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Title カフカ : 「審判」試論 Author(s) 谷口, 廣治 Citation [岐阜大学教養部研究報告] vol.[9] p.[145]-[158] Issue Date 1973 Rights Version 岐阜大学教養部第二外国語教室 (Faculty of General Education, Gifu University) URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/45978 ※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

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Title カフカ : 「審判」試論

Author(s) 谷口, 廣治

Citation [岐阜大学教養部研究報告] vol.[9] p.[145]-[158]

Issue Date 1973

Rights

Version 岐阜大学教養部第二外国語教室 (Faculty of GeneralEducation, Gifu University)

URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/45978

※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

谷 口

岐阜大学教養部第二外国語教室

(1973年11月31日受理)

I

廣 治

145

「審判」 試論カ フ カ :

カフカの評価をめぐって

ー ルーカチ と ガ ローデ ィ

マルクスの疎外論とカフカの関係は, 独自に検討を深める必要があるとしても,

. 57

こで見るW

その脚で床の上に立つ七いるのではなく , 頭で逆立ちをしている。 そしてその木頭で気まぐ

れ踊 りを展開していく。 それは机が自分から踊 りはじめたと した場合よ りもはるかに奇妙き

てれつな踊 りである」 と。 いやこれはカフカのオ ドラデク ( カフカの一作品名一引用者) で

はない。 また, ルー ドヴィ ヒ ・ ティ ークの描いた物体でもなければ, ポーのそれでもな く ,

ゴーゴリのそれでもない。 カール ・マルクスの 『資本論』 第一巻第一篇第一章第四節に述べ

られている, 商品となった机のことなのである?)。

さあ, 身を よせかくれあわねば……

生命は人々のこころのなか

棺のなかにひそむよう¥ - ラ ス カ ー ● シ ェ ー ラ ー-

カ フ カの作品世界がすべて, 現代人の疎外という社会現象に収斂してゆく といっても,

決して過言ではあるまい。 巨大な馬糞虫に変身したおかげで家族から排斥され, 惨めきわま

る死を迎える保険外交人グレゴール ・ ザムザの運命も, 永久に辿 りつけない城に翻弄される

K の生も, まさに青天の扉震そのままに無罪の人間に振 りおろ される判決の稲妻に打ち く だ

かれるも う一人のKの死も, すべてが, 一切の主体の働きかけを拒否して冷たくそそ り立つ

社会的現実の前にひざをつく現代人の挫折の悲劇と, その告発のヴァ リエーシ ョ ンにすぎな

い。 カフカの世界の真中で黒々と と ぐろを巻いて いるのは, さ まざまに形象化を うけ, もの

となった不気味な疎外である。 この世界と疎外の関係をカフカと同じユダヤ人の哲学者, ギ

ュ ンタ ー ・ アソダースは以下のように分析している。

“今日, われわれの目に人間がものと。して映るのは, 人間が動物的な本性を持ってt るヽから

ではなくて, 無理矢理ものの機能に逆戻りさせられているからである。 それゆえ今日の寓話

作家は, 〈人間ばものである〉 というスキャンダルを暴露してみせるには, 事物が生きものと

して登場 して く るよう・な フ ァーペルを作 りださねばならない。 これがカフカの引き出した結

論である。 こ ういう帰結に達しだのは, かれが最初である。 す く な く と も。 ほとんど最初だ

ったといってよい。 というのはひと りだけ先輩があったのだ。 次の文章はある著名な本から

の引用である 「机はひとっの感覚的であ りながら超感覚的なものに変身する。机はもはや

146 谷 口 廣 治

かぎ りマルクスの援用はあながち強引とも言えない。 そ して, 文学が常に時代の反映である

という事情以上に, 疎外とカフカの世界は, 内容, 形式両面で完全に一体化したものであ り,

カフカ研究界の激しい否定と絶讃の渦はまさにこの一点を中心にして施回しているように思

われる。 今日資本主義体制のあ りとあらゆる矛盾の途方もない尖鋭化に比例してますます深

まる疎外的情況が, リアリズム文学には不利な文学的土壌を うみ出しつつあることは否定さ

れない。 それゆえにこそ, リア リズム陣営でiま, ブルジョア作家の手になる疎外の表現への評価

をめぐる問題は, リアリズムの立場から疎外乍どう表現するかという創作実践上の課題と表裏一体

のものとして, 焦眉の性格を持ち, 激しい論争が展開されている。 カフカをめぐる論争は表現主

義論争とならんで, その典型的なあられ方をとっているものであろう。 ここでは, 相対立する陣

営のうちから, 最も代表的な批評家をぬきだして, その論争点をあきらかにしてみたい。

ヵ 7 力に見られる疎外めと ら)え方と描き方に最も鋭い反発を示す批評家と して, まず第一

にジ日ルジュ ・ルカーチをあげなければなるまい。 ゲーテに代表される ドイツ古典主義を文

学の範とするルカーチの健全な感覚は, こめ作家の世界にデカダンスの腐臭をかぎとらずに

はいられない。彼の著書(批判的リアリズムの現代的意義について5)の1つの章「カフカかトーマス ・ マ ソか? 」 で, その題名から既に推察されるように, カフカは 「二十世紀の リア

リス ト」 トーマス ・ マ ソとは対照的に, 現代文学の体内に巣 く い, 古典主義文学の養分を喰

いほろぼす癌細胞と も言うべき彼の不具戴天の敵モダユズム文学の代表者と して, 激しい批

判にさ らされている。

“カフカは形式の上七は, ホフマンよりはるかに彼岸的である。 イヒけ物じみた物は, 資本

主義的な 日常の此岸の形式り 内部に腰をすえたままであ り, 従って日常性そのものが, 化け

物じみた恚のに化するのであって, ホフマ ン流の化け物ではない。 しかし, まさにそのこと

によって, 世界の現実にある統一がひきちぎられ, そ してその本質からいえば主観的な幻想

が, 客観的な現実の本質として表現されるのである。。………(1!

大ざっぱな言い方をすれ凪 ルカーチの批判の背骨にあるのは「机は実かと庄踊るものではない。」 とい う, 極めて堅固な現実感覚である。 勿論, 机が踊 り, 人間が虫に変身するとい

うファンタ ジーすら一切文学の世界から追放するまでの狭量さを, ルカーチの理論はもっては

いない。 彼のリア リズム論をつらぬく テーマの一つは, 主観と客観の, 現象と本質の弁証法

的な統一であ り, 創造的主体の感覚や幻想をそのままに描出し直接性に固執する創作態度は

主観 と客観的本質の混同と看倣され, 自然主義批判の際にも彼が鋭く否定しているところで

。ある。“形象と現実とを比較することによって, 歪曲された形象の本質, 原因, 媒介物などを

具体的に暴露しかいで, そう した意識状態を, 直接かっ無条件的に現実そのものと同一視し,

またその意識の中に存在している形象を, 歪曲されたそのままのかたちで, 事実そのものと

‥同大廊卜す右作品が, 疎外に悩む現代人の内部にどんなに深レリアリ‥ティ_をもって突きささろうとも, それは誤った現実認識を導き出し, 前途した弁証法的統一の課題をその時代水

