はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明...

22
- 1 - 橘三千代 ―― 権力核の起点となった大刀自 ―― 義 江 明 子 はじめに 橘三千代は、七世紀末~八世紀前半にかけての宮廷で、大きな政治的影響力を持った女性である。その働きは、 「後宮において隠然たる勢力を振るった……」というように説明されることが多い。しかし、「隠然たる勢力」 とは何だろうか。亡くなる時に内命婦正三位の地位にあった彼女の女官としての働きは、当時の貴族男女が政治 的にどのような配置状況にあったのかを考察することなくしては理解できないだろう。また、藤原不比等の妻、 光明皇后の母としての役割も、たんに裏から夫や娘を動かしたといった次元のことではないはずである。奈良時 代初期の王権と上級貴族がどのようにして自らの権力を構築しようとしていたのか、律令官僚制の導入と旧来の 氏族原理との相克の中でどのような政治状況が生まれていたのか、こういったことを考察することによって、は

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Page 1: はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明 詔 を 失 は む か」として、橘宿 禰 姓を賜り橘氏の 名 を 永

- 1 -

三千

――

権力

核の

起点

とな

った

大刀

自――

じめ

三千

代は

、七

世紀

末~

八世

紀前

半に

かけ

ての

宮廷

で、

大き

な政

治的

影響

力を

持っ

た女

性で

ある

。そ

の働

きは

「後

宮に

おい

て隠

然た

る勢

力を

振る

った

……

」と

いう

よう

に説

明さ

れる

こと

が多

い。

しか

し、「

隠然

たる

勢力

とは

何だ

ろう

か。

亡く

なる

時に

内命

婦正

三位

の地

位に

あっ

た彼

女の

女官

とし

ての

働き

は、

当時

の貴

族男

女が

政治

的に

どの

よう

な配

置状

況に

あっ

たの

かを

考察

する

こと

なく

して

は理

解で

きな

いだ

ろう

。ま

た、

藤原

不比

等の

妻、

光明

皇后

の母

とし

ての

役割

も、

たん

に裏

から

夫や

娘を

動か

した

とい

った

次元

のこ

とで

はな

いは

ずで

ある

。奈

良時

代初

期の

王権

と上

級貴

族が

どの

よう

にし

て自

らの

権力

を構

築し

よう

とし

てい

たの

か、

律令

官僚

制の

導入

と旧

来の

氏族

原理

との

相克

の中

でど

のよ

うな

政治

状況

が生

まれ

てい

たの

か、

こう

いっ

たこ

とを

考察

する

こと

によ

って

、は

Page 2: はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明 詔 を 失 は む か」として、橘宿 禰 姓を賜り橘氏の 名 を 永

- 2 -

じめ

て、

〝顕〇

然〟

たる

政治

力を

振る

った

古代

貴族

層女

性の

一典

型と

して

三千

代を

位置

づけ

、そ

うし

たこ

とが

可能

であ

りま

た必

要で

もあ

った

奈良

前期

宮廷

政治

の実

相に

新た

な光

をあ

てる

こと

がで

きよ

う。

犬養

橘宿

禰三

千代

と橘

「氏

実さ

へ花

さへ

の葉

さへ

に霜

ふれ

いや

常葉

の樹

(『

万葉

集』

巻六

―一

〇〇

九番

平八

年(

七三

六)、

葛城

王・

佐為

王の

兄弟

は、

天皇

に願

い出

て「

外家

の橘

姓」

を賜

わり

、皇

親の

籍を

離れ

橘宿

禰と

いう

新し

い氏

を創

設し

た。

元正

太上

天皇

と光

明皇

后は

皇后

宮で

宴を

開き

、〝橘

の樹

は実

も花

も葉

も、

に霜

がふ

って

もい

よい

よ緑

の葉

を茂

らせ

る、

その

よう

に栄

えよ〟

と橘

(氏

)を

賀く

歌を

作り

、葛

城王

あら

ため

諸兄

に御

酒を

賜っ

たの

であ

る。

橘宿

禰」

とは

、兄

弟の

母で

ある

県犬

養宿

禰三

千代

が、「

上は

浄御

原朝

庭を

歴て

下は

藤原

大宮

に逮

ぶま

で」、

まり

天武

~持

統~

文武

~元

明の

歴代

にわ

たる

忠誠

によ

り、

和銅

元年

(七

〇八

)の

大嘗

の饗

宴で

賜っ

た姓

であ

る。

この

時、

元明

天皇

は杯

に浮

かべ

た橘

を三

千代

に賜

い、

〝橘の

枝は

霜雪

を凌

いで

茂り

、金

銀に

交わ

って

いよ

いよ

しい〟

とし

て、

橘宿

禰姓

を賜

った

とい

う。

葛城

王等

は、

賜姓

を願

う上

表文

(『

続日

本紀

』天

平八

年一

一月

丙戌

条、

以下

、『

日本

書紀

』『

続日

本紀

』は

年月

日のみ記

す)

の中

で、

こう

した

「親

母」

三千

代の

忠誠

の歴史

を振

り返

り、

Page 3: はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明 詔 を 失 は む か」として、橘宿 禰 姓を賜り橘氏の 名 を 永

- 3 -

「継嗣無

くは

、恐

るら

くは

明詔

を失

はむ

か」

とし

て、

橘宿

禰姓

を賜

り橘

氏の名

を永

く伝

える

こと

を願

った

ので

る。

律令

制に

より

新た

に導

入さ

れた父

姓相承

の原則

のも

とで

は、

三千

代の

賜っ

た橘

宿禰

姓は子

ども

たち

には受

継が

れな

いか

らで

ある

。上

表を

うけ

た聖

武天

皇の側

でも

、こ

れに応

えて

、冒頭

にあげ

た〝橘

は…

… 〟

の歌

によ

て三

千代

にま

つわ

る記憶

を呼び起

こし

、「

千秋

万歳

に相継ぎ

て窮

るこ

とな

かれ

」と

、橘

氏の変

わらぬ

忠誠

を求

たの

であ

った

のよ

うにみ

てく

れば

、橘

氏の始祖

はた

しか

に諸

兄だ

が、

賜姓背景

からみ

た実質

的な始祖

は三

千代

とい

って

良い

だろ

う。

賜姓

の時

、諸

兄は参議左

大弁

の職

にあ

り、五

〇歳

を超

えて

いた

。父

美努

王は敏達

天皇

の曾孫

にあ

るが

、そ

うし

た遠

い皇

親と

して

の地

位を捨

て、

母三

千代

の政

治的

勢威

を直接嗣ぐ

こと

こそ

が、

一族繁

栄に

つな

る道

と判断

され

たの

であ

る。

三千

代に

は牟漏

女王

とい

う娘

もい

るが

、彼

女は

橘宿

禰賜

姓に

は加

わら

ず、

後で述

るよ

うに

、別

の形

で三

千代

を継承

して

いる

。三

千代

は、

文武

初年

には

、美努

王と別

れて

藤原

不比

等と再婚

した

しい

。二人

の間

に生

まれ

たの

が安

宿媛

、のち

の光

明皇

后で

ある

。つ

まり

、諸

兄たち

は、

光明

皇后

とは同

母異父

妹の関係

にあ

った

。光

明を

入内

させ

るに

あた

って

は、

三千

代の

働き

が大

きか

った

と推定

され

てい

る。

千代

は、

どの

よう

にし

てそ

うし

た力

を持

つに

いた

った

のだ

ろう

か。

県犬

養氏

は、

古く

から屯倉

の守衛

等に奉

仕し

た氏

だっ

た(黛弘道

一九

八二

)。

三千

代の

本貫

は、河

内国

古市郡

のあ

たり

かと推定

され

てい

る(岸

一九

六七

)。

一族

には

、壬申

の乱

で功績

をあげ

た県

犬養

大伴

(侶

)が

いて

、大伴

が病

に伏

した

時に

、天

武天

皇は

その

家ま

で行

幸し

てい

る(

天武

九年

七月戊寅

条)。

天武

天皇

の殯

にあ

たっ

て、

大伴

は宮

内の

こと

を誄

して

おり

(朱鳥

元年

九月

丙午

条)、近侍者

だっ

たら

しい

。三

千代

の後

宮出仕

は、

大伴

との

親族関係

、あ

るい

は天

武八

年(

六七

九)

