title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報...

43
Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について Author(s) 稻垣, 裕史 Citation 中國文學報 (2004), 67: 58-99 Issue Date 2004-04 URL https://doi.org/10.14989/177935 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Upload: others

Post on 14-Jan-2020

2 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について

Author(s) 稻垣, 裕史

Citation 中國文學報 (2004), 67: 58-99

Issue Date 2004-04

URL https://doi.org/10.14989/177935

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中囲文撃報

第六十七冊

江元量の

「湖洲歌」九十八首について

京都

大学

江元量と

「湖州歌」

江元量は宋末元初の詩人である。王国経の研究

(「書末書

宮人詩詞・湖山類稿

・水雲集後」'『観堂集林』巻二一)を承け

た孔凡確が'

1九八〇年代に改めてテキストの校勘と博記

史料の整理を行い'後進の研究者のために便宜を園るまで'

文学史やアンソロジーの中で折に梱れて取-上げられるこ

とはあっても、南宋三大家のように

1個の濁立した詩人と

して扱われることはなかった。

江元量には

「湖州歌」九十八首という連作の七言絶句が

ある。この連作詩は

一首

一首が有機的に配列されてお-、

全膿として一個の物語のような構造を持

っている。銭錘書

は、末の滅亡を叙述した道民詩のうち'最も長大な篇はこ

「湖州歌」と'愈徳郷の

「京口遣懐」

一百韻であるとし

ている

(F宋詩遭註』'北京'人民文学出版社'二〇〇〇年第五

次印本'二八二頁、又

『宋詩紀事補正』巻七八、二〇〇三年'沈

陽'遼寧人民出版赦・遼海出版社'五〇六四頁)。普然、

一百

韻を超える詩篇は末代に限

っても多数見られるだろうし、

雑詩、雑詠を寄せ集めた

一百首の類も相常数に上るであろ

うが'それでもおよそ百首にも及ぶ絶句が販給を持

って配

列された例は'宋詩のみならず現存する宋以前の詩歌の中

でも極めて珍しいといえる。にもかかわらず'「湖州歌」

が詩歌史の中で大きく取-上げられることはなかった。そ

れは詠み手である江元量が、政治史的には王朝交代期とい

う特殊な時期に属し'また文学史的には作風に封する評債

がさほど高-ない南宋末期に生まれ'亡国詩人ないし江湖

汲詩人として十把

一路にされたためであろ

う。中国の詩歌

史の中でも特異な

「湖州歌」の分析を通じ'宋末元初の詩

歌に封する従来の許債を再検討したい。

Page 3: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

a

江元量について

『新元史』(巻二四一隠逸'襲開附侍)を例外とすれば'

江元量は正史に博が無い。しばら-孔凡鰻

「江元量事逃紀

年」(後掲

『噂訂湖山類稿』附録二)に従い'その略歴を記そ

1つ

0注元量、字は大有、鋸を水雲といい、鑓靖の人.孔氏

「紀年」は理宗淳藤元年

(〓l四1)の生まれと推定する

(以下に記す江元量の年齢は

「紀年」の説)。琴に秀で、理宗

の治世に宮廷に出仕し'槽-度宗の時代には琴師として理

宗の皇后であった謝太后、度宗の夫人であったとされる王

昭儀らに仕えた。その後大学に籍を置いたようであるが、

科挙に療じた形跡はない。徳蔽二年

(一二七六)、すなわち

元の至元十三年'末が元朝に降伏すると、世租フビライは

まだ幼い宋主連累とその生母全太后らを自らの許に招き寄

せるが'注元量は幼主らに遅れて出健した謝太后の一行に

加わ-'元の都である大都へ向かったと考えられる

(三十

六歳)。以後も北園に逗留Ltかつての主君滅囲公連累や

注t空重の

「湖洲歌」九十八首について

(稲垣)

后妃たちとの交際は積いたが、至元二十五年

(1二八八)'

黄冠すなわち造士の身分をもって南方への蹄蓮を許される

(四十八歳)。本稿の取-上げる

「湖州歌」は'注元量も随

行した宋王室の北連をうたった連作詩である。

b

「湖州歌」と注元量の別集

「湖州歌」は、現存する注元量の別集に例外な-且られ

るわけではない。ここで別集の版本について、王厳唐

「注

水雲集版本考」(『隻行精舎校注水雲集』所収'一九八四年、済

南へ斉魯善政)へ孔凡薩

「江元量著述略考」(後掲

『槍訂湖山

類稿』附録三)'硯尚書

『宋人別集叙録』巻二九

(一九九九

年'北京、中華書局)'および

『全宋詩』巻三六六四

(第七〇

珊)の解題などを参考に'簡単にまとめておこう。

別集の最も早い形態は、『湖山類稿』十三巻'『注水雲

詩』四巻

(『千頃堂書目』巻二九)'『水雲詞』二巻

(同巻三

二)であるといわれる。これらはいずれも早-に散供し'

親氏の説によれば'元明期に比較的普及したのはアンソロ

ジーである劉辰翁批鮎

『湖山類稿』五巻であった。この劉

59

Page 4: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中国文学報

第六十七冊

批本もまた年月の経過とともに巷間に埋もれ、明末には鉦

に蔵書家の銭謙益ですら目に出来ない程であったという。

清初に江森が劉批本を尊兄するが

(康配三六年後序)'巻頭

の四葉が失われてお-版刻年代などは不明。その後'劉批

本に

『水雲集』

1巻

(もと鎮謙益が膏抄本中の江元量の詩を寓

し取ったもので'戒氏によれば山東省博物館に鑓氏の家抄本が現

存)を合刻した飽廷博知不足粛刊本によって'江元量の別

集は再び流布するようになった、とされる。しかしながら

『宋詩砂』(康照一〇年序)所収の

「水雲詩砂」は知不足斎

(乾隆三〇年蚊)に先立

って刊行されているから'筆者

の私見によれば、晴代の謹書人はむしろ

『宋詩紗』本を通

じて江元量の詩歌を受容したのではなかろうか。

なお'冒頭で紹介した孔凡鰻は

『永楽大典』『詩淵』等

の類書から侠詩を収集、これらを臨存の詩詞とともに編年

Lt『増訂湖山類稿』五巻

(一九八四年、北京'中華書局)と

してまとめた。詩詞の収録数において現在最も完備された

別集である。本稿に引用する

「湖州歌」は孔氏の

『埠訂湖

山類稿』(巻二'三六-五八頁)を底本とし、適宜他本を参

照した。

江元量という詩人の'詩歌史における位置づけは低い。

許債されるとすれば'それはもっぱら彼の持つ末の遺民と

しての性格からである。確かに

『宋詩紗』は

「水雲詩砂」

一巻を設け'八十二の詩篇

(連作は一簾として数える)を収

めるのだが'これは必ずしも詩歌の水準に敬意を排った結

果ではない。「水雲詩紗」に収められる詩篇は、先述の鑓

謙益の尊兄した

『水雲集』のそれとおおむね

一致する

『宋詩紗』がこのように

『水雲集』をそのまま収録するの

は'彼を詩人として高-評惜したためではな-'おそら-

稀観本として重んじたためであった。賓際、『宋詩紗』へ

の収録以降も、注元量の詩はさしたる関心を引かなかった

ようである。江元量は'『宋百家詩存』(乾隆六年刊)'『宋

詩百

1秒』(乾隆二六年刊)'『元詩百

1秒』(乾隆二九年刊)

などのアンソロジーに取られていない。筆者の調査した限

-では'『宋元詩曾』(康配州中刊)巻五三に二十篇'『宋詩紀

事』(乾隆二

年刊)巻七八に十

1篇'同巻八〇に

「江楚

狂」の名で

「感慈元殿」詩

一首、『南宋文範』(道光l七年

- 60-

Page 5: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

刊)巻四に

一首'同巻七に二首が収録されるほか'『元詩

選』発集之甲

(嘉慶三年刊)にやは-

「江楚狂」として

「感慈元殿」詩

一首'時代は下るが近人の

『元詩紀事』

(光緒一二年自序)巻三

一に

「題賜硯」詩

1首が取られてい

る。「感慈元殿」「題賜硯」ともに在りし日の宋王室を詠じ

た詩とされるから、このような詩ばかりが採録されるとい

う事案は'江元量が詩人としてではな-宋の遺民として評

債されて来たことを裏附ける。『宋詩紗』にも'埋もれた

詩歌の馨掘以外に、遺民詩人を顕彰する意園があったので

あろう。

さて'「湖州歌」は

『水雲集』および詩歌専門の類書と

もいうべき

『詩淵』(1九八四年'北京'書目文厳出版敵影印

本、第三鮒'1九四八頁)に収録されているが'選集として

普及したとされる劉辰翁批難本

『湖山類稿』にはどういう

わけか採られていない。劉辰翁は末の道民として知られる

人物である。王厳唐は、注元量の詩の中で最も悲壮かつ重

要な

「湖州歌」を劉辰翁が採らぬはずはないとして'これ

を根接の一つに劉批本を慣託と推定する

(前掲

「注水雲集版

江元量の

「湖洲歌」九十八首について

(稲垣)

本考」'二〇七頁)。真偏はどうあれ、劉辰翁のような道民

の名が冠されるからには、書韓はこれを詣い文句に購買層

の文人を惹きつけようというのである。ならばなぜ話者に

受けそうな、しかも未の選民がいかにも選びそうな'宋王

室の北蓬を措いた

「湖州歌」が収録されなかったのか。そ

の理由を推量することは可能だが'現時鮎では問題を提起

するに止めておこう。確かに

「湖州歌」は抄本'あるいは

『詩淵』のような

一般の日に解れることのなかった大規模

な類書の中に長ら-埋もれ'再尊兄されてからも選集およ

び選集に準ずる

『宋詩紀事』などには採られなかった

(例

外として

『宋元詩曾』は七十四首を選録する)。しかしそれは'

「湖州歌」が注目を集めるに足らぬ平凡な詩篇であること

を意味しない。規範的な詩歌史からこぼれ落ちた

「湖州

歌」であるが、その連作詩としての特異性に目を向けぬわ

けにはいかないのである。

C

詩鰹

「湖州歌」九十八首は連作の七言絶句である。宋朝の降

- dJ-

Page 6: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中隊文学報

第六十七冊

伏前夜から説き起こし'

北園に連行される宋圭趨異らの船

旗を中心に'到着後の北方での生活までを時間軸に沿って

っている。孔凡鰻は'

1時に詠まれた詩篇ではな-'大

都到着後に匪存の作をまとめたのだと断

った上で'これを

宋朝がその歴史を終える至元十三年

(1二七六)の作に編

年している

(『滑訂』巻二

「湖州歌」編年'五八頁)。詩題に言

バヤン

「湖州」は'元軍の絶司令官であった丞相伯

本営が

最後に置かれた土地として史書に名が見える。「湖州歌」

は宋王室の北達を主題とするのであるから'詩題には宋朝

の終葛という象徴的な意味が込められていると見てよかろ

(鑓鐘書

『宋詩選註』「湖州歌」

註'二八五頁)。各首とも起、

承、合の三句で押韻'七言絶句の慣習に従

っている。以上

の詩題および九十八首という教については'詩篇全膿を眺

めた上で改めて問題にしたい。

「湖州歌」の構成とその特徴

「湖州歌」は長篇であるから、便宜上い-つかの段に分

けて論じなければならない。孔凡種は九十八首を、出尊前、

道中'到着後に分けている。すなわち、第

一段は其

一から

其六㌧元軍の臨安府への進攻と、宋朝の降伏。第二段は其

七から其六十八、北国への族とその間の様子。第三段は其

六十九から其九十八'北国へ到着してからの様子tである

(『野訂』「湖州歌」編軸)。孔氏の分段は明解だが、旋程を

中心に措-

「湖州歌」の、道中に昔たる第二段は、

一行の

地理的な位置を確認しっつ丁寧に見てゆ-必要があろう。

そこで地理を基準に

「湖州歌」九十八首を八段に分け'そ

れぞれの段において適宜

「湖州歌」の特徴を指摘してゆき

たい。本来ならば九十八首の展開を段を逐って確認したの

ち'改めて全篇を貫-特徴について議論すべきであろうが'

紙幅に鎗裕がない。分段は

「湖州歌」のおおよその展開を

把握するための便宜に過ぎず'論考の重心はあ-まで特徴

の分析にあることを、はじめに断

ってお-。

なお、現存するテキストから見る限-'「湖州歌」九十

八首の配列順序に混乱はないといってよい。ただし、

一つ

だけ大きな異同がある

(以下、孔凡鎧の輯本と奴存のテクス-

とを同列に扱う記述をするが'便宜上の事とて了承されたい)。

- 62-

Page 7: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

本稿が底本とする孔凡穫

『槍訂』で其二十二から三十二に

あたる十

一首と、其三十三から四十三にあたる十

一首とが'

『宋詩紗』本ではそのままそ

っ--入れ替わ

っている。王

厳唐

「注水雲集校勘記」(「不奈」句校記'前掲

『隻行精舎校

注水雲集』所収'

