一一61-対九七票で可決され、さらに九四年には二一九票対六一票という圧倒的多数で可決されたのだった。〇年(三六五票対五五票)および一八九二年(一五三票対一二八票)には否決されたが、翌九三年には一三七票浸透は労働組合会議における生産手段社会化決議案...

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イギリス労働党の創成 一丸〇〇年二月二十七日、そぼふる雨にぬれたロンドンのメモリアル・ホール 団体の代表が会合した。二日間にわたる協議ののち、彼等は労働代表委員会(Labou mittee)という名のもとに結集して、イギリス議会に独立の労働議員をおくりこむことに た。このような企図はそれまでにも何回かあって、いずれも失敗していたので、この会合も大し ならず、新聞紙面は当時イギリスが捲きこまれていたボーア戦争の情報でにぎわっていた。この委員 労働党という巨大な新政党に成長することなど、当時、誰がおもいおよんだであろうか。 しかし、この社会主義者だちと労働組合との『偉大な同盟』そのものについて語るまえに、これをもたらすよ イギリス労働党の創成 一一61-

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Page 1: 一一61-対九七票で可決され、さらに九四年には二一九票対六一票という圧倒的多数で可決されたのだった。〇年(三六五票対五五票)および一八九二年(一五三票対一二八票)には否決されたが、翌九三年には一三七票浸透は労働組合会議における生産手段社会化決議案

     イギリス労働党の創成

                           伊  達  宗  雄

       一

 一丸〇〇年二月二十七日、そぼふる雨にぬれたロンドンのメモリアル・ホールにイギリス労働組合や社会主義

団体の代表が会合した。二日間にわたる協議ののち、彼等は労働代表委員会(Labour Representation Com-

mittee)という名のもとに結集して、イギリス議会に独立の労働議員をおくりこむことに協力することを決定し

た。このような企図はそれまでにも何回かあって、いずれも失敗していたので、この会合も大したニュースとは

ならず、新聞紙面は当時イギリスが捲きこまれていたボーア戦争の情報でにぎわっていた。この委員会がのちに

労働党という巨大な新政党に成長することなど、当時、誰がおもいおよんだであろうか。

 しかし、この社会主義者だちと労働組合との『偉大な同盟』そのものについて語るまえに、これをもたらすよ

    イギリス労働党の創成

一一61-

Page 2: 一一61-対九七票で可決され、さらに九四年には二一九票対六一票という圧倒的多数で可決されたのだった。〇年(三六五票対五五票)および一八九二年(一五三票対一二八票)には否決されたが、翌九三年には一三七票浸透は労働組合会議における生産手段社会化決議案

うになった背景について、すこし述べておかなくてはならないだろう。

        二

 イギリスの労働組合が十九世紀の終末頃までに、独立の政治行動に転向する決意をかためるようになった原因

はいろいろあるのだが、なかでも次のようなことをかぞえることができよう。

 第一に、自分たちの欲する社会改革を推進する道具として、既成政党に対する信頼、わけても自由党に対する

それ、を次第にうしなっていった。労働者たちの尊敬を一身にあつめた大グラッドストーンも一八八六年愛蘭自

治問題を取上げたのちは社会問題に対する熱意を失なったし、愛蘭自治問題はさらに自由党そのものの分裂さえ

おこすにいたった。労働者たちが保守党に対して多くを望みえないことはいうまでもない。さらに、パーネルの

指導のもとに愛蘭国民党が議会に出現して、少数ながら下院のキャスティング・ヴォートをにぎって活躍したこ

とは、労働組合の人々に、この例にならって労働者たちの代表を議会におくる決意をかためさせる一助となった。

 次に一八九〇年代には使用者側の攻勢の結果、労使関係は悪化し、労働組合側は従来の産業行動一本槍の態度

に疑いをもつようになった。一八九七年、イギリス最強の組合の一である合同機械工組合(Am.algamated Society

of Engineers)が六ヶ月にわたるストライキの末に惨敗したことや、その翌年、サウス・ウェールスの炭坑夫

たちが鉱主との戦いで一敗地にまみれたことはさらにこの疑問をふかめ、政治行動への転回のよすがとなった。

 また、一八八〇年代におけるイギリス社会主義の復活や有名なドック争議以後における不熟練労働者の組合へ

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の吸収などをきっかけとして新しい型の労働組合指導者が次第に舞台に登場するようになったことも労働組合の