準に応じてつらぬいてきた万古典主義文学の正しい発展の道からそれるものだとされるのであ

る。 こうしたルカーチの理論をひきついだ。レオ・ コフラーが, 木条理文学を 「ブルジョア的

顛廃を独自なやり方万表現ずる現代剖II熹圭義文学」 と命名しごいるのも当然であろう。彼口,不条理文学の内容上, 表現上の特徴を, ①現代の疎外という秘密をどう七ても解明できない

ところからくる宿命観, ②人間の受動性 ③経験的なものの限界の無視 ④衝動的, 病理的方向にむかっての人間解釈り一面化, 等にまとめている頷) これらの特徴がそのままカフ・カの作品に適用されるこ とは否定されまい。 そ して, ルカーチの理論をつきつめてゆけば, カ

フカの描く不気味に歪んだ世界像は, 個別化の操作を基本的に規定する作家の世界認識の歪

58

147

う して ニヒ リズム作家のチ ャンピオ ンと しての否定的力

f

カフカ : 「審判」 試論

“彼 ( カフカー引用者) は, 芸術的な普遍化の必要不可欠なことを常に意識している。 だ

が, 何を彼は抽象化するのか? そしてどのように ? 彼自身によって, 彼の寓意化によって,

彼の超越的なニヒルによって無価値と販められた日常生活の諸要素を, である。 そ してまさ

にこの寓意的超越者のゆえに, 彼は リア リズムの道を とるこ とができない。 つま り彼を この

ように暗示的に触発する個々のものを, 典型的なものの特殊性へと高めることができないの

である。 ……この点で, カフカはこの時代のー その体質から して寓意的な前衛主義全体に

とっての範例になる(2)。

だが, ルカーチやコフラーのこのよ うな立場は, リア リズム陣営のカフカ評価にあって今

や小数派の位置にあることを指摘しなければならない。 既に1963年のカフカ会議で, ゴルト

ジュトユッカーが, 従来迄カフカを ブルジョア的デカダンスの代表に見て, 本質上体制擁護の

文学の中に組み入れていたマルクス主義陣営の図式主義的悪弊をあらためる必要があると主

張し, 一例と してカフカの作品に労働者階級のイデオロギーに影響を受けた積極的な要素を

提起しつつ, カフカに対する評価の再検討をうながしている力ぐ) こうしたカフカ再評価の急先鋒の役割を果しているのがpジエ・ガローディの問題の書 “岸辺なきリレアリスム(??である。

“それゆえに, 今日リア リズムの置かれた立場を見極め, リア リズムを約60年もの間人間

精神の中に生起しえたものに応じながら再評価を求める本は, ただ僕にだけしか意味を持だ

ない興味本意の書物ではないし, そのようなものではあ りえない。 それは本質を衝く もので

ある。 決定的なものを生み出さなかったし, しかも新しい事実を重視せずには命脈を保持し

えないというリアリズムの命運そのものを衝くもの吋 。序文において, このような熱狂的な歓迎を革命詩人ルイ ・ アラゴンから受けたこの著書は, カフカをデカダンスの系列からはず

し, 彼の作品に現代のリア リズムの救世主的役割を期待するという主旨につらぬかれたもの

である。 ここでガローディは‥カフカ研究界の三つのブルジ ョア的偏向, 既ち第一にその作

品世界を父親との必理的葛藤に還元するフロイ ト主義, 第二に疎外世界をcondition

humaineとみたてる実存主義, そして最后に否定神学的解釈を, 伝記的資料を駆使しつつ両

断し, 返す刃で, 「教条主義的」 なマルクス主義的解釈に鋭い批判を加えている。 特にバル ド

ーの危機神学に触れながら, ガローディはカフカのニヒ リズムに, ルカーチとは全く別の角

度から光をあて, 新しいカフカ像を提出するのである。“カフカにあっては, 信仰とは人間が

人生の疎外を克服せねばならないし, そして克服し うるという希望であり確信である。 たと

え人間がその克服の行方を明瞭に見つめることはないと しても。 真に人間的な存在は, この

の疎外の壁を超えたところに可能なのだ。 カフカの全作品はこの疎外に挑む…‥。(1゙“即ちガロ

ーディがカフ カ世界から抽出するテーマは, 疎外された人間の受動的な生ではなく , 疎外克

服のための積極的な闘いなのである。 それ故にこそ同質の思想家としてしばしば引用される

キルケゴールとのカフカのちがいぱ 明確な一点に論拠が置かれる。 それは人間の主体的意

志だ?。とされ, 挫折を扱った作品の場合にも,“時としてゲーテ的な響き? が簡きとられると評価が下される。 他のモダエズム作家との関係についてはガローディは積極的にはふれては

いないが, 疎外への屈服や妥協を描いた他のアヴァ ンギャル ドとは, 異質な世界観的基礎の

上にカフカを と らえているものと見て も, ガローデ ィの基本的主張から大き く それるこ とは

あるまい。 非ニヒ リス トと してのカフカ, 闘争者と してのカフカ像を作 りあげる基本的操作

が完了すれば, ルカーチなどが排斥する″その作品の否定面が俄然積極的な色彩を滞びること

になるのは理の当然である。 カフカの病的な表現形式は, この疎外という事実に対して斗う

59

みに第一原因をもつものとされ,

フカ像が完成する。

W

1

プロノ トイス的な勇気を読者に鼓舞する為に必要不可欠な道具立てという意義を獲得するの

である。“カ フカの物語には, 習慣的世界がそのままの形で存続 している。 だが, 物語が開始

したとたんに, ある異常な事態が全体の照明を変えて しまう。 この衝撃が私たちを 目ざめさ

せるのだで疎外世界の重苦しい形象や果しない矛盾撞着のづらなりのなかで, “まるで暴風雨の中に閃めく稲妻の彼方に, 別のある世界の可能性を私たちに予見させ, あるいはその可

能性への止み難い要求を私たちに煽り立てる? カフカめ世界の認識者としての役割がこの著作の全編にわたって強調されているが, 細部のリア リスティ ックな描写と怪奇で非経験的な

形象の断絶が, こ う して高度な認識的意義によって統一されるこ とになる。 そしてこの両者

の距離が大きければ大きいほど, 換言すれば形象の歪曲が進めば進むほど, 課題はますます

高度に達成されるというわけである。

こ う して両者の主張を併列してみる と, 現代の リアリズム文学のかかえている問題が, 一

定の具体性を滞びて浮び上ってござるをえない。 その第一は, 現代作家が, 誰しもまぬがれ

ない, 世界観と してのニヒ リズムの評価問題である。 デカダンスのもつ二面性

谷 口 廣 治148

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3

4

5

6

60

即ち一方

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1

2一

は容赦のない現実批判精神のもたらす進歩的意義と, 他方は肯定するものを何一つ持てない

という現実喪失感がもたらす非合理主義への傾斜の危険性- を決して見忘れてはならない

と, モダエズム作家評価に際 しての原則的視点を強調したのは, エルソス ・ フ ィ ッシャーで

Iある力でその彼もカフカについてはトーj ノレな評価を避けている。おそらくは, それはカフカの作品がそれな りに多様であ り, ニヒ リズムの濃淡の度合が種々に異なる事情が統一的な

