ひら 三へ 周幽の褒似 『列女侍』撃嬰侍注釈及び解 …...『列女悼』...

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#. u & iii一二 1 3 1 『列女侍』撃 三へ 周幽の褒似 9 . . . . . . : 褒姐は'童妾の女にして'周幽王の后なり。初め あわおさめお ひて日く'余は褒の二君なりと。夏后 之を殺すと去る -するに'吉なり。及ち幣を布く。竜 忽ち見えず'而 ひら 敢て発くこと美し。周の屑王の末に及びて'発きて之を観る きわ くろいもり て之に謀が便むるに'化して玄坑と為りて後宮に入免官の童妾未 時に当たりて産む。夫無くして乳するなれば'憐れて之を棄つ。是より 亡ぼさんと。宝玉 之を聞く。後へ人 夫妻にして療孤箕服の器を売 妻夜逃れるに,童妾の女の棄に遭ひて夜号するを開く。哀みて之を取」遂に あほ.= C*-O 獄有り.之を献じて以て購ふ。幽壬 受けて之を嬰Lへ遂に褒絢を釈す。故に を生む。幽王乃ち后申侯の女を廃して'褒姐を立てて后と為す。太子宜白を廃 褒姐に惑ひて'出入するに之と同乗す。国事を粗へず、駆馳・43猟 時せずへ以て つ㊥ 侶優前に在り'夜を以て昼に統ぐ。褒姐 笑はず。幽王乃ち其の笑はんことを欲して万端

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盟読解び#.

釈注俸u&iii一二侍女131『

『列女侍』撃嬰侍注釈及び解説⇔

下  見  隆  雄

三へ 周幽の褒似

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9

 

 

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:

褒姐は'童妾の女にして'周幽王の后なり。初めへ夏の哀ふるや'褒人の神 化して二竜と為り'王庭に同りて言

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひて日く'余は褒の二君なりと。夏后 之を殺すと去るとを卜するにへまなる美し.其の産を請ひて之を蔵くことを

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

-するに'吉なり。及ち幣を布く。竜 忽ち見えず'而して欝を構中に蔵く。及ち之を郊に置く。周に至るまで之を

ひら

敢て発くこと美し。周の屑王の末に及びて'発きて之を観る。資 庭に流れて除-べからず。王 婦人をして裸にし

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

て之に謀が便むるに'化して玄坑と為りて後宮に入免官の童妾未だ穀せずして之に遭ひて既に算して苧み'宜王の

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時に当たりて産む。夫無くして乳するなれば'憐れて之を棄つ。是より先へ童謡有りて日ふう嘆孤箕服 寛に周国を

亡ぼさんと。宝玉 之を聞く。後へ人 夫妻にして療孤箕服の器を売る老有り。王 執へて之を致せ使めんとす。夫

妻夜逃れるに,童妾の女の棄に遭ひて夜号するを開く。哀みて之を取」遂に嚢に窟る。長じて美好な。。褒人的

あほ.=         喰          C*-O

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

獄有り.之を献じて以て購ふ。幽壬 受けて之を嬰Lへ遂に褒絢を釈す。故に号して褒旭と日ふ。既にして子 伯服

を生む。幽王乃ち后申侯の女を廃して'褒姐を立てて后と為す。太子宜白を廃して'伯服を立てて太子と為す。幽王

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

褒姐に惑ひて'出入するに之と同乗す。国事を粗へず、駆馳・43猟 時せずへ以て褒旭の意に適ふ.飲食流滴に.して

つ㊥

侶優前に在り'夜を以て昼に統ぐ。褒姐 笑はず。幽王乃ち其の笑はんことを欲して万端すれども、故より笑はず。

z読解び及釈注悼m翠』悼女列『

幽王 埴爆・大鼓を為り'冠至る有るとき則ち挙ぐ。諸侯悉-至れども冠無し.褒似乃ち大いに笑ふ。幽王 之を悦

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ばしめんと欲して'数 為めに燐火を挙ぐ。其の後信あらず'諸侯至らず。忠諌する者は諌せられ'唯 褒姐の一言に

⑳                               ⑳                    め

走れ従ふ。上下相ひ訣ひ'百姓蔀き離る。申侯乃ち紛・西夷・犬戎と共に幽王を攻む。幽王 焼健を挙げて兵を徹す

 

 

 

 

 

 

も至るもの美し。遂に幽王を鷹山の下に殺しへ 褒姐を虜にして'周の路を尽く取りて去る0是に於いて諸侯乃ち申侯

 

 

 

 

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Z

に即きて共に故太子宜臼を立つ。是を平王と為す。是よりの後へ周 諸侯と異なる無し。詩に日-'赫赫たる宗周へ

褒姐 之を滅ぼすと。此の謂な-。

ォHH

項に日-'褒神 竜に変じへ 寛に褒旭を生む.興こりて幽王に配ひ'后太子を廃す。櫨を挙げて兵を致すに'冠の

至らざるを笑ふ。申侯 周を伐ちて'果たして其の把を滅す。

〔注〕

①『史記』周本紀の 「索隠」 によれば'「褒'国名へ夏同姓へ姓姐氏'礼へ婦人称国及姓へ其女是竜喪妖子へ為人所収へ褒人納之干

王へ故日褒触'」とある。

②『国語』鄭語の葦昭注によれば「褒人'褒君」とある。これ以下の話は『園語』鄭語や『史記』周本紀に見える。『国語』では'史

伯が宜王の弟桓公に'「訓語に之れ有り'」として語った話としへ『史記』では'周太史伯陽が「史記を読みて日く'」とする。

③『闘語』は「夏后氏卜殺之与去之与止之」に作りへ『史記』は「夏帝卜」以下『閲語』に同じである。梁注は 『漢書』五行志下之

上にも'「瀞之去之止之」とあるのによりへ ここには脱文があろうとしている。典拠を重視する立場からは当然の見解ではあるが'

『列女俸』そのものに脱文ありと断ずる根拠とはなし難い。むしろ著者自身の判断で削除したと考えるべきではあるまいか、なお

『漢書』にはへこの謡の後に『列女停』と同じ詩を引用した後へ「劉向以為へ 夏后季世へ 周之幽贋へ皆辞乱逆天'故有竜薗之怪へ

近竜蛇撃也へ衆血也t l日抹也'脆弧桑弓也'美服'蓋以薬草為箭服へ近射妖也'女童謡者へ 禍将生於女へ 国以兵窟亡也'」とあ

る。竜

が現われたこと'これを殺すか去るかを卜したということ等も含埼て'竜が言葉をはいたという話は'ただ単に作り話として

軽視するには心残りのする興味深い内容である。『史記合注考謹』の様に 「神竜何以能人言」と処理するならそれまでであるが'

」読解び及釈注俸隻壁iiil俸蝣^

列【HH=

何か歴史的背景を持った事実がへこの様な説話を通して語られているのだと考えることはできまいか'それが何であるかをつきと

める資料も充分ではないし,この様な説話の処置については慎重さが必要であるので、安易な指摘はさけるべきであるが'竜の出

現と后夏のこれに対する対応の1事についてはへ私なりに想像を巡らしてみたい.夏の孔甲の時へ天が二竜を降し'劉累(御龍氏)

