2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...1 新潟大学人文学部...

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1 歴史文化学主専攻プログラム 2019年度 卒業論文概要 【日本史】 小場 颯希 『魏志』倭人伝の地理的記述と国々......................................................... 3 島津 久遠 足利義材政権論 ......................................................................................... 4 菅原 大智 平安期における臣籍降下........................................................................... 5 吉田 駿汰 中世前期における荘園の成立 髙林 尚史 戦国期駿河・三河の権力構造.................................................................... 6 藤田 真理子 発給文書にみる鎌倉幕府権力の文化......................................................... 8 渡邊 健太 南北朝・室町期の佐渡本間氏の活動....................................................... 10 鈴木 蒼衣 文化五年会津藩蝦夷地警衛に関する一考察 ............................................ 11 長谷川 恵梨 長岡の鋳物師 星野太郎右衛門家について ............................................ 12 古川 結衣 近世越後における遊行上人廻国 .............................................................. 13 畔上 雄太 明治期新潟における米価騰貴と地域社会 ............................................... 14 葛西 瑠香 20世紀初期における北海道旭川の都市形成 ........................................... 15 神田 愛実 戦時期新潟県における満州開拓団と地域 ............................................... 16 小橋川 莉衣音 米軍統治下の沖縄における基地労働者の基地認識 ................................. 17 酒井 勇貴 昭和戦前期における軍隊と地域の関係についてー新潟県新発田市を 事例にー .................................................................................................. 18 佐久間 美早 大正期の地域社会における神職の活動 ................................................... 19 佐藤 真大 大正期の地域社会と防災......................................................................... 20 千葉 大樹 昭和戦前期における新潟県の電力問題 ................................................... 21 西方 大輝 秋田県における青年奉公馬運動について ............................................... 22 舩山 知希 近代の山形県における地域社会と歴史認識 ............................................ 23 松嶋 珠子 1920年代から1930年代における映画文化と検閲 ................................... 24 水野 孝文 アジア太平洋戦争期の軍事郵便にみる関係性 ........................................ 25

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新 潟 大 学 人 文 学 部

歴史文化学主専攻プログラム

2019年度 卒業論文概要

【日本史】

小場 颯希 『魏志』倭人伝の地理的記述と国々 ......................................................... 3 島津 久遠 足利義材政権論 ......................................................................................... 4 菅原 大智 平安期における臣籍降下 ........................................................................... 5 吉田 駿汰 中世前期における荘園の成立 髙林 尚史 戦国期駿河・三河の権力構造 .................................................................... 6 藤田 真理子 発給文書にみる鎌倉幕府権力の文化 ......................................................... 8 渡邊 健太 南北朝・室町期の佐渡本間氏の活動 ....................................................... 10 鈴木 蒼衣 文化五年会津藩蝦夷地警衛に関する一考察 ............................................ 11 長谷川 恵梨 長岡の鋳物師 星野太郎右衛門家について ............................................ 12 古川 結衣 近世越後における遊行上人廻国 .............................................................. 13 畔上 雄太 明治期新潟における米価騰貴と地域社会 ............................................... 14 葛西 瑠香 20世紀初期における北海道旭川の都市形成 ........................................... 15 神田 愛実 戦時期新潟県における満州開拓団と地域 ............................................... 16 小橋川 莉衣音 米軍統治下の沖縄における基地労働者の基地認識 ................................. 17 酒井 勇貴 昭和戦前期における軍隊と地域の関係についてー新潟県新発田市を

事例にー .................................................................................................. 18 佐久間 美早 大正期の地域社会における神職の活動 ................................................... 19 佐藤 真大 大正期の地域社会と防災 ......................................................................... 20 千葉 大樹 昭和戦前期における新潟県の電力問題 ................................................... 21 西方 大輝 秋田県における青年奉公馬運動について ............................................... 22 舩山 知希 近代の山形県における地域社会と歴史認識 ............................................ 23 松嶋 珠子 1920年代から1930年代における映画文化と検閲 ................................... 24 水野 孝文 アジア太平洋戦争期の軍事郵便にみる関係性 ........................................ 25

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【アジア史】

飯田 淳瑞 唐~吐蕃支配期の敦煌における薬材の流通 ............................................ 26 早川 泰平 秦代の農村統治と農民の生活 .................................................................. 27 片山 紗希 1930年代における関東州の労働統制 ...................................................... 28 及川 美咲 独立新聞にみられる日本観 ..................................................................... 29 大場 千尋 植民地朝鮮における普通学校教育 .......................................................... 30 小山 茉緒 「装い」の面から見た朝鮮新女性 .......................................................... 31

【西洋史】

大久保 綾乃 オルフェウス教から見た古代ギリシャにおける国家と宗教生活 北村 真理 初期キリスト教における奴隷の位置づけ 若林 拓歩 リチャードⅠ世による第三回十字軍遠征に関する一考察 渡邉 仁太 古代エジプト医学・医術についての古代人の評価とその実態 木下 右子 マリア崇敬と民衆の信仰 入澤 真穂 アルブレヒト・デューラー作《四人の使徒》に関する一考察 ............... 32 清水 萌琴 ルネサンス期イタリアの色彩に関する研究 ............................................ 34 鈴木 朝陽 オスマン帝国におけるスルタンの帝国観 ............................................... 36 鈴木 勇希 サラディン像の形成と受容 ..................................................................... 37 野嶋 菜央 ウズベキスタン共和国のナショナル・アイデンティティ ...................... 39 渡辺 京子 聖母マリアによる使途とマスへの生体授与を描いた作品に関する一考察 渡部 有希 『七部法典』からみる中世カスティーリャの異教徒観 .......................... 41 内山 進介 ロバート・ベラーとタルコット・パーソンズにおける市民宗教論の比較研究 渡部 雅士 ホロコースト研究 小松 泉輝 フランクリン・D・ルーズベルトの対日政策 清水 厚宏 ビスマルクの政治思想に関する一考察 杉本 詩織 アメリカにおける第2波フェミニズム運動の歴史的意義 本間 大輝 国民とナショナリズム 山田 千鶴 三十年戦争期の軍事に関する一考察 小池 香帆里 セイラム魔女裁判における魔女 田母神 萌 21世紀ドイツにおけるポピュリズムの動き

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『魏志』倭人伝の地理的記述と国々 小場 颯希

本稿の目的は、『魏志』倭人伝の地理的記述に係る新たな解釈として段階説を提唱することである。従来は、連続説と放射説によって解釈されてきた。両説は、『魏志』倭人伝の地理的記述が一度の行程に基づいていることを前提にしているが、この点について明確な根拠を述べた先行研究は見当たらない。『魏志』倭人伝の政治的記述からは複数の時期の情報が確認できるにも関わらず、このような前提のもとに論を進めてきたことは問題であると言え、再検討が必要である。

第一章では、『魏志』倭人伝について検討し、その性質やこれまでの捉え方の問題点を明らかにした。『魏志』倭人伝とは独立した書ではないため、『魏志』倭人伝という表記を用いるべきであること、『魏志』倭人伝の記載順や内容の項目立ては、『魏志』倭人伝を参考、引用したとされる他の中国の正史を見ると意味がなく、内容の誤った解釈を引き起こしてしまうことを指摘した。これらを踏まえると、連続説や放射説の前提には疑問が生じることから、従来の説に代わる新しい説として『魏志』倭人伝の地理的記述が二段階以上の行程をもとにして書かれたとする段階説を提唱した。

第二章では、段階説を裏付ける根拠の一つとして、他の文献史料との比較による証明を行った。『魏志』倭人伝以外の他の中国の正史を見てみると、二度以上の行程を同じ文章のなかに組み込み、その期間や詳しい日程を明

らかにせずに記述することは珍しいことではないと確認できた。また、文献が作成される時代までの一般的知識に、それ以降に得られた新しい情報を付け加えることによって、同じ文章内の情報に時差が生じる場合があることも明らかになった。これらのことから、『魏志』倭人伝においても省略と知識の付加が行われた可能性が十分にあることを指摘した。

第三章では考古学的成果から段階説を検討した。『魏志』倭人伝に記載される国の遺跡や墳墓、交易状況などによって各国の最盛期や規模の変遷が明らかになり、伊都国(福岡県糸島市)以前と奴国(福岡県福岡市、春日市) 以降では差が見られた。また、鏡の分布の偏りが九州から畿内へと変化したり、出土量が増加したりする時期は弥生時代終末期であることも明らかになった。したがって、考古学的成果からも段階説は有力であると言え、段階説における前半と後半の境は弥生時代終末期であることを指摘した。

以上を踏まえ、本稿では『魏志』倭人伝の地理的記述の解釈として段階説が妥当であると結論付けた。『魏志』倭人伝の地理的記述は二段階以上の行程をもとにして書かれ、その境は弥生時代終末期に相当するとし、伊都国以前は倭国大乱以前、奴国以降はその後の交易で得られた情報によって作成されたことを明らかにした。

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足利義材政権論―畠山尚順を中心に― 島津 久遠

これまで足利義材政権について将軍直臣団や大内義興・細川高国の研究は行われてきたが、畠山尚順の研究は川口成人氏・小池辰典氏の報告レジュメにとどまる。本稿では、諸国流浪期における足利義材と畠山尚順の関係を中心に、畠山尚順の動向に着目することで、足利義材政権の実態を明らかにすることである。

第一章では、諸国流浪期の足利義材と畠山尚順について検討を行った。明応三年(1494)

以降、義材と尚順は頻繁に連携を図っており、義材の上洛活動には尚順が関わっていた。特に大内氏や大友氏といった西国大名との上洛活動は尚順を中心に行われていた。また、義材が上洛するためには畿内における細川方を攻略する必要があり、畿内において義材方であった尚順が非常に重要な存在であったことを指摘した。従来、大内義興の働きがあったため、義材が上洛することが出来たとされてきた。しかし、大内義興は細川方を脅威に感じており、義材が周防に下向した後もすぐには上洛の動きはみせない。そのため、細川高国を義材方に引き入れた尚順の働きは義材の上洛に大きく貢献したことを明らかにした。またこの時、多くの大名が中立的立場にあり、情勢を見守っていた。これは、義材の権威が政変による没落後も維持されていたためであることを考察した。

第二章では、足利義材の第二次在京政権について検討を行った。義材を支えた有力な在京大名は、畠山尚順と関係がある人物で構成されていたことを指摘した。また、義材は尚順を高く評価し、第二次在京政権においても

尚順を重視する姿勢を見せたことから、尚順を在京大名の中心に据えようとしたことを明らかにした。しかし、大内義興・細川高国の反対と尚順の幕府行事への不参加によって失敗し、尚順は永正十年(1513)には政権下においての地位が低下していることを指摘した。その後、義材は永正十年には起請文にて有力な在京大名に成敗に背かないことを誓わせており、幕府運営の主体は将軍であった。また、義材は第一次在京政権では見られなかった朝廷を尊重する姿勢を見せる。これは、没落によって動揺した権威を安定させるためであることを明らかにした。そして、永正十年より有力な在京大名が次々と帰国したことを機に義材は側近であった畠山順光の幕府内における地位を高め、独立した権力基盤を作ろうとしたことを考察した。

以上のことから、先行研究では義材の上洛における一番の立役者は大内義興とされてきたが、義材にとって尚順の存在は義興に匹敵するほど上洛の為には重要な存在であった。このことは、義材が将軍に復職した後、尚順宿所への御成という形で現れる。また、義材は政変によって没落した後も、権威を維持しており、諸大名は中立的立場が多くを占めた。第二次義材政権では没落によって動揺した権威を安定させるために、有力な在京大名に起請文を書かせ、朝廷を尊重する姿勢をみせたことを指摘した。義材は多くの在京大名の帰国を機に独立した権力基盤を作ろうとしたことを明らかにした。

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平安期における臣籍降下―賜姓皇女を中心に― 菅原 大智

本稿の目的は、源氏賜姓研究においてこれまでほとんど顧みられてこなかった「賜姓皇女」に着目することで、彼女らが皇親勢力としてどのような役割を果たし、平安期における貴族社会の中でその動向がどのような意味を持ったのかを明らかにすることである。これまで源氏賜姓についての研究は数多くなされてきたが、賜姓皇女を主題としているものは管見の限りない。史料の制約上、源氏賜姓を論じる場合その主眼が男子に傾きがちになっている状況下で、賜姓皇女という視点が研究課題としていかに有用であるかを示す試みである。

第1章では、源氏賜姓が行われていた時期を皇女への賜姓という観点から区分し、その目的や意義の変遷について検討した。本稿では、第1期嵯峨・淳和期、第2期仁明~陽成期、第3期光孝期、第4期宇多期、第5期醍醐・村上期、というように5つの時期に区分した。第1

