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使 稿 49 駒沢大学『文化』第25号 平成19年3月

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『仙仏奇踪』の書誌学的研究

北 野 良 枝

はじめに

『菜根譚』の著者として知られる洪応明(字自誠(1)

)が、明末の万暦三十年(一六〇二)に編纂した『仙仏

奇踪』は、仙人六十三人の伝記と図から成る「消揺墟」、仏祖六十一人の伝記と図を載せる「寂光境」、道教

経典や道士の語録等からの抜粋を収めた「長生詮」、仏祖の法語を抜書きした「無生訣」の四篇から成る書

物である。この『仙仏奇踪』の図が俵屋宗達の道釈画の図様の源泉となったことは、夙に相見香雨氏によっ

て指摘され

(2)

、また宗達以外の画師が参照した例もいくつか紹介されている

(3)

。このように近世絵画のイメー

ジソースとして注目されてきた『仙仏奇踪』ではあるが、その書誌については、諸本に異同があると指摘さ

れるものの、従来あまり注意が払われてこなかった。しかしながら『仙仏奇踪』の場合、諸本の間の相違は

収載される図の違いに及ぶことがあるため、絵画との関係を考察しようとする際、諸本の異同を把握した上

で、使用する本を選ぶ必要がある。そこで本稿では、筆者が実見し得たものを中心に、『仙仏奇踪』諸本の

異同を整理し、その関係を明らかにしてみたい。

49 駒沢大学『文化』第25号 平成19年3月

一 初版本

相見氏は註(2)論文において、架蔵の『仙仏奇踪』二種(現在、所在不明)を異版であるとされている。

また瀧本弘之氏は、『仙仏奇踪』について、「多数の刻本が知られるがそれぞれ異同があってその関係は複雑

である」とされ、内閣文庫に収蔵される明刻本以外に清刊本らしきものが、数本あることを指摘されている

(4)

これらの見解を受け、諸本を検討した結果、以下の十本を初版本と判断した

(5)

。これら初版本十本をAグルー

プとすると、Aは若干の異同から、1〜3の三つに分けることができる。

A―1 国立公文書館内閣文庫 紅葉山文庫旧蔵本(紅葉山本と略称)

七冊、「消揺墟」巻二欠

A―2 市立米沢図書館本(米沢本と略称)

四冊

A―3 蓬左文庫本 八冊

国立公文書館内閣文庫 両足院旧蔵本(両足院本と略称)

三冊、「消揺墟」巻二・「寂光境」・

「無生訣」欠

京都大学附属図書館本(京大本と略称)

三冊

大和文華館本 八冊

国立公文書館内閣文庫 林家旧蔵本(林家本と略称)

二冊、「消揺墟」・「寂光境」巻一欠

国立公文書館内閣文庫 毛利高標旧蔵本(毛利本と略称)

二冊、「消揺墟」巻一・「寂光境」巻

三・「長生詮」・「無生訣」欠

不明  個人蔵本 四冊、「消揺墟」・「長生詮」欠

50

筑波大学附属図書館本(筑波大本と略称)

一冊、「消揺墟」・「寂光境」欠

A―1とA―2との違いは僅か一文字であるので、A―1、2とA―3との違いから見て行くこととしよ

う。両者の間に認められる文字の異同としては、「消揺墟」巻一の四十丁裏一行目に見える「終」字の有無

があげられる。図1に示したように紅葉山本の当該箇所は、「之旨」で終っているが、図2の大和文華館本

では、「之旨 終」となっている。この「終」字の有無については、①本来、存在しなかった文字を後に埋

め木して付け加えた、という見方と、②当初、存在していた文字を後に削り取った、という見方が可能であ

る。この異同が①②のいずれであるかは、版木の摩滅状態からわかる両本の先後関係によって判断すること

ができる。そして幸いなことに、この「消揺墟」巻一には、三十四丁裏に両本の先後関係を明確に示す版木

の欠損箇所が認められる。この版木の欠損は、図3に示したように、紅葉山本において既に認められるもの

であるが、図の左上の「禄」という字は、まだ判読可能である。これに対して図4の大和文華館本では、版

51 『仙仏奇踪』の書誌学的研究

図2大和文華館本

図3 紅葉山本

図1紅葉山本

図4 大和文華館本

木の損傷がさらに進み、「禄」字が既に判読不能となっている。匡郭も紅葉山本の方が欠けている箇所が少

なく、早印であることは明らかである。したがって問題の「終」字は、後に付加したものであると言うこと

ができる。

紅葉山本と大和文華館本のもう一つの違いとして、封面の問題をあげることができる。紅葉山本の封面は、

図5―①から④にあげた四点である

(6)