という者に養わせたが,後に雌竜が死んだのを夏后に食はせたところへまた食べたいと云ったので'劉累は恐れて魯に遷去したと

いう話が,『左俸』昭公二十九年や『史記』夏本紀に見えている。即ち『左俸』には'菓基の語った謡として'「及有夏'孔甲擾干

有帝,帝賜之乗竜,河漠各二へ各有雌雄へ孔甲不能食而未獲余韻氏へ有陶唐氏既衰'其後看劉累'学擾竜干蒙龍氏へ以事孔甲'能

飲食之,夏后嘉之,賜氏日御龍,以更璽卑之後へ竜l雌死へ滑髄以食夏后へ夏后饗之へ既両便求之へ憾而道子魯県へ花氏其後也へ」

とある。これ自体が超現実的な話で、この資料1つで『国語』の龍の説話が意味する歴史的事実をつきとめたことにはなりかねる

が,この説話が孔甲の時代のなんらかの歴史的事実に基づいて形成された説話であることは想像されて良いだろう。そして更に孔

甲の時代における政治の混乱と王朝の衰微を語るこの竜の説話に'他の要素が加えられて'褒姐の説話の前半が形造られたと仮定

してみることは許されるのではあるまいかへ『史記』封辞書に'「至帝孔甲へ控徳好神へ神酒へ二竜去之'」とありへ如淳は「璽gll

竜溌干夏庭是也」と云って'『国語』鄭語の説話と『左侍』のこの説話との関連性を明確に指摘している。以上へ褒敗の説話にお

ける,竜が夏の王庭に出現したという話は'同様に夏王朝の衰退を暗示した夏の孔甲の時の竜の説話を淵源とするものであろう。

そして恐らく夏后とは孔甲を指していると考えて良いであろう。しかしそれはともか-として'褒姐の説話に持ち込まれたこの竜

の話には他の様々なモチーフが混入されへ褒姐出生の妖異を語る役目を持っている。従ってへ例えば竜が褒人の神であるとかへ竜

が語ったとかいう様な設定は,褒姐説話独自のqJチーフであって'これらが孔甲の時代のなんらかの歴史的事実と係わりを持つと

考えることはできないであろう.次に褒姐説話における様々の設定が物語全体とどう関連するものか考えてみる。先ずへ夏后時代

の不思議な竜出現に続いて,後に出てくる竜の祭や'これが婦女に接して厩となりへ後宮の童女に卒ませるという様な褒似出生に

まつわる異様な設定は,即ち褒姐自身が持つ異様な性格と悲劇的な宿命とを語る伏線なのであろう。次にへこういう異常な生まれ

方をした子が,捨てられ拾われて人手に移りへまた国の都合で人身御供として愚王に供与されるという様なへ披潤に富んだ成長を

するという前半生の設定は,特別に演出された異常な場面に臨まなければ'笑うことも喜ぶこともできない褒姐の悲劇的な性格が

形成される過程を説明するものであろう。以上へ竜出現以下の様々の奇怪な場面の設定は'すべて褒姐の異常な出生とその性格の

形成過程を説明するためのものと見て良いであろう。前世の妖異なる影響力に依って出生Lへ人間的な愛情から疎外された環境の

中で成長した,この褒姐の様な女性の持つ複雑な性格や妖し-燃え拡がる冷酷な情炎を'幽壬の如き凡庸な君主の男性エネルギー

a,

読解び及釈注俸隻壁』悼女刺7川1

が'やわらげたり阻止したりできるわけはない。幽王の地位と弱い意志とせとり込んだ褒姐の激しい悪魔的な情炎は'自らと国を

焼き尽-きなければおさまらない。この物語では'女性主人公の悪は彼女の意志を越えた様々な力に依って形成・拡大される。

又へ女性主人公の出生と成長環境が語られるのは'他の伝とは異なる特色である。劉向の意図がいずこに在るか軽々しく断定はで

きないが'読者には'幽王の男性・帝王としての愚凡さ弱さが印象的に伝わってくるo従ってへ褒奴の魔性の現実的芽生えと拡大

を煽る役割しかできない幽王の姿が明確に浮かびあがるに対して'哀れな生れと育ちの褒敗は'むしろ悲劇の主人公という印象が

強-なっている。恐ら-劉向は'ここでも女性エネルギーを受け止埼る男性の力と自覚に深い関心を抱いていたのではなかろう

か。なべて撃嬰侍では'帝王権力を侵害・破滅せし埼る女性の悪を主題としながらへ最終的には'これを受け止める男性・帝王に

重大な責任が在ることを暗に説いていると思われるものが多い。政治権力の最高責任者としての帝王がへその責任と自覚の薄弱な

ままに強烈な女性を受け容れると'権力の舞台で異常に奔放に増勢する女性hネルギ-は'想像を絶した様々の悪を生み育くんで'

終には男性を食い尽-し権力の世界を廃櫨にしてしてうO『漢書』の劉向の伝にも'「通衛之属起徴機へ 臓礼制へ」とある如くへ劉

向の憂慮するところの1つは'帝王の権力によって調和・安定するべき政治の世界の機構が'女性エネルギーの蔓延によって侵蝕

される姿であった。朝廷を衰退に導-危険性のある様々な事件や政争の原田の7つに'女性エネルギー伸長の延長線上にある外戚

の活動があったことは'ひとりこの時代のみならずへ貌こそ様々でも'歴代王朝が等しく抱えた問題であった。劉向は儒教による劉

氏政権の安定を求冷たのであるから'儒教による婦道の確立ということが『列女博』述作の目的であったことは云うまでもない.

「母儀」より「塀通」までの各停は'その婦道を個別的にまとめて積極的に説いたものである。ところがこの「撃嬰」では'理想

的な婦道の逆の面をとらえている。前の各停が女性に対する教化の意図を多分に含むに対して'後者では'男性によって推進せし

められる権力の世界ではうともすれば軽視されてしまう女性ユネルギIの脅威に焦点を絞りへ女性に対してよりも'むしろ積極的

に男性・帝王に対して警告・訓戒を発している。時の帝王への警告こそがこの「撃嬰俸」の意図するところであったと思われる。

中でもこの褒姐伝では'伝説的な要素を加味しっつ'幽王の帝王としての無能ぶりを浮かびあがらせて'時の帝王への警告の意図

が'間接的な形式をとってはいるが'明瞭に読み取れるのであるO

なおへ出石誠彦氏『支那神話伝説の研究』や御手洗勝先生「解成伝説の整理」などに'褒敗伝説や夏后氏竜の伝説に言及されて

いる。

④喪についてへ『図語』毒性は「竜所吐決へ竜之精気也」として③に見える如く劉向は「溌血也'l自決也」とする。『漢書』注には'

「鷹効目へ蕉抹也、鄭氏日へ東音牛齢之齢へ」とあるo穀が不吉なら'「血」と解するのは妥当とは云えまい。

⇔読解び及釈注鰭&蝣

翠Bii]悼女列『

『国語』は「ト諸共喪而蔵之書」に作り,「而」の位置が異なる。『史記』も「-諸共溌而蔵之'乃至に作る。『漢書』は『史

記』に同じである。『列女侍』が誤倒したと見るべきではあるまいか。「而」は「乃」と同じはたらきもすることを考慮するなら'

あるいは脱落とすべきかも知れない。(原文は「卜諸共溌蔵之而曽」に作る)

⑤原文は「乃布幣蔦」であるが,『国語』には,「乃布幣蔦而策告之」とあり,葦注は「布陳也へ幣玉岳也へ陳其玉重以簡策之董口

竜而諦其溌」という。『史記』は「於是布幣而策告之」に作る。『漢書』は「於是布幣へ策告之、」に作りへ師古住に「負幣為礼、

読策辞而告之へ説老以為策老精米へ蓋失之臭へ」とある。叙述上からも'「策告之」がないのは穏当ではない。

⑥原文は「竜忽不見而蔵費慎中乃直之郊」となっているが,『翌的』では「竜亡而衆在へ構而蔵之へ伝郊之へ」に作りへ『史記』は「蔵」

を「去」に作り,「伝郊之」のl句がない.『漢書』は「竜亡両虎在へ乃匝去之」に作る。各々の叙述のしかたが少しずつ異なって

いるo毒性には「憤梧也,伝祭於郊」とあり,師古注は「匝置也へ去醇也」という。『列女俸』の表現の方が明確である。

⑦原文は「王使婦人,裸而謹之,化為玄航」となっているが,『空間』は'「王使婦人へ不障而諜之へ化玄感へ」に作りへ葦注に「裳

正幅自陣,諒誰呼也,」とある.董増齢『璽毘義』は,「樟指衣言,非指裳言」とする。『史記』には「屑壬使婦人へ裸而諌之へ

葎化為玄意」とある。『漢書』五行志下之上は'「裸」を「蘇」に作る。なおへここの王注には「裸・去裳」というO

「謹」についてへ『史記』集解は葦注をあげて更にへ「唐回目へ畢呼日課」という。

「航」について,『閲語』以下みな「雇」に作る。『望巴葦注は「雇,或為転へ転へ断腸也へ象竜へ」とあるが'『漢書』注引で

は葦注を「玄,窯,雇,折遺也,」とし師古は「惑,似態而大,非蛇及聾場」と云っている。しかし『史記』索隠にも「亦作転へ

玄輿折遺」と云うように,折歳と解して良かろう。ただこれがいもりへとかげヘヤもりのいずれであるか決め難いがへ『説文』航

字に,「栄転・宅医以注鳴者」とあり,段注は,「史記竜教化為玄頃以大王後宮'是也。方言日へ其在沢中老へ謂之易喝南楚謂

之蛇医云々,」とあるから,いもり と考えるべきであろうか。ただこれらは地方・時代によって様々に称ばれたのが実状であっ

て,文字だけをとらえて厳密な区別をつけて限定することは困難である。『本草』守宮には「輔場亦名守宮殊難分別」とありへ『博

物志』巻二には,「抑揚或名姫輿以器義之,食以来砂,播尽赤,所食満七斤へ治橋万杵へ点女人支体へ終年不滅へ惟房事則減へ

故号守宮,」というO『漢書』東方朔伝に,「置守宮題下,射之,皆不能中へ・-‥是非守宮即断暢」とありへ師古住に'「守宮、島名

也,術家云,以器義之-・・・以点女人体,終身不滅r若有房室之事,則滅奥へ言可以防閑淫逸'故謂之守宮也」と云いう又『爾雅』

の「蝶蛎・輔暢・姫艇・守宮,是則遠耳,」を引いている。『博物志』や師古住に指摘する様な漢代の俗信と'『列女博』のこの脱

が'竜の化身であることを考慮に入れるならへ竜と水との関連から'いもりを連想するのが妥当であろう。

s読解び^釈注侍壁ul悼女SI

iE

流れ出た竜東とこれにたわむれる裸女へさらにはこの祭が玄甑に変ずるという設定と'下文の宮中の童女に率ませるという場面

の設定とは'褒姐生誕にふさわしい'幻想的で異様な津磨きが漂う一節である.なおこれが腐王の時代にあてられたことについて

はへ『史記』周本紀に'「王行暴虐移願へ国人讃王」(『図譜』用語上に'「腐王虐'国人誘王」)という伝承があるうえへ魯詩説には

更にへ次の様な伝承があった。即ちへ『漢書』谷永停(列俸五十五)に'「昔褒触用国へ宗周以東'閣妻喝属へ 目以不滅」とあり'