八頁)によれば'これは呉氏繍谷亭本

(呉抄本)'『宋詩紗』本のみに見られる異同である。この

錯簡とも

いうべき現象を除けば'「湖州歌」九十八首の配

列順序には各テキストとも異同がない。王厳唐の言うよう

に'呉抄本'『宋詩紗』本の誤-と考えてよいであろう。

詳しい槍譜は稿末に補足として附すことにし、「湖州歌」

本篇に話題を進めよう。

a

韓順前夜-臨安出費

(其

1至其七)

一段はいわば全篇の枕に首たる部分で、宋朝の降伏に

至るまでの経緯が語られる。

丙子正月十有三

丙子の正月

十有三

・つ

・(ノ

越碑伐鼓下江南

韓を過ち鼓を伐ちて

江南に下る

江元量の

「湖洲歌」九十八首について

(稲垣)

皐亭山上青桐匙

皐亭山の上に

青個は起ち

宰執相看似醇酎

宰執の相

い看ること

酔いて酎なる

に似る

(丙子の年の正月すわなち至元十t二年'軍鼓を打ち鳴ら

しながら江南までやって来た。皐亭山の上には黒煙が立

がた

ちのぼり'それを眺める宰相

いえばまるで宴骨の最

中の酵沸い。)

「湖州歌」九十八首の冒頭第

一句は年月から説き起こさ

れている。丙子の年へ至元十三年の正月'この時すでに宋

の濁立国として存績する道は絶たれ、水面下では降伏に向

けた外交交渉が績けられていた。正月甲申

(十八日)'宋朝

は皐亭山において博園の玉璽と降伏を認める表文とを元軍

に提出する

「醇

いて鮒なるに似る」(「酔酎」は

「鮒酵」の

押韻のための顛倒)は'元軍を目の普た-にして大騒ぎする

者'術を知らず荘然とする者、狸寝入-をきめ込む者など

を'宴合の様々なタイプの酔漢に瞭えるのであろう。

このように冒頭に記された年月からまず思い起こされる

のは'『左博』を始めとする歴史書の書式である。ゆえに'

- 63-

Page 8: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中囲文学報

第六十七珊

この書き出しに江元量の野史の著述者としての態度'言い

換えれば

「詩史」作者としての態度を見出す讃者もいるで

あろう。「詩史」の代表格は言うまでもな-杜甫である。

確かに江元量は

「詩史」作者としての杜甫を強-意識して

いたようで'先行研究もこれを受け、迂元量の詩歌を

「詩

史」として高-評慣している

そもそも

「詩史」とは、昔

時の祉曾状況を憶える'史料的債値を有した詩歌に輿えら

れる讃辞である。杜詩のもつ史料的慣値と、それに附随

(あるいは先行)する文学的鎗韻とを

1語で言い表すため、

批評家は

「詩史」という評語を探し営てた。しかし'この

便利な批評用語のおかげで'杜甫の持つ史料的債値と文学

作品としての債値とが混同されてしまったのも否定できな

い事賓である。そして詩歌の史料的慣値を最優先にする立

場からすれば'悲劇的融合状況を知ることによって喚起さ

れる讃者の文学的感動などは'「詩史」の副次的な慣値に

過ぎないのであろう。詩聖杜甫の後生である江元量もこの

ような

「詩史」の呪縛に懸かった詩人の一人であ-'その

詩歌は文聾として検討されぬまま史料的慣値のみが稀揚さ

れ、現在に至

っている。注元量の詩歌が持つ史料的債値は

もちろん認めなければならないが、少な-とも

「湖州歌」

は王室の北蓮の

一部始終をあ-のままに記録した賛録など

ではない。「詩史」として'史料として顕彰されればされ

るほど、「湖州歌」は文糞としての色

つやをますます失

てゆくのである。

それでは'「詩史」から切-離したときに冒頭第

一句は

どのように位置づけられるのだろうか。歴史書のみならず'

例えば詩題にも日記的に日付が記されることがある

(以下'

ヽヽヽ

「湖州歌」のように年月のみで日にちを記さない場合も

一様に

「日付」と呼ぶ)

。しかし史書の日付'話題の日付、そして

「湖州歌」のごと-本篇に記された日付の三者は、皆然そ

れぞれに意義を異にするであろう。詩賦本篇の'それも冒

頭に日付が記された例としては'曹大家班昭

「東征賦」の

冒頭

「惟れ永初の有七」'また杜甫

「北征」詩の目頭

「皇

帝二載の秋、閏八月の初音」などが奉げられ'いずれも個

人の経験した大旗行について叙述している

これら二篇の

日付も日記的な詩題と同じ-私的鰹験の記録には違いない

- 64-

Page 9: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

のだが'もはや日記のような日常生活の覚え書きとしては

位置づけられない。というのは'大旗行とは個人の日常生

活の均衡を破る'非日常的髄験に他ならないからだ。大旗

行への出聾を示すその日付は'いわば日常から非日常へと

向かう時間上の分岐鮎を表しているのである。

「湖州歌」其

一の第

一句は元軍の到来を言うのみで、王

室の北蓮という大旗行はいまだ始まっていない。しかし'

族の主役である幼主や后妃の日常は元軍の到来を起鮎とし

て破綻し始めるのであるから'「湖州歌」の日付も

「東征

賦」「北征」と同様'非日常へ向かう分岐鮎として捉えら

れるであろう。注元量にも

「北征」詩

(『革訂』巻二)があ

-、この詩に日付は詠まれないけれども'杜甫の詩になら

うのは詩題からして明らかである

南宋末における杜詩の

地位は言うまでもな-絶封的であるから、王室の北達とい

う世紀の大旗行を説き起こすにあた-、江元量が杜甫の

「北征」を意識していた可能性は十分にある。このように

考えるなら'大旅行の冒頭に日付を記すという鰹裁は文学

史的な継承関係にあ-、「湖州歌」は大旗行という非日常

注元量の

「湖洲歌」九十八首について

(稲垣)

への出費を紀念するため'「東征賦」から

「北征」に連な

る俸続的な書式にならって日付を記したと見ることができ

よ、つ。

次に'「湖州歌」冒頭の日付が詩の受け手に及ぼす心理

的作用について考えてみたい。詩賦の作-手にとって身近

な倦験である大旗行も'受け手にとってはあ-まで他人事

でしかない。そのような

1個人のご-私的な健験に'常人

に共通な日付という時間標識が附される。そうしてはじめ

て、受け手はその他者の鰭験がいつ行われたのかを知-'

受け手自身の鰹験と距離を測-ながらメッセージに耳を傾

けられるようになるのである。言い換えれば'メッセージ

の冒頭に日付を述べることによって'詩賦の作-手は、自

己の私的な腰験を他者と共有される時間の上に載せるので

ある。

このとき、メッセージ中の日付が作-手だけでな-受け

手にとっても重要であるならば、受け手はそのメッセージ

をよ-身近に捉えることができるであろう。「東征賦」「北

征」の場合'詩賦に展開される大旗行は作-手の私的膿験

65

Page 10: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中国文学報

第六十七冊

に密着してお-'受け手の鰹験とは直接結び附かない。よ

ってメッセージ中の日付が受け手に作用して心理的愛化を

促す可能性は低いといえる。

一万㌧「湖州歌」に語られる

族は宋王室の北蓮であ-、冒頭に語られる日付は'作-辛

である注元量のみならず宋朝に闘わ-を持

つ全ての人にと

って忘れ難い時間上の

一難である。冒頭の目付は彼らの記

憶に作用Ltその後に展開される物語を彼らの僅験に引き

つけてよ-身近に捉えるよう、働きかけるであろう。つま

-、「湖州歌」の受容者として江元量の同時代人、特に南

朝に共感を抱-人々を想定した場合'日付は同時代人の記

憶を刺激し、近い過去の物語へと彼らを引きつけるために

設けられた'導入のための装置として理解できるのである。

従来のように

「詩史」として

「湖州歌」を捉えるならば'

その日付は歴史的大事を文献に留めようとした江元量の意

志の表れであ-'もちろんそのような側面も認めなければ

ならない。しかし江元量と同時代の受容者を視野に入れて

考えるならば'彼らのそう遠からぬ過去の記憶を呼び覚ま

す冒頭の日付は'江元量の私的な記録という枠を虹に踏み

越えてしま

っているのではないだろうか。

さて、幼主趨蕪を始めとする

1行は'いよいよ住み慣れ

た宮殿を後にする。

其四

謝了天恩出内門

駕前喝道上洛軍

白旗黄鉄分行立

1鮎狸紅是幼君

天恩を謝し了-て

内門を出づ

駕の前に喝通せる

上勝軍

白旗

責鈍

行を分ちて立つ

1鮎の狸紅は

是れ幼君ならん

(お上の慈悲に御頑申し上げて宮門を出て行ゆ-O天子

の車の前で大聾で人排いする側近の婿軍さま。天子の白

い族と黄色の賊が左右にずらりと居並ぶなかに'ぼっち

りと見える真っ赤な鮎こそ'幼さ我が主君であろうかo)

幼主の出立について、正史の記述はむしろ

「湖州歌」よ-

も悲劇的である。

丁丑

(至元十三年三月十二日)'阿塔海'阿刺竿、重

文柄が宋主の宮殿に参詣Lt太后と共に

(大元)皇帝

に謁見するよう宋主題蕪に促す。郎中の孟棋が

(大元

皇帝の)詔を奉讃したが、言葉が

「繋頚牽羊を免ず」

oo

Page 11: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

に至るや'太后全氏はこれを聞いて泣き、宋圭趨蕪に

こう言い聞かせた。「天子様の御慈悲のおかげで、お

まえは命が助かったのだよ、お城の方角に向かって丁

寧に御蔵申し上げなさい」.宋主趨累が拝趨し終わる

と'子と母はどちらも輿に櫓がれて宮殿を出立した。

(『元史』巻九、世租紀六)

(丁丑ー阿塔海'阿刺竿へ重文柄詣宋王宮ー趣宋圭異同

太后入観。郎中孟棋奉詔宣頭ナ至

「免繋頚牽羊」之語I

太后全民間之泣!謂宋圭累日-「荷天子聖慈活汝ー昔望開

拝謝。」宋圭蕪拝畢ー子母皆肩輿出宮。)

「繋頭牽羊」とは'敗戦国の君主が戦勝園に射して執る降

伏儀頑であ-'古-は

『左博』宣公十二年に'楚の荘王に

敗れた郭の嚢公が

「肉担牽羊」したと記されている。これ

はただ革に屈辱的な態度によって恭順を示そうというので

はない。いずれ死を賜るものと覚悟し'死装束で庭罰に臨

むの謂である。三園時代、呉の滅亡に際して孫略が執

った

のもこの頑であ

った。南末の終蔦に呉の降伏を重ね合わせ

る講書人は、昔時少なからずいたはずである。

江元量の

「湖洲歌」九十八首について

(稲垣)

(太康元年三月)壬寅'(王)溶

石頭に入る。(蘇)

乃ち亡国の薩を備う。素車白馬'肉

祖面縛Lt壁

ヽヽヽヽ

さい

ひつぎ

を衝み羊を牽-。大夫は衰服し'士は

概を輿ぐ。

(『青書』巻四十二王溶博)

したがって全太后の

「天子の聖慈を荷いて汝を活かす」と

いうことばは、降伏者の勝者に封する大げさな謝節として

のみならず'本来ならば死を覚悟して日通-願うはずの息

子が'出費の段階ですでに死罪だけは許されたと知

った'

母親の安堵

(おそら-この記述の書き手は母性の存在を疑わな

かったであろうから)としても謹むことができる。そして宋

圭常人はまだ年端もいかぬ子供で

'

廃置の寛大さについて

十分に理解しえないからこそ'母は子に向かってその有-

難みを噛んで含めるように諭し'拝頑の仕方まで数えてや

るのであろう。

正史の記述はすでに草書の忠賓な記録を超えて逸話的で

あ-'全太后の科白には事件をよ-悲劇的に演出するため

(そして天子の寛大さをよ-強調するための)脚色すら感じ

られる。他方

「湖州歌」は、幼主の出費をことさら悲劇的

0.I

Page 12: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中国文学報

第六十七冊

には描いていない。むしろ'張砧の

「潮は落つ夜江の斜月

・つ七ウ

ヽヽヽヽヽヽヽヽ

南三の星火は是れ瓜州ならん」(「題金陵渡」詩)か

かえ

ら馨想を借り、これに陸源の

「柳色初めて深-燕子

-

ヽヽヽヽ

狸紅千鮎

海業開く」(「花下小酌」詩)を意識した敷遊び

のレ-リックを重ね合わせ'さらには上旬で物々しい

「白

旗責鋲」を措き'下旬ではその中に小さな

「狸紅」を咲か

せるなど'華やかで賑々しい場面に仕上げている。起句さ

え取-換えれば'そのまま可愛らしい幼君の、晴れやかな

門出として通用するであろう。つま-赦稜の消失に同情を

寄せる未の奮臣としての悲款は'詩句の表層には

1切描か

れていないのである。また

「詩史」の角度から眺めるとき、

この段で語られる昔時の政治状況や事件はもちろん史賛で

あるのだが'技巧を多用したこの1首などは'眼前の光景

を注元量が忠賓に記録したとは到底言い難い。したがって

道民詩、詩史という

「湖州歌」に封する先行研究の許債は'