代表たちを政治面に進出させる気運をたすけたことは疑いない。労働組合会議(Trade  Union Congress)の

議会委員会(Parliamentary Committee)は長い間古い型の労働貴族たちの牙城であったが、それさえ新しい、

より進歩的な指導者たちによって烈しくゆさぶられるようになっていた。労働組合の指導層に対する社会主義の

浸透は労働組合会議における生産手段社会化決議案の取扱いのうちにあらわれた。このような決議案は、一八九

〇年(三六五票対五五票)および一八九二年(一五三票対一二八票)には否決されたが、翌九三年には一三七票

対九七票で可決され、さらに九四年には二一九票対六一票という圧倒的多数で可決されたのだった。

 これでみると、労働組合会議の代議員たちの多数は社会義者もしくはその同調者であるようである。しかしイ

ギリス労働組合たちの政治的いろわけはそれほど単純なものではない。

       三

労働代表委員会の結成前後におけるイギリスの主要な労働組合の政治的態度は組合ごとにそれぞれちがってい

-63 一一

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て、それをおおざっぱにみると次のとおりである。

 鉱夫たちはその事業の性質上、国家の干渉をうけることが多いので、議会に対して代表者をおくることに古く

から関心をもっていたし、また、その地域的分布からも特定の選挙区に多数居住しているので、自分たちの代表

を選びやすい立場にあった。早く一八七四年に鉱夫は二人の代議士を下院におくったが、これがイギリスにおけ

る労働代議士の最初であった。最初の二人の鉱夫代表はのちには五人に増加したが、これらの議員はいずれもみ

な自由党員であり、いわゆる『自由・労働』代議士であった。彼等は鉱夫の地方組合から出される基金から運働

費を支給され、自由党を通じて鉱夫の政治的要求を達成することに熱中した。従って、独立の労働者党を育てあ

げることにはほとんど関心をしめさなかった。政治行動に最も早くめざめた組合が、そのゆえにまた自由党との

因縁を深くして『偉大な同盟』に背を向けていたことは、まことに歴史の皮肉といわなくてはならない。鉱夫た

ちがイギリス労働党に加入したのは一九〇六年の大勝利よりさらに三年のちのことだった。

 綿業労働者たちはランカシャーおよびチェシャーに集中しており、鉱夫よりももっと独自の代表を選びうる立

場にあったが、その政治的色彩がまちまちであったために、独自の政治的行動に出ることができなかった。彼等

の多くはその使用者たちが自由党に属したのに対抗して保守党を支持していたが、自由主義の信奉者もかなりあ

った。そのため、一八九五年には労働側の候補者を保守、自由の両党から一人づつ立てようとさえしたほどだっ

た。一八九九年七月のオルダムの補欠選挙には、紡績工組合の主事ジェームス・モーヅレーが当年二十五才のウ

ィンストン・チャーチルとともに保守党から立候補して二つの空席をめざしたが、二人ともに落選した。

 次に、機械工業には強力な合同機械工組合があった。この典型的な古い型の組合も一八八○年代から九〇年代

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にかけて、新技術の採用や失業の増大によってゆさぶられ、新進の戦斗的な指導者たちの活動をゆるすようにな

