2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...新潟大学人文学部...

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歴史文化学主専攻プログラム 2017年度 卒業論文概要 【日本史】 荒川 知佳 律令軍制と守衛機能...................................................................................... 3 村井 沙智代 儀礼から考える古代日本の国家秩序 ............................................................ 4 浅見 早紀 上杉謙信・景勝と北信濃 .............................................................................. 5 阿部 室町・戦国・織豊期越後国の贈答について ................................................. 6 野水 真帆 中世後期における礼銭授受―東寺廿一口方評定引付を中心に― ................. 7 三上 貴也 戦国期後北条分国における支城主の考察―印判状奉者を中心として― ...... 8 大越 ひかり 近世若松城下における町方行政.................................................................... 9 品田 遥香 新発田藩における庶民教育 ......................................................................... 10 謙悟 近世における越後から奥州への出稼ぎについて ........................................ 11 伊東 祐馬 佐渡鉱山の皇室財産編入について ―皇室による国家的課題の解決とその論理― ........................................ 12 小野 新潟県の市町村における戦後巡幸 .............................................................. 13 翔之輔 戦前期新潟県における競馬事業の展開 新潟・三条・柏崎の三競馬場を対象に.............................................. 14 袖山 紗矢子 1920年「高等女学校令」改正前後の高等女学校について -新潟県立新発田高等女学校を事例に- ............................................... 16 立見 智志 上越線敷設請願に見る民間企業設立構想 ................................................... 17 坂東 拓哉 関東大震災における非罹災地での救護活動と避難者の動向 ―新潟県を事例に― ................................................................................ 18 宮川 飛鳥 アジア・太平洋戦争期における地方都市の大衆文化・娯楽としての登山 とスキー .................................................................................................. 19

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新 潟 大 学 人 文 学 部

歴史文化学主専攻プログラム

2017年度 卒業論文概要

【日本史】

荒川 知佳 律令軍制と守衛機能 ...................................................................................... 3 村井 沙智代 儀礼から考える古代日本の国家秩序 ............................................................ 4 浅見 早紀 上杉謙信・景勝と北信濃 .............................................................................. 5 阿部 愛 室町・戦国・織豊期越後国の贈答について ................................................. 6 野水 真帆 中世後期における礼銭授受―東寺廿一口方評定引付を中心に― ................. 7 三上 貴也 戦国期後北条分国における支城主の考察―印判状奉者を中心として― ...... 8 大越 ひかり 近世若松城下における町方行政 .................................................................... 9 品田 遥香 新発田藩における庶民教育 ......................................................................... 10 林 謙悟 近世における越後から奥州への出稼ぎについて ........................................ 11 伊東 祐馬 佐渡鉱山の皇室財産編入について

―皇室による国家的課題の解決とその論理― ........................................ 12 小野 歩 新潟県の市町村における戦後巡幸 .............................................................. 13 関 翔之輔 戦前期新潟県における競馬事業の展開

―新潟・三条・柏崎の三競馬場を対象に― .............................................. 14 袖山 紗矢子 1920年「高等女学校令」改正前後の高等女学校について

-新潟県立新発田高等女学校を事例に- ............................................... 16 立見 智志 上越線敷設請願に見る民間企業設立構想 ................................................... 17 坂東 拓哉 関東大震災における非罹災地での救護活動と避難者の動向

―新潟県を事例に― ................................................................................ 18 宮川 飛鳥 アジア・太平洋戦争期における地方都市の大衆文化・娯楽としての登山

とスキー .................................................................................................. 19

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【アジア史】

島田 一輝 中国古代における足の意味 ―春秋時代における祖先神との関係を中心に― ..................................... 21

大蔵 祐介 中国東北地方における軍官教育 .................................................................. 22 熊谷 朋太郎 満州における水害について ......................................................................... 23

【西洋史】

石垣 潤子 テンプル騎士修道会の組織の変容 .............................................................. 24 児玉 倫子 受胎告知図にみるマリアと天使ガブリエル ............................................... 25 佐藤 りん 西洋中世にみられる女性観 ......................................................................... 26 中村 みさき フランソワ・デュボア≪サン・バルテルミの虐殺≫ ................................. 27 平山 遥菜 ヒッタイト帝国における王妃「タワナアンナ」の役割と意義 鈴木 大次郎 古代ローマにおける剣闘士像 森山 遼太 アッバース朝カリフ、マームーン期の「義賊」アイヤールの実態と

その後の変遷 大野 夏希 15世紀末から16世紀のスペインにおける主権と民衆 間地 啓太 19世紀前半のドイツにおける鉄道網の発展と分邦主義 舩山 珠良 英雄としてのナセル

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律令軍制と守衛機能 荒川 知佳

本稿の目的は、国府などの国内要所の守衛体制及びその守衛に関わった兵員について考察することで律令軍制における守衛機能全体の展開や位置づけについて明らかにすることである。軍団兵士の国内上番任務の中には守衛と訓練がある。先行研究では訓練に関する研究が進む一方守衛に関してはこれを中心に据えた論考はない。また守衛を律令軍制の中に積極的に位置づけるものと消極的に位置づけるものがあるが、いずれも主に律令規定による検討であり、運用上の実態の検討が不十分である。 第一章では兵庫・国府・関の国内要所の守衛形態や重要性について軍防令や『続日本紀』の記述から検討した。兵庫守衛については軍団・国・郡の兵庫すべてに軍団兵士が関わりを持ち、軍団兵士の本来的任務の一つであったことを明らかにした。国府守衛については軍事訓練の成果を国司からテストしてもらうために国府に上番した兵士によって担われていた。その訓練内容は軍事機密であるために「別式」に記されたとされたが、この「別式」については関の守衛規定にも見え、当時国家が軍団兵士の守衛任務の具体的内容も機密として扱い重要視していたことが明らかとなった。その関守衛については特に三関が軍事的に重要な施設であるとされ、軍団兵士により分番で守衛が行なわれていた。以上から国内要所の守衛任務は軍団兵士の主要な任務として位置づけられたことを指摘した。 第二章では第一章で検討した軍団兵士の任務が、軍団兵士制の停廃時や変革時に「弓

馬者」によって受け継がれたことを指摘し、健児を材料として「弓馬者」が主に在地有力者層や郡司層に属する者であることを明らかにした。 第三章では引き続き健児を材料としてその機能の変遷を追うことで、律令軍制の守衛機能の運用上の実際を検討した。天平・天平宝字期においては、守衛機能の中心は軍団兵士であり、第一章で検討したような形態で国内の守衛・治安維持に努めていたことを指摘した。国家の有事(対新羅・蝦夷)などの際には、軍団兵士の国内上番任務はもう一つの主要任務である訓練に重心が移るため、守衛機能を補完する者として健児が差発された。延暦期及びそれ以降は、軍団兵士制が停廃されたため、守衛機能の中心はそれまで機能の補完を行なってきた健児に移行した。以後、九世紀前半の郡司層の国衙吸収とともに健児も国衙に吸収され、「所」に発展する中でその職務は多様化したが、国内要所の守衛機能の中心は健児(所)が引き続き担っていたことを明らかにした。 以上のように国内要所の守衛は軍団兵士がその重要な中心的任務として行い、軍団兵士制停廃時や軍事行動に伴う要員不足時には郡司層を主体とする健児等の兵力を徴発し守衛機能を補完させたことを指摘し、守衛機能は法制上だけでなく、実際に国内の治安維持機能の一つとして、その担い手を変化させながら律令軍制において国家の脅威に対応する機能の軸として運用されてきたことを明らかにした。

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儀礼から考える古代日本の国家秩序 村井沙智代

本稿の目的は、儀礼を国内的・対外関係の両面から検討し、そこに表現された秩序を明らかにすることである。それは、古代日本における二面性を持つ国家の在り方を反映していると考えられ、朝賀儀礼と共に辺境支配・外交関係という三つの変遷を追うことで、時期ごとに変化した点と共通が見られる点を考察し、国家秩序認識の変容を検討した。 第一章では、元日儀礼の存在が確認できる推古天皇の時代から、律令制以前の儀礼を検討した。元日に行われる儀礼は推古朝から存在したが、それは朝賀的儀礼とは異なるものであったと考えられる。元日朝賀の初見が見られる孝徳朝以降徐々に儀礼が整備されるが、朝賀儀礼は未だ国内の官人のみを参列者として行われるものであった。夷狄支配について、この時期は四夷思想の確立前段階であり辺境の民である蝦夷・隼人は同じ飛鳥寺西区域で儀礼を行うなど、対応の共通点が律令体制下に比べて多い。特に南方との関係形成は天武・持統期にみられ、文武天皇期の儀礼画期に大きく影響するとみられる。外交関係での唐国使の特別視は推古朝から見られ、以降朝賀衰退期まで存続するものである。また、このころ夷狄と蕃国は儀礼空間を同一にしないという身分の可視化がある。 第二章では、文武朝以降の検討を行った。文武朝からは外国使節の朝賀参列が恒例となり、同時に、蝦夷の朝貢も朝賀に伴うものになることを大きな画期と考えたものである。そして、その次の朝賀整備の画期と考えられるのが聖武朝である。冕服の着用や威儀物として大楯槍の使用が始まるほか、年頭記事に瑞祥の記載が多いことも特徴である。奏