ここでは首てはまらないとしてよい。

b

臨安出澄丁揚州

(其七至其二十三)-

江南

先に引いた

『元史』の記載によれば'幼主を始めとする

一行は三月十二日に宮殿を出費するのであったが

そのお

よそ

一か月前、すなわち二月七日には所論使と稀される降

伏使節圏が派遣されている。「所論使行程記」(『鑓塘遺事』

巻九)と題された'使節圏の族程を記した日記が俸わって

いる。この日記は巌光大という人物が記したもので、日記

本文

(閏三月八日)に

「日記官」と明記されているからに

は'彼は公の記録官であったのであろう。とまれ'所論便

の旅程はこの日記によってほぼ追うことができ'運河を北

上して鍍江まで至ったのを確認できる。幼主ら

一行も同様

のルートに凍ったのであろう。

この1段では、感傷的な詩句の中にも

「京口の河に沿い

ほとり

し酒を要るの家」(其十八)、「揚子江の頭潮の退-や遅-、

三宮の船は釣魚の磯に傍

」(其二十一)など比較的多-江

南の地名が詠み込まれ、讃者は水路をゆ-

一行の位置を確

認することが出来る。ただし'少し離れた地域の戦況など

bS

Page 13: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

もたびたび詠まれるから、地名のすべてが

一行の地理的な

座標を表すわけではない。また、地名だけが座標を示すと

も限らず'次の詩に登場する伍子音も、やは-標石として

機能している。

其十

1

昨夜三更涙海胆

伍背何事夢中来

三宮従此相分別

自助潮頭白馬週

はあ

昨夜の三更

涙は

腺を

漏らす

伍背

何事ぞ

夢の中に来るとは

三宮

此れ従り

相い分別すれ

かえ

自ら潮頭に

白馬を勤して過る

(昨日の夜なか涙に頬を濡らした'伍子背よどういうわ

けで妾

が夢にやって来たのかtと。t二宮さまはこの地こ

の時を限りに彼とお別れ'引潮に合わせて伍子背は江の

ほとりに自ら白馬を牽きつつ締ってゆ-。)

『史記』巻六六'伍子青侍に

「異人

之れ

(伍子背のこと)

を憐み'馬に洞を江上に立

つ'困-て命づけて菅山と日

う」とあ-、江元量の詩はこの青山の通過をうたう。「白

馬」は'伍子背を紀るために捧げられたいけにえで、同じ

伍子背博の、張守節の引く

『呉地記』にみえる。敗戦銃の

江元量の「湖洲歌」九十八首について(稲垣)

君主の載る車もまた、白馬が牽-のであ

った

(前出

m日書」

王港俸参照)。「湖州歌」で

一行の旗も終わ-に近づいた頃、

「六十里天

錦帳もて固まれ、素車と白馬とは月の中に遊

ぶ」(其六十八、後出)とうたわれる白馬がそれである。お

そら-伍子背の白馬には、素車白馬の持つ悲しげなイメー

ジが微かに寄せられている。

胡才甫

『注元量集校注』(一九九九年'杭州'漸江古籍出版

社)は'詩にいう宵山を'杭州の呉山であるとしている。

ひとすくい

確かに'「湖州歌」其五に「

呉山眼中に在り'模墓

1よ

重畳として青と紅とは閉じる」と詠まれる呉山は杭州の菅

山であるが'上に引いた其十

一で詠まれるのは'やは-太

湖に臨む菅山でなければならない。「湖州歌」はあ-まで

旅程に順って展開する。北

へ向かうベクトルは基本的に不

可逆なのである。すでに其十

(後出)で船外に望む'波立

つ大潮を詠んでいるのであるから'其十

一で杭州に後戻り

しては北

への流れが絶ち切れてしまう。

また'杭州の呉山として解稗した場合'詩中人物の悲款

は随分と平凡になりはしないだろうか。杭州に青山を置-

69

Page 14: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中国文筆報

第六十七冊

とき'伍子膏は膏都の象徴として機能するに過ぎず'彼と

の離別はすなわち住み慣れた土地との決別という意味しか

持たない。

一行は運河沿いに平江府呉江輝から呉松江を渡

-、大潮を傍らに望みつつ臭願

へ抜けたと考えられる。呉

赦江は地理的にも

一つの境界線であるが'

一行を住み慣れ

た都から断絶する心理的な境界としても機能する。まさに

その地理的かつ心理的な境界線を越えようとする詩中人物

の夢枕に、伍子背は立

ったのである。死者が夢枕に立

って

別れを告げるモチーフは、「恐ら-は平生の魂に非ざらん

も、路遠-して測るべからず」と詠む杜甫の

「夢李白」詩

(其

一)に借-るのであろう.

1行はこれからさまざまな

地域の境界を越えて北進する。それらを

一つ越えるたび'

故都はまた

一つ遠ざかる。ならば'江南の象徴である伍子

背との別れの場として呉聡江を設えたほうが、この

一首は

九十八首全膿の中でよ-致果的に機能するであろう。

l行

の悲款は'それによってよ-はっき-とした輪郭を帯びて

くるのである。

「湖州歌」は'あるいは族先で作

った七言絶句を、後か

ら旅程に合うように並べ直しただけの連作詩なのかもしれ

ない。しかし

「湖州歌」の展開を丁寧に追

ってゆ-と㌧革

に繋ぎ合わせただけとは思えないような、緩急のついた流

れ'大小のうね-が全鰹を通じて見られる。上に引いた

首も'そのようなうね-を作-出すための役割を負

ってい

るのではないか。境界を越える場面が九十八首の中に致果

的に織-込まれることで'それまでの段に幕が引かれ'新

たな

一段

へと引き継がれる。そのような幕のおかげで詩の

受け手も退屈さを免れ、かえ

って悲劇

への同情を煽られる

のではなかろうか。

さて'ここで少し話題を轄じたい.其十

1に見える

「三

宮」とは末の后妃たちをいい'「湖州歌」にしばしば用い

られる語である。具標的には理宗妃太皇太后謝氏'幼主の

母である度宗妃皇太后全民らがこれに常た-'まだ幼い幼

主もこの中に含めてよい。史賓では太皇太后は幼主らに遅

れて出費するのだが、拘

って直別する必要はなかろう.賓

際に指す人物よ-も、むしろ三宮が女性であるという

一難

こそが重要である。三宮が北達の主役である以上、「湖州

- 70-

Page 15: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

歌」はなによ-もまず女性たちの族をうた

った連作詩とし

て扱わねばならない。

したが

って'従来のごと-何の保留

もな-作者注元量の旗の見聞録として読むことは出来ない

し、ましてや

「末の蓮民」(厳密に言えば元朝に出仕している

江元量は遺民ではない)の作として亡園の悲哀を前提に論を

進めるのは'適首ではないのである。

三宮のみならず'「湖州歌」には后妃に附き随

ったであ

ろう官女たちが頻繁に登場する。多-の場合'閏房の女性

あるいは連境の地をさすらう女性という'中国古典詩にお

ける典型的な女性形象をそのまま承けるのであるが'その

一方で'しばしば典型を超えた新味を獲得している場合が

ある。例えば女性と戦争というテーマは'俸統的には王昭

君、察文姫'楊貴妃といったモデルを借-るか、もし-は

出征兵士の妻の悲しみをうたうことで詩歌として消化され

てきたのだが、「湖州歌」はこれらの典型を用いることな

-戦乱期の女性を措いてみせる。

其八

錦帆高掲繍簾開

錦帆は高-掲げられ

繍簾は開-

江元量の「湖洲歌」九十八首について(枯垣)

竜鼓聾悲鳳管哀

月子繊繊雲裏見

呉江不悉暮潮来

其九

一出宮門上室船

紅紅自白艶神仙

山長水蓮愁無那

竜鼓の聾は悲し-

鳳管も哀

つき

うち

あら

月子

繊織として

雲の裏に見われ

臭江は蓋きずして

暮潮

乗る

一たび宮門を出でて

董船に上る

なまめ

紅紅白白

神仙のごと-

かし

しカ

山は長-水は速-

愁いは那

んする

無し

又見江南月上弦

又た見る

江南の

月の上弦なるを

「錦帆」は'「湖州歌」においてはも

っぱら三宮'官女の

乗船をいう。其八は楽器の悲しい調べに漬けて江南の智の

情景をうたい、其九は船上の艶やかな官女から江南の膏

つないで'月の満ち放けに水上生活の長さをうた

ってい

る。二首とも船上の官女を詠んだ'気だるい哀しさの漂う

詩であ-'このような例は中囲古典詩にご-普通に見られ

る。しかしこの二首を承けて次のように展開されるとした

ら'どのように感じるであろうか。

其十

71

Page 16: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中国文筆報

第六十七鮒

太潮風起浪頭高

錦柁揺揺坐不牢

某着蓬薗垂両目

船頭船尾欄弓刀

なみ

大潮に風は起-て

浪頭は高し

かた

錦柁

揺揺として坐れども牢からず

よりつ

蓬菌

に弄着つ

両目

を垂るれば

かがや

船頭

船尾

弓刀は

欄-

(大潮に風が起こり狼は高-、船はゆらゆらと座ろうに

も腰が定まらない。窓連に寄-掛って両日を垂れると'

えもの

船の前にも後ろにも怖ろしげな兵

ぎらついている。)

先の其八㌧九などはご-

1殻的な行情詩で'類例は幾らで

もあるだろうけれども'賓際には華やかな宮廷の女性が辛

い船族を経験すること自懐'尋常ではない。其十では先の

二首を承け'その異常さに追い打ちをかけるように'船の

上にぎらぎらと並び立

つ干支を詠み込むo前二首から清く

船旅の不安は緩やかな情緒を湛えていたのだが、その緩々

とした流れは其十の合句において半ば暴力的に

一息に絶ち

切られ'突然の緊張を迎える。も

っとも其十には直接女性

を表す語は用いられず'「錦柁」からおぼろげに官女の姿

が想像されるに止まる。しかし連作詩である

「湖州歌」の

場合'直前の

一首の

「艶神仙」の語が'其十のおぼろな影

に官女の賓鰭を輿える。無力で可憐な官女と、冷酷で無機

質な兵器という封比が'連作の中に置かれることでより鮮

明に'見事に浮かび上が

って-るのである。「湖州歌」に

は戦場を詠んだ篇がい-つかある。例えば

「産荻願願とし

さら

て風乱れ吹き'戦場の白骨は沙泥に暴さる。涯南兵後に人

個は絶え、新鬼秋軟として膏鬼噂-」と詠む其三十二は、

ほとり

杜甫の

「兵車行」「君見ずや青海の頭

'古来白骨人の収む

くら

る無し。新鬼は煩究して奮鬼は突き、天陰-両液-て聾は

秋秋た-」を少し-言い換えたに過ぎない。既存の詩句を

そのまま借-る其三十二に比較して、詩の連積によって生

まれる緊張と弛緩を巧みに活かし'戦乱期の女性を兵器と

のコントラストの中で鮮やかに浮き上がらせた其十は、詩

歌として遥かに優れた作品性を有している。

おそら-、迂元量以外の末の善臣や道民に

「湖州歌」の

ような連作詩を作るのは難しか

ったであろう。

一首や二首、

散馨的には詠み得たかもしれないが、も

っと露骨に赦硬の

消滅を悼んだであろう。「湖州歌」が政治色の濃厚な言説

に流れず'戦乱期の女性を大部な連作として詠み得たのは'

72

Page 17: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

やはり后妃や官女と近い位置にあ

った江元量の経歴に密接

に関わると'考えざるを得ない。

O

揚州丁楚州

(其二十三至五十111)!

