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Title 盧溝橋事件再考 : 中國における「日本軍計畫」説をめぐ って Author(s) 安井, 三吉 Citation 東洋史研究 (1997), 55(4): 758-786 Issue Date 1997-03-31 URL https://doi.org/10.14989/155029 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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  • Title 盧溝橋事件再考 : 中國における「日本軍計畫」説をめぐって

    Author(s) 安井, 三吉

    Citation 東洋史研究 (1997), 55(4): 758-786

    Issue Date 1997-03-31

    URL https://doi.org/10.14989/155029

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 758

    ーーー中園における「日本軍計董」読をめぐって|

    |安

    士口

    虚溝橋事件の範圏と問題群

    「計壷」設とは

    三「中園軍計董」設

    四「日本軍計重」設

    五曲家源氏の「日本軍計重」設

    六虚溝橋

    「奇襲計壷」と「謀略」

    「第一夜」と「丘二名行方不明」

    「第一夜」から軍事衝突へ

    。Gnu

    li

    事問上の論争は、個人と個人、あるいは事涯と事涯との聞の論争というのが本来のありかたであろう。しかしながら、

    時としてそれがあたかも固と圏、民族と民族との聞の論争というような色彩を帯びて展開されることがある。近代日中関

  • 係史研究においては、

    「田中上奏文」

    (中園では、 そ

    うしたケlスがいくつか見られる。日本では儒文書読、

    (1〉

    「田中奏摺」)の員儒をめぐる論争などはその代表的例であろう。私もその賞事者の一人である

    七年前、

    中園では本物読がそれぞれ有力である

    直溝橋事件研究広おいても似たような日中聞の論争が見られる。私は、

    「直溝橋事件についての一考察||「兵

    一名行方不明」問題をめぐって||」

    (本誌、第四十八巻第二鋭、

    一九八九年九月〉を護表し、直溝橋事件における

    「兵一名

    行方不明」問題の究明とともに、

    「回想録」の取り扱いや史料の護掘の問題など研究方法についてもいくつか問題を提起

    してお

    いた。

    さらに私は

    一九九三年に『鹿溝橋事件』

    (研文出版)を上梓したが、

    」れは

    日中開で直溝橋事件につい

    ての見方に相違があることを踏まえ、論駐を整理して、車溝橋事件研究に闘する日中聞の事術交流の基礎を構築しようと

    いう狙いをこめて書いたものだった。以来三年、私は麗溝橋事件に関して、日本の日本史研究者の犬舎や中園の抗日戦争

    園際シンポジウム、研究誌などの場を逼じて、自設を開陳し、また拙著への批剣に答えたりしてきた。この問、直溝橋事

    (2〉

    (3〉

    日本人研究者の聞でも論争があり、またいくらか新しい史料も護掘されている。ただし、中園では、虚溝

    件については、

    -103ー

    橋事件H

    「日本軍計董(謀略〉」設が一貫して主流としてあり、この事件を日本の中園侵略史上の「計董」的事件とする認

    識は不動のように見える。このような観貼からすると、

    4)

    かという日本の多くの研究者の設問のありかたそのものが、日本の侵略を揖護しているものとして映るようだ。この問題

    をめぐる論争の構園は依然出変わっていないが、小稿では今日の時黙に立って、あらためて畳溝橋事件研究の現朕と問題貼

    「偶護」的小事件がなぜあのような大戦争へと援大していったの

    を整理しなおし、

    その上で、中園の俸統的見方である「日本軍計重」読について、主として日本の慮溝橋事件研究に劃し

    てもっとも巌しい批判を績けている山西師範大事の曲家源氏の著論を取り上げて検討を加えることとし、あわせて蓋湾の

    陳在俊氏が最近表明した事買上の「偶震」読ともいえる興味深い見解についても紹介してみたい。

    759

  • 760

    宜溝橋事件の範園と問題群

    直溝橋事件に闘する論黙を整理する前提として、盛溝橋事件の範圏と各問題貼の位置づけをしておきたい。まず、直溝

    橋事件の範圏については、衣の二通りの考え方がある。

    第一は

    一九三七年七月七日夜、

    演習中の

    日本軍に射する「護砲」事件(この事件の有無をめぐっても論争がある)と「兵

    一名行方不明(不足)」という事件の「護端」

    から、

    翌八日午前五時三

    O分の日本軍による中園軍に射する戦闘開始まで

    (狭義の虚溝橋事件)。第二は、七月七日夜の事件の「護端」から、七月二五日の郎坊事件、翌二六日の康安門事件を経て、

    二八日の日本軍による卒津(北卒・天津)地域一帯への一斉攻撃まで〈庚義の虚溝橋事件)。本稿が検討の封象とするのは、

    主として狭義の麗溝橋事件についてである。その理由は、後者についても多くの論争黙があるが、

    「偶設」設と「計董」

    -104ー

    読の封立は、主として前者、すなわち狭義の慮溝橋事件の理解の仕方に闘するものだからである。

    次にこの直溝橋事件について、全般的にどのような論争黙があるのだろうか、この貼についてあらかじめ整理をしてお

    こ内ノ。

    1

    直溝橋事件の位置をめぐって

    慮溝橋事件は日中戦争においてどのような位置をしめるのか。これには、

    日中戦争を一五年戦字ととらえるのか、

    それ

    とも八年戦争として考えるのかによって遣いが出てくる。

    前者の場合(私もこの立場に立つ〉

    直溝橋事件は局地戦争から

    全面戦争への轄換貼となり、後者の場合は、

    日中戦争の震端に位置づけられることになる。

    なお、蒔換貼あるいは全面抗戦の起黙という貼では、

    八月一一一一日の第二衣上海事獲の勃震を奉げる人もいる。

  • 2

    虚溝橋事件の性質をめぐって

    日中戦争の性質といいかえてもよいが、日本の侵略戦争なのか、それとも自衛戦争なのかといろ問題である。

    私は日本による中園侵略戦争という認識に立うものであるが、この貼に闘しては日本圏内においていまだに意見の劃立が

    (

    5

    )

    ある。拙著『虚溝橋事件』をめぐる岡野篤夫氏との「論争」は、まさにこの黙に闘するものであった。

    これは、

    3

    「偶護」的事件か「計霊(謀略〉」的事件かをめぐって

    の見方がある。

    「偶護」読には、中園側が「偶護」的に引き起こしたというものと、日本側が「偶護」的に引き起こしたものと二通り

    「計重」設にも、中園側(たとえば中園共産黛〉が「計董」的に起したというものと、-これとは反封に日本

    -105-

    側が「計重」的に起したというものとこ通りある。今日の直溝橋事件に闘する論争の焦黙となっている問題である。

    4

    個別問題をめぐって

    これは、論黙3と密接に連関するものであるが、たとえば、七月七日夜の「第一護」の有無、射ったのはだれか、志村

    菊衣郎二等兵の「行方不明」の理由、士山村野隊を豊蓋の大隊本部へ俸えた停令はだれか、牟田口一廉也第一聯陵長と↓木清

    (6〉

    直第三大除長が豊蓋駐屯隊の出動を命じた主たる理由は「護砲」のためかそれとも「丘二名行方不明」の方だったのか、

    牟田口や一木が「兵一名行方不明」問題が解消した後もなお部陵を撤牧させなかった理由はなにか、八日午前三時二五分

    のいわゆる「護砲」は一睡だれを狙アたものか、牟田口が四時二

    O分、一木に「戦闘開始」命令を下した根擦はなにか、

    そもそも「第一護」とは七月七日夜の「護砲」のことと考えるべきかそれとも八日朝五時三

    O分の「戦闘開始」と考える

    さらには第二次豊蓋事件(一九三六年九月〉をどう見るかなどである。次に念のため私の車溝橋事件磁の基本黙を

    761

    ベ会」か、

  • 762

    要約しておくことにしよう。

    (

    1

    )

    日中戦争は日本の侵略戦争である。

    (

    2

    )

    日本軍には虚溝橋事件前に「華北武力占領計董」など、華北を武力で占領する構想があった。

    (3〉庫溝橋事件の「護端」は「偶護」的なもので、「日本軍計重」設は正確ではない。

    (

    4

    )

    虚溝橋事件が全面戦争へと旗大した責任は、日本側にある。

    本稿では、主として論貼3の「偶護」的か「計室且」的か、

    したがって基本的観貼の(

    3

    )

