2012年度卒業論文概要 - 新潟大学 ·...

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卒業論文概要 新潟大学人文学部日本文化(社会文科系)履修コース - 1 - 新潟大学人文学部日本文化(社会文化系)履修コース 2012年度卒業論文概要 〈古代史〉 佐々木英乃 「古代の行幸についての一考察―従駕した職について―」・・・・・・・・・・・・・・ 3 佐藤 健一 「古代の市について―非経済的面を中心に―」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4 佐藤 賢史 「古代における神仏習合」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5 〈中世史〉 櫻井 拓仁 「戦国・織豊期における領主と権力―能登国の領主層を対象として―」・・ 6 〈近世史〉 小林 久記 「享保期における越後国の新田開発」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7 高橋 拓也 「幕末期における新潟の海防」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8 早川 飛鳥 「新発田藩における教育」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9 〈近現代史〉 佐藤 良彦 「関東大震災における朝鮮人虐殺事件についての一考察 ―流言飛語の発生と拡大―」・・・・・・・・・・・10 藤島くるみ 「木崎無産農民小学校に見る大正デモクラシーの一断面」・・・・・・・・・・・・11 高橋 美保 「満州農業移民計画とその実態 ―新潟県における満洲農業移民について―」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12 服部 孝啓 「十五年戦争期における日本国民の戦争認識」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13 田口 舜 「昭和戦時期の映画統制に関する一考察」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14 佐井 敏文 「日本社会党における路線論争」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15 〈考古学〉 石川 遥 「新潟県域の縄文時代の土偶について -上越地域の中期土偶を中心に-」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16 大滝 駿介 「縄文時代中期を中心とした三角形土製品の新潟県域における様相」・・17 木村 恵理 「漆の利用からみた古代東北地方南部―山形県域を中心として―」・・・・18 長束 絵美 「信濃川流域における細石刃文化期の居住行動について」・・・・・・・・・・・・19 宮嶋 佑也 「縄文時代後期の信濃川・魚野川上流域における配石遺構の一考察」・・20

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Page 1: 2012年度卒業論文概要 - 新潟大学 · 新潟大学人文学部日本文化(社会文科系)履修コース - 3 - 佐々木 英乃 古代の行幸についての一考察―従駕した職について―

卒業論文概要 新潟大学人文学部日本文化(社会文科系)履修コース

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新潟大学人文学部日本文化(社会文化系)履修コース

2012年度卒業論文概要 〈古代史〉 佐々木英乃 「古代の行幸についての一考察―従駕した職について―」・・・・・・・・・・・・・・ 3

佐藤 健一 「古代の市について―非経済的面を中心に―」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4

佐藤 賢史 「古代における神仏習合」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5

〈中世史〉 櫻井 拓仁 「戦国・織豊期における領主と権力―能登国の領主層を対象として―」・・ 6

〈近世史〉 小林 久記 「享保期における越後国の新田開発」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7

高橋 拓也 「幕末期における新潟の海防」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8

早川 飛鳥 「新発田藩における教育」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9

〈近現代史〉 佐藤 良彦 「関東大震災における朝鮮人虐殺事件についての一考察

―流言飛語の発生と拡大―」・・・・・・・・・・・10

藤島くるみ 「木崎無産農民小学校に見る大正デモクラシーの一断面」・・・・・・・・・・・・11

高橋 美保 「満州農業移民計画とその実態

―新潟県における満洲農業移民について―」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12

服部 孝啓 「十五年戦争期における日本国民の戦争認識」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13

田口 舜 「昭和戦時期の映画統制に関する一考察」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14

佐井 敏文 「日本社会党における路線論争」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15

〈考古学〉

石川 遥 「新潟県域の縄文時代の土偶について

-上越地域の中期土偶を中心に-」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16

大滝 駿介 「縄文時代中期を中心とした三角形土製品の新潟県域における様相」・・17

木村 恵理 「漆の利用からみた古代東北地方南部―山形県域を中心として―」・・・・18

長束 絵美 「信濃川流域における細石刃文化期の居住行動について」・・・・・・・・・・・・19

宮嶋 佑也 「縄文時代後期の信濃川・魚野川上流域における配石遺構の一考察」・・20

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〈地理学〉

細田 翔太 「地方都市における消費者の買物行動に関する考察」・・・・・・・・・・・・・・・・・21

星野 貢 「長岡市の住宅団地に関する考察

-住宅団地における年齢構成の変遷と高齢化を中心として―」・・・・・・・22

橋本 瑛 「校歌に謳われる景観イメージ

―新潟県内の高等学校を対象として―」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23

野呂田健太郎 「世界遺産白神山地を対象とした観光事業における現状と課題」・・・・・24

辰田矩瑠美 「金沢市のGISによる分析

―人口データと電話帳データを用いた GIS データベースの構築―」・・・・・25

五十嵐美都 「大学生の空間行動と空間認知に関する地理学的考察

―認知距離と認知方向を手法として―」・・・・・26

〈民俗学〉 大嶋真由美 「憑きものをめぐる信仰の展開-新潟県見附市上新田の事例から-」・・・27

権平 咲季 「現代における昔話伝承のあり方」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28

田部 彩菜 「生計活動と地域的特性

―越後平野低湿地帯の営農を可能とした水辺の産物と畑作物―」・・・・・・・・29

平石 桃子 「醤油おこわの受容と分布

-新潟県長岡市とその周辺地域を事例として-」・・・・・・・・・・・・・・・30

山田 祐紀 「割地慣行と村落社会―新潟市西蒲区遠藤における土地観念―」・・・・・・・31

吉田 萌子 「地域社会からみる芸能の伝承

―新潟県佐渡市徳和大椋神社祭礼の大獅子を事例に―」・・・・・・・32

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佐々木 英乃 古代の行幸についての一考察―従駕した職について― 行幸に関する研究は多岐にわたって行われている。坂本太郎氏や鈴木景二氏、仁藤敦氏

がその目的について考察されており、鈴木氏と仁藤氏は遠方への行幸はその土地への支配

と服属の確認が目的であるとされている。本稿ではこれらの先行研究を下地とし従駕した

官職、特に論究が少ない駕輿丁を中心とし行幸の形態に迫ることを目的とした。 第一章では『律令』や『延喜式』を中心に規定された従駕官について確認した。奈良時

代に従駕していた官司は宮衛令二十六車駕出入条所引古記から隼人司の次に衛門府、左衛

士府、図書寮と続いていたことが判明し、職員令からは内舎人と左右衛士府、左右兵衛府

が天皇の前後に加わっていたことがみられ、行列の配置を確認した。また、『律令』で規

定された従駕官は『延喜式』にも共通してみられたことや、『延喜式』で明らかとなった

官司の役目についてまとめた。同時に仁藤智子氏の論を中心に奈良時代において規定はさ

れていなかったものの実際には行幸に従駕していた造離宮司、装束司、次第司、騎兵司と

いった臨時官司について『続日本紀』の史料から確認した。 第二章では8世紀から登場した駕輿丁についてまとめ、その駕輿丁が担いでいた御輿につ

いて触れた。駕輿丁は『延喜式』で規定されている。その史料から左右近衛府と左右兵衛

府に所属しており、隊の構成、配給物のほか、御輿を担ぐという役割以外に雑事をこなし

ていたことがみられた。駕輿丁は『律令』において規定されていないが、後の駕輿丁のこ

とを示すであろう輿丁という職が718年の史料にみられ、また駕輿丁という語もまた780年の史料にみられることから、奈良時代につくられた職が定着し、『延喜式』に規定される

に至ったものと思われる。また弥永貞三氏が「諸司仕丁駕輿丁等厮丁及三衛府火頭等」と

いう史料から駕輿丁が仕丁にすこぶる類していると考察されていることをうけ、仕丁につ

いての検討を試み、仕丁の給仕を担っていた厮丁が駕輿丁にも配属されていた可能性があ

ることを確認した。天皇が乗り、駕輿丁が担いだ御輿については橋本義則氏の考察をもと

にまとめ、奈良時代には使用基準が明確でなかった御輿は平安時代になって基準が整えら

れていったこと、使用者もまた奈良時代では天皇・皇后・太上天皇とみられたが平安時代

では原則として天皇のみとなったことを確認した。平安時代における御輿については『西

宮記』などの儀礼書に多く記載がみられ、天皇の御輿は鳳輿と葱華輿の2種類が存在してお

り、鳳輿は行幸・即位・大嘗会・元日朝賀・朝覲行幸、五月五日・九月九日の節会のとき

に、葱華輿はそれ以外の八省神事のときに用いていたことがみられた。 以上、行幸における従駕官の配置と役目、その行幸行列の中心となった御輿とその御輿

を担ぐ駕輿丁についてまとめ、確認した。

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佐藤 健一 古代の市について―非経済的面を中心に―

古代の市の研究は経済的なものを中心に進んできた。しかし、市では売買だけでなく断

罪などが行われることで、為政者によって支配の手段として利用され、非経済的な側面も

存在した。市の非経済的な面における研究は十分とは言えず、律令制以前から律令制下ま

でを通して、市が国家の政治体制にどのような影響を与えてきたかという研究は管見の限

りみられない。そこで本稿では律令制以前から奈良時代までの市を非経済的な視点から考

察し、どのような役割を持つことで国家に政治的に利用されたのかという点を考察した。 第一章ではまず、律令制以前の市の非経済的性格を確認した。律令制以前の市には多く

の人々が集まり賑わっていた。推古朝での外交使節入京の際には、市で使節を飾馬で出迎

える事例が表れる。先行研究では使節を市で出迎えることに宗教的な意味が含まれると論

じられてきた。しかし、本稿ではこれを国家の示威行為として捉え、多くの人々が集まる

市で大々的に使節を迎えることで国家の威厳を示すことができたと指摘した。この頃に国

家の威厳を示す意味での古道の整備が進んだことから、国家は市と道を活用することで示

威行為を成したと考えた。そして、倭京の市は海石榴市・中市・軽市であったことを示し、

推古朝の王権が飛鳥を中心に敷設した計画道路に対応する形で三市が政治的に制定された

とした。その後、藤原京では東西市が置かれ、ここで初めて市が宮城内にとりこまれるこ

ととなる。市に基盤を有する地方豪族もいたことから、中央に官設市を置くことには地方

豪族の経済的基盤を切り離し、中央集権国家を目指す政治的な意図があったと指摘した。 二章では平城京東西市の実態を『大日本古文書』などの史料を元に考察した。東西市で

は食料品から奢侈品に至るまで多種多様な物品が売買され、様々な階層の人々が東西市に

存在していたことを確認した。東西市は税制の確立された中央集権的な律令国家構造の中

で厳重に運営され、全国の物や人が集まる場であった。その平城京東西市では政策が行わ

れるようになる。それはまず、遷都先はどこが良いかを問う場として利用される事例に確

認される。東西市は様々な人々が集まる場所であったことから、市が国家にとって運営上

欠かせないものであると認識していたことを示した。さらに八世紀半ばになると、帰国で

きずに乞食化して市に溢れる調庸運脚夫の対策として、飢饉に備え米を蓄える常平倉の設

置という政策が行われる。ここでも市において国内の状況を把握し、政策を行う国家の意

図が確認できた。天平神護年間以降には米価高騰の際に市に安価で米を放出する経済政策

も行われる。ここには天皇が勅を発し、貧民のために米の放出を奨励している点から、経

済的効果の他に人民を支配する意図があったのではないかと推測した。この背景には政変

や皇統の変化などの社会不安があり、その際の民心掌握のための政策であったと考えた。 市は流通機能が主となる役目のものであった。しかし、本稿で古代の市では示威行為や政