瑞の記載がある年は朝賀儀礼がおこなわれた可能性もある。この積極的な儀礼整備は天平九年に「唐礼」がもたらされたことによるものも大きいと思われるが、それ以前に冕服を着用する記事が見られ、天皇の意向と深い関係があるといえる。蝦夷と隼人には辺境としての共通性があるものの、儀礼参加形態には違いが見られ、服属し天皇権威を示す朝廷側としての隼人の位置づけと朝貢停止まで外側からの参列者であり続けた蝦夷という対照性を持つ。また、蝦夷と外国使節との関係を見てみると、宝亀年間にいたって唐使と新羅使、渤海使と蝦夷が同一の朝賀に参加している。このような外国使への対応は、国家の認識の変容を反映し、それ以降の律令体制の変容への基盤を形成したといえるのではないか。 第三章では、朝賀の唐風化の頂点としての嵯峨天皇を中心に検討した。宝亀年間以降、外国使節は「朝貢国」としての立場に抵抗した蕃国の態度変化とそれに対応する日本という関係を反映していると考えられる。そして、嵯峨天皇の退位を境に渤海の参列が見られなくなり、天皇崩御を境として朝賀の実施が減少する。嵯峨以降、蝦夷隼人支配に関しては俘囚や隼人司の官人による節会への参加という形態の変化が見られる。それは、唐風の律令国家体制を経て外部からの刺激が減少し、唐風に傾倒するばかりでない新たな支配を示すことが必要になったためである。そこには律令制以前からの支配論理を反映する「日本的」といえる儀礼の在り方との共通性も見出せるようになる。

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上杉謙信・景勝と北信濃 浅見 早紀

本稿の目的は、戦国期の越後・信濃両国の国境地域である北信濃における国人層と、その軍事的動向を検討することによって、同地域に展開した上杉氏による領域支配の特質について明らかにすることである。 第一章では、室町期から戦国期前期の北信濃の情勢と領主層の動向について、武田・上杉間の抗争が行われる前提となる北信濃情勢について再確認した。寛正6年、幕府は信濃守護・小笠原六郎に対して、上杉房定と相談し、村上政清・高梨正高を退治するように命じた。さらに、文明3年に幕府は房定に対して、信濃への関与を一旦差し置いて巻頭に出陣することを命じている。房定の信濃への軍事行動を発端とする関与は十年もの間に渡ることになり、上杉氏の勢力伸長が行われていたことがわかる。また、上杉氏の信濃への勢力伸長の要因として、守護・小笠原家の信濃における勢力の弱体があった。このような前代からの越後守護家・守護代家の時代から北信濃へと進出し、影響下に置いていたことが後の上杉氏の信濃進出に繋がる。 第二章では、飯山城を中心とした城郭政策と城主の再検討などを通して上杉氏の信濃支配の特質について検討した。弘治3年には飯山城が上杉方の拠点となっていたとされており、その後の永禄期には、飯山の外様平と呼ばれる地域を本拠地としている「飯山衆」「外様衆」と呼ばれた者たちが飯山の守備を担っていたことが読み取れる。さらに、輝虎は飯山城の「城ぬし」として泉弥七郎を実城に置き、桃井伊豆守・加地安芸守を城代とし

ている。そして、上倉下総守・尾崎三郎左衛門・中曽根筑前守に在番を命じている。桃井・加地両氏は越後の国衆であるが、泉・上倉・尾崎・中曽根氏は先述にもあった外様衆である。また、このほかにも、外様衆に軍備を整えさせ、飯山城へ在城させるように指示しているものもある。天正10年からは飯山城に信濃出身の岩井氏が入った。岩井氏宛の史料には、援軍を送るようにといった書状や、自身が加勢するようにと命じられた書状、また一時的に飯山城から春日山城に入るように命じられた書状などが見られ、景勝の命に応じて飯山から動いていることが読み取れる。 第三章では、外交に関する北信濃領主の動向について触れ、北信濃領主の軍事的立ち位置について検討を行った。天正6年から10年にかけて武田氏と上杉氏の間で締結されていた甲越同盟の成立過程において、上杉氏側から武田氏側に飯山城を中心とする北信濃などが割譲された。この同盟交渉において、上杉氏側から北信濃出身の領主層が関与した形跡は管見の限りでは見出せなかった。このことから、上杉家中の信濃衆は割譲については関与できず、景勝の以降に従属するしかなかったということを指摘した。 以上、上杉謙信・景勝期における北信濃情勢を概観し、上杉家中の北信濃領主が軍事的性格の強い性質であったことを明らかにした。謙信・景勝期を通じて北信濃領主の性質とそれを活用した北信濃の支配が当該期における上杉氏の領域支配の特質であると言える。

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室町・戦国・織豊期越後国の贈答について 阿部 愛

卒業論文では、室町期・戦国期・織豊期における越後国を中心とした贈答に関する文書を取り上げ、贈答慣行について検討を行った。その目的は、地域ごとの贈答慣行の違いや贈答の対象となる人物などを明らかにすることにある。検討を加える人物は、越後守護上杉氏、越後国守護代長尾氏である。 第一章では太刀を数える際の単位である「一腰」と「一振」の記述の違いを検討した。中世で太刀は「一腰」と数えることが一般的であった。一方「一振」が用いられるのは、文書の発給者と受給者が互いに太刀の贈答を行っている場合である。具体的にはまず上杉氏・長尾氏の側が将軍らに太刀を贈り、将軍側はその礼として礼状と太刀を贈るのだが、その際に上杉氏・長尾氏側が贈った太刀は「一腰」、将軍側が返礼として贈った太刀は「一振」と表記されていた。これは上杉氏・長尾氏と国内領主・家臣との間で行われた太刀の贈答でも同様であった。相互に太刀の贈答が行われている文書33通のうち26通が一方の太刀を「一振」と表記していた。このような「一腰」「一振」の区別は、「一振」には敬意を表す意味合いがあり、相手との間に優劣をつけたいという文書発給者の意図によって表記がなされるものであることを明らかにした。 第二章では年頭、歳暮、重陽、八朔という贈答の目的ごとに検討を行った。それぞれ文書をまとめると年頭が73通、歳暮が22通、重陽が4通、八朔が2通であった。年頭、歳暮は、どちらもその文書の多くが上杉氏・長尾氏に

対して国内の領主・家臣から進上のみで返礼がないことから、主従関係にある者によって行われ品物の進上に主眼があったと言える。また、年頭の祝儀のうち上杉景勝と上杉景虎に注目した。上杉景虎は越相同盟が破たんする前か後か年次は不明だが、雲門寺などから年頭の祝儀を受ける立場にあったことは先行研究でも指摘されている。一方で上杉景勝については、謙信が生きているうち景勝に対する年頭の祝儀は行われておらず、長尾顕景の時期のみならず上杉弾正少弼と名乗ってからも謙信に対して年頭の贈答を贈る関係性であったことが明らかになった。謙信の後継者問題に答えを出すものではないが、今後景勝と景虎の地位を考える上で手掛かりとなるのではないかと考えられる。 次に重陽と八朔に関してだが、重陽の文書四通はいずれも上杉景勝が贈った物に対して豊臣秀吉が礼を述べている文書であった。贈答品は「小袖」「呉服」とされているので、重陽では衣服を贈ることが一般的であった。宛所はすべて「羽柴越後宰相中将」となっていることから、重陽の贈答の文書四通は上杉景勝が豊臣秀吉に従うようになってからのものであることがわかり、重陽の贈答は豊臣秀吉との関わりのなかで行う必要性が生じてきた可能性が高い。八朔について先行研究では武家社会で最も重視されたとされている。しかし越後の場合八朔の文書は二通しか見られなかったことから、年頭の祝儀と同等の重要性があった可能性は低いことを指摘した。八朔については今後の課題としたい。

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中世後期における礼銭授受 ―東寺廿一口方評定引付を中心に―

野水 真帆 卒業論文の目的は、東寺廿一口方の史料「廿一口方評定引付」を検討し、「会尺」という金銭の授受に考察することにより、中世後期における礼銭授受の特徴を明らかにすることである。 第一章では、「廿一口方評定引付」にみえる「会尺」という名目の金銭の授受の特徴について検討した。第一節では、会尺の使途について検討した。会尺には様々な使途があり、年始や権力者の下向、御入堂などの際に授受されていた。その内容から、お礼やご祝儀、もてなし、褒美としての意味で授受されていたといえる。また、金銭の額や物が記載されていない記事もあるが、明示されているものをみる限り、物よりも金銭を授受することが多かったと考えられる。 第二節では、年始の会尺を例に、恒例化している会尺の金額を検討した。金額は毎年同じであるが、会尺を受け取る幕府奉行人の変更の際に金額の変更がみられた。このことから、先例に従い同額が授受されることや、受け取る側の変化により会尺の額が変更され、その後はまた先例に従うことが当然であるとされていたことが明らかになった。

