67

    研究ノート 中国における「神道」研究の可能性………………………………………王 勇……83

    胡秉枢の『棉砂糖大利之要論』について…………………………………董 科……93

    書評・彙報 入唐僧恵萼からみた東アジア交流史………………………………………田中 史生… 101

    新羅遣唐使の経済・文化交流活動…………………………………………権 悳永… 102

    遣唐大使多治比広成の述懐詩を巡って……………………………………胡 志昂… 104

    聖武天皇の菩薩戒受戒と唐帝………………………………………………河上 麻由子… 105

    後宮女官に関する日唐比較研究……………………………………………野田 有紀子… 107

    『海を渡る天台文化』刊行…………………………………………………………………… 110

    国際ワークショップ案内 ………………………………………………………………………109

    投稿規定…………………………………………………………………………………………… 82

    第 2巻 第1号(通巻第 3号) 2009 年 1 月 15 日

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  • 1 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人)

    慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註

    ―白居易詩文摂取の方法(一)―

    吉原

    浩人

    要旨

    慶滋保胤(?〜一〇〇一)は、摂関期を代表する知識人である。「池亭記」を撰述するなど文名が高かったが、

    官位には恵まれず、寛和二年(九八六)に出家して寂心と称した。主著に『日本往生極楽記』がある。本稿は、慶滋保胤

    がどのように白居易の詩文を摂取したか、その方法を明らかにする目的で、「何処堪暑避」詩序の訳註を行い、その典拠

    を一々検証した。従来、保胤の作品に対する白居易の影響について指摘されてはいたが、このように一字一句の検討を経

    たものではなかった。その結果、保胤は意図的に白居易の詩文から言葉を選び、詩序を撰述したことが明らかになった。

    キーワード

    慶滋保胤

    白居易

    草堂記 詩序

    何処堪暑避

    一、はじめに

    慶滋保胤は「池亭記」の中で、白居易を「異代の師」と称した(註一)。この表現の背景に込められた思いについては、

    多くの指摘が繰り返されている(註二)。しかし、その内実についてどの程度まで明らかにされたかとなると、隔靴掻痒

    の感がある。なぜならば、慶滋保胤が白居易の作品をどのように摂取していたかを証明するためには、保胤の全作品を精

  • 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人) 2

    査して、一語ずつ白居易の詩文と突き合わせ、その語をどのように利用していたかを確認しなければならないからである。

    しかし、慶滋保胤の全作品についてそれを行うには、膨大な時間が必要であり、個人の作業としてはたいへんな困難が伴

    うであろう(註三)。ただ、そういった検証を行わず、たまたま目に付いた何語かを取り上げたり、あるいは限られた作

    品の影響のみを論ずるばかりでは、いつまでたっても保胤、ひいては摂関期文人貴族の、白居易詩文受容の全体像は浮か

    び上がってこない。

    そういった研究の現状に一石を投ずるため、ここに小さな詩序を取り上げたい。これは、従来全く論じられることのな

    かった掌品であるが、ここから保胤が白居易の詩文をどのように受け止め、どのように利用したかの方法を、窺い見るこ

    とができるのである。今後、いくつかの作品を精読することによって、いくらかでもその進展に寄与していきたい(註四)。

    二、慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註

    以下に、『本朝文粋』巻八﹇二二二﹈に収載される詩序を、本文・文章構造・訓読・現代語訳・註釈の順に掲げる(註

    五)。

    【本文】

    夏日於二

    左親衛源相公河陽別座一

    同賦二

    何処堪一レ

    避レ

    慶保胤

    何処堪レ

    避レ

    暑、河陽館勝境矣、誰家好レ

    逐レ

    涼、源相公別第焉。古松・老檜蔽二

    其天一

    、青苔・白石鋪二

    其地一

    。従二

    平旦一

    及二

    黄昏一

    、有二

    清風一

    無二

    赤日一

    。移レ

    床連レ

    榻、偃二

    息其陰一

    。蓋颯然冷然、如二

    八月一

    、如二

    九月一

    矣。夏天炎居、去レ

    此何求。

    袁氏昔有二

    河朔之飲一

    、相公今有二

    河陽之期一

    。食客保胤、聊記二

    勝遊一

    、云レ

    爾。

  • 3 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人)

    【文章構造】

    密隔句

    何処堪レ

    避レ

    暑、河陽館勝境矣、

    誰家好レ

    逐レ

    涼、源相公別第焉。

    句 古松・老檜蔽二

    其天一

    、青苔・白石鋪二

    其地一

    従二

    平旦一

    及二

    黄昏一

    、有二

    清風一

    無二

    赤日一

    移レ

    床連レ

    榻、偃二

    息其陰一

    蓋颯然冷然、

    如二

    八月一

    、如二

    九月一

    矣。

    夏天炎居、去レ

    此何求。

    袁氏昔有二

    河朔之飲一

    、相公今有二

    河陽之期一

    食客保胤、聊記二

    勝遊一

    云レ

    爾。

    【訓読】

    夏日左親衛源相公河陽の別座において同じく「何の処か暑を避くるに堪ふ」を賦す

    慶保胤

    何れの処か暑を避くるに堪ふ、河陽館の勝境なり、誰が家か涼を逐ふに好き、源相公の別第なり。古松・老檜其の天を

    蔽ひ、青苔・白石其の地を鋪く。平旦従り黄昏に及ぶまで、清風有りて赤日無し。床を移し榻を連ね、其の陰に偃息す。

    蓋し颯然たり冷然たり、八月の如く、九月の如くなり。夏天の炎居、此を去りて何をか求めん。袁氏昔河朔の飲有り、相

  • 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人) 4

    公今河陽の期あり。食客保胤、聊か勝遊を記すと、爾云ふ。

    【現代語訳】

    夏の日に左親衛源参議の河陽の別邸において同じく「何処堪暑避」の句題で賦します

    慶滋保胤

    いったいどこで暑さを避けることに堪えられましょうか、それは河陽館のすぐれた地においてです、いったい誰の家で

    涼しさを追い求めるのが好いのでしょうか、それは源参議の別宅においてです。古い松や老いた檜が庭園の天を蔽い、青

    い苔や白い石が地面を敷きつめています。夜明けから夕刻に及ぶまで、清らかな風が吹いて日の光が照ることはありませ

    ん。床を移して腰掛を連ね、その陰に横になって休みます。ほんとうにさっと涼しくまた冷ややかに感じ、まるで八月か、

    九月の秋のようです。夏の日の炎のように暑い住まいにあっては、この館を去って何を求めることができましょうか。袁

    氏は昔河朔において暑さを避けるための酒宴を催しましたが、源参議は今この河陽の詩会を催されます。そこで食客であ

    る保胤が、いささかすばらしい遊興について記すと、このように申し上げます。

    【註釈】

    ○夏日

    夏の日。夏の季節。「清泠白石

    、、、、枕、踈涼黄葛衣、開レ

    襟向レ

    風、坐、夏日如

    、、、二

    秋、時一

    」(白居易「新構亭台示諸弟姪」、

    『白氏文集』巻六﹇〇二五五﹈)。「夏日、、独上レ

    直、日、長何所レ

    為」(白居易「夏日、、独直寄蕭侍御」、『白氏文集』巻五﹇〇

    一九三﹈)。他に白居易の詩題に六例ある。

    ○左親衛

    左近衛の唐名。左近衛大将、左近衛中将などの、左近衛を冠する官職名の略称。左近衛府に属し、天皇身辺の

    護衛や警護を担当した。

    ○源

    未詳。保胤が活躍した時期に、源氏の「左親衛」で「相公」を歴任した人物に、源重光(九二三〜九九八)と、源

    忠清(九四三〜九八八)がいるが、同時に両職を兼任してはいない。源重光は、醍醐天皇の孫、代明親王の一男。参議

  • 5 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人)