策が行われ、人民支配のために政治的に利用され続けたことを示し、その面でも国家が市

を重要視していたことを明らかにできた。古代国家の支配体制を窺い知れる点で、市の非

経済的な視点からの考察も重要であると考える。

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佐藤 賢史 古代における神仏習合

神と仏を同一視する思想、神仏習合は仏教公伝から間もなくはじまり、奈良時代に入る

とその動きが顕著になっていった。神仏習合に至る過程は非常に様々だが、それを示す建

築物が神宮寺と山岳寺院の大きく二つがある。 本卒論では、日本古代史におけるこの二種類の寺院を、建立を主導した人物を通して比

較検討することで、当時の宗教の在り方について考察を加えた。 まず時期について、神宮寺は奈良朝が始まってから、つまりは本格的に朝廷が鎮護国家

の名の下に仏教を国家ぐるみで信仰するようになってからである。対して山岳寺院の場合

は仏教公伝から間もなくその兆候が表れている。これは道教をはじめとした大陸の宗教と、

当時の仏教が既に密接に関係していることが考えられる。 次に地域について、神宮寺は日本各地にあり、その中でも北陸に多く、説話から大陸と

関係があると考えられるものが多い。対して山岳寺院であるが、そのほとんどは畿内にあ

り、天皇家と直接関係があるものが多い。 創建者については、神宮寺の場合、仏教を信仰する者という点ではある程度共通性は見

られるものの、その身分は様々であると言っていい。仏教を厚く信仰する貴族、本来は仏

教以外の山岳修行者、地元の神主などである。対して山岳寺院は一定の地位のある官僧が

建立していることが多い。後に律師あるいは僧都といった律令における僧の三役に類する

役職に就いた者、建立に際して朝廷が支援しているものなど、国との関わりが密である寺

が多い。 そして、神の立ち位置について、神宮寺の場合、神は人々に災いをもたらすものだった

り、人々に恩恵をもたらす存在であることを望んだり、その姿は言わば人間的なものを感

じさせ、その発言は正に仏教に対する服従である。対して山岳寺院の場合、神は寺の建立

を支援し、また祀られる仏と共に存在している。元々信仰されていた水神、雷神といった

地元の神は創建者の願いを聞き入れ、建立に積極的な支援を行っている。新たに山に鎮座

することとなった仏に対してその存在自体は否定されることなく、一種の共存の様な形を

取った。 神宮寺は豪族が支援し『神が主体となって僧と共に仏道に励む場』山岳寺院は寺院、朝

廷が支援し『僧が主体となって仏道に励む場』として、それぞれ神仏習合を語る上で欠く

ことのできない二つの神と仏と僧の関わり方として重要な立ち位置を占めている。

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櫻井 拓仁 戦国・織豊期における領主と権力 ―能登国の領主層を対象として―

本稿の目的は、戦国期の能登国の政治体制において、領主層がどのような存在であった

か、そして領主と権力の関係が織豊期においてどのように展開するのか明らかにすること

である。 戦国期の政治体制を考える上で、権力を構成する「戦国領主」について検討することは、

有効な手段である。従来の研究でも甲斐武田氏、越後上杉氏、安芸毛利氏などの権力構造

が「戦国領主」の検討を通して論じられてきた。しかし、従来の研究においては権力が移

り変わっていく地域の「戦国領主」の研究はなされてこなかった。能登は当初、能登畠山

氏が支配を行っていたが、天正五年(1577)に上杉氏の分国となり、同九年には前田氏が入部

する。そこで、能登国の「戦国領主」と能登畠山氏、上杉氏との関係、そしてその関係が

前田氏の入部後どのように展開するかを検討した。 第1章においては、能登の「戦国領主」である遊佐氏、温井氏、長氏らと能登畠山氏との

関係を検討した。第1節では、畠山義続の守護在任期である天文末期の政治体制を検討し、

能登の「戦国領主」が奉書の署判者となっていることから政治の中枢に「戦国領主」が組

み込まれていたことを論じた。また、それ以前の奉書の署判者についても確認を行い、「戦

国領主」が政治の中枢に組み込まれたのは、義続の守護在任期が初めてであったことを論

じた。第2節においては、畠山義綱の守護在任期における政治体制を検討し、「戦国領主」

が奉書の署判者や取次役として、政治の中枢に位置していたことを論じた。 第2章においては、畠山義続・義綱が能登を出奔した後の政治体制を検討した。第1節に

おいては、永禄九年(1566)から天正五年までの政治体制を検討した。そしてこの時期の能登

では、能登畠山氏当主が存在しているにもかかわらず、「戦国領主」が自らの意思で国外

との交渉を行っていることを明らかにし、政治体制は「戦国領主」の連合体制であり、能

登畠山氏には実権がなかったと論じた。第2節においては、天正5年以後の能登の政治体制

を検討した。そして上杉氏の支配においては、「戦国領主」である遊佐氏が検地を担当す

るなど支配体制の中枢にいたことを述べた。また、上杉謙信の死により上杉氏の支配が弱

まると、「戦国領主」の連合体制が再び支配を行おうとしていたことを述べた。 第3章では織田信長によって能登一国を与えられた前田氏権力において、前田氏の入部後

においても鹿島半郡の支配を継続した長氏がどのような存在であったかを検討した。長連

龍が前田利家へ臣従している事実は天正十年から確認でき、その後も石動山合戦、越中出

陣、小田原出陣でも臣従しており、その点では長連龍は前田氏の家臣と言える。しかし、

前田氏の権力において中枢を担っていたのは村井長頼や奥村永福らであり、能登畠山氏の

支配期のように領主層が政治の中枢を担うことはなくなったと論じた。 以上で論じたように、天文末期に成立した領主層が政治の中枢を担う体制は、天文初期

まで続いたものの、前田氏の入部によって崩壊したのである。

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小林 久記 享保期における越後国の新田開発

越後国で享保期に行われた紫雲寺潟新田開発の経緯について考察を行った。検討を行う

上で重点を置いたのは、享保7年(1722)に江戸日本橋に立てられた新田開発奨励の高札

によって紫雲寺潟の新田開発がすすめられることになったのかという点と、この時期の新

田開発計画に大きく携わってきた井沢弥惣兵衛が紫雲寺潟に関与していたのかという点で

ある。この二点を念頭に置いて紫雲寺潟新田開発の一連の流れについて考察を行った。 第一章では新田開発奨励の高札と紫雲寺潟の関連性について、武井弘一氏が述べた新田開

発奨励の高札は新田開発を促すものではなく、新田開発が認可される条件を提示したのに

過ぎないという指摘の検討を行った。まず同時期に新田開発が計画されていた琵琶湖の新

田開発計画を引き合いに出して検討した。琵琶湖の新田開発計画は享保七年以前から京都

の商人によって請願されており、新田開発奨励の高札が立てられた後にも商人から願書を

提出されている。享保期以前に出願された計画と同様の出願をしているため、新田開発奨

励の高札をうけて新規計画された計画とはいえず、新田高札の時期に合わせて再出願され

たものにすぎない。 紫雲寺潟の開削計画は享保6年の長者掘再掘開削以前から、当時支配を行っていた新発田

藩や陣屋代官によって水抜きの計画が画策され続けていた。しかしこの計画は新田開発を

行うというよりも水害を防ぐための開削であり、享保13年(1728)に竹前小八郎兄弟によ

って行われた長者掘再開削は享保11年(1726)に出願された願書から分かるように新田開

発を主な目的としている。紫雲寺潟における開発の主体が役人から町人へ、主な目的が水

防から新田開発へと推移していることから、紫雲寺潟新田開発においては享保7年の新田高

札の影響をうけて町人請負の新田開発が進められていったことが分かる。 第二章では井沢弥惣兵衛が紫雲寺潟新田開発に関与していたか、また井沢がもたらした

「紀州流」と紫雲寺潟との関連性について考察を行った。井沢が実際に紫雲寺潟へ足を運

び検分を行ったのは享保17年(1732)のみであり、琵琶湖新田開発の時のように直接の指

導はないとみられる。しかし紫雲寺潟新田開発の一連の流れで、紫雲寺潟に流れ込む境川

の締め切りによって新発田藩や幕府が計画を練り行われた享保15年(1730)の松ヶ崎掘割

についてみていくと、掘割の特徴として両岸に洪水を防ぐための堤を設けていること、堰

を何段も設けていることから「紀州流」の特徴と類似している点がみられる。また松ヶ崎

掘割の工事が決定されるまでの過程をみると、幕府が派遣した役人の内、塩路善右衛門は

井沢とともに紀州藩から幕府に登用された人物であり、海へ切り出す掘割の作成場所の決

定やこのことに対する新発田藩と新潟湊が取り交わした証文に奥印を行ったのも塩路善右

衛門であることがわかった。このことから松ヶ崎掘割において井沢による「紀州流」との

関係性がなかったとは言えず、むしろ密着に関係があったのでないかと考えた。 このことから、紫雲寺潟の新田開発は、享保13年頃に竹前兄弟によって行われた長者掘

の再開削と境川の締め切りは享保7年の新田高札による町人請負の新田開発という面と、そ

の後行われた松ヶ崎掘割と今泉川の瀬替えは町人請負から幕府による普請工事へと変わり、

その中でも「紀州流」と関わりのある井沢弥惣兵衛と塩路善右衛門などが工事に着手した

という面の二面性によって成り立っているのではないかと考えた。

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高橋 拓也 幕末期における新潟の海防

幕末期の諸藩の海防政策については、沿岸に領地を持つ諸藩を中心に検討されてきた。

しかしながら、幕府が日本海側の海防拠点・要地とした新潟及び佐渡に援兵する諸藩に関

する研究はこれまでなされてこなかった。そこで本稿では、日本海側に異国船が頻繁に出

没した嘉永元年・二年の高田藩と新発田藩の海防政策の実態を検討した。そのうえで、諸

藩の実態と従来研究されてきた幕府の海防政策との関連性についても論じることを試みた。 第一章第一節では、幕府内評議の結果として嘉永二年に幕府から諸大名に出された海防

