ppt no33 秦帝国 3 法家思想で中央集権化 法家の【4: 】...
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【33】秦帝国
【1: 】は BC 8世紀からあった
すごい奥地!
今日の四川省にあたる。
秦
BC4世紀に「戦国
の七雄」のひとつに成長した。そのわけを説明しよう。
この略図はBC4世紀
BC4世紀 孝公の時
孝公(BC381-BC338)は、後進性を痛感した。
孝公は法家の商鞅(しょうおう ?-BC338
公孫鞅)を登用、BC359年から変法と呼ば
れる大改革を行い、秦は「戦国の七雄」のひとつに成長した。
秦は遅れてるなぁー!
商鞅の変法 BC359年~
法家思想に立脚 目的は富国強兵
戸籍を作成
「什伍の制」
二人以上の成人男子がいながら分家しない者は、賦税(人頭税)が倍加。
五家(伍)・十家(什)ごとに隣組を作り相互に監視。
分家を奨励
鉄器の普及で農耕は家族単位に!これを把握する。
王=孝公
商鞅の変法の成果
ぼくは商鞅なんだけどスネ夫似だとよく言われます。。
BC352年、秦は魏に侵攻し、城市を奪った。
紀元前350年、秦は雍から咸陽へ遷都した
紀元前340年、魏へ侵攻
し、黄河以西の土地を奪った。
秦は「戦国の七雄」に数えられるようになった。
王=孝公 秦の都は全国統一前から咸陽(かんよう)
政治の中心は依然として渭水盆地にある。
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秦の都は全国統一前から咸陽(かんよう)
孝公はBC350年、都を咸陽(シエンヤン 現在の西安市の北西)に定めた。
秦の都
前漢の都(西安郊外)
後漢の都
雍から咸陽へ
商鞅の最後
遺体は、自分で制定した車裂きの刑で破壊され晒された。
法家思想に基づく厳格な政治で、商鞅は数多くの恨みをかっていた。
孝公の死後、無実の罪で追われ、殺害された。
この絵はヨーロッパのもの
秦王「政」、中国を統一
BC221年、秦王の【2: 】は、他の6国を滅ぼし、初めて中国を統一した。
孝行が商鞅を登用した時代から約100年後、秦はさらに強大化していた。
同年、「政」は皇帝の称号を初めて用い、自
ら【3: 】と名乗った。
政
始皇帝「グローバルワイド」p50参照
「政」の即位時BC247年天下統一時
BC221年匈奴から「オルドス」を奪還(BC215年)
「百越」と戦いBC214年、南海郡(現広東省)など3郡を置く。
秦帝国
BC247年BC221年天下統一
BC215年
BC214年
本当に全国を統一したのはBC214
年だが、中国本土の大半を統一したBC221年を
もって天下統一としている。
始皇帝はどんだけ偉大か
始皇帝は以後2000年間に及ぶ中国の皇帝専制の政治体制の基本形を一代で作ってしまった!信じがたい偉大さである。
皇帝専制の支配体制を次々と作り上げていった。秦王として在位26年、始皇
帝としての在位は僅か11年(BC221~BC210)だった。
以下の諸フレームは始皇帝一代の業績またはその代に起きたことである。
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法家思想で中央集権化
法家の【4: 】(りし?-
BC208)を丞相(じょうしょう)に採用、李斯の法家思想に基づく中央集権化を推進した。言論や思想の統制も強行した。 李斯
韓非(ともに荀子の弟子)に服毒自決を強要。
2代皇帝の時に残虐な方法(腰斬)で処刑された。
李斯
有名な郡県制を行った
封建制を退け、都から全国土を直接統治す
るために【5: 】を採用。
郡・県には中央から文武の官僚を派遣した。
全国を36(後に48)の【6: 】に分け、
その下に県(大邑、小邑を束ねたもの)を置いて監視・統括させた。
秦の国内では孝公の時代から実施されていた。
郡
郡県制
秦帝国の中央官制
秦の中央官制は、つぎのとおり。丞相 (じょうしょう) 左右2人
最高行政官 李斯は丞相だった。太尉 (たいい)御史大夫(ぎょしたいふ)
これは《頻出》の誤文「三省六部」になるのはずっと後(唐)のこと。
秦の中央官制は「三省六部」である。
始皇帝は文字を統一
国ごとに文字が異なっていた。始皇帝はこれを「小篆」に統一した。戦国時代の秦で行われていた文字は「大篆」。
「書体」が異なると表記することがあるが、この「書体」は現代の「フォント」ではなく、文字そのもの。
始皇帝は度量衡を統一
度( )・量( )・衡( )ところで、度量衡(どりょうこう)って?