制定

Page 4: はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明 詔 を 失 は む か」として、橘宿 禰 姓を賜り橘氏の 名 を 永

- 4 -

氏女

の制度

によ

るも

のだ

ろう

(中川

一九

九五

)。

いず

れに

して

も、

県犬

養氏

自体

は、国

政の

中枢

に参与

する

よう

なランク

の氏

では

ない

。三

千代

の地

位は

、専

ら彼

女自身

のそ

の後

の働

きに

よる

と見

なけ

れば

なら

ない

養老五

年(

七二

一)、

元明

太上

天皇

が病気

にな

った

時、

三千

代は

入道

して

平癒

を祈

願し

てお

り(同

年五

月乙丑

条)、二人

の間

には強

い主従

の絆

がう

かが

える

。元

明が軽

皇子

(文

武)

を生

んだ翌

年の

天武十

三年ご

ろに

三千

は葛

城王

(諸

兄)

を生

んだ

らし

い。

また

、不

比等

との間

に設

けた安

宿媛

(光

明)

は、首

皇子

(聖

武)

と同

じ大宝

元年

(七

〇一

)の

生ま

れで

ある

。こ

うし

たこ

とか

ら、

三千

代は軽

皇子

の乳

母と

して

元明

の信任

を得

、首

皇子

の養

育に

も関

わっ

たと推定

され

てい

る(胡口

一九

七六

・中川

一九

九五ほ

か)。

天武

~持

統~

文武

~元

明、

そし

て元

にい

たる

三千

代の

忠誠

とは

、草壁系

皇統

に密着

して

の奉仕

とい

うこ

とで

あり

、不

比等

とい

わば二人

三脚

で皇

統の

護持

に力

を尽

くし

たこ

とが

、三

千代

の政

治的

地位

を比類

ない

もの

に押

し上げ

たの

であ

った

。二人

のそ

うし

た政

力の成果

が光

明皇

后で

ある

。三

千代

の息子

たち

に始

まる

橘氏

は、

この

皇統

を永

く守

りつ

づけ

る意図

を込

めて

創り

出さ

れた

氏、

とい

うこ

とに

なろ

う。

のよ

うに

考え

たと

き注目

され

るの

は、「

三千

代」

および

「諸

兄」

とい

う名

前の

持つ意味

であ

る。二

〇〇

一年

に藤

原宮

の正門朱雀門

から約

三〇

〇メートル

の左京

七条

一坊

に位

置す

る地

から

、「

宿禰道

代給

……

宝元

年一

一月

……

」と記

した木簡

が出土

した

。同

じ場所

から

「皇

太妃

宮職

」(草壁

皇子妃

、のち

の元

明の

宮)

書か

れた木簡

も見

つか

って

いる

(『飛鳥

・藤

原宮発掘調査

出土木簡概報

』一

六、山

下二

〇〇二

)。

三千

代の

もと

との名

前は

「道

代」

だっ

たの

であ

る。

藤原

宮か

らは

以前

に、「

三千

代給煮

」と

いう改名

後の

彼女

にあ

てた木

簡も

出土

して

いる

。お

そら

く橘

宿禰

賜姓

と同

時に

、永

年の奉仕

を讃

える意味

で、「

三千

代」

とい

う新

しい名

前も

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- 5 -

与え

られ

たの

だろ

う。

当時

は、

氏の名

だけ

では

なく個人名

にも重

い意味

が込

めら

れて

いて

、名

前の与奪

は君主

権限

の一

つだ

った

。忠勤

を励

んだ者

には

「勤臣

」の

氏名

を与

え、逆

に罪

を犯

した者

には清麻呂

を改

め「穢麻呂

とす

る、

とい

った例

もあ

る。

こか

らさ

らに進

んで

考え

ると

、「

諸兄

」も

、橘

氏創始

にあ

たっ

て葛

城王

が与

えら

れた名

前とみ

るべ

きで

はな

いか

。『

続日

本紀

』に

はそ

のこ

とを示

す記載

はな

いが

、『

新撰

姓氏録

』(左京

皇別

橘朝臣

条)

には

「葛

城王

に橘

宿

禰諸

兄を

賜う

」と

ある

。「

諸兄

」の語

は『礼記

』の

「諸 し

父ふ

・諸

兄し

ょけ

、貴室

を守

る」

との

文に由

来し

、「同

世代

の年長

の親

族」

をさ

すと

され

るが

、光

明子

の同

母兄

とし

て聖

武天

皇の

「諸

兄」

たる

こと

を誇

る〝自称〟

(新

日本

古典

学大系

『続

日本

紀』

巻第十二補注五

八)

とす

るこ

とに

は疑問

を感

じる

。政

治の

中枢部

をし

めた

親族グループ

、す

なわち聖

武・

光明+

不比

等没

後の

藤原四子+

三千

代没

後の

男女子

(諸

兄・

佐為

・牟漏

女王

)を

まと

める

要 かなめ

「諸

兄」

たれ

、と

の願

いを込

めて与

えた名

前と見

た方

が良

いの

では

ない

か。

そう

願っ

た主体

は誰

かと

いえば

、冒

頭に

あげ

た祝

宴の主催者

、元

正太

上天

皇と

光明

とい

うこ

とに

なろ

う。

千代

は、

夫で

ある

不比

等と

とも

に、

王権

中枢部

をも取

り込

んだ

親族

・姻戚グループ=

権力核

を作

り出

した起

点の人物

なの

であ

る。

政大

臣藤

原家

の県

犬養

命婦

平五

年(

七三

三)、

三千

代は

「内

命婦

正三

位県

犬養

橘宿

禰」

とし

て亡

くな

った

(同

年正

月庚

戌条

)。

六十

代後

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- 6 -

半ぐ

らい

と推定

され

る。

内命

婦と

いう

のは五

位以

上の

位に

ある

女性

のこ

とで

ある

。こ

れよ

り数

年前

に詠

まれ

たら

しい

「太

政大臣

藤原

家の

県犬

養命

婦、

天皇

に奉

る歌

一首

」が

、伝誦

歌と

して

『万

葉集

』(

巻一

九、四二

三五

番)

