title 大定和議期における金・南宋閒の國書について …...第 一 南 宋 の 對...

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Title 大定和議期における金・南宋閒の國書について Author(s) 毛利, 英介 Citation 東洋史研究 = THE TOYOSHI-KENKYU : The journal of Oriental Researches (2016), 75(3): 485-520 Issue Date 2016-12-30 URL https://doi.org/10.14989/245281 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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  • Title 大定和議期における金・南宋閒の國書について

    Author(s) 毛利, 英介

    Citation 東洋史研究 = THE TOYOSHI-KENKYU : The journal ofOriental Researches (2016), 75(3): 485-520

    Issue Date 2016-12-30

    URL https://doi.org/10.14989/245281

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 大定和議�における金・南宋閒の國書について

    はじめに

    第一違

    皇瓜和議破綻�の金・南宋閒の外��書について

    第一�

    皇瓜和議破綻�の外��書の書式

    第二�

    大定和議�涉��における南宋側の對金外��書の書式に對する議論

    第二違

    大定和議�の金・南宋閒の國書について

    第一�

    南宋の對金國書における冒頭定型句について

    第二�

    大定和議�の金・南宋閒の國書における本�の句數について

    結びに代えて

    筆者は︑これまで一〇から一三世紀の東アジア(1

    )について︑その多國分立狀況に特

    があると考え︑當時の國際關係につ

    いて硏究を行ってきた︒そして︑とりわけ契丹

    (遼)と五代・北宋の關係に�目して毛利二〇〇四以來論稿を發表してき

    た︒しかし︑契丹と北宋の關係が後代に影�を與えたことは旣に指摘があるほか(2

    )︑�に後代の�料の中で契丹と北宋の關

    係について営べられることも少なくない︒ここでいう後代の�料とは金と南宋の關係にまつわるものがその大きな部分を

    ― 71 ―

    485

  • 占めるが︑以下に営べるように︑金・南宋關係の硏究狀況は十�とは言いがたいものがある︒かかる狀況から金・南宋關

    係を�らかにする必�を痛感し︑その第一步として本稿を草するものである︒

    まずここで金・南宋關係の硏究狀況について営べておく︒金・南宋關係は決して硏究が閏實した狀況ではないが︑古典

    �硏究として外山一九六四が存在するほか︑�年では趙永春二〇〇五も公刊されており︑兩書を�せ見れば金・南宋關係

    の推移の大よそは把握可能である︒�には︑�年では吳曉萍二〇〇六・冒志祥二〇一二・李輝二〇一四などが相�いで出

    版されたことにより︑金・南宋關係の制度�側面もかなり�らかになってきた︒つまり︑金・南宋關係の硏究は︑�に深

    く掘り下げて行う 境が整ってきたと言ってよい(3

    )︒

    �に金・南宋關係の推移について槪觀する︒靖康の變以影の初�の戰亂が收束して以後の金・南宋關係は︑單純#すれ

    ば以下の三�の和議の成立とその破綻(4

    )と理解できよう︒

    ・皇瓜

    (紹興)和議

    (一一四一成立︑一一六二破綻)

    名分:君臣︑歲貢:銀二五萬兩・絹二五萬'

    ・大定

    (乾()和議

    (一一六五成立︑一二〇六破綻)

    名分:叔姪︑歲):銀二〇萬兩・絹二〇萬'

    ・泰和

    (嘉定)和議

    (一二〇八成立︑一二一七破綻)

    名分:伯姪︑歲):銀三〇萬兩・絹三〇萬'

    ※和議の名稱は

    (

    )の*が金の年號︑(

    )內が南宋の年號︒本稿では,宜�に金の年號のみで和議を稱する︒

    名分は*者が金皇-︑後者が南宋皇-(5

    )︑歲貢・歲)は南宋から金に對してのもの︒

    以上のうち︑金・南宋閒が君臣關係にあった皇瓜和議�は南宋側からは�も忌むべき時代であり︑南宋側の�料から分

    ることは少ない(6

    )︒そして關聯の�料狀況により︑南宋側の�料から分ることが少ないことは︑當該時�の金・南宋關係に

    ― 72 ―

    486

  • ついて解�可能な事實が少ないことを.味する︒それに對し大定和議�については︑南宋側から見ればそれ以*の皇瓜和

    議�よりは名分などにおいて對金關係の條件が改善されたことから︑相對�に�料狀況が良好となる︒�には︑皇瓜和議

    �の狀況についても︑大定和議�から對比�に振り/った記事によって0�することも多い︒他方その後の泰和和議�に

    ついては︑そもそも南宋側において︑金・南宋關係に限らず一般�に�料狀況が良くないため檢討に困難が存在する︒

    よって︑本稿では手始めに大定和議�に�目して議論を行うこととしたい︒

    さて︑一般に*�代の國際關係を論じる際に︑その枠組みを理解するために儀禮と�書に�目するのは自然なあり方だ

    ろう︒そして︑大定和議�の金・南宋關係に關しても�年その兩者の硏究が出2った︒卽ち︑井黑忍の﹁5書禮﹂に關す

    る硏究

    (井黑二〇一三(7))

    と︑廣瀨憲雄の﹁國書(8

    )﹂の書式に關する硏究

    (廣瀨二〇一三・廣瀨二〇一四第二違)である(9

    )︒

    「5書禮﹂なる語は︑本來�には﹁�書を5領する際の儀禮﹂を.味するのみである︒だがここでいう﹁5書禮﹂とは︑

    金と南宋が君臣關係にあった皇瓜和議�において定められた︑南宋皇-が9立のうえで金:から直接金皇-の外��書を

    5領する儀禮のことである(10

    )︒それが君臣關係が撤廢された大定和議�においても踏襲されたことから︑南宋側で特に孝宗

    が問題視して廢止を目指し︑和議成立後<十年にわたり金に對して硬軟の働きかけを行うが︑ついに廢止されることはな

    かった︒井黑はこれに檢討を加え︑﹁5書禮﹂に�目すると︑大定和議�においても﹁君臣關係を具現#する場が一貫し

    て維持された﹂とする︒

    他方︑廣瀨二〇一三は大定和議�の國書について︑=に﹃金�﹄卷八七僕散忠義傳の記営に依據して國書の冒頭定型句

    について檢討を行い(11

    )︑その結果として南宋の對金國書における冒頭定型句は︑以下のようなものであったとする︒

    姪宋皇-眘謹んで再拜して書を叔大金?�仁孝皇-闕下に致す︒

    (姪宋皇-眘謹再拜致書于叔大金?�仁孝皇-闕下︒)

    それに對して金から南宋に對しては︑﹁叔大金皇-﹂とあり︑名を記さず︑﹁謹再拜﹂とも記さず︑南宋皇-の@號は:

    ― 73 ―

    487

  • 用せず︑﹁闕下﹂とも稱していないことを指摘する︒よって︑國書冒頭の定型句を以下のように想定するものとなる︒

    叔大金皇-書を姪宋皇-に致す︒

    (叔大金皇-致書于姪宋皇-(12)

    ︒)︒

    このように︑大定和議�の金・南宋閒の國書に雙方向�に﹁致書﹂という表現が用いられたと見られること︑�に周必

    大﹁省齋�稿﹂卷一四﹁孝宗皇-/國書御筆跋﹂(﹃�宋�﹄第二三〇册二一一~二一二頁(13))

    に引く金の對南宋國書の末尾に對

    等關係を表す﹁不宣﹂という表現が存在することを�せ(14

    )︑大定和議�の金・南宋關係は外��書上は大きな上下關係が存

    在しない

    對等な關係であったと指摘する︒

    以上の兩者の硏究を著者なりにまとめると︑井黑は﹁5書禮﹂に�目して︑大定和議�の金・南宋關係が皇瓜和議�の

    君臣關係のC長線上にあったとする︒それに對し廣瀨は︑金・南宋閒の國書に�目して︑大定和議�において兩者が對等

    に�い關係であったとする︒兩者の見方は必ずしも相容れないものではないが︑相當に衣なる印象を與えることも否めな

    い︒すると︑兩者の議論は修正を�するものである可能性があるが︑その際に再考の餘地が多いことが想定されるのは國

    書に關する硏究である︒何故なら︑﹁5書禮﹂の問題には古く趙D﹃廿二�箚記﹄卷二五﹁宋遼金夏�際儀﹂以來の硏究

    が存在し︑井黑は怨たな着眼をしているが︑一方で事實關係としては大枠が定まった課題とも稱しうる︒それに對し︑大

    定和議�の金・南宋閒の國書の書式の問題は�年檢討が開始された課題であり︑廣瀨の硏究は先驅�な硏究だけに再考の

    餘地がEり得る︒�に︑廣瀨の硏究は廣く東アジアの外��書を見渡す中で大定和議�の國書にも言Fしたもので︑そこ

    に廣瀨の硏究の價値があるのだが︑大定和議�を專門に論ずるものではない︒よって本稿では︑大定和議�の金・南宋閒

    の國書に焦點を當てて初步�な議論を行い︑今後の硏究の一助たらんことを目指す︒

    ここで本稿のG成について営べておく︒まず第一違で皇瓜和議破綻から大定和議成立までの閒における金・南宋閒の外

    ��書について︑Fび大定和議の�涉��における南宋での對金外��書の書式に關する議論について檢討することで︑

    ― 74 ―

    488

  • 大定和議�の金・南宋閒の國書の書式が成立する*提を把握する︒第二違では︑本稿の=たる議論の對象である大定和議

    �の金・南宋閒の國書について檢討を行う︒具體�には︑國書冒頭の定型句と國書本�の句數に�目することとなる︒

    なお︑本稿では周必大﹃�忠集﹄H收の�料を積極�に:用している︒そのため本稿は︑周必大﹃�忠集﹄H收�料を

    本格�に本分野にI入するための試みという側面も持つ︒

    第一違

    皇瓜和議破綻�の金・南宋閒の外��書について

    本違では︑金・海陵王の南宋K攻により皇瓜和議が破綻してから大定和議が成立する閒(本稿では皇瓜和議破綻�と稱す)