    に任じられたのは、康保元年(九六四)三月であるが、その年の正月まで左中将であった。源忠清も、醍醐天皇の孫、

    有明親王の一男。参議に任じられたのは天延元年(九七三)三月で、その直前まで左中将であった。本詩序は、このど

    ちらかの年の夏に撰述された可能性が高い。

    ○相公 参議の唐名。宰相の敬称。「何意使人猶識レ

    我、就レ

    田来送相公、、書」(白居易「得袁相書」、『白氏文集』巻一四﹇〇

    七八一﹈)。

    ○河陽

    山城国乙訓郡、淀川の北岸。この地は、嵯峨天皇により造営された河陽離宮があったところで、山城国唯一の駅

    として機能しており、のち国府が長岡より遷された。「二月己巳、猟二

    遊水生野一

    。日暮御二

    河陽、、宮一

    。水生村窮乏者。賜

    米有レ

    差」(『類聚国史』巻三二・天皇遊猟)。「七日庚戌、山城国奏言、河陽、、離宮久不二

    行幸一

    」(『三代実録』巻五・貞

    観三年六月)。「源唱朝臣為二

    重任一

    之時、奏二

    河陽、、離宮一

    為二

    国府一

    」(『拾芥抄』巻中・本朝国郡部)。「自二

    山城国与渡津一

    浮二

    巨川一

    西行一日、謂二

    之河陽、、一

    」(大江匡房「遊女記」、『朝野群載』巻三)。

    ○別座

    別第。別荘。本宅以外の第宅。

    ○何処堪避暑

    本詩会の句題。白居易の詩題と、その冒頭の一句に拠る。「何処堪

    、、、レ

    避、レ

    暑、、林間背レ

    日楼、何処好、レ

    追、レ

    涼、、

    池上随レ

    風、舟」、(白居易「何処堪避暑

    、、、、、」、『白氏文集』巻六三﹇三〇三六﹈)。

    ○勝境

    景色がすぐれた地。「仁風、膏雨去随レ

    輪、勝境、、歓遊到逐レ

    身」(白居易「送劉郎中赴任蘇州」、『白氏文集』巻五七

    ﹇二七八七﹈)。「大凡地有二

    勝境、、一

    、得レ

    人而後発、人有二

    心匠一

    、得レ

    物而後開」(白居易「白蘋洲五亭記」、『白氏文集』

    巻七〇﹇三六〇四﹈)。

    ○誰家

    誰の家か。「何処、、琵琶絃似レ

    語、誰家、、咼墮髻如レ

    雲」(白居易「寄微之」(『白氏文集』巻一七﹇一〇六三﹈、『千載

    佳句』巻下・妓楽﹇七三四﹈)。「幾処、早鸎争二

    暖樹一

    、誰家、、新燕啄二

    春泥一

    」(白居易「銭塘湖春行」、『白氏文集』巻二〇

    ﹇一三四九﹈、『千載佳句』巻上・早春﹇二五﹈)。「林鸎何処、、吟二

    筝柱一

    、墻柳誰家、、曬二

    麴塵一

    」(白居易「天宮閣早春」、『白

  • 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人) 6

    氏文集』巻五八﹇二九〇三﹈、『千載佳句』巻上・春興﹇四六﹈、『和漢朗詠集』巻上・柳﹇一〇二﹈、『和漢朗詠集』「曬」

    を「曝」に作る)。

    ○逐涼 涼しさを追い求める。追涼。「何処堪避暑」「青苔」の項参照。

    ○古松 松の古木。「又南抵二

    石澗一

    、夾レ

    澗有二

    古松、、・老、杉一

    、大僅二

    十人囲一

    、高不レ

    知二

    幾百尺一

    」(白居易「草堂記」『白氏

    文集』巻二六﹇一四七二﹈)。

    ○老檜

    檜の古木。「荒籬見レ

    露秋、蘭泣、深洞聞レ

    風老檜

    、、、悲」(源英明「秋日過仁和寺」、『和漢朗詠集』巻下﹇五三五﹈)。

    ○蔽

    おおう。「白、玉飛泉千仞雪、青松蔽

    、、、レ

    日、一林風、」(林逢「厳大夫新開泉」、『千載佳句』巻下・水樹﹇六〇一﹈)。「草木

    照未レ

    遠、浮雲已蔽、レ

    之、天、地黯以晦、当午如二

    昏、時一

    」(白居易「続古詩十首、十」、『白氏文集』巻二﹇〇〇七四﹈)。

    ○青苔

    青い苔。庭園や盆栽などに利用される。「青苔、、地上銷二

    残暑、一

    、緑樹陰、前逐、二

    晩涼、一

    」(白居易「池上逐涼、、二首」、『白

    氏文集』巻六六﹇三二六四﹈、『千載佳句』巻上・納涼﹇一三九﹈「暑」を「雨」に作る)。

    ○白石

    白い石。「緑蘿潭上不レ

    見レ

    日、、白石、、灘辺長有、レ

    風、」(白居易「夏日与閑禅師林下避暑」、『白氏文集』巻六九﹇三五

    八三﹈、『千載佳句』巻上・避暑﹇一三五﹈)。

    ○鋪

    敷く。「玉琴間把看レ

    山坐、筒簞長鋪、与レ

    客眠」(朱慶余「題王丘長史宅」、『全唐詩』巻五一四、『千載佳句』巻上・

    夏興﹇一二八﹈「間把」を「閑抱」に作る)。「中底舗、二

    白、沙一

    、四隅甃二

    青石、、一

    」(白居易「官舎内新鑿小池」、『白氏文集』

    巻七﹇〇二八二﹈)。

    ○平旦

    夜明け。「深夜湓浦月、平旦、、鑪峰烟」(白居易「題潯陽楼」、『白氏文集』巻七﹇〇二七七﹈)。「平旦、、起視レ

    事、亭午

    卧掩レ

    関」(白居易「郡亭」、『白氏文集』巻八﹇〇三五八﹈)。「陰晴顕晦、昏旦、、含吐」(白居易「草堂記」、『白氏文集』

    巻二六﹇一四七二﹈)。

    ○黄昏

    たそがれ。夕暮れ。「風、露颯、已冷、、天色亦黄昏、、」(白居易「秋槿」、『白氏文集』巻一〇﹇〇五二三﹈)。「平旦」の

  • 7 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人)