にみ

える

天雲

を ほ

ろに踏み

あだ

し 鳴

る神

も 今

日に

まさ

りて

こけ

めや

天皇

から

親し

く言

葉を

賜り

、そ

の恐

れ多

さに畏

まっ

て詠

んだ

歌と

され

てい

る。

いつ

の歌

か正確

な年

代は

不明

だが

ある

いは神亀四

年(

七二

七)、

娘の

光明

が生

んだ

皇子

の誕

生祝

の宴

での

こと

だろ

うか

。当

日は

、大納言

多治

比池

守が

諸司百

官の

官人

たち

を率

いて

「太

政大臣第

」に

出向

き、

皇太子

に立

てら

れたば

かり

の幼

い皇子

を拝

んだ

(一

一月辛亥

条)。

太政

大臣

(不

比等

)第

は、

平城

宮の東隣

にあ

り、

宮の東張

り出

し部

(東院

)に接

する超

一等

地の

広大

な邸宅

であ

る。

光明

は、

母三

千代

のい

る実

家で

皇子

を出産

した

ので

ある

。自邸

に娘婿聖

武を迎

え、晴

れが

しさ

と喜び

の中

で詠

んだ

歌、

とみ

るこ

とが

でき

そう

だ。

皇太子

の母

とな

った

光明

は、食封

一〇

〇〇戸

を賜

った

しか

し皇子

は翌

年に

は亡

くな

り、

その

後、長屋

王の変

~光

明立

后、

そし

て阿倍

(孝謙

)の立

太子

へと

、政

治の場

は激

しく

動い

てい

く。

比等

は養老四

年(

七二

〇)

に没

し、

太政

大臣

正一

位を追贈

され

た。

光明子

の皇子誕

生は

その死

後だ

から

、誕

生祝

の宴

が設

けら

れた場

は、

正確

には

「故〇

太政

大臣第

」で

ある

。不

比等

が生

前に特別

に賜

った功封

の額

および

の後

の管

理主体

をめぐ

って

は諸

説あ

る(

川二

〇〇

六)

が、資人

たち

が仕

えて莫

大な収

入を運営

する

家政機関

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- 7 -

して

の「

太政

大臣

家」

は、

平城

宮東隣

の邸宅

を運営

の拠点

とし

て存

続し

てい

たとみ

るべ

きだ

ろう

。不

比等

の死

後、

この

家政機関

を管

理運営

して

いた

のは

、不

比等

「継室

」と

して

の三

千代

であ

った

らし

い(井山

一九

九四

)。

そし

て三

千代

自身

の「

内命

婦正

三位

」と

して

の家

政機関

も、同

じく

この邸宅

内に

あっ

たか

ら、

不比

等死

後の

三千

代は

二つ

の家

政機関

をあ

わせ

た機

構の主

であ

った

こと

にな

る。「

太政

大臣

藤原

家の

県犬

養命

婦」

とし

て天

皇に

歌を奉

る、

とい

う行

為は

、ま

さに

三千

代の

こう

した

政治

的・経済

的立場

の表

れにほ

かな

らな

い。

くな

った

時の

正式名

が「

県犬

養橘

宿禰

三千

代」

であ

るこ

とに

も、注意

して

おき

たい

。皇子誕

生の同

じ年

の一

二月

、三

千代

は、「

一祖

の子孫

にし

て骨肉

の孔

親な

り」

とし

て県

犬養連五百依

たち

の宿

禰へ

の改

姓を申請

し、認

めら

れた

。一般

的に

、一

族のメンバー

か否

かを認定

し改

姓希望

を天

皇に

願い

出る

のは

、氏

上の重

要な

権能

の一

であ

る。

した

がっ

て、

ここ

での

三千

代は

、県

犬養

氏の

族長

的立場

で行

動し

てい

るこ

とに

なる

。つ

まり

、三

千代

賜姓

後も広

い意味

では

県犬

養氏

の一員

であ

り、「

橘宿

禰三

千代

」と

いう

のは

彼女個人

に与

えら

れた

栄誉称号

だっ

た。

だか

らこ

そ、

葛城

王たち

によ

る賜

姓申請

によ

って

、橘

「氏

」が

新た

に創始

されねば

なら

なか

った

ので

ある

千代

の死

後数ヶ

月を経

て、

一品舎人

親王

以下

、藤

原武智麻呂

・同宇合

など

の最高

貴族

層が

そろ

って

「県

犬養

橘宿

禰第

」に派遣

され

、従

一位

を贈

ると

とも

に、

彼女

の食封

・資人

を収公

しな

いこ

とを伝

えた

。こ

こか

らわ

かる

よう

に、

平城

宮東隣

の邸宅

は、

不比

等「継室

」の立場

で客

を迎

える

時に

は「

太政

大臣第

」で

あり

、三

千代

は「

政大臣

藤原

家の

県犬

養命

婦」

だが

、彼

女自身

の「

内命

婦正

三位

」の

地位

に関

わる場合

は、「

県犬

養橘

宿禰第

」と

称さ

れる

ので

ある

。同邸

は光

明皇

后の

皇后

宮職

が置

かれ

た場所

でも

あり

、そ

こに造営

され

た法華寺

は、

のち

に一

時期

、光

明皇

后・聖

武天

皇夫

妻の

娘で

ある孝謙

上皇

の居所

とな

った

Page 8: はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明 詔 を 失 は む か」として、橘宿 禰 姓を賜り橘氏の 名 を 永

- 8 -

千代

の食封

・資人

を誰

が受

け継

いだ

のか

は、

よく

わか

らな

い。

家政機関

が置

かれ

てい

た場

とい

う面

からみ

ば、

そこ

に皇

后宮職

を置

いた

娘の

光明

皇后

が引

き継

いだ

と見

るの

が自

然だ

ろう

が、

三千

代の功績

を正面

に掲げ

の橘

宿禰

賜姓

とい

うこ

とを重視

すれば

、諸

兄に

よる

橘氏

創始

の経済基盤

とな

った

とみ

る余

地も

ある

から

であ

る。

いず

れに

して

も、

こう

した直接

の国

家的給与物

以外

に三

千代

が蓄

えて

いた

であ

ろう膨

大な資産

は、

当時

の財産

続の慣行

から

する

と、

美努

王と

の間

に生

まれ

た諸

兄・

佐為

・牟漏

女王

、お

よび

不比

等と

の間

の子

であ

る光

明子

多比野

の兄

弟姉妹間

で分

割相

続さ

れた

はず

であ

る。

諸兄

と多

比野

は同

母異父

兄妹婚

なの

で、二人

の間

に生

まれ

橘奈

良麻呂

は、

三千

代の

政治

的勢威

と財

を父

母双方

から

の太

いパイプ

で受

け継

いだ

こと

にな

る。

この

よう

な極端

な近

親婚

は、

六・

七世

紀以降

に王

権中枢部

から始

まり

、有

力氏

族の間

でも繰

り返

し行

われ

てい

る(西野

一九

二)。

これ

は、双方

的親

族関係

の絆

が濃厚

な社会

にあ

って

、支

配機

構の整備

を通

じて最

上層部

に富

を集

中さ

せつ

つ、

兄妹婚

・従父

兄妹婚

等に

よっ

て富

の分散

を防ぐ有効

な方法

であ

った

。王

権に密着

したご

く限

られ

た氏

族が

うし

て集積

され

た巨

大な富

を分

け合

い、個々

の「

氏」・「

家」

の足場

を固

めて

いく

動き

が、

七~

八世

紀に

は急速

進行

して

いた

ので

ある

(義江二

〇〇二

)。

平宝字四

年(

七六

〇)、「

皇家

の外戚

」と

して

不比

等を近江

一二郡

に封

じ淡海公

とな

すの

と併

せて

、三

千代

「正

一位

大夫人

」を追贈

され

た。

時の

上皇

は光

明の

娘、

つま

り三

千代

の孫

にあ

たる孝謙

、天

皇は

藤原仲麻呂

(不

比等

の孫

)に擁立

され

た淳仁

であ

る。同

時に

、仲麻呂

の父

と叔父

にあ

たる

「南北両

大臣

」(南卿=

武智麻呂

と北

卿=房

前)

