title 古代語への憧憬 --19世紀ニーベルング系作品の文 ......25...

24
Title <論文>古代語への憧憬 --19世紀ニーベルング系作品の文 体-- Author(s) 松波, 烈 Citation 文芸表象論集 (2018), 6: 25-47 Issue Date 2018-12-31 URL https://doi.org/10.14989/LAR_6_25 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Upload: others

Post on 02-Feb-2021

2 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

  • Title 古代語への憧憬 --19世紀ニーベルング系作品の文体--

    Author(s) 松波, 烈

    Citation 文芸表象論集 (2018), 6: 25-47

    Issue Date 2018-12-31

    URL https://doi.org/10.14989/LAR_6_25

    Right

    Type Departmental Bulletin Paper

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 25

    古代語への憧憬 ―19 世紀ニーベルング系作品の文体―

    松 波 烈

    19 世紀のドイツ語圏で、ニーベルング伝説を題材とした戯曲を多数作っていた。

    [Danton: 217–220]の年表を見ると、フリードリヒ・フーケ(1777–1843)の「鍛

    冶場のジークフリート〔Der Geheornte Siegfried in der Schmiede〕」[Fouqué 1803]

    (Fr・シュレーゲル編集雑誌『欧州』第 2 巻に収録)を嚆矢として、ルートヴィ

    ヒ・ティーク、ルートヴィヒ・ウーラント、フリートリヒ・ヘッベル、フェリク

    ス・ダーンといった高名な人物らから、その他の知られざる作者の、30 を超す作

    品を挙げている。こういった中で、本稿は、ニーベルング伝説を記述する言語だっ

    た古代ゲルマン語の音韻を近代ドイツ語で再現しようとする志向が特に顕著である

    所のフーケの『北方の英雄〔Der Held des Nordens〕』[Fouqué 1810]3 部作(1810)

    を主に見つつ、同じ志向を示すジムロックやワーグナーの文体を確認し、この《再

    現》がどのような内実だったのかを詳らかにして、現代語による古代語の模倣とい

    う言語文化を考察する一助としたい。

    1. 『北方の英雄』というテキスト

    『北方の英雄』3 部作は、本格的にニーベルング伝説を材料にする近代ドイツ語

    文学作品の嚆矢と言われている。グリム兄弟と E・T・A・ホフマンの資料にも依

    拠しながら、ウーラントと同時に A・W・シュレーゲルから影響を受けて創作した

    [Struck: 75]本作品5) は、第 1 部「ドラゴン殺しのジグルト〔Sigurd, der Schlan-

    genteodter〕」(1808)、第 2 部「ジグルトの仇を討つ〔Sigurds Rache〕」(1809)、

    第 3部「アスラオガ〔Aslauga〕」(1810)から成る(以下で、これらを、[Tl. 1]

    [Tl. 2][Tl. 3]として出典明記する)。時に「ケバい表現に人間味ゼロ」との酷

    評[Engel: 68]もあるものの、ニーベルング伝説を用いるに当たって古代のテキス

    トにまで遡った初めてのドイツ文学作品の 1 つであり、ワーグナーの『指環』にも

    5) 交際家のフーケは、『水妖記』をフランス語翻訳でも読んでいたゲーテに接近を試みてい

    たが、当初 15 年間音沙汰を得ておらず、ゲーテは細君カロリーネ(Caroline, 1773–1831)

    の方に関心があったという[Fröschle: 390; Bertschik: 22]。

  • 26

    影響していたと見られている6) 。ギリシャ悲劇の手法7) も取り入れつつ、中高ド

    イツ語の叙事詩の方に顕著な「ミンネ等の宮廷風」は見られず、「古ノルドの伝統

    気風」が蘇っており、(3 部作 3 つとも冒頭モットー詩が題がすべて「フィヒテ宛」

    となっていることからも分かるように)『ドイツ国民に告ぐ』のフィヒテを念頭に

    置いている[Kehm: 30]。当時から周知されていたように『ヴォルスンガ・サガ』

    を下敷きにしつつ[Rafn: XII f.]、『スノッリのエッダ』・『歌謡エッダ』も参考

    にしている[Reallexikon Bd. 3: 853; Steuer: 418]。とはいえ、フーケは、同時代人

    らと同様、『サガ』や『エッダ』の原文そのものに接してはいなかったと考えられ

    る。このように異なる要素が混在しているものの、作品の主要な企図を第 1 献詩に

    明記してある:

    Aus deutschen Wäldern mahnend ſtieg der Klang

    Uralten Heldenliedes, halb verweht,

    […]

    Wo er [sic. de[r] alte[] Laut] vernehmlich klang. Epfangt die Gabe

    Mit deutſchem Sinn, froh, arglos, ernſt, getreu.[Fouqué 1810 (Tl. 1): 1, 4]

    (ほぼ忘却の彼方にある大昔の叙事詩がドイツ森林地帯から聞こえてきたが、

    〔中略〕古ノルド語の音韻を伝える。本作は明朗快活・質実真摯のドイツ的

    感性で受け容れてもらいたい。)8)

    6) 『北方の英雄』からの約 60 年間のニーベルング物諸作品を Muth と共に列挙している

    Buschinger によると、1872 年時点でワーグナーは「先行者たちの諸作をかなりばかにして

    いた」とのことだが[Muth: 416 f.; Buschinger: 61 f.]、これにフーケを含むのかどうかは特

    に述べてはいない。 7) 「アイスキュロス『オレステイア』を北方の材源に移した」ものともいう[Stockinger:

    258]。ところで、物語を根底で動かす存在者を示す第 2 部中ヘグネ(ハーゲン)の言葉

    „Die Götter lenken, und ihr Woll’n geſchieht“[Fouqué 1810 (Tl. 2): 103]が『イリアス』冒頭に

    おける物語全体の中核言明„ “と酷似している。 8) フーケらと同じく言語の純化もとい彫琢陶冶を追求していたクロプシュトック以来のドイ

    ツ古典主義の最深最右翼たる J・H・フォス(Johann Heinrich Voß, 1751–1826)が„Zwar ſo

    unumſchränkte Gewalt, die nach Willkühr Längen kürzt und Takte zuſammenzieht, üben nur die

    derberen Versarten aus germaniſchen Eichenwäldern, nicht die den Griechen mit zarter Kunſt

    nachgebildeten Rhythmustänze.[Voß: 180]“(考えもなく長音節を短化だ詩脚を萎縮だして

  • 27

    近代ドイツ語の作品の中に古ゲルマンの言語の音韻を響かせようということだが、

    これはどういった意味であろうか。先取りして言うと、フーケは、頭韻技法を始め

    として、古語のような....

    もの、そのような....