    項参照。

    ○清風

    清らかな風。「緑竹挂レ

    衣涼処、、歇、清風、、展レ

    簞困時眠」(白居易「池上即事」、『白氏文集』巻五七﹇二七三五﹈、『千

    載佳句』巻上﹇一三四﹈「挂」を「掛」に作る)。「一聞白雪唱、暑退清風、、生」(白居易「酬牛相公宮城早秋寓言見示兼呈

    夢得」、『白氏文集』巻六三﹇三〇四五﹈)。

    ○赤日

    夏の太陽。強い光の太陽。「門前便是紅塵地、林外無レ

    非二

    赤日天

    、、、一

    」(白居易「池上逐涼、、二首」、『白氏文集』巻六

    六﹇三二六五﹈、『千載佳句』巻上・苦熱﹇一三一﹈)。「勃勃旱塵気、炎炎赤日、、光」(白居易「早熱二首、又一首」、『白氏

    文集』六三巻﹇三〇二五﹈)。

    ○移床

    床を移す。床は、牀の俗字。とこ。ゆか。「移、レ

    牀避、、レ

    日、依二

    松、竹一

    、解レ

    帯当レ

    風、掛二

    薜蘿一

    」(白居易「池上即事」、

    『白氏文集』巻六五﹇三二一八﹈)。

    ○連榻

    長椅子を連ねる。榻は腰掛けと寝台を兼ねたもの。「澄觴満二

    金罍一

    、連榻、、設二

    華茵一

    」(謝霊運「擬魏太子鄴中集

    八首、魏太子」、『文選』巻三〇)。「便邀連、二

    榻、坐一

    、兼共摘二

    船行一

    」(元稹「黄明府詩」、『元氏長慶集』巻一〇)。「微風、

    吹二

    裌衣一

    、不レ

    寒復不レ

    熱、移二

    榻、樹陰、下一

    、竟日何所レ

    為」(白居易「首夏病間」、『白氏文集』巻六﹇〇二三八﹈)。「連、二

    賓榻、於林頭一

    、尽整二

    詞華之冠一

    、汎二

    羽觴於水上一

    、頻酌二

    文章之酒一

    」(大江匡衡「三月三日陪左相府曲水宴同賦因流泛

    酒」、『本朝文粋』巻八﹇二一九﹈)。

    ○偃息

    休息。横になって休むこと。「僕野人也。偃息、、不レ

    過二

    茅屋茂林之下一

    」(潘岳「秋興賦」、『文選』巻一三)。「余亦

    偃息、、、無レ

    事二

    明時一

    」(潘岳「夏侯常侍誄」、『文選』巻五七)。「白衣蒼鬢経過懶、赤日、、朱門偃息、、遅」(賈島「夏日、、寄高洗

    馬」、『全唐詩』巻五七四)。

    ○陰

    日陰。光の当たらない場所。「竹亭陰、合偏宜レ

    夏、、水檻風涼、、不レ

    待レ

    秋、」(白居易「和楊尚書罷相後夏日遊永安水亭兼

  • 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人) 8

    招本曹楊侍郎同行」、『白氏文集』巻六八﹇三四六二﹈、『千載佳句』巻上・夏興﹇一二六﹈)。

    ○蓋

    ほんとうに。確かに。「蓋、天地之委形、君何嗟嗟」(白居易「歯落辞并序」、『白氏文集』巻六一﹇二九五二﹈)。「境

    心相遇、固有レ

    時耶。蓋、是境也」(白居易「白蘋洲五亭記」、『白氏文集』巻七〇﹇三六〇四﹈)。

    ○颯然 風がさっと吹く。風の音の形容。「楚襄王遊二

    於蘭台之宮一

    、宋玉景差侍。有二

    風颯然

    、、、而至一

    」(宋玉「風賦」、『文

    選』巻一三)。「夜来秋、雨後、秋、気颯然、、新」(白居易「雨後秋涼」、『白氏文集』巻六七﹇三三七一﹈)、「昨夜涼風、、又颯然、、、

    蛍飄葉墜臥床、前」(白居易「涼風歎」、『白氏文集』巻六四﹇三〇八一﹈)。

    ○冷然

    風がひややかに吹くさま。軽妙なさま。「

    夫列子御レ

    風、行、冷然、、善也」

    (『荘子』内篇・逍遙遊)。「黄昏」の項参照。

    ○八月九月

    八月は仲秋、九月は晩秋を指す。「八月九月

    、、、、天気涼、、酒徒詞客満高堂」(李白「草書歌行」、『分類補註李太白

    詩』巻八)。「日、月光不レ

    到レ

    地、盛夏風、気如、二

    八九月

    、、、時一

    」(白居易「草堂記」、『白氏文集』巻二六﹇一四七二﹈)。

    ○夏天

    夏の日。夏の天。「清、冷、可レ

    愛、支体甚適、便是白家、夏天牀

    、、、席」(白居易「磐石銘并序」、『白氏文集』巻六一﹇二

    九四七﹈)。

    ○去此

    ここを去って。「早晚相従帰二

    酔郷一

    、酔郷去、レ

    此、無二

    多地一

    」(白居易「答崔賓客晦叔十二月四日見寄」、『白氏文集』

    巻五一﹇二二四七﹈)。「何必使二

    人去、レ

    此、取一レ

    彼」(白居易「六十七議釈教」、『白氏文集』巻四八﹇二〇八四﹈)。

    ○何求

    何を求めようか。「幸免二

    凍与一レ

    餒、此、外復何求、、」(白居易「永崇里観居」、『白氏文集』巻五﹇〇一七九﹈)。「而

    富二

    於黔婁一

    、寿二

    於顔淵一

    、飽二

    於伯夷一

    、楽二

    於栄啓期一

    、健二

    於衛叔宝一

    。幸甚幸甚、余何求、、哉」(白居易「酔吟先生伝」、

    『白氏文集』巻七〇﹇二九五三﹈)。

    ○袁氏

    袁紹。(?〜二〇二)後漢末の武将。董卓を滅ぼした後、曹操と官渡に戦ったが敗れた。

    ○河朔之飲

    河朔は河北に同じ。後漢末に劉松が袁紹の子弟と、河朔において猛暑の三伏の際に宴飲し、一時の暑さを避

    けた故事をいう。「魏文帝典論曰、大駕都許、使二

    光禄大夫劉松一

    、北鎮二

    袁紹軍一

    、与二

    紹子弟一

    、日共宴飲、。常以二

    三伏

  • 9 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人)

    之際一

    、昼夜酣飲、、極酔至二

    于無知一

    云、以避、二

    一時之暑、一

    、故河朔、、有二

    避暑、、之飲、一

    」(『初学記』巻三・歳時部上・夏・避暑

    飲)。「典略曰、光禄劉松北鎮、而袁紹夜酣酒、以二

    盛夏三伏之際一

    、昼夜与レ

    松飲酒、至二

    於無知一

    云、以避、二

    一時之暑、一

    故河、北避暑飲

    、、、」(『芸文類聚』巻五・歳時下・伏)。「身投二

    河朔、、一

    飲、二

    君酒、家在二

    茂陵一

    平二

    安否一

    」(王維「不遇詠」、『須

    溪先生校本唐王右丞集』巻六)。

    ○期

    会すること。出会う。「八年三月晦、山梨花満レ

    枝、龍門水西寺、夜与二

    遠公一

    期、」(白居易「神照禅師同宿」、『白氏

    文集』巻六二﹇二九七六﹈)。

    ○食客

    客分として抱えておく人。「孟嘗君在レ

    薛、招二

    致諸侯賓客一

    及亡人有レ

    罪者、皆帰二

    孟嘗君一

    。孟嘗君捨レ

    業厚遇之、

    以レ

    故傾二

    天下之士一

    。食客、、数千人、無貴賤一与文等」(『史記』巻七五「孟嘗君列伝」)。

    ○勝遊

    楽しい遊覧。心にかなった遊覧。「策レ

    馬度二

    藍渓一

    、勝遊、、従レ

    此始」(白居易「長慶二年七月自中書舎人出守杭州

    路次藍溪作」、『白氏文集』巻八﹇〇三三五﹈)。「喧喧車騎帝王州、羈病無レ

    心レ

    逐二

    勝遊、、一

    」(白居易「長安正月十五日」、

    『白氏文集』巻一三﹇〇六七六﹈)。「九衢車馬伝二

    佳句一

    、万戸鴬花接二

    勝遊、、一

    」(馮宿「酬宣上人」、『千載佳句』巻上・

    才子﹇三七四﹈)。

    ○云爾

    文章の結びのことば。「長慶二年七月三十日、題二

    於内郷県南亭一

    、云、レ

    爾、」(白居易「商山路有感并序」、『白氏文

    集』巻二〇﹇一三一〇﹈)。

    、「

    この詩序は、『本朝文粋』に収載される中でも、特に短い部類に属するものであり、さして力が入ったものとも思われ

    ないであろう。平易な語を連ね、隔句対は冒頭の一つしかないし、詩序の基本形にも則っていない。ある夏の日に源相公

  • 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人) 10

    の私第で行われた、さほど規模の大きくない詩会のためのものである。では、慶滋保胤はどのようにしてこの詩序を撰述

    したのであろうか。

    本作は、前掲の註釈に示したごとく、ほとんど白居易の詩文にみえる語によって構成されている。そもそも詩題が白詩

    から取られているのだから、多いのは当然かもしれないが、それにしても通常はここまで一人の作者のみに依存すること

    はないだろう。試みに、本論に引用した白居易の詩文に見える語を、太字で示してみよう。

    夏日於左親衛源相公河陽別座同賦何処堪避暑

    何処堪避暑、河陽館勝境矣、誰家好逐涼、源相公別第焉。古松・老檜蔽其天、青苔・白石鋪其地。従平旦及黄昏、

    有清風無赤日。移床連榻、偃息其陰。蓋颯然冷然、如八月、如九月矣。夏天炎居、去此何求。袁氏昔有河朔之飲、

    相公今有河陽之期。食客保胤、聊記勝遊、云爾。

    これらは、八月・九月をはじめとして、誰でもごく一般に使用する語彙ばかりである。では、なぜこれらが白詩を典拠

    としていると断言できるのだろうか。実はこれは、句題の出典となった詩のほかに、「草堂記」と、『千載佳句』所収の白

    詩などに拠るところが大きいのである。以下に、主な関係箇所を一覧にして掲げる。傍点は、慶滋保胤の詩序に見られる

    語である。

    A白居易「何処堪避暑

    、、、、、」(『白氏文集』巻六三﹇三〇三六﹈)

    何処堪

    、、、レ

    避、レ

    暑、

    林間背レ

    日楼、、

    何処好

    、、、レ

    追、レ

    涼、

    池上随レ

    風、舟

    日高飢始食

    食竟飽還遊、

    遊、罷睡一覚

    覚来茶一甌

    眼明二

    見青山一

    耳醒聞二

    碧流一

  • 11 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人)

    脱レ

    襪閑濯レ

    解レ

    巾快搔レ

    如、レ

    此、来幾時

    已過六七秋、

    従、レ

    心至二

    百骸一

    無、三

    一不二

    自由一

    拙退是其分

    栄耀非レ

    所レ

    求、

    雖レ

    被二

    世間笑一

    終無、二

    身外憂一

    此、語君莫レ

    静思吾亦愁

    如何、三伏月

    楊尹謫二

    虔州一

    B大江維時『千載佳句』巻下﹇(

    )内は『白氏文集』の巻・

    作品番号﹈

    「妓楽」﹇七三四﹈何処、、琵琶絃似レ

    誰家、、咼墮髻如、レ

    白(巻一七﹇一〇六三﹈)

    C白居易「草堂記」(『白氏文集』巻二六﹇一四七二﹈)

    匡廬奇秀、甲二

    天下山一

    。山北峰曰二

    香鑪一

    、峰北寺曰二

    遺愛寺一

    。介二

    峰・寺一

    間、其境勝、、絶、又甲二

    廬山一

    。元和十一年

    秋、太原人白楽天、見而愛レ

    之、若下

    遠行客、過二

    故郷一

    、恋恋不上レ

    能レ

    去。因面レ

    峰腋レ

    寺作二

    為草堂一

    。(中略)又南抵二

    石澗一

    、夾レ

    澗有、二

    古松、、・老、杉一

    、大僅二

    十人囲一

    、高不レ

    知二

    幾百尺一

    。脩柯戞レ

    雲、低枝払レ

    潭、如、二

    幢竪一

    、如、二

    蓋張一

    如、二

    龍蛇走一

    。松、下多二

    灌叢一

    、蘿蔦葉蔓、駢織承翳、日、月光不レ

    到レ

    地、、盛夏風、、気、如、二

    八九月

    、、、時一

    。下鋪、二

    白石、、一

    、為二

    出入道一

    。(中略)其、四傍、耳・目・杖屨可レ

    及者、春有、二

    錦繡谷花一

    、夏有、、二

    石門澗雲一

    、秋有、二

    虎谿月一

    、冬有、二

    鑪峰雪

    、陰晴顕晦、昏旦、、含吐、千変万状、不レ

    可二

    殫紀、覼縷而言一

    、故云下

    甲二

    廬山一

    者上

    。(下略)

    D『千載佳句』巻上「四時部」抜粋

    「夏興」﹇一二六﹈竹亭陰、合偏宜レ

    夏、

    水檻風涼、、不レ

    待レ

    秋、

    白(巻六八﹇三四六二﹈)

    「苦熱」﹇一三一﹈門前便是紅塵地

    林外無レ

    非二

    赤日天

    、、、一

    白(巻六六﹇三二六五﹈)

  • 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人) 12

    「避暑」﹇一三四﹈緑竹掛レ

    衣涼処、、歇

    清風、、展レ

    簞困時眠

    白(巻五七﹇二七三五﹈)

    「避暑」﹇一三五﹈緑蘿潭上不レ

    見レ

    日、

    白石、、灘辺長有、レ

    風、

    白(巻六九﹇三五八三﹈)

    「納涼」﹇一三九﹈青苔、、地上銷二

    残雨一

    緑樹陰、前逐、二

    晩涼、一

    白(巻六六﹇三二六四﹈)

    E白居易「池上即事」第一聯(『白氏文集』巻六五﹇三二一八﹈)