強化令の内容を検討した。内容としては主に、海防体制を見直して強化することと、経費

を削減することの二点を命じていた。また、その具体的な方法については各藩の裁量に任

せて、各藩にある程度の主体性を持たせるかたちをとっていたことがわかった。 第一章第二節では、新潟奉行所における海防体制の改変について検討した。頻繁な異国

船の出没情報を受けた新潟奉行所では、嘉永元年に「非常心得方覚」を出し、それまでの

海防体制を改めた。その内容は主に経費を見直すことと、防備方法を具体化することで迅

速な対応を目指すというものであった。 第二章第一節では、「海防一件」を用いて高田藩の海防政策を検討した。防備について

は、佐渡に出張する物頭の召連れ人数を変更することで、低コストで実用的な海防体制に

再構成することを目指していた。また財政面では、物頭が出張に対する宛行金の内借りを

申し出ていた。これらのことから高田藩では、海防費が限られているという状況の中で、

低コストで実用的な防備の実現が迫られていたということがわかった。 第二章第二節では、新発田藩の「月番日記」を用いて新発田藩の海防の実態を検討した。

防備体制については、嘉永元年に御領四ヶ浜の警備の担当が変わったことを受けて、警備

方法について担当の新発田藩と与板藩で相談し、決定事項について幕府からの承認を仰い

だ。また財政面では、嘉永元年から佐渡への出張の手当てについて、手当金を従来の三分

の一にすることとした。このことから、防備体制については、幕府との兼ね合いがありな

がらもある程度の主体性をもって決定することができ、財政面でも海防にかかる支出を見

直し、削減することに努めていたことがわかった。 嘉永元年の時点において、新潟奉行所と諸藩の政策内容は、実用的な防備を目指して防

備を見直すという点と、経費の削減という点で共通していた。これは、幕府が嘉永二年に

出した海防強化令の内容と一致しており、新潟奉行所も諸藩も海防強化令に先がけて同様

の政策を実行していたことがわかった。従来の研究では、海防強化令を幕府内部の政策上

の対立という側面から検討してきた。しかし本稿の検討を踏まえれば、幕府内部の対立の

みならず、広く地域の海防状況をとらえた上で出された側面もあったと考えられる。

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早川 飛鳥 新発田藩における教育

新発田藩では八代藩主溝口直養期以降、庶民に対する教育政策が活発になった。これらの

政策は主に藩政の再建が目的であり、成人を対象にしていたと先行研究では論じられてい

る。そのため子どもの教育について触れた研究はごく僅かであり、手習い等についてもほ

とんど論じられてこなかった。そこで卒業論文では、新発田藩における庶民の子どもの教

育について、主に藩からの表彰記事を用いて考察した。なお卒業論文における「子ども」

は、史料中の「子共」、「幼年之者」といった表現を、具体的な年齢では七歳頃から十三

歳頃までを指すこととした。 第一章ではまず、子どもの学習の傾向について検討した。子どもの教育・学習に関する

表彰記事は寛政年間から見え始め、その後は幕末まで安定して確認することができた。子

どもに対しては主に手習いと素読が教えられており、素読関連の被表彰者の方が手習い関

連の被表彰者よりもやや多かった。素読は子ども以外にも教えられていたものの、弘化年

間の達しや表彰記事から、主な対象が子どもであったことが分かった。次に子どもへの教

育の様子について検討した。子どもに教育を施す際には、その人数によっては教育するた

めの場が設けられていた。中には教育を主たる目的にはしていない場所でも教育が施され

ることがあった。また、手習い師匠の派遣を要請する事例、町の子どもの手習いの世話を

頼まれた師匠の事例も踏まえると、藩領内において手習いに対する欲求が年齢を問わずに

あったと考えられる。 第二章ではまず直養期の勧学政策の対象について検討した。家中に向けて出された安永

令と町方・村方に向けて出された安永令を比較し、庶民の子どもを対象とした教育はそれ

ほど意識されていなかったと考えた。また講堂での講釈や、町方・村方で行われる社講に

よる講釈で名主などの役人が対象とされていたことや、庄屋役を勤めたことによって藩か

ら直養の著作である「勧学筆記」を授与された事例もあったことから、直養期の勧学政策

では名主などの役人、つまり成人がその対象であったと考えた。しかし、前述したように

寛政年間以後には学習に励んだ子どもに対する表彰も見られるようになった。そこで、政

策の対象と子どもの関わりについて検討を試みた。これについては、子どもの教育に関す

る表彰は寛政年間に始まり、かつ他の表彰理由と同様に扱われるようになったことが分か

った。また、子どもと社講制度の両方に関係する人物の事例から、子どもに教育を施して

いるものを社講にすることで、藩の教育政策に組み込もうとしていた時期があったのでは

ないかと考えた。このように子どもへの教育に対して藩が目を向けるようになった理由と

しては、安政五年に教授役から社講へ伝えられた内容から、学問によって風紀を正してい

く中で、子どもから教育をすることに必要性に藩が気付いたからではないかと考えた。

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佐藤 良彦 関東大震災における朝鮮人虐殺事件についての一考察

―流言飛語の発生と拡大―

本論では、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災における、朝鮮人の虐殺事件につい

て検討を試みた。特に、朝鮮人に関する流言飛語の発生と拡大について、警察関係資料から検討

を行った。 第一章では、関東大震災の概要について触れた。第二章第一節では、戒厳令の発布について整

理した。そして、朝鮮人に関する流言飛語が戒厳令発布の契機となったのであれば、流言飛語の

発生や拡大について検討する必要があると考えた。第二章第二節では、流言飛語の発生と拡大に

ついて検討した。流言飛語の発生源に関しては、「自然発生説」と「官憲捏造説」の二つの説が

ある。姜徳相氏は、流言飛語の発生について「官憲捏造説」の立場をとる。姜氏は、戒厳令布告

後、戒厳軍隊や警察の主導の下に虐殺が行われ、一般民間人も朝鮮人虐殺に積極的に加担したこ

とを重視し、権力が戒厳令布告の名分として、朝鮮人が暴動を起こすといった流言飛語を流布し

たとする。一方、松尾尊兊氏は、流言飛語の発生について「自然発生説」の立場をとる。松尾氏

は、姜氏の論には資料的根拠がないと批判し、流言の発生について、警察関係資料から検討した。

松尾氏は、震災後の1日夕刻には、東京や横浜の各所で点々と流言が発生し、これらの流言は地

域的にみていずれも独自に発生したものであるとした。そこで私は、流言飛語の発生と拡大の様

相について、「警視庁管内各署」における流言飛語の発生状況をまとめた記録をもとに検討を試

みた。この記録は、もとは警視庁編『大正大震災誌抄』に残されたものであり、当時の警視庁管

内の、51警察署管内における流言飛語などに関する記録が書かれている。そのなかで、朝鮮人

に関する流言飛語について記述があった48警察署の記録を、①管内にはじめて流言飛語が伝わ

った日時、②場所(警察署)、③流言の内容の三項目で整理し、表を作成した。さらに、①にも

とづいて地図上に順に番号を打っていき、流言飛語の発生と拡大を視覚的により認識できるよう

な図も作成した。これらの検討から、朝鮮人に関する流言飛語の発生は、「自然発生」的だった

のか「官憲捏造」的だったのか考察を試みた。流言飛語を最もはやく確認したのは、王子警察署

であり、それは1日の午後4時のことだった。地震の発生は1日の午前11時58分であるので、地震

の4時間後には流言飛語が発生していたことがわかる。内田康哉臨時首相をはじめ、前加藤友三

郎内閣の閣僚が首相官邸の庭に集まり、臨時閣議が行われたのが翌2日であるから、少なくとも

王子警察署が確認した流言飛語は官憲による捏造ではないと考えた。また、王子警察署以後の流

言飛語の発生順をみると、自然発生説の根拠のひとつである、地域的連続性がないという点がみ

てとれた。 以上のように、「警視庁管内各署」の記録の整理から、流言飛語の発生は自然発生的であった

と結論付けた。ただし、本論では警察の史料にもとづき、東京における流言の発生や拡大につい

て検討した。しかし、それだけでは検討として不十分であり、流言飛語の発生や拡大について、

警察の記録だけではなく、当時の個人の日記や記録なども検討し、対象地域も東京に限らず、東

京周辺の地域における状況も検討しなければならない。

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藤島 くるみ 木崎無産農民小学校に見る大正デモクラシーの一断面

本稿は大正15年に開校した木崎無産農民小学校と当時の教育運動との関係性について考察し、

そこから見える大正デモクラシーの一断面を明らかにすることを目的とした。新潟県の旧北蒲原

郡木崎村では大正11年から木崎村小作争議が勃発していた。大正15年5月18日には争議の一環と

して小作農民の子弟による「児童ストライキ」に突入し、これを受け新潟県農民組合連合会によ

り同盟休校参加児童を集めて開校された。また大正自由教育運動は従来の教育勅語に沿った画一

的な教育を脱し、実体験や経験を根拠とした教育の運営を目指した運動であった。先行研究では

木崎農民小学校の開校は小作争議が文化面にまで広がりを見せたことを意味し、閉校はそれをも

たらした小作争議団の構造の限界を明らかにしたとされている。先行研究では争議と木崎農民小

学校との関連については述べられているが、同時期の教育運動との関係性については論じられて

いない。そこで今回は大正自由教育運動をキーワードに木崎無産農民小学校が他の教育運動とい

かに関わったのかについて論じることを試みた。 第一章では大正自由教育運動の概要を述べるとともに自由教育運動の出発点が欧米の新教育

運動にあることを明らかにした。第二章では木崎無産農民小学校開校までの道程を追い、開校の

背景に木崎小作争議が存在し、農民小学校の運営や教育思想に争議が大きな影響を及ぼしたこと

を述べた。自由教育運動は欧米の新教育思想に感化され始まった運動であったが木崎農民小学校

は木崎村小作争議を契機としており、二つの教育運動はその衝動が大きく異なっていたと論じた。

第三章では農民小学校の具体的な教育方針・運営について見ていった。教育方針には画一主義の

否定、個性尊重といった大正自由教育運動に共通する概念が盛り込まれていた。この内容に至る

までには内部対立が生じていた。原素行らは自由教育思想の中でも「真・善・美」の教授により

差別の存在を超越しようと試みたが、黒田松雄は差別から目を背けず実状を全国の人々に知らし

めることこそが木崎農民小学校の使命である、と反対する。今井一や佐藤佐藤治ら青年部は農民

小学校に他の農民と強く結びついた組織性と農民の生活に密接に関わる内容を望み、原らに反対

した。そこで自由教育思想の中でも双方が衝突しない個性尊重、画一主義の批判を教育方針に採

用し、原らの一応の納得を得ることにしたのである。教育方針を決めるにあたり多方面に分化し

ていた大正自由教育思想から農民小学校に必要なもののみを選別し、吸収したといえる。一方「児

童の平等性」「国定教科書中修身の放棄」「労働者の誇りを教えこむこと」「階級闘争の理念を

逐次盛りあげること」など階級闘争に特有の方針も盛り込まれた。授業では徹底的な教科書批判

によって農民の尊厳と人間の平等が唱えられ、天皇制国家のありかたやブルジョアとの差別に批

判が加えられた。 以上のことから木崎無産農民小学校は大正自由教育運動と出発点を異なりながら必要な教育

思想のみを取り込み、また階級闘争教育を盛り込むことで自由教育思想を突き抜けた教育思想を

創出したと考えた。大正期のデモクラティックな風潮は様々な運動を促進し例えば大正自由教育

運動を、あるいは木崎村小作争議を引き起こした。出発点が異なり相関性のなかった二つの運動

だったが、木崎争議が教育面にまで波及したことを契機に接触する。木崎無産農民小学校は大正

自由教育運動の一部を取り込み、階級闘争の要素を混ぜ込みながら自由教育運動の限界を超越す

る教育方針を作り上げた。木崎農民小学校は、大正デモクラシーの風潮が多方面に目線を向ける

民衆それぞれの衝動を後押しし、実行せしめ、諸運動を複雑に関連させながら拡大させる一面を

持っていたということを示していると結論付けた。

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高橋 美保 満洲農業移民計画とその実態 ―新潟県における満洲農業移民について―

本論では満洲農業移民の生活・営農実態について、新潟県における満洲農業移民に関し

て県の動きと実際の移民活動の相違を検討した。 第一章では新潟県での満洲農業移民計画に関する概要と移民の情報宣伝活動について、

新聞を主として見ていった。県の計画の概要については、試験移民期から大量移民期を経

て移民事業崩壊期にかけての、新潟県からの移民送出状況を追った。新潟県からの移民送

出増加は昭和11年に出た百万戸送出計画が契機であり、分村分郷開拓団送出を推進した。

移民事業の晩年である昭和17年頃からは経済統制による商工業転廃業者を主な移民の対象

とした大陸帰農開拓団が全国的に送出され、新潟県からも数団送出された。 情報宣伝活動の点からは、『新潟日報』他2紙の記事から新潟県の移民に関しての記事を

追った。時期は昭和12年からの昭和18年までとした。 昭和15年から少年義勇軍に関する記事が増加、昭和16年には「大陸の花嫁」に関する記

事、昭和17年からは大陸帰農開拓団についての記事が中心となっていた。いずれの記事も

団員らに対して英雄的に報じる傾向があり、年代が下るごとに顕著になった。また開拓に

関する博覧会や映画会、講演会も全県的に行われていた。 第二章の第一節、では新潟県から送出された開拓移民団について、聞き書き資料をもと

に第11次津南郷開拓団の営農について、第二節では津南郷開拓団員の生活の実態を、第三

節ではその他の新潟県からの開拓団として第六次五福堂開拓団、第11次柏崎開拓団、第13次刈谷田郷開拓団について、開拓団生活について見て行き、差異について検討した。 津南郷開拓団については聞き書き資料を使用し、耕作面積、作物などについてまとめた。