のに対して、大和文華館本は図5―①と同版の封面の他に、図5―⑤に

あげた「仙仏證法」と題する封面を備えている。前掲の初版本十本について、この版木の欠損状況を示す

「禄」字と、修訂を示す「終」字、そして封面の関係をまとめると、表1のようになる。初版本のうち「終」

字を付加された蓬左文庫本、両足院本、京大本、大和文華館本の四本、そして匡郭の欠け具合などから両足

院本よりも後印と判断される林家本、毛利本の計六本を、筆者は紅葉山本や米沢本よりも後印と見るわけで

あるが、封面の状況もこの分類と軌を一にしている。したがって初版本は、ある時期に「消揺墟」巻一の巻

末の「終」字の付加と、封面の変更という小規模な修訂を加えられたという結論に達する

(7)

。このうち封面の

変更については、「消揺墟」「長生詮」「無生訣」という封面が付された、各篇の独立性の高い構成から、「仙

仏奇踪」と「仙仏證法」という纏った構成への変更と考えることができるかもしれない。

次にA―1とA―2との相違点を見てみよう。紅葉山本「長生詮」三十四丁表第四行第十八字は、図6に

示したような状態になっている。これは文字の誤りを修正するために、埋め木が為されたものの、文字を彫

ることを忘れて摺ってしまった状態と見られる

(8)

。これに対して米沢本の該当箇所では、A―3グループ同様

「静」字が彫られており、米沢本を刷った段階では、完全に修正されていることがわかる。この「長生詮」

三十四丁の文字の修正は、紅葉山本に先行する修正以前の誤字を留める本の存在を予測させ、図3の版木の

52

53 『仙仏奇踪』の書誌学的研究

図5-①

図5-⑤大和文華館本

図6 紅葉山本図9 東文研本

図5-②図5-③図5-④紅葉山本

分類 略称 冊数 「禄」判読 「終」有無 消 1 消 2 消 3 寂 1 寂 2 寂 3 長 無 備考

A-1 紅葉山本 7 可能 無 ② ○ ① ○ ○ ③ ④

A-2 米沢本 4 可能 無 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

A-3 蓬左文庫本 8 可能 有 ① ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

両足院本 3 可能 有 ○ ○ ○

京大本 3 不能 有 ① ○ ○ ○ ○ ○ ⑤ ○

大和文華館本 8 不能 有 ① ○ ○ ○ ○ ○ ⑤ ○

林家本 2 ○ ○ ○ ○ 両足院本よりも後印

毛利本 2 ○ ○ ○ ○ 両足院本よりも後印

A-? 個人蔵本 4 ○ ○ ○ ○

A-? 筑波大本 1 ○ ○

凡例 表中の○印は、該当巻の存巻を、斜線は欠巻を示す。    ①~⑤の記号は、該当巻の存巻を示すと同時に、図5―①~⑤と対応し、封面の種類を表す。

表1 『仙仏奇踪』初版本異同表

損傷も、筆者が実見した諸本のうち最も早印である紅葉山本よりも更に早印のもの、すなわち版木が図3に

示した損傷を被る前に刷られた本の存在を示唆する。

この問題に関して、『仙仏奇踪』の刊行後まもなく出版された二つの書物を参照することによって、さら

に考察を進めてみたい。既に指摘されている

(9)