    に闘する問題について検討し、

    (7〉

    2については、拙著をご参照いた

    これとの関連において論黙4の個別問題について鯛れることとしたい。なお、論貼1、

    2-b崎町二

    、。

    手javcJIIV

    ここで、

    「計董」的ということの意味を明確にしておきたい。

    」れは

    無用な論争をさけるためにも必要なことであ

    -106-

    「計重」読とは

    る。虚溝橋事件が「計重」的か「偶護」的かという場合の「計垂直」的とは、

    一九三七年七月七日夜、

    なんらかの目的〈北

    卒あるいは中圏全土の武力占領、あるいは日本軍と中園軍を相戟わせるなどの目的〉を以て

    「第一

    震」を射ったりあるいは

    「兵

    名行方不明」事件を引き起こしたという意味である。

    したがって、支那駐屯軍司令部「昭和十一年度北支那占領地統治計

    重書」

    (一九三六年九月一五日〉などの文書は、

    まさに華北を武カ占領しようという計董ではあったが、

    書」の存在を以て日本軍「計董」読の直接的根擦とすることはできないということである。

    あくまでも、 し

    かしこの「計萱

    七月七日に、

    「第一護」・「丘二名行方不明」の事件を起こすような具瞳的、直接的な「計童書」や

    「謀議」の有無が問題である、とい

    う観貼である。これは、一九一一一一年九月一八日夜の柳傑湖事件の

    「謀略」と比較してみれば明白である。この場合、石原

    莞爾、板垣征四郎らが事前に武力占領計童を策定していたことだけを以て事件の「謀略」性をいうのではなく、

    具瞳的

  • に、九月一六日、奉天特務機関で、

    石原、板垣らと寅行部像の川島正大尉らが曾合して「謀議」を行い、翌一七日に、

    八日の「計董」決行が決定されたこと、そしてこの決定に従って一八日夜、河本末守中尉以下によって、精錬線上り線路

    の「爆破」が寅行され、これを合固にかねてからの打ち合わせに従って、東北軍駐屯地の北大管への攻撃を開始し、奉天

    の織道附属地内の関東軍駐屯地内に設置されていた二八センチ要塞砲が溶陽域などをめがけて護射されたというこのよう

    な事寅を以て「計重」的であったというのである。以上の事寅は、戦後、この計重に参重した花谷正(嘗時の関東軍参謀)

    (

    8

    )

    らによって詳細に明らかにされているところである。すなわち虚溝橋事件に闘しても、同じような「謀議」と準備があ司

    たのか否かが事件が「計重」的といえるのか否かの分岐貼となる、ということである。

    「中園軍計重」読

    周知のように、直溝橋事件勃護嘗時、日本政府も中園政府も事件が相手側による「計董」的事件だったという剣断を下

    していた。中圏外支部の七月一

    O日の日本駐華大使館への抗議文は「日本軍のこの行震は、明らかに珠定の挑護計董(預

    (9〉

    定挑雰之計重)を寅行したものであってまことに不法である」としていたし、日本政府の七月一一日の「整明」も、「今

    (

    次事件ハ、支那側ノ計霊的武力抗日ナルコトハ最早疑ノ絵地ナシ」と断定していた。直溝橋事件は、事件護生から三、四

    日後の時離で、南圏の政府レベルにおいて公式に相手側による「計重」的事件として断定され、その後の南園の事件に劃

    -107-

    する劃躍はこの認識を基本として進められていくことになる。

    七月八日午前八時三

    O分の支那駐屯軍司令部の事件についての最初の護表は、

    (

    )

    「不法なる支那箪の砲撃」とはいっても

    それが中園側の「計重」的事件だとは見なしてはいなか「た。この黙で襲化が見られるようになるのは、

    九日午後一時半

    「南京政府側及び共産黛系の支那軍隊就

    763

    の「支那駐屯軍司令部震表」で、虚溝橋の中国軍の撤退の緩慢さの理由として、

    (

    中その中堅持校以下に劃する抗日宣俸」を奉げている。同日の外務省嘗局の説明もほぼ同様の趣旨のものであった。

  • 764

    日、今井清参謀次長の指示に基づき、橋本群支那駐屯軍参謀長は、中園側に劃して四項目の要求を提出するが、その第四

    (

    「藍衣一位、共産業其他抗日系各種圏鐙」の取締りという一項が奉げられている。

    しかし、ここでも、事件そのものが

    tこ中園側の「計霊」的なものと断定していたわけではなか司た。もっとも、

    八日の外務省情報部長の「茸溝橋事件

    ニ封ス

    (M〉

    説明」では、直溝橋事件は基本的には「中園人、とくに南京政府の陰謀公宮

    己55mnrBG」によるものとの見解が示さ

    れていたが、支那駐屯軍においても陸軍中央においてもこの段階ではまだ事件を中園側の「計董」的な事件という判断は

    下していなかった。それが結局、

    一一日になって政府は鹿溝橋事件そのものを「支那側ノ計董的武力抗日ナルコト最早疑

    ノ徐地ナ

    シ」という断定を「政府聾明」として内外に公表するに至アたのである。以後、日本では公式には、直溝橋事件

    は中園側の「計董」的事件だという解穫に疑問を呈することはできなくなった。この「政府撃明」の影響は大きく、

    ー「

    掻大」と言いながら、賓際には事態を急激に「抜大」させて行くことになる。

    しかし現地の支那駐屯軍の指導者たちは、嘗初事件が中園側の「計重」的事件だとは認識しておらず、むしろ「偶護」

    牟田口第一聯陵長の手記「支那事饗勃費時ノ員相並-一其ノ前後ノ事情」〈以

    「昭和十六年四月十日記」とあり、事件からすでに四年近くたって書か

    的事件だと認識して行動していたのである。

    下「牟田口手記」〉について見てみよう。

    -108--

    これは、

    れたもので、

    日本では、すでに盛溝橋事件H

    「中園軍計重」設が公式見解として定着していた時期のものである。

    牟田口が事件の護生を知るのは七月八日午前

    O時、豊蓋の一木大陵長からの電話によるものであった。牟田口は、

    大隊長に劃して虚溝橋への出動を命ずる一方、午前

    O時牢頃、赤藤庄次憲兵分隊長に中園側の動向「特に要人宅及西苑、

    その結果が牟田口に報告された。その内容とそれが牟田口

    南苑、資寺等ノ支那軍ノ朕態偵察ヲ命」じた。午前二時半頃、

    が中園寧に劃する「戦闘開始」命令を下すべきか否かの剣断に輿えた重要な影響について彼は、次のように書いている。

    「支那軍及要人宅ハ寂トシテ撃ナク何等ノ異賦ヲ認メサルヲ確メ聯隊長一一報告セラル

    ル聯隊長ノ決心ニ重大ナル基礎ヲ輿ヘタリ

    此ノ報告ハ

    警備司令官代理タ

    即チ聯隊長ハ今次事件カ支那側ノ計霊的行篤ニアラスシテ全ク董溝橋附

  • 牟田口は、

    近ノ局所的突護事件ナルヘシト剣断スルヲ得タルヲ以テナリ」

    四時二

    O分、

    一ホに電話を逼して、直溝橋附近の中園軍に劃する「戦闘開始」の命令を下すが、その時の心

    境については次のように記している。

    「最後ニ聯隊長ノ到達シタル心境ハ日本軍ニ封スル、敵劉行震ハ前年ノ豊蓋事件ノ経験ニ鑑ミルモ之ヲ容赦スルヲ許サ

    ス断然タル慮置ヲ必要トス而モ先-一連へシカ如ク支那側ノ計霊的行信号一プラスシテ局所的事件ナリト剣断シ得ルヲ

    以テ此ノ際不法ヲ働キシ支那軍-一割シ大ナル鍛槌ヲ加フルコトカ叉一面事件ヲ局所的ニ牧拾シ市シテ皇軍威武ヲ宣揚

    シ得ル所以ナリト」

    牟田口は、その「手記」の終わりで事件全瞳をふりかえって「所感」をまとめているが、そζ

    でも改めて「草溝橋事件

    ハ支那側ノ計霊的行篤ナリシヤ」と自ら設問して、次のように書いている。

    「而シテ此ノ事タル果シテ支那側ノ計霊的行矯ナリシヤト今日ヨリ推察スルモ小官ハ然ラスト剣断スルモノナリ

    ~109ー

    シ事件ノ経過カ之ヲ詮スルカ如ク嘗初ハ董溝橋ノ局所-一限定セラレ全般的ニ支那側カ動キシ形跡ナク其他支那側要人

    等ノ狼狽振等ヨリ考察シ如上ノ如ク剣断スルモノナリ」

    以上、牟田口第一聯陵長の嘗夜の「心境」について見てきたが、これから七月八日夜の第一聯陵本部は、事件を中園側

    の「計重」的事件とはとらえていなかったと判断してよいだろう。牟田口は、だからこそ一木に劃して「戦闘開始」命令

    を下したというわけである。

    四年後においても嘗時と襲わらず、事

    件が「支那側ノ計霊的行震」によるものか否かという聞に劃しては依然「然ラスト剣断スルモノナリ」との考えを維持し

    三七年七月八日、中園軍に劃する「戦闘開始」命令を出した人物の賦況認識は、

    ていたのである。

    765

  • 766

    「日本軍計重」読

    (

    )