    における金・南宋閒の外��書に關する檢討を行う︒

    皇瓜和議破綻�にも︑戰闘と�行しつつ樣々な形で金・南宋閒で�涉が行われた︒その後Lには名分�な問題を囘Mす

    るためもあって官廳閒あるいは臣僚閒での�涉という形がとられたが︑その*Lの大定二年・紹興三二年

    (一一六二)に

    は金から南宋へ一囘・南宋から金へ二囘

    (ただし一囘は入國できず)︑合計三囘にわたって國家レベルでの:�がNOされ

    た︒大定和議�の金・南宋閒の國書に�目する本稿の問題.識から︑本違ではまずそれ以*の皇瓜和議破綻�にP來した

    これらの:�が持參した外��書について檢討する︒その後に︑國家レベルの:�のP來がQ絕えた後に始まった︑大定

    和議成立へ至る�涉の��における南宋國內での對金外��書の書式に對する議論についても�せて檢討したい︒

    さて具體�な檢討に入る*に︑ここで皇瓜和議破綻�における金・南宋關係の推移について槪觀しておく︒正隆六年・

    紹興三一年

    (一一六一)九Tに金・海陵王の南宋K攻により皇瓜和議は破綻し︑國境の淮河を越えた金軍は長江一帶にま

    で攻めUむが︑V征中の同年一一Tに海陵王は揚州で弑殺されて金軍は撤Xし︑Y勢は南宋E利に傾く︒そのような中︑

    Z大定二年・紹興三二年

    (一一六二)六Tに南宋では高宗がX位して太上皇-となり︑孝宗が卽位する︒孝宗は高宗に比

    して對金=戰Nであり︑これ以後南宋は金に對して攻勢を企圖することとなる︒一方金では海陵王弑殺以*に旣に東京遼

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  • 陽府で世宗が自立していたが︑その後中都に\出した上で北方での契丹人の]亂を鎭定すると南宋に本格�に向き合うこ

    ととなり︑大定三年・隆興元年

    (一一六三)五Tには大擧K入してきた南宋軍を符離の戰いで壞滅させる︒これ以後は金

    がY勢の=I權を握り︑その液れの中で大定五年・乾(元年

    (一一六五)に大定和議は閲結されることとなる(15

    )︒

    第一�

    皇瓜和議破綻�の外��書の書式

    皇瓜和議破綻�における金・南宋閒の外��書の書式を檢討するにあたり︑まず*提として皇瓜和議�における金・南

    宋閒の外��書の書式について営べる︒

    皇瓜和議�には金・南宋閒は君臣關係にあったことから兩國閒では詔Fび表が:用されたが︑﹁はじめに﹂で営べたと

    おり同時�の金・南宋關係に關する南宋側の�料は乏しく︑外��書の實例としては皇瓜和議成立時の南宋の誓表が﹃金

    �﹄卷七七宗弼傳に見える�度で︑正旦祝賀・生辰祝賀を中心とした_常の:�のP來

    (本稿では﹁`時﹂と稱す)にaう

    外��書の實例は管見では見當たらない︒ただしこれも先営のとおり︑大定和議�と對比させる形でそれが如何なる書式

    であったかを示す�料は存在し︑そこから知られる以下の諸點が重�であると考える︒

    ・﹁大宋﹂ではなく﹁宋﹂とする︒

    ・南宋皇-については﹁皇-﹂ではなく﹁-﹂とする︒

    ・南宋皇-は﹁再拜﹂の語を:用する︒

    ・南宋皇-については諱を記す(16

    )︒

    それでは︑以下皇瓜和議破綻�*Lにおける外��書の書式について︑:�NOごとに區切って檢討を行っていきたい︒

    ― 76 ―

    490

  • (A)高忠円の:宋

    皇瓜和議破綻�における國家レベルのO:としては︑まず金から高忠円が世宗の卽位を_知する名目で南宋にNOされ

    たことが擧げられる(17

    )︒

    高忠円の:宋に關しては﹃円炎以來繫年�錄﹄など複數の南宋の�書にまとまった記載があるが︑管見ではその際の外

    ��書の內容Fび書式まで一部であっても記営するのは周必大﹁親征錄﹂だけである(18

    )︒その內容は﹁皇瓜和議以來南宋と

    は和`が繼續していたにもかかわらず︑金・海陵王は大義名分もなく南宋K攻を行ったものであり︑金が占領した淮河以

    南の地を南宋に/dして和`を囘復したい﹂とのものだが︑これは高忠円來到以*に南宋に傳えられた﹁金國大都督府

    牒﹂の內容と大枠で一致する(19

    )︒よって︑むしろここで�目されるのはその書式である︒卽ち︑第一に金は南宋に對して皇

    瓜和議�における詔ではなく﹁致書﹂と記される國書を:用していること︑第二に金皇-は自らを﹁大金皇-﹂としつつ

    南宋皇-を﹁宋-﹂とする皇瓜和議�の呼稱を引き續き:用していることである(20

    )︒周必大が具體�內容のみでなくこの部

    分を含めて書き留めたのも︑その重�性に鑑みてのことであろう︒これは︑金・海陵王のe<破棄にaって金・南宋閒の

    君臣關係は解fされたとの金側のg識をh示するものとなっている︒外��書の書式について言えば︑ここからは�にこ

    の時點で金は南宋に對して表の:用を求めなかったことも推測可能である︒

    正確に言えば︑高忠円らは國境を越えて南宋領に入るに當たり南宋側に對して臣禮を取ることを求めたとされるので(21

    )︑

    高忠円NOの當初から金側が外��書の書式面において君臣關係を放棄することを決斷していたかは不�である︒ただし︑

    現實に﹁致書﹂と記された國書を南宋側にもたらしており︑そしてそれは高忠円の獨斷ではなかろうから︑君臣關係と非

    君臣關係の外��書をともに用.し︑南宋側の對應を見て高忠円が0斷するように命じられていた可能性もあるだろう︒

    そうならば︑そこには金・世宗の卽位後�ない時�に當たり內憂外患をiえた金側の現實�な0斷が見て取れるように感

    じる(22

    )︒

    ― 77 ―

    491

  • さて︑金が南宋との君臣關係を解fして詔ではなく﹁致書﹂と記された國書を:用することは︑南宋側としても衣存は

    なかったはずである︒ただし︑問題となったのはそのj5であった︒卽ち︑﹁はじめに﹂で営べた﹁5書禮﹂の問題であ

    る(23)

    ︒基本�に高忠円は皇瓜和議�の﹁5書禮﹂を踏襲しようとしたが︑南宋側は北宋�のあり方への囘歸を求めた︒*者で

    あれば金:は昇殿の上で南宋皇-に外��書を直接手渡し︑後者であれば昇殿せずに閤門に手渡すこととなる︒周必大

    ﹁親征錄﹂と﹃円炎以來繫年�錄﹄を�せ觀ると︑南宋側は金:が昇殿するところまではgめたが︑金:は昇殿の上で宰

    相に手渡すことを求めるも南宋側はこれをgめず事態は膠着し︑結果として︑南宋側が地に伏して抵抗する金:から强制

    �に外��書を奪い取ることとなった(24

    )︒

    結論を先取りするが︑對南宋外��書は皇瓜和議�の詔から﹁致書﹂と記された國書に變�するが︑一方で﹁5書禮﹂

    については皇瓜和議�のものを踏襲するというこの高忠円の:宋時における金の=張は︑その後の大定和議�のあり方に

    一致する︒その點で︑金側はこの段階での=張を押し_したと見ることが出來る︒

    さて︑高忠円の歸國に際して南宋側が持參させた囘答の外��書の內容については︑周必大﹁親征錄﹂紹興三二年

    (一

    一六二)三T丁巳に鯵單な記載がある(25

    )︒その內容は︑﹁金に占領された淮河以南の地はすでに自力で奪dしており︑祖宗

    の故地

    (=

    河南)についてこれから:�をNOして/dを求める︒﹂とのものであった︒宋側E利なY勢もあり︑强氣な內

    容だと言っていいだろう︒ただ﹁親征錄﹂の記営からは︑この外��書が如何なる書式であったかは不�である︒しかし︑

    ﹁致書﹂の表現を持つ國書に對する囘答の外��書であることに加え︑﹃宋�﹄卷三八四陳康伯傳にはこの際﹁報書に敵國

    の禮を用いた﹂とあることから︑それは表ではなく國書であったことまでは想定可能である(26

    )︒

    ― 78 ―

    492

  • (B)洪邁の:金(27

    )

    *項で見た金・世宗の卽位を_知するとの名目での高忠円の:宋を5け︑南宋は世宗の卽位祝賀の名目で洪邁を金にN

    Oした︒この際に洪邁が持參した外��書は︑例えば﹃円炎以來繫年�錄﹄卷一九九紹興三二年

    (一一六二)四T戊子條

    に揭載されている(28

    )︒その內容は︑*項で営べた內容とも重なるが︑北宋の歷代皇-の陵寢が存在する河南の地の/dを�

    求するものである

    (載惟陵寢之山川︑寖o春秋之祭祀︒⁝⁝願畫舊疆︑寵d敝國(29))

    ︒ただし︑冒頭や末尾の定型句は見て取れず︑

    直接�書の書式を知ることはできない︒しかし︑先の高忠円:宋の際における囘答の外��書が國書と想定されるのに加

    え︑﹃宋�﹄卷三七三洪邁傳に﹁書に敵國の禮を用いた﹂とされることから(30

    )︑洪邁も:金に當たって國書を持參した蓋然

    性が高い︒そして內容�に︑金・海陵王の南宋K攻により皇瓜和議が破棄されたとの理解のもとで︑怨たに兄弟のe<を

    結ぶことを求める論理である

    (旣邊境之一開︑致誓言之p絕︒⁝⁝結兄弟無窮之好︑⁝⁝)ことも︑その想定を裏書すると考え

    る︒こ

    の洪邁の:金に當たっては︑金領に入り首都の中都までの(中においては﹁敵國の禮」≒

    對等關係での對應を5けた

    ものが︑中都到着後に金側が態度を一變させ︑洪邁に對しては陪臣と稱することを�求し︑南宋の對金外��書について

    は書式の不備を責めて5け取りを拒否したことが知られる(31

    )︒ここで謂う書式の不備の指摘とは︑南宋が準備した�書が國

    書であり︑金はそれが表であるべきとの立場をとったと考えられよう︒

    そして︑これに對する金側の囘答の外��書は︑﹃大金國志﹄などにはそのわずか一部のみが揭載される(32

    )︒ただしそれ

    以外に︑實は錢大昕が夙に着目をして﹃洪�敏公年�﹄紹興三二年

    (一一六二)七T甲子條で用いているのだが︑周必大

    ﹁龍飛錄﹂にも��ではないもののこの外��書が收錄され︑そして﹁龍飛錄﹂の方がより多くのY報をもったものと

    なっている(33

    )︒その內容は︑金・世宗の卽位祝賀の:�であるはずが祝賀の辭もないだけでなく︑實行不可能な�sを爲し

    てきたと非難する內容となっている

    (殊無致賀之詞︑繼E難從之s)︒實行不可能な�sとは︑河南の南宋への割讓�求を.