も贈

太政

大臣

とな

った

。光

明皇

太后没

後二ヶ

月の

この

ころ

、孝謙

上皇

と淳仁

天皇+

藤原仲麻呂側

との

対立

はま

だ顕在化

して

いな

い。

いわゆ

る草壁系

皇統

の直系

を自認

する

考謙

とそ

れを護

持す

るこ

とで他

の貴

族たち

Page 9: はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明 詔 を 失 は む か」として、橘宿 禰 姓を賜り橘氏の 名 を 永

- 9 -

に卓越

する

政治

的地

位を獲得

して

きた

藤原

氏か

らみ

て、

かれ

らの

権力

の基礎

を築

いた人物

とし

て、

不比

等・

三千

代の

夫妻

が並

んで

あげ

られ

てい

るこ

とに注目

した

い。

「大

夫人

」の号

は、

これ

以前

には

文武

天皇

の夫人

で聖

武天

皇の

母で

ある

藤原

宮子

に贈

られ

た例

があ

り、

この

きに

は紛糾

の末

に、

文字

では

「皇

太夫人

」、読み

では

「大

御祖

(おほみ

おや

)」

とす

るこ

とで決着

した

。い

わゆ

宮子称号事件

であ

る。

その

後、淳仁

天皇

の即

位に際

して

、光

明皇

太后

の御

命と

して淳仁

の父

であ

る舎人

親王

に皇

帝号

を追尊

し、

母の

当麻山背

を「

大夫人

」と

した

。三

千代

への

「大

夫人

」号

賜与

は、

この二カ

月後

のこ

とで

ある

「夫人

」「

大夫人

」(

和訓

とし

ては

どち

らもオホトジ

)は

、本

来は

、自分

の宅

を所

持・経営

する既婚

の豪

族層

女性

に対

する尊称

であ

るが

(義江

一九

八九

)、

律令

制後

宮制度

の整備

にと

もな

って

、「

夫人

」は

皇后

・妃

に次ぐキサキ

の公式称号

とな

った

。宮子

と山背

の場合

の「

大夫人

」は

、〝天

皇の

母〟

とな

った臣

下出身

女性

に贈

られ

た特別

称号

であ

る。

三千

代は

光明

皇后

の母

、孝謙

上皇

の祖

母で

はあ

るが

、宮子

・山背

とは違

って

天皇

の母

では

なく

、天

皇・追尊

天皇

の配偶者

でも

ない

。だ

が、

不比

等の

「淡海公

」自体

が極

めて異例

の、臣

下最高

の地

位た

る太

政大臣

では処遇

しき

れな

いと

して特

に設定

され

た称号

であ

る。

三千

代の

「大

夫人

」と

とも

に、二人

を王

権構成員

に準

る存在

とし

て顕賞

する意図

が明白

に読み

とれ

よう

。光

明に

よる写経奥

書や聖

武の勅

願文

の中

には

、こ

れに先

だっ

て「

橘氏

太夫人

」の号

がみ

える

の時

に「南北両

大臣

」と

して仲麻呂父

の武智麻呂

とと

もに

太政

大臣

を追贈

され

た房

前は

、牟漏

女王

の夫

、つ

まり

三千

代の

娘婿

であ

る。

元明

太上

天皇

は、死去直

前の

養老五

年(

七二

一)

一一

月、房

前に詔

し、

〝内臣

とし

朝廷

の内

外の

こと

を取

り計

らい

、勅

に准

じて

実行

し、帝業

を助

ける

よう

に〟 と

命じ

た。

元明

太上

天皇

のこ

うし

Page 10: はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明 詔 を 失 は む か」として、橘宿 禰 姓を賜り橘氏の 名 を 永

- 10 -

房前

への信頼

、祖父鎌足

・父

不比

等と並

ぶ「

内臣

」就任

いう特別

の扱

いや

、王

家家産

の運営

に果

たし

た役

割な

どに

つい

ては

、近

年、

さまざ

まな方面

から

の解

明が

すすみ

(瀧

浪一

九九

一、鷺守

一九

九六

、川敏子

一九

九七

、東野二

〇一

)、背景

とし

て牟漏

女王

および

三千

代の存在

を指摘

る見方

が有

力で

ある

千代

を中心

に据

えた婚姻

・親

族図

を作成

してみ

ると

上図

のよ

うに

なる

。周到

な婚姻策

から

は、

三千

代の

政治

力の

大き

さが見

てと

れる

(森

一九

九五

)が

、そ

れは

たん

る勢

力拡

大で

はな

い。

こう

した布石

を通

じて

、王

権と

半ば

融合

させ

つつ

藤原

氏・

橘氏

を縦横

につ

なぐ

権力核

が形成

れて

いっ

たの

であ

る。

平一

三年

(七四

一)

の国分寺建立

に際

して

、聖

武天

が特

に名

前を

あげ

て願

った

のは

、現

に生

きて

いる

太上

天皇

(元

正)・

大夫人

藤原

氏(

宮子

)・

皇后

藤原

氏(

光明

)・

皇太

子以

下親

王・

正二

位右

大臣

橘宿

禰諸

兄等

が彼岸

に向

かう

と、

そし

て今

は亡

き藤

原氏先

後太

政大臣

(鎌足

・不

Page 11: はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明 詔 を 失 は む か」として、橘宿 禰 姓を賜り橘氏の 名 を 永

- 11 -

等)・

皇后先妣従

一位

橘氏

大夫人

(三

千代

)の霊

が先帝尊霊

を奉

じて

浄土

に遊

ぶこ

とで

ある

(『類聚

三代格

』巻

三、

同年二

月一四

日勅

)。

また

、大仏造立

のさ

なか

に陸奥国

で黄

金が産

出し

たこ

とを

賀す叙

位(

天平勝宝

元年〔

七四

九〕四

月)

にお

いて

は、特

に三

千代

の名

をあげ

て、

県犬

養橘

夫人

の天

皇が

御世重ね

て赤

き浄

き心

を以

て仕

へ奉

り、

皇朕

が御

世に

当り

ても怠

り緩

ふ事無

く助

け仕

へ奉

り、

しか

のみ

にあ

らず

、祖父

大臣

の殿門荒

し穢

す事无

く守

りつ

つ在

らし

し事

、い

そしみ

うむ

がしみ忘

れ給

はず

とし

てな

も孫

等一二

治め

賜ふ

千代

が代々

の天

皇に

忠誠

を尽

くし

、朕

(聖

武)

にも怠

らず仕

え、

さら

に祖父

にあ

たる

不比

等の

一門

(そ

の死

後も

)し

っか

り守

り抜

いた

こと

は、

まこ

とに嬉

しく忘

れが

たい

ので

、そ

の孫

たち

に位

を与

える

とし

て、「

大臣

の子

等」(

不比

等の孫

であ

る男

女)