ように、万暦三十五年(一六〇七)刊の『続道蔵』には、「消揺

墟」「長生詮」「無生訣」の三篇の本文が、「消揺墟経」「長生詮経」「無生訣経」として収められており、ま

た万暦三十七年(一六〇九)刊の『三才図会』には、「消揺墟」所収の仙人六十三名全てと「寂光境」所収の

仏祖六十一名のうち二十六名分の本文と図とが借用されている。先に見た紅葉山本「消揺墟」巻一、三十四

丁裏の判読不能箇所に相当する部分を両書で確認すると、いずれも何ら問題は認められず、両書の底本とな

った『仙仏奇踪』が紅葉山本よりも早印の、版木が損傷を被る前の本であったことを窺わせる。さらに『続

道蔵』の場合、『三才図会』にはない「長生詮」が収載されているので、紅葉山本の「長生詮」で埋め木さ

れていた三十四丁表第四行第十八字に相当する箇所を確認してみると、「神」字となっており、この部分の

修正前の文字が「神」であった可能性を示している。図6に示すように、「致」の直前の文字が「神」であ

ることから、版下を筆写する際、「神」字を誤って二度写してしまったのかもしれない。このように『三才

図会』や『続道蔵』の底本として使用された『仙仏奇踪』は、「消揺墟」巻一、三十四丁裏の版木が損傷を

被る前の本であったと推察され、なおかつ『続道蔵』の底本は、図6の修訂が為される前の段階であったと

考えられる。

以上、述べたように筆者が実見し得た『仙仏奇踪』の初版本は、A―1からA―3の三つにわけることが

でき、さらに比較的早印と見られるA―1に先行する存在A―0を想定することができる。

54

次に初版本の構成について考えてみたい。『四庫全書総目提要』は、「仙仏奇蹤四巻」について「前二巻記

仙事、後二巻記仏事。首載老子至張三三ー六十三人、名曰消揺墟、末附長生詮一巻。次載西竺仏祖、自釈迦牟

尼至般若多羅十九人、中華仏祖、自菩提達摩至船子和尚四十二人、曰寂光境、末附無生訣一巻。」とし、「消

揺墟」一巻、「長生詮」一巻、「寂光境」一巻、「無生訣」一巻の計四巻としている。一方、『内閣文庫漢籍分

類目録』では、紅葉山本について「寂光境三巻消揺墟三巻(巻二欠)長生詮・無生訣各一巻」と記し、計八

巻であり、「寂光境」「消揺墟」「長生詮」「無生訣」の順としている。これについて今井宇三郎氏は、「消揺

墟」「寂光境」の目録に三巻に分巻した形跡がないことから、版元太和館が「簡帙重大の故を以て」、三冊に

分冊して刊行したものを、『内閣文庫漢籍分類目録』が三巻と記したのではないかとし、両者は本来、一巻

であるとされている。また「仙仏」と称している点から、「仙事関係が先で、仏事関係がこれに次ぐもので

ある」とされ、内閣文庫目録の順では、「四書の関係が混淆し、本伝と付録の関係も明らかではない。」とさ

れている

(10)

今井氏の指摘される通り確かに「消揺墟」「寂光境」ともにその目録では分巻した跡はない。ただ版心に

注目すると、両者がともに三巻に分けられていることに気づく。版心以外には分巻の跡がないことから、今

井氏が言うように「簡帙重大の故を以て」太和館が三巻に分けたものであり、霽者洪応明の意図するところ

ではなかったのかもしれないが、いずれにせよ「消揺墟」と「寂光境」とは初版本の段階で既に三巻に分け

られており、後述の如くこの分巻は三版本以降の構成に影響を及ぼして行く。

四篇の順序についても紅葉山本の場合、「仙仏奇踪」の封面を備える「寂光境」が最初に置かれ、巻末に

「尾終」と記される「無生訣」が最後にくると考えることができ、順序をつけるならば、『内閣文庫漢籍分類

55 『仙仏奇踪』の書誌学的研究

目録』の示す通り、「寂光境」「消遥墟」「長生詮」「無生訣」となるだろう。ただ同じ封面をもつ天海蔵本で

は、封面題と内容とが一致していない。これは天海蔵本改装の際に、仙事が先であるとの認識が働き、仙人

の伝記と図を載せる「消揺墟」に全体の書名を示す「仙仏奇踪」の封面を付したためではないかと思われる

(11)

このように当初の封面四種は、全体の構成を考える際にやや分かりづらい面がある。新たに「仙仏證法」と

いう封面を作り、「消遥墟」「寂光境」から成る「仙仏奇踪」と「長生詮」「無生訣」からなる「仙仏證法」

という構成に変更した理由は、この分かりづらさを解消するためであったのかもしれない。

二 重版本

初版本以外で筆者が実見し得たのは、東京大学東洋文化研究所本(東文研本と略称)と町田市立国際版画

美術館本(町田本と略称)の二本のみである。両者を比較すると、東文研本に修訂を加えたものが町田本で

あることがわかる。また『北京図書館古籍珍本叢刊』七〇(書目文献出版社、一九八八年)に『長生銓』の書

名(12)