長さ 容積 重さ
始皇帝は、これらの規準を統一した。
写真出典 『世界史のミュージアム』
銅権(どうけん)
銅量(どうりょう)陶製のものは陶量(とうりょう)
長さ容積重さ
始皇帝は貨幣を統一
始皇帝は統一銅貨として半両銭を定めた。
一緒に覚える!前漢の武帝はBC119年、五銖銭(ごしゅせん)を鋳造させた。隋まで使用された。
(はんりょうせん)
円形方孔のデザインは2千年も踏襲された。
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始皇帝は車軌を統一
黄土台地の道路は少しの雨でぬかるみ、深い轍(わだち)を残したから、左右両輪の距離(車軌)が異なる荷車は傾き、壊れてしまう場合もあった。「車軌」が異なる
とこうなる
これが車軌
「車幅」ではない。
焚書坑儒
BC213年、農業・医薬・卜筮(ぼくせい)など
の実用書以外の書物の民間所蔵や伝授を禁止し、それらを提出させ焼き捨てた。これ
が【7: 】(ふんしょ)である。
儒学書に限らない!
焚書
占いのこと
焚書坑儒
BC212、儒者460余を咸陽郊外の深い穴に
埋めて殺した。これが坑儒(こうじゅ)。
こちらは儒学者限定!
これも丞相李斯の献策によるとされる。
不老長生の薬を求める始皇帝にインチキ薬を売りつけ莫大な利益をあげた「方士」たちに儒者が多く、彼らが責任をなすりつけあっている様を見て始皇帝は激怒・・
出典 『世界史のミュージアム』
実際は咸陽郊外の深い穴に埋めた
焼かれたのは儒学書に限らなかった
始皇帝、蒙恬に匈奴を討たせる
BC215年
【8: 】(もうてん)
に匈奴を討たせ、オルドスを奪回した。
BC214年、華南に進
出して南海郡(現広東省)など3郡を置いた。
南海
オルドス
蒙恬
匈奴と戦った軍人
秦の蒙恬(もうてん) 始皇帝時代
前漢の衛青(えいせい)、霍去病(かくきょへい、衛青の甥) 武帝時代【→No34】
後漢の班超(はんちょう) 和帝など→No35
BC215年、オルドス奪回。
BC129以降、7回遠征。
73年以降、西域経営30年!91年、和帝より西域都護に任命される。
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匈奴
月氏
羌
氐オルドス
始皇帝は【9: 】を築いた
BC215年以降、戦
国以来の長城を修築、連結、延長して北辺の守りを固めた。
万里の長城
万里の長城
高さ僅かに2m
秦代の長城遺構
騎馬では飛越できないから意味があった。
秦代は泥と葦(あし)などで構築
出典 『世界史のミュージアム』
こうなるのは明代(14~17世紀)
位置は秦代よりも、ずっと東よりにある。
孟姜女もうきょうじょ伝説は秦代
万里の長城に徴用された夫は死亡、孟姜女の慟哭で万里の長城は崩壊し、夫の亡骸が・・・孟姜女は夫を追って自決。
国防に役立った万里の長城の工事は、人民にとっては、命を落とすことさえある大きな負担であった。
阿房宮、始皇帝陵を造営
民間の兵器を没収、富豪を首都に強制移転させた。
咸陽に阿房宮(あぼうきゅう)の造営を始めるが完成せず。項羽に焼き払われた。
生前から、始皇帝陵の造営を行った。
渭水の南岸
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この人工の丘の全体が始皇帝陵
出典 『世界史のミュージアム』
出典 『世界史のミュージアム』
墓域の東側に兵馬俑坑
始皇帝陵の墓域の東1.5kmに約6000体の兵馬俑を埋めた兵馬俑坑あり。
出典 『グローバルワイド』
兵馬俑