師古住に'「魯詩小雅十月之交篇日へ此日而食へ 干何不滅へ又日へ闇妻扇方虞へ 言屑王無道へ 内寵俄盛へ 政化失理云々」という0

「十月之交」篇を『毛詩』は幽王を剃る詩としているが'鄭筆は「贋王控於色云々」としへ魯詩説に従って贋王を剃った詩と考え

ている。なおへ『御覧』巻八十五引『帝王世紀』には'「腐王荒沈於酒へ淫干婦人」と見えている。

㊥原文は「未穀而遭之」となっているが'『図譜』では'「未既批而遭之」となっておりへ 『史記』では「既駄而遭乏しとなっている。

毒注には'「穀歯日配へ-女七才而穀歯」とある。『国語』の記載に従うのが妥当と思われる。それにしても『史記』にも本来「末」

字が有ったと考えるべきではたかろうか。『史記合注考謹』は'「未」の存する写本が有ることを指摘している.『列女侍』のこ1は

「未穀」としているが'梁注の指摘する様にへ「未穀歯」とすべきではなかろうか。

『韓詩外俸』巻一に'「女七月生歯へ七歳而配へ十四而精化小通へ」とある.『大戴薩』本命籍に'「女七月生歯へ七歳両翼 二七

十四へ然後其化成へ」とある。『白虎通』巻九線繁忙へ「女七歳穀歯へ-・‥陰数偶再へ成十四へ 四加1為五'故十五許嫁也へ」という。

なおへ『説苑』排物にも'「女七月両生歯へ七歳而穀歯へ 二七十四両精化小通へ」とある。

㊥『国語』葦注に'「女十五両芹へ」とある。『鰻記』内則に'「女千-=十有五年而昇へ 二十而嫁へ」という.

⑲『史記合往考謹』によれば'「陳仁錫日'幽王三年へ要褒姐へ若以其年為二十歳へ 則褒触生へ在宣王三十年也へ自宜王三十年上距

贋王未年へ凡四十六年へ時童妾方七歳而配へ後共和時及算而卒へ争後尚四十余年へ 乃生褒姐へ 其妖異へ 或未可尽信へ」とあるが'

むしろこの妖異さこそが褒姐説話のねらいであることに目を止拘るべきであろう。

㊥原文は'「無夫而乳」とあるが'『国語』は'「不夫而育」へ『史記』は'「無夫両生子」となっている。ただし『図語』ではこのあた

りの叙述が多少異なりへ次の童謡と棄子が拾われる話は'夏末の竜の話の前に置かれ'「府之小妾へ生女而非王子也'健而棄之へ」

の一文が見える。『列女俸』は『国語』の叙述を組み変えた『史記』の記載に従ったものと思われるO

⑳『史記』では'「宜王之時へ童女謡日へ歴弧箕服'実亡周国」とある。「童女」とある方が'童妾との関連からしても'褒姐説話の

道具だてとしてふさわしいと思われるが'『列女停』では「童謡」になっている。尚このあたりへ『国語』では'「且宣王之時有童

謡へ日へ願弧箕服へ実亡周回へ」としている。

自読解び及釈注悼壁壁削りl悼女刺『

毒性によれば厩は山桑、箕は木の名へ服は矢服である。『洪事』五行志下之上では'「挺弧美服」に作と師古住に'「輿山桑

之有点文老也,木弓日弧,服,盛箭者,即今之歩叉也。真へ草へ似荻而細へ織之為服也へ」と云う。董増齢(『望畏義』)は'「班

氏所見之国語へ仇相鉄共へ而葦注臥竹臥共へ則此字訳干漢末也」と云うO

㊥原文は「閉塞妾連発而夜号,哀而取之,」とあるが'『史記』では'「於道而見郷老後宮童妾所弄妖子'出於路者へ聞其夜噂へ哀而

収之,」とする。発注は「妾」の下に「之女」の二字が脱しているだろうと云うが'もっともである。なお『空相』には'「夫婦哀

其夜号也へ 而取之」とある。

⑭「褒人的」は『璽巴葦注は「褒人褒君的也」という。なお「晋語」一には'「周幽王伐有褒'有褒人以褒姐女鳶へ褒似有寵生伯

脂,於是乎与鶴石甫比,逐太子宜谷,而立伯服,太子奔申,中人肘人召西戎へ以伐周へ周於是乎亡」とある。なお前注①を参照O

㊥『史記』には'「弄女子出於褒'是為褒娘へ」とある。

⑲『望巴晋語によれば,太子の廃立には我石甫があずかっている。前任⑭参照。また『史記』周本紀もへこのあたりの事情につい

て,「幽王以我石父為卿用事,国人皆怨,石父為人俵巧善談へ好利へ王用之へ又廃申后去太子也へ申侯窓へ与厨・西夷・犬戎攻幽

王'」と述べる。

㊥幽王が褒姐に惑溺し,飲酒歓楽する具体的な様子についてはへ『竪琴『史記』ともに記さない。これは筆者の創意であろうか.

恐らく,架・紺の場合,女色に溺れての国事放郷と放蕩歓楽とを亡国の理由として記述したことの印象が強-残ったためか'又は

次の「褒姐不笑」に対する幽王の力の尽くし方を説明しようとしたのであろうが'かえって蛇足となった感もある。また嘉へ筆

者の側には,女色に溺れた亡国の王についての物語として類型化する意図があることも見逃がせない。「統」字「四部叢刊」本は

「継」に作る。なお,「流滴」kLついてへ発注は「流l本作沈」という。

⑱褒姐に魅入られた幽王が'遂に破滅する。褒姐を溺愛する幽王は'なんとか彼女からの愛の証しを得んと専心努力して'そのため

に自己破滅に至る国権乱用と引き替えにやっと彼女の笑みをさそい出すことができる。ところで『国語』では'褒姐の笑いを見た

いがために幽王が諸侯をだましたこれらの話はない。『呂氏春秋』疑似篇には'「周宅鄭鏑近戎人へ与諸侯約へ為高森蕗於王路'置

鼓其上,遠近相聞,即戎電至,伝鼓相告へ諸侯之兵皆至へ救天子へ戎完当至へ幽王撃鼓へ諸侯之兵皆至へ褒姐大説喜之へ幽王欲褒

旭之笑也,因数撃鼓,諸侯之兵数至而無電'至於後戎冠真至へ幽王撃鼓へ諸侯兵不至へ幽王之身へ乃死於魂山之下へ為天下笑」と

ある。これによると褒姐は,諸侯がだまされたことに対してではなく撃鼓によって諸侯がこぞって走せ参じたのをよろこび笑っ

たことになる。撃鼓を竃の合図と思って集まった様子を笑ったようになっているのは『史記』周本紀である。

⇔読解び及釈注俸&/,MA侍女列je

「焼爆大鼓」についてへ王注は「燈'煙火也へ夜日焼へ童口癖へ皆置亭障'候敵以告警'大鼓聾聞数百里へ」と説明する。欧楯芳

『列女俸校詮』(『文史哲畢報第十八期)は'『後漢書光武帝紀(巻l下.建武十二年)の「大将軍杜茂屯北辺へ 築亭侯へ 修蜂煙」

の李賢注を引用する.即ち「前書音義日'辺方備警急へ作高土台へ台上作桔寒へ桔皐頭上有兜零へ以薪草置其中へ常低之へ有憲へ

即燃火挙之以相告へ--昼則熔健へ夜酒挙蜂云々」とある。

⑩忠魂する者が訣せられ'民心離反するに至る説明は『国語』・『史記』に見え聖これもやはりへ前の突・附の亡国物語と同一類型

にあてはめようとした筆者の意図のうかがえる個所である。

㊨『史記』では'前注⑲に示したように'申后を廃し太子を去ったことに対して'申侯が怒ったとしている。『園語』にも'「史伯日へ

-・・・申紛西戎方強'王室方騒'将以縦欲へ不亦難乎'王欲瀞太子へ以成伯服へ必求之串へ中人弗昇へ必伐之へ若伐申而給与西戎会

与伐周へ周不守央'」とありへ『史記』はこれをまとめたものと思われる。『竹書紀年』幽王三年に'「王襲褒姐」.五年に'「王世子

宜臼出奔申」〇八年に'「王立褒触之子へ日伯服へ為太子」。九年に'「申侯聴西戎及那」。十年に'「王師伐申」と連なっている。『刺

女俸』では幽王の褒敗への惑溺に焦点を絞りすぎたためへ申侯との関わりは省略してしまったのである。この点『史記』のまと埠

の方が面白い。

㊧『竹書紀年』によると'幽三十l年に'「中人部人及犬戎入宗周へ斌王及鄭桓公へ犬戎瀞王子伯服へ執褒姐以帰へ」とある。

⑳『毛詩』巻十二・小雅・節南山・正月には'「赫赫宗周へ褒秋成之'」とある。『詩三家義集疏』巻十七注に「魯'威作滅」とありへ

疏に'『漢書』五行志(下之上)に「褒姐威之」とあるを指して「出奔文」という。また『列女俸』・『楚鮮』天間章に見える褒敗の

事(妖夫曳荷へ何号干市へ周幽誰誌へ蔦待夫褒姐へ)なども同じく魯詩に本づくものであろう。『呂覚』疑似篇の高注も詩を引いて

「褒触滅之」としておりへ魯詩は「威」を「減」に作っていたことがわかるとしている。

四へ 衛 宜 公 妻

宣妻は'斉侯の女にして'街宣公の夫人なり。初めへ宣公夫大東妾 俊子を生む。以て太子と為す。又、斉に要る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