判断を困難にしているこ との反映でもあろ うが, いずれにしても, 二者択一が常に作品を根

拠として具体的に展開されなければならない事を フ ィ ッシャーは示唆している。 その意味で

は, ガローディのカフカ論が, 矛盾をはらみ陥し穴を無数にかく した伝記的資料から暗い心

情吐露にいろどられた部分を捨象する操作を経ては じめて成立 した カ フカ像を, いささか

強引に作品のなかにはめこんでいる難はまぬがれない。 又軸を移せば, ルカーチにも同様の

事態があてはまるだろ う。 徹底した時代の否定者 ・批判者であ り, それな りに斗いの方向を

打ち出しつつも, 進歩的意義よ りは否定的意義の方を よ り大き く文学 ・思想史に残したニー

ヂエやショ ーペンハウアーの思想を中軸に置けば, カフカの作品内の世界観はどのように位

置づけられるものか。 これは具体的な作品分析を離れては検討不可能な問題であろ う。 ここ

で 「審判」 を選んだのは, この作品が, カフカの全作品中で, ニヒ リズムの濃度が最も高い

ものと思われるが故に他な らない。 ガローディの理論はその方向から見て, 最も否定的な作

品でこそ検証されなければなるまい。 第二の問題は, リア リズム論の中核を しめる典型概念

をめぐるものである。 ,も し, 典型が時代や社会の本質を独自的なかたちで反映する芸術的形

式であるな らば, 同じ く時代の疎外の本質を追求する次元で展開されているルカ ーチとガロ

ーディの主張がなぜ 180度も食い違うのか? これも熊じ詰めれば, 結局現代という時代を ど・ ・ - ・ ・ ・・ ・ ・ - ・ ・ - ・・ ・ I ・ ・ ・ ・ ・ ・ - ・ - ・ ・ ・ ・ - - - ・ - - - - ・ ・- - ・ ・ - - - - -・ ・ ・ ・ ・ - - ・ - - -・ ・ 戸 I ¶ ■ ■■ ■■ ■■ ■ ■ ■ ■■ ■ ■ ■■ ■ ■ ㎜ ■ ・・ ■■ ■■ ■ ■ ■ ■ ■ ■■ ■■ ■ ■ ■■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

う と らえるか, という問題に吸収されてゆぐ観がするが, 本論で考察上の手がか りだけでも

得たいものである。

註 デギュンタ ー ・ アンダース i 「カフカ」 前田敬作訳, 禰生書房, S. 24.

Luk£cs : 「Uber die Bedeutung des kritischen Realismus von heuteJ Gesammelte W erke. Bd. 4

S. 324 .

Luk&cs : a. a. Q

Lukjics : 「E s geht um den RealismusJ S. 120 .

’レオ ・ コフラー : 「現代文学論」 池田浩士他訳, 合同出版, 第三章参照.

Luk&cs : a. a. 0. 犬

Q

a

9

9

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5

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(9)

(10)

7y

XX

IX

IX

S。204 .

S. 210 .

S. 236 .

S. 182 .

カ フ カ : 「審判 」 試論 149

彼は書いている。「ひと りめ人間が何か独創的なものを携えてやってきて, 『世界をあるがままにとらえ

ねばならない』 というのではな く , 『 も し この世界が欲するままになるのだと したら, 僕は人々の意向を

無視しないような独創性を支持する』 と語 りかけ̃ (前掲書S. 78) と訳出されているが, 後半の部分は

『たとえこの世界がどうい うものであれ, 僕は人々の意向のままに独創性をすてるようなことはしない』

と訳さなければ意味が通じない。 訳者が単尽翻訳技術だけではな く カフカの内面世界の理解にも大きく

欠けていることを示す誤訳は, 枚挙にい と まがない。

Luis Aragon : a. a. 0 . S. 15 .

Garaudy : a. a. 0 . S. 206 . ,

(7) Eduard Goldstiicker : 「弛er Franz Kafkaausder Prager Perspektive 1963」

Raddatz : 「Marxisrnus und Literatur J Bd. 3 , . S. 182 .

(8) Roger Garaudy: 「D’un 「6alisrnesans rivages」 6dition Plan. 1966.

なお本書には, 和訳書 (末永照和訳, 思潮社, 1970) が出版されているが, この訳は正確さ と語の的確

な選択を と もに欠いた悪訳の見本であろ う。 カフカの手紙を一例にとると,

Il ecrit : 《Dさs que vient un homme qui apporte avec lui quelque chose d’originel , qui ne

dit donc pas : 11 fant prendre le monde comme il est, ‥‥‥ mais pien; Que le monde soit

comme il voudra, je lmaintiens une originalit6 queje n゙entends pas renoncer au gr6 des gens

- 。 (S. 202. ) のく だ りは

IX

IX

ZX

そ して僕の宿命が

最後まで踊 り尽きるとき

血のしたた りの跡は数百万となって

おやじの家までのびるだろ う。

「審判」 一 悪夢の論理と法則

61

マ ヤ コ フ ス キ ー

I

II

E rnst Fischer : 「Entfremdung, Dekadenz, Realisuns」 ‘Sinn und Form” Januar 1963 . S. 216 .

“誰かがヨーゼフ ・Kを誹誇したにちがいなかった。 なぜなら何も悪いことを しなかったの

に, 或る朝逮捕されたからである(1)。こうした書き出しで始まり, 10章から成る中編小説 「審

判」 の構造は, ある意味では極めて単純なものである。 その単純さとは即ち, 三十才の誕生

日に不当な告発を受けてか ら, 丁度一年後に犬のように処刑される迄のKの行動が, ある

きまったパタ ーンに環元され, 同一の軌跡を繰 り返し描く にすぎない点にある。 逮捕され

て以降, 彼は裁判所と 闘お う と決意するものの, 裁判所の機構とそれとの対決方法がどう

してもわからないので, 裁判所関係一 廷丁の妻, 弁護士フル ト, 弁護士の小間使レーニ,

御用画家ティ ト レリ等に次々と助力を求め, その都度期待を裏切られてゆく。 そのたびごと

に, 巧妙に繰っているかに思われる裁判所の魔手がますます狭い円の中へ彼を追いつめてゆ

く という構造上の一点のちがいを考慮にいれれば, 期待を抱きそして裏切られることの執拗

リフ レイ ンは, 何とな く , 逃げようと しても足が思うにまかせず, ひたひたと近づいて く る

追っての足音を耳にする時の悪夢の胸苦 しさに近い印象を与えるものである。 特にKが殺さ

150 谷 口 廣 治

れる最後の場では, 町はずれの臨時処刑場の有様を見守る人の描写があるが, 犬

“彼のまな ざしは, 石切 り場に接した家の一番上の階に注がれた。 明りがつ く と一つの窓の

扉が開き, はるかに高い所にいるので弱々し くやせて見える一人の男が, ぐっと前に体を乗

り出し, 腕を大き く広げた。 一体誰だろ う ? 友人か? いい人間か? 関係している人間か? 助

けて くれよ うとするものだろ うか ? ……(2)