で影印が掲載されている中国国家図書館(旧称北京図書館)本(北京本と略称)は、上記二本とも初版本と

も異なる。そしてこれらはいずれも字様、版式が初版本と一致する

(13)

北京本は「消揺墟」巻一と「無生訣」を欠いており、なおかつ影印でしか確認していないため、詳細な検

討を行うことは難しいが、初版本と、後述の図の変更から初版本より明らかに版次が下ると判断される東文

研本との中間に位置づけられる特徴をもっているため、本稿では北京本を再版本Bとし、東文研本、町田本

を三版本Cとした。

まず北京本を初版本と比較してみると、北京本の図のうち三図が、初版本に表わされている背景の雲を省

56

略していることに気づく。雲が省略されているのは、「消揺墟」巻二前半の梅福、黄初平、呂純陽の三図で

あり、他の図ではこのような省略は行なわれていないことから、この雲の省略は巻二前半を担当した刻工に

見られる傾向と考えることができよう。呂純陽の図の左端には「公元」という文字が見られ、影印本での確

認であるため、この文字が書き込まれたものである可能性も排除できないが、この図の刻工名を示すものと

考えてよいのかもしれない。また「寂光境」巻一の釈迦牟尼仏の図の左端にも「黄秀□□」の文字が見える。

註(3)の②論文において、富岡鉄斎旧蔵本(カリフォルニア大学バークレー校東亜図書館蔵)の釈迦牟尼仏

の図中に「黄秀野」という刻工名が記されているとの報告があり、鉄斎旧蔵本は北京本と同版である可能性

が高い。ただし註(9)の②論文で、鉄斎旧蔵本「寂光境」巻三の寒山子の図中に見出されるとされる「黄

広中」という刻工名は、北京本では確認できない。なお北京本「長生詮」三十四丁表第四行第十八字が紅葉

山本の該当箇所の如く一文字分彫り残したように見えることから、北京本の底本は図6に示した紅葉山本と

同様の状態にあるA―1に属する本であったと見ることができよう。

次に三版本Cを見てみよう。町田本は東文研本に修訂を加えているため、両者を次のように分ける。

C―1 東文研本

(14)

四冊

C―2 町田本 六冊

東文研本と初版本との間には、図の減少と改変という絵画史研究にとって看過し得ない相違が見出される。

仙人の伝記および図の減少については、既に佐藤義寛氏も指摘されているが

(15)

、初版本と比較すると、「消揺

墟」に掲載されている仙人のうち巻一の太山老父、劉海蟾、黄安、浮丘伯と、巻三の張三三ーの計五名分の本

文と図が失われ、仙人の数が五十八名に減っている。これら五名の仙人の伝記と図がどの段階で失われたか

57 『仙仏奇踪』の書誌学的研究

については、北京本の「消揺墟」巻一が目録部分とともに欠けているため判断が難しいが、北京本の「消揺

墟」巻三に張三三ーが掲載されていること、東文研本には丁数の減少に伴って版木を細工した形跡が見られる

(16)