    移、レ

    牀避、、レ

    日、依二

    松、竹一

    、解レ

    帯当レ

    風、掛二

    薜蘿一

    F白居易「秋槿」第一聯(『白氏文集』巻一〇﹇〇五二三﹈)

    風、露颯、已冷、

    天、色亦黄昏、、

    慶滋保胤の詩序は、Aの白居易の詩題を句題にしており、はじめの二聯の訓読を以下に掲げる。

    何れの処か暑を避くるに堪ふ

    林間日に背く楼

    何れの処か涼を追ふに好き

    池上風に随ふ舟

    保胤詩序冒頭の隔句対の訓読は、以下の通りである。

    何れの処か暑を避くるに堪ふ、河陽館の勝境なり、

    誰が家か涼を逐ふに好き、源相公の別第なり。

    ここでは、白居易の二聯の上句を利用していることが明らかである。「何処〜、誰家〜」は、Bの『千載佳句』に引か

    れる白詩を下敷きにしている。さらに同書には、

    「早春」﹇二五﹈幾処、早鸎争二

    暖樹一

    誰家、、新燕啄二

    春泥一 白(巻二〇﹇一三四九﹈)

    「春興」﹇四六﹈林鸎何処、、吟二

    筝柱一

    墻栁誰家、、曬二

    麴塵一

    白(巻五八﹇二九〇三﹈)

    という類似表現を見出すことができ、確実にその表現を踏まえていることがわかる。

    次いで大きな典拠としたのは、C「草堂記」である。この作品は、白居易が江州に左遷され、廬山に隠棲した折のもの

  • 13 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人)

    である。『千載佳句』巻下「山居」﹇九九一﹈、『和漢朗詠集』巻下「山家」﹇五五四﹈に引かれる、白居易の詩「香鑪峰下

    新卜山居草堂初成偶題東壁五首、重題其三」(『白氏文集』巻一六﹇〇九七八﹈)の頷聯、

    遺愛寺鐘欹レ

    枕聴

    香鑪峰雪巻レ

    簾看

    は、『枕草子』、『源氏物語』総角、『大鏡』左大臣時平などに引かれ、人口に膾炙した(註六)。「草堂記」自体も、平安朝

    知識人には、たいへん良く知られた作品であり、その冒頭部分は、同時代の大江以言・大江匡衡ともに、その詩序の冒頭

    に利用している(註七)。

    C「草堂記」からは、まず「境勝」を「勝境」と逆転させて用いる。次いで「古松・老杉」を、おそらく眼前の風景に

    適合した「古松・老檜」と言い換え、「青苔」「白石」の語を用い、「如八九月時」を「如八月、如九月矣」として、さら

    には「〜有〜、〜有〜」の文型も利用しており、「昏旦」の語からは「従平旦及黄昏」を導き出している。

    D『千載佳句』の夏の部分に引く一連の白詩からは、「青苔」「清風」「赤日」「陰」「天」などの語を利用している。さ

    らに、E『白氏文集』巻六五の「池上即事」から「移床」の語を用いるが、ここには「避日」「松」「風」の語がある。D

    『千載佳句』に引く三番目の詩題も「池上即事」、二番目と五番目の詩題は「池上逐涼二首」である。Aに涼を求める場

    所を「池上」とすることから、池上に夏の涼しさを求める他の白居易の詩を見出し、そこに使用される語を取り入れてい

    るのである。また、Fの詩第一聯には、「颯然冷然」の「颯」と「冷」、「黄昏」の語があるので、これも確実に参照して

    いよう。このほか註釈に掲げたように、「夏日」「勝境」「平旦」「勝遊」「夏天」「去此」「何求」などの語も、白居易の複

    数の詩文に多く見られる言葉である。

    以上、保胤はまず詩題をAの詩から選定した後、C「草堂記」とBD『千載佳句』を置いて、夏の部を中心におおむね

    の構成を決定した。さらに『白氏文集』から夏の涼しさを詠ずる詩Eや、Fなどからいくつかの詩の語彙を用い、『初学

    記』「避暑飲」に引く曹丕『典論』佚文の河朔の故事を、河陽館の連想から使い、『文選』などに見える語を利用して完成

  • 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人) 14

    させたということが、明らかになった。

    、「

    一般の詩序は、第二段で句題の敷衍を行うが、この詩序は短いため、「何処堪避暑」を冒頭から題目・破題・本文と展

    開させている。この部分の文章構造をもう一度示す。

    如二

    八月一

    、如二

    九月一

    矣。

    蓋颯然冷然、

    移レ

    床連レ

    榻、偃二

    息其陰一

    従二

    平旦一

    及二

    黄昏一

    、有二

    清風一

    無二

    赤日一

    堪 避 暑

    古松・老檜蔽二

    其天一

    、青苔・白石鋪二

    其地一

    誰家好レ

    逐レ

    涼、源相公別第焉。

    何処堪

    、、、レ

    避、レ

    暑、、河陽館勝境矣、

    題目

    破題

    本文

  • 15 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人)

    本詩会で提示された句題は、どんな場所で暑さを避けるのを堪えることができようか、という意味である。題目では句

    題の五文字をすべて使用しなければならないが、最初の隔句対でそのまま用いたあと、それは河陽館の勝境であって、源

    相公の別第であると、同じ場所を言い換えて繰り返す。この題目部分は、さきに述べた通り、句題の典拠となる白詩Aと、

    『千載佳句』に収載される白詩Bを、ともに下敷きにしたものである。

    破題の部分では、故事を用いて句題を言い換えなければならない。ここで慶滋保胤が下敷きにしたのが、C白居易「草

    堂記」である。白居易が廬山山中に営んだ涼しげな草堂を、源相公の館と重ね合わせている。「草堂記」の、「有古松・老

    杉」と、「鋪白石」を用いながら、暑さを避けるべき場所は、古松・老檜によって直射日光を遮られて他に到ることなく、

    盛夏の風気がやわらげられて青苔・白石が涼しげに地面に敷かれていると、具体的に示している(「何処」)。そしてそれ

    は、明け方から夕暮れまで、涼しげな風が吹いて日の光が届かない、と暑さに堪えうることをあらわすのである(「堪避

    暑」)。

    本文の部分では、譬喩を用いて句題を展開する。どこで暑さを逃れるかといえば、床を移し長椅子を連ね、木陰で横に

    なって休むところである(「何処」)。またそこは、さっと涼しい風が吹いて、まるで八月か九月の秋のように、暑さを避

    けて堪えることができるとするのである(「堪避暑」)。

    これらは、「草堂記」に、

    松下多二

    灌叢一

    、蘿蔦葉蔓、駢織承翳、日、月光不レ

    到レ

    地、盛夏風、、気、如、二

    八九月

    、、、時一

    。下鋪、二

    白石、、一

    、為二

    出入道一

    などとあることに想を得たもので、さらには前述の他の白居易の作品を参照したものである。

    五、結語

  • 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人) 16

    如上、ごく短い慶滋保胤の詩序を読解したが、ここには見逃すことができない問題が内包されている。保胤は、白居易

    の詩文に使用されている語彙を、意識して徹底的に利用している。これは単に「草堂記」などの影響がある、といった程

    度のものではない。一つの作品からだけではなく、強い意志を持って数多くの白居易の詩文から言葉を選んだのである。

    すなわち、この詩序は、意図的に白居易の語彙を用いて構成したものであり、『本朝文粋』に入集したのも、その理由か

    らであろう。

    この傾向は、実は他の作品からも強くうかがうことができる。すでに指摘した勧学会の詩序もそうであったが、「晩秋

    過参州薬王寺有感」詩序(『本朝文粋』巻八﹇二八二﹈)という短い作品にも、同様の目的が見て取れる。続いてこの作品

    の出典を検討することで、さらに考察を深めていきたい(註八)。

    ﹇使用テクスト﹈主に以下に依拠しつつ、適宜、句読点・読み等を私に改めた。

    『荘子』『文選』=新釈漢文大系。『初学記』=中華書局版。『芸文類聚』=上海古籍出版社版。『白氏文集』=新釈漢文

    大系・白氏文集歌詩索引・白居易集箋校。『須溪先生校本唐王右丞集』『分類補註李太白詩』『元氏長慶集』=四部叢刊。

    『全唐詩』=中華書局版。『千載佳句』=増補平安時代文学と白氏文集―句題和歌・千載佳句研究篇―。『和漢朗詠集』=

    新編日本古典文学全集。『拾芥抄』=新訂増補故実叢書。

    (註一)「唐白楽天為二

    異代之師一

    、以下

    長二

    詩句一

    帰中

    仏法上

    也」(『本

    朝文粋』巻一二﹇三七五﹈)。

    (註二)『池亭記』の専論には、大曽根章介「「池亭記」論」(『日

    本漢文学史論考』

    岩波書店

    一九七四・一一→

    『王朝漢文学論

    攷―『本朝文粋』の研究―』

    岩波書店

    一九九四・一〇再収)、

    名波弘彰「慶滋保胤「池亭記」試論―社会記録と閑居―」(『文藝

    言語研究 文藝篇』第七号

    二〇〇六・一〇)があり、他に多く

    の論考で触れられている。

  • 17 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人)