て宣妻と日ふ。寿及び朔を生む。夷妻既に死して、宜要 素を立てんと欲す。乃ち詩の弟朔と謀りて'俊子を構む。

 

 

 

 

 

 

 

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公 俊子をして斉に之か便む。宣妾乃ち陰かに力士をして之を界上に待ちて之を殺さ便めんとす。日工 四馬白旗の

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至る老有れば必ず要りて之を殺せと。寿 之を聞きて以て太子に告げて白く'太子其れ之を避けよと。俊子日く'不

⇔読解び及釈注俸質壁ii]侍女列i

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可なり。乗れ父の命を棄つれば則ち瓢がぞ子たるを用ひんやとO轟 太子の必ず行-を度か-、乃ち太子と飲みて,

めざ

之が旗を奪ひて行-。盗 之を殺す。俊子醒めて'旗を求むれども得ず。遥かに往きて之を迫ふに'毒己に死す。依

子 詩の己の為めに死するを痛みへ⑳

請ふ我を殺せと。盗 又之を殺す。

 

 

 

 

 

 

 

寛に終に後無-'乱 五世に及びて

乃ち盗に謂ひて日-。殺さんと欲せし所の者は乃ち我なり。此れ何の罪かあらん。

二子既に死す。朔 遂に立ちて太子と為る。宜公轟ず。朔立つ。走れ恵公と為す。

'戴公に至りへ而る後宵かなり。詩に云ふ。乃ちかくの如き人へ徳音良無しと。

此の謂なり。

項に日く。衛の宜妾へ太子を危-せんことを謀る。子詩聖止てんと欲して'陰かに力士を設-。寿乃ち供に死して'

衛果たして危殆なり。五世宵かならず'乱 妻に由りて起こる。

回m

①『集注』は「案へ不用左俸説」とする。『左俸』桓公十六年に見える説話に依れば'「初へ衛宜公爵於夷着生急子へ属諸右公子'為

之竪於酋而美へ公取之へ生書及朔'属毒於左公子へ夷妻紅へ宜妻与公子朔構急子へ公使諸再へ使盗待諸事将殺之へ寿子告之'使行へ

不可へ日へ嚢父之命へ悪用子臭へ有無父之国則可也へ及行飲以酒へ寿子載其旋以先へ盗殺之へ急子至日へ我之求也へ此何罪'請殺

我乎、又殺之へ二公子故怨恵公へ十一月へ左公子洩・右公子職立公子監牟'藩公奔斉へ」とある。説話中における人物設定は'微妙

に異なる。宜公と夷妻の関係についても『左俸』では'庶母(杜注)たる夷妻に桑(杜注へ上淫日系)した結果急子が生まれたこと

になっているが'『列女博』では'夷妻は宣公夫人として俊子を生んだことになっている.以下『左博』は'急子のために斉から

迎えた女を自らのものとしへ毒と朔の二子が生まれる。l方へ夷要は縫死する。重要は公子朔とぐるになって急子を寧日したので'

宜公は急子を斉へ優に出して'盗人に承させようとする。これに対して『列女俸』では'宣公は夷妻より生まれた俊子を太子としへ

さらに賓から宜妻を撃る。夷妻が死んで'毒を太子にしょうと望む宜要はへ朔と共謀して扱子を構む。(『左俸』では'「構」は杜

注のように「構会其過悪」ととれるが'『列女俸』では'以下に統-文から見てへ二人が俊子をし-みおとし入れる意味に用いて

いる様に思われる。)宣公が俊子を斉に使させる機会に乗じて'『左俸』のように宜公でな-宜妻自らが陰かに力士に命じて政子を

穀させようとする。『左俸』では'宜公の淫を強調しっつ'宜妻は陰であやつって宜公をそそのかし'父による子殺しをさせるこ

0

忠読解び及釈琵s壁翠iil鰭女列『

とになっているが'『列女俸』では'犯行の主体はむしろ宜妻の方に置かれ'宜公の悪役ぶりはむしろ影が薄-なっている。悪女

の説話としてまとめあげようとした筆者の意図がうかがえるが'『左俸』の人物設定の方が人間の愛憎を生々と伝えている様に思

う。この点へ『左俸』の描写の不足を補って'独特のまとめ方をした『史記』衛世家の方がはるかに面白い。ただへ『史記』では夷

蓑は宝公夫人であり'仮は太子という設定になっている。以下『史記』の特徴をあげると'夷要は『左俸』の様に「絵」でな-へ

ただ「死」とされ。宜公正夫人(恐らく畳蓑)が朔と共に級を議悪するOこれに対して'宜公は太子の妻を奪ったうしろめたきか

ら'逆に太子を悪み'これを廃しょうと思っていたので'仮への悪口を信用して大いに怒りへ太子を賓に使させて盗人に命じてこ

れを殺させようとする。

以上『列女俸』が『左俸』に比べて異なる部分のほとんどは'『史記』によって改変されたものに依っていることがわかるが'宣

妻自身が人を使って仮を殺させようと謀った条は'『左俸』・『史記』にはなかったかたちである。また『列女侍』の作者は'恐ら

く宜蓑を悪役として強調する様な人物設定にするためにへ説話の単純化をはかりへ宜王が仮の妻になるべきであった宣妻を横取り

したことや'宜公が自らの行為を恥じて'逆に仮を悪む様になるストーリーの展開の部分を除去してしまったのであろう。なお蛇

足ながらへ『左俸』疏は'夷蓑を「夫人」としている『史記』を「謬れるのみ」と断じているが'司馬遷は'そんなことは百も承

知の上で改めたのだと見るが妥当であって'「謬」との断辞は左停学者の独断にすぎない。

はじめに'『集注』が'左俸説を用いていないと指摘していることをあげたが'『列女俸』作者は'『左俸』の説話を独特のかた

ちにまとめた『史記』の記述に従いつつへ更にへ自らの立場に立って宜妻説話を再構成したものと考えるべきであろう.