    では、中園側の「日本軍計董」読は、どのように形成されていったのだろうか。『北卒陸軍機開業務日誌』によれば、

    松井太久郎北卒陸軍(特務)機関長が葉察政務委員舎外交委員舎の林耕字に電話したのは、七月八日午前

    O時三

    O分のこ

    とである。秦徳純北卒市長・第二九軍副軍長は外交委員舎(林と貌宗翰)からの報告で初めて事件の護生と日本側の要求

    内容を知った。そこでまず泰徳純がとった措置は、士ロ星文第一二九園長に中園軍の演習の有無、王冷驚宛卒豚長に射して

    (

    は日本軍の演習の有無と「行方不明」日本軍兵士の所在についての調査を行わせることであった。

    日本側から突然要求を突きつけられた中園側としては、事質闘係についてはすぐには確認できず、

    そうかといって日本

    側の主張に劃しても疑いを拭えないというところではなかったのではないだろうか。中園側現地嘗局者の護言としてもっ

    〈同〉

    とも早期のものは、秦徳純が、八日午前九時、『北京政間報(俳文)』記者のインタビューに答えたものと思われる。この

    まだ事貫聞係を十分に把握しているとはいいがたいが、ここで秦徳純は日本軍の演習↓護砲↓丘二名行方不明↓

    記事は、

    -110ー

    宛卒勝城への入城捜索要求というその後の中園人の直溝橋事件認識の大枠を示しているが、

    それが日本軍の「計董」的事

    件だとまでは言っていない。

    ただ宋哲元名で蒋介石宛てに迭られた同日(湾辰)の第一報には

    すでに日本側の主張に樹

    する疑念がかいま見える。電報は、次のように述べている。

    .〆-.._,首1

    JE言、J

    「日本軍盤蓋駐屯部隊は、砲四門、機関銃八挺、歩兵五百人徐りで、

    我が方に護砲してきた。我が直溝橋城(即ち宛卒勝城)の占領を企画して一該城にむけて包園攻撃を加え、・

    昨夜一二時から夜間演習にことかりで〈薙口夜

    「藷口開有銃撃」、

    や文書の中でしばしば使われている。ただし、

    「籍日夜間演習」とか、

    「向我方撃稽、:::」という表現は、この嘗時の中園側の事件闘係の電報

    「計董」的行動という認識が明確に出てくる最初のものは、嘗時北卒に駐

  • 在していた巌寛軍政部参事が何鷹欽軍政部長を通じて蒋介石に、逢った七月八日(庚辰)の電報の中の次のような一節であ

    る。すなわち、「秦徳純がいう一日本軍は示威する日が多く、今回の畳溝橋で衝突が起こったのは、日本軍の計霊的行動

    (

    )

    による(日軍有計霊行動)」とある。

    重要ts:. 指摘である

    ますこ

    食飛鵬交通こ

    さ針t 、ー

    長でト

    2室田カミ

    元何日を

    何 援薩に欽 「iに日潟軍--c有て計迭事っ干7

    さ警

    報主tこ品:五

    七ぞTこの台、

    は不明であるも1

    これは

    「日本軍は、長い問、長辛庖、

    車溝橋に我が園が軍隊を駐屯できないようにと狙っていたが、

    一昨日夜、日本軍の演習が我が軍によって阻止され、衝突

    )

    にいたったが、これはあきらかに議め計重していたことだ(穎有預謀〉」とあって、

    「預謀」という言い方が見える。この

    「計董」、

    「預謀」という言葉は、

    そして先にも指

    その後中園人の麗溝橋事件認識のキ

    i・ワードの一つとなっていく。

    摘しておいたように一

    O日の外受部の抗議文では「預定の挑設計董(預定挑繁之計董どという評債が公式的に下される。

    (「麓溝橋事件」『新中華報』一九三七年七月一一二日〉、

    以後、

    さらには、

    「計董的行動(有計壷的行動〉」

    「第二の九・一入〈第二

    個九一八)」

    (「麓溝橋的抗戦」

    『解放週刊』第一巻第一一期、

    一九三七年七月一五日〉、

    「長きにわたり練ってきた〈計重により)

    我々を陥れる(慮心積慮的謀我〉」

    (蒋介石「盛山談話」一九三七年七月一七日〉、

    的侵略行動)」〈杜若「園人封麓溝橋事件慮有之認識」

    『申報週刊』第二巻第八期、

    「計霊的で順序だった侵略行動(有計董有順序

    一九三七年七年一八日)あるいは「「三尺の氷」は

    一日の寒さで張るものではない(「沫凍三尺」非一日之寒〉」

    (公敢「麓溝橋事件的検討」

    『申報週刊』第二巻第八期、

    一九三七年七

    月一八日)とい司たように、

    車溝橋事件に関連して日本の行動を批剣するさまざまな言葉が使われることになるが、

    これ

    中園人の聞にまたたくまに贋まり、

    「謀略」性を指摘するものである。こうして直溝橋事件H

    「日本軍計董」読は

    定着していった。以来中園では、直溝橋事件は日本軍の「計輩」的事件、あるいは

    「謀略」であることはもはや確定された争う品跡地のない事貫として扱われるようになるのである。この貼においては、直

    溝橋事件勃設から六

    O年目を迎えようとする現在も基本的に慶わりはない。しかし、日本軍「計重」読は本嘗に事貫に合

    らはいずれも日本軍の行動の「計重」性、

    767

    致するものだろうか?

  • 768

    曲家源氏の「日本軍計章」説

    「日本軍計童」設は、

    虚溝橋事件護生以来中園人の一貫した見方である。

    日本軍の「預謀」を主張する曲家源(山西師

    範大皐)氏もその有力な一人である。

    以前から私を含む日本の直溝橋事件研究に劃して一貫して巌しい批剣を加え

    日本の直溝橋事件研究に封する中園人の批判の代表的なものと受けとめてよいので

    (沼〉

    あろう。氏は、具瞳的に多くの日本人研究者の名前をあげて批剣を加えている。もちろんこれは、事問上の論争として嘗

    然のことであり、歓迎すべきことである。私の方でも曲氏の盛溝橋事件観と日本の宜溝橋事件研究に劃する批剣について

    )

    は、これまでさまざまな機舎を通じて比較的詳細に紹介してきたし、必要に鷹じて反論も行ってきた。

    氏は、

    ている研究者である。曲氏の批判は、

    さて、

    戦後五

    O年(中園では

    「世界ファシズム戟争と抗日戦争勝利五O周年」)の一九九五年、

    曲氏は二つの論文(次に掲げ

    るE、F)を護表して、私も含む日本の車溝橋事件研究における「偶護」設に劃して批剣を加えられた。

    は、曲氏の虚溝橋事件研究、とくにその「日本軍計萱」読を取り上げ、改めて私見を述べておこうと思う。曲氏の車溝橋

    そこで、

    ここで

    ~112~

    事件に闘する論著は、私の知る限り以下の六編である。

    A

    「論直溝橋事接的起因」

    B

    「劉ク一士兵失臨んγ

    的考謹||直溝橋事襲起因研究之ご

    (『山西師大皐報』一九八七年第二期、

    『複印報刊資料中園現代史』一九八七年第七期)

    (『近代史研究』一九九一年第三期)

    C

    『慮溝橋事幾起因考論||兼興日本有開躍史撃者一一商権』

    (中園華僑出版社、

    一九九二年)

    D

    「評江口圭一教授《慮溝橋事件》

    E

    「中日史事家闘於抗日戦争史研究的隔関興交流」

    F「直溝橋事獲輿全民族抗戦」

    (『抗日戦争研究』一九九二年第三期)

    (《中園文化輿世界》園際闘争術討論曾論文、

    一九九五年〉

    (北京市社舎科恵一'界聯合曾主編《偉大的勝利1

    1紀念中園人民抗日戦争勝利五O周年》同心出版社、

    一九九五年〉

  • 曲氏は、最新の論文「車溝橋事費輿全民族抗戦」において、

    (岩波ブックレット、

    一九八八年)の著者江口

    『直溝橋事件』

    圭一氏と私が塵溝橋事件を「偶褒」的事件と認識していることについて、「この間題||日本軍が直溝橋事件を起こした

    二人〔江口と安井〕はどちらも誤っている!」

    ことの計重性を否認するという黙で、

    〈Fl一一一一九頁〉、

    と批判している。

    では、曲氏の虚溝橋事件H

    「日本軍計霊」読とはどのようなものであろうか。以下まずは氏の主張のポイントを整理して

    おこう。

    (

    1

    )

    日本軍側には、事件を「計重」していたことを示唆する事前のいくつかの動きが見られる。たとえば、石原莞爾

    らによる岡本清一隅(陸軍省軍務局課員〉、井本熊男(参謀本部第三課員)らの華北涯遣、豊蓋駐屯陵による事件直前の演習、宛

    卒懸城〈の「褒砲」、

    七月六日の今井武夫(北卒大使館附陸軍武官)に劃する石友三(葉北保安総司令〉の「珠告」、

    などであ

    (

    2

    )

    七月七日は「謀略」貴行に最適の日であアた。清水中隊長は「特殊な使命」

    (Fl一三九頁)を帯びていた。ここ

    -113ー

    で重要なことは、第八中陵ということではなく、七月七日という日である。「華北日本軍(支那駐屯軍)」の。急進波。に

    とって、演習の最終日である七月七日こそ「謀略」を貫行し、しかもそれを露見させないですますことのできる絶好の日

    であった。

    「第一護」などなかったか、あったとしてもそれは日本軍がやらせたものである。

    に饗化してい司た。

    3)

    日本軍の「計重」は次のよう

    (Cl一一五J一一六頁)

    1

    本来、ことは衣のように運ぶはずだった。

    瑳砲↓兵士の行方不明↓宛卒鯨城入城捜索交渉の提起↓入城捜査、日本兵あるいは日本兵の死瞳の護見↓第二九軍

    を。腐懲ヘ麗溝橋占領↓第二九軍を卒津及び河北から腫逐↓華北のク懸案。を解決

    ところが、まず志村がわずか二

    O分で除に戻ってきてしまったために「計萱」は次のように獲更を徐儀なくされ

    769

    2

  • 770

    .>‘ J、ー。護

    砲↓。不法射撃。に劃する抗議の交渉に改め、直接兵を率いて入城↓虚溝橋の強行占領↓第二九軍を卒津、河北

    から駆逐

    3

    さらに中園側が日本軍の宛卒綜城への入城を担否したので次のように繁更した。

    (4〉牟田口は七月八日午前九時二五分、

    設砲↓ク不法射撃。に劃する抗議↓直溝橋の中園駐屯隊の退去を要求↓第二九軍に迫って卒津から撤退させる。

    (担)