    響きを出すようにしているという点が後に

    明らかになる。以下、韻律上の観点からテキストの特徴を考察していく。

    2. 『北方の英雄』の韻律

    第 1 に、この作品は、19 世紀のほとんど全部のドイツ語戯曲と同様に、ブラン

    クヴァース(Blankvers)で書いている。ブランクヴァース自体は頭韻技法とは無

    関係だが、第 2 部のグドルナ(グードルーン)の台詞[Fouqué 1810 (Tl. 2): 15]に

    見るように、このブランクヴァース上で既に頭韻を使用している箇所(„Stell’“,

    „ſteten“, „ſtätem“, „Stets“, „ſpringt“)もある。但しブランクヴァース上の頭韻は例外

    的である。

    第 2 に、しかしながら、ブランクヴァースだけでもない。ブランクヴァースで

    は揚格(ヘーブング、Hebung)を毎行ごとに 5 置くものだが、そうでなく毎行 2~

    4 揚格にしている部分があって、しかもここでは頭韻をふんだんに用いている。一

    部の例外[Fouqué 1810 (Tl. 2): 103 f.]を除けば、この短詩行部分というのは、短詩

    行が特定の数まとまって 1 つの単位=1 スタンザ(Strophe)に成って、さらにこの

    スタンザをまた決まった数だけ配分、という構成をしている。そして、スタンザと

    いう単位が存在しないのが古代頭韻詩の特徴である以上、この構成は古語の範型を

    逸脱している。

    なお、第 1 部にあるノルン 3 女神の口上[Fouqué 1810 (Tl. 3): 119 f.]、第 3 部末

    尾のアスラオガとラグナルの台詞の一部[Tl. 3: 119 f.]、その直後の合唱部分

    [Fouqué 1810 (Tl. 3): 122 ff.]、などが、どちらでもなく、頭韻は散見されるが 5 揚

    格行も見られ、いっそ崩し切ったブランクヴァースに見えなくもない。或いは、詩

    のような改行をしてはいるがしかし散文、というものに、見えなくもない。

    いずれにせよ、ブランクヴァース + 頭韻短詩行群という 2 段構えは、後年の、

    北欧神話の神々が主役となる『善男バルドル〔Baldur der Gute〕』、やはり『ヴォ

    ルスンガ・サガ』を材源にした『ヘルギ』 2 作を収録した『英雄戯曲集

    〔Heldenſpiele〕』(1818)を見ても、やはり基本の型としている。ただ違いも

    おるが、こんなことはゲルマン森林地帯の無骨な詩型においてやっていることであって、

    ギリシャ詩にのっとって繊細技巧がなしとげた律動舞踏がやることではない。)などとい

    う、フーケの発言と相似しつつ対蹠的な発言をしている点が興味深い。

  • 28

    あって、例えば『善男バルドル』では 3 揚格または 4 揚格の短詩行による定形のス

    タンザ(では特に頭韻を使ってはいない)がブランクヴァース基盤上に散在してい

    て、頭韻の目立つ不定形な個所[z.B.: Fouqué 1818: 32, 80 f.]は例外的である。

    3. Alliteration

    今問題なのは本作品の頭韻短詩行群である。そもそもの頭韻というものは、

    (動詞・形容語句・名詞などの自立的語の)語頭の子音、または揚格の頭子音同士

    が一致することを言う。本編の冒頭を見ると、ライゲンの台詞が

    Heiß hoch die Lohe,

    Funken hell fliegend,

    Müde mein Arm faſt! —

    Hellblanker Klingen

    Kön’ginn zu ſchmieden

    Hallt hier der Hammer.[Tl. 1: 9]

    (今ここでは火炎が上がって火の粉が飛んでいる。手が疲れてきた。至高の

    名刀を造っていて、作業を一旦止めた。)

    と/h/, /f/の頭韻によって名刀グラムル鍛造の火炎を表現している。当台詞は 6 行 1

    スタンザ×4 という構成であり、この第 1 スタンザに登場している/kʰ/と/ʃ/が次の第

    2 スタンザの頭韻群の 1 を成し(Kecker Herrkön’ge / Kühnſtem; Schmied’ ich ein

    Schwerdt […] ſchleifen)、そうしてから、第 3 スタンザでは、頭韻がほとんど/ʃ/だ

    けになる:

    Wer ſcharfe Schwerdter

    Schmieden und ſchleifen will,

    Scheue das Ziſchen der Flamme nicht.

    Wer ſcharfe Schwerdter

    Schwingen in Schlachten will,

    Scheue das Rauſchen der Speere nicht.[Tl. 1: 10]

    (名刀を造るには鍛冶場で作業するしかない。名刀を振るうなら戦場で闘う

  • 29

    しかない。)

    といった技法を描述的に考えると、最初の、/ʃ/ほど鋭くはないものの軟口蓋と両唇

    の摩擦音で物理的活気を聞かせる/h/群・/f/群が、赤々と燃え輝く鍛冶風景を開いて、

    „Müde mein Arm […]“というモタれた音調が体力の消耗を示しながら、鍛えられて

    硬質化していっている剣を硬い/kʰ/で鋳固め、そして、第 1 スタンザからストレッ

    タ状に増加してきた最も圭角ある/ʃ/の響きが、刀剣-火炎-戦場の結合を鍛冶場にお

    いて果たし、この無声後部歯茎摩擦音が乾燥した輝きを喚起することで、古代風の

    厳格さを描く、といった解釈などができるだろう。

    このように頭韻スタンザ部分では頭韻の音調が詩的効果を上げていることが明

    確である。ただ、テキストの冒頭を抽出するのはそもそもありきたりであり、何よ

    り、創作者は冒頭を入念に作るものなのだからサンプルとして無作為性が乏しいだ

    ろう。よって、テキストの他の箇所をランダムに抽出、例えば第 2 部から抽出して

    みると、第 4 幕、蛇が群れ成す牢獄に囚われのグナル(グンター)王が詠嘆する箇

    所、この 8 行スタンザ:

    Verſenkt und ungeſehn

    Liegt der Niflungenſohn

    Bei Drachen, drohend wild,

    Die rings ſich häßlich drehn.

    Wie anders war’s am Rhein,

    In weiter Hallen Pracht,

    Mundſchenken rings beim Mahl

    Zu mächt’ger Fremden Ehr’.[Tl. 2: 114]

    (地下牢に入れられて気味の悪い蛇に囲まれてしまった。母国に居た時が思

    い出される。宮廷は栄華だった。誰彼なしに祝杯を上げていた。)

    では、暗所に打ち沈んだ重暗さを有声歯茎摩擦音/z/が描き出し、母音/ʔʊ/や流音/l/

    や鼻音/n/といった軟質な響きが湿った雰囲気を醸し出し、蛇が不気味であること

    をおどろおどろしい/dʀ/音で可視化(可聴化)している、そして、柔らかいがゆえ

    に不気味な/v/がしかし同時に柔らかいがゆえに甘美な/v/として故郷を現前化し、

  • 30

    /m/群が安逸の柔和を呼び起こしている、といった頭韻効果が確かに看て取れる。

    このようにして見れば、全編を通してフーケが頭韻に想いのたけを込めている

    ことが予測できるだろう。想いのたけを込めている、つまり、このような頭韻処理

    を作中で沢山花咲かさせている。だからつまり、『北方の英雄』は、1 作品中の頭

    韻の分量が著しい点で、何よりも頭韻詩作だと言える。ところで、分量が特に著し

    くはないだけなら、頭韻技法詩作はそもそも他にもいくらでもある。まずドイツ語

    詩に限って見ると、例えばクロプシュトク、ビュルガー、ゲーテ、シラー、A・

    W・シュレーゲル、K・ラッペ、シャミッソー、リュッケルトらの作品が頭韻を用

    いている9) 。いまリュッケルトからそういったテキストを引用するなら、ノル

    ウェー・ロマン派のシンディングが曲を付けている(Op.64b)Roland zu Bremen が、

    Roland, der Ries’, am

    Rathaus zu Bremen

    Steht er im Standbild

    Standhaft und wacht.