    ― 79 ―

    493

  • 味するものだろう︒

    ただし︑この金の囘答の外��書の書式も�らかではない︒しかし︑金側が洪邁に對して陪臣と稱することを求めた︑

    つまり金皇-が南宋皇-を臣下uいした狀況から考えれば︑詔である可能性が高い︒またその內容としては︑金・海陵王

    は德を失して南宋K攻を行ったが︑その咎は海陵王の一身にあるのみで︑金・南宋閒のe<はなおE效であるとの立場を

    とったうえで

    (海陵失德︑江介興師︑�乃止于一身︑e固難于屢變︒)︑南宋の外��書は無禮であって藩臣としての立場を失

    しているだけでなく︑國境のK犯は皇瓜和議の誓表にw反していると責めている

    (尺書侮慢︑旣匪藩臣︑寸地K陵︑印w誓

    表︒)︒ここからも皇瓜和議�の君臣關係に依據して︑金皇-が南宋皇-に對して詔を下したと考えるのがy當である︒そ

    して︑その內容が南宋側�料に傳存する以上︑洪邁は威嚇の下にしても︑その詔を正式に5領したものと考えざるを得な

    い︒南宋側の�書がこの外��書についてあまり語らない理由でもあろう︒

    以上で営べた洪邁の:金に對する金側の對應は︑*項で営べた高忠円の:宋時より�らかに强硬なものとなっている︒

    つまり︑高忠円の:宋時には皇瓜和議は效力を失して金・南宋閒の君臣關係も解fされたとの立場で金側は臨んだものが︑

    ここでは皇瓜和議はなおE效であり君臣關係も繼續しているとの立場に變#しているのである︒

    この短�閒の閒にY勢が極端に金にE利に變#した事實はgめられないため︑これは金:・高忠円が臨安で5けた屈辱

    �な待zと同樣に︑金側が宋:・洪邁を中都までIいた上で敢えてその地で屈辱�な措置をとったと筆者は理解する︒�

    は︑金の南宋に對する.趣/しであると同時に︑�涉の=I權を握るための戰{とも考える︒それだけに︑金・南宋閒の

    君臣關係の完�な復活を=張するこの際の金側の態度は︑恐らくはその實現を眞劍に.圖してはいなかった(34

    )︒何故なら︑

    その後大定和議において�示�に君臣關係が復活することはなかっただけでなく︑後営のごとく︑そもそも金側は自らが

    優勢な狀況下で\められた和議の�涉��でもその點には拘らなかったからである︒

    ― 80 ―

    494

  • (C)劉珙の:金

    �に︑南宋から劉珙が高宗X位にaう孝宗の卽位を金に_知する名目でNOされたが︑金側が入國をgめず國境で引き

    /す結果になった(35

    )︒そのため︑關聯の�料も少なく持參した外��書に對する檢討が難しい︒唯一の手がかりは︑金側が

    劉珙の入國をgめなかった理由は︑金の求める舊禮

    (=

    皇瓜和議�の禮數)に南宋が對應しなかったことに因ると言うもの

    である︒�言はされないが︑外��書について言えば︑*項の洪邁の:金直後でもあり︑劉珙が國書を持參したのに對し

    金側は表であることを求め決裂したと考える︒

    これ以影の:�のP來は︑まず隆興元年

    (一一六三)に南宋で王之}Fび龍大淵が金への_問:に任命されるが︑國境

    を越えることなく待機となり︑結局NOは取り止めとなった︒その後の:�のNOは︑隆興二年

    (一一六四)に魏杞が南

    宋でやはり金への_問:に任命され︑こちらは實際にNOされた︒ただ�涉が難航して國境で一時D留するなど曲折はす

    るが︑魏杞は大定和議の誓書を金にもたらした︑卽ち大定和議を正式に閲結させた:者である︒そのため︑皇瓜和議破綻

    �の檢討という範疇からは外れる︒つまり劉珙の:金失敗以影︑大定和議の成立まで兩國閒で國家レベルの:�はP來し

    なかった︒ここに皇瓜和議破綻�における金・南宋閒の�涉のあり方における畫�を見出せよう︒よって︑以後の時�に

    ついては�を改めて営べたい︒

    第二�

    大定和議�涉��における南宋側の對金外��書の書式に對する議論

    *�末尾で言Fした劉珙の:金

    (失敗)から魏杞の:金の閒における金・南宋閒の�涉は︑皇-名義の外��書を持參

    する:�のNOではなく︑開封を根據地とし僕散忠義・紇石烈志寧(36

    )を擁する金の元帥府と南宋の三省・樞密院との閒とい

    う形式を中心に行われた(37

    )︒そのうち特に重�なのは︑隆興元年

    (一一六三)九Tに南宋から盧仲賢が同知樞密院事の洪

    名義の紇石烈志寧宛ての�書を持參してNOされたことである(38

    )︒これ以*に南宋は︑南宋が占領地を金に/dした上で皇

    ― 81 ―

    495

  • 瓜和議へ復歸することを呼びかける金からの提案をはねつける態度をとったが(39

    )︑同年五Tの符離の戰いでの大敗を5けて

    金との和`を模索する必�が生じ︑このNOへと至った︒盧仲賢が持參した�書の內容は︑南宋が占領していた淮河以北

    の・鄧・海・泗の四州の地は/dしないこと︑歲)をること自體は問題ないが戰爭による疲で閏分な額をること

    は困難であるとの旨であったようだ(40

    )︒

    しかし盧仲賢は︑その詳細までは知られないものの︑以下の四點について南宋・孝宗が許可した以上の內容を含むy協

    を金に對して行い︑このことが以後の金・南宋閒の�涉に大きな影�を與えることとなった︒

    ・叔姪關係に基づく外��書の書式について

    ・・鄧・海・泗四州の/dについて

    ・歲)の銀絹の數量について

    ・]臣・俘虜のdについて(41

    )

    これ以影の金・南宋閒の大定和議へ向けての�涉は︑盧仲賢が<した內容を*提として展開した︒本稿の關心事である

    外��書の書式についてもこの時に叔姪關係をベースとする合.がなされ︑﹁初式﹂と稱されて以影の�涉の基準とされ

    た(42)

    ︒そして結果としては︑�體�に槪ね金側の=張したとおり︑卽ち・鄧・海・泗の四州は南宋が金に/dするという

    ように盧仲賢が<した內容に基づきつつ︑﹁]臣﹂はdしないなど一部修正を加える形で大定和議はy結されることと

    なった(43

    )︒

    上記のように盧仲賢が想定以上のy協をして歸國し︑その事態に對處するため王之}・龍大淵が_問:副に任命された

    後に︑南宋廷では和議の條件について議論が展開された︒盧仲賢が<した內容のうち特に問題となったのは︑・鄧・

    海・泗の四州の地の/dを<したことと︑﹁俘虜﹂だけでなく﹁]臣﹂(南宋の立場からは﹁歸正人﹂)までもdを<したこ

    とという現實�な部分だったが︑より理念�な部分である外��書の書式についても議論の對象となったため︑そこから

    ― 82 ―

    496

  • 當時の南宋で外��書について何が問題とされたかを知ることができる︒以下では︑それらを鯵單ではあるが紹介・檢討

    していきたい︒

    まず︑黃中と金安�(44

    )は以下の三點を問題視した︒

    (ア)南宋皇-が金皇-に對して代々﹁姪﹂と稱すること︒

    (イ)國號に﹁大﹂の字が加えられずにただ﹁宋﹂とされること︒

    (ウ)﹁再拜﹂の二�字を:用すること(45

    )︒

    �に︑錢用材と馬騏も同じく國號が﹁大宋﹂であるべきだとしたほかに︑以下の=張をなした︒

    (エ)契丹との關係同樣に﹁謹白﹂の�字を:用すべきこと(46

    )︒

    その他︑やや時�は下るが︑對金强硬論者として知られる胡銓は﹁大﹂の字が加えられないことFび﹁再拜﹂の二字を

    :用することとともに︑�の點を問題視した(47

    )︒

    (オ)御名を記すこと︒

    それでは以下で︑上記の各項目に檢討を加えて行きたい︒

    (ア)の﹁姪﹂と稱することについては︑金側がそれを代々のものとするよう=張したことが問題となった︒卽ち︑か

    つて北宋皇-が對等關係のもとで契丹皇-に對して﹁姪﹂と稱したこともあり(48

    )︑南宋皇-が﹁姪﹂の表現を用いること自

    體は大きな問題ではない︒それが固定�なものとされたのが問題であった︒﹃金�﹄では︑南宋側がこの代々という點に

    拘ったことが複數の箇Hで営べられる(49

    )︒

    (イ)の國號に﹁大﹂が冠されないという點については︑�涉の��で多くの人物が問題視したほか︑事實であるかは

    別として︑�違で見るように_問:となった魏杞も和議閲結の�段階までこの點を囘Mしようと拘ったとの記営が存在

    する︒

    ― 83 ―

    497

  • (ウ)の﹁再拜﹂については︑胡銓はそれが稱臣に繫がるものであるとの論理を展開して反對している(50

    )︒これら

    (イ)・

    (ウ)は︑いずれも皇瓜和議�の君臣關係による外��書のあり方を踏襲するものである︒

    (エ)の﹁謹白﹂については︑確かに北宋の對契丹國書の中でも:用されたことが確g可能であり︑﹁不宣︒謹白︒﹂が

    末尾の定型句の一つであった(51

    )︒一方で︑�違でも具體�に見るが︑大定和議�の南宋の對金國書には﹁謹白︒﹂は存在せ

    ず﹁不宣︒﹂のみで結ばれる︒すると︑錢用材と馬騏の=張は︑﹁不宣︒﹂だけでは不十分であり﹁謹白︒﹂も必�であると

    の內容であったと理解する︒筆者はその正確な.圖をつかめていないが︑�は北宋と契丹との形式�に對等な關係に復歸

    させたいとの趣旨であると考えておく︒

    (オ)の南宋皇-の諱を記すということも︑皇瓜和議�の君臣關係におけるあり方を踏襲するものである︒

    以上︑(ア)から

    (オ)の五點に對して鯵單に紹介・檢討を行った︒ただし︑これらの南宋廷で問題となった論點す

    べてを南宋側が金との�涉に持ちUんだかは不�である上︑いずれにせよ結果としてそれらの懸念は大定和議�の南宋の

    對金國書には反映されなかった︒奄言すれば︑槪ね皇瓜和議�の外��書の表現が南宋側の懸念にも關わらず大定和議�

    にも踏襲されたのである︒南宋側は︑君臣の叔姪への變�・それにaう表の書への變�・﹁-﹂の﹁皇-﹂への變�とい

    う︑當時の表現で﹁名分が正される﹂などとされる�低限のラインの確保で滿足せざるを得なかったのであり︑その�低

    限のラインも恐らくは金=Iのもとでの盧仲賢のy協に基づくものである︒

    第二違

    大定和議�の金・南宋閒の國書について

    本違では︑本稿の=題である大定和議�の金・南宋閒の國書について檢討する︒まず﹁はじめに﹂でも言Fした國書の

    冒頭定型句について再檢討を行い︑その後に大定和議�の金・南宋閒の國書の實例を收集した上で︑從來�目されなかっ

    た國書本�の句數の檢討を行う︒

    ― 84 ―

    498

  • 第一�

    南宋の對金國書における冒頭定型句について

    本�では︑大定和議�の金・南宋閒の國書の冒頭定型句について檢討を行う︒その際︑金の對南宋國書の冒頭定型句の

    想定については先行硏究に對して特に衣論がないため︑南宋の對金國書について取り上げることとする︒

    さて︑﹁はじめに﹂でも一部言Fしたが︑廣瀨二〇一三は以下の﹃金�﹄列傳の二つの�料を擧げて︑大定和議�の南

    宋の對金國書の冒頭定型句には﹁致書﹂と記されていたと営べる︒

    姪宋皇-眘︑謹んで再拜して書を叔大金?�仁孝皇-闕下に致す︒

    姪宋皇-謹んで再拜して︑書を叔大金應天興祚欽�廣武仁德?孝皇-闕下に致す(52

    )︒

    ただし廣瀨自身も指摘するように︑これらの﹃金�﹄列傳の記事と衣なり︑﹃金�﹄卷六世宗本紀大定五年

    (一一六五)