第二章では、会尺の授受されている時期や、言葉の意味、礼銭との関係を検討した。第一節では、会尺と礼銭の授受される時期について検討した。「会尺」は応永年間後期になると使用頻度が落ちていき、反対に「礼」という言葉が多くみられるようになる。また、年始の会尺と礼銭の金額を比較すると、同時期に同額であることが明らかになった。このことから、会尺は礼という言葉が贈与と結びつく前に社会に定着していた可能性があるが、年始においては同じものとして授受されていた可能性があると指摘した。 第二節では、会尺と礼銭の言葉の意味について検討した。会尺はおもてなし・思いやり、礼は規範・作法の意味が社会の中で強く意識されたことにより、使用する言葉に変化がみられたのではないかと指摘した。そして、先行研究において礼銭がしだいに定例化することが明らかにされていることを踏まえ、会尺は「定例化する前の礼銭」よりも前に、贈与する側の気持ちを表す金銭の授受として定着していたものであると結論付けた。

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戦国期後北条分国における支城主の考察 ―印判状奉者を中心として―

三上 貴也 本稿の目的は、後北条分国における支城主の発給する印判状の奉者の性格を検討することにより、支城主権力のあり方を明らかにすることである。従来の支城主研究では、支城主の発給文書を分析し、その支配の自立性に着目した議論が重ねられてきた。しかし、支城主権力の内部構造を検討した研究はない。よって、本稿では先行研究で十分に検討されてこなかった支城主発給の印判状の奉者に着目し、支城主権力のあり方を検討した。対象は史料が多く残る北条氏照・氏邦である。 第一章では、北条氏照の印判状奉者の性格と氏照権力のあり方を検討した。第一節では、第一期(永禄2~12年)印判状の奉者横地吉信などの発給文書を分析し、第一期印判の奉者が当主の下から出向してきた一定の自立性を有する人物であり、第一期の氏照権力は彼らを自身の下に統括した複合的な権力であることを明らかにした。また、氏照権力は戦国領主大石氏権力から大幅な改変を経て成立していることを指摘した。第二節では、第二期(永禄12~天正18年)印判状の奉者狩野宗円一庵について、一庵が奉者となる奉書式印判状と氏照発給の書状の分析を行った。その結果、一庵が滝山・八王子城に在城する氏照側近層の人物で、そうした背景から第二期印判を最も多く奉じた人物であったことを明らかにした。第三節では、一庵以外の第二期印判の奉者について検討し、第二期印判状奉者も後北条氏当主との結合を有する人物たちであることを明らかにした。 第二章では、北条氏邦の印判状奉者の性格

と氏邦権力のあり方を検討した。第一節では、氏邦印判状を最も多く奉じる三山綱定について、三山が奉者となる印判状を中心に分析を行った。その結果、三山が鉢形城の留守居を務める側近層の人物であり、当該期の氏邦の領域支配関係の文書発給のほとんどに三山が関与する氏邦の執政とも呼ぶべき人物であることを明らかにした。そして、氏邦への取次を三山が独占する重層的な構造をしていることを指摘した。第二節では、執政の三山消滅後に諏訪部などの新たな奉者が現れることに注目し、諏訪部らが奉者となる奉書式印判状の分析を行った。その結果、三山の消滅により領内各地の寄親層が氏邦権力の政権運営を担う平面複合的な権力構造に変化したことを明らかにした。第三節では、上野支配に関わる猪俣邦憲が奉者となる印判状と猪俣の発給・受給文書の分析を行い、猪俣が上野各地の城に在城する人物として上野国に発給される印判状の奉者になっていることを明らかにした。また、猪俣を中心とする軍事単位の存在を指摘し、氏邦権力はこうした自立的な存在の複合によって成り立っていることを指摘した。 本稿では、北条氏照や氏邦らの支城主権力が、当主の下から出向してきた自立性を有する年寄衆たちを支城主の下で統括する複合的な構造によって成り立っていることを明らかにした。そして、こうした支城主権力のあり方が当主権力と支城主権力の結合の強化をもたらし、後北条氏による広大な分国の支配を支えていたと結論付けた。

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近世若松城下における町方行政 大越 ひかり

本稿では、これまでの近世若松城下町研究の中で具体的な考察の対象とならなかった文書管理史について、若松城下大町検断であった簗田氏・倉田氏が書き記した「公用日記」内の記述から、若松城下の行政組織内における文書管理の実態を中心に検討し、併せて若松城下の町方行政組織の実態の考察を試みた。 第一章では、今回検討の対象とした若松城下町の町方の成立過程について、自治体史を中心に整理した。また、町方支配に直接携わった藩権力や、町役人らの権力構造について、市史の記述に加え、酒井民樹氏による行政組織研究を参考に、これまで明らかになっていることを整理し直した。 第二章では、若松城下の個別町を単位とした町方支配の事例のひとつとして、大町検断の執政体制について考察した。大町には常に二人の検断が置かれ、その任は中世以来より若松城下において強い商業的支配権を持った簗田氏と、保科正之の会津藩入部時に同じく会津に入部した商人倉田氏の両氏が世襲し、検断の日々の業務は凡そ一月交代の月番制によって行われていた。また、その執政体制の中で、両氏は町方行政の中で発生した諸種の文書を、現用のものを中心に「当番箱」や「月番箱」と呼ばれた保管容器の中に入れて共有・管理し、保管する文書の取捨選択を、ある程度検断の意思判断で行っていたことが、史料から明らかになった。さらに、保管容器に入れられた行政文書のうち訴状を「諸事訴状袋」の中に分類して管理していた様子も見られ、検断の手による町方文書管理の中

で文書の機能的アーカイブが行われていたことも分かった。 三節では文書管理の記録から派生して、大町検断も属した若松城下の町方支配単位の一つである四町検断の参会の実態についても検討した。若松城下には大町・馬場町・新町・後町の四つの個別町から成る四町という支配単位が存在し、その他の個別町(端町)に対して優位な関係にあったことが酒井氏の研究で既に明らかになっているが、これら四町検断の寄合について、「公用日記」内の記録から、各町の中に広い敷地を持つ寺院が参会所として利用されていたこと、四町の中で「寄合番」という制度が決められており、寄合番に当たった町は参会所の提供だけでなく、その町の検断・名主らが、寄合で作成された文書を町奉行等の上位機関に届け出る役割を担っていたことが明らかになった。さらに、「四町参会箱」などと呼ばれる文書保管容器が存在し、四町間で共有すべき文書が保管されていたことが明らかになった。 第三章では、大町検断が日々の業務の中で町方文書をどのように記録・伝達していたのかについて、諸種の文書ごとに検討を行った。大町町政における上意下達については、町奉行などの上位機関に呼びつけられる、または廻状で伝達された内容について検断が承り、寛文12年(1672)に成立した名主にその内容を伝達して、その下の各組へ下達していたという基本構造があることを確認した。また、藩権力との関わりが大きい駒改の記録や高櫓番給金の記録等について、その成立過程や伝達構造を明らかにした。

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新発田藩における庶民教育 品田 遥香

本稿の目的は、早い段階から藩主の意向によって武士だけでなく庶民に対する教育政策が行われてきたとされる新発田藩における庶民教育について考察を行うことである。 第一章では、藩側の行った庶民教育策について述べた。 第一節では、新発田藩の歴代藩主の中でも特に学問奨励を積極的に行ったとされる八代藩主溝口直養の時代に注目した。直養の時代には講堂が設立され、そこでは武士だけでなく庶民も講義を聞くことが許されていた。また直養自身が記した「勧学筆記」では、身分に関係なくすべての人々に対して学問の必要性を説き、また藩学を山崎闇斎の崎門派朱子学と定めており、庶民教育に対しても積極的な姿勢が読み取れた。藩の記録である『御記録』からは藩主自身も講堂で講義を行っていたことや、庶民に対して度々講堂へ出席するようにとの通達がされていたことが確認できた。 第二節では藩が民間への教育を徹底させるためにつくられた社講制度や表彰制度について述べた。社講は庶民の中から選ばれて藩内それぞれの組において庶民への教育を担うものであった。また庶民の中で学問に努めた者に対して表彰を行い書籍等を授与していたという記録が多く見られた。表彰を受けた者の職業や住んでいる場所は様々で、藩内の幅広い地域の人々が対象となっていたことから庶民への学問の普及も、城下周辺にとどまらず領内に広く伝わっていたと思われる。 第二章では庶民教育の中でも民間で行わ