ことから、三版のある段階において仙人五名分の版木が失われ、東文研本はその後に印刷されたとみるべき

ではないだろうか。そしてそうであるならば三版本でも、初版本同様、東文研本の前段階である筆者未見の

C―0の存在を想定することができる。

図の変更は、図7、8に示すように、「消揺墟」巻二の呂純陽、許真君、張果の三図に見られる。図が変

更された三点は、仙人の顔つきが全く異なっており、初版本の仙人が丸顔で温厚な面貌を示すのに対して、

東文研本では細面で目がつり上がった顔立ちとなっている。

全体の構成としては、「消揺墟」と「寂光境」の目録の仙人、仏祖名のうち、各巻の冒頭に位置する仙人、

仏祖の名前の下に、やや小さな文字で、「巻一」「巻二」「巻三」と分巻のしるしが加えられ、初版よりもさ

らに明確な形で分巻を示していることが注目される。

なお東文研本は、封面に「本衙蔵板」とあることから、版元が本衙であることがわかり、「消揺墟」引第

二丁表、「寂光境」巻一第一丁表(釈迦牟尼仏の図)、「長生詮」小引第二丁表の三箇所に、「汪文

刊」ある

いは「汪文

鐫」と版元あるいは刻工と思われる者の名が見出される。

東文研本と初版本、再版本との関係を検討すると、東文研本の「長生詮」巻一、三十四丁表第四行第十八

字は、図9(53頁)に示したように、問題の文字が空格となっている。これは東文研本の底本が、紅葉山本

と同様のA―1に属する本、あるいはそこから派生した再版本であることを示唆している。さらに北京本と

初版本との違いとして、先に梅福、黄初平、呂純陽の三図の雲の省略をあげたが、東文研本の該当箇所を確

58

59 『仙仏奇踪』の書誌学的研究

呂純陽許真君張果図7 大和文華館本

呂純陽許真君

図10 町田本蔵書印印影

張果図8 東文研本

認してみると図が入れ替わっている呂純陽を除き、梅福、黄初平ともに北京本同様、雲が省略されており、

東文研本の底本が再版本Bであったことを裏付ける。

次に東文研本と町田本とを比較してみると、両者の違いとして、以下の三点をあげることができる。一点

目は、佐藤氏も指摘されているように、仙人がさらに三名減って五十五名となり

(17)

、仏祖も七人減って五十四

人となっていることである。二点目は、「長生詮」「無生訣」の本文が、かなり失われていることである。町

田本の「長生詮」は、二十九丁裏の「導引法」までしか収載されておらず、「杜道堅」以下の十二項目が失

なわれている。また「無生訣」では、東文研本の十八丁から二十丁までと、二十九丁から三十八丁まで、そ

して四十丁裏八行目以降が収載されていない。丁付も十八丁以降変更され、東文研本で四十三丁あったもの

が、町田本では二十七丁に減っている

(18)

。三点目は、C―1の段階まである程度独立性を保っていた各篇に、

一巻から八巻までの通しの巻数が付されたことである。これに伴い「消揺墟引」「寂光境引」と題されてい

た序文は、それぞれ「仙引」と「仏引」とに改められ、目録は新彫され、版心も巻数を通しとするために補

刻されている。なおC―2は目録題に「月旦堂仙仏奇踪合刻」とあり、月旦堂と称す版元から出版されたも

のであることがわかる。

ここで三版本の刊行年について考察を加えると、まず中国からの舶載書を記録する『舶載書目』(宮内庁

書陵部蔵)の正徳二年(一七一二)の記事に、将来書として「本衙蔵板」の『仙仏奇踪』四本八巻が記載され

ている

(19)

ことから、正徳二年をC―1刊行の下限とすることができる。

また『芥子園画伝四集』(嘉慶二十三年〈一八一八〉刊)のうち巻之二に収載される列仙二十三名と仏祖十

八名は、『仙仏奇踪』の図に基づくものであることが指摘されているが

(20)

、これらを『仙仏奇踪』諸本と比較

60

すると、呂純陽と張果の図が三版に倣ったものとなっていることから、『芥子園画伝四集』の底本が三版本

であることがわかる。さらに『芥子園画伝四集』巻之二の目録を見ると、列仙の掲載順が三版本のうちC―

2の段階で新彫された目録の順序に従っている点、玄真子を玄貞子と誤っている点が、C―2の誤り

(21)

を踏襲

していると見られることから、『芥子園画伝四集』の底本はC―2であると考えることができる

(22)

。 

したがっ

て『芥子園画伝四集』の刊行年嘉慶二十三年(一八一八)が、C―2の刊行年の下限となるわけであるが、

町田本に捺されている印によってこの下限をもう少し上げることができるかもしれない。町田本には「円山

氏図書記」(図10)の印が捺されているが、これは円山応挙(一七三三〜一七九五)の蔵書印と見られており

(23)

この印が応挙の生前に捺されたものであるならば、応挙の歿年から、C―2は十八世紀末には刊行されてい

たことになる。

おわりに

ここまで述べてきた『仙仏奇踪』諸本の系統を図にすると、図11のようになる。版次が下るにしたがって、

仙人・仏祖の数が減ってゆき、図が変更されるものもあり、本文もまた誤脱を増して行く。この図に示した

ように、現在刊行されている影印本

(24)

の多くは、民国二十年(一九三一)に刊行された石印本

(25)

から派生したも

のであるが、この石印本はC―2を底本としているため、C―2の誤脱を踏襲しており

(26)