    正T己未條には︑大定和議閲結時に魏杞の齎した國書の冒頭定型句が﹁姪宋皇-某再拜奉書于叔大金皇-﹂と﹁奉書﹂の

    表現を持ったとの記事も存在する(53

    )︒そして︑廣瀨二〇一四第二違で営べるように﹁致書﹂に比して﹁奉書﹂は相手への敬

    .がより强く︑﹁致書﹂か﹁奉書﹂かで金・南宋閒の關係性への理解に一定の相wが生じる︒よって︑筆者は﹁奉書﹂な

    る表現の存在を営べる�料をより丁寧にuう必�を感じる︒そこで︑その他の�料も擧げてこの點を檢討することとした

    い︒こ

    こで�目したいのは︑周必大﹁玉堂類稿﹂H收の對金國書である︒周必大﹁玉堂類稿﹂卷一六には︑乾(六年

    (一一

    七〇)から淳熙六年

    (一一七九)にかけて周必大が9草した一六_の對金國書が收錄されている(54

    )︒ここでは︑それらを末

    尾に︻料一︼として一覽#した︒そのうち特に三_の國書

    (一一)・(一三)・(一五)は冒頭・末尾の定型句も具備した

    形で收錄されており︑�料�價値が高い︒そして︑これらの對金國書の冒頭定型句の部分を見ると︑いずれも以下のよう

    な表現で共_する︒

    ― 85 ―

    499

  • 大宋皇-謹んで書を大金@號皇-闕下に奉ず︒

    これらの國書に限らず︑︻料一︼の國書はそもそも南宋側の�料であって︑﹃金�﹄とは系瓜を衣にする︒また︑生辰

    祝賀・正旦祝賀を目�とする定例:�のP來という﹁`時﹂に:用された國書である︒そのため︑廣瀨二〇一三が檢討し

    た國書とは衣なる�料�價値をもつ︒ただし︑一方でこれら︻料一︼の對金國書は�集に收錄されたものであるため︑

    一義�には優れた�違を提示することに目�があることが想定される︒�に政治��慮によるものも含め︑實際に:用さ

    れた對金國書に比して一定の改變や�略を5けている可能性も否定できない︒その點兩者は�料�に一長一短であり︑雙

    方を�せ見る必�がある︒

    さて周必大﹁玉堂類稿﹂H收の對金國書を見た時︑南宋皇-が﹁皇-﹂とされること︑金皇-には正式な@號を記した

    上で﹁闕下﹂を附していることなど︑先行硏究の想定と一致する點も多い︒關聯して︑末尾において﹁不宣﹂が:用され

    ていることも指摘できよう(55

    )︒その一方で︑問題の﹁奉書﹂も含めて︑想定と衣なるところも以下の諸點が指摘できる︒

    (一)﹁叔﹂・﹁姪﹂と記されないこと

    (二)﹁宋皇-﹂ではなく﹁大宋皇-﹂であること

    (三)南宋皇-の諱が記されないこと

    (四)﹁再拜﹂の�言が見られないこと

    (五)﹁致書﹂ではなく﹁奉書﹂であること

    これらは︑いずれも皇瓜和議から大定和議にかけて條件が變�された︑ないし�涉��で問題となった事項に關聯する

    內容である︒これについて李輝二〇一四第二違では︑︻料一︼(一一)(一五)を引用した上で︑﹃金�﹄の記すところが

    正しく︑上記相w點は周必大が直筆を囘Mしたものであるとの見_しを示している︒基本�に從うべきであると考えるが︑

    より具體�に檢討していきたい︒

    ― 86 ―

    500

  • (一)﹁叔﹂・﹁姪﹂と記されないこと

    この點に關して︑大定和議�において金皇-と南宋皇-が相互に﹁叔﹂・﹁姪﹂と稱した用例は︑いずれも周必大の�違

    中に︑卽ち南宋側の�料においても確gされる(56

    )︒よって﹁叔﹂・﹁姪﹂という擬制親族呼稱は︑實際には對金國書に�記さ

    れたものが︑﹁玉堂類稿﹂H收國書では�集收錄時などいずれかの段階で省略されたものと考えてよかろう︒

    (二)﹁宋皇-﹂ではなく﹁大宋皇-﹂であること

    この點については︑﹁玉堂類稿﹂H收對金國書と同じ方向性を示す�料が存在する︒それは﹃宋�﹄卷三八五魏杞傳で

    あり︑同傳によれば︑魏杞は誓書を持參して金廷に赴いた際に︑南宋皇-を﹁大宋皇-﹂と記す對金國書を提出し︑金側

    はその﹁宋皇-﹂への訂正を威嚇含みで求めたが魏杞はそれを拒否し︑��に金側にgめさせたというのである(57

    )︒

    ただし︑大定和議�の金の對南宋國書における表現が﹁大宋皇-﹂ではなく﹁宋皇-﹂であったことは︑*項での檢討

    のために引用した周必大﹁孝宗皇-/國書御筆跋﹂から�らかである︒すると︑もし﹁玉堂類稿﹂H收對金國書の冒頭定

    型句に信を置くと︑南宋皇-は對金國書では﹁大宋皇-﹂と自稱したのが︑金の對南宋國書では﹁宋皇-﹂と稱されたと

    いうズレが生じる︒このようなズレこそが當該時�の國際關係のリアリティーであるとも見なせなくはないが︑苦しい理

    解ではある︒また︑金は南宋が國書の書式においてし討ちをすることを警戒しており︑<をwえた國書を用.するのは

    容易でなかったことが想定される(58

    )︒斷定はMけるが︑實際の國書には﹁宋皇-﹂とあったのを︑これも�集收錄時などに

    ﹁大宋皇-﹂と改めた可能性の方が高いと考える︒

    (三)南宋皇-の諱が記されないこと

    (四)﹁再拜﹂の�言が見られないこと

    この二點については︑國書における實際の:用を特段に否定する�料や硏究も見當たらないので︑やはり�集收錄時な

    どに省略されたと考えてよかろう(59

    )︒南宋皇-の諱を記すことと﹁再拜﹂の�言を:用することは︑いずれも南宋皇-が金

    ― 87 ―

    501

  • 皇-に對してる�素であり︑省略が行われて不思議ではない︒なお︑﹁再拜﹂については周必大﹁孝宗皇-/國書御筆

    跋﹂に關聯�料が存在するが︑行論上�項で�せて言Fする︒

    (五)﹁致書﹂ではなく﹁奉書﹂であること

    筆者が五點中で�も重視したい相w點はやはりこの點である︒なぜなら︑(一)から

    (四)の各點は﹁玉堂類稿﹂H收

    對金國書が南宋の立場をプラスの方向にIくものであるのに對し︑(五)のみは�の方向性をもつため︑依據できる可能

    性も比��强いからである︒

    ここで︑大定和議�の南宋の對金國書で﹁奉書﹂の表現が用いられたとする�料をもう一例提示したい︒それは周必大

    ﹁孝宗皇-/國書御筆跋﹂に揭載される南宋の對金國書案の末尾である(60

    )︒嚴密には︑この國書案の末尾に﹁奉書﹂の字句

    が存在することを直ちに南宋の對金國書の冒頭に﹁奉書﹂なる表現が:用されていた傍證とすることは出來ない︒何故な

    ら︑北宋�の對契丹國書において︑冒頭に﹁致書﹂とするのと同時に末尾に﹁奉書﹂の字句を含む表現が:用される事例

    は多いからである(61

    )︒ただしここでの﹁奉書﹂の用例は︑﹁謹再拜奉書﹂として南宋の對金國書冒頭で:用されたとされる

    のと�く同じ表現の一部として出現していることから︑末尾の表現でもって冒頭の表現に對する一定の傍證とすることも

    可能と考える︒

    以上から︑大定和議�における南宋の對金國書では﹁致書﹂ではなく﹁奉書﹂の表現が:用された可能性も十分に存在

    し︑むしろ筆者自身は﹁奉書﹂であった可能性がより强いとの理解に傾く︒ただし︑現狀ではいずれが是であるかは斷言

    不可能である︒�に︑筆者のように﹁奉書﹂との立場に立つ時︑なぜ﹃金�﹄の列傳において金の立場を低める﹁致書﹂

    という表現が:用されたのかは不�とせざるを得ない︒不�確なところを殘すが︑この﹁致書﹂か﹁奉書﹂かという點に

    ついては︑﹁結びに代えて﹂でいま一度言Fしたい︒

    ― 88 ―

    502

  • 第二�

    大定和議�の金・南宋閒の國書における本�の句數について

    �に本�では︑大定和議�の國書における本�の句數の問題について檢討することを_じ︑國書から見た金と南宋の關

    係性に對して別の角度から理解を深めようと試みる︒そのため︑ここではまず*�でもuった大定和議�における﹁`

    時﹂の國書の實例について俯瞰することから始めたい︒かかる試みを行うのは︑これまで當該時�の﹁`時﹂の國書の實

    例を收集するという作業がなされたことを知らないことにも因る︒

    それでは︑ここで大定和議�における﹁`時﹂の國書の實例の槪略について営べておく︒まず南宋の對金國書について

    は︑旣に*違で周必大を檢討の對象としたように︑南宋の�集にはその/者が9草した對金外��書が收められている場

    合がある︒具體�には︑周必大﹃�忠集﹄のほかに樓鑰﹃攻媿集﹄の例が知られ(62

    )︑いずれも時��に大定和議�に屬する

    國書である︒ここでは︑旣に見たように周必大﹁玉堂類稿﹂H收對金國書を︻料一︼としてまとめたのに加え︑樓鑰の

    9草した國書を�末に︻料二︼として一覽#した(63

    )︒その他には︑周必大﹁思陵錄(64

    )﹂にも對金國書が多く收錄されており︑

    これを�末に︻料三︼として一覽#した(65

    )︒以上︑︻料一︼が十六_︑︻料二︼が五_︑︻料三︼が七_︑合計二十

    八_の大定和議�の﹁`時﹂の對金國書の實例を現狀では收集できたこととなる︒

    さて︑これら二十八_の南宋の對金國書を見ると︑いずれも本�が十句でG成されていることが分かる(66

    )︒これが偶然の

    ものとは考えられず︑大定和議�の﹁`時﹂の南宋の對金國書は︑その本�が十句でG成されることが定式#されていた