また渡満動機、部落や住居、食事、学校について抜き出し検討した。高いモチベーション

で開拓団に参加した人よりも内地より良い生活を期待した人や召集を逃れる目的で参加し

た人が多数だった。このような傾向は第13次刈谷田郷開拓団でもみられるため移民後期の

開拓団の特徴であったと考えられる。五福堂開拓団は昭和12年に入植後、4年後には村制を

施行し五福堂新潟村として入植地に定着していた。 第一章で見たような満洲への無理な入植計画やそれを達成するための宣伝活動は、実

際の開拓団生活とは違っていた。渡満後の収穫物は一度収穫物を納めてから再配給され、

満洲で広大な土地を耕作し生活しようと渡満した団員にとって宣伝での満洲像とは大きく

異なっていたと思われる。また、移民には召集はないとされていたが終戦間近になると現

地召集も行われ、召集を避ける目的で渡満した人は勿論、その他の団員にも中央政府への

不信感を抱かせたと思われる。日本とは全く違う状況の中で移民として開拓地に定着する

には五福堂開拓団のように4年程度の期間が必要であり、初期の開拓団生活を想像して渡満

した移民後期の開拓団員にとって、移民事業や宣伝と実際の開拓団生活とのギャップはか

なり大きいものであったと考えられる。

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服部 孝啓 十五年戦争期における日本国民の戦争認識 本論は十五年戦争期において国民が戦争をどのように捉え、これに協力、もしくは反発

していたのかを、明らかにすることを目的としたものである。対象として国民を選んだの

は、従来の研究が天皇や軍部に対する責任追及に集中していたことと、現在の我々がアジ

ア諸国に対し十分な責務を果たせていないように思えたからである。そこで責任の主体を

国民と捉え、当時の国民の戦争認識を読み取ることで、ひいては現在の国民に対し責任の

自覚を促すことができるのではないかと考えた。

第一章では国民に対する政府・軍部の統制について、その先行研究の整理と、それに沿

った新潟県の個別事例についての検討を行った。

資料分析では、先行研究において長浜功(1987)や平賀明彦(1986)が述べていたよう

な、戦争協力における国民の自発性の是非に着目し、新潟県における精動運動の活動内容

を中心に検討を行った。そこでは、政府が発した精動運動の実施要綱と県や市で制作され

たそれとを比較し、県・市における項目の細かさから、国と地方の温度差を読み取ること

ができた。また新潟の地方の新聞記事から、銃後活動の具体的な内容を検討した。そこで

多く見られたのは市葬等慰霊行事に関する記事であり、ここから、国民が戦争に協力する

要因の一つには、戦争によって生まれた犠牲に敬意を表し、これに報いようとする意識が

あったのではないかと考察した。

第二章では実際に国民が戦争をどう捉えていたのかということを、当時国民から大きな

反響を得た民政党の代議士、斎藤隆夫の「支那事変処理に関する質問演説」と、それに寄

せられた国民の手紙の検討を通して理解しようとした。

斎藤の演説は大きく、近衛声明や大東亜秩序の理念の曖昧さを批判した前半と、議事の

速記録から削除された後半とに二分することができる。後半では戦争の本質を生存競争と

捉え、これを無視したまま平和や秩序を唱える軍部・政府の欺瞞を指摘している。

斎藤にとって戦争とは、人間が生きていくための必要悪であり、不可避的な存在であっ

た。しかし彼は他の著作において、一方では何とかこれを避けたいという想いも吐露して

おり、この対立する思想が彼の中でジレンマを引き起こしていた。そこで次に彼が目を付

けたのが、戦争によって失われた犠牲に報いることで、戦争の継続を正当化しようという

論理である。これが、政府や軍部の不手際を批判する大きな根拠となった。

斎藤の演説に対し国民はどう反応していたかというと、彼らはそれに強く共鳴しながら

も、一方で戦争を生存競争とみなす斎藤の認識そのものには反応を示さなかったことが手

紙の内容から明らかとなった。これはまさに国民の戦争認識が、ジレンマの末斎藤の示し

た、犠牲に報いようとする点にあったことを示していると考えられる。

以上から、国民には自発的に戦争協力を行う一面が見受けられたが、それは戦争によっ

て生まれた犠牲に対して、報いようとする意識が働いていたと結論付けた。

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田口 舜 昭和戦時期の映画統制に関する一考察 映画統制に関する従来の研究では、監督や脚本家などの作品製作者の視点に立脚する研

究が主流だったが、その一方で統制する側である政府の視点に立った研究は少ない。本論

では議事録の内容を検討し、審議段階における論点や問題意識を検討し、映画法に何を期

待し、如何なる効果を狙っていたのかを探った。また、日本の映画法はナチス・ドイツの

それに倣ったものであるため、両者を比較・検討し、特徴を明らかにすることを試みた。 第一章では、1938年3月9日から開かれた衆議院本会議・映画統制委員会の議事録の検討

を行った。特に審議において頻出していた「外国映画の制限」「農村と映画の問題」「児

童と映画の問題」「登録制」について検討した。「外国映画の制限」については、外国映

画を観ることによって、その国の風俗を知ることができるという利点がある一方で、外国

の異質な文化や風俗が日本に入り込み、悪影響を与える虞があることが懸念されていた。

「農村と映画の問題」については、農村に映画が普及していないことは政府にとって看過

できない問題であり、農村に映画を普及する為に、農村を巡回して映画を観る機会を増や

すなど、政府が積極的に政策を行うことが改善策として挙げられていた。「児童と映画の

問題」については、年少者が映画を観ることによって知識の向上や常識を得られるという

メリットがあるが、映画の内容によっては年少者の精神に害を与える虞があることが危惧

されていた。その改善策としては、政府が独自に年少者向けの映画を製作して上映するこ

とが挙げられていた。「登録制」については、登録制度を採用することにより、映画業界

に従事する者に、自らは公共性の強い職業に付いているということを自覚させ、責任感を

持たせることが狙いだったことが分かった。 第二章では、日本の映画法とナチス・ドイツの映画法の内容を比較・検討した。特に両

者の共通点である「事前検閲」「登録制」「外国映画の制限」を抽出し、その類似点や相

違点を検討した。「事前検閲」については、ナチス・ドイツの規定では、製作する映画の

種類に関わらず事前に検閲を行うのに対し、日本の規定では、その対象が「主務大臣の指

定する種類の映画」と限定的である。「登録制」については、ナチス・ドイツの映画法の

規定では映画の題名を登録するだけであるが、日本の映画法では、映画業界に従事する者

で、主務大臣に指定された者は漏れ無く登録することとなっている。「外国映画の制限」

については、ナチス・ドイツの映画法においては、その映画の製作国の解釈・意図を酌み

取った上で許否を決めることになっている。しかし、日本の映画法では、製作国の解釈や

意図を考慮するのではなく、その検閲基準は日本にあり、ナチス・ドイツのそれよりも厳

格さが際立ったものであることが読み取れた。

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佐井 敏文 日本社会党における路線論争

本稿の目的は70年代日本社会党の路線問題の中心であった二人、左側の代表格であった

向坂逸郎、右側の代表格であった江田三郎の思想、そしてその展開について明らかにする

ことである。 70年代に入ると両者の対立は非常に大きなものとなっていたことは確かである。通説で

は江田は構造改革論の提起以来右派とみなされ、向坂は「教条」的左派とみなされている。

しかしそのようなことは事実に反することを本稿では明らかになるように努めた。 第一章でははじめに「教条」的左派とみなされている向坂と山川均とを比較した。なぜ

山川と比較したのかと言えば、山川は向坂とは異なりプラグマティックと言われているか

らである。まず二人の間の非武装中立に関する認識についてみていった。通説では向坂は

どんな状況であっても非武装中立を志向するのに対し山川は時と場所によるとされている。

しかし二人の間の認識はどうだったのかといえば、実は同じであったと考えられることを

示した。次に向坂の議会に対する態度を見ていった。向坂は社会党が政権についた場合す

ぐにそれを恒久化すると通説では考えられている。しかし本稿ではそれは事実に異なるこ

とを明らかにした。 第二章では第三章で扱う江田三郎について述べる前に構造改革論について扱った。江田

三郎の思想的展開を見ていく上で構造改革論に言及しないことはできないからである。ま

ず構造改革論の展開について触れた。次に社会党における構造改革論について触れた。そ

の中で、通説では江田は構造改革派に含まれているが、思想的にはこの両者の間には差異

があったのではないかということを示した。その差異とは構造改革論が社会民主主義志向

であるのに対し、江田はそのような路線は志向していないということである。 第三章では江田三郎の思想的展開を扱った。そこでは江田は60年代から右派ではなかっ

たことを明らかにした。60年代の江田の思想は向坂に近いものであった。江田の思想に明

確な変化が見られ、社会民主主義的になるのは70年前後のことである。 江田と向坂との差異を強調するとき、その差異はプロレタリアート独裁をめぐる認識に

表れている。江田のプロレタリアート独裁への反対理由は複数政党制の問題等明らかにな

っているが、向坂のプロレタリアート独裁に対する態度は必ずしも明らかになっていない

まま、プロレタリアート独裁即「教条」と捉えられている節がある。本稿では最後に向坂

のプロレタリアート独裁に対する態度を検討した。また江田についても触れた。江田の思

想は70年代に入ると社会民主主義に接近した。日本で社会民主主義を主張する政党と言え

ば民社党である。社会党の路線に反対するのならば離党して民社党に行ってもよさそうな

ものである。しかし江田はそれをしなかった。それでは江田は77年に離党するまでなぜ社

会党に残ったのであろうか。最後にそれは大衆運動に対する態度であったのではないかと

考えた。それが社会党と民社党とを分けた決定的なものであった。

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石川 遥 新潟県域の縄文時代の土偶について -上越地域の中期土偶を中心に-

新潟県域の土偶は縄文時代前期に出現し、その後、晩期まで製作される。現在各時期を

通じて1000点を超える土偶の出土が確認されている。中でも中期は112遺跡1204点あまり

土偶が存在することが明らかとなっており、新潟県域において最も土偶製作が盛んに行わ

れていた時期であると言える。この中期土偶の研究は、中越地域を主体とするものが多く、

上越地域(上越市、糸魚川市、妙高市)における土偶の形態的特徴や変遷が明らかになってい

ない。そこで、上越地域から出土した中期土偶を対象に、他地域との関係にも触れながら、

当地域の土偶の形態的特徴、変遷を明らかにすることを目的として検討を行った。 はじめに、上越地域の土偶に見られる形態的特徴を部位ごとに整理した。頭部は基本的

に頭頂部が平坦で顔面形が皿状を呈するものと、頭頂部が丸みを帯びるキノコ状のものと

いう、河童形土偶に特徴的な形態を示す。その他として、北陸の串田新様式期に製作され

た「脚なし反り返り板状土偶」と酷似する、顔面表現がなく孔が施される頭部形態などが

みられた。腕部は水平方向に伸びる形態、バンザイ状に上方に伸びる形態、尖るように張

り出す形態に分類した。脚部は大きく有脚と無脚に分けることができ、有脚のものは二脚

独立と二脚一体に、無脚のものは末端が末広がりになるものと、丸みを帯びるものに細分

した。胴部のつくりとしては、出腹のものと板状のものに分類した。両形態ともほとんど

のものが中実のつくりであるが、一部中空のつくりがみられた。この中空土偶は上越地域

と長野県の北信地域のみでみられる土偶であり、その分布は長野県深沢遺跡出土の深沢系

土器(深沢第2類土器)の分布域と重なることが指摘され、両者が密接な関係にある可能性

が高いことを示した。また、土偶に施される文様は多種多様であったが、腹部の C 字およ

び逆 C 字状の弧状沈線文は他地域の土偶でも認められることを指摘した。 次に、上越地域の土偶の変遷を想定した。中空土偶に始まる上越地域の土偶は、前葉に

は出腹土偶と板状土偶の大きく見て2形態が混在していたが、中葉に入ると出腹土偶も板状

化、文様も簡素化する。しかし、中葉後半では再び文様は全身に施され、有脚志向へ変化

する。腕部は水平方向からバンザイ状に変化する傾向がみられる。後葉に関しては、北陸

の「脚なしそり返り土偶」と関係がある土偶の存在が指摘できるため、かろうじて製作が

継続されていたと推測される。 また、残存部位から上越地域における土偶の在り方についても考察を行った。上越地域

の頭部の出土率の低さから西日本の頭部および顔面表現の忌み嫌い文化の影響を受けた可

能性、同一部位の出土率の偏りから土偶の集団的利用の可能性を指摘した。また、土偶の

形態的特徴から、上越地域が新潟県域の中で最も早い時期に、土偶に立たせるという機能

を持たせ、立たせる機能を保持し続けた特異な地域であったことを示した。 上越地域は西の北陸地域、南の中部高地に接しているため、それぞれの文化が混合した

地域である。その文化の狭間であるが故に、上越地域の土偶は各地域の様々な要素を取り

入れながら、独自の土偶文化を形成していったといえる。そのため、上越地域の土偶文化

の実態を解明するためには、他地域の土偶との比較が不可欠であり、さらなる類例の集成

や、形態・文様の分布域を明確にすることが今後の課題であると言える。

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大滝 駿介 縄文時代中期を中心とした三角形土製品の新潟県域における様相