りつつあった、ジョン・バーンズ(John Burns)やトム・マン(Tom Mann)などはこの新しい層に属する。

バーンズは一八九二年に初めて下院議員に当選したが、彼はその頃社会主義の陣列からはなれて、自由党と協力

する方向に転じた。しかし、合同機械工組合としては、議会に組合の代表を出すことに賛成の態度をとり、一八

九九年にはそのための資金として組合員から一人あたり年額三ペンスを徴することがきめられた。

 合同鉄道従業員組合(Amalgamated Society of Railway Servants)は独自の労働代表を議会におくるこ

とに最も熱意をしめした。この組合はあらゆる種類の鉄道従業員に門戸をひらいて十九世紀末にはイギリスで五

番目の大組合になっていたのに、鉄道会社側からは組合としての承認さえまだ得ていなかったから、当然に議会

行動に関心をもつようになった。なかでもトーマス・アール・スチールズ(Thomas R. Steels)はもっとも熱

烈な支持者の一人であって、組合を動かして一八九九年のプリマスにおける労働組合会議に一決議を提案、通過

させることに成功した。

 この決議は、労働代表の問題を協議するために関係ある労働組合、協同組合および社会主義団体の会議を招集

することを労働組合公議の議会委員会に要求するものであった。本篇の冒頭にのべた一九〇〇年二月のメモリア

ル・ホールの会合はこの決議にもとずいて議会委員会が招集したのだった。もともと、議会委員会は組合会議で

表明された組織労働の要望を議会の保守党や自由党に陳情することを主な仕事としてつくられたものである。は

しなくも、それが労働党の産姿役を引きうけることになったわけである。

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       四

 一九○○年二月二十七日のメモリアル・ホールの会合には百二十九名の代議員が参加した。うち、十二名は三

つの社会主義団体の代表たった。すなわち独立労働党(Independent Labour Party)から七名(そのうちには

ケア・ハーディー、ラムゼー・マクドナルド、フィリップ・スノーデンなどがいた)、社会民主連盟(Social

Democratic Federation)から四名、フェビアン協会(Fabian Society)から一名(協会主事エドヮード・ビ

ーズ)。協同組合側からは代議員は出なかった。総組合員数およそ五十五万人にのぼる六十七の労働組合から代

議員が出席したが、この総員数は当時のイギリス労働組合員数の三分の一以下であり、労働組合会議に加盟して

いる総数の半分たらずであった。めぼしい大組合は合同機械工組合、合同鉄道従業員組合、全国ガス労働者・一

般労働者組合、全国製靴工組合、ランカシャー・チェシャー鉱夫連合等々だった。最後の地方的鉱夫連合を唯一

の例外としてイギリス最大の組合たる英国鉱夫連合は欠席した。綿業労働者たちも合同織布工組合のほかは不参

加だった。

 議会委員会の決定では、この会合における票決は労働組合会議の議事規則によることとなっていたから、各団

体は組合員数千人またはその端数ごとに一票を行使することができた。従って、英国鉱夫連合のような巨大な組

合の不参加はかえってもつけのさいわいというべきだった。もし、鉱夫連合が参加してその三百六十票にものを

いわせて自由党支持の方向でも打ちだしたとしたら、会合の前途はどうなっていたかわかったものではない。

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 また、この票決方法によると、社会主義団体の側は総票数五九一票のうち、三団体全部あわせても、わずか二

十三票をもつにすぎない。しかし、これは彼等の実勢力をあらわしたものではなかった。労働組合の代表者たち

のなかには多くの独立労働党の会員または同調者がふくまれていたのである。そして、これらの独立労働党の会

員こそは、最も熱心にこの会合の成功にその政治的生命をかけていたのだった。もともと、鉄道従業員たちが労

働組合会議のプリマスの会合に提出した上記の決議さえも、実は独立労働党の幹部、おそらくハーディーとマク

ドナルド、が作成したものにほかならない。メモリアル・ホールの会合の成功は、まことに彼等の熱意と弾力性

にとんだ指導のおかげといって差支えない。

 会合の最初から、社会民主連盟の代表は、新たに生れる団体が純然たるマルクス主義を旗印とし、『階級戦』

を認めるべきであると主張し、もしこれが容れられないようなら、われわれは新団体に参加することを欲しない

であろう、と述べた。ハインドマン流の生硬なやりかたである。労働組合の代表の大多数にとって、このような

主張がうけいれ得ないものであることは自明であった。はたして、労働代表委員会の結成後いくらもたたない一

九〇一年八月、社会民主連盟はそれから脱退するにいたった。

 また、フェビアン協会が、一九〇〇年当時において、独自の労働党の結成に対してどれほどの熱意と明察とを

もっていたかは、シドニー・ウェッブの後年になっての回顧にもかかわらず、大きな疑問符がうたれている。フ

ェビアンはむしろ、当初は同情的な傍観者であったとみるべきであろう。

 これに対して、ケーア・ハーディ(Keir Hardie)を先頭とする独立労働党は、その名称のしめすように、社

会主義者と労働組合との『偉大な同盟』によって、新しい独自の労働者政党をつくることをその悲願とし、この

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ような新党の芽を育てるためには、極力、自分たちの社会主義の原理を押しだすことをさしひかえるという柔軟