れたものの例として私塾での教育について述べた。第一節では新発田藩内における私塾である積善堂、絆己楼を例にその塾則を取り上げた。これらの私塾の塾則からは、その教育内容は朱子学が中心となっていたことが読み取れたが、藩の学問のような学派の指定は特にみられなかった。 第二節では絆己楼の蔵書目録を取り上げた。塾則にも見られたように朱子学に関する書籍を多く所蔵していたことが読み取れた。また塾則では特に定められていなかったが絆己楼蔵書目録では「山崎先生」「佐藤先生」などの名前があげられ、山崎闇斎、佐藤直方など崎門派朱子学の儒者の著作が多く所蔵されていたようである。しかし中にはその学派に限らず他の学派の書籍についても所蔵されていたことが読み取れた。 新発田藩においては藩の側からの学問奨励が積極的に行われており、その対象には武士だけでなく庶民も含まれていたといえる。歴代藩主の中でも特に八代直養はすべての人に対し学問が必要と説き、講堂の設立、社講制度の設立、表彰制度など様々な庶民教育政策を行っていた。藩の学問奨励によって庶民の中にも学問をする者が増え、そうした人々によって私塾が開設されたが、その中ではある程度自由な教育が行われていたようである。先行研究では藩と庶民側との間で協力一致の体制がとられたとされていたが、藩によって庶民の学問奨励が積極的に行われていた新発田藩においてもそのように藩の方針と一致しない部分もあったのではないかと指摘した。

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近世における越後から奥州への出稼ぎについて 林 謙悟

本稿は、奥州へと向かった越後からの出稼ぎ人に関して、その実態を明らかにすることを目的とした。 第一章では、越後での出稼ぎへの規制と調

査、出稼ぎの概況について検討した。 第一節では近世後期に他国への出稼ぎに対

する規制がくりかえし出されていたことを確認した。人々の風紀の乱れや、農業への支障、労働力の不足、藩にとっての不利益などを理由として規制がなされる一方で、それは規制が守られておらずに他国への出稼ぎが盛んに行われていたことを示していた。 第二節では、他国への出稼ぎ人の取調べか

ら、その内容と出稼ぎ先として奥州信夫郡と伊達郡をあわせた信達地方との行き来があったことを確認した。 第二章第一節では、近世における奥州信達

地方の概況から、蚕糸業の発展による人手不足が信達地方への出稼ぎ人の流入の要因であることを確認した。 第二節では、信達地方に奉公人として流入

した出稼ぎ人について検討した。奉公人はその奉公先と証文を交わしており、特に多かったであろうトラブルに関しては定型句的な条件となっていた。 第三節ではそうした条件の一つである奉公

人の欠落に関して、その問題の解決時の対応について検討した。問題の解決時に当人であ

る奉公人がいない場合には、請人あるいは人主が責任を受け持つこととなり、その義務をもたないものに頼ることは「不埒」な行為であるとされていたことを確認した。 第三章第一節では、出稼ぎの作業内容につ

いて見ていき、田んぼ・畑仕事だけでなく、蚕糸業にかかすことのできない桑木に関する作業も行っていたことを確認した。また、出稼ぎ人の中には一定の期間を定めて奉公をするものだけでなく、その日限りの日雇いの形態で働いているものもいた。 第二節では越後からの出稼ぎ人の定着につ

いて、信達地方内の住人の跡を継ぐなどの関係を結ぶことによって、出稼ぎ人自らもまた信達地方内の住人として認められようとしていたことについて確認した。 第三節では信達地方の豪農佐藤家に出入り

する出稼ぎ人からその役割について言及した。 以上から、越後において出稼ぎは規制され

ていたものの盛んに行われており、そうした出稼ぎ先の一つとして奥州信達地方へと向かうものがいたことを示した。それらの奉公人、あるいは日雇いとして働くものの中には、現地の住人と関係を結ぶことで信達地方へと定着したものもいた。また、出稼ぎ人は労働力供給だけでなく、遠隔地からの情報を伝達する役割もあったと結論付けた。

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佐渡鉱山の皇室財産編入について ―皇室による国家的課題の解決とその論理―

伊東 祐馬 本稿は佐渡鉱山の皇室財産編入を、その背景にまで遡って検討することで、政府が皇室に対して国家的課題の解決を託すメカニズムの一端を明らかにするものである。具体的には、①明治15(1882)~明治22(1889)年を主な対象時期に設定し②皇室財産としての佐渡鉱山、とりわけその編入の時期に焦点を当て③編入に至らしめた要素を、背景にまで遡って抽出・検討することで④政府が皇室に対し国家的課題の解決を託すメカニズムの一端を明らかにすることを目的としている。 第一章では、「政府のみでは安定的に正貨蓄積を遂行できない」と考えられていた不安要素は何であったのかを検討した。松方正義は明治15(1882)年以降、三ヶ年予算を凍結し、紙幣整理を最優先とする財政方針をとる。明治15(1882)年に起こった朝鮮事件で軍拡の必要性が議論されたが、紙幣整理最優先の方針は転換されなかった。その結果、明治18(1886)年に兌換銀行券発行、翌19(1887)年には政府紙幣の銀兌換が開始され、日本は銀本位制へと移行する。 しかしながら、明治18(1885)年以降は予算凍結期間中に実現できなかった軍事予算増額の要求が拡大し、政府諸事業の財政を圧迫した。歳出に占める軍事予算の割合が20%台後半に拡大した明治20(1887)年という時期は、佐渡鉱山の皇室財産編入が建議された時期と重なる。ここから、同時期の軍事予算の

佐渡鉱山を政府で運営することのマイナス要素として作用したと言える。 第二章では、正貨蓄積という国家的課題を託す先が、なぜ皇室である必要があったのかを検討した。皇室財産については明治十四年政変以降、皇室財産の必要性が活発に議論され、多くの皇室財産設定論が上がった。松方正義も明治17(1884)年にその必要性を論じた。彼の設定論からは皇室財産に①貧窮の賑卹②技術の奨励を期待していたことが分かった。松方は経済基盤強化に加え、皇室による国家的課題の解決を期待するという意味で両義的な皇室財産の形成を意図していた。以上の検討から、松方の皇室財産への期待・積極性が佐渡鉱山の皇室財産編入にプラスの要素として作用したと言える。また、松方は佐渡生野鉱山が、直前に払下げられた三池鉱山とは性格を異にすることを予め明示することで、佐渡生野鉱山を払下げから遠ざけていた。 本稿における検討から導き出せる結論は次の2点である。すなわち、政府が皇室に国家的課題を託すメカニズムは①財政の論理からある程度説明できるということ②国家的課題を託す(政府)側の皇室財産観が、少なからず影響を及ぼしているということである。本稿では、松方財政期における軍事予算の拡大による説明と、松方正義の皇室財産観に焦点をあてた説明を試みた。

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新潟県の市町村における戦後巡幸 小野 歩

本稿の目的は、新潟県の市町村における戦後巡幸の経過や反応を、新潟県と県内の市町村レベルの自治体の行政文書を中心に用いて明らかにすることである。 第1章第1節では、市町村での巡幸の経過を

検討するうえで前提となる戦後巡幸の全体像の把握と新潟県下での巡幸の特徴の分析を行い、新潟県の巡幸は規模の拡大や行幸費の増大という傾向がある戦後巡幸の中期にあたることを確認するとともに、新潟には戦争被災者慰問・復興状況展望が少なく、農業・漁業・重化学工業への視察、物産展覧が多いという特徴があることを明らかにした。第2節では巡幸先の決定主体である県の準備状況を確認した。ここでは県の組織や準備の経過の大筋を把握することができた。また、予算が197万8500円であったことや、県から奉迎の心得が出されたことがわかった。第3章では奉迎準備の際、どんな反応があったのかを新聞報道から確認し、巡幸が他の政策の促進に利用されている様子や巡幸に対する市町村の前向きな様子をうかがうことができた。さらに、新聞で報道された奉迎の心得と県から出された心得には違いがあったことを指摘した。 第2章第1節では村上町での経過について検

討した。天覧品準備では、天覧品に関する詳しい調書がとられ、天覧品の把握がなされたことに加え、その中の数点については沿革・将来性についてまで追加調査がなされたことがわかった。奉迎予算に関しては、村上町の奉迎予算はその年の歳出の3%程度で、それほど町の負担にはなっていなかったようであった。しかし、接待費の比重の大きさから、旧態

依然とした対応がおこなわれていたと推測されることや、奉送迎時には、国歌斉唱や万歳が行われたこと、堵列奉迎や参列の際の注意事項をふまえると、国や県が意図したような、「民主的皇室、民主的の我々の象徴たる陛下として国民を固く皇室に結びつける」ものにはならなかったと指摘した。第2節では坂井輪村での経過について、特に同所の史料から窺える警備体制に注目し検討をおこなった。そしてこの検討から、制服消防員・制服巡査に比べ私服消防員・私服巡査が多く配置され、警備の圧迫感が軽減されたということを指摘した。しかし、積極的発見事項をふまえると、警備の基準も厳しいことから、必ずしも警備は簡素化されていないということがわかった。第3節では、報道等から巡幸中、巡幸後の人々の反応について検討した。巡幸は戦後の新しい天皇像を普及させる意図を持ったものであり、一方では巡幸の意図を理解しているが、他方では戦前以来の天皇観が表出するものであった。また新しい天皇観を受け入れた上で、そこから逸脱した行動をとった場面や、戦前の天皇観を知事が是認する場面もみられた。 以上、新潟県の市町村における戦後巡幸の