    (註三)白居易の語彙を検索する場合、日本の研究者はこれまで、

    平岡武夫・今井清編『白氏文集歌詩索引』全三冊(同朋舎出版

    九八九・一〇)に頼ってきた。ところがこれは、「歌詩」の索引

    であり散文は除かれている。また佐久節訳解『続国訳漢文大成』

    「白楽天詩集一〜四」(国民文庫刊行会

    一九二八・八〜一九三

    〇・五)は、清朝の汪立名が白居易の詩を再編集した『白香山詩

    集』前集・後集を底本とする。しかし、私の乏しい経験によって

    も、平安朝漢文学への白居易の影響は韻文ばかりではないことは

    明らかである。このことについては、夙く太田次男「白詩受容を

    めぐる諸問題―文集古鈔本との関係に於て―」(『国語国文』第四

    六巻第九号

    一九七七・九→

    『旧鈔本を中心とする白氏文集本文

    の研究』下巻

    勉誠社

    一九九七・二所収)に指摘されており、

    最近では、長瀬由美「一条朝前後の漢詩文における『白氏文集』

    諷諭詩の受容について」(『白居易研究年報』第八号

    二〇〇七・

    一〇)が、策林の影響について論じている。ただ、中国文学の専

    門家でない者が、白居易の散文について検索し、研究するには困

    難を伴っていた。しかし、明治書院新釈漢文大系の、岡村繁『白

    氏文集』全一三巻一五冊刊行の進展により(現在九冊刊行)、白

    居易詩文の多くが註釈の恩恵に浴することができるようになっ

    た。また、那波本をもとにした『四部叢刊』電子版の日本語版刊

    行(西岡漢字情報工学研究所)により、全作品が簡単に検索でき

    るようになったことは大変な進歩である。ただし、パソコンでは、

    本来あるはずの語が表示されない場合もあり、全面的に信頼する

    のは危険である。

    (註四)「慶滋保胤勧学会詩序考―白居易との関連を中心に―」

    (『海を渡る天台文化』

    勉誠出版

    二〇〇八・一二)において、

    「五言暮秋勧学会於禅林寺聴講法華経同賦聚沙為仏塔」(『本朝文

    粋』巻一〇﹇二七七﹈)の読解を行った。なぜ白居易かという問

    題、特に仏教との関係についてはここで論じている。今後、「暮

    春於六波羅蜜寺供花会聴講法華経同賦一称南無仏詩序」(巻一〇

    ﹇二七六﹈)、「勧学会所牒日州刺史館下」(巻一二﹇三八一﹈)、「勧

    学会所欲被故人党結同心合力建立堂舎状」(巻一三﹇三九八﹈)の

    勧学会関係詩文、「仲冬餞奝上人赴唐同賦贈以言詩序」(巻九﹇二

    五二﹈)、「奝然上人入唐時為母修善願文」(巻一三﹇四一一﹈)の

    奝然関係詩文などについて詳しく検討していきたい。このうち、

    奝然関係の二篇は、二〇〇八年七月二七日、杭州湾大酒店におけ

    る浙江工商大学日本文化研究所・関西大学アジア文化交流研究セ

    ンター共催「東アジア文化交流―人物往来」国際シンポジウムに

  • 慶滋保胤「何処堪避暑」詩序訳註―白居易詩文摂取の方法(一)―(吉原浩人) 18

    おいて、「奝然入宋時の詩序と願文―慶滋保胤の餞別と母のため

    の逆修―」と題して口頭発表を行った。

    (註五)本節は、早稲田大学文学学術院二〇〇七年度専門特殊研

    究「『本朝文粋』講読2」において、第二文学部学生溝辺桂大が

    作成した訳註をもとにしたものである。小稿は、その共同作業の

    成果に負うところが大きいが、成稿にあたっては、再度訳文と出

    典を精査し、さらにその方法について詳しく検討した。

    (註六)『白氏文集』は、「巻」を「撥」に作る。大田次男「白詩

    受容考―「香鑪峯雪撥簾看」について」(『芸文研究』第三三号

    九七四・二→

    註(三)大田前掲書所収)。

    (註七)大江匡衡「七言冬日登天台即事応員外藤納言教言詩序」

    (『江吏部集』上)に「天台奇秀、甲二

    天下山一

    」とあり、大江以

    言「七言晩秋於天台山円明房月前閑談詩序」(『本朝文粋』巻一〇)

    に「天台山者、甲二

    天下之山一

    」とある。

    (註八)「慶滋保胤「晩秋過参州薬王寺有感」詩序訳註―白居易

    詩文摂取の方法2―」(『水門―言葉と歴史―』第二一号

    近刊予

    定)。

    (付記)本稿は、二〇〇八年一一月二九日、北京市清華大学甲所において開催された、清華東亜文化講座二〇〇八年一一

    月特別講座「平安朝文人貴族的信仰与白居易」、ならびに同一二月二日、浙江工商大学下沙校区日本文化研究楼における、

    二〇〇八―二〇〇九年度第五回定例読書会「平安朝文人貴族の信仰と白居易―天神・菅原道真を媒介として―」における

    講演で提示した資料の一部に、さらに詳註を施したものである。(作者)

  • 19 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞)

    曲直瀬養安院家と朝鮮本医書

    泉寿郞

    要旨

    曲直瀬養安院家(以下、養安院家と称す)は、初代正琳から幕末の正健まで、一〇代にわたって江戸幕府に本

    道(内科)の御医師(医官)として仕え、四代正璆の代の加増により家禄千九百石(久志本左京家二千石に次ぐ)を給さ

    れ、半井・今大路両典薬頭に次ぐ家格を誇った、江戸期医家屈指の名家である。本稿では、初めに朝鮮本収蔵の契機を作

    った初代正琳の事績を中心に養安院家歴代の事績について紹介し、次に朝鮮本を多く収蔵したその蔵書について言及し、

    最後に朝鮮本医書をめぐる中国書籍流通の一例を取り上げることとしたい。

    キーワード

    曲直瀬養安院家

    朝鮮本医書

    江戸時代学芸史

    一、はじめに

    曲直瀬養安院家(以下、養安院家と称す)は、初代正琳から幕末の正健まで、一〇代にわたって江戸幕府に本道(内科)

    の御医師(医官)として仕え、四代正璆の代の加増により家禄千九百石(久志本左京家二千石に次ぐ)を給され、半井・

    今大路両典薬頭に次ぐ家格を誇った、江戸期医家屈指の名家である。

  • 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞) 20

    一般に江戸期の学芸史上、室町時代以来の学問知識が仏教教団から自立する傾向のなかで、医学は儒学と軌を一にして、

    それぞれの学問として自立しその領域を拡張していった、といいうる。儒学が武家政権による統治理念構築の要請をうけ

    て林羅山(一五八三〜一六五七)以下の歴代によって刷新されたことは広く知られているが、医学においては一六世紀に

    曲直瀬道三(一五〇七〜一五九四)が元・明医学を集大成し(特に元・朱丹渓〈一二八一〜一三五八〉の影響を強く受け

    た)、「察証弁治」と称される高度に理論的な医学を確立した。

    道三は京都に学舎を開き多くの門人を集めて講説したので、その曲直瀬流医学は江戸前期に全国的に広がり、江戸中期

    の古方派台頭以後も、江戸期を通じて一定の影響力を保った。よって、曲直瀬流医学の研究は、それ自体が江戸期学芸史

    研究の重要なテーマであり、次項に触れるように道三の高弟として曲直瀬姓を許された初代正琳に始まる養安院家もまた

    曲直瀬流医学を担った一翼として、江戸時代医学史上の考究すべき対象である。

    しかしながら、中国書籍の流通を共通テーマとした今回のシンポジウムにおいて、養安院家を取り上げるのは、上記の

    江戸期学芸史の一般的な意義からではなく、同家に朝鮮本医書が大量に収蔵されていた事実と、そのことが持つ文化史上

    の意味について、報告しようとするものである。

    以下、本稿では、初めに朝鮮本収蔵の契機を作った初代正琳の事績を中心に養安院家歴代の事績について紹介し、次に

    朝鮮本を多く収蔵したその蔵書について言及し、最後に朝鮮本医書をめぐる中国書籍流通の一例を取り上げることとした

    い。

    二、養安院家歴代の事績

    (一)養安院家資料の所在、これまでの研究成果

  • 21 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞)

    従来、よく知られている養安院家歴代に関する伝記資料は、次のものがある。それぞれの資料が収載する人物を、初代

    ①、二代②のように示した。

    叢伝の類

    一、黒川良安撰『本朝医考』三巻三冊(寛文三年一六六三林鵝峰序刊)所収―①②③

    二、宇都宮遯庵撰『日本古今人物史』七巻七冊(寛文九年一六六九刊)所収―①

    三、東条琴台撰『先哲叢談

    後編』八巻四冊(文政一三年一八三〇刊)―⑤

    四、宇津木昆台撰『日本医譜』(天保頃成?未刊)所収―①②③④⑤

    五、五弓雪窓撰『事実文編』(一九〇九〜一〇国書刊行会刊、一九七九〜八一関西大学出版)所収―⑨

    系譜の類

    六、『寛政重修諸家譜』(文化年間成、続群書類従完成会一九六六新訂刊)―①②③④⑤⑥⑦⑧

    このほかに、三代以降の菩提寺である広尾・天真寺に墓碑(⑤―服部南郭撰文、⑧―清水礫琇撰文。)が残る。

    以上の資料を用いて、小曽戸洋が「曲直瀬養安院家の人々」「曲直瀬養安院家の人々

    補遺―曲直瀬正貞の墓碑銘―」

    (『漢方の臨床』三四‐一二.一九八八、同三五‐四.一九八九)を発表しており、歴代の略伝はこれによって一応のこ

    とが知られる。

    また『京都の医学史』(思文閣出版、一九八〇)所収の記述は短いものであるが、次に述べる養安院家家伝資料を紹介

    している点で、貴重な報告であった。

    養安院家の蔵書については、後述のように明治期に四散し、今日では国内外の諸機関に分蔵されているが、その現状の

    全体を把握することはかなり困難である。朝鮮本医書の研究では、三木栄『朝鮮医書誌』(学術刊行会、一九七三)が先

    駆的な研究であり、養安院蔵書についてかなり詳しい言及がある。近年、藤本幸夫が朝鮮本の研究を精力的に進めており、

  • 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞) 22

    先に『日本現存朝鮮本研究

    集部』(京都大学学術出版、二〇〇六)を刊行したが、いまだ子部の成果は公刊されていない。

    養安院家歴代の撰述書に関しては、京都大学富士川文庫をはじめとする日本国内の古医書を収蔵する主要な機関にその

    多くが集められているが、個々の書籍の内容に関する分析は、殆ど行われていないといってよい。

    (二)初代 曲直瀬正琳(

    しょうりん・まさよし)

    (一五六五〜一六一一)について

    一昨年より、著者は小曽戸洋とともに曲直瀬養安院家のご子孫宅を調査して、家伝資料のすべてを資料収集し、その目

    録を作成した(※平成一六〜一七年度文部科学省科学研究費補助金

    特定領域研究(二)「江戸のモノづくり」研究成果

    報告書

    研究代表者・小曽戸洋、『江戸時代医学・本草学資料の整理と研究Ⅱ

    』二〇〇六.