な態度をとった。

 このような彼等の態度はこの会合の見事な成功という形でむくいられた。労働代表委員会の運動方針について

もハーディーの妥協案がそのまま認められたし、執行委員会の構成についても、定員を十二名とし労働組合側七

名、社会主義団体側五名の比率とすることに成功したし、さらに、労働代表委員会の主事として独立労働党の推

すラムゼー・マクドナルド(Ramsay Macdonald)を任命させることにも成功した。もっとも、財政の見透し

                                      ㈲

がつかないので主事は無給ということだったから、競争はあまり烈しくはなかった。

 最後に、労働組合会議からの独立をはっきり示すために、さきに組合会議のメンバーからはずされた労働組合

の地方協議会たちに対して新生の労働代表委員会への加入をみとめることが決定された。これらの地方協議会に

は社会主義の勢力が相当深く浸透していたから、その加人は独立の労働代表を推進するために、よろこばしいこ

とであった。

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       五

 ともかくも、労働代表委員会は結成された。その最初の本部事務所はマクドナルドの私宅であった。リンカー

ンズ・イン・フィールド三番地の彼の家庭がそのまま事務所であった。主事としてなんら収入のない彼は、夫人

の働きと、フリーランサーの記者としての彼の原稿料とによって生計をささえなくてはならなかった。

 労働代表委員会の第一の仕事は、まず労働組合の加盟を獲得することであった。労働組合の加盟しやすいよう

に、会費は組合員千名について一〇シリングという低額にしたし、選挙資金についても当初はなんらの義務も組

合に負わせなかった。が、この仕事はなかなかはかどらなかった。一九〇〇年の五月には、加盟組合の総員数十

八万七千人と報告されたのが、同年九月には三十一万二千人と報告された。労働組合のメンバーたちの多くは、

まだこの委員会の存在することさえ知らない有様だった。

 しかも、この秋、議会の解散があって、委員会は創立早早なんらの準備のないままで、選挙戦にのぞまなくて

はならなかった。この総選挙の中心題目はボーア戦争に対する賛否を国民に問うことにあった。委員会はまだ支

部組織もなく、本部の選挙資金はわずかに三十三ポンドをかきあつめたのみだった。

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 この総選挙には労働組合側から五人の候補を立て、社会主義団体側から十人の候補者を立てたのだが、当選し