准南

揚州以降、具鰹的な地名は詠まれな-なる。其二十六で

は唯

一例外として

「憐れむべし后土の室しき両手、葦郎を

望断するも来るを見ず」と'皇室にも縁のある揚州の后土

(周密

『斉東野語』巻

一七

「竣花」)が詠まれるが'その他

「港南」「准河」など'たとえ地名であ

っても

一行の座

標を示さない。再び具健的な地名が登場するのは'其五十

の高郵軍まで得たねばならない。

高郵軍はいまだ准南の境内であ-'揚州と楚州の中間よ

りも南に位置している。地理的に殆ど移動しないにもかか

わらず、九十八首のおよそ三分の

一が涯南地方に割かれて

いることには注意が必要であろう。移動がないために、こ

一段において時間的な前後関係を正確に謹み取るのは困

難である。

其四十

注元量の「湖洲歌」九十八首について(稲垣)

鳳管龍笠庭庭吹

鳳管

龍笠

虚庭に吹かれ

都民欣禦太平時

都民は欣禦す

太平の時

宮蛾不識興亡事

宮蛾は識らず

興亡の事

猶唱宣和御製詞

猶お唱う

宣和の御製詞を

(鳳のふえに龍の笠があちこちで吹奏され、都びとは太

平の世を歓び契しむ。官女は園の盛衰について何も知ら

ないのであろうか、いまだに宣和の頃の御製詞を唱って

いる。)

見てのとお-'

一行の座標についての情報は輿えられない。

上の

一首は杜牧の七絶

「商女は知らず亡国の恨、江を隔て

て猶お唱う後庭花」(「泊秦涯」詩)をそのまま用

いている

のだが'はじめに上聯で語られる賑やかで喜ばしい情景が

l緩いつなのか押さえておかねばなるまい。例えば

「湖州

歌」の他の

l首に

「都人は識らず千曳の有るを'羅給の叢

中に禦事は多し」(其二十九)と詠まれる歓禦は'現在の敷

難に封比されるべき過去の歓楽であ-'また

「尋常には只

だ追う西湖や好Lと、識らず港南の是れ極連なるを」(其

二十四)とうたわれる'目を禦しませる存在としての西湖

- 73-

Page 18: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中拭文学報

第六十七冊

も、同様に過去の時間に屠している。これに封して上に引

いた其四十の

「太平の時」とは、戦争の終わったいま現在

を指している。王次澄

(「江元量及其詩集中的組詩」、『宋元逸

民詩論叢』所収'二〇〇1年'壷北'大安出版社)は其四十を

以下のように解梓する。「船が膏都汗京に停泊したとき'

官女たちはその土地の民とともに禦しみ'徽宗が宣和年間

に作

った宮廷の詞曲を高歌して'今がどういう時なのかす

っか-忘れてしまった」'績けて其三十七

「宮人は晴夜に

堵琴を接、つるも'識らず明妃出塞の心を。十八拍中の無限

の恨、絃を韓じて又た奏づ贋陵の音」を引き'其三十七の

承句

「不識」は稗句合句まで掛か-'官女の無知を護るの

であるtと

(第二章第三節二

二六頁)。王氏のこの解樺に

は興し難い。第

一に、「湖州歌」が放程を逐いつつ語られ

ていたことを思い起こせば'其四十首の時鮎で

一行はいま

だ涯南を出ていないはずである。第二に、連作詩としての

流れに注目すれば、其三十七から四十まで連緯して音楽が

ヽヽヽヽ

詠み込まれているので

(其三十八

「官女不眠開眼坐、更聴人唱

ヽヽヽ

笑裏陽」'其三十九

「絃素懐枯縮繊手'龍港猶噴口脂香」)

、其四

十の

「宣和御製詞」は地理的な標識としてではな-、徽宗

という悲劇の皇帝が作

った

「うた」として理解せねばなら

ない。杜牧の詩および

「湖州歌」其四十は'表層では確か

に悲劇的な由来を持つ歌を'悪びれる様子もな-唱う女性

を詠んでいる。しかし

「識らず」の詩句は'無知な官女た

ちは亡国の恨など知る由もない、という意園で詠まれるの

ではない。杜牧は、讃善人であるがゆえに歌の来歴を知悉

している。朗々と聞こえて-る聾妓の無邪気な歌聾を措-

ことで'歌の持つ歴史的背景に過敏に反癒してしまった自

己の感傷をさら-と詠むのであって'決して悲劇を知らぬ

女性の無知に矛先を向けているのではない。

地名によって具憶的な位置を示さず、連績して音楽を詠

む其三十七から四十までの四首は'涯南の一段の中でさら

に小さな単位'いわば

一小節を構成していると言える。こ

の小節の流れを承け、積-其四十

lから四十四にいたる

1

小節では'この先二度と目にすることのないであろう南国

への'

1行の連綿たる思いが綴られてゆ-。

其四十

l

- 74-

Page 19: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

可憐河畔草青青

錦穫牽江且緩行

愛此港南山水好

間天乞得半時晴

憐むべし

河畔に草

は青青た-

しばら

錦複

江に牽がれ

且-緩

やかに

行-

愛す

此の准南の

山水の好しきを

天に問う

半時

の晴るるを乞い得る

かと

上の詩が'雨に霞む港南を想定して作られたかどうかはわ

からない。船は停泊Ltせわしない族程もしばしの鎗裕を

得た。これを良

い機倉に'晴天のもとで少しでも長-涯南

の山河を眺めていたい'そう天に所る詩中の人物が'この

1首には描かれている。

其四十二

船の停泊はやは-暫しの間でしかなか

った。吃立する望火

槙は、聴覚と視覚とを問わず'

1行が五感のうちに知覚し

うる最後の

「涯南」である。もう波音も聞こえず'最後ま

で見えていた物見櫓すら視界から消え失せた後も、その印

象として焼き付けられた建造物の先に'揚州の地を眺め漬

ける。ここでは江南

への後ろ髪引かれる思いが'詩的誇張

をも

って描かれている。

其四十三

擬壷琵琶意欲悲

丞相催人急放舟

舟中鬼女涙交流

港南漸遠波聾小

猶見揚州望火模

丞相

人を催して

急ぎて船を放た

しむれば

こも二

舟中の鬼女

涙は

流る

涯南

漸よ速-して

波の聾は小さ

きに

猶お見ゆ

揚州の望火模

新愁膏夢雨依依

江模吹笛三更後

細雨燈前酔王妃

かきなら

琵琶を

蓋し

意は悲まんと欲

するに

ふた

新愁

奮夢

ながら依依た-

江桂

に笛の吹かれし

三更の後

細雨の燈前に

王妃は酔う

7J

積-

一首では景は詠まれず、激し-掻き鳴らされる禦器と

曲のあとの静けさ、そしてひと-船室

(=閏房)に仔んで

眠れぬ酒に酔う女性を措いている。三更を過ぎ、川沿いの

妓榎から賑やかな笛の音が聞こえて-ると'鉦に曲の鳴り

止んだ寂しい船室はこれに封比されていっそう参落してみ

江元量の

「湖洲歌」九十八首について

(枯垣)

Page 20: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中開文筆報

第六十七冊

える。この

一首に描かれた眠らぬ女性は、朝夕の規則的に

繰-返される日常から逸脱した'限-な-停滞し頼ける時

間を象徴している。「新愁と奮夢とは両つながら依依た-」

と、これから向かう見知らぬ土地

への不安'すでに通-過

ぎてしま

った土地

への懐かしさが交錯し合

って途切れない

のは'まさに彼女が過ぎ去

った時間と'その延長である未

来との中間に逸巡して、そこから動けないためである。時

間は流れず'淀んでいるのである。

-、彼らはいまだ江南に停ま-'過去に停ま

っているので

ある

。其四十五

鏑金帳下忽天明

夢裏無情亦有情

何虞乱山可埋骨

暫時相野坐調整

たちま

錦金の帳の下

天は明

・つち

夢の裏に情は無

からんも

亦た情は

有-

何度の乱山にか

骨を埋むぺけんや

暫時

相い封して坐-て笠を調べん

其四十四

蓬宙倍坐酒微酎

潅水無波似蔚藍

隻櫓噺唖揺不住

望中猶自是江南

かす

蓬宙に倍-て坐-酒は

微か

に酎な-

准水に波無-

蔚藍に似る

讐櫓は伊唖として

揺れて住まず

望みし中は

猶自お是れ江南

おおらかに水を湛える湛水。船は絶えず北

へと動いている

にもかかわらず、「猶自お是れ江南」とうたわれる

一行の

目は進行方向を向かず'現在通過中の土地にいまだ江南の

風景を見出している。話中の人物にと

って賓際に今どこに

いるのか、どの-らい時間が過ぎたのかは

一切問題ではな

この詩に至-、詩中の時間はようや-動き出す。夜は明け

て夢は醒め、「夢裏に情は無からん」と認められるだけの

理性的判断を取-戻し'また

「何虞の乱山にか骨を埋むぺ

けん」と、首て所の無い族を悲観するだけの冷静さをも取

-戻している。そして、その静かに沈んだ心情を'ふ

び音禦によって慰めようとするのである。

以上のごと-、其三十七から四十にかけて音楽によって

喚起された情感は'績-其四十

lから四十四にいたる

1小

へと引き縄がれ、その引き継がれた情感は江南に封する

懐書の情として、小節の展開に従

って次第に埼幅されてゆ

- 7∂-

Page 21: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

-のである。これら二つの小節は互いに連携してよ-大き

一節を構成し'具鰹的な地名の記されない准南の1段の

中でも特に際だった特徴を示している。三宮の北蓮を措-

「湖州歌」の主題から見て'南朝の国土と決別する准南の

一段が格別の意義を有するのは想像に難-ないが'涯南の

段それ自鰹にも、決別を致果的に演出するための仕掛けが

用意されているのである。先述のごと-'伍子背との維別

を詠

った其十

一は'

一行の住み慣れた土地との決別を呉聡

江という境界を踏ませることによって致果的に描いていた。

涯南の段に設けられた其三十七から其四十、そして其四十

lから其四十四におよぶこの1節は、それを上回る悲劇で

あろう

一行の南朝の国土そのものとの決別を、よ-大きな

規模で演出しているといえる。具髄的な地名を排除するこ

とで

一行の移動距離を暖味にし、彼らの心理的時間の停滞

を描いたこの一節にも'「湖州歌」の意識的な演出を見て

取ることができるのではないだろうか。

さて'ここで再び話題を轄じたい。「湖州歌」がしばし

ば官女の族の様子を詠み'その中に蕃乗の女性形象を用い

江元量の

「湖洲歌」九十八首について

(稲垣)

ない例もあることは鉦に論じた。今度はこれとは逆に、典

型的な女性形象を襲

った例について見てゆ-ことにする。

「詩史」として

「湖州歌」を評債する先行研究において

は'詩に措かれた官女の生活は江元量が賓際に目にした光

景のスケッチであると理解されている

しかし次に奉げる

一首などは'賓景の素描と言えるであろうか。

其三十五

更関灸燭繍音速

卸却金細輿翠花

心似乱雑眠不得

江模中夜咽悲茄

たけなわ

さえぎ

して燭を灸き

繍箸は

らる

あろしつく

卸却

金銅と

翠花とを

心は乱練に似て

眠れども得ず

江桂

中夜

悲茄は咽ぶ

77

この一首'鎗韻は閏怨詩に極めて近い。この詩において'

帝旗にある女性を匂わせるのはわずかに

「悲茄」

一語であ

-'それも間接的に察攻ら北方に赴-女性を想像させるの

みである。次の詩はどうであろうか。

其三十九

翠髪牛詳倦琉歌

翠髪は半ば滞るるも

硫敏に倦む

Page 22: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中国文学報

第六十七冊

すす

楊柳風前陣陣涼

楊柳の風前

陣陣として

涼し

つま

絃素懐枯縮繊手

絃索

枯む

に願-して

手を

縮め

かんば

龍誕猶噴口脂香

龍延に猶お口脂の

香しきをを

(黒き結い髪が半ば頼れていても髪を枕かして化粧

する

のも億劫、河沿いの楊柳を撫でつける1陣の風は冷たい。

弦を爪弾-のも大儀に思われてか細い腕をす-め、龍漣

の薫-の漂う中へかつて下賜された香-高い軟膏を、今

もなお唇に引-0)

マツコウクジラ

こう

「龍誕」は

膿内分泌物に由来する

、宋詞で

は閑居を演出する小道具の一つである。「口脂」は、唐代'

皇帝が腺日にあかざれ、ひびわれの薬として臣下に下賜し

「口脂面薬」(杜甫

「勝目」詩)の

一つ'すなわち今で言

うリップクリームであ-'胡才甫の注はこの解樺を取る。

すす

そのように解稗するなら、承句で

「陣陣として

」と詠

さむ

あめふ

われる風は'雅風

「北風」詩の

「北風其れ

'雪を

さか

らすこと其れ雰んな-」のごとき雪混じ-の寒風であり'

口脂は寒風にささくれた唇をうるおす軟膏ということにな

ろう。しかし

「楊柳の風」を寒風とLt「口脂」をリップ

クリームとするだけでは'この

1首を十分に理解できない。

まず'「陣陣として涼し」とうたわれるのは身を切るよ

うな厳しい寒風ではない。江元量の

一首は明らかに閏怨詩

的世界を詠んでおり'そこに吹-風は開房に似つかわしい、

冷ややかな風でなければならぬ。風の吹-さまを形容した

「陣陣」は、林道の

「梅花」詩

(二首之二)に

「小園の姻

景は正に凄迷として'陣陣たる寒香は赤筋を燈す」とある

ように'合句で詠まれる芳香の縁語としても機能する。も

ちろん'寒風のゆえにリップクリームが持ち出されるので

あ-'風と軟膏との持

「寒さ」のイメージがこの

一首の

土茎になっているのは言うまでもないが、芳香を載せる風

が雪混じ-に吹きすさぶ寒風では'詩に漂う閏怨詩的な情

緒が破壊されてしまう。つぎに口脂。詞では龍港と同じく

閉居の小道具として、口紅の意に用

いられることがある

(『花間集』巻三幸荘

「江城子」、又巻六願象

「甘州子」)。なら

ばここに詠まれる口脂は革にひび割れの軟膏というだけで

はな-、閉居に似つかわしい香気を沓する化粧品としての

意味合いをも、併せて汲んでやる必要がある。化粧は廃し

7g

Page 23: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

たのだが'口紅の代わりに塗るリップクリームが、その女

性の唇元を艶めかし-するのである。「噂」とは'上唇と

下唇をすりあわせて口紅をなじませるときの仕草をいうの

であろう。

合句の

「猶お」が厄介である。風の冷たさに思わず袖口

に手をす-めると、そのときの空気の振動に伴い'龍港の

薫りが動-。その薫-に加え、唇に塗布されたリップク

リームもまた薫る、のように'単純な累加としても理解で

きる。しかし、それ以上の謹みをこの一首は許容するであ

ろう。口脂はもともと下賜の軟膏であるから、皇帝を連想

させる語た-得る。同様に'龍延もまた宋の帝室に縁の深

い語であることが、末の察修の

『鎖国山叢談』の記事から

分かる。察京の末子で、未の南渡後にこの筆記を著した察

修は、顛官を父親に持

った関係から宮廷の故章に通暁して

いた人物である。

奉簾庫は'帝室の質物庫である。-…あるとき奉哀

ほとき

かたみ

庫から龍誕香が琉璃の缶

二つ分、披瑠母が大きな

二つ分'尊兄された。--

(龍渡)香の方は、多-大

江元量の

「湖洲歌」九十八首について

(稲垣)