    と考えることができる︒

    �に︑大定和議�の金の﹁`時﹂の對南宋國書の實例について営べる︒これも周必大﹁思陵錄﹂に實例を確gすること

    ができ︑そこから收集したものを�末に︻料四︼として一覽#した︒その結果︑九_の國書を把握出來た︒管見では

    ﹁思陵錄﹂以外には大定和議�の﹁`時﹂の金の對南宋國書の實例を見出せず︑﹁思陵錄﹂の�料�價値がかび上がる︒

    ― 89 ―

    503

  • この九_の國書を見ると︑︻料四︼(七)の本�が十句でG成されるのを除き︑他の八_はいずれも八句でG成されて

    いる︒︻料四︼(七)では﹁在叔姪Y當如是︑於國家禮亦宜之︒﹂の二句が他の句に比して具體�な表現であり︑直接に

    はこの衣質な二句分を附加したことが同國書が定式より長くなった理由と考える︒ただし︑この二句が敢えて附加された

    理由は現狀では不�とせざるを得ない︒ただし︑數量�にこれを例外としてuうことは許容されると考える︒よって︑大

    定和議�の﹁`時﹂の金の對南宋國書の本�は︑基本�に八句でG成されることが定式#されていたと考えることが出來

    る︒さ

    て︑以上の檢討からは單純な事實が�らかとなった︒卽ち︑大定和議�の﹁`時﹂の國書では︑金の對南宋國書の本

    �が八句でG成されるのに對し︑南宋の對金國書の本�は十句でG成され︑後者は*者よりも二句分多くの�字を費やす

    ことが定式#されていたことである︒そして南宋側がより多くの�字を費やしたのは︑﹁敵國﹂になったとは言え南宋側

    が金に對して擬制親族關係上劣位にあるために︑より敬.を表す必�があったからと考える︒實例に基づく分析が不可能

    であるためあくまで推測に�ぎないが︑これは君臣關係にあった皇瓜和議�の﹁`時﹂の金・南宋閒の外��書

    (詔と

    表)で定式#されていた句數を踏襲した可能性もあるだろう︒

    推測の當否は措き︑從來�目されて來なかったが︑大定和議�の金・南宋閒の國書では︑本�の句數という書式面にお

    いても金と南宋の閒では�白な差等が附けられていたことが�らかとなった︒そしてこれは︑大定和議�の金・南宋關係

    上の諸�素は︑君臣關係が撤廢されたとは言え︑國書の書式も含め多くの場合において何らかの形で差等が附けられてい

    た可能性が高いことを示唆するものと考える︒

    結びに代えて

    それでは�後に︑大定和議�における金・南宋關係のあり方に對する理解を補足するため︑當時:用された﹁上國﹂と

    ― 90 ―

    504

  • いう語について言Fすることで結論に代えたい︒

    まず確gしたいのは︑皇瓜和議�に南宋が金を﹁上國﹂と稱した事實である︒まず一般論としては︑皇瓜和議破綻後の

    高忠円の:宋にあたり︑洪邁は金:への接a:(=

    國境から臨安までの接待役)の對應について円言し︑その﹁改善﹂すべ

    き點を列擧した中で︑﹁上國﹂の語を變�すべきだとした(67

    )︒一方具體例としては︑皇瓜和議の際の南宋の誓表に用例があ

    (﹃金�﹄卷七七宗弼傳)ほか︑皇瓜和議�の﹁:金錄﹂である宋之才﹁:金賀生辰d復命表﹂に金を﹁上國﹂と稱する

    複數の用例が見出せる(68

    )︒

    それでは大定和議�はどうか︒この點を�確にするため︑周必大﹁奉詔錄﹂卷五﹁分付吿哀:事目﹂を示したい︒﹁分

    付吿哀:事目﹂は︑南宋の太上皇-・高宗の御を金に_吿する任をった吿哀:に下された指示であり︑淳熙一四年

    (一一八七)一〇T二七日の日附を持つ︒內容は︑金側が吿哀:に對して吉を身に着けるよう�求した場合の對應が営べ

    られる︒以下に﹁上國﹂の語が出現する*後のみ現代日本語譯を施して引用する︒

    もし先方が紹興二九年

    (一一五九)の顯仁皇太后

    (南宋・高宗の實母)御の際の例を引いて來るようなことがあっ

    たならば︑以下のように繰り/し吿げるように︒﹁以*の顯仁皇后は元々上國から本に歸dしたものでありますし︑

    ⁝⁝﹂

    萬一何度も先方が舊例に固執したならば︑やむを得ないので以下のように吿げるように︒﹁(中では吉に變える

    ようなことはせず︑上國の廷に到着した後に吉に變えて入見いたしましょう(69

    )︒﹂

    この�料は一種の想定問答であり︑金との折衝の現場での南宋側のあるべき態度を反映している可能性が高い︒そのよ

    うな�料中で金を﹁上國﹂と稱しているのは︑大定和議�にも金に對して﹁上國﹂という表現が實際に:用されたことを

    示すと考える(70

    )︒そして詳細は省くが︑大定和議�における﹁上國﹂の語の:用はこの例が孤立した事例ではない︒

    以上を�するに︑南宋側から見たとき︑大定和議において稱臣・表・歲貢など金・南宋閒の君臣關係を�示するつか

    ― 91 ―

    505

  • の�素が變�されたが(71

    )︑一方で﹁上國﹂のように君臣關係をh示する�素で變�されなかったものも存在したのである︒

    �體として︑南宋側から見れば形式�に君臣關係は撤廢されたと理解が可能であるが︑金側から見れば實質�に君臣關係

    は繼續していると理解することが可能である︑それが大定和議であったと筆者は理解する︒ただし︑雙方が直接接觸を持

    つ場合には︑優位にある金側のg識に�い狀況が現出しやすいだろう︒それだけに︑もし形式�に君臣關係が撤廢された

    點にのみ着目するとすれば︑それは南宋人の思惑どおりと言わざるを得ない︒

    それを踏まえて例えば﹁5書禮﹂についても考えて見るならば︑大定和議�において皇瓜和議�の﹁5書禮﹂が踏襲さ

    れたのは︑金・南宋閒の君臣關係が撤廢されたにも關わらず君臣關係のもとで行われていた儀禮が殘存した衣質な�素な

    のではなく︑君臣關係をh示する諸�素が大定和議�にも多く踏襲された中での象

    �存在であったと理解すべきである

    と筆者は考える︒

    そのように皇瓜和議�の金・南宋關係のあり方の多くが大定和議�に踏襲されたとの視線を外��書の書式にあらため

    て向けると︑大定和議成立にaい南宋の對金�書が表から國書へと變�が行われた際︑そこで用いられる表現が﹁奉表(72

    )﹂

    から﹁致書﹂に變�されたとするよりも︑﹁奉﹂という表現を踏襲したまま﹁奉表﹂から﹁奉書﹂へ變�されたと想定す

    る方がy當だと筆者は考える︒そして︑モンゴル時代︑�にその後の時代への﹁致書﹂・﹁奉書﹂という表現の展開は︑舩

    田二〇〇九・井黑二〇一三・廣瀨二〇一四第二違などが�目する論點である︒本稿がそれらの議論にも多少なりとも益す

    るならば幸いである︒

    �(1)

    ここでいう東アジアは︑假にユーラシア東方・東部ユー

    ラシアなどと呼び代えても特に差し荏えない,宜�なもの

    である︒

    (2)

    代表�なものとして古松二〇〇七を擧げておく︒

    ― 92 ―

    506

  • (3)

    ここでは︑南宋政治�の�で論営さるるものは除いて

    考えている︒無論�年の中國大陸では多くの個別論�も存

    在するが︑その整理は喬東山二〇一四に讓る︒なお經濟�

    方面では先驅�硏究として加一九五二H收の金・南宋閒

    の貿易に關する論考が存在することは特記しておきたい︒

    (4)

    本稿では︑各和議が成立して破綻するまでの�閒を︑そ

    れぞれ皇瓜和議�・大定和議�・泰和和議�と稱すること

    とする︒

    (5)

    本稿では︑地の�においては﹁金皇-﹂・﹁南宋皇-﹂と

    記す︒�料�には︑*者は﹁大金皇-﹂︑後者は﹁宋-﹂・

    ﹁宋皇-﹂・﹁大宋皇-﹂などとして出現する︒

    (6)

    その點︑�年周立志が民國﹃`陽縣志﹄卷六三�

    一から再發見した宋之才﹁:金賀生辰d復命表﹂は︑皇瓜

    和議�に:金した南宋人が殘した貴重な�料である︒周立

    志二〇一三參照︒當該�料は︑現在では﹃�宋�﹄第一八

    二册にも收錄される︒

    (7)

    實際には︑井黑二〇一三は外��書のj5について議論

    する關係上︑金・南宋閒の外��書の書式や︑本稿でuう

    時代の金・南宋關係の推移についても多く論営している︒

    そのため︑本稿は同論�に裨益されるところが極めて大き

    い︒

    (8)

    本稿で言う國書とは︑君=閒で�わされる�書一般では

    なく︑同時代の=たる用法から﹁書﹂形式のものに限る︒

    卽ち︑君臣關係を�示しない點で﹁對等﹂な書式であり︑

    當時の表現では﹁敵國﹂の閒で用いられる︒その際︑冒頭

    定型句內に﹁致書﹂Fび﹁奉書﹂と記されるものを括す

    る︒ただし︑�料に國書と稱される�書が必ず書の形式を

    持つ譯ではない︒他方︑本稿で言う外��書は君=閒のも

    のに限定し︑國書のほかに詔や表も含む︒

    (9)

    正確に言えば︑大定和議�の國書の書式に關聯する�料

    への言F自體はこれまでも存在したが︑廣瀨の硏究は書儀

    の專門家が幅廣く外��書を檢討する中で大定和議�の國

    書の位置づけを行った點で從來と衣なるレベルにあり︑本

    稿で特に重視するものである︒

    (10)