たのは鉄道従業員組合のリチャード・ベルと独立労働党の指導者ケーア・ハlディーとの二人だけでその他は枕

をならべて落選した。丁度よいぐあいに、労働代表委員会の労働側と社会主義者側とから一名づつの当選をかち

えたわけである。

 しかし、わずか二人だけの党員では、院内でなにほどの活動もできないことはあきらかであった。しかも、鉄

道従業員組合のベルは、その後の労働組合出身の議員と同じように、その意識や行動において自由党の党員とほ

とんど区別できないほどであったのだ。

 そののち、労働代表委員会は、一九〇二年八月、ランカシャーのクライスロー地区(Clitheroe)の補欠選挙に

おいて、ダヴィト・シャックルトンを当選させることに成功したので、党員はようやく三名となるにいたった。

シャックルトンは織布工の地方組合の主事であって、従来の経歴からみても自由党系とみられていたが、労働代表

委員会の巧妙な指導のもとに、労働代表として国会に出ることを承認したものだった。彼の下院進出の結果、ラ

ンカシャーを中心とする綿業労働者の諸組合が、これまでの消極的な態度をすてて、進んで労働代表委員会に参

加することになった。つまり、重要なイギリス労働組合は、英国鉱夫連合をのぞくほかは、すべて労働代表委員

                       困

会のもとに政治行動に出るようになったのである。

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        六

 議会へもっと労働代表をおくろうとする方向に労働組合側をみちびくためには、なんらか新しい情勢の変化が

なければならなかった。そこえ、突如として、あの有名なタフ・ヴェール事件(Taff Vale) がおこって労働組

合の存立を根本からゆさぶるにいたったのである。

 イギリス労働運動史上あまりにも有名なこの事件のいきさつを、ここで詳しくのべる必要はないであろう。サ

ウス・ウェールスのタフ・ヴェール鉄道会社のストライキに端を発したこの事件についての一九〇一年七月二十

二日の最終判決は労働運動界ばかりでなく、法曹界までもおどろかせた。この判決の結果、労働組合は組合の役員

または代表とみられる者が加えた損害に対して賠償をする責任があるとされるようになった。一八七一年乃至一

八七六年の労働組合諸法によって、労働組合の基金はこのような損害賠償の責任はないという解釈が、この三十

年間、当然のこととうけとられてきたのだが、この判決はそれをまったくひっくりかえしたのだった。しかも、

同年八月、キン対レセム事件(Quinn v. Leathem)の判決は、タフ・ヴェール事件の対策を講じようとする

労働組合側にさらに追打ちをかけた。ストライキを指導する労働組合の行動は一層の制限をうけるようになっ

た。

 労使関係が非常な緊張をしめし、使用者の団結がたかまり、彼等の政治的行動がめだつようになってきたこの

時に、労働組合のストライキ行動はほとんど不可能にされたといってよい。そのうえ、タフ・ヴェール事件の係

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争中に、タイムス紙は『英国産業の危機』と題する一連の論説を紙上に掲げて、労働組合が企業の自由を制限す

る行動に出ることを非難し、このような組合の行動を制約する法律をつくらなくてはならない、と論じた。これ

は使用者たちの組合非難に支持をたえる結果となった。この新しい情勢のもとでは、使用者たちは裁判所に損害

賠償の訴訟をおこすことによって労働組合に壊滅的な打撃をあたえることができるし、また、強力な陳情機関を

手中に握っているので、彼等は労働組合が法律の改正によってこの事態を改めようとすることをも阻止するであ

ろうとみられた。

 労働代表委員会はこの機をとらえて立ちあがった。タフ・ヴェール判決の直後、委員会は数千にのぼる檄文を

発して、労働代表をもつと議会におくるために委員会の旗のもとに集まることを要請した。職場でも、裁判所で

も、また新聞紙でも、攻撃されて四面楚歌の労働組合は、議員選挙の投票箱にたよるほかに途がないではない

か、ということが訴えられた。そして労働組合側はこの訴えに応じたのだった。

 労働代表委員会に参加する労働組合の数は急激な増加をしめした。一九〇二年の初めには、加盟組合数は四十

一から七十五になり、その総員数はおよそ三十五万三千人から四十五万五千人にのばった。一年後の一九〇三年

初め現在では、一二七組合、八十四万七千人をかぞえるにいたった。続続と加盟する組合のなかには合同機械工

組合のような有力なものもあった。この組合はメモリアル・ホールの創立大会に代表を送りはしたものの、労働

代表委員会への参加の件をおよそ五百の支部にはかったところ、賛否の回答ともあまりに少数しかなかったので、

組合としての態度を保留していたのだが、タフ・ヴェール事件の結果、一九○二年二月、ついに委員会への加盟

に踏みきったのである。

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 こうして、タフ・ヴェール事件がイギリス労働党をつくったということがよく言われる。まことに、タフ・ヴ

ェールがなかったなら、一九〇六年の勝利はあれほど輝かしいものでありえなかったろう。それとともに、労働

代表委員会の主事マクドナルドとそれを支持する独立労働党の人々のすぐれた組織力や戦術がこの勝利をもたら

すのに大きく寄与したことを忘れてはなるまい。

        七

 一九〇三年二月に労働代表委員会の大会がニューキャスルでひらかれた。この大会では委員会の政治行動につ

いて二つの重要な発展がみられた。

 第一は、政治基金を設けることが決定された。これについては委員会創立の当初からフェビアン協会が提議し

てきたのだった。大会は政治基金を設定すること、これに対して加盟組合は組合員一人あたり年額一ぺニーを納

入すること、しかしこの納入は強制されないこと、などをきめた。製鉄工組合代表のアーサー・ヘンダースン

(Arthur Henderson)は年額四ぺンスに増額すべしという修正案を出したが否決された。なお、この基金は、

総選挙があった場合のみに使用することとし、二千五百ポンドに達するまでは補選などには使用しないこととな

っていた。この基金の設定が、労働議員に対する労働代表委員会の幹部の統制力を強化したことはいうまでもな

い。なお、この基金への納人は翌年の大会において一切の加盟団体に強制されることとなった。

 第二に、大会は委員会の独立性をさらに強化する決議を可決した。これによると、委員会の執行部にいる者、

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議席を有する者および議員に立候補する者は『保守党または自由党のどの分派の利益とも同調しまたはこれを助