ヽヽ

臣近従たちに下賜されていた。そのな-はたいそう大

ぶ-で古めかし-、見た目はあま-よろし-ない。小

さなほのおをともしてやると'いつでも奇花のごとき

香気を馨し'そのよい薫-はあた-に充満してほぼ

1

日中やむことがない。そこで太上

(徽宗)は大いに珍

しがって'かつて下賜されたものを召し上げるよう命

じ、数の多少に従

って回収して宮中に掃層せしめ'こへ

れを

「古龍誕」と名附けて珍重された。大官たちは

ほどの一塊を得んとして競い'その値は百縛にも及ん

だ。金玉で穴を穿ち'青練をこれに通して頚から下げ'

折に解れて襟元あた-で擦

って人に見せる。このようこ・つ

にしてアクセサリーになった。今のアクセサリーの香

は'古龍誕にちなんで始まったのである。(巻五)

(奉簾庫者ー租宗之珍蔵也。・・・・・・時於奉簾中ー得龍誕香

二琉璃缶、披瑠母二大匪。--香ー則多分賜大臣近侍。

其模製甚大而質古I外税不大任。毎以

一豆火蘇之I軌作

異花束ー芥郁満座I終日略不敬。於是太上大寄之I命籍

被賜者I随敷多寡ー復収取以婦中禁。因親日

「古龍港」.

- 79-

Page 24: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中国文学報

第六十七冊

馬貴也。諸大塔争取

一節ー可直百緒。金玉穴!而以青線

貫之ー侃於頭1時於衣領間I摩輩以相示。坐此ー逐作侃

香駕。今侃香I困古龍港始也。)

この記述に従えば、龍港はさしずめ高債なネックレスとい

うことになる。『銭園山叢談』の別の箇所で'察京が宴席

で下賜した品々にも

「龍挺」が見え

(巻二)'ここでいう

「古龍湛」とは多少異なるのかもしれないが'いずれにし

ろ皇帝に近しい者でなければ手に入らぬ奪修品である。

「湖州歌」が宋王室の悲劇を詠んだ詩篇であることに思い

を致せば、かつてやんごとなき人から賜った龍誕を頚に掛

け、同じ-賜-物の軟膏を唇に塗布する女性の姿が現れて

-る。「湖州歌」は皇帝の不在を、君臣の関係からことさ

らに悲劇的に演出しようとはしない。したがってこの一首

も皇帝の縁語を用いて宋朝の滅亡を哀悼する'そういった

類の詩ではない。とはいうものの'在りし日の王朝を連想

させる語を配置し'その連想から生み出される哀感を閲怨

詩的な女性形象の上に重ね合わせるならば、結果として閑

居のうたの基調である、あるべき物

(あるいは人物)の不

在と喪失は、いっそう深い鎗韻を湛えて-るであろう。す

ヽヽ

でに見た其四十

「猶お唱う宣和の御製詞を」、其四十二

ヽヽ

ヽヽヽ

「猶お見ゆ揚州の望火模」、其四十四

「望みし中は猶自お

是れ江南」など、停滞した過去の心理的な椎積は

「湖州

歌」が繰-返しうたう情緒である。この1首の

「猶お」も

同様に継積の意に解揮し、亡き王朝から下賜された軟膏を

今もなお使い積ける女性'としたほうが'閑怨詩的な喪失

感はよ-強調されると考えるのだが'いかがであろうか。

いずれにしろ'上に引いた其三十九などは完全な閏怨詩

である。閏怨詩であるなら'風の吹き込む閑居の寒さは'

情人から打ち捨てられ顧みられぬ女性の肉鰹的、心理的な

冷えを象徴するのであ-、容色をかまわないのは、それを

喜んで-れる男性の不在を暗に言うのである。口脂、龍産

は詞の常套語であ-、その語自膿は王室の悲劇と直結しな

いのだから'「湖州歌」というコンテクストから切-離さ

れれば、おそら-罵旗にある三宮や官女の悲哀などは思い

も寄らぬであろう。

もちろん、「湖州歌」には官女の生態を活菊した'閏怨

β0

Page 25: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

詩や艶詩とはおよそ雰囲気の異なる詩もある。

其十七

暁等薪幕僚不椀

忽悪人説是南徐

手中明鏡抱船上

牛掲蓬密着打魚

暁撃

前車として

願-して椀かず

忽ち聴-

人の

是れ南徐な-と説

くを

手中の明鏡

船上に抱ち

半ば蓬菌を掲げて魚を打

つを看る

物憂さのあま-化粧もおろそかな女性を措き、かえ

ってみ

だれ髪のなまめかしさをほのめかす、このような手法に新

味はない。ところがこの

一首'退屈な船旗のあるとき、船

の外で漁をしているよと'誰かが教えて-れたのであろう'

彼女はそれまで弄んでいた手鏡をぽいと投げ捨て'珍しい

光景が見られるのを大

いに喜び、しかしあからさまな態度

を取るのは慎み、半分だけ簾を捲いて漁の様子を眺める。

鏡を放り出す仕草によって、詩中の女性の憂密と時間の停

滞がにわかに破られるのを描-のである。また'其五十六

おく

「歌風葦の畔に水は伝法たり'地面の官人酒華を

」の

ように'元朝の官吏がなまぐさものを振る舞

って-れたと

江元量の

「湖洲歌」九十八首について

(格垣)

きの様子を'

たわむ

宮女上船嬉

一事

船に上-て

ること

1婁

不禁塵土汚衣袴

禁ぜず

塵土に衣裾を汚すを

とうたっている。陸の上の官吏と船上の官女がどのような

関係にあるのか'この四句だけでは決定しうらいが、「上

船」とあるのから見てへ彼女たちも

一時上陸していたので

あろうか。酒食が振る舞われたと聞き、わいわいと禦しげ

に船に上が

った官女の服は挨まみれ。思わぬ差し入れに歎

聾を上げる様子のみならず、長い船旗の合間にしばし大地

を踏むことが出来た彼女たちの喜びをも'砂境を被

った衣

裳を通じて描いているのではないだろうか。

しかし'「湖州歌」の女性の全てが澱刺とした魅力をも

って措かれるのではない。例えば'高郵軍を詠んだ其五十

そぞ

「官女蓬を開きて猶

お笑

い'間

に金弾を鞄ちて沙鴎を

つ」は、船旗を連想させる

「沙鴎」の語を除けば宮詞風

の情景をうたうのに過ぎないLtあるいは其二十八で

「官

軍南岸に龍舟を護り'賓飯魚莫

進むること休

まず」と食

事を振舞われ'

SI

Page 26: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中閲文筆報

第六十七冊

はきけ

官女垂頭室作悪

官女

頭を垂れて杢し-

を作し

暗地珠涙落船頭

暗に珠涙を抱ちて

船頭に落とす

と'船酔いも手侍ってか郡びた料理が喉を通らず'うつむ

いて人知れず涙する官女などは'その弱々しさが少女らし

い所作によって故意に強調されている。もちろん'注元量

は同様の光景を賓際に目にしたことであろう。しかし'中

国古典詩が脈々と受け継ぐ女性形象どおりに非力で可愛ら

し-措かれた彼女の姿は'たとえそれが賓際の光景を素材

にしていようとも'もはや素描とは違う'線を補強し彩色

を施した別個の作品として扱わねばならない。「湖州歌」

九十八首の構成に意識的な演出が施されていると先に論じ

たが、作中で中心的な役割を塘う女性の描寓もまた'作-

手の脚色を経ているのである。

d

郵州1通州

(其五十四至其六十九)

-

准水以北

さて'いよいよ

1行は北朝の領内に入る。これに先立つ

高郵軍

(其五十)以降、それまでとう

って壁わって毎首地

名が織-込まれるようになる。地理的な座標を時間軸に沿

って鮎綴した

「湖州歌」の特徴が'最も良-あらわれた

段である。なお

「所講便行程記」によれば'幼主

一行に先

立って出費した所講使は清川以降、船から車に換えて陸路

を進んだようであるが

(三月二十日)'「湖州歌」はあ-ま

で水路をゆ-。

地名を連緯して紹介する

「湖州歌」の高郵軍から通州ま

での部分が、おおよそ南末の北限を超えた境域を詠むのに

注意したい。すなわち、南朝側の文人にとって目にする横

合の乏しい北方の風土が紹介されているのである。南北の

境界を越える前と後とでは'

一連の絶句の配列が生み出す

調子も速度も'がら-と蟹わる。通過地鮎が逐

一詠み込ま

れることで'詩の受け手は

1行を地園上に追跡できるよう

になるばか-でな-'同時に時間の推移を容易に把握でき

るようになる。江南'准南では

一行の座標は殆ど動かず、

受け手は時間の感覚を失い'詩には沈夢な雰囲気すら漂っ

ていた。ところが'まさに快調に水路を滑るかのごと-高

郵軍以降のテンポは軽快にな-'これに伴って受け手の心

S_'

Page 27: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

理的時間の経過も速-なる。

詩人の訪れた土地が連積して紹介されることで、詩の受

け手は詩人の旗を疑似鰹験する愉しみを得るが'

1万の作

-手は訪れた土地を連頼的に詠むことによ

って'族の経験

を私的に記録する。これまで度々論じてきたようにへ「湖

州歌」は詩人の見聞録ではな-、三宮北達の

一部始終を'

自己の経験に擦-

つつも物語的に再構成している。したが

ってこの段で詠まれる土地の風俗も詩人の生の記録として

謹むことはできない。それでもこの

1段の詩は'圭として

旗の悲しみをうたうこれまでの段とは大き-異な-'

一見

したところ族のスケッチを綴-合わせたような印象を受け

手に輿える。

其五十三

賓鷹城南柳敏枝

段括文席是民居

眼前境逆没詩興

忽有小舟来貢魚

其五十五

賓廃城の南

敷枝

まい

霞捨

文席は

れ民の

さから

眼前

の境は

て詩興を

没するも

忽ち小舟の

来りて魚を頁る有り

徐州城上寛黄模

徐州城の上に

黄榛を寛む

四壁詩章讃不休

四壁の詩章

讃めども休まず

更欲登董看戯馬

更に墓に登-て

戯馬を看んと欲す

れば

州官穂酒共嬉遊

州官

酒を構えて

共に嬉遊す

上の二首、

l方は土地の風俗のスケッチであり、

1方は名

所膏蹟を訪れた記録である。とりわけ其五十五にいう黄榎

は蘇拭ゆか-の名所であ-'徐州在任中の配州寧十年に起き

た黄河の大水を記念して起工され'明-る元豊元年に落成

する。この年'蘇坑は度々戯馬墓を詩に詠み込んでお-、

に話題にその名が見えるも

のとして'「静教授

・張山

・参参師と同に戯馬墓に遊び'西軒の壁に書す、兼ねて

顔長迫に簡す」二首がある。戯馬墓はもともと項羽の停説

に由来する菖蹟であるが'劉末の頃には二謝が'唐には鮫

然がこの地を訪れ'蘇拭も詩の中で彼ら先輩詩人について

言及している。「四壁

の詩章」とは'このような徐州と詩

人との代々の良縁を寿ぐのであろう。三富'官女を詠んだ

詩も弔旗の苦しみばか-ではなか

ったが'この二首にも族

83

江元量の

「湖洲歌」九十八首について

(栢垣)

Page 28: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中国文学報

第六十七冊

の悲哀は感じられない。

風俗を異にする北方の描寓は興味深い。

其六十六

長産樽柁是通津

蓋是東西南北人

日暮姻花簾鼓間

紅模欄醇楚州春

其六十七

恰到楊那蓄馬頭

北風吹両便成秋

鴨場鬼物敗人興

長産よ-柁を韓ずれば

是れ通津

蓋-是れ

東西南北の人

日暮れて個花に

篇鼓は聞ぎ

紅榛に欄醇す

楚州の春

みなと

恰も楊邸の書き馬

に到れ-

北風

雨を吹けば

便ち秋と成る

そこな

鳴鳴たる鬼物

輿を敗わしむれ

おおいつく

やす

掩却蓬宙且陸休

蓬宙を

且-睡-

まず其六十六㌧「東西南北の人」は言うまでもな-

「檀弓」

上に見える孔子のことば。ここではおそら-漢民族以外の

各国人をも含む。夜の帳も降-て'「個花」'すなわち妓榎

から賑やかに聞こえて-る音楽。「紅桂」は女性の住居で

あるが'三宮の船を比喰的にいうのか'それとも江元量自

身'その土地の妓榎でしばしの歓楽に浸

ったのをいうので

あろうか。「楚州春」、胡才甫は酒の銘柄ではないかとして

いる。次の其六十七で秋の到来を詠

っているから'「楚州

の春」に酔うとは、酒にしたたかに酔うというのが表の意

味で'裏では北国の寒い秋口に南方の春を狂おし-懐かし

むのであるが、同時に男女の関係をも匂わすのかもしれな

い。其六十七の後聯'「鬼物」は

「鬼業」に作るテキスト

もある。「人

輿」は用例の

見つから

い語

であるが'先

さから

引いた其五

十三「眼前の境

は逆

て詩

興を没す」にい

う'