    自_好後︑金:每入見︑捧書升殿跪\︑上9立5書︑以

    j內侍︑金:(其=語問上9居︑上復問其=︑畢乃坐︒

    (﹃円炎以來繫年�錄﹄卷一五〇紹興一三年

    (一一四三)一

    二T己酉)

    なお︑以下本稿における�部書の�料引用は︑標點本が

    存在する場合はそれに依據する︒

    (11)

    實際には廣瀨はその他の�料も用いており︑それはあら

    ためて第二違で確gする︒

    (12)

    南宋の對金國書で金皇-に對して@號が記されたと想定

    する以上︑金側の立場をより直接反映すべき金の對南宋國

    書においても實際は金皇-について@號が記されたと想定

    すべきだろう︒廣瀨も�言はしないが同樣の解釋をEする

    ものかもしれない︒

    (13)

    以下︑周必大﹃�忠集﹄

    (本稿では宋代の�集は鯵名で

    稱す)の引用は﹃�忠集﹄の卷數は記さない︒なお本稿で

    の宋代�集�料の引用は﹃�宋�﹄に依據する︒ただし︑

    ― 93 ―

    507

  • 後営のように引用囘數の多い﹃�忠集﹄に關しては﹃�宋

    �﹄の頁數を記すとともに句讀を一部改めたほか︑宋集珍

    本叢刊H收の寫本・刊本Fび�淵閣四庫�書本に照らして

    �低限の�字の修正を加えた︒その際︑(

    )(除)・

    ﹈(揷入)の記號で修正を�示した︒無論﹃�宋�﹄が

    各�集の現狀�良の版本とは必ずしも言えないが︑一定の

    校訂を加えていることFび閱覽の,に鑑みかかる0斷を下

    した︒少なくとも︑本稿の論旨に差し荏えは生じないと考

    える︒なお︑﹃�忠集﹄は靜嘉堂に宋刊殘本が存在するこ

    とがE名だが︑﹃靜嘉堂祕籍志﹄卷一一の記営に據る限り︑

    本稿で引用する部分に關しては殘存していないと理解する︒

    同�庫H藏寫本については︑本稿では慮外においた︒

    (14)

    後段で引用するが︑同じく﹁孝宗皇-/國書御筆跋﹂H

    收の南宋の對金國書案も末尾は﹁不宣﹂で結ばれる︒

    (15)

    以上の經雲に對する理解は︑寺地一九八八違に依據す

    るところが多い︒

    (16)

    以下の�料が比��まとまっている︒南宋皇-が諱を記

    すことはここでは�言されないが︑﹁書に君臣の禮を用い

    る﹂に含まれると考えてよいだろう︒

    先是︑國書﹁大宋﹂去﹁大﹂字︑﹁皇-﹂去﹁皇﹂字︑

    書用君臣之禮︑E再拜等語︒(﹃續宋中興年治_

    鑑﹄卷八乾(元年

    (一一六五)四T條)

    (17)

    この時に副:であった張景仁は﹃金�﹄卷八四に傳が存

    在する︒

    (18)

    國書略曰︑﹁十二T日︑大金皇-致書於宋-︒粤自皇瓜

    以來︑修好不絕︒不.正隆之末︑師出無名︒﹂且E﹁歸兩

    淮︑敦舊好﹂之語︒(紹興三二年

    (一一六二)三T壬子條︑

    ﹃�宋�﹄第二三一册二九六頁)

    「親征錄﹂は紹興三一年

    (一一六一)からZ三二年

    (一

    一六二)にかけての日記體�料であり︑その﹁親征﹂は

    金・海陵王の南宋K攻を5けての南宋・高宗の親征を指す︒

    (19)

    金國大都督府牒︑﹁國太宗皇-創業開基E天下︑今

    四十餘年︑其閒信修睦︑兵革寢息︑百姓安業︒不.正隆

    失德︑師出無名︑:兩國生靈皆被塗炭︒今奉怨天子命詔︑

    已從廢殞︑大臣將帥方議班師赴國︑各宜戢兵︑以敦舊好︒

    須議移牒︑牒具如*︒牒宋國三省・樞密院照驗︒大定元年

    十一T三十日︒﹂(周必大﹁親征錄﹂紹興三一年

    (一一六

    一)一二T壬寅條︑﹃�宋�﹄第二三一册二九三頁)

    なお︑﹃円炎以來繫年�錄﹄卷一九五紹興三一年

    (一一

    六一)一二T己亥は署名部分を含めてこれをより詳細に載

    せるほか︑﹁囘牒﹂も揭載する︒

    (20)

    その他の特

    として︑金皇-の@號が記されていないこ

    とや︑擬制親族關係が記されないことも指摘できる︒*者

    については︑金側が作成した國書には金皇-の@號が記さ

    れていたと考える方が自然であろうから︑﹁親征錄﹂執筆

    の際などにおいて省略されたと考える︒後者は︑單にこの

    段階で擬制親族關係が設定されていないことを反映したも

    のだろう︒

    (21)

    先是︑北:高忠円等將入境︑責臣禮F怨復諸郡︑接a:

    洪邁移書曰︑﹁自古以來︑¡邦P來︑竝用敵禮︒⁝⁝但一

    ― 94 ―

    508

  • 切之禮︑難以復仍舊貫︑當至臨淮上謁︑�俟惠£︑曲折面

    聞︒﹂�例︑迓:相見于淮河中液︑F是︑見于虹縣之北¤

    姫墓︑始抗禮︒(﹃円炎以來繫年�錄﹄卷一九八紹興三二年

    (一一六二)閏二T癸巳條)

    (22)

    これ以影も含め金側が南宋に對して君臣關係を�求しな

    い﹁讓步﹂の¥勢を示せた背景として︑その責を�て海陵

    王にわせられるという金國內の政治狀況も指摘しておき

    たい︒

    (23)

    この:宋におけるj書に際しての金・南宋閒のトラブル

    については︑井黑二〇一三が旣に﹃円炎以來繫年�錄﹄に

    依據して周到に分析を加えている︒

    (24)

    旣而:者捧國書上殿︑知閤門事趙営以祖宗舊例跪5之︑

    :者守�例不與営老矣︑相持移時︑仆於地︒上目二相︑陳

    康伯\曰︑﹁臣等位宰相︑不當5其書︑s用他日行禮︒﹂印

    呼館a責曰︑﹁*日已議定用在京禮例︑今乃紊煩?聽︑何

    也︒﹂徐嚞懼不能對︒時北:方秉笏寘書兩臂閒︑嚞從旁掣

    以\︒(周必大﹁親征錄﹂紹興三二年

    (一一六二)三T壬

    子︑﹃�宋�﹄第二三一册二九六頁)

    先是︑閤門定5書之禮︑略如京都故事︒詔館a:徐嚞等

    以H定示之︑忠円固執︑上特許殿上\書︒F陞階︑¨執舊

    禮︑尙書左僕射陳康伯以誼折之︑忠円語塞︑乃s宰相5書︒

    康伯奏曰︑﹁臣以宰相︑難以下行閤門之職︒﹂忠円奉書︑跪

    不肯9︑廷臣相£怡愕︒康伯呼嚞至榻*︑厲聲曰︑﹁館a

    在館︑H議何事︒﹂嚞徑*掣其書以\︑虜氣沮︑上嘉«之︒

    (﹃円炎以來繫年�錄﹄卷一九八紹興三二年

    (一一六二)三

    T壬子︑原�は省略︒)

    (25)

    淮甸K疆︑幸先�而克復︑祖宗故地︑方O:以s求︒

    (﹃�宋�﹄第二三一册二九六頁)

    (26)

    三十二年︑始O高忠円來吿登位︑議j書禮︑康伯以誼折

    之︑於是報書始用敵國禮︒

    ただし︑以影も含め﹁¬﹂が用いられた可能性も排除は

    できない︒

    (27)

    この:金に關する專論として沈如泉二〇〇六を擧げてお

    く︒ただし︑同論�が多く依據する﹃中興禦侮錄﹄は�料

    �價値に疑問もあり︑直ちには依據出來ないと考える︒

    (28)

    國書曰︑﹁審膺駿命︑光宅丕圖︑德合天人︑慶均遐邇︒

    比因d:︑常露悃悰︒粤從海上之e︑獲¡封之信︒中�

    多故︑頗紊始圖︒事E權宜︑姑爲父兄而貶損︑釁無端

    靡®天地之鑑臨︒旣邊境之一開︑致誓言之p絕︒敢�後聘︑

    許閲怨歡︒載惟陵寢之山川︑寖o春秋之祭祀︒志豈忘於纉

    舊︑孝實切於奉先︒願畫舊疆︑寵d敝國︑結兄弟無窮之好︑

    垂子孫可久之謀︑庶令南北之民︑永息干戈之苦︒儻垂睿照︑

    曲徇懇祈︑願竚佳°︑別修�<︑履茲夏序︑善保?躬︒﹂

    (29)

    ここで謂う﹁畫舊疆﹂とは︑�から︑金が傀儡國家で

    ある劉豫の齊を廢止してその舊領を南宋に引き渡す內容で

    あった一一三八年の天眷和議における國境線を指すと考え

    る︒

    (30)

    初︑邁之接a也︑旣持舊禮折伏金:︑至是︑慨然s行︒

    於是假林學士︑閏賀登位:︑欲令金稱兄弟敵國而歸河南

    地︒夏四T戊子︑邁辭行︑書用敵國禮︑⁝

    ― 95 ―

    509

  • (31)

    初︑景盧在境上與接a<用敵國禮︑接a許諾︑故沿路表

    違皆用在京舊式︒纔入燕京︑盡却囘:︑邀景盧依�例易之︑

    景盧不可︑於是扃驛門︑絕供饋︒而館a者云︑嘗從景盧父

    尙書公學︑陽吐Y實︑言勿固執︑恐無好事︑須_一線路乃

    佳︒景盧等懼留︑易表違j之︒旣入見︑:副例不跪︑至是

    皆跪︒虜=傳令云︑﹁國書不如式︑不當5︑可付E司︒﹂其

    詭詐虛喝類此︒(周必大﹁龍飛錄﹂紹興三二年

    (一一六二)

    七T甲子︑﹃�宋�﹄第二三一册三〇六~三〇七頁)

    なお︑引用�料中の﹁景盧﹂は洪邁の字である︒

    (32)

    報書E曰︑﹁名分旣一言而定︑貢輸亦兩紀于茲︒﹂印曰︑

    ﹁¶夫致慶之詞︑�以難行之事︑實爲大鑑︑再作禍端︒﹂

    (﹃大金國志﹄卷一六世宗紀上大定二年

    (一一六二)二T)

    (33)