期と第2期では、源氏賜姓が創始され、仁明朝以降原則が成立する過程を考察した。光孝期・宇多期では特異な経緯で即位した光孝天皇系が自らの血統の正統性を補うために賜姓を抑制し、賜姓皇女を有力貴族に配することで皇権の安定化が図られたことを指摘した。醍醐・村上期では朝廷内が天皇を中心としたミウチ集団の相互依存の権力を形成する場と化した中で、摂関家への内親王降嫁が認められるようになり、皇室と摂関家の婚姻形態がこれまでのものに比べて一層発展した時期であったことを述べた。

第2章では、婚姻関係や動向が比較的知られている源潔姫・全姫姉妹と源順子を題材に、

賜姓皇女の個別的検討を行った。同母姉妹である源潔姫・全姫姉妹については潔姫の夫である藤原良房とその姪・藤原淑子、姉妹の外戚である当麻氏らが良房家と後宮のパイプ役として機能していた可能性を指摘した。第2節の源順子に関しては、宇多が女を藤原忠平に配すことで藤原北家と関係性を深化させるとともに、順子の外祖父であり寵臣でもある菅原道真と北家のつながりを強化する狙いもあったことを示した。

第3章では、婚姻という側面から賜姓皇女と内親王の比較を行った。そこで内親王は天皇や親王との婚姻を通して皇室内部の紐帯、賜姓皇女は皇室と臣下である藤原北家との紐帯としての役割を担っていたことを明らかにした。

以上のように、賜姓皇女を中心に据えて源氏賜姓の目的・意義の変遷と、賜姓皇女の役割や活動について内親王との比較も交えつつ検討した。皇女への賜姓は内親王と臣下の婚姻を禁止する「継嗣令」への抵触を避けるものではあった。しかし結果的に賜姓皇女の臣下との婚姻例は第2章で取り上げた2例しか知られておらず、賜姓が必ずしも有効に作用したとはいえなかった。そこから賜姓皇女が内親王に準じた尊貴性を発揮していたため、皇子の立場を利用して高位高官に昇りつめた男子とは異なり、女子への賜姓は徐々にその意義を喪失していったと推測した。醍醐・村上の皇子女には臣籍に降った後、皇籍に復帰する者があり、その存在もまた、賜姓の意義を小さなものにした一因であると考えられる。

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戦国期駿河・遠江・三河の権力構造 ―今川氏感状を視角として―

髙林 尚史

本稿の目的は、戦国期における駿河国・遠江国・三河国の三国に強い影響力を持った今川氏発給文書の検討を通して、三国の権力構造を明らかにすることである。権力側の発給文書の中でも感状を検討することは、受給者側だけでなく発給者側の機能や意義も掴むことができ、権力構造を把握する為の媒体として優れているとされる。しかし先行研究では、感状を題材として三国の権力構造を明らかにしようとした研究は未だ行われていない。そこで本稿では今川氏感状130点余りを対象とし、各期の特徴、今川氏と戦国領主との関係の変化に着目して考察を行った。

第一章では、氏親期から氏真期までに発給された感状を、時期ごとに分けて検討した。 その中で、義元期の天文8年(1540)頃から具体的な疵などを感状に記載するようになったことを指摘し、この時期を境に詳細な疵の注進などが行われるようになり、感状の発給に至る経緯が変化したこと、その注進の方法も複数取られていたことを明らかにした。 氏真期には感状に書かれる文言が少し変化し、恩賞を曖昧に約束する文言を持つ感状が増加することを指摘し、その理由を氏真の具体的な権利を保障する力が失われたことに求め、それが原因となり多くの戦国領主などの離反を招いたと結論付けた。

第二章では、今川氏と各地の戦国領主との関係について検討した。

駿河国について、今川氏や葛山氏から吉野氏へ発給された感状を事例に、義元期には今川氏が駿河国駿東郡にまで影響力を拡大さ

せていたことを明らかにした。

そして天文17年(1548)小豆坂合戦の際、三河国の西郷氏への感状に具体的な恩賞給与を約束する文言が書かれている点に着目し、この時期にはまだ今川氏と三河の関係は不安定であったことが原因であると考察した。

また氏真期における奥平氏への感状の書止文言の変化に着目し、永禄2年(1559)11月→永禄4年(1561)6月にかけては厚礼化、永禄4年6月→永禄5年(1562)7月にかけては薄礼化が見られることを指摘し、厚礼化は三州錯乱による今川氏の権力の低下、薄礼化は永禄5年2月の氏真の三河出陣を起点とした今川氏の影響力の一時的な回復に求めた。

その後永禄7年(1564)5月に牧野氏へ発給された感状に、恩賞を曖昧に約束する文言が使用されている点から、三河国内における今川氏の影響力はその時点でほぼ失われていることを明らかにした。

第三章では、今川氏感状の発給方法の変化を中心に検討した。

まず永正年間(1504~1521)の福嶋氏と本間氏の関係を題材に、氏親期の本間氏の扱いが、「奏者―同心」関係の「同心」としての扱いではなく、福嶋氏の被官のような扱いであると示し、永正年間において制度として寄親寄子制は存在しえず、寄親寄子制の成立とほぼ同時期に感状の発給過程も変化したという点を明らかにした。

氏真期になると、牧野氏の被官を宛所として直接感状が発給され、牧野氏と同じ三河の

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戦国領主である奥平氏や鵜殿氏にはその現象が見られない事から、直接被官を宛所とする形式が取られたのは、今川氏発給文書の書止文言が「仍如件」や「謹言」とされた者に限られていたことを明らかにした。それは、三河国や遠江国において今川氏の権力が低下する中、今川氏の影響力を維持する為に被官人の把握を始めたのが実情であったと考察した。

本稿では、氏親期から義元期にかけての三国での今川氏の権力を拡大していく過程や、今川氏の権力が衰退していく過程における三国の権力構造の変化を明らかにした。今川氏感状を検討することは今川氏を軸とした権力構造を明らかにするうえで一つの有効な視点になり得るということも本稿より示すことができた。

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発給文書にみる鎌倉幕府権力の変化 ―御判下文・将軍家政所下文・関東下知状の様式と署判―

藤田 真理子

本稿の目的は、鎌倉幕府から発給された将軍家政所下文・関東下知状・御判下文の署判や様式を通して、鎌倉時代を対象に幕府の権力構造の変化についてみていくことである。

第一章では文書様式に着目した。鎌倉幕府は公家様文書の系譜に引く下文に加え、新たに武家独自の下知状を用いた。幕府発給の公文書のうち永続的な効力を有する文書の中心は、初期段階は下文であったが、執権政治進行に伴って下知状へ移行した。この過程で、下文は、惟康親王期から宛所をもたない下知状様式に引きずられた結果、下文が下知状と同質化した。その中で下知状は承久の乱後、将軍の有無に関わらず発給され、執権政治の発達とともに下文の役割が制限され、下知状に吸収された。また、下文は惟康親王期を最後に発給されなくなってくる。そもそも下文は将軍家の家政機関である政所から将軍の意を奉じて発給されているが、下知状は執権・副執権が同様に発給するものだ。これらは、将軍と御家人の主従制的支配権が失われたことを意味する。この中で、北条氏は執権政治により統治権的支配権を機能させるが、別個として得宗の主従制的支配権も確立した。

第二章では署判に着目した。まず、将軍が三位未満の際に用いた御判下文には奥上と袖判がある。先行研究より後者の方がより尊大的で上位者の書式であり、袖判は、頼朝挙兵、それによる官職復位を機に奥上

と代わり用いられた。次に、別当第一署判等の署判の規則について、官位相当等を用いて検討した。将軍家政所下文の第一署判者は別当表記の真下、関東下知状は奥上で、幕府の役職に関係なく位階の順で並んでいた。署判に記される官途は四職大夫か国守が多い。官途はそれぞれ五位以上の官位相当であり、判者は基本五位以上の官職をもつ人物であった。しかし、国守は、律令における大国・上国に関わらず位階を得ており、官位相当とも異なっていた上、また先行研究より執権・副執権が両国司として大国武蔵守、上国相模守となっていたが、幕府においては大国・上国は関係なく、北条氏は幕府にとって重要な地、つまり関東御分国の国守の任命がメインになっており、律令制=朝廷の範疇ではなく、幕府の範疇として考えていたといえる。しかし、義時以降の四職大夫に関しては位階が関係し、武家の最高位として得宗権力の確立や庶流家の家格確立を求めて国守よりこれを重要視しており、また官位相当より位階を重要視していたといえる。さらに、先行研究では前述の二国を両国司としているが、泰時期以降は陸奥守も名乗ることも多くなり、両国司とは一概には言えない。花押について、承久の乱後の将軍家政所下文は次第に別当のみになり、下知状と同質化しくに従い、下文・下知状共に執権・副執権のみが花押を据えるようになった。また、武家権力を考える上で、軍事・政治等のあり方を「実」とすれば、官位・書札礼

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等を構成する諸要素は「名」と示す。得宗家は生まれながらの執権というように、特別な扱いを受け、若年で執権に就く等していたが、鎌倉幕府は「位階」「礼の秩序」を重視し、経験豊富な人物を副執権(補佐)とし、北条庶流を第一署判者に据えていた。

本稿では、3種類の文書を分析し、様式や署判の位置、官途等に着目して文書の視点よりみる権力変遷を明らかにした。本論より幕府の実態と文書の在り方は一体しているといえる。

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南北朝・室町期の佐渡本間氏の活動 渡邊 健太

本稿の目的は、南北朝・室町期の佐渡本間

氏の活動の一端を明らかにすることである。 第一章では、田中聡氏をはじめとする佐渡本間氏に関する先行研究を基礎に、『御的日記』や「右大将家御拝賀散狀幷路次儀」に見える「本間勘解由左衛門尉」という人物に注目し、この人物が佐渡関係文書の中にも登場することを確認した。両者は時期的な重なりから見ても同一人物であると考えられ、文書の内容としては久知鄕三分の一・柄積・伊豆保・雜太鄕十分の一の所領を安堵されたものであり、文書の形式などから見て、本間勘解由左衛門はこの所領について地頭職を得ていたのではないかと考えた。

次いで本間勘解由左衛門が得ていた所領について注目した。宿祢木合戦に始まるこれらの所領を所有した背景として、同族と考えられる本間直泰ら久知本間氏の佐渡国内での勢力拡大を想定した。さらに本間勘解由左衛門がこれらの所領を得たのは、この勢力拡大のほかに京都将軍周辺での活動の見返りを想定することができるのではないかと考察した。

さらに室町幕府下で佐渡本間氏はどのような位置づけであったのかについて、木下聡氏が、佐渡本間氏については室町幕府の御家人であり、幕府直参の奉公衆に準じた家であったことを指摘している。これが『東山殿時代大名外様附』から奉公衆として見られることについて、応仁文明の乱以降に抜けた家の穴埋めとして奉公衆に加えられた可能性があることを指摘した。

第二章では佐渡以外に見える佐渡本間氏として、京都と越後にみえる本間氏について考察を行なった。京都に見える本間氏としては、これまでの先行研究では触れられていない史料として『師郷記』をあげた。ここに見える「佐渡本間」について『師郷記』では「(本間)泰重カ」との比定を行なっており、たしかに「本間泰重」は佐渡関係文書で確認できるが年代的に同一人物と考えにくい。一方で泰重が京都に存在した可能性を否定できないことを指摘した。また、そのほかに『蔭凉軒日録』にも「本間男」という記載を発見し、『東山殿時代大名外様附』との時期的な近さから同一人物ではないかという指摘をした。越後に見える本間氏として、「長尾・飯沼氏等知行検地帳」、「越後国布施為替日記」、「越後過去名簿」の3史料が確認できたが、いずれにしても佐渡の本間氏であるという確固たる証拠を発見することはできなかった。ただ、後世の軍記物(『北越太平記』)の中には佐渡本間氏が越後に所領を得ていたという記述もあることから一概に佐渡の本間氏ではないということもできず、仮に佐渡本間氏であれば越後の各地に所領を得ていた姿が確認できるとした。

以上から、佐渡本間氏の室町幕府下での活動や位置、それが佐渡国内でどのように作用していたかを特に久知本間氏の活動をもとに明らかにし、また佐渡本間氏の佐渡以外に見える姿を新たに確認することで、南北朝・室町期における佐渡本間氏の活動の一端を明らかにすることができた。

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文化五年会津藩蝦夷地警衛に関する一考察 鈴木 蒼衣

本稿の目的は文化五年会津藩の蝦夷地警衛に関して動員された撰人に焦点を当て、軍隊編成を明らかにした上でその中での撰人の位置づけを考察し、同時期に蝦夷地警衛を拝命した仙台藩と比較することで撰人の実態を明らかにすることを目的とする。これまで蝦夷地警衛に関する研究は他藩のものが少しあるが、会津藩に関する研究はほとんど見られない。