経過や反応をみてきた。第1章で、前提として県での巡幸準備に触れたが、巡幸の現場である市町村には県とのやりとりが大きく関係する。村上町や坂井輪村の行政文書を見ていく中で、町や村の行政文書だけでなく、新潟県側の行政文書を確認しなければ明らかにならない事が多く残った。新潟県側の行政文書をふまえ、県から市町村の一連の流れを把握することが今後の課題である。

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戦前期新潟県における競馬事業の展開 ―新潟・三条・柏崎の三競馬場を対象に―

関 翔之輔 本稿の目的は、戦前の新潟県に存在した3つ

の競馬場の実態と人々の競馬に対する意識を明らかにすることである。戦前の競馬に関する研究は、軍事・娯楽研究の一環として、近年徐々に行われつつあるが、新潟のような地方都市での競馬が、人々の間でどう認識されていたかを明らかにする研究はほとんど見られず、また、全国各地にあった地方競馬(新潟県では三条や柏崎で行われた)の実態を明らかにする研究もほとんど行われていなかった。そこで本稿では、『地方競馬史』などの競馬史料や当時の新聞記事・雑誌などの記述を基に、当時の競馬場の運営実態・競馬と社会との関係に関する検討、考察を行った。 第一章では、各競馬場の成立過程と運営状

況の変遷を検討し、当時の競馬事業について、競馬場の設立と実際の運営に対して、地域社会の強い関与があったことを明らかにした。また競馬場の立地に関して、競馬場と花街が密接な関係にあったことや競馬場と交通に関して、鉄道と共に、乗合自動車の事業者が競馬事業に積極的に関与していた実態を解明した。 第二章では、当時の競馬場の成績の変化か

ら、競馬と社会の関係と、公認・地方両競馬間の差異を検討した。第一節では、昭和戦前期の地方競馬の成績推移に関し考察を行い、その成績は地域社会の経済状況の変化と連動していたことに加え、1937年以降の成績推移と地方競馬から鍛錬競馬への移行に、日中戦争の勃発が影響を与えたことを明らかにした。第二節では、地方競馬と鍛錬競馬の成績の差

に着目し、鍛錬競馬の施行に際して、軍の影響がより強く見られるようになった可能性を指摘した。第三節では、新潟競馬場が、戦時体制への移行が進む中で成績を上げていく背景について、当時の競馬番組の変化にも着目しながら考察し、その要因として、新潟競馬倶楽部が1936年に日本競馬会に統合され、馬政に関する中央の意向を強く反映した競馬場運営を行うようになったことを指摘した。続く第四節では、公認競馬と地方競馬の共通点と差異について考察し、両競馬は若干の共通点はあるものの、競馬施行目的の違いによりレース内容に差異があったことや勝馬投票券と投票券付入場券という制度の違いにより売得金額成績に大きな差が生じていたことを明らかにした。 第三章では、第二章の内容をもとに、本稿

で対象とした戦前期を更に三分割し、それぞれの時期における地域社会と競馬事業の関係の実態を明らかにした。調査の結果、地域の有力者の競馬事業への関与と地元住民の競馬事業への協力はⅠ~Ⅲ期を通じて普遍的に見られたことが分かり、このことから、3つの時代を通じて、競馬事業が地域の人々にとって大きな利益をもたらす事業と考えられていたことが明らかになった。 競馬に関しては、ギャンブルとしての競馬

のイメージが先行してしまい、これまで自治体史を中心として、戦前の競馬と地域社会との関係が注目されることは少なく、その詳細な記述がなされることも少なかった。しかし、本稿では、社会の要請に応じて制度の変更が

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余儀なくされた事実があった一方で、競馬事業そのものは昭和戦前期を通じて人々の支持

を受け続けていたことが明らかになった。

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1920年「高等女学校令」改正前後の高等女学校について -新潟県立新発田高等女学校を事例に-

袖山 紗矢子 本稿では、大正9(1920)年「高等女学校令」

改正前後の時期に焦点を当て、新潟県の高等女学校-新潟県立新発田高等女学校-を事例に、女子中等教育の理論と実態の関連を検討した。その際、小山静子氏の打ち立てた「性別分業イデオロギー」としての良妻賢母思想が女子教育及び「近代家族」に、実際どのように影響してくるのかについて特に注目し考察した。 第1章では新発田高女の変遷を辿った。大正

9(1920)年以前の新発田高女は初代佐藤校長時代が主であり、服装や頭髪に関する規律は厳しく、質素やおしとやかさを旨とした「女らしさ」を重視していた。一方、大正9(1920)年以後の高女は人数の増加、校長の交代、「高女令」の改正など様々な要因が複雑に絡み合い、洋装化、スポーツの普及、理数科目の重視などこれまでの学校生活が著しく変化した。「高女令」が改正され良妻賢母思想が再編された大正9(1920)年を境に、実際の教育現場も目まぐるしい変化を遂げていった。大正9(1920)年以前も以後も、ほぼ中央の理論に忠実な上で少し自由をきかせた教育が為されていたと考える。 第2章では寄宿舎生活が良妻賢母思想に対

してどのような意味を持つのかについて、実態を明らかにしながら考察した。寄宿舎に通うためには高額な費用が必要であったため、入舎する生徒は地主の子女達が大半であった。舎監を「父母」、学生同士を「姉妹」と見立て家族意識を持たせ、日々の生活を皆で分担し

協力することで協調性を養わせた。寄宿舎生活は「近代家族」における「良妻賢母」の育成を補完するものであった。 第3章では女学校で良妻賢母思想を培った

女学生たちが、卒業後どのように生きていたのかを検討した。住居は県内から海外まで幅広く、卒業から5年も経つと半数以上は結婚し子供は3人以上という家庭が多かった。職としては教員の率が高く、時代が下ると教員以外の職業婦人も見られた。また、具体例として挙げた木村ハナ氏と緒方はな氏は、職、環境など歩んだ人生は全く異なったものの、各々立派な「良妻賢母」となって子供の為、家族の為に奮闘する毎日を送る姿が描かれていた。両者のみならず卒業生は同窓会誌を通して互いの近況を知り、常に「良妻賢母」になるべく励んでいた。 以上のことから、新潟県立新発田高等女学

校ではほぼ中央の意向に沿って良妻賢母主義の教育が行われており、寄宿舎生活は「近代家族」における良妻賢母思想を補完するものであったと結論付けた。このように理論と実態を関連づけることで女子教育に関する研究がより強力なものとなり、発展に繋がっていくのではないだろうか。今回は新発田高女のみを事例に挙げたが、新潟県内の他の高女(公立、私立、実科高女など)との比較や、土田陽子氏のようにその学校の所在地と生徒の家族層などについても研究することで、地方高等女学校の実態が更に浮き上がってくると思うが、これについては今後の課題としたい。

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上越線敷設請願に見る民間企業設立構想 立見 智志

本論文の目的は、明治産業資本確立期における民間企業設立時の資本形成及び企業経営計画の実態について、上越鉄道敷設計画を担った民間企業に即し分析を行うものである。鉄道は石井常雄氏の研究以後地域史との相関 によって論じられるようになった。しかしその対象となった路線は成立し実際の経営に至った成立鉄道が中心であり、計画段階で頓挫した挫折鉄道計画についての研究は依然少ないままである。本稿では挫折鉄道である上越線区間民間敷設計画を経営史的に分析し、研究の進展を目指すものである。研究対象となる上越線区間民間敷設計画は五度ほど敷設請願書類が提出されたが、本稿においては明治22年度提出の上越鉄道株式会社(Ⅰ)、明治28年提出の上越鉄道株式会社(Ⅱ)を中心に分析を行った。 第1章では、まず前段階として上越線区間民間敷設計画についての概要と挫折に至る経緯を当時の鉄道関連政府機関の認識等に基づき確認をした。上越鉄道株式会社(Ⅰ)においては鉄道庁長官井上勝による投機的出資への危惧感が反映されたことで挫折に至った。一方の上越鉄道株式会社(Ⅱ)においては鉄道会議の「政治的な干渉を加えるべきではない」という新方針が反映され敷設許可を勝ち取ったことが明らかとなった。しかしながらそれぞれ提出された書類に記された計画内容が妥当であったかは判別し難い。 第2章では、先に述べた石井論文や鈴木恒夫・小早川洋一両氏の論文を元に両計画における発起人株主の構成を把握しそれに内在す