    といったスタンザ×8 から成る作品である。前半 2 行は 8 回リフレインするが、後

    半 2 行に毎スタンザで頭韻が 3~5 ある。そういった構造が何を意味しているにせ

    よ、頭韻の用い方に関してだけ言うと、そこに制度化した規則というようなものは

    特に無いようである。これは上述した他の詩人たちも上述していない他の詩人たち

    も同様である。そして『北方の英雄』だが、フーケの頭韻スタンザにしても、当時

    の他の詩人らと同じく非制度的な頭韻技法であるには違いない。それは、ゲルマン

    古語の頭韻詩を直接参照してはいない以上、もちろんそうではあるのだ。もちろん、

    他の詩人らとは方向性が異なっている。フーケの場合、頭韻使用の意義が、古語へ

    の接近..

    、であるはずだ。古ゲルマン語の原語原文は未だ見ぬががその特徴が頭韻技法だ

    とは伝え聞く。ならばそこへの追想は、頭韻使用だ。とはいうものの、その使用方法は、

    原語原文から汲み出した知見に基づいているものではない。いや、同時代人らの頭韻法、

    9) その作品は、クロプシュトクは Der Messias[Pawel: 23–31]、ビュルガーは Das hohe Lied

    von der Einzigen, […][Allgemeine deutſche Real-Encyclopädie: 250 f.; Harjung: 38]、ゲーテは

    Der getreue Eckart[Götzinger: 629]と Der Erlkönig[Kurz: 198]、シラーは Der Taucher

    [Meyer: 97]、シュレーゲルは Deutung [Feldbausch: 46 Anm.*]、ラッペは Die Frostnacht

    [Ranninger: 7]、シャミッソーは Das Lied von Thrym[Ottmann: 54 Anm. 6]、リュッケル

    トは Roland zu Bremen[Knüttell: 11 f.; Wagner: 378 Anm.*]である。

  • 31

    広い意味でのそれ、一般的なAlliterationの自由な...

    配置案配、結局これに過ぎないのだ。

    そしてまた、Alliteration というのならば、それは、インド・ヨーロッパ語族に広

    く行き渡っている技法である。例えばサンスクリット語に अनुप्रास (anuprāsa)、

    ち वर्ाानुप्रास , पादानुप्रास , नुप्रास , छेकानुप्रास , वृत्त्यनुप्रास (varṇānuprāsa, pādānuprāsa,

    lāṭānuprāsa, chekānuprāsa, vṛttyanuprāsa)という豊富にして精緻な頭韻体系がある

    [Morgan [u. a.]: 236; Jha: 45]。古典ギリシャ語での頭韻の使用も、ホメロスを始め

    として、極めて豊富である。エウリピデス『アウリスのイピゲネイア』第 690 行に

    „ “という頭韻が見られる[Riedel: 110]。

    『聖書』にも例がある 10 ) 。ラテン語詩は頭韻技法で有名である 11 ) 。近世に

    „Tandem terribili Turennum turbine tactum […]“12) といった versus aequidici が見られる

    [Philippi: 194; Freese: 99f .]。さらにインド・ヨーロッパ語族を離れても、例えば

    日本語詩に「よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ」

    (天武天皇・『万葉集』巻1・27)といった例13) 、中国詩に「響下清虛裡/老夫悲

    暮年/金管迷宮徵」(杜甫「聽楊氏歌」の一部)[竺: 80, 122]という例がある。

    10) „

    “(『ローマ書』1:29[Hopf: 11]。) 11) ホラティウスの頭韻を収集した研究[Habenicht]があり、例えば『書簡集』第 1巻(3)第 15

    詩行に、polyptoton も含む„monitus multumque monendus“という箇所がある[Curran: 152]。

    またプラウトゥスの『三文銭』第 1 幕第 2 場第 94 詩行が„argentum amanti homini adulescenti,

    animi impoti,“となっている[Löwe / Goetz: 194]。 12 ) この詩行はデンマーク人 Henrik Harder(1642–1683)[Hofmann: 157]の In mortem

    Turrrenni であり、残りも併せて挙げると:

    Tandem terribili Turennum turbine tactum

    Teutoniæ toties territa terra tegit.

    Teuto triumphator, Teuto tutela tuorum

    Turenno tumulum tolle, tropæ tibi.

    [zit. aus: Rostgaard: 302]

    である。 13) 他にも、以下の例がある:

    東路の小夜の中山なかなかになにしか人を思ひ初めけむ

    (紀友則・『古今和歌集』巻 12(恋 2)・594)

    久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ

    (紀友則・『古今和歌集』巻 2(春下)・84)

  • 32

    他にも、テュルク諸語のトゥバ語の口承叙事詩で、おびただしい頭韻を用いている

    という報告がある[Harrison: 191]。こういったものたちは、どれも Alliteration で

    あり、例えば„Trau, treue Trine, trüglich trüben Träumen“(Angelika von Marquardt)と

    いった特に内容の無いものも含め、語頭の子音を一致させる文体一般を広く指す。

    そしていま、『北方の英雄』の頭韻スタンザも、この広大な圏域、頭韻の自由な扱

    いという普遍的な領野に属していると言わざるを得ない。さてそれならば、普遍的

    な領野とは言い難い特定の領野に属する頭韻、すなわち、『北方の英雄』が追想し

    ている所のゲルマン系の古語詩における頭韻、これは、一体どのようなものなのか。

    ゲルマン系の古語詩の頭韻は時に特別に„Stabreim“と呼ばれる。これは、自由に散

    りばめた(恣意的にも近い)頭韻「技法」とは違う。Stabreim は、詩行形成の核と

    して制度化されていたものであり、規則の確立されていた所の、まさに《技法》な

    のである。

    4. Stabreim

    そういった頭韻が見られる古代言語のテキストというのは、つまり、『歌謡

    エッダ』(古ノルド語)、『ベオウルフ』(古英語)、『ヒルデブラントの歌』・

    『ベッソブルンの祈祷』・『ムスピリ』(古高ドイツ語)、『ヘーリアント』・

    『古ザクセン語創世記』(古低ドイツ語)、のことである[Arndt: 95]。もちろん

    すべて詩行(Vers)で書いている。これら古ゲルマン語の詩行では、前半詩行

    (Anvers)と後半詩行(Abvers)という 2 つの短行(Reihe)が 1 の長行(Kette)

    を成して 1 詩行となり[Reallexikon Bd. 1: 235, 236 f., 240, 241; Arndt: 95]、両短行

    を頭韻すなわち「結合頭韻」が結ぶ[Grässe: 417]14) 。頭韻を担うのは主揚格音

    14) Saran が、師 Sievers も使う用語[Sievers 1893: 216, u. a.; Sievers 1918: 151, u. a.]として Reihe

    を„Nor-malvers“と„Schwellvers“に分類し、

    A ‒́ X ‒́ X B X ‒́ X ‒́ C X ‒́ ‒́ X D ‒́ ‒́ ‒̀ X oder ‒́ ‒́ X ‒̀ E ‒́ ‒̀ X ‒́ oder ‒́ X ‒̀ ‒́

    という Normalvers の図式と、

    aA ‒́ X | ‒́ X ‒́ X bA X ‒́ | ‒́ X ‒́ X aB ‒́ X | ‒́ X ‒́ bB X ‒́ | X ‒́ X ‒́

  • 33

    節であり、副揚格には特に役割がない。主揚格は「名詞・動詞・形容詞・一部の副

    詞の幹綴」[Wagenknecht: 44]という強勢音節に限る。頭韻の落ちる主揚格は前半

    に 1~2 あり、後半は 1 のみ、しかも後半詩行では第 1 主揚格のみが頭韻を担う。

    頭韻主揚格は„a“とマーキングし、無頭韻主揚格は„x“とマーキングする。よって前

    半は aa, ax, xa という組み合わせ可能性があり、後半は ax のみしか成り立ち得ない

    [Heusler Bd. 1: 100]。なお、前半の頭韻を „Stollen“と言い後半の頭韻を

    „Hauptstab“と言う(合わせて„Liedsteabe“とも言う[Koberstein: 39])。以上のこと

    を例で示そう。『歌謡エッダ』の冒頭詩行:

    (Ed.) Hljóðs bið ek allar || helgar kindir, (axax)

    を見ると、まずこの 1 長行は、「||」で区切って図示しているように、前半・後半

    の短行 2 つで出来ている。主揚格を太字化しておいたが(全部で 4 個ある)、そこ

    で更に頭韻子音に下線を引いた。だからつまり、頭韻/h/が、前半短行と後半短行

    を結合していて、そうした上で、この 1 長詩行が成っている、ということであり、

    繰り返すが、„Hljóðs“が Stollen で、„helgar“が Hauptstab である(逆ではない!)、

    ということである。いまは頭韻は/h/だけであって、前半の可能組み合わせ aa, ax, xa

    の内 ax が出来ている。組み合わせは無論いくらでも変わる。仮に次の行を見てみ

    ると、„meiri ok minni || mögu Heimdallar; (aaax)“であり、前半行は aa と頭韻になっ

    ており(計 3 つの/m/頭韻)、繰り返すが、Stollen が 2 つ得られている、というこ

    とが看て取れる。そして、言うまでもなく、このような規則が、『歌謡エッダ』全

    テキストを一貫している。こういった制度下で作者は当作品を作っているのである。

    言うまでもなく、本章で上述した他の古代ゲルマン系言語の作品も、全く同様に、

    そうなっている。例に即して見るために、上述した作品たちの冒頭をもなお見てみ

    よう(主揚格太字化はもうしない):

    (Beo.) þeodcyninga || þrym gefrunon, (axax)

    (Hild.) ðat sih urhettun || ænon muotin, (xaax)

    aC ‒́ X | ‒́ ‒́ X bC X ‒́ | X ‒́ ‒́ X aD ‒́ X | ‒́ ‒́ ‒̀ X (‒́ ‒́ X ‒̀) bD X ‒́ | ‒́ ‒́ ‒̀ X ( ‒́ ‒́ X ‒̀) aE ‒́ X | ‒́ ‒̀ X ‒́ (‒́ X ‒̀ ‒́) bE X ‒́ | ‒́ ‒̀ X ‒́ (‒́ X ‒̀ ‒́)

    という Schwellvers の図式を掲げている[Saran: 227, 232]。細則の引用は省く。

  • 34

    (Wess.) Dat gafregin ih mit firahim || firiuuizzo meista, (aaax)

    (Mûs.) . . . sîn tac piqueme, || daz er touuan scal. (axax)

    (Hel.) Manega uuâron, || the sia iro môd gespôn, (xaax)

    (Alts.Gen.) «Uuela, that thu nu, Êua, haЬas,» || quađ Adam, «uЬilo gimarakot (aaax)15)

    というように、頭韻配置規則が一貫している。なお、こういった体制下では、

    Hauptstab が「頭韻を支配」し、それに Stollen が「従属」する[Sievers 1893: 37]16) という形で両短詩行が結合されている。

    さて問題なのはフーケの頭韻である。以上本章で見たようには、『北方の英雄』

    は、なっていない......

    。今例えば、1–3 で見たライゲンの台詞第 1 スタンザを無理矢理

    Stabreimvers に見立てて主揚格と考えられる音節をすべて太字化したとしても:

    Heiß hoch die Lohe, || Funken hell fliegend,

    Müde mein Arm faſt! — || Hellblanker Klingen

    Kön’ginn zu ſchmieden || Hallt hier der Hammer.

    これが、本章で確認した古ゲルマン語の頭韻規則を示しているようには、どうにも

    見えない。そして、無理矢理 Stabreimvers に見立てるというなら、いっそ一文に見

    立たてたとしても、頭韻の置いてあるその意味は別に特に損なわれていないように

    見える:

    15) 『ヒルデブラントの歌』と『ヘーリアント』と『古ザクセン語創世記』からの行を見ると、

    何が頭韻なのか分からないだろう。母音が頭韻のケースだ。いや無論「母音が頭韻」を踏

    むのではない。異なった母音同士が頭韻を踏んでいるのでは勿論なく、母音前のグロッタ

    ルストップ(いわゆる Knacklaut)というあくまで同一の子音同士が頭韻を踏んでいるので

    ある(/ˈʔʊrhɛtʰən/, /ˈʔɛ:nɔn/)。だから、「母音が頭韻」のケースは、文字で見る限りは、

    何も一致していないように見えてしまう。韻を踏んでいるのは/ʔ/だけで、母音は何でもい

    い。ここで、ゲルマン語という子音中心言語、などという思考停止したステレオタイプを

    思い出してもいいかも知れない(一応述べとくと、古いほどゲルマン「的」なはずのゲル

    マン語は、古いほど母音が豊かであるのが事実だし、Zeitmessung のフォスなり Über die

    deutschen Doppelwörter のジャン・パウルなりといった近現代のドイツ語考察者らも豊かな

    母音を希求しているのだが)。 16) なおキュネウルフ(Cynewulf, ca. Anfang des 9. Jh.)の『アンドレアス』と『エレネ』を出

    版した J・グリムも当出版物の序文で Sieversと同じくHauptstabとStollenの原語(höfuðstafr,

    stuðlar (hljóðfyllandi))を挙げている[Grimm: LVI]。

  • 35

    Heiß hoch die Lohe, Funken hell fliegend. Müde mein Arm faſt! — Hellblanker Klingen

    Kön’ginn zu ſchmieden hallt hier der Hammer.

    フーケが Stabreim の復古者だと言う[Balthazar: 356]場合には、いわば話半分に聞

    くようにせねばならないだろう。Stockinger が、丁度今見ているライゲンの台詞第

    1スタンザ、と、「ヘルギ」第 2部ワルキューレ・シグルーンの台詞[Fouqué 1818:

    354 f.]の一部を挙げて、こういった「頭韻部分は物語から浮いて物語を結合・釈

    解・描述する」、すなわち「アリアのようなもの」と言っている[Stockinger: 97 f.]

    が、そう言っている際に Stockinger は、古語の頭韻詩との形式上の決定的な違いに

    ついて何 1 つ述べていない。論者らは時としてフーケやワーグナーの„Stabreim“と

    無造作に語り、古語のリバイバルを何気に紹介する。だが実情はさにあらず。むし

    ろこう見るべきだろう。フーケの頭韻は古語と違ってそれ自体に目的がある。形式

    上必要なのでなく演出上必要なのである。規則履行ではなくて意味実現というのが

    フーケの頭韻の前提である。何よりも古語の頭韻が特にその音でなければならない

    ものではない、詩行を成すために置く必要がある、という要請上のものであるのに

    対して、フーケの頭韻は常に効果を上げているのである。例えば「古ドイツ語英雄

    詩同様ワーグナーの頭韻でも意味の重い語(名詞・形容詞・動詞)が支配的である。

    副詞・前置詞・接続詞といった機能語には大した役割がない」[Müller / Panagl: 90]

    などと述べる時、古語では主揚格音節だけが頭韻を得得るからこそ「意味の重い語」

    に頭韻が落ちている、つまり論理的帰結にすぎない、のに対して、フーケやワーグ

    ナーでは意味を音で彩色するために「意味の重い語」に頭韻が落ちている、つまり

    積極的・意図的利用である、という区別が付いているのだろうか。

    とこのようにフーケの頭韻に絞ってその前提を明らかにしてきたが、このこと

    はこの人物 1 人に尽きる事柄では到底ない。19 世紀の頭韻の復古者と言えば、誰

    を措いてもまず思い浮かぶのは、W・R・ワーグナー(1813–1883)その人だろう。

    とはいうものの、《ワーグナーが古ゲルマンの頭韻を近代ドイツ語に再び採り入れ

    た》などと無造作に語るような時、その「頭韻」の内実、その前提を、理解してい

    言っているだろうか。Alliteration と Stabreim とのケジメが付いているだろうか。そ

    のニーベルング作品、満遍なく全 4 夜から頭韻が目立つ箇所をランダムに抽出して

    みよう。

    Woglinde: Weia! Waga!