長する行動をしてはならない』としている。すべての立候補者はこの決議および議会における労働代表委員会グ

ループの決定を守らなくてはならないし、もしこれに反する場合には退職しなくてはならない。

 この決議は三人の国会議員の一人たるリチャード・ベルが議会の内外において、自由党員ともみられるような

行動に出ていることが機縁となって提案されたものなのだが、当時、労働組合出身の政治家たちがいわゆる『自

由・労働派』とよばれる行動に出たことはひとりリチャード・ベルだけではなかった。今次大会の決議によって、

労働代表委員会の独立性が一段と強められたことはあきらかである。もっとも、これに違反する場合に退職を強

要することは行きすぎであると反省されて、次の大会でこの一節は削除されたのだった。労働代表委員会はその

構成分子の複雑なことから、まだ独自の政策や綱領をきめるまでにはいたらないが、ニューキャスル大会の決定

が独立の政党への一歩前進であったことはだれの目にもはっきりしている。

 このように大会が保守党や自由党などからの分離独立を表面にうちだしているさいに、労働代表委員会の最高

幹部は、来るべき総選挙への布右の一として、極秘裡に自由党の最高幹部との取引をやりつつあったのである。

委員会側では、ケーア・ハーディの承認のもとに主事ラムゼー・マクドナルドが、自由党の筆頭総務ハーバート・グ

ラッドストーン(Herbert Gladstone)(大グラッドストーンの末子)と何回か会見して、秘密の選挙協定をつ

くりあげることに成功したのだった。自由党としても、長い間の野党生活にきりをつけて次の総選挙に勝利をおさ

めることが当面の至上の目的であり、そのために、自由党の諸政策と同調している『労働代表』たちと協力し、

ある程度の譲歩を行うことは、きわめて現実的な態度だった。それと共に、ケーア・ハーディーが、表面では自

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由党や保守党に対する従来の批判的態度を堅持しながら、敏腕な主事マクドナルドの裏面における交渉をつづけ