詩人として

の詩興を指すのであろう。ただ、もう少し想像

を達し-するなら'北方の荒涼とした景物に詩興が動かな

い、と詠むだけではないように思う。「鳴鳴たる鬼物」と

は'漢民族とは調子の全-違

った言語をあやつる各国人を

意園するのではなかろうか。ただし、異民族の話す言語な

ど聞-に堪えないtという差別的感情をあらわにしている

のではない。耳慣れぬ言語を操る人々を空恐ろし-感じ、

慌てて船の窓を閉めて狸寝入-を決め込むさまを、「且-

睡-休まん」の

一句に謹み取れないだろうか。詩中人物の

84

Page 29: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

慌てた仕草が、なにやらおかしみを誘うのである。昔時は

人種のるつぼであったのだろうか'北方の地で自分たちだ

けが唯

一絶野の中心ではないと改めて気附かされた南方人

の戸惑いが'以上の二首には素直に表されているように思

1つ

○さて、長い旗もようや-終わ-を迎える。

一行はいよい

よ大都の手前までやって来た。

其六十八

満朝宰相出通州

迎接三宮宴不休

六十里天国錦帳

素車白馬月中遊

満朝の宰相

通州

に出で

うたげや

三宮を迎接して

して休まず

六十里天

錦帳もて囲まれ

素車と白馬とは

月の中に遊ぶ

「所請使行程記」閏三月二十四日に'「諸使

(所講使を指

す)

陽春門

(大都にある)を出で'太后

・嗣君を五里の外

bか

」、とある。其六十八にいう通州は大都の目と鼻の

先にあるから'史賓に典嬢を求めるならば所講使として先

に都人-した宰執の出迎えをうたうのかもしれない。「素

者白馬」は'第

1段の幼主出宮のところで引用した'敗戦

注元量の「湖洲歌」九十八首について(稲垣)

園の君主が執るべき降伏儀頑の一つ。史書によれば幼主は

すでに罪を許されていたから'素車白馬が賓景であるとは

断言できない。そのうえ孔凡樽の考誼によれば'江元量は

幼主らに遅れて謝太后とともに臨安を離れている。『宋史』

謝后博

(巻二四三'后妃下)の記載によれば、「滅囲公は全

ヽヽヽヽヽ

后と入朝するも'太后は疾を以て杭に留まる。是の年八月'

京師に至りて'暮春郡夫人に降封せらる」とあるから'江

元量が謝后に附き随ったのであれば'幼主の大都入-に居

合わすはずはない。また大都に到着した幼主

一行は、上都

に行幸するフビライに謁見するためさらに北進Lt『元史』

世租紀六

(巻九)および伯顔俸

(巻一二七)によれば、同じ

年の五月

一日

(『宋史』滅囲公紀では二日)に上都に到着する

のであるが'「湖州歌」ではこの間の旗について

一切うた

われない。大都到着に績けて'すぐに次のような歓迎の御

宴が措かれるのである。

e

歓迎の宴

(其七十至其七十九)

この段では第

一延から第十延まで'

一行を歓迎する宴の

gJ

Page 30: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中囲文学報

第六十七冊

模様が逐

一措かれている。賓際に十たび宴が催されたかど

うかは分からないが'むしろ十と

いう切-のよい数は、

「湖州歌」の中であるまとま

った

一段を構成するために選

ばれたと考えられる。宴骨に出てくる豪勢な料理も、「駅

峯」(其七十

一㌧第二延)「葡萄酒」(其七十三㌧第四延)など、

詩歌に詠まれる北方の料理の典型を越えるものではな-、

必ずしも賓景であるとは言い難い。元朝の三宮に封する歓

待ぶ-を詩の受け手に十二分に印象づけるため'特に十首

が費やされるのであろう。ここでは最初と最後の二首を引

用してお-。其七十九の合句に言う

「天香」は、轄句

「君王」に野廃して皇后を指すと思われる。

其七十

南麻丞相把壷瓶

雨麻の丞相

壷瓶を把る

君王自動三宮酒

君王は自ら三宮に酒

を勧め

更迭天香近玉犀

更に天香を送りて

玉犀に近かしむ

末の奮君臣に野する待遇

(其八十至其八十四)

この

1段は、圭として元朝の手篤い待遇と賜輿とを諾え

る。

其八十二

金屋粧成物色新

三宮日用御厨珍

其鎗官女千鎗箇

分嫁幽州老断輪

金屋に粧い成-て

物色

新たな-

三宮の日用せらるる御厨は珍し

其の除の官女

千除箇

分けて嫁ぐ

幽州の老断輪に

SO

皇帝初開第

一延

天顔間努思綿綿

大元皇后同茶飯

宴罷蹄来月満天

其七十九

第十項延敵禁庭

皇帝

めて開-

一の延

ねきら

天顔問い

努いて思

うこと綿綿た-

大元の皇后

茶飯を同じ-し

宴罷みて蹄-来れば

月は天に満

第十の壇延

禁庭に敵かれ

「金屋に粧

い成る」は'「長恨歌」の

「金屋に粧

い成-

て婿として夜に侍り、玉楼に宴罷

みて酔うこと春に和す」

を借-た言い方。江元量には別に

「亡末の宮人

北匠に分

嫁す」(『櫓訂』巻二)と題する古膿詩があ-'そこでは元

朝の慈悲をうたいつつも'北方で職人に嫁がされる彼女た

ちを憐れんでいる。とはいえ官女の悲哀を第

一義に讃み取

Page 31: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

るのでは本段のコンテクスIに合わないから、元朝の廃置

の寛大さが官女にまで及ぶとする王次澄の解梓が'ここで

は相麿しい

(前掲論文'二二二頁)

先の宴席の段と同様'この

一段もまた恩賞をご-大げさ

に述べ、詩の受け手にその待遇の厚さを印象づけるのが主

たるねらいであろう。次に紹介するのは'あたかも七律の

領聯'頚聯を切り取

ったかのごと-、二聯とも封偶で構成

された例である。

其八十四

g

北方での生活

(其八十五至其九十七)

この段では、慣れない北方の生活に難儀する三宮の様子'

また彼女たちに野する元朝の心遣いなどを描-。季節を詠

んだ篇は下に引-

一首の他'其九十三が冬至の祭をうたっ

三宮寝室異香瓢

紹鼠艶簾錦繍標

化色相制二三寓什

織金鳳被八千修

三宮の療室

異香は祝い

あらわ

窮鼠の艶簾

錦繍は

花磯の樽裾

三高件

金を織-たる鳳の被

八千候

ている。

其八十五

客中忽忽又重陽

蒲酌葡萄皆菊陽

謝后巳卯新聖旨

この一首などはちょうど古典白話小説に引用される詩詞に

似て詩歌としての自律性に乏し-'連作の中に置かれて初

めて意味を持つ。言い換えるなら'大きな段の

一部分を構

成する、いわば挿入歌的な

一首として理解すべきで、早漏

で取-上げて出来を云々する意義は薄い。

注元量の

「湖洲歌」九十八首について

(稲垣)

謝家田土兎輸糧

其九十七

雨下金欄障御階

異香標紗五門関

都人罷市従容立

迎接南朝附馬来

客中

忽忽として

又た

重陽あ

満酌の葡萄もて

菊腸に

普つかたじけな

謝后

己に新

たなる

聖旨

を卯-

ゆる

謝家の田土は

輸糧を

へだ

両つながら下がる金欄は御階を

異香

襟紗として

五門は閑かる

都人

市を罷めて

従容として立ち

迎接す

南朝の鮒馬の来るを

87

其八十五は幼主

一行に遅れて到着したとされる、太皇太

Page 32: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中囲文学報

第六十七冊

后謝氏への待遇。其九十七にうたわれる鮒馬とは'理宗の

一人娘で寵愛を

一身に受けた周漠囲公圭の夫'楊鋸をいう.

彼は未の降伏後も抵抗を積けた陳宜中

1波に屠する人物で'

降伏直前に度宗の庶子である二王を連れて臨安を離れ、

人を逃がすために元軍を足留めしようと試みるが'その後

蹄順したらしい

(『宋史』滅園公紀附二王紀)。江元量に

「楊

附馬に別る」詩

(『準訂』巻l)があ-'両者には親交があ

ったようだ。『元史』伯顔侍によれば'楊憶は幼主の一行

に加わって北へ赴いているから'謝太后よりも先に大都入

-しているはずである。にもかかわらず'楊鋸の到着を

「湖州歌」が幕を閉じる直前の一首に置いたのには'何か

理由があるようにも感じられる。

終章

(其九十八)

「湖州歌」九十八首は次のように締め括られている。

其九十八

杭州商里到幽州

杭州よ-寓里

幽州に到る

百昧歌成意未休

百昧

歌は成れども意は末だ休まず

燕玉偶然通

1笑

燕玉

偶然に

l笑を通ず

歌喉宛特作呉詣

歌喉

宛韓として

呉誼を作す

王次澄は

「湖州歌」最後の一首を以下のように論ずる。

江元量は琴師として謝太后と王昭儀に仕えたかつての身分

うた

を忘れず'歌

を詩にしたのであり'そこにかつての主人に

野する思慕の情が見て取れる。また'彼は自身を大都の歌

妓と同列に扱うことでその地位を蔑み'亡国の臣下の蓋恥

とその遣る方無さを筆端に露わにしているのであるtと

(前掲論文'二二三頁)。しかし

「湖州歌」の'少な-とも

言辞の表層に蓋恥心は見出せない。もし本昔に注元量が恥

じていたとするなら'亡園の臣たるを恥じる人間が'どう

してこのような百首に近い連作詩を作

って恥の上塗-をし

ているのか'王氏は説明する必要がある。善臣ないし遺民

という身分と'彼らの詩歌とを'無批判かつ安易に直結さ

せる論法がこの時期の詩人を詩歌史のなかに埋没させてし

ったという事賓に、そろそろ目を向けるべきではないか。

SS

Page 33: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

物語-としての

「湖州歌」

以上'「湖州歌」が注元量の見聞をそのまま記録したも

のではな-'九十八首の構成と詩中人物の描き方、そのい

ずれにも物語的な脚色が施されていることについて、段を

逐いつつ論じてきた。従来の研究は

「湖州歌」の記録性を

重んずるあま-、その虚構性には目を向けてこなかったと

いえよう。王室の北蓬を記したドキュメンタリーではない

とするならば'「湖州歌」は詩篇として一髄どのように位

置づけられるのか。全膿を概観したいま'改めて検討して

ゆきたい。

a

歌として

まず'「湖州歌」という詩題を再び取-上げよう。江元

量には連作詩がいくつかある

そのうちの一篇である

「越

州歌」二十首

(『槍訂』巻二)、および現存する形から見れ

ば連作とは言えないが

「幽州歌」

一首

(巻三)、「鳳州歌」

二首

(巻三)、「彰州歌」二首

(巻四)などは'いずれも

江元量の

「湖洲歌」九十八首について

(宿垣)

うた

「湖州歌」と同様の詩題である。これら

「某州の

と銘

打たれた詩篇はどれも七言絶句であるが'このような七言

くに

絶句を用いて州をうたう連作詩は'杜甫

「襲州歌」十絶句

(宋本社工部集巻一六)を意識して作られたと考えられる。

「襲州歌」は文字通-長江上流域'憂州周連の風土を詠じ

た連作詩で、地名を織り込み'周遊の疑似膿験を可能にす

る鮎において'「湖州歌」の高郵軍から大都到着までの一

段によ-似ている.