  • 36

    Woge, du Welle,

    walle zur Wiege!

    Wagala weia!

    Wallala, weiala weia!

    Wellgunde: Woglinde, wachst du allein?

    Woglinde: Mit Wellgunde wär’ ich zu zwei.

    Wellgunde: Lass sehn, wie du wachst!

    (『ラインの黄金』第 1 幕第 1 場、ラインの乙女の掛け合い)

    O heilige Schmach!

    O schmählicher Harm!

    Götternot!

    Götternot!

    Endloser Grimm!

    Ewiger Gram!

    (『ワルキューレ』第 2 幕第 2 場、ヴォータンの台詞)

    Lustig im Leid

    sing’ ich von Liebe;

    wonnig aus Weh

    web’ ich mein Lied:

    nur Sehnende kennen den Sinn!

    (『ジークフリート』第 2 幕第 3 場、鳥の台詞)

    Treue trink’ ich dem Freund.

    Froh und frei

    entblühe dem Bund,

    Blut-Brüderschaft heut’!

    (『神々の黄昏』第 1 幕第 2 場、ジークフリートとグンターの重唱)

    それぞれの頭韻たちに何がしかの意味を込めて効果が上がっているのだが、今は解

    釈の場ではなくて、これらの詩行が上のライゲンの台詞第 1 スタンザのケースとほ

  • 37

    ぼ全く同様になっていることを確認する場である。上のケースと同じく、短行(と

    看做せる行)たちを適宜 1 長行に見立ててみてもよいだろう。そして、„Weia!

    Waga! || Woge, du Welle,“や„O heilige Schmach! || O schmählicher Harm!“、つまり aaaa

    や abba といった押韻は、Stabreimvers には、存在しない。古語の頭韻規則と同一の

    規則を踏襲している気配は、無い、としか、言いようがない。いや、と言うより、

    そのようにネガティブに見るよりも、ここでワーグナーは、(そしてフーケは、そ

    して後述するジムロックは、ヨルダンは、等々全く同様に、)古語の頭韻規則に

    のっとった近代語詩行を特に書いているのではなくて、古語の頭韻を想起させてい......

    る.のであろう。19 世紀の復-古(ゲルマン)語的な作風は、古代語の韻律を継承し

    たのではなくて、古代語の音韻を憧憬したのだ、という 1 つの考察が成り立つだろ

    う。さらに言えば、引用しているワーグナーの「詩行」、古ゲルマンの詩にあくま

    で似ているというものにすぎない(例えば音節数が足りていない)この「アリア」

    は、パオゼを示すであろう改行こそ頻繁にしているが、実質的には頭韻を散りばめ

    た散文、とすら見えてもよいだろう(上のフーケの詩行と同じく)。ここでは、

    Minor が「ワーグナーの Alliterationsvers は 1 行 2~3 揚格、行内・次行・次々行と

    頭韻で結合し、3 揚格行は前行とのみ頭押韻し 2 揚格次行とはしない」と述べる所

    の規則が行き渡っているようには、別に見えない。いや、そうネガティブに Minor

    を見るのでなく、「b が前進邁進・労苦労力」「l が柔弱柔和・受苦従順」「n が拒

    絶」「r が不穏な短兵急・自暴自棄」「w で満ちては引き」「br が艱難辛苦と猪突

    猛進」「st が硬直静止」といった音響効果の定義をこそ傾聴したい[Minor: 371

    f.]。原典の頭韻システムは知らずとも、原典の雰囲気に近付き寄ることができて

    いれば十分、そして眼目は頭子音たちの音韻的演出。こういったものがフーケや

    ワーグナーのビジョンだったのではないだろうか。

    5. 「アスラオガ」の超頭韻

    今一度『北方の英雄』に立ち戻って、このような近代語-古代語的頭韻がどの程

    度成功しているかを、その精華において見てみよう。『北方の英雄』と言っても、

    はニーベルング戦争の惨禍の遥か後年、第 1~2 部と違って牧歌風な第 3 部「アス

    ラオガ」を採り上げる。この部は、ストーリーも固有名も小道具も原作のアスラウ

    グ伝説に忠実だが、微妙に相違する箇所においてフーケが独自のこだわりを込めて

    いる。

    ジグルト(ジークフリート)とブリュンヒルドゥル(ブリュンヒルデ)という、

  • 38

    神々の血統とはテキストに明言されていないがオーディンやノルネ 3 女神と接触は

    しており神に近い存在ではあるこの 2 人、の子である所のアスラオガ(アスラウグ)

    は、ハイマ(ハイメ)元王がこれをかくまって流浪、ハイマをグリーマ・アーケ百

    姓老夫妻が謀殺、赤子のアスラオガの高貴に打たれた夫妻が実子同然に育てる、と

    いうウンディーネのような来歴を経て、妙齢になるまで「黒いフード」を被り放牧

    業に従事しており、やがてオーディンの子であり竜殺しの英傑であるデンマーク王

    ラグナーに嫁ぐが、作中„Krake“(Kráka)という名で通り、終盤まで本名が明かさ

    れず、神々に連なる身とも知らず、一種の incognito 状態にいる。作中 44 回 Krake

    と名指され、作中 7 回出現する-krank-とともに、俗謡から Krake–krank–Krähe とい

    う連結(„Krake krächzt’ und kräht’ am Ufer, / Krähe grau in traur’gen Kleidern“[Tl. 3: 92,

    101])を得て、病(灰色)–黒–醜のイメージ鎖に封入されてしまう。醜く悪しき百

    姓家に育った卑しい牧人、それにしては途轍もなく見目麗しい、という貴賤美醜の

    対比が繰り返される17) 。終盤近くで超常的力に目覚め、光のイメージを回復、

    „krächzt’ und kräht’“と自己言及的に醜さを象徴付ける/kʰʀ/グループ=醜き黒を脱ぎ

    捨てて、グリム独語辞典に「初源にある最も高貴な音声」と言われる/a/が頭に来

    る„Aslauga“という名を開示し、おそらくはアース神族(Asen)の神格も具備しつ

    つ(或いは Aslauga-Asen-Arier か)、光輝(の語彙)に包まれ(„Heil, Aslauga,

    hellfunkelnd Auge,“[Tl. 3: 124])栄光の未来を予示する。

    といった展開では、頭韻が意味連関の主成分を成し、その分布が一定の韻律構

    造と無縁、すなわち作品全体に拡散.しており、散

    .文的に意味の主導を果たしている

    のである。つまり、文や詩行の単位を超.えた頭韻があり、それがさらに別の頭韻に

    払拭されてしまうという超.構造(/a/を加味すればテキストの外(Arier)にまで超

    出するか)がある。そしてフーケの強調点がこの末尾部でやはり、作品を「直截・

    誠実・実直にドイツ語で(Deutlich und wahr im ehrbar’n deutſchen Wort)」[Tl. 3:

    124]記したということであることが、まずもって重要であろう。18)

    17) アスラオガの容姿が「金色の髪・輝ける目の青いたおやかな光・雪のごとき肌」だとある

    が、これは、典型的にゆえに理念的にノルディック系、例の「北方人種」、現代の理念で

    言えば Y 染色体ハプログループ I1 の特徴を示しており、ここに着目すれば、暗い色彩に込

    めた別のアレゴリーも見えてくる思いだろう。 18) 以上の顛末とハッピーエンドには、かつて本多勝一がアンデルセン作品の「基調」とした

    「恐るべき差別思想」と「典型的反動思想」を見ることもできるだろう:

    しかし私が最初に疑問を抱いたのは、子供の絵本で読んだ『みにくいアヒルの子』です。

  • 39

    6. 結語

    『北方の英雄』はおそらく近代ドイツ戯曲の中では構造上特に散文に近いであ

    ろう。奔放なブランクヴァースは固より、頭韻の使用に際しても、後の頭韻詩人

    K・J・ジムロック(1802–1876)と C・Fr・W・ヨルダン(1819–1904)とは違って、

    精確な知識にアクセスしてはいない。ジムロックの『エッダ』翻訳(1851)とヨル

    文庫本で原作を読んでみて、ますます疑問は強まり、ほかの作品も改めていくつか読ん

    でみました。『火打箱』『白鳥』『ユダヤ娘』『かたわもの』『親指姫』……〔改行〕

    作品に一貫して流れている基調は「醜い者には汚い心、美しい者には美しい心」という

    恐るべき差別思想と、王様を賛美し、貧乏人は現状に甘んずるのを美徳とする典型的反

    動思想であります。そして「醜い・美しい」の判定は、すべて俗物的常識にしたがった

    アンデルセンの基準にほかなりません。アヒルやモグラやカエルは醜くて、ツバメや白

    鳥やチョウチョは美しく、したがって心の美醜もその通りなのです。最も許せないのは、

    アヒルは生涯アヒルであることの哀しみを、一かけらも理解していないことであります。

    アヒルの中の変種だと思ったら白鳥だった、乞食だと思ったら王子だった、といった正

    に「おめでたい」お話しが充満している。現実に乞食である人、現実に醜い者、とうて

    い回復しえない身障者の心を、この男は考えたことがあるのでしょうか。かれらに「あ

    きらめろ、夢でも見ておれ」と残酷に叫んでいるのが、このたくさんの作品群なのであ

    ります。[本多: 196]

    こういった「俗物的」価値系列つまり広く流布している一般的美的「基準」に対するカウ

    ンターブローの 1つとして例えば 1960年代北米合州国から„Black is beautiful“が轟くのは「ア

    スラオガ」の遥か(か僅か)1.5 世紀先のことである(当時マルコム X がスピノザをも黒人

    と見ており、現在でも„Was Jesus black?“や「黒いアテナ」のようなトピックが絶えることが

    ない)。米国南部・戦下北ベトナムの取材を終えていた本多の念頭に特に何があったかは

    想像に難くない。この時期遠藤周作が谷崎や安吾と違って全く開き直れておらず、「黄色

    い人」を無限に省察していた。とはいえ、白黒または明暗の美醜序列は現実上では特には

    絶対的でない。20 世紀後半に世界に広まった人体美のコンテスト分野では、ヨリ暗く黒い

    肌色ほどヨリ勝利に近付く。その総本山 IFBB(合州国)主催の「ミスター・オリンピア」

    のドキュメンタリー映画 Generation Iron(2013)では「褐色」の肌がキーワードですらある。

    また他にも例えばタンニングの文化史を加味すれば、かかる序列の基盤はなお揺らごう。

    ところで、フーケと文通があった H・v・クライストの『聖ドミンゴ』が或る種クライスト

    版ポカホンタスの趣ありとするなら、「アスラオガ」がフーケ版『ケートヒェン』とも見

    えてくる。いずれにせよ民族的美的イデオロギーあるいは社会階層イデオロギーの色合い

    いささか濃厚な貴種流離譚である。もともと、例えば第 2 部でクリームヒルトがニーベルン

    グ族限定のエスノセントリズムを展開する箇所、例えば妻のアスラオガをそっちのけにス

    ウェーデン王女に気を惹かれるラグナーを諫める上で臣下のハラルドが„Morgenland“の一夫

    多妻制と自分たちの一夫一婦制を対比したりする箇所があるような作品である。確かに

    「アーリア」言説が猖獗するのは後のことだが、少なくともブルーメンバッハの著作は出

    揃っていた。「アスラオガ」を「人種」文学へと脱構築することに特に無理はあるまい。

  • 40

    ダンの詩行は Stabreimvers を現代語でほぼ完全に再現している。各々作品の冒頭部

    分を引用すると:

    Allen Edeln || Gebiet ich Andacht, (aaxa)

    Hohen und Niedern || Von Heimdalls Geſchlecht: (axax)

    [Simrock 1851: 3]

    Ich wage zu wandeln || verlaſſene Wege (aaxa)

    Zur fernen Vorzeit || unſeres Volkes. (aaxa)

    [Jordan 1867,68: 1]

    Von Hildebrants Heimkehr || und Hadubrants Ausfahrt (aaax)

    Das verlorene Lied || verlangt anf’s neue (aaax)

    [Jordan 1874: 1]

    という風に、確かに第 4 章で見た古代の Stabreimvers を現代に蘇らせているのが看

    て取れる。ただ、しかし、これも「ほぼ完全に再現」しているに過ぎない。例えば

    [Holz: 126]が、ヨルダンについて、その詩行が、後半詩行の第 1 主揚格にのみ置

    かれる Hauptstab、という規則から外れることがあって、「古ゲルマン語詩行の規

    則から外れている」、と判断しているが、今引用している所でまさに両人ともこの

    違反をしている(Hauptstab が後半詩行の第 1 主揚格に置かれていない)。つまり

    文献科学学的に精確に古代語復古をしているとして知られている名匠の筆もまた、

    規則再現そのものを目的とはしていないかもしれないのである。

    ましてやフーケ・ワーグナー、である。その志向は古語詩の復古ではない。ま

    ずもってその「詩行」は、頭韻が鳴り渡る散文、戯曲のテキスト、台詞集なのであ

    る。頭韻に加えて古語調の人名を出演させた新高ドイツ語の戯曲である『北方の英

    雄』(と『英雄戯曲集』)。『スノッリのエッダ』・『ヴォルスンガ・サガ』・

    『シズレクのサガ』・『ヘイムスクリングラ』・『エギルのサガ』・『ギースリの

    サガ』から自由にキャスティングしていたワーグナー[Fjågesund: 405]。韻文の

    歴史から見れば、形式よりも意味、形態よりも効果演出に主眼がある近代に、散文

    を志向するのはもっともである。これは、モーリッツ(と何よりもクロプシュトク)

    がドイツ語韻律を形式でなく意味から導出して以来の方向である。19 世紀ニーベ

  • 41

    ルング系作品は、近代人による近代作品であり、あらゆる真の古典主義(Klassizis-

    mus)同様、骨董愛好的な擬古趣味の産物ではないようである。

  • 42

    引用文献

    本多勝一: アンデルセンの不安と恐怖. 『看護』1975年1月号. In: 『本多勝一集』

    第 17 巻: 殺される側の論理(第 9 回配本). 朝日新聞社 1995. S. 195–197.