る出資者グループを明確化した。上越鉄道株式会社(Ⅰ)においては沿線地域からの出資はほとんど見られず、鉄道株への投機熱の高まりからレントナー的出資層が存在し過半を占めていることが考えられる。一方で上越鉄道株式会社(Ⅱ)においては鉄道資材関係業者および沿線地域経済からの投資が見られレントナー的出資層とは別の層として存在しており、発起人株主層として厚みがあることが明らかとなった。 第3章では、伊牟田敏充氏の論文における会社構造の分析の手法をもちいることで上越鉄道株式会社(Ⅱ)計画によって設立された会社の構造や運営について、それを支える構造上の特徴が存在していたことを明らかにした。上越鉄道株式会社(Ⅱ)の運営において株式会社としての機構は成立し、小資本化同士が異系資本家間の協調により一団体となり大資本に対抗する勢力となる仕組みが設けられ、それが実際に機能していたという株式会社機構としての特徴が見られるものであることを明らかにした。 以上本稿では挫折鉄道計画に関する経営史的分析を行なった。本論文においての検証を通じて成立鉄道計画に研究として追いつくことができたかと言われると、資料の量に差があり成立鉄道計画研究には及ばない点が多くあった。しかしながら本論文において取り上げた二会社の分析を通じて、明治期における地方の会社経営の一端を捉え、その内実に踏み込んで調査を行い地方企業の経営史上の特徴を抽出することができた。

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関東大震災における非罹災地での救護活動と避難者の動向―新潟県を事例に―

坂東 拓哉 本稿の目的は関東大震災における非罹災地(直接的な被害が無かった地域)での救護活動とそこに至るまでの避難者の動向について明らかにすることである。 第一章ではまず関東地方から新潟への避難者の避難経路として東北線を通って福島県郡山を経由し磐越線で新潟へ向かうルートと信越線を通って長野県を経由し新潟県直江津に至るルートの大きく分けて二つあることを指摘し、大半の者が後者のルートを通ったことから直江津を新潟への避難の入り口として重要な場所であるとして第二章で詳しく検討することとした。また、後者のルートにおいて新潟県全体への避難者の動向について信越線による直江津、柏崎までの避難とそこからの新潟県各地への広がりと、鉄道が開通していない区間に関しては自動車による無賃輸送が補助的に存在し、それによって避難者は円滑に目的地までたどり着くことができたということが分かった。そして、それを前提として上越・中越・下越での救護活動の特徴を自治体ごとに概観することで、自治体ごとの相違点と共通点についてある程度明らかにできた。 第二章では新潟県内で最も避難者数の多かった中頸城郡の中でも時に交通の中心で商業都市であった直江津町での行政対応を直江津町役場文書『京浜大震災救済書類』から考察し、初期対応と中期対応に分けて時系列に沿って明かにした。初期対応の部分では関東方面からの避難者が直江津駅で見られ始めた時期からすでに、町役場は吏員を交代で駅へ派遣し始め、最初は直江津町の青年会・軍人分

会が中心で活動していたが、町役場から近隣の村に応援も要請するようになった。また、義捐金募集や上京者の安否確認のような活動も次第に始まり中期対応で中心に扱う避難者調査と要救護者への救護活動へと段階が移っていくことがわかった。中期対応では主に避難者調査によって避難者の把握、主に要救護者の状況把握が目的とされ、最初の新潟県独自の慰問金分配で避難者の所在を把握し、それと同時に要救護者に対する衣食料代の給与の段階で要救護者の把握も行われた。この新潟県独自の避難者調査があったからこそ11月15日の全国一斉避難者調査が円滑に行われ、新潟県としても独自の避難者に関する資料をまとめることが出来た。よってこの中期対応の部分では新潟県主体の避難者調査と要救護者救護、全国一斉の避難者調査の二つの流れの中で、行政の末端である地方自治体はどのような過程でその調査、救護における役割を果たしたのかということを明らかにできた。 また残された課題としては、第一章では『関東地方震災救援始末』の内容をまとめることに終始してしまい分かりやすく各地域の特徴を言及できなかった点、史料的に偏りがあり、新聞などの断片的な情報を使わなければならなかった点も問題である。また、第二章では『京浜地方震災救済書類』に多くある内容の中で紹介できたのはほんの少しで、義捐金募集に関する項目や救恤品輸送に関する項目を分析し、非罹災地での救援活動という意味では関東大震災発生100周年までにさらに研究が進む必要があると考えている。

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アジア・太平洋戦争期における地方都市の大衆文化・娯楽としての登山とスキー

宮川 飛鳥 本稿ではアジア・太平洋戦争下の国民動員

に対し、地方都市の人々がどのように対応したのかという問題を、新潟県における大衆文化・娯楽としての登山とスキーを事例に検討した。 第一節では、登山やスキーの全体的な動向

について、先行研究に依拠して整理を行った。厚生運動下で1941年頃まで鍛錬などを名目に享楽的に享受されていた登山やスキーは、42年以降になると否定され、戦技登山・スキーとして戦争に特化した形で行われるようになり、さらに戦況の悪化に伴い44年以降には、それ自体を行うことが不可能なっていったことを明らかにした。 第二節では、新潟県の地方新聞をもとに地

方の実態を明らかにした。新潟県においても1942・43年頃まで享楽的な旅行やハイキング、登山やスキーを楽しんでいる人々が見られたが、1944年夏の一般旅行客を最後に、戦争末期になると登山とスキーからは娯楽として楽しんでいる様子が一切見られなくなったことを明らかにした。また、新聞記事から全体的な動向との大きな違いを見受けることはできなかった理由として、新聞の記事にも度々表れているように、政府や鉄道省・厚生省などの中央の意向が地方にも行き届いていたことを指摘した。 第三節では、さらに踏み込んで地方の労働

者の実態を新潟鉄工所の登山とスキー部の活動記録である雑誌『登山とスキー部部報』を追うことでみた。新潟鉄工所登山とスキー部の1938年の部則では、体育会の方針に則り

楽しむことが目的とされ、個人の日記や記録からもこの時期には登山やスキーを娯楽として享楽的に捉えている実態を確認することができた。そこでは、労働の余暇として登山やスキーを楽しむことで労働のエネルギーを高揚させる厚生運動の論理が提唱されており、多少の享楽性は許容されていたことを指摘した。さらに、それが1941年の夏以降になると、戦争に特化した登山とスキーが求められ、42年の5月には部則としてそれが掲げられるが、こうした部としての方針転換の要因を、1941年5月の部の体育会から大日本産業報国会への改組に求めることができることを指摘した。 そして1943年になると、41年から42年に

かけての方針転換や、登山やスキー界の戦争への傾斜に対し、それとは少し異質な対応を見せた。それは百キロ行軍や、軍の鍛錬を基準にした登山やスキーの奨励に対し、やり過ぎた運動はかえって労働に支障が出るから避けるべきであり、さらに、産業報国のために労働の余暇としての登山やスキーを楽しむことは必要であると提唱されるのである。私はこれを“労働の論理”と呼称し、新潟鉄工所登山とスキー部では、1941年まで維持されてきた楽しむための登山とスキーを、大日本産業報国会への改組や登山・スキー界の戦争への傾斜による公的な否定に対し、“労働の論理”を建前にすることで戦争末期まで維持されてきたことを指摘した。また、登山とスキーの娯楽的側面には、少なくとも【ただ好きでやっている趣味としての娯楽】と【日々

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の労働からの逃避としての娯楽】、【労働の論理を建前としての娯楽】の三側面があること

を指摘した。

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中国古代における足の意味 ―春秋時代における祖先神との関係を中心に―

島田 一輝 春秋時代の社会は祖先神と現世の人とで形成され、当時の人々は自身の肉体を祖先のものでもあり、かつ子孫のものでもあると考えていた。そして身体の損傷は、祖先の身体の損傷でもあり、忌避された。このような身体観念から身体の一部を切断する肉刑が生まれ、そこには共同体からの追放という意味があった。肉刑には切断される部位ごとに持つ意味とその程度が異なり、その全容を明らかにするためには切断される各部位の持つ意味を解明する必要があると考えられる。しかし五刑の中で切断する各部位の意味に関する研究は管見の限りでは見られない。また切断される身体部位の中でも足は死刑、宮刑に次いで事例が多いにもかかわらず、その意味は明らかにされていない。そこで本論文では春秋時代における足の持つ意味を、史料中の足と足に関係する動作の記述に注目し、祖先神との関係から解明することを目的とした。なお足として検討する範囲は爪先から足の付け根までである。 第1章では、足の動きはその人の好調・不調の表れとされ、春秋時代における足に生命力の象徴という意味があったことを明らかにした。 第2章では、生命力の象徴である足には、祖先神の生命力を現世の人の身体に受容する祭祀との関係が考えられるため、祖先神祭