とと

もに

、三

千代

の孫

であ

る橘

奈良麻呂

・橘

古那

可智

が叙

位に

預か

って

いる

。藤

原氏

・橘

氏を

一体

とし

て王

権の周

りを

かた

めよ

うと

する

三千

代の

構想

は、聖

武+

光明

の治

世で

ある

この

ころ

まで

は、現

実の

もの

とし

て機

能し

てい

たの

であ

る。

西

宅大

刀自

と内

家・

大家

石山寺蔵

の『如意輪

陀羅尼経

』の跋語

には

三千

代に関

わる

貴重

な記載

があ

り、近

年、注目

を集

めて

いる

。こ

跋語

を広

く紹介

し意義

を明確

にし

た加

藤優

氏に

よる

と、

その字面

と大意

は次

のよ

うな

もの

であ

る。

Page 12: はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明 詔 を 失 は む か」として、橘宿 禰 姓を賜り橘氏の 名 を 永

- 12 -

大夫人観无量寿堂香函

中禅誦経

天平十二

年歳

次康 (庚)

辰四

月廿二

日戊寅

以内

家印

蹋西

家経

三字之

上謬与

大家

蹋印

書不

雑乱亦即

以印

蹋此記

上者見印

下西

之字応擬西宅之

書故

作別験永

為亀鏡

の経

は「

大夫人

」の観无量寿堂

に置

かれ

てい

たも

ので

ある

が、

天平十二

年(

七四

〇)四

月二十二

日に

経に記

され

てい

る「西

家経

」の

文字

の上

に「

内家印

」を押

した

。だ

が「

大家印

」を押

して

ある

もの

と混

同さ

せて

はな

らな

い。

文字

の上

に押

した

のは

、印

下に西

家の字

がみ

える

こと

によ

って西宅蔵

書に擬

する

ため

であ

り、

ここ

に特

に記

して永

く拠所

とす

る(『石山寺

古経聚

影』校倉聖経

一九

一、加

藤優

解説

)。

の跋語

を書

いた人物

は「

内家印

」の主

であ

る光

明皇

后、「

大家

」は父

の不

比等

(〔補遺〕参照

)、「

大夫人

」は

母の

三千

代で

、「西宅

」「西

家」

は彼

女の邸宅

をさ

す。

光明

は三

千代

の経

書(「西

家経

」「西宅之

書」)

を伝

え持

てい

たら

しい

。そ

れが父

不比

等か

ら受

け継

いだ

もの

(「

大家

蹋印

書」)

と紛

れな

いよ

うに

、「西

家経

」と

書か

れた

文字

の上

に自分

の「

内家

」印

を押

して目立

つよ

うに

した

、と

いう

ので

ある

(加

藤一

九九二

、東野二

〇〇

〇)。

れと

は別

に、

正倉院

文書

中の

光明発

願写経

の目録

に「西宅

」「西宅

大刀

自」

の語

がみ

え(『

大日

本古

文書

』七

―五

頁)、「西宅

大刀

自」=

三千

代と推定

され

てい

る(加

藤同

上・西

一九

九七

)。

光明

皇后

は、血縁

的・

政治

的に

不比

等と

三千

代を併

せ継ぐ

、唯

一の人物

であ

る。

その

こと

が同

時に

、経

・書

を含む重

要資財

、お

よび写経事業

を含む

経営

の場=邸宅

の継承

にも

つな

がる

こと

を、

この跋語

は鮮

やか

に映

し出

して

いる

。「西宅

大刀

自」=

「大

夫人

Page 13: はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明 詔 を 失 は む か」として、橘宿 禰 姓を賜り橘氏の 名 を 永

- 13 -

三千

代の観无量寿堂

は、

その

後、姿

を変

えつ

つ光

明の

娘の孝謙

天皇

に継承

され

たら

しい

(渡辺二

〇〇

〇)。

「西宅

」=

「西

家」

はど

こに

あっ

たの

だろ

うか

。平

城宮

の発掘調査

によ

って

、東張

り出

し部

(東院

)の東面

央部

、つ

まり

不比

等邸

の西面

中門

と向

き合

う場所

に宮

城門

のあ

った

こと

がわ

かっ

た。

この東院東面門

を「

県犬

門」

にあ

てて

、平

城遷都

時に

その存在

を遡

らせ

る説

が有

力で

ある

(渡辺

一九

九五

)。弘仁

九年

(八

一八

)に唐風

の二字

の門号

に改

める

まで

、宮

城の東西南北

一二門

には

、若

犬養

・佐伯

・多

治比

など

の氏

族名

がつ

けら

れて

いた

乙巳

の変

(大化改

新)

で蘇我

入鹿

を打倒

した

時に門

を守

った

氏の功績

を讃

えた

もの

らし

い(井

上一

九五四

)。

二の門号名

には

何度

か改廃

があ

り、「

県犬

養門

」の名称

は『弘仁式

』に

はあ

る(長岡

宮の

もの

)が

、以

後はみ

ず、

いつ始

まる

のか

不明

だっ

た。近

年、「

県犬甘門

」と

書か

れた木簡

が出土

して

、宮

城一二門

の一

つか

それ

以外

の小門

かは

不確定

なも

のの

、平

城宮

に「

県犬

養門

」の存在

した

こと

が確認

され

たの

であ

る。

は、

平城

宮東院

に接

し「

県犬

養門

」と向

いあ

う邸宅

は、〝不

比等邸〟

だろ

うか?

「太

政大臣

藤原

家の

県犬

養命

婦」・「

県犬

養橘

宿禰第

」に

つい

て述

べた

よう

に、

この邸宅

は、

正確

には

〝不

比等+

三千

代邸〟

と称

すべ

きも

ので

ある

。そ

して

、そ

こに

皇后

宮職

を置

いた

とさ

れる

光明

は、「西宅

」の経

書を

母三

千代

から受

け継ぎ

、そ

れは父

比等

の「

大家

蹋印

書」

と混雑

する

よう

な状態

で同

一の場所

に置

かれ

てい

たら

しい

。「西宅

」を

、広

大な邸宅

の西

半に

位置

する

こと

にち

なむ名称

と見

てよ

ければ

、三

千代

の居所

ない

しそ

の家

政機関

の置

かれ

た場所

は、

まさ

に平

城宮東院

に接

し「

県犬

養門

」に

もっ

とも近

いと

ころ

にあ

った

こと

にな

る。「

県犬

養門

」号採用

の契機

につ

いて

は、

諸兄

によ

る母

三千

代の

顕彰

(佐伯

一九五五

)か

、不

比等

によ

る妻

三千

代の

顕彰

(渡辺

一九

九五

)と

され

るが

、三

千代

本人

によ

るも

のとみ

る余

地も充分

にあ

るの

では

ない

か。

さら

に憶測

を逞

しく

する

ならば

、そ

もそ

もは

三千

Page 14: はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明 詔 を 失 は む か」として、橘宿 禰 姓を賜り橘氏の 名 を 永