    竺家寧: 語言風格與文學韻律. 台北: 五南圖書出版公司, 2001.

    Allgemeine deutſche Real-Encyclopädie feur die gebildeten St

    eande. Converſations⸗Lexikon.

    In 15 Bd.en. Bd. 1: A bis Balbuena. Leipzig, Friedrich Arnold Brockhaus, 9,

    Originalaufl, 1843.

    Arndt, Erwin: Deutsche Verslehre. Ein Abriß. Berlin: Volk und Wissen Verlag GmbH, 13.,

    bearb. Aufl., 1995.

    Balthazar, Scott Leslie: Historical Dictionary of Opera. Lanham, Maryland: Scarecrow Press,

    Inc, 2013.

    Bertschik, Julia [u. a.] (hrsg.): »Wo Leben ist, da ist Fortgang und wechselnde Phisiognomie«.

    Caroline de la Motte Fouqué. Beiträge zur Forschung und Bibliographie. Norderstedt:

    Books on Demand GmbH, 2015. (Kleine Reihe Caroline de la Motte Fouqué 4.)

    Buschinger, Danielle: Das Mittelalter Richard Wagners. Übersetzt von Renate Ullrich u.

    Danielle. Buschinger, Würzburg: Verlag Königshausen & Neumann GmbH, 2007.

    Curran, Jane Veronica: Horace’s Epistles, Wieland and the Reader: A Three-Way

    Relationship. London: W. S. Maney & Son Ltd, for the Modern Humanities Research

    Association and the Institute of Germanic Studies (University of London), 1995.

    Danton, Annina Periam: Hebbel’s Nibelungen. lts Sources, Method, and Style. New York:

    The Columbia university press, The Macmillan company, agents; London, Macmillan

    & co., ltd. 1906. (Columbia University Germanic Studies Vol. III, No. 1)

    Engel, Eduard: Geschichte der deutschen Literatur von den Anfängen bis in die Gegenwart.

    Bd. 2. Das 19. Jahrhundert und die Gegenwart. Paderborn: Salzwasser Verlag GmbH,

    2015. Nachdruck des Originals von 1908.

    Feldbausch, Felix Sebastian: Deutſche Metrik nach Beiſpielen aus klaſſischen Dichtern.

    Heidelberg: Universitätsbuchhandlung von Karl Winter, 1841.

    Fjågesund, Peter: The Dream of the North. A Cultural History to 1920. Amsterdan / New

    York: Editions Rodopi B.V., 2014.

    Fouqué, Friedrich de la Motte: Der Geheornte Siegfried in der Schmiede. In: Friedrich

    Schlegel (hrsg.): Europa. Eine Zeitſchrift. Bd. 2. Frankfurt am Main: Friedrich

  • 43

    Wilmaus, 1803. S. 82–87.

    Fouqué, Friedrich de la Motte: Der Held des Nordens. In 3 Tl.en. Berlin: Julius Eduard Hitzig,

    1810.

    Fouqué, Friedrich de la Motte: Heldenſpiele. Stuttgart / Tübingen: Johann Georg Cotta’sche

    Buchhandlung, 1818.

    Freese, Karl: Griechiſch-reomiſche Metrik. Dresden / Leipzig: Arnoldische Buchhandlung,

    1842.

    Fröschle, Hartmut: Goethes Verhältnis zur Romantik. Würzburg: Verlag Königshausen &

    Neumann GmbH, 2002.

    Götzinger, Max Wilhelm: Die deutſchen Sprache und ihre Literatur. Bd. 1. Tl. 2. Stuttgart:

    Hoffman’sche Verlags-Buchhandlung, 1839.

    Grässe, Johann Georg Theodor: Lehrbuch einer allgemeinen Literärgeſchichte aller

    bekannten Veolker der Welt, von der

    ealteſten bis auf die neueſte Zeit. Dresden /

    Leipzig: Arnoldiſche Buchhandlung, 1839.

    Grimm, Jacob (hrsg.): Andreas und Elene. Cassel: Theodor Fischer, 1840.

    Habenicht, Hans: Die Alliteration Bei Horaz. In: Programm des kaiserlich königlichen Staats-

    Ober-gymnasiums zu Eger 1885. S. 1–27.

    Harjung, Dominik J.: Lexikon der Sprachkunst. Die rhetorischen Stilformen. Mit über 1000

    Beispielen. München: Carl Heinrich Beck’sche (Oscar Beck) Verlagsbuchhandlung,

    2000. (Beck’sche Reihe 1359.)

    Harrison, K. David: The Last Speakers. The quest to save the world’s most endangered

    languages. Washington, D.C.: National Geographic, 2010.

    Heusler, Andreas: Deutsche Versgeschichte. Mit Einschluß des altenglischen und

    altnordischen Stabreimverses. Berlin: Walter de Gruyter & Co., 2., unveränd. Aufl.,

    1956. Bd. 1.

    Hofmann, Heinz: Von Africa über Bethlehem nach America: Das Epos in der neulateinischen

    Literatur. In Jörg Rüpke (hrsg.): Von Göttern und Menschen erzählen.

    Formkonstanzen und Funktionswandel vormoderner Epik. Stuttgart: Franz Steiner

    Verlag, 2001. (Potsdamer altertumswissenschaftliche Beiträge 4.) S. 130–182.

    Holz, Georg: Der Sagenkreis der Nibelungen. Leipzig: Verlag von Quelle & Meyer, 1907.

    (Wissenschaft und Bildung 6.)

  • 44

    Hopf, Georg Wilhelm: Alliteration, Aſſonanz, Reim in der Bibel. Ein neuer Beitrag zur

    Würdigung der Luther’ſchen Bibelverdeutſchung. Erlangen: Verlag von Andreas

    Deichert, 1883.

    Jha, Kalanath: Figurative poetry in Sanskrit literature. Delhi / Varanasi / Patna: Motilal

    Banarsidass, 1975.

    Jordan, Wilhelm: Nibelunge. (Erſtes Lied.) Sigfridſage. Frankfurt am Main: W. J.s

    Selbstverlag, 1867 u. 1868. Leipzig: Friedrich Volckmar.

    Jordan, Wilhelm: Nibelunge. (Zweites Lied.) Hildebrants Heimkehr. Frankfurt am Main: W.

    J.s Selbstverlag, 1874. Leipzig: Friedrich Volckmar.

    Kehm, Tobias Hermann: Der Nibelungenmythos im Ersten Weltkrieg. Die Entstehung

    kontrafaktischer Narrationen und deren Wirkung auf das Geschichtsbewusstsein.

    Hamburg: Diplomica Verlag GmbH, 2015.

    Knüttell, August: Die Dichtkunſt und ihre Gattungen. Ihrem Weſen nach dargeſtellt und durch

    eine nach den Dichtungsarten geordnete Muſterſammlung. Breslau: Verlag von Graß,

    Barth und Comp., 1840.

    Koberstein, Karl August: Grundriß der Geſchichte der deutſchen National⸗Litteratur. Zum

    Gebrauch auf Gymnaſien. Leipzig: Friedrich Christian Wilhelm Vogel, 3., verb. u.

    zum greoßern Theil v

    eollig umgea. Ausg., 1837.

    Kurz, Heinrich: Handbuch der poetiſchen Nationalliteratur der Deutſchen von Haller bis auf

    die neueſte Zeit. Vollſtändige Sammlung von Musterstücken […]. Abtlg. 3:

    Kommentar. Zürich: Verlag von Meyer und Zeller, ehedem Ziegler und Söhne, 1842.