第一章では会津藩の軍隊編成を検討した。まず軍役定から近世後期の会津藩の軍隊は家臣・武家奉公人・百姓から編成されていたことを確認した。次に蝦夷地警衛の際に作成された「松前蝦夷地御固御人数」と「出軍記」から編成を見てみると、戦闘を目的とされた主力部隊が五隊、御聞番や普請奉行などによる宿陣方などから編成されていた。その中で主力部隊の編成を身分・戦闘員・扶持関係から見ていくと、20パーセント程の士分と80パーセント程の様々な役割を持つ武家奉公人や百姓によって主力部隊は編成されており、軍役定と同様に家臣・武家奉公人・百姓から構成された軍隊編成であったことを明らかにした。

第二章では蝦夷地警衛の際に会津藩が百姓から徴発した撰人の実態を明らかにした。そもそも撰人は慶安三年の時点で規定されたが、その際は中間か人足か身分が定まらず、また実際に徴発されることがなかったため詳しく規定されることはなかった。しかし、その後の文化五年の警衛の際に撰人を徴発することになったので、手当の支給、神文血判、主従などが定められた。慶安三年に身分

が曖昧であったのは手当が支給されるか否か定められなかったためであり、文化五年に手当が支給されるようになったため、撰人は武家奉公人とされたと考えられる。撰人は隊の四分の一程編成されており、会津藩はそのような者達を包括することで軍隊としての体裁を整えることが可能となった。

第三章では仙台藩と比較することで撰人の位置付けを考察した。仙台藩の軍役定も会津藩と同様、武家奉公人によって支えられており、多くの役割を持つ非戦闘員を必要としていた。文化五年の出陣も士分の割合は会津藩と少々差はあるが、それは総人数が違うためで、大まかには同じであり、戦闘員と非戦闘員の割合も同様であった。仙台藩では徴発された百姓は夫以外見つからなかった。近世的軍隊の構成員の中で撰人が武家奉公人に含まれるならば、夫は百姓であり、それは仙台藩の兵力が充実していたため新たに武家奉公人を動員する必要がなかったためである。一方会津藩は撰人を徴発しなければ軍隊としての体裁が整わないものであった。

本稿は蝦夷地警衛に関して撰人を含めた軍隊編成から検討し、戦闘を目的とした軍隊がこれまで明らかにされていた近世的軍隊の形をとっていること、撰人などの多くの武家奉公人から軍隊が成立していたことを明らかにした。しかし、他に蝦夷地警衛を拝命した東北諸藩の軍隊編成はどのようなものになっていたのか、撰人のようなものはいたのか。それらを比較することで今回明らかにした会津藩・仙台藩とはまた違った特徴を持つ軍隊編成が見られるかもしれない。

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長岡の鋳物師 星野太郎右衛門家について ―鋳掛職支配から見た一考察―

長谷川 恵梨

笹本正治氏や中川弘泰氏による鋳物師研究がある中で鋳物師の鋳掛職支配についての検討は少ない。本稿の目的は越後地域において真継家とつながりが深い長岡新町の鋳物師星野家に焦点を当て、桑原紀昭氏の越後鋳物師の鋳掛職支配の研究を補足し、新たに関連が認められる長岡市の星野家文書の検討を交えながら、星野家の鋳掛職支配と越後地域の鋳物師の姿を検討することである。

第一章の第一節では下級公家の真継家と鋳物師の関係ついて笹本氏の研究を参考に整理し、第二節では越後地域の鋳物師を真継家との関わりなどを含め、桑原氏の研究と柏崎市史を参考に整理した。

第二章の第一節では星野家の鋳掛職支配についての検討を行った。鋳掛職名簿外に鋳掛が存在し、桑原氏が示したより鋳掛は多く、二代目の時代に限定しても鋳掛からの冥加金の総額は同氏が示したより多い金四両まで達していたと考えられる。

鋳掛が差し出した請書に奥印する惣目代という鋳掛が存在した。重要な収入の一つである鋳掛職支配を星野氏が直接支配したのではなく、惣目代という鋳掛を取りまとめる鋳掛の介入があることから、鋳掛職内にある程度の自治的機能があったと考えられる。また、鋳掛は鋳物師の梵鐘等の製作を手伝うものとされるが星野家では梵鐘製作を担った冶工は鋳掛とは異なる職人であった。

第二節では星野家と越後地域の鋳物師の鋳掛職支配に関する関わりに注目して検討

を行った。与板の土肥氏とは親類と称するほど密接で、星野家に土肥氏の弟子が鋳掛として預けられている。両家は営業上での足踏みをそろえた行動もみられる。中川氏は一部の鋳物師達で同業者の横のつながりがあったことを指摘したが、越後地域でも確認できた。鋳掛職支配の規定を含む越後鋳物師の二つの同職規定を再検討し、十八世紀前半は辻村からの出職同士、文化期には同じ営業圏内でつながりのある鋳物師達で作成していたとわかった。代替わりや職株譲渡を経て、営業地域や関係の深い者同士でのつながりが重要になったと考えられる。また、規定自体に真継家の存在はない。真継家の権力に頼らず越後地域の鋳物師らが結束を固めて各々の営業を維持しようとしていた。また、文久期の大窪鋳物師の鋳掛支配の動きから幕末期に真継家の権威を在地の鋳物師が頼る様子が見られる。中川氏は江戸時代後期に真継家の支配が弱まったとするが、支配基盤が整った幕末を真継家支配の全盛期とする笹本氏の考えの方が越後地域には適する。

星野家文書から大窪鋳物師に応じず星野家に支配された鋳掛がいたことが分かる。大窪鋳物師は真継家から越後地域の鋳掛の支配権を得たが、鋳掛職支配をしない鋳物師と鋳掛の営業がないまぜの集団であったため、鋳掛を支配し続けてきた星野家のような鋳物師下の鋳掛まで掌握できず、星野家では鋳掛職支配が続いていた。

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近世越後における遊行上人廻国 古川 結衣

本稿では『遊行日鑑』をもとに越後の遊行上人廻国の変遷を整理して、越後における遊行上人廻国の特徴を検討し、そのうち新発田市立歴史図書館整備室所蔵「米蔵斎藤家文書」から新発田藩領内での遊行上人廻国を支えた継立の実態について考察を行った。

第一章では、越後の廻国順路と教化活動について検討した。遊行上人は正徳3年(1713)から延享元年(1744)までは時宗寺院がある地域のみを廻国していたが、次第に時宗寺院の有無を問わず、廻国範囲を広げていった。藩と宿坊となった他宗派の寺院はその遊行上人の要請を受け入れたが、正徳三年の「佐渡渡海一件」や文化11年(1814)に越後各地で騒動があったなか水原・出雲崎陣屋のみが遊行上人廻国を一度断ったことなど遊行上人の廻国を受け入れない事例もあった。教化活動は賦算化益を中心に検討し、遊行上人の廻国範囲が広がると共に、新たに通行されるようになった地域を含め、大勢の参詣者が訪れていたことが分かった。

第二章では、藩や寺院が遊行上人に対して行った保護・寄進を整理し、その対応について検討した。越後の諸藩は他の地域と比較して特別遊行上人を歓待していたとはいえないが、御朱印の威光に従って遊行上人を対応していたと指摘した。越後の時宗寺院は、領主から支援を得ながら各寺院・旦中を中心に遊行上人を対応していたが、寺院の中には貧寺と称されるところもあり、遊行上人を十分に歓待できた寺院は少なかったと考えた。佐渡奉行所、出雲崎・水原陣屋といった幕領からの保護・寄進の様子は見られず、第一、二章を

通して幕領である奉行所・陣屋は遊行上人の廻国に対して、各藩と比較して非協力的であったといえることから、幕領には御朱印の威光が他藩に比べ発揮されていなかったと指摘した。

第三章では「米蔵斎藤家文書」から新発田藩領内での遊行上人継立について検討した。明和9年(1772)では三組(新発田組・五十公野組・川北組)の庄屋・名主が五十公野での休憩・継立を担当し、先例と聞合による情報に従って遊行上人の先触が来る以前から道普請や宿の準備を行っていたことが分かった。寛政5年(1793)は遊行上人の廻国順路が変更したため、米蔵など初めて遊行上人の継立をする村での準備が必要になった。先例もなく、聞合による情報収集が遅くなり、短期間で準備を進めなければならず、遊行上人の廻国順路が変更すると受け入れ側の負担が大きくなったと考えた。また新発田藩領内で三度遊行上人を継立することになり、三組だけでは対応できないため、御領分一統割が命じられた。天保6年(1835)の史料では蒲原横越組と岡方組からも人馬が出され、遊行上人が通行しない地域からも人馬を動員するほど大掛かりであったことを明らかにした。

最後に『遊行日鑑』・「米蔵斎藤家文書」ともに多くの参詣者が来ていたとわかった。時宗寺院のない地域でも多くの参詣者が集まったのは、遊行上人の宿泊・継立を請け負ったことを機会に、遊行上人による現世利益を求めたからだと考えられるが、これにより越後の時宗が盛んになったというわけではなく一時限りものであったと結論付けた。

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明治期新潟における米価騰貴と地域社会 畔上 雄太

本稿の目的は、明治23年(1890)に発生した米価騰貴に伴う貧民、富裕者、行政の動きや地方新聞の論調等を総合的に分析し、明治期新潟の米価騰貴をめぐる地域社会の動向について明らかにすることである。新潟における明治23年米価騰貴に関する先行研究では、同年米価騰貴に伴う米騒動の展開過程を詳細に追い、その実態を把握することを主眼に置いている。本稿では、新潟における同年米価騰貴を先行研究とは異なる視点から論じるため、米価騰貴をめぐる貧民、富裕者、行政の動きや地方新聞の論調等の総合的な分析を試みた。 第一章では、明治23年米価騰貴の全体像を

捉えるため、同年米価騰貴の概況について整理した。明治22年前半期に一石4円代を維持していた正米相場は、米価騰貴のピーク時である同年6月には10円代を超えるまでに騰貴した。しかし、その後、同年が大豊作となる見通しが出てきたことから米価は次第に下落し、同年8月、明治23年米価騰貴は鎮静化したと述べた。

第二章では、明治23年米価騰貴に伴う新潟市内の貧民、富裕者、行政の動きや地方新聞の論調を考察した。明治23年米価騰貴に伴い発生した新潟市内の貧民たちは市役所に対して救助を願い出たり、市中で犯罪を行ったりすることはあったが、米騒動に繋がるような集団化を伴う不穏な行動を示す場合は少なかった。一方、政府は同年5月以降具体的な政策として外国米の輸入を行い米価の下落を試みたが、思うような効果をあげることができなかった。また、市は貧民救助を行っていたが、

その救助金は市内の富裕者によるものであり、明治23年米価騰貴に対して行政が果たした役割は大きいとは言えない。対して富裕者は、実際に貧民を救済していた主体であり、市も彼らに頼らざるを得なかった。そして、貧民救助を行った富裕者は、名前と寄付した額等が新聞によって報道されていた。また、新聞には米価騰貴に伴い発生した貧民の苦しみを思い知るべきとする記事や貧困者を救済するためには富裕者の力が必要とする記事なども掲載されていたことから、地方新聞が富裕者の慈善を引き出す役割を担っていたことを指摘した。

第三章では、明治23年米価騰貴に伴い貧民救助を行った新潟市内の富裕者に注目して考察した。市内の富裕者が、米価騰貴に伴い餓え苦しむ貧民の存在を新聞記事を通して初めて知り、その影響で寄付を行っていたことが分かる史料が見られた。このことから、頻繁に新聞に掲載されていた貧民の惨状に関する記事や貧民救助に関する記事を読んだ富裕者が、この状況を救済できるのは自分たちではないかと考え、寄付を行っていたことが考えられる。

以上より、新潟市内の富裕者は地方新聞を通して、米価騰貴に伴い発生した貧民の存在を認識し、快く寄付を行っていたこと、及び、明治23年米価騰貴をめぐる地域社会において富裕者の存在は非常に大きいものであったことが明らかになった。

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20世紀初期における北海道旭川の都市形成 ―旭川町長奥田千春と第七師団との関係を中心に―

葛西 瑠香

本稿は旭川の都市形成について第七師団はどのような影響を与えたのかを明らかにすることを目的に、一級町村制施行時(1902年~1914年)の奥田千春町長と師団との関係に着目し、インフラ整備と区制施行という事業から検討を行った。

第一章では第七師団が設置される前後の旭川について概観した。旭川は北海道の内陸開発の重要な拠点として開発が進められ第七師団の設置場所に決定する。師団建設工事の結果、住民も旭川の発展は師団設置にあるという認識を持ち、師団と旭川町の関係も深まっていく。しかし衛戍地分離問題が発生し、旭川町は師団との間で師団側に有利な協定を締結し、師団が旭川町政に干渉しやすい状況を作り出した。