卒業論文で私は「三角形土版」、「三角形土偶」などと呼ばれている遺物を対象とした。

卒業論文では名称を三角形土製品で統一している。

三角形土製品は八幡一郎が紹介したことにより世に知られるようになった(八幡 1932)。

その後、ボタンなどの服飾品といった見解もあったが、寺村光晴により土偶、土版の一種

であるという見解がなされてからはこれが主流となり今に至る(寺村 1957)。分布について

は盛んに発表がなされているが、分類についてはあまり詳しくなされていないため、卒業

論文では分類を中心に行った。また、三角形土製品が何であるかを土器、土偶の施文方法

を中心に考察を行った。

新潟県域の三角形土製品はまず先端への加工をもつ A 類と持たない B 類に分けられる。

A 類は先端のこぶの形状で3つに細分、B 類はこぶの位置、数で12に細分を行った。

文様の構成要素についても分類をおこなった。三角形土製品に付けられる沈線の位置で7

類に分けることができ、これらの組み合わせとそれぞれの区画への刺突で文様は成り立っ

ている。

土器、土偶との施文方法の比較では、どちらでも沈線は多くみられるものの一定の区画

内に刺突を充てんするという方法をとっているものはまれであり、三角形土製品の施文方

法、文様構成は土器、土偶とは異なる系統のものであることが分かった。

新潟県域の三角形土製品は施文方法、文様構成の面では土偶とまったく違うものを持っ

ているものの、人体的要素を持つ、破損していることが多いなどの観点から現段階では三

角形土製品を土偶の1形態とみて、「三角形土偶」で名称表記を統一し、表記の多様化を避

けるべきだと考える。

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木村 恵理 漆の利用からみた古代東北地方南部-山形県域を中心として-

7世紀以降、都城では漆の利用が大幅に増加する。漆は調度品や仏具、棺の塗装などに用

いられており、これらの漆工技術は大陸の影響を受けたものと考えられている。 これまで都城を中心として漆が付着した土器の用途や、漆液の流通に関する研究がなさ

れてきた。しかし、地方では資料数が増加する反面、研究は進んでいないのが現状である。

山形県域においても漆器や漆工具の出土が確認されているが、それらに関する研究はこれ

までほとんどおこなわれてこなかった。 そこで本稿では6世紀から9世紀までの山形県域の漆関連遺物に関して漆の付着状態や工

具痕の観察から製品・用具の分類をおこない、用具については用途の検討も加えた上で漆

関連遺物を出土した遺跡の性格について検討し、古代の山形県域における漆利用の特徴に

関して考察をおこなった。 該期の漆関連遺物は木製漆器が少量存在するほかは大部分が漆が付着した土器であった。

土器に意図的に漆を塗布したと考えられる例はごくわずかであり、大部分は用具として二

次的に付着したものと考えられた。用途に関しては、甕や壺はいずれも漆の貯蔵に利用さ

れたものとした。また、坏類に関しては漆紙が入った状態で出土した双耳坏の存在などか

ら、パレット以外にも少量の漆を保存する容器として利用された可能性を指摘した。都城

における出土例などと比較すると、山形県域では漆の運搬具とされる壺や瓶類はみられな

い上に、精製前の漆を入れた土器が少ないことから、山形県域では遠方からの漆の集荷は

されず、漆を利用する施設のごく近隣ないしはその施設内で漆の栽培がおこなわれていた

可能性が高いことを指摘した。 山形県域では7世紀末以降、漆関連遺物の出土が継続的にみられるようになる。地域ごと

にみると置賜郡域では7世紀末、最上郡域では8世紀前葉、出羽郡域では8世紀中葉から漆関

連遺物が出現し、全県的に数量が増加するのは8世紀末以降である。いずれの郡域において

も漆関連遺物が出土したのは官衙関連遺跡であり、なかでも仏教や祭祀関連する施設にお

ける出土が多い。 出羽国は712年に建国され、置賜・最上郡の出羽国への移管が完了するのは716年である。

置賜郡域では7世紀末から仏器とされる盤などの木製漆器や用具が出土しており、陸奥国の

管轄下にあった時期から木製漆器の製作がおこなわれていた可能性が高い。出羽郡域に関

しては出羽国建国後、8世紀中ごろから漆器や用具が出土している。出羽郡域においてはこ

の時期から仏教に関する遺物の出土が増加しており、仏教とともに漆に関する技術がもた

らされた可能性が高いことを指摘した。 今後の課題としては、宮城・福島県域といった東北南部地域との比較をおこなうことが

挙げられる。

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卒業論文概要 新潟大学人文学部日本文化(社会文科系)履修コース

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長束 絵美 信濃川流域における細石刃文化期の居住行動について 信濃川流域は、長岡市(旧川口町)荒屋遺跡の発見から、後期旧石器末の様相を捉えるうえ

で重要な地域とされてきた。「荒屋型彫器」という特徴を持った石器は、主に東日本に分

布しており、北方系の細石刃製作技術を持った集団の様相を捉えるうえで、その石器製作

技術などについて論じられてきた(芹沢1959など)。また、旧石器から縄文にかけての移行期

を研究するうえで、その立地の変遷などに注目する動きも増えてきている(佐藤2003)。遺跡

数が圧倒的に多い南関東平野などに比べると分布論など、統計的な分析が行いにくい地域

でもあるといえるが、信濃川流域に広がる河岸段丘に形成された遺跡の立地環境に着目す

ることで該期の様相を捉えようとする試みは重要な視点であるといえる。しかし、立地傾

向の分析はいくつかなされ指摘されてきた(沢田1999など)が、その多くは、縄文時代の遺跡

との比較対象としての分析であり、細石刃文化期遺跡をより詳細に把握するような研究は

いまだ不十分であると考えた。そこで、本論では、信濃川流域における細石刃文化期の遺

跡の立地環境・使用石材と石材資源環境にとくに注目し、当時の居住行動を考えるうえで、

どのような土地を利用していたか、信濃川流域という地域の特色を把握するうえでの基礎

としたいと考え、検討を行った。 はじめに、信濃川とその支流河川に形成された細石刃文化期遺跡の立地について、その

傾向と河川との関係を分析・検討した。ここでは、遺跡の立地する河岸段丘の形成時期に

注目し、当時の河川との対比を試みた。その結果、そのほとんどが河川近傍で、信濃川や

その支流である、比較的大きな河川とのアクセスが容易な地点を選択している傾向がみら

れることを指摘した。しかし、例外として、それよりもやや標高が高く河川との関係が希

薄と考えられる遺跡が存在した。 さらに、立地面を捉えるうえで、資源供給地である石材獲得地との関係性を明らかにす

るため、石材の利用状況について分析を行った。ここで、石器製作が行われていた痕跡が

希薄な遺跡の立地する場所は、信濃川と支流の合流点であり、石材が獲得しやすい環境に

ある傾向を指摘した。これらの場所で獲得できる石材は、当時主として使用されていた黒

曜石や珪質頁岩などよりも利用頻度の低い凝灰岩系の岩石などである。このことから、珪

質頁岩などの良質な石材の不足を補うための資源補給地として、当地を利用していた可能

性を指摘した。 今後の課題としては、他地域との傾向との対比である。今回取り扱った遺跡は、信濃川

流域に限定したものであり、信州や東北などの石材産地や、三面川などの他の河川流域で

の様相との比較を行うことで、より当地での居住行動の特徴を捉えることができると考え

られる。

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卒業論文概要 新潟大学人文学部日本文化(社会文科系)履修コース

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宮嶋 佑也 縄文時代後期の信濃川・魚野川上流域における配石遺構の一考察

配石遺構とは「縄文時代人たちが多量の自然石を用いて構築した施設」の総称とされて

いる。縄文時代後期以降の配石遺構は、各地の出土状況から、墓制または祭祀に関連する

遺構であると考えられている。 新潟県内での配石遺構研究は、新潟県関川流域で晩期に構築されたと考えられる石棺状

配石遺構について、鈴木保彦や加藤雅士によって他地域との比較や形態分類が試みられ、

長野県域からの伝播ではないかという仮説がなされている。また、後期に構築されたと考

えられる信濃川・魚野川上流域の配石遺構について、阿部昭典によって当地域の配石遺構

が特徴的な配石形態をもつことが紹介されている。しかし、それらを集成し、形態分類す

る作業は行われていないため、本地域の配石遺構はその機能や変遷過程などが明らかにさ

れていない。そこで、卒業論文では縄文時代後期の信濃川・魚野川上流域にみられる配石

遺構を他の地域における配石遺構の配石形態、構築時期と比較することによって、縄文時

代後期の当地域における配石遺構の変遷過程とその機能について考察を試みた。 はじめに、縄文時代後期の信濃川・魚野川上流域における配石遺構を集成し、形態分類

を行うことによって、7遺跡175基の配石遺構を6つの形態に分類した。阿部昭典によって紹

介された配石遺構が当地域の65%を占めていることから、これらの遺跡間でなにかしらの

交流があったのではないかと考えた。 次に、信濃川・魚野川上流域における配石遺構の墓坑としての機能について、長野県安

曇野市北村遺跡の埋葬人骨検出例を参考に検討を試みた。信濃川・魚野川上流域において

土坑を伴う配石遺構は、はじめに分類した175基のうち132基であり、検討の結果、132基のうち82基を墓坑と判断した。 最後に、本地域の配石遺構の変遷過程を考えるために、他地域の配石遺構と比較を行っ

た。まずは、新潟県内での変遷過程を知るために、新潟県内で検出された配石遺構を対象

とした。当地域の配石遺構は後期中葉に確認できなくなるが、村上市元屋敷遺跡で後期中

葉に下部に土坑を伴う配石遺構の構築が始まる。元屋敷遺跡の配石遺構は土坑上部に配石

が施されていること、配石形態が信濃川・魚野川上流域の形態と似ていることから、元屋

敷遺跡へ伝播した可能性があると考えた。次に、隣接地域との関係を知るために、隣県で

ある長野・群馬・福島・山形県域、さらに東北地方の配石遺構出土遺跡を比較対象とした。

その結果、本地域の配石遺構が構築されなくなった後、下部に土坑を伴う配石遺構が長野・

群馬・福島県でみられたため、これらの地域に伝播していったのではないかと考えた。 以上のように、本論文では縄文時代後期の信濃川・魚野川上流域における配石遺構の機

能と変遷過程について考察を行った。今回対象とする時期を後期以降としたため、当地域

における配石遺構の出現過程をみることができなかった。今後これを明らかにするために

は中期にみられる環状列石との関連を検証する必要がある。

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細田 翔太 地方都市における消費者の買物行動に関する考察

消費者の買物行動は、1970年代から発展したモータリゼーションが大きな影響を与えた

とされ、乗用車の利用によって買物をする店舗の選択肢が増え、またひとつの店舗で多く

の商品を購入することができる大規模小売店舗を利用するようになり、また1990年代の大

型店立地に関する規制緩和、ライフスタイルの変化なども買物行動の多様化・広域化を進

んだ。一方で小売業の競争が激化し小売店舗の淘汰や中心商店街の衰退といった問題も引

き起こされている。買物行動に関する従来の研究では、地域内に商店街やスーパーマーケ

ットといった小売店舗が立地するなど商業環境が比較的整えられている地域が研究対象地

域にとなっていたが、本稿では、地方都市である群馬県太田市毛里田地区を調査対象地域

とし、地方都市で小売店舗が少ない地区において、消費者がどのようなことを重視して買

物行動をおこなっているか、またどのようなことが消費者の買物行動に影響を与えている

のかということを明らかにすることを目的とした。目的を明らかにするために、同地区に

ある太田市立毛里田小学校に通う5・6年生児童の保護者202人と毛里田地区公民館をクラブ

活動等で利用している利用者76人にそれぞれ買物行動に関するアンケートをおこなった。

調査票は278部配布し140部回収、回収率は50.30%だった。これは毛里田地区全体の0.02%にあたる(同地区の総人口は11776人(男性5935人 女性5941人))。今回配布したアンケート