②この宜妻の言葉は'『左俸』には見えず'『史記』では宜公の言葉となっている。なお『新序』節士篇では「要而殺之」となってい

5S

王注は『詩経』廊風の干族より、「ます干族へ在汝之邦へ素林批之へ良馬四之も彼妹老子へ何以昇之」を引いてへ この詩はこの説

話をもとに作られたものであろうとして'「必用施者へ取易於識別也へ以詩言素林へ故知為白旗也へ汝へ衛之界上邑'妻便力士待俊

之地也へ妹忠順貌'妹子謂俊子也へ界与也へ言彼四馬自施、忠順之子へ何故以此与之へ深痛惜之辞也へ此蓋出於魯詩之説へ而劉氏

述之へ 与毛詩異也へ 其叙夷妻宜妻へ与左俸又異へ 蓋皆本於魯詩耳」と云う。因みに『毛詩』では干族の詩についてへ「干施、美好

善也へ衛文公臣子多好善へ賢者楽告以善道也」とある。王説の如く「干施」の詩の背景としてこの伝の話が存在したと考えへ更に

これを魯詩説に結び付けるには問題があろう。『詩三家義集疏』巻三は'『列女俸』都孟画母伝(母儀) に'『詩』を引用して'「彼

妹老子t.何以告之へ此之謂也へ」とあるを指摘し'『韓詩外俸』巻二の「楚荘王国宋」に引用する同じ詩句や『左俸』定九・『家語』

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読解び及釈」U悼要壁i

i]侍女列『

好生篇等に引用する詩句の意に'特に毛侍と異なる説はないとしている。王説は'類似の文字や固有名詞のl敦などをもとに考え

ついた単なる想像であるとしか評価できない。

⑧この仮の言葉の「不可」は'『左侍』(前注①)では'「素子昔之、使行へ不可」となっている。『史記』では'「(慕)乃謂太子日へ

界盗見太子白旗へ即殺太子へ太子可歩行」となっている。またへ「美東父之命へ則悪用子也」は'「逆父命求生不可」と表現しなお

した『史記』よりも'『左俸」の「棄父之命へ悪用子臭へ有無父之国へ則可也」に近い表現である。父と子の関係についての筆者

の思想が'『左俸』の表現を選ばせたのであろうか。

④『新序』節士篇ではへこの説話は次の様になっている。即ちへ「街宣公之子、扱也へ畜也へ朔也へ扱前母子也へ毒与朔後母子也へ

義之母与朔謀欲殺太子扱而立議也へ使人与扱乗舟於河中、将沈而殺之へ幕知不能止也へ因与之同舟へ舟人不得墾依方乗舟時へ扱

博母恐其死也へ閏而作詩へ二子乗舟之詩真也へ其詩日へ二子乗舟へ沈沈其景'堅TE思子へ中心養養'於是へ奇聞其兄之且見害へ作

憂思之詩へ黍離之詩是也'其詩日へ行還廉廉へ中心揺括、知我者へ謂我心憂'不知我者、謂我何求へ悠悠蒼天へ此何人我へ又便俊

之斉へ将便盗見我族へ要而殺之へ書止仮へ扱日へ弄父之命へ非子道也へ不可へ詩又与之借行へ義之母知不能止也へ田戎之日へ畜無

為前也へ毒又為前5滴扱族以先行へ幾及密会へ盗見而殺之へ扱至鬼畜之死へ痛其代己死へ沸泣悲哀、遂哉其屍還'至境而自殺、兄

弟供死へ故君子義此二人へ而傷宣公之聴讃也'」である。これはへ『列女博』と次の点で異なりが指摘できる。毒の母と朔とが級を

舟で殺そうとする条.母が詩の出発に際して戒める条。級が自殺する粂などは『列女俸』に見えない。しかも『列女俸』では'女

性の強烈な権力志向が仮を陥れへ我が子をも死に至らしめる母性の犯罪に焦点がしぼられているが'『新序』には毒に対する暖かい

母性が加味されることによりへ我が子を失なった宜妻の悲哀も印象的であり'ここにへ犯罪への懲罰や自己反省が描かれているよ

うである。l見するとへ同一筆者の手に成った説話ではないかとさえ見えるが'『新序』が『左俸』と異なって'級を太子として

いること。また更に『史記』とも異なって'詩の母と朔とが盗に瀞害の指示を与えること。轟の「弄父之命云々」は'『列女俸』

が'『史記』のそれでなくへ『左俸』のそれに従っているのと一致するなどへ 『新序』の説話設定は『列女俸』のそれに極めて近い

ことが指摘できる。

なお『新序』が'『詩経』珊風の「二子魂舟」と王風の「黍離」をへこの説話に関連する詩としていることについてへ先ず「二子乗

舟」を'『毛詩』では'「思壁覇也へ街宣公之二子へ単相為死へ国人傷而思之へ而作是詩也」とする点についてへ依・毒のことを詩に

した点は共通するものの、『新序』の場合の解釈とは異なっている。陳典『詩毛氏俸疏』三では'「此与列女俸撃嬰篇不同へ劉子故習

魯詩,兼習韓詩也へ」と云っている。また「黍離」についてへ王先謙『詩三家義集疏』巻四は'胡承典の「拠左俸'衛毒嫡旋先往'

2

⇔読解び及釈注鰭壁u』悼女列『

是死在政党へ安待有閑兄見害之事'且使黍離果為義作'当列之衛風へ何為冠於王風之首へ其不足拠明臭」という指摘をのせている。

なお『説苑』奉使篇ではへこの詩を貌文侯と太子撃の説話の中に引用してお年『韓詩外俸』巻八にも同様の説話が見えている。

⑤王注は'「五位」は「三世」の誤りで'宜・藩・韓をいうのであるとする。しかし「戴公に至りて'而る後寧かなり。」と続いてゆ

-からへ五世とは'宜公・恵公・欝牟・斑公・戴公を指すと考えることはできまいか。筆者の頭には'宜公の時に始まった血肉の

争いが戴公まで至りへ文公以後おさまったという考えがあったのであろう。なお、遵公はへその四年に攻められて斉に逃げへ級の

弟粁牟が君となるが'幣牟の八年に斉の助力で衛を伐ち再び位に即-から、意公・黙牟・藩公と続-交代から'遼公を二に数える

と'戴公は互の中に入らず'原文も「乱五世に及ぶ。戴公に至りてより後寧かなり。」と読むべきかと考えられるが'『史記』衛世

家でも'恵公を通年でl代と考えていることから見ても'筆者が藩公を二に数えたと考えるには難があろう。衛君の即位について

はへ潔公が恵公の子であることを下臣が快-思わずへこれを滅ぼして'かつての粁牟の弟昭伯頑(宜公の子)の子を立てて戴公と

したのであるから'扱・蓄・朔以来の即位争いの因縁は'実際には戴公にまで及んでいると考えることができるであろ午.従ってへ

先に述べたごと-'筆者は'乱が五世に及んで戴公に至ったと考えてこの説話をしめ--っていると見るべきであろう。ただへ公

として即位したのは宝・藩・盤であるからへ王注と同じ立場をとる梁注が顧康折の説を引いて'『左俸』・『史記』によれば'「五」

は「三」の誤りであるとするのも一見解と云える。

なお宜妻についてへ『左俸』閏公二年伝には'「帝人便昭伯系於宜妻へ不可へ強之へ生賓子・戴公・文公・宋桓夫人・許穆夫人へ」

とある。戴公・文公は昭伯頑の子であると共に'恵公と同腹の子でもあることになる.

⑥『毛詩』雅風・日月に'『乃如之人骨へ徳音無良」とある。「序」には、「衛荘妻傷己也へ遭州呼之難へ傷己不見答於先君へ以至困

窮之詩也」とある。『詩三家義集疏』は'『列女俸』は魯詩説に従ったとしている。なお前注④を参府。

五'魯桓の文妻

文責は'斉侯の女にして'魯桓公の夫人なり。内 其の見舞裏公に乱す。桓公将に鄭を伐ちて腐公を納れんとす。

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既に行して夫人と供に将に斉に如かんとす。中編日工不可なり。女に家有り'男に室有りて'相ひ潰す無し0之を

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

有礼と謂ふ。此を易へは必ず敗れん。且つ礼 婦人 大故無きときは'則ち帰せずと。桓公徳かず。遂に与に斉に如

く。文妻と裏公と通ず。桓公怒る。之を禁ずれども止めず。文妻以て裏公に告ぐ。裏公 桓公を享して、酒もて之を

⇔読解び及釈注悼m壁Liil鰭女列『3

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酔ほしめ,公子彰生をして準えて之を乗せへ困りて其の膏を捜して殺さ便む。遂に車に死す。魯人 彰生を求めて以

て恥を除かんとす。票 聖を警o詩に日-,乱 天白り降るに匪ず。婦人自り生Va)-此の謂なり。

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頭に日く'文妻淫乱にして'魯桓公に配す。与に供に賓に帰して、弊裏淫通すO厭の彰生をして'幹を接へて胸を

りぷ泣

き僻む。維れ女 乱を為して'卒に禍凶を成す。

〔注〕

①『左俸』桓公三年経に'「九月賛侯送妻氏干講へ公会斉侯干講へ夫人妻氏至自賛へ」とありへ伝に「秋へ公子撃へ如斉遊女へ僻先君

之好,故日公子'斉侯送妻氏子誰へ非礼也へ凡公女嫁干敵国へ姉妹則上卿送之云々'」という.『公羊俸』桓公三年伝には'「諸侯越

寛送女へ非礼也'」とある。『穀梁俸』にも同様の見解が見える。

②「伐鄭」と「如斉」が続-ので'邸を伐って腐公を納れるのが目的で賓に赴いた様に受けとれるが'このまと妙方には問題がある。

『左俸』桓公十五年伝に'「冬会干草謀伐邸へ将納腐公也へ弗克而選へ」とありへ十六年伝には'「春正月へ会干菅も謀伐鄭也」

とあるが'文妻を伴って努に赴いた十八年経には、「春正月へ公会斉侯干津へ公与夫人妻氏遂如舞う」とあって'会の目的を特には

記さない。しかし伝には'「春へ公将有行へ遂与蓑氏如斉へ」とあるから'もともと文責と斉に行-のが目的で'帯に会したものと

もとれる。『左氏禽築』は「走行蓋妻氏之志也」と云うO筆者がここで邸を伐つことと斉に赴くこととを結びつけたのは'『史記』

魯周公世家に'「十六年へ会干菅へ伐鄭'人膚公へ十八年春へ公将有行へ遂与夫人如斉」と両事を連続して記載しているのに依った

からかと考えられるが'先行文献に引かれてへこの話に直接関係のない事項を挿入したのは'読者を迷わせるもとになっている。

③この中編の一一l毘ついてへ『史記』魯周公世家ではこの言はなくただ「諌止」とのみある.『左俸』桓公十八年にはここと略同じ言

が見えるが'「且つ礼云々」は見えない。王注は'「礼無帰寧兄弟之文」と云う。これに対して甫注は'『毛詩』榔風の「載馳」正義引

の『左俸』(閲公二年「許穆夫人賦載馳」の条)服慶注に「在礼へ婦人父母既没へ不得宵兄弟へ」とあることを指摘する曹元息の見解

を紹介している。(『玉函山房』春秋類『春秋左氏俸解証』巻二・「許穆夫人載馳」の条)服注はたしかに興味深いが'原文の「且礼へ

婦人無大政へ則不帰」は'むしろ『春秋穀染侍』荘公二年・五年・十五年-十九年・二十年などに'文責の行動に対して-り返し

述べられる「婦人既嫁へ不墜見」という見方に深い関連を持つものではあるまいかO桓公死後もしばしば奔侯に会う文妻に対して'