第二章では旭川の都市形成として奥田町長期のインフラ整備を検討した。第一期奥田町長期のインフラ整備では最初から師団を頼っていたのではなく、時間の経過と共に師団との関係が構築され徐々に師団幹部へ働きかけを行っていったことが明らかになった。申請書類では事業の実施理由がテンプレート化されており、第一期におけるインフラ整備において師団がプラスに作用したといえる。一方で衛戍地分離問題後にあたる第二期奥田町長期では、第一期と比較すると師団が関わっているものは激減し、師団の要求により優先順位が低かった事業を引き起こさなければならない状態となっていることが示された。

第三章では区制施行について分析した。

1907年まで第七師団の存在は意見書に表出されておらず、次第に旭川に区制を施行する正当性を担保するものとして第七師団の存在をアピールしており、意見書の提出を重ねるごとにその主張は強くなっていった。1908年以降は、師団側に助力を求めるようになるが師団側は一貫して区制施行に反対かつ全く関与しない姿勢をとっている。意見書においても1907年以前ほど師団の存在を大々的に主張することはなくなっている。師団の態度が区制施行に少なくない影響を与えており、区制施行の動きに関しては師団の反応がマイナスに作用していると指摘できる。

以上より、旭川の都市形成において第七師団は旭川町の独自性を支える存在として機能しており、又事業を行う正当性を担保する役割を担っていることが明らかになった。更に師団との関係性では、旭川町と師団との関係が構築されるのに比例して師団が関わる事業数は多くなったが、第二期奥田町長期ではインフラ整備と区制施行の両者ともに師団が関連することはなくなっていき、師団の存在がむしろマイナスに作用したものも見受けられた。事業を進めていく切り札としてかつぎ上げられていった師団であったが、一級町村制末期では事業実施という面において師団の効力はなくなりつつあったといえよう。しかし今回は事業と師団の関連を解明したに留まっており、その効力が薄れていく背景については触れることができなかった。この点は今後の課題とする。

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戦時期新潟県における満洲開拓団と地域 神田 愛実

本稿の目的は、新潟県中蒲原郡から送出さ

れた分郷開拓団である第十次西宝中蒲原開拓団を対象として、満洲開拓団の展開と地域との関係を明らかにすることである。

第一章では、開拓団の送出過程を明らかにした。中蒲原郡大陸開拓後援会(以下郡後援会)は県の計画に即し、農家一戸当たりの耕地面積を二町歩まで引き上げることで適正規模農家をつくることを目標とした。しかし、中蒲原郡白根郷ではすでに二町歩に達している町村が多かった。さらに、農家一戸当たりの耕地面積や人口に基づいた送出予定数には、町村ごとに差があり、予定数の圧倒的に少ない白根郷は、後の部落経営に影響が出る可能性があった。このように、開拓団送出ついては計画段階から問題があった。その中で、郡後援会は事業を促進するため講演会や講習会を開催するなどして後続団員の送出を呼びかけてきたが、町村の反応は悪く、白根郷庄瀬村の場合は複数回の依頼や締切の延長にもかかわらず郡後援会の依頼に応えることができなかった。本隊とは別に、短期間の応援作業隊や水田に特化した水田班拓士の送出を行うが、郡後援会は計画通りに進めることができなかった。そのため、より町村の実態に合わせるため郷別の送出計画を作成し、開拓団送出を促進する方法に移行していった。

第二章では、開拓団の生活と母郡・母村との関係について明らかにした。入植初年度から人手不足であり、入植二年目には現地報告

書を作成し、団の状況を伝えて母郡に対して積極的に働きかけを行っている。入植二年目後半から入植三年目にかけては、部落経営への移行とともに後続の団員を求め、求める先も郡から各町村となり、開拓団と母村の関係が強化される。しかし、白根郷では後続の開拓団が来ないだけでなく、連絡も途絶えており、開拓団は他の郷部落と比べながら不満を表すようになる。白根郷の場合は、満洲開拓の事業に消極的であったこともあり、母村と開拓団との関係は希薄化していった。

このような、母村と開拓団の関係が希薄化することは従来から指摘されているが、本稿では母村を郡と町村とに明確に分けて分析を行った。状況の違う町村から送出が行われる分郷開拓団は計画段階から矛盾が生じ、後に実情に即して郷・町村毎に計画を立てる方法へと移行していった。一方の開拓団側も部落経営に移行すると同時に母村との関係を強化しようとした。しかし、白根郷は満洲開拓事業に消極的であり、母郡・母村のその両方との関係が希薄化する状況があったと言えよう。 本稿では、主に送出過程と報告書や書簡による開拓団の現地の状況から見てきたが、郡後援会の財政や開拓団の実際の営農建設状況を検討することで、さらに実態が明らかにされるだろう。また、中蒲原郡の白根郷を対象としたが、分郷開拓団の全貌を明らかにするには郡の他の地域の状況も明らかにする必要があると考えられる。

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米軍統治下の沖縄における基地労働者の基地認識 小橋川 莉衣音

本論文の目的は、基地労働者の基地認識を明らかにすることである。全軍労結成前後~三大選挙までを時間軸の対象とし、主に全軍労の基地認識について検討した。

1章では、沖縄戦後~1960年代の基地労働や全軍労について概観した。当該期の沖縄における基地労働の内容は多岐にわたり、また沖縄の労働全体に占める割合は大きかった。しかし労働環境は悪く、改善しようと1960年に労働組合が結成される中で1963年に全軍労は組織された。全軍労は巨大組織となったが、非組合員も一定程度いることに留意する必要がある。

2章では、三大選挙以前の野党三政党の基地認識を概観した上で、当該期の全軍労の基地認識を明らかにした。三大選挙時に共闘する野党三政党は、社大党と沖縄社会党・人民党の間では基地認識に隔たりがあった。全軍労が基地認識を初めて表明したのは1967年である。その基地認識は矛盾を抱えながらも漸次縮小撤去を認めるというものであった。1968

年の復帰協第13回定期総会で全軍労は積極的に「基地撤去」方針を推していないが、「基地撤去」に反対しておらず、むしろ運動を大きくするために「基地反対」を支持する。初公式表明の基地認識が同総会の意見に反映しており、その基地認識を持って総会に臨んだと言える。先行研究ではこの点を言及していないが、同総会で当該基地認識を持っていたことは強調しておく。同総会は「基地反対」方針で決着がついた。参加者が基地労働者や全軍労

を念頭に置いてのことだろうが、当の全軍労は単純に「基地撤去」方針を推していないのではない。当該基地認識を持って、「基地撤去」方針を推さないという複雑な状況であった。

3章では三大選挙時の革新共闘会議の基地認識を検討した上で当該期の全軍労の基地認識を明らかにした。革新共闘会議の基地認識は、公式的には撤去に言及しない「基地反対」であるが漸次縮小撤去と捉えることができる素地があったと指摘した。曖昧な概念の「基地反対」を掲げる革新共闘を全軍労は支持するが、保守側の切り崩しなどに対処するために、矛盾した基地認識を抱えつつも「漸次縮小撤去」はトーンダウンした。先行研究では、三大選挙は基地・日米安保体制を論点とした保革対立軸が明確化した選挙であるとされる。その中で全軍労は革新陣営でストレートに「基地反対」を支持しているわけではなかった。革新が一丸となって基地問題に取組めたのではなく、革新内部ではもがいている存在があった。

補論では、基地労働者(全体)の基地認識について若干の検討を行い、多様な基地認識の存在が示唆された。「全軍労≠基地労働者全体」を念頭に置きながら、基地労働者の基地認識の研究は行わなければならない。

今後の課題は、三大選挙後の2.4ゼネストや1970年代の解雇撤回闘争、さらに復帰後の全軍労の基地認識の検討や、基地労働者を構成する様々な要素の個別検討、そしてそれらを包括的に論じた検討である。

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昭和戦前期における軍隊と地域の関係についてー新潟県新発田市を事例にー

酒井 勇貴

本論文の目的は、戦前に連隊が駐屯した新潟県新発田市における軍隊と地域の関係について明らかにすることであり、先行研究で明らかにされていなかった昭和戦前期を対象として論じることである。

第一章では新発田における水道敷設反対の動きと軍隊との関係について考察した。一章の前半では、新発田の水道敷設の歴史について概観し、水道敷設工事着工に至るまでの流れをまとめた。後半では水道敷設反対運動と軍隊の関係について検討した。新発田での水道敷設について敷設のきっかけは連隊存置であり、水道整備案が一定程度軍隊と地域の関係に寄与していたことが先行研究で明らかになっている。しかし、その後起こる住民による水道敷設反対運動では、反対派は3つの派閥に分かれており、1つは水道を無用と考える絶対反対派、もう1つは不景気を理由に資金を蓄積してから工事に取り組むべきだという延期派、最後は町当局の計画、及び議員に不満を抱いている不信任派であった。このように反対派とひとくくりにしてもそれぞれ考え方が異なっており、まとまっていないことを明らかにした。特に3つ目に挙げた不信任派の中心人物である加藤高三郎氏は水道敷設計画に不満があり、水道を敷設すること自体には賛成の立場をとっていたことから反対派の中でも大きく意見が分かれていた。よって反対運動では軍隊の存在は関係なく、反対派各々がそれぞれの主義主張を訴えていたと考えられると結論付けた。新発田の水道敷設は始ま

りこそ連隊存置をきっかけとして整備する動きが進み、軍隊と地域に影響を与えていたということができるが、住民による水道敷設反対運動では関係性は見られなかったと言えるだろう。

第二章では連隊が満州に移駐してしまった後の新発田について検討した。前半では連隊渡満後の新発田について、その影響や対応策についてまとめた。不況の中での渡満であったため、町当局は大きな打撃を受けると考えており、『新発田新聞』で連隊渡満後の町繁栄策について、一般から募集し、懸賞金も設けていた。町当局が対応をとっている中で、軍隊側の意識としては渡満後の影響について、憂慮しておらず両者に意識の乖離が見られると結論付けた。後半では満州事変勃発直後の慰問について検討し、多くの地元兵が戦地にいた新発田の慰問活動の速やかさや、活発さについて考察した。また、満州視察に行く町議が兵隊の家族から伝言をあずかれるような環境を作り、また視察から変えてきた後、満州の様子を残された家族の説明する機会を設けていたことなどについて見てきた。

本論文では昭和戦前期における軍隊と地域の関係を明らかにすることであったが、戦前の昭和20年間のうち、今回対象とすることができたのは満州事変前後までであった。よってその後の太平洋戦争期までを検討することができなかったので、今後の課題としていきたい。

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大正期の地域社会における神職の活動 ―1910年代後半新潟県柏崎市鵜川神社を事例に―

佐久間 美早

本稿では、1910年代後半の在地神職の地域社会における活動について、新潟県柏崎市旧高田村新道の鵜川神社社掌箕輪正敬の大正期の活動事例について分析し、大正期の神社政策における、神社と学校との結合の内実について明らかにしていく。

第1章では、神社界の概況と箕輪正敬について扱った。神社界では明治後期以降、諸社やその神職に対しても政策が行われるようになり、明治末期には神社中心主義が出現した。そして、大正期になると在地神職による活動の活性化が見られるようになる。一方で、鵜川神社社掌の箕輪正敬は、大正期に新潟県神職会において理事や刈羽支部副長を務め、さらに全国神職会へ県代表者として出席していた。その活動内容から、箕輪は新潟県神職会において中心的な立場にいたと考えられる。

第2章では、鵜川神社と学校という観点で、箕輪正敬が創始した神社事業の一部である養老会、勧学祭、児童会の3つを取り上げた。そのうち養老会と勧学祭は祭祀的性質が強いが、祈年祭などの祭礼と比較すると、児童の参加は制限されていた。一方、児童会は教育的性質が強く、児童を対象に敬神崇祖観念の涵養を促す内容の事業を行っていた。この3つの事業は、学校職員からの協力を得て行われており、学校との繋がりを持つ事業であったと言える。また、箕輪正敬には、高田村内の学校で校長を務める弟の箕輪千種がおり、学校と連携が取りやすい環境であったと推測される。

第3章では、新潟県神職会刈羽支部編集の『神社と学校との連絡法』と箕輪正敬に焦点を当てて分析を行った。この冊子の編集は、箕輪の日記等の史料により、支部副長であった箕輪が主に担っていたことが確認できる。そして、冊子の分析から、神社政策の1つである神社と学校との結合に関して、学校側が神社側に要望を出しており、神社側はその要望に可能な範囲で応えていたことが明らかになった。また、箕輪は神社非宗教論に基づいて神社を捉えており、非宗教機関である神社の理解を深めるように学校職員へ求めていた。加えて、神祇崇敬には教育上利益があることや、教育の淵源であることを伝えることで、神社と学校との繋がりをより深め、神社崇敬を図ろうとしたと推測される。