    〇三所収「曲直瀬養安院家文書」

    pp

    三〜一一五)。当然ながら、そこには未報告の資料が多く含まれ、養安院家の事績についても新たな事実が判明した。

    今回の調査の結果、新たに「養安院玉翁正琳法印寿像賛之口義」という資料が見出された。東福寺二百三〇世の剛外令

    柔が、慶長一六年(一六一一)六月に撰文した漢文体の寿像賛に、さらに正琳の求めに応じて剛外が語句の典拠や語義、

    また伝記的事実について和文で註解をくわえたものである。剛外と正琳とは二〇年来の旧知であり、また正琳在世中の撰

    文にかかり、正琳の目にも触れている点で、史料価値が高い。また、代替わりごとに幕府に提出した先祖書の控え(複数

    伝存)にも、その事績が備わる。これらの資料を参考にしつつ、正琳の伝記を以下に記す。

    正琳の生年の永禄八年(一五六五)は、中国では明・嘉靖四四年に当たり、文学では李攀竜・王世貞・帰有光ら古文辞

    派とその反対者ら、思想では王畿・銭徳洪・羅近渓ら陽明学の継承者らの活躍時期にあたる。医学では一世代上に李時珍

    (一五一八〜一五九三、『本草綱目』一五七八成)・方有執(一五二二〜?『傷寒論条弁』一五九三成)・龔廷賢(『万病回

    春』一五八七成)・李梃(『医学入門』一五七五成)らがおり、同世代には呉崑(一五五一〜一六二〇?『医方考』一五八

    四成)・張介賓(一五六三〜一六四〇、『類経』一六二四成)などがある。日本の学芸界では、一世代上に里村紹巴・千利

    休・細川幽斎らがおり、同世代に角倉了以(一五五四〜)・本阿弥光悦(一五五七〜)・藤原惺窩(一五六一〜)・小瀬甫

  • 23 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞)

    庵(一五六四〜)・近衛信尹(一五六五〜)らがある。

    正琳は、幼名又五郎。もと一柳氏、その先祖は越智姓、河野氏である。

    天正四年(一五七六)、一二歳で曲直瀬道三(一五〇七〜一五九四

    名は正盛、別号は一渓)に入門して医学を学んだ。

    道三はこの年既に七〇歳である。前々年(一五七四)には既に主著『啓迪集』を完成し、正親町上皇の診脈を拝し、その

    名声により多数の門人がその学塾に集まった。

    道三の後継者として二代道三を名乗る玄朔正紹(一五四九〜一六三一)が一六歳年長、亨徳院家を起こす正純(一五五

    九〜一六〇五)は六歳年長にあたる。

    正琳は入門以来、六七年の間に大量の医書を学び、その要点を正確に把握したと伝えられ、織田信長・明智光秀が没し

    た天正一〇年(一五八二)、一八歳で剃髪し養庵を字(通称)とし正琳を諱(法名)とした。同じ年の三月一三日、玄朔

    正紹は、前年七五歳をもって致仕した一渓正盛(以後、亨徳院を称した)の後を継いで法眼に叙せられ、さらに翌年(一

    五八三)には一渓正盛から道三の名を譲りうけている。

    天正一二年(一五八四)二〇歳の時、豊臣秀吉・

    秀次に仕え、翌年(一五八五)、秀次より二五〇石を賜った。時期を明

    確にしないが、後に正琳は玄朔正紹の長女を妻とし、一渓正盛から曲直瀬姓を名乗ることを許されており、早くその抜群

    の才能が認められたことを物語る。

    天正の末から慶長の初めは、豊臣秀吉による朝鮮出兵が二度にわたって行われた時期に当たる(一五九一〜一五九三、

    一五九七〜一五九八)。両度の出兵の間に関白秀次が罪を得て自殺し(文禄四年(一五九五)七月一五日)、慶長三年(一

    五九八)八月一八日には朝鮮出兵の終結を見ないまま秀吉が没した。

    この間、文禄元年(一五九二)正琳二八歳の時、正親町上皇の病に際して、昇殿して診脈・調剤を行い、その治効によ

    り、同年一二月二八日、後陽成天皇より法印に叙せられた。「文禄元年十二月二十八日宣旨

    法眼養安

    宜叙法印」の「口

  • 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞) 24

    宣案」が伝存している。同年中さきに法眼に叙せられ、その時に天皇の言により養庵を改め養安と称した。「養安」の語

    は『荀子』巻第一三「故礼者養也。故大路之馬必倍至教順。然后乗之、所以養安也。」に基づくと言われる。

    文禄二年(一五九三)三月一五日には曲直瀬道三が従軍した朝鮮から帰国しているが(『史料綜覧』巻一三)、前述のよ

    うに一渓正盛は先に道三の名を玄朔に譲っているので、ここにいう道三は一渓正盛ではなく玄朔正紹のことである。翌年

    (一五九四)正月四日には、一渓正盛が八八歳で没した。文禄四年(一五九五)には秀次の事件に連座して、玄朔正紹ら

    は常陸の佐竹家にお預けとなったが、正琳には累が及ばなかったらしい。

    玄朔正紹が後陽成上皇の病用のために京に召還されるのは慶長三年(一五九八)九月のことであり、それに先立つ慶長

    二年(一五九七)三月一三日に正琳は秀吉の命により宇喜多秀家の妻(一五七四〜一六三四、前田利家の女で豊臣秀吉の

    養女、豪姫)の病を治療した。秀家の妻の病に治効をあげたことにより、秀家が朝鮮戦役で獲た書籍を秀吉から賜り、ま

    た秀吉より備前信家作の小刀をも賜った、というのはこのときのことと考えられる。その朝鮮本については、次節に述べ

    る。 慶

    長五年(一六〇〇)三六歳の時、後陽成上皇の病に際し、重ねて治効があったので、養安院法印の院号を勅許された。

    この時の勅許(四月二五日)、ならびに後陽成上皇の綸旨(四月二六日)が伝存している。

    時代は、関が原の戦いや江戸開幕へと動いていくが、その時期の正琳の事跡ははっきりしない。慶長一〇年(一六〇五)

    には家康から駿府・江戸での勤番を命じられ、同一三年(一六〇八)には、今大路道三親清(一五七七〜一六二六、玄朔

    正紹の男、初名親純、玄鑑亀渓)・半井驢庵成信(一五四四〜一六三八、通仙院)・施薬院宗伯(一五七六〜一六六三、三

    雲法印家初代)とともに、半年ごとの輪番で江戸に在勤を命じられている。半井・今大路両典薬頭と、京都在勤の施薬院

    法印と並べられていることは、慶長中の医界における正琳の地位の高さを示している。

    医術の傍ら禅僧との交流が繁く、別号の玉翁は参禅した春屋宗園(一五二九〜一六一一

    円鑑国師)の命名にかかる。

  • 25 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞)