- 14 -

に賜与

され

た邸宅

に、

不比

等が同居

し、

その

後の二人

の功績

によ

って面積

を著

しく拡

大し

、そ

れが

娘の

光明

に受

け継

がれ

たとみ

るこ

とも

、当

時の婚姻慣行

から

すれば

考え

られ

ない

こと

では

ない

ので

ある

来、

奈良

時代

の写経

に押

され

て印

影の残

る「

内家私印

」に

つい

て、

この

「内

家」

とは

、鎌足

・不

比等

の任

られ

た「

内臣

」にち

なむ

もの

で藤

原氏全体

をさ

し、

光明

皇后

が不

比等

の死

後に

それ

を私印

とし

て用

いた

とさ

れて

きた

(岸

一九

六九

)。

しか

し、『如意輪

陀羅尼経

』の跋語

を見

ると

明ら

かな

よう

に、

光明

は「

内家

」の印

を「

家」(

不比

等家

)の印

とは

っき

り区別

して扱

って

いる

。不

比等

の息子

たち

、つ

まり

光明

の四

兄弟

の「

家」

は、

れぞ

れ居宅

の位

置や

官職

に因む名称

で、南

家・北

家・式

家・京

家と呼ば

れた

。聖

武天

皇の

夫人

、のち

には

皇后

して

、自

らの

家政機関

であ

る「

家」(

宮)

をも

った

光明

にも

、同様

の通称

があ

った

とみ

て不思議

はな

い。

それ

「内

家」

だと思

う(義江

一九

八三

)。

不比

等邸

内に

おか

れた

光明

の皇

后宮職

は、

彼女

が聖

武夫人

とし

て保

持し

公的

家の発展形態

であ

る(関口

一九

八四

)。

平城

宮東院東隣

の邸宅

は、

家政機関

からみ

ても居住

の様

相か

らみ

も、

不比

等「

家」・

三千

代「

家」・

光明

「家

」の複合

した

もの

だっ

たの

であ

る。

養大

夫人

~藤

原大

后・

牟漏

女王

~橘

大后

氏は

諸兄

の死

後、

天平勝宝

九年

(七五

七)

の奈

良麻呂

の乱

でい

った

ん勢

力を失

う。

その

後、

平安

初頭

に、

良麻呂

の孫

にあ

たる嘉智子

(嵯峨

天皇

の皇

后)

が仁

明を

生み(

10頁の図参照

)、

氏神梅

宮社

の隆盛

や橘

氏子

弟の

ため

の大学別曹学館院

の設立

等に

力を尽

くし

た。

この梅

宮社

の祭神

の由

来を

、『伊呂波字類抄

』は

次の

よう

に伝

Page 15: はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明 詔 を 失 は む か」として、橘宿 禰 姓を賜り橘氏の 名 を 永

- 15 -

える

の神

は始

め、

犬養

大夫人

(三

千代

)の祭

る神

なり

。大

夫人

の子

の藤

原大

后(

光明

)及び牟漏

女王

、洛隅

頭に祭

り、

その

後、

相楽郡提山

に遷

し祭

る。

……近

く葛野川頭

に移

し祭

り、

大后

(嘉智子

)自

ら幸

きて拝

み祭

る。今

の梅

宮祭

、是

なり

『伊呂波字類抄

』は

平安

末成立

の字

書だ

が、

この部分

は何

らか

の古

い家譜記録

によ

るら

しく

、信憑

性が高

い(義

江一

九八

三)。

それ

によ

れば

、三

千代

の祭

って

いた神

が、

娘二人

(光

明と牟漏

)に

よっ

て受

け継

がれ

、提山

(諸

兄の拠点

があ

った井手

の地

)に遷

され

たのち

、嘉智子

の手

で都

の葛野河畔

に移

され

、現在

の梅

宮社

とな

った

のだ

とい

う。井手

には

、光

明に関

わる

王家

の土

地も

あっ

たら

しい

(櫛木二

〇〇二

)。

氏の

氏神

が、

藤原

氏の

光明

皇后

や王

族で

ある牟漏

女王

の手

で祭

られ

てい

たと

いう

のは

、一見

する

と奇異

なこ

とに思

われ

るか

もし

れな

い。

しか

しそ

れは

、氏

の組織

を固定

的な枠組み

でと

らえ

るか

らで

ある

。氏

は支

配層

の半

ば政

治的

な族組織

だが

、も

とも

とは双系

(方

)的

な結合

原理

から

なり

たっ

てい

て、有

力な

族長

の周辺

に父系

・母

系の縁

でつ

なが

る氏人

が結

集す

る、フレキシブル

な組織

だっ

た。個々

の氏人

の立場

から

する

と、

つね

に父方

・母

方双方

の複

数の

氏に潜在

的帰属

権が

あり

、政

治的

な情

勢に応

じて

より有

力な

氏の

一員

とし

て行

動す

るこ

とに

なる

(成員

権の

顕在化

)。

三千

代と

不比

等が

王権

の周囲

に勢

力圏

を築

きあげ

た八

世紀

前半

は、

まさ

に、

こう

したフレキ

シブル

で双系

(方

)的

な氏組織

が、

明確

な外延部

をもち成員

の範囲

を確定

する父系

の組織

に転換

しは

じめ

る、

の最

初の

時期

にあ

たる

。こ

の動

きに応

じて

、八

世紀

末~

九世

紀に

、父系

氏組織

の守護神

とし

ての

氏神

が広

く成立

して

くる

ので

ある

(義江

一九

八六

)。

こう

した

大き

な流

れの

中で

とら

えれば

、〝三

千代

~光

明・牟漏

~(

諸兄

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- 16 -

~嘉智子→

橘「

氏」

氏神

へ〟 と

いう梅

宮神奉祭

の歴史

は、ご

く自

然な

もの

とし

て理

解で

きよ

う。

明皇

后と牟漏

女王

が三

千代

の奉祭神

を祭

った

「洛隅

内頭

」と

は、

おそ

らく

平城

宮東院東隣

の邸宅

の一隅

であ

り、

内裏

に間近

いそ

の位

置を

さし

て「

内頭

」(頭

は 〝ほ

とり〟

の意

)と

いっ

たも

のと思

う。

光明

の「

内家私印

「内

家印

」の

「内

」と

も共通

する用法

であ

る。

光明

と牟漏

の異父姉妹

は、二人

に共通

する

母三

千代

の信仰

する神

を受

け継

いで祭

った

。こ

れを神祭

りだ

けの

こと

と考

える

のは

あた

るま

い。二人

の関係

は政

治的

な絆

とし

ても

働き

それぞ

れの

夫で

ある聖

武天

皇と

藤原房

前の連携

にも

つな

がっ

てい

く。

(無

)漏

女王

は、房

前の

妻と

なり

、永手

等を

生ん

だ。房

前死

後の

天平十

一年

(七

三九

)に

は、従四

位か

ら従

三位

にす

すん

でい

て、

後宮

一二司

の高

級女

官のポスト

にあ

った

と思

われ

るが

、具体

的に

はわ

から

ない

。母

の三

代は

、和

銅八

年(

七一五

)に尚侍

のランク

が引

き上げ

られ

て従四

位相

当と

なっ

た時

に、尚侍

だっ

たと推定

され

いる

(野村

一九

七八

)。尚侍

は後

宮一二司

の中

でも最重

要な

内侍司

の長

官で

、天

皇に近侍

して奏

上・勅宣

をつ

さど

る。

奈良

時代

から

平安

前期

にか

けて

は有

力貴

族の

妻や

娘が

つくポスト

で、

のち

には従

三位

相当

にま

で待遇

ひき

あげ

られ

た。牟漏

女王

も尚侍

だっ

たと

すれば

、房

前の

妻と

なり

、女

官と

して

の立場

で後

宮を掌握

した

彼女

は、

母三

千代

の政

治的

地位

とそ

の意図

を最

も忠

実に継承

した人物

とい

える

かも

しれ

ない

。房

前の

「北

大家

」(北

大臣

家)