    洪景盧・張才甫入

    (燕)﹇門﹈︑國書略曰︑﹁:介來庭︑

    緘題越式︒固w群議︑特P報書︒﹂印曰︑﹁宣・靖旣�︑

    楚・齊繼F︒﹂敍海(定君臣之事︒印曰︑﹁海陵失德︑江介

    興師︑�乃止於一身︑e固難於屢變︒﹂(原�:亮旣死︑¸

    封岐國王︑後改謚海陵煬王︒)印曰︑﹁尺書侮慢︑旣匪藩臣︑

    寸地K陵︑印w誓表︒﹂印曰︑﹁殊無致賀之詞︑繼E難從之

    s︒﹂印E若:干戈不息︑賦斂繁興︑º民塗炭︑咎將誰執

    之.︑而末句云︑﹁尙敦舊好︑勿徇群言︒﹂(周必大﹁龍飛

    錄﹂紹興三二年

    (一一六二)七T甲子︑﹃�宋�﹄第二三

    一册三〇六頁)

    「龍飛錄﹂は紹興三二年

    (一一六二)から隆興元年

    (一

    一六三)にかけての日記體�料であり︑﹁龍飛﹂は南宋・

    孝宗の卽位を指す︒なお沈如泉二〇〇六も﹁龍飛錄﹂の當

    該部分を:用している︒

    (34)

    周必大﹁周�忠公奏議﹂卷一﹁同苑給舍議北事狀﹂・

    ﹁論北事箚子﹂(﹃�宋�﹄第二二七册四四六~四四九頁)

    は對金關係を論じており︑*者に紹興三二年

    (一一六二)

    九T七日附?旨が引用されることから大よそこの*後に草

    されたものである

    (後者は原�によれば實際には用いられ

    なかった)︒そのスタンスは︑金は强硬な態度をとってい

    るが︑實際には和`を}んでいるとのg識である︒

    而虜.亦未嘗不欲和也︒⁝⁝然印懼我測其實而E輕彼

    之心也︑故倡爲大言︑邀索舊禮︒(﹁同苑給舍議北事

    狀﹂)

    (35)

    是時劉珙:虜︑不至而復︒先是︑洪邁・張掄:囘︑見張

    浚︑具言虜不禮我:狀︑且令稱陪臣︒浚謂不當復O:︑而

    �浩議O:報虜以登寶位︑悦O珙至境︑虜責舊禮︑不½而

    d︒(﹃円炎以來繫年�錄﹄卷二〇〇紹興三二年

    (一一六

    二)七T癸亥條)

    劉珙は﹃宋�﹄卷三八六に傳あり︒

    (36)

    いずれも﹃金�﹄卷八七に傳があり︑金皇室と姻戚關係

    にある女眞の名族に出自する︒

    (37)

    この閒の狀況の推移は︑寺地一九八八違のほか︑趙永

    春二〇〇五第五違Fび李輝二〇一四附錄參照︒兩者の閒で

    は﹁牒﹂の:用が基本であったと考えるが︑以下のような

    それとは衣なる�書も用いられた︒なおこの�料の存在は︑

    李輝二〇一四第二違に指摘がある︒

    張魏公繳\北界副元帥紇石烈志寧囘書來上︒其式云

    ― 96 ―

    510

  • ﹁志寧白宣撫執事﹂︑書詞大略謂︑﹁向者怨=初立︑卽

    ¿淮南地︑先O信:︑而宋國襲我歸師︑稍K吾疆︒今

    得來書︑以天時人事�順爲言︑固爭舊禮︑不議他事︒

    且陝西H失地�已克復︑將士或執或死︑其數甚多︒此

    由宋國貪土地之故︑不順天.︑不惜人命︑以致此也︒

    志寧材雖不武︑被命分閫︑師之\止得以專之︒倘能先

    歸K地以示À款︑則復P之禮乃可徐議︒今則按兵不動︑

    以俟來°︒宜深思熟慮︑毋貽後悔︒﹂(周必大﹁龍飛

    錄﹂隆興元年

    (一一六三)三T壬辰︑﹃�宋�﹄第二

    三一册三一二頁)

    (38)

    これは︑盧仲賢がNOされたとする南宋側の諸�料と

    ﹃金�﹄卷八七僕散忠義傳の以下の記営を�せ考えたもの

    である︒

    (大定)三年︑⁝⁝宋同知樞密院事洪・計議官盧仲

    賢︑O:二輩持與志寧書F手狀︑歸海・泗・・鄧州

    HK地︑<爲叔姪國︒

    (39)

    :左副元帥志寧移牒宋樞密:張浚︑其略曰︑﹁可dHK

    本內地︑各守自來畫定疆界︑凡事一依皇瓜以來舊<︑帥

    府亦當解嚴︒如必欲抗衡︑s會兵相見︒﹂宋宣撫:張浚復

    書志寧曰︑﹁疆埸之一彼一此︑兵家之或Â或︑何常之E︑

    當置勿(︒謹O官僚︑敬Ã麾下議之︒﹂(﹃金�﹄卷八七僕

    散忠義傳)

    (40)

    海・泗・・鄧等州︑乃正隆渝e之後・本未O:之*

    得之︒至於歲)︑固非H�︒第兩淮凋瘵之餘︑恐未能如數︒

    (﹃續宋中興年治_鑑﹄卷八隆興元年

    (一一六三)八T

    條)

    (41)

    仲賢至宿州︑虜懼之以威︑乃言歸當稟命許四郡︑p以虜

    :畫定四事︒一︑叔姪_書之式︒二︑・鄧・海・泗之地︒

    三︑歲)銀絹之數︒四︑]臣俘虜之人︒(﹃續宋中興年

    治_鑑﹄卷八隆興元年

    (一一六三)九T條)

    (42)

    『續宋中興年治_鑑﹄卷八隆興二年

    (一一六四)八

    T條など︒

    (43)

    歲)の項目について盧仲賢が行った合.は詳らかでない

    が︑その後の�涉は︑南宋が歲)のL減を=張したのに對

    して金が銀絹各二十萬への減額を=張し

    (﹃續宋中興年

    治_鑑﹄卷八隆興二年

    (一一六四)八T條)︑結果とし

    て金の=張でy結した︒

    (44)

    それぞれ︑﹃宋�﹄卷三八二・卷三八六に傳あり︒

    (45)

    黃中・金安�同議︑以爲如世稱姪・國號不加﹁大﹂字F

    用﹁再拜﹂二字︑未得穩當︑四州不可與︑寧少增歲)︒

    (﹃續宋中興年治_鑑﹄卷八隆興元年

    (一一六三)一一

    T條)

    (46)

    錢用材・馬騏同議︑以爲我當稱﹁大宋謹白﹂︑如與大遼

    之禮︒(﹃續宋中興年治_鑑﹄卷八隆興元年

    (一一六

    三)一一T條)

    (47)

    隆興二年八T日︑⁝⁝側聞虜人嫚書︑欲書御名︑欲去國

    號﹁大﹂字︑欲用﹁再拜﹂︒議者以爲繁�小�︑不必計�︒

    臣竊以爲議者可斬也︒(﹃澹菴�集﹄卷二﹁上孝宗封事﹂)

    胡銓は﹃宋�﹄卷三七四に傳あり︒なお︑﹃澹菴�集﹄

    卷二﹁上孝宗論/賀金國¬﹂にも內容が重なる箇Hが存在

    ― 97 ―

    511

  • する︒

    (48)

    聶崇岐一九八〇參照︒

    (49)

    宋:胡昉以右僕射湯思X書來︑宋稱姪國︑不肯加世字︒

    (﹃金�﹄卷八七僕散忠義傳)

    大定二年︑僕散忠義伐宋︑景仁掌其�辭︒宋人議和︑

    廷已改奉表爲國書︑稱臣爲姪︑但不肯世稱姪國︒P復凡七

    書︑然後定︑其書皆景仁爲之︒(﹃金�﹄卷八四張景仁傳)

    (50)

    胡銓轉對︑爲上言曰︑﹁虜不可和︑臣恐再拜不已︑必至

    稱臣︒⁝⁝﹂(﹃續宋中興年治_鑑﹄卷八隆興二年

    (一

    一六四)九T)

    (51)

    『宋大詔令集﹄卷二二八から卷二三二H收の對契丹國書

    に多くの實例が確g可能である︒

    (52)

    姪宋皇-眘︑謹再拜致書于叔大金?�仁孝皇-闕下︒

    (﹃金�﹄卷八七僕散忠義傳)

    姪宋皇-謹再拜︑致書于叔大金應天興祚欽�廣武仁德?

    孝皇-闕下︒(﹃金�﹄卷八九梁肅傳)

    *者は︑大定和議閲結時に魏杞が持參した國書の書式に

    ついて営べたもの︒後者は︑大定和議閲結後に南宋が﹁5

    書禮﹂の廢止を求める中で︑大定一四年

    (一一七四)に

    ﹁5書禮﹂による國書の5領を囘Mするために金:から宿

    舍で國書を5領したのに對し︑金が詰問の:�をNOし︑

    その際南宋から金:に附された謝罪の國書の一部︒井黑二

    〇一三の指摘のように︑後者の國書の冒頭定型句では實際

    には南宋・孝宗の諱も記されたと考える︒

    (53)

    宋_問:魏杞等以國書來︒書不稱大︑稱姪宋皇-︑稱名︑

    再拜奉書于叔大金皇-︒

    �に﹃_鑑續﹄卷一八隆興二年

    (一一六四)八T﹁以

    魏杞爲金國_問:︑�于盱眙﹂でも︑魏杞が持參した對金

    國書の冒頭を﹁姪宋皇-某再拜奉書于叔大金皇-﹂として︑

    ﹃金�﹄本紀と同樣の內容を記す︒これは直接�には﹃_

    鑑續﹄が﹃金�﹄本紀を參照したに�ぎないが︑﹃_鑑

    續﹄が當該條で參照すべき對象として﹃金�﹄本紀をÈ

    擇したこと自體に︑筆者は一定の.義を見出すものである︒

    なお﹃_鑑續﹄は︑京都大學人�科學硏究HH藏國立中

    央圖書館

    (現國家圖書館)藏元刊本景照本を利用した︒

    (54)

    吳曉萍二〇〇六第五違ですでにその存在が指摘されてい

    る︒

    (55)

    この點については︑︻料一︼(一六)でも確g可能であ

    る︒

    (56)

    九T日︑叔大金皇-致書於姪宋皇-︒和<再成︑界河山

    而如舊︒緘°遽至︑指鞏洛以爲言︒É曩時無用之�︑瀆今

    日旣e之好︒旣云廢祀︑欲伸¸V之懷︒止可奉�︑卽候刻

    �之報︒至若未歸之旅櫬︑亦當竝發於行塗︒抑聞附s之辭︑

    欲變5書之禮︒出於Ë易︑�以必從︑於@卑之分何如︑£

    信誓之堅安在︒事當審慮︑邦可孚休︒方屆霜嚴︑善綏福履︒

    今因政殿大學士范成大等囘︑專附書奉答︒不宣︒(周必

    大﹁孝宗皇-/國書御筆跋﹂)