ごこで, 殺されるK とそれを眺める人の関係を, 延々と続いた悪夢から覚醒にむかいつつ

ある主人公Kの意識 と悪夢に依然と して うなされている彼のもう 一つの意識の,めざめの直前

に生まれる微妙な併存状態にと らえ直すこ とも可能であろ う。 これに限らずカ フカの描く世

界には, 寝覚めの悪い夢だとつき放した方がはるかに合理的に説明づけられるような場面が

あま りにも多い。 しかしながら, カフカの世界がまるで二日酔の悪感のように, われわれの

意識にしつ こ く 粘 りついて ぐるのは, その悪夢の鮮烈さだけに原因があるのではな く , おそ

らくわれわれが醒めた意識を もって対決する現実世界のある面を, カフカが極度に凝縮して

提示する故にも他なるまい。 即ち, 悪夢にも悪夢流に現実的秩序を再整理する論理と法則が

存在するのであ り, これらは造形者と してのカ フカの基本的な形象方法を見るとき, 一定の

範囲で類推できる ように思われる。

カフカの作品には, 第一章でもふれた ように, 2つの領域が併存 している。 一方は, カフ

力を リア リス トと見る評論に 1つの根拠を与えている, リア リステ ィ ックな表現に貫かれ,

経験的法則の支配する領域であ り, も う一方は現実世界の骨組を備えていず, 怪奇な形象が

乱舞する, 百鬼夜行めいた部分である。 この形象と現実間の領域は, まさに論者の数だけ解

釈が生まれ るた ぐいの, 殆ど無限の置換可能性を提出しているが, カ フカの作品が文学の自

己解体の限界を突き破 ってはゆかずに, ぎりぎりの地点でかろ う じて踏みとどまっているのは,

第一領域の効果が働いているからであろ う。 このようなカフカ世界の特徴をとらえて, 一種

の遊戯と解釈する見解も成立しえ ようが, 彼の創作方法が遊戯意識を厳 し く排斥しているこ

とは, 表現主義派の言語解体作用に示 している彼の激しい敵意が十分に説明するところであ

る?)現実離れした形象や, それが繰りひろげる非合理な運動は, 彼にあっては自己目的ではない。 否, それどころか, 非芸術至上主義者カフカには, リア リス トに固有の高度の認識者

姿勢が堅持されているのである。

ヤノ ーホの 「カフカとの対話」 は, カフカの創作観を多面的に紹介している点で興味深い

書物であるが, そこにのべられた一つのエ ピソー ドが, この作家の認識の姿勢とその特徴を

的確に示唆 している。 肥っち ょの男がシルクハッ トを被って貧之人の金の上に座っている情

景を描いた カ リカチュアを見せられて, カフカは次のように評価を下 している。

“この絵は正し く もあれば間違ってもいるの七す。 正しいとい うのは, ある方向について

です。 間違っTといるといケのは,‥そ,の局部的見解を総体的見解である,と断言する限 り, _ どい

うことです。 ………資本主義とは, 内から外へ, 上から下へ, 下から上へと連なる隷属性の

組識です。一切が隷属し, 一切が鎖はつながれているのです。……(で? ここに見られるカフカの視点を, ルカーチの言う主観的真実と客観的真理の弁証法的関係にひきつけるこ とは無理

だとしても, 彼が現象を表面的に写すのを嫌いj 真実をはらみ隠した社会的な深みへと描写

の筆をつき立てようと努めていたことと, それが社会的視野の下で対象の確認を志向する,

認識的意欲に裏づけられたものであるという事情は明白であろ う。 文学創作が彼に唯一の生

き甲斐を与えたのは, そこにおいてこそ カフカが独自の方法で世界を トータルにとらえ, 評

価づけるこ とが可能だったからに他なるまい。 認識者的姿勢は当然獲得された認識の伝達意

志につらなるものであ り, 又その意志が無限の置換可能性を提示する広漠と したひろがりの

62

区域をもう一つの領域の補助手段としか考えないことも理の必然である。 モれゆえ, カフカ

の認識意志が辿 りついた地点は後にまわして, 非現実的なものを, 現実的なものの単なる延

長と考える立場から 「審判」 の悪夢を構成ずる要因, 即ち非現実的な形象の分析に移りたい。

「審判」 の主人公ヨーゼフ ・Kを取力まく三つの生活空間のうち, 下宿での対人関係と職

場内の上司との出世争いを内容と した二つのものは, あきらかに単一の置換可能性しか持っ

てはいない。 問題になるめは, 被告の身分で彼が対決する裁判所との関係で展開される第三

の空間であり, 奇怪な形象や筋の非合理な展開は, この部分に集中的にあらわれている。 冒

頭の不当な逮捕以降, 裁判所は予期できないような奇妙な実態を次々に明らかにしてゆき,

Kを混乱に陥れるが, その実態の特微は三点にまとめられよう。 予審判事の置き残した法律

書を廷丁の妻に頼んで見せてもらう次のエピソードが, 特徴の一つを明示している。

カフカ : 「審判」 試論 151

言い, 女がKが本を手にする前に, エプロソで少 く と も表面だけは塵を払った。 Kが一番上

の本を開ぐと, いかがわしい絵が出てきた。 一組の男女が裸でソファーにすわってお り, 描

き手の低俗な意図が露骨にうかがえたが, その粗さ加減があまりにひどいので, 結局男と女

だけしか目に入らず, それがあま りに立体的に絵から浮びあがっているため, ひどく しゃち

こばって座ってお り, 遠近法が間違っているのでやっ とこさ互いに向きあって座っているこ

とが分る始末だった。 それ以上頁をめく るのをやめて, Kが2冊目の本の表紙を開けると,

それは 『クレーデが夫のハソスから蒙らなければならなかった苦しみ』 という題名め小説だ

った。「これがここで研究されている法律書か」 とKは言った丿こんな人間達に裁かれるなん=

て ……(5) ∧O」 9 ・。 ’