以上の分析から、大正期の神社政策で神社と学校との結合が図られていく中、学校は神社に対して、学校側の都合に合わせた要望を神社側へ要求し、それを受けた神社は神社政策に沿う形で学校側の要望に応えていたことが明らかになった。

今回は1910年代後半の箕輪正敬の活動に限定し分析を行った。しかし、神社学校間の関係性の変化を見る上で、さらに時期を広げて両者の関係を確認する必要がある。また、本稿で取り上げた箕輪の活動は学校関係に限ったものであるため、本稿で触れなかった活動も踏まえて、箕輪正敬について分析を行うことが今後の課題として挙げられる。

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大正期の地域社会と防災 ―新潟県上越市高田地域を事例に―

佐藤 真大

本論文では、新潟県旧高田市における地域社会の防火体制についてその実態を明らかにし、同地域における防火意識の変遷について明らかにすることを目的とする。

第1章では、日本における消防の近代化についてまとめた。明治末期から大正期に、警視庁を中心に消防事務が警察の役割であることが提言され、火災に対する意識が、消火や延焼防止だけではなく、未然に火災を防ぐことやそれにより人々の家財や人命を保護することを目的としたものへと変化していった。また、それに伴い消防活動を担う公的な組織が複数誕生し、その担い手も地域住民や自治体から軍人や消防官吏などの公的で訓練を積んだ人々へと変化していった。このような火災に対する意識の変化と消防活動を担う組織の誕生が消防の近代化であった。

第2章では、大正期の高田市及び高田市消防組の活動について検討を行った。同地域では古くから火災は一般の人々で対応するものであるという意識があった。また、1914(大正3)

年から高田市消防組は、従来行っていなかった他地域への見学や近隣の消防組との会合、高田市内での研究会の開催や水利調査を行い、市内の消防環境向上のために消防組が中心となって活動していたことがわかった。

第3章では、火災予防組合設置に注目しその概要と高田市での動向についてまとめた。火災予防組合は、地域住民同士が団結して火災予防を行うこと及び人々に火災に対する自衛的予防思想を発達させることを目的として設

置が計画され、同組合設置を通じて、県内の人々に防火意識が芽生えていったことがわかった。また、高田市では県令公布以前から類似の地域団体が存在した点、県令公布直後から同組合に関する積極的な新聞報道や活動が行われていた点から、明治末期から大正期の高田市では高い防火意識が形成されていたと考えられる。また、火災予防組合規約の内容から、近代になり人々の生活環境や火災に対応するための技術がともに発展したことで防火意識の重要性と有用性が顕在化したと考えられる。

以上のように、本稿では消防の近代化の時期における高田市の人々の活動から、火災に対する意識を検討した。その結果、軍隊による災害対処が行われている時期であっても、市や警察と協力しつつ消防組が積極的に消防力向上のための活動を行っており、また、一般の人々の間でも火災予防組合の設置により高い防火意識が形成され火災予防のための活動が行われていたことがわかった。このことから、当時の高田市では、軍隊の災害対処能力に期待を寄せつつも、消防の責任を軍隊に転嫁することなく、地域社会全体で火災に対処していたと言える。また、未然に火災に対処する意識=防火意識は明治期の警視庁において重要性が認識され、新潟県では県令による火災予防組合設置を機に人々に根付いていったと考えられる。これらは、近代における地域社会の人々の防火意識に関する新たな説であると言えるだろう。

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昭和戦前期における新潟県の電力問題 千葉 大樹

本論文は、電燈料値下げ問題及びその後の電力国家管理が新潟県にどのような問題をもたらしたのかについて、また、電力国家管理に至るまでの地方からの視点を明らかにすることを目的とする。 第1章では県内の電気事業について検討した。第1節は民間電気事業者の発展について概観した。県内には、電力国家管理に至るまで4社(北越水力電気、中央電気、新潟電気、新潟水力電気)が発展した。大正期に入ると、地元の要望に応え小規模の発電所で開業する事業者が23社に上った。第2節は、鉄道省による信濃川発電事業について概観した。この発電事業は大正10年には信濃川電気事務所が設置されて設計や鉄道の敷設が行われたが、12年に発生した関東大震災により工事は中止となった。しかし、大正末年ころから地元で工事再開の要望が高まり、昭和6年から工事が開始され、第一期工事が14年、第二期工事が19年に完了し、当時日本一の水力発電所が建設された。 第2章では電燈料値下げ運動について検討した。第1節は第一次電燈料値下げ運動を見ていった。運動の中心となったのは無産政党の議員であり政党政派に超越するものとして同盟会を組織して運動を繰り広げ、電気会社は値下げを行った。第2節では、第二次電燈料値下げ運動について見た。一回目の運動で中心となった無産政党が今回も中心となり運動を展開した 第3章では電燈料値下げ運動、その後の電

力国家管理について県議会での議論を検討した。第1節は電燈料値下げ問題や電気関連の議論を見ていった。電燈料値下げ運動の中心となった無産政党の議員らが値下げを訴え、値下げ要求を行った。しかし、県側は法律上困難であることや値下げ運動の裏で喜ばしくない運動に出る者がいるとして具体的な方針は示さなかった。第2節では、電力国家管理と県議会での議論について見ていった。国家管理に際し、県内の電力を関東地方に持って行かれれば、その豊富な電力を涵養している雪害等の害が取り残されることになり、県内の産業が荒廃してしまうことになるので、本県においては節電が緩和されるようにという要望を金子を中心とする議員が述べ、意見書も提出された。しかし、昭和14年の12月のみの節電緩和に留まり、その後国家管理のもとに統合された。 研究史の整理では、地方からの視点を踏まえたものは管見の限り白木沢氏の富山県における研究のみであった。そのような中で、電気事業が盛んであった新潟県においてこの時期の研究を行うことは今までの研究とは別の視点で電力国家管理あるいはその先の戦時体制を見ることにつながっていくと考えている。しかし、本論文の第3章で取り上げた意見書等に関してその後の行き先は未調査のままに終わってしまった。この意見書の行方を明らかにすることができれば、新潟県と国との間でどのような議論がなされていたのかがより明確になってくると考えている。

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秋田県における青年奉公馬運動について 西方 大輝

本稿の目的は昭和17年から秋田県内全域で行われた青年奉公馬運動を明らかにすると共に、その運動による馬産の変化を明らかにしたものである。

第1章では昭和11年からの第二次馬政計画後の馬政状況として種馬統制法、軍馬資源保護法の成立などに触れながら確認した。一方、日中戦争開戦以降の秋田県の馬生産数は昭和7年を頂点に減少し続けていたことを述べた。 第2章では奉公馬運動の概要を明らかにした。奉公馬運動は馬資源の確保と青年の馬事思想普及を目的とした運動であった。秋田県内の郡市別馬飼育数の割合と郡市別の奉公馬飼育数の割合に大きな変化は見られないことを明らかにした。また、奉公馬運動の資金は自力と他力によるものがあり、青少年団員の共同作業勤労による収入で償還した。また奉公馬運動独自の共済制度を設けていた。奉公馬運動は県学務課伊藤学務部長、岡崎社会教育課長を中心に展開され、主に各郡家畜市場で奉公馬を購入し、冬期を中心に品評会(共励会)を開催していた。昭和17年、18年には秋田県の馬生産数は増加に転じた。

第3章では、昭和17年、昭和18年の秋田県議会における奉公馬に関する議論を取りあげた。昭和17年は郡畜産組合関係者である議員側と県側という構図で、主に共済制度をめぐって議論が展開された。これから馬産に関する専門知識の乏しい教育分野の人々が参入したこ

とで馬産に新たな混乱をもたらしたといえる。昭和18年は責任の所在に関する議論が中心となった。議員側は改善案を提示したが、県側は責任の所在を明確にせず、奉公馬運動の現状にも大きな問題はないとして具体的な改善はとらない立場を一貫した。

第4章では能代市・山本郡の奉公馬運動として昭和17年の能代・二ツ井家畜市場、昭和18

年の飼育管理品評会、常盤村の奉公馬飼育状況を分析した。家畜市場において購入された奉公馬は多くが牝であり、優良候補牝馬(一級、二級)がその大半を占めていた。能代・二ツ井市場で購入された奉公馬には他郡に配置されるものもあった。購入された奉公馬の価格は馬の最高価格の金額が多く、奉公馬購入金額の平均は家畜市場全体の平均と比較すると高かった。品評会の審査からは、昭和18年1

月の山本郡において奉公馬の飼育状況がおおむね良好であったことを示した。また常盤村の奉公馬は種牝馬として青年学校で飼育されていたことを示した。

本論文は、馬産に教育分野が介入することで新たな問題、対立が発生したという側面を示した。これは従来の研究史にはない新たな馬産の状況を提示するものであると考える。一方で第2章、第3章で明らかにすることができなかった奉公馬運動関係者の役職などに加え、秋田県における畜産関係者の社会的地位については検討課題として残った。

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近代の山形県における地域社会と歴史意識 -庄内地方における本間光丘顕彰と郷土史教育を中心に-

舩山 知希 本稿では、近代の山形県における地域社会と歴史意識について、本間光丘顕彰の個別的事例、また形成された歴史意識の学校及び地域における郷土史教育の中への表出の仕方について検討し、本間光丘への歴史意識の形成過程を考察した。

第1章では、1908年贈位、1915年贈位、1918

年贈位のそれぞれの贈位請願経過及びその都度取り上げられた本間の性質について検討し、山形県行政の本間に対する歴史意識とその変化について考察した。皇太子の行啓に際した1908年贈位、また大正大礼に際した1915年贈位における贈位請願は失敗に終わった。天皇行幸に際した1918年贈位は、贈位内申書における深く幅広い「慈善事業家」的性質の見出しなどの要因によって、贈正五位に叙される結果になった。

第2章では、第1章で検討した山形県主導の贈位請願を受けての、庄内地域社会における本間に対する歴史意識の変化について、偉人への歴史意識という点も踏まえながら、地方新聞を検討し考察した。1908年贈位、1915年贈位、そして1918年贈位について、山形県と庄内地域社会とで、本間に対する「公益事業家」「慈善事業家」あるいは「模範富豪」「藩主への献身者」という、それぞれの時期で歴史意識が共通する部分があった。その一方で、庄内地域社会の中に見られた贈位者が勤王事蹟者や国家功労者であるという意識は、失敗と成功を経てもなお、変化が見られなかった。山形県による本間のような非勤王的な存在へ

の贈位の請願と、天皇制中心構造に組み込まれていた庄内地域社会とは、必ずしもすべての面で連動したのではなかったのである。

第3章では、本間顕彰としての光丘神社の創建過程と完成期の利用の実態を検討し、地域社会の本間への歴史意識の表出の仕方とその変化について考察した。光丘神社創建は、町政組織的性質を持つ頌徳会が主導し、庄内地域社会が一体となり進め、強い行政性を持つ事業であった。工事が進められる中で、本間は天皇の子孫という出自に代表される新しい性質-「神」あるいは「祭神」的性質-を見出され、また「慈善事業家」「公益事業家」「模範富豪」「藩主への献身者」的性質もより一層強みを帯びていく形となった。

第4章では、主に1930年代半ばの庄内地域社会における教育に関して、国史教育と郷土教育というそれぞれの枠の中で郷土史教育に関する資料に表出した本間への歴史意識について検討考察した。郷土史教育における本間関連の記述について、国史教育においては「藩主への献身者」的性質に、郷土教育においては「慈善事業家」や「公益事業家」的性質に強く光が当てられた。本間への歴史意識の表出の仕方が郷土史教育という一分野において一元化されていたわけではなかったといえる。

以上が本稿の成果であるが、社会背景や政治状況の考証や、また農地改革を経て本間家の勢力や財力が縮小した後に、本間を対象とする歴史顕彰や教育はどう変容していくのかの検討は、今後の課題である。

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1920年代から1930年代における映画文化と検閲 -検閲官 橘高広に関する一考察-

松嶋 珠子

本稿の目的は、1920年代から1930年代にかけて映画検閲官として映画行政に携わった橘高広の著作を検討し、戦前期の映画検閲および娯楽・文化統制を考察することである。

第1章では1910年代から1920年代に進展した民衆娯楽論について橘の議論と権田保之助の議論に即して整理し、橘の映画論について検討した。その結果、両者は娯楽の営利主義に関してどのような対策を講じるかという点で大きく異なり、橘は知識人の介入によって娯楽の改善を行おうとしたことが明らかになった。映画論については、橘が主宰した研究会「STS」を中心に検討し STSにおける議論をもとに、橘が映画の社会的地位の低さを憂慮していたのではないかと結論づけた。