祀と足の関係を検討した。結果、祖先祭祀において歩くことは祖先神祭祀において重要な祖先を思い描くための方法の1つとされていた。また藉田での儀礼と足の関係の検討から、足には春の藉田での儀礼を通して地母神でもある祖先神から君主の身体へとエネルギーを受容する役割があった。更に君主の即位と足の関係の検討から君主の即位には立つという動作に祖先神との関係があった。以上のことから足には祭祀を通じて祖先神と現世の人の身体を結ぶ役割があったと考えられる。 第3章では、君主の身体と祖先神を結ぶ足の役割を明らかにするため、斉の襄公が足を負傷する事例から足の負傷の持つ意味を検討した。その結果、襄公の事例は暗殺の前に発生しており、暗殺には襄公が祖先神からの承認を外されたことに近い意味があったことが明らかとなった。したがって足を負傷することには、死に近い意味と共に君主の身体と祖先神との紐帯を断絶させるという意味があったと考えられる。 本稿では春秋時代における祖先神との関係から見た足の持つ意味が明らかとなったが、西周以前や戦国時代以降のそれについては検討していない。したがって他の時代の身体観を明らかにすることが今後の課題である。

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中国東北地方における軍官教育 大蔵 祐介

中国東北地方における軍官(将校)教育は、東北において台頭する奉天軍閥や、奉天軍閥を支援した日本の軍部の影響を受けた。とりわけ、奉天軍閥の首領である張作霖が東北の政治・軍事の実権を握った1910~1920年代には、奉天軍閥の軍人を育成する役割を持ち、日本陸軍から奉天軍閥に対して日本人軍事顧問や軍事教官が招聘されていた。一方で、東北における軍事教育に関する研究では、日本人軍事顧問や軍事教官については検討の余地が残されていた。そこで本稿では、東北における軍事教育の近代化と変遷を、清末以降に開始された中国における軍隊と軍事教育の近代化から連続するものと位置づけて検討したうえで、日本人軍事顧問と軍事教官の招聘の背景と制度について考察した。 第1章では、19世紀中頃以降の中国における軍隊と軍事教育の近代化と、東北における軍事教育の近代化が開始される1900年代以降の東北における軍官学校の変遷について概括した。アヘン戦争(1840~1842年)や太平天国の乱(1851~1864年)において郷土防衛軍として郷勇を組織した郷紳が、太平天国の乱末期以降に軍隊と軍事教育の近代化を推進した。その中で当初導入されたドイツ式の軍事教育に代わって、1900年前後から日本式の軍事教育が中国各地に設立された軍官学校で導入され、清朝の軍事教育モデルとな

ったことを指摘した。また、東北では、1900年代以降、軍官学校の開設と業務停止が繰り返されていたが、日本軍人が教官として軍官学校に招聘されていた。 第2章では、中国における日本人軍事顧問について整理したうえで、東北における日本人軍事顧問の活動について考察した。そのさい、張作霖の軍事顧問を務めた軍人であった町野武馬に対するインタビューである『国会図書館町野武馬政治談話録音速記録』や、『陸軍省大日記』を用いた。1899年に中国における初めての軍事顧問が雇用された後、1903年には日本陸軍において外国応聘者の取り扱いに関する内規が改正された。この改正過程では現役の軍人の派遣に懸念が示され、在郷軍人の中から優秀者を選抜することが定められた。この背景には応聘中は停年名簿から削除され、昇級に影響が出ることに対して、現役の軍人から不安を訴える鄙見が提出されていたことが影響したと考察した。東北における日本人軍事顧問の活動では、奉天軍の装備や施設を日本式に変更するよう指導することを日本人軍事顧問が担い、日本式兵器の図面を奉天側に引き渡すなど一定の成果を挙げた。その一方で、張作霖と密着した軍事顧問は、彼に対する共感から日本政府の方針と異なる行動をすることがあり、日本政府から不信と警戒を招くこととなった。

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満州における水害について 熊谷 朋太郎

本論文では、満州における水害として1932年に起こった壬申ハルビン水害について検討してきた。この章では、その内容を簡潔にしてまとめていくことにする。 第一章では、ハルビン建設史の確認と壬申

ハルビン水害に至る過程について検討した。降水量については、1932年7月のハルビンでは例年を遥かに上回る降水量と日照の少なさが確認された。そして、ハルビン以外の増水を確認したところ、松花江上流及び下流で増水が確認でき、これらの地域での増水も水害に影響を与えた可能性を指摘できる。 ハルビン市内への浸水の過程については、

7月30日ごろからハルビン市内への浸水が始まっており、8月7日のハルビン市北東にある博家甸の堤防が決壊したことで本格化した。そして、8月10日にはハルビン市南西の埠頭区の全部まで浸水してしまっていた。 第二章では、壬申ハルビン水害による被害

について検討した。第一節ではハルビン市周辺の鉄道の被害状況について確認していき、8月上旬にはハルビン市周辺の鉄道が全線不通となっていたことを示した。第二節では壬申ハルビン水害時の避難民について検討した。その結果、ハルビン市の行政による避難民収容には遅れが出ており、そのために野営をするハルビン市民によって市内の衛生状態の悪化が生じていたことが明らかになった。第三節ではハルビン市での損害の額について検討した。その結果、壬申ハルビン水害の規模は、一つの市での水害でありながら1934年の満州全体での水害を上回るものであったことが分かった。また、市内でも地区

によって被害額に差が存在していた。 第三章では、ハルビン市の行った給食給水

活動と価格統制について検討した。第一節では、給食給水活動について確認した。その結果、ハルビン市は衛生に関わる給水活動を優先させていた可能性があることを示した。第二節では価格統制について検討した。その結果、8月8日と10日に出された罰則付きの布告には、ある程度の効果があったと見られ、8月11日以降の物価騰貴の抑制に成功していた。しかし、値上がりした商品を元の価格に戻すまでの影響力は持っていなかった。 第四章では、ハルビン市の防疫活動につい

て考察した。第一節では、壬申ハルビン水害以前のハルビン市の防疫活動について検討した。ハルビン市内での防疫活動については、鉄道での検疫は日本軍人の検疫を日本陸軍に一任するなど不十分な点が見られたが、予防注射活動に関しては計26,765人に行っており大きな成果を出していた。第二節では防疫活動の主体の変遷を確認し、その後、防疫活動について検討した。防疫活動の主体は臨時防疫委員会から水災非常委員会防疫部、哈爾浜連合防疫委員会と移り変わっていた。そして、哈爾浜連合防疫委員会の予防注射隊の活動からはそれまでの防疫活動に比べ、強制性が強かったことが窺えた。 以上、壬申ハルビン水害について考察して

きた。この水害を通して、従来の指摘通りの日本の傀儡国家満州国という姿を読み取ることができた。満州国は建国年度の水害でその日本への依存性を露わにしてしまったといえるだろう。

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テンプル騎士修道会の組織の変容 石垣 潤子

本卒業論文では、テンプル騎士修道会廃絶の直接的要因をテンプル騎士団訴訟事件に帰するのではなく、テンプル騎士修道会の組織の変容からその廃絶の遠因を求める。テンプル騎士修道会は封建社会における典型的な存在であり、その階層の頂点には騎士修道会総長が位置している。本稿ではこの総長の権力行使に焦点を当てた。テンプル騎士修道会会則内には、総長や他の役職の特権と義務について詳細に記された項目がある。そこからテンプル騎士修道会の意思決定の仕組みを読み取ることで、総長とそれ以外の幹部の関係性を見た。しかし、本卒業論文では会則内から読み取る権力関係をあくまでも理想像とし、総長の実態との隔たりを考察する。この過程から廃絶の一因と考えられる組織の変容を明らかにすることを目的とした。 第1章ではテンプル騎士修道会の成立から

廃絶までを概観した。テンプル騎士修道会がどのような社会的背景から成立するに至ったのかを確認し、当時のテンプル騎士修道会の理念を見た。また、テンプル騎士修道会の活動をまとめることで第2章以降の手がかりとする。そしてテンプル騎士修道会廃絶の直接のきっかけとなった訴訟事件の概略をまとめた。 第2章ではテンプル騎士修道会会則から組

織の意思決定の仕組みを明らかにした。特に幹部と総長、参事会と総長の役割を比較する

ことで、組織内の総長の立場を明確にした。会則の内容から、総長の権限は独裁的なものではなく、参事会などの承認や助言によって重要事項を決めていたことが分かった。 第3章ではテンプル騎士修道会の全22代総

長の出生や総長就任までの経歴などを見た。総長選任については総長の人格からではなく、その素性から選任された例も多い。特にエルサレム王国、フランス王国の権力者へと繋ぎを取ることができる人物が重宝されていたようだ。そのためには遍歴のテンプル騎士ではなく、外部の人間同然の人物を総長に据えることもあった。 騎士修道会会則から、総長は特権的存在で

あるが、その意思決定は恣意的なものにはならないような配慮がなされていたことが読み取れる。しかし第3章で実際の総長たちを見るなかで、第10代総長ジェラール・ド・リドフォールが自身の復讐の手段としてテンプル騎士修道会を利用したように、実在した総長たちが独裁的な決断をしなかったとは言いきれない。会則と総長の実態の比較から、テンプル騎士修道会がいかに権力志向を強めていったかを読み取ることができた。騎士修道会は十字軍運動によってその存在理由を与えられたために、存在意義の追求の手段として権力への欲求が高まった。この目的と手段の転倒が、テンプル騎士修道会俗化を招いたと考えられる。