下宿のグルウバッハ夫人は, Kの訴訟を 「何となく学問めいた感じがしますわ」 と形容す

るが, 裁き手の実質に対するこれ以上的はずれな評価もあるまい。 稚拙きわまるこの卑狼画

の描き手も, それを後生大事に保持七ている者もともに出来の悪い中学生水準の知性と趣味

しか持ちあわせておらず, 読みものも低劣な風俗小説の域を出ないし, しかもそれらを神聖

な筈の裁判の場に裁き手自身が携えて く るのである。 関係者達のこ う した知的貧困さが, 裁

判所の第一の特徴を形成している。 ,

そしてはなはだしい建前と実質の分裂からは, 当然建前を維持する為のすさまじい虚栄の

いとなみが追求されることになる。 弁護士フル トの書斉にかけられた高位の裁判官のものら

しい威厳に満ちた肖像画を, 女中のレーニは, 本当は身分の低い予審判事のものだと Kに教

え, 「実際は台所椅子に古い馬の鞍おおいをかけて, その上に座っているのよ6」と真相を暴

露 したあと, 「ここの連中はみんなとても虚栄心が強いの」 と注釈を加える。 立身出世欲が

強 く , 「万事について真剣に物事を考えないし, 何とかいえば, 銀行での自分の高い地位を

ひきあいに出すJ K 自身よ りも, 裁判所関係の人間はぞろいもそろ って, はるかに低級な俗

物に描かれている。

次に裁判所の人間を特徴づける第二の性向は, 裁 く主体を欠落したロボッ トじみた受動性

である。 既に最初の逮捕の場で, 尋問に居あわせた監督は, Kの抗議の熱弁を耳にしながら

マ ッチ箱の中に何本マッチがあるかを数えた り, 自分の指の長さを比べてみた りして退屈き

わまる態度を示すし, 他の役人達も同様の挙動でKを憤慨させる。 何らかの重大決定に携わ

る公的な権力機構に属した人間達のこのようにスノ ビズムに貫かれたあ り方を描く カフカの

描写のどぎつさには, ゴーゴリーの 「検察官」 を代表にして, 権力の内実の卑小さ を笑いの

めすその他一連の批判的リア リズム文学の誇張的作風に通じるところがある。 だが批判的 リ

, ア リス ト達とはちがって, カフカはこの現実に根ざした批判点を土台にして, 誇張を更に徹

63

「ここにあるものは, 何から何までなんて汚ないんだろ う。」とKは頭を振りながら

谷 口152 廣 治

64

底化する方向を選んでいる。 その事情を解明するのが作品中の次のく だ りである。 廷丁の妻

に予審判事の本を返してから, Kは偶然裁判所事務局の入口を見つける。 “それではとのア

゛ 一卜の屋根裏に裁判所事務局があったのか。 それは多く の尊敬をかちうる施設とは言えな

, いが, それ自体初めから最も貧 しい人々に属するこのアパー トの住人達が, 不用ながら く た

を投げ込むよ うな場所に事務局を持っているとするな ら, この裁判所もどれほど金が思 う よ

うにならないのだろう(? とKがほとほとあきれかえるほど, 裁判所・形象は物質的貧困の不潔な色に染め上げられている。 しかも, そこは光の入口がな く , 太陽が屋根板を照しつけ熱

した木が空気を重苦 し くす るばか りか, いろんな洗た く ものが干 しに懸けられているので,

Kは二人の裁判所事務局員の果しないおしゃべ りを耳にしている うちに, 突然激しい生理的

不快感に襲われる。 “まるで船酔いのようだった。 難航中の船に乗らているかに思われた。

ベ水が板壁の上に落ちかか り, 廊下の奥からはかぶさる水の轟々とい う音が聞こえ, 廊下は横

様に揺れ, 両側に待っている訴訟当事者達は,上ったり下ったりしているようだった7)。事務局員の二人に体をかかえ られる ようにしてやっとのごとで出口までだ ど りつき, 外の爽やか

な風にあたると, K は体中の力が一時に戻って く るのを感 じるが, それとは逆に事務局の不

潔な空気に慣れた二人は卒倒せんばか りの苦しみをあらわす。 ◇

極度に非現実的な二つの描写, 即ち強大な権力を保持し, 虚栄心の肥大した徒党り集 りだ

というのにまるでスラム街の住居のような裁判所の貧困さ と事務局員達,の自然にそむいた不

気味な体質は,そのまま裁判所の人間達の知的貧困さと常人との精神的異質さを強調する為の

補助手段に他ならない。 ここからカフカの創作原理の一つが引き出されよう。 それは, カフ

カが本来内部への洞察によってはじめて確認される対象の性格を。 ものの水準に転化して確

認することである。 知性の貧困は物質的貧困に迄つきつめられ, 精神面のいびつさは生理的

水準に還元される。 作品中の他の歪んだ形象, 即ち女中レーニの奇形の指, 死刑執行人の不

具な肉体等後者の例は他にも見出される。 こ うして対象が内部にかく しもつ性格は毒々しく

感覚に働きかけてく ると同時に, カフカが外と内の統一を洞察によって確認する方向を拒否

するために, その還元作用がひと り立ち してイ ノ ージの混乱を招きよせるというカ フカ的デ

ィ レンマが開始するのである。

裁判所をめぐる他の不可思議な描写は, 裁判所の第三の特徴一 社会的現実を支配してい

る完壁に官僚主義的な組織体- から解明されるものである。 最初の審理の場で, 下級官史

の着服事件をKが暴露すると, 着服の張本人である二人の監視人はKの勤める銀行の物置場

-で笞刑史から鞭打ちの刑を受ける。二日続いてKの面前で繰りひろげられるこの場面は,¥裁判所の権力の執拗さと残忍さを見せつけながら本質的には裁判所が主体性を持だない組織員

を力づく で統制する野蛮な暴力機構を内に擁してお り, 苛酷な懲罰規定によって上から下へ

の支配の体系が厳しく維持されている内情を誇張的に示している。 しかもこの裁判所の権力■ ■㎜ ■ ㎜ ㎜㎜■ ■■ ㎜ ・㎜ ■ - ¶ ・- - I ■・ ■ ■ ・ ・

のひろが りには空恐 しいものがある。 御用画家テ ィ ト レ リにまとわ りつ く い じけたせむしの

女の子らを, ティ トレリは 「この女の子達も裁判所に属しているんですよ」 と打ちあけ, 唖

然とするKに “半ば冗談, 半ば説明り為に 「全くすべてが裁判所に属していますからねえ」

と付け加える?)。更に, 終章に近いドームの場では, 約束の時間に同業者のイタリア人が現われず, その姿を探し求めている うちにKは裁判所の説教師に出会うが, 説教師は 「君と話

す為に君をこ こまで呼ばせたのだ」 と言う。 “「それは知 りませんで した。」 と Kは言った。

「私がここへ来たのは, あるイタ リア人に ドームを案内するためです。」 「余計なこ とは言わ

ないように。」 と僧は言った?)。あるいはイタリア人の遅刻もKを説教師とひきあわせようとする意図的なもので, 彼も又裁判所の組織に組み込まれ, その指令を受けた人間かも しれな ,

カフカ : 「審判」 試論 153・

ないという疑念を懐かせる効果を説教師の最後の言は果 している。 強大なフ ァシス トの組織

を思わせるほどのほとんど無限のひろが りを持ちながら, 上層の支配者の実態は組織内部の

ものにすらわからない完壁な官僚制度に翻弄され, Kの努力と闘いは空転を余儀な く され,

職場め中で次々に失敗をおかしてKは確実に追いつめられてゆく。 弁護士す らこの裁判所で

は公認されておらず, 弁護人が提出する願書はほとんど意味を持たないし, そもそも原理の

欠落した裁判の流れに影響を与えるものは, 「高位の官吏の個人的好意」 だけであ り, 本当

の無罪宣告な どあ ったためしもないこの裁判では, 高慢な裁判官たちの心証を害さないよう

に, ひたすら屈従しながら高位の裁判官に見込まれる偶然を待つ以外に, 救われるみちはな

い。 こ う した蛇の生殺 しのよ うな閉塞状況にKをつき落したあと, 作品は裁判所権力との

闘争の二者択一を商人ブロ ックの形象を借 りて, 前面に押し出して く る。 ブロ ックは既に商

売をあきらめ, 弁護士フル トの家の女中部屋に泊 りこんTC, 弁護士のもつわずかな力にすが

りつ く 為に彼の面前で這いつ く ばる。 一

“弁護士はこの場に居会わす者をほとんど侮辱しているのだった。 それゆえ弁護士の遺り口

とい うのは, 幸いにもKはたいして長い間それの思いどお りにならな く てもすんだのだが,

依頼人がついに世の中のこ とをすべて忘れただ訴訟の終る迄, こんな迷いの上に身をひき

づってゆく こ とを望むようにさせるものだった。 も う依頼人ではな く , 弁護士の犬だ った。

も し弁護士が, まるで犬小屋のようにベッ ドの下に這いこんで, そこから吼えてみろと命じ

たなら, この男はきっと喜んでそうしたに違いない(?。ブロックの辿った屈従の道をKが拒否するかぎり, 終章の処刑は不可避である。 なぜ告発されたのかも知らされず, 又弁明の余地