は聖

武天

皇の

夫人

であ

る娘

の「

藤原北

夫人

家」

と機

構的

には融合

して存在

し、房

前死

後に

それ

を管

理し

たの

は妻

の牟漏

女王

であ

った

と思

われ

る(井山

一九

九四

)。牟漏

の福寿

を祈

る藤

原北

夫人

の写経事業

には

、光

明の

后宮職

から

の支援

もみ

られ

る(

栄原

一九

九五

)。

う一

つ、

光明

と牟漏

が並

んで姿

を表

すの

は、法隆寺

の資財帳

であ

る。法隆寺

(西院

・東院

)に施

入を行

った

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- 17 -

人物

とし

て「

皇后

宮」(=

光明

)・「無漏

王」(=牟漏

女王

)・「

橘夫人

」(=

橘古那

可智

)の名

が見

え、

光明

と牟漏

は同

日に鏡

を寄進

して

いる

。ま

た、東院

の創建

には阿倍

内親

王(孝謙

天皇

)が深

く関

わっ

てお

り、

これ

ら「

県犬

養三

千代

につ

なが

る一群

の人々

」に

よっ

て、

奈良

時代

の聖徳

太子信仰

は強

力に押

し進

めら

れた

らし

い(若井

一九

九四

)。

これ

に加

えて牟漏

につ

なが

る男

性、房

前と

八束

(房

前・牟漏

夫妻

の子

)の積極

的関与

も見

られ

る。東院

の創建

期瓦

と法華寺

下層遺

構(

不比

等邸

)の瓦

が同氾

であ

るこ

とか

らも

、法隆寺東院

の造営

は、

三千

代の信仰

起点

とし

つつ

、藤

原氏

によ

る造営事業

の側面

を併

せ持

つと指摘

され

てい

る(東野

一九

九七

・二

〇〇

〇)。

興福寺

は一般

に藤

原氏

の氏寺

とい

われ

るが

、不

比等没

後は

、そ

の追善

のた

めの

元明

太上

天皇

と元

正天

皇に

よる

北円堂建立

、三

千代

によ

る中

金堂弥勒

浄土造立

、元

正太

上天

皇の病気

平癒

のた

めの聖

武天

皇に

よる東

金堂建立

そし

て光

明皇

后に

よる

三千

代追善

の西

金堂

の建立

と、

歴代

天皇

を巻

き込

んで

「不

比等=

三千

代の冥福

と天

皇家

安寧

が祈

願さ

れた

」の

であ

る(吉川真司

一九

九五

)。講堂

の羂索菩薩像

・四

天像

は牟漏

女王

の発

願に

なり

、そ

を「孝子

」藤

原夫人

(房

前と牟漏

の娘

であ

る藤

原北

夫人

)が継

いで完成

させ

たも

のと

いう

(『興福寺縁起

』)。

のよ

うに

、三

千代

に始

まる神

祇信仰

と仏教信仰

のどち

らも

が、

彼女

の子

・孫

によ

る邸宅

・資財

・政

治的

勢威

の継承

と密接

に重

なり

つつ

、国

家機

構や

王家財産

をも縦横

に活用

して

、藤

原氏

・橘

氏の人々

によ

って発展

させ

れて

いっ

たの

であ

る。

本古

代に

おけ

る私経営

の展

開をみ

た場合

、八

世紀

後半

から

九世

紀に

かけ

て成立

する富豪

層の

「家

」は

、家長

(夫

)と

家室

(妻

)と

いう二

つの

中心

をもち

、両者

の協

力に

よる経営

が「

家業継

続に

とっ

ては

不可欠

の条件

」だ

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- 18 -

った

(吉田

一九

八三

)。支

配層

・富裕

層の

男女

がそ

れぞ

れに財産

を所有

し経営機

能を

持っ

てい

た当

時、両者

の婚

姻に

よっ

て一

つの経営体

が形成

され

、さ

らに富

を蓄積

して

いく

のだ

が、

どち

らか

が死ぬ

とそ

の経営体

は分

解し

しま

う。父系

で継承

され

る永

続的

な「

家」経営体

のし

くみ

はま

だで

きて

いな

い。

不比

等・

三千

代夫

妻にみ

られ

た、

王権

に密着

し融合

しつ

つ両者

の子孫

を縦横

に結

んで

の権

力核

の形成

、そ

して両者

の死

後に始

まる

権力核

の崩壊

(藤

原四

家の分立

・争

い、

橘奈

良麻呂

の乱

、草壁系

皇統

の行

き詰

まり

)は

、国

政中枢部

で展

開し

た 〝権

力+経

営〟

をめぐ

る同様

の動

きとみ

るこ

とも

でき

よう

。こ

の過程

を経

て、

奈良

末~

平安

初以降

は、

藤原

氏諸流

、橘

氏、

そし

て桓

武系

王統

によ

る天

皇家

が、

それぞ

れ、確立

へ向

けて

の独

自の歩み

を始

める

ので

ある

〔補遺〕

本稿

は、

ある

出版社

の依頼

に応

じて二

〇〇

三年

三月

に成稿送付

した

もの

であ

る。

その

後、

諸般

の事情

によ

り刊

行が遅

れ、私

が三

千代関連

の研究

をす

すめ

る上

で未発

表の

まま

でお

くこ

とに

多大

の困難

を覚

える

にい

たっ

た。

こで

、出版社

の了

解を得

て、ほぼ

元原稿

のま

まで

本号

に掲載

する

こと

とし

た。

ただ

し、成稿

後か

なり

の年

月を経

る間

に、関連

の論

考も

いく

つか発

表さ

れて

いる

。こ

こで

は、特

に重

要な

もの

をと

りあげ

、私見

を述

べて

おき

たい

小倉慈司

氏は近稿

「五

月一

日経

願文

作成

の背景

」(小倉二

〇〇

三)

にお

いて

、本稿

の三

でと

りあげ

た『如意輪

陀羅尼経

』跋語

に関

して

、興味深

い指摘

を行

って

いる

。小倉

氏に

よれば

、天

平十二

年の五

月一

日経

願文

が不

比等

と三

千代

の追善

を祈

る内容

とな

って

いる

のは

、「単

なる私

的祈

願で

はな

く、二人

の追善

を通

じて国

家の安寧

を祈

願す

ると

いう

」「

光明子

の強

い意志

」を示

した

もの

とい

う。

そし

て、ほぼ同

時期

の『如意輪

陀羅尼経

』跋語

も同

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- 19 -

じ意志

のも

とに

作成

され

たとみ

て、

その

光明

の意志

とは

、「西宅

」(

三千

代宅

)の第

一の継承者

であ

った

「(北

大家

」(牟漏

女王

)の蔵

書と区別

して

、「西宅

」「西

家経

」が

「内

家」(

光明

)の管

理下

にあ

るこ

と、

つま

り「

自ら

が三

千代

の後継者

であ

るこ

とを

明示

」し

たも

のと

解釈

して

いる

。そ

の背景

には

、天

平一二

年に勃発

する

藤原広嗣

の乱

に連

動す

るよ

うな

動き

を封

じる意図

があ

った

のだ

とい

う。

牟漏

女王

が母

三千

代の

「西宅

」を継承

しそ

こに居住

した

との推定

は、「洛隅

内頭

」の

三千

代奉祭神

を牟漏

と光

明の二人

が祭

った

とい

う『伊呂波字類抄

』の伝

え(

本文

15頁)