    「壷溝橋占領ハ軍ノ意園ナ

    ルヲ以テ速-一敢行スベシ」という命令を出して

    るが、これは日本軍の「計董」性を示すなによりの誼擦であり、卒津占領はその「計董」の目標達成を意味した。

    (5〉この謀略には、参謀本部の石原莞爾、岡本清一晴、陸軍省の井本熊男、支那駐屯軍の牟田口聯隊長、

    清水中隊長、茂川秀和天津特務機関長、松井太久郎北卒特務機関長らが闘興している。志村二等兵も蛍然その一員であっ

    一木大隊長、

    ハ6〉直溝橋事件関係者は謹言を回避して

    いる。直溝橋事件は、日本軍の「計董」的事件という貼では、柳篠湖事件と

    -114-

    た。全一く同一であって、

    「第二の柳傑湖事件」とい

    ってよい。柳燦湖事件の関係者が、自己の「謀略」の貫態を明らかにして

    いるのに、同じく「謀略」の賀行という貼では共通している慮溝橋事件の関係者が口を閉ざしているのは、柳篠湖事件の

    場合は天皇からも賞賛されてその行震が正嘗化されているのに謝して、直溝橋事件については日中戦争の泥沼に日本を引

    きずり込んだという黙で否定的に評債されていて、関係者が員相を明らかにしようとしないためである。

    --'-J、直溝橋「奇襲計霊」と「謀略」

    「計重」設であることから事件前の日本側の動向と事件の護生段階での朕況に射する濁自

    の分析と解鰹の仕方にその特徴を認めることができる。たしかに七月七日というのは、

    曲氏の「日本軍計重」説は、

    「謀略」をカ今ラージュするの

  • に都合のよい目だったかもしれないが、七月七日に「謀略」を寅行するという準備がなされていたことを示す資料は今日

    (

    )

    まで接見されていない。ただし、支那駐屯軍は、大規模な「北支那占領地統治計董」を策定していただけでなく、北卒の

    第二九軍首脳邸と宜溝橋の第三替に謝する「奇襲計董」を立てていて、豊蓋駐屯除は、それを想定した演習をくりかえし

    賞施していた。このことを明らかにする謹言を二つ紹介しておこう。どちらも長文になるが、豊蓋駐屯陵の虚溝橋近漫で

    の演習は、もっぱら封ソ戟を想定したものであって、第二九箪を想定したものではなか司たという日本には根強くある見

    解を批剣するためにも重要なので

    そのまま引用しておきたい。

    第一は、直溝橋事件研究者なら誰もが知っている寺卒忠輔『童溝橋事件||日本の悲劇』

    紹介されている久保田向卒砲兵隊長の謹言である。

    チカを攻撃した時の森田徹中佐との舎話である。

    (讃賀新聞社、

    一九七O年〉に

    七月八日朝午前五時三

    O分、

    日本軍が回龍(龍王〉廟の中園軍のトl

    「「第一震から全揮命中、実にものすごい嘗りじゃないか!

    お手柄」

    -115ー

    という森田中佐の賞讃に封し、久保田砲隊長は汗を拭い拭い

    「アッハハハ。あれですか。あんなの手柄でもなんもありやしませんよ。強いていったらいささかインチキの方な

    んですがね。

    質は歩兵砲陵は検閲のヤマをかけて、-毎日一文字山附近に陣地を占領し、

    西といったら龍王廟のあのトーチカ、南

    とい司たら宛卒城の望棲や東北角、そういった目標に射して完全に標定がしであったんです。そこへおあつらえ向き

    みたいに今日の事件の勃震でしょう。だから、検閲のヤマを地で行ったというに過ぎないんです。あれがもし命中し

    (同書、

    なかってご覧なさい。それこそ検閲の講評でコッピドくこきおろされるところだったんですよ。」」

    一二八頁〉

    これは現場で演習を指揮していた人物の誼言である。このような直溝橋の中国軍第三替を想定した訓練は、歩兵砲隊が

    771

    このようであったとすれば他の部隊も同様であったものと推定してよいだろう。

  • 772

    第二は、先の「牟田口子記」の中の

    「盟蓋事件後我ノ高

    一ェ

    封スル準備」という部分である。これは、「第

    一聯隊戦闘

    詳報」を下敷きにして、それに一

    部ではあるが重要な加除を施したものであるので、決に比較のため雨者の一該一嘗部分を引

    用しておこう(以下、傍線

    n安井〉。

    「第一聯陵戦闘詳報」

    「士叉那側全般の情勢は日を経るに従ひ侮日抗日意識激烈となり何時異獲の勃震を見るや測るべからざるべきものあ

    り而かも我軍の支那軍に劃するや前述せる如く常に友軍をを以て遇し其非行あるも之を識し其誤解を解き以て和親に

    努めたり然りと雄高

    一の療に虚して遺憾なからしむる震には我行動は常に神速にして疾風迅雷的ならざるべからず而

    かも敢に於て極めて劣勢なる我は夜間戦闘に依らざるべからざる場合多き所以を訓示し卒素の視察に検聞に之を強調

    し特に新操典草案瑳布以来聯陵将兵薄暮察明及夜間訓練に精進せり従て駐屯地附近の地形は一兵に至る迄之を暗識し

    又夜間行動に熟達するに至れり而して一方支那軍主脳者邸及兵営城門等の奇襲計霊を策定し各幹部をして

    一々寅地に

    -116ー

    就き数回に亙り踏査せしめ叉数回貫施せし演習の結果に徴して出動時の編成(中略)を定むる等目的達成の掲の演練

    (mm)

    事項に就ては遺憾なきを期したり。」

    「牟田口手記」

    「支那側全般ノ情勢ハ日ヲ経ルニ従ヒ侮日抗日意識蟻烈ヲ加へッ、アルノ情報ハ頻々タリ

    ノ言ハ皆之ヲ俸フ而モ我寧ノ支那軍-一割スルヤ前述セルカ如ク常ニ友軍ヲ以テ遇シ非行アルモ之ヲ議シ其ノ誤解ヲ解

    特ニ南方ヨリノ放行者

    キ以テ和親-一努メタリ

    然リト難モ高一ノ襲ニ慮シテ遺憾ナカラシムルハ第

    一線部隊ノ重大ナル責務ナリ

    之カ篤我

    ハ其ノ行動最モ神速ニシテ疾風迅雷的ナラサルヘカラス

    而モ敷ニ於テ著シク劣勢ナル我ハ主トシテ夜戦-一依ラサル

    ヘカラサルヲ以テ聯隊全将兵薄暮繋明及夜間訓練ニ精駒セリ従ツテ駐屯地附近ノ地形ハ一兵ニ至ル迄之ヲ暗識シ叉夜

    而シテ北京ニ駐屯スル第一大隊ニ封シテハ支那軍首脳者私邸、兵皆、城門等ノ奇襲計童ヲ

    開行動ニ熟達スルニ至ル

  • 豊蓋部陵-一封シテハ南苑及宛卒蘇城(産溝橋城〉奇襲計重ヲ策定シ各幹部ヲシテ一々寅地ニ就キ数回ニ亙リ踏査セシ

    メ又観劇割引例川引訓鮒引劃捌刈割ベ捌劃判例引剖パ岡刻樹割引制川討引劃旭川川又其ノ結果一一徴シテ出動時ノ編成装

    備ヲ定ムル等準備ヲ周到ナラ

    シメタリ

    (中略)事襲勃震後ノ戦闘経過ニ徴シ此等ノ訓練カ偉大ナル数果ヲ賢ラセルコトヲ痛感セリ」

    ここで注目すべきことの第一は、「薄暮繋明及夜開訓練」についての説明である。この演習は、七月七日夜、第八中陵

    が直溝橋附近で賓施した演習課目「薄暮ヨリ敵主陣地ニ劃スル接敵及饗明攻撃」と同一のものであるが、

    (

    少兵力による封ソ戦法訓練の慣熟」などといわれてきたが、

    従来この日の

    「訓練の要領は

    買はそうではなくまさに直溝橋の中園軍

    (「敵」〉に劃する攻撃訓練そのものであったことが、

    「特に新操典草案護布以来」という一句が「手記」では削除されて

    いることによりかえってい

    っそう明白にな?たということである。

    第二に、

    「手記」では

    「支那軍首脳者私邸、兵昔、城門等ノ奇襲計重」を「北京ニ駐屯スル第一大隊」の任務として

    あらたに「豊蓋部隊ニ劃シテハ南苑及宛卒勝城〈麓溝橋城)奇襲計重」を策定し、

    という一句が書き

    -117ー

    特定するとともに、

    込まれたことにより、豊蓋駐屯隊の演習目標が「宛卒勝城」すなわち第三債に劃するものであったことが明確化された。

    なお、この部分の表題が「寓一ニ針スル準備」となっていることから、第一聯隊は「遺漏のないことを期し」ていたにす

    ぎないのであって、

    積極的に中園軍に劃する「奇襲攻撃」の準備を進めていたわけではなかったという見方もあるが、

    (お〉

    「奇襲計重」とは文字通り「奇襲」を「計霊」していたとみるのが自然であろう。

    「手記」には「一該模型-一依リテ訓練ヲ寅施シ或ハ砂盤ニ依リ或ハ園上演習ニ依リ」とあり、

    定とその賞施について綿密な検討がされていたことが明確になった。

    第三に、

    「奇襲計董」の策

    第四に、

    「手記」は

    「事獲勃震後ノ戦闘超過-一徴シ此等ノ訓練カ偉大ナル数果ヲ賀ラセルコトヲ痛感セリ」として、

    七月八日以降の中園軍との戦闘においていかに賓践的数果的であったかが謹明されたとしている。

    773

    事件前の演習が、

  • 774

    ここで、

    七月八日午前三時に支那駐屯軍の

    「軍主任参謀起案」

    (mU)