=兵馬俑が埋められている穴(坑)
出典 『グローバルワイド』
始皇帝の業績、秦の時代についてはここまで。
秦帝国の滅亡について学びます。
始皇帝の死 BC210年
始皇帝は、BC210年、巡幸の途中で崩御。趙
高によって崩御は咸陽に帰還するまで秘匿された。遺体の死臭を隠しながら・・。
捏造された遺詔で胡亥が後継者となるが、翌年には陳勝・呉広の乱が発生。胡亥の自殺(BC207)後に3世皇帝に即位した子嬰は
劉邦に降伏したが、項羽によって処刑され秦は滅亡した(BC206)。
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秦帝国の滅亡
あまりに性急な改革、過酷な農民の負担を背景に、始皇帝の死の翌年、BC209年、
【10: 】が起き、乱
自体は6ヶ月で鎮圧されたが、全国各地で反乱が起き、BC206年、秦は、わずか15年で滅亡した。
陳勝・呉広の乱
厳しい処遇は【11: 思想】に基づく。
法家
陳勝・呉広の乱
出典 『グローバルワイド』
「王侯将相いずくんぞ種あらんや」 by 陳勝
長城地帯の防備にあたる農民を率いて移動中、大洪水で期日までの到着が不可能となった。遅刻は理由を問わず全員死刑!
中国史上初の農民反乱
項羽 VS 劉邦 垓下の戦い
秦滅亡後の混乱の中で、項羽、劉邦は、BC202年、「垓下(ガイカ)の戦い」で激突した。勝者は?
項羽劉邦
楚の名門(将軍)の出身無名の農民出身
【12】↓ 【13】↓
「虞や虞や 汝を如何せん」
垓下の戦いで包囲された項羽は「四面楚歌」で敗北を悟り、愛姫(愛妾ともされる)虞美人に別れを告げ、包囲を破って戦い、戦場で自決したとされる。
自決した虞美人の最期の地に咲いたのが虞美人草だという。
虞美人草=ヒナゲシ出典『ニューステージ』
勝利した劉邦は
ここが長安(現在廃墟)
BC202年、長安(現在の西安西北郊外)を都
として、【14: 】(前漢)を建国した。漢
後漢は洛陽
画像の出典
• 『グローバルワイド』最新世界史図表 第一学習社
• 『タペストリー』 最新世界史図説 帝国書院
• 『世界史のミュージアム』 歴史風景館 とうほう
• 『アカデミア世界史』 浜島書店
• 『ニューステージ』 世界史詳覧 浜島書店
• 『ニュービジュアル』 新詳世界史図説 浜島書店
• 『プロムナード世界史』 浜島書店
• 『世界史のパサージュ』 新世紀図説 とうほう
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【33】ここまで
All Rights Reserved
Ⓒsekaishi_suzuki
これより小テスト問題
第1問
BC4世紀、商鞅を登用して大改革を
行い、秦を強国に成長させた国王は誰か?
孝公 BC381-BC338
BC359年から変法と呼ばれる大改革(富国強兵
策)を行い、秦は「戦国の七雄」のひとつに成長。孝公はBC350年、都を咸陽に定めた。
第2問
始皇帝の、国王であった時期の名は何か?
政は他の6国を滅ぼし、BC221年、初めて中国を
統一した。同年、政は王の称号を捨て、皇帝の称号を初めて用い自ら始皇帝(位BC221-BC210)と名乗った。始皇帝は以後2000年間に及ぶ中国の専制政治体制の基本形を一代で作った!
秦王の政(BC247年即位)
第3問
始皇帝が鋳造させた統一銅貨は何と呼ばれたか?
半両銭
前漢の武帝が鋳造させた統一銅貨は何か?
五銖銭
第4問
始皇帝は、北辺の守りを固めるため、非常に長い構築物を造った。それは何か。
万里の長城
秦代の万里の長城は、高さ2mの土の壁。