も全く与えられないままに, 抵抗すればする程高慢な裁判官り怒りを招き, Kは自分の墓穴

を掘ってゆく。 まるで悪性の癌に見入られたかのように, 原因と結果の連関が, 可視的な社

会的現実には見出されないまま, 不当な運命への呪いは形而上的な次元で空転する。

“俺が見なかった裁判官はどこにいるのだ ?俺が行きつけなかった上級裁判所はどこにある

のだ ? 彼は両手をあげ指を ことごと く 広げた。 しかしKの喉には一人の男の両手が置かれ,

も う一方の男は小刀を心臓深く突き刺 し二度そこを扶った。 見えな く なってゆく 目で,

Kはなおも二人の男が頬と頬を寄せ合って自分の顔の前で決着をながめている有様を見た。

「まる七犬だ/」 と彼は言ったが, 恥辱が生き残ってゆくように思われた(?。指をことごと く 広げて虚空にむけてあげられた手が, Kの内面の一切を物語っている。 そ

れは順序から見て当然, 肉体め激痛の表現ではなく , 自分のついやしたおびただ しい努力が

こ と ごと く水泡に帰 し, 犬のように惨めな不当極まる死を迎えなければならない人間の抗議

と呪いが空を切る有様を示すものであろ う。

こ う してKの目には閉ざされたままに終った裁判所の本質を考察する様に, これを カフカ

の父親の象徴ととらえる批評が一つのヒン トを与瓦ている。 この解釈は 「父への手紙」 に見

られる彼の父親とぷアンビバレンツな関係O芸術的表現とみるには, 悪神じみた哉判所・性格があま りに一面的だとい う難はもつものの, それが自力で叩き上げた実業家である父親の

作家の目に映った否定面=一二傲然たる自信, 息子への残酷さ, 貧しい知性, なによりも精神

的なことがらへの全き無関心- を思わせる点で, 一定の説得力は有している。 だが, カフ

力が父親と結んだ支配と抑圧の関係が, そのまま彼と社会との軋慄の原型を成している事を

考えれば√裁判所の表象に彼が現実社会において個人の生を支配しその運命を深部から規定

す る社会権力像を極度に抽象化して課 した と想定するめは困難ではない。 そ して, 裁判所を

単一の権力機構から権力全体へとその概念を拡大してとらえた場合に特徴的なこ とは, カフ

力の権力への洞察がおそら く Kの裁判所に対する認識 とほとんど同じ水準にあったのでぱな

65 ` 。

いかと思われる点である。 この作品では一切の形象が繰 り広げる運動は, 権力が最後迄その

本質を顕示しないがゆえの空白に依拠してお り, こ う した作品の内容と, さ きに確認した内

的洞察を拒み外面的なものに固執する形象化の原理とは, 明らかに対応関係にある。 いわば

作品の中央部にぽっか りと口を開いた空洞の中へとすべての歪んだ形象が吸引されてゆく よ

うな構造を, 作品 「審判」 は持っているのである。 卜

この空洞こそは, 古典的な搾取形態をとっ くに終えて搾取と支配の体制が一層巧妙になっ

た現代社会にあって, 日常不断にかけられて く る不当な抑圧は具体的な諸個人の汚れた手を

通じてかけられて く るものの(下級官史の愚劣さ/ )本当のところ自分が何によって支配され

ているのかわからない (上級裁判所はどこにあるのだ/ ) とい う大多数の現代人の生活意識

の裂け目にそのまま重なるものであろ う。 闘争相手がわからないことから来る焦慮と無力感,

さきゆきが不明だとい う不安, 即ちルカーチ流の表現を用いれば, 「見通しの欠如」 こそ, カ

フカの世界の根本的な特徴であ り, この意味で彼の世界が現代社会を先取 り的に描写してい

るこ とは否定できない。

同時に質の高い リア リズムを困難にしている文学の今日的事情は, カフカの認識意欲とそ

の到達した地点の背理を見る時, 極めて明白なものとなる。 テーマを極めて狭く限定した場

合には, 対象は隅から隅迄, 所謂 「どこから」 来て 「どこへ」 行くかとい う動因迄含めて見

わたしのきく ものであろ うが, 歴史的 ・社会的な幅の広さを持つ リア リズムは, 社会構造の

複雑化と階級関係の多様化, それに輪をかけるマス ・ タディアの氾濫を原因と して肌一重の

現実にしか実体感を多くの人間が持てな くなっている現代的情況では, 至難のわざと化して

いる。 対象の運動を執拗に追うまなざしがどこかではぐらかされ, 或る決定的な一点で認識

の道が途切れてゆき, その地点から認識不能の対象に対する不安の広漠たるひろがりが始ま

る。 運動のダイナミズムを とらえる志向性に極めて弱いカフカの場合には, そ う した事情を

一層良くあてはまるものであろ う。 ある地点まではたしかな歩みを示してきた洞察が不意に

とぎれ, そこからは不安と驚きが, 理論化されるにはあまりにも未成熟で矛盾に満ちた想念

を内にはらみつつ形象に化してゆく。 それゆえカフカのファーベルは計算されつ く した実験

室的仮構ではなく , 生々しい混沌そのものであ り, 作品内の異質・か二つの領域は, こ う した

認識上の分裂の即物的な反映の段階にとどまっているのである。 即ちカフカ的悪夢の論理と

法則は, 先に確認した裁判所をめぐる三つの特徴の矛盾とせめぎ合いの中に見出される。 徹

底した現実否定と, その現実そのものがつかめないという不可知論の衝突が生み出す混乱を,

ひと りだち した奇型な形象群が一層増幅するカフカ的世界の中に, 疎外された現代人が自ら

の現実像の断片をかい,ま見る可能性はほとんど無限と言ってもよいだろ う。 ノ

だが, ガローディのカフカ論は, この世界の問題性を リア リズムと リア リテ ィの単純な対

即ち, 主体の創造的役

154 谷 口 . 廣 治

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

66

立関係に解消しようと努めず, A ・ ゼーガースとは別のモタ ソ ト

Franz Kafka : 「Der ProzeβJ Fischer Verlag. S. 9 .