    になるという「宣俸計董〈仮定〉」の「第

    要領」の

    「一、事態誘導の基礎工作」が「(一)要人の監禁」

    「つ一)童溝橋占領」となっていたことに在日したい。これは、明ら

    かに牟田口のいうこつの「奇襲計霊」と符合する。おそらく第一聯隊あるいは支那駐屯軍参謀部では、

    「宣俸計霊」は、こうした「奇襲計董」の一環としてあらかじめ原案が

    「奇襲計董」のた

    めの「計董窪田」が作成されていたにちがいない。

    作成されていて、

    それが七月七日の「事件」護生に開腹するものとして一定の修正を加えて「起案」されたものと考えて

    よいだろう。このように見てくると、支那駐屯軍司令部の「北支那占領地統治計重」と牟田口のいう第二九軍に劃する

    一本の糸で繋がれていたものといえそうだ。

    「奇襲計重」そしてこの「宣俸計重」の三者は、

    このように久保田と牟田口の謹言は、第一聯隊においては北卒と南苑・庫溝橋の第二九軍に劃する「奇襲計董」の準備

    が整っていたことの有力な誼明となる。とはいえこれらを以て七月七日の「謀略」貫行の謹言とすることはできない。七

    日夜から八日朝にかけての豊蓋駐屯陵の行動には、牟田口のいうところのこつの「奇襲計董」や日常の訓練などが役に立

    ったことはたしかであろうが、その「計重」に則って中園軍に針する攻撃が起こされ、展開されたものとみなすことはで

    -118ー

    了:、。

    、dCナ九、LV

    ところで曲氏は

    演習の銃弾がたえず宛卒蘇城の城壁にあたってい

    た」

    日本軍の「夜間の寅弾演習は一段と激しくなり、

    (Fl二七頁〉として、これを日本軍の「謀略」準備がすでにすべて整っていたことを示す謹擦の一つとしてあげて

    (

    )

    いる。今井武夫『支那事費の回想』の記述によったものだが、

    」れは今井自身のことばではなく、

    漏治安のことばであ

    り、この「日本軍の壷溝橋城壁に劃する、貫弾護射事件の有無」について「そんな事賓は絶射にない」という調査結果に

    (mU)

    今井は「満足して、何の疑問も持たなかった」と結論づけている。ここでの曲氏の資料の援用の仕方には無理がある。

    石友三糞北保安総司令が駆け込んできて、

    (mM〉

    「日華爾軍は今日午後三時頃車溝橋で衝突し、目下交戦中だ。武官はこの情況を知っているか」ということばを引いて、

    また、

    曲氏は、

    七月六日、

    陳子庚宅での宴舎の席に、

    今井に劃していった

  • 石は「すでに日本軍が車溝橋で中園軍を攻撃しようとしている」ことを知っていてこのようにいったものと推測する

    (F

    ー一七頁)。石が、日を一日間違えたのはあわてていたからで、

    石はこの情報を「華北日本軍(支那駐屯軍どからえたもの

    であるとして、これも「日本軍計董」設の根擦の一つとしている。しかし、この石の「議告」については、曲氏の解穣と

    正反針のものがある。今井自身はこれを「醤西北系」の「翌七日の陰謀計重」の事前の「好一意的致備通報と考えられない

    (

    )

    (

    )

    こともなかろう」としてとらえ、また坂本夏男氏は、この「今井の推論」を「極めて重-楓しなければならぬ」とし、これ

    (お〉

    を「中園共産黛陰謀」設へと結合させている。この石友三の「議告」は奇妙なものだが、

    「日本軍計董」設にせよ「中園

    軍計重」説、さらには「中園共産禁謀略」設にせよ

    いずれの根擦とするにたるものとは考えられない。

    ようにたった二

    O分で委を現すような「大失敗」を起こさないように、なぜもっとよく準備して、

    さて、もし七月七日に直溝橋事件が勃接していなければ、豊蓋駐屯陵は、近くまた演習を行っていたであろう。志村の

    また「計董」貫現にと

    -119ー

    ってもっとも良い篠件を整え、十分な訓練を行ってから寅行に着手しなかったのだろうか、疑問とせざるをえない。柳傑

    湖事件の場合は、爆破の寅行部隊、北大営襲撃の手筈、要塞砲の配備などの用意を整えた上で、また貫行部陵と関東軍全

    睦を動かす態勢を整えて、最終的な「謀議」を行ってから決行したのである。また、氏は、第八中陵でなくてもよかった

    というが、嘗日夜は、第七中隊も慮溝橋附近で演習をしていたのであり、とすればなぜ第八中隊が「謀略」の寅行部隊に

    選定されたのだろうか?

    曲氏の論理では説明、がつかない。

    「第一護」と「兵一名行方不明」

    (白羽〉

    兵士たちの「頭上相嘗高く飛んだ」夜間の「第一護」は、一耳目と光でしか確認できない。したがって、それはそれを聞い

    775

    たり、見たりした関係者の謹言に頼らざるをえない。たしかに曲氏の指摘によるまでもなく、第八中隊将兵たちの謹言や

    「戦闘詳報」の記述には、時刻、方角、数などの黙で相互に矛盾する黙が多い。

    しかし、

    彼ら(たとえば清水中隊長、野地

  • 776

    伊七小隊長、長津達治分隊長など〉が、

    口裏を合わせて全部でたらめをいっていたということを謹明することは困難である。

    曲氏は、戦後に書かれた「清水節郎氏の手記」

    (秦『日中駿争史』所枚〉を「事出現の護端に闘する唯一のもっとも初期の責

    料(最原始的資料〉」

    「いわゆる。第一護クの唯一の誼人」

    ハFl二九頁〉と見なしているが、これは正しくない。清水

    には、事件から牢月徐の時黙で護表した「陣中手記」

    (『園民新聞』・『新愛知』一九三七年七月二四日〉がある。

    また志村の直

    援の上司であった野地伊七第一小隊長にも「事繁護端の思出」

    一護」についても比較的詳細な謹言を行っている。さらに戦中はともかく、戦後においては虚溝橋事件のような問題で箱

    ハ『借行社記事』一九三八年七月)があり

    そこで野地は「第

    ロ令を布くことなど全く必要がなかった。柳篠湖事件については花谷のような明確な誼言が出ているのであるから、もし

    慮溝橋事件も日本軍の「謀略」であったとすれば、関係者の一人二人からそのことを匂わすような謹言があってもよいは

    ずである。それがないということは、やはり「第一護」については、事責とするのが安嘗であろう。ただし、震砲者につ

    (

    )

    日本では「第二九軍兵士」読が有力だが、私はまだ誰とは断定できないので留保しておきたい。

    「兵一名行方不明」問題は、曲氏の慮溝橋事件H

    「日本軍計重」設の一核心部分である。この黙をどう考えるかが

    他の論駐のとらえ方に大きく影響する。氏によれば、先にみたようにまず志村が「行方不明」になる、次に彼は中園兵に

    さて、

    -120ー

    いては、

    っかまって宛卒勝城に連れ込まれるか、それともどこかで射殺されるはずだった。そして、

    日本軍は志村「行方不明」を

    口買に直溝橋城を捜索し、志村(あるいはその死鐙〉

    こともあろうに志村はわずか二

    O分で第八中隊に戻ってきてしまい、

    「護見」を理由に宛卒豚城を奪取するという議定だ?た。ところが、

    「謀略」はスタートでつま

    eついてしまった。このた

    「護砲」の次の一歩を襲更せざるをえなくな司た。

    「謀略」であったため、第八中陵の将兵は、この問題への言及を

    とまで費悟のうえで「行方不明」を演出させた人物は、

    では志村に中園兵によって殺害されるこ

    清水中隊長だろうか。それとも志村の直接の上

    司である野地小隊長であろうか。この二人は嘗然「謀略」に関係していたはずである。第八中隊は約一五

    O名であるが、

    一瞳誰なのか?

    回避しているのである、と曲氏は推測する。もし、曲氏の推論が正しいとして、

  • この「謀略」に閥興していたのは、清水、野地、志村の三人だけだろうか?上は参謀本部第一部長の石原莞爾から下は

    二等兵の志村菊衣郎まで、「謀略」の構想の立案と七月七日寅行の打ち合わせはどこでどのように行われたというのだろ

    うか?

    士山村は、なぜこ

    O分で畏

    って来てしまったのだろうか?そもそも志村のように入陵(一九三七年三月)して聞も

    ない二等兵一人にこのような大「謀略」の「護端」となる重要な役割を割り振るなど考えられることだろうか?