の調査では、商品・サービスをどのような場所で購入しているのか、主に利用している店

舗の形態について、主に利用している店舗を選ぶ理由などの6問について質問をおこなって

いる。 アンケート結果からまとめると、品目別の買物場所の選択について食料品などの最寄品

の買物場所としては毛里田地区に近い地域のスーパーマーケットが選ばれている。洋服や

家庭電化製品などの買回り品は商品の種類の豊富さが売りとされる大型複合店、ショッピ

ングモールが買物場所となっていることから、ロードサイドに多く出店している大型店舗

で日頃から買物行動がおこなわれている。また店舗選択の理由については商品の種類の豊

富さ、値段が安いといった点が消費者にとって店舗選択における重要な要因になっており、

これらの要因が買物場所として魅力のある場所だと消費者に認知させている。また品目別

に見ると、食料品などの最寄品は理由として商品の質を重視する、家から近くて便利、自

分の職場に近いといった点が重視され、一方買回り品では買回り品のなかでも店舗を選ぶ

要因が異なっている。衣料品の買物行動には個人の好みが反映されそれらを満たす店舗が

揃う複合店で買物をする傾向があり、家庭電化製品においては店自体を信用している、ま

た修理などの対応の良さなどサービス面の充実が店舗選択の大きな要因となっている。ま

た対象地域において今後高齢化が進むことで買物行動がより一層不便になるという問題が

ある。地区内には食料品を取り扱うスーパーマーケットなどの小売店舗がなく、買物行動

に毛里田地区外の大型店舗が多く利用されていることから、今後地区外までの移動をどの

ような手段でとるのかといったことを検討する必要があるだろう。

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星野 貢 長岡市の住宅団地に関する考察 ―住宅団地における年齢構成の変遷と高齢化を中心として―

第二次世界大戦直後から1970年代にかけての高度経済成長期、農村部から都市部への若

年層を中心とする人口移動がおこった。そのため都市部では慢性的な住宅不足が生じ、そ

れを解決するため、郊外地域に大規模な宅地開発がおこなわれた。このような地域では同

時期に同じ年代層の住民が大量に流入したため、居住者の年齢構成に偏りが生じ、定住し

た居住者が加齢することで高齢化が急激に進行するという問題が生じている。 郊外住宅団地の人口変動や高齢化については、金沢市を事例として香川貴志(1990)が、千

里ニュータウンを事例として香川貴志(2001)が、仙台市を事例として伊藤慎悟(2010)が論じ

ている。しかし、これまでの郊外住宅団地の人口変動や高齢化は関東・関西の大都市圏を

事例にしたものが多く、地方中心都市や地方都市を対象とした研究は少ない。 そこで本稿では、新潟県長岡市を対象として地方都市の住宅団地における人口変動と高

齢化について考察した。調査は同時期に造成された、戸建て住宅団地の江陽こうよう

団地・長峰ながみね

団地・

高町たかまち

団地・長岡ニュータウン(青葉台あ お ばだ い

・陽光ようこう

台だい

)、公営住宅団地の稲葉い な ば

団地・昭和しょうわ

団地・希望き ぼ う

が丘おか

団地・宮みや

栄さかえ

団地の計8団地9地点を対象として行った。 調査方法としては、1985年から2010年までの国勢調査データを元に対象住宅団地の5歳

階級別コーホート分析を行い人口変動について考察した。また、対象住宅団地ごとの高齢

人口比率の比較による分析を行い、高齢化の進行について検討した。 その結果、今回調査した長岡市の住宅団地も先行研究と同様に、15歳-19歳→20歳-24

歳コーホートの流出と居住者の加齢によって高齢化が進行していると確認できた。また、

高齢化の進行には住宅団地によって差が見られた。差が生じたのは、公営・戸建ての住宅

団地の種類の違いや住宅団地周辺における大学の立地のためであると考えられる。 公営住宅団地では近年、若年層の流入減少が見られ、壮年層の転出減少による定住化傾

向も確認できた。このことは由井(1998)も指摘しており、公営住宅団地で高齢化が進行する

原因の一つである。 また、長岡市の人口変動や高齢化には新潟県中越地震が大きな影響を与えていることが

わかった。特に地震の被害が大きかった高町団地では、震災後ほとんどの年齢層において

人口の流出が見られた。このことに伴い、同団地では高齢化が他の住宅団地に比べて進行

している。また、長岡ニュータウンでは山古志村住民の全村避難に伴う人口変動が確認で

きた。 今回の長岡市の事例により、災害被害といった地域特有の事象が人口動態に影響を与え

ていることが確認できた。今後、長岡市以外の都市においても地域特有の事象が人口動態

や高齢化にどのような影響を与えているのか検討し、研究事例を蓄積していくことが求め

られる。

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橋本 瑛 校歌に謳われる景観イメージ―新潟県内の高等学校を対象として― 本論は、学校の校歌から山・川等の景観要素を抽出することによって人々の抱く地域景

観や地域の特性、その地域差を明らかにし、地理学的考察を行うことを目的とするもので

ある。対象を新潟県内の高等学校に設定し、校歌を収集した。収集した校歌を分析・考察

した結果の概要を以下に示す。 まず、抽出した景観要素の中で最も多く校歌にうたわれたのが山であった。うたわれた

山は越後平野以外では地域ごとに明確な差がみられた。この理由として、新潟県内におい

ては越後平野を除き山が多く、周囲の山に遮られるために視認できる範囲が比較的近隣に

限られているということが考えられる。最も多くうたわれたのは弥彦山であったが、その

理由として、人口や学校数の多い地域ということに加え、視認できる範囲が非常に広いこ

と、近隣の山々とは独立しているために特定しやすいことが考えられる。山の特定のしや

すさというものは、校歌にうたわれる山が選択される理由となっていると推察される。 地名を除けば、山に次いで多くうたわれたのが川であった。新潟県内においては、信濃

川が圧倒的に多くの学校でうたわれ、次いで阿賀野川が多くうたわれていた。また、うた

われている川は、山と比較して学校から非常に近い場所を流れている場合がほとんどであ

った。その中で、規模の大きい川は比較的遠い位置に存在する学校でもうたわれていた。 海が校歌にうたわれた学校は全体の半数程度であった。海は、山・川と比べても圧倒的

に規模が大きく、象徴的に用いられることも多いものの、その有無が校歌にうたわれるか

否かと大きく関わっていることが明らかとなった。 田野や米に関する表現、雪に関する表現は、4割程度の学校でうたわれた。うたわれる学

校は新潟県全域に分布していた。雪に関する表現については、全国的にみても非常に高い

出現率であり、日本有数の豪雪地帯という特性が反映された結果となった。特に魚沼地域

においては非常に高い割合でうたわれていた。県の特色であるこれらの要素は校歌にも多

くうたわれ、景観として強く意識されているといえる。 地名は7割を超える学校でうたわれた。現在の県名である新潟は新潟市以外ではあまりう

たわれることはなく、全県を通して旧国名である越後がこの地域を表す言葉として多く利

用されていた。 歴史的要素がうたわれた学校は、全体で見れば数は少ないものの、新発田市や上越市で

は高い割合でうたわれていた。これらの地域では、城や寺社などが地域景観として強く意

識されているといえる。この要素が校歌にうたわれるかどうかは都市の歴史や成立の経緯

と大きく関連しているといえる。 考察の結果、新潟県の高等学校においても先行研究で行われてきた全国的な調査とほぼ

同一の傾向がみられることが確認された。だが、これまで研究の少なかった新潟県全域、

そして高等学校の校歌という研究対象についてわずかながら研究を深めることが出来たと

いえる。しかし、学校や校歌の成立年度、普通高校・実業高校による差異などといった観

点からさらに考察を深めていく必要がある。

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野呂田 健太郎 世界遺産白神山地を対象とした観光事業における現状と課題 観光の代表的な形態であったマスツーリズムは、観光客の過度な流入による自然への負

荷の問題などから批判の対象となり、それに代わって近年では、自然への負荷が少ないと

される、エコツーリズムが注目を浴びている。しかしエコツーリズムは、観光振興と自然

保護のジレンマの問題をはじめ、いまだ課題が数多く存在し、現在も議論がなされている。

本論では、秋田県山本郡藤里町ふじさとまち

を研究対象地として設定した。藤里町は、秋田県側で唯

一白神山地の世界遺産登録地域を有し、高い自然保護意識に基づいた、良質なエコツーリ

ズムを展開している。しかし、観光客の多くは、白神山地における主要な観光スポットが

点在する青森県側に流れてしまい、観光地としては条件的に不利な地域である。そこで本

論では、観光不利地域におけるエコツーリズムの展開と課題について言及するため、藤里

町を研究対象地とし、その自然保護意識の形成過程を明らかにした上で、現在展開されて

いるエコツーリズムの現状と抱える課題について考察を加えた。 藤里町における自然保護意識は、伐採が進む森林を守ろうとする一人の市民の自然保護

運動がきっかけとなり、町に形成された。その中心的人物によって、「秋田自然を守る友

の会」という自然保護団体が結成され、秋田・青森両県を結ぶ青せい

秋しゅう

林道りんどう

が建設され始めた

際には真っ先に反対運動を起こし、結果的に林道建設は中止となる。この運動が、藤里町

における高い自然保護意識を町全体に根付かせる結果となり、現在では、その意識を根底

に据えたエコツーリズムが展開されている。 しかし、藤里町は観光地として青森県側に比べると観光客数が少なく、現在では観光事

業が町全体の経済を潤すまでの経済効果を得られずにいるのが現状である。また、観光客

は県内の者がほとんどで、さらに観光客数は年々減少しており、PR が大きな課題であるこ

とが明白となった。ガイド事業に関しても、収入や出動回数が少なく、スタッフの従事状

況が副業的、趣味的なものになっているという問題や、後継者問題などが存在している。

さらに、実施されているエコツアーに関しては、主催団体が複数存在するが、主催団体に

よって料金に大きな差が見られ、応募者の偏りが発生しており、横の連携にさらに力を入

れ、統制の取れた展開をしていく必要があると考えられる。 今後、過疎化が進む藤里町において、質の高いエコツーリズムを維持していくためには、

地域振興と、新しい世代の参入が必要となってくる。そのためには、先に掲げた諸問題を

解決した上で、県外に対する PR の強化や新たな企画の実施など、集客の工夫を凝らし、地

域の活性化に努める必要があるものと考える。

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辰田 矩瑠美 金沢市の GIS による分析 ―人口データと電話帳データを用いた GIS データベースの構築―

地理情報システム(GIS)とは、地理的位置を手掛かりに、位置に関する情報を持ったデー

タを総合的に管理・加工し、視覚的に表示して、高度な分析や迅速な判断を可能にする技

術である。金沢市を対象とし、GIS を用いた研究は建築学や地理学で行われており、近世

期の絵図を用いたものや、用水路網に関するものが挙げられる。金沢市における GIS を用

いていない地理学分野の研究は、人口変動に関するものがある。伝統工芸に関しては、地

理学で研究された事例はほとんどなく、金沢市に関する研究は業界の変遷や政策に関わる

ものがある。 本稿では、金沢市について ArcGIS を用い、人口変化と伝統工芸(金沢箔、加賀友禅、金

沢漆器、金沢仏壇、金沢九谷、大樋焼)と料理店(割ぽう・料亭、料理仕出し)、和菓子

店、寺院、神社の立地分布に関する GIS データベースを構築し、構築の過程で明らかとな

ったことについて論じた。人口は1920年から2010年国勢調査の、金沢市及び編入により金

沢市となった旧町村のデータを用い、1980年以前は人口総数のデータを、1980年以降は町

丁目ごとの人口総数及び5歳階級別のデータを用いた。立地分布については1988年と2012年のタウンページをそれぞれ用い、アドレスマッチングを行うことで緯度経度を定義させ