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受胎告知図にみるマリアと天使ガブリエル ―ボッティチェリの作品から―

児玉 倫子 本卒業論文では、受胎告知図におけるマリアと天使ガブリエルの関係性がどのように描かれたか、そしてどのような時間的表現がなされたかに着目した。受胎告知という主題はキリスト教において重要な主題であり、ルネサンス期に数多く図像化された。その中で、マリアが①戸惑い②思慮③問い④謙譲⑤徳という5つの精神状態のうち1つを明確に示しているという見解がある。また、ガブリエルについては身振りが時代によって異なり、その姿によって画像の意味が異なるという。さらにマリアとガブリエルが、受胎告知をする者とされる者という関係を越え、恋愛的関係にあるように描かれた作品もあるとの見解もある。本論文では、マリアの感情やガブリエルの身振りに付与された感情の分析を通して、2人が受胎告知をする者・受胎告知をされる者という関係で描かれたのか、それとも恋愛的な感情を持った関係として描かれたのかについて考察する。そして画面内の時間的表現についても検証していく。 第1章では、受胎告知がどのような主題であるか、受胎告知という主題をどのように受け止めていたかについて述べた。また、受胎告知図がどのように描かれ、変化していったかを概観した。 第2章では、受胎告知におけるマリアの5つの精神状態、ガブリエルの身振りについて、『黄金伝説』、『キリストの生涯に関する黙想

録』といった宗教文学の記述から分析した。さらに、受胎告知図においてガブリエルの描写がどのように変化していったのかをまとめた。 第3章では、ボッティチェリによる受胎告知図7点を考察対象として、マリアの精神状態の分析を行い、ガブリエルに人間的感情が付与されているかを考察した。さらにそれを踏まえ、各図像における時間的表現や、マリアとガブリエルがどのような関係として描かれたのかについて考えをまとめた。 以上の考察から、ボッティチェリの受胎告知図では、マリアは「謙譲」の状態で描かれる場合が多かったこと、ガブリエルの感情表現はマリアへの崇敬の念を表現する、あるいは祝福するものが大半であったことが分かった。また、2人が恋愛的な関係に描かれたと考えられる作品は1つしかなく、ボッティチェリはあくまでも2人を受胎告知をする者・受胎告知をされる者という関係で描いたと言える。さらに、ボッティチェリの受胎告知図では2人の間に時間差が生じている作品が多いことが明らかになった。 よってボッティチェリの受胎告知図は、14世紀以前の伝統を色濃く残した受胎告知図に終止符を打ち、登場人物に感情を付与した身振りや表情を描きこむことで、16世紀以降に生まれる新たな受胎告知図の先駆けとなったと位置づけることができる。

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西洋中世にみられる女性観 佐藤 りん

中世の女性観は、その後の西洋社会にも大きな影響を及ぼしているものであり、西洋の女性観を考えるうえで外すことができないものである。中世の女性観については今までにも数多くの研究がなされており、そこでは、聖職者を中心とした男性たちが女性は悪魔の手先であり、男性に劣り、邪悪な存在であるとして蔑視していたという研究結果が多い。ただ、こうした女性蔑視も一様ではなく、聖職者と非聖職者の女性蔑視にはニュアンスの違いがあるという主張もある。また、西欧世界すべての男性が、積極的に女性蔑視の女性観を受け入れていたというわけではなかった。 中世の女性観は「女性蔑視の女性観」であるという大まかな結論が導かれているが、それは一様ではない。まずは女性観を時代や階級に分けて分析し、その違いをより明確にする必要があると思われる。また、女性蔑視に対する反論の声を無視して女性観を定義することはできない。本稿では特に、女性の立場から意義を唱えた人物に注目することで、男性の女性観が重視されていた中世における「女性の女性観」について見ていくことにした。そして、いくつかに分類される女性蔑視の女性観と、それに対する反論を全て含めたうえで、改めて中世の女性観について考察していった。 第1章では、キリスト教の女性観について概観した。イエスによって説かれた男女平等は、ローマ帝国下にあったキリスト教において徐々に変化していき、そこで誕生した女性蔑視の女性観が以降の社会に継承されていった。キリスト教社会であった中世では、長

らく教会によって説かれてきた女性蔑視の女性観が社会の根底に存在し、人々もその影響から逃れることはできなかったのである。 しかし、世俗では教会の教えを受け入れつつも、そこにみられる女性観は一様ではない。第2章では、宮廷風恋愛の誕生によって女性を敬い、愛を捧げようと苦心した男性や、妻と家主の座を取り合ったり、妻のわがままに翻弄されたりする夫を文学作品から取り上げた。女性無しに社会を成り立たせることが不可能であった世俗の人々は、教会の女性観を自分たちの生活に合わせて上手く取り入れ、展開させていったのだと考えられる。 女性観は男性からみたものだけではない。女性たち自身による女性観も存在する。第3章では、女性蔑視に反論したクリスティーヌ・ド・ピザン Christine de Pisan(1363?-1431?)の主張を分析した。社会では女性の悪徳ばかりが説かれていたのに対し、ピザンが女性にも多くの誇れる徳があると主張したことで、女性たちが自身の徳を理解し、今の社会的地位を肯定的に受け入れられるようになったと考察した。 以上より、中世にみられる女性観の中で女性蔑視の女性観が一番大きかったことは間違いないが、その一方で中世は独自の女性観が至るところに誕生した時代でもあり、当時の女性観を一言で表すことはできない。中でも、それまで女性観に対して受け身だった女性たちが自身でその価値を判断するようになったことは、女性が能動的に社会に働きかけていくという、新たな一歩を踏み出したことを意味するのではないだろうか。

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フランソワ・デュボワ≪サン・バルテルミの虐殺≫ ―フランス宗教戦争の絵画表象と一解釈―

中村 みさき 16世紀半ばにフランスで始まったフランス宗教戦争(1562-1598)の中でも、1572年8月24日の早朝に起こったサン・バルテルミの虐殺は、フランス国内のカトリックとプロテスタントの対立が決定的だった事件とされている。フランス・プロテスタントの画家フランソワ・デュボワ(1529-1584)の絵画≪サン・バルテルミの虐殺≫(1572/1584)は、フランス宗教戦争を主題とする絵画の中で、最も有名ではあるが、この虐殺がどう表象されているかほとんど研究されてこなかった作品の一つだと言われており、外国の研究でもわずかな文献しか存在しない。そこで、本卒業論文では、デュボワが描いた場所や人物をモチーフとして取り上げ、虐殺でどのような役割を果たしていたのか、虐殺の様子がデュボワの絵にはどう描かれているのかを当時の回顧録から明らかにすることを試みた。 導入として、第1章では、1562年から始まるフランス宗教戦争と第3次宗教戦争後に起こったサン・バルテルミの日の虐殺の動向をパリに限定して概観した。 第2章では、1572年8月24日に起こった虐殺を絵画化した≪サン・バルテルミの虐殺≫の作者であるフランソワ・デュボワの遺言とジュネーヴの死者のアーカイヴを翻訳し、画家に関する情報の取り出しを行った。その結果、遺言には自身の制作活動に関する言及は一切無かったこと、1572年の虐殺に際しパリにいたのかどうか、この虐殺を見聞きしたことがあるのかどうかに関しても何も述べられていないことなどを指摘した。

第3章では、サン・バルテルミの虐殺と同時代の回顧録などから虐殺の様子を明らかにし、デュボワの絵にはどう描かれているのかを考察した。デュボワの遺言作成に臨席したジュネーヴの司祭シモン・グラールの『回顧録』、歴史家ジャック・トゥの著作『世界史』、プロヴァンの司祭クロード・アトンの『回顧録』などの、虐殺と同時代の史料を多く参考にした。考察の結果、血で染まったセーヌ川とセーヌ左岸に描かれた死体で一杯の荷台、ルーヴル宮の前の死体の山の描写において、当時の史料との大きな類似性を発見することができた。 第4章では、約20種類もあるデュボワの絵に関する諸解釈をまとめる中で、デュボワの絵には虐殺からの不回避性が表現されているという解釈に注目し、不回避性を表すモチーフが総じて、虐殺と同時代の史料から読みとれる史実に基づいた描写であることを指摘し直した。その他、デュボワの絵の右側後方で頭を守る姿勢の女性の描写も、虐殺からの不回避性を示すモチーフの一部を成す可能性を新たに指摘した。 おわりにでは、第3章の考察結果が、先行研究で共有されていたデュボワが虐殺に精通していたという可能性を裏付ける結果になったことを再指摘した。また、第3章の考察からデュボワの描写とグラールの記述には大きな類似性がみてとれたが、2人の関係性を明らかにすることや、デュボワの絵、あるいは、グラールの『回顧録』への影響関係を明らかにすることが研究課題として残った。