1説に

「襲州歌」は竹枝詞の流れを汲

むといわれるが

(『杜詩境鎗』巻一三眉桂)、これに従えば

「湖州歌」も系譜上は民歌民謡の血続を引-ことになる。

「うた」である民謡の形式を借りること自膿、奴に見聞録

のような記録とは

一線を劃すと理解できよう。

詩題を離れて本篇に目を向けても'「湖州歌」はやはり

音楽と密接な関係にある。「湖州歌」が賓に様々な

「音」

に溢れていることは'これまでに紹介してきたわずかな例

からも明らかであろう。大別するなら、軍隊の鼓吹する音'

女性の奏でる音'詩の語-手が奏でる音の'三つに分類で

きる。「湖州歌」の第

一首は'軍鼓を打ち鳴らして南下す

89

Page 34: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中国文学報

第六十七冊

る元軍の措寓から始まるのであった。女性の奏でる音楽の

典型は、蛭に涯南の段で紹介した其三十七に見ることがで

きる。宮

人晴夜按堵琴

不識明妃出塞心

十八拍中無限恨

特絃又奏贋陵音

宮人

晴夜に

堵琴を接づるも

識らず

明妃

出塞の心を

十八

相中

無限の恨

絃を轄じて叉た奏づ

贋陵の音

そして

「湖州歌」の最終章は

「燕玉

偶然に

一笑を通ず'

歌喉宛特として呉轟を作す」と、語-手の奏でる音で締め

括られていた。いまだ筆者の個人的な印象に過ぎないが'

以上の三種類の

「音」は'現存する注元量の詩歌全篇に共

通する特徴ではないかと思う。

ここで想起されるのは'琴師としての江元量の経歴であ

る。もちろん俸記史料と詩歌とを安易に結びつけるのは避

けねばならない。しかし音楽の素養のない人物であったな

らば、九十八首を通じてこれほどまでに繰り返し音につい

て詠み得たであろうか。后妃に仕えた経歴が彼になければ'

「湖州歌」の語る王室の北蓮はよ-政治的な言説に流れた

であろうと'すでに江南の1段で論じた。後宮への出仕が

女性たちの旗を豊かに描かせたように'琴師という経歴も

また

「湖州歌」全篇に音楽の調べを輿えてはいないだろう

か。

b

宮詩として

つぎに'九十八首という教を問題にしよう。先行研究は

最後の1首

「杭州よ-寓里幽州に到る'百味の歌は成れど

も意は未だ休

まず」にいう

「百昧」を、概数であると説明

している

(前掲胡才甫

『注元量集校注』'八五頁)。百詠であれ

ば梅花百詠、西湖百詠などがすぐに思い浮かぶLt『詩淵』

に収録される注元量の詩にも

「李鶴田の鑓唐百詠を謹む」

(『畢訂』巻四、新輯)と題された

一首があるように'連作

一百首は昔時すでに作詩の

一形式として定着していた。な

らばなぜ

「湖州歌」は

一百首に及ばず、九十八という半端

な敦で終わっているのか。例えば元朝の恩賜にさらなる詩

句を費やし'残-二首を水噂しするなどは容易であったは

ずである。そこで'現在見られる

「湖州歌」は全部で九十

90

Page 35: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

八首しかないけれども、本来は

一百首あったのであろうと

推測せざるを得ない。その場合何らかの理由で二首が失わ

れたことになるのだが、ここではその理由は保留にし、

百首という敦の意義を考察してみたい。

植物や名勝などのさまざまな様態を詠った百詠詩は、い

わば革

lの主題のもとに作られた難詩である。

1百首では

ないが、よ-知られる花成大の

「四時田園難興」六十首な

ども

一つの主題に基づいて作られた大部な連作の難詰に

数えられよう。そのほか、注元量とほぼ同時代の一百首の

作例として'劉克荘の

「雑詠」

一百首二篇

(『後村先生大全

集』巻一四二

五)がある。これは

「十臣」「十子」のごと

-'歴史上の人物をテーマ別に十人ずつ選び、その各々に

ついて詠じた七言絶句であ-、詠史詩の一形態として極め

て興味深い。しかしテーマ以外には各詩に関連性は無-'

やは-難詩の域を出ない。

このほか、王建

「宮詞」

一百首に連なる宮詞の系譜があ

る。宮詞

一百首も難詩難詠の寄せ集めには違いない。しか

1般の文人にとつては非日常的であろう宮中の諸相が詠

注元量の

「湖洲歌」九十八首について

(稲垣)

まれる難において'他の雑詩

一百首と性格を異にする。王

建を受け継ぐ宮詞の一つに、後葛の孟親の后妃であった花

薬夫人の1百首があ-'「湖州歌」其四十に

「宮蛾は識ら

ず興亡の事'猶お唱う宣和の御製詞を」とうたわれた徽宗

にも三百首が博わっている。前章において

「湖州歌」に措

かれた女性たちを論じたが、后妃'官女を様々な角度から

詠ずる

「湖州歌」は、水上生活という舞墓の違いこそあれ'

宮詞的な特徴を濃厚に有しているといえる。「湖州歌」が

もともと

1百首作られたとするなら、連作

l百首という形

式のみならず'後宮の女性を扱ったその題材からも官話

百首との類似が指摘できよう。

江元量がもし宮詞を意識していたのであれば'「湖州歌」

という詩題がそうであったように'

一百首という収録数も

また王朝の終章を象徴しているのかもしれない。中国古典

詩では詩の収録数が象徴的な意味を持つ場合がある。例え

ばある詩集が

「三百首」と銘打たれるとき、量的な充賓を

詣うのはもちろんのこと、

一方では経典である

『詩経』の

収録数にならって威厳を槍そうと'意識的に三百首という

91

Page 36: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中国文学報

第六十七冊

数が選ばれる。このとき'

詩集の編者は先行作品の形式を

借-ることによって'その文学史上の意義をも継承しょう

とするのである。同様に'「湖州歌」が宮詞を意識して

百首という数を選拝したのであれば、結果として同じ-王

朝交代期の文学である'花薬夫人の宮詩を受け継ぐことに

ならないだろうか。これまで繰-返し強調してきたように、

「湖州歌」のことばの表層には園の滅亡を露骨に悼む表現

は見出せない。このため膏際には長大な北連の物語が十分

に展開できるように

1百首を選拝した可能性のほうが高い。

しかし物語のために十分な容量を欲するのなら'六十首で

も'あるいは

一百首を超えようとも構わなかったはずであ

る。ならば、后妃に仕え'王朝の終幕を目の首た-にした

江元量の意識のご-深層で、同じ-亡国の后妃であった花

薬夫人の印象が強-作用し、結果的に彼女の宮詩と同じ

1

百首という収録数を遥拝させた可能性も'皆無ではなかろ

う。「湖州歌」の宮詩的な特徴'これに后妃に仕えた江元

量の経歴を併せて考えるならば'宋によって滅ぼされた後

葛の后妃とその宮詞

一百首の印象は'やは-作-手である

彼の意識下に件んでいたのではないか。このように考える

ならば'極めて微かではあるが

一百首という敦にも'王朝

の絡蔦という象徴性を謹み取ることができるのである。

C

「講史」として

績いて'「湖州歌」の歌謡的な性質'江元量の音楽的な

素養と、前章までに論じた物語的な脚色との関連について

考えてみたい。

旗のスケッチ風の詩'また官女の様態を措いた詩のい-

つかは'江元量が放先で賓地に記したものであろう。しか

「湖州歌」の大部分は'おそら-博聞に基づ-か'過去

を回想するかによって創作されている。孔凡値が考謹する

ように、『宋史』『元史』『宋紀三朝政要』など複数の史書

に'太皇太后謝氏は病のため幼主、皇太后らに遅れて臨安

を馨ったと記されているLtまた巌光大

「所請使行程記」

は幼主、皇太后らの大都到着については記載しているが'

太皇太后については全-言及の無いまま、五月二日で記録

を終えている

(孔氏

「紀年」至元十三年五月保)。ならば謝太

92

Page 37: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

后が幼主とは別の一隊として'遅れて北へ赴いたのは事賓

としてほぼ間違いない。それでは江元量は、幼主と太后太

后の、

一健どちらの一行に随って大都に赴いたのか。孔凡

「紀年」は、「湖州歌」を含む江元量の詩に詠まれた季

節から'幼主が出費した三月には彼はまだ杭州にいたであ

ろうと考謹するけれども

(「紀年」同年三月保)'確定はでき

ない。ここでは事案関係よ-も、族先で書き貯めた詩を後

に繋ぎ合わせたとされる

「湖州歌」の成立過程こそが、優

先して検討されなければならない。前章で見てきたように'

「湖州歌」は見聞の思案な記録ではない。もし孔氏の考諾

するように江元量が太皇太后の一行に随って族をしたので

あれば'なおさら創作としての性格は強-なるであろう。

なぜなら

「湖州歌」は宋王室の北蓮を措いた連作詩であり'

幼主と皇妃を中心に展開してゆ-。謝后に附き随った旗の

経験を元に幼主の北蓮を措-のであれば、江元量は博聞と

想像とによって

「湖州歌」を創作したと言わざるを得ない

ではないか。史書では幼主と共に到着したとされる楊鋸が'

「湖州歌」では幼主に遅れて九十七首日に登場するという

江元量の

「湖洲歌」九十八首について

(稲垣)

のも'事案が作-手によって再構成されたとする

一つの根

擦となる。

再構成された歴史事賓という問題を'「湖州歌」に登場

する人名の角度から考えてみよう。「湖州歌」の大都到着

以降の詩には'しばしば個人を特定できる人名が詠まれて

いる。其八十

一では

「福王は又た拝す平原郡'幼主は新た

に封ぜらる濠囲公」として'理宗の弟に首たる福王趨輿丙、

および幼主趨鼻の降封が語られ'其八十五では

「謝后は巳

かたじけな

ゆる

に新たなる聖旨を

-

Lt謝家の田土は輸糧を

る」

と謝太后を詠み'其九十七には理宗の娘婿であった楊鋸が

登場する。江元量は大都到着後も北方に留ま-'宋の王族

との交際は績いた。王族にとっては悲しむべき北蓮を'い

かに元朝の寛大な廃置を諾えるためとはいえ、首事者たち

の面前で堂々と詩歌に詠み得たであろうか。

中国古典では文膿を問わず'生存する人間について名指

しすることは

一般に許されない。社交的な詩の磨酬でも'

鋸か'例えば韓愈が

「張生

手ずから石鼓の文を持ち、我

に勤めて試みに石鼓の歌を作らしむ」(「石鼓歌」)と詠んだ

- 93-

Page 38: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中国文学報

第六十七冊

ように、

姓を詠み込むのであれば辛うじて許される。「湖

州歌」以外の江元量の詩で'麿酬の相手以外で同時代人の

名前が挙がるのは'北朝の賂軍である伯顔を除けば'呂文

換'頁似道などを見出せる程度である

もちろん彼らとて

諒を呼び捨てにされるのではないけれども'貫似道は宋を

滅亡に導いた張本人として、呂文快は南末の生命線であっ

た塞陽を守備する将軍として、ある

〓疋のキャラクターを

輿えられている。彼らに封する扱いは、ちょうど

一般の詩

歌に詠み込まれる歴史上の人物の扱いによ-似ているとい

えよう。歴史上の人物であれば、書名で詩歌に詠まれよう

とも

1向に差し支えないのであるo

さて、ここで注意したい。「湖州歌」に詠まれる宋王室

の北蓬は、常時にあ

っては現代史に相普する。リアルタイ

ムで政局について詠ずるのではないが、かといって遠い過

去の王朝を詠ずるのでもない。きわめて近い過去ではある

が'もはや歴史の範晴に層する事件なのである。すでに過

去の歴史であればこそ、降伏後の宋王室について詠むこと

が許され、かつ近い時代の個人名について言及することも

許されたのではなかろうか。

吉川幸次郎は

『元明詩概説』二

九六三年'東京'岩波書

店)の

「その他の抵抗詩人」という

一節で江元量を取-上

げ、「私の気ままな想像」と断りつつ、次のように述べて

いる。「その

『湖州の歌』の連作が'文夫群の

『指南録』

『指南後錬』とおなじ-、詩日記の髄我であるのは、い

れも'昔時の俗間の演聾として、わが浪花節のような鰹

の'語-物が盛行していたのの、影響かも知れない」(七

四頁)。これまで論じてきたように'「湖州歌」は日記とは

言い難いLtまた詩日記と語り物との間にどのような相関

性があるのか、吉川はここで説明していない。「湖州歌」

の持つ物語的な性格'およびその

(耳で聴いて理解可能とい

う意味において)口語的な叙述には'誰しも

一議しさえす

れば気附く.この二つの特徴を'吉川は

1万では日常生活

における空間の移動が時間軸に沿って綴られる日記に瞭え'

一方では通俗的な語-口が多用される演嚢に愉えているの

であろう。

筆者もまた想像を述べるに過ぎないのだが'琴に秀でた

- 94-

Page 39: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

という江元量は、この

「湖州歌」をまさし-歌として自作

自演して見せたのではなかったか。三宮の旗を七言絶句の

連作詩に仕立て、道士の身分で南方への蹄蓮を許された後'

北遷の生き謹人として各地で歌い歩いたのではなかったか。

ならば同時代の歴史を耳で聴いて分かる平易なことばで語

った

「湖州歌」は'歴史を通俗的に大衆に講揮する

「講

史」に比することができる。「湖州歌」の受容者として'

筆者は知識人のみならず、巷間の人々をも想定しているが、

いまだこの想像に十全な確信は持ち得ない。受容者盾は確

定できないけれども'それでもやは-、江元量の詩歌は目

で謹むためだけに存在したのではないと思う。

江元量については幾つかの研究があるが、管見の及ぶ限

りでは

「湖州歌」のみに野象を絞った先行研究はない。近

年では'本稿でしばしば取-上げた王次澄の

「江元量及其

詩集中的組詩」が

一節を設けて論じてお-'これが唯

一の

例外である。王氏は節の冒頭において、「これまで宋滅亡

江元量の

「湖洲歌」九十八首について

(稲垣)