た。また、地図に関するデータは国土基盤情報と2万5千分の1地形図、5万分の1地形図を用

い、地形図は国土基盤情報をベースにオーバーレイさせて表示した。 人口については、1920年のデータをみると、金沢城下であった市街地地区のほか、近世

期から港町として栄えていた金石・大野地区の人口が比較的多いことが分かった。また、

1980年と2010年の人口データを比較すると金沢市郊外での人口増加が読み取れ、1990年代

からの金沢大学のキャンパス移転に伴って人口が変動したことや、郊外での人口増に伴っ

て金沢市立の小学校が分離設立されたことが傾向として読み取れた。郊外の人口増に関し

ては、川上・増田・谷(2002)や香川(1990)が述べていた、中心市街地の人口減少と郊

外での人口増加が改めて明らかとなった。 伝統工芸や飲食店の所在地データに関しては、1988年と2012年を比較すると、ほとんど

の項目で店舗数の減少がみられた。バブル経済期とバブル崩壊後の現在を比較しているた

め、不況によるものや、伝統工芸に関しては、それらに対する興味の薄れもポイント数の

減少に関係していると考察した。一方、和菓子店については店舗数の増加がみられた。こ

の期間には商業施設が新規開業していることから、施設のテナントとして和菓子店が多く

入り、増加したのではないかと考えた。また、秋山ら(2007,2009)や長田ら(2007)が挙

げているように、近年ではタウンページに掲載されない店舗も存在するため、タウンペー

ジを用いるだけでは不十分であることも考えられる。所在地データに関する研究はまだ少

ないが、電話帳を用いる際はこういった点にも注意しながら進める必要性がある。

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五十嵐 美都 大学生の空間行動と空間認知に関する地理学的考察

―認知距離と認知方向を手法として―

本稿では、第一に、空間認知の数量的把握を行う。第二に、空間認知の形成に影響を与

える地理的要因と個人的要因の解明を図る。この2点を通して、空間認知の特徴を一般化す

るための研究蓄積をつくることを目的とする。 被験者は、新潟大学の五十嵐キャンパスに通う学生である。今回の調査は、2012年10月に行ない、配布総数406部の89.9%にあたる365人から有効な回答を得た。 終点には、駅や商業施設、シンボルを選定し、新潟大学から2km 圏内が5地点、新潟大学

から15km 圏内が5地点、20km 圏内が2地点である。調査項目は、性別、学年、居住形態、

市内居住年数、自動車の有無、地図利用機会の有無、調査地点への年間訪問頻度、距離の

評価、方角の記入を求めた。 分析の結果として、先行研究に倣い、以下の5点が成果として挙げられる。

(1)新潟市周辺の距離は、全体として過大評価され、先行研究と同様の結果を導いた。また、

起点から離れた調査地点は他の地点に比べて、より過大評価される。この命題は、全調

査地点の認知距離が相関図中の実距離と等しい Y=X よりも上にプロットされたこと、予

測式において Y 切片 b が0以下であることから支持された。 (2)都市内の配置や地形が空間認知に影響を与えるとした Pocock の命題を支持した。距離認

知分析では、起点と調査地点との標高差が大きくなるほど誤差率が高くなること、中心

市街地から放射状に延びる交通網の形状が距離評価に影響を与えている可能性があるこ

とが根拠として挙げられる。後者は、中心地を通って郊外から郊外へ向かう場合の距離

評価が過大評価されたことを指している。また、方向認知分析では、認知方向の誤差30°と道路や線路、海岸線等の直線性のある構造物の傾きとが一致したことから支持された。

これは、大学の北西部にある日本海を北にし、大学と並行する道路や線路が東西に伸び

ているように認知されていたことを指す。 (3)調査地点の位置的・機能的特性によって認知距離は異なるとした Pocock の命題を支持し

た。そのため、先行研究と同様に一定の傾向が検出されにくく、一般化できる命題が少

ない。調査地点別に分析し、異なる傾向が検出されたことから、調査地点の特性が空間

認知に影響を及ぼしていることがわかった。 (4)車所有者は、非所有者よりも距離を相対的に過大評価する。この背景には、両者の選択

する経路に差があることや道路の交通状況の影響を受けたことが考えられる。 (5)起点から5km 圏内の調査地点において、相対的方向は認知されており、田中、若林と同

様の結果を導いた。しかし、起点から10km 以上になると相対的方向を認知している被

験者の割合が4割をきった。従来の方向認知研究では、終点が起点から5km 圏内の範囲

で検討されていたため、新たに空間スケールを限定することを加える。 先行研究の成果に加え、新たにみられた現象もあり、今後の研究でも同様の成果がみら

れるか、事例の蓄積と特徴の一般化を行う必要がある。

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大嶋 真由美 憑きものをめぐる信仰の展開 -新潟県見附市上新田の事例から-

人間霊や動物霊などの霊的存在が人にとり憑き、人格変化などが引き起こされた状態を

「憑き」と表現する。民俗学における憑きもの信仰研究ではそのような現象を扱ってきた。 本論文は、新潟県見附市上新田で得られた5つの憑き事象をもとに、「憑き」と表象さ

れる現象の分類と、憑きもの事象から稲荷信仰へと展開していく過程を明らかにした。 これまでの憑きもの信仰研究でも現象分類は行われてきたが、必ずしも十分ではなかっ

た。そこで、上新田で得られた5つの憑き事象をもとに「憑き」と表象される現象の分類

を行った。現象を構成する要素として、「憑くもの」と「憑かれるもの」、そして憑くと

されるものを操るもの、つまり「第三者」がある。そこから、憑くものが「好まれる性格

の精霊(憑き)か」、憑かれるものが「憑きをコントロールできるか」、「第三者が関与

するか」の3つの軸を設定し「憑き」現象の分類を行った[表2]。これによって得られた8

つの現象をⅠ型からⅧ型とし、上新田で得られた事例AからEは表2のように分類された。 次に、事例 A をもとに憑きものから稲荷信仰へと展開していく過程を講帳および、講中の

伝承、稲荷社を屋敷地内に有する家の伝承、稲荷社内に保管されている資料から明らかに

した。第1段階の信仰の展開として見られたのは、キツネ憑きであった人を稲荷神として祀

り上げたことである。この際に、人々の中に、祀り棄てるべきであった人を神化するとい

う祀り上げの観念に近いものが存在していたと考えられる。その後、すぐに稲荷講が発生

している。これが第2段階の信仰の展開である。講の発生によって、稲荷祭祀の場に「飲み

食いするための場」という性格が与えられた。供養のための稲荷の祭祀に、講の発生によ

って、稲荷講という集団の交流の場という娯楽性が付け加えられたと考えられる。次に見

られた展開は昭和56年に「正一稲荷大明神」と名称を変更したことから始まる。変更した

ことで、「ほんとうの神様」になったことだけでなく、「稲荷様は利益をもたらす神」で

あるという性格の認識の変化が起こった。「正一」という名称は宗教者が関与して付けら

れたが、その後の認識の変化を推し進めていったのは、講中ではない「外の人」とそれに

対応した「中の人」であると考えられる。つまり、「外の人」が上新田の稲荷様にも他と

同じような「利益をもたらす」という御利益を求めてやってき、それによって講中の人も、

稲荷様とは「利益をもたらす神」の性格を持つという認識に変わっていく。 また、屋敷地に稲荷様を祀る家では、稲荷様を「自らの家を守護してくれる」という屋

敷神的なものとして認識するようになった。この家では代々嫁の仕事として稲荷様の世話

が行われている。彼女たちの中で伝承されている稲荷様の縁起は講帳に載っているものと

は異なるものである。彼女たちが「稲荷様が自らの家を守ってくれる」から世話をするの

だと説明し、「人のため」に世話をしているのではないとはっきりと言っていることから、

稲荷様は講のものではなく、自家を守護する神であるという性格の変化が見て取れた。

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権平 咲季 現代における昔話伝承のあり方

民俗学において昔話とは主に囲炉裏端で祖父母が孫に語るもの、村落内の集まりの際に

村の古老から村人に語られるものとして扱われてきた。しかし、暮らしが近代化する中で

家からは囲炉裏が消え、ラジオやテレビの普及により昔話が語られる場も少なくなった。

カタリジサ、カタリバサという伝統的な語り手が少なくなった現在、新たにみられるよう

になったのが「民話の会」や「語り部の会」と呼ばれるような昔話を語る会である。 しかし、今まで文字を介さない口承による伝承者を扱ってきた民俗学において、文字を

積極的に利用し、囲炉裏端から離れた新しい伝承者を捉えきることはできていない。本論

文では栃尾市(現長岡市)無形民俗文化財に指定された林ヤスさんとその娘の土田ムツミ

さんを考察の対象とする。それぞれの語りを録音した全52話を文字化した昔話資料を比較

し、世代間の変化や個人の中での変化を探ることで、伝統的な語り手と新しい語り手の昭

和から平成にかけての昔話の伝承のあり方を語りや語りの場、研究者の介入という面から

明らかにした。今回主に使用した資料は以下の通りである。 ① 栃尾市史編集委員会 1980 『栃尾市史史料集(第十九集)民話編―林ヤスの百物語―』 水沢謙一 編(全105話)②ヤスさんが平成10、11(1998、99)年頃に吹き込んだ CD3枚を文字化したもの(全27話)③ムツミさんが語る昔話の音声を文字化したもの(全25話) 筆者はヤスさんの語りが録音された CD を入手し、そこに録音された話と同じ話をムツ

ミさんにしていただき、これらの音声を書き起こし、文字資料にした。これらの資料をも

とに、①②③を文章の総量、変化した、しなかった要素、新たに付け加わった要素、要素

の種類などの分類を比較検討した。また、伝承者に研究者が関り、資料化することで伝承

者に起こる影響についても考察を行った。 結果、これまで無意識のうちに受け継がれてきた昔話の形式(発句・結句・相槌)の省

略や欠如がみられ、これらの重要性が薄れたことが分かった。また、ヤスさんとムツミさ

ん、語りを外部に向ける際に同じように長さが長くなっているが、そのつけ加わった内容

とは、ヤスさんは聞き手に昔話をイメージしやすくするための場所などの「情景」であり、

ムツミさんは登場人物の特徴など話の合理性を取る「解説」であるということが考えられ

る。そして、研究者の介入により、昔話は保存されるが、語り手にあたかも「研究者が言

ったこと、本に書いてあることが正しい」とでもいうような感覚を抱かせてしまうこと、

それが語りの中に現れることもあることを指摘した。また、語る場の機能が変化し、これ

まで指摘されていた「教育」と「娯楽」という機能のうち、「娯楽」の機能に特化してき

ている。 そして、現代の語り手は文字化された昔話資料や音声、映像といった豊富に残された「テ

キスト」を利用するようになった。しかし、それは「テキスト」をそのまま取り入れるの

ではなく、語り手の記憶の中の話を補うものとして利用されているのである。また語り手

自ら気軽に記録が出来るようになった現在、自らの語りを記録し、「テキスト化」するこ

とで「反省材料」などに利用する現代の語り手、昔話伝承のあり方がみえてきたのである。

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田部 彩菜 生計活動と地域的特性

―越後平野低湿地帯の営農を可能とした水辺の産物と畑作物―

本論文は、生業を複数の生計活動の組み合わせとみて研究する複合生業論の見地に立っ

て稲作・畑作・漁業といった生計活動の複合形態を調査し、低湿地帯である越後平野にお

いて営農を継続し、家を維持していくためにとられた生計戦略を検討した。 越後平野は水量の調節が難しく稲作には不利な土地だったが、金塚友之丞の『蒲原の民

俗』によると、様々な慣行を通して稲作が継続されていた。ただし「不作の年のほうが多

い」と認識されていた状況下では、家を構えて代々定住していく見込みは、稲作以外の生

計活動も行うことではじめて得られたと考えられる。またこのような状況下では、短期的

にみて利益にならないことは厭わずに、将来の支えとなるように準備したり技術の習得に

努めたりするような、中長期的な生計戦略にもとづいた生計活動が存在する可能性もある。 そのような生計活動として、当地で稲作と併せて行なわれていた、淡水魚や鴨などの水