Kafka : a. a. 0 . S. 270

G. ヤノーホ : 「カフカとの対話」 吉田仙太郎訳 筑摩書房 s. 79参照

G. ヤ ノ ーホ : a. a. 0 . S. 227

Kafk4 : a. a. 0 . S. 67

Kafka : a. a. 0 . S . 76

割を問題にしているのだから, 表現主義論争とは別の視角から几「審判」̄ め特徴を更に追求し

てゆかねばな るまい。

㈲、㈲

Kafka : a. a. 0 . S. 85

呻 11 S . 1 8 1

1y S S . 2 5 2

■ ■ 1 1 1 1 S . 2 3 3

11 11 S . 2 7 2

カ フカ : 「審判」 試論 155

ミ ッシェル ・ カルージュ : 「カ フカ対カ フカ」 金井裕訳 審美社 第一章参照

リア リズムと 「神話」

ア ソ リ ・バルビコス 「地獄」

カ フ カ

僕が見たものは, いずれは消えてしまうだろ う。 何に使うこともないのだから。 僕は

つまるところ実っても じきしなびてしま う肉の果実をはらんだ母親のようなものだ。

先にあげたモダエズム文学の特徴に関するエルソマ ト ・ フ ィ ッシャーの定式は, カフカの

作品 「審判」 には典型的にあてはまるものである。 そ して現実へのラディカルな否定と, 世

界喪失感の2つの矛盾をガローディが後者を捨象するこ とによって強引に統一している事情

もここで, 確認されようが, 注目すべきは, ガローデ .i 自身の理論的立場と彼のカフカ解釈

が自家撞着に陥っている事実である。

「岸辺なき リアリズム」 の後書きで, 彼はマルクス主義の機械的な把握から導き出される芸

術理論上の誤謬を三点,にわたって指摘している祀) それはいずれも, 文学芸術の上部構造の独自性に合流してゆぐ観がある。旧来の機械的反映論の立場に立ち, 芸術の認識的意義のみに

論及し, それを唯一の評価基準にさだめた文学理論を批判しつつ, 彼が提起する新しい理論

の中核的位置を占めるのが, そこに立てば芸術の 「豊かな多様性と複数性が承認され, 願わ

れるものとなる」 という 「神話」 概念である。

“いつの時代にも, 芸術作品は労働と神話との函数である。 労働とはすなわち現実的な力,

技術, 認識, 鍛練, 社会構造であり, すでに作為されたか, 作為されつつあるすべてのもの

である。 神話とは, すなわち何かが欠如しているという意識, まだ自然や社会の制約を蒙ら

ない領域のなかに, 為すべきこ とが残っているとい う意識を, 具象的, 擬人的に表現するも

のである。 マルクスは神話を下部構造 ・上部構造間の 《仲介者》 として喚起する一方, 人間

存在の役割を芸術的現実性の定義に際 しての根本要素と して強調している。それゆえにこそ,

彼は閉ざされた リア リズムの概念をすべて排除する。 なぜなら現実は, 人間を包蔵する時,

もはや存在するというだけのものではなく , そこに欠如する一切り もの, さ らに生成を要す

る一切のものだからであるで。こうした論理展開から “リアリス尹イックでない芸術, 即ち芸

術の外部に独立している現実とは無関係な芸術など存在しなべ という大胆極まる結論迄は,ほんの一歩の距離しかない。

ガローディのこの理論は, カフカ論 との関係で考察する時, 2つの問題点を持らている。

第ヴに, 芸術活動における人間の創造的役割を重視すべきだとする彼の理論は至極当然なも

のではあるが, カフカの世界を見る時他ならぬその世界に適用された彼の理論自身が明らか

に空転しているのである。「審判」 の主題は, 前章で確認したように, 他の人間の内面迄ふく

めた世界の不可知性に呪縛された人間主体の在 り方である。 不当な権力との斗争に敗北を喫

する筋そのものは, 第二義的な意味しか持う ものではないが, Kの斗いの性格は, 創造的人

間め主体的役割の全否定につながっ七ゆかざるをえない。戒へ通じる扉は, 即ち認識への道

67

156 谷 ・口 廣 治

は, ただヨーゼフ ・Kひと りだけの為にあるという表現は, 作品の中では2度にわたって繰

り返されるが, それは個人が自律的主体たらんとすれば, 生の課題を自己の内部で常に自覚

的に責任を も って受けとめなければならないという近代的自我の前提条件を示唆する以上に,

絶対的に切 り離された個人の運命との闘いを象徴する役割を果している。 しかもこ う した派

立者が/ 自己り尊厳をかけて闘う決意を持つ時, そこにはただ, 敗北のみが待ちも うける袋

小路しか用意されいず, より高次元の権力に拾いあげられる偶然の力をかりてしか個人が救

済されないという筋から, 社会における個人の創造的役割のテーマを抽出するのはほとんど

不可能である。 主観と客観が互いに決して交わることのない永遠の平行線を描きつづける場

合には, 創造的主体が展開する矛盾にみち生き生きとした運動と, 自己の役割の社会的, 歴

史的な確認な ど期待すべく もない。 こ う した不可知論的平行関係を とらえて, カフカの作品,

をドソ・キホーテと関連らける解釈がある祀)前者が極度に硬直したかたちではありながらも保持してい る主観と客観の健全な対立関係が, カ フカにあっては崩壊し, むしろ両者が単

純な一直線へと溶解しているかの観すら与えている事実を決して見忘れてはならない?)主体の創造的役割 とい うモタ ソ トを ガローディが理論面では強調しておきながら, 応用のさいに/

はほとんどこ れに触れずにす ま しているのは, 決 して偶然ではない。

この点においてこそ, カフカのニヒ リズムの一切の基盤が存在する。 ニーチ ェの場合のよ

うに, このニヒ リズムが現状への徹底した破壊意志に転化する契機はカフカの作品には見出

されないものの, 認識論上の根は同一である。 カフカの場合の特徴は, 他の作品 (典型は

「城」) で,こめ不条理に主体的に屈従する姿勢が見 うけられるこ とである。 こ う したカフカの

弱さを, ギュ ンター・ アソダースは 「典礼なき典礼主義」 と名付けて, 以下のように論評を

加えている。 ダ l・ レ

“小心翼 た々 る典礼遵奉主義と結合した不可知論, それはどのようなところに存在するもの

であるか。 また, どのようなところに存在したか。 カフカの無上命法が通用するのは, どの

ような世界においてであるか。 それはファシズム的恐怖政治り世界脳おいてである。 だれも

何が自分に要求されているか, なぜ要求されているかを知らない世界, しかも√その見通す

ことのできない, 知られざる要求を盲目的に小心翼々と履行するこ とを期待されている世界

においてであ る。 このように考えると, 今日の ドイ ツおよびフ ラ ンスにおけるカフカ崇拝は,

きわめて問題的な徴候である。 このカフカ崇拝の背後には, 知るこ とを正当だと思わず, 命

令に盲従することだけが義務とされていた, あの恐怖政治に対する, 間接的無意識的な肯定

がかくされている(2)”