、テキストとしては

不備であると言わざるを得ない。また『北京図書館古籍珍本叢刊』に収載される北京本は、初版本を比較的

忠実に覆刻した再版本ではあるが零本であり、中国国内はもとより海外にまで及ぶ大規模な調査を行ない、

良質の底本を選定したとされる『四庫全書存目叢書』所収本でさえも、底本は三版本C―1である。中国で

61 『仙仏奇踪』の書誌学的研究

62

凡例 ・本図は現存諸本の系統を示すものである。 ・Aは初版本、Bは再版本、Cは三版本を表す。 ・数字は修訂の段階を示す。 ・派生を示す線のうち、二重線  は『仙仏奇踪』以外の本への影響を示す。 ・丸数字は、下記の影印本を示す。 ①『洪氏仙仏奇蹤』(『道蔵精華』第5集之4 自由出版社 1960年) ②『性命真詮語要―長生詮・無生訣』(『中国子学名著集成』第45冊 中国子学名   著集成編印基金会 1978年) ③『長生銓』(『北京図書館古籍珍本叢刊』70 書目文献出版社 1988年) ④『月旦堂仙佛奇蹤合刻』(『中国民間信仰資料彙編』第1輯第8冊 台湾学生書局   1989年) ⑤『仙仏奇蹤』(江蘇広陵古籍刻印社 1993年) ⑥『仙仏奇踪』(『四庫全書存目叢書』子部第247冊 斉魯書社 1995年)

図 11『仙仏奇踪』系統図

(0)

紅葉山本

米沢本

蓬左文庫本

両足院本

京大本

大和文華館本

林家本

毛利本

『芥子園画伝四集』 『列仙伝』 石印本 ⑤?

北京本

(0)

東文研本

復旦大本

町田本

①―②

『続道蔵』 『三才図会』

の『仙仏奇踪』をめぐるこのような影印本の出版状況は、中国には既に初版本の完本が、あまり残っていな

いということを物語っているのかもしれな

一方、日本には紅葉山本をはじめとする数本の初版本が伝存している

(27)

。三版本のある段階で、図に変更が

生じていることから、『仙仏奇踪』と絵画との関係を考察する際、近世初頭の画師に関しては、初版本のう

ち、完本である米沢本、蓬左文庫本、京大本、大和文華館本などを使用すべきであり

(28)

、 

また活躍年代の下る

画師については、版次の下る本を参照した可能性を考慮する必要も生じてくる。図に変更が生じる三版本の

舶載時期については、今のところ前述の『舶載書目』に記録されている正徳二年(一七一二)がひとつの目

安となる。

註(1)洪応明については、酒井忠夫・今井宇三郎「菜根譚の著者について」(『山崎先生退官記念東洋史学論集』

山崎先生退官記念会 一九六七年)参照。

(2)相見香雨「宗達の仙仏画と仙仏奇踪」(『大和文華』八号 一九五二年)

(3)①註(2)相見論文、②小林宏光「鉄斎と『仙仏奇踪』」(『日本歴史』三七六号 一九七九年)、③小林宏

光「明代版画と近世初期絵画」(『国際交流美術史研究会第七回シンポジアム 東洋美術における影響の問題』

国際交流美術史研究会 一九九〇年)、④小林宏光「宗達画と明末版画―『仙仏奇踪』挿絵の利用に関する

二、三の新知見―」(昭和六三年度・平成元年度科学研究費補助金(総合研究A)研究成果報告書『日中美

術の比較研究―八世紀以降の絵画と彫刻を中心に―』

一九九〇年)、⑤五十嵐公一「禅宗祖師・高士図屏

63 『仙仏奇踪』の書誌学的研究

風」解説(「狩野永納」展図録 兵庫県立歴史博物館 一九九九年)

なお以下の諸本は画師の旧蔵書である。大和文華館本(岡本豊彦旧蔵)、町田本(円山応挙旧蔵)、カリフ

ォルニア大学バークレー校東亜図書館本(富岡鉄斎旧蔵)、相見香雨旧蔵本(山本梅逸旧蔵))

(4)瀧本弘之「主要資料解題 ●『明刊仙仏奇踪』『仙仏奇踪』『道光列仙伝』」(『中国歴史人物大図典』〈神

話・伝説編〉遊子館 二〇〇五年)