    Löwe, Gustav / Goetz, Georg: Glossae nominum. Leipzig: Benedictus Gotthelf Teubner

    Verlag, 1884.

    Meyer, Johannes: Deutſche Literaturkunde für den Schulgebrauch. Mit ſteter Beziehung auf

    die Lektüre bearbeitet. Leipzig: Verlag der Dürr’schen Buchhandlung, 4. verb. und

    bis auf die Gegenwart fortgef. Aufl., 1909.

    Minor, Jakob: Neuhochdeutsche Metrik. Ein Handbuch. Straßburg: Verlag Karl J.

    Trübner, 2., umgearb. Aufl., 1902.

    Morgan, Les / Sharma, Ram Karan / Biduck, Anthony: Croaking Frogs. A Guide to Sanskrit

    metrics and figures of speech. Mahodara Press, 2011.

    Müller, Ulrich / Panagl, Oswald: Ring und Gral. Texte, Kommentare und Interpretationen zu

    Richard Wagners „Der Ring des Nibelungen“, „Tristan und Isolde“, „Die

  • 45

    Meistersinger von Nürnberg“ und „Parsifal“ von U. M. u. O. P. unter Mitw. von

    Annemarie Eder, Irene Erfen, Thomas Lindner und Michaela Müller-Auer. Mit einem

    Geleitwort von Peter Emmerich. Würzburg: Verlag Königshausen & Neumann GmbH,

    2002.

    Muth, Richard von: Einleitung in das Nibelungenlied. Paderborn: Verlag von Ferdinand

    Schöningh, 1877.

    Ottmann, Richard Eduard: Ein Büchlein vom deutschen Vers. Giessen: Verlag von Emil Roth,

    1900.

    Pawel, Jaro: Neue Beiträge zu Klopstocks Messias. (Apostroph, Hiatus, Alliteration.) Wien:

    Verlag der Oberrealschule in der Josefstadt, 1881.

    Philippi, Ferdinand: Darſtellung der lateiniſchen Proſodik, Rhythmik und Metrik nach dem

    gegenwea rtigen Standpunkte der Wiſſenſchaft zum Selbſt⸗ und Schul⸗Unterricht.

    Leipzig: Carl Christian Philipp Tauchnitz, 1826.

    Rafn, Carl Christian: Fornaldar sögur norðrlanda eptir gömlum handritum. Bd. 1.

    Kopenhagen: Prentadar í Enni Poppsku prentsmidju, 1829.

    Ranninger, Franz: Über die Allitteration bei den Gallolateinern des 4., 5. und 6. Jahrhunderts.

    Landau: Buchdruckerei K. & A. Kaussler, 1895. (Programm des Königlichen

    humanistischen Gymnasiums Landau für das Schuljahr 1894/95.)

    Riedel, Christian: Alliteration bei den drei grossen griechischen Tragikern. Diss. Erlangen:

    Universitäts-Buchdruckerei von E. Th. Jacob, 1900.

    Reallexikon der deutschen Literaturgeschichte. Begr. v. Paul Merker u. Wolfgang Stammler.

    2. Aufl. Neu bearb. u. unter redaktioneller Mitarb. v. Klaus Kanzog sowie Mitw.

    zahlreicher Fachgelehrter hrsg. v. Werner Kohlschmidt u. Wolfgang Mohr. Berlin /

    New York: Walter de Gruyter, 2001. Bd. 1.

    ––– Bd. 3.

    Rostgaard, Frederik (hrsg.): Deliciae quorundam Poëtarum Danorum collectae et in II. tomos

    divisae. Tomus secundus. Leiden: Jordaan Luchtmans, 1693.

    Saran, Franz: Deutsche Verslehre. München: Carl Heinrich Beck’sche Verlagsbuchhandlung

    Oskar Beck, 1907. (Adolf Matthias (hrsg.): Handbuch des deutschen Unterrichts an

    höheren Schulen 3.3.)

    Sievers, Eduard: Altgermanische Metrik. Halle: Max Niemeyer, 1893. (Wilhelm Braune

    (hrsg.): Sammlung kurzer Grammatiken germanischer Dialekte. Ergänzungsreihe: II.

  • 46

    Altgermanische Metrik.)

    Sievers, Eduard: Metrische Studien. IV: Die altschwedischen Upplandslagh nebst Proben

    formverwandter germanischer Sagdichtung. Tl. 1: Einleitung. Wiesbaden: Springer

    Fachmedien Wiesbaden GmbH, 1918. (Abhandlungen der philologisch-historischen

    Klasse der Königlich Sächsischen Gesellschaft der Wissenschaften 35.)

    Simrock, Karl: Die Edda die ältere und jüngere nebſt den mythiſchen Erzählungen der Skalda.

    Stuttgart / Tübingen: Johann Georg Cotta’scher Verlag, 1851.

    Steuer, Heiko: Das „völkisch“ Germanische in der deutschen Ur- und

    Frühgeschichtsforschung. Zeitgeist und Kontinuitäten. In: Heinrich Beck, Dieter

    Geuenich, Heiko Steuer, Dietrich Hakelberg (hrsg.): Zur Geschichte der Gleichung

    „germanisch–deutsch“. Sprache und Namen, Geschichte und Institutionen. Berlin /

    New York: Walter de Gruyter, 2004. S. 357–502.

    Stockinger, Claudia: Das dramatische Werk Friedrich de La Motte Fouqués. Ein Beitrag zur

    Geschichte des romantischen Dramas. Tübingen: Max Niemeyer Verlag GmbH, 2000.

    (Studien zur deutschen Literatur 158.) (Karlsruhe, Univ., Diss., 1999.)

    Struck, Wolfgang: Konfigurationen der Vergangenheit: Deutsche Geschichtsdramen im

    Zeitalter der Restauration. Tübingen: Max Niemeyer Verlag GmbH & Co. KG, 1997.

    Voß, Johann Heinrich: Zeitmeſsung der deutſchen Sprache. Beilage zu den Oden und Elegieen.

    Königsberg: Friedrich Nicolovius, 1802.

    Wagenknecht, Christian: Deutsche Metrik. Eine historische Einfuhrung. München: Verlag

    Carl Heinrich Beck, 5., erw. Aufl., 2007.

    Wagner, Karl (hrsg.): Poetiſche Geſchichte der Deutſchen. Vorzüglich für den Unterricht in

    der deutſchen Sprache und Geſchichte. Darmstadt: Verlag von Carl Wilhelm Leske,

    3., verm. Aufl. der „deutſchen Geſchichten aus dem Munde deutſcher Dichter“, 1841.

  • 47

    Der Sprachstil von Fouqués Der Held des Nordens

    – Alt-germanisierendes Verhalten in Dramen aus dem 19. Jahrhundert–

    MATSUNAMI Retsu

    Zusammenfassung: Behandelt ist hier Friedrich de La Motte Fouqués Nibelungentrilogie

    Der Held des Nordens (1810). Untersucht ist einiges Metrisches desselben. Erstens gegeben

    werden seine Entstehungshintergründe, dann die Metrik, d. h. der Blankvers, auffallende

    Alliterationen sowie ihre klägliche Effekte, verglichen mit dem Stabreim im eigentlichen

    Sinne. Dabei spielen auch Versen von Richard Wagner, Karl Simrock, und Wilhelm Jordan

    mit. Weiter erzielt ist aber, am 3.ten Teil, Aslauga, die meisterhafte Leistung einer Integration

    sinnaufgeladener figurhafter Laute und ihrer textinterner (und auch z. T. textübergreifender)

    Sinnzusammenhänge zu konstatieren.