『左俸』荘公二年伝には'「書姦也」と云うが'この後はなにも批評言を載せない。『公羊俸』はこれらの文章の行動に対してなに

4

濫読磨び及釈住博質壁』侍女SI

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も問題意識を提起しまうとしない。ところが『穀染俸』は特に婦人の行動に対しては丁寧に批評を加えている。荘公二年には'「冬

十有二月へ夫人要氏会葬侯干補へ婦人既嫁へ不疏貴へ疏寛非止也へ」あり、同五年には「夏へ夫人妻氏如斉師へ師而日加衆也へ婦人

既嫁、不疏竜、騰貴非礼也へ」という0また、同七年「春へ夫人妻氏会奔供干防'婦人不会'会非正也へ-・・・冬へ夫人妻氏会斉侯干

穀へ婦人不会へ会非正也へ」 同十五年「夏'夫人妻氏如舞'婦人既嫁へ不臆寛へ緑黄非礼也へ」 同十九年「夫人要氏如苫'婦人既

嫁へ不疏意'疏意非正也へ」 同二十年「春王二月へ夫人妻氏如苫'婦人既嫁も不疏寛、疏貴非正也へ」などと見えている.

④この個所は略『史記』魯周公世家に同じである。文妻が裏公に告げた内容について'『左俸』桓公十八年伝へや『史記』によれば'

桓公が怒って禁じたことについてである様にとれる。しかしその告げ口の具体的な言葉は明確でない.『公羊停』荘公元年には、こ

この所をもっと具体的に説明している.即ちへ桓公が試せられた事のなりゆきに関してへ 「夫人語公於弊侯へ公日'同非吾子へ斉

侯之子也へ斉侯窓へ与之飲酒へ於其出蔦へ使公子彰生送之へ於其乗蔦へ滑幹而殺之へ」と述べる。何体は「如其事へ 自訴へ加誕'

自評」と往しているから、文妻は桓公の言を曲げて裏公に告げたことになる。『公羊侍』畢R年疏は'夫人が題を加えたというのは

非であるとしへ文妻が輿入れしたのが桓三年秋へ同(荘公)の出生が六年の九月であるからへ桓公は実際にこう(同は私の子では

ない)云ったのであるとし、陳立(『公羊義疏』巻十七)は更に桓十七年の疏に'或説の興人以前に二人が通じていたことを魯侯は

知っていたとするを引きへ『史記』斉世家・『毛詩』南山序の郵袋・『毛詩』弊風椅嵯序等の記載に俵と嫁する以前から普通のあっ

たことは人々の間で知られており'これを桓公が知ってとがめたので'『公羊侍』に「公日云々」は'実際に桓公の云ったことで

あるとしへ 「加誕」とされるのはう 二人が通じたのが事実であったとしても'同が奔侯の子であるという必然性はないからである

と何注を弁護している。陵説はおおむね妥当である。しかし従来のこの事件に関する解釈にはいささか問題がある。先ずへ文責が

嚢公と通じたことと同(荘公)の出生を簡単に結びつけるのにはいささか疑義があるからである。例えば『穀染俸』桓公六年に

「九月丁卯へ子同生へ疑政志之へ時日、同乎人也」と述べるのがそれである。同がもし裏公の子と疑われるなら文妻と彼の出会い

が少-とも桓公五年にも記されていて当強である.桓公死後へ文責が斉に赴いたり'裏公と会う記事は丁寧に載せられていること

からすると'文要は輿入れ後へ同出生までに裏公と会ったと考えないのが自余ではあるまいか。同の出生と菓公とは直接関係ない

と考えるべきである。従って裏公と文責の通じたことが湛公の出生と結びつけてうわさされる様になったのほうむしろ桓公死後で

あったのではないであろうか'夫の死後にも'文妻が周囲の日を気にせずへしばしば嚢公と会ったことに対する世論による興味本

意の批判から出て来た作り話-さい気がするのである。ところでへ次の様な事が想像される。文責が輿入れ以前に裏公と通じてい

たことを'桓公はなんらか察知するところがあったのかも知れないo『左俸』にある様に'申偏の諌言にも従わず'文責を帝国に

恩読解び及釈住俸質響iii]鰭女刺LE

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伴うという異例を敢えておかしたのは'二人の関係をつきと埼て'何らかの結着を付ける気構えが桓公にあったからだと考えねば

なるまい。桓公は文責を厳しく叱責したのであろう。逃れようのない指摘を受けて動揺した文責は'桓公が実は口にしなかったで

あろう言葉(同は斉侯の子だ)を混えて菓公に叱責されたと訴えたのである.子供(同)の父であることに関しては全-身に覚え

のない裏公は'だから怒ったのである。陰謀を胸に出向いた桓公は'怒った裏公の謀略に逆には迫られてしまう結果になったので

ある。『公羊俸』の記載は以上の様な解樺を前提にして見るべきであろう。そしてこの事件における文責の悪女ぶりも『公羊俸』

の記載に依る方がむしろ明確になって-る。『列女停』が『左俸』の記載に近-なったのは'恐ら-『史記』魯世家の記載に牽引せ

られたからであろう。

原文「使公子彰生抱而乗之へ四枚其脅而穀之」を'『史記』魯世家では'「便公子影生抱魯桓公へ田命彰生摺其脅」と記し'同斉

世家では「使力士影生抱上魯君車へ田泣夢魯桓公へ」と記す。『左俸』桓公十八年には「使公子彰生乗公へ公募干草」とあるだけで'

血腫い表現を避けているが'『公羊俸』では前引の如くリアルである。『列女俸』はこのあたり『公羊俸』の表現を用いた『史記』

の記載に依ったのであろう。なお彰生を使って桓公を辞させたのほう後々のことを考慮しての裏公の知恵であろう。

⑤『左俸』では'このところは「魯人告干斉日、寡君畏君之威、不敢寧居'釆傭旧好へ礼成而不反へ無所帰各'悪於諸侯へ請以彰生

除之へ秀人殺影生'」とある。『史記』魯世家も略同内容であるが'「 請得彰生以除醜於諸侯へ奔人妻彰生以説魯'」とわずかに

補足表現しているO『列女俸』は「魯大台干斉日  無所帰脊」の部分を賛言と考えたのか省いてしまっている。

彰王を上手に使った裏公についてはへ後日詩が『左侍』に見える。『荘公」八年の伝に依れば'「冬へ十二月'奔侯遊子姑容へ遂

田干貝丘へ見家大へ従者日'公子彰生也へ公怒日へ影生敢兄へ射之へ家人立而噂'公憤墜干草へ傷足喪屡へ」とある。裏公はこの

傷のためにへ後に公孫無知に襲われて死ぬことになるo『漢書』五行志中之下にはここの所を引いて'「劉向以為近衣禍也」とし'

彰生を利用して桓公を殺した事件と関連づけている。

㊥『毛詩』大雅・蕩之什・瞭印。序では「凡伯刺幽王大壊」とする。末喜・旗姫・聾姫の各伝に引用する詩もここから採っている.

尚へ『毛詩』弊風には桓公・文妻・裏公の所行を風刺したものが多い。先ず「南山」についての序は「刺裏公也、鳥獣之行'津乎其

妹'大夫遇是悪へ作詩而云之へ」という。又'「甫田」の序には「大夫刺菓公也云々」とありへ「慮令」は裏公の悪政を剃ったものと

されへ「赦萄」の序に依れば'「刺文責也'替人悪魯桓公微弱へ.不能防開文妻へ使至淫乱為二国息蔦へ」とある。「哉駆」の序は「帝

人刺裏公也'無礼義故へ盛其車服へ疾駆於通道大都へ与文妻淫'播其悪於万民鳶」という。「椅嵯」の序には「刺魯荘公也へ斉人傷

魯荘公有威儀技芸へ然而不能以礼防閑其母へ失子之道へ人以為替侯之子蔦へ」と見える。三先謙『詩三家義集疏』巻六は'「載駆」

16

肖読解び及釈注俸壁響町l

侍女iaiJは川

について斉詩説では多少解釈が異なるとするが'他の詩は三家に異義なしとしている。

六へ 魯荘の哀妻

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

哀要はへ替侯の女にして、魯荘公の夫人なりへ初めへ哀妻未だ入らざる時へ公数々斉に如きへ夏着と控す。既に入

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

りて其の弟叔妾と倶なり。公へ大夫の宗婦をして幣を用て兄へ便む。大夫夏甫不忌日主婦の勢は菜栗を過ぎず。以

て礼を致すなり。男の費は玉島・禽鳥を過ぎず.以て物を彰はすなり。今へ婦の賓に幣を用ふるは'走れ男女別無き

なり。男女の別は国の大節なり。乃ち不可なること無からんやと。公 聴かず。又 其の父桓公の廟官の極に丹ぬ

堅) ⑤                                    ⑥

り、其の桶に刻みて'以て哀妻に寄る。哀妾 騎軽にして'二叔・公子慶父・公子牙に通ずO哀妻 慶父を立てんと

欲す。荘公亮じて'子般立つ。慶父と哀妻と謀りて'遂に子般を某氏に殺しへ叔妾の子を立つ。走れを園公と為す。

園公既に立ちて'慶父と哀妻と経すること益々甚だしへ又 慶父と謀りて、園公を殺して'而して慶父を立てんと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