第2章では、1920年代における橘の動向をプロパガンダ論や検閲に即して検討した。橘はプロパガンダの方法として映画が有効であると述べた。さらに検閲や娯楽の取締が警察行政機能の一部であることを前提に、1920年代の警察行政の「善導」主義への転換という流れに即して考えると娯楽によるプロパガンダもまた一種の「善導」行為なのではないかと指摘した。また橘は検閲について、「検閲は社会的価値批判である」と主張したが、この「社会的価値批判」については先行研究では具体的に言及されていない。そこで橘の論考などから考察すると、橘の言う「社会的価値」とは「社会的影響」であり「社会的価値批判」は一種のリスクヘッジであると指摘した。さらに、『読売新聞』紙上で繰り広げられた橘と弁士

の問答から、説明者を検閲官の補助的存在として認識し「社会善導」を担う存在として育成したいと考える橘の思惑が見出せると論じた。

第3章では、1920年代に成立した文部省の社会教育行政を中心に橘の動向を検討した。橘の社会教育観については、1920年代における「社会の発見」をふまえて検討した。そして、文部省と警視庁の社会観には相違があり、橘が文部省社会教育調査委員を辞任した理由はその相違にあるのではないかと指摘した。加えて、児童映画日を中心に考察を行った。その結果、東京市における児童映画日創設は1910年代から問題であった児童と映画の関係の改善を企図したものであり、東京市の方針と橘の児童映画館創設構想は映画の善用を目指すという点で一致するものであったと論じた。

以上が本稿の成果であるが、橘を警察行政や社会教育という観点から検討した結果、従来の先行研究で叙述されてきた「統制側の代表」という橘高広像や、「ポスト活字の伝道師」という新たな橘高広像とも異なる、「社会」の自律的発展に期待し、映画観客を含めた社会全体の向上を映画の利用によって達成しようとしたまた新たな橘高広像を提示できたのではないだろうか。1930年代の橘の動向や映画法制定前後の映画国策、戦後における視聴覚教育への映画の利用との関係については今後の課題としたい。

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太平洋戦争期の軍事郵便に見る関係性 水野 孝文

本論文では、太平洋戦争期の少年飛行兵による家族や友人との軍事郵便のやり取りを対象として、兵士と家族、兵士と友人、兵士と戦友のそれぞれの関係性についての一考察を行うことを目的とする。

第1章では、本論文で対象とする軍事郵便を整理した。本論文で扱った軍事郵便は、1944

年4月から1945年8月までの間を少年兵として少年飛行兵学校や航空整備学校で過ごした A

氏に関する軍事郵便であり、A 氏が家族に送った軍事郵便や、家族や地域の友人、国民学校の教師や兵学校の同期先輩から送られた軍事郵便合計114通を対象とした。これらの軍事郵便は兵士本人のものだけではなく、その家族や友人などの郵便も存在しているという点が特徴であり、直接的な戦闘を経験していないという点を踏まえても、兵士と家族や地域、戦友との関係性を考察し得る史料であると考えられる。

第2章では、A氏自身と父母兄弟の軍事郵便を対象とし、兵士と家族との関係性について考察を行った。A 氏と家族の軍事郵便の時期による言説の変化などを比較すると、父の軍事郵便からは父親として、A 氏とその半年後に応召された兄の軍事郵便からは兵士としてのあるべき姿が軍事郵便に表れていることを指摘した。また、第3章で述べた A氏の地域の友人と兄弟の軍事郵便の比較から、兄弟としての意識の存在も指摘した。このことから家族と兵士との間には、ぞれぞれの役割におけるあるべき姿という意識が存在していたと考えられる。

第3章では、A氏の地域の友人や国民学校関係の軍事郵便からその関係性を考察した。地域の友人の軍事郵便は、A 氏の兄弟の郵便のように地域の様子や自身の近況を伝える内容であったが兄弟のものほど戦争に関する記述は確認できず、地域の友人らに共通する記述も確認できなかった。国民学校の教師の軍事郵便からは、国民学校という組織としても教師個人としても、同じ地域出身の兵士同士を結び付ける役割、今後兵士となる人物を育成する役割など多彩な役割を持っており、兵士と地域を結びつける役割を担っていた事が確認できた。

第4章では、兵士と戦友との関係性について、戦後のやり取りから考察を行った。戦後の関係性は、戦後1年ほどは現状や今後についてのやり取りがなされていたが、次第にその関係性は懐かしいと言われるような過去に根差したものとなった。さらに、その後の郵便のやり取りによって兵士としての体験の共有が確認されあうようになったことで、その関係性も戦友として再確認され、一部には非常に深い関係になっている事例も確認できた。

以上のように、本論文では軍事郵便を対象としてその関係性を考察することで、兵士その父などそれぞれの役割に応じた意識が存在していたことを指摘した。また、戦時における教師が担っていた兵士と地域を結び付ける役割や、兵士としての体験の共有により戦友という関係性が再確認されていったことが確認できた。

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唐~吐蕃支配期の敦煌における薬材の流通 ―敦煌出土スタイン本5901号を中心に―

飯田 淳瑞 七~八世紀、辺境の地・敦煌は、東西交易の要所として栄えていた。敦煌は前漢や唐における西域経営の要所であったが、安史の乱後に吐蕃によって占領された。このような敦煌には、敦煌文書と呼ばれる古文書類が存在し、その一つの敦煌出土スタイン文書5901号(S5901、「某僧乞請某大徳賜薬草状」)には、敦煌で求められていた薬品が記載されており、その中には敦煌周辺での入手は難しい薬品も含まれている。そこで本稿では、主に唐~吐蕃支配期の敦煌での薬品の入手方法、運搬に関わった人物や産地からの流れ、また唐朝と薬品の流通との関係について明らかにした。 第一章では、唐~吐蕃支配期における国家が直接関与していた薬品の流れと、地方における薬品の流れという二つの視点から、入手方法と消費場所に分け検討した。特に唐朝が主体となって流通する薬品は、調や土貢等の献上物の他、太常寺太医署による地方や薬園での収集によってもたらされ、臣下への下賜や朝廷内、付属施設や軍隊等として消費していた。また敦煌で流通する薬品は、中央からの下賜や給付、商人からの購入や州内での採集、仏教寺院を通じてもたらされ、税や州医学、軍や悲田養病坊、個人や仏教寺院で消費されていたと考えられる。

第二章では、当時の物流を漢人・ソグド人・ペルシア人・イスラム商人の活動から把握し、S5901に記載されていた薬品のうち、特に敦煌付近で産出しないものの動きについて考察した。 第三章では、S5901に記載された内容や書写年代などについて検討を行った。 第四章では、S5901の宛名である「大徳」と差出人の僧との関係について検討した。唐・吐蕃期に関わらず、僧が薬品の融通等を、漢人またはチベット人僧の敬称である大徳に依頼・通達したものと推測した。 以上のことから、敦煌では国内外の商人による活発な商業活動を利用して薬品を入手していた事が推測される。また唐~吐蕃支配期の敦煌には、民間向けに病坊や仏教寺院を中心に医療活動が盛んに行われていた実態があり、その活動を商人の盛んな往来が支えていたと思われる。敦煌には、仏教寺院や大徳のような高僧を中心とした薬品の入手・消費の流れが存在していた。 本稿では、S5901を唐~吐蕃支配期の物流や商人の活動、薬品の産地等と接続し、敦煌における薬品の入手方法や消費場所、関与する人物や組織について検討した。本稿が唐~吐蕃期における薬品の物流についての、研究の蓄積の一助となれればと思う。

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秦代の農村統治と農民の生活 早川 泰平

本稿では、睡虎地秦簡『秦律十八種』や秦代周辺で編纂された史料を用いて、秦という国が如何にして農村統治を行い、その中で農民がどのような生活を営んでいたのかを考察した。 第1章では、秦代における制度や政策についてをまとめ、秦による農村統治は中央を中心としたものではあったが、農民の暮らしを規制するほどの苛烈な統治ではなく、 平時においては農業などに従事し生活することが可能であったことと、逆に、秦に支配された国々では、元々あった制度が秦の画一的な政策にとって代わられたことに加え、秦の中央から派遣された役人による汚職も史料から見受けられ、それらが後の反乱の原因の一つになった可能性を示した。 第2章では、『秦律十八種』の田律(農業に関する規定)を考察した。田律には『孟子』と関連する文があり、また、その文の内容が孟子が示した「王道之始」(王道はここでは儒教的な徳治政治を指す)とした施策だったことから、秦の統治というのは、商鞅から続く法治に加えて、儒教的な要素も取り入 れたもの、もしくはその並立を目指したものであったと考えられる。 第3章では、『孟子』と『詩経』から農村での生活を考察した。住居・生業・食物・儀礼について史料から読み取れる範囲でまとめた。農民の生活を詳細に描くことはできなかったが、当時の住居像や生活の内容、どんな家畜を飼

っていたか、どんなものを食べ、何をして生計を立てていたのかなどの概略は描けたのではないかと思う。 第4章では、農民への救済措置と負担について検討した。貧民救済は当時からあり、労働の対価として食料が支給されていた可能性を示し、その一方、秦統一後の民衆への負担は重いものであったことも明らかにした。 本稿では、農村統治と農民の生活に関して概観を示せたとは思うが、細かく検討するに至れなかった。他の出土資料や秦代の他の史料を広く見ていくことで、より詳しく当時の生活を描くことが今後の課題と考えている。

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1930年代以降における関東洲の労働統制 片山 紗希

本論文では、「関東洲」(以下、括弧を省略)に設置された中国人労働者統制機関である関東州労務協会が、日本支配期の中国東北地域における労働統制の流れの中でどのように位置づけられるか考察した。 第1章では、中国東北地域に流入する中国人労働者は如何なる歴史的背景をもつのか確認した。中国東北は明末の戦乱と清朝の北京遷都によって荒廃が進んだ。これを解消すべく1653年、「遼東招民開墾令」により人々は華北からとくに遼東へ流入し、農業を行った。同令の廃止後は「封禁政策」が行われるものの、華北を中心に漢族の流入は続いた。20世紀初頭には鉄道建設工事のため多量の労働力が必要となり、これ以降、山東省・河北省を中心とした華北労働者の中国東北への移動が本格化した。 第2章では、1932年から1936年における中国東北の労働統制政策立案過程について概観した。「満洲国」(以下、括弧を省略)建国当初、関東軍は治安維持の目的から労働統制を実施した。その内容は、中国東北への中国人労働者流入制限政策であった。関東軍主導の労働統制委員会が政策を立案し、それに基づいて大東公司が査証業務を実施した。大東公司は徐々に取締を強化し、中国人労働者流入制限の実行機関として機能した。 第3章では、1937年から1940年における労働統制政策の転換と関東州労務協会の設立について考察した。「産業開発五カ年計画」と日中戦争の勃発により、労働力需給が逼迫す

ると、労働政策は中国人労働者導入政策へと転換した。満洲国政府は労働統制機関として満洲労工協会を新設したほか、「国家総動員法」と「労働統制法」を公布した。満洲国政府の一連の対応を受けて、関東局は1938年10月に関東州労務協会を設立する。同協会は関東州庁の監督下にあり、政府の附属機関の性質が顕著であった。 第4章では、1941年から1943年における労務新体制と関東州労務協会の活動を考察した。満洲国政府は、労働力不足に対応するため満洲国内での労働力自給体制である労務新体制を確立した。その二本柱は緊急就労による労務動員および国民勤労奉公制であった。満洲国の国内労働力を活用する方策は、満洲国から関東洲への労働者の自然的流入を滞らせることにもつながり、関東洲においても労働者不足が顕在化した。そしてアジア太平洋戦争勃発にともない、関東州労務協会では戦争勝利に向けて労働を奨励する種々の活動が行われたことを明らかにした。 以上のように、日本支配期における中国東北地域の労働統制は、中国人労働者流入制限政策から導入政策、そして労働力自給政策という変遷を遂げた。また、これらの政策立案主体も関東軍から満洲国政府へと移り変わった。関東州労務協会は、関東州庁との強い結びつきのもとで、中国人労働者に対し、労働をとおして戦争協力を求めていった行政補助機関であったといえるだろう。

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独立新聞にみられる日本観 及川 美咲

『独立新聞』とは、1896年4月7日から1899

年12月4日まで刊行された、朝鮮の民間新聞である。1896年7月2日に開化派の系譜をひく、朝鮮最初の民間政治団体である独立協会が誕生し、『独立新聞』は、この独立協会の機関誌的役割を果たしたと評価されている。独立協会会員や『独立新聞』の執筆に携わった人物は、それぞれ、留学や亡命によって、日本及び米国での生活を体験しながら、急進的な開化思想を展開させ、独立協会の活動を率いた人物たちである。このような人物によって展開された独立協会の活動とその志向は、当時の日本から大きく影響を受けていると考えられる。そこで、独立協会の機関誌的役割を果たした『独立新聞』の日本観を明らかにすることで、当時の朝鮮開化派知識人の日本観を検討することができると考える。 『独立新聞』を第一期(1896年4月7日から