させ、一種の選挙協定をつくることに成功したことは、まことに驚嘆にあたいするといわねばならない。労働代

表委員会の指導者たちがこのような現実政治家の危険を冒すだけの勇気と明察があったればこそ、イギリス労働

党は生れ出たのである。

 この自由党との交渉にあたって、マクドナルドはその政治的手腕を存分にふるい、全国のいくつかの選挙区に

ついて、労働側と自由党側との選挙協定をつくることができた。彼はそのさい、あくまでも一個の独立の政党と

して他の政党と協定するという態度をとったのだった。

 このニューキャスル大会の直前、ウーリウィッチに議員の抽選がおこなわれることが告示され、労働側からは

ウィル・クルックス(Will Crooks)が立候補した。彼はロンドン市会において自由党系の人々や労働側議員と

ともに行動したので、自由党の側からも全面的な支持をえて、三月十一日開票の結果、三千二百票有余の大差で

保守党候補を破って議会に進出した。この労働側の大勝は自由党に対するマクドナルドの交渉力を大いに強めた

であろうとおもわれる。

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        八

 ウールウィッチにおける勝利につづいて、一九〇三年七月のバーナード・キャスル(Barnard  Castle)の補

選でも、労働代表委員会は製鉄工組合のアーサー・ヘンダースンを当選させることができた。しかも、今度は保

守、自由の各党もそれぞれの候補を立てた三つ巴の激戦を切ぬけて、四十七票というきわどい差ではあったが、

勝利をおさめたのだった。ヘンダースンはニューキャスル大会に代議員として登場し、労働代表委員会の会計に

選ばれたが、いま、また、国会議員にも当選し、次第に労働党内におけるその地歩をかためていった。彼は自由

党の選挙員として多年の経験があったので、議員当選の直後、マクドナルドと協力して議員選挙に対する手引書

を刊行し、労働者たちの参考にした。この時からのも、党の組織や選挙機関をつくるうえで、ヘンダースンの勢

威は圧倒的なものがあった。

 ところで、従来からとかくの物議をかもしてきたリチャード・ベルは、一九〇四年の始めノーウィッチの補選

にさいして労働側候補者が敗れて自由党の候補者が当選したのにこの当選者に祝電を発してまたも紛議の種をま

き、ついに労働代表委員会から脱退してしまった。こうして、そうでなくとも少ない委員会の議員団は四名ー

ハーディー、シャックルトン、クルックス、ヘンダースンーに減ってしまい、一九〇六年の総選挙までこの状

態にとどまった。

 一九〇四年三月、労働代表委員会の本部はマクドナルドの私宅からヴィクトリア街二十八番地へと移転した。

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Page 17: 一一61-対九七票で可決され、さらに九四年には二一九票対六一票という圧倒的多数で可決されたのだった。〇年(三六五票対五五票)および一八九二年(一五三票対一二八票)には否決されたが、翌九三年には一三七票浸透は労働組合会議における生産手段社会化決議案

委員会の書記はマクドナルドの子供のおもり役をやらされないですむようになった。この本部の移転は、党の勢

力と威信との伸長を物語るものであった。マクドナルドもまた、もう無給の主事ではなかった。彼の党内におけ

る地位はしっかりしたものとなっていた。

 次の総選挙をめざして、労働代表委員会の指導者たちは次のような仕事に忙殺されていた。

 第一に、さらに多くの労働組合を加盟させてその人的ないし財政的の支援をえることがめざされた。そのため

に、唯一の不参加組合であるイギリス鉱夫連合を引きいれようとしていろいろの工作がなされつつあった。

 次に、地方選挙や国会選挙をたたかいぬくために、労働代表委員会の地方組織を全国的につくりあげる努力が

はらわれた。

 ところが、次の総選挙にかつためには自由党との密約をまもることがどうしても必要なのであるが、独自の地

方組織の開拓はこの第三の仕事をしばしば困難ならしめた。自由党との選挙協定は妥協や取引をともなうのだ

が、それは新進気鋭の地方組織や、その中核として活動している独立労働党の同志たちの不満の種となった。

 こうして、幹部たちは孤立労働党の人々の不満をなだめて、彼等の「党つくり」の熱意をもちつづけさせる仕

事も忘れることができなかった。独立労働党の同志たちの献身なくしては、統一ある政治戦線の結成は不可能な

のだった。

       九

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 一九○五年十二月、保守党のバルフォア内閣は関税問題についての意見の不統一の結果総辞職し、自由党のヘ

ンリー・キャンベル・バナーマン卿がこれにかわった。新政府は保守党の準備不足のうちに早急に選挙戦にうっ

たえることを決意し、同年十二月二十日議会を解散し、投票は一九〇六年一月中旬ときめられた。

 労働代表委員会はこの総選挙に五十名の候補者を立てた。このほかにスコットランド労働代表委員会の立候補

が五名あった。五十名の立候補者中、三十二名については上記のマクドナルド・グラッドストーン密約が大きな

力となっていて、これらの選挙区では、自由党は全然立候補しないか、または、定員二名の場合にかぎって一名

だけ自由党の候補を出したにすぎなかった。

 一九〇六年総選挙の結果は自由党の大勝利であり、同時に、労働代表委員会の大勝でもあった。保存党は一三

○名、自由ュニオニストは二八名に減じたに対し、自由党三七五名、「自由・労働」派二四名、アイルランド国

民党八三名、労働代表委員会三〇名、という議会の新分布図となり、自由党は自分だけで絶対多数をもつことに

なった。

 労働代表委員会はこの勝利を期として労働党となのることになった。委員会のたてた候補者のうち当選したの

は二十九名なのだが、ほかに、「自由・労働」派として当選したJ・W・テイラーが直後に労働党に参加したの

である。議会における労働党の陣容は、委員長ケーア・ハディ、副委員長シャックルトン、院内総務マクドナル

ドおよびヘンダースン、であった。こうしてイギリスに新しい労働者の党が生れたのだった。

 一九〇六年の総選挙における一番大きな題目は自由通商の問題であり、次に重要なのが自由党の提唱にかかる

アイルランド自治問題であった。産業のさかんな地域では新しい労働組合法の制定が労働側候補者ばかりでなく、

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労働者の票をあつめようとする自由党候補者によっても公約された。タフ・ヴェール事件以前の状態に労働組合