    なお、志村捜索の模様については、野地小陵長の「事費護端の思出」にも詳細に書かれている。たしかに志村の行動を

    十分に説明できるだけの資料が不足している現献では、曲氏の見解を完全に否定しさることもできないが、しかし現存の

    資料の語るところによるかぎり、氏のように、志村が「謀略」の一環に組み込まれて意園的に「行方不明」になったと解

    得するよりも、志村は何らかの理由(大使設、道に迷

    った設などある)により二

    0分間、陵列を離れていたと解揮するほうが

    事責に合致していると剣断される。すくなくも曲氏のいうように清水l志村の合意の上で「行方不明」になっていたと断

    定する根擦となる責料はまだ護見されていないのである。氏の主張は、

    いまだ推論の域を出るものではない。志村「行方

    -121ー

    不明」を「計重」的とする根擦はこのように不確かであり、とすれば曲氏の「日本軍計重」設に闘するその他の主張もそ

    の根援が全て危うくなるのである。

    「第一護」から軍事衝突へ

    「第一震」と「丘二名行方不明」という事件がなぜ八日午前五時三

    O分の日本軍による「戦闘開始」という事件へと披

    大されたのか。清水中隊長が涯遣した俸令の岩谷兵治曹長と内田市太郎一等兵が、豊蓋の第三大陵本部に到着したのは七

    七分頃という。先の「牟田口手記」は、中園軍との衝突に備えて、

    日午後一一時五六、

    「演習地ト駐屯地トノ開ニハ必ス

    777

    連絡ノ方法ヲ講シ置カ

    シムル」と書いているが、そうだとすれば、このときなぜこの準備が作動しなか

    ったのか不可解で

    ある。そのことは別として、直溝橋事件が「事件」になっていく上での一核心部分は、むしろこの俸令の豊蓋到着から、八

  • 778

    も清水中隊長でもなく、

    日午前五時三O分日本軍が戦闘開始に突入するまでの聞の過程にあると考えられる。事件の主役は、もはや志村二等兵で

    一木は、直溝橋の現場の

    一木大隊長と牟田口聯隊長、とりわけ一木大隊長である。なぜならば、

    吠況を把握し、

    それに麿ずる方策を考え、

    北卒にいる牟田口に報告し

    意見を具申することを任務としていたからであ

    る。河遁正三放園長不在時にあって牟田口は

    一木の報告と意見に劃して放固としての剣断を下し、

    一木らに寅行の命令

    を下すという立場にあった。

    一木は

    この段階におけるキlパ

    lソンである。なお、曲氏との意一見の相違は、主にこれ以

    前の過程に閲するもので、この段階についての認識は基本的に一致するものと考えられる。ただし、直溝橋事件全瞳にお

    ける位置づけという黙では、曲氏においては、事件は護生以前から「謀略」として準備されていたものとされているので

    この段階はそれほど重硯されないのに針して、私はこの段階こそ「事件」が貫際の軍事衝突事件へと横大されていく上で

    の分岐貼と考えるのでこの遁程をより重視する立場に立っているといえよう。

    日本側が、中園側に劃する交渉要求の根援を「兵

    (お)

    一名行方不明(不足どから「不法射撃(設砲〉」へと大きく出演更させたととらえる黙では私と共通しているが、

    曲氏も、志村がわずか二

    O分後には第八中隊に戻ったことによって、

    -122ー

    「計董」

    読に立って日本軍は七日の演習開始前から

    「直溝橋城占領」を目的としていたという議断を抱いている曲氏は、この根援

    の獲化の意味、中園軍に針する「戦闘開始」命令の出される遁程、とくに八日午前三時二五分の「何を射ったか分からな

    (

    )

    (

    )

    いが」、「龍王廟方向にて三護の銃撃を聞」いたといういわゆる再度の「護砲」事件から四時二

    O分、牟田口が一木に中

    園軍に射する「戦闘開始」命令を下す過程についてほとんど関心を示さない。

    しかし、問題は微妙であり、この経過を明

    らかにして-初めて、なぜ日本軍は直溝橋の中園軍への攻撃を開始したのかが明瞭になるのである。ただし、この経過につ

    (

    )

    いては、すでに拙著において詳述しているのでこれ以上の説明は省略する。

    いずれにせよ七月七日夜一

    O時四

    O分の「第一護」・「丘二名行方不明」の「事件」護生から翌八日午前五時三

    O分の日

    本軍による戦闘開始までの約七時間の過程における志村、清水、

    一木、牟田口、松井らの封雁を検討するかぎり、

    かれら

  • が致め「虚溝橋占領」、

    さらには「卒津占領」のプランを策定し、

    その.フランに従って「計董」的に事件を起こし、行動

    一木が「直溝橋占領」を決意するのは八日午前三時二五分の「護砲」を契機にするもの

    を展開していったとは思えない。

    であり、牟田口が「直溝橋占領」のため「戦闘開始」の攻撃命令を下すのは一木の「大袈裟」な報告を受けて後の四時二

    (

    )

    O分のことであると考えるのが事賞に聞した解調停であると思うc

    以上のように、

    (狭義の)直溝橋事件が「偶護」的事件を「護端」とするものであったととらえるならば、曲氏のいう

    (

    5

    )

    の主張も成立しないことになる。牟田口の八日午前九時二五分の「直溝橋占領」命令は、事件の「計重」性を謹明

    するものではなく、

    一連の経過の結果として解揮すべきである。また、

    曲氏のいう(

    6

    )

    の黙も同じく成立しがたい。参

    謀本部第一部長としての石原莞爾の直溝橋事件における役割は、関東軍高紐参謀として柳燦湖事件の「謀略」を立案、寅

    行を指導した嘗時とは異なり、調ソ戦重視の立場から中園との泥沼の戟争に陥ることを回避しようと志向しながら、

    -123ー

    三六年五月の支那駐屯軍増強と第三大陸・歩兵砲隊の豊蓋配置を容認し、直溝橋事件勃震後においては事件「不抜大」の

    立場に立ちながら、結局「績大」涯の一撃論を容認して大軍の中園への涯遣に同一意したという黙にある。その意味での責

    任を彼は回避できないが、虚溝橋事件の「計重」を立案、寅行を指揮した人物とみなすことはできない。曲氏によれば、

    上は参謀本部の石原から、下は第八中隊の志村二等兵に至るまでの各レベルの相嘗数の人々がこの事件の「計重」に参董

    して

    いたことになる。これだけの人聞や機闘が「計霊」に開興しているというのに、その「謀議」を示す文書なり、謹言

    が一つもないのはなぜなのか、この黙を曲氏はどのようにお考えなのだろうか。また、参謀本部、支那駐屯軍内の「少佐

    涯軍人」

    (CI--一一一一頁)あるいは「念進涯」

    (Fl一四O頁)がこれほど多数開興しているというのに

    「第一護」以降の日

    本軍の行動は小規模かつ緩慢である。この貼は柳燦湖事件の場合と全くことなる。参謀本部や支那駐屯軍の中植部も巻き

    込んでの

    「謀略」

    を寅行するとなれば、

    もっと大規模で周到な準備がなされていたはずである。

    麗溝橋事件の経過から

    779

    は、そのような痕跡を見いだすことはできない。唯て支那駐屯軍参謀の起案になる「宣俸計重(俵定どがそれに近いと

  • 780

    いえばいえないこともないが、これも支那駐屯軍で正式に採用されたものではなく、

    (必〉

    であることは、本史料の護見者である永井和氏も含め、多くの研究者の認めるところである。

    「一部参謀の私案」に終わったもの

    柳傑湖事件の関係者が「謀略」について口を聞くのは、戦後、

    しかも事件が日本の「謀略」であることが明確になって

    から後のことである。花谷正「満州事幾はこうして計重された」が設表されたのは、

    一九五六年のことであった。

    一方、

    虚溝橋事件の関係者は、事件から一年後の一九三八年六、七月には『朝日新聞』の座談舎や雑誌『大陸』、

    (

    )

    は講演などにもしばしば登場しており、車溝橋事件について相嘗大ぴらに護言している。また、

    に寄稿したり、

    『話』、

    さらに

    一般的とはいえないが、

    彼らは陸軍の将校たちのクラブ

    (必〉

    た。も

    っとも彼らが直溝橋事件のすべてを語っていたというわけではないが。戦後における、柳篠湖事件の関係者と直溝

    「借行社」

    の雑誌『借行社記事』

    同誌の座談舎に出て堂々と護言してい

    橋事件の関係者の日本社舎における立場は、全く同一であって、それによって護言内容が左右される要素は全くない。こ

    私は、直溝橋事件については依然「偶護」説が事寅経過をもっともよく説明できるものと考える。この貼で、曲氏の批

    -124ー

    の貼についての曲氏の見方は的はずれというしかない。

    剣は受け入れることはできない。また、

    軽減するものとも思わない。

    「偶護」読だからといって、

    日本の中園に劃する侵略を克責したり、その罪責を

    ところで、最近護表された蓋湾の歴史家陳在俊氏の論文「中日南圏全面戦争的導火線二虚溝橋、廊坊、贋安門事件之探

    (必〉

    討」は興味深い論文である。ここで氏は、虚溝橋事件の「第一護」とは、七日夜一

    O時四

    O分のそれではなく八日午前五

    時三

    O分の日本軍による戦闘開始を指すものととらえる。

    (五六九頁〉が、志村二等兵の行方不明の理由などは「大して重要ではない(並不重要)」

    そして、

    七日夜の演習中の日本軍は「銃撃を受けていない」

    (五五五頁)とみなす。

    氏は、

    品守

    題を一木大隊長、牟田口聯隊長、松井特務機関長などにあるとして、衣のように述べている。すなわち志村二等兵は、

    「大使あるいは道に迷って一時隊から離れたため、短時間ではあったが中隊長はあわてふためいてとりみだし、その

  • 結果かれは事件後聯隊副官に蒋属させられ、以後二度と兵を率いることはなか司た。しかし、大陸長、聯陵長、特務

    機関長らはちょうど中園側に劃して口費を探していて、チャンスがなくて苦慮していたところ、突然このドタパタが

    起こったので、すぐにこれを口賓に、銃脚草されたなどと稽して宛卒を占領し、宋哲元に匪力をかけて、日本側のいい

    なりにさせるという目的を達しようと決心したのである。」(五六O頁)。

    事件の「偶設」性、「計重」性について明確に語っているわけではないが、私はこれは事貫上の「偶

    護」読といってよいと思う。氏は、以前に、直溝橋事件は茂川秀和天津特務機関長の「謀略」によるものという設を提起

    (

    )