    また雪斎とも号した。現在の大徳寺玉林院(琳字を分解し玉林とした)はもと正琳院といい、正琳が開基した寺で、初代

    の住持は古渓宗陳の法嗣月岑宗印(一五六〇〜一六二二)である。

    慶長一六年(一六一一)八月九日、四七歳で没し、自ら開いた正琳院に葬られた。先に引いた剛外令柔撰「養安院玉翁

    正琳法印寿像賛之口義」は、これに先立って描かれた肖像に加える賛として、死の二ヶ月前の六月に撰文されたものであ

    る。おそらくは死期を悟った正琳によって、肖像・賛の作成が依頼されたものであろう。

    現在、正琳の肖像は月岑宗印が賛を加えたものが玉林院とご子孫宅に各一幅伝存し、ともに月岑の賛は慶長一七年(一

    六一二)八月上澣の日付であり、「寿像」とは別物であろう。月岑賛の肖像は、正琳の妹が慶山なる人に嫁して生んだ坂

    本正悦の求めに依って製作されたものである。玉林院所蔵資料の調査を今後の課題としたい。

    (三)二代以下の歴代について

    二代正円(しょうえん・まさみつ)(一五八八〜一六一六)、

    字は三益。正琳の二男。徳川家康・

    秀忠に見え、法橋(一六〇七)、法眼(一二)に叙された。妻は曲直瀬正純(亨徳院

    家)の女である。葬地は大徳寺玉林院である。

    三代玄理(げんり・はるみち)(一六〇四〜一六六七)、

    初名は乗昌、字は一有。実父は沼津乗賢。外祖父玄朔に学び、叔父正円の家を継承。秀忠に見え、法橋(一六一九)に

    叙され、家光に三百俵を賜り、法眼(二九)・法印(四一)に累進。以後、葬地を麻布天真寺に移した。

    四代(正球―(せいきゅう))・正璆(まさてる)(一六四二〜一七二六)、

    初名は恒昌、字は一玕、別号は同斎・平庵・無方。家督後(一六六七、寄合)、修行のため八王子で施療(七〇〜七三)。

    番医(七四)、法眼(七七)、御側医(八二)、御匙(八三)、法印(八八)に累進。綱吉に重用され、度々の加増により禄

    千九百石に至った(一七〇四)。自賛(二二)の肖像が伝存する。致仕(二四)。

  • 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞) 26

    五代正珪(せいけい・まさあきら)(一六八六〜一七四八)、

    幼名は亀次郎、字は君瑞、別号は雲夢・雪翁・

    神門叟・懐仙楼・

    松月館・

    雨花庵。綱吉に見え(一六九五)、父正璆致仕後、

    家督(一七二四、寄合)。法眼(三〇)に進む。致仕(四三)。荻生徂徠門下の文人として著名である。四代桂川甫周によ

    る肖像が伝存する。

    六代正山(しょうざん・まさたか)(一七一九〜一八〇一)、

    幼名は亀太郎・

    又五郎、字は叔岳、別号は逃禅(九〇〜)。正珪の二男。吉宗に見え(一七三九)、父致仕後、家督(四

    三、寄合)。法眼(六一)、法印(八一)、奥医師(八六)として家治の医務を担当し、致仕(九〇)。妻は五代交泰院法印

    井上方正(杉浦氏)の女。

    七代正雄(しょうゆう・まさお)(一七四八〜一八二七)、

    幼名は富次郎、字は鳴卿、別号は龐沢。正山の二男。家治に見え(一七六六)、父致仕後、家督(九〇、寄合、養安院)。

    奥詰医師(九三)、法眼(九六)、法印(一八〇五)、奥医師(一五)に進んだ。妻は六代井上方親の女。女は七代河野通

    明の妻。肖像が伝存する。

    多紀元簡(桂山)は、天明四年(一七八三)二月に養安院家の所蔵する古鈔本医書『程氏釈方』を借り出して鈔写し、

    翌年夏には懐仙楼にその蔵書を見、朝鮮本『治腫指南』二巻借り出して鈔写するなど(『櫟蔭草堂文集』)、正雄と元簡は

    書物の貸借などを通した交流があった。元簡は正雄の人物と学識を高く評価して、奥医師に推挙している(一八〇〇)。

    八代正隆(しょうりゅう・まさたか)(一七七二〜一八四八)、

    幼名は幸次郎・恒幸、字は子棟、別号は箐庵・佩弦斎・礫翁。学術に優れ、医学館世話役手伝(一七九六)、御目見(九

    七)、製薬所掛・奥詰医師(一八一三)、医学館世話役(一五)、家督(二七)、法眼(二八)、法印(三四)と進み、致仕

    (四三)。二種の肖像が伝存する。

  • 27 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞)

    多紀元胤は文政七年(一八二四)七月に朝鮮本『脈経』を借り出して鈔写している。

    九代正貞(しょうてい・まささだ)(一八〇九〜一八五八)、

    幼名は富三郎、字は子幹、別号は篁庵・欇庵・楓簷。御目見(一八二九)、奥詰医師・製薬所掛(三八)、家督(四三)、

    医学館講師(四六)、法眼(五〇)、医学館世話役(五七)。岩崎灌園に学び、本草学に精通した。二種の肖像が伝存する。

    一〇代正健(まさたけ)(一八三一〜一八六五)、

    幼名は富次郎、字は子剛、別号は静斎。御目見(一八五一)、家督・製薬所掛・奥詰医師(五八)。

    一一代養庵正好(まさよし)(一八五四〜一八七二、正健長男)。

    一二代愛恒徳(正貞四男)。

    一三代中(一八八七〜一九〇四、正貞三男森川雅四郎の外孫、加藤氏)。

    一四代通(一九〇二〜一九七〇、正貞三男森川雅四郎の外孫、浅沼氏)。

    一五代暢夫(一九三二〜、愛知県知多郡東浦町在住)。

    以上を要するに、幕初において初代正琳が医官中の高い家格を築き、そのあと綱吉〜吉宗の治世下、江戸幕府の制度的

    確立期において四代正正璆が綱吉の寵遇をうけて経済基盤を安定させた。多紀家による医学館開設によって、両典薬頭家

    の医官統率する権威をかなり失墜したが、七代正雄・八代正隆・九代正貞はいずれも多紀家との良好な関係を維持し、久

    志本左京家とともに医学館と医官をつなぐとりまとめの役割を果たした。元簡以下、好学が続いた多紀家歴代のとの間に

    良好な関係が築かれたことは、江戸後期〜幕末の養安院家を考える上で、無視できない。

    学術的には、初代正琳の曲直瀬流に加えて、蘐園派に属する文人として知られた五代正珪の代において、文藝のみなら

    ず復古学の導入を準備し、八代正隆・九代正貞は本草学に精通して家声を墜さず、かくて幕末に至った。いわば、こうし

    た物心両面を兼ね備えて、養安院家の医学はその蔵書ともども、幕末まで同家において維持されたと見ることができる。

  • 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞) 28

    (四)養安院家の蔵書印について

    歴代の略伝を紹介したところで、ここにあわせて養安院家歴代が使用した印を提示しておきたい。従来よく知られてい

    る「養安院蔵書」の蔵書印の使用時期、対象について、必ずしも一致した見解が示されていないと思うからである。現在、

    子孫宅に歴代の筆跡とその使用印の印影を編集した資料が残されており、それによって以下の七代のものがわかる。

    ①正琳―・方型陽刻「正琳/子」・方型陰刻「玉/翁」・鼎型陽刻「雪/斎」・円型陽刻「養/庵」・鼎型陽刻「養/安」・

    長方型陽刻「養安院」

    ④正璆―方型陰刻「越球/之印」・方型陽刻「一/玕」

    ⑤正珪―方型陰刻「越印/正珪」・方型陽刻「越/正珪」・方型陰刻「越智/正珪」・方型陰刻「越/珪」・方型陽刻「戉

    /圭」・方型陽刻「君瑞/氏図/書印」・方型陽刻「君/瑞」・方型陽刻「雪/翁」・長方型陽刻「養安院蔵書」・方型陽刻

    「懐僊楼/蔵書印」・長方型陽刻「懐仙」・楕円型陽刻「懐仙楼」・方型陽刻「松月/館」・・楕円型陽刻「神門」・長方型

    陰刻「羲皇/上人」・長方型陰刻「得之/石室」・長方型陰刻「避世牆東」

    ⑥正山―方型陰刻「正山/之印」・方型陰刻「正山/之印」・方型陽刻「桃/源」・方型陽刻「桃/原」・楕円型陽刻「太

    平/逸民」

    ⑦正雄―方型陽刻「越智/正雄」・方型陰刻「鳴/卿」・長方型陽刻「太平民」

    ⑧正隆―方型陰刻「折肱/餘力」・方型陰刻「越智/隆印」・方型陽刻「字/子棟」・方型陽刻「箐/庵」・長方型陽刻「佩

    弦斎」・長方型陽刻「佩弦斎」

    ⑨正貞―長方型陽刻「越智/正貞」・方型陰刻「欇庵」

    「養安院蔵書」は五代正珪のところにかけられている。この蔵書印については、服部南郭の書字によって作成した銅印

    であるとする資料が残されており(森枳園『諸家蔵書印譜』慶應義塾大学斯道文庫・濱野文庫所蔵)、森枳園は養安院家

  • 29 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞)