(5)本稿における版次・印次は、筆者が実見し得た諸本を中心に、現時点において得られた情報によって、暫

定的に判断したものであり、今後さらに異なる版次・印次の本を見出すことによって、本稿での判断が変更

されることは言うまでもない。

(6)紅葉山本と同様の封面をもつ『仙仏奇踪』が日光の天海蔵に所蔵されていることを、堀川貴司氏より御教

示いただいた。この天海蔵本をA―3より前の段階の初版本と見てよいようにも思われるが、後述するA―

1を底本とする再版本も、紅葉山本と同様の封面をもつ可能性がなくはないため、本稿では天海蔵本につい

て封面の種類のみで版次を判断することは差し控える。

(7)厳密に考えるならば、現在封面のない米沢本に、当初どちらの封面が付されていたのかは不明であり、封

面の変更が既に米沢本のA―2の段階で行なわれていた可能性を全く否定することもできない。

(8)この箇所が、文字修正途中の埋め木である点については、信多純一氏より御教示いただいた。

(9)①註(1)酒井・今井論文、②小林宏光「中国人物版画試論 Ⅱ―丁皋編嘉慶版『芥子園画伝・四集』考

―」(『実践女子大 美学美術史学』三号 一九八八年)

(10)今井宇三郎「菜根譚の成書時期について」(『大東文化大学漢学会誌』十四号 一九七五年)

(11)堀川氏によると、天海蔵本の表紙は後補と見られ、その分冊状況は、①「消揺墟」巻一および巻二前半、

64

②「消揺墟」巻二後半および巻三、③「寂光境」巻一および巻二前半、④「寂光境」巻二後半および巻三、

⑤「長生詮」巻一、⑥「無生訣」巻一となっている。また封面は、①に「仙仏奇踪」、③に「消揺墟」、⑤に

「長生詮」が付されており、「寂光境」前半部に「消揺墟」の封面という奇妙な組合せとなっている。

(12)本稿では、本書の題を『仙仏奇踪』としているが、これは封面にのみ用いられている題であり、封面が失

われてしまった場合、この題を知ることはできない。一方、本書はしばしば「長生詮」あるいは「無生訣」

の題で記録されているが、これは最も重視される内題にこの称が記されているためと思われる。

(13)初版本は、本文四周単辺有界八行十八字である。

(14)東文研本と同版と見られる復旦大学図書館本が『四庫全書存目叢書』に影印されている。東文研本と復旦

大本はともに、版面の荒れが著しく、かなり後印であると考えられる。

(15)佐藤義寛「『列仙全伝』研究(一)」(『文芸論叢』五九号 二〇〇二年)。なお佐藤氏は「『列仙全伝』研究

(一)〜(三)」(『文芸論叢』五九、六〇、六二号 二〇〇二〜二〇〇四年)において、『仙仏奇踪』に関す

るいくつかの重要な指摘を為されているが、本稿が三版本とする『四庫全書存目叢書』所収本を初版と見做

し、また石印本の底本となったC―2の存在を想定されないため、諸本の関係について本稿とは異なる見方

をされている。

(16)東文研本の目録では、図と本文が失われた仙人の名前が二段組の下段に掲載されている場合はその部分を

空白とし、上段の場合は下段の仙人名を上段に移すなどの細工が為され、版心においても二箇所で一丁に複

数の丁数を彫って全体の丁数の辻褄をあわせている。なおこの版木の細工の痕跡は、復旦大学本にも同様に

見出される。

(17)註(15)佐藤論文(一)

65 『仙仏奇踪』の書誌学的研究

(18)このほか第五丁と第十五丁は、八字目と九字目の間に断裂があり、上半分の文章が入れ替わっている。

各々の版木が横方向に割れてしまい、それを繋いで刷った際に、入れ替わってしまったのではないかと思わ

れる。

(19)大庭脩『関西大学東西学術研究所資料集刊 七 宮内庁書陵部蔵 舶載書目 附解題』(関西大学東西学

術研究所 一九七二年)