    して大きな波紋を起こした歴史家であるだけに、この論文の考えは大きな襲化といえよう。ちなみに、本論文には、茂川

    についてはその名前さえ登場しない。

    ここで陳氏は、

    支那駐屯軍は、

    「牟田口手記」につい

    -125ー

    直溝橋の中園軍に劃するこつの「奇襲計重」を策定し、

    「北支那占領地統治計童書」を作成して華北の武力占領、統治を計重し、また、

    て見てきたように宜溝橋事件嘗時、同軍は第二九軍との「高ごの事態の震生に際して取るべき北卒の第二九箪首脳邸と

    貫地踏査を何度も行い、貫際の訓練を貫施していた。したがっ

    「奇襲計董」を護動させる準備が整っていたといえ

    て、支那駐屯軍には、

    「高ごと考えるような事態が護生ずれば

    る。しかしながら、

    七月七日夜の「第一護」を合固にその「奇襲計董」を護動させるような事前の「謀議」がなされてい

    確かな根擦に基づくものとは言い難い。

    が、なぜ大戦争へと擦大してい司たのかという問題の立てかたに劃して、中園の研究者は同意しがたいもののようである

    が、七月七日夜の小事件が八日早朝五時三

    O分の日本軍による「戟闘開始」へと至る過程を具韓的にたどるならば、問題

    は、岩谷・内田の二人の停令が豊蓋に到着した後の牟田口聯隊長と一木大陵長の朕況認識と剣断がその鍵となっていたこ

    たとはいえない。すなわち、

    曲家源氏の「日本軍計董」設は、

    「偶護」的事件

    781

  • 782

    とを示しているととらえるのが安嘗である。その意味で蓋湾の歴史家陳在俊氏の最近の研究に注目したい。

    詰(l〉「田中上奏文」(中園では「田中奏摺」〉に関する中園の最

    近の研究動向については、高殿芳

    ・劉建業主編『田中奏摺探

    際集』(北京出版社、一九九三年〉、

    沈予

    「関於《田中奏摺》

    抄取人奈智堪及自述的評債」(『近代史研究」一九九六年第

    三期)参照。

    (

    2

    )

    この黙については、江口圭一『虚溝橋事件』(岩波ブック

    レッ

    ト、一九八八年)、

    坂本夏男『虚溝橋事件勃設について

    の一検設』(図民曾館、一九九三年〉、安井三官「虚溝橋事

    件に闘するいわゆる「中園共産黛計蜜」設||坂本夏男『虚

    溝橋事件勃設についての

    一検設』によせて||」(『季刊中

    図』三七鋭、一九九三年夏季競)、安井三士ロ「慮溝橋事件の

    イメージ||中園の場合、日本の場合||」(『日本史研究』

    第三八

    O鏡、一九九四年四月〉、坂本夏男「江口・幸二著『虚

    溝橋事件』に謝する所見」(『叢林』第一一一七銃、一九九四年

    五月〉、江口圭一「虚溝橋事件小論||坂本夏男氏の所論を

    めぐって」(『日本史研究』第三九七続、一九九五年九月〉、

    松崎昭一「支那駐屯軍増強問題||二・二六事件庭分と虚溝

    橋事件設生への視角」(上〉(下)(『園拳院雑誌』第九六第

    二、三鋭、一九九四年二月、三月)、

    秦郁彦

    「慮溝橋事件の

    再検討l|七月七日夜の現場」

    i、E

    Q政治経済史事』第

    一二三=一、三三四鋭、一九九四年三月、四月刊同「虚溝橋事

    件から日中戦争へ」(一

    )J(五)(『千葉大祭法象論叢』第九

    巻第一読J第一

    O巻第一鋭、一九九四年八月J九五年八月)

    など参照。

    (

    3

    )

    第一にあげるべきは、「在中華民園北卒大使館記録」であ

    る。これにより、慮溝橋事件の卒津地区から日本への第一報

    は、従来七月八日午前四時二

    O分、支那駐屯軍参謀長から陸

    軍次官、参謀次長宛に愛せられた「秘支参庶電第五O競」で

    あるとされてきたが、あらたに紹介されたこの史料による

    と、これより四

    O分早く、同日午前三時四

    O分、日本駐北卒

    大使館より外務省宛に愛信されていたことがわかる。この史

    料は、劉傑『日中戦争下の外交』(古川弘文館、一九九五

    年〉にその一部が紹介されているが、現物をまだ見る機舎を

    えていない。なお、この『記録』(正式の名穏については不

    知)は日本にはなく中園に保管されていると聞いており、中

    園での公闘を期待している。

    第二に、『牟田口廉也政治談話録音速記録第一回分』であ

    る。これは、牟田口元聯隊長が、一九六三年四月一一一二日、園

    曾園書館において山本有三氏(作家、元参議院議員)のイン

    タビュ

    ーに答えたものが、一九九三年五月、三

    O年経過した

    ことによって公開されたものである。本速記録は江口圭一氏

    のご好意により見ることができたが、従来牟田口が述べてき

    -126ー

  • 783

    たことと大筋において餐わりがない。

    第三は、『解放週刊』(解放週刊社〉には、すくなくとも

    二種類の版があるということである。周知の逼り、「中園共

    産篤信用日軍進攻一葦溝橋遁電」(七月八日)は、この『解放週

    刊』第

    一期第一

    O鋭

    (一九三七年七月一

    O日)に掲載されて

    いるが、寅は別の版では、第一期第一一説(一九三七年七月一

    五日〉に渓表されている。前者は、上海国書館など中園の各

    圃書館に所蔵されているもの、後者は京都大皐人文科皐研究

    所所蔵のものである。なぜ『解放週刊』が二種類あるのかは

    依然不明である。中園の研究者の方々のご数示を待ちたい。

    第四は、『抗日戦士政治謀本』の存在が確認されたことで

    ある。この本については、かつて葛西純

    一氏が、『新資料

    道溝橋事件』(成鮮出版社、一九七四年)において、人民解

    放軍総政治部『戟土政治謀本』の慮溝橋事件記述を

    「中園共

    産禁謀略」設の論畿の一つとしてあげて以来、その所在が注

    目されていたが、中共中央文献研究室編『毛湖岸東年譜』中巻

    (人民出版社、文献出版社、一九九三年)の一一一一一一一頁の注に

    この本についての言及が見られる。しかし、その内容につい

    ては不詳。

    虚構橋事件研究を困難にしているのは、基礎的資料が不足

    していることにもよる。関係者の回想録は多いが、相互に矛

    盾していることが少なくなく、これらを利用する場合は史料

    としての吟味が必要である。やはり、基礎となる史料の褒掘

    が待たれるところである。日本側の第一聯隊や第三大隊の戟

    闘詳報に劉癒する第二九軍、特に金振中の第三倍の戦闘詳

    報、また日本側の『北卒陸軍機開業務日誌』一に封感ずる糞察

    政務委員曾、特に外交委員禽の記録などは保存されていない

    のだろうか。中園における調査に期待したい。

    (4〉古量哲夫

    「日中同戦争にいたる封中園政策の展開とその構

    造」(同氏編『日中戦争史研究』吉川弘文館、一九八四年、

    一一一J四頁〉、江口圭一『虚溝橋事件』(岩波ブックレット、

    三七頁)、秦郁彦「慮溝橋事件から日中戦争へ」(一)(『千

    葉大皐法皐論集』第九巻第一説、一九九四年八月、一五

    O

    頁)。

    (5〉岡野篤夫氏との雑誌『自由』における「論争」について

    は、拙稿「慮溝橋事件

    ・日中戦争をめぐる岡野篤夫氏との

    「論争」」(『近きに在りて』第二七銃、一九九五年五月〉参

    照。

    (6〉第三大隊と歩兵砲隊からなる。この黙については、坂本夏

    男氏のご指摘による。

    (

    7

    )

    拙著『虚溝橋事件』(研文出版、一九九三年)参照。

    (

    8

    )

    花谷正「満州事費はこうして計宣された」(『別加知性』

    一九五六年一月)、粟屋憲太郎編『ドキュメγト昭和史』

    2

    (卒九社、一九七五年〉所枚。

    (

    9

    )