J

_

しへ遂に卜蹄をして襲ひて閑公を武関に試せ使め'将に自ら立たんとす.魯人 之を謀る。慶父恐れて首に奔り'哀

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妻都に奔る。斉の桓公 債公を立つ。

⑨             ⑳

殺す。魯遂に慶父を殺す。詩に云ふう

 

 

 

"

哀妾と慶父と通じて以て魯を危くするを聞きへ乃ち哀妾を召びて'耽もて之を

 

 

 

 

 

 

 

 

^

 

 

畷として其れ泣-。何ぞ嵯及ばんと。此の謂なり。

項に日-'哀妻邪を好みへ魯荘に淫す。延きて二叔に及びへ

す。斉桓征伐し耽もて哀妾を殺す。

ほしいま^

騎炉縦横なり。慶父走れ依り'国適に以て亡ぴんと

回usl

①王注は「荘」字の上に「魯」字を脱すると指摘する。前後の伝の例から見て妥当と思われるo哀妻は斉桓公の妹。薬公の弟の娘に

あたる。

②『春秋』荘公二十三年に'「冬へ公知替納幣へ」とありへ 二十四年に'「八月丁丑へ夫人要氏人へ」とある。この間へ二十三年春帰国

」読解び及釈琵悼&翠』侍女si

『7

の後,夏にも「公如賛観社へ」とありへ荘公は輿入れ以前に数々斉に出向いている。尚へ「観社」の解釈は様々である。『左倖』荘

公二十三年伝には「公如斉観社へ非礼也へ曹測諌日へ不可へ夫礼所以整民地'散会以訓上下之則云々へ」とあり'『国語』魯語上に

も略同様な文が見える。『公羊侍』も'「何以書'詩へ何讃爾'諸侯越境観社へ非礼也」と記すだけである。ところで『穀梁停』は

「常事目視,非常日観,観無事之辞也へ以是為戸女也へ無事不出寛'」と記している。従来の学者に依って指摘されている如くへ『墨

子』明鬼下に,「燕之看視'当奔之社稜'宋之有桑林'楚之有雲夢也へ此男女之所属而観也へ」とある。『左氏合筆』(竹添光鴻)は'