の歴史と遺民の悲歎とを述べたもののうち最も大規模な連

作詩」として

「湖州歌」を位置づけるが

(第二章第三節'二

〇六頁)、このような評債の背景には、亡国の道民は必ず

亡き王朝を悼み、その督屈した心情を詩歌に吐露するとい

う俸続的な遭民形象が、揺るがし難い前提として根を下ろ

している。遺民が

「悼囲詩」を作ることはあ-得るだろう。

しかしその道民が出来上がった

「悼囲詩」の言葉どお-に

園を悼むかどうかに保護はない。同じ-近年刊行された胡

才甫

『注元量集校注』前言でも'「江元量は確かに突出し

た愛囲主義作家である」(四頁)と論じられてお-、遺民

すなわち愛国という園式が、やはり確固たる前提として打

ち出されている。

遺民として顕彰される江元量の詩歌は'専ら史書の紋を

補う

「詩史」として評債されてきたのであった。同時代を

記録しようという意識は

「湖州歌」にも確かに感じられる

し、王朝交代期の詩歌は多かれ少なかれ、融合状況と密接

に関わることで文学作品としてのリアリティを獲得してい

る。しかし'赦合性がもたらす文学としての味わいと'そ

95

Page 40: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中国文学報

第六十七冊

の作品が持つ史料的債値とを、普然のごと-混同してはな

らない。先行研究は両者の境界を

「詩史」という評語によ

って唆味にし、結果として宋元交代期の詩人たちを、杜甫

に隷属させてきたのである。杜甫は戦乱の時代に生きたが、

幸か不幸か王朝交代劇に立ち合い'それを詩に威す機倉に

は恵まれなかった。ここに杜南と宋末の文人との決定的な

違いがあるのを、見落としてはならない。

「湖州歌」に綴られる三宮の北達は青緑ではな-、脚色

を経た物語であった。ただし史賓と虚構の中間に位置する

歴史物語なのであり、しかもその歴史は昔時における現代

史であった。

一段の歴史を描-ためには'それ相歴のカン

バスが要る。「湖州歌」のように現代史ではないけれども'

詩の作-手にとっては現行の王朝の歴史故事をテーマとす

「長恨歌」などはうカンバスとして長編古詩の形式を選

揮している。連作詩という枠を度外視すれば'「湖州歌」

もまた四句換韻の長編七言古詩として謹むことが出来る。

旅先のスケッチの焼き直しに止まらず、

一個の物語として

の資質を備えている

「湖州歌」は、連作詩よ-は長編叙事

詩としたほうが相療しいのかもしれない。ならば、唐代の

俸杏的長編古詩と

「湖州歌」の相違鮎はどこにあるのか。

「長恨歌」にとって、歴史はあ-まで小説的世界を構築す

るための掠-所でしかない。

一方

「湖州歌」にとって、歴

史は叙述の封象そのものである。語-古された歴史ではな

-、記憶に新しい現代史を長編の詩歌として物語るように

なるのは'詩歌史の中でも宋元交代期が最初ではなかろう

か。これは散文的な長篇を許容する宋詩の発展とも無関係

ではないように思う。「湖州歌」は物語として再構成され

た現代史を'侍統的に物語に適した七言古詩としてではな

-'あ-まで連作詩の形式を用いて綴る。作-手の賓膿験

が隠見する連作詩であるがゆえに'

一時代を生きた詩人の

息吹きが受け手にありありと博わ-'七言古詩では表現し

得ない規賓味を勝ち得たといえるであろう。

このように

「湖州歌」

一篇を取り上げてみても'宋末元

初における詩歌の新局面を窺い知ることができるのである。

この時期の詩歌には'詩歌史に埋もれた新しい馨兄がまだ

まだあるに違いない。

- 96-

Page 41: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

補足

「湖州歌」の配列順序とその異同について

本論において

「湖州歌」の一部のテキスーに見られる配列順

序の移動を、王厳唐の指摘に従って誤りとした。ここで王氏の

指摘を税覚的にとらえる賓験をしてみよう。まず'知不足斎刊

本などの配列順序は上段に示した通り。括弧内は

『宋詩紗』本

の通し番髄である。上段の

で示した箇所が抄本から脱落Lt

その脱落部分が同じ-上段の欝の直前に抽入されたとするなら、

下段に示したようにちょうど

『宋詩紗』本の形になるのである。

其二十

一(其二十

一)

其二十

一(其二十

一)

oL

揚子江頭潮退避

ol

揚子江頭潮退遅

02

三宮船傍釣魚磯

02

三宮船傍釣魚磯

03

須央風走過江去

03

須東風走過江去

0

4

不奈林間杜宇噂

04

不鬼秋軟膏鬼噂

十三

(其三千三)

其三十三

(其二十二)

其三十三

(其二十二)

其四十二

(其三十

1)

其四十三

(其三十二)

oL

擬壷琵琶意欲悲

02

新愁善夢南依依

03

江模吹笛三更後

04細萱

其二せこ

(其ニl十三)

其三十

叫(其四十二村

其三十二

ol

産衣発親風乱吹

,-1'-

其撃

二)

其四十二

(其三十

十二

(其四十三)

其四十三

(其三十二)

養荻巣鷹鳳乳吹

oL

擬蓋琵琶意欲悲

02

戦場白骨暴沙泥

02新愁奮夢雨依依

oS

准蘭薫後人梱絶

03

江棲吹笛三更後

04

新鬼秋軟膏見時

04

細森林開放学特

注l吾貫の「湖洲歌」九十八首について(稲垣)

上段其二十

一の第四句

「不奈」を、『宋詩紗』本其三十二は下

段の薯験結果のごと-

「細奈」に作-'また上段其四十三の第

四句

「細雨」も'『宋詩紗』本其四十三は賓験のごと-

「新雨」

に作る。「新雨」は詩語として成り立つが'「細奈」の方は意味

が通じない。王献唐は明言していないが、おそら-ある時期に

抄本の一葉が錯簡し'呉氏繍谷亭本

(王厳唐のいう呉抄本)お

よび

『宋詩紗』本の配列順序に乱れが生じたと考えられる。意

味の通じない

「細奈」の語は、その錯簡の名残であろう

(ただ

し、上段其三十二の第四句だけはどのテキス-も

「新鬼」に作

り'賓験の如-

「不鬼」に作るテキストはない)。ちなみに呉

抄本、『宋詩紗』本よ-も成立の早い

『詩淵』本は知不足斎本

等と同じ配列である。

ー 97-

Page 42: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

中国文筆報

第六十七冊

註①

銭鐘書

『宋詩選註』(第五次印本二八二頁)'および王次澄

「江元量及其詩集中的組詩」(『宋元逸民詩論叢』、二七

一頁)

参照。

王昭儀については孔氏

「紀年」至元十五年秋の候

(二六三

頁)を参照。

王献唐

「注水雲集版本考」に

『水雲集』各本の詩の収録数

が比較されてお-、おおむね二百四十首前後に落ち着いてい

(『隻行精舎校注水雲集』'二

一四頁)。それによると

『宋

詩砂』本は二百四十四百。もともと鑓謙益の尊兄したテキス

-は二百二十除首であったらしいが'『宋詩紗』本はすでに

二百四十首前後に増補された抄本を底本にしている

(同書、

二二〇頁)。ただし具鰹的に何を底本にしたかは不明。筆者

は飽本『水

雲集』と

F宋詩紗』について王氏の数字を検諾し

てみたが、同様の結果であった。

王次澄

(前掲論文'二〇六頁)は其

一から其四、其五から

其八へ其九から其六十七'其六十八から其九十八の四段に分

けるが、孔氏と大差無いと見て良かろう。

『元史』巻九世租紀六‥「(至元十三年正月)甲申ー次皐亭

山ー阿刺竿以兵来合。宋主遣其宗室保康軍承宣便ヂ甫'和州

防禦便吉甫等.粛俸国王璽及降表軍前。・・・・・・伯顔鑑受降表、

玉璽ー復遣嚢加背以遭ヂ甫'頁除塵等還臨安ー召宰相出講降

車。」

王次澄前掲論文結語

(二七〇頁)など。

もちろん、族を詠ずる以外にも詩歌の中に日付がうたわれ

ることはある。例えば蘇韓の

「石鼓歌」は

「冬十二月歳辛丑'

我れ初めて政に従いて魯里に見ゆ」で始まるLt詩ではない

が注元量

「玉楼春'度宗の懸忌に長春官に斎醸す」詞

(『増

訂』巻五)は

「成淳十載線明なる帝。宋家の陵寝の廃るるを

見ず」で始まる。

王次涯は'注元量に杜甫と同じ

「北征」詩があることを'

両者の繋が-を示す論接の一つに挙げている

(前掲論文'二

一-二七二頁)。

「是幼君」、1

本は

「似幼君」に作る。鑓鐘書

『宋詩選註』

「似」に作り'「不説

『是幼君』!而説

『似幼君』ー是娩曲

語法」と注する

(第五次印本二八五頁)。技ずるに'『唐詩三

百首』張砧

「題金陵渡」詩

「潮落夜江斜

月裏I両l二星火是瓜

州」の章琴柱に

「是ー疑是也」とある。章嬰の説を採るので

あれば、江元量の詩も

「是」「似」いずれに作

っても推量と

して解樺できるOここでは底本とする

『曙訂湖山類稿』の

「是」字に随い'かつ鑓氏のごと-推量として謹む。

『宋史』巻四七麻圃公紀・・「滅園公ー名蒸I度宗皇帝子也。

母日全皇后ー成淳七年

(l二七

一)九月己丑I生於臨安府之

大内。」末の降伏は

1二七六年であるから'このとき数え年

六歳。

幼主の出宮を'『宋史全文』附録巻二少帝紀は二月戊午

98

Page 43: Title 汪元量の「湖洲歌」九十八首について 中國文 …...中囲文撃報 第六十七冊 江元量の 「湖洲歌」九十八首について 稲 垣 史裕 京都

(二十二日)、『宋紀三朝政要』巻五は二月丁巳

(二十

一日)

とする。しかし

『元史』世租紀六へ二月庚申

(二十四日)に

「伯顔を召して末の君臣と借に入朝せしむ」とあるからには、

二十

一ないし二十二日の時鮎で幼主が早々と出宮するのには

無理がある。しばら-

『元史』の記載に従う。

『元史』巻

一二七伯顔侍-「(至元十l二年二月)契卯

(七

日)ー謝后命呉堅'貢除塵、謝堂'家鉱翁へ劉B]山I輿文天秤ー

並為所講便ー楊麿至'趨若秀為奉表押璽官ー赴開講命。」『宋

史』慮園公紀は壬寅

(六日)に作-'『元史』世租紀六では

辛丑

(五日)の候に記載される。なお

「所講使行程記」によ

れば'所誓使

一行は二月九日に乗船して臨安を離れる。

伍子常備

「為立両於江上」正義引

『呉地記』・・「越軍於蘇州

東南三十里三江ロー又向下三里!臨江北岸立壇.殺白馬祭子

背,杯動酒蓋ー後国立廟於此江上。」又

「因命日菅山」集解

引張量目-「背山在太湖連!去江不達百里I故云江上。」正義

『呉地記』-「菅山!太湖連腎湖東岸山ー西臨背湖,山有古

葬背二王廟。」正義又云-「按-其廟不干子背事ー太史談臭ー

張注又非。」

「湖州歌」の

「三宮」が女性を指す名詞であることは'其

八十二

「金屋粧成物色新ー三宮日用御厨珍。其鎗官女千鎗箇.

分嫁幽州老断輪」(本稿本論に引用)のような'専ら女性を

詠じた篇に用いられることからも明らかである。

例えば王次澄は次のように論ずる。「元量輿三宮赴燕ー在

任元量の「湖洲歌」九十八首について(楢垣)

船上歴経敷月ー詩人忠賓地記載了自己和宮人偶生活起居的情

況。」(前掲論文'二1二頁)

正次澄

「江元量及其詩集中的組詩」は、「酔歌」十首

(七

絶)、「杭州薙詩和林石田」二十三首

(五律)'「越州歌」二十

(七絶)'「唐律寄呈父鳳山提琴」十首

(七律)など'江元

量の連作詩についての研究である。

季明華

『南宋詠史詩研究』第三章第三節

(一九九七年'蓋

北、文津出版社有限公司、英彦叢刊之

一九'七六頁)に'王

十朋の詠史詩

(七言絶句'

1百

1十首)とともに、劉克荘の

「雑詠」

一百首が紹介される。

例外として'「酔歌」十首之五

(『櫓訂』巻

一)に

「侍臣巳

ヽヽヽ

需蹄降表ー臣妾会名謝遺構」のごと-太皇太后謝氏の諒が見

え、この現象をいかに説明するか、これまで種々の説が提出

されてきた。筆者は次のように考えている。この語は一種の

かけことばになっていて'本来は諒を直接詠み込んだのでは

な-'何か別の事柄を指示していたのではなかったか。つま

-耳で音響として聴いたときにはじめて謝后の諒にも解樺で

きるような'両義性を帯びていたのではなかったかtと。

- 99-