    中園園民集中央委員曾黛史委員曾編『革命文献第一

    O六

    輯慮溝橋事第史料(上加〉』(中央文物供癒位、一九八六

    年、二四八頁、以下『虚溝橋事第史料(上)』)。

    (日)外務省編『日本外交年表盟主要文書』下(原書房、

    六年、三六六頁〉。

    (日)『東京朝日新聞』一九三七年七月九日、夕刊。

    -127ー

    一九六

  • 784

    (立〉

    『東京朝日新聞』一九三七年七月一

    O日。

    (日)防衛研究所戦史室編『支那事幾陸軍作戦〈1〉』(朝雲新聞

    社、一九七五年、一五九J一六

    O頁)。

    〈日比)外務省情報部編『支那事繁関係公表集』第一鋭、一九三七

    年一二月、一一良。

    (日)最高統帥部『北支那作戦史要』(防衛研究所圃書館蔵)所

    枚。

    (日)『現代史資料』お(みすず昔一国一房、一九七二年)所枚、原本

    は防衛研究所園書館蔵。なお、この文書については、「産溝

    橋事件のボイスレコーダー」(支那駐屯歩兵第一聯隊戦友禽

    誌『支駐歩一舎々報』第一一一説、一九八七年、四五頁)、「時

    々刻々に記録された」(秦前掲論文「慮溝橋事件から日中戦

    争へ」〈一〉、一五二頁)ものとの評債があるが、この文書

    はタイプ印刷のもので事後に情報の取捨選揮と整理がなされ

    ているものと受けとめておくべきであろう。

    (ロ〉秦徳純「「七七」事獲紀貧」(『極東図際軍事裁判門速記録』

    第三一鋭、一九四六年七月一一一一日〉。なお、同「七七薦溝橋

    事興経過」(『俸記文皐』第一巻第一説、一九六二年六月)

    との問には、記述上に相違が見られる。

    (路〉『華美晩報』一九三七年七月一七日(中園鼠民議中央委員

    曾黛史委員舎編『革命文献第一

    O七輯虚溝橋事獲史料

    (下朋)』中央文物供藤社、一九八六年、一

    O九頁)。

    (mU

    〉『慮溝橋事繁史料(上)』、一一九頁。

    (初)同前書、一二

    ol--一一頁。

    (幻〉同前書、二一五頁。

    (泣)曲氏によって批剣の封象とされているのは、井上清、藤原

    彰、江口圭一、秦郁彦、坂本夏男、岡野篤夫、葛西純一それ

    に安井などである。これは、虚溝橋事件について専論のある

    ほとんどすべての日本人研究者といってよい。

    (お)安井前掲論文「慮溝橋事件のイメージ||中閣の場合、日

    本の場合||」参照。

    (UA

    〉「産溝橋附近戦闘詳報」(以下、「第一聯隊戦闘詳報」、

    『現代史資料』口、みすず書房、一九六五年、三四三頁〉。

    (お)支那駐屯軍司令部『昭和十一年度北支那占領地統治計査

    書』昭和一一年九月一五日(防衛研究所園書館蔵〉。この文

    書については、永井和「日本陸軍の華北占領統治計董につい

    て」〈京都大泉人文科皐研究所

    『人文皐報』六四説、一九八

    九年三月)参照。

    (お〉前掲『現代史資料』ロ、三三八頁。

    (幻)秦郁彦『日中戦争史』(河出書房新位、一九七二年、一六

    四頁)。

    (お)この特'をめぐる論争については、江口圭一『虚溝橋事件』、

    坂本夏男『虚溝橋事件勃援についての一検詮』、安井三吉

    「虚溝橋事件に関するいわゆる「中園共産黛計蜜」設||坂

    本夏男

    『虚溝橋事件勃裂についての一検詮』によせて||」、

    坂本夏男「江口圭一著『慮溝橋事件』に射する所見」、江口

    圭一「慮溝橋事件小論||坂本夏男氏の所論をめぐって」な

    ど参照。

    (mm

    〉(支那駐屯〉軍主任参謀起案「宣停計蜜(俵定〉」一九三

    七年七月八日(防衛研究所圃書館蔵)。この文書については、

    -128ー

  • 785

    永井和「麓溝橋事件に関する一史料」

    七年四月)参照。

    (却〉今井武夫『支那事漢の回想』(みすず書房、

    六J八頁)。

    (況〉同前書、八頁。

    (ロ)同前書、一一一具。

    (岱)同前書、四五頁。

    (引品)坂本夏男『虚溝橋事件勃震についての一検詮』、

    (お〉同前書、一一一一一J三四頁。

    (お)「清水手記」(秦前掲書『日中戦争史』、一六六頁〉。

    〈初出)江口圭一『虚溝橋事件』(岩波ブックレット、一九八八

    年、二

    O頁〉。また、秦郁彦氏も同じく「第二九軍兵士設砲」

    設(「現場大隊長が明かした貴重な設言」『中央公論」一九

    八七年二一月〉であるが、第二九軍の抗日意識の高まりとの

    関係を重親し、「中村祭氏への反論謙虚な昭和史研究を」

    〈『諸君』一九八九年一一一月、二二一一良)では、数科書とし

    ては「偶凌(つまり犯人不明〉としておくほかない」とし、

    また、最近では「その渓砲者は単にナシヲナリストとして抗

    日敵意に燃えた兵士であったかもしれないが、沈仲明のよう

    な中園共産黛の秘密黛員ないしシンパが混じっていた可能性

    もあろう」(「慮溝橋事件の再検討」

    E、三一一頁)として、

    中園共産業との関連に注目している。

    (お〉この黙に関連して、古屋哲夫「日中戟争にいたる劉中園政

    策の展開とその構造」、江口・幸二『虚溝橋事件』、安井三吉

    『慮溝橋事件』が、

    「丘二名行方不明」から

    「不法射撃」へ

    (『史』六

    一九八

    一九六四年、

    一二頁。

    の縛換の意味を重視するのに濁して、坂本夏男

    「江口圭一著

    『盛溝橋事件』に謝する所見」、秦郁彦

    「虚溝橋事件から日中

    戦争へ」は、牟田口聯隊長が第一に問題としていたのは「不

    法射撃」の方だったという見解をとっている。

    (

    ω

    )

    「遭溝橋事件一周年回顧座談曾」(『東京朝日新聞』一九一一一

    八年六月三

    O日)。

    (川副)長津達治編『董溝橋事件に於ける支那駐屯歩兵第一聯隊第

    三大隊戟嗣詳報』(油印版、やまざき印刷部、一九七

    O年、

    一八頁。タイプ印刷版、石川タイプ印刷所)。

    (日出〉安井前掲室田『虚溝橋事件』。

    〈必〉「麓溝橋事件の回顧」(『倍行祉記事』一九四一年七月、五

    三頁〉。

    (日制)永井和前掲論文「麓溝橋事件に関する一史料」(『史』六

    一二、二四頁〉。

    (HH

    〉「麓溝橋事件一周年回顧座談曾」(『東京朝日新聞』一九

    三八年六月二八日J七月八日〉、今井武夫「産溝橋事件勃設

    の員相」(『話』一九三八年一

    O月〉、牟田口廉也「産溝橋事

    件の員相を語る」(『大陸』一九三八年七月〉、寺卒忠輔「麓

    溝橋事件の員相に就いて」(日本工業倶楽部『曾報』一九一一一

    八年八月)など。

    (必〉野地伊七「事愛護端の恩出」(『借行社記事特報』

    一九三

    八年七月)、一木清直「重溝橋事漢の経緯」(『借行社記事』

    一九三八年七月)、「産溝橋事件の回顧||支那事第四周年記

    念座談舎」

    (『借行社記事』一九四一年七月〉など。

    (MW

    〉中央研究院近代史研究所縞『第三眉近百年中日関係研討曾

    -129ー

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    論文集』下加、一九九六年〉。

    (円引)陳在俊「日本田技動慮溝橋事件的良相和背景」(『近代中園』

    第四一期、一九八四年六月)、同「慮溝橋畔的黙火者||茂

    川秀和」(『近代中園』第四二期、一九八四年八月〉。

    〔迫記〕本稿提出後、慮溝橋事件に関して次のような二つの重

    要な著作と資料集が刊行された。一つは、秦郁彦『虚溝橋事件の

    研究』(東京大皐出版舎、一九九六年一二月)である。本書は、

    秦氏の虚構橋事件研究の集大成ともいうべき大著であるが、その

    中心部分は、同氏の論文「慮溝橋事件の再検討」と「虚溝橋事件

    から日中戦争へ」である。これらの論文については、本稿の註の

    (

    2

    )

    、(4〉、(日)、(幻〉、(お)を参照されたい。

    いま一つは、遼寧省檎案館・小林英夫編『満銭と虚溝橋事件』

    全3を(柏書房、一九九七年一月〉で、遼寧省楢案館所臓の「満

    鍛本社の未公開資料」に小林英夫氏が解説を加えたもので、虚構

    橋事件勃設から約一か月聞の瀬銭の関連資料で、満銭各機関と支

    那駐屯軍、関東軍との聞でやりとりされた電報類をも含む。その

    内容もさることながら、中閣には日中戦争時期の日本側文書が大

    量に存在していることを示すものとしても興味深い。

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