    其辭云︑﹁得旨宣諭:人︑=上尙留德壽宮喪�︑難行賀

    禮︑:人且歸︒(原�:此四字上親筆)HE見辭幷囘�沿

    路等例物幷合給賜︑來日\發︒﹂上印批云︑﹁幷附奏叔大金

    ― 98 ―

    512

  • 皇-︑將來正旦︑緣在制︑不敢禮︑}免O:人︒﹂(周

    必大﹁思陵錄﹂卷上淳熙一四年

    (一一八七)一〇T乙酉︑

    ﹃�宋�﹄第二三二册七九頁)

    *者は︑乾(六年

    (一一七〇)に范成大が﹁5書禮﹂の

    廢止を求めるためにNOされた際に金側から附された國書︒

    後者は正確には國書中の用例ではなく︑南宋で太上皇-・

    高宗が御した際に孝宗の生辰祝賀にきた金:への對應を

    指示した批の中で︑金:が歸國した際に南宋が金に賀正:

    �をNOしないことをgめてほしい旨を金皇-に對して傳

    えるように依賴する�での用例︒周必大﹁奉詔錄﹂卷五

    ﹁發囘虜:牒本竝咨目奏箚﹂(淳熙一四年

    (一一八七)一〇

    T二六日附︑﹃�宋�﹄第二二八册二〇九頁)にも�似の

    用例あり︒

    (57)

    至燕︑見金=襃︑具言︑﹁天子神?︑才Ó奮9︑人人E

    敵愾.︑北用兵能保必Â乎︒和則兩國享其福︑戰則將士

    蒙其利︑昔人論之甚悉︒﹂金君臣 聽拱竦︒館a張恭#以

    國書稱﹁大宋﹂︑脅去﹁大﹂字︑杞拒之︑卒正敵國禮︑損

    歲)五萬︑不發歸正人北d︒上慰藉甚渥︒

    『_鑑續﹄卷一八乾(元年

    (一一六五)三T﹁魏杞d

    自金︑始正敵國禮﹂でもこれを踏襲している︒

    なお魏杞に關しては︑陳樂素二〇一二が指摘するように

    その行狀や神(碑も知られるが

    (筆者は魏頌輯﹃增訂丞

    相魏��公事略﹄杭州古舊書店︑一九八二で閱覽)︑筆者

    はその�料價値に確信をもてないため本稿では:用しない︒

    (58)

    『金�﹄卷八七僕散忠義傳には南宋に國書の副本も提出

    させたことが営べられる︒

    和議始定︒宋O試禮部尙書魏杞︑崇信軍・承宣:康湑︑

    閏_問國信:︑取到宋=國書式︑幷國書副本︑⁝

    その他﹃宋�﹄卷三八五魏杞傳にも︑これ以*の段階で

    はあるが︑僕散忠義が南宋の對金國書がH定の書式どおり

    か確gするために事*に現物の閱覽を�求した旨が営べら

    れる︒金

    HO大將僕散忠義・紇石烈志寧等方擁兵闖淮︑O權

    泗州趙Ö長問H以來.︑求觀國書︑杞曰︑﹁書御封也︑

    見=當廷j︒﹂Ö長馳白僕散忠義︑疑國書不如式︑⁝

    (59)

    そもそも皇-の諱を直筆することは不可能だが︑例えば

    ﹁御名﹂などの形で諱が記されたことを示すことは可能で

    ある︒

    (60)

    比致祈懇︑旋勤誨緘︒欲重O於軺車︑恐復煩於舍館︒惟

    列?久安之陵寢︑旣難一旦而輒�︑則靖康未/之衣冠︑詎

    敢先�而獨s︒載披諄諭之旨︑詳F5書之儀︒蓋今叔姪之

    Y親︑與昔@卑之體衣︑敢因慶禮︑薦布忱詞︑尙冀允從︑

    式符企}︒今賀生辰國信:副林學士趙雄・泉州觀察:趙

    伯驌行︑謹再拜奉書︑不宣︒

    これは︑南宋が范成大をNOして﹁5書禮﹂廢止を金に

    求め拒絕されたのを5け︑Z乾(七年

    (一一七一)に趙

    雄・趙伯驌を生辰:としてNOする際︑�に﹁5書禮﹂の

    廢止を�sさせるために周必大に9草させた國書の案であ

    る︒周必大﹁`園續稿﹂卷三〇H收﹁和州防禦:贈少師趙

    公伯驌神(碑﹂(﹃�宋�﹄第二三三册四四~四八頁)は關

    ― 99 ―

    513

  • 聯�料であり︑井黑二〇一三が旣に言Fしている︒

    (61)

    例えば︑﹁奉書陳謝︒不宣︒謹白︒﹂などの形をとる︒

    ﹃宋大詔令集﹄卷二二八から二三二に收錄される對契丹國

    書に多くの實例が確g可能である︒

    (62)

    樓鑰﹃攻媿集﹄H收對金國書も︑吳曉萍二〇〇六第五違

    でその存在が指摘されている︒

    (63)

    後出の︻料三︼・︻料四︼も含め︑本來は一々その國

    書の內容や用いられた狀況について說�すべきだが︑紙幅

    の都合で割愛する︒

    (64)

    南宋の太上皇-・高宗御*後の淳熙一四年

    (一一八

    七)から同一六年

    (一一八九)にかけての時�について記

    した日記體�料であり︑對金關係の記営も豐富なことで知

    られる︒`田二〇一二第四部第三違

    (初出二〇〇四)參照︒

    (65)

    正確には︑﹁思陵錄﹂H收の對金國書Fび後出の金の對

    南宋國書には︑南宋の太上皇-・高宗の御にaうという

    點で特殊なものも多く含まれる︒だが︑それらの國書の內

    容・形式も儀禮�なものであり︑ここで﹁`時﹂の國書同

    樣にuって問題ないと考える︒

    (66)

    ここでいう﹁本�﹂とは︑四六�で記された部分を指す︒

    かりに契丹・北宋閒の國書を例に取ると︑中西二〇〇五で

    も引用する下引﹃石林燕語﹄卷一﹁大遼國信書式﹂におけ

    る﹁入辭﹂に相當する

    (引用は宋�料筆記叢刊本に據

    る)︒*

    稱T日︑大宋皇-謹致書於大遼國E號皇-闕下︑入辭︑

    �具:副�銜︑稱今差某官閏某事國信:副︑E少例物︑具

    諸別幅︑奉書陳賀︑不宣︑謹白︒其辭不�Ë八句︒

    (67)

    一︑舊與北:語︑稱上國・下國︑今稱貴・本︒(﹃円

    炎以來繫年�錄﹄卷一九八紹興三二年

    (一一六二)三T壬

    寅)

    (68)

    臣問曰︑﹁上國官制莫多用否︒﹂⁝臣答云︑﹁荷上國

    待z之厚︒﹂

    引用中の﹁臣﹂は/者の宋之才であり︑卽ち引用は南宋

    の:臣の金側に對する發言である︒

    (69)

    或恐彼界引紹興二十九年例︑卽須再三說諭︑以﹁向來顯

    仁皇后元自上國d本︑Û當時國書等

    (體)﹇禮﹈數竝各

    不同︑H以稱哀謝:︑蓋不止吿哀︑Û是致謝︒今來專以吿

    哀爲名︑Û=上見三年之喪︑HO:人︑豈敢,從吉制︑

    須是顏色慘戚︒﹂語言諄切︑彼必聽從︒萬一堅執舊例再三︑

    不得已卽諭︑以﹁沿路未敢﹇改﹈易︑候至上國闕庭︑當隨

    宜入見︒﹂(﹃�宋�﹄第二二九册一六四~一六五頁)

    (70)

    「奉詔錄﹂の地の�では︑_常金を﹁北界﹂と稱してい

    る︒

    (71)

    李輝二〇一四第二違が営べるように︑大定和議成立を機

    に南宋の接a・館a

    (臨安での金:接待役)の金:に對す

    る對應が對等な方向に變#した部分があるのも事實である︒

    (72)

    先引の﹃金�﹄卷八四張景仁傳のように︑一般に大定和

    議では南宋の對金外��書の書式は﹁奉表﹂から﹁國書﹂

    へと變�されたとされる︒ここから皇瓜和議�の外��書

    の本�內に﹁奉表﹂の表現が存在したと斷言はできないが︑

    蓋然性は高いと考える︒なお南宋皇-が﹁奉表﹂の表現が

    ― 100―

    514

  • 存在する表を對外�に:用した例としては︑﹃宋�﹄卷四

    七瀛國公本紀德祐二年

    (一二七六)正T甲申條H載の對元

    影表の存在を參考のために指摘しておく︒

    參考�獻

    和�

    井黑忍

    二〇一三

    「5書禮に見る十二~十三世紀ユーラシア東方の國際秩序﹂(̀

    田茂樹・V隆俊﹃外��料から十~十四世紀を

    探る﹄Ý古書院)

    加繁

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    寺地

    一九八八

    『南宋初�政治�硏究﹄溪水社

    外山軍治

    一九六四

    『金�硏究﹄同ß舍

    中西美

    二〇〇五

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    ︱︱「致書﹂�書の:用狀況を中心に︱︱﹂(﹃九州大學東洋�論集﹄三

    三)

    `田茂樹

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    『宋代政治GÃ硏究﹄Ý古書院

    廣瀨憲雄

    二〇一三

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    ︱︱代・日本の外��書硏究の成果から︱︱﹂(̀

    田茂樹・V隆俊

    ﹃外��料から十~十四世紀を探る﹄Ý古書院)

    廣瀨憲雄

    二〇一四

    『古代日本外��

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    二〇〇九

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    毛利英介

    二〇〇四

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    (遼)・宋閒の地界�涉發生の原因について

    ︱︱特にキタイ側の視點から

    ︱︱﹂(﹃東洋�硏究﹄六二︱四)

    中�

    陳樂素

    二〇一二

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    李輝

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    『宋金�聘制度硏究

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    ― 101 ―

    515

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    二〇一二

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    聶崇岐

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    吳曉萍

    二〇〇六

    『宋代外�制度硏究﹄安E人民出版社

    趙永春

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    周立志

    二〇一三

    「宋金�聘�怨�獻︽:金復命表︾硏究﹂(﹃北方�物﹄二〇一三年第一�)

    【料一︼周必大﹁玉堂類稿﹂卷一六H收對金國書

    (第二二七册一四一~一四九頁)

    (一)

    答金國賀會慶�國書

    (原�::邢子

    (錫)﹇敬﹈・副張謹言︒)

    乾(六年十T

    V馳:傳︑申邦儀︒