    とも交流のあった人物であるので、一定の信憑性をもつと考えてよい。

    初代正琳にかけられた、円型陽刻「養/庵」・鼎型陽刻「養/安」・長方型陽刻「養安院」を鈐した書籍は、少数の善本

    にのみ見られるものであり、五代正珪にかけられた「養安院蔵書」を鈐した書籍は数量の上ではるかに多く、幕末刊本に

    も鈐されていることから、使用期間が長期にわたったことが知られる。また円型陽刻「養/庵」・鼎型陽刻「養/安」・長

    方型陽刻「養安院」を鈐した書籍と併用されていることから考えれば、五代正珪以後のある時点で、初代以来の蔵書にま

    で「養安院蔵書」を鈐したことがわかるのである。

    三、養安院家の朝鮮本について

    (一)『懐仙楼書目』について

    養安院家に伝えられた朝鮮本は、前述のように慶長二年(一五九七)三月の豪姫への施療に対する褒賞として与えられ

    た。その時の書目や数量に関する正確な記録は現在残されていない。また、享保二年の火災によって、朝鮮本の一部を焼

    失したとも伝えられているが、その詳細につて知ることができる資料がない。

    いま知られるのは、江戸後期に編纂されたと思しい養安院家の蔵書目録『懐仙楼書目』に著録された書目である。同書

    目は、国立公文書館に所蔵され(請求記号二一九‐一六七)、写本一冊、全七七丁、毎半丁九行に記す。

    本書目については、三木栄『朝鮮医書誌』にすでに取り上げられているが、書目編集の時期に関する言及には問題があ

    ると思われ、また言及は医書に限られており、書目全体に及んでいないことから、ここに紹介しておきたい。

    巻首に掲げた凡例では、経書・詩文・医書・史家・典故・子家(本文中では子類)・政事(本文中では政事家)・雑家・

    歌書・仏家(本文中では仏書)なる一〇部の分類を示し、各部に関する簡単な説明を加え、末に闕本類・石刻・御懸物・

  • 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞) 30

    中夏諸名家真蹟類・日本諸家を付している。その分類から明らかなように、本書目は和書と漢籍を一緒に収めている。ま

    た、「典故」が「凡便于詩文之辞者、及字学家流之言、或便声音反折者、書家者流、併附于此」の内容を持つことが示す

    ように、分類の名称と内容の点で当時においてかなり独自な書目であるといえる。

    各部はさらに経書―一一、詩文―一四、医書―二六、史家―八、典故―一五、子類―一、政事家―二、雑家―三、歌書

    ―五、仏書―一に分かって著録されているが、この分割の基準は書籍の内容とは無関係のようで、収納場所等を示すもの

    かと想像される。

    各部の著録部数冊数は次のとおりである。

    経書―八三部

    七四六本、

    詩文―二〇一部

    九三四本、

    医書―二四八部

    一六四三本、

    史家―六一部

    九八八本、

    典故―九七部

    八一九本、

    子類―一九部

    七八本、

    政事家―二六部

    九〇本、

    雑家―七四部

    二三八本、

    歌書―四部

    一九一本、

    仏書―七四部

    一七八本、

    闕本類―二一部

    三五六本、

    石刻―六二部

    九四(二軸七九帖一三本)、

    御懸物―九六部

    一二一幅、

    中夏諸名家真蹟類―九部

    九(五軸四帖)、

    日本諸家―一六部

    二〇(一九軸一帖)。

    総計、一〇三七部

    六五〇五(六二七四本

    百二一幅

    八四帖

    二六軸)にのぼる。

    (二)『懐仙楼書目』の編纂時期について

    本書目には編纂時期を示す記述がないが、書風等からみて江戸後期ごろの書写であると見られる。福井保は、「寛保(一

    七四一〜一七四四)後間もない時期に編まれ、江戸末期の写本」と見るが、その根拠は必ずしも明確ではない。

  • 31 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞)

    書名に冠された「懐仙楼」は、前述のように五代正珪の別号であるので、書名だけから判断すれば、初代正琳以来の蔵

    書とは別に五代正珪一代の収書を著録したものと見ることも不可能ではない。

    本書目の記載は書名・冊数・刊写の別のみの簡単なものであるが、刊本の場合には唐本・和本・朝鮮本の別を記す点に

    特色がある。しかし唐本・朝鮮本については、記録が簡単なため、版種や刊年の同定は困難である。そこで著録中、和書

    (日本人著作の意味でなく、日本での出版物の意味で使用されている)を中心にみていくと、詩文の部では蘐園派に属し

    た五代正珪の嗜好を反映したと思しい同派の別集や作法書の類が散見される。その中で「四大家雋

    韓柳王李

    八本

    和」

    「純陽遺稿

    三本

    和」とあるのが、それぞれ安永六年(一七七七)刊『四家雋』(荻生徂徠編

    服部南郭校)、安永七年

    (一七七八)刊『純陽遺稿』(前田道伯著)をさすのが下限とみられる。宝暦中(一七五一〜一七六四)の刊本もかなり

    ある。まもなく興ってくる清新性霊派の書は全く見出せない。こうした傾向は、医書においても同様に看取され、宝暦一

    三年(一七六三)刊の平賀源内『物類品隲』はあるが、天明〜寛政頃より親交を持つようになる多紀氏の著述は全く見出

    されない。

    他方これ以前、江戸前期からの刊行書は、比較的時代の偏向なく収集されていると感じられる。このことは、本書目が

    正珪一代の収書ではなく、養安院家代々の収書を著録したものであり、かつ著録書中の刊年の下限(一七七八)から余り

    下らない時期に、本書目が編纂されたことを示すものと考えられる。

    以上によって、本書目は、安永頃までに養安院家に収蔵されていた書籍を示す資料であるといえる。恐らくは、六代正

    山のときの編纂にかかるものであろう。

    (三)『懐仙楼書目』に著録する朝鮮本について

    本書目に著録された朝鮮本の書名(底本の表記による)を冊数とともに掲出しておく。

    経書の部

    二九部一一八冊

  • 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞) 32

    朱子語類四五、小学四、程氏遺書八、理学類編二、学蔀通弁二、心経附注二、大学衍義一〇、困知記二、理学通録六、

    近思録四、春秋胡氏伝八、聖学十図一、心図一、経筵講義一、啓蒙図折本一、入学図説一、明心宝鑑一、聖訓演一、居業

    録一、童蒙先習一、魯斎心法一、退陶進剳一、宋論一、近思録箱入四、家礼儀節五、入学図説一、読書類要語一、筆疇一、

    大学或問一

    詩文の部 七三部

    二八七冊

    医問集三、東坡集一四、山谷集一五、三韓詩一、応制詩一、十省堂集一、韓文正宗二、雷谿集二、魯斎全書二、柳巷先

    生集一、読杜詩愚得一七、簡斎集五、晦斎集四、文苑清華三、文選対策四、詩餘図譜二、鐵城聯芳集一、桂庭雑藁一、半

    山清華二、盧綸詩一、佔畢斎集五、事類賦八、儷語二〇、明詩六、萬谷花一〇、杜詩補遺三、台山詩六、王荊公集一〇、

    柳先生文集三、東文粋二、劉賓客二、養休堂二、使朝鮮録二、唐詩鼓吹四、廉洛風雅一、使琉球録一、蘇詩摘律二、続鼓

    吹三、益済集四、濯嬰集一、皇華集二、古賦二、湖山唱和二、朱子実記五、宋播芳四、梅月堂九、懐麓堂文集二四、文節

    遺稿一、格斎賡韻一、新楽府一、文憲伝一、木天禁語一、景賢録一、感興詩一、朝鮮賦一、証道謌一、東人詩話一、翊運

    録一、梅花長詠一、朱子書節要二〇、詩人玉屑朝鮮重雕正中間玄恵校本六、金鰲新話一、三体詩二部五、大観斎乱稿四、

    錦繍段一、徐花潭一、退陶自省録一、陸放翁集一、漂海録一、詩家一指一、養生編一、蕉堅藁一

    医書の部

    四七部

    一七八冊

    紫金丹方一、産書該録二、活人心方二、得効方一一、針灸集書四、奇効良方二〇、医説五、本草大全一〇、本草発揮二、

    名医略伝二、山居四要一、神応経一、治腫指南一、牛馬羊猪治療一、針灸択日二、治疱方一、簡易辟瘟方一、馬医方一、

    村家救急方一、姙娠最要方一、養生大要一、普救録写一、和剤指南一、医眼論一、牛疫方一、疽瘧易解方一、治腫秘方附

    救急良方一、続医説一、十四経発揮一、鶴皐山人脉語一、救急易方一、纂図方二、食品方写二、十五指南三、和剤局方八、

    諸疝治方一、永類鈐方九、玉機微義一二、婦人良方九、資生経一本欠三、医方集略五、外科発揮二、医家必用一、寿親養

  • 33 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞)

    老書三、瘡疹集六、直指方六、東医宝鑑二五

    史家の部

    一六部七一冊

    晋書詳節一〇、十九史略八、両山黒談四、訥斎行状写一、皇明名臣言行録二、後漢書三三、歴代史略二、東国史略二、

    海東諸国記一、大明地理図折本一、宋鑑節要二、攷事撮要一、西往録一、六臣伝写一、通論一、列女伝一

    典故の部 一五部八六冊

    補注蒙求三、押韻淵海一六、龍龕手鑑帙入七、藝文類聚四五、礼部韻一、草書韻会一、聚分韻略一、篆韻二、続蒙求四、

    政経一、新増類合一、日本考略一、服式小冊一、采奇録写一、篆説文一

    政事家の部

    一〇部二三冊

    正俗編一、救荒切要一、詞訟類聚一、進修楷範三、尅択通書九、伝道粋言四、師律提鋼一、農事直説一、牧民心鑑一、

    祥刑要覧一

    雑家の部

    二五部六一冊

    三車一覧三、奉先雑儀一、宋揚輝算法二部 比長塘鮑氏刊本迥存古式二、七政暦一、征討録一、兵政一、兵将説一、歩

    天歌一、三略直解一、三韻通考一、文章欧冶一、算学啓蒙一、兵要一三、七書講儀一八、剪灯新語一、詳明算法一、軍門

    錬武図一、黄石公一、笑海叢珠一、夢書一、卜筮元亀一、櫟翁稗説一、胡子知言一、雅音会編四

    仏書の部

    一一部一一冊

    宗派一、禅要抄一、普覚禅師書一、緇林宝訓一、南無妙法蓮華経一、国鑑歌一、禅源都序一、永嘉集一、禅林宝訓一、

    誠初心学人文一、洪武正韻一

    闕本

    二部六七冊

    玉海六六、三世相一

  • 曲直瀬養安院家と朝鮮本医書(町泉寿郞) 34

    石刻

    一三部一四冊

    鮮于枢二、韓護書千字文一、篆字中庸一、趙体一、続三綱行実一、三綱行実一、三倫行実一、陣法一、附音釈