とも関連

して

、興味深

い。

しか

し、

天平十二

とい

う時

期に

おけ

る光

明の意志

が、同

母姉

の牟漏

女王

に対抗

して

三千

代後継者

とし

ての

自己

を主張

する

とこ

ろに

あっ

たとみ

るこ

とは

、果

たし

て妥

当だ

ろう

か。少

なく

とも法隆寺資財帳

から

は、

光明

、牟漏

(と

夫の房

前)、

らに

光明

の娘

であ

る阿倍

内親

王(孝謙

)、牟漏

の娘

であ

る藤

原北

夫人

たち

が、

佐為

の娘

であ

る橘

(少

)夫人

をも

含め

て、

三千

代と

不比

等が

創出

した

権力核

の維

持・継承

に協

力し

あっ

てい

るよ

うに思

える

(本

17頁)。

た、『如意輪

陀羅尼経

』跋語

の「

大家

」を

、オホトジ=

「貴人

の寡

婦の尊称

」と

理解

し、房

前の寡

婦で

ある

牟漏

女王

をさ

すと見

るこ

とに

も、疑問

を感

じる

。本

文で

も述

べた

よう

に、

平城

宮東院東隣

の邸宅

では

、不

比等

三千

代の

それぞ

れの

家政機関

(公

的家

)が

、機

構的

に融合

しつ

つ空間

的に

は区分

され

て存在

して

いた

。こ

うし

こと

は、長屋

王・吉備

内親

王夫

妻の例

から

もわ

かる

よう

に、

当時

の上

層貴

族・

王族

の夫

婦間

・親子間

では

しば

ば見

られ

たこ

とで

ある

。こ

うし

た形態

で同

一邸宅

内に存在

した複

数の公

的家

政機関

相互

を区別

する呼称

とし

ては

「大

家」=オホトジ

とい

う一般

的名称

では

、お

さま

りが悪

いの

では

ない

だろ

うか

。や

はり

、「

大家

」=

太政

大臣

比等

の「

家」

と解釈

し、「西

家」=邸宅西

半部

にあ

った

内命

婦三

千代

の「

家」、「

内家

」=

皇后

光明子

の「

家」

Page 20: はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明 詔 を 失 は む か」として、橘宿 禰 姓を賜り橘氏の 名 を 永

- 20 -

区別

した

もの

とみ

てお

きた

い。

文の最

後に

も述

べた

よう

に、

不比

等と

三千

代の没

後、二人

の創

出し

た権

力核

への

藤原

氏・

橘氏

の結

集に

は次

第に

動揺

が起

きは

じめ

、や

がて崩壊

する

。広嗣

の乱

は、

その最

初の

大き

な動

きで

ある

。こ

の乱

に関連

づけ

て、

ぜ「

天平

一二

年」

とい

う時点

で二人

の追善

を正面

に掲げ

た光

明の

願文

が作成

され

たの

かを

解明

した小倉

説に

は、

心か

らの賛意

を表

した

い。

だか

らこ

そ、『如意輪

陀羅尼経

』跋語

に込

めら

れた

「二人

の追善

を通

じて国

家の安寧

を祈

願す

る」

光明子

の意志

は、「

大家

」(

不比

等)

を継承

する立場

にあ

る藤

原氏

の人々

と、「西

家」(

三千

代)

を継

承す

る立場

にあ

る橘

氏の人々

に対

して

、両者

をあ

わせ継承

する

「内

家」

たる

自己

の位

置を

明示

する

、と

いう

とこ

ろに

あっ

たと見

るべ

きな

ので

はな

いだ

ろう

か。

〔参

考文献〕

井上

九六

一 「宮

城一二門

の門号

と乙巳

の変

」『

日本

古代

の政

治と宗教

』吉川弘

文館

(初

出一

九五四

)。

井山

温子

一九

九四

「古

代の

『家

』と

その継承―

長屋

王家

と藤

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の場合

『政

治経済史学

』三

三八

小倉

慈司二

〇〇

三 「五

月一

日経

願文

作成

の背景

」笹山晴

生編

『日

本律

令制

の展

開』吉川弘

文館

加藤

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』の跋語

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深密

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下―

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加藤

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古経聚英

』宝蔵館

岸 俊

一九

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県犬

養橘

宿禰

三千

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めぐ

る憶

説」『

宮都

と木簡

』吉川弘

文館

(初

出一

九六

七)。

Page 21: はじめに 橘三千代 · 2008-03-10 · - 3 - 「 継嗣無 くは、 恐 るらくは明 詔 を 失 は む か」として、橘宿 禰 姓を賜り橘氏の 名 を 永

- 21 -

櫛木

謙周二

〇〇二

橘諸

兄と井手

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と京街道

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の日

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文館

胡口

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の命名

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橘宿

禰三

千代

」『

続日

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』一

八五

佐伯

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一九

七〇

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につ

いて

の研究

」『

日本

古代

の政

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』吉川弘

文館

(初

出一

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九九五

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と藤

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」虎尾俊哉編

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と儀礼

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館。

鷺守

浩幸

一九

九六

八世

紀に

おけ

る王

家の

家産

」『

日本史研究

』四

〇五

関口

裕子二

〇〇四

日本

古代

の豪

貴族

層に

おけ

る家

族の特質

につ

いて

(下

)」『

日本

古代

家族史

の研究

』下

塙書房

(初

出一

九八四

年)。

瀧浪

貞子

一九

九一

武智麻呂

政権

の成立―

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前論

の再検討―

」『

日本

古代

宮廷社会

の研究

』思

閣出版

東野

治之二

〇〇

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と紫微

中台

」『仏教芸術

』二五

九。

東野

治之

一九

九七

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の太子信仰

と上

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」石田尚豊他編

『聖徳

太子事

典』柏

書房

東野

治之二

〇〇

〇 「

橘夫人厨子

と橘

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」『

MU

SE

UM』五

六五

、東京国立博物館

中川

九九五

県犬

養橘

宿禰

三千

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と政

治』吉川弘

文館

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西 洋子

九九

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本宅小

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誌』

三八

西野

悠紀子

一九

八二

律令体

制下

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族と近

親婚

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性史総合研究会編

『日

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』一

、東京

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出版会

黛 弘道

九八二

犬養

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犬養部

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」『

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の研究

』吉川弘

文館

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- 22 -

森 公

章 二

〇〇

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と恵

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奈良

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の家

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」『長屋

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』吉川弘

文館

、(

初出

一九

九五

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山下信

一郎二

〇〇二

「木簡研究

の最

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藤原京左京

七条

一坊西南

坪出土

の木簡―

」直木孝

次郎他編

『世

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を考

える

』ケイ

・アイ

・メ

ディ

ア。

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一九

八六

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〇〇二

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天皇

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藤原

氏」『

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日本通史

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書店

敏子二

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の内臣

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』塙

書房

吉田

九八

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家と

古代

の社会

』岩波

書店

若井

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九九四

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と古

代寺院

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本紀研究

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八八

渡辺

宏一

九九五

平城

宮東面

宮城門号

考―

東院南門

(S

B一

六〇

〇〇

)の発見

によ

せて―

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『律

令国

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と儀礼

』吉川弘

文館

渡辺

晃宏

〇〇

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陀浄土院

と光

明子追善事業

」『

奈良史学

』一

八。