辺の資源の獲得と、果樹栽培に着目した。調査地の鷲ノ木新田は信濃川と中之口川に挟ま

れた白根郷の最下流部に位置し、日照りでは上流に用水を取られ、雨量が多いと信濃川か

らの水の逆流にも脅かされる土地であった。そこで常時湛水している土地は漁場や鴨猟の

場に用いられ、比較的水の制御のきく土地は水田としての改良が続けられ、平時に湛水の

ない河川敷などの土地は遅くとも昭和初期には桃を栽培する樹園地として用いられていた。 郷内の至る所にあった池などの浅い水面は、昭和8年から13年にかけての耕地整理で埋

め立てられるまで十分な漁獲量を保障し、淡水魚は農家の収入源とみなされていた。多様

な漁法によって通年で出漁することができたが、なかには子どものうちから大人と出漁し

なければ技術を修得できない漁法もあった。また水面の多さに比例して棲息していた鴨の

獲得では、一網打尽にできるが気温の低い時期はできない罠猟よりも気候天候を問わない

銃猟が盛んであり、鴨猟は農閑期を通して可能な生計活動であったと位置付けられた。 一方『白根市史』によると郷内の河川敷は、多少の浸水に耐えうるという果樹の性質と

販路の存在から果樹栽培に広く用いられてきたが、本論文では果樹の「ある程度の時間の

幅をもつ」という性質にも着目した。調査地では、技術を習得したうえで果樹栽培を軌道

に乗せ収入源とするまでには、一家において世代交代がなされるくらいの時間がかかるこ

とが普通であった。また収益のない期間の栽培が他の収入源に支えられていたことと、子

どもの誕生時に「子どもに食べさせたい」「子どもの時代の収入源にしたい」という理由

で果樹栽培を始めた事例が複数得られたことからは、果樹が現在の暮らしを支える要素と

いう以上に将来の暮らしをより良いものとする要素として期待されていたことが推測され

る。つまり、果樹栽培は次世代の存在を意識した生計活動であるといえ、白根郷における

果樹栽培には物質的にも精神的にも、家存続の意識が作用しているといえる。 以上の検討から、水辺の産物と果樹は、稲作が安定的収入源とならない当地で最低限の

生活を保障する生計要素として期待され、先祖伝来の土地を離れることなく営農を続けて

いく意欲を当地の人々に与えていたと結論づけた。

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平石 桃子 醤油おこわの受容と分布 -新潟県長岡市とその周辺地域を事例として-

簡単に明らかにされやすいと思われがちな「食」については、資料が残りにくく実態を

明らかにしにくいために、民俗学においては、他の項目と比べて研究がすすんでいるとは

いえない。 そこで本論文では、新潟県旧長岡市を中心とした地域で祝いのときに食べられている醤

油を使用した強飯(以下、「醤油おこわ」という。)を取り上げる。醤油が使われている

ということで、比較的新しい事象だと考えられ、また現在の長岡の人々のハレの食事とし

て欠かせないものである醤油おこわを見ていくことで、分布や赤飯の受容形態などを探っ

た。 調査地は、新潟県旧長岡市の市街地からみて北西の地域である。 旧長岡市中心から北西の地域の中では、醤油おこわを食べている地域と食べていない地

域があり、食べている地域の中では名称と食べる機会によって二つに分けられる。一つ目

は、醤油おこわを単に「おこわ/赤飯」と呼んでおり、地域の神社の祭りや田植えの後、

誕生祝いなどの祝いの時にはかならず醤油おこわを作っている地域(ここでは A とする)

である。この A の地域は、主に旧長岡市中心周辺であり、結婚式にも醤油おこわを用いる。

二つ目は、醤油おこわを「醤油おこわ/醤油赤飯」などと呼び、食紅(本来は豆の色)の

強飯を「赤飯」と呼び分けている地域(ここでは B とする)である。この B の地域では、

行事やお祝いに合わせて五目おこわも含めてこれらを作り分けており、結婚式では醤油お

こわを用いず、食紅の赤飯を用いる。 地図から分布を見ると A は市街地周辺に集中しており、B 及び醤油おこわを食べていな

い地域は市街地から離れたところでみられる。しかし B と C の地域は、中心から遠いから

食べていないというわけではなく、遠い地域においても、町場においては醤油おこわを食

べている。醤油は以前から買うものであったことを考えると店のある町場の方が醤油を手

に入れやすかったといえるだろう。 A の地域では、祝いの赤飯といえば醤油おこわであり、あらゆる機会に食べていて、さら

に市街地の方が店があるので醤油を手に入れやすかったということを考慮すると A が B よ

りも古くから醤油おこわを食べていたと推測できる。 そしてそれが、もち屋などをきっかけにして周りの地域に伝わる際には、多くの人がお

祝いだから、赤色(食紅の赤飯)の赤飯がふさわしいと考えている結婚式と比べて、祭り

や誕生祝いなどの方に先に受容されやすいのである。なお現在では、結婚式の際の赤飯を

双方の家で相談して決めるという家や、冠婚葬祭に業者が関わることも多くその際は、赤

飯の受注も任せることもあるので、醤油おこわを食べる機会も増えている。よって、以前

よりも結婚式はお祝いだから赤色だという意識は薄れてきていると考えられる。

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山田 祐紀 割地慣行と村落社会―新潟市西蒲区遠藤における土地観念―

割地慣行とは、ムラ内の土地を共同管理下におき、権利所持者それぞれの持ち分(軒前)

に応じて所持地を定め、一定年ごとに所持地を割り替える慣行である。また軒前制とは、

家が所持する権利(軒前)を基準にしてマンゾウ(区費)の額や普請の負担を決める制度

である。 従来の割地慣行に関する研究では、割地慣行の制度的側面が注目されてきたが、それを

担った人々が具体的に土地に対するどのような観念を持っていたのかは十分に明らかにさ

れていない。本論では調査地において行われた軒前制による土地改良の換地の背景にある

ムラの人々の土地に対する観念を明らかにすることを課題とした。 新潟市西蒲区遠藤では、明治19(1886)年に軒前制に拠る最後の割替えが行われ、これ

が昭和27(1952)年の換地(耕地整理)まで踏襲された。遠藤は換地着工前にその方法に

ついて連日ムラで寄合を開き、1週間にも及んで論議したという。結果として軒前制に拠る

抽籤換地の方法に全員同意し、これが採用された。遠藤における換地の具体的な方法は、

かつての軒前によって各家の耕地の持ち分を割り出し、11の小字を地味に従い4つのグルー

プに分け、小字ごとにクジを引き、それぞれの持ち分に応じて所有地を決めるものであっ

た。遠藤の軒前制に拠る抽籤換地はかつての割地慣行同様、それまでの耕地を手放し、全

く異なる耕地を得るというムラにおける「土地の総有性」が背景にある方法であったとい

えよう。 また、昭和60(1985)年に未整理であった潟端工区の換地が行われ、この時点でようや

く遠藤ムラが耕作している土地の整理が完了する。この際に、潟端工区内の遠藤ムラの共

有地が軒前制度によって分筆された。これをもって軒前制度は廃止されたという。 以上の事例から、かつて軒前制に拠る割地慣行が行われていたムラにおいて、換地とい

う近代的農業への移行過程においてもなお、その制度を踏襲していたということが明らか

になった。そして換地後もその制度がすぐに消滅するのではなく、昭和60年代まで残存し

ていたのである。換地方法を決定する際に、当時の所有に基づく交換分合に拠る抽籤換地

を提言する者が遠藤ムラ内にも数名いたとされるが、「権利証はあてにならん」とそれを

退け、現在よりも所有が多いかつての軒前制に拠る抽籤換地を採択したムラの総意こそが、

ムラにおける軒前制の位置付けを表すのである。つまり、遠藤ムラにおいては、軒前制は

明治6(1973)年に施行された地租改正以降の近代的土地所有に基づいて作成されたケンリ

ショよりも確実で、信頼するに足る制度と見なされていたのである。軒前制は割地慣行に

おいて欠かすことのできないものであり、割地慣行が終焉した後も、この制度は昭和60年まで踏襲されたことから、少なくともこの時点まで遠藤ムラの人々の土地観念には、かつ

ての軒前制に拠る割地慣行からくる「土地の総有性」が大きく影響していたといえよう。

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吉田 萌子 地域社会からみる芸能の伝承 ―新潟県佐渡市徳和大椋神社祭礼の大獅子を事例に―

民俗学において、多くの研究者が「変わらない民俗芸能こそ民俗芸能らしい」という認

識を持っている。これに対して大石泰夫は民俗芸能を変化するものと捉え、その伝承の動

態を明らかにするべきであると指摘した。本論文では、この大石の論に依拠しつつ、ある

地域において芸能が今日までどのように伝承されてきたか考察することを課題とした。大

獅子は、徳和の中の4つの組の若者により組織される獅子組によって担われる。獅子頭の後

ろに布の幕がつき、10人前後が中に入り、集落内を門付して回る。この大獅子には、芸態

と呼ばれるようなものはないが、折口信夫は民俗芸能の発生を、儀礼が繰り返し行われる

中で第三者の視線が加わって芸能になるとしており、大獅子は神社の祭りにおいて信仰に

基づいて行われ、またそこには見ている第三者の視線への意識も存在するため、ここでは

民俗芸能であると位置づけ、考察の対象とする。 具体的には、変化と担い手の意識に関して調査し、分析を行った。変化に関しては門付

の方法や獅子組の規約といった外的な変化と、意識の変化といった内的な変化に分けて変

わったもの、変わらないものは何か分析した。外的な変化の事例としては、規約が変わり

参加者の年齢が変化したこと、門付に車が用いられるようになったことなどが挙げられる。

内的な変化に関しては、現在引退した70代前後の話者と現役の40代前後の話者の語りを比

べると、70代の話者は大獅子を行うことの娯楽性を強調しているのに対し、40代の方が神

事性を強調しており、意識に変化がみられる。この変化の背景には、同じ祭りで行われる

他の芸能との関わりや、芸能の舞台化という社会状況があり、他の芸能に対する優位性や、

舞台に出ない理由の説明として神事性を強調する語りが生まれたと考えられる。変わらな

いものとしては、祭りを9月15日(旧暦8月15日)に行うということは、これまで何度か変

わる可能性があった中で、変えないものとして、地域の中で維持されてきた。 担い手の意識に関しては、担い手の大獅子を行う上での意識が、何に向けたものである

のかを、自身の娯楽性など個人の意識〈個人〉、獅子組という集団への意識〈集団〉、神

事性にまつわる意識〈神〉、見ている人への意識〈第三者〉に分けて分析した。担い手は

神事性や第三者への意識だけでなく、娯楽性など多様な意識を持って大獅子を行っており、

多様な意識は常に一定ではなく、可変的である。また、担い手は初めから多様な意識を持

っているのではなく、経験を通して様々な意識を持つようになり、担い手の意識は重層的

であるといえる。 調査地において、9月15日の祭りが変わらず行われてきて、大獅子はその中の1つの役割

として祭りの日に行われてきた。祭りを取り巻く環境が時代とともに変わっていく中で、

大獅子は、他の要素との相互連関の中で少しずつ変化しながら今日まで行われ続けている。

また、担い手たちも社会の変化の中で、その時々の状況に合わせて、大獅子を行う意味を

見出しながら大獅子を行っている。大獅子が今日まで行われてきたのは、昔からの芸能を

残しているというより、その時代ごとに「今」芸能を行っているのであり、その「今」が

今日まで積み重ねられてきたのだといえる。