カフカと同 じユダヤ人と して フ ァ シズムの時代を く ぐ りぬけてきたアンダースと, カ フカ

的世界のネガテ ィ ヴな面を一切捨象するガローディのカ フカ評価の間には, フ ァシズム体験

り鮮烈さり度合いと。 そこから来る問題意識り質りちがいがあるよう‥に思われる。‥即ち,‥が

ローディは旧来のマルクス主義的文学理論を作品の認識的意義を不当に重視するものと論難

する際に, 文学が客観的に果している認識者的役割を不当に軽視するという, 逆の偏向に陥

った ものと しか考え られない。 ・ 。 %

ガローディの理論のかかえる第二の問題点は, マルクスを援用した 「神話」 概念にある。

だが, “美術は ノ ッセージを明瞭に伝達するこ とはできないが, 眼に見える真実のイノージに

成り切ることによって, 人びとを覚醒させ, 奮起させることができる(で? としてあらわされた

「神話」 の内容の一面性は, マルクスの文と対比すれば川

ら口 発育したその歴史的幼年時代は, 二度とかえらぬ一段階として永遠の魅力を与えない

ことがあろうか?(1(点は引用者) ここでは神話は現代資本主義社会の中でこ面化され奇型化

卜 6 8

された諸個人に自らの欠損状態を自覚させ, 豊かに発展した肉体と人格の内容を提示し憧憬

を与えるものと位置づけられているが, その際決してぬきにして考えられないギリシヤ神話

の具体的内容をガローディが欠落させている為に, 彼の 「神話」 概念が現代社会の陰画にと

どまるた ぐいのもの迄含みこむ結果を招いているのである。 こ う したガローブ イのカフカ評

価は, むしろカ ミュ等の実存主義者のそれと相似た響きを持っている。

“カフカ解釈の大部分は, それを如何なる支えをも持だない人間の絶望的な叫びだとみなし

ているが, 実は事態は逆であ り, カフカの作品にはあきらかに希望がある。 ……カフカは神

から偉大さやモラルや善を拒否するものの, それはこ う して神の腕によりよく抱かれる為の

ものに他ならない。不参理を承認し, そのことによって不条理を否定するのである。(9)。》そこには希望がみちている。 11 y a espoir et espoir という主張はサルトルにも共通する

157カフカ : 「審判」 試論

69

ただ し僕らの為のものではなものであるが, カフカ本人が 「そ う, 希望に満ちているさ

いけれどね」 と親友のブl==l- 卜を軽 くいなす言葉をも無視してまでも, その作品から希望

のテーマを抽出する操作は, おそら く実存主義に特有のスペク トルを透した時にはじめて可

能となるものであろ う。 現代に対する否定的姿勢が徹底化されればされるほど, ますますそ

れが読者に自己の欠乏を意識させ, 世界変革のエネルギーを与えるとみるガローデ ィの論

のよって立つ基盤は, イデオロギー闘争の深刻さを理解しえない楽観主義に他ならず, 又そ

の帰結は十切の文学作品を リア リズムの領域に引き入れるこ とによって, ルカーチをはじめ

とする理論家達のこれ迄のリア リズム理論の成果を全面的に投げすてる, 清算主義にゆきつ

かざるをえないのである。

“ユダヤ人として, 彼はキリス ト教世界には全く属していなかった。 無関心なユダヤ人とし

て, 彼は全く ユダヤ人の一員ではなかった。 その母国語が ドイツ語なので, 彼はチェ コ人に

は属して卜なかった。 ドイ ツ語で話すユダヤ人と して, 彼はオース ト リアには属していなか

った。 保険局の労働者役人として, ブルジョアジーに属さず, 又ブルジ ョワ家庭の出身者と

して労働者の一員でもなかった。 しかし事務所での仕事にも彼は自己を作家と感じていたの

で全く没頭できなかった。 だが彼は自己の力のすべてを家族に捧げていたがゆえに作家でも

なかった。 ところが家族のなかにあっても, 《僕は外部の誰よりも自分をよそ者だと感じま

す。》 とい う状態だ ・つた。 カフカは自分の孤独と人々との接触の欠如を嘆いていた。 一通の

手紙に彼は書いている。 《僕は君が僕に要求しているような, 人間への興味すら持っていな

いのですr》。これはアソダースの有名な, カフカの内面世界への特徴づけであるが, この作家の疎外的要因の集積と多層化のあ りさまはこの引用からも十分うかがえよう。 ハプスブル

ク王国内のフ ロイ ト主義を生んだ知識人層の彭屈した精神状況に輪をかけるカフカの生に独

自な諸矛盾が, 疎外と完全に一体化した作品を生む前提条件になったのだが, 制約された歴

史的社会的条件の中でこ う した作品が, ぎ りぎり迄の負への後退によって生み落されたのは

当然である。 だが, ごのような解釈はカフカ作品の無条件な肯定に導く ものでは決してない。

も し, リア リズムの典型が, 次の時代の発展要因をさ し しめすという本質を内包するもので

あるならば, カフカの 「審判」 かファシズムの勝利の危険を明敏に洞察したものであるとは

言えても, 別の動きが着実に進んでいるわれわれの生きる時代の本質をえ ぐり出したものと

は言いがたい。 その歴史的な動向を視野から外す認識態度と, 無条件的なカフカ崇拝や, 作

品世界への盲目的な脆拝とは決して無関係ではあるまい。

註 ‥

(1) Garaudy : a. a. 0. s. 264̃ 266 ガローディはここで旧来のマルクス主義美学の犯した誤謬を①デ

カダンス概念を広範囲に用いすぎること②芸術を外界の単純な反映と見る反映論の一面化③芸術に於る

158 谷 口 廣 治

70

あと書き

カフカの作品世界への第一回目のアプローチを終えたわけだが, 難解きわまる彼の作品のせめて核だけは

おさえたという手ごたえすらない。おそら く はもっと別種の方法を用いなければカフカの謎はつかめまいとい

う気がするが, それは今后の検討にゆだねたい。 この論文ではガローディを主に批判の対象にしたが, 本来

は厳密な リア リズム理論の集大成者であるルカーチの論をこそ検討すべきだっただろ う。 現代文学の複雑な

局面を前にして, ルカーチの理論が発展的に修正される必要があるこ とは確かだし, その方が稔りの大きい

作業だと思われるが, これは次回の課題としたい。 カフカを扱う場合に, 彼の作品に一貫した特徴である生

活次元の転倒のモチーフー 平凡極まる人間が突然何の理由もな く不幸に見舞われるー を, めざめていな

い人間への当然の罰とみるモラーリッシュな批評が数多いが, この罰の必然性をめぐってと り うる 2つの立

場は, 批評の帰結に本質的なちがいをもたら しているように思われる。 本論では主人公が生身の人間である

がゆえの人間的弱点を鞭打つ立場は取らなかった。 論者自身も, そ しておそら く カフカ自身もこ う した弱み

を多くかかえ こんだものだとい う前提から出発しなければ, 何よ りも人間的な事柄を扱う文学と批評との緊

張関係が失われると思うからである。

認識的意義の不当な重視の3点にまとめて提起している。

(2) Garaudy : 「Kafka, diemoderne Kunstund wirJ Raddatz: 「Marχismusund LiteraturJ Bd. 3

S. 199

(3) Garaudy : a. a. 0. S. 197

(4) マルト ・ l==lベール: 「古きものと新しきもの」 城山他訳 法政大学出版局 第二章参照

(5) 例えば Theodor Ziolkowski : 「Dimensionof 由emodern Novel (PrincetonUniversity Press。

1969) では, 著者は 「審判」 の構造を主人公Kの, motlvatin とい う主観的操作に解消しきっている。

(6) ギュンター・ アンダース : a. a. 0. S. 137.

(7) Garandy : a. a. 0. S. 206.

(8) マルクス= エングルス文学芸術論, 大月書店 マルクス ・エングルス選集刊行会訳 S. 32. `

(9) Lescritiquesdenotre tempsetKapka, 包djtion Garnier 1973↓S. 22.

(IQ〉 ギュンター・ アソダース : a. a. 0. S. 33.