1896年7月2日)、第二期(1896年7月4日から1898年5月11日)、第三期(1898年5月12日から1898年12月31日)、第四期(1899年1月1日から1899年12月4日)の時期区分に従い、論説記事において、「일본(日本)」という言葉が使われているものを対象に、新聞記事内容の概要を把握した。また、「일본」という言葉が使われていなくとも、日本に対する論述と思われる新聞記事も分析記事の対象にし、それぞれの時期区分ごとの『独立新聞』記事における日本、その他の国の対外認識について考察をおこなった。 分析の結果、4つの時期区分ごとに論調が

大きく変化したと考えられる記述は見つける

ことができなかったが、『独立新聞』には、刊行された期間に共通して、「遅れた清国」と「進んだ日本」という対比構造で述べられる東洋の認識、日本の朝鮮の文明開化に関わりながらも、その一方性と利己性を批判する主張、東洋連帯論に基づいた主張の、以上の三点の共通した認識がみられると結論付けられる。そして、『独立新聞』の日本観と対外認識には、大きな変化はないが、「東洋連帯論」の考えについては、言及された記事の件数からも第一期から第四期と変化していく中で、強まっていったということができ、それに伴って、日本を肯定的に見て、東洋を代表する開化国という認識を強めていったということが、本稿の分析から読み取ることのできる、論調の変化だと考える。 以上の点から、『独立新聞』において、日

本は、東洋を代表する第一開化国であり、これを朝鮮の開化の手本として表現していたといえる。本稿では、『独立新聞』のこうした論調が、どういった人物からの影響を受けたものなのかは、本稿では言及しきれなかった。今後の課題として、『独立新聞』における日本観をさらに検討するにあたって、独立協会と『独立新聞』関係者の思想を、本稿の分析と照らし合わせていくことによって、どのような人物の思想が反映されていたのかを明らかにすることができ、より具体的な日本観や対外認識を明らかにしていくことができると考える。

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植民地朝鮮における普通学校教育 大場 千尋

1910年に朝鮮は日本と併合条約を結び、日

本の植民地となった。これ以降、朝鮮総督府は朝鮮人の教育に注力した。1911年の朝鮮教育令により、日本は朝鮮の教育制度の基礎を整える。これにより設置された普通学校は、それまで朝鮮で行われていた伝統教育とは異なり、新しい教育方法を取り入れ、日本語を必須科目とした。この普通学校は1910年代には朝鮮人から忌避の対象とされていた。ところが1920年代に入ると、朝鮮人の教育への関心が高まり、普通学校への入学志願者が急増し、募集定員を大幅に超え、各普通学校で入学試験を実施するまでになり、入学難が起こった。朝鮮における植民地教育について先行研究では、1910 年代の朝鮮人の、日本の学校に対する対抗 を「忌避」、1920 年代に見られる教育熱を「受容」と表現した。 本稿ではこの普通学校教育について、特に

朝鮮人の行動に変化が大きく見られた1920年代の初等教育機関に注目し、朝鮮総督府の教育方針と当時の朝鮮人の主張について考察し、両者の教育に対する根本的な目的を明らかにした。 第一章では、朝鮮の伝統教育と、日本が行

った保護条約以前と以後の朝鮮における教育方針の考察を行った。また、1910年代から1920年代の教育機関数・生徒数の比較、分析

をおこなった。このことから、日本の朝鮮統治は一貫して、朝鮮人の日本への同化に目的があり、それは教育によってなされたことを確認した。 第二章では、3.1独立運動後に朝鮮人の啓蒙

のために創刊された民族系雑誌「開闢」の論説を中心に、1920年代の朝鮮人の教育・普通学校教育に対する主張を考察し、分析した。「開闢」からは、教育の重要性を認識し、朝鮮の最優先課題として教育問題があったこと、朝鮮自身の力で学校教育を整備するべきだということ、そしてその機会は男女平等に与えられるべきだという主張が挙げられた。朝鮮の教育の向上が植民地支配を脱出するひとつの方法として認識が雑誌を通して共有されていたことを確認した。 第三章では、第二章で示した同時期におけ

る朝鮮人の教育活動について考察した。雑誌『開闢』の発行時期と並行する1920年から1925年までの『東亜日報』の記事を中心に、朝鮮人の寄付よる教育機関の設立と女子教育に対する活動についての記事を考察した。 以上、1920年代の朝鮮総督府と朝鮮人の学

校教育に対する根本の目的は異なっていたが、それを達成するための手段が普通学校の拡大にあったと結論づけた。

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「装い」の面から見た朝鮮新女性 小山 茉緒

20世紀初期以降、日本による支配の下で朝

鮮では近代的思想や文物が流入し、新文化が朝鮮社会に浸透していく。そのような背景の下、男性中心社会という厳しい環境の中で、近代的な新文化を身をもって受容し、自ら実践した存在が新女性である。朝鮮の新女性についての研究は、管見の限り新女性の装いという面からの研究は少ない。そのため、本稿では「髪型」や「服装」といった装いの面から新女性という存在を探った。先行研究から考えられる本稿の目的は、以下の2つである。1つ目は曖昧な新女性の定義を考察すること、2つ目は新女性の装いに対する批判の原因を探ることである。本稿では以上のような課題点を1920~30年代という範囲内で、主に雑誌記事を利用しながら考察した。 第1章では女性を職業の面から考えること

で、新女性の条件として「新教育を受けている」、「世間からの評価が高い」ということが挙げられた。また新女性、職業婦人、モダンガールそれぞれを分類化できるかという問題については、本稿では史料不足のため明確な集団の分類はできなかった。 第2章では、それぞれの女性集団の具体的な

装いを考察した。新女性は機能性を重視した「断髪」、「改良チマチョゴリ」といった装いを発案・実践し、そのスタイルは他の女性の間でも大流行した。新女性が動きやすい格好をすることで、その装いをした女性たちはより活動しやすくなり、さらなる社会進出を新

女性たちが先導していこうとしたと考えられた。一方でモダンガールはストッキングなどの活動しやすさよりも見た目の華やかさを重視した装いをしていた。 第3章では、新女性の装いに対する批判を華

美、経済面・利便性、朝鮮貢献といった3つの面から考察した。華美だという批判は、新しいものに対する抵抗感やモダンガールと混合したイメージから生まれていた。経済面・利便性からの批判も、慣れないものに対する抵抗感からだと言える。そして最後に、新女性は朝鮮全体のことは考えずに自分のためだけに着飾っている女性として批判されていた。しかし、初期の新女性たちは朝鮮の発展のためになるという意思をもち、断髪や改良チマチョゴリを提案・実行していたが、それらが他の女性たちにも流行し一般化した結果、次第に流行を楽しむだけの女性たちが増えていった。そのため、世間一般からはただ見た目を着飾ることを楽しんでいるようにしか見えず、新女性全体が批判の対象とされたと考えられた。 以上、「装い」の面から新女性を考察するこ

とで、「朝鮮女性のために行動する」という新女性の存在意義を見出すことができた。新女性の装いとは、ただ着飾るだけでなく、「装い」自体に新女性の思想が込められていたと言える。

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アルブレヒト・デューラー作《四人の使徒》に関する一考察

入澤 真穂 《四人の使徒》は、1526年にドイツの芸術

家アルブレヒト・デューラー(Albrecht Du ̈rer

1471-1528)によって制作された、デューラー最晩年の作品である。本作品には、デューラー自らの信仰心が秘められていると解されることが多い。一方で、本作品の歴史的価値については多様な解釈が存在する。例えば、世俗芸術とも宗教芸術ともとれない、デューラーの個人的な告白画であるとか、これが礼拝堂ではなく市庁舎の会議室に飾られた点において、本作品は宗教画ではなく、正義図の範疇に属する、というものである。以上を踏まえ、卒業論文では、デューラーの《四人の使徒》制作の意図と、本作品のもつ絵画としての機能を明らかにすることを目的とした。

第1章では、ドイツ宗教改革史をとデューラーの経歴を概観することで、社会的状況とデューラーの画業における本作品の位置づけを明確にした。

第2章では、本作品の形成過程や表現様式の分析、図像の解釈を試みた。デューラーの死後、ニュルンベルクの書家ヨハン・ノイデルファーによって画面下端に銘文が付された。この銘文の趣旨は、ニュルンベルクの政治不安を招いた狂信的言動者に対する警告である。デューラー当初の構想は、1514年から断続的に制作していた銅版画による使徒連作のための習作素描4点を用い、中央部を聖母図像の類型〈聖会話(サクラ・コンヴェルサツィオーネ)〉を主題とする三連祭壇画の両翼部として

本作品を制作することであった。また、デューラーが長年関心を抱いてきた四体液理論を利用して人間の性格描写を行うためにこの4

人を選び出したことを指摘した。

第3章では、デューラー晩年の作品や、彼の書簡や日記に基づき、またルターの教説を取り上げることで、デューラー独自の思想を考察した。芸術家デューラーと宗教家ルターの造形芸術のとらえ方は、両者共通して、偶像崇拝と偶像破壊のいずれからも距離を取ろうとする態度を示していた。さらに、デューラーの日記の記述からは、ルターへの深い私淑が観察され、それはデューラーの造形作品にも影響を及ぼしていた。デューラーは、作品において公然とルター派を主張したわけではないが、ルターを支持する立場に回っていたことは明白であると考察した。

以上より、本作品は、デューラーの、ドイツを代表する芸術家としての側面と、信仰や造形芸術一般に対する深い思索者・有識者としての側面が、高次で融合した作品であると考察した。また、本作品が、宗教改革時代にあって、デューラーが4人の使徒に己のメッセージを託した告白画であるとか、人々に対して正しく聖書を読むことを促す警告の絵画である、という従来の見解には賛同した。その一方で、表現方法の固有性や、造形芸術一般の存在意義と価値を認めるデューラーの姿勢から、本作品に示された、デューラーの、深い芸術精神を持つ画家としての側面は再評価の余地が

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あるのではないかと結論づけた。

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ルネサンス期イタリアの色彩に関する研究 清水 萌琴

この研究では、貿易や技術が発展したルネ

サンス期に文化的中心地でもあったイタリアに焦点を当てて、ルネサンス期のイタリア人が所持していた色彩についての考え方やとらえ方等の色彩観を考察していくことを目的とした。

第1章の第1節と第2節では、色彩が持つ意味とそれに至るまでの経緯などを説明した。説明した色彩は主要な色である白色と黒色、中間色である。中間色の内訳は、アリストテレスが定義する5種類から抜粋し、薄黄色(パール)、黄色、赤色、赤紫色(プルプル)、緑色である。本卒業論文中では薄黄色(パール)を黄色の範疇であるとして、黄色と同じように扱うこととした。そして、これら中間色に青色を加えた。また、第3節ではルネサンス期に流行していた赤色の染料に関して説明した。取り上げた染料はケルメス、グラーナ、アカネ、ブラジルスオウの4種である。

第2章では文学作品中における色彩の使用方法や表現を見るために、ダンテ著の『神曲』を取り上げた。これは、『神曲』の原文がラテン語で書かれていないために、当時の識字層のイタリア人が理解できるような内容が書かれていると判断したためである。故に、人々の一般的な色彩に関する感性を『神曲』から読み取ることができるのではないかと考え、『神曲』に出て来る色彩を使用した表現を探し、考察していった。第1節は地獄篇、第2節は煉獄篇、第3節は天国篇を取り扱った。

第3章では、残されている文書資料からルネサンス期の実情を判断していった。特にルネ

サンス期のイタリア人に流行していたと思われる「赤」の使用状況に焦点を当てて考察した。第1節は染色指南書から考察した。使用した染色指南書は、Trattato dell’arte della seta、コモ市立図書館に所蔵されている4.4.1.写本、そして Plictho の3冊である 。これらの索引から染色工が重要視していた色彩を割り出し、考察した。Trattato dell’arte della seta はおよそ半分、4.4.1.写本は3分の2、Plictho は3分の1が赤系の色の染色方法を提示している。第2節は毛織物商の価格表のうち、1306-1341年間のフィレンツェにおけるフランス毛織物の価格をまとめたものを使用した。この表から流通する色彩の数と価格の2通りを考察した。第3節はプッチョ・プッチ(Puccio Pucci)の財産目録を使用した。そこから衣服関係の物品だけを取り出し、まとめて考察した。人物と衣服を分けた上でこれら衣服類の色を分類し、どの系統の色がどの程度存在するのか数量化し、当時の上位貴族の嗜好を考察した。