の権利をかえせというのが、労働組合の要求であった。

 この総選挙の投票は全国一斉にはなされないで、各地方ごとに別の日におこなわれた。それでマクドナルドは

開票第一日に当選した労働側議員をまだ最後の追込み戦をしつつある選挙区に応援にかけつけさせて、一般の労

働者の気勢をあほる策をとった。このような戦術も労働党の大勝にいくらか寄与しただろう。だが、社会民主連

盟をはじめとして、地方的な社会主義団体のたてた候補者が枕をならべて落選したことや、労働代表委員会の候

補者五十名の当落および得票数をつぶさに分析することなどから、この大勝のもっとも大きな原因は自由党との

協定にあったことを否定しえない。いうなれば、労働党は独立労働党と労働組合との幸福な結婚から生まれ、自

由党の乳によって育てられたのである。

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 新生の労働党の政策や綱領はまだ当時形をなしていなかった。しかし、当面の一九〇六年議会において党のな

すべき第一の仕事はあきらかだった。タフ・ヴェール事件以前の状態にかえすことがそれであり、そのためにこ

そ彼等は労働大衆に推されて議会に出たのである。

 しかし、絶対多数を擁する自由党政府はこの問題についても、労働側の要求を全面的にのむ意思はなかった。

政府の当初の原案はきわめてなまぬるいものであった。労働党は労働組合運動全体を代表する特別会議の指令を

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うけて、政府原案に対抗する独自の法案を提出した。ところが、自由党の候補者たちの多くは総選挙にさいして、

タフ・ヴェール判決を全面的にくつがえすことを選挙民に公約したということがわかったので、政府もやむをえ

ず当初の原案を撤回し、労働組合側の要求を全面的にいれた案を提出しなければならなかった。この法案は議会

を無事通過し一九〇六年労働争議法という名で公布されることになった。これによって労働組合運動はその要求

をすっかり、うけいれさせたのである。

 一九〇六年労働争議法の第一条は「二人以上の者による合意または団結に従ってなされる行為は、労働争議の

企図または遂行のためになされた場合には、そのような合意または団結なしになされた時にその行為が告訴し得

るものでないかぎり、これを告訴することはできない』と規定している。一八七五年共同謀議及財産保護法は、

団結の行為が裁判所によって刑事的共同謀議として取扱われることをさまたげたものである。これに対してこの

新規定は、裁判所が団結の行為を民事的共同謀議として取扱うことを禁じたもので、一八七五年法による労働組

合の保護をさらにあつくしたのである。

 一九○六年労働争議法の第二条は平和的ピケットを取扱っている。もともと、平和的ピケットは一八五八年に

すでに合法的であるとみとめられた。しかるに、ピケットの権利は一八七一年刑法中改正法によって全面的に否

認され、その後、一八七五年共同謀議及財産保護法によってまたみとめられるようになったが、それは平和的説

得の権利までにいたらないで、『情報を取得しまたは通報する』権利だけにかぎられていた。一九〇六年法第二

条の規定はこの平和的説得の権利をみとめたもので、これによって平和的ピケットの権利は完全にもとどおりと

なったのである。

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 一九〇六年法第三条によると、『取引の制限』や契約違背の勧誘などは、労働争議を企図しまたは遂行するた

めの行為から生じた場合には、合法的なものとなる。たとえば、争議中に使用者が同盟罷業中の者のかわりこ仕

事をさせるために契約によって罷業破りを扉いいれたとすると、ストライキ中の者または組合が上れらの罷業破

りに対して仕事をやめるように説得しよぅとつとめることは合法的となる。これもまた重要な、組合行動の自由

の伸長である。

 最後に、一九〇六年法の第四条の規定によると、労働組合基金はタフ・ヴェール鉄道会社の提起したような損

害賠償の訴訟から完全にまもられることになる。基金は、ストという武器を使用する交渉団体として労働組合が

おこなう行動に関連して組合を対手とする一切の訴訟からまもられることになったのである。

 こうして、労働組合行動の自由はタフ・ヴェール事件以前の情況に完全こ回復された。労働組合運動の得利。

                     ㈲

そしてまた、労働党の勝利はいまや明白である。〔終結〕

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