「案観社,猶観喝皆国賓神之余へ而相東金以為楽へ蓋所謂l国之人皆若狂者へ其源本於周嘩其後沿為民俗'今之廟会社戯'猶

其達意,・--鄭樵氏族略云'侶優之人'取楯酒食へ居於社南北者へ田呼為氏へ然則侶優多喝社而居'蓋至唐宋人小説、.猶有社火社

首之称,社久為衰世男女放逐之場へ」と述べるが'これが荘公観社の実情であったと考えて良かろう。「観社」の本来の意味は『左

俸』杜注に指摘する様にへ「賛困祭社蒐軍実へ故公往観之」(『望巴葦昭注にも「巌公二十三年へ帝国紀社蒐軍実へ以示客へ公往観

之」とある。)と考えることもできるであろうLへまたへ『公羊俸』の何体解話の如く「観社者へ観祭社'--・社老土地之主へ祭者報

徳也,生万物,盾人民へ徳至厚へ功至大へ故感春秋而祭之へ」と考えるべきであろうがへこの様な祭事に'神聖視される性が結びつ

けられていたと考えるのがむしろ自余であろう。『公羊義疏』は惑枚『九経古義』(公羊上)が鄭樵の『六経輿論』の「左氏日非礼也へ

公羊日へ義以観斉女也へ穀梁日へ非常口観へ--公羊為長」を引用Lへ更にへ『春秋説』(患枚)に'「観社者'志不在社也'志在

女而巳」(『皇清経解』巻二百三十五)とするのを是と断じている。なお『春秋説』には'「穀染謂戸女へ戸女君主為女而往'以社

為名,公羊謂公一陳陀也'陳陀津乎黍へ荘公陛乎斉へ読春秋者疑之へ而未得其説へ及観墨子而後知其説蔦へ・・・-蓋燕組弊社'国之

男女皆緊族而往観,与楚宋之雲夢桑林同'為l時之盛へ猶鄭之三月上巳'士与女合会湊満之瀕、観社、志不在社へ志在女而己へ公

羊以為公二陳化へ殆其然乎'穀梁以為戸女へ信哉'曹剤-謂不法以此'」とありへ更に「墨子去春秋最近'列国之史皆存'其言必有

所操へ--・杜注亦非」と補っている。

③王注・発注ともに「不忌」は「展」の誤りであると指摘する。『国語』魯語上には夏父展とする。「魯語」下には夏父弗忌が見える

が,『左俸』文公二年伝に'「於是夏父弗忌為宗伯」とあるとおりへ荘公の時の宗人は夏父展と考えるべきであろう。劉向の記憶違

いであろう。なお『左伝」荘公二十四年伝では'「禦孫日」となっている。

④原文「婦費不適蔑粟'以致礼也」を『国語』魯語上では「夫婦繋不過轟粟へ以告虞也へ」としへ『左倖』荘公二十四年伝へ禦孫の言

では「女費不過榛栗讃惰,以告虎也'」とする。『公羊俸』・『穀梁侍』ともにへ婦人の費としでは'窮粟・澱情をあげている。『穀梁

俸』は「鍛情」に作る.『薩記』曲酷下には「婦人之撃へ棋榛廟傭菜粟」の六物をあげる。『儀穫』士昏鐙の婦が男姑に見ゆる礼で

8

fi恩読解び及釈注俸&翠iil侍女列

相川

は窮栗・脹傭を用いる。

『票』蓬によれば'「窺う取蚤起,栗,取敬栗,慶敏也」とあり,『左侍』杜注は,「先儒以為栗取其戦粟也,莞葦起也,」

醒[ass

原文「男票過玉島禽鳥へ以章物也」は『讐』・『左俸』に同じく,『穀梁俸』は男子の賓には「義経据」とする。

『望讐卑注によれば'「公執聖,侯執信圭,伯執豊,子執穀壁,男執滴壁,孤執皮島,卿執薫,大夫執雁,士執雑,庶人執

鷺へ工商執鶏也へ章明也,明尊卑異物也」とある。

原文「努不可乎」を『望巴は「不可無也」に作り,『左侍』は「無乃不可乎」に作る。徐仁甫氏『左侍疏謹』は,『左停』は

劉款の手に出ずるとの立場に立ち,この句の異同も,『左俸』が『列女倖』からとった証のTJJする。すなわち,「無乃不可乎」は

『望巴の「不可無也」よりとって変じたもの。『国語』の場合,「国之大節也」を承けるから語意が嘉するが,『列女俸』では

「婦芳幣」を承けるからへ数句を隔てて-,葉が貫かないOそこで『左俸』では,先ず,「今男女同声のl句を増して全文

をなめらかにLへまた「雷夫人乱之」の石を増したのであるとする.興味深い指摘ではあるがただちには従い難い。『列女俸』

が『慧』からとったであろうことはうなづけるし,「不可霊」を「無乃不可乎」に変じたことが『左俸』の場合に較べて,董

表現上適正と云い難いのは確かである。しかし『左俸』が『-』・『列女侍』から新たに作文されたのなら,これらの警をなぜ

「禦孫」としなければならなかったのであろうか。徐氏はこのことについて,『望』と『列女俸』とが夏父展・夏父不忌と異な。,

どちらにあわせても艮-ないので,禦孫に変えてしまったのだと云うが,十分納得のい-説明とは云い難い。夏父不忌としたのは

劉向の記憶違いと想像する方が素直ではあるまいか。『列女博』における個有名詞の誤用は他の篇でも指摘されることで,例えば

「晋戯票」の岩の語に「自吾先君武公兼巽、而楚穆蔑」とあるが,楚の穆王(太子商臣)が父の成王を斌して自立するの

は'戯公の時代より後のことであるから,このことが魔姫によって語られるのは時代的に誤りである。同様のことは,巻四貞順伝

の「楚平伯京」においても指摘される.即ち「伯雪,秦穆公之女楚平王之夫人,昭王之母也吾」とあるが,秦の穆公と楚の平

王との間には約百三十年の差がある。-巻六軒通伝の「斉傷嬰」で,-を宋景公よりも後の時代の人としている誤が指摘で

きる。これらのことは既に『史通』外篇・薙雫に指摘があるo・なおこのことについては「晋戯層姫」において再説する。

⑤『望』魯語上に'「厳公丹桓宮孟,而刻其柄,」とあ。,これに対して匠師慶が公を諌窄いるが,「公弗聴」とある。『左俸』

荘公二十三年に'「秋へ丹桓官立讐とあり,同二十四年に,「春,刻其桶,皆非礼也,」とあるが,公を譲等いるのは,前注④

の場合と同じ禦孫である。『竪讐卑注は,匠師慶が即ち禦孫であるとしているが確証はない.むしろ『竪巴と『左俸』とを矛

⇔読解び及釈注停質壁l侍女刺『19

盾なく緒びつけようとの考えから発するこじつけの感が強い。

本伝では,「賓」についての夏博不弗の諌言を「公不撃で結びへ「又丹其父桓公廟官之楓へ・・・-以至及妻'」と続けている。事の

時間的経過から云えば'『国語」や『左侍』の様にへ「丹楓・刻桶」の次に「驚」のことが叙述されるべきであろうが'前注④でも

指摘した如くへ諌言者が『国語』では匠師慶・夏父展であと『左俸』では両方とも禦孫となっている。この間の食い違いを撃見

るに窮した著者は'「驚」のことを主にして取りあげて諌l一1一署としては夏甫不忌(恐ら-は夏甫展の誤り。前注③)を選びへ「丹楓

・刻柄」の諌言については省略して'「きのことの後に「又云々」と付加するかたちにまと埼たのであろう。前注④で紹介した徐

氏説には従い難い。

「丹樋」についてへ『穀梁俸』荘公二十三年に'「礼へ天子諸侯劫重へ大夫倉'士輿丹柾へ非礼也'」とある。またへ同二十四

年には「刻栴」についてへ「礼へ天子之桶'新之へ墾之へ加密石蔦へ諸侯之栴'新之'聾之へ大夫新之へ士新本'刻桶非正也へ夫

人所以崇宗廟也,取非礼与非正而加之於宗廟、以飾夫人非正也'」とある。『国語』晋語八の「週文子為室」の項に'「天子之室へ新

其橡而尋之,加密石蔦へ諸侯墾之へ大夫斬之へ士首之へ備其物義也へ」とある。この葦注に'「橡棟也」と云い'董増齢『堅閑正義』

は,『文選』の「魯璽光殿賦」の張載注の「棒亦橡也へ有三名へ 1日橡.1首桶へ一l首棟へ」を引-。また『経典揮文』巻二十二に

は'「桶」についてへ「音角へ梼也へ方日柄へ円日橡」とある。

⑥『史記』魯世家に,「荘公有三弟へ長日慶父'次日叔牙へ次日季友へ」とある。『公羊俸』荘公二十七年には'「公子慶父・公子牙・

公子友,皆荘公之母弟也,公子慶父・公子牙通乎夫人'以脅公へ」とある。『史記』は『公羊停』に依り'「列女俸』もやはり『公

羊俸』に依ったものと思われる。ところで荘公とその兄弟達との関係については異説が存する。『春秋経』荘公二年の「夏へ公子慶

父帥師伐於飴立,」の杜預の注に依れば'「荘公時年十五へ則慶父荘公庶兄」とある。荘公が桓公六年に生まれているからへ荘公二

年に荘公は十五才であり'慶父がもし荘公の弟とすれば'師を帥いるには幼すぎることになるから杜注はこう考えたのである。さ

らに荘公三十二年『左俸』の「公疾,問後於叔牙へ対日へ慶父材へ問於季友へ対日'臣以死奉般」における杜注は叔牙が慶父を推す

理由を「蓋欲進其同母兄」としへ季友が般里芋ようとする理由を'「季友荘公母弟'故欲立般'」としている。杜預は'慶父・叔

牙は同母兄弟,荘公・季友が同母兄弟であると考えへまたこの関係が魯の王位継承紛争の底流に在ると考えているのである。とす

れば,『公羊侍』・『列女停』の立場とは基本的に異なっている。即ち.『公羊俸』荘公三十二年には'「荘公病将死へ以病召季子へ-

-日,寡人即不起此病,吾将蔦致乎魯国へ季子日へ般也存'君何憂蔦へ公日へ-・・・牙謂我日へ魯妄1及'君E]知之臭'慶父也

存,」とある。『公羊俸』に依れば'慶父・叔牙'荘公・季子・般の対立の底流に二鹿妻の存在が深-関わっていることになるし'

20

⇔説解び及釈注鰭fe<翠』侍女刺『

『左俸』ないし杜注に依れば'哀妻と慶父との普通が継位争いに強い影響を与えることは否定されぬまでも'叔牙と哀妻との程遠に

はふれず'血縁の濃淡がこれと同等以上に事の成り行きを大きく左右していると解されていることになるであろう。『史記』 魯世

家は恐ら-『公羊俸』の立場に従っているものと思われへ叔牙と哀妻との普通に言及はしないが'慶父と哀妻との経過は荘公生前

より続けられているとの解釈を明確にLへ「先時へ慶父与哀妾私通へ欲立哀妻妹子閑へ及荘公卒へ而季友立般' 慶父寛立荘公子

開'是為潜公へ滑公二年へ慶父与哀妻通益甚、」と記載する。これに対し『史記脅注考謹』引中井積徳は'「擦左侍へ慶父之私通'

蓋在荘公卒之後へ 史記似矢へ」としている。しかし『公羊俸』の見解を是とするならへ 荘公生前から普通のことがあったと考える

『史記』の見方を否とすることはできないであろう。杜預の考えにも一理あるが'『公羊義疏』巻十七は'「慶父年幼将兵へ本不必

実有統軍之能へ虚仮其名'以為統帥へ当時自必有撫軍之人へ」としへまた「慶父如果荘公之兄へ 則庶長称孟可臭へ 何必又字共仲へ

後牡子孫称仲孫氏へ経皆書仲へ其為荘公之弟明臭'・・-・努氏召南考琴Hr何体謂是公弟、以荘三十二年俸叔牙日へ魯1生l及'慶

父也存'是慶父為弟之明澄也へ」と述べている。か-見て来ると'いずれが史実に近いとにわかに断定することはできないことにな

るであろう。今云えることは'『列女俸』は『公羊停』の見解に従ってこの伝をまとめたであろうと云うことだけである。

⑦「四部叢刊」本では「荘公亮」となっているが「王住」・「発注」・「粛注」・「文選榎叢書」本では「公売」に作る。『左俸』荘公三十

二年に依れば'子般ほ荘公と孟女との間に生まれた子である。『史記』では「子斑」に作る。このあたりの事件の記述は『左停』

や『史記』に詳しい。

⑧この辺りの事件の経過や人間関係については『左俸』閲公二年や『史記』魯世家が詳しい。『列女俸』では簡略に過ぎて'物語への

興味がそがれる。

⑨「賓桓公」以下『史記』の記載に同じである。ただ「敢而穀之」は『列女侍』のみがこう記している.『左俸』閲公二年には'「帝

人取而瀞之干夷へ以其戸帰」とし、同債公元年には「君子以斉人之墾及妻也為己甚臭へ女子従入着也へ」とある。『公羊博』の同年

には'「桓公召而綻瀞之へ」とある。

⑲『左停』閲公二年では'「乃駐」とLT『史記』では'「乃自穀」と記す。『列女俸』では'哀妻の死を慶父の前に記していたが'『左

俸』・『史記』ともに'慶父の死が先である。

㊥『毛詩』王風・中谷有蕗に'「醍其泣臭へ畷其泣臭'何嵯及臭う」とあるO『韓詩外侍』二・『説苑』建本篇などにもこの詩を建いて

「何嵯及臭」に作るが'『詩三家義集疏』巻四は'胡承洪の説を引いて'「何及」の二字が連なって意味を持つからへ「何嵯」とする

のは伝写者の誤倒であるとしている。                              (中国哲学助教授)

(19)

seems too long.

In addition, from the semantic point of view I propose that, as well

as the well-formed tag-question already mentioned, a question attached to

a preceding statement such as '..., era:; (..., right? etc.)' should also be

recognized as a kind of tag-question having the function of a confirmative

or sympathetic question. These expressions are of course very colloquial

and used among people on intimate terms. Although English Grammar

might not admit them as tag-questions, I propose to call them incompletely-

formed tag-questions.

Notes and Commentary on 'Nie-bi-chuan (r|£f§l?|J)'

in Lieh-nii-chiian (r^U^C^J). H-

Takao SHIMOMI

Liu Hsiang (§IJ|d] 79-8 B.C.) was a scholar towards the close of the

Han dynasty. He is highly reputed to have arranged and classified ancient

writings of China from his own viewpoint, and elucidated the nature and

value of individual works. Among a number of his characteristic writings

is Lieh-nii-chuan C^liC^L), which is valued as the first biography of

womenin China. He first classified woman's ways of life into seven pat-

terns, and then culled relevant biographies chiefly from Chun-chiu tso-shih-

chuan (r^ft&SilSASJ) anc^ Shih-chi (TfiifBj), arranging them in chrono-

logical order. The present article forms the first part of notes and com-

mentary on 'Nie-bi-chuan (f^'iffSJ)', which collects the lives of those

women who ruined both their families and nation by their way of life

surpassing that of men.

tosho-seibi-repo
長方形