以上の分析と考察により、ルネサンス期のイタリア人が持つ色彩感覚は現代と大きくずれているわけでは無かったと言える。これらの色彩が持つイメージは彼らが積み重ねてきた歴史であり、ルネサンス期の文学作品はそれを示してくれる。ルネサンス期の技術の向上は色彩の持つイメージを覆すこともあったが、影響されることなく最上の色であり続けていたのは赤色であった。考察したどの史料からもそのように読み取れるため、ルネサンス期のイタリア人にとって、他のどのような色彩よりも「赤」が最も重要で、特別な色彩で

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あったと言えるだろう。

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オスマン帝国におけるスルタンの帝国観 -メフメト2世を中心に-

鈴木 朝陽 オスマン帝国のスルタンであるメフメト2

世(Fatih Sultan Mehmed 1432-1481在位1451-1481)は、ビザンツ帝国からコンスタンティノープルを征服し、イスタンブルとして帝国の首都とした。彼はコンスタンティノープルを征服することを即位当時から望んでいた。彼はそれまでのオスマン帝国の首都ブルサ、エディルネと、イスタンブルをどのように区別し首都と変化させ、どのような帝国を作ろうと計画していたのか。本卒業論文では、メフメト2世以前のスルタンの時代のオスマン帝国と、メフメト2世によるコンスタンティノープル征服後のオスマン帝国とを都市に着目して比較した。その上でイスタンブルの都市としての特異性からメフメト2世の帝国観を明確にすることを目的とした。

第1章では、スルタンの帝国観を論述するにあたって、帝国とは何か、その定義について「多民族、多宗教を広大な領土に支配し、奴隷軍人軍団を有しており、専制君主的支配体制、中央集権的国家体制を有している国」とまとめた。本卒業論文ではこの定義に基づき、メフメト2世以前のスルタンの時代をオスマン朝として記述し、メフメト2世によるコンスタンティノープル征服以後の時代をオスマン帝国として記述した。

第2章では、オスマン朝の首都の役割とスルタンの帝国観について論じた。オスマン朝の首都ブルサ、エディルネの役割は領土拡大のための征服活動の拠点であった。オスマン朝のスルタンの帝国観について、彼らは「帝国」というものを明確に意識せずに、「より広大な

領土を支配する強い国」「イスラーム世界の権威を継承した国」を形成することを目的としていたとまとめた。

第3章では、コンスタンティノープル征服によって、コンスタンティノープルからどのようにイスタンブルへ変化したかということについて論じた。メフメト2世は帝国領内の住民をイスタンブルに強制移住させる人口回復策や、住民のために市場や公共施設の建設を積極的に行うことで、オスマン帝国の首都へと変化させたとまとめた。

第4章では、イスタンブルの特異性とメフメト2世の帝国観を考察した。海に囲まれた地理的要因と、イスラーム世界におけるローマの役割を担っていた歴史的要因によって、イスタンブルはそれまでの首都にはない特異性を有していたと論じた。メフメト2世の根本的な帝国観はおそらくオスマン朝のスルタンたちと同様であった。しかしイスタンブルの特異性から、コンスタンティノープルを征服することで、「イスラーム世界における権威を継承した国」ではなく、「アレキサンダーの帝国」と比肩しうる世界を支配する帝国であり、「ローマ帝国」の後継たる帝国を形成することが可能であるとメフメト2世が考えていたとした。

結論として、メフメト2世の帝国観とは、「イスラーム世界における一王朝ではなく、アレキサンダーの帝国やローマ帝国のような帝国を目指し、そしてそれを継承して世界を支配する帝国」を形成することであったとまとめた。

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サラディン像の形成と受容 鈴木 勇希

サラディンはアイユーブ朝創始者であり、

88年ぶりに聖地エルサレムを奪還し、第三回十字軍と戦った、イスラーム世界の英雄、聖人とされる人物である。1章ではサラディン研究の動向を追ってみた。サラディン研究はサラディンに関する史実を明らかにすることばかりに焦点が当てられており、作品に登場するサラディンの聖人像そのものに関する研究は少ない。そこで本卒業論文では、キリスト教世界側の、サラディンが生きた中世における作品を見ながら、サラディン像の描き方やサラディンをそのように描いた意図、サラディンの聖人像はどう形成され受容されたのかを明らかにすることを目的とした。2章では、中世フランス文学、主に武勲詩におけるサラディン像を、サラディン以外の異教徒像と比較しながら考察した。他の異教徒像とサラディン像の描き方の意図はどちらも、〈キリスト教世界を正当化する意図〉と〈キリスト教世界を批判する意図〉の2つが見られた。他の異教徒像とサラディン像の違いが出たのはその描き方であった。両者とも、キリスト教世界の作品に見られるイメージであるため、〈キリスト教世界を正当化する意図〉によって異教徒を描いていた。サラディン以外の異教徒像では〈偉大とさせてもキリスト教徒と同じ死は迎えられない描き方〉が見られ、異教徒の評価を上げても、キリスト教徒でないという理由でどこかでその評価を下げた描き方だった。それにより〈キリスト教世界を正当化する意図〉を満たしていた。しかしサラディン像では〈偉大とさせてもキリスト教徒と同じ

死は迎えられない描き方〉ではなく、〈出自をキリスト教世界に取り込む描き方〉や〈死にぎわにキリスト教世界に取り込む描き方〉が見られた。これは偉大なサラディンを異教徒だと認めず、キリスト教世界に取り込むことで〈キリスト教世界を正当化する意図〉を満たしていたといえる。このような描き方の違いは、サラディンの母方の出自が明確でないことや異教に寛容だったというエピソードによるものだと考察した。3章では、ダンテの『神曲』とボッカッチョの『デカメロン』におけるサラディン像を考察した。『神曲』ではアリストテレスなどの聖人と並べられているため聖人像であると言えるが、その評価は完全なものではなかった。キリスト教徒でないため地獄に送られる存在だとしており、2章の中世フランス文学におけるサラディン像では見られなかった〈偉大とさせてもキリスト教徒と同じ死は迎えられない描き方〉に分類した。これはダンテが祖父の祖父であったカッチャグイダが十字軍で殉教したことや、十字軍の失敗の直後に執筆したことにより、〈キリスト教世界を正当化する意図〉を強くもっていたためだと言えるだろう。一方『デカメロン』には〈キリスト教世界を正当化する意図〉は見られなかった。しかし、〈キリスト教世界を批判する意図〉が見られたわけでもない。デカメロンにおけるサラディン像の描き方は〈異教を容認する描き方〉でその意図は〈平和共存の世界を訴える意図〉であった。これはボッカッチョが商人の一家に生まれたことや、信心深くなかったことによるものだったと考察

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した。ダンテを深く尊敬していたとされるボッカッチョは神曲を参考にデカメロンを描い

たが、サラディン像に関しては神曲と違う意図をもって描いていたのだった。

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ウズベキスタン共和国のナショナル・アイデンティティ

野嶋 菜央

1991年にソ連から独立した多民族国家ウズベキスタン共和国(以下ウズベキスタン)では国民の統合が大きな課題となっており、イスラーム教、英雄ティムール、法律などに基づく国民統合を目指す試みがなされてきたが、「ウズベキスタン人」の新たな育成は今日に至るまで不完全なままになっており、政府の試行錯誤が続いている。

本卒業論文は、今まで実践されてきたこれらナショナル・アイデンティティの要素にとらわれず、2005-2007年に東京大学を拠点に現地で行われたインタビュー調査や猪口孝氏を代表に実施されたアジア最大の比較世論調査 Asia Barometer の結果を用いることで、政府とネーションとの間のギャップを鑑みつつ、ウズベキスタンのナショナル・アイデンティティとなり得るものはあるのか明らかにすることを目的とした。

まず第一章では、ロシア帝政の支配からソ連から独立するまでの、ウズベキスタンを中心とした中央アジアの歴史の概観を述べ、ウズベキスタンの形成過程を確認した。

次に第二章では、ソ連時代のウズベク語を取り上げた。行政機関の土着化を図ったコレニザーツィヤ政策によってウズベク人の識字率は上昇したものの、1930年代以降のロシア化によりウズベク語の地位は低下していった。しかし、ソ連の言語政策の主な舞台となった教育制度の結果を確認すると、中央アジア5か国の中でウズベキスタンだけ高等教育の自民

族語での教育比率が高い点を、人口及びロシア帝政期のイスラーム知識人ジャディードの影響によると考察し、これが他中央アジア諸国と比較してウズベキスタンの独自性となり得ると指摘した。

第三章では、ウズベキスタンで現在大切にされている民族文化を取り上げた。まず、春分の祭り「ナウルーズ」は伝統文化を国内外に宣伝する絶好の機会であり、政府はそれをよく理解し利用している。イスラーム要素はほとんどなく、ロシア化以前の遊牧民的伝統文化が色濃く残っている点、他中央アジア諸国と差別化できる要素がある点は、ウズベキスタン独自のナショナル・アイデンティティの形成に役立つ。また、政府が祭典を開く際、少数民族の文化を尊重している姿勢が見られる点も指摘した。次に、地域共同体「マハッラ」には近隣コミュニティ内での交流や伝統文化の伝承の機能があり、その機能は人々の同志愛の形成に影響を与えることがインタビュー調査の結果から判明した。同志愛形成の対象者はウズベク人に限らず、非ウズベク人にも影響を与えていることから、民族融和を促進させる力があると指摘した。

以上をふまえ、第四章では、先行研究で定義されたナショナル・アイデンティティの要件および人々を一体化させるネーションの諸要素をウズベキスタンの事例に当てはめ検証し、「領域」「ロシア帝政支配以降からソ連時代の歴史」「英雄ティムール」「共通の伝統文

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化」そして「言語」が、ウズベキスタンのナショナル・アイデンティティを形成する要素で

あると導くことができた。

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『七部法典』からみる中世カスティーリャの異教徒観

渡部 有希 中世イベリア半島は、ヨーロッパの中で最

もイスラムの勢力下に入った地域であり、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教と三宗教が複雑な構造をしていた場所である。いまだ中世スペイン社会で三宗教が共存していたか否かは、結論はでていない。しかし一部に限定したときは、共存していた、若しくはしていなかったと結論を出している研究者もいる。例えば、芝は「十二~十三世紀のトレドでは三宗教の共存(コンビベンシア)は存在したと断言できる」と述べている。 そこで本卒業論文では、中世のイスラム半

島の大部分を手にしていたカスティーリャ王国において異教徒がどのように認識され、規定されていたのかを『七部法典』の読解を通して考察していく。 『七部法典』(Las Siete Partidas)とは、

アルフォンソ十世賢王(Alfonso Ⅹ el Sabio 在位1252-1284年)が編纂した法令集であり、スペイン法制史上最も重要な法典の一つに数えられる。施行自体は1348年のアルカラ勅令に行われ、また下位の法源として用いられていた。日本における『七部法典』の先行研究は多くはない。奥田による先行研究は『七部法典』がいかに異教徒を規定していたのか明らかにすることが目的であるが、『七部法典』の第七部第24章、第25章のみに着目したものであり、第一部から第六部に規定されているユダヤ人、モーロ人については言及がない。また他の先行研究においても、異教徒に対する禁止事項を取り上げるのみである。そのため本稿では、第一部から第六部までの異教徒へ

の規定、また第七部の第24章、第25章、『七部法典』で規定されているユダヤ人とモーロ人への規定のすべてから、カスティーリャ王国の異教徒観を検討する。 第1章では『七部法典』の編纂者であるアル

フォンソ10世の生涯とその周辺のイベリア半島の情勢を概観し、『七部法典』の成立背景を論じた。また、『七部法典』の構成も述べた。第2章では、奥田の先行研究を概括し、その上で第七部第24章、第25章の規定を詳しく分析した。第3章では『七部法典』の第一部から第六部の異教徒に関する規定を取り上げ、異教徒とキリスト教徒、またユダヤ人とモーロ人の規定の差異を検討した。2章、3章の考察から、『七部法典』が迫害あるいは追放のための法であったと捉えることは適切とは言えないであろう。『七部法典』から当時の異教徒への対応は、国内にいることを認めつつも、あわよくば改宗を狙う点や外的な宗教活動の禁止などからして、けして肯定的な文脈で語られているとは言い難い。しかし、社会生活において密接に関わっていたであろうことも推測できる。『七部法典』は完全に異教徒を迫害しようとした訳ではなく、共存の余地は確かにあり、当時のイベリア半島の複雑な様相を示している。キリスト教徒とユダヤ人とモーロ人の関係性が過渡期であることが反映されていると考えられる。『七部法典』からカスティーリャ王国の異教徒観を見たとき、ユダヤ人、モーロ人は密接な隣人ではありつつも、明確に差別される者としてえがかれており、大きな二面性を持つものであった。