(20)註(9)②小林論文

(21)註(15)佐藤論文(一)において、民国二十年刊行の石印本(佐藤氏はこれを月旦堂本と呼んでいる)の

目録の誤りとして指摘されている。

(22)道光十三年(一八三三)に在茲堂から刊行された『列仙伝』も、『仙仏奇踪』の「消揺墟」および「長生

詮」から本文と図を借用した書物であることが註(9)②論文に指摘されており、この在茲堂本『列仙伝』

も、目録がC―2と同じであること、「長生詮」が「導引法」までで終っていることなどから、『芥子園画伝

四集』同様、C―2を底本としたことがわかる。

(23)『日本書誌学大系 44

蔵書印提要』(青裳堂書店 一九八五年)において、同印が応挙の蔵書印とされて

いることを堀川貴司氏より御教示いただいた。また樋口一貴「円山応挙遺印研究」(『河合正朝教授還暦記念

論文集 日本美術の空間と形式』

河合正朝教授還暦記念論文集刊行会 二〇〇三年)の中で、同印の印影

が平渡緒川『書画鑑定法 印譜落款集 第壱輯』(書画研究会 一九一六年)に掲載されているとの言及が

見られることを佐々木守俊氏より御教示いただいた。なお同印の詳細については、「仙仏奇踪」解説(「中国

憧憬 日本美術の秘密を探れ」展図録 町田市立国際版画美術館 二〇〇七年四月刊行予定)を参照された

い。

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(24)『仙仏奇踪』の影印本としては、図11にあげた六点がある。①は註(25)にあげた石印本の影印。②は①

の「長生詮」「無生訣」のみを影印したもの。③は北京本の影印。④は石印本の影印に加え、『続道蔵』所収

の三篇を補遺として巻末に載せている。⑤は筆者未見ではあるが、所蔵先の九州大学附属図書館ホームペー

ジ蔵書検索での書誌情報に、「月旦堂刻本の影印」とあることから、C―2の影印かと思われる。⑥は復旦

大本の影印である。

(25)陶湘編『喜咏軒叢書 戊編』(一九三一年)

(26)石印本は基本的にC―2の誤脱を踏襲してはいるが、註(18)に記したC―2「無生訣」の第五丁と第十

五丁の版木上下の入れ替わりによる誤りについては、可能な限り修正を加えている。

(27)この他にも記録から、寛永寺(「東叡山本坊文庫惣目録」『寛永寺及び子院所蔵文化財総合調査報告(上)

―石造遺物・聖教典籍編―』〈東京都教育庁生涯学習部文化課 一九九九年〉所収)、彰考館(『彰考館図書

目録』

八潮書店 一九七七年)などに、かつて『仙仏奇踪』が所蔵されていたことが知られる。

また大庭脩氏の研究を参照すると、中国からの舶載書の記録中に、寛永十九年(一六四二)「仙仏奇踪五本」、

元禄十三年(一七〇〇)「長生詮 一部二本」、「無生訣 一部二本」、正徳二年(一七一二)「仙仏奇踪 四

本八巻」、「仙仏奇踪 一部一套」、正徳四年(一七一四)「仙仏奇踪四部」、宝暦九年(一七五九)「仙仏奇踪

十部十套

」といった『仙仏奇踪』将来の記事が散見され、日本での需要に応えて『仙仏奇踪』が舶載されていた様

子を窺い知ることができる。大庭脩『関西大学東西学術研究所研究叢刊 一 江戸時代における唐船持渡書

の研究』(関西大学東西学術研究所 一九六七年)、大庭脩「東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録」(『関西大

学東西学術研究所紀要』三号 一九七〇年)、註(19)書。なおこれに関連して、小林宏光氏は、宝暦九年

の「外船齎来書目」の記載から、『仙仏奇踪』が『芥子園画伝』『十竹斎書画譜』とともに、「画譜三点セッ

67 『仙仏奇踪』の書誌学的研究

トとして受け取られた可能性」を指摘されている。小林宏光「中国画譜の舶載、翻刻と和製画譜の誕生」

(『開館三周年記念 近世日本絵画と画譜・絵手本展〈Ⅱ〉―名画を生んだ版画』

町田市立国際版画美術館

一九九〇年)。

(28)図6に示した修訂の跡からわかるように、初版本の中でも、A―2、3の諸本は、一度校正を経ていると

見られ、より早印のA―1以前の本よりも、本文として優れていると言うことができよう。

﹇付記﹈『仙仏奇踪』諸本の調査・撮影および写真掲載にご高配を賜った所蔵先の関係者各位に厚く御礼申し上

げる。

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